8月15日、消化管付近からの突然の出血により急逝した同級生クロダヒロユキ君の追悼式に参列をするため、午前のうちに金沢文庫へ行く。気温は高く、青い空には白い雲が湧き上がっている。
大勢の同級生が出席をした式は、ヤハタジュンイチ君の司会、スズキマサカズ君の司式、アリカワケンタロー君の奏楽、ヤマシタアキヒコ君の弔文朗読により無事に完了した。クロダ君の久里浜の自宅にて夕食を振る舞いたいとの、お母さんからの誘いあったが、イリヤノブオ君、シゲマツアキラ君との3人で京浜急行に乗る。
人形町で乗り換えた日比谷線が地上に出ると、窓の外には相変わらず夏の空と夏の雲が見える。
14時20分に北千住に達すると、東武日光線の特急券売り場に見慣れないホワイトボードが立てかけられている。そこには台風17号の来襲に伴い、北千住17:12発は本来の鬼怒川温泉行きが栃木止まり、次の北千住18:12発以降はすべて運休の文字が几帳面に書かれてあった。
「2時間遅かったら帰れなかったわな」と考えつつ15:12発の下り特急に乗る。東京の北部には夏の空と夏の雲がある。埼玉県に入ってもなお、夏の空と夏の雲は続いている。
下今市で下車して跨線橋を渡り、改札口まで来たところでパラパラッと屋根に雨の落ちる音がする。家内の運転するホンダフィットに乗り込んだ一瞬後には驟雨沛然。台風の影響がようよう日光に及んだことを知る。そして結局のところ、持参した傘は一度も使わなかった。
日光の山々を朝日が照らす。今日はその光線がよほど強いのか、あるいは空気が澄んできているのか、木々の緑も、あるいは崖の赤も、いつもよりずっと鮮やかに見える。
「あついみそしるのなかの」と打ち込んで変換キーを押すと《修飾語の連続》と"ATOK"叱られるがそのまま強行突破をすれば、熱い味噌汁の中の絹ごし豆腐が美味い。
秋を旬とする果物は多い。秋になるとそれを食べ過ぎ、血糖値の上がる人がいるという。本当だろうか。いずれにしても、季節はもはや、夏に戻ることはなさそうだ。
10月21日に催される「日光屋台祭り」についての最終の話し合いに臨むべく、19時すこし前に町内の公民館へ行く。「お祭りとは畢竟、飲ませ食わせだ」と喝破したのは先代の当番町会計ハガカツオさんだ。考えてみればお祭りに限らない、人が集まって何かするところには必ず飲み食い、あるいは飲ませ食わせがある。
その、町内の飲ませ食わせについては副会計のシバザキトシカズさんが当たってくれるから、会計の僕はただボンヤリしているだけで済む。
話し合いを終えて外に出ると、大きめの粒の雨が、しかしまばらに降っていた。そして飲み屋へ回る人たちと別れ、足早に帰宅をする。
田舎の人より都会の人の方がよほど歩くとは本当のことで、僕もきのうからどれほど二足歩行をしているだろう。本郷龍岡町の甘木庵と神田神保町の"ComputerLib"を隔てる距離は2キロで、これを往復するほか気分転換の散歩も含めれば、きのうも今日もそれぞれ7キロは歩いているのではないか。
7キロを日光に当てはめれば、それは僕の家から東照宮までの距離と重なる。「ウチから東照宮まで歩いて行け」と言われれば「そんな無茶な」と答えるだろう。しかし日常とかけ離れた街ではなぜか歩けてしまうから不思議だ。
「昼には昔っぽいラーメンが食いてぇなぁ」と、散歩の途中に路地をたどって「さぶちゃん」の前を過ぎる。するとこのラーメン屋のとなりにこれまで気づかなかったがかなり年季の入った店があり、その入口には「サンマ塩焼き」の文字が見えた。
そうして頃合いを見計らって、新商品4点をYahoo!ショッピングに設定中だったヒラダテマサヤさんを誘い、先ほど見つけた、白いのれんに「近江や」と書かれた店に入る。果たしてサンマの塩焼きもホカホカのメシも美味かった。後から合流したハズミヒロユキさんは「このまえ釧路に行ってきたけど、そんときのサンマより美味めぇな」などと笑っている。
そういう次第にて、美味いサンマが食えるといういうただ一点においては、秋もまんざら悪くはないかも知れない。そして夜には湯島天神下の「シンスケ」にて、今度はサンマの酢締めを食べる。
とここまで書いて、今日の日記の文字数は596。この調子でいこうと思う。
何とかして日記を600文字以内に収められないかと考える。600文字はこの日記のフォーマットでは16行強になる。本日よりそれを試したい。
かやくごはんに生玉子を混ぜて食べると非常に美味くなることを、僕は、1974年の大文字の日に同級生フカミカズヒロ君の京都の家で知った。
友達の家に泊まっていても単独で行動するあたりが僕の困ったところだ。その晩、僕は河原町蛸薬師の「蝶類図鑑」を出てちかくのラーメン屋に入った。タンメンを肴に白乾児を飲み終えると時刻は随分と遅くなっていた。道に迷って訪ねた平安神宮前の交番は無人で、僕はそこの大きな地図にフカミ君の家を探し当て、ようよう徒歩で戻った。
フカミ君の家には兄のヤスヒロ君ほかサカイマサキ君などもいたかも知れない。腹を空かせた我々は台所にかやくごはんを発見し、生玉子をぶっかけたそれを、床にあぐらをかいて掻き込んだ。そして僕はその美味さに驚愕した、というわけだ。
昔の話はさておき現実に戻れば本日は9時すぎより神保町の"ComputerLib"に詰め、新商品4点をウェブショップに登録する仕事に従う。そして頭が疲れれば外へ出て荒木経惟の「東京は、秋」風の写真を撮ったりする。
夜に甘木庵に入り、むかしは僕の、今は長男の本棚を瞥見する。そこにはモネスティエの「奇形全書」やヴェントの「動物の性生活」などはあっても、きのうの日記に書いたゴールドラットの「ザ・ゴール」は無かった。あったはずの本が忽然と姿を消すとは、一体全体どのようなメカニズムによるものか。
と、ここまで書いて19行629文字。はみ出した29文字を削ろうと思えば削れるが、今日のところはそのままにしておく。
エリヤフ・ゴールドラットの「ザ・ゴール」を数日前より長男が探している。僕がこれを読んだのは10年ほども前のことで、以降はずっと階段室の本棚、というかその本棚の前に、赤い表紙の「ザ・ゴール2」と共に積んであるはずだ。そう長男に伝えたが「見当たらない」と言う。
おばあちゃんが僕の本棚に山川静夫の「勘三郎の天気」を見つけて読んでいた、というようなことはあった。しかしまさかおばあちゃんやオフクロがゴールドラットの本を自室に持ち帰ることは考えられない。
本が見当たらないといえば、昨夏は次男に「ウォズニアック自伝」を読みたいと言われ、しかしこの行方も杳として知れなかった。"amazon"に頼めばすぐに届くが、1度買った本を2度まで買う気はしない。
夕刻に至って長男は階段室の本の集積をいまいちどひっくり返し始めた。そして僕もそれを手伝う。しかし床が見えるところまで探して遂に、目的の黄色い表紙と赤い表紙は見つからなかった。
「さっきアマゾン見たけどね、ザ・ゴールは最安値でも480円だったよ」と伝えると長男は早速コンピュータを開き「2円ってのが出てきたよ」と言うので「それ、即、買いだな」と返事をする。
これで明日の晩に甘木庵へ行き、そこに当該の本があれば正に「だっふんだ」である。
僕は6時台に朝飯を食べる。そしてすべての社員が昼休みから上がってくる13時30分以降に昼飯を摂る。メシとメシの間が7時間も開けば腹が減る。よって正午もちかくなると、何か甘い物が食べたくなる。
本日も腹を空かして昼前に花林糖の袋を開ける。これをたちまち空にして物足りない。内容量を確かめると「25g」の文字があった。
「ばんこくのおりえんたるほてるのぷーるさいどのばー」と入力して変換キーを押すと《「の」の連続》と"ATOK"には叱られるが兎に角、1991年4月、バンコクのオリエンタルホテルのプールサイドのバーでダイキリを注文し、それをおかわりすると、ウェイターは2杯目のダイキリと共に伝票を持ってきた。「なるほど2杯までにしておけということか」と理解して僕はその伝票にサインをした。
花林糖もあるいは、一度に25グラム以上は食べない方が、人のからだにとっては良いのかも知れない。
どれほど前のことかは覚えていないが「ホンダ」が自社の全車種を、新聞の全面に横からの写真で載せたことがあった。そのときの1台1台には正に「ホンダのデザイン」とでも呼ぶべき統一性があって「いやー、ホンダはやっぱり大したもんだ」と僕は大いに感心ををした。
しかしその後のホンダは「車を売る」ということにおいては成功したかも知れないが、そのデザインについては「どうなんかなぁ」と首をかしげざるを得ない方へと逸れていったような気がする。たとえば初期型「スパイク」のリアハッチを思い浮かべてみて欲しい。
そういう残念な気持ちを何年も持ち続けて今夕、きのう読みそびれた9月24日の「下野新聞」を開いていくと、その6面にホンダの全面広告が現れ、そして僕は「アーッ」と声を上げた。名車"N360"を思わせる新しい軽自動車の姿がそこにはあったからだ。これこそ正にホンダのデザインではないか。
しかしウチには営業車としてのフィットが既にある。よってそのうち町をコマネズミのように走り始めるだろうホンダのこの軽自動車を、僕は指をくわえて見ているしかないのだ。残念なことである。
東武日光線下今市から上り快速に乗り、新栃木で降りる。栃木県もここまで南下すれば暖かい。「日光はもう寒いでしょ」と地元の人に慰めじみたことを言われる。「寂しくてしょうがないですよ」と僕は返答をする。
東武日光線の中では往きも帰りも
「食生活を探検する」 石毛直道著 文藝春秋 \850
を読む。新書版にも関わらず馬鹿に安いのは、これが1969年に発行された本だからだ。
1960年、石毛は22歳でトンガ王国に調査のための旅をしている。それから52年後の2012年2月、石毛はNHKの「奇食屋台」という番組で、次々と現れる「一般人には難しい類いの食べもの」について語っていた。石毛は幸せな学究生活を送り得た人だと思う。
ところでこの「食生活を探検する」は篠遠喜彦と荒俣宏による「楽園考古学」と合わせて読むと面白い。「楽園考古学」はそれほどむかしの本ではないが、今や古書でしか買うことはできない。興味のある人は急ぐ必要がある。
夜の雨は夜明けと共に上がった、と思いきや、アスファルトの地面を見るといまだ雨が落ちている。おばあちゃんの応接間あるいは居間あるいは仏間から見る鶏鳴山は、まるで墨絵のようだ。
ウチはいくら忙しくても商品の作り置きはしない。特に新鮮さの求められる「らっきょうのたまり漬」に至っては、翌日に売れそうな数を毎夕刻に社員と予想し、それ以上は決して仕込み桶から上げない。
そうしてきのう数量を予想した「ラッキョウのたまり漬」のうち、栃木県産の大玉のみを原材料とした「つぶより」が、予想を覆して朝のうちに売り切れる。これはまぁ、まとまった数のこれをお買い求めになるお客様が、今朝はたまたま続いたためだ。
それほど強くはならないものの、雨は午後の遅い時間まで降り続いた。そして夕刻に至ってようやく、西の雲に切れ目が入り始める。明日は晴れて欲しい。
先月25日、バンコクのラマ9世駅からショッピングセンター「セントラルプラザラマ9」に入ってエスカレーターを上がっていくと「ユニクロ」が見えた。その店内でタイの若い人たちが何をしていたかといえば、ダウンパーカの試着をしていた。
「タ、タイでダウンパーカかよ」と驚いたが、そういえば数年前には「タニヤプラザ」のゴルフ用品屋に革ジャンパーの売り物があった。タイも北部や東北部に行けば、冬はストーブが欲しくなるほど冷えるのだという。
冷えるとはいえ雪の降るようなことはもちろんない。それはないけれども普段、暑いところで暮らしていれば少しの寒さにも人は極端に弱くなる。30年前のヴァラナシでは僕が半袖半ズボンでいるところでインド人たちはコートを着て毛糸の襟巻きを巻いていた。
僕はそのときのインド人とおなじく暑さに慣れていたから、ここ数日の涼しさには特にたじろいでいる。つい先日までは素っ裸で寝ていられたにもかかわらず、いつの間にかパジャマが必要になり、おとといあたりからは掛け布団が欲しくなった。出してもらったタオルケットは屁の役にも立たない。
そして「電気毛布、あったよね?」と家内に訊く。
窓を開け放てば昼でも寒さを感じるほどの、今日の涼しさである。「ほれみろ『いつまでも暑くてイヤんなっちゃいますよね』から一転して『いつまでも寒くてイヤんなっちゃいますよね』の季節の始まりだぜ」と、なかば揶揄の気持ちがわき上がる。
店内の冷房は今朝から動かさない。冷気を遠くまで届けるための扇風機も回さない。店舗の入口に飾った季節の書「鬼灯」は、そろそろ「秋惜」に替えなければいけない。
力石徹にノックアウトされた矢吹丈が直ぐに立ち上がろうとしたところで「エイトカウントまで休んでろ」と丹下段平は叫んだ。今日の涼しさも八つ数えるうち元の暑熱に戻らないか、そういうことを僕は望んでいる。虫の声はめっきり小さくなった。
店内では今日も冷房が動いている。冷えた空気を効率よく循環させるため、大型の扇風機2台も回っている。お客様が出入りをされるたび店舗のドアが開く。と同時に熱い風が吹き込んでくる。寒暖計を外へ出し、しばらくして行ってみると、赤い液体の柱は29℃を指していた。
今月のはじめより、隠居や店舗駐車場の木々を、植木屋に頼んで思い切り剪定してもらった。剪定というよりも枝落とし、あるいは枝落としよりも幹の水平切りと言った方が適切かも知れない。
短く伐り調えられた樹木は冬こそ寒々しいが、秋なお暑い今に眺めてみれば、涼しげでとても良い。
「いつまでも暑くて、いやんなっちゃいますよねー」などと言い交わすうち急転直下、暗い冬へ向かって真っ逆さまに落ちていく日が必ず来るのだ。
「日中は35度くらい、夕方は30度くらい、そして夜は25度くらい。気持ちの良い街だったなぁ」と、帰ってきたばかりで早くも長男は、チェンライを懐かしく思い出している。そして晩飯には長男の買ってきたトムヤムセットによる鍋を食べ、タイ北部への憧憬を更に募らせる。
日光にはいまだ、夏の空と日中28℃の気温が残っている。しかし彼岸の入りともなれば、白麻ののれんは仕舞い、三季用のそれに掛けかえる。
毎年この時期には店舗の冷蔵ショーケースに本職による掃除を施す。本日は夕刻へ向けてショーケースの品を徐々に減らし、閉店と同時にすべてを別の冷蔵庫に移す。それと時を同じくして東京からの業者が店内に入り、作業を始める。
冷蔵ショーケースの奥の奥まで掃除が行き届くと、時刻は19時15分になっていた。外でひと息ついている業者に声をかけると、作業はほぼ終わりにて、点検をして欲しいという。昨年よりも念を入れてもらった部分まで目を通してからホンダフィットに乗る。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」の会場へはいつも自転車で赴く。しかし今夕は店内での業者立ち会いに加えて雨のぱらついてきた事情もあった。
大谷向あるいは正確な住所は瀬尾になるのだろうか、会場の「玄蕎麦河童」から春日町1丁目までの代行車代は1,000円だった。居間に上がると、この1週間ほどタイへ行っていた長男が思いの外はやく帰宅していた。そして僕は早々に寝る。
「クルマのデザインは1960年代まで」と言う長男に、僕の1969年製"FIAT500L"を譲ることにした。それを受けて長男は8月下旬、"EB-ENGINEERING"のタシロジュンイチさんに修復の見積もりを頼んだ。それから3週間。内側が錆びついたガソリンタンク、正常な値の電力を点火プラグに送りづらくなったディストリビューターなどの部品は驚くほど早く集まった。
午前に時間を見つけてタシロさんの工房に出かけると、オレンジ色のフィアットはジャッキスタンドに載せられ、ミッションオイルを抜かれていた。クリーパーに仰向けになり下から覗いてみると、後輪左のドライブシャフトブーツに裂け目が見える。細かいところを探っていけば、いまだ必要な部品が出てくるものと思われる。
ところで"FIAT500"は右手でハンドルを握り、左手を後ろに伸ばすと無理なくリアウインドウに触ることができる。"FIAT500"の他、4座を備えた上でこれのできるクルマは、僕が自分で確かめた限りでは"Lancia Fulvia HF"と"AlfaRomeo SZ"の2台きりだ。すなわち僕の理想とするクルマの大きさである。
終業後、外で飲むためラープチャルーンサップの「観光」を自宅から事務室に持ち込む。しかしあれこれするうち先ほどまで手の中にあったそれが見当たらない。仕方なくまた4階に戻り、今度は「ウォーホル日記」の上巻を拾い上げて、またまた1階に降りる。
結局のところその「ウォーホル日記」は読まれることなく家に持ち帰ることとなった。分かってはいても、活字を欠いては外出をすることができないのだ。
コンピュータのスケデュール管理に「ロットイアム」の文字を見る。そこに9月30日の日付があるのは、この数年のあいだ、そのころを見計らってタイへ行っていたからだ。「ロットイアム」とはチェンライにある牛肉汁、牛肉うどんの店である。
昨年8月にここでうどん、タイ語で言えばセンレックだが、それを食べてその美味さに仰天し「来年も来るべし」と、コンピュータに記録したのだろう。
日本の牛肉うどんは牛肉を、牛丼の具のように先ず鍋で煮込んでおく。しかし「ロットイアム」では、注文があるたび、生の牛薄切り肉を取っ手付きの網に入れ、スープの中でミディアムレアに湯がいた状態で具とする。
今秋ははおばあちゃんの初彼岸にあたり、この時期にチェンライを訪なうことは叶わない。しかし来年はぜひまたあの店の牛肉汁や牛肉うどんを味わってみたいものだと強く思う。
明後日の大安には新商品4点を売り出す。夕刻、それに備えて冷蔵ショーケースの値札などを「手塚工房」のデヅカナオちゃんに調えてもらう。
琉球列島が大型の台風に見舞われている。それにひきかえ日光は連日の晴天にて、何やら申し訳のない気持ちになる。
日光の地野菜を日光味噌のたまりで浅漬けにする「たまり浅漬け」の材料を手当するため、今朝も「JAかみつが今市農産物直売所」を訪ねる。本日は日曜日にて、「たまり浅漬け」は、いつもの倍は売れるだろう。そう考えて、特に良い品物を出している2軒の農家から胡瓜を買う。
らっきょうのたまり漬に国産輪切り唐辛子を加えた「ピリ太郎」は、"ComputerLib"の社員だったキクチユミさんの命名による。これを今朝は大人買いされるお客様が多く、早くも売り切れの予感がする。
「いつもの倍は売れるだろう」と、いつもの倍量を仕込んだ「胡瓜としその実と和唐辛子のたまり浅漬け」は、しかし店頭にお出ししてから2時間ほどで売り切れてしまった。いまだこれを肴にビールの飲みたくなる湿熱が、日本列島を覆っているのだ。
ただし日光は、日が落ちさえすれば急に涼しくなる。よって当方はビールではなく、焼酎のお湯割りを飲んで早々に寝る。
「鰹などは、すこしばかり前までは真っ当な人の前に出すものではなかった。しかし最近は貴顕の食卓にも上りうる食材になっている」というような下りが「徒然草」にある。解釈はいろいろとできるが、単純に解釈すれば「鰹はむかしは下魚だったのに」ということだ。
いま鰹には生姜やニンニクを薬味として添える。生姜やニンニクが合うということは、鰹は魚というより獣肉に近い、ということになりはしないか。獣肉にちかい魚であれば、これは下魚の範疇に含められても仕方のない気がする。
僕は一体に、高級な魚とされるものより下魚の方が好きだ。「鰯が異常な高値」などと聞けば「いや、それは避けて欲しい」と思う。おとといきのう今朝と食べている秋刀魚も、鯛や平目とくらべればかなり安い。安いけれども非常に美味い。
「目黒の秋刀魚」は、金原亭伯楽がいまだ二つ目で桂太といっていた時代のものが良かった。ソフトボールでも握っているほどの手つきで「大根おろしをドーンと」というところが殊に良かった。農家の庭先で焼かれる秋刀魚の美味さが、その右手に象徴されているように感じた。
秋刀魚はやはり塩焼きに限るのだろう。しかし今朝の梅煮は一昨日の塩焼きよりも、またきのうのオリーヴオイル焼きよりも美味かった。秋刀魚の脂の濃さが、驚くほど強く感じられるのだ。
山は今日も晴れている。そし父母会に参加をするため、午前のうちに自由学園へ行く。
「暑さ寒さも彼岸まで」とは、本当によくできた言葉だと思う。春の彼岸を過ぎれば桜の花芽は紅味を増し、秋の彼岸が去れば虫も急に声を潜める。
今週月曜日からはじめた「しその実」の買い入れは今日が最終日だ。農家の人たちはこの日には、朝に刈り取った紫蘇の穂から実をほぐし取り、それを昼前から午後にかけて持ち込む例が多い。
今日もほとんど例年の通り、朝のうちは静かで、昼が近くなってから、あるいは13時から15時にかけて賑やかに、あるいは忙しくなる。農家の人たちと世間話をするうち、僕より20歳ほどは年長と思われるひとりがふと背後の空を振り仰いで「秋の風だ」と言う。農家の長老が発した言葉だけに、そこには信ずるに足る響きがあり、それだけに僕は「まだ秋にはなってもらいたくねぇなぁ」と腹の中で言う。
「しその実」の買い入れは今日が最終日だけれど、肉厚の「秋茗荷」については、これを売りたい農家が近郷にある限り買い続けていく。その仕事も彼岸のころには収まるだろう、多分。
一見、格好の良い熟語がある。それを使うと、その文章を書いた人が知的に見える。あるいはその文章は硬質な知性を帯びる。しかしひとつ間違えると「キャー、カッコつけてらぁ、だっせー」と、思わず逃げ出したくなるような文章になる。まぁ、田村正和の芝居のようなものだ。
前夜に早く寝さえすれば、夜中の2時3時に目が覚める。ここ数日はそのようなときにラッタウット・ラープチャルーンサップの「観光」を読んでいる。この短編集をどこで知ったかは忘れた。"amazon"にたくさんのレビューの集まっているところを見れば、そこそこ売れた本なのだろう。
文庫本で300ページほどのこの本の、およそ中程まで読み進んで「カフェ・ラブリーで」と「徴兵の日」と「プリシラ」の3編が心に残った。「惜しいな、こんな熟語を使うより、そのふたつの漢字を分解して、そのあいだに平仮名を入れた方がずっと良いのに」と感じたところもあった。まぁ、仕方がない。原書で読めない僕が悪いのだ。
朝からひっきりなしに持ち込まれるしその実を検品しなくてはならないが、一方、今日は検診を受けに病院へ行く日でもある。社員に留守を頼み、オカムラ外科を訪ね、先日の血液検査の結果を受け取る。「良いですねー、高校生並みの数値です」と、担当の医師には褒められた。帰社して昨年11月の結果を見ると、こちらも同じく悪くない。そしてその理由については知らない。
このところ、というか8月からずっと、午後になると入道雲の空に湧き登ることが多い。「いつまでも暑くて、いやんなっちゃいますよねー」という挨拶を耳にし始めてから、もうひと月は経つだろうか。僕も大人だから一応は「そうですねー」と答えるが、実のところはいつまで暑くても、僕は一向に困らない。「いっそクリスマスのころまで夏が続いてくれねぇかな」とさえ思う。
「整体MaNa」のヨシハラキヨノさんによる強力な施術、そして家庭用鍼のお陰で、ベッドからはスッと立つことができた。夜半に降ったらしい強い雨のことは知らない。そして空は晴れている。
しその実の買い入れは、朝8時30分から午後15時まで行っている。「行けばどうせ買ってくれるべぇ」と、決められた時間より早く来る人もいれば、本来は買わないはずの12時から13時のあいだに、やはり「行けばどうにかなるべぇ」と来る人もいる。
仕事はしその実の買い入れだけではないから、電話、社員、農家の人、取引先と、同時に4人を相手にするようなこともある。だから余計に、飛行機など周囲から隔絶された「カプセル」の中に閉じ込められると「あー、楽だー」と感じるのだろう。
飛行機といえば、海外に出ても「仕事で来ているのだから」と、社員に土産の類いは一切、買わない経営者がいる。ウチではおじいちゃんが土産を買うこと配ることの好きな人だったから、孫の僕の代になっても何がしかは買って帰る。
何がしかは買って帰るが、僕の土産はどうも社員には評判が良くないらしい。社員はたとえば偽ブランド品のサイフなどを土産としては好むようだ。しかし僕はあの手は死んでも、まぁ「買わなければ殺す」と言われれば買うだろうが、興味はない。
それではどのようなものを買って帰るかといえば、リス族が手縫いした布の袋だとか、レモングラスを練り込んだ石鹸だとか、あるいはヤードンだとか、そういう現地を強烈に感じさせるものを選ぶ。その強烈さが「受けない」のかも知れない。
買い物の嫌いな人間が義務感にかられて土産を買う。これは結構、気の重い仕事にて、先月末のタイ行きではその最終日に至ってようやく"Watsons"で匂い袋らしいものを見つけた。「これは何?」と店員に訊くと説明に窮している。「良い匂いがするの?」と確かめると「ウンウン」と頷く。よってひとつずつ真空パックされたそれを大人買いした。
日本に帰ってこれを社員に配り、残ったものの封を切ると、なるほど強烈な「スースー臭」を発している。袋の文字は大部分がタイ語だから、何に用いるものかは知らない。先日は機会があって、眠っている人の鼻先にこの袋を近づけたところ、数秒で目を覚ました。
ところで僕はこの袋がどうにも手放せなくなった。1日に数十回はそのスースー臭を嗅がずにはいられない。そして「どうにも煙草の止められない人はバンコクに飛んで、これを50個ほども買ってはどうか」というようなことを考える。
朝、店の前の見回りをする。犬走りに置かれた鉢の位置を直そうと、腰をかがめたところで「アッ」と声にならない声を出す。ぎっくり腰の直前で運良くそれを免れ、歩いて事務室に戻る。
きのうのしその実の買い入れ量は、この6年間の最高を記録した。しその実が満杯に詰まった米袋の、台秤への上げ下ろしや竹籠への移し替えは若い者に頼めという家内の意見を無視した結果の今朝の腰、である。
facebookのメッセージを使い「整体MaNa」の本日の混み具合をヨシハラキヨノさんに訊く。すると間もなく、15時30分からなら診られるとの返事が戻る。即、その時間に予約を入れる。
整体の1時間コースが終わるころ「肩はなんだか左の方が凝るんですよねー」と、このところの不具合について説明すると「肩もそうですけど、右の背筋はもう、腫れてる感じですね、無理に無理を重ねているような」と、ヨシハラさんはみずからの見解を述べた。
無理をしているという認識は、僕にはない。我が国には、僕より脳と肉体を使っている人が9,000万人はいるのではないか。甘やかされれば、僕はどこまでも楽な方へと逃げようとする。しかしファヒネ島で寝て暮らせる身分では、いまだないのだ。
そういう次第にて夜の入浴後には、絆創膏と金属を組み合わせた家庭用鍼を腰と背中に大量に貼る。そして新聞やら文庫本を散らかした、しかし薄掛けなどは一切ないベッドにて、明日に備えて早々に就寝する。
子供のころ、それもかなり小さかったころから今に至るまで、この時期になるとウチの屋内はシソの香りで満たされる。今年は本日より、近郷の農家からしその実の買い入れを始めた。
今年は都合により買い入れの開始日をすこし遅らせた。そのせいもあってか満を持したように朝から農家の人がひきもきらない。
しその実を米袋に満杯にすると、重さは約10キロになる。10キロくらいどうということはないから、力仕事は若い者に頼めという家内を無視して、これを秤に載せて重さを確かめ、検品し、洗い場まで運ぶための竹籠に移し、ということを僕ひとりで繰り返す。
しその実と同時に茗荷を収める人もあり、僕はその、丸々と太った秋茗荷の様を見て嬉しい気分になる。
午後に入ると、訪れる農家の数も落ち着いてきた。しかし15時に締めたところ、本日の買い入れ量は、1日あたりのものとしては2007以降の最高を記録していた。
8月下旬から9月上旬にかけての僕の精神的肉体的労働量は、昨年の方が今年のそれよりも重かったように思う。それでも今年はなぜか、昨年より長い睡眠時間をからだが求めている。
夜にテレビでNHKの番組を観ていると、毎週録画することにしている「吉田類の酒場放浪記」に、どういうわけかチャンネルが変わってしまう。というわけでそれから先は吉田類の、毎度のことながら特殊な趣味による服装などを眺めて過ごす。
「朝顔の仲間」というだけで詳しいことは何ひとつ知らない花が、ベランダに開いている。花は桃色と紫色のあいだの淡い色だが、今朝は晴れた空を映して、というか透かせて青い色をしている。
日光の地野菜を「日光味噌のたまり」で浅漬けにする「たまり浅漬け」の材料をみつくろうため、ほぼ毎朝のように農協の直売所へ行く。胡瓜の値段は盛夏の5割増しになった。例年にくらべて茗荷は少ない。そしていよいよ生姜が並び始めた。
「日光MG」による2日間の休みを含む今週、植木屋を頼んで、隠居の樹木を大規模に剪定あるいは伐採した。その余勢を駆って、国道を挟んで向かい側にある松の木も刈り込んでもらった。そのさっぱりした風情が秋の空に良く似合っている。
昨年の9月はじめには、数万人規模の避難を示唆した自治体もあったほどの台風12号が来た。9月なかばには、銀座の太い街路樹を縦に裂くほどの台風15号があった。今秋の日本列島は、今のところは静かだ。
その好天のせいか店は忙しく、昼も夜も外食をする。
気に入らないパンツを穿いては捨て穿いては捨て、ということを先月下旬の旅行中にしていたところ、流石にパンツが不足し、元旦にしか使わないことにしている"FILA"のそれを、今日は箪笥から選ばざるを得なかった。
パンツのゴムは数年で硬化するから「元旦にしか穿かない」などと言わず普段使いにした方が経済効率としてはよほど高い。しかしそれのできないあたりがケチの悲しさである。使ったティッシュペーパーを捨てられない、サランラップを2度3度と洗いながら使う、といった老人の性癖に似た行為のような気もする。
まぁ、そういう次第にて午前、健康診断のための採血をオカムラ外科で受けた帰りに"UNIQLO"に寄り、パンツ2着と靴下6足を買う。先日はやはり"UNIQLO"の、2枚の靴下を繋いで1足にまとめているプラスティックの糸を切ろうとして靴下本体まで切ってしまった。今回は、そのようなことのないようにしたい。
ところで、欲しくもないTシャツがいつの間にか溜まる。
「このようなものを仲間内で作った。欲しければ分けてやる」と持ち込まれた「ティームなにがし」のTシャツなどは、無碍に断って、その「ティームなにがし」そのものを否定したように思われてもいけないから義理で買う。
あるいは「このTシャツを買っていただくことにより、収益の○パーセントがどこそこに寄付されます」というようなものをオフクロがなにかの集まりで買い、しかし自分では着ないから僕にくれる。
そういうものの集積が「いつの間にか溜まる、欲しくもないTシャツ」である。
現在の日本のように生意気になってしまう以前の、どこかの国へ来年あたり行くようなことがあれば、これらのTシャツを大型トランクの片側に詰め込み、いつまで持ち歩いては重いから、旅の初日にパーッと配ってしまおうと考えている。
「せめて63キロだわな」と考えていた体重が、6月上旬のシンガポール旅行から戻ると65キロになっていた。よって「これはいけない」と、気分的な減量を始めた。気分的な減量とは、まぁ「蕎麦屋で天ぷらは食べない」という程度のゆるいものだ。
それくらいのことでは、体重はなかなか落ちない。そんな最中にタイへ行き、するとメシを食うたび体重の漸減する確信があった。タイやヴェトナムのメシは、頼むものすべてがサラダ、と言えばウソになるが、しかしまぁ、僕は彼の地ではそのようなものを好んで食べる。
それに加えてタイのメシはひと皿の量が少ない。8月21日の晩飯はヤムウンセンプラームックで、ちと足りない気分ではあったけれども、それ以外のものは食べなかった。ヤムウンセンプラームックつまり「イカと春雨のサラダ仕立て」というようなものを肴にして他になにも食べなければ、これは太りようがない。
一昨日の夜に「ヴィラデアグリ」の風呂場で体重を量ったら61.7キロだった。そしてきのうの朝におなじ体重計に乗ったところ、体重は増えも減りもせず、やはり61.7キロと表示された。3ヶ月で3.3キロの減量だが、そのうちの半分はタイでの6日間に減ったものではないか、という気がする。
ダイエットをする人は、それこそ手を変え品を変え、しょっちゅう痩せようとしている。それほど痩せるためのあれこれをしたら、肉体は遂には芥子粒のように小さくなってこの世から消えてしまうのではないか、と思うが実際にはそうでもない。
痩せるための工夫を繰り返して痩せない人は、試しにタイやヴェトナムへ行ってみてはどうか。もっともダイエットと縁の切れない人は、それなりのものを好んで食べる傾向がある。ムートートつまり豚三枚肉の唐揚げなどは無論、禁物である。
「日光MG」の最中には早朝に起床して、夜のうちにご注文をくださったお客様に、納期についてのメイルをお送りする。また、きのうの日記の大部分も書いてしまう、ということを常としてきた。しかし今朝は目を覚ましたのが6時30分であり、だから日記には手も触れず露天風呂へ行く。
「日光MG」2日目の朝は"strategy accounting"の講義で始まった。通常これは1日目の夜に行われるものだが、きのうは別の講義が盛り上がっての、これは特別措置である。
第4期のゲームが始まる。36名が売上げの高い順に6名ずつ配置される6卓のうちの、僕は上から3番目のC卓にいる。前半戦を終えて中間決算をしてみれば、僕は既に損益分岐個数を超えて商品を売っていることが分かった。ゲームの下手な、あるいは一直線に勝ちに向かえない性質の僕にとっては滅多にないことである。と同時に、C卓まで下がれば激戦のかなり和らぐことを知る。
「いよいよ最終決戦」という気持ちで第5期には臨まなくてはならない。あるいは「負けるときは死ぬとき」と、試合の前夜には常に日本刀と対峙した木村政彦のような気持ちで"MG"には対さなくてはならない。しかして"MG"における勝ち負けとは何だろう。
来期への備えなど、種々の条件を満たした上で参加者中最高の自己資本を達成した最優秀経営者賞は、西宮市のハシモトマサトさんが自己資本718で、また優秀経営者賞は、おなじく西宮市のフクモトタカコさんが同643で、また神戸市のヨシダリューさんが同625で、これを得た。今回の受賞者は奇しくも全員が兵庫勢である。
ニシジュンイチロー先生の締めの講義は今回、日光市から初参加をされたヌマオアキヒロさんへ向けてのもの、という形が採られたが無論、普遍性に満ちた内容だから誰もが興味深く聴けたと思う。
そして原稿用紙に2枚ほどの感想文を書き、その感想文を書き終えない参加者もいる中で僕は挨拶をする。
今回の参加者36名中の16名は、遠くは九州、山陰、関西などから来てくださっている。それらの方々に、費用以上の知覚や経験を持ち帰っていただこうとすれば当然、当方にはしかるべき心理的圧力が発生する。しかし社外から来てくださる方々がいらっしゃってこそ、自社への教育効果も高まるのだ。
よって僕の挨拶の内容は、いつもながらほとんど感謝の言葉である。
JR宇都宮駅をご利用になる方々は、社員ふたりのクルマに分乗の上、帰路にお就きになった。僕は先生はじめ何名かの方々と会社ちかくで軽く打ち上げをする。そして彼等を下今市駅のプラットフォームまでお送りしてひと息をつく。
夜は家内と長男との3人にて"MG"についてのことを長く話す。その話はいつまでも続きそうな気配があったため、0時前に切り上げようやく就寝する。
きのうの夜、否、既にして0時を過ぎていたから就寝したのは今日になってからのことだ。にもかかわらず午前3時台に目を覚ます。「困ったな」とは思ったが本日を含めての2日間は忙しい。直ぐに起き出し、眠っているタケシトーセーさんの邪魔にならないよう、窓際の板の間にコンピュータを持ち出し、寝室との境の障子を閉める。
きのうの閉店以降にご注文をくださったウェブショップのお客様に、納期についてのメールをお送りする。そしてきのうの日記も書いてしまう。レースのカーテンを透かして明るくなりかけた空を見る。時刻は4時46分だった。
ウチの全社員に加え、京都府と東京都の方々が次々に到着する。第24回目の日光MGは午前10時に開始された。受講者ひとりひとりが自分の会社を持ち、2日間で5期分の経営を盤上に展開するのが"MG"すなわちマネジメントゲームだ。
5期のうちの第1期は、受講者すべてが同じ手順を踏み、ゲームの基本や決まりを確かめていく。「決算プログラム4の『棚卸し個数を記入する』が、私はなぜか好きなわけです」と、第5表マトリックス会計表をご説明になりながらニシジュンイチロー先生がおっしゃる。そして僕は「ヘー、初めて聞いた」と、決算書に落としていた視線を先生の方へと向ける。
僕は"MG"の決算においては、マトリックス会計表の外に出て材料、仕掛品、製品の単価を求めるところが好きだ。ここまでたどり着くと、戸外に出て背を伸ばし、深呼吸をしている気分になぜかなるのだ。
第2期の商売を僕はF卓で行った。その第2期で36人中の売上最高金額を上げた、西宮市のハシモトマサヒトさんが、来期の景気を決めるサイコロ振りをする。
マネジメントゲームは、ゲームに1時間、決算に1時間の計2時間で1期が完了するよう設計されている。とはいえ先生の講義が熱を帯びればスケデュールもずれる。第4期の期首処理をするころは明るかった窓の外も、その期の決算が終わってみれば、すっかり暗くなっていた。そして今度のサイコロ振りは、同じく西宮市のフクモトタカコさんが務めた。
夕食の後には、明日午前の第4期に供えて各自が経営計画を立てる。その数字を壁の紙に書き込んで"MG"の1日目が終了かといえば、そうではない。21時より全員が一室に集まり、交流の会を持つ。
23時40分に露天風呂へ行くと、ウチの若い社員たちもそこにいた。そして0時ごろ寝室に戻り、そのまま就寝する。
夜に雨の音を聴く。きのうテレビで観た天気予報は、今週を通しての晴れを報せていたから心配はしない。いつの間にか二度寝をする。予報のとおり、雨は朝には上がった。
午前、下今市駅にニシジュンイチロー先生、ハシモトマサヒトさん、フクモトタカコさんの3人をお迎えする。そして会社で一服していただいた後、長男も加わった総勢5人にて戦場ヶ原を目指す。
緑の山肌に垂れ込めた雲を眺めながら、いろは坂を上がる。中禅寺湖畔まで来ると、あたりには陽が差しはじめていた。竜頭の滝から更に高度を上げ、赤沼茶屋に達する。そしてクルマを停め、靴を履き替え、国道を横切って戦場ヶ原に入っていく。
その戦場ヶ原には夏の快晴があった。我々は雲の上に突き抜けたのだろう。太陽の直射は強く、しかし風が吹いてしごく爽やかだ。木道を往くと、東京から来たらしい数百人の小学生とすれ違う。帽子の形や色の違うところから、異なる学校が時期を同じくして奥日光を訪れていることが分かる。
地下から流水の噴き出している「泉門池」は「いずみやどいけ」と読むことを初めて知る。「今回の目的は果たした。あす帰っても悔いはない」とハシモトマサヒトさんが笑う。泉門池から1キロと少々を歩けば湯滝の、水の落ちる音が木々のあいだから聞こえてくる。
湯滝の茶屋で一服してから国道に上がると時刻は15時10分だった。Yahoo!天気予報の「15時強雨」を証明するように強い雨が降ってくる。その中で我々5人と、シンガポールから来たらしい若い3人連れがバスを待つ。
赤沼茶屋の駐車場からはふたたびクルマに乗り、来た道を戻る。下りのいろは坂には深い霧があった。
明日から始まる「日光MG」のため、下今市駅には時間をずらして続々と参加者の方々が降りてくる。そして地元も含めて総勢12人が「和光」に集まり、前夜祭を催す。いつもの「ひとり飲み」とは180度までは異ならないものの、まぁまぁ真面目な交流を、自己紹介なども交えて続ける。
21時を過ぎて「日光MG」の会場である「日光ろまんちっく村ヴィラデアグリ」に移動をする。前夜祭には静岡県、兵庫県、鳥取県、福岡県からの方がいらっしゃった。そしてそれらの方々と更に話をしながら、到着は0時すぎになるだろう、京都府から参加の二人組に電話をし、入口までいらっしゃって不明の点があれば、僕の携帯電話を鳴らしていただくよう、お願いをする。
そしていつの間にか眠る、
朝などは、とてもではないが、窓を開け放ってはいられない涼しさだ。西の空には旧暦7月17日の月が出ている。
「知らぬ間に 親に見習い 子は合掌」と筆書きされたマッチを仏壇に見つけ、裏を返すとそこには「如来寺」の文字があった。クワカドシューコー住職が、お盆にでも置いていってくれたものかも知れない。
そのマッチに触れて僕は、先月の、タイでの6日間を思い出した。
8月20日の夜には、ファランポーン駅の構内に響き渡る金切り声で、ファランの子供が泣いていた。8月25日の、既に深夜と言っても良い時間にスワンナプーム空港の出発ゲートでは、親が付いているにもかかわらず、日本人の子供3人が騒ぎ回っていた。
8月24日。タイ東北線の車内に10時間もいて静かだった子供3人のうちの女の子は、田園の向こうにお寺が見えるたび手を合わせて「ナムナム」と拝む真似をしていた。タイの、赤白青の三色旗の白は仏教をあらわす。仏教にことさら肩入れをするわけではないが「そういうことかも知れねぇなぁ」と思う。
ところで「知らぬ間に 親に見習い 子は合掌」は「知らぬ間に 親に見習い 子も合掌」の方が良くはないか。
夜などは、とてもではないが、シャワーでは済ませられそうもない涼しさだ。そして何十日ぶりかで風呂桶に湯を溜め、そこに漬かる。
朝、仏間というか、おばあちゃんの応接間というか、その窓から空を見る。多くの雲のあいだにすこしの青空が見える。その青空の、できるだけ広くなることを望む。今日は日曜日である。
ウチの店は年間に7日から8日のお休みをいただく。今年最後のそれは今月の5日と6日にて、ウェブショップの顧客には、その旨をメイルマガジンにてお送りする。
早朝の望み通りに空は晴れた。空の晴れたまま雨が降ったり止んだりする。天気雨は「とにかく晴れている」という点において嫌いではない。
終業後、週のうち何日かは夜も営業する「玄蕎麦河童」へ行く。東京の、いわゆる老舗の蕎麦屋で飲む酒ほど「高けぇなぁ」と感じさせるものはない。しかし「河童の酒」は、僕にはしごく安く思われる。
「河童」では僕は、蕎麦焼酎「峠」の蕎麦湯割りを飲む。
「キッチンコンフィデンシャル」のアンソニー・ボーディンは次作の「世界を食いつくせ!」で日本を訪れ、どこかの高級旅館で朝食に出された山芋のすりおろしをひと舐めして、こんなものは食べられないと、庭に逃げ出す。
焼酎の蕎麦湯割りも外国人からすれば、その類いの味かも知れない。
「河童」の蕎麦湯は濃い。その蕎麦湯には必要充分以上の、つまり酒飲みが「ここは良い店だな」と満足できる量の焼酎が含まれている。そして満を持して「田舎」の「盛り」で締める。
二人乗りの、まるで板きれのような超小型ヘリコプターに次男と並んで座り、いま正にバンコクの夜空へ滑り出そうとしているところで目が覚める。
ラッタウット・ラープチャルーンサップの短編集「観光」の中の、いまだ小学生の弟を兄がオートバイに乗せ悪所へ同伴する「カフェ・ラブリーで」をきのうの夜更けに読んだことによる、これは夢見だろう。面白い夢ほど「これから」というときに終わる。
そうして暗い中で起床し、服を着て顔を洗う。8月31日と9月1日のあいだには万分の1秒の隙間もない。そうであるにもかかわらず、月の変わったとたんに涼しくなる。「涼しい」は僕においては「寂しい」と同義である。
お歳暮の繁忙に突入する直前か、あるいは年末だったかは忘れたが、とにかく事務机を整理整頓した。それから半年以上が経ち、机上には「そのうち真剣に読もう」と考えながらいつまでも読まない書類、年賀状、名刺、役所からのアンケート用紙などが、またまた積み重なってきた。
「机の上が汚い」とは「仕事をしていない」と同義である。それでは「机上が整ってさえいれば、その人は仕事をしている」のかどうなのか、それについては不明ながら、午後から未開封の封筒を開け、書類を吟味し、そのうちの99パーセントはゴミ箱に突っ込み、ということを1時間ほどして、机の上には左から電話、コンピュータ、計算機のあるばかりになった。
今後はできるだけ、この風景を保ちたい。