「今日は朝の仕事があるんだったよな」と、きのう社員に頼まれたことを闇の中で思い出す。早朝の仕事のあるときには念のためiPhoneに4時45分のアラームを設定するが、大抵はそれが鳴る前に目を覚ます。
着替えて顔を洗い、食堂に入ってiPhoneのホームボタンを押すと、しかし時刻はいまだ2時30分を過ぎたばかりだった。
車掌のアナウンスも聞かず、また駅名も確かめずに電車から降りてしまう。あるいは行き先を確かめないまま電車に乗ってしまう。そして目的としたところとは違う場所に立って初めてみずからの誤りに気づく。そういう僕の癖が、今朝は時間というものにおいて発生した、ということだ。
眠気はまったく無い。よってそのまま食堂にいて本を読む。そして早朝の仕事を済ませれば、また食堂で本を読む。朝日が昇ってきたことを潮に本を閉じ、食堂を出て応接間へ行く。そして鶏鳴山の疎林に積もった雪を望遠する。
朝一番で長男とホンダフィットに乗り、想定外の雪に見舞われた、らっきょうの畑を見まわりに行く。黒く軟らかい土を踏んで歩いた先の畑には、葉も茎も根も髭根も元気ならっきょうが瑞々しくあった。らっきょうに限らずいま農地にあるすべての作物は、寒さに動じることなく恬淡と育っていって欲しい。
「酒飲みが、酒を飲む意欲を急に失うとは尋常でない。かならず検査を受けるべし」と、facebookで親切に言ってくれた人がいる。
今月8日に発症した「腹減らない病」および「酒欲しくない病」については「栄養の摂りすぎから離れられるのは悪くないこと」とか「酒を飲まずにいられるのは好都合」と考えてきたが「重病の兆しかも知れない」とたたみかけられれば何やら不安になる。
事務机に格納した診察券の束を探ると、2010年6月、シェムリアップから帰ると同時にひどい腹痛を起こし、そのとき世話になった宇都宮のサクライ消化器科内科のそれが見つかった。よって同病院に胃カメラによる検査を予約した。数日前のことだ。
検査の日時は本日の11時30分だから、10時20分に家を出て11時前に現地に着く。最後に胃カメラを経験したのは四半世紀ほど前のことで、場所は、今は獨協大学日光医療センターになっている、珪肺労災病院だった。
当時の胃カメラは直径が10ミリほどもあって、僕は胃カメラは苦にしない方だったが、それでも処置後は喉に痛みが残った。それが今回の胃カメラは直径5ミリの鼻から入れる式で、これなら段違いに楽である。
結果は「食道も胃も十二指腸も綺麗で、潰瘍も、癌の兆候なども皆無です。またピロリ菌もいません」というもので、雨の中を淡々粛々と、ホンダフィットで帰宅した。
胃に異常が無いとすれば、現在の僕の「腹減らない病」および「酒欲しくない病」の原因は何だろう。大林宣彦の「転校生」で、主人公の男女が入れ替わってしまったような劇的変化が、今月の8日を境に僕の体に起きたのか。あるいはそのうち元の「空腹病」および「明るいうちから飲みたい病」に戻るのか、どうなのか。
自炊生活は8日目に入った。納豆のパックを開けて先ずするのは、そこに添えられている「納豆のたれ」を捨てることだ。いわゆる「納豆のたれ」は生まれてこのかた1回しか使っていない。その初回で核酸系調味料の強さに辟易して、以降はすべてゴミ箱に直行である。
「腹は減らないけれど、食えば食える」、「酒が欲しくないことは便利だから一切、飲まない」という、ある種の不調に見舞われてから今日で18日になる。そしていよいよ今日は、僕が日本酒に特化した飲み会「本酒会」の例会日だ。
19時すぎに家を出て、国道121線を鬼怒川方面に自転車で下る。路肩の雪はあらかた無 くなっているから、危ないことはない。
「本酒会」の春先の楽しみは、喜久水酒造の「一時」と白瀑の「ど」という、秋田が誇るふたつの濁り酒を飲めることだ。両者には暴発の危険があるため、これらの栓を抜く係は、会に先立ちクジで決められる。このクジはいわば、外れクジである。
「ど」の外れクジを引いた僕は、今夜の「ど」の穏やかさに感謝した。そして「一時」の外れクジを引いたイチモトケンイチ本酒会長は、近年には経験したこともない今回の一時のガスの強さにしてやられた。上出来の純米吟醸酒により会長の衣服はしとどに濡れ、また「玄蕎麦河童」の天井は白濁したシャワーを浴びることになった。
僕にとって18日ぶりのお酒は、普段どおりに美味かった。そして21時前に来た道を引き返し、21時すぎに帰宅する。寒さは随分と和らいだような気もするが、いまだ油断はできない。
ウチの目の前の国道121号線に残った雪を、朝、地元の建設会社がブルドーザでかきに来てくれる。鬼怒川温泉に向かう片側三車線が、春日町交差点の手前で雪のため二車線になってる、これを三車線に戻すようにとの、警察の要請による作業と、現場監督は教えてくれた。大いに有り難い。
今日は春季小祭の日だ。春季小祭とは「今年の秋にはどうぞ恵みの収穫をください」と神に祈るものだ。そのお祭の斎行にあたって午前、いまだ雪の残る道を徒歩で神社へと向かう。そして拝殿での祭典一式が完了すれば、社務所での直会では責任役員として、各町内の自治会長、神社総代、神社世話人を前に挨拶をする。
神社における次の仕事、否、これは仕事よりも見学あるいは遊山の色合いの強いものかも知れないが、来月10日より2泊3日の日程にて伊勢神宮に参拝をする。日光と伊勢のあいだはバスで往復をする。道中では随分と分厚い本が読めるだろう。それが今から楽しみである。
先月30日に会社の健康診断があった。記録を調べてみると、僕は昨年10月12日から健康診断前日の1月29日まで、 110日間連続で飲酒をしている。
「1週間に7日飲むなんて、あなた立派なアル中ですよ」と、10年以上も前に、ある医師から吐き捨てるように言われたことがある。であれば、110日のあいだ休みなくアルコールを摂取する人間は何だろう。
とにかくその結果、僕のガンマGTPは95と出た。70以下なら基準値内とする医療機関もあるが、今回の検診の結果には、50以下なら正常と添え書きがあった。いずれにしても95なら基準値超えで、それは想定の範囲内だ。
そういう僕が、今月は15日も連続してお酒を飲んでいない。飲めないのではなく、別に欲しくないわけだけれど、こうなると肝臓の機能はどれだけ復活しているか、それを知りたくて朝、オカムラ外科に採血の予約をする。
そして採血は10時45分に無事に完了した。結果は今週の木曜日には出ると看護婦さんには言われたが、宇都宮の済生会病院から医師の来る来月27日に教えてくれれば構わないと、僕は返事をした。
別途「酒好きが酒を欲しくなくなったとは凶兆かも知れない。早期に検査を受けるべし」と親切に言ってくれる人もあり、夕刻、胃カメラの予約をサクライ消化器科内科に入れる。胃カメラを体内に送り込まれるのは、多分、四半世紀ぶりのことだろう。
形の異なるバンドエイド計120枚を、朝のうちにインターネット上で買う。おととい21日の日記にあるように、手の指すべてが軟膏とバンドエイドを必要とする今にあっては、120枚を在庫しても、そう長く保つものではない。
昼になる前にムック本1冊とメガネケースひとつをamazonに注文する。MOOK本は僕の物欲を刺激するたぐいのもので、だからそのようなものは、本屋で立ち読みするくらいにしておくのがちょうど良いのだ。しかしそうと分かっていながら注文ボタンをクリックした。
午後になって、欲しいCDがあったことを思い出す。そうしてまたまたamazonへ行き、これを注文する。
本とメガネケース、そしでCDと、荷物がふたつになってはamazonに申し訳がない。ヤマトは荷物の数が倍になれば売上げも倍になるだろう。しかし現場のドライバーは、amazonの荷物を同じ客に日に何度も配達することを好まない。
そうして朝と昼前に頼んだふたつの品をひとつにすべく「複数の注文をまとめる」ボタンを探すと、しかしこれが見あたらない。ことによるとamazonは、経費の節約よりも、時間の節約を重く見ることに方向を転換したのかも知れない。
ついこの前まで、東の空の明るくなるのは6時50分のころだった。ところがここ数日は5時台の後半に夜が去り、6時を回れば今にも日の昇りそうな紅色に地平線が染まる。頭の中で月の数を数えてみれば、冬至から夏至までの3分の一が、早くも過ぎているのだ。
所用にて下今市10:35発の上り特急スペーシアに乗る。
メガネのテンプルが、前回の調整からこのかた緩くて仕方がない。下を向いて仕事をするなどの時には、ややもすればメガネは落ち加減になる。よって行きつけの眼鏡屋を池袋に訪ね、再調整をしてもらう。
この眼鏡屋で予想以上の時間を費やすうち、昼飯に割く時間が無くなる。ここに何度も書いているけれど。今月8日から僕は「腹減らない病」に罹っている。よって昼飯の一食くらいは抜いてもどうということはない。
「腹減らない病」と同時に「酒欲しくない病」も僕は併発している。帰りはオヤヂ飲み屋の宝庫である北千住を経由しても飲酒欲は湧かない。カフェラテ1杯を飲んで帰宅の途に就く。
記録によれば僕は2002年5月から、高血圧と高脂血のため、医師の診察を受けている。高血圧、高脂血とはいえ大したことはない。WHOだか厚生省だかは知らないが「数値がこれ以上、高くなると異常ですよ」という、その「数値」を低く設定するたび高血圧症や高脂血症の人は増えるのである。
「お酒を飲んだ翌朝は、血圧はどうしても高くなります」と、医師に言われたことがある。しかし僕のからだには、飲酒を為した翌朝の血圧が顕著に上がるという現象は起きていない。
「酒欲しくない病」にて断酒はきのうで連続12日になった。そしてこのところの血圧が、実は低い。上が110台、下が60台なら、WHOだか厚生省の基準に照らしてもかなり低い。
飲酒の有無が翌朝の血圧を決定することは僕の身には起きていない。しかし断酒を連続すると血圧は低くなる、それについては今回の経験で良く分かった。かといって、このまま死ぬまで酒を断つ、というわけではもちろんない。それにしても現在の「酒欲しくない病」は、いつ快癒するのだろう。
そういう次第にて血圧については快調だが、手の指先やかかとはアカギレが頻発してして不調である。今朝は遂に、右手の指すべてに軟膏を塗りバンドエイドを巻くこととなった。こうなるとiPhoneもコンピュータのパッドも反応せず、文字通りのお手上げである。
「このクリームが良いですよ」「あのクリームが効きますよ」と言われても、そのクリームを塗った数分後には、その感触の嫌さに石鹸で手を洗ってしまうのだから、僕のアカギレについてはどうにもならないのだ。
大雪が去って後は晴れる日が多くなった。今週はいまだ寒さが残るものの、来週の半ば以降は、まるで春のような日が続くのだという。本当であれば嬉しい限りだ。
日光市今市地区の中心街にある「かましん」から北側の、雪の重みで崩れたアーケードは、本日からようやく、崩れた部分の撤去がはじまった。その作業のための重機はちょうど、これから入ろうとしている「鹿沼相互信用金庫」の真ん前に置かれている。
当方はその「鹿信金」に用がある。引き返せば明日の仕事が増えてしまう。交通整理の警察官によれば、車道を重機に沿って行けば案内が立っているという。そうして言われるまま車道を往き、するとなるほど赤い棒を持った銀行側の人がいた。そしてその人の誘導により、ようやく行内に達する。
午後は役員を務める瀧尾神社へ行く。そして今年の当番町による初会議に出席をする。5日後の25日には、早くも春季小祭が催行されるのだ。
家内も長男も高島屋の現場に詰めているため、僕は18日の火曜日より自炊をしている。今夜も30分をかけて食事を整え、しかし飲酒を伴わない食事は15分で完了する。断酒の記録は本日で12日目となった。
明日は久しぶりに早朝の仕事が控えている。よって入浴して即、就寝する。
大雪によるヤマトの混乱により、いつもの倍の荷物を積んだ三菱デリカは、きのう無事に日本橋までたどり着いた。そして今朝は「老舗名店味紀行」の一員として予定どおり、日本橋高島屋で開店を迎えることができた。大いに有り難い。
23日の日曜日には「東京マラソン」が開かれる。高島屋の前の通りはそのコースになる。大きなマラソンの大会はある種のお祭で、であれば沿道の店はいかにも賑わいそうだが、実はそうでもない。混み合うことを恐れて、ファン以外の一般人は、コースちかくには寄りつかないのだ。
「東京マラソン」が開催される週の、コースに接する百貨店の売上げは、マラソンから2日を遡った金曜日にもっとも高くなるという、いかにも都市伝説めいた話がある。そしてそのような「伝説」については、僕はハナから信用しない。
よってウチが日本橋高島屋に出店している最中に「東京マラソン」のあった唯一の年である2007年の記録を調べてみた。するとなるほど「伝説」を裏付けるように、その週の成績は金曜日の数字がもっとも高かった。
とすれば「老舗名店味紀行」の、今年の勝負どころは21日の金曜日、ということになる。社員各員の、一層の奮励努力を期待するばかりである。
コンピュータは1990年代から"ThinkPad"一辺倒だった。これを十数年も愛用したのは、何よりキーボードの真ん中に位置する赤いトラックポイントが使いやすかったからだ。
それほど長く使ったマシンに後ろ髪を引かれることもなく"Let's note"に乗り換えたのは2011年8月のことだ。"Lenovo"以降の"ThinkPad"の質感の低下には我慢がならなかった。
ポインタのコントローラーがトラックポイントからパッドに変わることには「そんなの、1週間で慣れる」という声が周囲にあったにも拘わらず、随分と不安に感じていた。そしていざ"Let's note"を使い始めると、パッドには何のことはない、1週間もかからず慣れた。
そのバッドの手前にある左クリックボタンの感触が、10日ほど前から芳しくなくなってきた。それが今日は遂に「ノレンに腕押し」のような具合にまで悪化したので即、秋葉原にある「LUMIX & Let'snote修理工房」のページをウェブ上に開く。
そしてIDを入れパスワードを入れ、必要事項をあらかた入力し終えて「修理受付日」のところで3月の日付を入れようとすると、プルダウンには1週間分の日付しか用意されていない。よって通信手段を電話に切り替え、3月上旬の持ち込みを予約する。
たとえそれが大会社であっても、いわゆるサービスセンターは大抵、不便な場所にある。秋葉原に修理の拠点を維持し続けるパナソニックには、僕はとても感謝をしている。
日光宇都宮道路は宇都宮から大沢まで開通した。日光街道の、その大沢付近の渋滞に行く手を阻まれている、あるいは杉並木の落ちた枝により2車線が1車線に狭められた例幣使街道で進退窮まっている、そういう電話が出勤途中の社員より相次いで入る。
中部地方も含めて、これより西へ送ろうとする荷物の受け取りはできなくなったと、ヤマトのドライバーが報せてくる。
この大雪の最中に発生した、社員の家の不祝儀について思いを巡らせる。刻々と変わる、あるいはそれを伝える媒体によりまちまちな天気予報を、ネット上を泳ぎつつ調べる。事務机の左側に貼ったカレンダーの、自分が役員を務める外の仕事の日程を確認する。
あれこれ考えるうち「今日の午前中に眼科へ連れて行く」という、オフクロとの約束を忘れる。
日本橋の高島屋に向けて午前中に出荷した荷物が「明日の配達が確約できなくなった」と、ヤマトから戻ってくる。現在時刻は15時。明後日より始まる「老舗名店味紀行」を段取りしてきた長男と運転係のハセガワタツヤ君が出した解決策は4つ。
1.今夜、第1便を三菱デリカで運んで帰り、明日、第2便を同じデリカで運ぶ。
2.明日、三菱デリカで日光と日本橋の間を1.5往復する。
3.明日、三菱デリカとホンダフィットの2台で日本橋を目指す。
4.何としても、すべての荷物を三菱デリカに積む。
試した結果、すべての荷物は三菱デリカに収まった。それだけ積んでも法定の積載量は超えていない。
ヤマトが「宅急便」を発明してくれたお陰で、社会の利便性は極端に向上した。あるいは宅急便のお陰で日本の流通は想像を超えて合理化され、景気に寄与した功績は計り知れない。そのことを考えれば、現在、大雪に翻弄され右往左往しているヤマトを非難することは、僕にはできない。非常時には、各自が知恵と力を絞るしかないのだ。
本日は朝から色々あって頭が忙しく、社員も僕も、夕刻に持つべきミーティングのことをすっかり忘れてしまった。それに気づいたのは、すべての社員の退出した後のことである。
そして今夜も飲酒は為さず、入浴して早々に就寝する。
「久方ぶり」と感じる光が東の空を朱色に染める。時刻は6時20分。このまま晴れてくれれば有り難いと思う。
国道121号線に面した小さな駐車場にクルマが出入りするための道筋は、きのう若い人たちが付けてくれた。それから今朝にかけてできたわだちの固く締まった雪を、今度は僕が削り取る。いくら重いとはいえ、柄まで鉄製のスコップでなければ、この仕事はできない。
きのうはヤマトが配達も集荷も中止した。今朝からは復旧するかと期待をしたが、朝方のドライバーからの電話によれば、今日は配達に徹して集荷はしないという。よって本日の出荷を予定していた顧客には、きのうに引き続き事務係がお詫びとご説明の電話をお入れする。
所用があって、昼前に外へ出る。町内では隣近所が協力しあい、路上の雪を側溝に捨てている。芝崎新道のわだちは深く、四輪駆動車さえ思う方向には進めない。
郵便局のポストに郵便物を入れ、会社に戻りつつ国道121号線の歩道橋に登る。陽の光が白い雪に照りつけ、目を開けていられないほどに眩しい。晴れさえすれば、根雪も急速に融けてくれるのだ。しかし時間が経つにつれ、空には雲の占める面積が広がってきた。
路肩や歩道の雪の、すべて消えるのはいつのことか。3日後の水曜日には、また雪の予報が出ているのだという。
国道121号線を、ゴトゴトと音を立てて過ぎていくものがある。カーテンを透かすとそれは、明け方の街を行く除雪車だった。「数十年ぶり」と言われた先週の雪よりも、きのう今日のそれの方がよほど強力である。除雪車はクルマ1台分の幅の雪をかきながら、今市IC方面へと去った。
朝飯の最中に家内の携帯電話が何度も鳴る。「どうあがいてもクルマを道まで出せないし、その道もまた雪が深くてクルマの通れる状況ではない」から始まって「今日、会社、やるんですか」というものまで、社員の自宅周辺の様子が想像されるような、それは電話だった。
結局のところ、出勤できた社員は6名のみだった。6名だけとはいえ、出てきてくれて本当に有り難かった。クルマでの出勤は2名、残りの4名は徒歩。そのうちのひとりで製造係のイトーカズナリ君は、家から会社まで90分を要したという。
本日の仕事は、雪かきはもちろんのこと、完成を待つばかりに準備された品物の袋詰め、本日のお届けを約しながら流通の混乱から多分お届けできないだろう顧客への連絡、また本日の出荷を約しながらヤマトの業務停止により出荷できない顧客への連絡など、待ったなしのものばかりだ。
雪かきの進みつつある店舗前に、10時ごろよりお客様が入り始める。商品名と数量をメモした紙を持ってご来店のお客様は多分、人に頼まれたものを求めていらっしゃったのだろう。鬼怒川温泉からの帰り道に、ウチを目指してお寄りくださる方もある。軽々に臨時休業してはいけないのだ。
店舗北側の雪は、かくことを諦め、歩く人のための道のみを穿った。雪かき隊は店舗向かい側に場所を変え、明日は来られるだろう社員のための、駐車スペースを確保した。止むことを忘れたような雪は、午後に入って弱い雨に変わりつつある。
商店街のアーケードが落ちたとの話を耳にして外へ出る。なるほどアーケードには端から端まで黄色いテープが張られ、つまりこれは「進入禁止」の意味なのだろう。仕方なく車道を歩いて行くと、スーパーマーケット「かましん」から北側のアーケードが、雪の重みで歩道ちかくまで垂れ下がっていた。
「私が小学生のころは、雪で学校閉鎖なんてこともあったんだよ」
「おとぎ話のようだね」
とは、僕と生前のおばあちゃんとの会話である。おとぎ話が現実になってしまった。
夕刻、退出のタイムカードを打ち終えた社員を事務室に集め、礼を述べる。徒歩で出社した社員は同僚の、あるいは家内の運転するクルマで帰宅の途に就いた。明日は晴れて欲しい。
週末に狙いを定めたような雪が、先週に引き続き、午前より降り始める。雪の粒は固く小さい。上空の気温は随分と低いのかも知れない。事務室の外で、ギャーギャーと、獣の聞き慣れない声がかしましい。
何ごとかと窓に近づけば、それは獣ではなく、山から雪に追われてきた風情の鳥だった。犬走りに置いた万両の赤い実を鳥は食べている。万両は6鉢を並べている。そのうちのひと鉢は、数日前より既に一粒の実も残っていない。今年の彼らの食糧事情には、厳しいものがあるのだろうか。
雪は更に降り積もる。よって社内に声をかけて回り、店番のひとりを除くすべての社員に、14時15分より雪かきをしてもらう。
「ソチオリンピックどころではない」とまでは言わないものの、テレビはどのチャンネルも、こぞって大雪を伝えている。そのうち、先週の注意報にはあって今回のそれには無かった「数十年ぶりの」という言葉が遂に、今日の大雪注意報にも付けられ始める。
僕の「腹減らない病」は、腹は減らなくても食べようとすれば食べられる。「酒欲しくない病」は、これを奇貨としない手は無い。そして夜は鮟鱇鍋をおかずに米のメシを食べ、断酒の実績を6日に伸ばす。
きのうなどは、極端に言えば1日に、普段の1食分ほどしか食べていない。当然、体重は落ちる。今朝のそれは60.5キロ。BMIは21.4と計算された。今月8日からの「腹が減らない」「酒が欲しくない」とは、栄養とアルコールが体の中に充満したことへの、本能的な快復欲求なのかも知れない。
空の一部には青空が見えている。しかし光は決して多くない。そういう冬の朝の景色の中を歩いて今日も"Vector H"に行く。作業の開始時間は僕の我が儘にて、通常より1時間ほども早めてもらった。
厄介そうに思われた仕事は、きのうの午前から能率を上げたため、予想より早くに完了した。以降の用事は特に無い。
恵比寿四丁目交番の角に立つと、つい坂を下りたくなる。しかしうっかりこの、通称「ビール坂」を下れば恵比寿の谷底まで至り、最後は駅を見上げることになる。よって遠回りに思われても山手線に架かる陸橋のそばまで歩き、動く歩道の上を早足で進む。
北千住には14時50分に着いた。よって15:12発の下り特急スペーシアの切符を買う。東京に2日いて一滴の酒も口にしないとは、そうあることではない。そして夕刻に帰社して机上に溜まった郵便物の封を切る。
ウェブショップの動向を調べるに連れ「あぁ、ここ、もうすこし充実させなきゃな」といところが目に付いてくる。それが自分の手に負える部分であれば自分で直す、あるいは作る。無理なときには"Vector H"のヒラダテマサヤさんに助けてもらう。そうして朝一番の特急スペーシアに乗る。
先週の土曜日から始まったらしい、4年ぶりとなる「腹減らない病」にて、今朝はココアのみ飲んでメシは抜いた。
「腹減らない病」は同時に「酒欲しくない病」も併発をする。午後、恵比寿の丘の上から谷の底へと降りて行きつつ頭に浮かんだのは「コーヒーを飲みながらドーナツが食いてぇ」ということだ。この僕が「コーヒーとドーナツ」とは「酒欲しくない病」も、かなり深刻である。
別の所用もあって、大井町に移動をする。大井町から本郷三丁目に至ったのは、空の暮れかかるころだった。そして結局はドーナツよりも軽いものを晩飯とし、飲酒はもちろん為さず、ねぐらへと向かう。
先日あるお得意様から、ウェブショップ内のリンク切れにつき指摘をされた。昨秋のサーバ乗り換え時に目が届かなかったことが原因で、同じような個所は他にも多々あることが想像された。
そういうバグを見つける仕事は僕より若い社員の方が得意なことは知っている。よってそのための作業を即、事務係のマスブチサヤカさんとタカハシカナエさんに振った。
そうしたところ、バグはリンク切れに留まらず、ショップの奥の方に潜んでいた休日の情報や、あるいはクルマでご来店になる方のための案内ページにまで及ぶことが分かった。
「お車でご来店のお客様へ」ページのバグとは「ウチのはす向かいの大橋油店が、いまだ"JOMO"のまま」というもので、言われてみればなるほど、オーハシタダオ君ちの看板は何年も前から"ENEOS"に変わっていた。よってその、新しい看板の写真を撮りに外へ出る。
日光街道には今朝から規制が敷かれ、伝統の「花市」が開かれようとしている。濡れた路面に跳ね返る冬の朝日が眩しい。
鬼怒川温泉からの国道121号線が春日町の交差点に差しかかろうとする左側に、オーハシ君のガソリンスタンドはある。その国道121号線の車道に立ち、"ENEOS"の看板、そしてそれに並ぶ道路標識を左手前に、ウチの店を右奥に置いて写真を撮る。
午後、人の数のますます増えた「花市」に、タイラーメンの店の出ていることを耳にする。タイのラーメンと聞いては、これを捨て置くわけにはいかない。場所はウチからすぐとのことにて、物好きにも出かけてみる。
「タイの国旗が翩翻と翻る」と書けば、これは「馬から落ちて落馬する」よりひどい同意の重複だろうか。とにかくその、タイ人らしいオバチャンの働く店を観察すると、澄んだスープには小さな干し海老がたくさん浮いていた。薬味は小口切りにした長葱だから、タイ風の匂いはしない。スープ鍋の後ろのザルに盛られた麺はバミーではなくセンレックだ。
「腹減らない病に罹ってなければ買ったところだけどなぁ」と、残念な気持ちになる。同時に「まぁ、今年もタイの北の方で食えばいいか」というようなことも考える。
「腹減らない病」はまた「酒まったく欲しくない病」でもある。晩には、おでんをおかずに粛々とメシを食べ、焦燥もせず恬淡としている。こと食べ物に限っては、今の僕は宗教者にちかいかも知れない。
目を覚ましてしばらく後に枕頭のiPhoneを見ると、時刻は3時28分だった。きのうの夜に飲んだ2錠目の「ガスター10」が効いたか、胃の痛みは感じない。おととい土曜日の午後から発症したらしい「腹減らない病」は、前回4年前の日記を読み返すと、2週間ほども続いている。
このときの僕の食事は、旅行や会合を除いては雑炊、パン、ヨーグルト、バナナなどが多い。食欲は皆無でも食べようとすれば普段通りに食べられるから、朝飯は平常どおりだったりもした。
「腹減らない病」のときには飲酒欲も湧かない。2週間ものあいだヨーグルトやお粥のみを食べ、飲酒もしないとなれば、体重はどれほど減るか。前回の記録は体重にまでは及んでいない。
自分にとっての最良の体重はどれほどか、そんなことは知るよしもないが、ここしばらくは63キロ、BMIでは22.3という数字をひとつの指標としてきた。ここから1キロ増えれば「すこし痩せなきゃなぁ」と反省したし、1キロ減れば「しばらく健康食が続いているのだろうか」くらいのところで満足をしていた。
ところが先月30日の健康診断のときには、着衣のまま測った数値から1キロを引くといういい加減な方法ながら体重は61.5キロと記録された。
僕のオフクロは骨と皮ほどに痩せてはいるが、寝たきりでも認知症でもなく85歳の現在も食欲は旺盛である。それに対して、常に標準体重を保とうと努力たオヤジは75歳で亡くなった。だから「BMIなどアテになるのか」という疑問があるものの、インターネット上に見つけたその計算機に本日、自分の現状を入れてみた。
そうしたところ「標準体重(kg)=64.9~70.6~76.2:体重をこの範囲にしましょう」と出たから思わず「ウソだー」と呆れ声を発した。下限の64.9キロでさえ僕には猛省の範囲であり、上限の76.2キロに至っては「明らかにビョーキ」とさえ今の自分には思われる。
これから2週間ちかくも飲酒は為さず、少食を保てば体重はどのあたりまで減るか。面白いので、今回は記録してみようと思う。
きのうの15時くらいから、胃に急に痛みを感じるようになった。できれば横になりたかったが、出席の返事をしていたため神社の会議に出て、その後は直会にまで参加をした。
「七転八倒」と書けば「白髪三千丈」に等しい大げさな表現になるだろうが、夜中にはかなり頻繁に「胃が痛いー」「疲れたー」ということばを発していたように思う。そしてきのう一昨日とおなじく2時台に目を覚ましたが、今朝に限っては起床は避け、6時まで半覚半睡を保つ。
きのうの未明から降り続いた雪が、いつ止んだかは知らない。朝6時45分の山にはいまだ雲がかかっているが、ふもとから下は晴れている。
平日であれば製造の男子社員もいるから、雪かきは小一時間ほどで終わる。しかし日曜日の男手は少ない。僕は店番および電話番だから楽だったが、社員たちは開始から3時間を超えた11時すぎに、ようやく本日の雪かきから上がった。
それを機に僕は自室に戻り、横になる。
「胃の不具合が現在、自分の身を訪れている。その症状は、ただただ食欲がなく、だからメシを抜いても一向に焦燥しない、しかし何かしら食べてみればそれはいつものように美味く、そしていくらでも胃に納めることができる」とは、2010年2月8日の日記の一部だ。そのときの不具合は2月6日に始まり、同19日に快方に向かっている。
今回は、4年前の上記に胃痛の加わっているところが厄介だ。昼飯は抜いた。そして夜は朝と同じくお粥を食べ、入浴して早々に寝る。
早寝早起きの極端な性分とはいえ、きのう今日と2日つづいての、午前2時台の起床はちと異常である。
洗面を済ませ、食堂に移動して「今ごろは、どうせテレフォンショッピングくらいしかやってねぇんだよな」とテレビのスイッチを入れると、画面には意外にも、ソチオリンピックの開会式が映し出された。
チャンネルを変えると、20年ぶりの大雪に注意するよう、天気予報が盛んに呼びかけている。時刻は3時30分。カーテンを薄く透かせて見る外には、いまだ雪は降り始めていない。
コンピュータを開き、facebook活動をするうち、やはり早起きらしい人の「雪が積もり始めた」とのコメントが目に付いた。時刻は4時30分。ふたたび外を見ると、今度は目の前の国道121号線が、白い色に変わっていた。
社員の出勤する7時30分には、雪の厚みは3センチほどになっていた。そうして特に急ぎの用の無い社員はすべて外へ出て、雪かきを始める。
雪は一時、小降りになったように思われたが、午後に入ってふたたび勢いを増してきた。よって社員には14時30分より、いまいちど雪かきをしてもらう。
建国記念日のからんだ週末は、年始から1ヶ月を経て、一瞬ではあるが客足の繁くなるときだ。それを狙い撃ちするような今回の大雪は、かなりの迷惑である。
今日は総鎮守瀧尾神社の、今年度の当番町が来年度の当番町に、その役割を引き継ぐ引継ぎ会議の日にて、粉雪の際限なく落ちてくる中を、午後も遅い時間に徒歩にて瀧尾神社へ向かう。そして責任役員として、各町内の自治会長や神社総代を前に挨拶をする。
竹美荘での直会は19時すぎにお開きになった。なお降り積もる雪の中を、シバザキトシカズさんのクルマに便乗させてもらい、19時30分に帰宅する。そして入浴をして即、就寝する。
今日は冬至から数えて47日目だろうか。いま、東の空は、6時前から明るくなり始める。有り難いことだ。ところでこの冬は、これまで大した雪も降らず、楽をしてきた。しかしここ数日、特にきのうからは寒さが厳しくなってきたように感じられる。
その厳冬を奇貨として仕込むのが「なめこのたまりだき」である。本日もその瓶詰めが製造現場では行われている。僕はその途中の段階で、試食のための「なめこ」を製造部長のフクダナオブミさんより受け取る。後の報告によれば、今回のロットは先日のそれに比べて歩留まりが良かったらしい。
昨年の今ごろ、家内に頼まれながらどこかに仕舞い込み、行方不明になっていた1枚のメモを探すため、午後、事務机の引き出しの中身をすべて、事務室の大机に、有り体に言えばぶちまけてみる。すると当該の紙片はたちどころに見つかった。
折角の「ぶちまけ」を無駄にしないよう、その引き出しをシミズノブヒロさん的に、あるいはホッピービバレッジ的に、更に遡ればKK武蔵野的に整理整頓する。この状態をいつまで保てるか。あるいは本日の夕方までしか保たないかも知れない。
いただいた名刺は即、コンピュータに入れて現物は捨てる。"to do"のメモは、即"do"して現物は捨てる。届いた手紙には即、返事を書いて現物は捨てる。何日も置き放した書類は潔く捨てる。そうすれば明窓浄机は常に保たれる。「分かっている」と「できている」の間には、二十億光年の隔たりがあるのだ。
初更、ダウンベストにダウンパーカを重ね、徒歩で日光街道を下る。人見知り、ひとり好きの僕ではあるが、町内の飲み会は嫌いでない。そして春日町1丁目壮青会の新年会に連なり、21時すぎに帰宅する。
2009年2月、まじゅろさんは銀座の立ち飲みバー"MOD"でテキーラのお湯割りを、次いで「竹鶴17年」の加水を飲みながら、南太平洋における海洋観測について1時間も話し続けた。僕も旅の道具についてなら、それくらいの時間は話すことができる。
まじゅろさんの海洋観測は仕事だが、僕の旅は遊びで、そこのところが情けないとは思うけれど「遊びも突き詰めれば」という言葉が浮かび、しかし「いや、遊びは遊びのままにしておくから良いんだわな」と考え直す。
ここ数日のあいだ、食事の前などに開いているMOOK本「一生使える旅モノ大全」には、いろいろな人の旅の道具が出ている。そして「取材に来てくれれば、オレだって、たちどころにあれこれ挙げられるのになぁ」と、あり得ないことを妄想する。
「旅達人の愛用品」として紹介されているのは、洒落た、高価そうな、はたまた誰でも知っているブランドの品が多い。それにくらべて僕の持ち物はどうか。
30年ちかく使っている壊れかけのショルダーバッグ、赤と黒をぶっちがいにしてビニールテープで繋いだボールペン、旅館からもらってきた足袋型靴下、使いすぎて腰の抜けた麻のバスタオル、ネパールの手編み帽子、数百円の化繊のTシャツ、ユニクロの安売りセーター、100円ショップで買った薬箱、自作のガイドブック、機内で物を散乱させないための手製のビニール袋、極めつけは柄を短く切り落とした歯ブラシ。
そして「こんなもの、誰も取材には来ないわな」と我に返る。
雪のきのうとは一変して、今日は朝から晴れた。
ふと気になって、午後も遅い時間に谷口正彦の「冒険準備学入門」を探したが見あたらない。昨年の秋に随分と本を整理した。しかし「冒険準備学入門」は自分にとっては大切なものだから、これを処分するわけはない。
「どこかにあるはず」と、階段室の本棚を漁るうち、何年も見つけられずにいた文集"ZENITH"が思いがけず出てきた。奥付は失われているが、これは今市高等学校の文芸誌で、表紙には”NO12”とある。
この"ZENITH"をはじめどこで手にとったかは覚えていない。しかしその時期が、僕の中学時代だったことは確かだ。「1955」と最終行に打たれた叔父上澤三郎の「隨想」を読んで「オレは文章では一生、この人には敵わない」と知った。
「冒険準備学入門」を探すことは諦め、その代わり"ZENITH NO12"を食堂の、長男の席に置いて事務室に戻る。
終業後に自宅へ戻り、食堂に入ると「明治の文豪がさらりと書いた感じ。端正な文章」と、僕に言われる前にそれを読んだらしい長男は感想を述べた。
叔父はこの「隨想」を書いた4年後に、心臓の手術を経て亡くなっている。「むかしの高校生は、これほど大人だったのか」と驚くほかない文章の詰まったこの文集は家の宝だ。これを機に袋へ収め、いつでも見つけられるところに保管しようと思う。
この冬の雪といえば、昨年の師走18日のそれを思い出す。その晩は大谷川を渡った先の大谷向に集まりがあり、その集まりとはいわゆる「酒飲み」だったから、雪の中にクルマではなく自転車をこぎ出した。
雪は夕刻から初更にかけてこそ激しかったが、酒飲みの終わるころには止んで、夜は暗く、しっとりとして、寒さよりは涼しさを感じた。
以降は雪らしい雪を見ないまま年を越し、節分を過ぎ、立春の今日の午後になってようやく、上空の気温の低さを知らせるような、固くしまった小さな雪粒が落ちてきた。しかしその小さな雪粒もやがて大きく柔らかいものに変わり、夕刻には止んだ。
雪は家々の屋根や庭先を白くはしたが、アスファルトに落ちたそれは、地面に触れると同時に融けて、だから今回の雪も、雪かきや除雪車の必要はなかった。
「雪が降って嬉しいのは子供のころまで」と言う人がいる。僕もそれに近いけれど、旅先の雪に限っては、この歳になっても嬉しい。
普段は南へ行きたいくせに、雪が降るとなぜか北へ向かいたくなる。行きたい南とは海外だが、向かいたい北は青森や北海道などの国内に限られる。その理由については、自分でも分からない。
「冬至から3週間ちかくが経とうとしているけれど、日の出の早くなった実感はない。そういうことには多分、あるとき、いきなり気付くものなのだろう」とは先月10日の日記に書いたことだ。その「いきなり」を今朝、東の空を見て感じる。
そうして家の、南東側から北西側に移動をして窓を開ける。山は今朝も晴れている。日光には雪も、また、まとまった雨も降らない。空気は随分と乾いているものと思われる。消防署などは随分と緊張しているのではないだろうか。
本日は節分にて、瀧尾神社の豆は先日、二宮神社の豆は本日の午前中に整った。この豆を夕刻に近い午後に、長男が会社や家の中の各所に撒く。
豆まきは、僕が東京から会社に帰ったころには、製造係ヒラノショーイチさんの仕事だった。「気でもふれたか」と思われるほどの平野さんの大音声は、今も僕の耳に残っている。
日の出の早くなったことに気づいたのは今朝のことだが、日の延びたことについては、おととい、いきなり感じた。国道121号線の際にある看板には、10月のはじめに灯りを入れる。このときタイマーは16時30分から18時までに設定をする。
冬至から正月にかけてはの17時は夜と変わらなかった。しかし一昨日の17時は、もはや夜ではなくなっていた。看板の照明は16時30分からではなく、17時からに遅らせようと思う。
「リモワと、機内持込可能サイズの中では最大容量っつう国産のやつと、どっちにすっか迷ってんだよ」と、なかば助けを求めるように水を向けると「私ならリモアだよ」と、こともなく家内は答え「だって、かっこいいじゃん」と続けた。
「ということは、機能よりもブランドやデザインが優先か」と畳みかけると「そうだよ」と、これまた戻った答えはしごく単純なものだった。
「1978年には、手提げのかばんひとつでマカオグランプリを観に行った」
「1980年には20リットルのデイパックで1ヶ月の旅行をした。1982年には30リットルのサブアタックザックで2ヶ月の旅行をした」
それに引き替え1週間に満たない旅にも100リットルちかいスーツケースを使うとは堕落以外の何ものでもないではないか、というのがおととい1月31日の日記の趣旨だった。
「ところで僕が旅のスーツケースを大きなものから機内持込サイズに換えるとは、そもそもは荷物を減らすことが目的ではなかったか」
と、きのうの日記には書いた。そしてふと、昨年秋のタイ行きのことを思い出した。
昨年9月30日の日記を読み返してみると、チェンマイからスワンナプーム空港に着いた僕は、エアポートレイルリンクとBTSのスクンビット線、同シーロム線を乗り継ぎ、63分をかけてサパーンタクシンに至っている。100リットルちかいスーツケースを持っての行程ではない。
そして日記を9月27日まで遡ると、果たしてそのときの僕は、現在の「かましん」がいまだ「長崎屋」だったときに1万円ぽっきりで、つまり消費税導入以前の時代に買った機内持込サイズのスーツケースを使っていた。
このスーツケースはおととし家内が使用中に空港で投げられ角が大きく凹んだ。その凹みを復旧させるべく僕が内側から小槌で叩いたところ、凹んだ部分は割れて外側にバラの花びらのように突き出した。それをものともせずタイ行きに使い、帰国後に捨てたのだった。
その画像を見て「なんだ、やっぱり最大容量の必要なんて無かったんだ」と得心をした。そしてかねてより目を付けていたウェブショップで"RIMOWA SALSA AIR 34L"の「買い物かごに入れる」ボタンをクリックした。
注文を確定してから今いちど最初のページに戻ると「買い物かごに入れる」ボタンは消えて「完売しました! 再入荷のご案内はメルマガにてお知らせします!」という文字が現れていた。「やれやれ」と胸をなで下ろす。
きのうの夜は20時台に就寝した。そうしたところ今朝は2時台に目が覚めた。そして直ぐに起床して食堂へ行く。
誰にでも、否、誰にでもとは言えないかも知れないが「自分は、少なくともこれについてだけは真面目だ」というものごとがあるのではないか。僕にそれがあるとすれば、それは仏壇にお茶や花や線香を供えることだ。
仏壇にお茶を供えるまでは、自分はお茶は飲まない。逆に言えば、仏壇にお茶を供えてはじめて、お茶が飲める。
明るくなるまでお茶を飲むことを我慢することはしたくない。よって暗闇の中にカーテンを開き、仏壇の扉も開き、豆電球のスイッチを入れる。そしてお茶を供え、花を供え、線香を上げる。
食堂に戻ってお茶を飲みながら、きのうも眺めた、スーツケースを特集したムック本を開く。
自分が買おうとしているのは最軽量を誇る"RIMOWA SALSA AIR"の機内持込サイズ。そう決めているから他については半ば無視していたが「機内持込サイズ最大容量!」と説明された国産品にふと目が留まる。"RIMOWA"の容量は34リットル。しかし目にしている「プロテカマックスパスエイチ」のそれは40リットル。牛乳パック6本分の差は侮れない。そうして気持ちは"RIMOWA"から「プロテカ」へと一気に傾いた。
ところで僕が旅のスーツケースを大きなものから機内持込サイズに換えるとは、そもそもは荷物を減らすことが目的ではなかったか。にもかかわらず今朝はその、機内持込サイズの中でも最大の容量を持つものへと的を変更しつつある。どこか、なにか、おかしくないか。
"RIMOWA"か、はたまた「プロテカ」か。二者択一の悩みは尽きない。