「これからの2週間は、風邪など絶対にひけない」と、今月の18日には、まなじりを決するまではいかなくても、ふんどしを締め直す気分があった。その緊張のおかげか、19日の夕方から21日にかけての「日光MG」、24日の日光金谷ホテルでの長男の結婚式および披露宴、そしてきのう30日の三井倶楽部での披露宴と、3つの山を無事に越えることができた。
そして本日は所属する組合の新年総会に出席をするため、茨城県の海沿いの街まで、組合の先輩にクルマで運んでもらう。僕はクルマも、またそれを運転することも好むけれど、どこかへ行くときにはほとんど公共の交通機関を使う。いわゆるドライブもしないため、道には詳しくない。今回のような場合には常に、人まかせである。
集団から離れ、ひとりで勝手にする性向が僕にはある。しかしこの集まりについては別だ。2次会にもつき合って、午前0時ちかくまで周囲の話を聴く。
宿には東京の温泉にも共通する、焦げ茶色の湯が源泉から引かれていた。寝る前にいまいちどそれに浸かり、足の先まで温めてから布団に入る。
「入っても良いんですか」と訊かれた僕は「はい、玄関のポーチに着けてください」と答えた。綱町の三井倶楽部に近づきつつ、その高い塀と奥の洋館を一瞥するなり、タクシーの運転手は何ごとか思ったのかも知れない。
6日前の、日光金谷ホテルでの長男の結婚式と披露宴は、地元の方々をお呼びしてのものだった。今日のそれは、東京およびその近郊に住む親戚、および新婦友人を対象としたものだ。先週にくらべれば、隨分と気は楽である。
長男の結婚披露宴は日光のそれについても、また東京のそれについても、場所や内容の決定には僕は一切、関わっていない。にもかかわらず結局のところは「落ち着いたところで地味に」という僕の意向に添ったものになり、気分は終始、静かで温かかった。
宴会は午後の早い時間にお開きになった。僕と家内は浅草16:00発の下りに間に合い、いまだ夕方のうちに会社に戻ることができた。昼からフランス料理など口にしたため、夜は蕎麦と決めて、着替えの後、ホンダフィットに乗る。
来週のタイ行きでは、田舎から首都に戻る際に飛行機を使う。その航路にはタイ航空とエアアジアが定期便を飛ばしている。後者の方が僕にとっては時間の都合が良い。よって先日、ウェブ上でその航空券を予約した。価格は空港税、消費税、支払手数料を入れても1,629.3バーツ、邦貨にして5,621円だった。
チェックインは2週間前から可能とのことにて、本日、これまたウェブ上でそれを行う。
空港で係に見せること必定のボーディングパスは、iPhoneには送らず紙に出力をした。鳥も通わない奥地へ足を踏み入れるわけではない。しかし肝心なときにiPhoneが電源の喪失、故障、盗難などに遭っていれば、当方は陽炎の立つ滑走路を前に途方に暮れなければならないのだ。
旅の準備は着々と整いつつある。
終業後は家内と湯島へ移動し、天神下にて冷えた樽酒を飲む。
「3万円の服を買うよりも、体重を3キロ落とした方が、よほど見た目は良くなる」という箴言めいたものを先日、ウェブ上のどこかで目にした。誰もが簡単にできることなら箴言にはならない。
「体重を3キロ落とした方が…」とは、太っている人、あるいは自分は太っていると思い込んでいる人へ向けてのものだろう。「自分は太っていると思い込んでいる人」はさておき、実際に太っている人の多くは、そこから更に3キロを太ることはできても、3キロを痩せることは並大抵のことではできない。
なぜできないか。
太っている人はそもそも太るように生まれついている。「生まれつき」のことを強制的に変えようとする行為は不自然に他ならず、不自然とは自然の逆だから、大体においては無理な話なのだ。
集団で酒を飲むときなど周囲を見渡せばすぐに分かる。太っている人はより太るような肴を好み、痩せている人は永遠に太れそうもない肴を好む。
何度もダイエットを繰り返す人はまた、いかにも太りそうなものを、いかにも太りそうな時間に摂ることが多い。それをまたfacebookに上げたりするから「食生活さえ改めれば、汗水を垂らしたり節制をしたりする必要も無くて楽だろうに」と太っていない人は思うけれど、「いかにも太りそうなものを、いかにも太りそうな時間に摂る」ことが太っている人には自然なのだから、どうしようもないのだ。
ところで「大貫屋」のオムライスのメシの量は天神下の「シンスケ」ではないけれど、正1合はあるのではないか。これを13時45分に食べたら夜になっても腹が減らない。よってごく少量のチーズを肴にジンのソーダ割りを飲んで、これを夕食の代わりとする。
24日の日曜日、長男の結婚式に関連して、タクシー4台を後払いで頼んだ。月末まで延ばして集金に来てもらっては申し訳ないと、本日、その代金を払いに行った。タクシー会社は領収書を緑色の封筒に収め、手拭い2本と共に手渡してくれた。
会社に戻り、その手拭いを事務室の大テーブルに置いて「さぁ、領収書は専用のファイルに保管しよう」と、ふとテーブルの上を見ると、持ち帰ったはずの緑色の封筒がどこにも無い。
このような、まるで神隠しのような物の紛失を、僕はしばしば経験する。すべてのものにコンピュータを内蔵させ、時と場所を選ばずアクセス可能とする技術を何と呼んだか。紙1枚、鉛筆1本にもGPSの機能を持たせて欲しいとは、僕が大昔から夢想していたことだ。
仕方なくタクシー会社には領収書の控えをファクシミリで送るよう頼んだ。そうしたところその会社は領収書を再発行し、わざわざウチまで届けてくれた。
「イライラする」ことをウチの方では「いじがやける」と言う。「いじ」は「意地」と書くのか、「やける」は「焼ける」と書くのか、それについては知らない。しかし「今の今まで目の前にあったものを見失う原因は、散らかった事務机にある」と、僕は大いに意地を焼いた。
そして遂に、読もうと思いつつ昨秋から読んでいない新聞、とうに完了した工事の見積書、開封していない郵便物、書き記したまま紙と紙のあいだに紛れたメモなどすべてを検分し、仕分けし、保管し、あるいは捨てた。その結果、僕の事務机は何ヶ月かぶりの清浄さ取り戻した。
領収書の入った緑色の封筒は、夕方、ひょんなことから発見をされた。それは、再利用を目的とした古い封筒と共に、専用の紙袋に収められていた。妙なこともあるものである。
先週の月曜日に積もった雪は、1週間後の今も歩道や路肩にうずたかく残り、日の当たらないところでは特に、青みを帯びて凍っている。この1週間、日本は寒さに閉じ込められてきた。まぁ、冬なのだから、当たり前といえば当たり前のことだ。
今朝のテレビのニュースでは「アジアでも記録的寒波、台湾で60人死亡」のテロップが出た。被害者は、想定外の寒さに襲われ亡くなったに違いない。
「干ばつだ、いや大雨だ」と、タイの天候も地域により極端に振れている。きのうのバンコクの最低気温は15℃だった。「15℃なら暖けぇじゃねぇか」と嗤うなかれ、普段30℃のところが15℃なら、4月の東京が氷点下を記録することとおなじである。
タイの旅社の窓にガラスは無く、鉄格子が嵌まっているだけだ。少なくとも僕の20代はじめの定宿「楽宮」は、そうだった。窓から廊下まで吹き抜けの宿で15℃は、いささか辛いに違いない。
タイにはどうか、2月の第1週までには30℃超の気温と乾季の爽やかさを取り戻して欲しい。そうでなければ日本から飛んでいく甲斐が無いではないか。
「これからの2週間は、風邪など絶対にひけない」と内外に宣言をしたのは先週月曜日、18日のことだった。そして19日の夕方から21日にかけての「日光MG」、きのう24日の長男の結婚式と、ふたつの山を無事に越えた。ただしいまだ、2週間のうちの半分が過ぎたに過ぎない。これからの1週間も、気を引き締めて生活をする必要がある。
午前中は、きのうの披露宴で乾杯をしてくださったカタヤマタカユキさん、スピーチをしてくださったスズキトール税理士を訪ね、お礼を述べる。カタヤマさんは新酒の初しぼりにて蔵に籠もり、お目にかかることはできなかったけれど、スズキ税理士はちょうど玄関先にいらっしゃって「簡素で家庭的で素晴らしかった」と、長男と嫁の考えによる披露宴を大いに褒めてくださった。有り難いことである。
午後は事務室を離れ食堂にコンピュータを開いて、電話や来客があっては落ち着いてできない、精密さの求められる仕事をする。これを当初は1時間ほどで完了するつもりでいたけれど、途中で糸が絡まるようにして、いまいちど元に戻らざるを得なくなり、結局は3時間もの時間を使ってしまった。反省をしなくてはならない。
夕食後は20時をまわったころに早くも入浴をし、早々に就寝する。
朝、いまだ夜の明ける前に洗面所のカーテンをすこしずらして外をうかがうと「大寒波の襲来」という声高な天気予報に反して積雪は無かった。週末の雪は特に、逐一挙げることはしないけれど、いくつもの理由からまったく歓迎できず、よってひと安心をする。
本日はまた、長男の結婚式がある。ウチは祝儀不祝儀の別なく会社は休まない。店を早じまいしてはどうか、という一部社員からの提案は一蹴した。工夫段取りをすれば、冬の定時である17時まで営業をしても、披露宴には間に合うはずだ。
僕と家内の結婚披露宴に、社員は同席できなかった。僕の友人の一部は、オヤジやオフクロの友人知人に押し出される形で招待状を送ることを諦めた。今回のそれについてはすべて、長男と嫁に任せた。僕は何もせず、今日はただ言われるまま会場に来たに過ぎない。
式は長男の同級生タケダタイチ牧師の司式により執り行われた。社員はもちろん、余裕を以て会場に入ることができた。そして予定通り18時より、披露宴が始まる。
17日の日曜日までは、これまで経験したことのない暖かさが続いていた。「これも地球温暖化かな」とか「やっぱり冬は寒くないとね」などと言い交わす声が僕の周辺でもしばしば聞こえていたけれど、その晩から18日にかけての雪を境として、列島の様相はすっかり変わった。
「特に九州、四国、中国の各地方には、今夜から明日にかけて強力な寒波が押し寄せる」と、テレビが盛んに報じている。大型の台風襲来が伝えられれば、盛り場に繰り出す人の数は極端に減る。それとおなじく、今週末の日光への客足は、隨分と少なくなるのではないか。
営業時間のほとんどは事務室にいて、カレンダーに今後の予定を書き込んだり、あるいは調べ物などをする。
「関東北部の降雪は、今夜半から明朝にかけて少しだけ」と予想をする人もいるけれど、本当にそうなるかどうかは分からない。そして夜の湯豆腐は美味かった。
"MG"の最中であっても、早朝や、あるいは決算が終わって一段落したときなどにはコンピュータを立ち上げ、現在の様子をfacebookに上げたり、あるいはこの日記を書いたりしてきた。しかし今回はどうも、そのようなことをする気持ちにはならなかった。いつもより"MG"に気が入っていたのかも知れないし、あるいは他の、自分には分からない理由によるものかも知れない。
このことにより3日も間の開いている日記の、さきおとといの分を先ずは起きて朝食までの間に書き、サーバへ転送する。
いまだオフクロに年賀状をくださる方がいらっしゃる。僕は年賀状も書かなければ、年賀欠礼状も、また書かない。「だからそういうものがいまだ届くのだ」と言われれば、しかし今回の年賀状は外国人からのものだ。僕もそこまでは手が回らない。
現在、書かなければいけない手紙が3通ある。そのうちこの年賀状への返信は最優先と考え、ボールペンによる下書きを、万年筆にて清書する。それを書き終えて読み返すと1枚目の便せんの1行目に誤字があったから、もういちどはじめから書き直す。エアメールの切手代は90円だった。
小遣い帳に「床屋」で検索を入れ、前回の散髪が12月10日だったことを知る。僕のような坊主頭の手入れは月に1度でも少なすぎるにもかかわらず、40日以上も間を空けてはいけない。夜は夜で用事があるため、昼のうちに住吉町のカトー床屋へ行く。
次の散髪はタイの田舎で、ということになるのではないか。現地ではいずれヒマなのだ、多分。
複数の人とひとつの部屋で寝る旅館では、早朝いまだ暗いうちからコンピュータの使える場所を、前の日から探しておく。特に「日光MG」の最中はウェブショップの受注係も研修中にて、注文に対しては、僕が返信の担当を担っているのだ。今朝は雪の山谷を望めるロビーの一角にて、その仕事を行う。
「日光MG」はほぼ全員が泊まりの合宿形式のため、2日目は通常よりも早く、今日は9時に開始をされた。先生の講義に続いて第4期のゲームが始まる。
この期、僕はD卓にいて、となりはイチカワアイさんだった。彼女の会社盤を見ると無災害倉庫を借りていない。期初にコンピュータを借り保険に入って僕の現金残高は129円。これだけのお金があれば大抵は無災害倉庫を置くところ「イチカワさんほどの人でも借りないなら」と、僕も倉庫は見送った。
そうしたところ前半に「倉庫火災」のリスクカードを引いて材料3個を失う。そしてあろうことか後半にもまた「倉庫火災」を引き、今度は材料4個を失う。期中に2度の「倉庫火災」に見舞われたのは、「東京MG」が新宿三丁目の木原ビルで開かれていた1990年代の初め以来、およそ20数年ぶりのことだ。自己資本は倒産寸前の55円まで一気に落ちた。
第5期、僕はD卓に居残ったが、上の卓から落ちた来た人、下の卓から上がってきた人たちは、彼らの会社盤を見る限り、充分な競争力を備えている。期初の在庫が材料3個のみ、戦略チップは教育1枚のみの僕は前期までの頑迷さを捨て、競争は避けることとした。
ひとり淡々と楽な道を歩んだ結果の損益分岐比率は、この2日間で最良の82パーセント。「なんだかなー」である。そしてまた「次のMGも、この戦術で行ってみるか」とも考える。
戦い済んで、日は西に傾きつつある。今回の最優秀経営者賞は、川崎市から参加のイチカワアイさんが第5期到達自己資本568円で、優秀経営者賞は東京から参加のカワナベコージンさんが同542円で、またもうひとつの優秀経営者賞は、やはり東京から参加のヨシダケーゴさんが同497円で、それぞれ獲得をした。
また、社外から名人上手鬼巨匠が参加してくださるようになって以降、社員からはトンと輩出されなくなった計数力第1位を包装係のヤマダカオリさんが獲得したのは立派だった。こうして第31回日光MGは無事に完了した。
今日は大寒。いまだ寒い日は続くだろうけれど、春は、そう遠くないところまで来ているはずだ。一歩、また一歩と階段を上がるようにして、3月の彼岸を目指したい。
"MG"を経験し、これに感応した経営者であれば誰しも、かどうかは不明ながら、これを社員と共有したい考えるのではないか。少なくとも僕はそうだった。そして今もそうだ。"MG"に耐えうる能力を持つすべての社員と年に2度の「日光MG」を続けるうち、それは今日で31回を数えることになった。
今回の「日光MG」では、上澤梅太郎商店から17名、社外から16名、ニシジュンイチロー、ヨシエ両先生を加えれば35名が鬼怒川温泉の「一心舘」に参集した。
"MG"は社内あるいは仲間内のみで行ってももちろん効果はある。しかし社外から参加して下さる方がいらっしゃれば、その効果は幾層倍にもなるとは、きのうの日記にも書いたことだ。
前回の「日光MG」は昨年9月9日と10日。つまりテレビのニュースによれば「50年に1度」という大雨の降った日だ。そして今回は暖かい冬に安心をしきっていたところにいきなり雪が降った。そのような悪条件をものともせず関東の北まで来てくださる両先生、また社外から参加の方々には本当に、感謝に堪えない。
2日間で5期分の経営を盤上に展開する"MG"の、第1日目の僕の成績は、第2期初の自己資本283円を期末には275円に落とし、これはまぁ、防ぎようのない特別損失によるものだから許されるとして、第3期の損益分岐比率は143パーセント、自己資本は173まで一気に落ちた。原因はひとえに僕の頑迷固陋さにある。
夕食の後は第4期で捲土重来を期す経営計画を立て、交流会を経て早めに就寝する。
味噌蔵の屋根の雪に朝日が差している。空は青く、空気は冷たく澄んでいる。その景色は美しい。しかしできれば、雪はスキー場にだけ降って欲しい。冬はなぜか北に旅をしたくなる。雪はあるいはまた、その旅先でのみ降って欲しい。
今年366日のうち店を休むのは5日間だ。直近のそれは明日と明後日で、この2日間は社員研修に充てられる。店内には既に、そのお知らせが張り出されている。外ついては夕刻になってから、犬走りの3個所に僕が画鋲で取り付けてまわる。
研修には社外からも多くの方々が参加をされる。それらの方々が来てくださることにより、研修の効果は幾層倍にもなる。明日の開始は10時で、会場は鬼怒川温泉だ。よって先生はじめ何人かは前泊をされる。その前泊組に日光市内からの参加者を加えた食事会を、19時よりウチの応接間で始める。
これからの2週間には大きな山がいくつもあって、そのあいだは特に健康を保たなければならない。今日がその初日にもかかわらず僕は良い調子になって、食事の様子を写真に撮るようなことは一切、忘れる。
会は22時30分にお開きになった。皆さんを外にお送りし、家に入って即、入浴する。そしてこれまた即、就寝する。
3時台に目を覚まして洗面所へ行き、カーテンをすこしずらすと、きのうの予報の通り、水銀灯に照らされた外は一面の雪だった。
「雪のあしたの裸の洗濯、という言葉が自分の生まれ育った土地にはあった」とは、20代のはじめに働いていた会社の運転手イトーさんが教えてくれたことだ。イトーさんは長野県の諏訪のあたりの出身ではなかったか。
「雪の降った朝は裸で洗濯ができるほど暖かい」という、いささか大げさな表現は、寒いところに住む人にこそ理解のできるものなのだろう。
今年は不気味なほどの暖冬で、きのうもその例に漏れない一日だった。そこにいきなり雪が、それも少なくないそれが降って、今も降り続いている。しかしそれは、それほど珍しいことでもないのかも知れない。
朝食を終えるころ、国道121号線からゴーゴーゴロゴロという音が聞こえてきた。窓から見おろすと、鬼怒川方面から来た除雪車がそのまま日光宇都宮道路の今市I.C.には向かわず、ウチの前できびすを返そうとしているところだった。
店の灯りをすべて点けるのは、普段は開店の10分ほど前だ。しかし雪の朝だけは、早くから明るくしてしまう。出勤する社員に対して、店を灯台のようにしたい気持ちが僕にはあるからだ。
7時30分の積雪は、ホンダフィットの屋根に定規を差し入れた限りでは19センチだった。19センチとはいえ人力での雪かきは容易ではない。それに加えてウチの敷地内を流れる西裏用水が水涸れのため、ここに雪を落としても溶けて流れず、雪かきを更に難渋にした。
日常の仕事、今日に予定していた仕事もあるため、社員は雪かきばかりもしていられない。14時には全員が上がって各部署に着く。僕は20日、21日の社員研修に備えて「お休みのお知らせ」というメールマガジンを発行する。
夜はパリパリに凍ったアスファルトを踏んで小倉町のニジコ食堂へ行く。そしておとといから数えれば3杯目のラーメンを食べる。
きのう池袋にいて、やにわにラーメンとチャーハンのセットが食べたくなった。よってビックカメラちかくの覚えのある店に向かうと、ラーメンはラーメンでもコテコテドロドロ系の店に変わっていた。よくあることだ。
この30メートルほどの短い通りには特に、豚骨スープのラーメン屋が3軒も並んでいる。新文芸座の角まで来て何気なく右を向けば、そこのラーメン屋にもまた「豚骨」の文字が見えた。
「関西の漫才に席巻された東京では噺家が仕事を失い、みな、雪崩をうつようにして大阪弁を習い始める」という話をむかし三遊亭圓丈の落語で聴いたことがある。ラーメンの世界では、それが現実になっているのだ。
その点、田舎ではまだ安心をしていられる。そして昨年12月12日からひと月以上も遠ざけていたラーメンを、今月はきのう今日と立て続けに食べる。
夜は水餃子を肴に白酒を飲んだ。おかずひとつの食事を僕は「のみメシ」と呼び習わして月に何度かは楽しんでいる。なぜ好きなのか、その理由については分からない。そしてことし初めての役員会議が開かれる町内公民館へと向かう。
自由学園の男子部では、卒業をして、あるいは卒業はしていなくても、卒業生の会「同学会」の会員になっていれば、新年総会の席で還暦を祝ってもらえる。還暦など遠い先のことと考えていたけれど、今年は遂に、ひとつ上の34回生が当該の学年になった。
新年総会の場所は長く竹橋のフランス料理屋アラスカだった。それが池袋の明日館になり、しかしこれが耐震工事のため使えなくなって以降、昨年からは東久留米市の自由学園に移った。
「地理的に出席は面倒」と考えていたところ、同級生の連絡網に上がったのが「我々も今年のことを参考に、来年に備えなければならない」というサカイマサキ君による提案だった。そういうことであれば、僕も行かないわけにはいかない。というのも「記念品の赤い制帽が、床の間の飾りにしかならないような小さなサイズのものだったら、もらっても意味は無い」と言い続けた、僕は張本人だからだ。
学園の庭には白く梅が花を咲かせていた。講堂の壇上に並んだのは34回生のうちの17名だった。後輩からの挨拶は我々35回生のウエキコータ君が立派に務めた。それに対して34回生は、ツヅキハジメ君が代表としてマイクを握った。ツヅキ君は男子部委員長を退任するとき、講堂に集ったすべての生徒を感動させる演説をした。その43年前のことを、僕は今でも忘れない。
僕のオヤジが在学したころの、木造の東天寮を知る者は39回生までではないか。その東天寮は僕が高等科3年になるとき鉄筋コンクリートに建て替えられ、今は「しののめ寮」という多目的の施設になっている。その「しののめ寮」での懇親会がお開きになるのを待って、35回生は三々五々、池袋に向かった。
再集合をした居酒屋では、クラス委員のツナシマショーゾー君が中心になって、来年の今日についてのことがいくつか決められた。
ところで「赤い制帽」のサイズは58センチで、見本として借りたそれは、僕の頭に緩くもなくきつくもなく収まった。何も言うことはない。
東武日光線の上り特急スペーシアに乗り、席に着いて"LINDBERG"のメガネをかけた途端、いつも眠くなる。まるで条件反射だ。ところがこの日記にも書いたように、今月2日の部品の紛失により、現在、そのメガネは使っていない。
裸眼でも普通の活字くらいは目で追えるから、今朝はメガネはかけず、そのお陰で眠ることなく北千住まで本を読み通す。
地下鉄日比谷線を恵比寿で降り、駅構内をガーデンプレイス側の出口まで歩く。10時がちかいにもかかわらず、そして空は晴れているにもかかわらず、あたりはいまだ早朝のように暗い。
夕刻に新橋に移動し、喫茶店で本を読む。僕は活字中毒ではあるけれど、本は家の外でしか、なぜか読むことができない。
日が落ちるころ外堀通りを渡り、8丁目でカウンター活動をする。西五番街を5丁目まで歩くと、地下への新しい階段ができていた。よってこれを下って甘木庵へと向かう。
今から20年前か、はたまた四半世紀ほども前か、それは覚えていないけれど、鳥が巣を作らないようなあれこれを店舗の大屋根に施した。以降、鳥の糞や羽毛の、庇や地面に落ちてくることは極端に減った。しかしおととしあたりからだろうか、特に鳩が、またぞろ垂木の先端に羽を休め、お客様の通り道を汚すことが目立ってきた。
よってこのことにつき、前回も仕事を頼んだ業者に昨年末に相談の電話を入れた。そして本日、その第一段階としての、高所作業車による現場の確認が行われた。
幸いなことに、鳩は営巣まではしていなかった。飛び来る場所も、それほど広い範囲には及んでいなかった。業者は有効と思われる対策について説明をし、僕はそれを了承した。
工事は今月の20日あるいは21日に行われることになった。現在の場所を追われた鳩が、同じ大屋根の、他の場所に移らないことを祈るばかりだ。
夕刻より、いまだ始まっていないお通夜では焼香のみ、ふたつめのお通夜には参列をし、19時すぎに帰宅する。
冬時間の採用にともなって、きのうは店舗向かい側の、日没から18時まで点灯する照明のスイッチを切った。また店舗側の看板の照明については、その稼働時間を16時15分から17時までに設定をし直した。
冬至のころにくらべれば、夕刻の日は隨分と延びた印象を受けるけれど、日の出については、いまだ遅く感じられる。晴れていても、東の空にようよう赤味が差すのは6時を数分すぎてからのことだ。
きのうは東京に初雪が降ったらしい。しかし日光には風花のひとひらも舞わなかった。7時25分、西北に面した窓を開けると、山々に雪はいくらか増えていた。しかしむかしスキー場のあった霧降高原には、枯れ木と枯れ草の色しか望むことはできない。
事務机の左に提げたカレンダーに、予定が次々と書き込まれていく。そこにまた、新たな予定が割り込んでくる。いよいよ余白が無くなると、その上にポストイットを貼り重ねる。
社会保険労務士と話をしている最中に、年始まわりに来た取引先に気づき、事務室から外へ出る。「先方も忙しいに違いない」と慮って、挨拶はそのまま外で簡単に済ます。当方の配慮に先方が気づいたか、あるいは失礼と感じたかについては分からない。
夜はすっかり落ち着いて、イタリアの安い赤ワインを飲む。
僕が成人をする直前、西暦にすれば1975年のころまで、水神は、明治の初めに建てられた蔵つまり製造現場のほぼ中央に祀られていた。その後の新しい蔵では元あった場所からは離れて、しかし蔵のほぼ中央ということは変わらず、その石碑はふたたび安置をされた。
水神祭は、僕のオヤジの生前には毎年、1月15日に執り行われていた。やがて総鎮守瀧尾神社の宮司も代替わりをした。新しい宮司はこのお祭を、おなじ1月でも「みず」の日を選んで行うこととした。
本日は「みずのと」にて、9時前にタナカノリフミ宮司が来る。そして何十年も、あるいはそれ以上も前から変わらない順序、変わらない内容がどうかは知らないけれど、修祓、祝詞奏上、玉串奉奠と、この寒のお祭を厳かに執行した。
本日はまた鏡開きにて、社内の鏡餅はすべて降ろされた。あさって14日には正月飾りが外される。一方、会社は今日より冬時間に変わった。8時15分の開店はそのままに、閉店のみ18時から17時に繰り上がる。
店は、春の彼岸まで静かになる。製造現場は逆に、種々の仕込みが毎週のように繰り返される。今日の水神祭は、僕には何やら節分のように感じられた。あたらしい「旬」の始まりである。
むかしは昼飯を食べながら飲酒をすることもあったけれど、今はしない。なぜしないか、道徳にもとるからしないわけではない、酔った状態であれこれしたくないこと、夜のメシと酒が不味くなること、この2点を以て昼の酒は飲まなくなった。
昼の酒は飲まなくなったはずが、きのうは町内の組長新年会が昼に行われたことにより、昼に飲む羽目になった。「新年会だからといって、別段、飲むこともないだろうに」と言われれば、そこはそれ、人と人との間にはあうんの呼吸というものがある。コトは杓子定規には運ばないのだ。もうひとつ、僕が酒好き、ということもある。
その、きのうの昼の酒も夜の酒もすっかり抜けた今日は、成人式で祭日とはいえ、それほど店は混まないだろうと考え、コンピュータを持って4階の食堂に上がる。その、電話も来客もない環境にて、ちと精密な作業を行う。
その作業を完了したらすっかり気が楽になって、午後は仕事とはいえ、ゆるゆると終業時間に至る。
我が春日町1丁目は日光街道を挟んで東、中央、西と3つの地区から成る。各地区には地区委員長がいる。その下の組長は、いわゆる向こう三軒両隣から町費を集めて地区委員長に渡し、地区委員長からは市の広報や回覧板の配布を受けて、これを組内に巡回させる。
その、現在は町内に19名いる組長の、1年の労をねぎらうのが組長新年会だ。ところがこの新年会の出席率が、おととしあたりから極端に落ちてきた。それは組長の高齢化、正月早々、夜の宴会という3つの条件によるものが大なのではないか、という意見が昨秋の役員会に提出をされ、今年は本日10日の11時開宴が決められた。
役員は10時30分に集合とのことにて、その数分前に店を離れ、公民館へ行く。準備から三本締めまでは2時間30分ほどで完了した。工夫の甲斐あって、参加者も昨年よりは多かった。
3月には総会、4月には春季大祭が控えている。それまでは町内も体力温存の冬ごもり、である。
谷口正彦の「冒険準備学入門」をひもとくまでもなく…と書けば、この日記を読む人は「あぁ、またか」とうんざりするかも知れない。とにかく、旅の楽しみのかなりの部分は、その準備にある。
思いがけず客死をするとか、何かから逃げ続けなければならないとか、そのようなことでもない限り、旅には大抵、行って帰るまでの期間というものがある。しかしその準備であれば、出発までの1ヶ月でも1年でも、とにかく、いくらでも長いあいだ楽しむことができる。
今回の旅は、首都から列車で20数時間も離れたところへ行き、そこから首都までは"LCC"で戻る。荷物を軽くするため、首都でしか使わないものは首都に残したい。とすれば出発の前から、田舎へ持参するものと首都に残すものとは分けておいた方が便利だ。
もうひとつ、冬の日本から南国への旅であれば、往路の服はどこかで着替え、それもまた首都に残したい。着替える場所は行きの機内だろうか。しかし夜明け前のメシが片付けられた途端、機は着陸に向けて降下を始める。だったらどうするか。
あれこれ考えは尽きず、それがまた、旅の準備の楽しいところなのだ。
午前、街のあるところにホンダフィットを駐め、用を足していると、ギアをニュートラルにしたまま、あるいはクラッチを踏んだまま、異様にエンジンを空回りさせている音が聞こえた。そちらの方に顔を向けると、軽トラックの運転席にはジイ様、そして外からは、そのドアノブに手をかけつつ「ダメだよ、ダメだよ」と、バア様が声を張り上げている。
軽トラックが急発進、あるいはいきなりバックしても轢かれない真横から運転席に近づくと、ジイ様の耳には補聴器が見えた。よってドアを開け、その耳に口をちかづけて「オレがやりましょうか」と訊いてみた。ジイ様はクルマとクルマが不規則に並ぶ、そのあいだに軽トラックを駐めたいのだ。
軽トラックを無事に駐車させて、その鍵をジイ様に渡す。バア様は何度も僕に頭を下げた。
泥の付いた長靴をペダルから滑らせ、奥さんをひき殺してなお、自家用車を欠いては生活できない老人のことを、何年か前の下野新聞が特集で報じていたような気がする。老人による自動車事故は、テレビのニュースでも枚挙のいとまがない。
今日のジイ様も、クルマを運転する能力などは、とうの昔に失っているのだ。歩行者は益々、自衛の度を高めなければならない。
2013年秋、中身ごとタンスをいくつも捨てるような大整理と共に家のリフォームをしたところ、モノの少なさによる爽快さに気づき、その環境を維持したいと考えると共に、モノ以外に対する簡素化への欲求も高まった。
その一環として、おとといは所属している団体のひとつについて、今年度の会費を振り込んだ上で、退会を希望する手紙を事務局に宛てて投函した。会員になっているにもかかわらず、当方の仕事の都合で活動できない他の団体にもいずれ、おなじ手続きを執るつもりでいる。
もっとも「村社会」のつきあいにより会員になっている団体については勿論、ここから抜けることはしない。
夜は会社の新年会にて焼肉の「大昌園」に集合をする。今の若い人はほとんど飲酒をしない。「飲めるけれど、飲まなくても平気」という、僕からすれば不思議な性向を持っている。そのような十数人に混じり、僕と製造部長のフクダナオブミさんは、ふたりで眞露1本を空ける。
最後の福引きについてはほとんど、何も覚えていない。
自分の好きな物事の周辺をすこしずつ削ぎ落として芯だけにすると、そこには「美味いメシと酒」、「本読み」、「旅」の3つが残る。
その「旅」の準備が本日、ほぼ整った。行き先はタイ。バンコクから目的地までの移動は鉄道。現地ですることは、いつもと変わりなく、散歩、メシ、本読み、酒、暑ければ水泳と、そんなところだ。
列車に20時間以上も揺られて行った先からふたたび鉄道で首都に戻ることもできるけれど、それでは旅程が長くなる。帰路は現地の"LCC"による航空券をインターネットで予約した。
鉄道の全行程1,143kmに対して二等寝台の価格は677バーツ。国内線の航空券は1629.3バーツ。航空券の価格は、受託手荷物、ホットシート、食事のいずれも含まない。いずれ座っている時間は90分ほどのものだろう。必要最小限で充分である。
ところで「美味いメシと酒」とは断じて「高いメシと酒」ではない。現地のメシと蒸留酒があれば満足だ。本は列車の中で、旅社の寝台で、あるいは木陰の寝椅子で、ずっと読むことができるはずだ。スーツケースを首都に残置すれば、田舎にはデイパックひとつで行けるかも知れない。
きのうの朝、ほんの少しの違和感を喉に覚えた。昼を過ぎるころから、そのかさつくような感じは強まった。午後も半ばを過ぎるころ、ようよう仕事を抜け出し自宅に戻ってイソジンでうがいをしたけれど、症状は改善しなかった。
それからおよそ10時間。眠っている最中に喉の痛みで目を覚ます。枕の下からiPhoneを取り出し見ると、時刻は0時を30分ほど過ぎたところだった。洗面所でうがいをしてから食堂に行き、昨年セキネ耳鼻科で処方されたらしい消炎鎮痛剤を薬の引き出しに見つける。そしてそれを飲んでベッドに戻る。
明け方に目を覚ますと喉の痛みはそれほど和らいでいなかった。しかし小一時間ほども闇の中に横たわるうち、なぜかいきなり楽になった。
午前、セキネ耳鼻科へ行くべく機会をうかがうも、店は混み合っている。ようよう外へ出てホンダフィットに乗り、昼直前に受診を果たす。
体内に炎症があれば酒は控えるのが当然のところ、夜になったらなったで焼酎のお湯割りを飲む。
「メガネは一生、コレだけで良い」と本気で思うほど具合の良い"LINDBERG"にも瑕瑾はある。医療用シリコンを用いたというノーズパッドがときどき外れるのだ。
外れても、それが机の上にでも落ちればまた取り付けることができるけれど、おととい自宅の食堂で外れたらしいそれは、あたりをくまなく、最後にはズボンを脱ぎ、それを裏返してまで探しても見つからなかった。
仕方なく、それ以前に作った"999.9"のメガネを非常用とするも、こちらは現在の視力に合っているわけではないから、長くかけ続けることはできない。よっておとといからは、新聞を読むにも、またこの日記を書くにも、裸眼で行っている。
解釈のしようによっては、僕の近視も遠視も乱視も、それほど強いものではない、ということだ。それはさておき今月16日に行くことになるだろう眼鏡屋では、余分のノーズパッドももらっておくことにしよう。
牛肉のたまり串焼きを手伝ってもらうため頼んだアルバイトのマエザワ君は今日から来ない。三が日が過ぎ、お客様の数も少なくなると見越してのことだ。長男の昼食時間には代わりに僕が焼き方を務め、外に小一時間ほども立つ。
「焼鳥屋やモツ焼き屋のオヤジは大抵、機嫌が悪い」と言った人がいる。そんなことはない、ということを僕はよく知っている。あるいはその人は「肉を焼いているあいだは他のことなど構っていられない」という殺気のようなものを、肉を焼く人から感じたのかも知れない。それなら大いにあることだ。
そして夜はフランス料理屋"Finbec Naoto"による、正月限定の気楽な料理を家族と食べに行く。
むかし製造現場にあった炉筒煙管型ボイラーについては、はじめ「使いこなせるわけがない」と考えていたけれど、いざ毎朝、手を触れるようになると、その複雑な操作は体が覚えてしまい、苦労することは何も無かった。
この日記は、2007年7月まではHTMLで書いていた。覚えてしまえばどうということはない。その後はドリームウィーバを使うこととなったけれど、いわゆるウェブログには移行しなかった。月が改まるたび、システムの整ったウェブログで日記を書いている人には考えも及ばないページ作りが必要になる。しかしこれまた覚えてしまえば作業は10分ほどで完了する。
今朝も、2015年12月の日記をきのうまでとは別のページを作って移し、今日まで2015年12月の日記のあったページを2016年1月のページとする。それぞれへリンクしている目次はふたつあるから、そのふたつのページも書き換える。そして元旦ときのうの日記を書き、きのうのそれのみサーバに上げる。
天気は相変わらず良いけれど、店が正月らしく賑わうのは今年は今日までではないか。そう考えて、営業時間中はできるだけ多くの時間を、店で販売に費やす。ときおりは外へ出て、牛肉のたまり串焼きの様子を見る。昼食は自宅の食堂には戻らず、事務室にてそそくさと摂る。
製造現場はこれからもあれこれの仕込みで忙しいけれど、店はいずれ、冬ごもりのように静かになってしまうのだ。その前にひと働き、である。
年末より20分はやい7時ちょうどに事務室のシャッターを上げる。次々と出勤する社員と新年の挨拶を交わす。カワムラコーセン先生は7時30分に来て店内奥の、年末に下ごしらえした生け花を完成させる。
冷蔵ショーケースに試食を並べているその最中、開店前から、今年一番のお客様が駐車場に入っていらっしゃる。もちろん、お待たせすることなくお招きし、買い物をしていただく。
1月の曜日は、4日が土曜日に当たってくれれば三が日の後も2日間は休みになるから、正月に商売をする者にとっては有り難いのではないか。それからすると、今年の並びは、ちといただけない。しかし快晴には恵まれた。気温も例年になく高い。
一番上等の味噌「梅太郎」の白味噌と赤味噌のうちの白味噌のたまりに漬け込んだ牛肉を炭火で炙った串焼きは、今年は長男と次男とアルバイトのマエザワユート君が担当をしてくれている。そして今日の日没までの分として用意したものは、有り難いことに15時に売り切れた。
夜はその「たまり」を割り下にしたすき焼きを食べる。「コレさえ使えば、すべてのすき焼きは、今よりずっと美味くなるぞ」と思うけれど、残念ながら、ほんの少ししか採取できない種類の「たまり」なのだ。
そして僕はといえばことし還暦という齢もあって肉は1枚にて満足をし、肉の脂と「たまり」を吸い込んだ長葱ばかりをほとんど酒の肴とする。
1月1日の朝はなかなかに忙しい。先ずは家族そろって墓参りに行く。その帰りに「道の駅日光街道ニコニコ本陣」でクルマを降り、その商業施設に通用口から入る。そしてウチの売り場を拭き清め、在庫を調べ、陳列を整える。
徒歩で帰ると長男と次男が店舗入口の季節の書を、昨年末の「新らっきょう」から「賀正」に掛けかえているところだった。そうするうち台所ではお雑煮ができあがったから、これを長男と嫁が仏壇、神棚、お稲荷さん、水神、地神の5個所にお供えしていく。人間が正月の膳にありつくのはそれから。いつも9時過ぎになる。
昼が近づくころ、これまた家族で総鎮守瀧尾神社へ出かけ、昇殿をする。IT関係の集まりとは異なって流石に、屋内で帽子を着用している男は宮司以外には見られない。
春日町の瀧尾神社から今度は小倉町の追分地蔵尊に移動をし、ここでも今年の無病息災を祈念する。
朝にたっぷりの食事を摂っているから昼は何も食べない。そして夕刻まではゆっくりと過ごし、暗くなるころ製造現場に入って明日の準備に取りかかる。