昼にラーメンの「ふじや」へ行く。味噌ラーメンを頼み、それの届いたところでその画像を撮り、食べる。帰社してfacebookページに「今日のそと昼ごはん」という名のアルバムを新たに作る。そしてその第1回目として、先ほどの味噌ラーメンの画像をアップロードする。
「今日のそと昼ごはん」については、先週金曜日の日記に「日光市内で昼飯を外食した際、たまたまカメラを持っていて、たまたま良い画像が撮れたときに更新をする」と書いた。そこには「たまたま」の言葉が重複している。
しかし「今日のそと昼ごはん」の第1回目だけは「たまたま」ではなく、「ふじや」の味噌ラーメンで行かなければいけないとの気持ちが僕にはあった。その気持ちを分析して理路整然と述べよと言われると困る。
メニュを見て「安い」、注文した品が自分の卓に届いて「速い」、食べて「美味い」と感じるところが「ふじや」の長所である。店主夫妻が何かと声をかけてくれるところにも気遣いを感じる。
facebookページには、これから「たまり漬を使ったレシピ」と「日光味噌を使ったレシピ」をアルバムとして作りたい。それよりも先ず「いいね!」を集めたい。ただしその「人心を糾合する」とか「共感を得る」いうことが僕には不得手ときている。何ごとも簡単には運ばない。
「指導者と国家のあり方学ぶ」という、これはヘッドラインではない、新聞の専門用語でいえばどう呼ぶべきか、とにかくそのように題された、奥正之という人の話を土屋直也という人が聞き書きした記事を、今朝の日本経済新聞第22面に読む。
奥正之はここで、リチャード・ニクソンによる「指導者とは」という本について「繰り返し手に取っています」と言っている。記事を読み進むうち「へぇ、面白そうじゃん」と、これを"amazon"で検索すると、たった1冊だけ出ている古書に14,000円を超える価格が付いている。この値段では流石に手が出ない。
そうしてキーボードとポインタを操る手をもうひと働きさせて、同じ"amazon"に西順一郎の「戦略的マイツール入門」を検索してみる。こちらも古書の最高値は14,000円超で安定している。かつて僕はこの本を30冊ほども買ってマイツールの伝道をしたことがあった。いまウチに残るのは僅々2冊である。どこかで調達をして、もうすこし在庫を増やさなくてはいけない。
2001年の高等学校卒業と同時にウチに就職したサイトーエリコさんは、その3年半後に別の会社へと移り、しかし7年半ぶりとなるこの春に、またウチに戻ってくれた。そのサイトーさんの手による、日光の朝採れ地野菜を「日光味噌のたまり」で浅漬けにした「たまり浅漬け」は、店頭に出すと同時に売り切れてしまった。ゴールデンウィークは始まったばかりである。
きのうは宇都宮で旅行代理店の人と会っていた。だからというわけではないが、海外へ行く際にはいつも持ち歩いているコクヨの5号ノートを、午後に帰社して事務机に着いたところで左の引き出しから取り出し開いてみる。
社員には多少の遠慮があるから、旅行は長くて5泊6日と決めている。1週間には届かない、というところがミソである。
このノートの最後の2ページは、小口と地の縁を糊で貼り合わせて封筒のようにしてある。そこには出発前にはポストイットの10枚ほどを入れておく。旅の途上ではおなじところに博物館の入場券などが格納され、その晩の、小遣い帳の記帳が済むまで保管をされる。
その内側には5泊6日の、否、前泊を含めれば6泊7日の、午前は何を着て夕刻には何に着替えるか、そして洗濯はどの日に行うか、ということが書いてあるから、この部分を見れば、こと服装に関しては頭を悩ませることなく準備が完了するようになっている。
その更に内側へとページを繰れば、ここには国境を越える際の持ち物が記してある。移動日の前夜に酔っていても、あるいは当日の朝に忙しくても、これまた、ただ文字に従えば用意の自動的に整うようにできている。
6月はシンガポールへ行く。いつものながらの散歩、本読み、メシ食い、酒飲みに加えて今回は森林の歩行もする。状況の変化を考えれば履き物は3足が必要になるだろう。昨年のチェンライ奥地でのトレッキング以来"RED WING"のブーツの具合が良くない。装備についてはこのあたりのみが悩みどころである。
会社のfacebookにおけるアルバムについては、はじめ「たまり漬を使ったレシピ」を、これにまとめようとした。料理の、職業カメラマンによる画像が僕のコンピュータには汗牛充棟の充実ぶりだから、これはいつでできる。
しかしこの当初の考えを実行に移す前に、ちょっとした思いつきから「今朝のお味噌汁」というアルバムを本日午前に作ってしまった。ひとつのアルバムに収めることのできる画像点数は200枚。
僕が1年間の朝食で何杯の味噌汁を飲んでいるかを数えたことはない。画像の上手に撮れなかったときには「今朝のお味噌汁」は更新しない。出張先で飲んだ味噌汁は原則として掲載しない。それであれば1年間に200枚の容量は十分と思われる。今回のアルバムの表題は「今朝のお味噌汁/2012」にした。
facebookページに作るアルバムとして他に考えているのは「今日のそと昼ごはん」というものだ。これは日光市内で昼飯を外食した際に、たまたまカメラを持っていて、たまたま良い画像が撮れたときに更新するものだ。否、どこかに出張した際にも更新をすれば、訪れる人の目をより愉しませることができるかも知れないから、日光以外のお店についても、これは掲載することにしようか。
今年は大晦日までに何杯の味噌汁を紹介することができるか。それよりも先ず"RICOH CX4"の、バッテリー充電器の不調をどうにかしないといけない。
2005年3月21日から丸7年のあいだ勤めてくれたアキザワアツシ君は、家業の農家を継ぐべく先月の20日を以て退社をした。そのアキザワ君の送別会をするため、終業後に社員たちと居酒屋の「蓮」に集まる。
駐車場の花壇にはびこった雑草を取らせたら、アキザワ君は天下一品だった。漬物を入れた袋の口を金属で結束する仕事においても他の追随を許さなかった。その几帳面さを認めて、本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"の瓶詰めは、この商品の開発された当初からずっと、アキザワ君ひとりに任せてきた。
アキザワ君は家に戻ったら、先ず低農薬の米作りを始める。そして徐々に無農薬へと移行していく。米の無農薬化に成功したら、次は梨の低農薬化に取り組む。低農薬化、無農薬化は、果実よりも米の方が技術的な障壁は低いのだという。
狭き門より入ろうとしているアキザワ君の、前途の明るく開かれることを僕は祈って止まない。
1日の中では、社員の出社する朝の時間が好きだ。店から、あるいは事務室から国道121号線向かい側の駐車場を眺めながら「あ、甘木君が来た」「あ、ヒマラヤ山系君も来た」と、いちいち社員の顔を確認することが楽しい。
連休中の営業に関するメールマガジンの、自社ショップ用とYahoo!ショッピング用のふたつを今朝はこの開店前の時間に作成し、それぞれの発行システムに設定をする。そしていつものように、定刻の5分前に店を開ける。
そうこうするうち新しい宣伝媒体の、5度目となるラフが企画会社から届く。僕のダメ出しに辛抱強く対応してくださった担当者の方には、厚く御礼を申し上げたい。
おなじ午前、秋田県能代市の天洋酒店から6本の日本酒が届く。よって「今夜、本酒会で飲む酒は先日に伝えたとおりだが、今日になって新規のものも届いたので、これらを混ぜることも可能である」旨のメールをイチモトケンイチ本酒会長に送る。そして会長からは「前から決まっている内容で行こう」との返事が戻る。
日本酒の愛好者が月に一度あつまって1升瓶に5本程度の日本酒を飲む「本酒会」は、通常は料理屋で行われる。そして4月だけは特例にてウチの隠居が使われる。その隠居はいま正にソメイヨシノ、しだれ、山桜の盛りにて、その淡い色を眺めつつ春の一夕を過ごす。
きのう家内は雨の中で花見をした。「雨の中で」とはいえ雨に濡れる桜を隠居の座敷から観た、ということだから別段、傘を差しつつ団子を食べたわけではない。
予報によれば今日は晴れて、気温は異常なほど上がるとされていた。そして起き抜けに確認した空の様子からは、その晴れが予感できなかった。しかし朝食を済ませ店に降りて社員の出社を待つころになると、東の空から強烈に朝日が差し始めた。空さえ晴れれば文句はない。
空さえ晴れれば文句はないのだが、それでも「一体全体、なぜオレのサイフはいつもスッカラカンなのか」ということを考える。そしていつもであれば、一瞬考えただけで頭は他の方向へ飛んでしまうところ、今日はコンピュータに諸々の数字を入て、すこし詳しく分析をしてみる。
その結果、自分の懐が常にピーピーしている理由として、以下の三点が立ち現れてきた。
1.使いもしない物をあれこれ所有して、その維持管理に金がかかる。
2.本来であれば会社の経費とすべきたぐいの出費に自腹を切る。
3.現金が底を突くまで飲食、購買、あるいは寄付のような形で使ってしまう。
そしてこれらのことを勘案しながら、ひと月に自分の使える金額をはじき出し、5月の小遣い帳の最上段に、その限度額を記す。限度額とはつまり予算のことで、僕の小遣い帳にはこれまで予算というものが無かった。
夕刻より久方ぶりに街へ出て小酌を為す。気温は高く、気分はすこぶる悪くない。
その日その日、あるいはその時期その時期にすべきことはコンピュータのスケデュール管理に残してある。すべきことをひとつこなせば、こなしたことはディスプレイ上の遙か下方に去り、次にすべきことが最上段に現れる。
夏のダイレクトメールに封入する挨拶文は、そのスケデュール管理によれば今月上旬には原稿を書き上げておくべきものだった。その原稿を本日夕刻にようやく、成文社印刷のオグリタクさんにメールで送信する。校正刷りの上がるのがあさって、とすれば納品は今週末がぎりぎりのところだろう。
晩飯のおかずが何やら大皿料理を置く飲み屋の、その大皿から小皿に取り分けたようなものだったこと、リアルタイムでは放送されているどのテレビ番組もうるさかったこと、そのふたつの理由により、自動録画してある番組から「吉田類の酒場放浪記」を検索して再生ボタンを押す。
その瞬間、居間に入ってきた家内が「やだー」と顔をしかめる。そしていつも通りの軽い駆け足で今日は亀戸の駅から飛び出してきた吉田の格好を一瞥するなり「この服装、許せない、鋲みたいのも付いてるし」と、まるで天敵に遭遇したマングースの尾のように柳眉を逆立てる。
吉田の黒くてピチピチでラメ入りのシャツ、その身振り手振り、酔ってコメントを述べるときの唾でベトベトに濡れた口元、「ウケッ、ウケッ、ウケッ」と聞こえる笑い声、そういうあれこれも含めての番組の面白さなのだが、それが分からないのだろうか。
「酒場放浪記」には女版もあるにはある。そちらも録画したい気分は山々だが、観る時間を捻出できるかどうかは不明である。
今朝の下野新聞に「益子春の陶器市」の企画特集が折り込まれている。それを眺めながら「行きてぇけどなぁ」と思う。行きたくても無理だ、この陶器市の開催期間は今月28日から来月6日までで、つまりゴールデンウィークと重なれば、当方も忙しく働いていたいときだからだ。
昨年のこの時期には、福田富一栃木県知事の号令一下によるものだったのか、あるいは県職員の誰かの発案によるものだったのか、県内の有料道路を可能な限り無料にするなどして、大震災の恐怖から人心のいまだ立ち直れていない時期であったにもかかわらず、多くの観光客が栃木県に来てくれた。
今年のゴールデンウイークは休日祭日の並びが良く、大型の連休になるという。日光に限らず、栃木県内に限らず、日本全国で、人の楽しく遊べる休日になって欲しい。
新しいカメラを買ってはすこし触っただけで気に入らず、すぐに中古市場へ売り払う。そしてまた新しい一眼レフを買い、レンズやアタッチメント類まで揃えたところ、更に良さそうなカメラが発売されたから、揃えたばかりの諸々には見切りをつけて秋葉原へ売りに行って、ということを年に何度も繰り返すとは、我が敬愛するサカサヒガシ先生の宿痾である。
そういう僕にも同じような病気があって、僕の場合にはカメラがバッグ類に替わる。今年はいまだ寒いころに銀座の「月光荘」で水彩パレット用の縦長のショルダーバッグを買い、そしてつい先日は、あるウェブショップから"Manhattan Portage Waxed Canvas Messenger 1605VWCN"という長たらしい型番のショルダーバッグを取り寄せた。
「マンハッタンポーテージなんて、誰でも持ってるから止めた方が良いよ」という家内の制止を振り切っての、後者は買い物だった。
メッセンジャーバッグとは一体にベルトの長さの決め方が特殊であり、余った部分の処理に困ることがある。「マンハッタンポーテージ」はその方法について、オフィシャルサイトに動画まで載せて説明をしている。しかし現物で試して初めて分かることだが、バックルの構造からしてその仕方は理にかなっていない。
よって自分なりの解決策を考え、必要な部品をウェブ上に探して帯に短したすきに長し。そしてきのう仕事の合間に立ち寄った神保町の「ICI登山本店」で、不安な気持ちを抱えたまま300円強を投じてプラスティック製のベルト留めを購入した。
これを帰宅してから当該のショルダーバッグに恐る恐る取り付けてみると、まるで純正品のようにスンナリと収まり、ベルトは力学的に破綻することなく金属製のバックルとガッチリ噛み合った。こんなにドンピシャリなことは長い人生にも、そうそう訪れるものではない。
"Manhattan Portage Waxed Canvas Messenger 1605VWCN"は海外へ行く際の、主に空港や乗り物の中で使うことになるだろう。出発の直前になって「やはりこれまで通り"Gregory"の"Day Pack"を使った方が良さそうだ」となる可能性も否定はできないが。
僕に口を酸っぱくして"twitter"を始めるよう言ってきた顧客や友人のほとんどが、今は"twitter"をしていない。彼らのうちの多くは"facebook"に移って行った。彼らは刀を脇差しに、脇差しをピストルに、ピストルを万国公法に次々と持ち替えていった坂本龍馬のような人だったのか、あるいはただの、新しいもの好きのオッチョコチョイだったのか。
とはいえ僕は既にして、店の名刺や包装資材に"twitter"のアカウントを入れてしまっている。今さら逃げるわけにはいかない。また"twitter"から"facebook"に移動する人たちが少なくないとなれば、こちらの方も無視をするわけにはいかない。
本日は、ウチの法人facebookページへのリンクというか何というか、それをウェブショップのトップに置こうと考えた。ただし置くにはその場所が問題である。あまり上の方では本末転倒のような気がする。しかし底のまた底では置く意味がない。そしてすこし考えて、ヘッダから25パーセント降りたところにそれを差し込んでみる。
その様子を見ながら「社長のツイッター・随時更新」とか「社長のごはん日記・毎日更新」のふたつのボタンも、最上部にちかい現在の場所から下の方に下げてしまおうか、というようなことを考える。
それにしても芋焼酎について。生の魚に最も合う酒は日本酒であるにもかかわらず、ちらし鮨を前にしてなぜ芋焼酎を選んでしまうのか、そこのところが自分でも理解できない。このあたりを論理的に解明できる造り酒屋や酒販店があったら凄いと思う。
日光の桜はいまだ咲き始めたばかりだ。しかし東武日光線下今市駅7:04発の上り特急スペーシアに乗り、15分ほども南下をすれば、窓外には満開の桜の淡いピンク、そして田の畦道の生き生きとした若緑が見えてくる。そうして今朝の日本経済新聞の第1面をサラリと眺め、その一角に目が留まる。
「うちの子を学部などに進ませて、将来、社会でやっていけるんでしょうか?」などと僕に訊くお母さんがいる。私立の小さな学校に子どもを通わせるうち、自分が蛸壺の中に幽閉されてしまったような気分にでもなるのだろうか。
現在の学部長が常々口にしていることを思い出し、それと今朝の日経朝刊第1面の「大学開国 第2部 世界で戦う条件 教養人の育成、いま再び」を照らし合わせてみれば、むしろ他の大学が自由学園の最高学部を追いかけている、ということが理解できるだろう。教育は枝葉よりも幹である。心配することなど何もないのだ。
夜に至って"ComputerLib"の若い人たちと、神保町の気楽な店でメシを食べる。「ボトルの名義はウワサワさんで」とヒラダテマサヤさんは言ってくれたが、僕は今夜はそれほど代金を負担していない。結局のところ焼酎のレッテルにはキクチユミさんがウサギの絵を描いた。
「なるほど文字ではなくアイコンかぁ、次にこの店に来たら『ウサギのボトル、お願いします』と出してもらえば良いんだね」と大いに感心をしたが、キクチさんによればこの絵はウサギではなく猫とのことだった。
今夜から明朝にかけて必要のないものは"ComputerLib"に残置をした。そのためザックは軽い。その軽いザックを背にしながらねぐらを目指して白山通りを北上する。
味噌蔵に続く庭の山桜に、ようやく紅みがさしてきた。来週はその庭で、何回か花見が行われる。僕は夜に隠居の座敷から花を観る。まぁ、観るとはいえ酒を飲みながらでは「一瞥」くらいのところかも知れない。
ウェブショップへの注文を受けるコンピュータにはここ4年半ほどのあいだ、6年前に購入し、僕が1年半ほども使い古した"ThinkPad X60"を用いてきた。いまだ保ちそうではあるが、いきなり息絶えられても困る。そういう次第にて本日、新しいハードを外注SEのシバタサトシさんに設定してもらう。受注のための机上には、今日からはディスプレイとキーボードのみが置かれ、他のあれこれは机下へと移った。
先日、地下鉄銀座線に乗って、車内のあまりの明るさに「この節電のご時世に」といぶかしく感じた。そしてふと視線を上げると、すべての照明が"LED"に換えられていたので得心をした。そういう次第にて店舗の、たまたま交換時期にあった一部の灯りを小島電機のコジマコージさんに頼んで"LED"交換してもらう。「陰影礼賛」も分かるがウチの店は明るい方が良い。
「活字を欠いては公共交通機関を使ったりひとりで飲酒を為したりはしづらい」とは4日前の日記に書いたことだ。そして「ハノイの犬、バンコクの象、ガンガーの火、」はきのう読み終えた。移動のことを考えれば文庫本を選びたい。しかし階段室の本棚にある未読のあれこれを開いてみれば、活字の小さなものばかりだ。
ふと、小林彰太郎による、その書名も
「小林彰太郎の日本自動車社会史」 小林彰太郎著 講談社 \2,100
に目が留まる。小林彰太郎には、いまだ筆力の残っているうちに、ホンダS600でヨーロッパを巡った新婚旅行の紀行文を1冊にまとめていただきたい。それが完成すれば、三本和彦の「世界最長ラリーに挑戦して」くらい面白い本になるだろう。
更に数分を探索に費やすうち
を掘り当てて「ここにあったのかぁ」と、旧知に巡り会ったような気分になる。そしてこれを廊下に持ち出し"Gregory"のザックのポケットに収める。
生乾きの陶板の上に立つと、陶板はからだの重みで沈み、そこには自分の足の型が残る。"trippen"はその陶板のような内底を持つ靴で、いちどこれを経験すると、他の靴を履く気が失せる。そして自分の持つ2足の"trippen"のうちの1足にワックスを塗ろうとして、それが先日から果たせない。
ワックスは昼飯の後の空いた時間に塗ろうとするのだが、居間でメシを食べている最中に館内電話が鳴り、それは大抵、人の来訪を伝えるものだから箸を置いて事務室に戻る。
「いま食事中ですので、時間を見計らって、またいらっしゃってください」と社員に言わせることは簡単だ。しかしそんなことをすれば相手は社員や僕に、あるいはウチという会社に対してどす黒いものを胸に抱くかも知れない。だからそういうことはできない。
昼飯が温かい汁麺で、それをいま正に食べ始めようとしたときに来客があれば、その相手を終えて居間に戻ったころには麺は汁を吸い込んでブワブワになっている。
1979年にトレドの石畳の小路を歩いていて、陶器屋の壁に大きな皿を見つけた。僕は土産を買うことを好まない。買い物は面倒以外の何ものでもなく、荷物が重くなれば更に忌々しい。しかしその皿はなかなか見事なもので「小遣いをくれたおじいちゃんには、これくらいの品物を買って帰るべきだわな」ということも考えた。
その皿の真ん中にはスペインの、かつての王の名が筆で記されていた。しかしその綴りがおかしい。それを店のオニーサンに知らせると「職人がつい、間違えちゃったんだね」と、恬淡としている。自国のかつての王の、ローマ字でたかだか6文字の名を間違えるとは凄い。
「壁から降ろして包んでおくから、昼すぎにまた来てください」と言われ、僕は既に行きつけになっていたバルでポテトのオープンサンドを肴にセルベッサを飲んだ。満を持して午後一番で陶器屋へ行くと閉まっている。その後、石畳の上を何度か行ったり来たりするうち、店は16時になってようやくふたたび開いた。
食事を大切にすれば人に疎まれ馬鹿にされる、日本は妙な国だ。犬でさえメシを邪魔されればうなり声を上げ、しつこくされれば相手に噛みつこうとさえするだろう。そしてメシの時間を大切にするスペインやイタリアの、経済の立ちゆかなくなる姿を見ることは悲しい。
今日の昼には幸いにして呼び出しの電話はかからなかった。よって何日ものあいだ廊下に置き放っていた"trippen"のブーツを居間の畳の新聞紙に載せ、先ずは保湿クリームを下塗りする。
おとといの東京MGでは3期末にE卓で何の準備もできず、翌朝の4期に上がったB卓では周囲が強力な会社ばかりだったから、僕は貝のようにおとなしくしていざるを得なかった。
そのB卓で一緒に勝負をした古河市のストーヤスユキさんが「いやぁ、ウワサワさんを見ていて勉強になりました、場面場面で、いろいろとすることはあるんですね」と言ってくださったが、実際のところは何もできずに困っていただけのことだ。
マネジメントゲームの2日目の講義が終わると感想文を書く。僕はこの場面では文字で紙を埋め尽くさないと気の済まない性分だから、他の参加者よりも長く時間を使う。そうして感想文を書き上げると町田市の税理士セキグチヨシヒロさんが笑顔を浮かべつつ僕に両手で握手を求めてくる。セキグチさんもまた、僕という人間を誤読していらっしゃるに違いない。
僕はMGの経験を重ねるに連れ、世の中のほとんどの人を、自分より上に位置する人と考えるようになった。僕などはそれこそ「どうしようもないわたしが歩いている」である。
それはさておき僕には滅多に無いことではあるが、きのうの朝も、そして今朝も二日酔いだった。しかし夜には多少というか随分と回復をしたのでメシを食べつつウィスキーのお湯割りを飲む。
きのうのぐずついた天気とは打って変わって、今朝の空には初夏の輝きがある。甘木庵から小一時間をかけて9時前に大井町に達する。
「経営は時宜と均衡だ」と日本語で言うより「経営はタイミングとバランスだ」と外来語を使った方が何となく分かる感じのするのはなぜだろう。そしてマネジメントゲームも正に、タイミングとバランスである。そして僕は、そのタイミングを見定めることとバランスを取ることが下手ときている。
僕はきのうの第3期でそこそこの成績を残したものの、材料を仕入れて作って売ることに汲々として次期の準備に後れを取った。これすなわちバランスの悪い経営である。しかし成績はそこそこだったから今朝の第4期には上から2番目のB卓へ上がり、するとそこにはウンザリするような、つまり強力な会社を作り上げつつある面々が揃っている。
「ゲームの下手な人は、せめて在庫バランスに気をつけろ」とはマネジメントゲームのセオリーのひとつではあるが、今日の第4期は在庫バランスを良くすることに時間を食われ、他のことに手が回らなかった。公認会計士や税理士、また会計事務の専門家を含む38名中の決算速度は常に5、6位だから計数力は悪くないものの、ゲームはいつになっても上手くならない。
そうして落ちたF卓での第5期には247円という記録的な経常利益を得てV字回復を果たした。しかしこのゲームを21年もしている僕が初心者4人を相手にしての成績であれば、自慢にも何もなりはしない。
そして第5期の終了時において、来期への規定以上の備えをしながら自己資本を高く積み上げた3名には表彰状が手渡される。最優秀経営者賞は川崎市のタグチヤスミツさんが自己資本564で、また優秀経営者賞は東京のソーマヒロアキさんが自己資本529で、おなじく東京のカワナベキミトさんが同435でこれを得た。
原稿用紙2枚分ほどの感想文を書き上げ、いまだ会場に残っている先生や参加者に挨拶をして「きゅりあん」を出る。すると先に感想文を書き終えたヤナセさんが、駅まで続く通路で僕を待っていてくれた。
そのヤナセさんと上野の路地裏で今回の"MG"の打ち上げをする。「スコータイの空港に行ったらシェムリアップまでの直行便があるんだよ、だからそれに飛び乗って向こうに着いたらカンボジアって、ビザ要るのね、オレ、それ知らなくて別室に連れてかれちゃってさー」というようなヤナセさんの話を笑いながら聴いていると、ビールの空き箱を積んだ同じテーブルにイギリス人のカップルが座った。
品書きの表を見たり、それを裏返したりしている彼らを気遣って「メニュ、読める?」と訊くと「ビールしか飲まないから」と答える。よって店のオネーチャンを呼んで「ビールふたつだってさ」と、オーダーを通す。そのオネーチャンは何を考えたか我々4人の顔を眺めながら「お勘定はご一緒ですか?」と、当方の伝票に手を伸ばそうとする。「いや、セパレートだよ」と慌てて説明すると、カップルのうちのオネーサンはすかさず我々に指を4本も向けて「クルーデットでいいよ」と笑った。
向島に住むヤナセさんと浅草に達すると時刻は20時をすこし過ぎていた。ヤナセさんとはそこで別れ、僕はちかくの"Starbucks Coffee"でfacebook活動をする。21:00発の下り最終スペーシアは空いていた。そしてこれを最終の日光駅まで乗り過ごし、浅草下今市間のスペーシア代よりも高いタクシー代を使って23時ちかくに帰宅をする。
持ち物は紙1枚でも軽い方が良い。本にカバーがあれば、それを外して持ち歩く。居間の、僕の座布団の後ろには小林紀晴の「ハノイの犬、バンコクの象、ガンガーの火、」のカバーのみがあって、中身は見当たらない。
僕は、活字を欠いては公共交通機関を使ったりひとりで飲酒を為したりはしづらい。よってきのうの夜に階段室の本の集積を漁っていて「ハノイの犬、バンコクの象、ガンガーの火、」が、1996年に世界文化社から出版された単行本「アジア旅物語」とおなじ内容を持つ文庫本だったことに気づく。
階段室に積み重なっていたということは、僕は確かに「アジア旅物語」を読んでいる。そして何の不思議も感じることなく、題名のみを変えた同じ内容の本を、ここ1ヶ月ほどのあいだ読んでいたのだ。僕は読んだものはすぐに忘れる。そして「ハノイの犬、バンコクの象、ガンガーの火、」の中身は見つからない。
そして下今市駅07:04発の上り特急スペーシアに乗り、"Gregory"のザックのポケットを開けると、きのうの夜から探し回っていた本はそこに収まっていた。酔って本を読み、酔って帰宅をするからこういうことが起きる。
何十年も前からの友人ヤナセヨシヒコさんが僕の日記や"facebook"でマネジメントゲームのことを読み、自分もぜひ経験してみたいという。ヤナセさんは、僕からすれば既に成功した経営者にして齢も50代後半であれば、もうサーフィンとスノーボードとバックパッキングに余生を送っても良いのではないかと思ったが、本人の学習への欲求は収まらない。
そういう次第にてヤナセさんの初マネジメントゲームに付き添うため、大井町の「きゅりあん」に設定された会場に10時前に入る。そこには偶然、自由学園の同級生ヨネイテツロー君の長男で、現在は自由学園の最高学部で勉強中のリンタロー君も来ていた。
マネジメントゲームは自分ひとりが経営者になって、2日間で5期分の経営を盤上に展開する。表面上は経営の勉強だが、その神髄は人を育てるところにあると、これを学び始めたごく初期のころから僕は感じている。
開発者みずからが指導をする西研究所のマネジメントゲームは「教えずに気づかせる」「自労自治」「利他互恵」の点において、自由学園の教育に極めて近似している。そして僕は、自由学園のカリキュラムにマネジメントゲームの取り入れられることを夢見ている。
マネジメントゲームには中等科の生徒でも充分について行けるが、中等科や高等科で早すぎるというなら最高学部ではどうか。1ヶ月に2日間、8月を除く各月開催。経済や理科などの専攻を横断して全員で行う。教育の効果は絶大と考えるけれど、僕は「夢を見ているだけ」だからまぁ、夢は夢のままに終わるだろう。
それはさておき僕は、研修が終われば、その熱を沈めるためひとりになりたい性格だ。しかし今夜の交流会の仕切りは日光MGに何度も来てくださっているカワナベキミトさんで、となればこれに付き合わないわけにはいかない。
時間を忘れて話し込み、大井町から上野方面への京浜東北線に乗ったところ、それが最終だったから「危ねぇところだっだ」と胸をなで下ろす。そして深夜1時すぎに甘木庵に達する。
総鎮守瀧尾神社の春季大祭においては、今日が宵祭りの日となる。よって家内と販売係ハセガワタツヤ君に手伝ってもらいながら、先週土曜日から店舗犬走りに張り渡してある縄にカキダレを提げていく。続いて「奉祝」の文字のある提灯も提げる。
全国津々浦々の神社で春のお祭りの催される今週末は、今年はタイのソンクランと重なる。
ソンクランといえば1991年の春に、僕はバンコクでこれに遭遇をしている。オリエンタルホテルからスリウォン通りまでは、当時はサムローと呼ばれることの多かったトゥクトゥクで移動したのではなかったか。
とにかくこの通りを東へ歩きながら、僕は地元の若い人に盛大に水をかけられた。そしてそのままの姿で同通り東端の絹織物屋ジムトンプソンに達し、門番に「こんな格好で店に入っても良いかね」と訊いた。そして門番は「勿論」と笑った。
ジムトンプソンの店はバンコクの最も繁華なところにあるが、マレーシアのキャメロンハイランドで失踪した同社創立者の旧宅はセンセーブ運河を背負うようにして市の北方に動態保存されている。1991年以来無沙汰をしている、そのタイ古建築の白眉ともいうべきところには、またぜひ足を運んでみたい。
きのうの雨で東京中心部の桜はほぼ終わったという。そして今日は暖かい1日だった。4階の居間から隠居の桜を眺めると、こころなしかつぼみに紅みの差してきた気がする。よって夕刻もちかくなるころ、柴折り戸であれば雰囲気もあるがアルミ製の小さな戸の鍵を開けて隠居の庭に足を踏み入れる。
梅が咲いている。東京の桜が満開のころ、日光はいまだ梅の季節である。「しだれ」のつぼみが膨らんで、ずいぶんと色づいている。見上げるほどの山桜は、葉のすこし伸びてきたように見える。ソメイヨシノはいまだ音無の構え、といったところだ。
今年の桜は例年よりも遅いという。桜の開花が遅れれば桜の開花を待つ日々も長くなる。そう悪いものでもない。
毎夜すこしずつ
を読む。過去にスリランカでは鉄道をよく利用し、インドではマドラスからヴァラナシまでを列車の荷物棚に乗って移動をした。台湾では亜里山鉄道に乗った。タイの鉄道は未経験である。
鉄路の敷設を必要とする鉄道が有線電話とすれば、バスは携帯電話に似ている。大規模なインフラストラクチャーの建設を必要としない点において、南の国では鉄道よりもバスが発達している。
同じA地点からB地点に移動する場合において、利用者が鉄道よりバスを好むについてはあれこれあると考えられるが、それほど急がない旅行であれば、利便性はある程度は無視できる。というか僕の頭の中では、便利とはそれほど格好の良いものでもない。
というわけで、今年は南の国で、ちと鉄道に乗ってみたいと考えている。
ある催しの賞品としてウチの漬物を受け取り、それがとても美味しかった、というお褒めの手紙を2月の下旬にいただいた。すぐに返事をお送りすべきところ、それのできないところが僕の悲しさというかなんというか。そして本日朝にようやく便箋2枚の礼状を書き上げ、封筒に収める。
2月の下旬を過ぎてから日光には何度、雪の降ったことだろう。そして東京の桜は今日の雨で終わろうとしている。まぁ、手紙をいただいてから50日を経て書ける文章もあるのだ、などと言っても相手には通じない。
とにかくその返信を完成させた余勢を駆って、本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"の仕込みを2時間ほどかけてする。ここで一段落した気分になり、水谷さるころのマンガを読む。
商品説明のパンフレットは1年に1度の頻度で改版をする。その表紙には長くウチの店舗写真を使ってきた。しかしあるとき「表紙に変化がないから中身もずっと同じかと思っていた」と、こともあろうに取引先の社長に言われて愕然とし、以降は改版のたびに表紙を変えることとした。
表紙の候補となる画像は、パンフレットの企画会社にはたくさん提示をしてある。その中から今回の表紙としてデザイナーの選んだ1枚は、今井アレクサンドルによるガーベラのクレヨン画だった。
横浜の細い坂道にあった画廊でこの小さな絵を目にした瞬間、僕はその愛らしさに一も二もなく惹かれて手に入れることを決めた。今初夏から来春までは、この表紙に大いに頑張っていただきたい。ラフを既にして3回も作成し、なお本日の午後に至っての僕の修正案にイヤな顔ひとつせず応じてくれる企画会社には大いに感謝をしている。
総鎮守瀧尾神社の春季大祭を報せる広告が、当番町東町により下野新聞の朝刊に折り込まれている。それにさっと目を通すと、14日と15日の両日の余興に「子ども相撲」の文字が見えた。
僕が小学生のとき、この子ども相撲の行司は「矢野タンス店」のオニーサンというかオジサンが毎年務めていた、僕には膂力が不足していたから、相撲はいつも初戦で敗退した。参加賞は常に「渡辺のジュースの素」ひと袋だった。
ある年に妹が土俵へ上がると、しかしそのころの女の子は相撲などには加わらない、妹は見事に不戦勝となって賞品を獲得した。
別の年には、四隅の竹に荒縄を張り渡した方形の場所で、今市小学校の剣道部が試合をした。剣道部員だった僕にはこのとき何やら神様が乗り移ったような感じで胴が決まり、何試合も勝ち進んで表彰状をもらった。剣道で表彰をされたのは、後にも先にもそのときのみである。
おなじころ瀧尾神社のお祭りでは、手水場の横にアイスキャンディー屋が出た。売っているのは梅の形のアイスキャンディーだけだったが、僕はそれが好きで毎年のように買った。
中学校に進んで以降は、このお祭りから足の遠のいたような気がする。「いつまでも子どもじゃねぇや」ということだったのかも知れない。
天気予報は14、15日の晴れを伝えている。「当たれば良いな」と思う。
"docomo"の"L-05A"を使うと、2時間に1回くらいは"Let's note"がフリーズする。ただし再立ち上げさえすれば状況は簡単に復旧して後に不具合を残さない。
きのうは健康を害して1日、居間で仕事をしていた。いつもと同じくブラウジングが困難になるたび、昨夜からずっとバッテリーで動かしてきた"Let's note"を再立ち上げした。そして何度かそれを繰り返すうち、保ちの良いバッテリーも今回ばかりは流石に枯渇したらしく、"Let's note"はそのまま黙り込んだ。
よって事務室へ降りて電源コードを持って戻り、これを繋いでコンピュータを起動する。すると今度は"Dreamweavar"がローカルのファイルを読みに行かない。コンピュータはあれやこれや言ってくるが、ワケも分からずいじくり回して壊してもいけない。
不具合は"Dreamweavar"のみに留まったから、それを必要としない仕事を続け、今朝になってから外注SEのシバタサトシさんに来てもらった。そして"Dreamweavar"はすぐに復旧した。
コンピュータが不調に陥ったとき、あるいはコンピュータが自分の理解し得ないことを言ってきたとき、僕は自分でどうにかしようとは考えない。
「コンピュータはそう簡単には壊れませんから、自分でガンガンいじっちゃってヘーキです」と、むかしの外注SEマエザワマコトさんは言った。しかし空のローカルをサーヴァに上書きして「ページ、中身が消えちゃったんですけど」というシロートを僕は知っている。
まったくもって、シロートは何をしでかすか分かったものではない。そして"Dreamweavar"の不調が旅先で起こらず良かったと胸をなで下ろした。
「持ってきた"ThinkPad"で"NIFTY"に入っていけないんですよ」と、香港の公衆電話から"ComputerLib"の中島マヒマヒ社長に電話をしたのは1996年4月のことである。旅先で一朝有事が発生すれば、隔靴掻痒どころの騒ぎではないのだ。
夢の中でからだの異変を知る。徐々に目覚めていくなかで、その異変とは喉の痛みだったことを、薄皮を剥ぐように理解していく。発熱はないらしく、すぐに起き上がることができた。大事を取ってパジャマの上にダウンベストを着る。そして洗面所でうがいをし、昨年末に喉を腫らして処方された薬の余りを飲む。
夜が明けても食欲はない。「調子が悪いとは体が弱っているということなのだから、無理にでも栄養は摂るべし」という意見もあれば「食欲がないとは、食べない方が身のためという体からの訴えなのだから、それに耳を澄ませて物は食べるな」という意見もまたある。そして最近の僕は後者に従うことが多い。
出社する社員を迎えて店が開くまでは会社にいる。以降は居間へ戻り、この初夏に改版するパンフレットの校正を行う。会社にいれば電話や来客、社内各部への通達などに追われ、落ち着いての作業はしづらい。からだの具合の良くないお陰で「気づいて良かったー」と胸をなで下ろしたくなる部分をいくつも見つける。
午前に塩おむすび2個と小さな梅干し数個を食べる。昼にもおなじものを食べる。夜もおなじもので良かったが、おなじ炭水化物でも形状の異なるものを摂り、飲酒は避ける。
朝にはテレビのお天気オネーサンが、都心にちらつく雪を報せていた。"twitter"では、日本各地に降る雪についてのつぶやきが続いている。日光は晴れても気温は終日10℃を超えず、風は強い。
汗をかくことを懸念して頭にタオルを巻く。そして分厚いウインドブレーカーを着る。総鎮守瀧尾神社の春の大祭は1週間後に迫った。春日町1丁目では15時より、町内各戸前にあらかじめ出された赤柱に、役員と組長が縄を張り渡していく。
脚立を左手に、縄を切るための鎌を右手に持ち、日光街道西側の北から南、続いて日光街道東側の南から北へと縄を延ばしつつ、それを赤柱に巻きつけていく。今日は頭のオノグチショーちゃんが手伝いに入ってくれたので楽だったが、それでも作業には丸2時間を必要とした。
荒縄を扱うと、その藁くずが舞って顔や頭に触れる。そのため奉仕から上がれば風呂に入りたくなる。しいかしこの寒い夕刻にそのようなことをしては、いかにも風邪をひきそうだ。よってからだの何となくチクチクするまま直会の席へと向かう。
先月30日の11時30分、空腹はまったく覚えていないにもかかわらず、神保町界隈の混雑を勘案して早めの昼飯を摂って以来、どうも胃の調子が良くない。三食のメシや肴は食べれば美味く、量も普通に入るのだが、食後に胃もたれをする。
指折り数えるまでもなく、調子を崩してから今日で1週間が経つ。その事を伝えると家内は僕の背中を触り、胃の後ろがひどく凝っているという。胃の調子が悪いから背筋の下部が凝るのか、背筋の下部が凝るから胃の調子が悪くなるのか、そのどちらが正解なのかは知らない。
胃と背筋のどちらが悪いのかは知らないまま、日光市役所ちかくの整体"mana"を訪ね、先生に1時間の施術をしてもらう。先生によれば、背中でも右側の筋肉がより凝っているという。
昨年の暮に左上の奥歯を治療した。今年に入ると右下の奥歯が痛くなった。痛みはすぐに収まって、しかし1ヶ月後に再発をした。そして過去に2度ほど治療したことのあるその歯を3月はじめに削ると、金冠を被せるだけの高さは失われた。
今年初には、これまで感じたことのない凝りが左の肩に発生した。その肩凝りも今回の背中の凝りも、あるいは奥歯の噛み合わせの悪くなったことを遠因としているのかも知れない。
行きつけの歯科医院には先月21日より無沙汰をしている。いよいよ次の治療に入らなければならない。
我が町の優れた看板製造業「手塚工房」のテヅカナオちゃんが高校生のころ「いま白きた、おやかな峰、読んでるんだ」と言った。僕はそのような本は知らなかったから「へー」とだけ返事をした。
後にその本は北杜夫の「白きたおやかな峰」と知った。「白きたおやかな峰」に敢えて句点を入れれば「白き、たおやかな峰」になる。そしてこの題名について著者の北はどこかで「白き」と文語調で来れば「たおやかなる峰」とすべきだったが、語呂の関係から「白きたおやかな峰」になってしまったと語っていた。
「白きたおやかな峰」は、北がドクターとして同行したディランへの遠征について書いた香り高い文章だ。そしてその遠征の当事者だった高田直樹による「何で山登るねん」も面白い。更にはその高田のパーティにいた人物による、高田への批判も含む本も悪くはないが、その著者と題名については忘れた。いずれにしても僕の本棚のどこかにはある。
ところで「白き」という文語調の日本語について。何気なく聴いている日本のポップスにはこの手の歌詞が目立つ。「いまだ見ぬ」とか「やるせなき」などがそれだ。「なんだかなー」と思う。あるいは五七になりやすい文語調は、リズムに乗せるには便利なことばなのかも知れない。
高校2年の新学期が始まると間もなく、埼玉県名栗の演習林での労働がある、この労働には「つなぎ」が必要で、かつ担当のヤマモトタカアキ先生によれば目立つものが望ましいとのことだったと次男が言う。よって次男を伴い市郊外の「ワークマン」へ出かけ、オレンジ色の分厚い生地による「つなぎ」を買う。
昨年の2学期開始時に行われた修養会では、寝袋を持参することと学校からは沙汰されていたものの、それを失念した次男はかき集めたタオルをからだに巻いて寝たという。名栗でも宿泊には寝袋を使うとのことにて、この春休みには早くからそれを用意した。寝袋ならウチには季節ごとにあれこれ揃っているのだ。
夜にコンピュータを開き"amazon"へ行く。そのトップの"New for You"を見るともなく見ると、そこに家内ごのみの、あるいは長男ごのみの本が並んでいる。まるで家内や長男が僕の寝ている隙に僕のコンピュータを使って"amazon"で買い物をしたような配列である。しかし彼らは自分のコンピュータを持っている。不思議なこともあるものだ。
"amazon"では随分と以前に同じような不可解なことがあって、しかし僕は不可解ながらもそこに現れたハロルドメイバーンのCDを買った。そしてそのCDは僕にとっては大当たりのものだった。不思議なことも、あるものである。
「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」とは開高健の文章でよく見かける一節だ。しかしその出所は井伏鱒二ではなかったか。
すべての社員が昼食を済ませて持ち場に戻る13時30分から、僕の昼飯は大抵はじまる。その昼飯を食べながらテレビで午後のニュースを観ていると、これから日本列島に吹き荒れるとされる強風の話題ばかりが数十分も続く。「こんな地味なネタで間を持たせるのも大変だなぁ」と考えつつ昼飯を終える。
ところがテレビが地方局からヘルメット姿のアナウンサーを駆り出して大騒ぎをしただけのことはやはりあった。
あたりが暗くなるころよりウチでも、どこかの窓に風が吹きつければ家の中の圧力が高まり、その風がどこかに去ればあたりは急に静まり、次は別の方向からまた強風が襲って不気味な音を発する、ということが延々と繰り返される。そしてそのうち僕は酔って寝てしまう。
深夜に目を覚ますと、風の音は幾分か弱まっていた。日光では桜ではない、梅がようやく見ごろになったばかりである。
日本経済新聞の「私の履歴書」が、先月までの樋口武男から蜷川幸雄に変わった。演出の際には怒号を飛ばし灰皿まで投げるという蜷川が、幼稚園は人見知りをして1日で挫折、小学校では日帰りの遠足は何とかなっても泊まりがけの臨海学校などは全休、今でも稽古の後に役者と飲みに行くことは皆無と書いている。
僕に登園拒否、登校拒否の経験はなく、行事にも楽しく参加できたが、馴染めない集団や団体は、子供のころから今に至るまで多くある。また大勢での飲み会は好きでなく、自ら進んで参加する研修はあっても、研修の後に飲み屋で持たれる交流会は得意でない。
研修を終えて後の交流会とは、受講したばかりの研修を振り返りつつ、今後のあれこれを考える場であると思われる。ところがそこに参加をする人が多くなると、どうにもただの飲み会に墜して得るものが無い上に楽しくもない。
これは実は得るものが無いのではなく、そういう環境においても何ごとかを得る力が自分に欠けているだけのことかも知れない。しかし性に合わないことを無理にしても、それは精神や肉体に対する毒である、と考えるのは甘いだろうか。
「オレはゴルフをしねぇから、サラリーマンだったら出世できなかっただろうな」と言ったら「そんなこたぁねぇ」と、ゴルフをするサラリーマンの同級生は答えた。樋口武男は酒が飲めなくてもサラリーマンの世界で大出世を遂げた。交流の好きでない僕にも仕事で利益を上げ続けることは可能だろうか。
そういう僕も、家族や社員や身近な人たちとの、あるいは少人数での飲み食いの好きなところは救いである。昨年、チェンライのナイトバザールで次男と飲んだシンハビールは美味かった。「次男と飲んだ」とはいえ次男はペプシコーラだったが。
じっと手を見たのは啄木だが、僕の場合にはじっと小遣い帳を見る。「なんでオレはこんなに金が無いんだろう」と考えながら見る。僕の小遣い帳には予算も前月繰り越しも今月入金も、また次月繰り越しもない。ただただ使ったお金の記録である。それでも今月は、昨年の同月にくらべて20万円も使った額が少なかった。
昨年3月の小遣い帳によれば、僕は同月217,050円分の「らっきょうのたまり漬」を買っていた。
3.11の大震災の直後から客足が途絶え、しかし地震など予知していなかったから店の冷蔵ショーケースには普段どおりに商品がある。新鮮さが持ち味のウチの漬物の中でも特に「らっきょうのたまり漬」は生鮮食料品のようなものだから、早いところどうにかしなくてはならない。どうにかしようにもガソリンが無くてはお客様も来られない。
賞味期限は充分に残っていても自分の気が済まない。「らっきょうのたまり漬」は結局のところ僕が自腹で買って、あちらこちらに配って歩いた。もっともそれしきのこと、東北地方の方々の苦労に比べたらどうということもない。
春日町1丁目の2011年度の予想決算と来年度の予算を数十枚プリントし、いまだ店の開いている時間から町内の公民館へ行く。そして組長を集めた臨時総会の席で、今しがた配布した紙の内容を説明する。予算は居並ぶ組長による審議を通り、町内会計も新年度に舟をこぎ出すこととなった。
総会が終了して後は、先日のバス旅行に参加した役員のみが残り、またまた僕が決算報告をする。その旅行を振り返ってみれば、僕の記憶のほとんどは、本を読んでいたことに尽きる。町内のバス旅行などというものは、それで良いのだ。