おじいちゃんはいわゆる先進国へはほとんど旅行をしなかった。一時はアフリカ大陸に傾倒して、その方面へ行くことを繰り返した。いまだ一般の日本人がオクラなど知らないころにこの種を持ち帰り、日光市森友地区のユミテマサミさんがこれを畑に蒔いたところ、夏の暑さにみるみる巨大化した、という話を聞いたことがある。
冬は葉物が美味い。夏は生り物が美味い。神保町の「家康本陣」では今ごろズッキーニの串焼きを出しているだろう。そんなことを考えながら、今朝はズッキーニの味噌汁を飲む。
梅雨どきとはいえ東京にはもう8日も雨が降っていないという。日光でも気温はうなぎ登りとなり、僕は午前のうちから事務机でアイスクリームを食べる。
湿度が低く社内が清潔に保たれる点から空梅雨はありがたい。米は問題なく育つだろうか。今年の秋の果物は、例年以上に多く糖を含むかも知れない。
7月1日は夏のギフトの天王山とも言える日だ。今年はこともあろうにこの日が日曜日に当たる。平日であれば最大で5人を荷造りに投入できる。しかし日曜日には当番ひとりがいるのみだ。よって荷造りの第一の山へ向けての段取りを、本日の朝より始める。
予備機の用意は万端だから「それが動かなければただちに困る」ということはないものの、製造部門の揚水ポンプに、1本のボルトがねじ穴の奥で折れて部品の交換のできないものがある。よって本業は自動車の修復ではあるが「EBエンヂニアリング」のタシロジュンイチさんに助けを求め、ほんの少々の時間で治してもらう。
午後に自社ショップとYahoo!ショッピングの双方よりメールマガジンを発行しようとして、それが電話や来客に阻まれ、なかなか果たせない。「この手の仕事はやっぱり明け方にすべきだわなぁ」と、改めて認識をする。
早寝早起きをしようと考えつつ、夕食の後にはつい居間のソファでうたた寝をし、それが長時間に及んでしまうことがままある。せめてこれくらいのことについては、みずからを律していきたい。
「ソフトバンクの決済カードを調べる」という、6月28日にすべき"to do"が、コンピュータのスケデュール管理に現れ、それを僕の目が読んでいる。読んではいても、それはおばあちゃんが亡くなる前に入力したもので、今日はその"to do"をしている時間がない。
僕のクレジットカードは、ほとんどウェブショッピングにしか使わない。「貯まったポイントはamazonで使えます」という売り文句を見て取得したカードは、1年後にはamazonとの提携を打ち切り、今年の夏以降は会費を取ると通告してきたから解約をした。
「iPhoneの使用料は、このカードから支払われていたのではなかったか」ということに、しばらく前に気づいた。とすれば、新たに作った楽天カードから引き落とされるよう変更しなくてはならない。「来週になれば、いくらか時間もできるだろうか」と考え「しかし来週はもう、夏のギフトの最盛期だわな」というようなことも頭をよぎる。
終業後、iPhoneからSkypeを使ってバンコクに住むコモトリケー君に電話をする。夏の終わりにウボンラチャタニーへ行く、その寝台車の切符を予約してくれるよう、コモトリ君にはメールで頼んであった。
「ソンクラーンなど人が大量に移動する時期でもなければ、イサーン行きの寝台車など当日でも空いている」というのがタイ人の共通認識ではあるらしい。事実、タイでは1990年代から既にして、長距離移動の手段としては鉄道よりもバスの方が「速い、安い、清潔」とう理由から利用者には支持されている。しかし僕からすればバスは飛行機に次いで「閉じ込められっぱなし」の乗り物である。本を読むには適していても、人も含めた外部環境との触れ合いは少ない。
「とはいえ駅にはそのうち行ってみるよ」とコモトリ君は確約してくれた。海外で鉄道を利用するのは1982年の、マドラスからヴァラナシまでの二等自由席以来のことだ。今から楽しみでならない。
オヤジの葬式のとき、もっとも気ぜわしく感じたのは「弔電を読む順番を決めてくれ」と、ホールの人に言われたときだった。今回も、政治家からのそれをどう並べるべきか見当もつかず、だから叔母の、市役所に長く勤めた夫に丸投げをしたら「これ、これ、これ。これがこうきて、これ」と、数秒で完了した。
その「これ、これ、これ。これがこうきて、これ」は無論、個人の贔屓に傾いたものではなく、客観的なソート方法に拠るらしい。正に「餅屋は餅屋」である。
江戸時代には本陣も兼ねた如来寺を訪ね、今回の通夜告別式におけるお布施その他を置く。掃き清められた境内の砂が、真昼の陽を受けて白く光っている。
自身が施主を務める法事のため、家内は東京へ行った。僕も参列するはずだったその席には、代わりに長男が同行してくれている。ここしばらくは綱渡りの毎日だった。
東京のギフトシーズンは間近に迫っている。気を引き締めていこうと思う。
きのうの夜は霧雨が降って、会葬の方々には少なからずご迷惑をおかけした。本日は梅雨のはざまに見事にはまり、空は早朝から晴れ上がった。"Alden"の靴紐をきつく締めて、おばあちゃんの告別式に臨む。
三姉妹の次女だったおばあちゃんの、姉は大学の教授で、妹は女医だった。そういう姉妹だったからおばあちゃんも当然、明敏な少女だったと、昔を知る人は言う。僕はその優秀さに何とかあやかりたいと、見舞いの際にはどさくさに紛れ、おばあちゃんの耳に自分の唇をわざとくっつけて話しをしたりした。
おばあちゃんの骨壺を膝に載せて斎場からお墓へ向かう途中、長男は骨壺のフタを開け、中の骨をひとつまみして、これまたあやかりたいと、自分の額にそれを擦り込んだという。聖体拝領の、これは形を変えたものかも知れない。
如来寺のクワカドシューコー住職が経を読む中、須藤石材の、ウチの半纏を着たオヤジさんが納骨をする。これにて、日露戦争終結の5年後に産まれ、21世紀の12年目までを生きながらえた、102歳のおばあちゃんの葬儀は無事に完了した。
そして夕刻に帰社して仕事に復帰する。
菊屋ホールの通夜室にて目を覚ます。オヤジの亡くなった7年前の通夜室には普通の線香しかなく、よって初日の夜は香を絶やさないよう15分おきに目を覚ますことを延々と繰り返したから神経が楽でなかった。そして2日目に税理士のスズキトール先生が届けてくれた、太く長い線香によりようやくひと息をつくことができた。
そのような経験により今回は長く保つ線香を所望したところ、通夜室には初めから渦巻き型のそれが用意してあったから大いに楽だった。
きのう「花一」のヤマサキジュンイチさんたちが、叔母の希望により白い花で飾ってくれた祭壇を、いまだあたりの薄暗いころより式場の灯りを点けて眺める。焼香台にはおなじく白い花による小さな生け花も置かれ、ヤマサキさんの心遣いが感じられた。
小切手を切るなどの仕事をするため、朝のうちに会社に戻る。しかしおばあちゃんの寝かせてある部屋にはいつ弔問客があるやも知れず、会社とホールをたびたび往復する。
16時30分に納棺。そのころ、葬儀を手伝ってくれる組内の人たちが来てくれる。100歳を超えると国と県と市の各首長から祝詞が届く。それらと共におばあちゃんの子供のころから晩年に至るまでの写真を飾ったロビーに、17時を過ぎたころより会葬者への挨拶のために立つ。
通夜はお膳の席も含めて20時すぎには無事に完了した。通夜室の留守番を叔母の家族に頼み、帰宅して入浴をする。そして再び通夜室に戻り、きのうに引き続き長男、次男との3人で泊まる。
夜の明ける3時台に目を覚まし、鳥の声に耳を澄ます。このところの朝はいつも、梅雨時とは思えないほどの爽やかさだ。部屋の中が暗いうちからあれやこれやし、日が上ったころに洗面所の窓を開けて北北西の空と山を観る。
日曜日には、通常であれば店舗の販売を応援する。しかし今日は僕にとっては通常の日曜日ではない。明日の通夜、あさっての告別式に向けての準備をしながら、店の用事は釣り銭の補給程度に留める。
今週は台風による閑散日が火曜と水曜にあった。それにもかかわらず週間の売上高は昨年のそれを超えた。「おばあちゃんが助けてくれたんじゃねぇか」というようなことを考えながら事務室に鍵をかける。
夜は菊屋ホールの、おばちゃんの寝かせてある通夜室に、長男、次男との3人で泊まる。
夏至というものは、夏好き、早寝早起きの僕にとっては1年の中のひとつの頂点である。だからこの日が梅雨のあいだに過ぎてしまうことについては残念な気持ちがある。勝手な希望を言わせてもらえるなら、夏至は夏が衰えはじめる直前の、8月なかばにあって欲しい。
勤務先から午前に帰宅し、家内と共に森病院の、おばあちゃんの病室に詰めていた長男から「おばあちゃんの息が途切れがちになってきた」と連絡がある。よっておばあちゃんの娘つまり僕の叔母には僕からそのことを伝える。
おばあちゃんはその娘と僕も含めた4人に看取られ、12時42分に眠るように息を引き取った。それから数時間は、喪主としての務めに追われる。
次男が学校の寮から夕刻に帰宅をする。「腹が減っては戦が」ということが頭に浮かんだかどうかは覚えていないが皆で焼肉を食べ、早々に寝る。
始業前に「JAかみつが」の直売所へ行くと、ウチの店に飾る花を頼んでいるユミテマサミサンがいた。ユミテさんの収めた胡瓜を「たまり浅漬け」用として買い物カゴに入れると「これ、見た目は悪いけど、わざっと水を足んなくさせて育てたから甘いんさ」と、既に値札を貼ったトマトの袋をもらってしまった。
夏も盛りになったら「キンミヤ」の焼酎とソーダを買い、ユミテさんのトマトを肴にチューハイを飲もうか、というようなことを考える。
叔母に乞われて夕刻に、おばあちゃんが子供の頃の写真を引き延ばすため「かみじょうカメラ」へ行く。おばあちゃんの生年は明治43年。写真のおばあちゃんは5歳から7歳くらいには見える。とすればこれは大正の初めに撮られたものだろう。
ユミテマサミさんのトマトは夜に、スパゲティに乗って出てきた。そのトマトには塩を振り、白ワインの肴にする。
夏至の朝は、今が梅雨の最中であることを思い出させる雲の多さだ。しかし幸いにも、山の稜線は明らかである。
嵐山光三郎の文章、文体に僕は馴染めなかった。よってたまたま手にした週刊誌に彼の連載があっても読むことはしなかった。しかしあるとき駄目で元々と「文人暴食」と「文人悪食」の2冊を買って読み、ようやく、この作家が非常な手練れの文章家であることを知った。
暴食といえば、シンガーポールではカロリーの高いものを暴食したわけでもないのに、日本に帰ってみれば、普段は62、3キロの体重が65キロになっていた。「だから」というわけでもないが「脂肪燃焼スープ」と検索エンジンに入れればすぐにレシピの見つかるスープを朝に続いて昼も飲む、というか食べる。
「脂肪燃焼スープ」と聞くといかにも不味そうに感じられるが実は美味い。実は美味いけれども、しかし仕事の合間などに店舗の駐車場に出ると、風向きによっては鰻の「魚登久」から蒲焼きの匂いが届く。
そういう次第にて夜は「脂肪燃焼スープ」を避けて「魚登久」へ行く。そしてプリプリの胆焼きやフワフワの蒲焼きを肴に生の焼酎を飲む。
朝の雲はいっときもじっとしていない。西北西の窓からは、旧日光街道の杉並木の右手はるか遠方に、霧降高原の「大江戸温泉物語」が見えている。しかし日光連山の大部分は雲の中に隠れている。大人のツバメは滑空が上手い。飛ぶことを覚えたばかりの子供ツバメはそれができず、いまだ柔らかい羽を必死に動かしながら空に浮かんでいる。
所用にて日光市瀬尾地区の「いちもとサイクル」を訪ねる。その修理部には数百本のヴィデオ、その10倍はありそうな骨董品というかガラクタが、鬱蒼とした森のようにしてある。昨年3.11の大地震のときにさえ、それらの中で床に落下するものは皆無だったという。この部屋では、実はすべての物がパズルのように堅固に巧妙に、あるべき場所に収められているのかも知れない。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」に参加をするため、19時すぎに「玄蕎麦河童」へ行く。暑くもなく、もちろん寒くもない。
朝のうちは南方海上にあった台風が、いつの間にか九州南部、四国南部を通過して紀伊半島の南端まで達している。日光は災害の少ないところだ。しかし午後も後半に入れば雨脚は流石に強くなる。
twitterやFacebookを見ると、豪雨の地域からはいまだ遠い首都圏においても「仕事を終えたら早々に帰れ」とか「仕事の時間を短縮してでも早く帰れ」というようなツイートやコメントが目立つ。
現在の勤務先で中国に駐在している長男が夕刻に帰宅をする。閉店後に事務室から居間へ館内電話を入れ、晩飯は和風のものになりそうだけれども酒は何を飲むかと訊くと日本酒が良いと言う。よって事務室のちかくにある冷蔵庫から1升瓶1本を選ぶ。
いつ、どこで、誰によって作られたものものかは知らないが、勝手な想像を巡らせてみれば、敦煌の更に西の砂漠から発掘されたような薄緑の器にその冷たい日本酒を満たし、幾杯かを飲む。
朝も4時がちかくなると、窓の外がほの青くなってくる。それと同時に起床してしまえば、朝飯までには無限の、というわけにはいかないが、2時間以上は確保できる。その時間を何に使うか、というところが問題である。
当方はブラウジングかFacebook活動、あるいは現代における黄表紙のようなものを読むばかりだから、そう大したものでもない。西北西の山からは、涼しく乾いた風が吹きつけている。
夏休みに次男とする旅行については随分と以前から、専用のノートにスケデュールを記入してある。それを見ながらインターネット経由でホテルの予約をする。そして確認のため航空券を取り出し眺めて、何となく違和感を覚える。
ノートの日付と航空券の日付、そして壁のカレンダーを交互に見比べるうち、ノートに手書きした日付に誤りのあったことに気づく。よってホテルの予約完了メールのURLからブラウザを開き「日程変更」のリンクをクリックすると「変更やキャンセルの効かない予約として確定済みです」というような意味の文字が現れる。
しかし万事休す、というほどのことではない。損をしても1泊分くらいのところだ。そしてこの1泊分の料金を他のサービスに振り替えるべく、現地では交渉するつもりである。「イサーンじゃぁ英語もタイ語も通じねぇぞ」などと脅かされているが、まぁ、何とかなるだろう。
今の時期なら、朝4時代から仏壇にお茶や水や花を上げても、あたりは充分に明るいから違和感はない。起床して10分以内に仏壇に線香を上げることができるかどうかを、今朝は試してみた。結果から言えば、やはり15分は必要なことが分かった。
起きてすぐに洗面をし、それから服を着る。そうすると「ズボンのチャックを上げたり靴下を履いたりした手で仏壇のことをして良いのか」という疑問が発生し、先ほど顔を洗ったばかりの手を洗うため、ふたたび洗面所へ行く。
お茶については、人間が飲むわけではないとしても、お湯はその温度を充分に下げてから急須に注ぐ。温度の低いお湯で茶葉を開かせようとすれば、それなりの時間がかかる。
そんなことをするうち、今朝は15分が経ってしまった。顔を洗うより先に服を着れば、少なくとも手を2度洗う手間だけは省けるだろう。そしてその段取りを明日の朝も僕が覚えているかどうかについては疑わしい。
梅雨、とひとくくりにはできない。弱い雨の降り続くこともあれば、降ったり晴れたりを繰り返すこともある。今日は梅雨の最中とは信じられないような入道雲が、南東の青い空に湧き上がった。そしてこればかりは梅雨の最中らしく、夕立は来なかった。
いまだ明け方からいくらも経たないころ、窓のちかくに寄って
を読む。その65ページに
「写真家・藤原新也のように『世界でいちばんうまいのはタイ料理だろう』と言明する人も少なくない」
という一節がある。僕は藤原新也のような「言明」をすることはできない。世界中の、それも最高から最低に至るすべてのメシを食べたわけではないからだ。
それでも昨夏バンコクで「君は春にはヴェトナムへ行ったそうだが、ヴェトナムとタイとでは、どちらが気に入ったかね」という、僕の同級生コモトリケー君の問いに対して「ヴェトナムよりタイの方が、食べ物が断然、美味い点において好きだ」という意味の返事を次男はした。しかしこれは正確には「ヴェトナムのメシよりタイのメシの方が断然、自分の好みに合った」ということなのではないか。
日本人の舌からすれば、タイのメシよりヴェトナムのそれの方が遙かに食べやすいと僕は思う。タイのメシはことによると、タイのユルい空気と相まって、その美味さを増幅させるのかも知れない。
夜になって春日町1丁目の公民館へ行く。そして町内役員、婦人会、青年会、育成会が互いを横断しながら夏のお祭りについての詳細を詰める。
それを目にするたび「抜かなくちゃなぁ」と考えていた、国道121号線沿いの雑草を今朝、遂にスコップで根こそぎ掘り出す。ついでにその周辺の雑草も、根の周辺の土もろともアスファルトの表面から引きはがす。それらはちりとりに収まる量ではない。用意したビニール袋に収め、国道を隔てた店の、ゴミの一時保管場所に置く。
雑草取りをするたび僕は「選別と削除」というようなことを考える。ある日いきなり強大な存在が現れて人間を二者択一し、不要な一方を世の中から削除する。そんなことを子供のころに妄想した人は僕以外にもいるだろうか。
所用にて昼すぎに飯田橋へ行く。このあたりにはむかし印刷屋と製本屋が多かった。目的のビルを探して歩くうち、駅からほどちかい裏通りで製本屋に行き当たる。
「職人ひとりに馬鹿八人」という言葉を1980年代のはじめごろに知った。職人の、普段は見ることのできない仕事ぶりは珍しく面白い。
吸盤や金属製の腕が規則的に動いて紙を重ねていく、その様子を僕もしばらくは見ていたかった。しかし製本屋の裏口に立ち、口をあんぐり開いて立ち尽くすことの許される時代ではない。あるいは許されても与太郎と間違えられる。
よって大いに興味を惹かれるその景色は横目でチラリと見るに留め、目的の場所へ向かって歩いて行く。
マリーナベイサンズ屋上のプールで午後の3時間ほどを仰向けになり、本を読んでいたら手ひどく日焼けをした。カレンダーを見てみれば、それはちょうど1週間前のことだった。
おととい"ComputerLib"の窓際で作業をしていると、胸や腹の日焼け部分から剥離した薄皮があたりをフワフワと浮遊していることに気づいた。よって外へ出て胸や腹を両手で激しくこすったところ、Tシャツの裾から地面に向けて大量の皮膚が落ちていった。その日がいわゆる「皮向けのピーク」だったのだろう、翌日からの「皮向け」はほとんど無くなった。
皮の分だけからだは軽くなりそうなものだが本日、風呂の脱衣所の秤に乗ると、体重が2キロも増えている。シンガーポールで栄養価の高いものを暴食し、ヒマさえあれば寝ていた、ということは断じてない。現地では湿熱の湿地保護区を何キロも、テシマヨーちゃんと歩いたりしていたのだ。
どこでどうして太ったかは知らないが、どこかで絞らなくてはならないだろう。
東京大学の龍岡門を背に春日通りに近づいていくと、きのうの夜は酔いのため気づかなかったものと思われるが「関電工湯島ビル本館」が綺麗に消え失せている。「あれー」と思いながらポッカリと空いた空間と、その向こうの白い空を見る。
本日も朝一番で"ComputerLib"へ行く。きのうはFacebookページのデザインをすっきりさせた。今日はウェブショップで、顧客が商品をカゴに入れてから購入ボタンをクリックするまでの、すべてのページに存在する表を簡素化する。
Facebookのデザイン調整と同じく、今日の作業結果についても、変化に気づく顧客はほとんど皆無だろう。しかし悪い結果に繋がることはないと確信している。
僕の普段使いのカメラは"RICOH CX4"だ。シンガポールへ出発する直前のこと、このカメラで食べ物を接写していて、レンズ面を食べ物に接触させてしまった。そうしたところレンズを覆う、正式にはレンズバリアと呼ぶらしい扇子状の幕の開閉が渋くなった。
そういう次第にて仕事の合間に銀座へ行く。そしてリコーのサービスセンターに" CX4"を持ち込む。結局のところレンズバリアはユニットで交換をされた。修理代は顧客サービスということもあるのだろう、随分と値引きをされて1,050円で済んだ。
仕事上がりの夕刻に、飲みに行きたい店を問うと"ComputerLib"の若い人はほぼ決まって「徳萬殿ですかね」と答える。夏至を8日後にひかえた今日あたりは、飲み始めてしばらくしても外はいまだ明るい。入っていた「眞露」はすぐに飲み干し、次の「眞露」をまたまたボトルで注文する。
北千住発の下り最終スペーシアに乗る。そして23時前に帰宅する。
Facebookページの細部などいじっても気づく人は少ないだろう。まして売上げへの影響などあるわけはない。しかし気になるところは納得のいくまで整えたい。そういう次第にて朝一番より"ComputerLib"に詰め、僕にはできない仕事をヒラダテマサヤさんにしてもらう。
この作業に付随して必要が生じ、googleにログインをする。その流れから久しぶりにg-mailを開く。海外で仕事についてのやりとりをするとき以外は使わないg-mailには、海外に住む友人から数ヶ月も前に送られたメイルが複数あった。これから詫びの返信をしなければならない。
夕刻は6時ちかくまでコンピュータに向かう。傘を差して外へ出る。新橋で地下鉄を降りてまたまた傘を差す。そして馴染みの鮨屋に入る。小ぶりの鮨をパッと口に運んでは咀嚼し、夏の酒を冷やで飲む。
雨を避けるため、銀座の西側にある、薬研状の半地下道を歩いて5丁目に至る。そして丸ノ内線に乗って22時前に甘木庵に戻る。
きのうの睡眠は3時間ほどだった。帰社して遅い昼食を摂り、午後一番から仕事を始めることができたのは、今般のシンガポール旅行がそれほど厳しいものではなかったからに相違ない。旅行中のスケデュールはバクバクに空けておくのが好きだ。
今朝、ご近所から花をいただく。自宅の庭に咲いたものだという。花を丹精する趣味を僕は持たないから「凄いなぁ、大したものだなぁ」と、その色とりどりのバラを見て素直に思う。
関東地方が梅雨入りしたことは、シンガポールにいるあいだに知った。その頭できのう成田空港に着いてみれば、しかし頭上には青空があった。その余勢を駆ったわけでもないだろうが、今日の天気もまずまずだ。そして有り難いことに店は忙しかった。
今夜のスープはカロリーが抑えてあるという。「じゃぁ、コテコテのバターライス、作って」と家内に頼み、それを白ワインの肴にする。
"SQ638"は定刻の23:55に30分遅れ、シンガポール時間00:26、日本時間01:26にチャンギ空港を離陸した。早寝早起きの僕が今夜に限ってはなかなか眠気を催さない。飛行機の中ではアルコール分を摂らないようにしているが、今回だけはリフレッシュメントが配られた機会に白ワインを注文する。
シンガポール時間の午前3時ちかくまで機内の週刊誌を読む。ようやく寝入って2時間後に配膳の音で目を覚ます。右の窓からは既に朝日がまぶしく差し込んでいる。
日本列島の南縁に添って東北東に飛んでいた機は定刻よりも早い、シンガポール時間06:37、日本時間07:37に成田空港に着陸をした。空港からは09:45発のマロニエ号に乗り、13時すこし過ぎに帰社する。
「海外から帰って真っ先に食べたいものは何か」というアンケートのようなものを、むかし活字上でよく目にした。そして今もおなじ質問がウェブ上に場所を移して続いているのは面白い。
「帰国したら何が食べたい」というものは僕には特にないが、ふと思いついて夜は「玄蕎麦河童」に行く。
シンガポールにおける最終日には何の予定も無く、否、正確には3日目のきのう以外にはほとんどすべて予定は無かったけれども、今日はそれらに増して何もすることが無い。
チェックアウトは11時と聞いていたから朝食の後には日記を書いたり、あるいはゆっくり荷物整理をしたりする。そしてロビーへ降りてフロントの混雑の中で精算をする。
しばらくして明細書を見ると、飲んでいないレッドブル2本が計算されている。このホテルの冷蔵庫は感知式のため、自分のミネラルウォーターを冷やそうとして隙間に出し入れをするうち、レッドブルの缶が動いたのだろう。缶飲料のたかだか2本などと馬鹿にはできない、加算された金額は邦貨にして1,000円を超える。よって先ほどのオネーサンにそのことを申告し、払い戻しを受ける。
初日のチャンギ空港では30,000円が485.7シンガポールドルになった。今朝までに使ったお金はそのうちの180.2ドル、残金はすなわち305.5だったから、フロントでの精算はカードではなく現金で支払った。それでもいまだ126.5ドルが残っている。
最小限のもののみを持ち、スーツケースはベルに預ける。そしてきのうサマーセットの駅で、ヨーちゃんの助けを借りて買ったカードを使い、ホテルのほぼ真下にあるベイフロント駅から地下鉄に乗る。
シンガポールの地下鉄は、ソウルのそれに比べると格段に乗りやすい。路線図や案内板のハングルに目を煩わされないことと共に、駅の構造がゆったりしていることがその理由だと思う。そうして環状線と東北線を乗り継いでリトルインディアへ行く。
神経を逆なでする客引きとやらずぼったくり、それに伴う喧嘩腰の金銭交渉を本家本元のインドから差し引くと、それがすなわちシンガポールのリトルインディア、ということになる。スパイスとインセンスの香りを聞きつつ色鮮やかな花や野菜を眺め歩くことは楽しい。
大きな通りから小さな通りへと足を踏み入れ、ふと目に付いた店でチキンビリヤニを注文する。タイガービールを所望すると、オニーチャンは近くの酒屋まで買いに行ってくれた。
僕がシンガポールのインド人街で、骨ごと叩き切った鶏のカレー煮を肴にひとりビールを飲んでいるなど、一体全体だれが想像するだろう。店の外にも中にも人といえばインド系しかいない。深々と、あるいはのびのびと精神の解放されるひとときである。
シンガポールの地下鉄は乗りやすいが、ベイフロント、ハーバーフロント、そしてセントーサ島にはウォーターフロントという駅があって、路線図を見る僕の目を幻惑する。更にマリーナベイサンズ直下の駅はマリーナベイではなくベイフロントなのだからややこしい。
体が覚えてしまえば乗りやすいけれども頭で考えているうちは戸惑うことも多い地下鉄を使ってホテルに戻る。そしてTOWER3の外にあるベルから荷物を出してもらう。シンガポールの夕刻はいまだ昼のように明るい。ニョニャ料理の店で夕食を摂り、しかるべき後に空港へ向かう。
搭乗口へ歩く途中の"FREE WIFI ZONE"で1.5ドルのミネラルウォーターを買うと、サイフの中には50セント硬貨1枚が残った。ほぼ完璧の経済運営である。
海外へ出るといつも朝はやくに目が覚める。今朝も起床をすると、枕元の時計は4時台を指していた。
半袖のTシャツとテニスパンツ。トレッキングブーツを履き、水やカメラのほか、スコールに襲われたときのための傘とウィンドブレーカーも収めたザックを背負う。そしてロビー階を、僕の部屋のある東端のTOWER3から西端のTOWER1に向かって歩く。待ち合わせの場所に7時ちょうどに行くと、既に来ていたテシマヨーちゃんが手を挙げる。
今回のシンガポール行きが決まったときから、僕はヨーちゃんに"Sungei Buloh Wetland Reserve"に連れて行ってくれるよう、Facebook経由で頼んであった。"Wetland Reserve"を日本語にすれば「湿地保護区」となる。
地下鉄の環状線、南北線、東西線を乗り継いでボナビスタで地上に出る。そこの粥麺専科で僕好みの朝食を済ませ、タクシーをつかまえる。「スンゲイブロウの公園だ」と言っても運転手は地理不案内だった。ヨーちゃんがiPhoneで経路を調べつつ「まっすぐ」とか「そこ左折」などと指示を飛ばす。
今回シンガポール入りして沸いた疑問の中に電力のことがあった。そして現地の複数の人にこの国の発電方法を訊いたところ、誰の答えも要領を得なかった。長い橋を渡る際に左手に目を遣ると、製鉄会社などに見られる、3本が最上部で1本になった、赤白段だらの煙突が林立している。ことによるとこれが火力発電所なのかも知れない。
ボナビスタからスンゲイブロウ湿地保護区までは、タクシーで20ドル少々の距離だった。クルマから降りた途端、カンボジアやタイでも聞くことにできる、まるで電気仕掛けのベルのような虫の声に包まれる。
湿地といえば僕の知る範囲内では、戦場ヶ原にしても尾瀬にしても淡水のそれだ。ところがスンゲイブロウはジョホール水道に面しているため潮の香りというか匂いが強い。園内に足を踏み入れると、そこは磯の干潟と海水による沼地あるいは湿地を熱帯の濃い緑が覆った、この、奇跡の成長を遂げた近代的な島が普段は見せない姿をあらわにしていた。
泥の表面から蟻塚のように盛り上がった土の山には、カニや"mud lobster"がうごめいている。人がその表面を歩こうとすればたちまち首まで埋まりそうな干潟には、ムツゴロウに似た魚が頻繁に見え隠れする。
木道や土に砕石を埋め込んだ道を、汗をぬぐいつつ管理棟から最も離れたところまで歩けば、マレーシアの国土が間近に迫る。黒光りするマングローブの根を眺めながら更に進むと、岸に打ち上げられなかば乾いた魚を首尾良く見つけたオオトカゲが、それをくわえて静かに去って行った。
広大な園内では、たまには地元の学生たちとすれ違ったりもしたが、行程の大部分では、僕とヨーちゃんのふたりだけで木々の間を縫っていった。昨年初秋のチェンライ山中ほどではないが湿熱耐えがたく、全行程のうちのすこしを残して入口に戻る。
今回の目的は「マングローブの林を歩く」ということだったが、陸海の小動物だけでなく、オオトカゲさえ何頭も目撃できるなど、積年の希望か果たせて良かった。ヨーちゃんの助けがなければ、この湿地保護区へ来ることは難しかっただろう。
ここはシンガポールの僻地にて、1時間に1本ほどしか巡ってこないバスに乗り、クランジでMRTに乗り換える。そのMRTをビシャンで降り、今度はタクシーを拾う。ヨーちゃんの住む、オーチャードロードにほど近いサービスアパートのプールサイドで一服してから徒歩で坂を下ると、見慣れた風景に出くわした。
オーチャードロードが西端で屈曲するあたりの森は、僕がシンガポールに初めて来た29年前とおなじくそこにあった。僕はこの森に店を出した屋台の汁そば屋で、ガラスケースの中の赤いものをレヴァとばかり思い込み、それをトッピングするよう頼んだ。汁そばができ上がってみれば、しかし麺の上にてんこ盛りされたそれはレヴァではなく豚の血のプリンだった。本日、僕の目は思わずその屋台を探し、しかしそんなものがいまだあるわけはない。
オーチャードタワー地下1階のフードコートでは朝に続き、日本ではなかなか出会うことのできない好物を食べる。午後に重要な仕事を控えたヨーちゃんとは南北線のサマーセット駅で別れた。
部屋の窓からの景色が夕刻のそれに近づくころ、待ち合わせの時間を遅らせて欲しい旨の電話がヨーちゃんから入る。乗ったクルマが渋滞に巻き込まれているという。ヨーちゃんとは結局、オーチャードロードのほぼ真ん中で19時45分に再開した。そして地下鉄で4駅を移動し、ラッフルズプレスのフードコート「ラパサ」に入る。
2002年11月、このフードコートで僕は白酒をボトルで半分以上も飲んで大酔いし、失敗というか何というか、まぁ、失敗には違いない、そういうことをやらかしたことも、今となっては良い思い出である。
その、僕が意識をはっきり保ちながら酩酊したした席ちかくの通りにはクルマの往来が激しかった。しかし今日が金曜日のせいだろうか、通りは遮断されてサテを焼く屋台が並び、尋常ではない数の人々が週末の夜を楽しんでいる。そういう群衆の中に身を置いて飲み且つ食べる、これを南方旅行の醍醐味のひとつと言わずしてなんと言おう。
僕は日常においても旅先においても早寝早起きだ。いまだ22時にもなる前からもうシャワーとベッドが恋しい。そういう次第にて、ヨーちゃんとのビールはピッチャー2杯に留め、地下鉄に乗って早めにホテルに戻る。そして窓際の机上にコンピュータを立ち上げたところで、いわゆる寝落ちをする。
シンガポールの夜明けは遅い。6時は夜とおなじ、7時に至ってようやく現在の日本の4時くらいの明るさ、そして空の青さは8時をすぎてようやく目に明らかになる。
午前にホテルを出て中華街へ行く。仏陀の、世界で2本しか現存しない歯のうちの1本が収めてあるという新加坡仏牙寺龍華院を訪ない、地元の中国系の人の指導に従って線香を上げる。寺の奥に並ぶ如来たちには当然のことながら、ヒンドゥー教の色が濃い。家内安全と商売繁盛を祈念したら、脳が簡素欠乏を起こしたような塩梅になった。いささか気合いを入れすぎたのだろうか。
午後のいまだ早い時間にホテルに戻る。そして屋上のプールサイドに仰向けになり、きのう飛行機の中で半分ほども読み進んだ「日本のシンガポール占領」の、本文すべてを読む。夕刻に部屋へ戻ってシャワーを浴びると、皮膚がかなり痛む。日差しはそれほど強く感じなかったが、気づかないうちに相当、紫外線を浴びたらしい。
空が夕刻の色を帯びる前に外へ出る。そしてチャイムスに行く。直近でシンガポールに来たのは2002年のことで、そのとき僕はこの、むかしは修道院だったところの回廊で買い物をしたことを思い出した。あのときは、こちらに駐在していた同級生セキグチヒロシ君に色々と世話になった。そして今夜は同じ敷地内にある「利苑(Lei Garden)」で極上の広東料理を食べる。
ホテルに戻ると間もなく友人で、シンガポール駐在のテシマヨーちゃんより電話が入る。ロビーまで来てくれたヨーちゃんには部屋まで上がってもらい、明日の行動について打ち合わせをする。そして22時過ぎに就寝する。
柳田車庫05:40発のマロニエ号は予定の08:50ちょうどに成田空港第1旅客ターミナルに着いた。チェックインを済ませ、昨年の2度のタイ行きとおなじ通路を奥の奥まで進んで46番ゲートを確認する。
どこかの国へ行くときには、その国の飛行機を使いたい。スターアライアンスの関係からそれが果たせないこともあるが、今日の機材はシンガポール航空のそれだったから満足だ。
「着慣れた木綿の服と分厚い本、そしてひとときの密閉された空間さえあれば、たとえエコノミークラスの窓際に押し込まれても、心は王侯の榮華にまさるたのしさ」…オマル・ハイヤーム風に言えばそのような気持ちで機内の席に着く。
雨によるものか、それとも混雑によるものか"SQ637"は定刻の11:10に随分と遅れ、日本時間11:52、シンガポール時間10:52に離陸をした。"BOEING777-300ER"の前席背面には上からビデオインプットジャック、USBポート、モジュラージャック、読書灯、小さな荷物のためのフックが、また肘掛けの先端には110Vの電源コネクターまであり、シート周りの設備は充分である。
機内ではいつものことながら音楽を聴いたり映画を観たり、ということはしない。リー・ギョク・ボイの「日本のシンガポール占領」を半分ほど読み進んだころ、機は定刻に遅れることわずか13分の、日本時間18:33、シンガポール時間17:33にチャンギ国際空港に着陸をした。
迎えのクルマに乗ってどことも知れない道を走りながら窓の外を眺め「そうそう、シンガポールは濃い緑と古い町並みが好きなんだ」と、過去ここに2度来たときのことを思い出す。
"MARINA BAY SANDS"は安い部屋で予約を取っていた。それをフロントのオネーサンに頼み、街側の高層階に換えてもらう。追加料金はシンガポールドルで50ドルだから、まぁ、どうということもない。そして45階の部屋は、ドアから窓まで10メートルはありそうなほど広かった。
部屋のwifiはディスプレイの指示に従い、4桁の部屋番号、そして名字をローマ字にして初めの3文字を入力すると即座に繋がった。タイの中級以上のホテルとは異なり、無料というところが素晴らしい。
昨年テレビのコマーシャルで初めて観たときには「コンピュータグラフィックだろうか、だってこんな建物、実際に存在するわけはないだろう」と思い込んだこのホテルの、最上階のプールに行ってみる。 そしてひとわたりあたりを眺めてから部屋へ戻り、早めに就寝する。
書店の、特に文庫の棚を眺めると、本は出版社ごとにまとめられた後、作家の名で五十音順に並べられていることが多い。その常識を覆し、出版社の別は無視して先ずは作家名で、次に作品名をソートの条件式として並べた書店の試みを、むかしどこかで読んだ記憶がある。
文豪と呼ばれるほどの作家であれば特に、おなじ小説、随筆、評論などが異なる出版社から同時に出ていることが多い。出版社の別なくおなじ作品をおなじ場所に置けば、客は値段や活字の読みやすさを比較して、もっとも自分ごのみの1冊を選ぶことができる、というわけだ。
午前10時前に東京ビッグサイトに達する。誰かが開会のあいさつをしている横をすり抜け、入場登録のためのブースに並ぶ。
「FOOMA JAPAN 国際食品工業展」の、数百に上るブースの並ぶ通路を僕はくまなく歩く。そして知った顔に会えばあいさつをし、興味を惹かれたものがあれば出品者に名刺を渡し、カタログをもらう。何年もそうしながら望むのは、ブースを、そのブースが紹介する機械の機能ごとに並べて欲しい、ということだ。
この手の展示会は一体全体、どのような条件式に従ってブースを並べているのだろう。モノを切る機械の隣には工場内を掃除をする機械があり、その次にはモノを混ぜ合わせる機械があり、更にその隣には冷房装置がある。何とも不合理な陳列である。
煮る、焼く、切る、混ぜる、延ばす、詰める、包む、形作る、選別する、洗う、除去する、運ぶ。そういう機能ごとに機械を並べることはできないか。そうすれば入場者は自分の欲しい情報だけを集中的、合理的に得ることができるのだ。
検索条件式に従ってソートする。これに思い至らない例が世にはあまりに多い。
「雨は夜に降って朝に止むのが理想だ。そして理想どおりになることはほとんど無い」と日記に書いたのはきのうのことだ。その「ほとんど無い」ことが今朝は起きる。きのうあれほど降った雨の気配をみじんも感じさせない青い色が、空一杯に広がる。
理屈や根拠を追わず、昔どおりの、ごく狭い範囲に連綿と続く常識や習慣に従う、ということが世の中には良くある。味噌屋は、というか味噌屋の職人は、味噌に練りを加えることを嫌う。ウチでも、最も贅沢な材料を使った「梅太郎」は、味噌に圧力をかける定量充填機を使わず、へらで手詰めをする。本日はマキシマトモカズ君が担っているその仕事の写真を撮り、Facebookにアップする。
実家の農業を継ぐため、またその農業において減農薬や無農薬による作物の育成収穫を目指すため、勤続満6年で退社したアキザワアツシ君が午後、ローライダー型のオートバイに乗って、久しぶりに会社を訪ねてくれる。会社訪問の目的は、彼の送別会のときの写真を、その会の参加者へ手渡すためだった。
午前中は畑に蹲踞してニラの手入れをしていたというアキザワ君は、社員の休憩所や仕事場で1時間ほども歓談をした後、雨の上がった頃合いを見計らって去った。アキザワ君は地味で地道な仕事が得意だった。餅屋は餅屋、適材適所、と言うほかはない。
現在の神奈川県小田原市に生まれ、現在の栃木県日光市に没した二宮金次郎の遺徳に改めて思いを致すため、かどうかは知らないが「二宮デー」と名付けられた市内清掃に朝から参加をする。その余勢を駆って、社外に置いたゴミ箱の中も綺麗にする。
今年のゴールデンウィークには「何も狙い澄ましたように、この時期に降らなくても」という大雨が列島を襲った。それほどの大事ではないにしても、今週末から空模様の崩れることを、テレビの天気予報は伝えていた。
雨は夜に降って朝に止むのが理想だ。そして理想どおりになることはほとんど無い。週末の雨は特に、商売の敵である。ところが本日はその予報が外れ気味となり、10時45分ころよりお客様の数が増えてくる。そして僕も店に立ち、販売の応援をする。
20代のおわりから30代にかけては、1週間に1度は焼肉を食べていたような気がする。それが最近はさっぱりである。からだが牛肉を欲しなくなっているのだろう。とはいえたまにはビーフも悪くない。そういう次第にて、夜にはステーキを肴に赤の軽いところを飲む。
おばあちゃんの応接間の窓は南南西を向いている。その窓から外を眺めると、味噌蔵の向こうに金平山が、その先には知らない山の尾根が、更に遠くには里山としては随分と高いが、これまた名を知らない山が満々と緑を湛えてある。
その、僕の今朝の視界の中ではひときわ高い山の写真を撮り、未知のものとしてFacebookに載せると有り難いことに次々とコメントが付き、それを生まれて初めて鶏鳴山と知る。
ほぼ毎朝、社内の誰かが行くことにしているJAかみつが今市農産物直売所には、今は葉物よりも大根や胡瓜が多く出ている。このところの「たまり浅漬け」は従って、大根と胡瓜と和唐辛子になることが多い。
「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"」の在庫が払底しつつあるため、この瓶詰めをサイトーエリコさんと、そしてワインの充填および蓋閉めをハセガワタツヤ君と行う。作業には150分を要し少々つかれたため、昼前にしばし座って休む。
「たまり漬を具にしたおむすび」にまとまった予約が入り、調理場では土鍋が湯気を吹いている。これは朝にはよく見られる風景だが夕刻には珍しい。
そして本日サイトーエリコさんは「たまり浅漬け」、"rubis d'or"、「たまり漬を具にしたおむすび」の3者に関わって、かなりの時間を調理場で過ごした。これから益々、自身の本領を発揮して欲しい。
朝の雨模様は10時を過ぎたころより一転し、太陽が照りつけてくる。湿度が増してくるだろうかと考えたが、それは杞憂に過ぎなかった。
夕刻に家内より公衆電話による連絡が入る。浅草駅18:00発の下り特急スペーシアに乗るので、下今市駅まで迎えに来て欲しいというのが、その内容だった。携帯電話は急に壊れたらしい。
その連絡のあったすぐ後に、大きめの地震を感じて事務係のマスブチサヤカさんが怯える。ウチの中で、地震に際して揺れの最も小さな場所は店舗と事務室だ。その事務室が揺れるということは、他は推して知るべしだ。僕は製造現場に走り、ボイラーの消えていることを、製造係のフクダナオブミさんに確認する。
浅草駅18:00発の下り特急スペーシアは、下今市駅には19:43に着く。その時間を見計らって駅へ行くと、しかし夕刻の地震の影響によりダイヤは大幅に乱れ、飛行機なら欠便だが列車の場合には欠航、いやそれでは船になってしまうか、とにかく1本前の、浅草駅17:00発のスペーシアさえいまだ到着していないという。
仕方なく家に戻り、しかし酒を飲むわけにはいかない、たまたまあったお菓子を食べ、コーヒーを飲む。そして諸方のホームページやtwitterから情報を収集する。東武日光線の多くの列車は地震に伴う線路点検のため、南栗橋駅から新鹿沼駅のあいだで運転を見合わせているという。
22時15分に下今市駅へ電話して状況を訊くと「前の列車もまだ着いていませんので」と、その答えは2時間30分前のものと変わらなかった。家内の乗った列車の現在位置を訊くと、連絡は入っていないという。「そんなわけねぇだろう」とは思ったが「あぁ、そうですか」とだけ答えて受話器を置く。
列車が正常運行していれば20時には帰宅していたはずの家内は、結局のところ23時15分に玄関のドアを開けた。車内放送では停車の理由を「線路点検のため」とのみ伝え続けたという。「線路点検は○割方、進みました、とでも説明してくれれば、乗客の不安や焦燥はかなり軽減されただろう」とは家内の言ったことだ。
まぁ、公共の交通機関には非常時の情報について「一般からの問い合わせに対しては、ここまでは知らせ、ここからは伏せろ」という決まりがあるのだろう。
というわけで、今夜の混乱のお陰で僕は月初めから断酒をすることができた。以て瞑すべし、でもないか。