空が晴れている限り、夜明けは常に美しい。
おなじ場所に何日もいると、行動が決まってくる。その、決まってきた行動をすこし変えてみるのも小さな楽しみなら、敢えて繰り返すのも一興である。
コック川を望む朝食の場所へ、今朝はロビーから階段を降りるのではなく、このホテルで使うための野菜を育てている菜園を迂回しながら行ってみる。ここへ来るようになってから6年目にして初めてすることである。
小遣い帳を調べると、最後に床屋にかかったのは先月27日のことと知れた。僕のような坊主頭は、本来であれば1ヶ月を過ぎる前にまた床屋へ行かなくてはならないのだ。髭も伸びて、もはや我慢の限界である。
チェンライの床屋の始まる時間について、朝食を摂りつつウェイターに訊くと、8時だという。現在の時刻は7時30分。であれば食後すぐに出かけても、シャッターの前で待つことはしなくて済む。
朝の光の差す崖下の道を往く。田舎のデパートの中を通り抜けると、目の前は市場だ。その市場の東の際を歩き、バンプラカン通りを東に進む。
チェンライ随一の繁華街パホンヨーティン通りの、タイ航空の真正面にある床屋には、昨年から目をつけていた。間口が狭く奥行きの深いその床屋には、外から眺めただけで硬派な雰囲気が溢れていたのだ。
日本の仕事は世界標準に照らして万事、偏執狂的である。その偏執性が世界の需要を喚起し、第二次世界大戦により潰れた日本を再生させたことは万人の認めるところだ。その、極端な几帳面さから離れて特に南国のゆるさに出会ってみると、それはそれで、また悪いものでもない。
「髪は短く、髭も短く」と伝えると「とにかく座れ」とオヤジは椅子に僕をうながした。オヤジに訊かれたのは、バリカンに履かせる下駄の長さについてのみだった。後はオヤジに任せて静かにしている。
調髪と髭切りと耳掃除で代金は180バーツだった。内訳は多分、調髪が80バーツ、髭切りが50バーツ、そして耳掃除が50バーツだと思う。
チェンマイの床屋メーピンでは昨年、調髪と髭切りと耳掃除にそれぞれ200バーツを取られた。だからといって「チェンマイではぼられた」と腹を立てることは僕はしない。色々あるところが面白いのだ。
きのうも行ったドイチャーンコーヒーで、今日はミルクの入ったアイスコーヒーを一瞬で飲み干す。次はこの街の人が推奨するマッサージ屋で脚マッサージを1時間受ける。今日のオネーサンはとても上手だった。名を訊くと「リルン」と教えてくれた。すかさずメモに残す。
そこから歩いて、今度はバスターミナルの裏にある、朝とは違う市場の中を抜ける。その外の、花と果物を売る市場の、黄色い看板の蜂蜜屋に向かって右側に、僕の目指すイサーン料理屋はある。ここの熱々のトムセーップを飲んでみれば、こと味についてのみなら有名店になど行く必要のまったく無いことが理解できる。
来る日も来る日も歩き過ぎのため、今日は明るいうちからトゥクトゥクを使ってホテルに戻る。街からホテルまでのトゥクトゥク代は、数年前までは昼が60バーツで夜は80バーツだった。それらはそれぞれ80バーツと100バーツに上がったらしい。
午後はお決まりの、プールサイドでの本読みである。ところが今日は雲が厚く、ビリビリと雷が鳴っている。雲から地上へ向けて一直線に走る稲妻も見える。危険な兆候ではある。しかしときおり顔を見せる太陽に後ろ髪を引かれてどうにも立ち去りがたい。
そんな空の写真を撮った瞬間、頭上でけたたましく雷鳴が炸裂した。中国人の、子供を含む家族は何ごともなかったように遊び続けているけれど、僕だけは部屋に戻ることを決める。
17時のシャトルバスでナイトバザールへ出かけ、この旅で3度目となる、おなじオバチャンによるチムジュムを食べる。肴はそれだけで充分にも拘わらず、顔に見覚えのある別のオバチャンからは焼きそばを取り寄せる。フードコートは今夜も空いていた。
昼に続いてトゥクトゥクを拾う。ホテルに着いたのは19時10分。シャワーを浴びて即、就寝する。
24日から28日の5日間に3回の宿泊予約を入れた"agoda"からは、だから"Dudit Island Resoat"のレビューを送れという督促状が3通もメールで届いている。そのいちいちに感想を書くわけではないけれど、このホテルについての自分なりの長所を3つ挙げろと言われれば、それはすなわち以下になる。
1.コック川の中洲に建つ地理的有利さによる景色、環境の良さ
2.重厚な建物と訓練された従業員
3.朝食の豊かさ
朝食に臨んでは、オムレツは常に「全部入り」にしてもらう。「こんなの毎日飲んでたら即、糖尿病だぜ」というほど砂糖たっぷりの練乳を沈めるコーヒーは、嫌でも「タイに来た感」を盛り上げる。中華粥には、同じブースで調製される中華スープ用の豚の臓物を特注でたっぷり入れてもらう。これだけでかなりの満足である。
ところで悪趣味かも知れないけれど、レストランのテーブルの間を縫いつつ色々な国の人の朝食を見ていくと、折角のブッフェにもかかわらず、極端に狭い範囲のものしか食べていない例が異常に多い。ハムソーセージの類いとパンとコーヒーだけを摂っているのは北欧の人だろうか。一家4人の4人とも、皿は各人の前にひとつだけ。中身は全員が同じ焦げ茶色のシリアル。これはアメリカ人に違いない。野菜を多く皿に取るのはやはり、インドシナの人たちである。
朝食を終えて部屋に戻る。晴れた空の下、トラックのディーゼルエンジン積んだタイ独特の舟がコック川を遡って行く。
午前、今日もまた徒歩でホテルを出て崖の下の道を往く。田舎のデパートは冷房が効いているから、この中を通り抜けさせていただく。金色の時計台が見えてくると「やれやれ」という気分になる。目抜き通りの雑貨屋で絵はがき6枚を求め、すこし戻って交差点角のドイチャンコーヒーの扉を押す。
僕は年賀状を書かない。届いた年賀状に返信を送ることもしない。ただしその年賀状は取り置いて、旅先で返事を書く。
昭和の吉祥寺にあったような喫茶店ドイチャンコーヒーの深煎りのコーヒーは美味い。今日はアイスアメリカーノを頼んだ。そしてそれを飲みつつ6通のハガキに文字を連ねる。時刻は正午を過ぎた。
すこし歩いて先日も来たカオソーイポーチャイの席に着く。そして汁麺を食べる。僕はやはり、タイに来れば、この店のそれのような、盛りの少ない麺が有り難い。
以前は白人向けの安宿が多かった、だから今でもバックパッカーの生き残りのような白人の目立つチェットヨット通りからワンカム通り裏の、怪しげなマッサージ屋が軒を連ねる道を抜けてエジソンデパートに入る。そしてここの一角にある郵便局の出張所にて6通のハガキを投函する。
"Dudit Island Resoat"にいる限り、午後はいつもプールで本を読んで過ごす。寝椅子に寝て、上半身はパラソルの陰に入っているけれど、脚は日の直射を受けている。暑さに耐えられなくなったら水に飛び込みしばし泳ぐ。そしてまた寝椅子で本を読む。これを繰り返して4時間ちかくになる。
"FITNESS CENTER"と看板のある、プール用のタオルの貸し出し所では、また自転車も借りられる。何年か前にはこの自転車で街を走りまわったものだ。しかしことし訊くと、これらはホテルの庭の中でのみ乗るためのものだという。それではまるで児戯ではないか。自転車が借りられれば、僕の脚も幾分かは楽になるのに、だ。
午後の最後の青空を部屋の窓から愛でる。そして18時のシャトルバスで街に出る。バスが停まるのはナイトバザールの前だけれど、僕はそこからきびすを返し、バンプラカン通りを西へ、西へと進む。そしてきのうは休みだったおかずメシ屋シークランのガラスのショーケースから2種のおかずを選び、メシにかけてもらう。
それだけでは物足りなくて、4種類ほどあるカレーの中から1種を選び「これについてはメシは要らない」と、若い女の子に伝える。
そのカレーが馬鹿に塩辛い。鮭茶漬けのような風味さえする。タケノコや隠元豆や茄子をかき分けていくと、室鯵のように背中を青く光らせた魚の断片が出てきた。そこでようやく、これが鹹魚で風味付けをしたカレーだったことを知る。
これだけ塩辛ければ、ビンに詰めて日本まで持ち帰ることも可能なのではないか。しかしそのビンを僕は持ち合わせていない。これについては来年の課題としたい。
昼に汁麺を食べるだけで3キロも4キロも歩いているから、夜はもう歩く気がしない。時計塔のちかくに停まっていたタクシーの運転手に声をかけると「60バー」と、トゥクトゥクより4割も安い値を言う。即、それに乗ってホテルへ戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。時刻はいまだ、19時35分だった。
「熟睡は充分にした。その後は浅く夢を見ている状態が長く続いている。そろそろ午前4時がちかいかも知れない」と、眠りながら考えている。
頭の芯がようようはっきりしたところで枕の下にiPhoneを探る。電源ボタンを押すと、見えた時刻は案に相違して00:34だったから「おいでなすった」と、思わず声に出しそうになる。今年も長い夜が来た、というわけだ。
それでもしばらくすると二度寝ができて、次に目を覚ますと2時20分になっていた。3時ちかくにコンピュータを起動して、有料で購読しているメールマガジンを読む。その後は読書灯を点け、きのうから読み始めたハルバースタムの「ベスト&ブライテスト」を開く。
しかし腹ばいによる本読みは腰を痛くする。適当なところで切り上げ、闇の中でふたたび仰向けになる。時刻は4時15分になっている。「ようやくここまでこぎ着けた」という気分である。
昨年は4時40分に啼いた一番鶏が、今年は4時44分に啼く。昨年は5時40分に啼いた二番鳥が、今年は5時20分に啼く。三番鳥は5時44分に啼いた。夜の明ける気配がして水浴び場に行く。数時間前は東の空に金星が見えていたけれど、今は空全体が曇っている。
この家に来てからずっと焚きつづけている蚊取り線香を携えつつ、階段を伝って庭へと降りる。シームンの奥さんは竈で米を煮ていた。僕はシームンにコーヒーを所望する。
朝食にはきのうからカオトムを頼んであった。米が煮えるとシームンはすぐそばに自生しているレモングラスから良さそうな茎のみを折り取った。そのような材料を使うのだから、この家のカオトムが不味いわけはない。
聞くところによれば、このパクラ村には19の家族が住んでいるという。カレン人は結婚をすると、自宅の敷地に新しい家を建てる。シームンの家には4世代にわたる3家族が住み、就学前の子供が3人いる。すぐ前の道を、他家のお婆さんが乳母車を押していく。19家族とはいえ、子供の数は割と多いのかも知れない。
7時55分にシームンの運転する四輪駆動車の助手席に収まり、シームンの奥さんに別れを告げる。田にはそろそろ収穫できそうな稲が実っている。シームンによればこのあたりでは米は三毛作も可能だけれど、大抵は二毛作。シームンの家では農業に専念できないため一毛作に留めているという。
小さな子供たちがサッカーに興じる学校を横目にしながら峠へと向かう。携帯電話のアンテナがようやく建ったとのことだったけれど、自分のiPhoneで調べたところ、電波はとても弱かった。
バナナやタピオカの畑、焼かれていまだ何も植えられていない畑、田んぼ、近くなったり遠くなったりしながら流れるコック川などを車窓に眺めつつ、ふたたびホテルに戻る。
"Dusit Island Resort"は市中心部から1キロ半の距離がある。街でメシを食べようとすれば、それだけで往復3キロを歩くことになる。昼に歩いて好きなおかずメシ屋「シークラン」を訪ねると、珍しく休みだった。よってすぐちかくの同じおかずメシ屋の「ペチャブリー」で、目が欲しがるまま3種のおかずとメシを食べる。
イスラム寺院の脇を抜け、ワットプラケオの前を往く。崖下の日陰を歩き、ホテルに戻る。門番には今日も「お、おクルマは」と訊かれてしまった。もちろん当方は汗だらけである。
午後はプールに3時間ほどもいて、本を読んだり泳いだりする。僕の旅における、至福の時間である。
既にして街まで歩く気力は残っていない。片道60バーツの切符を買って、ホテル17:00発のシャトルバスに乗る。ナイトバザールの入口で下車し、いつものフードコートへ行く。そして初日の晩に食べて美味かった店のチムジュムを今日も注文する。それを肴に生のラオカーオを、シンハビールをチェイサーにして飲む。
初日、木曜日の晩は満席になったフードコードだけれど、月曜日の今日は暗くなっても席はたくさん空いている。シャッターを降ろしたままの店も5、6軒はあっただろうか。
20時15分に出る予定の、戻りのシャトルバスを待っていては遅くなる。オヤジの言い値は100バーツとすこし高かったけれど、ホテルまではトゥクトゥクを使う。そして20時前に就寝をする。
2009年以来、タイに来るときのみ読んできた、二段組み全766ページの「目撃者」を遂に読み終える。時刻は5時47分。窓の外はいまだ薄暗い。続けておととい25日の日記を書く。
この旅には時間的余裕が横溢しているように思われて、そうでない局面もある。
朝、iPhoneの時計に10:30のアラームを設定する。そしてコック川に面した食堂での朝食の後は、部屋に戻って荷物の選別と整頓をする。今日はチェンライ西方の山に分け入ったパクラ村で1泊をする。その際に必要なもの、必要になるかも知れないものをザックにまとめるのだ。
準備はアラームの鳴る遙か前に完了した。すべての荷物を持ってロビーに降り、ベルにはスーツケースと靴を、そしてフロントには洗濯物を出した上で今朝までの精算をする。
パクラ村のシームンは、約束の11時よりすこし前に僕を迎えに来た。握手を交わし、外へ出る。トヨタ製の四輪駆動車には、彼の妻と孫ふたりが乗っていた。チェンライ郊外から農村部へ、農村部から山中へ、そして更に道を詰めていく。
昨年のように舟を使えば旅情は増す。しかし費用と時間を考えればパクラ村へはクルマで直行する方が断然、有利だ。ホテルからシームンの家までは、たかだか33分しかかからなかった。
本日、日本では家内の母の十三回忌が行われている。僕は遠くタイの北部で気ままにしている。シームンにはそのことを説明し、村の寺に案内をしてもらう。
シームンは無人寺の裏口を開け、線香はそのすぐ脇の線香立てに上げるのだと教えてくれた。しかし僕はそれに従わず、僧侶が読経する席らしい、壇の真正面にある線香立てに、ひと束すべての線香を上げた。インドシナの寺や仏像ははおしなべて、日本人には大して有難味の感じられない普請や作りである。しかしまぁ、何もしないよりはよほどマシだと思う。
今日の昼食は飯屋で食べることとしていたけれど、シームンにそれは伝わっていなかった。そしてシームンの家の、客のために用意された昼食を摂る。この家ではおよそ何を食べても美味い。スープの実は瓜だろうか。これまで見たことのない野菜だった。
それにしても今日は暑い。食後のお茶を飲んでいる最中にも、額から胸から汗は止めどなく流れ続ける。シームンが扇風機を置いてくれた寝場所に引き籠もり、1時間ほどは起き上がる気力が湧かなかった。旅に出て今日で3日目。既にして20キロちかくは歩いているのではないだろうか。
今日の午後だけでも一体全体、何回の水浴びをしたか覚えていない。マットに横たわることにも飽き、ベランダに出ると、西日が強く差してどうにもならない。すぐにまた寝場所に戻ると、ベランダでシームンが何ごとか言っている。
薄暗い屋内からドアを開けてみると、そのベランダに西日を遮るための布団カバーを垂らしてくれていた。この男、農家の跡取りでなく若いころからサービス業に携わっていれば、そしてその勤め先に自由闊達な文化があれば、相当のところまで出世をしたのではないだろうか。
ようよう環境の整ったベランダへコンピュータを持ち出し、きのうの日記を書く。
昨年この家に泊まって朝にカオトムをお替わりしたら、昼のカオマンガイが、非常に美味いにもかかわらず、朝のカオトムが邪魔をして、それほどの量をこなせなかった。よってシームンには今夜のメシとして、おなじカオマンガイを頼んであった。
そのカオマンガイを肴にラオカーオを飲む。シームンは僕の隣で別の酒を飲んでいる。ナムチムの青唐辛子の辛さは爽やかでさえある。そしてシームンの吊ってくれた蚊帳に潜り込み、20時よりかなり前に就寝する。
ホテルというものは、普通であれば長方形の部屋を廊下に沿って横に並べる。ところがこの"Centara Duangtawan"は、なにか洒落たつもりなのか、菱形の部屋がギザギザに組み合わされている。そのせいなのかどうなのか、隣の部屋のテレビの音が、僕の部屋ではデスクやベッドの枕元に大きく響く。
きのうはそのうるささに辟易して「静かにしてくれ」と、コネクティングドアの隙間から頼んだところ、音量はすぐに低くなった。今朝は逆に、僕が隣に気を遣いながら日記のためのキーボードを叩いている。
チェンライからチェンマイへ来るあいだに荷物がふたつ増えた。ザックに収まる大きさのものではない。困って部屋の中を見まわしたところ、ゴミ箱がゴミで汚れないよう差し込んであるプラスティックの袋に取っ手のあることに気づいた。よってこの袋をもらって手提げ代わりにする。
ザックを背負い、その袋を手に提げホテルの外に出る。目の前に停まっているソンテウの運転手に、きのうタイ人に教わった通りの発音で「アーケッ(d)」と声をかけつつ近づくと「50バー」と、意外や安い値を答えた。即、荷台の客になる。ソンテウは近距離では20バーツ、すこし離れたところまでは50バーツが相場のようだ。
街から4キロほど離れたアーケードのバスターミナルには10分で着いた。チェンライ行きのバスが出る20番のプラットフォームで30分後の発車を待つ。大余裕である。
09:05 定刻に5分遅れて発車
10:09 峠の温泉を通過
10:45 隣席のオバチャンに木の実の砂糖漬けをもらう。
10:52 若い兵士と女友達らしいふたりが下車
10:57 若い兵士ひとりが下車
11:08 ドイチャーンまで20kmの表示が出る。
11:26 チェンライまで26kmの表示が出る。
11:30 大きなT字路で女の子4人が下車
11:45 チェンライバスターミナルII着
12:00 チェンライバスターミナルI着
バスが出るとき、安全ベルトが絡まって困っていた隣席のオバチャンを助けたところ、オバチャンは道中で木の実の砂糖漬けを3個もくれた。その上カステラもくれようとしたけれど、そちらは丁寧に断った。「一緒に写真を撮っても良いか」とタイ語で許可を得ようとすると「これからどこで何泊するか」、「タイは何回目か」、「タイでは、どんな街へ行ったか」、「嫁はタイ人か」と、オバチャンは立て続けに英語で訊いてきた。
英語を求められる職業に就いていなくても、タイ人は一般に英語を良く話す。6年10年と英語を学びながら話せない日本人は、まさに世界の異端児である。
バスターミナルからほど近い、目抜き通りの「ナコンパトム」で汁うどんを注文する。タイの飯屋としては例外的に、この店の盛りは多い。僕の胃袋もそろそろタイのメシに慣れてきたのか、今日の昼飯にはいささか苦労をした。
おととい僕の求めるラオカーオの無かった酒屋に、思い直してふたたび行く。棚を丹念に見ていけば、2009年に求めてその焦げ臭にウンザリしたものは95バーツ。しかし200バーツ近い値のラオカーオもあることに気づく。どこまであてになるかは不明ながら、店主の助言も容れつつそのうちの1本を買う。
手に提げた荷物は益々重い。しかしホテルまでの1キロ半は無論、歩けない距離ではない。そうして時計塔のあたりまで来るとバンプラカン通りの向こう側をシーローが走っていく。目の合った運転手に手を挙げると、そのシーローは20メートルほど行って停まった。道を渡ってその荷台に乗る。麦わら帽をかぶった年配の運転手の言い値は50バーツだった。
12時50分、ホテルに戻ると、僕の顔を見るなりベルボーイはきのう預けたスーツケースを運んでくる、フロントのオネーサンは冷蔵庫に保管を頼んだ味噌をカウンターに出す。部屋に落ち着くとすかさず呼び鈴が鳴って、ドアの外には部屋係が出来上がった洗濯物を持って立ってる。さすがは"Dusi Group"である。
シャワーを浴びてひと息をつく。この国では1日に覚えきれないほど水浴びをする。日記の更新ができない件につきメールで連絡をしておいたヒラダテマサヤさんに電話をする。現在のサーバに、ファイル転送に関する障壁は特に設けていないという。つまり原因は不明ということだ。ならばチェンライにいるあいだは日記の更新は諦め、バンコクに望みを繋ぐまでだ。
午後の3時間ほどはプールサイドで本を読む。「目撃者」は最終章の「仏陀を買う」に入った。
空が薄紅色に染まるころ、コック川の、ホテルの建つ中洲から橋を渡って外へ出る。そして田舎のデパートと市場の角をクランク状に巻き、旧時計塔から現在の時計塔へ向かって歩いて行く。バンプラカン通りに出るひとつ手前のタナライ通りが、土曜日の夜市の場所になる。
この夜市に来るたび、チェンライのどこにこれだけの購買力があったかと、一驚を禁じ得ない。大木の梢で鳥の大群が啼くその夜市を東に進むと、屋台は広場を囲んでいよいよまばゆさを増す。そのうちの1軒で豚のモツ煮うどんを求める。昼に買ったラオカーオは、ペットボトルに小分けにして持参した。
広場には既にして満杯の市民がいた。舞台に向かって最前列にようやく空席を見つけ、目の前の床机にモツ煮とラオカーオ、そして先ほど夜市で買ったばかりの猪口を並べる。
カウボーイハットのオジサンの歌は、相変わらずの達者さだ。胸の大きなオバサンの踊りは昨年同様、水を得た魚のようだ。
「どこから来た」と背後からいきなり声を掛けられる。"Japan"と答えると老人は僕に向かって右手の親指を突き立てて見せた。僕がモツ煮を置いた床机に座るきっかけを探していただけかも知れない。
ラオカーオは甘く、口をさっぱりさせたい。隣でビールを飲んでいたオバチャンに、それが買える屋台の場所を教えてもらう。
名所旧跡、文化遺産を守り継ぐことは貴重な行いである。しかし僕は、旅先にはそれら一切を求めない。庶民の楽しみの場に少々の邪魔をさせていただき、地元の人たちとほんの少しの交流をさせていただければ、それで満足だ。
屋台はタナライ通りに3列で並んでいる。よって人は3列のあいだにできた2本の空間をそぞろ歩く。通りの北側は東への一方通行、そして南側は西への一方通行になっている。来るときとは逆の南側を西に辿り、ホテルへと戻る。
目を覚ましてベッド脇の時計を見ると、時刻は4時34分だった。即、着替えてコンピュータを起動し、それを持ってロビー降りる。
この日記も、また普段使いのメールも、国内では携帯電話を介しない限り更新も送受信もできなかった。国内でさえそれほど高いセキュリティをサーバに設定していたから、海外からの日記の更新などは望むべくもなかった。
そのサーバを、ほとんど20年ぶりに新しいものに乗り換えたところ、昨年はチェンマイのホテル"MANATHAI VILLAGE"で突然、何もかもが開通して大いに驚き、また喜んだ。ホテルがチェンライの"Le Patta"、そしてバンコクの"Chatrium Riverside"と変わっても、何の問題も起きなかった。
今年チェンライの、おととしまで定宿としていた"Dusit Island Resort"に来てみれば、メールの送受信とブラウジングは可能にもかかわらず、日記の更新だけがなぜかできない。
「場所を変えればどうにかなるだろうか」と考え、今朝はひと気の無いロビーに降りてサーバへのファイル転送を試みた。しかし部屋にいるときと同じく「FTPエラーが発生しました。ホストに接続できません。サーバーがダウンしているか、接続が拒否されたため、接続できませんでした。」とメッセージが出てどうにもならない。
9時すこし前に乗り合いのクルマでホテルを出る。向かう先はチェンマイである。
チェンライとチェンマイを結ぶ道は、いにしえの街道を拡幅整備したものなのだろうか。南の国では高速道路をあまり目にしない。普通の道を広く頑丈に作り、そこを高速道路並みの速度で走ることが常のように思われる。
チェンライとチェンマイの間には幾重にも山が連なっている。そしてその、山から山へと抜ける道中の気持ち良さには格別のものがある。この道をバスは時速90キロで、一般のクルマは100キロで飛ばす。傾斜を付けたカーブを高速で過ぎるときなどは、まるでコークスクリューにでも乗った気分になる。
チェンマイの街が近づいたころ、紙に"Arcade bus terminal"と書いて助手に手渡すと、彼は一瞬、とまどったようだった。よって明日の朝にはバスでまたチェンライに戻る旨を説明すると、ようやく納得をしてくれた。
チェンマイで長距離バスが発着するターミナルの名は、日本語の出版物ではすべて「アーケード」と書かれている。てっきり"arcade"と思い込んでいたけれど、アーケードとはターミナルのある場所の名で、タイ語では「アーケッ(d)」と発音することを初めて知った。
その、昨年も使ったターミナルで、今年もチェンライチェンマイ間の2等バスの切符を買う。値段は昨年の144バーツから169バーツに上がっていた。そして窓口のオネーサンは、今やグリーンバスの切符は街なかのセブンイレブンでも買えることを教えてくれた。
チェンライからチェンマイまでは3時間ほどの所要時間だけれど、今日はあちらこちらに寄り道をした。そのためピン川に架かるナラワット橋を渡るころには、日は西に傾きはじめていた。
ホテルは盛り場に至近の"Centara Duangtawan"。そしてここでも"DREAMWEAVER"は従前同様のエラーメッセージを発し、日記の更新はできない。
インターネットと悪戦苦闘をするうち、窓の外がいつの間にか暗くなっている。いつまでコンピュータにかじりついていては、タイまで何をしに来たか分からない。我に返って取り急ぎエレベータに乗る。
ベルボーイの開くドアを抜け、車寄せの坂を下る。夜市に屋台の並ぶチャンクラン通りに差しかかると、3人乗ればひとりは腰を浮かせていなければならないトゥクトゥクに、助手席を備えたものを見つけた。僕には初見のものだけれど、チェンマイでは珍しくないのだろうか。
思わず呼び止め、後ろの客席ではなく、運転手の隣に素早く乗り込む。運転手は一瞬、怪訝な顔をしたけれど、折角の客を逃したくないからだろうか、そのまま走り出した。
首に巻いた麻のタオルが風に舞う。ISOを800まで上げたカメラを左手に持ち、思い切り延ばしてシャッターを切る。ラッタウット・ラープチャルーンサップの短編「カフェ・ラブリーで」を思い出す。小さなモーターボートで夜の街を飛んでいる気分だ。運転手は右のグリップを更にひねった。
2009年から行ってみたかった料理屋「クルアペッドイガーン」には1時間ほどもいただろうか。勘定の際には名刺を受け取ることを忘れなかった。
僕は夜遊びにはそれほどの興味を持たない。晩飯を済ませて後は早々に部屋に戻り、朝から何度目かのシャワーを浴びて早々に寝る。
背もたれを倒すこともせず、アイマスクは胸のポケットに入れたまま眠っていた。それはそうだろう、当方は離陸前に眠りに落ちてしまったのだ。時刻は3時50分。デパスとハルシオンの合わせ技は常に、4時間ちょうどの熟睡を僕に与えるらしい。
背もたれを倒し、アイマスクを付けてふたたび眠ろうとしたところで客室乗務員に肩を叩かれる。何ごとかとアイマスクを外してみれば、彼女は僕に入国カードを手渡そうとしていた。「あ、それ、もう持ってます」というタイ語は知らないから英語で伝え、再び眠ろうとすると、今度は熱いおしぼりが運ばれてきた。「しょうがねぇなぁ、だったら起きるか」と、二度寝を諦める。時刻は4時になっていた。
4時30分からの朝食が片付けられた頃合いを見計らって便所というか化粧室に入り、歯を磨く。鏡の下の方には、どういう仕掛けなのか「席へ戻れ」という意味の赤いアルファベットが光っている。
ギヤを降ろす音がする。機体が上下左右に小刻みに揺れる。小便をし終えるころにノックの音がする。扉を開けると、客室乗務員さえ専用の椅子に着き、安全ベルトを締めていた。機はかなり低いところまで降りてきている。
"BOEING 777-300ER"を機材とする"TG661"は、定刻に1時間27分も早い日本時間05:53、タイ時間03:53にスワンナプーム空港に着陸をした。
ここから先はタイ時間による。
トランジットのためのパスポートコントロールには4時20分に達した。そのちかくのソファで5時まで静かにしている。やはり5時に開いたカウンターで、タイスマイル航空のボーディングパスを受け取る。
そのボーディングパスとパスポートを提示しつつパスポートコントロールを抜ける。指定されたB4ゲートには5時40分に行き着いてしまった。ボーディングタイムは実に2時間10分後の7時50分である。よってここできのうの日記および今日の日記の現在までを書く。やがてゆるゆると夜が明け始まる。
タイスマイル航空のチェンライ行きの機材は、真新しい"AIRBUS A320-200"だった。定刻に18分遅れの8時38分に離陸した機は海の上に出てから右に大きく旋回をし、北を目指す。機内スナックは、タイ航空のそれよりはよほど食べる気にさせるサンドイッチ、しかし飲み物は紙コップで供された。よってチェンライでの飲酒活動に用いるための、プラスティックによる使い捨てカップは確保できなかった。
機窓から望む、田の緑も眩しいチェンライの気温は26℃と知らされた。着陸の時間は記録していない。
海外から来てスワンナプーム空港で乗り換えた乗客を示す楕円形のシールを持つ者は、タイ国内からの乗客とは異なる階段でバゲージクレームに降りる。"WE130"はほぼ満席だったけれど、僕の荷物はすぐに出てきた。
チェンライではこれまで現地の旅行社に頼んで迎えのクルマを寄こさせていた。しかし今回は空港のタクシーを使うこととして、ひとつだけあるそのカウンターに歩み寄る。
「ドゥシッ」
「オー、ドゥシッ、200バー」
オネーサンとの会話はこれだけである。簡単なものだ。今後のことも考え1,000バーツ紙幣で800バーツの釣りを受け取る。いつの間にか近づいていたらしい運転手はにこやかに笑いつつ、早くも僕のスーツケースに手を掛けている。
タクシーは郊外のハイウェイを軽快に飛ばし、橋を渡り、大木の並ぶ見慣れた道を抜けていく。10時30分には僕はもう部屋にいて、お寺の見え隠れする森を窓から眺めていた。
部屋に荷をほどき、貴重品を金庫に入れたら即、外に出る。先ほどスーツケースを部屋に運んでくれたベルボーイが電気自動車で通りかかり、一般道まで乗せていってくれる。このホテルは建物から敷地を出るまで数百メートルほどもあるのだ。
街への道を歩いて行くと、エメラルド仏を祀るワットプラケオの門が開いていた。よってお堂に上がり、形ばかりではあるけれど、その緑色の像に手を合わせる。
今日の第1の目的は、両替屋の"SUPER RICH"を探すことだ。道を間違え、大回りをしながらようやく、その看板を見つける。今日のレートは1万円あたり2.990バーツだった。手持ちのバーツは充分だから、いますぐに両替の必要があるわけではない。
またまた歩いてようやく時計塔のロータリーが見えてくる。そこから南下をして麺の店「カオソーイポーチャイ」の席に着く。僕はカティつまりココナルミルクはあまり得意ではないけれど、ここのカオソイはとても美味い。カレースープとココナツミルク、そして添えられた玉葱と高菜の古漬けの調和が絶妙なのだ。節約のため照明の落とされた店内から見る外の明るさも、また嬉しい。
今日の第2の目的は、昨年その美味さを知ったラオカーオ"YEOW NGERN"を買うことだった。しかしパフォンヨーティン通りに面したその酒屋に、求めるそれは無かった。
タイは日本にくらべてよほど酒には厳しい。昼に酒を買うことができるのは11時から14時に限られる。「今のうち」と、バスターミナルの周辺に他の酒屋を探し、しかし見つけられずに時計塔のあるバンプラカン通りに戻る。
雨が降ってくる。それが徐々に強くなる。今は雨期の最後とのところである。「土砂降りになるだろうか」と懸念をしながら高校生たちとセブンイレブンの軒先で雨宿りをする。雨はやがて弱まり、上がった。
市場を抜け、昨年も中を見て回った「田舎の百貨店」というおもむきのスーパーマーケットの冷気を心地よく感じつつ外へ出ると、方向の感覚が失われていた。それでも空を見上げ、勘に頼って歩くうち、ホテルへの道はすぐに見つかった。
コック川の船着き場に続くその道の、崖に棲む虫の音が好きだ。おなじインドシナでも、場所を移せばその音色は変わる。ここのそれは、遠くで鳴るベルのような、不思議な音なのだ。それはさておき、もう2時間ちかくも歩き続けている。
川の中洲に建つホテルへの橋を渡ると「お、おクルマは?」と門衛が訊く。街までの1.5キロあるいは2キロを歩き通す客は少ないのだろう。「歩きだよ」と僕は笑い、更にロビーまでの数百メートルを往く。
部屋に戻り、シャワーを浴びてベッドに横になる。目を覚ますと時刻は15時30分になっていた。1時間ほども昼寝をしたらしい。
プールサイドには午後の日が差していた。近藤紘一の、昨年チェンマイで674ページまで読み進んだ「目撃者」を、638ページの「噂によれば」の冒頭に戻って読み始める。僕の寝椅子まで歩いて営業に来たバーテンダーにはテンモーパンを注文した。タイで飲むこれは本当に美味い。
空に明るさの残るうち、夕刻から夜にかけのみ運行されるシャトルバスで街に出る。そしていまだ人影もまばらなナイトバザールの、フードコートに席を定める。
何軒もあるチムジュム屋は、31番ブースの左隣の店を選んで正解だった。そのチムジュムとソムタムを肴に、ラオカーオは無いから仕方なしにシンハビールを飲む。暑くもなく、寒くもない。雲は薄く、雨の降る気配はない。
「タイの夜は、暗くなるほど明るくなる」と言った人がいる。けだし名言と感嘆せざるを得ない。ナイトバザールにふたつあるフードコートの、地元民の多く集まる方の黄色いテーブルは、いまや人で埋め尽くされ、食べ物を売る店の白熱灯はまばゆいばかりだ。
目抜き通りの、ナイトバザール入口に着くシャトルバスにふたたび乗ってホテルに戻る。早寝早起きの癖はタイにいても変わらない。シャワーを浴びて21時に就寝する。
海外へ行こうとするとき、成田と羽田のどちらの空港を使いたいかと問われれば、それは羽田に決まっている。
日本航空が羽田からバンコクに飛ばしている深夜便の出発時刻は01:20だ。対してタイ航空のそれは1時間はやい00:20である。これから行く国の航空会社を使いたい僕は当然、タイ航空ということになる。ただし悩ましい点もある。
出発の日に家またはどこかで晩飯を食べ、下今市19:53発の上り最終スペーシアに乗れば、羽田空港国内線ターミナルには22:31に着くから、タイ航空のチェックインには辛うじて間に合う。
しかし東武日光線は先の豪雨による被害から復旧したばかりで、当該の場所では徐行運転をしている。これを経験した人によれば遅れは10分から15分。その10分か15分で済めば良いけれど、更に不測の事態でも勃発すると、これはマズイ。
よって本日は最終のひとつ前の下今市18:53発に乗る。浅草には定刻に2分ほど遅れて20:37に着いた。背中にはザック、手ではスーツケースを曳き、早足で歩いて21時閉店の鮨屋に入る。そして鮨7貫と巻物1本、しじみ汁1杯の晩飯を10分間で完了する。
都営浅草線のプラットフォームに降りると「大門駅で線路内に人が侵入しましたため、ただいま安全検査を行っています」とのアナウンスが割れた音で響いていた。いつまでも待たされるようなら他の手段を考えなければならない。間もなく、羽田空港行きの急行が入ってきた。時刻は21時だった。
その急行は、しかしほとんど停まる駅ごとに時間調整を繰り返した。問題の大門駅では代替の交通機関を案内するアナウンスも流れたけれど、モノレールに乗り換えるうち、いま乗っている急行の方が早く羽田に着いてしまう可能性も否めないから、丁半博打の転進はできない。
21時に乗ったエアポート急行は結局のところ、5分ほどしか遅れず羽田空港国際線ターミナルにすべり込んだ。
エレベータで3階まで上がり、先ずはセブンイレブンでおむすび1個を買う。そして"I"のカウンターでチェックインを済ませる。ここで初めてのことながら「バンコクからチェンライまでは、今回はタイ航空ではなく子会社のタイスマイル航空が運行をしている。ボーディングカードはスワンナプーム空港のトランジットカウンターちかくで受け取って欲しい」旨の説明を受けた。まぁ、行けばどうにかなるだろう。
荷物の検査を経て22時30分に出国手続きが済む。そのまま右に進んで最奥部の106番ゲートに進む。23時35分に搭乗が始まる。僕の席は72J。機体右側最後部の通路側。理想の位置取りである。
23時50分、その72Jの席でデパスとハルシオン各1錠を飲む。そして離陸を待たずに眠りに落ちる。
ここ3年間の茗荷の買い入れ状況を調べてみると、おととしは豊作、昨年は不作、今年は昨年にくらべればずっと良いとの農家からの情報だったけれど、集計をしてみれば、今年はきのうまでで、昨年の実績を僅々2パーセント上回ったのみだった。お盆から9月上旬までの長雨が響いたのだ。
その長雨によるすべての「負」は、9月9日から10日にかけての「50年に1度」の豪雨により、とどめを刺された。
しかし先週の土曜日つまり19日から始まったシルバーウィークは全日において快晴または晴れ、そして今早朝の空もまた、溜息が出るほどの群青色である。激減した観光客の出足も、戻りつつあるのではないか。
そして僕にとっての秋は、おととい20日に突然、来た。両の手がいきなり荒れ始めたのだ。昨年、人から教えていただき「これ以上のものは今のところ無い」と確信したクリームの、いよいよ出番である。
近藤紘一の「目撃者」の奥付には「昭和六十二年四月五日第三刷」の文字がある。恐らく僕はこの本を、その1987年に手に入れている。
手には入れたけれど「ふたたびインドシナの地を踏むまでは一文字も読むまい」と決めて暗がりの本棚に死蔵した。「ふたたびインドシナの地を踏」めたのは、最後にそこを離れてから27年後の、2009年8月23日のことだった。
満を持して読み始めたこの本は2段組で全766ページ。昨年10月2日にはチェンマイのホテルのプールサイドで674ページに達した。
そこは、1981年4月1日にバンコクで起きたクーデター「エイプリルフール革命」の周辺をスケッチしつつタイの政治の核心に迫っていこうとする「噂によれば」も中盤に差しかかったところで、私兵集団「赤い野牛」に固く守られた、後にアメリカによって失脚させられるナロン将軍をバンコク随一の高級料亭「大吉」に家族ごと招いて取材する、サイゴンを離れバンコクに赴任した近藤の、いわば頂点のひとつとも言える部分だ。
旅は10月2日以降も続いたけれど、面白くて勿体なくて次のページを繰る気がしない。そして昨年は結局のところ、その674ページを以て読むことを止めた。
「目撃者」に残されたページは、あと92ページ。今年はさすがに読み終えてしまうだろう。というわけで、デイヴィッド・ハルバースタムの「ベスト&ブライテスト」を併せて持つことにした。400ページ超の全3巻。これまたインドシナ専用であれば、これから6、7年は、旅の友になってくれるに違いない。
「新幹線の食堂車でステーキを食べる人が嫌いだ」という意味のことを山口瞳は書いた。その言わんとするところは良く分かる。
飛行機の中で"Chateau Lascombes"を飲んで何が嬉しいか。良いワインはまともな環境が整って始めて美味い。「飛行中の無聊を慰める」という面では意味があるのかも知れないけれど、僕にはエコノミー席の機内食で充分だ。
しかしそこに食べたくないものが含まれていれば盛大に残す。眠っているときに運ばれれば食べない。食べなければ腹が空く。いくら空腹でも乗り換えの空港の高くて不味いメシは食べたくない。よってあらかじめ発地の空港でおむすびを買い、荷物の検査場を過ぎたらペットボトルのお茶を買う。
昨秋はそうして確保したおむすびを"Tumi T-Tech Empire Smith Laptop Briefpack"へ入れた。入れる場所には気をつけたつもりだったけれど、明け方のスワンナプーム空港で取り出したら平たく潰れていた。潰れたおむすびは美味くない。
その反省の上に立って、今年はおむすびを潰さないための器を用意することにした。そのようなものは100円ショップでもよく見かけるけれど、すべからくプラスティック製だから勿体なくて使い捨てにできない。よって本日早朝にボール紙で自作をした。これに固定用の輪ゴムさえあれば、"all the thing will be alright"である。
おととい木曜日の夜は、食卓でうたた寝、湯上がりにベッドでうたた寝、そんなことをしていたから、翌朝は早く起きられなかった。昨晩はそのあたりに気をつけた。今朝は3時35分に目が覚めた。そしてすぐに起床した。
谷口正彦の「冒険準備学入門」を紐解くまでもなく、旅の楽しみの多くは、その準備にある。今年のタイ行きではすこしでも荷物を減らすべく、昨年の記録を参考に内容を更に厳選した。
その結果、パスポートや現金など「必需品」は13点から15点に、ザックやポーチなど「容れ物」は12点から9点に、帽子から靴に至る「服装」は25点から20点に、嚥んだり塗ったりする「薬」は17点から18点に、洗面用具など「衛生」は11点から9点に、ペンやノートなど「文房具」は9点から8点に、本や地図など「活字関係」は2点から3点に、iPhoneやLet's noteなど「デジタル」は10点が変わらず10点、輪ゴムやガムテープなど「その他」は6点が9点に。全体として、昨年の105点を101点まで絞ることができた。
点数は減らせたけれど、容積については詳らかでない。コンピュータから紙に出力したそれら101点を、赤いボールペンでチェックを入れつつ明け方に荷造りした。スーツケースは機内持込可能の"RIMOWA Ultralight Cabin Multiwheel"。容量は34リットル、乾燥重量は1.9Kgである。
ゴム草履を昨年の"havaianas"から今年は爪先を覆う形の"KEEN"に変えた。これがかさばっている。しかしすべては余裕を以て収まった。体重計に載せてみると、スーツケースを含めても重さは8キロに満たなかった。万々歳である。
「準備が苦手だから旅行には行かない」という人がいる。これほど楽しいことが苦手とは、僕の理解を超えた種族である。出発は4日後に迫った。
普段は持たない時計を、今朝ばかりは腕に巻く。すべきことが山積しているのだ。それらはきのうからメモにしておいた。そのメモに、またまた新たなことが増えていく。
9時に銀行へ行って9時30分に戻る。次は10時30分から複数の銀行を回り、11時30分に戻る。連休の前に連絡をしておいた方が宜しいと思われる取引先に、次々と電話を入れる。約束のある人が訪ねてくれば、その応対をする。そうするあいだにも別の用事が重なっていく。
その「別の用事」のために外へ出ると、雨が降り始めていた。しかし気が急いているから、社内の傘立てまで戻る気はしない。そのまま走って用を足し、またまた走って事務室に飛び込む。
夕刻がちかくなってようやく「本日すべきこと」のメモのすべてに完了した旨の横線が入る。仕事のできる人は「よしっ、ここまで能率が上がったなら、これからあれもできる、これもできる」と、更に仕事を詰め込むような気がする。「よしっ」とまでは思わないまでも、僕も国勢調査に対してインターネットで回答を送るなどする。
「ものを食べているときの犬には手を出すな」と、子供のころオフクロに教わった。「ものを食べるという、生き物にとって最も大切な行為を邪魔された犬は激高し、見境なく噛みつく」というのがその理由だった。
僕と犬のあいだには、こと、このことに限っては、異なるところがなにひとつ無い。
家族はみな高島屋の新宿店に出張をしてしまったから、ひとり晩飯の用意をする。2階のワイン蔵から持ち来たワインの栓を抜き、そのかたわらにグラスを置く。小さな、しかし鋭いナイフでフランスパンを斜め切りし、オーブンに入れる。獅子唐を縦に裂いて種を抜く。プチトマトのへたを切る。
その獅子唐とトマトを炒め、ベーコン3枚をおなじフライパンに敷く。ベーコンの白い脂が真瞬く間に透明になったところに鶏卵1個を割り入れる。そこに応接間で電話が鳴る。
相手の番号が表示される窓には"0120"の数字が見えたから、受話器を取るなり「営業の電話なら用は無いですよ」と言うと「営業ではないです。NTTのですね…」と相手が答えたところで受話器を置く。
台所に戻ると間髪を入れずにふたたび電話が鳴った。またまた応接間まで行くと、先ほどと同じ番号である。相手の目的はセールスから僕への嫌がらせに変わったらしい。
何十回も鳴り続ける電話を無視してフライパンに向かう。先ほどのベーコンエッグは、とてもではないけれど、人に見せられるような状態ではなくなっている。
"0120"が頭に付く着信はすべて拒否する、そんな仕組みがどこかにないか。こんどNTTに訊いてみようと思う。
朝のうちにお茶の水橋を渡ってあちらこちらへ出向き、午後はブーメランのように、しかし隣の聖橋に戻ってくる。そしてそこに6時間ほどもいる。
東武日光線はいまだ復旧していない。よってiPhoneの乗り換え案内を調べると、上野ではなく東京から19:48発の「なすの269号」に乗るのがもっとも合理的と案内された。
新幹線の切符を買うことには慣れていないから、東京駅では自動券売機ではなく、人のいる窓口で切符を手に入れる。それから酒の飲める場所を見つけようとするけれど、知った店はすべてお土産屋か弁当屋になってしまったため、右往左往を余儀なくされる。
飲食店の集まるところにようやく達してみれば、どの店にも行列ができている。「行列をしてまで」というより前に、僕は時間に追われている。20番線のプラットフォームに上がり、弁当を売るブースで焼き鳥、缶酎ハイ、ワンカップの日本酒を求める。そしてすぐそばにあった待合室でひと息を着く。
2冊を持参した本のうち1冊は朝に読み終えていた。よって2冊目を取り出し、飲酒活動と共にそれを読む。僕は活字を欠いては、ひとりでメシを食ったり酒を飲んだりすることができないのだ。
先ほどの売り場をふたたび訪ね、今度はサンドイッチと缶ビールを買う。そして入線してきた「なすの269号」に席を確保する。
車両が停車した気配に驚き目覚めて窓の外を見ると、そこは大宮だった。またまた寝入り、またまたどこかの駅に着いてビックリする。慌てて網棚の荷物をおろし、食べ終えたサンドイッチの空き箱と、こちらは飲みさしの缶ビールを袋に入れ、大急ぎで外へ出る。
他の乗客たちと共にプラットフォームを往きつつ、ふと横に目を遣ると、そこは僕の降りるべき宇都宮ではなく、その手前の小山だった。急いで車両に戻ろうとしたところで「プッシュー」とドアが閉まる。
電光掲示板によれば、次の「なすの271号」が来るのは40分も後だ。その40分間を、誰もいないプラットフォームで本を読んで過ごす。
21時33分に着く予定だったJR今市には、その57分後の22時30分に着いた。そして駐輪場の職員に今日の分の100円を手渡し、クランクを踏む足取りも軽く、家への道を辿る。
極端な早寝早起きによる昼夜逆転にはいよいよ拍車がかかって、今朝の起床は午前1時59分だった。
朝食を済ませると、いつものように7時25分までお茶を飲むことは避けて事務室に降りる。そして外へ出て先ずはJR今市駅へ行き、駐輪場の職員に自転車の預けかたを訊く。そこから「日光街道ニコニコ本陣」にまわって商品の在庫を確かめる。
JR今市駅から08:17発の宇都宮行きに乗る。その宇都宮でやまびこ208号に乗り換える。上野で今度は銀座線に乗り換え、三越前のもっとも神田寄りの出口から地上に出ると、やけに空が広かった。いくつかの大きなビルが、まとめて取り壊されたらしい。
用事をひとつこなして銀座にまわる。こちらでも先の室町とおなじく、青空はまぶしいものの、日は差していない。乾いて涼しい風が吹いている。僕は秋は好きでないけれど、秋が好きという人の気持ちは良く分かる。東芝ビルの跡地に、いつの間にか新しい建物ができつつある。その建物の裏手で、またまたひとつ用事を済ます。
甘木庵で昼寝をしたり本を読んだりしていると、玄関でインターフォンが鳴る。外のボタンを押したのは次男だった。次男とは池袋で17時30分に待ち合わせをしていたものの、時間に余裕があったため、学校からいちど帰宅をしたのだという。
16時30分に次男と甘木庵を出て丸ノ内線で池袋へと向かう。今夜は銀座で鮨を食べようという気持ちが僕にはあった。しかし次男の希望は池袋の「男体山」だった。
そういう次第にて開店直後の「男体山」の、2階のふたり席に案内をされる。そこであれやこれや飲み食いをし、19時すこし過ぎにふたたび甘木庵に戻る。
「あれはいつのことだったか」と、この日記を遡ると、それは8月21日のことと知れた。左の脇の下に強い痒みを感じたから、それを掻きむしりつつシャツの袖をめくり上げると、そこにはまるでダニに食われたような跡が5個所ほどもあった。
その左の脇の下の、明らかに外的要因によるものと思われる痒みと期を一にするように、3種類の皮膚病が発生した。ひとつは左右のもみあげのもので、掻いてしばらく経つと、皮膚が部分的に膨れ上がった。
ふたつ目は左のこめかみで、これはむかし「はたけ」などと呼ばれたものに近いような気がする。みっつ目は腹にできた複数のそれで、ニキビより小さな赤い三角錐が強烈に痒い。
これら3種類の皮膚病を抱えたまま9日、10日のMGを乗り切ると、今度は声が枯れてきた。「あのよー、おめーよー」と若い者に小言を発しても、その極端にかすれた声は一向に相手に届かない」という、おみこし愛好会の老会長を知っている。ここ数日の僕の声もそんな感じだから、お客様にははなはだ迷惑をおかけしているような気がする。
「MGで大声で入札を繰り返したからだよ」と家内は言うけれど、今回はそれほどの大音声は発していない。今回の声の不調は声帯の不具合によるものでなく、どうも気管支が狭まった、つまり喘息の症状に似ているような気がした。
よって9時前よりセキネ耳鼻科へ行くと、特殊な鏡で気管支をのぞき込み、また聴診器で胸と背中の音を聴いた先生は「まったく、なんの異常もみられない」と笑った。
「だったらしばらく様子を見るか」と、次は皮膚のアライジンクリニックへ回ろうとしたけれど、こちらは繁忙につき果たせなかった。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」の例会は、市内各地の食べ物屋を巡回して開かれる。しかし例外として年に1度はウチにその担当が回ってくる。今日はその日にて、家内の作ったあれこれを肴に上出来の日本酒3種を飲む。
「9月9日、10日の大雨による下小代駅構内の土砂流入、新鹿沼~北鹿沼間の盛土流出による電路柱倒壊等の影響で、新鹿沼~下今市間の上下線で終日運転を見合わせます」
と、東武鉄道のウェブページにある状況について更に詳しく知るため、朝のうちに自転車で下今市駅へ行く。
駅前のロータリーに大型バスが停まっている。運転手らしい人が停留所のベンチに座っている。近づいて訊いたところによれば、下今市と新鹿沼のあいだを2台のバスで結んでいる。片道の所要時間は40分。下今市8時30分発は決まっているけれど、道路事情により、以降のダイヤはについては特に定時は設けられていない、ということが分かった。
駅舎に入ると、目の前の線路には普通の車両が停まっていた。しかし人の姿はまったくない。それがとても不思議な風景に感じられる。
駅員によれば、新鹿沼から浅草までは列車が運行しているけれど、それは各駅停車などに限られ、特急スペーシアはすべて運休。復旧の見込みは9月11日から起算して1週間とのことだった。
「JR日光線にて振替輸送を行っています」との文字が駅構内の立て看板にあったため、今度はJRの今市駅に行ってみる。こちらの張り紙には、JR日光線が本日から開通した旨の説明があった。
今年の9月は昨年にくらべて時間の自由度が低い。あれこれの狭間を縫って東京で用を足せる日は15日に限られる。東武日光線の復旧が「9月11日から起算して1週間」なら15日には間に合わない。
東武日光線で特急スペーシアを利用すれば浅草まで乗り換え無し、座席指定も付いて2,700円。それがJRだと宇都宮で新幹線に乗り換えなくてはならず、自由席でも上野まで4,850円。宇都宮での連絡が悪ければ、8割も運賃の高いJRの方が所要時間は長くなる。
「新幹線には乗りたくねぇなぁ」というのが僕のいつもの気持ちだけれど、今回ばかりは我慢をするしかなさそうである。JR今市駅の駐輪場には誰でも自転車を停めることができるのだろうか。そんなことさえ僕は知らないのだ。
「日光MG」の2日前つまり今週の月曜日から始めた時差調整は上手くいって、水曜日には夜おそくまで参加者と共に勉強をすることができた。その2日間のMGが完了した木曜日の夜から金曜日にかけては朝6時まで8時間ちかくも眠り続けることができた。しかし今朝はまた元に戻って2時30分に目が覚めた。
極端な早寝早起きによる昼夜逆転こそ、僕にとっては自然なのかも知れない。
空は晴れ、空気は温かく乾いている。ようやく普通の天気が戻ってきた。8月2日に降った、場所によってはテニスボールほどの大きさの雹、8月12日から9月上旬まで続いた日照不足と低気温、そして今週に降った「50年に1度」の豪雨と、今年の秋野菜は三重苦に見舞われている。
しその実は買入期間を延長したにもかかわらず、昨年の3分の1の量しか集められなかった。みょうがについても大いに心配をしていたけれど、きのうから朗報が入り始めた。大口の農家からの連絡である。
そして今日は、夕方までに下処理を終えられないほどの納品があった。みょうがの買い付けは、ここ数日が勝負だろう。「それ行け」の気分で臨みたい。
夕方の空には夏の雲が湧き上がった。とても嬉しい。
10月18日に開かれる杉並木祭の話し合いのため、今夜は19時から公民館で話し合いがある。それに先立ち、発見して即、陶器のビンからガラスの瓶に移し替えた、オフクロの遺品のロイヤルサルートを水割りにして飲む。
豪雨見舞いのメールをくださった方々には、きのうの朝からすこしずつ返信をお送りしてきた。今市地区の中心部は、1949年の末に起きた今市地震を除けば災害の少ないところだ。またウチでは特に、水に関わる場所の手入れや修繕は休まず行ってきたため、損害はほとんど被らなかった。
朝のニュースによれば日光市でも、今般の大雨による災害が諸方で発生している。復旧作業中に事故に巻き込まれた人もいる。被害に遭われた方々が、できるだけ早く元の生活に戻れることを祈ってやまない。
今日は人の手が少なく、外に出られる状況ではなかったけれど、ここ2日間の報道もあって、店はまったく忙しくない。よって14時に日光市の旧市街へと向かう。
保健所の研修が始まるまでにはいくらかの余裕があったから、会場のベランダに出てみる。そして含満ヶ淵の方から弧を描いて流れてくる大谷川を眺め下ろす。このあたりの水量は普段から多い。だから、今日の水かさが特に高いかどうかの判断は、僕にはつかなかった。
神橋を横目に眺めつつ17時ちかくに帰社すると、不在にしているあいだに入った電話の内容が、メモとして机に重なっていた。そのうちの幾つかを処理しつつ、閉店の時間を迎える。
日光MGの2日目は忙しい。同室者の目を覚まさせないよう気をつけながら、コンピュータその他を抱えてロビーへ出る。
この2日間は休みであることをウェブページのトップには明示しているけれど、ウェブショップに注文をくださったお客様には、改めてその旨をご説明し、納期をお知らせするメールをお送りする。日記を書かずにいれば溜まるばかりなので、こちらにも手を入れる。
そうするうち僕がロビーにいるであろうことを予想されたニシジュンイチロー先生がいらっしゃって「今日のゲームは第4期まで。昼で解散をしようと考えていますが…」と、おっしゃった。
「栃木県地方に50年に1度の大雨」という予報はきのうの朝から出ていた。このときの、ウチから今回の会場「日光ろまんちっく村」まで移動するあいだの雨量は大したこともなかった。しかし関東南部からクルマでいらっしゃった参加者の中には 「洗車機の中を100キロで走る感じ」と言った方もいらっしゃった。
このような事態に直面したときの先生は常に最悪の事態を想定されることを、僕は知っている。即、先生の案に従う旨をお伝えする。
日光MGは合宿である。しかし用事のある社員は1日目の夜に一旦、家に帰る。これらの一部が今朝は、あちらこちらで発生した通行止めに阻まれ会場までたどり着けていない。あるいは「街に避難勧告が出ている」と、古河市から参加のナガツカマモルさんが朝のうちにお帰りになったりした。
そのような中で第4期の経営計画を立て、やがてゲームが始められる。
期間費用Fは400円、商品1個あたりの原価Vは14円、価格Pは32円だから荒利Mは18円。売上個数Q28個を確保すれば売上高PQは896円で荒利総額MQは504円。よって利益Gは96円…というのが今期の僕の計画だった。
結果として、僕はこの計画を針の穴を通すような正確さで実現させ、自己資本は急上昇した。しかし第1期初の300円には及ばない。きのうの第3期初とおなじく、これまた僕のMGにはよくあることである。
「成績の良かった人こそ偉い」という考えは、MGには存在しない。それでもゲームであれば、表彰のあった方が面白い。ということで2日目のゲームが終わると、来期への体制を一定以上の水準で整えた者の中から自己資本の高い順に3名が表彰される。
今回の最優秀経営者賞は、西宮市から参加のフクモトタカコさんが自己資本510円で、優秀経営者賞は伊豆市から参加のタケシトーセーさんが497円で、そしてもうひとつの優秀経営者賞は川崎市から参加のイチカワアイさんが491円で、それぞれ獲得をした。
昼食後にニシ先生による締めの講義、そして原稿用紙にして2枚ほどの感想文を完成させると13時がちかかった。今回の日光MGは災害に発展するほどの大雨に阻まれ、本来の5期に対して第4期までしか行われなかったけれど、濃い内容にて完了した。
先生および外部からの参加者をお見送りし、また社員たちと別れて、封鎖されている区間はないと聞いた新里街道を辿って帰社する。雨脚は随分と弱まっている。社内に特段の被害は見あたらない。夕刻、明日のための商品の一部を製造現場にて準備する。
日光市の山間部から通勤しているサイトーエリコさんは、家までの道路が寸断されているため、今夜はウチに泊まることになった。そうして賑やかに夕食を摂る。
2001年1月17日に始められた「日光MG」は、1年に2回ずつを開催して、今日で30回目を迎えた。ニシジュンイチロー先生ご夫妻はじめ関係するすべての方に御礼を申し上げたい。
今回の参加者は40名。上澤梅太郎商店からは18名。残りの22名は外部からの参集である。自社のみで行うMGを「原始人が洞窟で芋を食っているようなMG」と、僕はむかしから言ってきた。他社から来て下さる方があってこその、学びの厚さ、である。
ひとりひとりが自分の会社を持ち、2日間で5期分の経営を盤上に展開するマネジメントゲームMGは、ゲームとはいえ朝一番からそれを始めるわけではない。初日の午前中は5期のうちの第1期を、手順に従ってさらっていく。この第1期は書道における、墨を擦る行為のような気がしてならない。
昼食をはさんでルールの説明があり、第2期から実際のゲームが開始される。このときの僕の気分はいつも「どうしよう」という心配である。1991年からMGを続けてきて「どうしよう」もないものだけれど、それはまぁ、僕の生来の、ゲーム運びの下手さに拠るものだろう、多分。
この第2期で僕は損益分岐点比率71パーセントの好成績を上げ、売上げ高の上位6名が集まるA卓へと上がった。それは喜ぶべきかも知れないけれど、まわりは既にして、第2期の期中からウンザリするような会社を作り上げていた。ここでようやく「上手くいった」は幻想だったことを知る。いつものことである。
そのA卓での第3期では案の定、激戦に巻き込まれて期末の損益気分期比率158パーセント。D卓への陥落を余儀なくされた。
第3期の決算を完了し、会場で夕食の後は、ニシジュンイチロー先生による講義、続いて机をロの字に並べ替えての交流会が開かれる。今回は参加者が多く、その全員がスピーチをするには時間が足りない。よってそのうちの「MGは今回が初めて」という7名に限って「いま気になっていること」について話していただく。
部屋の移動と入浴を挟んで22時より、今度は宿泊部屋のひとつに有志が集まり、MGと手を携えて往くデータベースソフト"MY TOOL"による事例の発表会が行われる。先ずはヌマオアキヒロさんによる「歯科医院におけるOPQR分析」、次はカタヤマタカユキさんによる日程管理。解説は双方とも、兵庫県西宮市から参加のハシモトマサトさんが引き受けて下さった。
その発表会がお開きになった0時すぎに自分の割り当てられた部屋に戻り、iPhoneでfacebookを縦覧していると、当方の判断を仰ぐコメントが取引先から入っていた。よってそのことを取り急ぎ長男に知らせる。そして長男に続いて僕も、相手に対してコメントを返す。
就寝は、午前1時のすこし前だったような気がする。
東京から日光に朝帰りをするときには、北千住07:42発の上り特急スペーシアを使ってきた。しかし長男によれば、06:31発の快速に乗れば、下今市には42分はやい8時15分に着くという。よって余裕を持って、5時40分に甘木庵を出る。
八艘飛びのような忙しさ、というほどのこともないけれど、昨年にくらべて今年の日程は密になっている。
明日からの2日間は、出産に伴う諸事情にて会社を休んでいる2名を除く、すべての社員に外部からの参加者を加えた、全40名による「日光MG」が開かれる。本日、家内はその前夜祭の準備にかかりきっている。長男は事務局として、細かい調整に取り組んでいる。残された僕のみ本来の仕事に専念をする。
夕刻より三々五々、今夜の食事会のための面々が集まり始める。僕は閉店の18時を過ぎても事務室に灯りを点し、来客を待つ。
15名による食事会は、19時に始まり22時すぎにおひらきになった。極端な早寝早起きにより昼夜が逆転している僕は、この日に備えてきのうから時差調整をしていた。それはどうやらうまくいったらしい。
そして普段より3時間ほども遅い、0時過ぎに就寝する。
はじめ3日で終わる予定にしていたしその実の買い入れは、お盆以降の悪天候を受けて、7日間に延ばした。今日はその最終日にあたる。案の定、買い入れ数量は、最終日の今日がことしの最高を記録した。
一方、大粒の秋茗荷はむしろこれからである。豊作を期待したい。しかしこちらもしその実同様、8月2日の雹と盆過ぎの日照不足の影響は免れないかも知れない。
乗り物に乗るときに限ってのことだけれど、時間の余裕を嫌う悪癖が、僕と長男にはある。今日も下今市16:35発の上り特急スペーシアに乗るべきところ、16時15分になってもいまだ事務室にいる。そしてそのようなときに限って電話が殺到する。あるいは当方からの返信を急ぐメールが入ったりする。
このところ頻繁に遅れの発生する首都圏の鉄道だけれど、目的地の駒込には無事、時間どおりに着いた。というか約束の刻限には30分以上の余裕があったため、古本屋で時間をやりすごしたりする。
このところ関わっていた仕事が一段落したことを祝う懇親会は19時に始まった。あれこれと歓談をしながら3時間ほども仕事仲間との交流を深める。
あわよくば帰宅しようと目論んでいたけれど、やはり無理だった。山手線と千代田線を乗り継ぎ湯島に出る。そして切り通し坂を上り、23時前に甘木庵に帰着する。
今朝の下野新聞の第3面に「火花貸し出し予約殺到」の見出しを見て興味を惹かれた。
本文によれば、宇都宮市に5館ある図書館で、又吉直樹の芥川賞受賞作「火花」が計1,188件の予約待ちになっているという。人口規模のより小さな那須塩原市では167件、足利市でも103件と、その数は尋常でない。
それぞれの図書館が「火花」をそれぞれ何冊備えているかは不明ながら、自分に順番が回ってくるまで一体全体どれほどの日数がかかるのだろう。話題の本やベストセラーに飛びつく人には「いま読みたい」という気分が強いように思われる。長く待たされるうち熱の冷めてしまう人も少なくないのではないか。
僕は活字中毒ではあるけれど、図書館で本を借りることは、学校以外ではしたことがない。借りた本は手元に置ける時間が限られ、好きなときに読むことができない。もうひとつは、今や"amazon"で安く古書が買える。それが、僕が図書館で本を借りない理由である。
ことし1月からの小遣い帳に「本」で検索をかけてみれば、買った書籍は45点。うち古書は36点。実店舗に足を運んだのは4回、残りすべては"amazon"ほかネットショップの利用だった。
「本を持てば家に物が増える」と言う人がいるけれど、売るか捨てるかすれば済む話である。
中平卓馬が死んだ。それを朝刊の死亡欄で知る。僕の本棚に彼の写真集は無い。短い論文1冊があるのみだ。中平卓馬は写真の前衛の、そのまた先頭を歩いた人だと思う。
あまりの涼しさから「もう片付けても良いのではないか」と販売係のハセガワタツヤ君に言い、しかしその時間もなかったのか、店にそのまま置かれた扇風機が、2日の水曜日からふたたび動き始めた。
今月2日からの気温の戻りは、僕にとっては貴重な残暑だ。今日も蒸し暑さを感じて扇風機を回しはしたものの、店の外に出した寒暖計は、25℃以上には上がらない。
僕は社交的な人間ではない。しかし無愛想でもない。人にものを訊ねることをためらう性格はある。しかしそれも時と場合による。
夕刻、僕より10歳ほど年長と思われるお客様が、実に良い感じのベストを着ていらっしゃる。それは藍色の木綿のもので、肩の部分は網になっている。両前と左胸のポケットはボタンを備えたフラップ式で、右胸のみ外に縫い目を残した内ポケットになっている。
そのベストを褒めた上で「有名なメーカーのものですか」とお訊きすると「ユニクロかな」と、そのお客様はお答えになった。これをユニクロで見かけていれば僕も、"POST O'ALLS"のベストに数万円を投じるなどはしなくて済んでいたところである。
家の中でいちばん居心地の良い部屋は食堂だ。おととしの秋まではおばあちゃんの台所と寝室の一部だったところだ。ここから望む日の出は最高だけれど、お盆から9月にかけてはどうにも冴えない。今日も朝日を眺めることは諦める。そして南東から逆側の北東に移動して窓を開け、日光の山々の様子をうかがう。
所用があって、長男と連れ立ち朝のうちに東照宮の社務所を訪ねる。そこで30分ほども世間話をして、会社までの7キロを下る。
正午の茶臼山の真上には夏の空があった。終業を間近に控えた店の頭上にも、いまだ夏の空が残っている。
その、夕刻の入道雲へ向けてカメラを向けていると、通りかかった町内のカミムラヒロシさんに声をかけられた。その声はクルマの音にかき消されて、はっきりとは聞き取れなかったけれど「オレは秋は嫌いなんですよ、夏が好きなんです。だから夏の雲の写真を撮っているんです」と大きな声で答えた。
クルマがつかのま途絶えたのだろう、笑ったカミムラさんの「オレは酒が好きだから、これからビールを飲みに行く」という今度の声は、はっきり聞こえた。
「そうであれば」と閉店後は家内と連れ立ち、徒歩で日光街道を下る。そして道の駅「日光街道ニコニコ本陣」で今日から13日の日曜日まで開かれているお祭「日光オクトーバーフェスト」の会場を訪ねる。
僕はビールはほとんど飲まない。しかし今日ばかりは中くらいのグラスで2杯を飲んだ。腹は小さなチキンフライと角切りのポテトのみで満ちた。舞台やテーブルまわりが賑やかになってきたのをしおに席を立つ。家には多分、20時より前には帰り着いたと思う。そして入浴して早々に寝る。
1980年代も暮れかかるころに作ったワイン蔵が遂に逝った。不調を訴えること一度もなく四半世紀ものあいだ働き続けたのだから大したものだ。
お盆前のいまだ酷暑のころ、晩飯用のワインを取り出そうとドアを開けると、庫内の温度は外気よりもむしろ高く感じられた。よって翌日、これを作ったトチギ冷暖に連絡を入れると早速、技術者1名を派遣してくれた。
室外機のモーターのベアリングが摩滅したことが原因と、その技術者は直ぐに問題を突き止め、ペアリングを交換すると共に減っていた冷媒を満たしてくれた。そして「あくまでも応急処置ですので、このまま1年でも保つかも知れませんし、明日また具合が悪くなるかも知れません」と言って去った。
冷気を取り戻したワイン蔵に僕は大いに安心をしたけれど、幾日も経たないうちに元の木阿弥に戻った。
時あたかもお盆のさなかにて、再度の修理は望めない。主なものだけでも他の冷蔵庫に移すことは当然、考えた。そして最初の数本をプラスティックの籠に入れたところでふと、自分がやらかしそうなことが頭に浮かんだ。それは、移動しながら粗相を起こし、肝心のワインを割ってしまう、ということだ。
ワイン蔵は家の中でも外光の差さない温度の低いところにあり、また力のあるワインなら多少の温度変化には充分に対応できる。よって移動のため籠に入れたワインは元の場所に戻し、ワイン蔵のドアは開け放ったまま、修理を待った。
本日、室内機と室外機を丸ごと交換する工事が完了し、ワイン蔵はようやく元の涼しさを取り戻した。
これまでの室外機は防水でないため、プラスティック製の屋根をかけられた小さなものだった。「よくもまぁ、これで3畳半の空間を冷やし続けられたものだ」と驚くほどの、飛行機にたとえればレシプロエンジンによる複葉機のようなものだった。
それが今日からは21世紀にふさわしい、といえばいささか大げさになるけれど、安心できる設備に生まれ変わったのだ。温度の調整も、手の届きづらい場所にダイヤルのあるアナログ式から、ドアの横に制御板のあるデジタル式に変わった。
これにてひと安心。さぁ、またワインを買おうか、である。
「東京の、この1週間の日照時間は1時間」と、朝のテレビのニュースが伝えている。「まるで梅雨が戻ったかのような、家庭でのカビの問題」というようなことも、アナウンサーは口にしている。8月下旬からの、このような雨続きは30何年ぶりのことなのだという。
その、悪天候にひと区切りをつけるように、今朝の空は晴れた。一体全体、何日ぶりの青空だろうか。そして朝から昼にかけて蒸し暑さが増していく。
きのうは温かい味噌ラーメンを食べた「ふじや」で、今日は冷たい味噌ラーメンを食べる。普段の僕の昼飯は13時30分からだけれど、しその実を買い入れているあいだは正午から急いで済ますのだ。
僕には貴重な残暑と思われたけれど、日中の気温は店の前で、最高でも28度の手前までしか上がらなかった。「もっと行け」と念じても、今はこのあたりが限界なのかも知れない。
包装係ヤマダカオリさんのお父さんに乳茸をいただいた。それを夜は茄子と共に醤油で炒りつけて食べる。乳茸の茄子炒りも胡瓜のぬか漬けも梨も、過ぎていく夏を惜しむような食べものだ。
今日はまた焼売もいただいたので、グラスには白酒を満たした。そこに酒があるだけで、なぜこれほど幸せな気分になるのだろう。つくづく不思議な飲み物である。
晩飯が和食のときには焼酎のお湯割り、洋食のときにはワインを飲んでいる。そのワインが、このところはドライシェリーに変わっている。それは、白ワインが払底したことによる。もうひとつは、経費節減のためである。
メーラー"Becky!"の「通信販売」のフォルダを検索しても見つからなかったから、今度は小遣い帳に「酒」で検索をかけると、いま飲んでいる"TIO PEPE"は馴染みのウェブショップで今年の5月に10本を買ったうちの1本と知れた。
そのウェブショップでは同時に他の酒も買っていて、小遣い帳の金額は、それらの合計だった。よってふたたび"Becky!"に戻り、先ほどより丁寧に検索をすると、"TIO PEPE"には1,274円の値が付けられていた。これを2日に1本の割で飲めば1日あたりの酒代は637円。まぁまぁの金額である。
ポルシェとBMWの2台を持つ知人がいる。「お金、よくありますね」と感心すると「オレ、酒、飲まないから」と軽くいなされた。しかし酒を飲まないだけでドイツの高級車が2台も買えるものだろうか。
「だからオレ、旅先でもお金、なかなか減らないの」とも、その人は言った。「旅先でお金がなかなか減らない」は僕も同様だけれど、僕は酒を飲む。酒は飲んでも飲む場所は現地の食堂、そして酒は持ち込みのラオカーオだから、大した金額にはならないのだ。
しかしながら、今年のバンコクの最終日には、ラオカーオではなく白ワインかドライシェリーを飲みたい。トンブリーのどこかに手頃な酒屋はあるだろうか。