この日記が新聞の取材を受けたとき「毎日、15分くらいで書いちゃうんですか?」と記者に訊かれたことは数日前に書いた。まさか15分では書けない。しかしここ数日は業務が繁忙にて、本当にそのくらいの時間で日記を完成させてしまっている。
忙しいと、食物を摂取しようとする体力も消耗するらしい。夕刻になって食べたいものは冷や奴と素麺だった。しかしそのような希望の受け入れられる筈もない。「豚カツと焼き肉とどちらが食べたいか?」という、冷や奴や素麺とは大きくかけ離れた二者択一を迫られ「だったら焼肉」と答える。豚カツなら1人前を食べなくてはならないところ、焼肉なら肉の1片2片に箸を伸ばして後は焼酎でも飲みながらお茶を濁すこともできる、と考えたからだ。
しかしいざ焼肉屋へ行ってみればレヴァ刺しだの子袋2人前だのテグタンラーメンだのと見事な乞食腹を発揮し、帰宅して即、就寝する。
薄明よりも前、いまだ部屋に闇の残っているころに目を覚ますと、なにやら得をした気分になる。今なら4時のころだろうか。そしてこの時間から夜が完全に明け切るまでの雲の動きにはただならないものがある。ほんの数分のあいだ目を離しただけで、その位置や形や面積は大きく変わる。
明け方には視界を覆っていた雲が帯状に切れ、そこから日の光が差して、日光の山肌を緑に照らす。その、目に痛いほど鮮やかな色を見て今日の晴れを確信する。ちなみに手元の"iPhone"は、今日の日光地方の天気を雨と伝えている。
午前9時を過ぎたころに軽く降った雨はすぐに上がり、後にはジリジリと日が差して、その太陽は午後おそくまで空にあった。そして「天気予報というのは、あまり当たらないものです」という、いにしえの気象学者の言ったことを思い出す。
夕刻、生け花のカワムラコーセン先生に、日光の最深部で釣ったという岩魚をいただく。
先月上旬に訪ねたカンボジアのあれこれを思い出してみれば、遺跡などよりも、亭々として静かだった樹木が印象に残っていたりする。
「つまんねぇところなんだ」と言う人がいる。「つまんねぇところ」とはこの場合「些細なところ」と翻訳すると分かりやすい。人に慕われる、人に嫌われる、人に認められる、人から疎んじられる、人に信用される、どうも信用されがたい。そういうことのきっかけは、しばしば「つまんねぇところ」であることが多い。
そこいらへんに転がっている世界遺産の何倍もの価値を持つアンコールワット。その巧緻複雑な石の意匠よりもなお、何の変哲もない1本の木が印象に残ってしまう。これも「つまんねぇところ」のひとつなのかも知れない。
オフクロの誕生日は今月31日だ。しかしその日は長男に用事がある。よって長男には本日の夕刻に帰宅してもらう。そしてオフクロ、家内、長男、次男との5人にて霧降高原の「グルマンズ和牛」へ行く。
先日ウェブショップの「当店が紹介されました」のペイジを更新していて「HPで4年半ご飯日記ですよ」という、2004年6月10日の「下野新聞」の記事をあらためて読んだ。
2004年といば僅々6年前のことだ。ウェブ日記が新聞の記事になるということは、世間ではウェブログも、そう目立つものではなかったのだろう。もっともこの日記は一貫してウェブログではない。はじめはハイパーテキストを手書きし、いつ頃かは忘れたが、その手書きが"Dreamweaver"に変わっただけで、相変わらずのウェブペイジである。
その2004年の取材のとき記憶に残った記者の質問は「毎日、15分くらいで書いちゃうんですか?」というものだった。「さすがに新聞記者だ、自分の文章作成能力と同等のものを相手も持ち合わせている、と考えての『15分』なのだろう」と僕は想像した。
結論からいえば、今日の日記を書くには15分も要していない。しかしその倍の時間を使う日もある。ウェブ日記を書いていて困ることは、これを書き、"twitter"に返信をつければ、それだけで1日の仕事が終わったかのように錯覚してしまうところである。
5年前の7月に"KEEN"の"YOGUI"を買った。大げさに言えば全力疾走も可能な、これは優れたサンダルである。
フニャフニャの、いかにもからだに悪そうなサンダルを数ヶ月前から次男が履いていることが気になっていた。そして先日「オレと同じサンダル、欲しい?」と訊くと「あ、欲しい」と言うのでウェブ上に"KEEN"の"YOGUI"を探し、注文をした。
これが届いたので子細に検分してみると、僕の"YOGUI"にある黄色い"vibram"の浮き彫りが、次男のそれには無い。裏を返してみれば今の"YOGUI"には"MADE IN CHINA"の刻印が淋漓とある。
「各方面とも、コストダウンには余念がねぇんだわなぁ」と考える。そして「もうしばらくしたら、今度は"MADE IN BANGLADESH"かも知れねぇわなぁ」と考える。
午前の昼ちかくに日光へ行く用事ができたため、次男を同伴する。日光市から日光市へ行くのになぜ「日光へ行く」と言うか。当方の会社は旧今市市にあり、だからここから旧日光市へ行くときには、いまだに「日光へ行く」と言うのだ。
荻窪の人が都心へ出るときには「東京へ行く」と言うと、井伏鱒二の「荻窪風土記」にはある。「日光へ行く」はまぁ、それとおなじようなものだろうか。
東武日光駅前の"Asian Kitchen"で店主や料理人たちの、ハフンハフンと空気が鼻から抜けるようなヒンドゥー語を聞きつつ「インドに行ったらメシは毎回、こんなんだぜ」と言うと次男は「良いなぁ」と、いまだ見たことのない国に想像を巡らせるような顔をした。
「良いなぁ」と感じているうちに、次男にはぜひ、インドへ行って欲しい。僕がインドでいちばん食べたかったものは「大塚のボンカレー」である。
本はほとんど"amazon"で買う。送料を含めても古書の方が安ければ、"amazon"に出品している古書店あるいは個人から買う。
「地球の歩き方」の主な購買層は、若いころにこれを携えて旅をし、今は中年またはそれ以上の年齢に達した人たちだ、ということを「地球の歩き方の歩き方」で読んで「なるほど」と得心した。若ぶるつもりはないが、お土産屋の宣伝などが載っている現在の「地球の歩き方」には、僕は違和感を禁じ得ない。
昨年は"amazon"に新品の出品がなかった、よって"lonely planet"の「タイ」は古書で買った。これが見当たらなくなって半年が経つ。買った本を紛失してまた同じ本を買うのは片腹痛い。だから僕はずっと、あれこれ調べたい気持ちを抑えて不便をかこってきた。
そうしたところ数日前になって、特徴的な青い表紙が寝室の片隅に見えたから僕は「ハッ」として思わず駆け寄った。誰かがその場所に片付けたのだろう。
"lonely planet"が「地球の歩き方」よりも劣っているのは地図が白黒というところだけで、取材者の入り込む地域の数や取材の細かさにおいては、"lonely planet"は「地球の歩き方」をはるかにしのぐ。
詳しすぎるガイドブックは却って旅の感興を殺ぐ。しかし"lonely planet"はそのあたりのさじ加減も絶妙である。実際に読んでみれば分かる。
そして僕はふたたびこの本を枕の下の床へ置く。誰かがどこかへ片付けてしまわないことを願いつつ。
きのう神保町の"Computer Lib"から本郷竜岡町の甘木庵へ戻って早寝をしたら、今朝は4時に目が覚めてた。これは僕にとっての、ほぼ最善の1日の始まりである。東京大学の銀杏の巨木から蝉の声が聞こえている。東京とはいえ朝の空気は爽やかだ。
朝飯を食べても時間に余裕があったため、北千住駅構内の"Starbucks Coffee"でアイスコーヒーを注文する。するとレジのオネーサンは僕に釣り銭を手渡しながら「このレシートをお持ちいただければ、お代わりのコーヒーが100円でお飲みいただけます」と言った。そのレシートを見れば、これを他の店舗へ持ち込んでも100円ポッキリで、その日2杯目のコーヒーが飲めるとある。
どこもかしこも値下げの世の中だ。あまり値下げが過ぎると、フェアトレードもままならなくなるのではないか。このあたりについて、読んでおいて損のない本が鶴見良行の「バナナと日本人」である。
午前に帰社すると、今月8日にアメリカの"amazon"に注文してあった、テッドネルソンの"THE HOME COMPUTER REVOLUTION"が届いていた。1978年に出たペイパーバック版だからゴキゲンだ。この本はコンピュータについて書きながら思想書のおもむきが強い。
本は身を飾る道具ではない。しかしモツ焼き屋でこれを読んでいる人間がいたら、それは僕の目から見る、最上級にかっこいいヤツだ。
夕刻にシバタヒロシさんよりチタケをいただく。チタケに茄子は付きものと、茄子までいただく。
その、チタケと茄子の炒りつけを肴に焼酎のソーダ割りを飲んでいる最中には、男体山から街までを、まるで数億台のストロボを照射したように明るくしてしまう雷が長く続いた。同時に強い驟雨もあり、急に涼しくなる。
あちらこちらのウェブショップでザックやショルダーバッグを買い、1度か2度使っただけで、あるいはまったく使わないまま社員にやってしまう、という癖を止めることができない。
店まで出かけていく時間がないからいきおい、買い物はウェブショップに頼る。ウェブショップでは商品を手に取ることができないからその質感や細部はおろか、自分のからだで実感できるサイズも不明のまま購入に至る。いざ商品が届いて「うーん、これはちょっと」と思っても時は既にして遅い。
さしたる理由もないまま返品するのは店に対して申し訳が立たない。ネットオークションに出品して売り払うのも面倒だ。そして「これはちょっと」と感じた品は即、社員用通路に掲示され、それを欲した社員の物となる。
30年以上も前に銀座の「好日山荘」で買った"Karrimor"の、何の変哲もないショルダーバッグを見せて「結局のところ、オレの1番好きなショルダーバッグはこれだよ」と言ったら「バカみたい」と家内に嗤われた。「バカみたい」ではない、正確には「バカ」である。
しかしこの"Karrimor"のショルダーバッグは長い時を経てマジックチャックは効かなくなり、またすこし重い物を入れれば昔風に細い紐が肩へ食い込む。「これに替わるものがそろそろ欲しいよなぁ」と、また悪い虫がうずく。そして"FREITAG"の"HAWAII FIVE-O"に目を着けた。失敗はできない。
僕の知る限り"FREITAG"のバッグをもっとも多く在庫しているのは銀座の「伊東屋」で、午後、その4階へおもむく。そして「"FREITAG"の"HAWAII FIVE-O"で間違いなし」の確信を得る。
ところで、いくら銀座の「伊東屋」が"FREITAG"を多く在庫しているとはいえ、トラックの幌を廃品利用した"FREITAG"の品物に、自分好みの色模様を見つけるのは難しい。"FREITAG"のバッグは、チューリッヒの本店ウェブショップに納得できる品が出るまで観察を続け、時を逃さず注文するのが1番だ。スイスのウェブショップと聞けばなにやら難しそうだが、驚くほど簡単に買い物ができる。
銀座から午後3時に神保町へ移動し、"Computer Lib"で軽い作業を行う。そのまま同所にて晩飯をご馳走になる。
明窓浄机にほど遠いのが僕の仕事環境だ。大いに反省はしていても、その反省に基づく次の行動が確定されていない。特に事務机の奥底には何が入っているやも知れず、今日はその先端つまり机の下に潜り込まなければ見えないあたりから1枚の紙が落下した。
当該の紙を床から拾い上げてみればそれは、1970年代なかばのものと思われる映画館のチラシだった。
ザラ紙にちかいガサついた2枚折りのそのチラシの表には大島渚、羽仁進、寺山修司、篠田正浩、黒木和雄の似顔絵が青を背景にして白抜きである。開いてみると最上段には「現代俊英監督11人衆 ATG独立プロ名作選 新宿紀伊國屋ホール」の文字が読めた。
"ATG"つまり「日本アートシアターギルド」の映画を、僕は主に新宿文化で観ていたような気がする。しかしこのチラシには「新宿紀伊國屋ホール」とある。ここへは僕は、つかこうへいの「熱海殺人事件」や先代林家正蔵などの出た落語の会がかかったときにしか行った記憶がない。どうもこのチラシには謎が多いが、その中ほどにある「竜馬暗殺」などは、いま上映したらヒット間違い無しではないか。
ところでこの「11人衆」のトップを飾るのは大島渚で、あのころの大島は本当に颯爽としていた。「愛のコリーダ」を撮る数年前の話である。
先月19日の夜、風呂から出ようと立ち上がったときに腰がガクガクッとした。それはぎっくり腰の前兆のようにも感じられたから翌日、家内に勧められて整体の"mana"へ行った。
「整体なんてもんは、からだを撫でさすってるだけだろう」という認識が僕には長くあり、今まで経験してこなかった。しかし"mana"のそれを受けてみて、これが、からだの不具合に対して非常に効果の高いものであることを知った。
「1ヶ月に1回くらいは来ていただいて、ほぐしていただいた方が良いですね」と、"mana"の先生はそのとき僕に言った。それで思い出したことがある。
昨年の夏の終わりに僕はタイの北の方へ行った。そこで、歳は訊いていないが恐らくは30代の前半と思われる女の人と2日間ほど行動した。行動したとはいえ夜中まで一緒にいたわけではない。それはさておきこの女の人は「1週間に1度はタイマッサージを受ける。タイ人はからだの具合が悪くなってからマッサージに行くのではなく、具合が悪くなることへの予防的措置としてマッサージを受けるのだ」という意味のことを言った。
タイマッサージの平均的な価格は2時間で200バーツ。邦貨にして600円と考えれば安いが、現地の人は給料も相対的に安い。この女の人がマッサージに費やすお金は、だから給料のうちの結構な比率を占める。「なるほど予防的措置か」と、僕は納得をした。
日曜日に腰がだるくなったとき、僕はこのタイの女の人の言ったことを思い出した。そして今日の日中に"mana"を訪ねてからだをほぐしてもらう。"mana"の先生の容赦ないツボ押しは、タイのマイペンライなマッサージよりもよほど効く。
夜、僕が書記を務める利き酒会「本酒会」の第206回目の例会に出席をするため「玄蕎麦河童」へ行く。
朝飯の画像を"twitter"へ上げ、次は夏葱の「たまり浅漬け」についてもおなじことをしようとしたら"twitpic"にエラーが出て、それがままならない。「しょうがねぇな」と"Computer Lib"のヒラダテマサヤさんにメイルを書くと「"tweetphoto"ではどうですか?」と教えてくれた。しかしこちらにもエラーが出る。そうこうするうち「たまり浅漬け」は売り切れてしまった。
「たまり浅漬け」とは毎朝、その朝ごとに最適の野菜を農協の直売所で仕入れ、朝のうちに「たまり」で浅漬けにした商品だ。これが"twitter"でしか告知していないにもかかわらず、毎日売り切れるばかりか、きのうも一昨日も売り切れた後でご来店になり「えー、売り切れちゃったのー?」というお客様がいらっしゃった。
農協の直売所へは、農家の人も趣味程度の量しか野菜を出さず、当方も朝の数十分で仕上げる少量生産であれば、そして何より味が良ければ、すぐに売り切れるのも道理だろう。
きのうは「夏葱のたまり浅漬け」が早々と売り切れ、試食はそのまま店の冷蔵庫に残った。よってその分は今朝の僕のおかずの一部になって「ラッキー」と思う。
「あぁ、これはあしたの日記に書こう」と、何かを思いつく。過去の経験から、どこかに記録しておかなければそれを忘れてしまう、ということに薄々気づいている。しかし一方では、これほど鮮明なことが脳から失せるとは考えづらい、と高を括っている。翌朝を迎えてみれば案の定、何も覚えていない。
ここ数日、ウチのまわりを歩くときのまぶしさには、目を開いていられないものがある。夏の陽光が味噌蔵や、その塀や、あるいは道路に反射する、その明るさが尋常でないのだ。
景色をそのまま見たいから南の国へ旅してもサングラスはしない。ここ数日のウチのまわりは、マルディヴの砂の道よりまぶしいのだ。
「日光市今市地区に、肝をつぶすほど大きな雷鳴あり」とつぶやいたのは2、3日前のことだった。今朝の空を見れば、梅雨は完全に明けたように思われる。
店はきのうから夏時間となり、終業時間を30分延長して6時30分まで営業している。この体制は多分、来月の22日まで続けることになるだろう。それに伴い犬走りの小さな看板も、夏のそれに付け替える。
ノレンはこれまでの茶色い木綿から白麻に替えた。「涼味在中」の四文字を考えたのは僕、墨書したのは宇都宮の器屋「たまき」のタマキヒデキさん、それをノレンにしたのは町内の「岩本染張店」である。
湯元から戦場ヶ原に至る、圧雪の硬く凍った道をトボトボ歩いているヒッチハイカーふたりをクルマに乗せたことがある。彼らはハワイの大学生だった。そして僕も学生だった。「日光は冬と夏が最高だ」と言う僕に彼らはアメリカのガイドブックを示して「日光は紅葉の秋がベストシーズンと書いてある」と言い張った。
「本に書いてあることなど信用するな」だ。「冬の雪原にテントを張って、そこで静かに酒を飲んでみろ」だ。「誰も近づかない低山の、夏草の茂った小径を辿ってみろ」だ。
夏がなければ日本の四季は真っ暗、である。
普段は腕時計をしない。電車に乗ってどこかへ行くときだけ腕時計をする。その腕時計とは電波時計だ。いまや駅の時計も、そのほとんどは電波時計だ。同じ電波時計でありながら自分のそれと駅のそれとのあいだには常に1分の差があって、そこのところがどうにも謎である。
「駅のそれと1分も差があるなら、何も電波時計なんかするこたぁねぇじゃねぇか」と言われればそのとおりだ。しかし電波時計というだけで何やら安心感がある。電波時計は海外では使えないことがままあって、そこが電波時計の、僕にとっての唯一の欠点だ。
昨年のタイ行きには30年ほど前にオフクロからもらった"OMEGA"のゼンマイ式時計を携行し、これはたびたび止まった。今年のカンボジア行きには20年ほど前に買った"MONDAINE"を持参して、これはずっと動いていた。それでもこの時計はベルトが革製だから湿熱の南国ではあれこれ神経を遣う。
そして「そういえば」と気づいたのが、これまた四半世紀ほど前に買った"HEUER"だった。これは数年前の電池交換の際に、街の時計屋"LOOKS"の社長にその不安定さを指摘されたままになっていた。よって先日これを銀座の"TUG HEUER"へ持ち込み、オーバーホールを依頼した。
そうしたところ本日、これが送り返されてきたから大体の予想はしつつ包みを開けると案の定、この機種はスイスでも部品の供給は何年も前に終了し、だから旧に復せしめることはできないとの手紙が入っていた。
僕は秋口にタイへ行く。ファイメーサイの滝壺に象もろとも転落したら、まぁ、そんなこともないだろうが、とにかく電波式ではない丈夫な時計が必要である。物欲がブツブツと音を立てて頭の中に勃興する。しかし財布はおろか預金通帳の残高さえしばしばゼロにしてしまう自分の性格を鑑みれば新しい時計は買いづらい。
"TIMEX"は安くて懐に響かないが、1990年代はじめに同じ機種2台を相次いで使ったところ、1台は当たったがもう1台は外れた。だからなじみになる気はしない。
そうしてまたまた考えて「あれを手首に巻くと、シャツの袖のボタンは閉まらねぇは、重いはでどうしようもねぇ。しかしあれしかねぇかなぁ」と、30数年前に買ったセイコーのダイバーウォッチを茶箪笥の奧から取り出す。
そしてこれを持って"LOOKS"へ行き、「電池交換してください、それから針は、日本の2時間遅れにしてください」と頼む。すると社長は僕の注文をいぶかしんでそのワケを訊いてきたから「東南アジア専用です」と、正直に答えておいた。
それはさておき修理不能の"HEUER"が戻ってきたとき、それは"LVMH"の文字のある箱に格納されていた。"TUG HEUER"も今や、あの鞄屋酒屋連合の傘下に納められてしまった、ということなのだろうか。
「はたして、つぶやきでモノは売れるか?」という実験を、きのう行った。人にモノを買っていただくことに比べれば、自分がモノを買うことはよほど簡単である。
小さなころにはいろいろな疑問があった。「生前は、どのような皮膚に覆われて、どこに目があって、どこにヒレがあって、どのような形で泳いでいたんだろう」というのが、切り身の塩鮭を食べるたびに感じた疑問だった。
ある日"twitter"上で塚本やすしという人に出くわした。この作家による「鮨になる以前の魚はどのような姿をしていたのか」という絵本を、だから僕は一も二もなく買った。
今回は絵本で済んだが、画像入りの「ブツ欲ツイート」というようなアカウントがあったら、それこそ危ない。尻のあたりがチリチリして、我慢を抑えきれないことも出てくるだろう。
"twitter"のアカウントを持っている日本の政治家は、今般の参議院選挙の期間中にツイートを中止していた。政治家はツイートを止めても一般人はつぶやき放題である。その一般人のつぶやきが多くの票の行方に影響を与えたことは想像に難くない。
一寸の虫にも五分の魂、寸鉄人を刺す、あるいは手の指1本で堤防の決壊を防いだハンス・ブリンカーの伝説。まぁ色々あるけれど、140文字のツイートが世の中を左右する、その可能性は充分にあるのだ。
店の犬走りに置く新しい花を、日光市森友地区のユミテマサミサンが持ってきてくれる。花の名を訊くとユミテさんは「ニューギニアインパチェンス」と答えた。僕は花にはひどく疎い。というか森羅万象、疎いことだらけである。
夕刻6時前に町内のシバザキトシカズさんから電話が入る。「そろそろ公民館へ酒を持ってこい」ということなのだろう。
僕は町内の会計係を務めている。日本国と同じく町内にも少子高齢化、人口減、戸数減の波が押し寄せている。戸数が減れば歳入も減り、前年と同じお金の使い方はできない。そして香典の支出は増えるばかりだ。
この2年間は祭典の費目に赤字が出ている。役員の直会を料理屋でするなどはもってのほかだ。そして今夜のそれは公民館で行うことに決まり、僕は酒の購買を任されていた。というわけで夕刻6時30分より、その直会が始まる。
まずいことに、今夜の僕にはまた「はたして、つぶやきでモノは売れるか?」という実験を仲間たちと行う義務もある。その実験とは19:00から23:59までのタイムセールだ。計算によれば、その5時間に70回のツイートをしなければならないことになっている。
それに従い、直会の席には僕の仕事用の机をひとつ確保した。タイマーで小まめに時間を計測し、あらかじめ決められたツイートをするのだ。しかし何ごとも計算どおりに運ぶものではない。
1時間に14回のツイートだけでも忙しいのに、そこへもってきて「いまテレビでニュースを見てるなう、自分に1個、取り置いて欲しいなう」というような、タイムセールというものの定義から説明しなおさなければならないコメントも入り、ひっちゃかめっちゃかである。
町内の役員たちと酒を飲み、町内の肉屋「鳥秀」が吟味してくれた何種類もの肉を焼き、夏野菜を鷲づかみにして鉄板へ載せ、おなじく町内の豆腐屋「松葉屋」の豆腐による冷や奴に薬味と醤油を振りかけながらタイマーの電子音に追いまくられて疲労困憊する。
21時30分に帰宅してシャワーを浴びたら、もうヘトヘトである。「1時間に14回のツイート」も忘れて畳の上で眠ってしまい、しかし23時16分に「売り切れ、おめでとうございます」の、仲間からのメイルの着信音に目を覚ます。
そして本日の実験の後始末をし、0時すぎに就寝する。
「これから1週間は八坂祭Weekとでも呼ぶべき日々が続く」と4日前の日記に書いた。これまで、栃木県一か関東一かは知らないが、とにかく瀧尾神社の大御輿が街へ繰り出したり、あるいは青年会の御輿や子ども御輿が町内を巡行したりすることはあったが、八坂祭の本番は、あくまでも本日のお祭りにある。
午前9時に花火が上がると、ややあって、日光市今市地区の旧市街最北端にある瀧尾神社から渡御の行列が出発をする。数百メートル先にその姿を認めると、我々は一行を迎えるためいよいよ気を引き締める。
渡御の行列は先ず春日町2丁目の会所に立ち寄り、次が我が町内の番である。オノグチショーイチ頭に先導された行列から神主、当番町の役員と頭のみが離脱し、春日町1丁目の会所に入る。ここで神主は祝詞を上げ、我々は頭を下げ、そして一行は次の町内を目指して日光街道を下っていく。
春日町1丁目が当番町のとき、僕はこの経路を事前にクルマで走ってみたことがある。するとその距離は8キロメートルに及んだ。気温によっては気分の悪くなる者も出るわけである。本日は幸い霧雨の天気で、これなら一行は大過なく神社へ戻るだろう。
夕刻に公民館へ行き、子ども御輿や屋根付き提灯を分解して倉庫へ格納する。春日町1丁目の八坂祭は、明日の直会を以て完了する。
本日は妹の祥月命日にて朝、家内と如来寺へ墓参りに行く。自分の子どもに対して僕がそれほどうるさいことを言わないのは「とにかく生きてりゃいいやな」という考えがあるからだ。
午前、妹の同級生が花を持ってオフクロを訪ねてくれる。昼時になるとオフクロは、メシをご馳走になるのだといって、どこかへ出て行った。「食事を差し上げるのは自分の方だ」といくら言っても、妹の同級生は納得してくれなかったのだという。
本日は八坂祭の中休みのような1日だったが、ひどく疲れている。よって夜は鰻を食べに出かけ、しかしいまだ仕事は残っていたから、蒲焼きにどんぴしゃり似合うカストリ焼酎「粕華」は飲まずに帰宅する。
下今市駅07:45発の上り特急スペーシアに乗る。9時すぎに秋葉原へ達する。10時すぎに池袋へ達する。11時過ぎに椎名町へ達する。その各々の場所であれやこれやする。
午後1時前に自由学園へ至る。男子部の成績報告会に参加をするため、羽仁吉一記念ホールに入る。
僕のいた1970年代にも、あるいはオヤジのいた1940年代にもそうだったのかも知れないが、この学校に通信簿はない。学期末の成績報告会では各教科の担当教師が、勉強の意味、クラス全体に対する講評、生徒各人の成績や今後の課題などを述べ、生徒や親はそれを聴く。
この成績報告会には他の学年の生徒も参加をしているから上級生の成績も下級生の成績も彼らは知っている。そこに助け合いや切磋琢磨が生じる。
次男は産業の授業では「養魚」を選んでいる。その「養魚」が育て、さばいて燻製にした品をホールの外で売っていたため、虹鱒と鮎をそれぞれ3尾ずつ買う。虹鱒と鮎はそれぞれ小さく切り整えた新聞紙にクルリを巻かれて僕に手渡された。まるで昭和30年代の焼き芋である。
その、新聞紙にジュクジュクと脂が染み出しつつある燻製はザックへ入れることもできず、花束のように手に持ったまま西武池袋線、山手線、都営三田線と乗り継いで神保町に至る。
ここでまたあれやこれやし、夜遅くに帰宅する。
夕刻、店でお得意様の相手をしているところに、青年御輿と子供御輿の町内巡行を知らせる笛の音と「わっしょい」声が聞こえてくる。神輿には賽銭を上げる必要があり、しかしお客様への対応をおろそかにすることはできない。
ようよう外へ出て、首から賽銭箱を提げているカミムラヒロシさんに賽銭を手渡す。青年会と育成会の子供たちはウチの駐車場でひとしきりお神輿を揉んだ後、短い休憩に入った。
それから1時間ほどして退出のタイムカードを打刻機へ入れる若い社員たちに「みんな、ちゃんと投票に行くのよ」と家内が声をかける。すると包装係のアキザワアツシ君が「入れたい人がいない」と言うので「そういうときには最下位になりそうな候補者に入れるんだよ。それが現職への批判票になる」と教える。
特定の候補者を、経営者から社員までがこぞって応援する会社がある。ウチはそのようなことをしない。「○○先生の演説を御社の駐車場でさせてもらいたい、ついては駐車場に社員を集めて欲しい」と言ってくる人がいる。そういうときには僕は「社員は会社に仕事をしにきている。政治家の演説を聞きに来ているのではない」と、お断りをする。「冗談じゃねぇよ」と思う。
八坂祭のあいだ、夕刻には雨の降ることが多い。雨といえば聞こえは良いが、まぁ、夕立のたぐいである。今日も青年会と育成会の面々は雨に濡れてしまった。そういう人たちの集まっている直会の席が用意されているファミリーレストラン"parrot"に、傘を差して出かける。そしてすっかりくつろいで赤ワインを飲む。
8時すぎに帰宅すると、テレビでは早くも参議院選挙の当選者速報を流していた。それを見るともなしに、しばし眠る。
これから1週間は「八坂祭Week」とでも呼ぶべき日々が続く。空は折良く晴れた。
朝9時に春日町1丁目の公民館へ行き、町内の役員たちと、ここを神社の渡御行列の立ち寄れる会所として整える。具体的には床の間に神饌のための台を設けて榊や蝋燭を配置し、玄関には屋根付きの提灯を据え付け、そして子供御輿を組み立てる。
汗まみれで帰社してふと、青年会の昼食のための漬物をタケダミッチャンの家に届けなくてはならなかったことを思い出す。取り急ぎ指定の品も持って自転車で駆けつけると、ミッチャンはちょうどウチに催促の電話を入れているところだった。
八坂祭はお中元の繁忙にぴったり重なるが、総鎮守のお祭りに氏子が協力するのは当たり前のことである。
午後3時に瀧尾神社へ出かけ、記録係として町内青年会の集合写真を撮る。僕が町内から記録係として正式に任命されたわけではないが、いつの間にか、そういうことになってしまった。境内から見上げる空には積乱雲がいくつも重なり、直近の天候さえ予想できない。
ふたたび帰社して仕事に忙しくするうち、やがて午後4時30分に大御輿宮出しの花火が上がる。しばらくすると警官の鋭い笛の音が聞こえて外へ出る。大御輿は日光街道の、瀧尾神社と追分地蔵尊のあいだを巡行する。その大御輿が春日町の交差点を通過していく。カメラを構えても人混みに圧され、どのような写真が撮れたか確認することもできない。
それから90分後、大御輿は先ほど下った日光街道を、今度は遡上してウチの駐車場で一休みをする。折からの驟雨により、担ぎ手たちの半纏は各々の肌に張り付いたままだ。
そして一行が最後の行程に出かけていくころ僕は、すべての社員の帰宅した社内に戻り、本日の仕事の進捗具合を見てまわる。
八坂祭は、いまだ始まったばかりだ。
長男が中学1年生のころ「カモメのジョナサン」を読んでいたら「ウワサワ、やはり原書だよ」と、英語のアカギヒデヤ先生が"Jonathan Livingston Seagull"を貸してくださったという。
アカギ先生はそれから間もなくお亡くなりになり、長男は多分、その本を返していない。「借りたものを返さないのは人でなしだ」と教え諭すのが教育なのか「今となっちゃ形見だな、有り難てぇ」で済ませてもこの場合は許されるのか、そのあたりが僕には分からない。
Ted Nelsonによる"Home Computer Revolution"は日本語で読んだ。翻訳本は増刷されることなしに絶版となった希少なもので、読み終えると同時に持ち主へ返した。それから十数年を歴たきのう、このペイパーックがアメリカの"amazon"に出ていると"twitter"で報せてくれた人があり、よって即、これを注文した。
そうしたところ今朝の8時には"Your order is being shipped and cannot be changed by you or by our customer service department"というメイルが入り、代金は"Item Subtotal:$44.00/Shipping and handling:$8.98/Total:$52.98 (JPY 4,803)"とのことだった。
"Jonathan Livingston Seagull"と"Home Computer Revolution"の並んでいる本棚を早く見てみたい。届くのが楽しみである。
きのう逗子から乗ったのはJR横須賀線の17:43発「成田空港/成東行き」だった。頻繁に乗り換えるのも面倒と、"iPhone"の乗り換え案内は調べないままコンピュータを開いて日記を書いていた。
列車が新橋に近づいたところで「どうしようかな」と考えたが降りなかった。東京駅から山手線に乗って神田が近づいたときに、またまた「どうしようかな」と考えた。新橋と神田を目前にして「どうしようかな」と考えたのは「浅草へ直行するなら降りた方が良いぞ」ということだ。
東武日光線下り特急スペーシアの始発駅である浅草へ出れば乗り換えも簡単、時間の使い方としても合理的なのに北千住を目指したのは、そのとき行きたい飲み屋が浅草になかったからだ。
秋葉原で日比谷線に乗り換え、北千住に達したのが19:10。下り特急スペーシアの発車時刻は19:12、20:12、21:12で、とすれば実質的な次の下りは20:12発だ。この切符を買えば飲酒時間は諸々考えて40分。最終の21:12発を選べば更に60分の余裕ができるが、100分間の飲酒とはいかにも長い。そして数秒のあいだ考えて20:12発の切符を買った。
結論から言えば、椅子に座って飲む店の40分は非常に短い。「加賀屋北千住店」のチューハイはナカとソトが別々に出てくる。ソト×1に対しての僕の配合比はナカ×4だ。平均すれば10分間でナカ×1を飲みつつ肴も食べる、これは忙しい。
「オニーチャン、そのシロタレ、もうすぐ上がるかな、オレ、8時には出なきゃいけねぇんだよ」
「あーしたっ、頑張ります」
左の耳たぶに100円玉ほどの穴を開けた、愛想の良い焼き場担当の仕上げてくれた本日4本目から6本目のシロタレは、丸飲み込みをする必要があった。「加賀屋北千住店」のシロはほとんどテッポーで、噛まずに食うのは惜しいが仕方がない。
そして「次はもうちょっと時間をかけて飲もう、スパサラも食いてぇしよ」と考える。
早々とひとり寝るとき、冷房は体に悪かろうと、これを停めた。そしてその代わりに窓を開けた。夜気が気持ち良かった。それからどれほどの時間が経ったかは知らない、全身のかゆさに目を覚ます。耳のちかくには複数の蚊が飛び交っている。
いまだ盛んに意見を交わしつつ勉強をしているのだろう、階下からは賑やかな人の声が聞こえてくる。どのような蚊に刺されたのか、皮膚の一枚内側がひどく痒い。生身でありながら隔靴掻痒の苦しみである。
輾転反側するうち深夜の勉強に疲れた人たちが部屋へ戻ってくる、酒に酔った人が着の身着のまま布団に倒れ込む。そういう様子を夢うつつに見ながらふたたび寝入り、朝の4時すぎに起床する。シャワーを浴びてからコンピュータを持って階下へ降り、きのうの日記を書いたり、あるいはツイッター活動をする。
朝9時30分より西順一郎先生の"strategy accounting"の講義が始まる。そしてその講義の内容を活かしての、第4期の経営計画を全員が立てる。機首にコンピュータを買えば資金がショートする僕は、わずかに残った借り入れ可能枠から僅々20円を手当てする。
「所詮はシミュレーションでしょ?」とマネジメントゲームについて言う人は、想像力が欠けている。マネジメントゲームはその都度、様々な示唆に富む演習だ。僕はこの第4期を黒字で乗り切り、戦略チップを繰り越して第5期を目指す。
マネジメントゲームは美味しい研修だから、詳しいことは勿体なくてここには書けない。とにかく僕は第5期においては自己資本を期初の1.3倍に伸ばして期末を迎えた。
マネジメントゲームに勝ち負けはない。しかしいかにもゲームらしく、客観的数字に基づいた表彰はある。今回の最優秀経営者賞は第5期到達自己資本636円のイチカワアイさんに、優秀経営者賞は同じく603円のハマダユカリさんに、また573円のサトーマサヒデさんに与えられた。
マネジメントゲームの2日目は通常、夕刻4時30分ころからの、西順一郎先生の講義で締められる。しかし今日は僕が指名を受け、ちょっとした話をさせていただく。そして原稿用紙2枚分ほどの感想文を書いて今回の研修を終える。
雨上がりの屈曲した道を主催者側のクルマで逗子まで送っていただく。東京、秋葉原と乗り換えて7時10分に北千住に達する。ここで少々のカウンター活動をし、10時前に帰宅する。
気づくとベッドの掛け布団の上に素っ裸で寝ている。部屋は煌々として明るい。体をひねってヘッドボードの時計を見ると午前3時だった。きのう怪談噺などに熱中して、焼酎の能率の上がりすぎたためだろう。
新橋駅で8時前の下り東海道線に乗る。ほぼ1時間後に逗子に着く。そのまま「LR小川会計」オイカワさんのクルマで「葉山研修センター」まで送っていただく。
むかし「湘南MG」という研修が藤沢で行われていた。ある特定の場所に考えを同じくする人たちがたまたま存在すると、そこに良い集まりが発生する。「湘南MG」も、そのような僥倖に恵まれて始まったもので、僕はここを気に入って何度か通った。
その「湘南MG」があるときなにかの理由から休止され、しかし8年後に「LR小川会計」により葉山で復活した。7月上旬といえば夏のギフトの最盛期ではあるが、以降、僕は無理をしてこの葉山の勉強会に通っている。
マネジメントゲームは参加者ひとりひとりが会社を持ち、5、6人で構成される市場で入札にしのぎを削る。市場は個々の売上金額により決定され、その市場を渡り歩きながらりながら2日間に5期分の経営を盤上に展開する。
第1期はルール説明を含めた演習、第2期からは本格のゲームに入る。経験を重ねても犯してしまうミスに反省しながら2期を終え、名人上手が「もっとも痛い」という「長期労務紛争」の札を引きながら第3期は黒字の決算をする。夜の講義はテシマヨーちゃんによる「在庫について」だった。ヨーちゃんは来月1日にシンガポールへ赴任する。
部屋を移しての交流会では、アルコール入りとばかり思って飲んでいた缶入りのカクテルがただのジュースと分かり、それを幸いとして今日を断酒日としてしまう。交流会とはいえサトーマサヒデさんの「現在のコンピュータ世界」という講義付きである。
夜9時をすぎても勉強は終わらない。今度は別の勉強会が宿泊部屋のひとつを使って始まり、そちらにも数十人が集まったようだが、僕は自分の宿泊部屋へ戻り、早々と寝ることにする。
伸びる組織は自らに加重な負担のかかった状態で見切り発車をする。見切り発車をしておいて、何とか目的を果たすべく、あるいは何とか目標を達成すべく血の小便を垂らす。
ゆうパックとペリカン便の配送業務一体化も、伸びる組織にありがちな見切り発車をした。そしてその結果が遅配数十万個という現在のありさまだ。
「なにも7月の1日にシステムを統合することたぁねぇじゃねぇか」と考える僕のような人間に、組織を大きく伸ばすことはできない。
7月1日は、お中元の商品が最も数多く流通する日である。営業所の冷蔵庫に入りきらず、夏の常温に放置されている生鮮食料品も、かなりの数に上るのではないか。
リスクを取らねば組織は成長せず、しかしリスクはやはり、リスクである。
夕刻より新橋の街へ出ていく。そして路地裏の店で仲間たちと酒飲みをする。1軒目の宴が果てかけたところで「オレはそろそろ帰る」と言うと「まだ8時ですよ」とイチカワアイさんが自分の腕時計を僕の目に近づける。よって二次会まではおつきあいをする。
エンジンを本来の性能以上に回そうとすると、その回転数にタペットの開閉能力が及ばず、結局のところ文字通りの空回りになったりする。
今月の1日からガツンと忙しくなった。朝から夕方までのあいだには必ず、自分の能力を超える量の仕事の入って来る一時がある。ときには脳が空回りして、しかしとにかく激しく回っていることだけは確からしく、酸素欠乏を起こしたりする。
「忙しい」という言葉を発すると「この不景気のご時世に結構なことですね」などと揶揄でもないだろうが、あるいはお世辞でもないだろうが、言われることがある。しかし「忙しい」と「儲かる」が等号で結ばれるわけではない。
昨年並みの利益を確保しようとして昨年より忙しくなる、昨年より忙しくしても売上金額は対前年度比で落ちる、そういうこともあるのだ。商売をしている人なら分かるだろう。
そして夜にグラス2杯の白ワインを飲む。
夜が明けると同時に色々の鳥が啼きはじめる。しかしそれは晴れや曇りの日に限ってのことで、雨が降っていれば鳥たちは静かだ。餌を集めるなどの活動はしていても静かなのか、あるいは巣にじっとして動かないから静かなのか、そのあたりについては知らない。
今朝は雨ではないが、男体や女峰の山々は薄墨をひと刷毛したように淡い。それでも朝4時のころから明るいとは、何とも有り難い。「早く夏にならないかな」と思う。
夜になって、薄闇の中に耳を澄ますと、しかしこの季節に蛙の声は聞こえず、虫たちは無論いまだ鳴かず、雨の朝のように静かだ。そして横になって、長々と手足を伸ばす。
「夜の銀座のクラブより、朝のトマトジュースの方がいいや」と、紀伊国屋の田辺茂一の言ったところで「お酒を飲んだ翌朝は、カゴメトマトジュース」という女声コーラスの流れるテレビコマーシャルがあった。多分、1974年ころのことだ。
朝に冷や奴を食べると僕はかならず、あのときの田辺茂一の顔を思い出す。冷や奴は酒の肴にするより朝のメシのおかずにする方が断然、美味い。
そもそも僕は飲み屋で冷や奴を頼まない。豆腐を切って薬味を散らしただけのものにお金を出す気がしないからだ。と、ここまで書いて、しかし冷やしトマトについては随分と飲み屋で注文する、冷やしトマトは冷や奴よりも料理としての手のかけ方は少ない。
何が言いたいか。まぁ、だから冷や奴は朝に食べた方が美味いよ、ということだ。
"iPhone"をヴァージョンアップして"SkyBook"をダウンロードした。"SkyBook"とは青空文庫が提供する、基本的には著作権の消滅した作家というか何というか、とにかくそういう人たち513名による7,669作品のすべてを読むことができて、料金は230円ポッキリなのだから安い。
著作権の消滅している作家とはすなわち渋いラインナップで、たとえば「か行」から拾い上げただけでも川上眉山、北村透谷、陸羯南、黒岩涙香、小島烏水と続いて、マニアにはさぞかし堪えられないことだろう。そこには小村雪岱の名もあって、「へぇ、あの画家がどんな文章を書いたんだろう」と先へ進めば「泉鏡花先生のこと」という文字が見えてワクワクする。
もっとも僕は小村雪岱による「泉鏡花先生のこと」を発見してワクワクはするが、それを"iPhone"で読もうとはしない。僕は本は飲み屋で飲む。飲み屋では指がモツ焼きのタレで汚れたり、キンミヤ焼酎のソーダ割りの入ったグラスを酔ってカウンターにブチ倒したりする。チューハイを浴びれば"iPhone"などひとたまりもない。
問題は、小村雪岱の「泉鏡花先生のこと」が紙の本で手に入るかどうか、だ。多分、無理だろう。