午後、東京へ行くので駅まで送ってくれとオフクロが言う。よってオフクロの荷物をホンダフィットの後席に載せる。
オフクロが東京へ行くときの荷物は、僕がインドへ行ったときの荷物よりも大きくそして重い。お袋は若いころから大荷物を苦にしなかった。オフクロにとって大荷物とは豊かさの実感、本能的な危機回避なのかも知れない。
夜、事務室にいると外で物音がするため社員通用口から出てみると、イチモトケンイチ本酒会長とイシモトヒトシ本酒会員が立っていた。彼らに手伝ってもらい、冷蔵庫に入れておいた一升瓶5本を隠居へ運ぶ。
7時30分より「第184会本酒会」が始まる。場所を変えながら1年に12回おこなわれる本酒会の4月と9月は、それぞれ花見と月見ということで、いつの間にかウチの隠居が利用されることになってしまった。
「ここにいると聞こえる音が普段のものとはぜんぜん違う」と誰かが言う。100年以上を経た木造家屋は存外に天井が高い。庭にはしっとりした土と木々がある。テレビや電話など人工的な音を発するものは何一つ無い。「あぁ、だからでしょうかね、事務室にいるよりよほど、ここでする方が仕事ははかどるんですよ」と僕は答える。
9時40分に帰宅し、ビールを飲もうとしてビールはなかったから冷たいお茶を飲んで10時30分に就寝する。
英語で洒落を言ったことはあるかと質問されたのは、円の対ドルレートが半年で数十円も上がった年、つまり1986年のことだったと記憶する。
マルディヴのグライドゥー島からマーレ島へ渡る漁船の上で、スウェーデン人のKnud-Pedersenに「geishaはときどきprostituteをするんだろ」と訊かれて"Not sometimes,somebody"と答えたが、これは韻を踏んだ表現ではあっても洒落ではない。
英語で洒落を言ったことはあるか、と僕に問うた人はアメリカでウェイターのアルバイトをしていたとき、マイタイを注文したお客に対して、自分の蝶ネクタイを触りながら"My tie?"と返したという。案外これは、英語圏では使い古された駄洒落なのかも知れない。
ところで今日の本題は、駄洒落についてではない。
この元ウェイターが言うに「現金で払うからまけてくれ」という値切り方がアメリカにはあるらしい。カードによる決済では、店側はカード会社に5パーセント程度の手数料を取られる。よって「現金で払うから5パーセント負けてくれ」とは、決して非論理的な要求ではない。
現在の日本も、アメリカに劣らないカード社会になってきた。カード会社に支払う5パーセントは経費なのか値引きなのか。いずれにしても5パーセントは無視できる数字ではない。すべての支払いのうちカードによる決済が無視できない比率になれば、店側はその5パーセントを商品価格に転嫁するだろう。
ポイントの付くことを特典として顧客を増やすカード会社は少なくない。しかしポイントで得をしたつもりでいて、しかしそのポイントを上回る高い買い物をさせられている、ということが実はあるのではないか。
「当店ではカードによるお支払いは一切お受けしていません」とレジの脇に提示している料理屋について「生意気だ」と言う人がある。しかしカード会社に取られる5パーセントを材料や環境整備や社員教育に回しているとすれば、この料理屋は褒められて良い。すくなくとも僕は、カードの使えない料理屋に対して「生意気だ」と言うことはしない。
「はた迷惑な喫煙常習者を飲食店内において優遇するのはなにゆえか」ときのうの日記に書いた。今しばらく年月が経てば「ニコ中、アル中、ポン中、モヒ中は歴とした病人です。そういう気の毒な方々を差別することは許されません」などと、人権擁護に熱心な人たちの説諭を僕は受けるやも知れない。
ヴィクトリア朝時代の英国では立派な病名のついたある行為が、現代ではごく普通のこととして一般に行き渡っている。ヒロポンは第二次世界大戦後まで薬局で買うことができた。病気も法律も時代により変遷する。
篠山紀信の「晴れた日」と荒木経惟の「食事」がYahoo!オークションに出たらメイルで知らせが届くよう数年前より設定をしておいた。このうち「晴れた日」は既に手に入れたが「食事」の方はたびたび買い損ねていた。
今回はこの「食事」が10,000円で出品され、しかし最終日の今日まで入札はひとつもない。よって締め切り直前の夜10時前に事務室へ降り、20,000円の価格を入れてみると追随してくる人は誰もいず、結局は10,000円で落札することができた。これで当面、オークションのサイトにアクセスすることはないだろう。
朝飯にはカレーライスのような、なかば流動食のようなものが食べたいと考えつつ湯島の切通坂を下る。
北千住の東武線プラットフォームの立ち食い蕎麦屋「夢や」では、券売機にカレーライスの表示こそあれ常に売り切れの赤ランプが点いている。それを知っているから駅の外へ出てすこし歩くと、24時間営業の"Denny's"が見えた。デニーズでならカレーライスが食えるだろう、そう思って席に着きメニュを開くとベーコンエッグ定食がある。よって朝飯はあっさりとこれに変更する。
氷入りの水を持ってきてくれたウェートレスが「こちらは喫煙席ですが、よろしいですか」と訊く。他にお客も少ないため「あ、かまいません」と答えてあたりを見まわすと、入り口ちかくの窓際から少し奥まったところまで、店内のおよそ7割のテーブルが喫煙席である
喫煙常習者とは、有り体に言えばニコ中である。ニコ中というのはアル中、ポン中、モヒ中のお友達である。なぜこのような人たちに窓際の明るい席を与え、健全な非喫煙者を調理場ちかくのせせこましいところに追いやるか。
しかし"Denny's"ほどの店が市場調査をしていない筈はない。分煙のスタイルは、地域や客層により各店で巧みに変えられているものと推測する。
第二次世界大戦中から長く自動車に関わってきたスズキユキオさんのお通夜に参列をするため、夕刻に桐ヶ谷斎場へ行く。
スズキさんとは随分とたくさんのレース場へ出かけた。最も遠方はマカオグランプリで、あれは1978年のことだからスズキさんはそのとき既に61歳だったことになる。
マカオの公道を閉鎖したサーキットは、海沿いの長いストレートをホテル・リスボアの前まで走ると第1コーナーで、これを右折するとコースはシケインを経て屈曲した山道に入っていく。
このテクニカルコースのプラクティス第1周目において、"BUGATTI 37"を駆るスズキさんは"Alfa Romeo 8C Monza"や"Jaguar SS100"といった大排気量大馬力のクルマを従え、堂々の1位で最終コーナーから現れた。それは正に、グランプリ・ブガッティの歴史の再現に他ならない。
スズキさんはとにかく齢61にしてそういうことをやってのける人だったから、他にも伝説は枚挙にいとまが無く、その死は正に生き字引の消失を意味する。
かむろ坂でタクシーを拾い、目黒川の際を走って権之助坂下に出る。目黒から銀座へ移動し、7丁目で2杯だけ飲んで10時に甘木庵に帰着する。
「60年を生きるなら、やはり1年という螺旋を60回まわりながら登っていきたい」ときのうの日記に書きながら、ある禅僧と一対一で話したときのことを思い出した。「禅って何ですか?」との僕の問いに、その僧は「山から降りること」と答えた。
登ることは不得手だが、降りることについてはすべての分野で得意な僕である。しかし禅僧の言った「山から降りること」の意味は、額面とは違ったところにあるのだろう。あるいは額面どおりなのかも知れないが、降りるとはそれなりに勇気の要ることである。
刀が無くては戦ができない。刀とは雌雄同体ボールペンのことである。雌雄同体ボールペンとは黒と赤のボールペンをぶっちがいに固定したものだ。数年のあいだ使ったこれを、僕は先月25日の夜に紛失した。
とにかく刀が無くては戦ができないから終業後にこれを作る。こんなに簡単な工作でも不器用な僕にはなかなか難しい。そしてボールペンは15分後に完成し、事務室に鍵をかけて自宅へ戻る。
「雑誌の取材」という言葉から連想されるのは「拙速」の二文字だ。今日は、誰でも知っている雑誌の記者とカメラマンがいきなり店に入ってきて、カメラマンは許可無く写真を撮り始め、記者はバッグから皿を取り出し、記事にするからここに商品を盛ってくれと言う。
いっそのこと断ってしまおうかとも考えたが、先方にも事情があることを勘案し、結局は取材を受ける。
農業や醸造にたずさわる者が60年を生きるとすれば、それは1年を60回繰り返して生きているような気がする。しかし雑誌作りを生業にしている人が同じ年数を生きるとすれば、それは1日を21,615回やりくりして生きているのではないか。
どちらが良い悪いではない、拙速を以て貴しとする職業も確かにあるのだ、たとえば戦場の外科医のように。しかし僕が60年を生きるなら、やはり1年という螺旋を60回まわりながら登っていきたいと思う。
夕刻に事務室の電話が鳴る。発信元の電話番号を示すディスプレイには「公衆電話」の表示があった。受話器を取ると相手は次男で、今日は夕刊の発行されない日なのだろうか、と訊く。
中学1年生の次男は寮にいて、きのうから寮の委員をつとめている。その学年の寮の委員は毎日バスマットを洗って干したり、寮の各部屋に新聞を配達したりする。夕刻に学校の事務室へ行ったら届いているはずの新聞が無い、それで心配になって電話をしてきたのだろう。
ウチは夕刊の購読をしていないから、それについては分からない。前任者に訊けと言うと、外出をしていて留守だと答える。だったら上級生に訊けと言って受話器を置く。
夜、シチリアのオリーヴオイル、モデナのバルサミコ、豚の脂の渾然一体となったところをパンに含ませ、これを肴にシチリア産の強くて辛い白ワインを飲む。シチリアのワインは総じてアルコール度数が高い。強い日照によりブドウの糖度が上がるのだろうか。
深更に及ばなくても窓からの夜気は冷たい。店においてはそろそろ白麻の暖簾をしまい、三季用のそれに換えるときが来たらしい。
「ケータイの番号を教えてあるのに、なぜあの人はわざわざ家の番号に電話してくるかなぁ」と、ある特定の人の性癖について苦笑いをした人がいる。
僕の場合にはどちらかというとその逆で「会社に電話してくれれば直ぐに出られるのに、なぜあの人はわざわざケータイに電話してくるかなぁ」である。
あるとき上野警察署の遺失物係からハガキが届き、読んでみるとそこには「あなたの携帯電話が地下鉄銀座線の車中で拾得され、現在、保管中です」というような文章があった。携帯電話を紛失してしばらく経ってもそれに気づかない、携帯電話に対する僕の依存度は、それほど低い。
病院や電車の中などで携帯電話の着信音を消し、それを元に戻すことを忘れているから着信があっても気づかない。携帯電話を時計代わりに枕元へ置き、日中もそこに置きっぱなしにしているから着信があっても気づかない。ザックの中に携帯電話を入れ、それを取り出さないままザックは物置に収納してしまうから着信があっても気づかない。いつの間にかバッテリーが空になっている。そういうことが僕にはままある。
というわけで今日も、夜になってふと携帯電話のディスプレイを見ると、取引先からの不在着信があった。今からかけ直しても、もう遅い。「どうしてケータイなんかに電話してくるかなぁ」である。
物を捨てやすい環境があると、物は売れやすい。圧倒的な上昇線を描いて物が売れていく時代とは、また物が大量に捨てられていく時代でもある。高度成長と環境汚染は手を携えたパートナーの関係にある。
これとは逆に社会が成熟してくると、ゴミは厳しい規則に従って処理されるようになり、空気や水は浄化されるが、高度成長は遠い昔の夢になる。しかしよくよく考えてみれば、その地域の経済は、高度成長期よりも豊かになっているはずだ。昭和30年代の日本と現在の日本をくらべてみれば、それはすぐに分かる。
何が言いたいか。
僕のベッドの一部からバネが突き出ている。時折はこのバネで怪我をすることもあるわけだが、ベッドなどどこに捨てて良いやら分からないから、新しいベッドを買うこともできず、またまた僕は背中にひっかき傷を作る。
「不要なベッド引き取ります」とインターネットに宣伝を出している寝具屋でも、部屋まで来て旧いベッドを解体して持って行ってくれるところは見つからない。
あるいはベッドマットを裏返しにすれば、僕のベッドはいまだしばらくは使えるのかも知れない。
戦前に修行した洋食屋のオヤジには"artichoke"を「アテチョコ」と呼ぶ人が多かった。背広の襟裏に設けた、切符を入れるための小さなポケットを「テケ」といえば、これは現在の仕立屋にも通じる。「テケ」とは"ticket"のことである。
それでもパン屋が"baguette"を「バケット」と表記することについては、僕は非常な違和感を覚える。かなり有名なパン屋のカタログにもこのカタカナの目立つところを見れば「業界内標準」のようなものなのかも知れない。しかしバケットだったらこれはパンではなくバケツのことである。
大阪万国博覧会のころまで、ウチのあたりでは老人だけでなく子供も含めて「殆ど」を「ホドント」と発音していたような記憶がある。布団を敷くの「敷く」についいては、いまだにこれを「スク」と言う人がいる。
「殆ど」は「ホトンド」であり、「敷く」は「シク」である。そして「"baguette"はバゲットだろうやっぱ」と思う。
むかし、ある大会社の社員用通路を歩いていたら「遠慮をせずに帰りましょう」というポスターが目に付いた。「仕事が終わればさっさと飲み屋へ行くか、あるいは帰宅するのがいちばん楽じゃねぇか」と当方は感じたが、楽を基準にしての会社勤めには難しいものがあるのだろう。
先日耳にした話では、別のある大会社では部長が帰らなければ課長も帰れず、課長が帰らなければ係長も帰れず、係長が帰らなければ主任も帰れず、主任が帰らなければヒラも帰れない。暮色に沈んだ窓には部長のコンピュータのディスプレイが浮かび上がり、そこにはテトリスの、回転しながら落下するブロックがあったという。
ウチは典型的なブルーカラー系の会社だから、終業時間を10分も過ぎれば社内には誰もいない。よって本日も自転車で日光街道を下り、小酌を為して7時30分に帰宅する。
「餃子の街」「焼きそばの街」「いもフライの街」など、特定の食べ物を名物として地域の振興をはかる動きが始まったのはいつごろのことだろうか、そして我が日光市は「そばの街」である。
「そばの街」とはいえ農家出身の、ある一定以上の年齢の人には蕎麦嫌いが多い。数十年前まで、蕎麦は痩せた土地にも生える救荒食だった。蕎麦は仕方なく食べるものだった。それに比してのうどんは祝祭の日などに限って食べられる贅沢品だった。
「よー、みんなが蕎麦だ、蕎麦だっつってるときにひとりだけうどん屋やったらお客さん、入るんじゃねぇんけ」
「蕎麦屋の設備しかねぇとこがうどん始めるってのは厄介だぞ、鍋がもうひとつ必要だかんな」
「うどんの専門店、作っちゃうんだよ」
「君、このあたりの小麦は農林61号だぞ、あれで作ったうどん、美味いと思うか?」
と、ここで僕が横から口を出す。
「農林61号のうどんって、色が灰色っぽいやつですか? あれはオレもちょっと。うどんはやっぱり讃岐みてぇえに、白くて光っててツルツルシコシコのが好きだなぁ」
「でしょ? 讃岐のうどんはオーストラリア産の小麦粉が100パーセントだかんね。地産地消なんつってたら、うどん屋やったって誰も来ねぇよ」
「オーストラリア産の小麦粉でも構わねぇべ」
「それじゃぁ農家も巻き込んだ町おこしはできねぇんだよ」
帰宅して検索エンジンに「農林61号」と打ち込んだら「品種名:トヨホコムギ、旧系統名:関東77号、母本:オバコムギ、 命名登録年度:1975年、育成場所:農事試験場」と、まるで農業の専門書のようなページがヒットした。
外へお酒を飲みに出かけ、ひとつ利口になって帰ってくる、そういうことも10年に1度くらいはあるものである。
本日、ご自宅あてのご注文をくださったお客様がおっしゃるに、夏のあいだ美味かった、ぬか漬けのための胡瓜や茄子がそろそろ味を落とし、しかし白菜を漬けるにはいまだ間がある、その空白の時期になると毎年たまり漬を食卓に載せるのだという。1年のうちの2、3ヶ月だけでも、決まって取り寄せをしていただけるのは有り難い。
僕が子供のころ、胡瓜や茄子やトマトやピーマンは夏にしか食べなかった。そのころようやく市場に顔を見せ始めたオクラなどは特に、夏の雰囲気の濃い野菜だった。今は冬でもスーパーマーケットには夏野菜が並び、この風景に僕などはどうにも違和感を禁じ得ない。
夏に冬のものを食べ、冬に夏のものを食べようとするといきおい、生産者は重油を多用することになる。「だったらむかしの食生活に回帰せよ」と大号令をかけても一体、誰が従うか。
晩飯の後、シャツの右袖に茶色く柔らかいものが付着していたため、かやくごはんの椎茸をこぼしたかと思い、口に入れるとどうも椎茸ではないらしい。指でつまんでよく見ると、それは小さな芋虫だった。
日中、しその実の買い入れをしているときに、農家の庭先から運ばれたそれが僕のシャツに移ったのだろう。田んぼの畦道や休耕田に育つしその実は丈夫で、消毒薬を必要としない。そういうしその実を好む虫の双璧は、このような芋虫と、もうひとつはテントウムシである。
僕の口から救い出された芋虫はひねり潰されることなく、窓の外にあるハーブの鉢に放たれた。
きのうの就寝は午後10時だったにもかかわらず、今朝は午前2時に目を覚ましてしまった。24時間前とおなじくおばあちゃんの応接間へ行き、本を読む。「なぜ目が冴えるか、ヒロポンの勢いで飛んだ、むかしの戦闘機乗りみてぇじゃねぇか」と思う。
本を読みながら、そこいら辺にあったカレンダーの裏に、思いついたあれこれを書いていく。夜に酩酊したとき「これはすごいアイディアだ」とメモを残し、翌日それを読むと何のことやらさっぱり理解できない、ということはままある。しかし早朝に書いたものは日が高く昇っても色あせない。
ウチの自宅にはインターネットの環境がない。事務室から延々とLANケーブルを引くのは厄介だ。大して出張をするわけでもないのにデータ通信用のカードを持つのは勿体ないと、これまでは考えてきた。しかし自宅でインターネットを利用するなら、これからはカードを持つのもアリだな、と一旦は背筋を伸ばす。
「しかし自宅での早朝の仕事がはかどるのは、そこにインターネットの環境が無いからこそではないか」といまいちど考えてみると、これはこれで思い当たるところが多々あるから、カードの購入は更に先のことになるような気もする。
二度寝はせず、いまだ暗いうちから仏壇を整え、お茶を飲み、6時30分に朝飯を食べる。
夜、北海道産のチーズにモデナ産の濃密なバルサミコを滴下し、これを酒肴としてシチリア産の辛くて強い白ワインを飲む。
お酒の助けを借りなくてもすぐに就寝できる質だが、きのうの夜から深夜にかけては眠気が訪れず、居間のテレビでは遂にNKKの「私がこどもだったころ」が始まった。
今回の登場人物パンツェッタ・ジローラモは、中学生のときに友人の死に遭い、その1年後には父を亡くし、だからその考え方や行動の中には強く死を意識したものがある。
そういうことは抜きにしても、この番組に出てくる人のこども時代は総じて冴えない。だから「心配するな、そのうちお前も何者かになれるのだ」と気づかせる意味においては、子供に見せたい番組である。
午前1時すぎにテレビを消し、しかしまだ眠くないため、おばあちゃんの応接間へ行き、明かりを灯して本を読む。90分後にミネストローネを温めて飲み、午前3時に就寝する。そして午前6時に起床する。
夜、フランス料理の"Finbec Naoto"へ行く。
きのうのYahoo!天気予報を見た限りでは、今日は曇りから雨への以降が濃厚だった。しかし青空には朝から積乱雲が立ち上り、一気に暑くなる。
そういう中を午前から日光市塩野室地区の農家を訪ねると、あるじは作業場の一角にある冷蔵庫から缶入りのカフェオレを出してくれた。その冷たさに、意地汚いとは感じつつ即プルトップを引き上げ、ゴクゴクとこれを飲み干す。
夜、風呂場で仕事用の靴を洗うと、そこから強く、しその実の香りが立つ。近隣の農家からしその実を買い集めるうち、靴底の溝にいくつのもしその実が食い込んだのだろう。
日光周辺のしその実、秋田県能代市の茗荷と、秋の材料購入はまだまだ続く。
来春に蔵出しされる新商品の、先行広告の文章を午後、根を詰めて考え、夕刻に疲労困憊する。「やっぱりお茶の休憩をしなくちゃダメだなぁ」と考えるが、時間の余裕はない。よって事務机にていただき物のマカロンを食べる。
夜、飲み屋の「和光」へ行くと、奥の入れ込みに見知った顔があった。しかし僕の脳はそれを「見知った顔」までしか解析せず、それが誰の顔か、までは認識しなかった。そうしたところ「ウワサワさん、こっちに来て」の声がかかり、もういちど面々の顔を確かめれば、それは次男がことしの春までお世話になっていた「今市ソフトテニスクラブ」のお父さんたちだった。
夏の炎天下にも冬の寒いときにもよその子供の練習相手を務めてくれたくれた人がそこには何人もいたから「いえ、僕は本を読みますので」と、ひとり離れてカウンターに座るわけにはいかない。
結果、普段の焼酎の量が240ccのところ今夜は480ccも飲む羽目になり、酩酊して帰宅して以降のことは覚えていない。
コートドオル真ん真ん中の強力無比な赤ワインを飲んで「ウッゲー、ダメだー」と言う人がいると同じく、本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"は好きと嫌いの極端に別れる商品で、すべてのお客様に受け入れられるものではない。
きのうは「好き」の方のお客様が店舗にあったこれをひとりですべてお買い上げくださった結果、商品は売り切れた。
"rubis d'or"は多くを在庫せず、小まめに作ることとしている。そしてこのビン詰め作業には几帳面さを見込まれた包装係のアキザワアツシ君が当たることになっている。しかし生憎ときのうはアキザワ君が休みだった。
というわけで本日、"rubis d'or"は売り切れからおよそ30時間ぶりに店舗の冷蔵ショーケースに収まり、僕は一安心をした。
僕には美味いものを作ろうとする一念はあっても、ビン詰めに必要な手先の器用さはない、あるいは指先の力もない。すべての品物は、いろいろな人がいて完成する。アキザワ君には売り切れ復旧のお礼として醤油のおむすび1個を進呈した。
6ヶ月間の販売個数によって順位の決まる「Yahoo!ショッピング 第7回うまいもの王者決定戦」が発表された。ウチの商品は惣菜部門の第2位と8位にランクインした。ちなみにこの第1位から10位までをざっと見てみると、以下のように梅干しが一頭地を抜いて他を圧している。
第 1位 梅干し
第 2位 らっきょうのたまり漬(上澤梅太郎商店)
第 3位 梅干し
第 4位 梅干し
第 5位 梅干し
第 6位 白菜キムチ
第 7位 梅干し
第 8位 だんらんのたまり漬(上澤梅太郎商店)
第 9位 梅干し
第10位 梅干し
「みんな、そんなに梅干し、食うか? オレなんか1年にせいぜい1個だぜ」というような疑問を抱く人もあるかも知れないが、要は上記の梅干し屋さんたちが、それなりの努力をしたということだ。
そして当店の商品をお買い上げくださったお客様には、厚く御礼を申し上げます。
夏休みの前半には地面にほど近いところに、夏休みの終わりごろは腰のあたりに咲いた朝顔が、今では見上げるほどのところに花開いて、更に上へ伸びようとしている。
子供のころは「ジャックと豆の木」を読んで「そんな木が本当にあるなら、オレもそれを登って雲の上まで行きたいものだ」と夢想をしたものだが、今になって冷静に考えてみれば、地上から数十メートルのところで疲労困憊して後戻りすること必定である。
「ジャックと豆の木」といえば、この夏は随分と隠居の木を伐った。居間の窓辺に立つと味噌蔵の屋根の向こうに見える山桜も、高いところの枝などは幹の近くで思い切り落とされ、さっぱりとしている。窓からの来年春の景色は、ことしのそれとはまったく異なるものになるだろう。
本来のマネジメントゲームでは、第5期の終了時に規定の次期繰り越し条件を満たした上で、自己資本が参加者中の第1位から3位までの人を「優秀経営者」として表彰する。しかし日光MGでは、第5期の決算順位第1位の人も「計数力トップ」として表彰する。
1991年6月、当時は新宿で開かれていた西研究所のマネジメントゲームに僕は初参加をした。全参加者62人中、僕の第5期の決算順位は60位だった。あとのふたりはこの研修の辛さに途中で逃げ出した人である。
数年後、名人上手のひしめく東京MGにおいて、僕は同じ60人中で計数力トップを獲るにいたる。人間、なにごとも訓練である。そういう想いがあるから上澤梅太郎商店の主催する日光MGでは、第5期の決算順位第1位の人を後日「計数力トップ」として表彰する。
本日は終業後の事務室にて日光MGの打ち上げを行い、第5期の決算順位第1位を獲得した販売係ハセガワタツヤ君を表彰する。この賞を獲った社員には常識の範囲内で欲しい物をプレゼントする。ハセガワ君は僕が履いていると同じサンダル"KEEN Yogui"を欲しがったが、どこのウェブショップにあたっても希望の色とサイズは見つからなかった。
よってハセガワ君には「これ、やるからサンダルは来年まで待ってろ」と、"Black Diamond"のサブアタックザックを進呈する。
空は久しぶりに青く晴れ上がった。しかし北西にある日光の山の上には雲が連なり、だからこの晴天もいつまで続くかは分からない。
朝8時30分より、顔なじみの農家の人たちからの、ことしのしその実の買い入れを開始する。「しその実のたまり漬」はウチの店では決して多く売れる品ではないが、しかしその手間のかかりようは大変なもので、それを知っている僕や社員たちの多くはこの品を好む。
本日の買い入れを午後3時に終了し、伝票に算盤を入れてみれば、その数字は昨年の初日と変わらないものだった。
しその実は時をおかずに下ごしらえをしないと熱を持って黒変し、商品価値を失う。よって製造現場では納入されたこれを間髪を入れずに水洗いし、塩漬けにする。しその実の高い香りは製造現場からあふれ出して事務室まで届き、香味野菜の好きな僕はそれを聞いてうっとりとする。
しその実の濃い香りは僕が子供のころから慣れ親しんだ「秋」のひとつである。
「今年と来年は暗剣殺だからなにもしない方が良い」と僕に言う人があるが、そういうときに限ってあれやこれやの考えが浮かび、そうすると複数のことを平行して行うから頭も肉体も知らず知らずのうちに使っているらしく、晩飯の直後からバッタリと寝てしまう日もある。
就寝があまりに早いと目の覚めるのもそれに従って早くなり、深夜0時すぎから起き出して途方に暮れたりする。
僕のテレビを観る時間が平均の何分の一かは知らない。たとえばマンガひとつとっても、子供のころからテレビのアニメーションは観ずに活字一本槍だった。動く絵と音の組み合わせよりも、動かない絵と文字の組み合わせの方が好きだった。
しかし今朝はヒマに任せてテレビのスイッチを入れてみれば、NHKでは「私がこどもだったころ」という番組に蛭子能収が出ていて、これがなかなか面白かった。また日本水泳代表チームのヘッドコーチ上野広治へのインタヴューから成る番組もあり、これにも見入ってスイッチを切れなくなった。
もっとも「エコだ、エコだ、の大合唱をするなら、テレビもむかしみてぇに午前0時で終わっておけ」という気持ちは無論ある。
次男が観察をしていた8月には1日に1輪しか咲かなかった朝顔が、ここへきて二つも三つも花を開いている。先月末から今月はじめにかけては雨がちで寒い日もあったが、今週なかばあたりからはまた暑さがぶり返してきた。蔵で熟成中の天然醸造の味噌を思えば、この気温の高さも有り難い。
朝のテレビのニュースで、気象庁は1965年以来つづけてきた関東地方の紅葉の見ごろ予想を今秋からやめると報じている。「民間の気象会社が同様の予想をしているため、なにも気象庁がそれをしなくても」というのがその理由だという。
これまで気象庁が定めていた17の見ごろ予想地点には日光の中禅寺湖も含まれていたから何やら寂しい気もするが、実際のところは「予想が当たっていない」という苦情に気象庁が辟易してきた事実もあるらしい。
日光、鬼怒川、川治の温泉旅館に味噌を納めていたころ、配達や集金のためにクルマを走らせていると、時として燃えるような全山紅葉に出会い、息をのむことがあった。美しい紅葉が見たければ予報などは頼りにせず、たまさかの僥倖に期待をするか、あるいは山のそばに長期滞在をするべきだ。感動を便利に得ようとするところに、そもそもの誤りがある。
2日間をマネジメントゲームに没頭すると、朝から夕方までスキーをしたと同じほどの、あるいは夏の海で朝から夕方まで泳いだと同じほどの疲労を感じる。ゲームでは頭を使い、夜の酒飲みでは体力を使うから、体の一部だけではなく全身が疲れるわけだが、もとよりその疲れは不快なものではない。
次男は先月31日に帰寮し、翌朝からは担任の教師や同級生と修養会のため山中湖へ行った。しかし今はもう普段の授業も始まっていることだろう。自分の子供が寮で朝5時30分に起きているのだから、当方もそれを過ぎて寝ているわけにはいかない。
本日は3社計6人の人と商談をし、また作業をすることにしていたが、お葬式に参列をするため、朝9時すぎから午後2時まで会社を出たり入ったりする。作業については社員や他社の人たちにほとんどのところを任せ、残りの部分のみ僕がする。
初更、会社から自宅へ戻りつつ白ワインを持ち出そうと2階のワイン蔵の扉を開けると、床に飲みさしの赤ワイン2本があった。よってこれを両手に持ち、4階の居間へ上がる。
昨晩の露天風呂には秋の草とコオロギの声があった。今朝の窓の外には赤松林と、その向こうに低山が見える。部屋の机で日記を書き、朝食の後にはきのうと同じく「晃陽苑」から会社へ戻り、お客様へのメイルの送付や日記の更新を行う。
マネジメントゲームの2日目はいつも、利益感度分析の講義から始まる。ゲーム運びの僕としては第3期の出来が良く、第4期ではそれまでの自己資本308を大きく伸ばして数字は418に達した。
むかしは必ずあった「ビジネスパワー分析」が近年、マネジメントゲームから省かれるようになったのは、2日目の朝に講義が追加されたことによる。しかし今回はほとんどの参加者の決算速度が高いため、それを見越して久方ぶりに、ひとつの市場を形成する各自が他のメンバーからフィードバックを受ける「ビジネスパワー分析」が行われる。
会場のそこここでは、決算でつまづいた人たちへの、計算を得意とする人たちによる手助けの風景が見られる。「えー、あなたこの秋に石垣島へ行くんですか、とすれば竹富島へも行くべきです」と、決算チェックをしながらの先生の脱線も含め、マネジメントゲームは至極メリハリに富む研修だ。
第5期の僕のゲームは長期労務紛争を2度も引いて計4回の機会損失があったにもかかわらず、これを何とか凌いで自己資本を482に上げた。しかし僕は第6期へ向けての次期繰り越し在庫が2桁に達しないため、もしこの自己資本が他とくらべて突出していても表彰の対象にはならない。
結局のところ、第5期終了時に種々の条件を満たした上で最高の自己資本を記録した最優秀経営者賞は、「黒澤建設工業」のクロサワトモハルさんが到達己資本468でこれを得た。同じく自己資本第2位と第3位の優秀経営者賞はウチのウワサワリエ、「ヴァリアント」のムカイキヨシさんに与えられた。
西先生に対しては無論のこと、自社で主催するマネジメントゲームに欠かせない外部参加の方々に対しても、日光まで来てくださったことについては本当に感謝に堪えない。
原稿用紙2枚ほどの感想文を書きながら僕が締めのスピーチをし、第16回日光MGは無事に完了した。折しも降り出した夕立の中を解散し、大急ぎの夕食を済ませた後、東武日光線下今市駅やJR今市駅にゲストの方々をお送りする。
どこかへ行くときには"ThinkPad"を持参するが、出張の機会はそう多くないから通信用のカードは持たない。そういうわけで早朝に「晃陽苑」から会社へ戻り、お客様へのメイルの送付や日記の更新を行う。
10時前より「第16回日光MG」を開始する。"MG"つまりマネジメントゲームは参加者ひとりひとりがひとつの会社を持ち、自己資本の伸長を目指す無数の方法を以て材料購入、製造、入札による販売をする。またこの流れを記録する資金繰り表からマトリックス決算書を完成させて1期が完了する。
2日間で5期の経営を盤上に展開するこの"MG"には今回、ウチの全正社員に加えて兵庫、山形、埼玉、東京からの参加者も迎えている。"MG"の「見る」「聴く」「する」の内容をより濃くするためには、ゲストの存在は必須である。
夕方までに3期のゲームを完了し、夕食の後は西順一郎先生による"strategy accounting"の講義を受ける。
8時30分より席を移しての交流会を持ち、参加者全員がマネジメントゲームあるいはコンピュータと自身とのかかわりについてスピーチを行う。交流会はそのまま0時30分まで続いた。明日の、第4期からのゲームが待たれるところである。
早朝、バンコックに住む同級生のコモトリケー君から「とうとう始まっちゃったよ」と電話があって目を覚ます。タクシン前首相の傀儡政権に反対する多数が立てこもった首相府に暴漢が侵入し、死者を出す結果となったが、その暴漢をすんなり通す警官の姿がテレビで報じられたことから市民の更なる反発は必至、とのことだった。
クーデターを未然に防ぐためだろう、サマック現首相は一連の事情を既にしてプミポン国王に報告済みだという。「市民の反発は必至」とはいえ、タクシンやサマックを当選させたのも元はといえば市民である。タイに限らず市民の多くは常に情動や個人の利益に従って選挙投票をする。いずれにしてもタイの混乱は、そう長くは続かないものと思われる。
午前、日光にいらっしゃった西順一郎先生とクルマで雨のいろは坂を登る。中禅寺湖から先は「上空」という感があり、雨は一掃されて青空さえ見える。湯の湖畔で昼食をとり、中善寺湖畔でお茶を飲んでふたたび下界へ戻る。
夜、明日からの日光MGに備えて遠くは姫路から日光入りされた方々と、西先生を囲んで夕食を共にする。農家を改装した森友地区の料理屋「菜音」にははじめて来た。環境、料理、働く人も含めて、ここはとても良い店だ。
前泊をすべく11時ちかくに日光MGの会場「晃陽苑」に入る。
よそのお宅にお線香を上げに行ったり、取引先や元社員がウチにお線香を上げに来てくれたり、長男と次男がお墓に行って迎え火をし、その火をまた送ったりした8月が過ぎて、ことしも9月になった。
包装係のサイトーヨシコさんからは再々乳茸をもらい、同じく包装係のアキザワアツシ君は、家が営む農園から梨を持ってきてくれたりして、季節はいよいよ秋の色を濃くしてきた。
これからの数週間、ウチは農家からしその実の納入を受け、茗荷の仕入れがあり、それらの下ごしらえをしながら味噌の手入れもし、そうするうちに紅葉の季節が来るだろう。
秋、という字面はなにやら静かだが、今月の我が社はなかなかに忙しくなる予定である。