北千住駅の、東武日光線下り特急が停まるプラットフォーム直下の本屋で先日、スーツケースについてのMOOK本をパラパラと眺めた。バッグやトランクには目の無いたちにて、だからそれを買おうとしたけれども、本1冊の重さを厭って買わずに帰った。
しかしどうにも気になって仕方がない。よって翌日amazonにこれを発注し、それが本日はやくも届いた。
1980年には20リットルのデイパックで1ヶ月の旅行をした。1982年には30リットルのサブアタックザックで2ヶ月の旅行をした。このときには歯ブラシの柄を短く切ることさえした。旅の荷物などは、その気になりさえすればいくらでも減らせるのだ。
持ち物を増やす元凶といえば、キャスター付きのスーツケースである。しかし齢57ともなれば、バックパックのみの旅は避けたい。そうして届いたばかりのMOOK本を開く。
6月3日からインドネシアへ行く。このときにはせめて、機内持込が可能なスーツケースに荷物を限定したい。しかしそのサイズのスーツケースは先日、10数年も使ったものが壊れて捨てたばかりだ。
MOOK本を開こうが開くまいが、目標は既に決まっている。"RIMOWA SALSA AIR"の機内持込可能サイズで容量は34リットル。色は「インカゴールド」だ。
1978年には、手提げのかばんひとつでマカオグランプリを観に行った。そのころの自分を手本としたい。
朝はやくに健康診断のためのバスが来る。販売係のハセガワタツヤ君と僕にとっての関門は採血である。ハセガワ君も僕も血管への注射にひどく怯える。皮膚に青く浮く血管に針を刺す、その行為がひどく不気味に感じられるのだ。
ハセガワ君は健康診断の日には、決まって有給休暇を入れる。採血が済むと即、帰宅して横になるらしい。
健康診断の際の体重測定は、着衣のまま行われる。そして体重計の数字から1キロを引いた値が記録される。僕の体重は61.5キロだった。年がら年中、食べ続け、飲み続けているにもかかわらず体重が増えないどころか逆に減るとは、どこかで神経が緊張しているせいかも知れない。
2月19日の水曜日から同25日の火曜日まで、日本橋高島屋の「老舗・名店の味特選会」に出店をする。それをお得意様にお知らせするハガキの送り先を、午後は自宅の食堂に数時間ほども籠もって整える。
昨年はじめに長男が入社して以来、僕の仕事は次々と長男に引き継いできた。僕の東京へ行く機会が減っているのは、それが関係してのことだ。
顧客名簿から、ある条件に従って特定の顧客のみを選び出す仕事は、簡単なようで難しい。一時はこれを自動で行うべくマクロを組んだ。しかしあちらこちらに例外が発生して、なかなか単純化できない。
事務室でなく自宅の食堂に移動をしたのは、電話や来客の多い場所では精密な作業ができないからだ。そして数時間を費やしたのは、20年以上も続けている仕事にもかかわらず、途中で失敗して最初からやり直したからだ。
僕の仕事は次々と長男に引き継いではいるが、本日午後のこれだけは、なかなか伝えることが難しい。あるいは実際には「案ずるより産むが易し」なのかも知れない。
夕刻に事務室に戻り「こういう場合にはどちらを選ぶか」という二者択一の部分に長男の意見を反映させる。そして明日の朝にはデータを渡せることを、事務係のカワタユキさんには伝える。
恵比寿のスカイウォークの突端から外へ出て、左手の交差点を渡る。歩道に沿った小公園に、東京都知事選挙のポスターが掲げてある。それに見入っている僕のうしろを「当選する見込みもないのに、どうして選挙なんかに出るんだろうね」と言い交わしながら、男女の二人組が通り過ぎていく。
東京都知事にはなれなくても、東京都知事選挙の候補者にはなれる。ポスターの倍以上の数が、実際には出馬しているはずだ。
"Vector H"では根を詰めた仕事をすることも多い。今日はその一部を、ウチの事務室に出勤しているタカハシカナエさんとマスブチサヤカさんに振った。そして午後はiPhoneにアラームを設定し、その音にうながされて帰りの準備を始める。
「第248回本酒会」では「新政酒造」の「亜麻猫改」に大いに驚く。「日本酒というよりも、何か新しい、美味しい飲み物」と、「天洋酒店」のアサノサダヒロさんはこのお酒についてメールマガジンで語っていた。正にその通りだ。
「亜麻猫改」を初めに評価するのは、いわゆる「日本酒のツウ」ではく「王様は裸だよ」と言った子供のような人ではないか。「亜麻猫改」はミーハーにも訴求する。そしてそのミーハーの後を「ツウ」が追うのだ。
この「亜麻猫改」を研究し始める酒蔵が、今年は水面上にも水面下にも爆発的に増える気がする。
「三寒四温」を検索エンジンで引いてみると「(日本では)一冬に一度あるかないかという程度である」という説明が"wikipedia"に見つかった。天気予報によれば26日の午後から寒くなるとのことだったが、気温の低下については、大したこともないような気がする。
「冬来たりなば春遠からじ」という言葉の出典は、イギリスの詩人シェリーの「西風に寄せる歌」だということを、これまた検索エンジンによるウェブ上の情報により知る。そんなことを調べたのは、店舗駐車場のモミジのつぼみが、早くも紅くふくらんできたからだ。
駐車場から事務室に戻り、年長の友人オカノトミエさんがインド旅行中に送ってくれたハガキをじっと見る。文章に添えられた日付は「2013.1130」だが、届いたのはきのうのことだ。ガンジス川の船上から58日間の旅。インドの郵便局が絡んだ仕事とはいえ、これほど遅れることは珍しい。
午後一番の上り特急にて恵比寿に至る。"Vector H"へは2ヶ月ぶりの訪問にて、溜まった報告に目を通す。数日前にメールで送っておいた仕事は、その大部分を翌日まわしとする。
「ダウンベストなんて、着てこなくて良かったー」と胸をなで下ろすほどの暖かさを感じつつ、夕刻の屈曲した坂を下って駅へと向かう。
目を覚ますと、外に面した障子が紅く染まっている。「すわ、夜明けだ」と、その障子を開くと、目の前には田舎の国道があり、赤い色の元は歩行者用の信号だった。時刻は1時18分。これから朝まで長い無聊の時間を過ごすことを思い、いささかウンザリする。
この新年総会では、何年も前に深夜0時に目を覚まし、それから朝まで為すべきこともなく、輾転反側を繰り返した。それに懲りて、翌年からは携帯用の読書灯を持参するようになった。しかし今はiPhoneがある。
「スマートフォンを持つようになってから、読書量が極端に減った」と言う人がいた。そして今朝の僕もやはり、本はザックに入れてきているにもかかわらず、それを取り出すことはせず、イザベラ・バードによる「朝鮮紀行」のカスタマーレビューをamazonで延々と読む。
そうするうちいつの間にか寝入ったのだろう、ふと気付いて畳に落ちたiPhoneを拾い上げディスプレイを見ると、6時がちかくなっていた。
6時40分に布団から出て屋上の露天風呂へ行く。しばらくすると目の前の天妃山の向こうに朝日が昇り始めた。2011.0311の大地震の際には、津波はこの山を洗い防波堤を越え、いま泊まっている旅館の1階天井部分まで破壊したという。
部屋にあった震災記録に拠れば、その津波被害から旅館の復活する様子が写真と文章により説明されていた。人の強さを想わないわけにはいかない。
8時30分にロビーに降りる。野口雨情の生家は遂に、窓からその外観を眺めるのみに留まった。この北茨木市にはまた、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山などを引き連れ移り住んだ岡倉天心を記念する美術館や、有名な六角堂もあるとのことだが、それらを訪ねる時間も無い。
帰途に立ち寄った魚屋には、小ぶりではあるが新鮮なノドグロが20尾ちかくも入ってひと箱4,500円で売られていた。思わず食指が延びかけたが個人で食べられる量ではない。
そのちかくにはまた、1,000円の値の付いた鯖があった。こちらも鮮度は悪くない。「これなら買える」と、よくよく見てみれば、鯖8尾の入った箱まるごとで1,000円だったから、やはり買えない。そしてハマグリとほっき貝のみを氷詰めにしてもらう。
夜にはその2種の貝を焼き、あるいは蒸し、日本酒は切らしていたから焼酎のお湯割りを飲む。
早朝、いまだ暗いうちに起きて食堂へ行く。テレビのスイッチを入れると、首都圏では雨の降っているところもあると、天気予報が伝えている。
東の空が明るみ始めると、なるほど、栃木県と茨城県の境のあたりなのだろうか、遠い山の稜線の更にその向こうには、雲が低く垂れ込めている。日の出から15分も過ぎて北西側の窓を開けると、しかし日光に雨の降る気配は無い。
所属する組合の新年総会にて、午後より茨城県北部の、海沿いの街へと向かう。
こぢんまりとした、しかししごく感じの良い旅館の部屋に落ち着くと、目の前に野口雨情の生家が見えた。それは随分と立派な建物で、見物したいのはやまやまだったけれども、総会ともなればそういうわけにもいかない。
夕刻より最上階の露天風呂につかりつつ、瓦屋根と竹垣に切り取られた、青く四角い空を眺める。夕食にはこのあたりの冬の宴会につきものの鮟鱇鍋が供された。こういうものを肴にすると、燗酒は随分とはかどる。
二次会では一貫して、飲み物は冷たいお茶で通した。そして22時ごろに就寝をする。
「これこれ、こういうジャケットが欲しい」という考えが頭の中にある。そのジャケットは、既製品には到底、見つからないデザインだから、仕立屋に頼むことになる。ここで過去を振り返ってみて、そのようなジャケットを誂えた後にそれを着たかと自らに問えば、着ていない。
仕立屋に服を頼むときの楽しみの大方は、頼む前と誂えている最中の前半にあって、それが完成に近づくに従って、胸のワクワク感は減っていく。
購読している新聞のどこかに、今朝は、一部では有名らしい女の人が、愛用のショルダーバッグを紹介していた。そのバッグのブランドは未知のものにて、だから早速、検索エンジンで調べてみる。
僕は移動時には大抵、コンピュータを持つ。コンピュータはバックパックに格納することが多い。ある程度の重さのあるバックパックを背負うとき、前の合わせをボタンで留める式のジャケットは、それにふさわしい服ではない。
ジャケットは、バックパックを背負わないときにこそ着たい服だが、僕はほとんどの場合バックパックを背負っている。よって僕がジャケットを着る機会はほとんど無い。
バッグ類には人一倍の興味があるから、今朝の新聞で目にしたショルダーバッグもインターネット上で子細に眺め回し、細部に亘って観察をする。このショルダーバッグを買ったとして、僕がこれを使うかと自問すれば、答えは「使わない」である。
僕は移動時には大抵、コンピュータを持つ。コンピュータを含む諸々をショルダーバッグで運ぼうとすると、からだの片側にのみ重さがかかる。それに気付くのは、買ったショルダーバッグを肩にかけてからのことだ。そして「ショルダーバッグは、やっぱりオレには合わないわな」などと考え、人にやってしまう。
昨年の秋から暮にかけて自宅を大片付けした。物を大量に捨てたお陰で、今は快適な生活をしている。ジャケットもショルダーバッグも、落ち着いて自分に問いかけてみれば、要らないものばかりだ。
ところで僕が最も気に入っているショルダーバッグは、30年も前に「好日山荘」で買った"Karrimor"のそれだ。これが壊れるときのことを考えると、いても立ってもいられない。どこかにこれと同じものを誂えてくれるところはないだろうか。あれば即、注文をするだろう。
極端な早寝早起きにて、21時台に寝て3時台に目を覚ますことを常としている。起床してたとえばfacebookなどを開くと、早起きの人はいまだいず、コメントを上げているのは極端な夜更かしばかり、ということがままある。
そういう僕の起床時間が、このところは遅れ気味になっている。それを言うと「連日の飲酒が原因ではないか」と長男に指摘をされた。確かに、2002年から8年間ほどは几帳面に続けた月に8日の断酒を、このところはまったく行っていない。
冬は特に、温かいお酒に癒やされる。今夜も焼酎のお湯割りを飲む。そして食べる方も飲む方も、ほぼ満足できる量に達し、後は風呂に入って寝るのみ、というときになって、なぜか強烈にパンが食べたくなる。正確に言えば食べたくなったのは「パン」ではなく「バターを多めに塗ったパン」である。
食堂にはたまたま買ったばかりの、幾種類かのパンがあった。よって先ずは白ワインを用意する。次に袋の中から3種のパンを選び出し、オーブンに入れる。パンの焼け始まったあたりでオーブンのフタを開け、3種のうちの食パンにバターを載せる。
こんがりと焼けた3種のパンを肴にして、白ワインは半本ほどもはかどった。先に焼酎をやらかしていたにしては、いささかはかどり過ぎである。
果たして明日の朝も、目を覚ました瞬間から疲れているのか、どうなのか。
日光の山々に雪雲がかかっている。その雪雲は、しごく薄い。きのうは街に雪がちらついた。しかし今冬の雪はちらつくのがせいぜい。横殴りに降ってもごく短い時間で上がり、積もることなく1月も、もう1週間でお終いである。
昨年の1月から3月までの日記に「雪かき」の文字を探してみると、その言葉は1月14日にしか見当たらなかった。ことによるとこの冬は、1度も積雪に見舞われないまま春を迎えてしまうかも知れない。
昨年の暮に、自分用として箪笥ひと棹を得た。僕の語彙からすれば「箪笥」だが、食卓より低く、横に長く、材料は洋風だから、あるいは「チェスト」と呼ぶべきか。
和室の小さな押し入れに無造作に積んだ衣類をこのチェストに整理することが、僕の年末からの懸案だった。年末からの懸案であっても手を着けることができなかったのは、TOCとMGというふたつの研修を控えて気分が忙しかったからだ。
手元の予定表を見れば、2月の1日には何とか時間が取れそうだ。というわけで事務机の左に提げたカレンダーの、その日の余白に「タンス整理」と、太く大きく書き入れる。
MGの1日目夜の講義は、通常は"Strategy account"の説明に終始したような気がする。それがきのうは"Theory of Constraints"と"STRAC II"を並列させて語る特殊なものだった。2日目の朝は来るべき第4期の経営計画を立て、そしてゲームに突入する。
MGは、ゲームとはいえ勝つことを目的としては掲げていない。第4期D卓において、雨あられと降り注ぐリスクカードへの、マスブチサヤカさんの態度は正に「度量の勝負」とでも呼ぶべき見ものだった。外では赤松の林に雪が盛んに降っている。
その第4期D卓で僕は損益分岐比率68パーセントの成績を上げ、3期の累積損を一掃した。ゼロだった借り入れ可能枠は135円に広がった。しかしまぁ、この期初には僕は設備投資もできず、特別融資を受けている。そこを勘案すれば、いかな好成績も自慢にはならない。ちなみに第4期の売上金額第1位はカワナベコージンさんで、その値は2,908円という、とてつもないものだ。
僕はD卓からいきなりA卓に浮上して第5期を迎えた。大型機械を持ち、戦略チップを貯め込んだ競合他社とは正面からの激突を避け、静かに商売をしながら小さな利益を積み上げる作戦を採った。結果は損益分岐比率83パーセント。自己資本は4期末に比して10パーセントだけ上がった。
先にも書いたがMGは勝ち負けを重要視する勉強ではない。しかしゲームであれば、表彰のあった方が参加者には張り合いになる。
第5期終了時の自己資本第1位はウワサワユーキの652円で最優秀経営者賞を、第2位は家内の同593円で優秀経営者賞を、第3位はヌマオアキヒロさんの同498円でやはり優秀経営者賞を与えられた。なお第5期に3,580円の売上金額を記録したカワナベコージンさんの自己資本は495円で、ヌマオさんのそれとは僅々3円の差により次点となった。
MG2日目の夕方は忙しい。原稿用紙2枚ほどの感想文を書く。早くにお帰りになる方を外までお送りする。あるいは締めの挨拶をする。早期帰宅者を除く外部参加者の方々および先生とは、ファミリーレストランで軽く打ちあげをする。
近隣の方々、また後泊の方々は、更にウチの食堂へ移動をしていただき、ここでも交流会を行う。
先週のTOC研修に続いて今週のMG研修も無事に完了し、正月以来の肩の荷の、すこしは降りた気がする。しかしその「気」は、あくまでも「すこし」であり、今後はふたつの研修で学んだことを実践に移さなくてはならない。僕のようなナマケモノにはまたまた、修業と感じる日々が始まるのだ。
以前は4月と9月の、しばらく後からは1月と9月の、年に2回ずつ開催されてきた「日光MG」も、今回で27回目を数えることになった。
MGは参加者ひとりひとりが経営者になり、2日間で5期分の経営を盤上に展開するゲームだ。MGは、社内のみで、あるいは固定された人員のみで行うよりも、外部から参加者を募った方が、効果は遙かに大きい。今回の「日光MG」は、近くは日光市から、遠くは神戸市からも参加者に恵まれ、計34名を以て10時に開始された。
MGの第1期は、ベテランから初心者までの全員がインストラクターの説明に従い、資金繰り表の記入から決算書の完成まで、順を追って鉛筆を走らせる。この導入部は、習字の墨をするところ似ている。「習字ってのは、字だけ書いてりゃ良いんだろ」というわけではないのだ。
そして第2期より、いよいよ各人の裁量による経営が始まる。「各人の裁量」とはいえMGは5人から6人がひとつの市場に参入し、競合し、しのぎを削り合うゲームであれば、各所に制約が発生し、コトは思うようには運ばない。
僕のようなMG下手な者は特に、第2期は赤字で終わる。ところが今日はどうしたことか、この第2期を損益分岐点比率85パーセントで通過する。売上げ金額第1位は564円を売ったタナカノブコさん。そのタナカさんが、第3期に閉鎖すべき市場と人件費の倍率を決定づけるサイコロを振る。
この第3期にて、僕は第2期に上げた利益の3倍を超える赤字を計上した。外面を見ただけでは、会社の内容など分からないものだ。ちなみに、この期の売上げ金額第1位は1,084円を売り上げたカワナベコージンさん。明朝のサイコロ振りはカワナベさんが担う。
夕食の後はニシジュンイチロー先生による講義が始まる。今夜の内容は、練達の受講者も驚喜するほどの、いつに増して冴えわたったものにて、僕はその後半は、先生のお顔とホワイトボードを更に良く見るため、教室の後ろに立って聴いた。
講義の後は場所を移して交流会を開く。先生から求められたスピーチの表題は「自分のPR」というもので、これに添って各人が順番に、自分の「今」を語った。
交流会は、そのまま居続けると午前3時くらいまで解放されないこともあり得る。よってスピーチの後は、僕は適当なところで切り上げ、露天風呂を経て午前0時に就寝する。
ウチのウェブページ、パンフレット、僕や社員のeメールのフッタには「ほぼ年中無休」の記載がある。今年は元旦、1月21日(火)~1月22日(水)、9月10日(水)~9月11日(木)の、計5日間の休みをいただく。元旦を除く1月と9月の各2日ずつは、社員研修「日光MG」のための休みだ。
「日光MG」には、ちかくは日光市から、また遠くは関西からも、社外の方々が参加をされる。その中には「せっかく日光まで行くんだから」と、日光や鬼怒川にある会社の見学、東照宮や戊辰戦争の戦跡めぐり、あるいは戦場ヶ原の散策なども含めて日程を組まれる例が少なくない。
そのうち伊豆のタケシトーセーさん、川崎のイチカワアイさんの、本日の歴史散策には、長男が付き添った。古いクルマの修復現場を見たいという、東京のヤナセヨシヒコさんとウエノヨシノブさんは、僕が「EBエンヂニアリング」に案内し、工場主のタシロジュンイチさんに解説を乞う。
"MG"つまりマネジメントゲームの開発者ニシジュンイチロウ先生が下今市駅に到着されるころ、小倉町の洋食屋「コスモス」には早くも、先生や参加者との前夜祭を楽しむべく十数人が集まっていた。そして数時間ほどの意義ある歓談ののち、研修会場の「東照宮晃陽苑」に移動をする。
出勤する社員を迎えるため事務室のシャッターを上げ、犬走りの軒にのれんを架ける。踏み台から降りつつふと手水に目を遣ると、添えられたヒシャクにつららができている。思わず事務室へ戻って壁の寒暖計を外し、それを手水の側に置いてみる。
しばらくしてその寒暖計を見ると、赤い柱は0度のところで留まっていたから「なんだ、大したことねぇじゃねぇか」と、肩すかしを食った気分になった。
秋が深まると、"UNIQLO"の襟の高いヒートテックのシャツに、これまた襟の高いフリースのセーターを重ねる。外出時には、ここに"SIERRA DESIGNS"のマウンテンパーカを着る。これで凌げなくなると、セーターの上に"mont bell"のダウンベストを加える。
寒さにはそれほど弱くない僕だが、この組み合わせでも、しかも日光から100キロを南下した東京でも、夜の路上では震えの止まらないことがある。ここに至って初めてマウンテンパーカとは別れを告げて"MESCALITO"のダウンパーカに換える。
むかしアルプスに登った人たちの絵を見ると、ツイードの上着を身につけてた例がしばしば目に付く。きのうは"Harris"のツイードによるジャケットを着て出かけ、夜遅くに帰宅した。"Harris Tweed"のジャケットに袖を通すたび、この伝統的な素材による服が、しばしば最新の科学と技術による冬着よりも寒さを防ぐことに驚きを禁じ得ない。
これまでのだらしない管理には別れず告げ、これらのダウンベスト、ダウンパーカ、マウンテンパーカ、ツイードの上着は、春が来ると同時に一斉にクリーニングに出そうと思う。
"horizon blue"、"zenith blue"とは色の名前だけれど、良く名付けたものと感心をする。空というものは確かに、地平線から天頂へ向かって青さを増していく。首都圏にはこのところ雪の予報が頻繁に出ている。しかし日光の街場では、雪は風に乗って山から飛んでくる「風花」のみで、積もる気配はない。有り難いことだ。
自由学園男子部の卒業生会である「同学会」の新年総会に参加をするため、午後の特急で東京へ出る。コーヒーを飲みながら本を読んで時間を調整し、15時前に「明日館」に達する。
今年の還暦クラスは32回生。1学年下のカキザキジョージ君による挨拶の締め「皆さん、長生きしてください」は良かった。32回生は既にして5人を失っている。残った人たちは確かに、長く生きなければならない。
それにしても、35回生の我々は3年後に還暦である。赤い制帽と赤いマフラーは欲しいけれど「年は取りたくねぇよなぁ」とも思う。「遊べる時間が増える」という意味では年を取るのも悪くない。しかし体の劣化は避けたいのだ。
懇親会での飲酒はオンザロックスのウィスキー1杯に留めた。それでも正気のときに比べれば幾らかは酔っている。そしていつの間にか、いつもとは異なる道を歩いて池袋のコンコースに至る。
2日後に大寒を控えている割には寒くない。あるいは僕が鈍いのだろうか。下今市駅からは自転車に乗り、23時すこし前に帰宅をする。
「寒いですよねー」「しんしんと冷える、という感じですよね」「底冷え、っていうんでしょうか」というような挨拶が、街を歩くと頻繁に聞かれる。しかし限られた職業を例外とすれば、ほとんどの人は建物やクルマの中にいて、低い気温に長くさらされることはない。まして冬ともなれば、寒さは当たり前である。
とはいえ春の暖かさや夏の暑さを思わないかと問われれば、それは自分の好みもあるやも知れないが、春はとにかくとして夏には焦がれる。よって南へ行く計画を、机上の空論としても立ててみる。
個人に限って言えば、僕は旅行は死ぬまでタイのみで構わない。昨年の2月から3月にかけてはチェンライに4泊してからバンコク2泊した。今年はどうするか。
成田のホテルに前泊してタイ航空の午前便に乗った昨年は、チェンライには19時30分に着いた。今年は羽田から0時すぎの深夜便に乗る。そうすれば09時30分にチェンライに着く。節約できる時間は10時間。日中の活動時間に匹敵する。
これを以てチェンライでの宿泊を1日すくない3泊にし、バンコクに3泊する算段だ。それにしてもタイでは何をするか。まぁ大抵は、メシ食い、本読み、散歩で1日が終わるだろう。望むところである。
"TOC"つまり"Theory of Constraints"の"DBR"を盤上に初めて目撃したのは2002年11月の、シンガポールでのことだった。しかし僕は夕刻よりホーカーズで2合ちかくも白酒をやらかしていた。ゴールドラットの理論など分かるはずもない。
次の機会は2008年5月に東京で得た。このときにはとにかく目の前に流れていくチップと、そのチップが作り出す経費と利益の関係に仰天した。まるで魔法である。
そうして3回目の機会が今回の「日光TOC」で、ウチの社員は、この3日間の講座に3分の1ずつが参加をして、今日がいよいよその最終日となった。「日光TOC」は社外からも広く参加者を募り、本日は最も多い26名が脳に新風を吹き入れる。
"DBR"は"Drum Buffer Rope"の略だが兎に角、この驚くべき理論を社員と共に学ぶことができた2014年1月は、我が社の歴史に残る月になるだろう。
夕刻からは講師のモリモトシゲオさんはじめ受講者の一部がウチの食堂に集まり、月曜日から4日連続の交流会が開かれる。勉強仲間が自宅に来るなどは絶えて無かったことにて、何やら不思議な心地さえした、今週の4日間だった。そして来週は「日光MG」が始まる。「大丈夫か、オレの脳みそ」である。
たとえ朝の陽が差さなくても、冬の山は綺麗だ。
3日連続の研修は今日が2日目。僕は最終日の明日に参加をする。講師のモリモトシゲオさん、事務局のカワナベコージンさんとの連絡は昨年来、すべて長男に任せてきた。しかし主催者はどうも僕であるらしい。よってきのうからは毎朝8時45分には会場入りをし、モリモトさんやカワナベさんに挨拶をして会社に戻ることを繰り返している。
従兄弟のヒラカタマサアキ君が、仕事の途中に立ち寄ってくれる。ちょうど昼時だったため二人で蕎麦を食べに行く。そしてその足で、彼の今日の仕事場「小杉放菴記念日光美術館」まで送り届ける。
小杉放菴の美術館から屈曲した坂を下り、神橋の見え始めるあたりの景色が僕は好きだ。大谷川を隔ててある山の裾には「金谷ホテル」に続くS字の上り坂が、冬木立の間に見え隠れしている。これから春のお彼岸まで、日光は静かな空気に包まれることだろう。
きのうおとといに引き続いて、しかし今夜は研修会場にちかい居酒屋にて交流会を行う。地元にさえ食わず嫌いの多い「しもつかり」を「いや、これ、イケますよ」と平気で肴にする、大阪人のモリモトシゲオさんと東京人のカワナベコージンさんは大したものだ。
僕は偏食の人に冷たい。その逆に、なんでも食べる人には好感を持つ。ウチのしもつかりができたら、毎朝これをごはんのおかずにし、毎晩これを酒の肴にしようと思う。
水神祭の神饌については毎回「みんなでいいようにして」と社員に言う。ところがきのうはそのすべてが事務室に返却された。よって野菜や果物は、折しも本日これから社内で行おうとしていた福引きの袋にすこしずつ収めた。しかし鰯の丸干しについては、どうするか。
その鰯の丸干しは結局のところ僕がもらうこととし、それが早速、今朝の食卓に上がった。オーブンでこんがり焼かれたそれに頭からかぶりつけば、これがかなり美味い。そうしてそれを咀嚼しながら炊きたてのメシを口の中に追加する。
鰯の丸干しになど、これまでは見向きもしなかった。今後は百貨店の地下1階などで良さそうなものを見るたび、買おうか買うまいか、そのつど検討しようと思う。
「お正月の飾りをいつ下げるか」については、各地方、各家庭によって、いろいろとあるようだ。ウチには「15日の風に当てるな」という意見があり、よって今日までに、鏡餅をはじめ、ほとんどのお飾りを外した。
瀧尾神社のどんど焼きは明日15日に行われる。下げたお飾りは社員の誰かが神社へ持参するだろう。門松については、これを持ってきてくれたタカハシカズヒト君が、明日の朝にでも引き取りに来てくれるだろう。
きのうの日記に書いた、社外からも少なくない参加者を募っての3日間の研修は、その1日目を無事に完了した。夜は鬼怒川温泉にあって、今回の研修の参加者でもある、バームクーヘンで有名な「はちや」さんを見学する。
おなじく鬼怒川温泉のイタリア料理屋"Camino"には、講師のモリモトシゲオさんを含めて11人が集まった。そして交流のひとときを持ち、22時すぎに帰宅する。
総鎮守瀧尾神社の先代タナカキヨシ宮司が存命中は、ウチの水神祭は1月15日にすることと決まっていた。それが、今のタナカノリフミ宮司からは、水にふさわしい日として「みずのえ」や「みずのと」が選ばれるようになった。
ところが今年1月のその日はマネジメントゲームによる社員研修があり、両日とも会社は休みになる。そういう次第にて、今年に限っては種々のやり繰りを経て本日、水神祭を執り行うことが決められた。
一般には「工場」なのだろうけれど、ウチでは「蔵」と呼び習わしている製造現場の「水神」の碑の前に供物を揃え、灯明を上げ、そこに会社の主立った者が集まる。そしてタナカ宮司のお祓いを受け、祝詞を聴き、玉串を奉奠する。このようなお祭は、いつまでも残していきたい。
明日からの3日間は、社員の3分の1ずつが日ごとに出て、また外部からも少なくない参加者を募っての、マネジメントゲームとは別の研修がある。今夜はその事務局を務めるカワナベコージンさんはじめ、勉強仲間数名がウチの食堂に集まって、数時間ほども交流をする。
研修は、優秀な講師や意欲あふれる受講者に恵まれて成功するだろう、多分。
「僕の手指やかかとにアカギレの無いのは6月から8月までの3ヶ月だけ」というようなことを毎年、この日記に書いている。
脂性でないところに加え、手指は洗うかアルコールで消毒することを日に数え切れないほど繰り返す。かかとの皮膚は、信じられないほどの速度で厚く角質化する。そういうことも手伝ってのアカギレである。
現在は冬の盛りだから、特にかかとはひっきりなしにアカギレをする。アカギレにこれほど効く薬はないと思われる「山口製薬」の「ハクシン」を患部に埋め込み、大判のバンドエイドを貼る。そこが治る間もなく、まるでモグラ叩きのように、次のアカギレができる。
今日はかかとではなく右足の親指の横腹が、まるでカミソリを一閃させたように深く切れた。よってこの、小鰭に入れた飾り包丁のような割れ目にも「ハクシン」を塗り込み、バンドエイドを巻く。
春先の花粉を避け海外に逃げ出す人がいる。期間が短ければそれもできるだろう。しかし9月から5月までの9ヶ月とはいかにも長い。その長い月日を南国で暮らすには、どのような条件を整えるべきか。そういう種類の妄想であれば、何やら商売の役にも立ちそうな気がする。
天井から温風の吹き出す式の暖房は、相変わらず効きが悪い。山にはこれからも、 雪が増え続けることだろう。
本日は鏡開きにて、朝、店舗の鏡餅を降ろす。神棚のそれも降ろす。3階の、オフクロの住むフロアのそれも降ろす。お稲荷さん、水神、地神については社員に任せ、隠居へは長男に行ってもらう。
こちらの方言に「いじがやける」というものがある。漢字で書けば「意地が焼ける」だろうか。「いらいらする」と同義で、僕もしばしば使う。
「日本経済新聞」の「私の履歴書」は、新春から小澤征爾になった。野見山暁治のときも面白かったが、小澤征爾のこれも大層、興味深い。しかし「私の履歴書」は400字詰めの原稿用紙で3枚強ほどの文字数だから直ぐに読み終えて、明日の分を待ちかね意地が焼ける。
そういう人が僕以外にもいたとすれば、いっそ小澤征爾の「ボクの音楽武者修行」を買うべきだ。今ならamazonに1円で出ている。
店舗の入口右側に掲げた季節の書は年末以来「賀正」だった。夕刻、これを販売係のハセガワタツヤ君に手伝ってもらって「春燐」に換える。
冬至から3週間ちかくが経とうとしているけれど、日の出の早くなった実感はない。そういうことには多分、あるとき、いきなり気付くものなのだろう。
今月の昇給についての話し合いを、午前10時より社会保険労務士のオカザワセキヤさんと持つ。今年は夏までに定年を迎える社員が3人もいる。あるいは昇給よりも、むしろそちらの方にこそ話の時間は割いたかも知れない。
13時30分に"RADIO BERRY"からふたりの女の人が来る。今回の取材の目的は、上澤梅太郎商店のfacebookに上げられる朝飯について、また今月2日から5日かにかけて販売した、牛肉のたまり漬炭火焼きについてのものだった。応対のほとんどは長男に任せ、僕は最期に少しだけ受け答えをした。
今は冬の真っ盛りだが、温かい料理に冷たいお酒を合わせる、また冷たい料理に温かいお酒を合わせるには何の問題もない。しかし冷たい料理に冷たいお酒を重ねる気にはならない。そして今夜は温かい鍋物にて温かいお酒を飲む。
部屋が寒くなくて御の字、温かいものを飲み食いできて御の字、熱い風呂に入れて御の字、暖かい布団で眠れて御の字。有り難いことだと思う。
東京国立近代博物館で開催中の「ジョセフ・クーデルカ展」については、きのうの日記にも書いたような繁忙にて、これを観に行くことはほぼ諦めていた。候補日として考えていた今月7日も、突発的な事情で在社を余儀なくされた。
しかしその2日後の本日に数時間の空きができたため、今日はまた次男の帰寮日に当たっていたため、下今市駅10:05発の上り特急にふたりして乗り、昼前に浅草に至る。
昼飯を共にしてのち、次男は地下鉄銀座線を上野駅で降りた。僕はその銀座線を日本橋で東西線に乗り換え、竹橋で地上に出る。クーデルカの写真に似合いの曇天でも、東京の気温はそれほど低くない。
竹橋からは来た道を戻りつつ神田に寄って所要を済ませ、浅草駅15:00発の下り特急に乗る。そして17時前に帰社する。
早くに帰ったのは、社員との新年会が自宅で控えていたからだ。会合の食事はほとんど好まない僕も、社員と食うメシは好きだ。そうして18時30分から新年会が始まる。いち早く美味いものにありつきたくて、乾杯をしているところの写真などは撮り忘れた。
片付けは、男子社員が机や座布団やスリッパの移動を、女子社員が食器洗いを担当し、ごく短時間で完了した。次の食事会は夏前に行う予定である。
先月25日に「とちぎテレビ」の取材を受けた。普通の取材ならともかく、今回は生番組への出演を含むものだったため大いに迷った。しかし局に関係する、幼稚園からの同級生イトーカツユキ君の要請とあれば、いかにも断りづらい。
本日は、局には20時に入るよう、ディレクターのカワナゴタカユキさんには伝えられていた。しかし途中で不測の事態が発生してもいけない。そういう次第にて、終業後の18時すこし過ぎにホンダフィットにて会社を出る。そして19時には宇都宮に着いて、局ちかくの「コメダ珈琲店」にて時間を調整する。
「とちぎテレビ」のニュース番組「ニュースワイド21」は、21時からのニュース番組だ。控え室から案内されたスタジオには、アナウンサーの篠田和之さんと田村麻美さんが、既にして着席をしていた。お二人と名刺を交換して後のリハーサルは、特に問題なく終了した。
控え室に戻り、イトー君と歓談をするうち、カワナゴさんが迎えに来る。僕の出番は21時15分からの8分間とのことで、それまではスタジオの一角に置かれたソファに深く腰かけ、生放送の現場を眺めている。
いよいよ僕の出番が近づいて、コマーシャルの流されている1分間で、カメラから見れば右端の席に着く。テレビ局のディレクターは「10秒前」を「トービョーマエ」と発音することを初めて知る。
ふたりのアナウンサーのリードにより、8分間は無事に完了した。もともと僕は、このようなときには大して緊張しない体質でもある。更に番組を続けるふたりのアナウンサーとは、コマーシャルのあいだに挨拶を交わして別れる。そしてアシスタントディレクターに導かれてスタジオを出る。
ひと息ついてからは、調整室、編集室、報道部、そして中継車と、イトー君が次々と局内を案内してくれる。高校野球の中継ともなれば、カメラと中継車を結ぶケーブルは2,000メートルもの長さになるのだという。
立って頭を下げる行儀の良い守衛、そして出口まで送ってくれたイトー君に礼を述べ、雨の中をふたたびホンダフィットに乗って帰宅する。
これで今月第2週の肩の荷は下りた。しかし第3週、第4週と、大切な仕事は更に続く。年末年始の繁忙は去っても、いまだ気を抜くわけにはいかない。
朝は早くに目を覚まし、早くに起きる。家の中で僕の最も好む場所は食堂で、洗面の後は即、ここに移動をする。
強弱は調整しても電源を落とすことはしない床暖房だけでは足りず、天井から温風の吹き出す式の暖房のスイッチを入れる。ところがこれがなかなかな効かない。この暖房の室外機は外にある。「外気温が低すぎて、機械の能力が追いつかないのだろうか」というようなことを考える。
「暮のうちにかならず1回は積もる」と言う人もいる雪は、日光の山々から風に乗って飛ばされてくる「風花」はあっても、激しく降ったのは今冬は数時間のみで、積もることなく終わった。
年末年始は穏やかな天気が続き、荒れることは皆無だった。寒さについても1月の第1週には、それほど厳しいものは感じなかった。あるいは今日あたりから大寒へ向けて、一気に寒くなっていくのかも知れない。
「忙しくて、いい加減、頭がおかしくなる」と言って、オヤジはいつも、年が明けるとすぐに海外へ休養に出かけていた。海外とはいえオヤジは僕と違って旅先ではせっかちを極めたから、台北と香港とソウルにそれぞれ1泊ずつして帰る、というような、それが果たして休養になるのかどうか分からないような日程だった。
昼飯を食べるため国道121号線の横断歩道を渡りながら、ふと茶臼山の方に目を向けると、入道雲と見まがう雲が湧き上がっている。その雲の、白く輝く頂上をまじまじと見つめつつ、しかし層の意外な薄さにも気付いて「やっぱり冬に入道雲は無理か」と、落胆をする。
「冬の空に入道雲が望めないなら、それを見ることのできる南の国に、こちらから行っちまえばいいんだわな」というような考えもまた、脳のどこかをかすめる。無論、サイゴンに1泊、シェムリアップに1泊、そしてバンコクに1泊というような慌ただしいことは、僕はしない。
しかしこの1月は、正月明けの第2週から第4週まで予定で埋まっている。南の国などは夢のまた夢、なのである。
正月に、関東地方の都市や街場で雪の積もるようなことがあれば、経済への負の効果は計り知れない。だから、年末から続く快晴は本当に有り難い。その、空の青さを眺めつつ朝飯を食べる。食卓には、新年も5日になって、ようやく米のメシが上がった。味噌汁の再出現も嬉しい限りだ。
いつもと変わらず定刻の5分前に店を開ける。正月休みは本日が最終日になるだろう。お客様の引きは早いに違いない。
「牛肉のたまり漬け炭火焼き」は、肉屋さんの頑張りがあって、きのうより多くの本数が今朝は揃った。よってきのうよりも早い時間から焼き始め、16時に売り切れた。お正月限定の「福袋」も閉店前に売り切れた。これですっきりさっぱり明日の開店が迎えられるというものだ。
正月が過ぎると春の彼岸までは、種々の品を寒仕込みする製造現場は別として、包装係、販売係、事務係は閑散期を迎える。春に向けて良い種まきをしなければならない。
夕刻より町内の公民館に詰め、役員として新年会の準備に当たる。この集まりは、今年度に町会費を集めるなどの仕事をしてくれた組長への慰労会を兼ねるもので、17時に始まり、19時にお開きとなった。そうして帰宅すると今まさに晩飯の始まるときだったから、公民館に引き続いてまたまた飲酒喫飯をする。
早朝は、ウェブショップからの注文を確認したり、あるいは日記を書いたりするため、インターネットへの接続が欠かせない。iPhone 5Cのデザリング機能は先月の25日くらいまでは優秀だったが、その後は帯域制限と思われる通信速度の低下に始まり、その後も不調が続いてきた。
「SIMカードが挿入されていません」のエラーは大晦日に初めて経験をした。再立ち上げすれば復旧するとのことだが、今朝はそれを繰り返しても元に戻らない。しかたなく小一時間ほども放っておいたら、いつのまにか正常になっていた。
SoftBankで契約していたiPhone 3GやiPhone 4Sでは起きなかった不思議な現象が、docomoのiPhone 5Cでは頻出している。もっともSoftBankの時代には、僕はiPhoneは今のように積極的には使っていなかった。よってdocomoがSoftBankに何かの点で劣っている、ということではない。
社員の出勤に合わせて7時30分に事務室のシャッターを上げる。間を置かず店舗に移動して、こちらのシャッターも上げる。7時35分、目の前に1台のクルマが駐まる。ナンバーは県外のものだった。開店の40分前だが即、外へ出て「お急ぎでしたら、どうぞ」と、お声がけをする。
オヤジは時間外の商売を嫌ったが、僕は開店より前にお客様を店内にお迎えすることが、どちらかというと好きだ。お客様の利便性に貢献しつつ利益を得ることができる。一石二鳥ではないか。
お正月限定の「牛肉のたまり漬け炭火焼き」は、初日から予想外の売れ行きを示し、肉屋さんには追加注文を繰り返してきた。肉屋さんは当方の要請に限界まで応えてくれたが、本日午後の配達分を以て冷蔵庫は空になるという。
そのような次第にて、本日は朝からではなく、昼ちかくなってから焼くことを始めた。それでもきのうの夜に仕込んだ分は16時に売り切れた。明日はお正月休みの最終日だ。時間配分については本日同様、智恵のしぼりどころである。
ギフト人気ナンバーワンの「たまてばこ」は、普段であれば、お客様のお好みにより赤の麻の葉、紺の青海波、緑の蛸唐草、白の唐草の4色より風呂敷をお選びになれる。その「たまてばこ」が、きのうからはお正月にふさわしい色柄の風呂敷に包まれ、店舗の冷蔵ショーケースに並べられている。
大晦日までは醤油やビン入りの商品の並べられていた包装台は、その一方の端からもう一方の端までずっと、お正月限定の「福袋」で満たされ勇ましい。
きのう予想を超えて売れた「牛肉のたまり漬の炭火焼き」は、今日はきのう以上に人気を集め、14時ちょうどに売り切れた。
「むかし」と書いて「そのむかしとは、いつ頃までのことだっただろう」と振り返っても記憶はあやふやだ。とにかく、むかしの1月は成人の日の15日までは何となく賑やかだった。しかし今の人出は三が日がせいぜいだ。
三が日がせいぜいのところ、今年は曜日の並びにより5日までは忙しそうだ。明日あさっての2日間も、お客様のことをよく考えて仕事をしたい。
本日は初売りにて、包装係のサイトーヨシコさんが2011年春に韓国土産としてくれた、50,000ウォン紙幣を印刷した勝負パンツを穿く。そうして普段よりも早い朝飯を食べ、7時ちょうどに事務室に降りる。
7時30分にカワムラコーセン先生が来て、店舗の、先月末に下準備を済ませてあった花を完成させる。次々と出勤する社員とは、先ず新年の挨拶を交わす。快晴の空から放たれる朝日を浴びながら、販売係は開店の準備に忙しい。
新年第1番目にご来店のお客様には毎年、地酒をプレゼントしている。そしてこのお酒はほぼ毎年、おなじお客様に差し上げている。その、名前も存じ上げないお客様が、ほぼ毎年、いの一番にご来店になるのだ。
新年にはまた、お買い上げいただいたすべてのお客様に、ポチ袋をお渡ししている。これは多分、明日の日中までは払底しないだろう。
年末に下ごしらえした、「日光味噌梅太郎白味噌」のたまりに漬けた牛肉の串を、10時前より長男が店の前で焼き始める。10時30分より、お客様の数が繁くなってくる。「牛肉のたまり漬の炭火焼き」は、珪藻土の、せいぜい14、5しか載らない台で焼いている。それくらいの能力にもかかわらず、昼ごろには「10本ね」などというお客様が集中して、かなり慌てる場面もあった。
夕刻には疲れを覚え、閉店後は福袋の、本日の販売数さえ数えないまま明日の準備に入る。
僕は普段は、晩飯が和風のときには焼酎を、洋風のときにはワインを飲む。ところが年末から新年にかけては日本酒ばかりを飲んでいる。そして今夜も廊下で冷やした日本酒を飲み、風呂では居眠りをし、しかし早々に就寝をする。
例幣使街道の、松平正綱の命により整備された杉並木の向こうから、2014年の初日が昇る。
小学校の何年生のときだったか、スキー場の絵に太陽を描き入れたら「空にでっかいお日様は、イイカゲンに卒業しろと先生が言っていた」というようなことを、隣の席の同級生に知らされたことがある。それでもfacebookを見る限り、大人になっても画像に太陽を入れたがる人は、僕も含めて少なくない。
元旦は家族が打ち揃って朝一番でお墓参りをする。この習慣はオフクロによるものと記憶するが、いつ頃から始められたかについては覚えていない。お墓に行くと、陶器の茶碗が凍って割れていた。陶器を金属に換えても問題がないかどうかについては、正月明けにでも住職のクワカドシューコーさんに確かめてみようと思う。
お墓から帰ると、仏壇、神棚、お稲荷さん、水神、地神の5個所にお雑煮を上げる。ここまでしてようやく、人間が雑煮にありつく。
家内が作るようになってから、ウチの雑煮は福岡風とも広島風とも知れない、家内の実家とおなじものになった。だしの一部にアゴを使い、塩鰤なども入るこちらの方が「酒に合う」という点において、子供の時分から食べ慣れた関東北部のそれよりも、僕はずっと好きである。
朝昼兼用の食事を済ませると、これまた毎年の習いとして、追分地蔵尊にお参りをし、また瀧尾神社に詣でる。瀧尾神社に昇殿して後のことは、ほぼ眠っていたので不明のままだ。
夜はおせち料理のほか、すき焼き用の牛肉を「たまり」で揉み、ソテーしたようなものも食べる。
大晦日から今朝にかけては3時間しか眠っていない。よって今夜は早々に就寝をする。