神保町の"Computer Lib"にて、きのうに引きつづき根を詰めた作業をする。その合間に同社の"iPad"をいじる。そして特に"twitter"の動作速度の高さに驚く。となればここにカメラのないことが惜しまれる。
そこのところを指摘すると「どうやって"iPad"をカメラとして使うんですか」と"Computer Lib"の中島マヒマヒ社長は言うが、6×7版や6×9版の銀塩カメラのことを考えれば、どうということもない。「"iPad"には断固、カメラを搭載すべし」だ。
「果たして終えることができるだろうか」と心配された仕事を夕刻4時50分に完了させ、銀座へ向かう。先ず"999.9"でメガネのネジを増し締めしてもらう。次に"TAG Heuer"で時計のオーバーホールを頼む。僕のホイヤーは四半世紀ほども前のもので、修理やメインテナンスが可能かどうかを調べるため、とりあえずは修理部預けとなった。
旧電通通りを渡っていつもの路地に入っていくと、その路地と大通りのあいだのビルがひとつ取り壊されて、路地が路地でなくなっている。そこから鉤の手に折れて数寄屋通りへ出ようとすると、そこでもまたビルが取り壊されている。そして「ここもまた、コイン駐車場になるのだろうか」と考える。
晩飯に際しては、随分と焼酎をお代わりする。そして「立ち飲みでない方の"MOD"」でモヒート1杯を飲み、帰宅の途に就く。
朝9時すこしすぎに神保町へ達する。靖国通りが朝の雨を含んで光っている。
「こんなの、オレのすることじゃねぇよ」と感じられなくもないが、自分でしておけば後々の取りまわしは確実に楽になる作業を「よくできてるなぁ」と感心するほど考え抜かれたシステムに相対して、細心の注意をはらって行っていく。
この、根を詰めた仕事を夕刻まで続け、仕事仲間3人と外へ出る。
数十分の飲酒活動の最後のころに「じゃ、ひとり500円通しで」とワリカンを宣言すると"Computer Lib"のヒラダテマサヤさんが1,000円札3枚を僕に寄こしたので「今後、出世するよ」と褒めておく。
丸ノ内線を本郷三丁目で降り、地上に上がって本郷通りと春日通りの交差点まで来ると、「三原堂」のショーケースの中もワールドカップ一色だった。
甘木庵へ戻り、シャワーを浴びてひと息をつく。日本対パラグアイ戦のキックオフが迫っていても眠気はいかんともしがたい。よって即、就寝する。
"mixi"と"twittr"の自己紹介欄には「最後の晩餐はサーロインステーキ、レタスとトマトと小タマネギのサラダ、コートドオル真ん中の赤ワインで決まりだ」と入れている。「サーロインステーキ」という文字を目にしたとき、僕の脳に真っ先に浮かぶのは「グリル富士」のそれだ。「グリル富士」は僕がもっとも好きなステーキ屋である。
作り置きのサラダがショーケースに重ねられている、お運びのオニーチャンの髪型は"X JAPAN"の"YOSHIKI"みたいだ、タバコは席で吸い放題など、エラソーな批評を「食べログ」に載せることを趣味としているオネーサンやオトーサン連中からすれば突っ込みどころ満点の店だが兎に角、ステーキが想像を超えて美味いのだから仕方がない。
この店のステーキは先ず、強い熱で表面をカリッと焼かれる。肉汁は肉の内側に閉じ込められ、しかし今度はジワジワと加えられる熱により極限まで膨張していく。よって目の前に運ばれたステーキはまるで、子供を産んだばかりのお母さんのおっぱいのようにポッテリと膨れている。
この店が今月一杯で店を閉める。よって本日は予約の上、片道30キロの道を三菱シャリオで走っていった。
人の舌は肥える。若いころに食べた思い出の品を長じて口にして「なんだ、こんなのものだったか」と落胆することは多い。しかし「グリル富士」のステーキは、僕がこれを初めて食べた高校生のときから一貫して美味い。「一貫して美味い」とは、実は一貫しているのではない、日々向上しているということだ。
そして僕は小さめに切り分けた肉に玉葱とにんにくの利いたソースを丁寧にかけ、惜しみつつ最後の一片まで大切に食べる。肉汁はメシにまぶして最後の一滴まで無駄にはしない。
南アフリカ共和国における、今月24日の対デンマーク戦に日本代表が勝利した直後より、"Twitter"上に#okachan_sorryのハッシュタグがあふれている。
ワールドカップを前にして連戦連敗のときには素人から評論家までこぞって岡田監督をこき下ろしていたのが、ここへ来ての代表の大活躍で、手の平がえしと嗤うべきか、あるいはその素直さは見上げたものと褒めるべきか、まぁ、賑やかなことだ。
素人は簡単に「岡ちゃんゴメン」と言えても評論家は、そうはいかない。数週間前の週刊朝日に
「サッカー界の目利きたちは、かつてないほど冷たいまなざしを岡田監督に送っている」「岡田監督の更迭がなされない限り、わたしは南アフリカでの日本代表の勝利は祈れない」「必然性のない勝利はいらぬ。負けろ、日本。未来のために」
と書いてしまった金子達仁などは一体全体、これからどう自分の言辞を修正していくのか。
もっとも今朝のテレビを見た限りでは、あのセルジオ越後でさえ、驚くべき修辞で自分の前言を取り繕っていた。セルジオ越後にくらべれば金子達仁の日本語能力ははるかに高い。まぁ、大丈夫だろう。
"FILA"の勝負パンツを穿く。銀座の店で仕立て上がりに値段を訊いてビックリしたが顔には出さず支払いをしたシャツを着る。いくら長いあいだ正座をしても決して膝の抜けない、何という生地によるものかは知らないが、とにかく黒いズボンを穿く。シャツには"Dominique France"の銀色のネクタイを締める。ズボンと共布の上着に袖を通す。最後に"Alden"のブーツを履く。そして社員ハセガワタツヤ君の結婚式におもむく。
ハセガワ君とセーコさんの選んだ式場は、地中海風の赤い屋根瓦を持つ明るい建物だった。そこで式に臨み、披露宴では新郎側の主賓として祝辞を述べる。若い人の結婚式は賑やかで良い。僕はあれこれ美味いものを食べ、何種類かのお酒を飲む。
ハセガワ君からは夕刻、礼を述べる電話がかかってきた。ハセガワ君は僕よりもよほどしっかりしている。ハセガワ君の未来をより明るくするため、僕もしっかりしなくてはならない。
事務係のカワタユキさんが受話器を持ったまま僕の方を振り向いた。助けを求めている表情である。その電話を僕が代わりに受け取って聞いた先方の話は概ね以下のようなものだった。
「1週間ほど前に日光の漬物屋に商品を注文した。店からは控えが送られてきたが、これを古新聞と共にゴミに出ししてしまった。商品はいまだ届かない。店の名前は忘れた。自分の注文が貴社に入っているかどうか調べてくれ。入っていなかったら日光で思い当たる限りの漬物屋の電話番号を教えてくれ」
そこで僕は「ウチには当該の注文は入っていない。他の漬物屋と訊かれてもこのあたりに漬物屋は多い。その漬物屋を特定するための情報があれば何とか探せるかも知れない」
すると先方は「その漬物屋には以前、行ったことがある」と手がかりを与えてくれたから大いに期待してして「どんな店だったか」と訊くと「道に面していた」との答えが戻った。
僕は厳密を求めるあまり言わなくてもよいことまで言って人に嫌われる。その癖は重々理解しながら「店というものは大抵、道に面している」と答えると相手は笑って「それはそうだ。いつまで調べてもキリがないから1週間前のことは忘れ、あなたの店に注文をする」と言って、本日の売上金額がすこし伸びる結果となった。めでたし、である。
1991年4月、バンコクのオリエンタルホテル旧館に3泊した。ドアを開けて階段を数段降りたところにフロアのある、ちょっとしたメゾネットのような部屋には盛大なウェルカムフルーツがあった。これについてはチェックインした当夜こそそのままにしたが、翌朝そのすべてを担当のボーイにくれてしまった。
「フルーツはお嫌いですか」と目を丸くするボーイには「嫌いではないけれど、自分には多すぎる」と答えた。それでいて日中、厳重に密封包装されたドリアンをスーパーマーケットで買い、それを部屋に持ち込んでベロベロと食べていたのだから世話はない。
どうしてこんなことを書いたかといえば、今朝の食卓に牛肉の赤ワイン煮があったからだ。なぜ朝の食卓に牛肉の赤ワイン煮があると、バンコクのオリエンタルホテルを思い出すか。
今はどうか知らないが、当時このホテルには"Champagne Breakfast"というメニュがあった。"Moet et Chandon Brut Imperial"の小瓶が付いて邦貨4,000円台だったこのルームサーヴィスを僕が頼んだかといえば、貧乏性につきそんなことはできない。しかしチャオプラヤ川沿いの野外ビュッフェには行った。
まぁ、そんなことはどうでも良い。 とにかく目玉焼きと「金長」の牛肉の赤ワイン煮にマヨネーズをグリグリかけて食べたら美味かった、という話である。
終業後は社員一同が事務室に集まり、「夏の繁忙へ向けて頑張りましょう」という意味の食事会を行う。
第205回本酒会の開かれる洋食の「金長」に夜7時30分に行く。本日の出品は能代の「天洋酒店」の選んだ5本にて、先ず「山本合名」の「ど黒」から始める。
4本目、「斎彌酒造」による「美酒の設計」は、日本酒の名前としては僕が2番目に好きなものだ。そして1番目に好きなのはおなじ会社の「聴雪」である。「斎彌酒造」の商品名を考えているのは誰なんだろう、こんど「天洋酒店」の店主アサノサダヒロさんに訊いてみようと思う。
90分後に帰宅してツイッター活動を始めるが、クジラが出てどうしようもない。そしてそのうち居間のソファで寝てしまう。
目覚めてテレビをつけると、ウインブルドンの試合が中継されていた。そこに映し出された3人の線審が、そろいも揃っていつ死んでもおかしくないくらいに太っている。これほどの大会の審判を務めるくらいなのだから、若いころはさぞかし俊敏なテニス選手だったことだろう。
「東洋のメシさえ食っていれば、あそこまで太ることもなかっただろうになぁ。あれだけ太ってなお現在の食習慣を改められないとしたら、アル中やニコ中の仲間だわなぁ」と、脂の好きな僕は自分のことを棚に上げ、更にその3人を注視する。試合どころではない。
このウェブペイジ「清閑PERSONAL」を始めたのは1998年のことだ。更新履歴にそれ以前の日付のあるのは、他の媒体に書き込んだものを後にウェブペイジへ移したことによる。
当初のコンテンツは、その時々の感じたことを記す"BANYAN BAR"、好きなものを語る、"MY FAVORITE"、行きつけの食べ物屋を紹介する"GOURMET"で、ほかに添えもののようにして組写真の"WORKS"があった。「清閑日記」は後発で、始めたのは2000年9月1日のことだ。
それはさておき1ヶ月にどれか1編を更新することとしていた"BANYAN BAR"と"MY FAVORITE"ははじめ一気呵成に書けたが、言いたいことを言い終えれば次から次へと何かが浮かぶものでもない。"GOURMET"はその後、有象無象が食べ物屋を批評するウェブペイジが林立して、それこそ横町の小店まで網羅するようになったから僕の更新意欲も減退した。
日記以外のいずれかのコンテンツを毎月初日に更新すべしという決まりは捨てていず、しかし上記の文章は書きづらい。そこで「侘助たちの午後」以降は休眠状態にあった"WORKS"を復活させた。文章を書くより写真を撮る方が楽と考えてのことだ。
ところがいざ始めてみれば、1ヶ月で12枚の組写真を完成させることは、そう簡単なものではないことに気づいた。とにかく"BANYAN BAR"、"MY FAVORITE"、"GOURMET"、"WORKS"のうちのいずれかは毎月1日に更新しなくてはならないのだ。
そして普段は苦労する写真あつめだが、先般のカンボジアとタイでは想像以上の収穫を上げることができた。よってこれから数ヶ月は左うちわである。
「暖を取る」という言葉がある。それでは「涼」についてはどうか。ウェブ上の辞書にあたれば「涼を取る」もあるけれど、むしろこの場合は「涼を得る」の方が正統のような気がする。
というわけで20年ほど前のある暑い日、有楽町というか日比谷というか、そのあたりのビルをハシゴしながら涼を得ていた。時刻は昼下がり、といったあたりだったと思う。何棟目かのビルの中に李朝の器や布を売る店があり、そこで僕はオシドリをかたどった灰皿を買った。
以降、その店で求めたものはごくわずかながら、何かの企画展があれば今でも案内が届く。
現在この店で開かれているのは東南アジアの古陶磁展で、僕はこういうものがたとえようもなく好きだ。期日は6月25日から7月10日とある。そして「行けるだろうか、まぁ、無理だろう」と腹の中で言う。
きのう風呂桶から外へ出ようとするとき腰がガクガクッとした。「ここ数日、居間の座卓でツイッター活動をしていたせいだ」と、すぐに思い至った。腰を急襲した不調の原因すべてを夜間のツイッター活動に求めることが正しいかどうかは分からない。
腰の痛みは今朝になっても去らず、よって整体の"mana"に電話をして12時からの枠を予約する。
"mana"の先生によれば「右半身が特に凝っている、1ヶ月に1度は整体にかかるべし」とのことだった。タイ人は体調不良への予防としてマッサージを受ける、ということを本で読んだことがある。昨年、チェンライからチェンマイまでクルマで送ってくれた女の人は、給料のうちのかなりの額をマッサージに使うと言っていた。
そういうわけで「8月の下旬にタイへ行ったら毎日、マッサージを受けよう」と決める。
「ツイテレ」という遊び場がある。テレビで同じ番組を観ている同士が互いにツイートを繰り返すもので「それは面白そうだなぁ」と僕も感じた。
そしてもう随分と以前のことだが、自由学園の体操会の実況を卒業生のメイリングリストに次々と上げ、海外在住の卒業生などにも愉しんでもらったことを思い出す。その頃にはまた、自由学園の遠足50周年の集いを、上高地の「五千尺ロッジ」から中継したりもした。
"twitter"のひとつの価値は同時性にある。そして「自分や仲間達は、その同時性を10年以上も前からあちらこちらに発信していたんだなぁ」というようなことを考える。
八坂祭の打合せのため、夜7時に春日町1丁目公民館へ行く。その話し合いが8時に終わったところで誰かが「生ビール、飲みに行くべぇ」と誘いをかけると、他の誰かが「今日、そんなことをしたら非国民だ」と笑う。
ワールドカップの日本対オランダ戦が中継されている時間には、「ツイテレ」はよほど賑わったことだろう。
子供の目を後ろからそっと覆って「坊ちゃん、こんなものを見てはいけません」と言いたくなるほど下品なスポーツが野球だ」と、むかし安部譲二がどこかに書いていた。野球だけではない、多くのスポーツは同様の側面を持つ。
「オマエが出したボールをオマエがスローインできるわけねぇだろうが」と突っ込みたくなる行いを、何日か前に南アフリカ共和国でやらかしているサッカー選手がいた。「誰も気がつかなければやっちまえ」ということなのだろう。
些細なことに激高して相手ティームの選手を蹴飛ばす者がいる。蹴られた方は、相手のスパイクが自分の脇腹をかすめただけにもかかわらず大仰なそぶりで芝生に倒れ込んで動かない。審判が高々と掲げた赤札に、蹴りを入れた方は「そりゃねぇよ」と天を仰ぐ。その様子を逐一スタジオのモニターで見ていた元サッカー選手の解説者はニヤニヤ笑っている。
スポーツを教育の手段のひとつとして用いる理由を、僕は子供のころから理解できないでいる。
夕刻、浅草から帰宅するに際してドーナツを買い、これを特急スペーシアの車内で晩飯代わりにしたことがある。あるいは家内のいない夕刻、いわゆる「ホカ弁」を腹の足しにしたことがある。
夕刻の浅草にいながら「神谷バー」へ行かず、家内が不在の晩でありながら「和光」へ行かなかった四半世紀も前のことを思えば「あのころは真面目だったなぁ」と感慨深い。
どうも今年の正月以降、自分の何かが変わってしまったような気がする。ひとりの晩も外へ出ず、ウェブ上にアップされた人の旅行記などを読みながらパンを食べたりしている。休肝日に焦燥することもない。どこで何がどうひっくり返ってしまったのか。
そして今夕は前述の「ほっかほっか大将」をおよそ四半世紀ぶりに訪ね、弁当を買って帰り、それを食べながら"KIRIN FREE"を飲んで恬淡としている。
出張先で夕刻を迎えれば仕事仲間と飲み食いをする。しかし今月29日にはそれを避けて小人閑居し、普段よりすこし贅沢な肴でひとり酒を愉しもうか、と思わないでもない。そして「しかし、それも無理かなぁ」というようなことも考える。
6月16日はお菓子の日ということで、鄙には希な和菓子を作る「久埜」のオイデキミヒトさんが饅頭を届けてくださった。饅頭は早速に仏壇へお供えし、しかし数十秒後には下げてそのうちのひとつを僕がいただく。そしてもうひとついただく。大して使ったわけでもないが、午後の疲れた脳に、饅頭の甘さが染みていく。
饅頭に添えられた「厄除招福」の札を開いてみれば、そこにはお菓子の日の縁起が書かれてあり、それによれば菓子を食べて厄を除ける習わしは、今を去ること数百年も前からのものだという。「数百年」と書いて詳細をぼかすのは、日記を書く段になって細部を忘れたからだ。
夜、ツイッター活動をしながらいつの間にか眠ってしまう。そして高橋真梨子が矢沢永吉の古い歌を歌う声を耳に感じながら徐々に目覚めていく。その歌には聞き覚えがあった。先般、成田からスワンナプームまで飛んだJAL機のイヤフォンで聴いた歌だった。
ふと気づくと畳の上にメガネが落ちている。「この上に倒れて眠らなくて良かったなー」と胸をなで下ろしながらツイッター活動を再開する。
「あんな監督では勝てない」と、囂々とした非難を岡田武史に浴びせていた人たちが、対カメルーン戦の勝利の後には「岡ちゃん、岡ちゃん」の"storm of applause"を大合唱している。
そんなことだから日本人は選挙のときにも、ちょいとばかり威勢の良い小泉に吸い寄せられたかと思えば、今度は何か新しいことをしてくれそうな鳩山になびいたりして、ぜんぜん腰が落ち着かないのだ。
先日"docomo"のデータ通信端末におまけで付いてきた"IdeaPad S10-3"は、外注SEシバタさんの手によって初期設定が完了した。これはブラウジングとメイルの送受信に特化した機械として使う予定だ。ただし"ThinkPad"のトラックポイントに慣れ親しんだ者にとって、この小さなマシンのパッドはいかにも辛い。
夜は難なく飲酒を避けて、和風のあれこれで米のメシを食べる。
掛け軸を掛けたり外したりする道具を矢筈という。おなじ「矢」でも山口二矢の名前は忘れない。ところが「矢筈」については何度聞いても忘れてしまう。覚えた時期が前者は中学生のとき、後者については大人になってから、というのがその理由だろう。
この矢筈を携え隠居へ行く。庭のモミジの葉は青い。しかし枯れた枝の葉は既にして赤い。梅雨の前に掛け軸を仕舞ってくれと、オフクロが言うのだ。そして「在中無」と書かれたそれを床の間から外し、箱に収めて母屋へ運ぶ。
「酒ですか? はい、飲みます、宴会などあれば、ですね。普段は飲みません」という人がいる。酒は飲もうとすれば飲めるが別段、無くても一向に困らないという、僕からすれば便利あるいは不思議な習性を持つ人である。そしてそういう人に、このところの僕はなりつつある。
しかしながら今夕は卓上に蛸と若布と茗荷の酢の物を認め、とすればこれはメシのおかずにはしがたい。よって芋焼酎のお湯割りをごく少量だけ飲む。
「今回のワールドカップ、盛り上がらないと思わない? ニッポン、弱くてぜんぜん勝てないじゃーん」と、本物かバッタ物かは知らないが、とにかく"Futbol Club Barcelona"のユニフォームを着た製造係イトーカズナリ君に家内が言うと「でも日本でいちばんサッカーの上手い人たちですよ」とイトー君は気色ばんだ。
それはまぁ、おもむく先がサッカーのワールドカップであれば、日本でいちばんサッカーの上手い人たちが行かなくて他に誰が行くのか、である。
僕がかねがね不思議に思うのは、日本の10分の1の人口、日本の10分の1の経済力、そういう国のサッカーティームが日本のそれよりもしばしば強いことだ。それをいわゆるサッカーファンにぶつけると「根性です」とか「ハングリー精神です」という言葉が戻る。それではまるで、プールのカエルを食って蛋白質を補充した古橋廣之進ではないか。
サッカーの上手さは根性やハングリー精神ではなく、生まれつきによるものだろう。そうでなくては小国出身の、年に何億円も稼いでいる選手のシュートの決まるわけがないのだ。
数日前に自由学園のヤマガタ先生から電話があった。学校から電話があると、親は常に「ギョッ」とする。しかしその電話は「息子さんがテレビに出たいと言っているのですが、出してもよろしいでしょうか」というものだった。
今年のはじめころのことだっただろうか、長男がある吟行に誘われ、興味を以てその話を聞いていたが「秀句を詠んだ人はテレビに出られます」と言われたところで「テレビになんか出たくねぇよ」と腹の中で答えて誘いを断ったという。
長男と次男は性格が違う。
今朝のテレビ朝日のニュースが次男のかかわった番組で、だから僕は録画予約をしてから仕事場に降りた。そして昼メシどきにその録画を再生すると、東京のスズメが激減しているというリポートのところで、次男は自由学園男子部の"Bird Census"の一員として姿を現した。
僕がこの学校の生徒だった35年ほど前には、テレビの取材があると、リポーターが無作為に声をかけたような場面であっても、そこにはかならず優等生の姿があった。今の自由学園男子部は、あるがままを外部に見せる。大いに好もしいことだ。
夜は居酒屋の「蓮」へ行く。2週間後に結婚式を挙げる社員ハセガワタツヤ君の、社内的な披露宴とでもいうような集まりに出席をするためである。ハセガワ君は仲間から贈られた記念品の包装紙を解いたところで泣き始め、1時間ほどは店のおしぼりで顔を覆っていた。ハセガワ君は僕よりしっかりした人間なので、この先もまぁ、大丈夫だろう。
朝、ウチの商用ツイッターを見ながら「団鬼六がフォローしてくれたよ」と家内に言ったら「やだ、ダンオニロクなんか」と返したので「いや、良い作家だよ」と答えた。
「真剣師 小池重明」は、僕が傑作と決めた3冊の将棋本のうちの1冊だ。「責め絵師 伊藤晴雨伝」もまた素晴らしい。僕のこの日記を「団鬼六」で検索すると、他にもいくつかの良書、これは「僕にとっての」との前置きを付けなければならないかも知れないが、それが何冊も現れる。
本人はたまにしか出てこないようだが、それでも"@Oniroku_Dan"には、これからも元気につぶやき続けていただきたい。
体調はすっかり元に戻ったようだが「和食ばかりを欲しがる」そして「酒は要らない」というところからすると、いまだ完全には復調していないらしい。
新しい契約に際して準備すべきものを"docomo"に電話で問い合わせたところ「会社の登記簿謄本または抄本または印鑑証明、身分証明書、代表取締役の肩書きのある名刺」の3点と示唆された。
よって自分の名刺には肩書きが無いこと、パソコンで簡単に自作できる名刺が代表取締役の身分を証明するものとして必須とは思えない旨を述べた。係の人からは折り返し電話があって、名刺は肩書きのないものでも良いことになった。
そうして必要なものを持参して小さなデータ通信端末を手に入れるべく"docomo"へ行くと、パソコン付きのプランがゼロ円で、これが契約の基本形と説明されて了承する。パソコンは"lenovo"と"acer"から選べるというので前者を指定した。思いがけず手に入ったこの"IdeaPad S10-3"は何に使おうか。デザインはなかなか悪くない。
夕刻、晩飯は洋食にしたいようなことを家内に言われ、しかし和食にするよう頼む。そして「たとえば、ほうれん草と油揚げのおひたしとか」と続けた。本来の僕は脂の強いものを好む。いまだからだが旧に復していないのだろう。
弱ったからだや運動量の少ないからだは濃い味を必要としない。老人が良い見本だ。そしてその健康食を食べ、何と今月はいまだ10日にして5度目の断酒を達成する。
財布の中身はすべて使ってしまう、そういう性格ゆえ、みずからを戒めるため小遣い帳をつけている。小遣い帳とはいえ前月繰越金、今月入金、今月出金、次月繰越金の揃ったものではなく、今月出金が記帳されているだけのものだ。正確には小遣い帳とは呼べないかも知れない。
とにかくそういうものを記していると、果たして先般の旅行では一体いくらの金を遣ったかが気になり、しかし旅の最中には、出た金をいちいちノートにメモしていない。そこでせめて「出国から帰国までのあいだに総額でいくら遣ったか」ということを考えてみた。
行きの成田空港で2万円、正確には19,949円を213ドルにした。持ち帰ったドルは121ドルだ。つまりカンボジア滞在中に費消したお金は92ドル。
タイでは昼の経費はすべてコモトリ君持ち。それではあまりに申し訳ないと、晩飯を僕のカードで支払ったらこれが4千数百バーツ。僕がサイン中の伝票を見たコモトリ君は「オマエ、それは払いすぎだ」と1,000バーツ札2枚をくれた。
92ドルに4千数百バーツを足して2,000バーツを引けばすなわち邦貨17,000円くらいのところで、これが社員へのお土産も含めた今回の旅の小遣い銭、ということになる。
「どこが財布の中身はすべて使ってしまう性格だ?」と思われるかも知れないが、まぁ、行った先がカンボジアであれば、こんなものだろう。
子供のころ、前夜の熱がすっかり下がっていることを知った朝の爽快感は忘れることができない。そして今朝は、そのころの気分をすこし思い出した。体温は平熱に戻った。しかし胃の痛みは前日より弱まっても収まってはいない。
きのうに引き続いてお粥を食べて「日本の米の唯一の欠点は美味すぎること」という、自分がよく口にする冗談を頭に呼び起こす。
そして昼と夜に素うどんを食べて「この美味さを理解する者が、地球上にいったいどれほど存在するだろうか」と考える。
からだの具合が良いと、からだに悪いことばかりをする。からだの具合が悪いと、からだに良いことばかりをする。今月はいまだ8日にして、早くも3回の断酒を達成してしまった。
そしてすこしばかり本を読んで早々に寝る。
からだを丸め、ブルブルと震えている。1982年にポカラの農家の納屋に泊まったときにも、おなじことを経験している。体温が平熱よりもかなり上がっているらしい。湿熱のシェムリアップで多い日には15キロも歩いたり、機内食も含めて日に4度も5度もメシを食べたことが原因かも知れない。
解熱剤は旅行に持参し、それはトランクから取り出して今は事務室にある。何ヶ所かの鍵を解きながらそれを取りに行く気力はない。30分ほども呻いていただろうか、気づいた家内が隣の部屋から来てくれたので状況を話し、薬を持ってきてもらう。時刻は午前2時30分だった。
そして朝を迎えて病院へ行き、診断を受け薬をもらって帰宅する。食欲はなかったから朝飯も昼飯も抜いた。
そして夜に少々のお粥を食べて早寝をする。
JL718便がいつ離陸したかの記憶はない。タクシングの最中に眠ってしまったのだろう。いちど目覚めて後ろを振り返ると僕のシートの後ろに乗客はいなかった。よって背もたれを最大まで倒して二度寝をする。
次に目を覚ましたのは客室乗務員が食事を配り始めたときで、腕時計を見るとタイ時間で午前3時だったから「勘弁してくれよー、食えるわけねぇよー」と、再びまぶたを閉じる。
またまた物音に目を覚ますと、通路を隔てて僕の横に座った人がお粥を食べている。「あ、お粥なら食べられるかも」と、それだけ口に入れて他のものはすべて残す。
目の前に機内食が運ばれるたび「メシは要らねぇから、その分、航空券を安くしてくれねぇかな」と思う。航空券を購入する際に「メシ有り」か「メシ無し」を選択できるようにし、「メシ有り」を選んだ乗客にだけ機内食を出すのだ。「メシは食いたいが機内食は遠慮したい」という人のためには、空港内の各所に弁当屋を設ければ良い。
窓から見える空は、太平洋側もユーラシア大陸側も真っ青に晴れていた。その青空は成田空港まで続いていた。飛行機から降りると空気は乾いて心地よく、涼しかった。そして午前中に帰社する。
クリーニング代7.5ドル、きのうのwifi使用料2ドル、計9.5ドルを10ドル札で支払うと、"Angkor Miracle Resort & Spa"のキャッシャーは3枚の500リアル札を釣りとしてくれた。
カンボジアのお金を残しても仕方がない。よってシェムリアップ国際空港の売店で、50セントと表示のある箸置きをこの1,500リアルで買おうとすると、売店のオネーサンは「もうすこし足していただかないと」と言う。よって「一体全体、この1,500リアルはドルでは幾らなのか?」と訊くと「38セント」と答えてオネーサンは苦く笑った。
「国家は通貨なり」だったか「通貨は国家なり」だったか忘れたが、むかしそのようなことを言った人がいた。カンボジアでは、我々旅行者以外にも米ドルが広く流通している。それどころか米ドルこそが、この国の正統の通貨である。カンボジアは一体、どこへ行こうとしているのか。
3日前とおなじく"BANGKOK AIR"の"ATR72"に乗り、バンコクのスワンナプーム空港でトランクを受け取っても時刻はいまだ午前10時30分だった。同級生のコモトリケー君に電話を入れれば「こんなに早く着くとは思わなかったから、いまだ家を出たばかりだ」と言う。それならそれで、することがある。空港ビル1階のクーポン食堂"Magic Food Point"の場所を確認してから到着ロビーに戻る。
コモトリ君とは空港からクルマで一直線にアンパワーを目指した。アンパワーはバンコクの東南東80キロほどのところにある水郷だ。緑深い場所にあるあずまやで昼食の後、コモトリ君の雇った小舟で運河を下る。
小舟ははじめ、椰子の森を縫って進む。夜になれば無数の"LED"と見まがうばかりの蛍を見られるそうだが、生憎と現在時刻は午後2時である。舟はやがて賑やかなところに差しかかる。岸には「どこまで続くか」と思われるほどの、物や料理を売る小舟が蝟集している。我々はそこで運河沿いの道へ上がり、しばし散策をした。
午後遅くにバンコクへ戻る。先般の騒乱における激戦区となったラチャプソン交差点を抜け、赤シャツ組に放火され焼け落ちた「セントラル・ワールド・プラザ」の百貨店"ZEN"を横目にコモトリ君のアパートへ行く。そしてシャワーを浴び、ビルの谷間のヴェトナム大使館から赤い旗の降ろされるころ、新しいシャツを着て外へ出る。
僕が一笑に付すようなことでもコモトリ君は決して看過しない、そして自分が納得するまで相手に確認をする。ソイルアムルディの洒落た店のメニュに"Grilled Tasmanian Wagyu Grain-fed Lamb Rock"の文字を認めて「どうしてタスマニア産の仔羊が和牛なんだよ」と、店の女性責任者にタイ語で質すが「あのねー、ロックってのはバラ肉のことなのよー」という具合に話はまったく噛み合わないのだから、最初から訊かなければ良いのだ。
バンコクの空港では決まって1カートンのタバコを買う。タイで売られているタバコの箱には「いつまでもタバコを止めることのできなかった人間の末路」の写真が印刷してある。これを帰国してから喫煙者たちに配るのだ。もっとも彼らはアル中ポン中モヒ中のお友達だから、こんなものを見ても実際は意に介さない。
タバコを買った店のちかくに無料の新聞の重ねてあるのを見つけて一部を手に取ると、日本の首相が替わっている。わずか数日を留守にしたのみで、とんだ浦島太郎になってしまった。そしてその新聞を読みながら23:00発JL718便の出発ゲートへ向かう。
きのう夜9時に寝ようとするとき、携帯電話の目覚ましを朝の3時に設定した。日記を書くためである。「フランス革命について述べよ」という設問に五七五七七の計31文字で答えて80点を取った人がいたという。フランス革命が31文字になるなら日記などは2、3文字で済みそうなところだが当方にその力はない。
結局は3時にアラームが鳴っても二度寝をしてしまい、4時のモーニングコールでようやくベッドから抜け出す。そして身支度の後、水とカメラ、そしてきのう作った写真付きの、シェムリアップ周辺のほとんどの遺跡に入れる通行券を"Patagonia"のアタックザックに入れて外へ出る。
「酔狂にも」という気もするが、アンコール・ワットの背後から昇る朝日など、この機会を逃したら次はいつ見られるか分からない。田舎道を15分か20分ほどマイクロバスに揺られ、いまだ夜の明け切らない薄暗さの中、幅200メートルの環壕を渡る。そして待つこと30分、雨期とは思えない青空に太陽はその姿を現した。気づけば随分と見物の人たちが増えている。
腹を空かせてホテルへ戻り、多めの朝食を摂る。日記は寸暇を惜しんで書かなくてはならない。きのは夕方ちかくなってから来たメイドさんが、今日は朝から部屋のベルを鳴らす。そして彼女たちの仕事の最中にも日記を書く。
午前、シェムリアップから北東に40Kmほど離れた場所へ移動する。バスを降りて赤い土の敷かれた道をしばらく進むと、規模は小さいながらも、そして詳細は他の資料に任せるが、非常に高い価値を持つというヒンドゥー寺院バンテアン・スレイが間近に迫る。
回廊の彫刻は砂岩の上質さにより保存状態も良く、炎天下にその陰影を濃くしている。数十年前にアンドレ・マルローが盗み出そうとして未遂に終わったデバターは現在、立ち入り禁止を示すロープに阻まれて見ることはできない。
シェムリアップへ戻る途中に立ち寄ったプレ・ループは日干し煉瓦による三層の基壇の上に更に砂岩製の二層の基壇を持つピラミッド型のヒンドゥ寺院で、ここでもまた僕は、登れるところまで行ってみなければ気がすまない。持参した資料によれば創建は961年とのことだから、小さな焼き煉瓦による高塔はもう1,050年も、いま僕の目に映っている平原と森を見下ろし続けたことになる。そしていつかはこのお寺も土に帰ってしまうのだろうか。
昼過ぎはシェムリアップ市南部のオールドマーケットを散策し、2時にホテルへ帰って以降は夕刻まで休む、というか日記を書く。
午後おそくに雨の降ったせいか、日本の初秋を思わせるほどにまで気温は下がった。西の空には夕焼けが見える。本日3枚目のシャツに着替えて外へ出る。そしてシェムリアップ川の対岸の料理屋へ行く。
僕の背後の植え込みでは、まるで犬のような声で蛙が鳴いている。灯りに吸い寄せられる虫を食べようと、天井のランプシェイドでイモリが息を潜めている。そして僕の心はしごく穏やかになっていく。
いちどホテルへ戻り、また外へ出る。"Angkor Miracle Resort & Spa"から国道6号線をシヴォダ通りの方向へ進むとやがて左側に、壁に大きく"A"のロゴのあるホテルが見えてくる。そのホテルと、その先のガソリンスタンドのあいだを左に折れる。すると、舗装していない道の暗がりに幾人もの男たちが立ち、交通整理用の赤い電飾棒を振って客を呼んでいる。この通りの名は知らない。男たちはカフェーの従業員だ。カフェーとは地元の歌手がカンボジアの演歌を歌い、客はそれを見物しながらビールを飲む、そういう場所である。
そのうちの1軒に近づくと、入り口の両側には着飾ったオネーサンたちが座っていた。彼女たちを無視して店の奧へと進む。すると色の白い太った男が現れ、映画"DEER HUNTER"で、アメリカ兵捕虜がヴェトナム兵からロシアンルーレットを強いられた小屋、そんな趣の個室に案内される。
と、いきなりふたりのビヤガールが来て、各々の契約する会社のビールをうるさく売り込む。「分かったよ、両方、飲むよ」と僕は身振りで示す。当方はカンボジア語を理解せず、先方は英語を話さない。多分、外国人などは滅多に来ない場所なのだろう。そして僕の隣には化粧っ気のない、左の犬歯に黒い虫食いのあるオネーサンが座った。
オネーサンが付いても当方はカンボジア語を理解せず、先方は英語を話さない。ステージに新しい歌手が現れるたび、僕は個室を出てその歌を聴きに行く。店の中は薄暗く、しかし「紅灯とはよく言ったものだ」と感心するほど赤い灯りに満ちている。
酔って2時間後にホテルへ戻り、その入り口の階段でつまづいて左の膝を打撲する。何時に就寝したかは良く覚えていない。
シェムリアップ近郊の、主として12世紀に創建された遺跡を見て歩くには最低でも1週間はかかる、というが、当方はここに正味2日しか滞在できない。朝、クルマに乗って先ず、一片3,000メートルの矩形の城壁に囲まれた巨大な都市遺跡アンコールトムへ行く。
バスも通れるほどの南大門を、オートバイに乗った僧侶たちと、しかし僕は徒歩でくぐり、バイヨンを目指す。寺院の内部は回廊また回廊、彫刻また彫刻で目もくらむようだ。寺院の北の門を抜ければそこは広大な閲兵場で、左側には長さおよそ350メートルの「象のテラス」に続いて「癩王のテラス」が控えている。
遺跡の周囲は森また森。非常に湿度が高い。昨年のタイへの旅行で役に立たなかったものは今回の装備からすべて省いたが、麻のバスタオルを持参しなかったのは痛い。
それにしても当時の王朝の圧倒的な力には目を見張らざるを得ない。タ・プロームは案内書によればジャヤヴァルマン七世が母のために建立した仏教僧院とのことだが、その静かさとは裏腹に、東西1,000メートル、南北700メートルにもなる、日干し煉瓦の壁に囲まれているのだ。この寺院はこれまでガジュマルが育つに任せていたから崩壊は激しく、一部で修復作業が始まっている。
昼にホテルへ戻り、シャワーを浴びて2時間ほど休憩を取る。現地の人に言わせれば、現在は雨期の入りで気温はそれほど高くないとのことだが、この湿熱はなんともしがたい。そしてシャツと下着を乾いたものに着替える。
午後は、11世紀初頭に作られ初めて未完成に終わったタ・ケオに続いて、いよいよアンコール・ワットに近づいていく。「幅200メートル、外周5,600メートルの環壕」という文字だけでそのスケールが想像できるだろうか、とにかくアンコール・ワットは満々と水を湛えたこの堀の中心に、まるで奇跡のように存在している。功名心を伴っての行為だったとはいえ、かつて一ノ瀬泰造は命を賭してこの地を目指したのだ。
回廊、その内側にまた回廊、そしてそのまた内側にも回廊。その回廊には無限に続く彫刻、森本右近太夫はじめいにしえの人々の残した痕跡、そしてデバター。天に伸びる高塔の直下、つい数年前までは修復のため近づけなかった第三回廊に登り、かつては王や忠臣たちの見たであろう下界の景色を眺める。
ふたたび西参道を歩き、堀の長い石畳を渡りきると、なにやら幽界から冥界へと戻ってきたような気分になった。それでもまた本日のスケデュールは終わらない。
プノン・バケンはアンコール・ワットの造営に先立つこと200年も前に建てられたヒンドゥー寺院で、密林の山道を20分ほど登った丘の上にある。丘の頂上に建つ六層ピラミッド状寺院の、人の登れる限界の第五層まで上がって四囲を眺める。この遺跡のデバターの破壊されているのは、内戦のときこの丘の直下に駐留したヴェトナム兵が戯れに射撃の標的としたからとのことだった。
夜はカンボジアの音楽と踊りで有名な、その名も"Amazon Angkor"でメシを食べ、ホテルに戻って今夜はフロントで"Voucher Number"を受け取ったがインターネットにアクセスする気力は残っていない。本日は推定で15キロは歩いたのではないか。
そして21時に就寝する。
日本航空のバンコク行きの機材は"777-200"。その席は3分の1がようやく埋まっているか、という空き具合だった。何がどう関係しているのか、ジャンボから小型化しても、旅客の数はこのありさまである。
敬虔なキリスト教徒が聖書を携えるように、謹厳な経営者が「臨済録」を懐に忍ばせるように、南の国へ行くときには僕は重くてもかならず近藤紘一の「目撃者」を持参する。本日読み始めた1975年4月3日の部分は緊張に満ちたものだ。1975年のグエン・バン・チューは、僕の中では現在の鳩山由紀夫と重なる。
成田からバンコクへ向かう飛行機は、離陸からおおむね約5時間後にインドシナの海岸線を横断する。その直下がダナンだ。この地点を通過するたび僕はその景色を楽しみにしているが、雲に阻まれて今日はそれを見ることができない。
「目撃者」に話を戻せば、1975年4月25日の近藤紘一は常人にない胆力を発揮する。体内のアドレナリンは静かに沸騰していたのではないか。在留米人撤退専用機がタンソンニュット空港を30分おきに離陸していく中、静かな環境の自宅からスーツケースひとつを持って近藤は、市中心部のカラベルホテルに移動するのだ。
日本時間17:29、タイ時間15:32。機はスワンナプーム空港に着陸した。外気温は35度、雨期の空は曇っている。蜂蜜色のオネーサンに案内を請うこと3回、広大な空港内を推定で1,500メートルほども歩き、ようやく"BANGKOK AIR"の乗り換えカウンターを見つける。
先般のバンコクの争乱を受けてのことかどうかは知らないが、当初使うことにしていた17:00発のシェムリアップ行きは減便の対象となったらしい。各々なんと160と170バーツというバカ高いソムタムとカオパッを空港内のレストランで食べ、おまけに"Heineken"の生ビールを飲んで時間をやり過ごす。
62人乗りの、機材名は"ATR72"というのだろうか、そのプロペラ機によるPG909は日本時間21:00、タイ時間19:00に離陸し、日本時間21:46、カンボジア時間19:46にシェムリアップ国際空港に着陸した。短いタラップを踏んで滑走路に降り立てば、何やら個人用のジェット機でビジネスに赴いた大金持ちの気分である。
迎えのクルマに乗って、国道六号線沿いの、シヴォダ通りまではすこし距離のある"Angkor Miracle Resort & Spa"に着く。
半本分ほどの赤ワインを飲み入浴して後、ダメで元々とブラウザを立ち上げると部屋に"wifi"があるのだろうか"Voucher Number"を入れるべき場所が現れたため即、フロントに電話をする。
無線の使用料は1時間2ドルである旨を、わざわざ部屋まで来たボーイが説明する。よって直ぐに了承してティップ込みの3ドルを手渡すとボーイは手に持ったピンク色の紙にある、かなり長い半角英数文字を僕の"ThinkPad"に打ち込んだ。
これで、この日記の置いてある、強固なセキュリティを持つサーヴァーにアクセスできない以外は、日本にいるときと同じデジタル環境が実現した。そして"twitter"による情報のアップを30分だけ行う。
残りの時間はいまだ30分もあるが、そのときの時刻はカンボジア時間で0時30分、日本時間で2時30分だから、今日はほとんど23時間も続けて起きている。よってすぐに就寝する。
「初見の客に気を遣るな」とは神代辰巳の「四畳半襖の裏張り」で語られる教訓だ。それはさておき昨夕あるいは今朝は「初見の酒はボトルで頼むな」ということを、したたかに教えられた。
若いころこそ盛んに飲んだビールだが、今は夏にもほとんど飲まない。和食であれば日本酒か焼酎、洋物のメシならワイン、中華のときには透明で強いお酒を飲む。
きのう入った「北京亭」でも品書きにそのようなお酒を探し、結局はこれまで飲んだことのない蓮花白酒をボトルで頼んだ。ボトルで取ればグラスよりかなり安くなるだろうと考えてのことだ。そして小さな杯に満たしたこれを、女性ひとりを除く男3人でパッと干したところ予想外に甘く、そしてある種のリキュールなのだろう、何やら漢方薬のような香りが鼻腔を抜けた。
「これは失敗した」と気づいたときにはもう遅い、とにかくボトルのキャップは開かれてしまったのだ、そしてアルコール度数49度のこれを我々は1時間と少々で空にした。
今朝、目を覚ましたら頭痛と吐き気を伴う二日酔いである。シェムリアップへ行くための荷物は、なにひとつ準備できていない。