「今月の小遣い帳を開くと、明日は20日になるというのに、いまだ予算の半分も消化していない」と、この日記に書いたのは今月19日のことだった。その後、小遣い帳は27日になって赤字に転落した。
小遣い帳がなぜ赤字になるかといえば、予算を超えてなお現金を使うから赤字になる。なぜ予算を超えてなお現金が使えるかといえば、そこに現金があるから使える。とすれば小遣い帳は、予算を超える現金さえなければ赤字にはなり得ない、ということになる。
なまじ現金があるから、小遣い帳が赤字になってもなお、お金を使う。そして夜は日光市七本桜の「ばん」にて季節のあれやこれやを肴に「温め酒」は秋10月の季語ながら燗酒を飲む。
早朝に目を覚ますと、何やら外の明るい感じがする。いまだはっきりしない頭で「冬至を過ぎたからだろうか、いや、冬至はクリスマスが近くなってからだったはずだ」と考え直し、洗面所へ行く。そして窓を開けると、旧暦10月15日の名残の月が男体山の右手に沈むところだった。日光には長く住んでいるものの、このような景色を観るのは初めてのことだ。
きのうは事務所に多数の来客があった。その来客のために調えた大テーブルが、今朝になってもその明浄さを保ってしごく気持ちが良い。机の上を綺麗に保つコツはひとえに、モノは「保管せず捨てる」「考える前に捨てる」「見境なく捨てる」ところにあるが、これがなかなか簡単ではない。
所用にて朝のうちに「EBエンヂニアリング」を訪ねると、いつの間にかルノーキャトルの最終モデルが入っていた。近づいてこれをよくよく眺めつつ「こういうクルマをつぶれるまで乗るのも悪くないわな」と考える。
もっとも、たとえ質素なクルマであっても、これを持てばかならず時間や経費の費消が発生する。そして「モノに興味を持たない人の精神の自由さ」について思いをいたす。「万物に興味を持たない人ほど強いものもないよなぁ」とは、ここ数年のあいだ、僕がボンヤリと頭に浮かべていることのひとつである。
我が町が世界に誇る大衆食堂「大貫屋」に先日、毛糸の帽子を置き忘れた。隣の椅子に帽子を置きながら「これを置き忘れて帰る、なんてことはねぇわな、だって帽子の上にはサイフが乗せてある、食べ終えたらこのサイフから支払いをする、そのときサイフの下にある帽子を見落とすわけがない」と自分で自分に念を押したにも拘わらず置き忘れた。
毛糸の帽子は何年か前に、朝の掃除をしながら道で拾った。編み目が粗いので頭が蒸れず、具合が良いので大切に使ってきた。
一方、今月13日の日記に書いた中国製の綿入れジャケットについて。これは日光市今市旧市街の中心に位置するスーパーマーケット「かましん」がいまだ「長崎屋」の時代に2,000円で買った。十数年を着て裏地がすり切れたため、きのう遂に「ジャスコ」の中のリフォーム屋「マジックミシン」に持ち込んで修理を依頼した。出来上がりは12月7日になるという。
帽子もなく、綿入れジャケットもなく12月7日までどう過ごそうか。たかだか10日間ほどの寒さ対策に"UNIQLO"でダウンジャケットを買うのも業腹だ。そうして取りあえずは明日の昼に「大貫屋」へ行き、帽子だけでも確保することを決める。
噺家が寄席で落語をせず、雑談でお茶を濁すことがある。僕はこの雑談が嫌いでない。高座の袖の「めくり」が前座の手によりめくられた瞬間「雑談」という文字が現れると嬉しくなる。「昭和の大名人古今亭志ん生の孫娘が先日、結婚をいたしまして。その相手がナカオスケベ」と笑いを取ったのは林家こん平。寄席は上野の鈴本だった。
「立って食べるなんてフレンチじゃないよ」と、朝のテレビでそのナカオスケベが片方の肩を前にせり出させつつ口を開く。立って食べてもフランス料理はフランス料理だろう。しかしまぁ、味と価格の関係にいくら得な感じがしても、僕もナカオスケベと同じく、立ってフランス料理を食べる気はしない。
今朝のテレビが採り上げていた8丁目の立ち食いフランス料理屋には、僕がここの前を通りかかった先月12日にも行列ができていた。その後、あちらこちらのテレビがこの店を取材放映しているから、今では行列は更に伸びているに違いない。
この立ち食いフランス料理屋「俺のフレンチ」と背中を合わせるようにして、同じ形態の店「俺のイタリアン」がある。こちらはテレビで紹介されないせいか、いつも空いている。空いて行列もなければ、店は更にヒマになる。
「人の行く、裏に道あり花の山」を実際の行動に起こす人は、そうはいない。そして「そろそろ"Finbec Naoto"、行かなきゃなぁ」と考える。
「年末ジャンボ宝くじで6億円を当てたら、そのうちの1億円で会社のみんなを旅行に連れて行く」と、製造係のマキシマトモカズ君が言っているという。僕や家内まで連れて行ってくれるとすれば総勢20名。しかし一体全体、ひとり500万円の旅行などできるものだろうか。
南米のどこかまで航空機のファーストクラスを奢って往復100万円。各自がスイートルームに数泊をして100万円。そこまでして、しかしいまだ300万円も余っている。「残りは小遣いだ」と現金を手渡されても、それを使い切れる者はいないだろう。「宝飾品を買えば」という考えもあるが、それでは蕩尽にならず、マキシマ君の意図に添わない恐れがある。
10数年前まではたびたび顔を合わせていたスケナリ君が競馬で50万円を儲けたときには、府中で意気投合した同年代の男と新宿へ移動し、それをひと晩で使い切ったという。
何年か前に同級生のコモトリケー君と「ひと晩にいくら使うことができるか」ということについて話したことがある。「せいぜい10万円」という僕に「いや、50万や100万は使えるだろう、銀座で人に酒を奢れば」とコモトリ君は返したが、自分ひとりの遊びに使うとすれば、闇の賭場へでも行かない限り、ひと晩で100万は無理だと思う。
オヤジが亡くなったとき、事務机から宝くじ100枚が出てきた。ことの成り行きからすれば、何やら数億円が当たりそうな気もした。そして日光市内の宝くじ売り場へそれを持参し、専用の機械で調べてもらったところ、そこには1万円と5千円の当たりくじがそれぞれ1枚ずつ含まれていた。僕の気持ちとしては「なんだ、それっぽっちか」である。
「宝くじが当たったら、フェラーリの後ろ半分を切ってトラックにするんだ」とはイチモトケンイチ本酒会長の良く口にすることだ。しかしイチモト会長が数億円を当てたら、その日からふさぎ込んでしまうだろうと僕は予想をしている。
ところで僕は生まれてこのかた、宝くじというものはだたの1枚も買ったことがない。当たる確率を考えれば、とてもではないが買う気が起きないのだ。しかしこれを道で拾うとか誰かにもらったとすれば、しばしの夢は見られるかも知れない。
11月下旬の三連休それも快晴に恵まれたとなれば朝から忙しい。その忙しさの最中に事務机左のカレンダーに目を遣ると「09:45秋季小祭」の文字がある。慌てて居間へ戻り、スーツを着てふたたび事務室に降りる。服装はスーツであっても靴は普段のものを履く。神社では靴の脱ぎ履きが頻繁になるからだ。
今月9日の日記に「夜の集まりが得意ではない」と書いた。夜の集まりだけでなく、会議や研修の後の二次会も避けようとするところが僕にはある。集団による仕事や勉強が済めばいち早く一人になりたいのだ。自分ではクールダウンのつもりだが、飲み会好きの人からすれば、その姿は「身勝手」と映るかも知れない。
秋季小祭とは、要は新嘗祭である。会議や研修の二次会とは異なり、お祭りと直会は不可分のものである。その直会の冒頭「聞き及ぶところによれば皇族の方々は新嘗祭までは決して新米をお召し上がりにならないらしい」という意味のことを、タナカノリフミ宮司の挨拶で聴く。
僕は既に新米を食べている。下々が申し訳のないことだと恐縮しつつ、また「noblesse oblige…偉い人の勤めが大変なのは当たり前」と傍観する気分もまた自分の中には同居をしている。
神社での直会を早々に切り上げ帰社してみれば、レジの中身は、午前中のものとしては今月の最高を記録していた。そして「神社の責任役員などという仕事は、ホントは現役を引退した隠居がすべきことだよなぁ」というようなことも考える。
終業後に事務机左のカレンダーを来年のものにかけかえ、明日に発行するメールマガジンのための画像を撮影する。
三島由紀夫の「益荒男が」で始まる辞世は、三島が市ヶ谷の駐屯地で割腹自殺をした1970年11月に、どこかで目にして一発で覚えた。僕は中学2年生だった。若いころ、あるいは子供のうちは、人は随分と記憶力が強いらしい。
三島の辞世が、自分の覚えた他にもう一首あったとは、それから何十年も経って知ったことだ。そしてそれを目にするたび覚えようとして、しかし老化した脳は新たな31文字を受けつけず、僕が覚えているのは相変わらず「益荒男が」の方のみだった。
今朝、日本経済新聞を開くと、その何ページ目かに小川榮太郎という人が安倍晋三について書いた本の宣伝があった。そこにたまたま三島の、自分が覚えていない方の辞世が添えられていたので「良い機会だ」と何度かくり返し読み、今度こそ諳んじる。
三島の小説では「橋づくし」と「百萬円煎餅」が好きだ。「安倍晋三試論」の宣伝には三島と吉田松陰の辞世が引用してあった。そして「三島と吉田松陰を並べるのはマズいだろう、やっぱ」と考える。
「ある特定の場所の情報については、その場所に近づくほど信憑性を増す」ということを、30年ほど前までは信じていた。しかし今ではその意見というか定理めいたことに僕は与しない。
ある特定の場所に存在する、例えば蕎麦屋について、どの店が美味いか調べようとする。その場所から遠いところにいれば、調べる手段は活字やインターネット、ということになるだろう。活字やインターネットによる情報は、信憑性からすれば「丙種」のものであって、つまり確度は低い。
それではその特定の場所まで出向き「美味しいお蕎麦屋さんを教えてください」と地元の人に訊いたとする。その場合の情報の確度はいかほどのものか。こちらもまた「丙種」であると僕は考える。
「美味い蕎麦屋を教えてくれ」と訊ねた相手の舌が、自分の舌と好みを異にしていたらどうするか。人の棲むところ都会であっても村社会の付き合いがあり、それが客観的な判断を阻害することは珍しくない。「あそこのオヤジは、この前の選挙で何とか党の誰それを推したから気に食わねぇ」ということを味の基準にする人もいるのだ。
日光の美味い蕎麦屋を知りたければ「アイツなら間違いないだろう」とみずから信じる人に訊く。そうすれば情報の確度は「乙種」に上がる。更に確実な情報が欲しければ、日光の蕎麦屋すべてを食べ歩く。そして自分の美味いと感じた蕎麦屋を特定する。ここまでしてようやく情報は「甲種」となる。
「日光そばまつり」は本日から26日までの日程で「日光だいや川公園」にて開催される。
室町へ行く。九段下に移動をする。靖国神社の大鳥居をくぐり、境内を西へ進んで南門に達する。目の前のビルの最上階へ上がり、北西に目を遣って「市ヶ谷には良い飲み屋が少ねぇんだよなぁ」というようなことを考える。
所用を済ませて先ほど出たばかりの南門から靖国神社に再び入る。そして来た道を引き返し、九段下から大手町を経由して北千住に達すると、時刻は12時25分になっていた。次の下り特急スペーシアは12:42発。残り17分では昼飯も食べられないが、できるだけ早く帰社することを優先する。
そうして駅を出て「成城石井」でソースひと瓶を買い「袋は要らないから」と、それをむき出しのまま手に握ってコンコースに戻ったところで2人組の警察官に呼び止められる。北千住で職務質問を受けるのは、これで2度目のことである。
手に握ったソースを彼等に示して「レシートなら持ってますよ」と答えると「いえ、宜しければ手荷物の検査をさせていただければ」と言う。「電車、42分発なんだけど大丈夫かな」と訊けば「お時間はとらせません」とのことだが、僕はこのあと弁当も買わなくてはならない。
ネオプレーンのケースに入ったデジタルカメラを確認して後、今度は"NOKIA"の携帯電話に触れながら「カメラ、2台も持ってるんですか」などという警察官に付き合ううち、時間は刻々と過ぎていく。
夜に居間で焼酎のお湯割りを飲みながら「吉田類の酒場放浪記」の録画を観る。そして「酒場放浪記はやっぱり吉田類だわなぁ。『おんな…』の方はオレには全然、面白くねぇわ」と感心しつつ「それにしても、いつもながらのあんな服、一体全体、東京のどこに行けば買えるのか」などということも、また考える。
日光の山々が冠雪をした。しかし雪の量はいまだ、シュークリームの上のパウダーシュガーほどのものだ。
朝、テレビを見ていると、お天気オネーサンが分厚いコートを着てマフラーを巻き、手袋をはめた手にマイクを握って「寒さを我慢しないでコートを着てお出かけください」と言っている。しかし僕は信じない。僕からすれば「東京の人はインド人」である。
1980年2月。カトマンドゥからヴァラナシに南下した僕が半袖半ズボンにゴム草履で過ごしているとき、現地の男たちは毛糸のチョッキを着てマフラーを巻いていた。インド人にしてみれば「冬に冬の格好をするのは当たり前」ということなのだろうが、日本の冬を知る僕に、ヴァラナシの冬は一向に寒くなかった。
しかし師走まで10日を切った霜月21日ともなれば、いくら行き先が東京とはいえ半袖半ズボンというわけにはいかない。そういう次第にてヒートテックの下着に木綿のシャツを重ね、ウールの薄いブレザーを着て新橋に出る。そして結果として上半身に汗をかき「だから言わんこっちゃない」と、若干の忌ま忌ましさと共に夜の街を歩く。
仏壇に上げた花が、気温の高かったころからすれば随分と長く保つようになった。仏壇の花とは、ある一定の日数を経れば、いまだ元気であっても取り替えなければいけないものなのだろうか。そういうことが僕には良く分からない。
本日は2005年に亡くなったオヤジの祥月命日にて、朝、家内とふたりで如来寺へ墓参りに行く。あれから丸7年が過ぎたとは正に光陰矢のごとし。オヤジの亡くなった日と同じく、今日の空も爽やかに晴れている。
同級生のババトモユキ君が亡くなったのは先週金曜日のことだ。ババ君の告別式に参じるため、昼に菊屋ホールへ行く。
高校生のときは、夏休みや冬休みなど長い休みに帰郷するたび、僕はかならずババ君と遊んだ。昼も遊んだが夜も遊んだ。そのことを懐かしく思い出す。
ババ君は勉強、特に英語が得意でスポーツも良くし、従って女子にも人気が高かった。そんなババ君も病という悪魔に魅入られれば56歳で命を滅してしまうのだ。医学が進歩した今でも「生老病死」を人の四苦とした仏陀の時代から、いささかも変わらない事実がある。
ババ君の一番上のお姉さんによる遺族の挨拶は感動的なものだった。その挨拶を聴きながら、あるいはお姉さんの堂々とした姿を凝視しながら、多くの参列者が涙をぬぐっていた。
僕は、亡くなった人の顔を見ることを好まない。しかしババ君についてはその顔を拝みたく、よって花を棺に入れる際にはババ君に近寄って、その、病の跡などはいささかも窺わせない顔に向かって頭を下げた。ババ君とはもうすこし遊んでおけば良かったと思うが、それは叶わないことになってしまった。
午後に保健所の講習から戻るとほどなくして、オヤジを慕ってくれていたトバヤシヒロタカさんが、オヤジに線香を上げに来てくれた。トバヤシさんと仏間でしばし話をするうち、先ほどまでの青空がいつのまにか群青色に変わる。
トバヤシさんを玄関から見送り、店を閉め、社員を送り出して居間へ戻って後も、なにか胸が騒ぐ。それは僕がいまだ、ババ君の死を想い続けているからだろう。死は、人ひとりひとりの傍らに、ひっそりと息を殺してしゃがみ込んでいる。それでも万人が安穏としていられるのは、そうと気づかず生きているからに過ぎない。
何かあるたびに手を洗い、社内のそこここに置いたアルコールの噴霧器で更に消毒をしているから、僕の手指の細菌数は極端に少ないはずだ。その代わり秋が過ぎればアカギレのあることが常態となる。
現在の右手は親指と人差し指にバンドエイドが巻かれている。この2本に中指までが加わると、"Let's note"のマウスパッドの取り扱いに苦慮するようになる。他の会社のものについては知らないが、"Let's note"のそれは、バンドエイドを巻いた指にはピクリとも反応しないのだ。
本日はよって右手の中指にてマウスパッドを操作し、マイツールを立ち上げる。今月の小遣い帳を開くと、明日は20日になるというのに、いまだ予算の半分も消化していない。それを確認しながら焼肉の「大昌園」に預けたボトルのことを思い出す。
大昌園には随分とむかしからボトルを入れ続けてきたが、預かる期限は3ヶ月と告げられていたような気がする。若いころにくらべれば焼肉に対する欲求は極端に落ち、従って「大昌園」には久しく行っていない。
またまた右手の中指でマウスパッドを操作し、今度はブラウザを立ち上げる。日記を検索すると、果たして前回「大昌園」を訪れたのは8月19日のことだった。ボトルにはいまだ相当な量の焼酎が残っているはずである。
そうして夜7時すぎに「大昌園」の席に着き、料理を注文するより先にボトルを持って来てもらう。ボトルの札には果たして「8/19」の文字があった。そうして安心しつつ、縁のところまで氷で満たしたオールドファッションドグラスに麦焼酎「田苑」を、これまた縁のところまでなみなみと注ぐ。
「名残の鱧に走りの松茸」ということばがある。日光の山々が冠雪をした。いま日光へ来れば「名残の紅葉に走りの雪」を観ることができる。
朝、おばあちゃんの応接間にて、おととい巣鴨の"goro"で受け取ってきたブーティMに防水クリームを塗る。「クリームは先ずブラシに付けて塗り、20分ほど経ったら同じブラシで、今度はクリームを剥がすような勢いでこすると艶が出る」と"goro"では言われた。
僕の山の師匠はヨコタジュードーであり、ヨコタジュードーには、登山靴のクリームは指で塗ると教わった。よって"goro"のブーティMについても、僕は「goro式」ではなく「ヨコタ式」にてクリームを塗る。ブーティMは今後、どれほど僕の足に馴染んでくれるだろうか。
事務机の引き出しを整理していると、その奥から向こう側にゴトンと落ちたものがある。床に目を遣るとそれは一昨年の秋に買い、昨年ほとんど使うことのなかった2011年の手帳だった。
来るべき年に備えて手帳を用意した嬉しさを、2010年11月7日の日記に僕は綴っている。そこには手帳を買うのは18年ぶりのことと書いてある。18年ぶりの手帳は結局のところ、ろくに使われることなく事務机の底に死蔵され、そして本日ゴトンとゴミ箱に捨てられた。
データベースの保管と読み出しにコンピュータを使うようになった1992年以降、僕は徐々に手帳から離れていった。現在、メモには"Campus"の5号つまりA6ノートを使い、そしてデータベースに保管するほどでもない直近の約束事については、ウチのノヴェルティ用のカレンダーを事務机の左に提げて記録している。
「個人用のクルマはこれから一生、買わないに違いない」と予感してから何年が経つだろう。今日の「手帳発見」により「スケデュール管理のための手帳についても、これから一生、買わないに違いない」と確信したような気がする。
朝、新聞受けから新聞を取り出し、それを事務室の大机で仕分けする。折り込み広告はまとめて即、資源ゴミ置き場に運ぶ。オヤジの生きているころには、これで良く叱られた。オヤジは広告の閲覧を好んだが、僕は広告は見ない。
「NIKKEIプラス1」第1面「旅の達人おすすめの駅弁」で、この日記の今月8日に名の出てくるタケシトーセーさんの「武士のあじ寿司」が第5位に選ばれている。この弁当はタケシさんが自家の歴史と文化を基に創り上げたもので、非常に美味い。
フィッシュアンドチップスは"The Financial Times"よりも"The Sun"に包んで食べた方が美味いという小咄めいた話がある。駅弁は列車に乗り、移りゆく景色を車窓から眺めつつ食べると美味さが倍加するとうが、果たしてそうだろうか。僕は「武士のあじ寿司」は、上出来の日本酒と共に家の食卓で食べたい。落ち着いた環境でゆっくり食べないと勿体ないような、それは上出来の弁当である。
「武士のあじ寿司」に使われている酢締めした鯵を真空パックにして地方発送してくれないか、そんなことを僕は何年も前から考えている。しかし弁当1食あたり2尾を必要とする鯵は下ごしらえだけでも大変な手間がかかり、おまけにテレビや新聞に紹介されるようになれば作り手はますます忙しくなる。
そういう次第にて「武士のあじ寿司」は「今のところ」か「いつまでも」かは知らないが、修善寺まで行かないと食べることはできないのだ。
数学者ポール・エルデシュについての本を読みながらふと気づくと、上り特急スペーシアは北千住駅に停車中だった。メガネをケースにしまい、本をショルダーバッグにしまい、ということをしている最中に、しかしスペーシアはモーターを唸らせつつ発車してしまった。
次のとうきょうスカイツリー駅から北千住に戻るのも馬鹿馬鹿しい。終点の浅草で下車し「ここまで来たら昼飯は鮨だ」と、神谷バーはす向かいの鮨屋を目指して道路を2度、横断する。そして立ったまま握りを十数個ほども食べ、地下鉄銀座線に乗る。
先ほどと同じ本を読みながら窓の外に目を遣ると、地下鉄は降りるべき上野駅を過ぎ、次の上野広小路駅まで来ていた。この駅はその構造からして、一度改札口を出ないと、向かい側の、つまり上野駅へ戻るプラットフォームに移動することはできない。一駅を戻るのに切符を買い直すのも業腹である。
仕方がないので取り急ぎ下車し、地上へ出て御徒町駅まで歩く。そして山手線に乗る。
子供を何とかして本好きの大人に仕立て上げようとする試みがある。読み聞かせなどというものも、そのひとつかも知れない。しかし本好きの大人などはせいぜい電車を乗り過ごして時間を無駄にするくらいのことにて、非生産的なこと甚だしい。本を読む人より本棚を作る人の方が断然、高級である。
山手線を池袋駅で乗り過ごすことは何とか避けられた。西武池袋線をひばりが丘駅で乗り過ごすことも、何とか避けられた。そして「第30回美術工芸教育発表会」の開かれている自由学園へ行く。学園内では生徒の給仕により、クリームホーンを食べながらミルクティーを飲んだりする。
巣鴨の"goro"に登山靴を注文したのは9月27日のことで、そのとき伝えられた受渡日は2ヶ月半後の12月13日だった。ところが今月8日に電話があり、僕の足に合わせて左右サイズ違いで誂えた「ブーティM」は早くも完成したという。そういう次第にてあたりの暗くなるころ徒歩で白山通りを南下する。「ブーティM」は僕の使い道に合わせ、底はビブラムのうち最も薄いものにしてもらった。だからこれを紙の袋に入れ手に提げてもそれほどは重くない。
ここ2日のあいだ断酒をしたため、湯島天神ちかくの優れたピッツァ屋"Arrangiarsi"ではワインがスイスイと喉を通った。そしてグラッパで仕上げ、先ほど登ったばかりの坂を下って天神下に向かう。
日光の大豆タチナガハと日光のお米コシヒカリ、そして純国産塩を原材料とした最高級味噌「梅太郎」の白味噌に、我が春日町1丁目の「松葉屋」の湯波、国産ほうれん草を具にしたフリーズドライ味噌汁がすなわち"with LOVE"で、僕は自社のフリーズドライ味噌汁としては、これが完成したところで満足をしていた。
そうしたところ「ウワサワさん、ひとつだけってのは問題です。もう1種類つくればお客様の選択肢も増えますし、"with LOVE"の需要も今より上がりますよ」と、ミドルネームに"Bimbow"と付けたくなるほどお金に縁のないアマギさんに言われた。
それを真に受けて開発したのが前述の「梅太郎」の、今度は赤味噌を用いたイベリコ豚汁"!Gracias pata negra!"だ。
これを店に出してみると、しかし日光という土地が湯波を強く連想させるためか、"with LOVE"と"!Gracias pata negra!"の販売比率は2対1のまま微動だにしない。だったらどうするか。
そして"!Gracias pata negra!"を"amazon"で売ろうとして準備も整ったころ、先月27日のテレビに「本物ワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"」が採り上げられ、すると番組の放映中から電話が鳴りだして"rubis d'or"は数時間で売り切れた。
店舗では、その売り切れて空いた場所をそのままにしておくわけにはいかないから、試みに"!Gracias pata negra!"を置いてみた。そうしたところ、こちらも売れ始めて"amazon"に出すどころではなくなった。
ウチのフリーズドライ味噌汁については、陶製の口径の狭いカップを熱湯で温めてから使うと、塗りのお椀よりも冷めづらくて都合の良いことをつい最近になって知った。そして今朝はそのうちの"!Gracias pata negra!"を飲む。
喉の調子は数日前より良くなかった。しかし発熱がなかったため、病院へ行くことはしなかった。そうするうち喉の痛みは漸増し、よってきのうようやくセキネ耳鼻科で治療と薬の処方を受けた。
今朝、いまだ暗いうちにふと気づくと、きのうよりよほど喉の痛みが強い。目覚めた瞬間に辛いところがあると、次の行動にはなかなか移りづらい。布団の中で小一時間ほどもグズグズし、しかしそんなことをしていては調子はいつまでも悪いままだ。思い切ってベッドから降りて居間に移る。そしてきのう処方された薬のうち「疼痛時または発熱時」と袋にある薬を飲む。
治療を受けながら喉の痛みが亢進するとは「炎症に良いわけがない」と分かっていながら飲酒をしたこともその遠因、いや決して遠くはない、大きな原因のひとつではないか。
ここ数日で急に気温が下がったとは思わないが、日光の山には今にも雪を降らせそうな雲がある。発熱がないから仕事はできる。できるけれども全力は出しがたい。紅葉狩りのお客様による賑わいが去りきらないうちに、今度は年末のギフト需要が高まっていく、そのような時期に寝込むわけにはいかない。
というわけで今夜は飲酒を避け、「疼痛時または発熱時」と袋にある薬とペットボトルのお茶を枕元に置いて早々に寝る。
日光市今市地区の中心にあった「長崎屋」で、中国製の綿入れジャケットを買った。価格は2,000円だった。「長崎屋」がスーパーマーケット「かましん」に変わる前のことだから、以降、少なくとも十数年は、これを着続けていることになる。
昨年末から今年はじめにかけての冬、ついにこのジャケットの裏地がすり切れ、中の綿が見えてきた。しかし傷んでいるのはその部分だけで、他はいまだしっかりしている。よって春にはこれをすり切れたままクリーニングに出した。
ことしもいよいよ寒くなってきたため、クリーニングの袋からジャケットを取り出し「そうか、襟の裏がすり切れていたんだ」と思い出す。そして「直すよりも、ユニクロのダウンパーカあたりを買ってしまった方が安くつくかも」と考えた。一方、僕は子供のころから大量生産、大量消費、使い捨てのたぐいが好きでない。
本日、所用にて「ジャスコ」へ行った際に、テナントで入っているリフォームの「マジックミシン」に寄った。そしてジャケットの状況を説明しながら修理費用を訊くと、おおむね500円から1,000円くらいのものだろうと、店の人は教えてくれた。それで済むなら新品を買う必要はない。
そうして帰社して小遣い帳を見る。今月は例外的に、月なかばに達しようとしている今日になっても、予算の4分の3以上の残高がある。そして「防寒用のジャケットが浮いた分も含めて、どれだけの次月繰り越しができるだろうか」と考え、しかしまた「こういう月は得てして、まるでオレの小遣い帳を覗き見ていたように、予期しない集金人が現れるんだよな」と、過去に何度も経験したことを苦く反芻する。
「友達の店だから」とか「ときどきウチの漬物を買ってくれるから」とか、そういう義理がらみや馴れ合いの品選びではない、正真正銘、僕が日頃から「それにしても美味いよなぁ」と感じつつ味わっている地元の優れた食品を、大晦日12月31日に限定40セットでお届けする「日光の美味七選」の品揃えのため、本日は午前よりお願いの手紙を持って各々のお店をまわる。
その、お店めぐりの初めの方では雨模様だった空が、先ずは西北西の方から、そして午後からはほぼすべてにおいて晴れてくる。
「日光の美味七選」には、栗のみでこしらえた餡に大粒の栗を埋め込んだ本物の栗きんとんを出していただいている「久埜」の豆大福を、夜になってから食べる。その小豆の餡をサクサクと噛みしめれば、何やら畑で大切に育てられた作物を食べている気分になり、しばし陶然とする。
「日光の美味七選」がお客様のお手元に届くまで、あと50日。この50日は、すこしは余裕のあるように思われて、しかし実はあっという間に過ぎてしまう日々なのかもしれない。
月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり。これから大晦日までは、朝早くから働いて夜は静かに本を読む、そういう50日にしたい。まぁ、すべての日がそうなるわけではないだろうが。
1991年の春、僕は自由学園の植林事業に同行してカトマンドゥへ行った。その際、かねてより知り合いだった地元の家庭にひとり招かれた僕は「コニャックとネパールの焼酎、どちらをお飲みになりますか?」と、一家の主人に訊かれた。「ネパールの焼酎を、お願いします」と間髪を入れずに答えたことは言うまでもない。
夕食の最中、その主人から、ある質問を受けた。
「先日、生まれて初めて日本へ行きました。日本では、日本酒とエビフライと焼き鳥と温泉に、特に感服しました。ところであれだけ美味い酒がありながら、私と会食したほとんどすべての日本人は食事の席に着くなり『とりあえずビール』 と言うんですね、とても不思議です。あれは一体全体、どうしたわけなのでしょう」
「暑かったからではないでしょうか」 と返すと「私が日本へ行ったのは冬ですよ」 と、恰幅の良い主人は目を見開いて食い下がる。困り果てた僕は 「うーん、だったらまぁ、それが日本人の習慣なんでしょうねぇ、多分」 とはぐらかしながら次の話題を探した。
今や日本人は神事の直会ですら日本酒は形式的に唇を濡らすくらいにて、そそくさとビールに移る。ネパール人に限らず、日本人の僕からしても、日本人のビール好きは不思議でならない。
日光の朝採れ地野菜を「日光味噌のたまり」で朝のうちに手早く漬ける「たまり浅漬け」のポップは今初夏以来、ビールジョッキを象ったものに「つめたーいビールに」と書いて用いてきた。しかし里に初霜の降りようとしている11月半ばになお「冷たいビールに」でもあるまいと、今朝からは徳利の形に切り抜いた紙に「あたたかいお酒に」として置くこととした。
それでもなお、ほとんどの日本人は冬にもビールを飲み続けるに違いない。生牡蠣にビール、焼き蟹にビール、ふぐ刺しにもビール、である。
外国で難しい質問に遭遇しないためにも、日本国内で外国人とメシを食うときくらいは、日本人として日本の酒を飲んでいただきたい。人類学上のややこしい説明をしながらのメシは、特に海外では消化に悪いのだ。
我が春日町一丁目は安政6年つまり1859年から2012年までの154年ものあいだ、町内の持ち物である彫刻屋台を、お祭りのたび蔵から出して組み立て、お祭りが終われば解体して蔵へ仕舞うことを繰り返してきた。
東照宮の普請に関係する彫刻師が山から下りて彫ったとされる彫刻は雄渾にして微細なところもあり、華奢な部分などは組立解体のたびにすこしずつ破損して今日に至ってきた。
しかし今秋10月に町内の屋台庫が完成し、これからは屋台を組み上げたまま保管することが可能になった。先日の「今市屋台まつり」のために組み立てられた屋台を、本日は初めてその屋台庫に格納する日である。
それに先立ち、今朝は婦人会長のタケダミッちゃん宅より電話があり、昼の炊き出しのカレーライスに添える漬物を持ってきて欲しいと頼まれた。よってミッちゃんの希望する「らっきょうのたまり漬」と「だんらん」を店舗の冷蔵ショーケースから選び取り、それをミッちゃん宅まで徒歩で配達する。
他町内の屋台が仕舞われた後も我が町内のそれが「市縁ひろば」に起き続けられたのは、一般道から屋台庫までの、3トンの重量にも耐えられる、国道並みの規格を持つ取り付け道路の完成を待っていたためだ。
春日町一丁目の屋台庫には、自治会費を負担して町内を支えるすべての世帯主、すべての法人の名が、その内側に掲げられるという。イワモトミツトシ自治会長による、優れた発案と言わねばならない。
夜の集まりが得意ではない。なぜ得意でないかといえば先ず、家族とメシを食えないところがイヤだ。家族が留守のときのそれなら我慢できるかといえば、ひとりで気楽にメシを食えない点において、またまた気が進まない。
夜の集まりすべてが得意でないかといえば、それは違う。気の知れた2、3人による酒食はむしろ好きだ。また公式のものでも、苦にならない席はいくつもある。気分の乗らない会合会食と、むしろ進んで参加する集まりとのあいだにどのような差があるかについては自分でもよく分からない。そして社員と食べるメシは、僕は大好きである。
繁忙期を前にしての決起大会、というような大層なものではない。「みんな、健康に注意して、大晦日まで気を引き締めていこう」というバーベキュー大会を今夜は開いた。店の駐車場では肉焼き係が働き、事務室内では「食べ係」「飲み係」が楽しくやる。「肉焼き係」と「食べ係」「飲み係」はときどき交代をするが、僕はずっと事務室内にて「飲み係」を務める。
最後の最後でロールケーキが出てきたため、取り急ぎ事務室から数十秒の自宅へ戻り"REMY MARTIN NAPOLEON"の新瓶1本を取って事務室に引き返す。「あんた、日本の何分の一の値段なんだから買わなきゃ損だよ」と、オフクロの買い集めた相当数のブランデーが、ウチでは何十年も置き放ってあるのだ。
ロールケーキを肴に猪口で何杯ものコニャックを飲んだフクダナオブミさんは、事務室前に代行車を呼んだ。社員と食べるメシが、僕は大好きである。
修善寺のタケシトーセーさんは、ウチが主催する研修「日光MG」に毎回、来てくださる。タケシさんにはウチの社員の面倒も見ていただき、僕は非常に有り難く感じている。
日光もいまだ夏模様だった先々月の「日光MG」の際に、タケシさんは自分の穿いてきたジーンズを僕に差し出し試着をさせた。そしてその、21オンスの生地を持つ強力なジーンズは、ウエストもレングスも僕の体にピッタリだった。
後日タケシさんは、そのジーンズと同じシリーズの、わたりの部分がすこし細いものを僕に送ってきてくれた。長くバスケットボールを続けてきたタケシさんの太ももには筋肉が付き、そのスリムなタイプはきつすぎるのだという。
21オンスのジーンズはそれなりにゴツく、コバの広い"trippen"の靴でも、合わせてみるといささか弱い。だったら玄関の奥から"DOLOMITE"の"CRISTALLO"を引っ張り出して履けば良いものを「いや、この際、このジーンズに合わせてオーダーだ」などと考える性格だから、僕の銀行残高はいつになっても増えない、というかいつもカツカツなのだ。
巣鴨の"goro"に「ブーティM」を注文したのは9月27日のことだった。そのとき伝えられた受渡日は2ヶ月半後の12月13日。僕は欲しい物を手に入れるためなら待つ時間は厭わない。そうしたところ今日の午後いきなり"goro"から電話があって「できました」と言う。
入念な採寸の上で手作りされた、右25.25センチ、左25.5センチの靴であれば、いきなり履いても足の痛くなることはないだろう。1週間後には東京へ行く用事がある。登山靴を手に提げて持ち帰る気はしない。よって行きはゴム草履、帰りは「ブーティM」を履いて、という段取りを考える。身につけていくパンツはもちろん、タケシさんにいただいた21オンスのジーンズである。
午前の9時ごろから胃が痛み始める。僕にとって胃痛はとても珍しいことだから「ストレスか、いや、オレにストレスはない。だったら何だ、風邪の始まりか」と不審に思う。
家内に知らせると、それは疲れによるものだと即断する。しかし別段、疲れるようなこともしていない。そう伝えると「仕事、してるでしょー」とのことだが、僕くらいの仕事ぶりで疲れていては、頭も体も神経も僕より使っているだろう世間の大部分の人たちは一体全体どうなるのだ。
消化薬を飲んでも効果が感じられなかったため、今度は胃痛の薬を飲む。すると痛みは和らいだが、食欲はまったくない。それが昼飯の範疇に入るかどうかは不明ながらカフェオレ1杯を飲む。
ふときのうの朝日新聞を開くと「シンクパッド、国内生産復活」の文字がある。1995年から愛用してきた"Thinkpad"ではあるが、その質感の低下に嫌気が差し、昨年遂に"Let's note"に換えたいきさつがあった。「国内生産復活であれば…」と食指が動く。しかし"Panasonic"製コンピュータの種々の長所を知ってしまった今では、後戻りしがたい気持ちもある。
夜になっても食欲は湧かず、よって長風呂で体を温め、そのまま就寝する。
朝、起き抜けに「乗り換え案内」を見たときには、半蔵門線に黄色い注意報が出ていた。しかし当方は半蔵門線は使わない。そういう次第にて07:41発の東武日光線下り始発特急に乗るべく7時20分に北千住に来てみれば、北越谷と大袋の間で人身事故が発生し、半蔵門線は北千住以南で折り返し運転をしているという。
半蔵門線は確かに使わないが、北越谷や大袋は、僕の帰宅の途上の駅である。特急の運行を報せる電光掲示板は真っ黒で、構内には人が溢れつつある。
日本のすべての駅が、かとうかは知らないが、事故を報せるアナウンスは徹頭徹尾日本語のみだから、外国人などはワケも分からず立ち尽くしてあたりを不安そうに見まわすばかりだ。
駅員という職業の人は、確証を得られないことについては決して口に出さない。上野に回って東北新幹線を使った方が早く会社に帰れるのか、あるいはこのまま待つ方が合理的なのかの判断が、情報不足によりできない。
とりあえずは地下の"STARBUCKS COFFEE"に降り、2日分の日記を書く。そして3時間が経とうとするころようやく東武日光線の専用窓口へ行き、運行再開の可能性を訊く。
「分かりません」と答える駅員に「だったら上野に回って新幹線に乗った方が良いですかね」と畳みかけると「いえ、このままお待ちになった方が」と言う。「しかしいつ発車するか分からなければ、どちらが有利か決められないでしょう」と続けると「先ほど上りが浅草に向かいましたので、09:41発が10分か15分遅れで来ると思います」とのことだった。僕が欲しかったのは、そういう情報である。
朝のうちに会社に帰るところが、11:58にようやく下今市駅に着く。そしてその10分後に帰社する。
「西の会」は西順一郎先生を囲む小規模かつ先鋭的な集まりで、むかしは飯田橋の果実店で開かれていた。しばらく途切れていたこの会が昨年、東京シーガルクラブの尽力により復活した。とても嬉しい。
夏のころより出席を決めていた今回の集まりのため、下今市駅15:04発の上り特急スペーシアに乗る。そして2時間10分後に大井町に着く。
会の口開けは西先生による著書解説。本日は2000年刊の「人事屋が書いたCFの本」が採り上げられた。僕は読書においては「これを読んでなにがしかの役に立てよう」と考えた瞬間から内容が頭に入らなくなる質であり、だから先生の著作についても、中には「MG教科書A」のようにページが千切れるまで読んだもの、あるいは「戦略的マイツール入門」のように30冊以上も自費で買って人に配ったもののある一方、そのほとんどは読んでいない。
それだけに、これまた未読の、刊行から十年余を経た「人事屋が書いたCFの本」について、今だから語れること、著作から発展させた現在の取り組みなどを先生ご自身からお聴きする時間はとても刺激的なものだった。
2番手の、ヨシダゲンゾーさんによる「X理論・Y理論の私的一考察」は、源流を辿ればダグラス・マグレガーの「企業の人間的側面」に行き着くのかもしれないが、人間の集団には永遠につきまとう管理の問題を、自身の経験も交え、また日本プロ野球の歴代監督を比喩として用いる分かりやすい方法で語っていただき、大いに頭と心の栄養になった。
今夜の交流会は横浜の、ヨシダゲンゾーさんの新店舗で行われるとのことだった。しかし当方のねぐらは東京の中心より東側にあり、もしも横浜で飲酒をしたら、僕は多分、終電に乗り遅れてタクシーで文京区まで戻る羽目になる。あるいは急げば北千住発21:11発の下り最終スペーシアに間に合うかも知れない。
そう考えて一行とは大井町のプラットフォームで別れた。そして京浜東北線に乗って東へ進むうち「そうだ」と思い出して新橋で下車をする。雲は低いが雨はいまだ降り始めていない。7丁目に預けたボトルのお湯割りを飲み、数寄屋橋まで歩く。
稲畑汀子編「ホトトギス季寄せ」には「日記買う」はあっても「手帳買う」はない。今の世であれば「日記買う」よりむしろ「手帳買う」の方が季語としてはふさわしいような気がする。
18年ぶりの手帳を買ってしごく気分を良くしている様を、僕はこの日記の2010年11月07日に書いた。そしてその手帳は結局、数えるほどの文字しか記されないまま捨てられた。コンピュータを使うようになってから、僕は本当に、手帳を必要としなくなってしまった。
もっともメモの類いは持つ。それは"Campus"の5号ノートで、今その表紙の裏には、銀行にもらった小さなカレンダーが糊付けされている。そしてそこには2013年初から3月までの、動かしがたい予定4点のみが、その日付のところに赤く線を引かれている。
日常の細かいことは事務机の左に立てかけた、ウチがノヴェルティとして使っているカレンダーに書き込む。毎年くり返し訪れること、くり返ししなくてはならないことはいちいち紙に書くことはない、すべてコンピュータに入っている。
この秋の、もっとも繁忙であろう週は今日で終わった。しかしこれからも週末と祭日は忙しく、そしてその忙しさは大晦日まで続くだろう。それがこの時期の、僕にとっての最も嬉しいことである。
「野球場へ行ったことがないということは、まともな育ち方をしてこなかったということだ」というような意味のことを、スペンサーシリーズのどこかでロバートBパーカーが書いていた。洒落て気の利いた文章だった。
一方「スタンドに少年がいたら、その目を後ろからそっとふさいで『坊ちゃん、こんな下品なもの、観るもんじゃぁありません』というような、野球はスポーツだ」と、どこかで安部譲二が言っていた。まぁ、その気持ちは良く分かる。
むかしあるバーで数千円の支払いをするため1万札を出したら、ピタリと吸い付いて実際には2枚あった札の1枚を、オカミが笑いながら返してくれたことがあった。日本人としての、あらまほしき姿である。
投手の投げた球が自分のからだに当たっていないにもかかわらず審判がデッドボールの判定をしたら「いえ、僕、当たっていません」と進んで申告するのが人間としての、あらまほしき行いなのではないか。しかしそのような考えは野球選手の、否、多くのスポーツマンの常識には無い。
夜に「魚登久」へ行くと、入れ込みのテレビはフィギュアスケートの大会を映していた。よって通りかかった若いアルバイトの人に「オニーチャン、野球、いいかな」と、チェンネルを切り替えてもらう。
ジャイアンツに対して3点を追うファイターズが中田のスリーランホームランにより同点に追いついたのは、帰宅してテレビのスイッチを入れて間もなくのことだった。「よし、良いぞ」と僕は腹の筋肉に力を込めた。世紀の誤審により日本シリーズの流れを変えられたままでは、ただの内角球を危険球と見なされた投手の多田野も、また監督の栗山も浮かばれないではないか。
野球とは、審判をいかに上手く騙したかということをプロのOBが嬉々として語って、それがメシの種になるスポーツである。しかしまた野球のユニフォームを着た小学生を見かければ「がんばれよ」と、僕は声をかけたくなる。
「プロ野球の選手は毎日毎日、諦め続けていく、そこのところが色っぽい」と山口洋子は書いた。その言わんとするところも、僕はまた良く分かる。人はやはり、野球場へ行かなくてはいけないのだ。
このところ1週間に2日は、朝4時に起床して製造現場で仕事をしている。今朝はこの秋はじめてフリースを着た。
仕事から上がって部屋へ戻っても、あたりはいまだ暗かったりする。熱いお茶が飲みたければ、先ず仏壇にそれを上げなければならない。おばあちゃんの台所で花や水や湯飲みを用意するうち、夜が明けてくる。
週間の天気予報によれば、この週末は晴れが続き、来週の火曜日に崩れて以降はまた晴れが続くという。毎朝のように通っている野菜の直売所では、大根がいよいよ立派になってきた。
今の時期には、店舗は紅葉狩りのお客様で賑わい、事務室では年末ギフトの受注がはじまり、製造現場の生産量は初秋にくらべて一段も二段も上がっている。社内は活気に満ち、品切れを出さないよう、強気の計画を立てて毎日に臨んでいる。
より良い商品のためならば、早朝の仕事も苦にならない。というかむしろ嬉しい。そして「朝の仕事は、次はいつになるだろう」と、社員からの要請をわくわくしながら待っている。
今朝の下野新聞朝刊第1面に、錦秋の帯が霧降の滝まで降りてきたことを報せる写真が載っている。とすれば日光市旧市街の広葉樹が色づくまでには、あと10日ほどはかかるだろう。今年の紅葉は長引く残暑による遅く始まった分、11月の下旬まで尾を引くかも知れない。
日光市の旧市街より標高の低い今市地区では唐辛子の収穫も佳境に入り、僕はこれを農協の直売所で手に入れた。そして子供のころから見慣れた、古い青銅の壺に投げ込み、店の、今井アレクサンドルによる富士山の絵の下に置く。
きのうの午後、下今市駅から自転車で帰社しながら、風をはらんで開いたブレザーの胸元は、木綿のシャツ1枚しか纏っていないにもかかわらず、寒さは一向に感じなかった。寒さはあるいは突然にやってくるのだろうか。
1985年から1994年にかけての10年間に食べたもののうち最も美味く感じたのは大阪「たこ梅」の、おでん鍋で煮込まれた鯨の舌だった。次の10年間に食べたもののうち最も美味く感じたのは、ある冬の晩に家で食べた湯豆腐だった。
鍋に昆布を入れ、その、何の変哲もないダシで温めただけの豆腐がなぜそれほど美味いか。湯豆腐とはつくづく不思議な食べものである。そして今夜も湯豆腐を肴に焼酎のお湯割りを飲む。