店舗駐車場の一角にある坪庭に、丈の高い百合が育った。夏のあいだぐんぐん伸びるその茎を見て「刈り取ってしまおうか」と考えたこともあったが、結局は放置した。その先端にはやがて緑色のつぼみが付き、タイから戻ってみると、そのつぼみのうちのいくつかは開いていた。
ある人によれば、この百合は毎年花の数をひとつずつ増していくという。今年の花とつぼみの総計は8つである。とすれば来年の夏の終わりには、これが9つになることになる。
コンピュータのスケデュール管理に百合の花の数を記すのも酔狂と思われるから、この日記に残してデータベースとする。
「政治は衆愚を相手の仕事」と言って叱られたことがある。百歩譲って「選挙は衆愚を相手の仕事」と言い換えたらどうか。
「そのときの気分次第であちらに雪崩を打ったり、こちらに地滑りのように移動したり、そういう烏合の衆を、どうにかして自陣に取り込もうとするのが選挙なんだなぁ、しかもあんな、有権者をバカにした演説で」とは、美濃部亮吉と秦野章の都知事選を見ていて感じたことだ。
いま検索エンジンでこの選挙がいつ行われたかを調べてみたら1971年4月と出た。とすればそのとき僕は中学3年生だった。14歳の子供も鼻で嗤うような理屈に騙される大人が大勢いる、ということを僕はこのとき初めて知った。
マスコミに煽られ小泉の自由民主党に一斉になびいた人たちが、その数年後にはこれまたマスコミに煽られ鳩山の民主党に一気に逆流している。今回の衆議院選挙においても「民意」の大部分は民主党の方向だろう。50年以上ものあいだ王座にあった自由民主党は、今や日本のどの選挙区においても勝ち目は薄い。
というわけで朝7時40分、今市小学校の体育館にて衆議院選挙の投票をする。
成田空港から送ったトランクが午前に届く。その荷をほどきながら今回、持参しなくても良かったものを考える。
先ず、おなじホテルに2泊すればランドリーのサーヴィスを受けることができるからシャツの半分は必要なかった。
僕は日本では手指を常に消毒しているため、アルコールの噴霧器を持参して、しかし現地ではぜんぜん使わなかった。旅行中は仕事をしないため、消毒への欲求も起きなかったのだ。
南国では部屋を必要以上に冷やすことを客へのもてなしと考える風があるから上着を用意せよという教えがあり、カーディガンを持参したが、チェンライでもチェンマイでも晩飯は常に野外だった。バンコクでも半袖シャツで寒い店はどこにもなかった。
帽子についてはかなり考えたが雨期ということもあり、また炎天下を長く歩くことも予想されなかったため、これは持参しなくて良かった。
分厚いガイドブックは、必要なペイジのみを持参すれば荷物が少なくて済む。ペイジを手で引きちぎることができなければ背表紙を鉈で割れば良い。そしてそれらはすべて現地で人に上げるか捨ててくる。賑やかな場所の地図などは特に、来年になればまた変わってしまうのだ。
長ズボンもできれば持ちたくないが、テニスパンツで入れてくれないような場所へ行くことになるやも知れず、とすればこれを持たないわけにはいかない。ブーツは種類を選べば、チェンライのぬかった道からバンコクの高級バーまで1足で済むものが見つかりそうだ。
貧乏な旅行をしているころには、噴き出す汗にハンカチがすぐびしょ濡れになった。よって今回はバスタオルの大きさの麻布を持参した。ところがチェンライとチェンマイは日本より涼しく、バンコクには今や冷房の効いた公共交通機関があるから、むかしのようにタオルを首に巻いて歩く必要もなくなった。
"ROMEO Y JULIETA"の巨大な葉巻には手を付けなかった。コック川のほとりで、あるいはピン川の縁を歩きながらタバコを吸いたいという気持ちは遂に起きなかった。
というわけで次にタイへ行くことがあれば、持参する荷物は大幅に減りそうである。
5時のモーニングコールに起こされる。"JAL708"の発時間は8時10分だ。5時40分にホテルをチェックアウトし、クルマで空港へ向かう。
心配した荷物の重さは、日本から持ってきたものを行く先々で人に上げたり捨てたりしたため、JALのカウンターで計るとあと5キロほどは余裕があった。「こんなことならタイの米を買いたかったけどなぁ」と、すこし後悔をする。
チェックインをした先でちょっとしたものを買うと、財布の中身は43バーツになった。邦貨204円とは絶妙の数字である。
今朝のメシは空港で7時30分に食べ終えた。だから9時30分に出てきた機内食にはほとんど手を付けなかった。きのうの日記を書き「目撃者」を読んで退屈もしないまま日本時間の午後4時30分に成田空港へ着く。スカイライナーで上野へ、次いで地下鉄で浅草に移動して晩飯を食べ、20:00発の下り特急スペーシアに乗る。
夜10時ちかくに帰宅してみればいまだ次男が起きていたため、コンピュータの中の画像を見せ、11時30分に就寝する。
チェンライのホテルは街から遠く、またチェンマイでは朝の飛行機に乗らなくてはならなかったため、朝飯はすべてホテルで摂っていた。そういう洒落たメシは、実は自分の好みではない。
今朝はスリウォン通りのホテルからシロム通りまで歩き、バンコククリスチャン病院前の屋台を見ていった。惣菜屋、饅頭屋、唐揚げ屋、春巻き屋、菓子パン屋、サンドイッチ屋、弁当屋、果物屋、焼き菓子屋、コーヒー屋などなど、そういう中からお粥屋を探し、路上のテーブルで広東風のお粥を食べる。
きのうタニヤの酒屋で両替をしたら1万円が3,600バーツになった。とすれば30バーツのこのお粥は邦貨にして84円。そういう値段のことは別にしても、南の国ではどうしてもこういうものを僕は食べたい。
9時にコモトリ君の迎えを受けてクルマは街を西へと進む。フアランポーン駅からはオンアーン運河に沿って北へ上がり、その運河を渡って更にロート運河を越えれば王宮の大きな屋根が間近に迫る。
クルマを降りてチャクラペット通りから小さな市場を抜けると、ワットアルンはチャオプラヤ川の対岸にその姿をあらわした。と、そこに「ここから渡し船は出ない。しかし私に100バーツをくれるならあなた方を川の向こうへ運んでやろう」と言いながら、ヤニだらけの歯をむき出しにしたオヤヂが近づいてきた。こういうとき僕は決まって無意識のうちにニヤリと笑う。
そこから数十メートルを歩いたらターティアンの船着き場はすぐに見つかった。ここから乗船料3バーツにてチャオプラヤ川を渡る。
バンコクに4度も訪れながらなぜワットアルンのような定番中の定番といえる寺へ今更行くか。それはかつてこの寺の基部まで来ながら入場料の額に辟易し、そのまま立ち去った過去があるからだ。それくらいのお金さえ29年前の僕は惜しんでいたのだ。もっとも本日の50バーツはコモトリ君が払ってくれた。
きのうのステートタワーもそうだが僕は高いところを好む。コモトリ君によれば数日前には白人のオバチャンが転落して大けがをしたという急な階段を昇り、中段からは更に胸を突く階段を一歩一歩進む。上まで達すればチャオプラヤ川をちらりと眺めただけで、もう用はない。「行きはよいよい帰りはこわい」どころではない「墜ちたら死ぬぞ」くらいの傾斜を、鉄の手すりにすがって降りる。
懐かしの中華街をひと回りし、コモトリ君のアパートで冷たい水を飲み、すこしゆっくりしてから源利大飯店、通称「ウォンリー」へ昼飯を食べに行く。この店にはメニュもあるが、華僑による気楽なメシ屋の例に漏れず、食材を見ながらあれこれ頼むこともできる。そして僕は真っ先にキクラゲとナマコを選ぶ。
「キクラゲとナマコは一緒に炒めちゃっていいや」
「シャチョー、それはいけません。我々の常識からして、そのふたつを同時に調理することはあり得ないんですよ」
「そうか分かった。しかしそんなこと言って、料理の数を増やして儲けるつもりじゃねぇだろうな」
「またまたー」
と、そういう会話があったかどうかは知らないが、コモトリ君のタイ語の能力は僕の英語のそれを上まわっているような気がする。
南国の、壁のない屋根だけの食堂で、昼直前のいまだ混み合わない時間にゆっくりビールを飲む気分には格別のものがある。「好きだよ、ウォンリー」と、僕は声を大きくして言いたい。
午後はコモトリ君のアパート屋上のプールで2時間ほど「目撃者」を読む。肌を焼く太陽の熱に耐えられなくなったら泳ぎ、また寝椅子で本を読むことを繰り返す。そしてその後はコモトリ君の部屋にて夕刻まできのうの日記を書く。
「いい加減」という意味においてバイタクほどタイらしい移動手段はない。オートバイを操る運転手はヘルメットをかぶり、しかし客は生身のままだ。歩道を走り反対車線を走り他人の駐車場を突っ切って街を昆虫のように飛び回る。このバイタクでスクムヴィット通りソイ11から更に奥まったところにある"11 Gallery"へ行く。ここはモルタル造りの家に木の板を打ちつけ古民家風にした料理屋で、我々は2階奥の静かな個室に案内された。
ところでタイのメシはおしなべて美味い。しかしそのメシに合わせる酒には恵まれていないように思う。ビールは外来のものだしタイウィスキーの「メコン」は問題外、僕がチェンライで飲んだラオカーオは洗練度において著しく劣る。よって今夜はチリのシャルドネを卓上のバケツに冷やし、ソムタムやガイヤーンや赤いカレー、ジャスミンライスなどをその肴にする。これらを注文するとき辛さの程度について訊かれたため「普通」という意味で「タマダー」と答えたが、この店は外国人を主な客層としているのだろうか、香りも辛さも薄く、まるで東京の無国籍料理屋でメシを食べているような気分だった。
晩飯は早くも7時30分に終わってしまった。「もうすこし遊んでいくか」ということで、同じ路地にある"Suk Spa"を覗いてみると、これが薄暗い木の階段を2階、3階へと昇るにつれ香が聞こえ古い音楽も聞こえて癒し度満点である。どちらともなく「やってくか」ということになり、普通の店の3倍ほどの価格の足マッサージを受ける。
この"Suk Spa"、普通のマッサージ屋の制服がポロシャツのところ、ここのオネーサンたちは民族衣装を身につけている。そしてコモトリ君のタイ語によるオヤヂギャグには慎ましやかに笑う。マッサージが終わると凍ったおしぼりと共になにか曰く因縁があるのだろう、タイ風の蜜豆と白湯がしずしずと運ばれる。これでは高い料金も客は納得して払ってしまう。見事な商売と言う他はない。
この"Suk Spa"も先の"11 Gallery"も、またすぐ目の前のゲストハウス"Suk 11"も多分おなじ経営者によるものだろう。不良白人のたまり場"Nana"から直線距離でわずか300メートルのところに、映画のセットのようだとはいえこのような心なごむ一角が存在するとは、ほとんどオアシスではないか。「面白いなーバンコク、また来たいなーバンコク」である。
アラブ街を抜け、ホテルまで送り届けてもらっての心残りは今回タイに来ていまだ一度もクイティオ屋に行っていないということだ。明早朝の出発に備えて入念な荷造りをして後、シロム通りまで歩く。
朝は食べ物屋台ばかりだった歩道が、夜は一変して衣料品やつまらない土産物の屋台一色になっている。その中にたったひとつのクイティオ屋を見つけ、ここでバミーナムを食べる。深夜0時がちかくなっても、来そうで来ない路線バスを待つ人の群れは車道まではみ出していた。バンコクの夜は長い。
なだらかな山裾に広がったこの美しい古都を訪れながら城壁内の旧市街にも入らずナイトバザールの散策もしない、そんな馬鹿が僕である。1970年代から80年代にかけてであれば飽きるまで遊んでもいられたが、今はそういうわけにはいかないのだ。
チェンマイの空港は市内から自転車でも行けるほどに近いから、10:00発の"TG103"に乗るためホテルを出たのは9時20分だった。タイの大きな街につきものの大気汚染はチェンマイにおいても例外ではないと聞いていたが、それは市中心部に限られるのではないか。すくなくとも郊外の空気は澄んでいる。
チェンライやチェンマイの気候はしのぎやすかったがバンコクまで南下すればかなり蒸し暑い。午前のうちにスリウォン通り沿いのホテル"THE SIAM HERITAGE"に入る。バンコクに最初に来たのは1980年、次は1982年、3度目が1991年で、随分と間が開いて今回が4度目になる。
大好きなバンコクだが新婚旅行先に選ばなかったのは治安が悪いからだ。暴徒が首都の国際空港を占拠して世界中に大迷惑をかけながら国家の権力を以てこれを鎮圧できなかったのはつい最近のことだ。「ガス抜き」と言ってしまえばそれまでだが何年かに1度はかならずクーデターが起きる。そういう大きなところで統治に隙のある国は小さなところでは余計にだらしがない。もっとも当方はそのだらしないところが結構嫌いでなかったりするからややこしい。
ところで最後にバンコクに来た1991年にはいまだスカイトレインも地下鉄もできてはいなかった。街なかの交通はバス、タクシー、トゥクトゥク、舟に限られた。ヤワラーつまり中華街の「楽宮旅社」を定宿にしていた僕はフアランポーン駅ちかくにあった、我々貧乏旅行者たちには「タイソン」と呼び習わされていた「泰松大旅社」前からバスに乗って市中心部を目指した。あのころのローカルバスにはドアが無く、ここから転落するのも自己責任のうちだった。
そのようなわけで昼飯は早々に済ませ、先ずサラデーンから地下鉄でラチャダピセークまで行ってみる。そこからスクムヴィットに戻って今度はアソークからスカイトレインでエカマイまで行く。ふたたびアソークへ戻ってスクムヴィットから今度は地下鉄の西の終点フアランポーンまで行く。どこの駅でも外へ出て街を歩き、街の匂いをかぐ。
僕はかつてこの街に満ちていた、トゥクトゥクの2サイクルエンジンの排気ガス、クイティオを茹でる屋台からの湯気、そしてパクチーの入り交じった匂いが大好きだった。しかし18年ぶりに来てみれば、これら三種混交の匂いはこの天使の都からすっかり失せていた。
それでも地下鉄のサムヤーン駅からホテルに最短距離で戻る小汚い、つまり僕好みのソイは立ち並ぶ屋台や雑居ビルの食堂、雑貨屋がむかしのバンコクを思い出させてくれた。
夕刻5時30分、この土地で仕事をしている自由学園の同級生コモトリケー君の出迎えを受け、ホテルちかくの「福魚翅」へ移動する。二次会で行ったステートタワー62階の、空中に張り出すようにしてあるバー"Verdigo"では、きのうおとといと深酒をしていたからすこし自重してレッドアイを飲む。そうしてせいぜい腹の高さしかないガラスの柵に近づけば、漆黒のチャオプラヤ川とオレンジ色の高速道路がまるで絡み合う龍のような曲線を描き、また遠くの雷さえ眼下に見えて人々を感嘆させる。
コモトリ君にホテルまで送り届けてもらった直後こそ部屋で静かにしていたが、しばらくすればまた外へ出て、以降はスクムヴィット駅の券売機が"OUT OF BUSINESS"になるまで夜の街を逍遙する。
この旅行には入念に計画されているところもあれば、また行き当たりばったりのところもある。
チェンライからチェンマイへできるだけ短い時間で移動するなら手段は飛行機で決まりだろう。しかしその距離は、飛行機を使うにはいささか短すぎる気もする。今回は地元の親切な方が運転手つきのクルマを出してくれることとなり、タイ最北部の商都からおなじく北部の古都チェンマイまでは陸路で行くことが決まった。
強い日差しを避けるため窓に黒いフィルムを貼られたホンダ車の助手席に収まり、2日間を過ごしたチェンライを去る。きのうまでのぐずついた天気は一変し、今日は朝から空が青い。その青さはクルマが平野部から丘陵部へ、次いで山道に差しかかるころにはいよいよその輝きを増した。
一見するとただの緑色、しかしよくよく目をこらせばとても葉の大きな、あるいは珍しい枝振りの草木の濃さが、空と地をくっきりと分ける。その色の対比はおなじアジアにあっても日本のそれとはまったく違う。行く手に巨大な入道雲が立ち上がる。道の屈曲を越えるたび、その白く光る雲が様々に形を変える。
そして道がまた平坦になり、「右折するとドイステープ」の標識のある大きな交差点あたりから風景は市街地らしくなってくる。やがてホンダ車は東からピン川を渡る。およそどこにあっても川のある街は艶っぽい。
左折をして街の南を目指すとそこはジャスミンや色とりどりの蘭のあふれる花市場だった。そういうごく狭いところを見ただけで「いやぁ、チェンマイ、良いなぁ」の声が自然に漏れる。
ホテルに荷物を置いてすぐに外へ出る。チェンマイは実に、タイ人の美しく見えるところだ。その反面、街にあふれる外国人観光客は太り、くたびれ、どうにも冴えない。アヌサーン市場ちかくの両替所では、大きな白人男が「3ドルがどうたらこうたら」と、中の係員を怒鳴りつけている。晴れているせいもあるだろうが、気温はチェンライよりも随分と高い。屋台の西瓜ジュースを買ってホテルに戻る。
夜は地元の人に呼ばれて、元はインドネシア大使館だったという料理屋"dalaabaa"へ行く。池の石を踏みながら空を見上げれば、三日月よりもすこし厚い今夜の月がおぼろに霞んでいる。
白いウサギの遊ぶ庭には大木の葉を揺らす風が吹き、そこに昼の暑熱はもうない。テーブルに運ばれるすべてが美味い。夜が進むにつれ月は露を払って明るくなり、その空に浮かんだ雲が夜の暗さをいっそう際だたせる。
クルマでの送りを丁重に断り、流しのトゥクトゥクをつかまえる。ピンの川面が街の灯りを映してゆっくりと流れていく。道々は夜店の裸電球で昼のように明るい。この興味深い北の古都を明朝には去らなくてはならない、その忙しさがひどく疎ましい。
闇に目を覚まして枕頭の携帯電話を見ると午前3時だった。「今朝も3時か」とウンザリしたが首尾よく二度寝ができて5時30分に起床する。
きのうは夜のチェックインだったから外の様子はまったく窺い得なかった。それが、日が昇るにつれ徐々に明らかになっていく。
窓外に望遠する農園の土はあくまでも赤い。間近には雨期の茶色い水を満々と湛えたコック川が想像以上の速さで流れている。そしてその川を、舳先の長い小舟がときおり上り、あるいは下っていく。これまで耳にしたこともない鳥の鳴き声がしきりに聞こえる。外の気温はせいぜい25度といったところだろうか。
朝食の後、クルマを頼んでチェンライ郊外10数キロの距離にある「ドイディンデーン」へ行く。この窯場は緑深い田んぼと養魚場に囲まれた高台にあり、作業場や店舗、喫茶店などいくつもの棟が夜来の雨を保った土や苔の上に並んでいる。僕はここで焼き物を見たり散策をしたりコーヒーを飲んだり、あるいは買い物をしたりして随分と長い時間を過ごした。
街へ帰る道すがら、運転手が親切心からだろう「ワットロンクンという綺麗なお寺がありますから見ていきましょう」と誘ってくれたので「あの悪趣味な場所には興味、無いんですよー」とも言えず、名所の見物をする。堂宇に入ると60代なかばと思われるお坊さんが結跏趺坐の姿勢で微動だにしない。「あそこは悪趣味」などと決めつけた自分を悔いて100バーツの喜捨をし、そのお坊さんについて外の案内人に訊くと「あれは人形です」というようなことだったから「あー、あの100バーツ」と振り向いても邦貨290円は戻ってこない。
街へ戻る途中、スーパーマーケットの"BIG C"で長男へメンダーのナムプリック、次男にはタイのインスタントラーメン、運転手へのプレゼントとしてタイウイスキー「メコン」、僕が飲むためのラオカーオとステンレスのお椀を買う。
ここで時刻は正午を30分ほど過ぎた。僕は朝飯をたっぷり食べるたちなので腹はそれほど空いていなかったが街なかの食堂へ行き、カオマンガイの普通盛りを昼食とする。
旅行のスケデュールはスカスカに空けておくのが好みだ。「チェンライでタイ古式マッサージを受けるならインカムホテルのマッサージ部がいちばん良いよ」という現地の評判を信用してそこへ赴き、2時間みっちり揉んでもらう。
たまにヨガの指導を受けると「あー、めんどくさいなぁ」と感じるが、タイ古式マッサージとは、人が自分のからだを伸ばしたり引っ張ったりしてくれる点においては正に「他力ヨガ」とでも呼びたくなる便利なものだ。もっとも本日、僕についたオバチャンは立派すぎる体格にて、この人が自分の全体重をかけて相撲の股割りのような技を仕掛けてきたから結構つらいところもあった。しかし当方にも意地がある。タイ語で「痛い」をあらわす「ジェーップ」の泣き言は最後まで吐かなかった。
マッサージを受けているあいだに強い雨があったらしく、街のところどころに水たまりができている。4時にホテルへ戻って「目撃者」を読む。グエンバンチューの運命を知る者としては、1973年の新聞記事は至極スリリングでページが進む。
"Dusit Island Chiang Rai Resort"は川の中洲にあって街の中心部からはちと離れている。よってダウンタウンに出ようとすればいちいちクルマを頼まなくてはならない。夕刻の退社や下校による渋滞を抜けてバスターミナル横の広場へ行き、その広場を取り囲む店のあれこれにて昼に買った米焼酎ラオカーオを飲む。
雨上がりの涼しさに酒が進む。酔えば「ミントのかたまり」と表現したくなる風味の鍋「チムジュム」は更に美味い。虫屋のオバチャンがヒマそうにしていたので蛾のさなぎ以外のすべてを盛り合わせにしてもらう。正面のステージでは少女たちの踊りが始まった。タイ最北部の夜は、ただ心地よいばかりだ。
突き詰めて言えば、今回の旅行の目的は近藤紘一の「目撃者」を読むことにあるのではないか、と思う。自分はこの本を多分1990年代のはじめのころに買っている。以降20年ちかくも手をつけず温存してきたのはひとえに、東南アジアの地でこれを読むためである。
主にヴェトナム戦争についての1971年からの新聞記事を今更読んで何になるか。それは人間の愚かさをふり返ることであり、また人のつよさを改めて知ることである。旅行の途中、小さな活字の上下2段組、全766ページの「目撃者」のどのあたりまで進むことができるかは不明ながら、とにかく200ページを過ぎれば記事はルポルタージュに替わり、358ページからは評論の部になり、480ページからは、新聞人としては希有の繊細さを備えた著者による随筆が始まる。まぁ、急がず休まず読んでいこう。日本時間の午後3時30分にダナンの海岸線を横断してヴェトナム上空に入る。
機がラオス上空に差しかかるあたりでジャンボ機の最後尾ちかく、となりに座ったオネーチャンが飲み残しのコーヒーをスッチーに返そうとしてその中身をいきなり僕の太ももにぶちまける。当方はテニスパンツだから服の被害はまったくない。しかし脱いで床に置いておいたブーツはたっぷりと焦げ茶色の液体を呑み込んだ模様である。
オネーチャンが眠った頃合いを見計らって、先ほどとは異なるスッチーが僕に近づきタイなまりのフワフワした日本語で、日本航空から服のクリーニング代を出させてもらいたい旨を述べる。一瞬「おぉ、それで何杯のカオソーイが食えるだろう」などとこすっからい計算をしたが0.5秒後にその考えを覆し「いえ、それは結構です。何も問題はありません」と、相手の提案を断る。
「目撃者」に話を戻せば77ページから始まる「一九七三年 サイゴン 特派員の目」は近藤のひとつの真骨頂をあらわしている。
僕が知るバンコクの国際空港はドンムアンのみで、スワンナプームは今回が初めてだ。日本時間16:37、タイ時間14:37に機はそのスワンナプーム空港に着陸した。空港内に一歩足を踏み入れた瞬間「タイの匂い」に包まれて「キャー、懐かしいー」と感動する。この香りを聞くのは1991年春以来のことだ。
チェンライへ向かう"TG140"の出発まで3時間以上の余裕があるため、また"JAL717"の機内食にはほとんど手を付けなかったこともあって空港内で軽く食事をし、またおなじ空港内のマッサージ屋"CHANG"で45分間の足マッサージを受ける。
タイの最北部にちかいチェンライまではおよそ80分の飛行だった。そのチェンライには弱い雨が降っていた。今は雨期の真っ最中である。空港の外に出たのは日本時間21:30、タイ時間の19:30。迎えのクルマに乗ってこれから2泊する"Dusit Island Chiang Rai Resort"に入る。
しかし僕の1日はまだ終わらない。現地の人から招待を受けていたため、それまでのポロシャツとテニスパンツとブーツを白麻のシャツと焦げ茶のパンツと黒い靴に替える。
ホテルの庭にある、まるで夏の離宮のようなおもむきの場所でいただくタイ北方の料理はみなとても美味かった。タイ語で「美味しい」をあらわす"aroi"が北部では"rum"に変わる。それは知っていたが、はす向かいの若い女の人にいきなり料理の感想を求められ、しかしその言葉は流暢な英語だったからいきなり虚を突かれる。
料理の辛さを増すためオードブルの皿から小さく短い緑唐辛子のぶつ切りを自分の皿に盛大に振りかけると周囲から「あなたの口には無理だから止めろ」と注意を受けるが、どうということもない。
晩餐会が何時ころ終わったかは記録していなかったが、ひとりロビーに戻るとラウンジではよく耳にする、しかし名前は知らない曲をピアノに合わせて歌手が歌っていた。その歌に誘われて席に着き、"Harveys Bristol Cream"を1杯だけ飲んで今日1日を締める。
「ABC空港宅配」のウェブペイジを久しぶりに覗いたら、自宅から空港までではなく、海外の到着空港まで荷物を届けるシステムができていた。手数料は従来の送料プラス500円とのことにて「これは便利だなぁ、しかし出発前に空港で自分の荷物を確認できないのはちと心配だなぁ」と考えていた。
そして、これまでどおり出発空港での受け取りか、到着空港での受け取りかを決めないまま"ABC"に電話をしたところ、係のオネーサンはイヤにテキパキとしていて結局、ジュラルミンのケースはスワンナプーム空港ではなく、明朝、成田空港第2ターミナルで受け取ることになった。そしてこの荷物は余裕を持って、きのうのうちに運送屋に手渡した。
先代宮司の一年祭に列するため、午前11時前に瀧尾神社へ行く。直会というべきかどうかは不明ながら、ご馳走をいただいて午後1時30分に帰社する。すこしばかり仕事をして下今市駅17:33発の上り特急スペーシアに乗る。
明日は10:30発のJAL機でバンコクへ飛ぶ。そこでTG機に乗り換えチェンライまで行く。明日のチェンライには最高気温30度、湿度86パーセントの予報が出ている。気温は僕の好みを若干下回っている。湿度については特段の文句もない。
ここ数ヶ月のあいだに僕の知る人がふたり、高速道路上において極端な速度違反をやらかし、免許停止を余儀なくされた。普段の様子からすればこのふたりは共に穏やかな性格に見え、しかし「直列6気筒の"BMW"」という所有車は共通している。
一見して大人しそうな人が反社会的とも言える数値の超過速度を"ORBIS"に記録されてしまうのだから、直列6気筒の"BMW"とは良すぎるクルマなのだろう。
「その直列6気筒の"BMW"がおまえも欲しいか」と問われれば僕は要らない。このクルマを人にたとえれば、それは非の打ちどころなく優れているという点において木村盛世厚生労働医系技官のようなもので、それではこのキムラモリヨさんとふたりで酒が飲みたいかと自らに問えば、そもそも共通の話題すら無さそうである。
「それではクルマにたとえればどんな人とふたりで酒が飲みたいか」と問われれば僕は躊躇することなく「狭角V型4気筒の"LANCIA"のような人」と答える。しかしこのとき「狭角V型4気筒の"LANCIA"のような人とはどのような人を指すか」と畳みかけられると、これはいささか困る。
声がトレモロしていた林家彦六はランチアっぽいか、しかし彦六と飲んでも説教を食らうだけで酒は一向に進まない、そんな気もする。それでもタイムマシンで稲荷町の長屋へ戻り、この飲み会が実現したら肴には何が欲しいか、そこのところだけは明確で、それは彦六手製の牛鍋である。
数日前から家内の父が遊びに来ている。このオヤジさんが晩飯の前には決まって「氷水をください」と言う。普段いる鎌倉よりも日光の方が随分と涼しいはずだがその日光も残暑であれば、一杯の氷水に涼を求めたくなる気持ちも分かる。
と、そういう話ではなく、オヤジさんはこの氷水をスーッと飲み、3フィンガーほど残したところでグラスを置く。そこに僕がウイスキーを注ぐ。相手のからだを慮ってごく少量を注ぐと「もう少し」と言うので、言われたとおり少し足すと「もう少し。私は濃いのが好きでねぇ」と更に追加を要求され、遂には生のウイスキーとそう変わらない色の水割りがグラスに満たされる。
きのう酒を断ってカレーライスを食べてる僕の横っ面にはオヤジさんの飲むオールドパーの芳香が間断なく押し寄せ大いに刺激をされた。よって今夜は自分も相伴しておなじものを飲む。
牛の香りがブンブンするミートローフのような、つまり英国風の食べ物にはウイスキーがよく似合う。食後のチーズまで食べていると酒が余計に進んでしまうため、これは遠慮をして9時30分に就寝する。
僕のある種の仲間うちではキャスターの付いたスーツケースのことを、揶揄を込めて「お引きずり」と呼ぶ。尊敬をあらわす接頭語「お」が付くのは、人に曳かれてしずしずと進むその様が、髪を「おすべらかし」に結った奈良平安の女性を想起させるためと思われる。
とにかくこの「お引きずり」に今月23日からの旅行の荷物を詰めたら14.7キロになった。荷物の量をこのままにしてタイ北部の市場に浸透し、あれやこれやの調味料を買いあされば、飛行機の無料手荷物許容量は簡単に超えてしまう。
よって持ち物リストを今一度ためつすがめつし、しかし減らし得たのは靴下3足のみだった。こうなれば最後の手段で、機内持ち込み用のザックを大きなものに変え、帰路においてはここにできるだけ荷物を分散させるしかない。
1980年にはペラペラのデイパックひとつで1ヶ月の旅行をした。それがあまりに厳しかったため1982年には容れ物を"SALEWA"のサブアタックザックに替えて2ヶ月の旅行をした。このとき僕は荷物を減らすため歯ブラシの柄を短く切るまでした。
僕の近年の容れ物はジュラルミン製の「お引きずり」で、これでは荷物はなかなか減らない。
「旅人の荷物の量は、その旅人の精神と肉体に宿った贅肉に比例する」という箴言は無かったか。あってもおかしくないように僕は思う。
夜間は事務室に格納される暖簾を朝、犬走りの軒先へ出そうとして、その暖簾と窓のあいだに1匹のキリギリスを見つける。キリギリスはプッチン、プッチンと跳ねながら窓の側へ、あるいは暖簾の側へと移り、なかなか機敏である。
それをようやく指の間に捉まえて「君の緑色は、ホントに綺麗ですねぇ」と声をかけ、坪庭の葉陰に放つ。
洗礼者ヨハネはイナゴと蜂蜜を食料とした。日本人もイナゴを食べる。南アジアではコオロギを食べる。他の地域でもこの手の昆虫は大いに食べられている。しかしキリギリスを食べるという話は寡聞にして知らない。多分、キリギリスは美味くないのだろう。「美味いか不味いか、お前が実際に食って検証せよ」と言われたら、それはちと気が進まない。
初更、第195回本酒会に参加をするため鰻の「魚登久」へ行く。
文庫本、カメラ、財布、メモ、ボールペン、家の鍵。このくらいのものを入れてちょうど良い"ISKA"のギヤバッグは20年ちかく使って最近、ほころびが目立ち始めた。よって修理に出そうと考え、しかし検索エンジンで調べると買った方が遙かに安い。
たとえ買った方が安くても僕は物は直しながら使うのが好きだ。しかし所々はげてしまった防水皮膜までは修理が利かず、よって泣く泣くこれをインターネットで注文した。
それが本日届いたから「よしよし」と細部を点検してみると、この20年のあいだに"ISKA"に何があったのだろう、いまの製品の荒い縫製には目を覆わしむるものがある。製造経費削減のため生産国を変えたに違いない。
"ISKA"のギヤバッグはその名のとおり登山用の道具を入れる袋だから縫製が荒くても一定の強度を保っている限り人命に関わることはない。それでも「しょうがねぇな、まったく」と、舌打ちをしたくなる。ズボラに作られた道具は、大切に使おうとする当方の気持ちを減衰させる点において気に入らない。
というわけで縫い目のほころびた古いギヤバッグは捨てず、何に使おうという目的もないまま当分は取り置くこととする。
お盆中の地方発送に遅滞の発生しないよう、製造現場には毎日ひとりずつ係が出勤して荷造りをしている。14日のアオキフミオさんは夕刻までに仕事を終えたが、きのうのイトーカズナリ君、本日のタカハシアキヒコ君には回る伝票がかなり多く、きのう今日と僕はその手伝いに借り出された。有り難いことだ。
何日か前に顧問税理士のスズキトール先生より桃をいただいた。桃は仏様に上げて、しばらくしてから食べた方が良いと先生はおっしゃった。よってその熟し具合を仏壇に近づくたび調べていたが、本日ようやくこれにありつくことにする。
桃にもっとも似合いの飲み物はシャンペンである。いや、これは「ブルースにもっとも似合いの食べ物は天ぷらだ」と原田芳雄が言うと同じ与太のたぐいだからサラリと流して欲しいが、とにかく晩飯の前には桃を肴にシャンペンを飲む。
太平洋高気圧が頑張ってくれているらしく、今日も空は晴れた。しかしウチのあたりは標高400メートルということもあり、朝は特に爽やかだ。爽やかさが嫌いなのかと問われれば、初夏の爽やかさは好きだが今ごろの爽やかさは秋を連想させる点において疎ましい。
先おとといの昼にラーメンの「ふじや」へ行ったら卓上に「つけ麺、味噌、醤油」のプレートがあった。しかしそのときには頭の中が冷やし味噌ラーメン一色だったため、席について後の軌道修正は利かなかった。よって今日は満を持して「ふじや」のドアを開け、味噌つけ麺を注文する。
盛り蕎麦は、あまり大量に口へ入れると美味くない。ところがいわば盛りラーメンを食べるときには、胸がむせるほどたくさんの麺を口に含むとなぜか美味い。双方の食感の違いによるものだろうか。
代金を支払うとき「ふじやさんでつけ麺、やってくんねぇかなぁって、実はずっと思ってたんですよ、でも人の商売に口を出しちゃ申し訳ないと思って黙ってたんです」とオヤジさんに言うと「いや、何でもどんどん言ってください、常連さんが一番、分かってるんだから」とのことで、つくづく「ここのオヤジさんは人間ができてるなぁ」と感じた。
「常連さんが一番、分かっている」とは、その通りだ。しかし人の意見を虚心坦懐に聴くとは、なかなかできるものではない。
今日のつけ麺はつゆの冷たかったところから「冬はどうするんですか」と訊くと「冬はつゆを熱くして、別の器でダシをお出しします」というから「ふじや」は冬のつけ麺も、大いに楽しみである。
朝から沸き立つ白い雲、青い空。夏はこうでなくてはいけない。僕がかつて見たうち最も大きな積乱雲は春のダナン上空にあった。僕がかつて見たうち最も青い空は冬のグラナダにあった。グラナダの青空は夜空と見まがうような濃い紺色だった。それらには及ばなくても、日本の夏の白い雲と青い空はやはり嬉しい。
8時15分の開店時間よりも早くにお客様が集まり始めたため、時間を繰り上げて店を開ける。そしてそのまま閉店時まで繁忙が続く。
夕刻に製造現場で作業をしていると、昼にもまして汗をかいた。よって普段は飲まないビールを初更に700ccほども飲む。
僕は極端な早寝早起きで、きのうは夜8時30分に就寝して今朝は1時30分に起床した。健康や道徳の面から早寝早起きを否定する人は世に少ないだろう。しかし僕はその度合いが極端だから、明け方に寝て昼ごろに起きる昼夜逆転の人と、そう変わらない。
そして深夜からの霧は明け方になるにつれ深くなり、5時には100メートルより先は何も見えなくなった。夏らしい晴れはきのう1日でお終いである。
朝、家内と次男との3人でお墓参りに行く。午前中は初盆を迎えたお宅を訪問するも、その途中に立ち寄るウチはひどく忙しく、よって予定していたお宅の半分は明日に回すこととする。
長男が午後に帰宅して、次男とふたりでお墓に迎え火をする。提灯に入れられ帰宅した火は無事、仏壇の蝋燭に移された。
終業後、オフクロも交えた5人で"Finbec Naoto"へ行く。今月16日の僕の誕生日の前祝いだといって、代金はオフクロが支払ってくれた。「金を使うならこういうところで使え」と僕が声を大にして言いたい食べ物屋の筆頭は、我が町においてはこの"Finbec Naoto"と、もう一軒は会席の「ばん」である。
ところで「じゃぁオレ、16日から54歳?」と訊くと「53歳だよ」と家内が教えてくれた。齢が進むにつれ人に教えてもらわないと自分の歳も分からないようになってきた。今年98歳になったおばあちゃんにだんだん似てきた、というわけだ。
朝3時30分の空は暗くても、雲のほとんど無く、空気も澄んでいることくらいは分かる。果たしてその1時間後には夏らしい青空が見え始めた。
我々醸造に携わる者は総じて、ひとつの仕事を思い描いてから完成させるまでを、長い期間の中で考える。それは、自然のたまものとしての原材料を、微生物の力を借りながら、長い期間をかけて熟成させていく、そのなりわいに拠るところが大きい。
そうしたところ本日は1ヶ月で新商品を完成させよとか、最適の包材に納めた新しい組み合わせの商品画像を明後日までに届けよ、というような仕事が舞い込み、東奔西走する。
「無理です」と言ってしまうのは簡単だが、何かを創り上げようとして知恵を絞り汗をかいている人がいることを想えば、そう軽々にお断りのできる筈もない。
というわけで「ただでさえ忙しいお盆に、またまた繁忙の上乗せかよ」という日が今日からしばらくは続くわけだ。そして「この仕事をオレに振った本人が、よもや今夜の成田発でバリへ飛び、明日はサヌールのビーチで寝ている、なんてこたぁねぇだろうな」と考える。
きのうの午後、次男が東武日光線快速で帰ってくるときには、途中、大雨で列車が止まる恐れもあるから充分な飲み物と食べ物を車内に持ち込むよう言った。幸い運転の見合わせがあったのは下今市駅と鬼怒川温泉駅のあいだのみにて、次男は時間どおりに下今市駅に到着した。
僕はかつてこの東武日光線の上りにおいて、4時間の足止めを食ったことがある。それは自然災害によるものではなく踏切事故を原因とするものだった。
復旧の目処の立たないところから我々乗客は東武日光線のどこかの駅から東北本線の小山駅までバスに乗せられ、特殊な切符を手渡された。その切符で僕は池袋駅まで行った。駅員に事情を説明するとそのまますんなり改札を出ることができた。もちろん一銭の料金も支払ってはいない。
ふと湧いた疑問について、ヲタクと呼ばれる人たちに意見を訊いてみたくなることがある。あのとき池袋駅で確かめたかったのは、この特殊な切符で行きつける最も遠い駅はどこか、ということだ。もしこの切符で北海道の北端や九州の南端まで行くことができれば、旅好きの暇人にとってはもっけの幸いではないか。
もっとも、いくら乗客に迷惑をかけたとしても、そこまでの大盤振る舞いをする鉄道会社はあるはずもないだろうが。
きのう初更からの雨は夜半を過ぎて更に量を増した。ドードーあるいはゴーゴーと途切れることのないその音を聞きながら、しかし蔵の大屋根の排水については昨年、太さ300ミリのパイプを用いてバイパスを設置した。よって闇の中でも大した心配はしない。
夜が明けて食事を済ませ、開店準備のため事務室のシャッターを上げると、日光街道から日光宇都宮道路今市インターチェンジへ向かう車線を警察の車両がふさいでシケインを作っている。多分、この先の平ヶ崎アンダーパスが浸水しているのだろう。
西裏用水堀に掛けられた鉄板が、国道121号線のちかくで水の勢いに突き上げられ、上流から流れてきたゴミを吐き出している。よって歩行者に注意を促すべく、ここに赤いパイロン2個を置く。
その雨も昼が近づくにつれようやく収束した。明日あたりからは何とか晴れて欲しい。
「日光奇水まつり」とは日光市の瀧尾神社、高お(雨冠に口を横に3並べして下に龍)神社の二社には創建当時から霊験あらかたと伝えられる御神水があり、両者の御神水を合わせることにより上質の水を後世へ伝えようとする、全国でも珍しい二社合同のお祭りである。
本日はその「日光奇水まつり」にて午後3時50分に瀧尾神社へ行くと、3斗6升5勺の御神水を載せた御輿は有志の面々により万端整えられていた。
発輿式の後、次期当番町朝日町のお囃子に送られて、4時30分に御輿が宮出しをされる。天狗の面を付けた猿田彦を先頭に行列は日光街道を下り、春日町1丁目のお囃子に、また小倉町に先回りした朝日町のお囃子に勇気づけられるようにして御輿は御神水を振りまきながら5時に追分地蔵尊に達した。御輿の担ぎ手はひとりの例外もなく頭の先からつま先までずぶ濡れになっている。
ここから日光市大室地区の「高お神社」までは到底、御輿を渡御させられる距離ではないため、人はバスあるいはクルマで、また御輿はトラックで「高お神社」の参道前まで送られる。
「高お神社」の急峻な参道には60余段の石の階段があった。瀧尾神社宮司、我々責任役員、高お神社の関係者が待つうちあたりは見る間に暗さを増し、やがてその闇の中を御輿が上がってくる。御輿の御神水を失わないようこの参道を昇る仕事は生易しいものではない。
いよいよ高お神社の神前にて祭祀が始まる。御輿の御神水に高お神社宮司が折り鶴を投げ入れると鶴は西方を向き、以て今夏は多雨と台風に注意との予想が出た。と、その途端に我々の頭上では雷鳴が聞こえ、同時に大量の雨が落ちてくる。
背後にいた頭のオノグチさんが僕に、テントに入って雨を避けるよう促す。お祭りの主役は神官と御神輿の担ぎ手であって、責任役員などはお飾りに過ぎない。しかしお飾りであればなおのこと、儀式のあいだは他の見本として姿勢を正している必要がある。責任役員のひとりコミネシゲハルさんが玉串を奉奠する手伝いをし、やがてお祭りは雷雨の中を無事に終了した。
「高お神社」の四阿で直会の熱い味噌汁やおむすび、また串揚げや生ビールなどをいただく。雨は弱まっても止むことはない。今度は60余段の石段を、高お神社関係者の方の懐中電灯を頼りに下り、濡れた浴衣と泥だらけの足で9時に帰宅する。
目を覚ますと素っ裸だった。夜のうちに自分で洗ったのだろう、部屋の開け放った戸の向こうに、きのう次男の着ていた服が干してある。東京大学の銀杏から蝉の鳴き声が一斉に聞こえてくる。時計を見ると4時20分だった。
6時前に起きてきた長男と、お盆についての打ち合わせなどをする。いまだ寝ている次男は、今日は同級生と豊島園のプールで泳ぎ、明日は長男と下北沢で芝居を観るという。宿題は溜まる一方だろうが、脳の新陳代謝の盛んな時期には、できるだけ歩き回ってあれこれ見たり聞いたりすべきだ。
充分な時間の余裕を持って北千住へ行くと、7:41発の下り特急スペーシアは満席だった。よってその30分後の下りを買い、駅の中の"STARBUCKS"で冷たいコーヒーを飲みながらきのうの日記を書く。
8時を過ぎてプラットフォームに向かうと、この下り特急スペーシアにも満席の表示が出ている。5月の連休、お盆の前後、秋の紅葉シーズン、年末年始のスペーシアには油断がならない。2時間後に帰社して財布を逆さに振れば、その中身は僅々304円になっていた。
夜は飲酒を避け、今月4回目の断酒を早くも達成する。
自己犠牲の匂いのする点において「家族サービス」という言葉が嫌いだ。僕が家族と遊ぶとは、自分の行きたいところに家族を同伴する、ということだ。
そういうわけで今月3日から東京や三浦海岸に居続けている次男と神保町へ行き、壊れたクーラーが1週間も直らないという"Computer Lib"できのうの日記をサーヴァーへ転送したり、あるいはメイルの送受信をする。
ここから炎天下を歩いて竹橋の「東京国立近代美術館」へ移動し、ゴーギャンの展覧会を見る。「とても面白かったよ」というのが次男の感想だったが、何がどのように面白かったのかは知らない。
神保町に戻って昼飯は次男の希望により「覆麺」で食べることにする。15分ほど並んで店内に入れば、今日は白覆面のミスターホワイトは不在で、黒覆面のミスターブラックとオネーサンのふたりがいた。先に食べ終えて外へ出ていた僕に、スープを80パーセント以上飲んだ者に与えられる「次回玉子サービス券」の自分は最年少取得者になったと、後から出てきた次男が言う。
それにしても、コンガ共和国生まれで日本語が話せない設定のミスターブラックと、日本生まれのミスターホワイトが覆面をかぶってラーメンを作るという商売の形態、ドラマ作りは「良く思いついたなぁ」と感心する珍奇さで、しかもその店が繁盛しているのだから余計に凄い。
靖国通り沿いの「石井スポーツ」で登山用の靴下を買うべきところ、それを忘れたまま地下鉄三田線に乗り、日比谷から「東京国際フォーラム」のCホールへ行く。ブラスバンドグループの"blast"は「凄い」のひとことに尽きたが、空席が目立ったのはS席が10,500円という価格にあったのではないか。
「ビックカメラ本店」では"RICOH GRD III"の特別ブースへ直行する。そこにはリコーから派遣されたらしい営業係がいたためふたことみこと話をし、「価格がこなれてきたら買います」と言って苦笑いをされる。
それにしても東京の気温は高い。ズブズブに濡れて汗を吸わなくなったハンカチも空中でヒラヒラさせていればすぐ乾いてしまう暑さの中を尾張町まで歩き、地下鉄銀座線を使って表参道に出る。
南青山の"PRADA"脇から路地を辿って荒木経惟のポラロイド写真展が開かれている"RAT HOLE GALLERY"に入ると、それまでは何も考えていなかったが、裸の女の大股を開いた写真が数百枚もある。一驚して「これはポルノだよ」と言う次男に「アラーキーが撮れば女の裸もゲージツになるんだよ」と答えつつ腹の中では「ちと無理のある説明だわな」と思う。
よそで待ち合わせた長男も偶然このギャラリーにいたため、3人で骨董通りへの道を歩いていくと長男が「このまえ恵比寿で篠山紀信の写真展を観たけど、ぜーんぜん違うね、アラーキーの方が断然、良い」と言うので「シノヤマは売れる天才で、アラーキーはバカの天才なんだよ」と答える。何度か書いたことだが僕のもっとも好きな写真集は荒木経惟の「東京は、秋」だ。
青山通りを背にして骨董通りの右側を高樹町へ向かうと、イタリア語と日本語を連結した名前の、ガラス張りの洋服屋がやがて見えてくる。その手前を右に入り、すこし歩いた左手の路地のどん詰まりにバスク料理の"LAUBURU"はある。
ガスパチョをひとさじ飲み込んだ次男が、きのう「鳥しづ」でトサカを食べたときと同じく「ウマー」と言う。豚のスネ肉のコンフィを食べた長男が「これ、ホントに美味いよ」と言う。豚の胃と腸のギャレットを顔のちかくに運んだだけで、豚の内臓の香りにクラクラする。そしてそれを食べて僕も「いやしかし、ホントに美味いな」と言う。
レンズ豆のサラダ、マッシュルームのサラダ、ムール貝のワイン蒸し、ガスパチョ、豚のスネ肉のコンフィ、豚の胃と腸のギャレット、白金豚の肩ロースの炭焼き、クレームブリュレ、ガトーバスクふたつ、これに僕と長男はドライシェリーをそれぞれ1杯、高くはないが白ワインをフルボトルで1本、僕はマール、長男はカルヴァドスを1杯ずつ飲んで勘定はきのうの「鳥しづ」のそれにすこし足した程度だから"LAUBURU"は本当に、いつまでもあって欲しい店だ。
我々がメシを食べている最中に東京の中心部を襲った豪雨は、帰るころにはすっかり上がっていた。表参道から地下鉄千代田線に乗り、9時前に甘木庵に帰着する。
きのうの日記に「旅そのものよりも、旅の計画を立てる方が好きだったりする」と書いた。それではいざ旅に出たとき、その計画を実行するかといえば実行はしない。好きなのは「計画を立てること」であって「計画を実行すること」ではない。
旅の計画とは概ね、その3割もこなせれば上出来である。あるいは「何もしない」と計画することも計画のうちである。
ところで今夜の晩飯は計画どおりに長男、次男との3人で神楽坂の本多横町から更に細い路地へ浸透し、焼き鳥でビールを飲む。僕は通常ビールは飲まない。しかし二日酔いは2日前のことにて、おととい学習したことはさすがに僕でも覚えている。
夕食を終えて飯田橋への坂を下っていけば、東京理科大の大規模な再開発にともない閉じた店が散見される。
3日前のように酔いすぎることもなく甘木庵に帰着し、本日の日記を書いて夜11時に就寝する。
関西はきのう梅雨明けをして気温が急上昇したという。関東甲信越は7月14日に梅雨明けが発表されたがその後も雨の日が続いていた。今朝の山を見て「実際には日光地方も関西と同じくきのうが梅雨明けだったのではないか」と思う。
出かける直前まで自分がどこに連れて行かれるか分からない、これに「ミステリーツアー」と名付けて旅行社が安く売っている、それを数日前のテレビで見ながら「これ、良いなぁ」と次男に同意を求めた。しかしテレビの人は続けて「このツアーに向いた人」の条件として「旅慣れた人」「旅の計画を立てない人」、もうひとつは何か忘れたが、とにかくそんな3つを挙げ、それを聞いて僕は「やっぱりオレはダメだ」と思い直した。
僕は、旅そのものよりも、旅の計画を立てる方が好きだったりする。だから谷口正彦の「冒険準備学入門」も好きなのだ。
いつか日光市大沢地区の「菜もん」でメシを食べていたら、満席ちかいところに「8人なんですけど」と入ってきた集団があった。当然のことながら席はない。僕は腹の中で「バカチン」とつぶやいた。そして「何で予約しねぇかなぁ」と不思議で不思議で仕方がなかった。8人でメシを食べるのに、そしてその行き先が午後3時のファミリーレストランでもないのに予約をしない人があるだろうか。
しかしまた、僕はこの年になって「計画を立てるのは大嫌い。第一、息が詰まる」という人のいることを知った。そしてこのような人は、意外と世の中に多いらしい。「計画を立てると、旅では面白いことに遭遇しづらい」と言う人もいる。まぁ、何となく分からなくもない。しかし僕は、そういうのはダメだ。
というわけで終業後に神楽坂の「鳥しづ」へ電話を入れ、明日の夕刻5時からのカウンターを予約した。そして次に高樹町の"LAUBURU"へ電話を入れ、明後日の夕刻6時からの席を予約した。ことメシについてはしっかり計画を立てないと、美味いものには遭遇しづらいのだ。
「何だか知らねぇけど今日の酒はバカに美味めぇな」と感じたとき、自分はどのように行動すべきか、ということを深く考えるのは常に、二日酔いで朝を迎えたときである。つまり深く考えても時は既にして遅い。
6時30分にひとりで甘木庵を出る。岩崎の屋敷の裏を歩いて切通坂の見えるところまで来ると、「湯島プラザホテル」の跡地に赤い欄干ができている。永年のランドマークは湯島天神の駐車場になってしまった、というわけだ。もっとも原宿や六本木あたりにくらべれば、湯島の景色の経年変化はしごく少ない。
「食欲が無いのは、そのとき食物を摂ることが有害だと身体が知らせているから」と言う人がいる。非常に納得のいく説明だが「メシはちゃんと食べなきゃダメだ」という永年に亘って染みついた考えから、北千住の「デニーズ」でベーコンエッグ朝食を食べる。そして食べている最中から二日酔いの症状が更に重くなっていく。
下り特急スペーシアの中では仕事をするはずが、ずっとぐったりしている。
それでも夕刻からは元気になって「二日酔いのときは湯波くらいにしたおいた方が良いのよ」と言う家内を説き伏せ、生卵を落としたカレーライスで三杯飯を食べる。
夕刻5時前に地下鉄千代田線の湯島駅から地上に出ると、空は晴れて空気は暖かく、とても良い心地がした。次男と切通坂を上がりながら湯島天神を眺めれば、旧岩崎亭の蝉時雨に全身を包まれ、ふと「夏晴れ、なんて季語はねぇのかな、今日はちょうどそんな感じだぜ」と思う。
「栄児家庭料理」に長男も呼んで3人で晩飯を食べる。小さな杯で濾州老窖二曲酒を口へ運べば、いつも飲んでいるにもかかわらず、今日のこれは滅法うまい。気候の爽やかさや子供と一緒にメシを食べているという環境が、酒の味を著しく向上させているのだろうか。
「君に勧む更に尽くせ一杯の酒」ではなく手酌によってその美味い酒を長男と500CCほども飲む。ボトルに「上澤」と書くと神保町の方面から来る経済的に逼迫した人や調子の良い人が「ウワサワってボトル、ありますかね」などと店に言ってこれを飲み干してしまう。よって本日のニューボトルには別の名を書いた。夏の空はいつまでも明るい。
事務机の「最強金運カレンダー」の今日のところをふと見ると「9:00 会所」とある。時刻は8時45分だったから、おなじ事務室でコートジボワールについて調べていた次男に声をかけ、納涼祭の準備に行くよう言う。
その納涼祭に顔を出すべく昼に春日公園へ行くと誰もいない。ピンときて町内の公民館へ回ると、雨になることを心配したのだろう、納涼祭は公民館脇の小さな空き地にテントを張って行われていた。上の方が随分と賑やかなので階段を上がれば2階ではお囃子が演奏され、また座敷では女の人や小さな子供がくつろいでいた。
ふたたび地上に降りるとユザワツネオさんが生ビールを出してくれたので「スイマセン、今日は飲まない日なんですよー」と謝る。今度はユザワクニヒロさんが氷のたらいに冷やしてあったマッコリを出してくれたので、またまた「スイマセン、今日は飲まない日なんですよー」と謝る。
その「飲まない日なんですよー」を耳にした近所のユー子さんに「何、それ」と言われるが、今日は飲まないと決めたら僕は誰に何を言われてもお酒は口にしない。
というのも今月は3日が本郷の「栄児家庭料理」、5日が日光の「ばん」、6日は神楽坂の「鳥しづ」、7日は青山の"LAUBURU"で晩飯だ。そういうところへ行きながら飲まないわけにはいかない。また23日からはタイの北の方へ行く。そこでは多分、僕はカオラーオを肴にラオカーオを飲み続けるだろう。
そのような非常時にあっても月に8回の断酒ノルマは変わらず、とすれば今月は早いうちからそれを消化しておかなければならない。
というわけで僕としては珍しく、2日続いての断酒をする。
きのうは立派な乳茸をいただいた。そういう次第にて昼飯はこのキノコと茄子のつゆで食べる素麺だった。これがすこぶる美味い。
キノコとは非常に地域性の高い食べ物で、ある村では食用として好まれているものが、別の村ではまったく見向きもされないということがある。あるいは同じキノコでも、土壌や気候の違いにより味や食感や毒性に差を持つのかも知れない。
キノコは地域性以外にも、時代によって食べられたり食べられなかったりする。本日の昼食に上った乳茸でさえ「昔はこんなの、蹴飛ばして歩いていたんだ」と言う人がいる。
夜は花火大会の開かれている大谷川の河川敷ちかくまで家内と行き、屋台や商店で晩飯のおかずを買う。「いちもとサイクル」のバーベキュー大会に参加をしていた次男からは夜9時30分に電話があり、よってホンダフィットにて迎えに行く。