"carrozzeria"ではない、何だったか忘れたがとにかくイタリア語のブランド名を持つ家具調の大きなCDプレイヤーを人からもらい、事務室で使うこととした。以来十数年を経てこれが不調になったため近所の「三栄無線」へ持ち込むと、別に悪いところはないとの診断だった。
それでも自分が操作するとはしはし動かないため、かねがね自室にオーディオ装置が欲しいと言っていた社員のサイトーシンイチ君にやってしまった。
聴く機械がなくてもCDは増える。CDが増えても聴く機械はない。"BOSE"のペイジへ行くと、卓上へ置く型の最も小さいものが2営業日で配達されるとある。CDプレイヤーのない生活を1年ちかくも送りながら「あした頼んだら到着は連休明けになってしまうのか」と心が騒ぐ。
栃木県最北端の渓流で釣ったという岩魚を午後、生け花のカワムラコーセン先生から戴く。岩魚たちは予期しない絶命に、みなキョトンとした顔をしている。終業後に居間へ戻りつつ玄関の物入れから朝鮮の器を取り出す。食中、その器の酒に沈められた岩魚は水泳の選手よりも美しい。
夜10時をすぎて事務室へ降りる。これほど遅い時間に仕事場の扉を開けることは珍しい。ふたたび"BOSE"のペイジへ行って当該商品の注文ボタンをクリックする。商品は3日後に到着するという。
今年の新入社員は4人いる。その4人の初給料日はきのうだった。家族の誰それにこれこれのものを買ってやるのだと言って「それじゃあなた、自分の使う分が残らないでしょ」と家内を驚かせる者や、家族全員を焼肉屋に招待するという者まで、すべての社員は僕よりもよほど優れている。
僕が初めて給料をもらった夕刻には三田の寺町から銀座の博品館までバスに乗り、当時はいまだ木造三階建てだった5丁目の「鳥ぎん」でビールを飲んだ。初めてボーナスをもらった夕刻にはやはり5丁目の、今は無きおでん屋「三平」でビールを飲んだ。あの頃はビールばかりを飲んでいた。
店舗駐車場の植え込みで一週間ほど前に採取されたモリーユは、その後おばあちゃんの部屋のヴェランダに干した。モリーユには毒があるから十分に茹でて汁は捨てろ、そして更に熱を加えろ、そうすれば毒は消えるとキノコの図鑑にはあった。
よって家内がその通りに調理したところ、毒抜きが過ぎたのかキノコの香りはどこかへ飛んでしまった。モリーユの毒とは一体、人間にどのような症状をもたらすものなのか。ネパールで牛糞に生えるマッシュルーム、あれも毒といえば毒である。それを食うと人はどうなるのか、図鑑にはそこまで書いて欲しいと思う。
携帯電話の発するはなはだ風変わりな音に「あぁ、こんな時間にも、ウェブショップにご注文をくだるお客様がいらっしゃる」と感謝をしながら起床する。このところの朝5時は既にして明るく、仏壇に水やお茶や花を供えるために照明のスイッチを入れる必要はなくなった。
コンピュータは使えてもテレビ番組の録画はできない。飲み屋の客の与太話は理解できても酒の席に当方の顔を認めて不意に近づき滔々と自説を述べる議員の言葉は腑に落ちない。兼好の随筆は読めても電子機器のマニュアルは活字ばかりが目の前で空転する。これらはみな僕について回る学習障害である。
そういう次第にて新しい"NOKIA"については着信音の設定もままならなず、このことを先日"Computer Lib"で開陳すると、横にいたマハルジャンさんは「ちょっと貸してください」と小さな携帯電話を取り上げ、ボタンを何回か押して「音の設定はここです」と言う。その場所は、僕がマニュアルと首っ引きで探し回った階層とはひどくかけ離れたところにあった。
「人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を、会社に籠りて仕事すわれは」といえばなにやら嘆息の響きを感じさせるが、当方は連休のさなかにも、むしろ喜んで業務に当たっている。店舗はきのうから来月の5日まで閉店時間を1時間延ばし、夕刻の6時30分まで営業をする。
昼にラーメンの「ふじや」へ出かけ熱い味噌ラーメンを食べ終えてから、冷たい方の味噌ラーメンはいつ出すのかと訊くと、気温の高かった昨年と異なり、今年は天気の行方を窺っているところだという。いずれにしても5月になれば間違いなく、またあの上出来の仕事を口の中いっぱいに感じることができるだろう。
子供のころ、晩飯の食卓に平貝の刺身が上がると、これをおかずにメシを食べながら大して有り難くもない気分だった。ところがいつの間にか、鮨屋や飲み屋の品書きにこれを見るたび、注文せずにはいられないようになった。
ふと思い立って「ホトトギス季寄せ」を開くと、そのどこにも平貝の文字は見あたらない。「俳人たちは長くこれを食べずに来てしまったのだろうか、まさかそんなこともねぇだろう、あの中には万太郎もいたことだし」と思う。
「あしたの入学式では正門の前で写真を撮ってやる、デジカメなんか使わないよ、フィルムで撮る」と次男に言った写真が焼き上がってきたときには「どうしてこんなに対象から離れたのか」と疑問だった。しかしよくよく見れば人物のうしろにはルソーの描きそうな木々があり、だから「オレはあのとき、これらも含めた風景を写したかったのかも知れない」と気づく。
「人が行動をするとき、脳にはかならずその行動を命ずる言葉が働いている」という意見があるが、僕が写真を撮るとき、頭のなかに言葉はない。パッと見てサッとシャッターを押すだけのことだ。
ところでこの、今月11日に撮った写真の評判があちらこちらで良い。ある親類によれば、老いていい加減ガタのきた目で見る限り、写真はカラーよりも白黒の方が明晰に認識できるのだという。
しかしここで「さすがはズミクロンの威力」と鼻の穴をふくらませてはいけない。50年前のズイコーでも、この程度の写真は撮れるのである。
岩崎の屋敷の裏を歩きながら根津までは徒歩で行こうか地下鉄で行こうかと考え、結局は無縁坂ではなく切通坂を下って天神下に至る。湯島から地下鉄千代田線で一駅すすめば根津のはずなのに、着いたところは新御茶ノ水だった。「行き先を間違えたか」と向かい側のプラットフォームで反対方向への車両に乗り、数分後に根津へ至る。
「鷹匠」のいなか蕎麦は、女の腕で打ったとは信じがたい強力なもので、その太さともっちりさからして到底、軽くすすり込めるものではない。蕎麦を食べることに慣れない白人のような手つきでそれを口へたぐり入れ、もぐもぐと噛む。これが美味いか不味いかといえばそれは美味い。ポタージュのように濃い蕎麦湯も美味い。蕎麦つゆが切れて後は卓上の醤油で味を足し、更に飲む。
9時からほぼ夕刻まで神保町の"Computer Lib"にいる。ウェブショップのお客様が、この部分でこういう手違いをされたときには、これこれのエラーメッセージを出す、という設定は、通常のお取引をされている限り目に見えないところのもので、たとえて言えば"Hermes"のスカーフを裏地としたコートを"Burberry"に特注するようなものである。
きのう不要不急の本を買ったためすっかり重くなったザックを背負い、7時前に帰宅する。
ウェブショップの決済システム変更の仕事をしていた"Computer Lib"の長い階段を、夕刻5時に長男が上がってくる。
雨が降ったり止んだりの神保町から都営三田線に乗り、日比谷へ出る。この3日のあいだ"Festival du fruit de mer"を企画中の"BRASSERIE AUX AMIS"では、お運びの男の人が銀盆に新鮮な魚介の数々を載せ、席まで見せに来てくれた。
"Les Entrees"が十数種、"Les plats"も同じく十数種というプリフィクスのメニュから特定の組み合わせを選ぶ確率は200分の1ほどになるだろう。ところがここで長男は僕とまったく同じ選択をした。僕と長男の嗜好の合致について、家内は常々「そこまで似れば満足でしょ」と言う。ふたりで同じものを食べるのも芸がないため、僕の方がオーダーを変える。
5種のデザートの中から選んだものも同じくタルトタタンで、しかしここでは僕も譲れないから二人してこれを食べる。食後の酒だけは僕がマール、長男はアルマニャックと別れてバツの悪い思いをせずに済む。
有楽町の「ビックカメラ」で"Kodak Professional BW400CN"を買い、銀座の「菊水」でハバナ産の葉巻1本を買う。僕は1年に4本の葉巻を吸う。人の吐き出す煙は嫌いだが、自分の口からポッカリ出て顔の周りに漂っている煙についてはその限りでない。
神保町の「さかいやモンベルルーム」で買ったばかりの、一面に反射模様のある傘をさして8時30分に甘木庵へ帰着する。
20年ほども前、山の専門家とでも呼ぶべき人にジョウケンボウというキノコをもらった。この、大人の両手に乗るほどの株を3つ煮て一気に食べると気分が悪くなった。その気分の悪さとは、空腹に濃い緑茶を何杯も飲んだときとか、あるいはしばらく禁煙したのち立て続けに煙草を吸ったときのそれと似ていた。
「すべてのキノコには毒がある」と言う人がいる。僕のオヤジはそれを信じてキノコは食べなかった。
今朝、包装係のサイトーヨシコさんが店舗駐車場の草むしりをしていてモリーユを発見した。フランス料理屋のメニュに「なんとかかんとかモリーユソース」という文字を見ることがある。
このモリーユにも実は毒がある。茹でてゆで汁は捨てる、更に熱を通せば人体への影響はなくなる、干すことにより風味が増すと、キノコの図鑑にはある。よってこのモリーユを家内に手渡し、とりあえずは風通しの良い日陰で干すよう頼む。
熱を通せば毒は消えるといくら図鑑にあっても、自分はこれは食べないと家内は言う。このモリーユのクリームソースでスパゲティを、あるいは鶏のブルゴーニュ風を食べようと、僕は考えている。
先日の本酒会に使った食器を台所のザルから棚へ収めるため午前に隠居を訪ねると、しだれ桜だけがいまだ満開の花を付けていた。家内は昼に小鯛の手鞠鮨を作り、友人たちと花見をするため隠居へ行った。
モトローラの携帯電話"M1000"が一昨日、息の根を止めた。僅々14ヶ月の命だった。"M1000"はスタイラスペンで操作をする方式だったため、ディスプレイが真っ暗では何もできない。
よって本日は"docomo shop"へ行き、"NM705i"に機種変更をする。これにより携帯メイルのアドレスの末尾は"mopera.net"から"docomo.ne.jp"に戻ることとなった。"docomo"のアドレスは14ヶ月のあいだ、お金を払って維持してきた。電話帳の中身は"docomo shop"の人の努力により、何とか新しい携帯電話に移し替えることができた。
"M1000"は169グラムもあって尻のポケットに入れるとズボンがずり下がったが、今度のノキアはその半分ほどの重さのため、シャツの胸ポケットに入れても肩は凝らない。
ちらし鮨の酢飯を食べるのは野暮だと内田百閒が言ったという。「しかし先生、それではいかにも勿体なくはないですか」と訊かれた百鬼園は「だから酢飯は後ほど人に隠れて食べる」と答えたらしい。しかしちらし鮨というものは、そこにちりばめられた魚や野菜や卵焼きよりも、実はそれらの味や香りをあつめたメシの方がよほど美味いのではないか。
というわけで初更は鮒鮨の、鮒を食べ尽くした後の米を肴に焼酎を飲み、カレーライスにて閉める。
自分の好きな食べ物の随一は胡麻である、というようなことを色川武大がどこかに書いているのを読んで、僕は少なからず違和感を覚えた。小さな粒を噛みつぶすと芳香を発するという点において、僕の中では胡麻は食べ物よりも香辛料の色彩が強い。
もっともそういう僕が、いちばん好きな食べ物は何かを訊かれたらキクラゲと答える予感があり、しかしキクラゲは味も香りもほとんど無いものだから、僕にその質問をした人はやはり違和感を持つかも知れない。
旧今市市の中心部、現在は足利銀行の駐車場になっている場所にむかし「大沢家」という中華料理屋があった。東京から100キロを隔たった田舎町、時代はいまだ1960年代だったにもかかわらず香港から料理人を呼ぶような先進的な経営をし、「大沢家」は他の追随を許さなかった。「大沢家」はやがて二宮神社の少し先に「らんめん」という支店を開業し、僕は子供のころ、ここのキクラゲラーメンが大好きだった。
山下洋輔による1970年代の文章には、石の家でムースーローを食べたとの記述が頻繁に見られる。「石の家」とは当時、新宿西口にあった中華料理屋で、いまも場所を変えて同じ新宿に存在する。
山下の本を読む前から僕も「石の家」は好きで、よく行っていた。普段は湯麺くらいしか食べないこの店である日、ムースーローとライスと野菜スープを注文した。そしてカウンターに運ばれたこれら3品の量を見て仰天した。ムースーローは幾人かで取り分けるほどの量があり、ライスはどんぶりに山盛り、野菜スープはラーメンの器になみなみと盛り上がっていた。
食べ物を残すのはイヤだから無理をしてこれらすべてを胃に収め、腹がふくれすぎると人間は直立歩行ができなくなることを知った。
何はともあれムースーローは僕の大好物である。というわけで初更、これを以て1杯のメシを食べ、飲酒は避ける。
老いた侠客がスッと番傘を突き出す。高橋英樹扮する若き侠客はその先端を掴んでクルリと一回転させ、握った柄を引くとその傘がパッと開く。場面が変わると降りしきる雨の中、開いた番傘を斜め前に構えたその侠客が、からげた裾を左手で握り土手の上を走っていく。やがて彼は息をはずませ敵の本拠へ乗り込み、積年の恨みを晴らすための啖呵を切る。ここで池袋文芸地下の観客はやんやの喝采を送った。監督は鈴木清順、映画の題名は忘れた。
この一連の場面を思い出させるような、様式美に満ちた写真を撮ることができたのは今月13日、当番町大谷向町が日光街道へ屋台を引き出してきたときのことだ。紫の着物に金の帯というお揃いを着た男女ふたりが番傘をさして手前に大きくいる。奥には方向を転じようとしている花屋台が小さく見える。
これをこの日記に載せようとしたところ、そんなに大きく人の写っている写真を不特定多数の見るウェブに上げることは避けるべきと家内に言われ、キャビネ版2枚をプリントするに留めてデータは捨てた。
春の例大祭は、金棒曳きの子供の傘を脱がせる儀式を以て完了する。僕はこの傘抜きに招待をされ、夕刻に会場の「ブライダルパレスあさの」へ行く。写真に写った女の人は金棒曳きのお母さんと分かったため、2枚ともこの人に手渡す。男の人からはその後、お酌と共に丁重に礼を言われた。
会は傘抜きに始まり、手締めでお開きとなった。手締めをした若衆頭のコンナイゼンシロー君は僕の同級生である。コンナイ君は真面目な人だから、7月の八坂祭も見事に仕切ってくれることと思う。
朝、事務室の大机に日本経済新聞を広げると、第40面に「辻清明氏を悼む」という記事が見えた。読み進むと最後のところに「実りの多い陶芸家人生を支えたのは、物おじしない晴れやかな精神である」という一節があり、物おじしない晴れやかな精神といえば、これは次男の数少ない美質のひとつではないか、と思い至る。
そこで「これを切り抜いて、寮へ送って励ましてやろう」と考え、「しかしマンガしか読まねぇ人間に、この文章は無理か」と足踏みをする。
1ヶ月に8回の断酒ノルマを、先月は9回もこなした。よって余剰の1回分は今月に繰り越される。とはいえ今週は4日続けて飲酒を為したため、きのうは断酒をしようと朝から決めていた。ところが初更の居間にはピッツァやスパゲティが運ばれ、となればワインを飲まないわけにはいかない。
そういうわけで今夜は何が何でも酒を抜こうと身構えていると、晩飯のおかずはメバルの煮付けに山菜の天ぷらだった。これでメシを食うバカがあるかと思うが明日は宴会の予定がある。
夜になれば飲酒をしなくても眠くなるのは僕の数少ない美質にて、9時すぎに就寝する。
Yahoo!ショッピングの売り上げランキング上位の店を集めた取り寄せの本を作るとのことで、取材の申し込みが入る。担当者は瑞夏という名の女性で、その上に位置するひと文字の名字からすると、中国系の人なのだろう。「瑞々しい夏、か、いい感じじゃねぇか」と思う。
来香という名前の読みはライカで父親の職業はカメラマン、という2歳の女の子を識ったのは、10年ほども前のことだ。「日が落ちたらイエライシャンとは、ちと色っぽすぎやしねぇか」とそのときには感じたが、もう10年もすれば戦前の山口淑子のようないい女になってしまうかも知れない。
「ラジオからチェンミンの二胡が聞こえてくるような屋台で白酒が飲みてぇな」と思う。「テレサテンの何日君再来も悪くねぇけどさ」とも思う。
新入社員歓迎会は、入社日から時を経ず行うべきと考えていたが、諸般の事情により今日になってしまった。
終業後にとんかつの「あづま」へ集合する。あらかじめ社内で予約を取り、きのうのうちに電話で頼んでおいた各自のメニュが入れ込みに次々と運ばれる。メタボリック症候群を気にしてチキンカツを選んだふたりには「男ならロースにしろよ」と言うくせに、僕は串かつにて焼酎のお湯割りを飲む。
普段であれば飲酒の後に運動などはしないけれど本日は特別にて、食後はトーヨーボウルへと流れ、社員たちと2ゲームをこなす。 結果は最下位でもなく、昨年入社のサカヌシノリアキ君にも勝てて良かった。
始業前に会社の周囲を見回っていて、隠居の染井吉野の花びらが、いよいよ散り始めたことを知る。散り始めとは最高潮から紙一重を過ぎたところにて、つまりは"faisantage"も十分ということである。
夜6時30分より本酒会各位の協力を得て、隠居に聞き酒の場を設営する。自宅4階からは甍の陰になりうかがうことのできなかったしだれ桜は、どうやら今週が見納めのようだ。
7時すぎに鰻の「魚登久」から仕出しが届く。大人数の食事には、店主のアルガテルジ君はいつも、肝吸いを温めるためのガスコンロを添えてくれる。明朝、東照宮の弥生祭へ赤飯を届けるフジワラヒサアキ会員は、今夜は徹夜の仕事というが、いまは薄暗い庭の片隅で、その肝吸いを温めてくれている。
本酒会では始めにくじ引きがあり、「あなたは今夜、何番目のお酒を持ち帰ってよろしい」という権利を得ることができる。幸いなことに僕は3番目の「斎彌酒造店製造35番生酒原酒大吟醸」を引き当てた。
しかし今夜のメンバー14名は一升瓶5本、四合瓶1本の計9,720CCを飲み干し、僕は手ぶらで9時すぎに帰宅する。
子供の成長を間近に見ることができないから、子供を寄宿舎へ入れることはしたくないと言った人がいた。僕はその意見に与しない。
子供の成長は春の筍のように早いけれども、共に生活をしていればその変化も目につきづらい。ゴッホによる紺色の線が黄色い花瓶を引き立たせるように、たまにしか会えないという制約が子供の成長をより明確に感じさせてくれることを、僕は自分の経験から知っている。
自由学園の男子部では、入学したときに自分の机はない。きのうは終日、最初の授業として机作りが行われたはずだ。
室長に言われて書いたのだろう、次男からハガキが届いた。「メシが美味くて安心しました」「これからが楽しみです」「いろいろとがんばります」と、その内容は他愛のないものだったが、これからが楽しみなのは親も同様である。
隠居の桜が随分と開いてきた。山桜はつぼみの紅みを薄れさせて正に桜色となり、染井吉野は淡く白い。始業前に販売係のサカヌシノリアキ君が、店舗軒下に張った縄に幣束を下げてくれる。
春の例大祭に出席をするため、長男の卒業式や次男の入学式のときとおなじ服を着て、朝8時45分に瀧尾神社へ行く。9時に手と口を清め昇殿し、この神社としては最も長い祭祀に参加をする。旧今市市の旧市街に御輿を巡行させる一行が神社を出発したのは10時20分だった。
来賓と責任役員、当番町の接待係は社務所へ移動し、ここで直会となる。日本のお祭りに日本のお酒は欠かせない。しかしいまだ午前中であることを考慮し、お酒はコップではなく猪口でいただく。
今年の新入社員は販売係、事務係にかかわらず、はじめの1ヶ月は店舗で販売に就くこととした。終業後のミーティングではそれらの人たちに、今月21日より、いよいよ各持ち場で力を出してくれるよう伝える。
夕刻5時すぎ、会津西街道を、鬼怒川方面から日光街道まで遡上してきた当番町大谷向町の屋台が、春日町交差点で右へ回頭し、瀧尾神社を目指す。地面は濡れているが傘を差すほどの降りではない。屋台には、金棒曳きの子供3人が膝を揃えて乗っている。お囃子の音がにわかに高くなる。
大谷向町は旧市内においては神社から最遠の町内だから、屋台を巡航させるにはそれなりの苦労が伴う。しかし大谷向町は組織のしっかりした町内である。夏の八坂祭も、つつがなく運営してくれることと思う。
次男は東天寮で朝5時30分に起床する。心情として、親である当方がその時間に寝ているわけにはいかない。4時に起床して事務室へ降り、あれやこれやする。
午後3時という約束の20分前に春日町1丁目公民館へ行く。瀧尾神社の春の例大祭に備えて町内に縄を張る仕事には、役員と組長が労力を提供することになっているが、その半分も出てこない。回覧板が効いていないのだろうか。
少ない人数にて日光街道沿いに縄を張り、その後は公民館にて、月曜日の朝からこの縄に下げる幣束の数を数える。幣束を各組の戸数に合わせて地区長宅へ届ける仕事は明朝に行うこととする。
いまある材料だけで作った晩飯が、料理屋で食べるメシよりもよほど美味い。ついワインを飲み過ぎ、最後のイチゴを納める隙が腹になくなる。
夜半あるいは明け方に雨の上がったらしい濡れたアスファルトを踏んで本郷三丁目の駅へ向かう。ひばりヶ丘で雨が降っていたら困るな、とは思ったが傘は持たない。
きのう次男に言ったとおり、自由学園の正門前に長男と次男を並べて写真を撮る。ISO400で露出計の値はシャッター速度125分の1、絞り5.6だから光の量は少ない。
9時30分より入学式が始まる。礼拝があり、学園長の歓迎の言葉があり、新入生の中から選ばれた3名が壇上へ上がって校旗に88番目の星をピンで留める。彼らはこの学校ができて以来88番目の新入生である。やがて彼らはウィンドオーケストラによる賛美歌380番に送られて記念講堂を後にし、入学式は無事に終了した。
外へ出ると空は晴れ渡り、色とりどりの花が目にまぶしい。在学生母の手になる新入生父母歓迎会の昼食を女子部食堂でいただき、引き続き記念ホールでの新入生父母の自己紹介に参加をする。
午後2時15分からは東天寮へ移動して入舎式となる。高等科3年生の寮長による礼拝があり、寮の係を務める生徒、また職員の方々の自己紹介がある。ことしの高等科3年生は、長男が高等科3年生のときの新入生だった。そのような関係から、この入舎式には長男も顔を出した。
次男の室長は高等科3年生のツヅキ君が務めてくれる。長男は高等科3年生のとき、このツヅキ君の新入生部屋の室長を務めた。僕が高等科1年生のときには、ツヅキ君のお父さんが室長を務めてくれた数ヶ月があった。先月20日の日記と同じく、これまた歴史は巡る、である。
新入生はこれから、生活上の仕事や学校での仕事と勉強に加え、初夏に行われる登山へ向けての体力作りを始める。寮生活における苦労と楽しさはそれぞれ何割ずつか、そのような計算はできるものではないが、新しい友達や上級生たちと切磋琢磨の日々を送って欲しい。
「あしたの入学式では正門の前で写真を撮ってやる、デジカメなんか使わないよ、フィルムで撮る」と言うと次男は「ありがとう」と礼を言う。「今夜はフランス料理だ」と言っても次男は「ありがとう」と礼を言う。
銀塩写真を撮るのは僕の趣味で、フランス料理を食べるのは僕がワインを飲みたいためだ。しかしながらそういうひとつひとつはすべて自分のために行われていると解釈してしまうところが次男の美質である。
夕刻、九段下の"LE PETIT TONNEAU"へ行く。本郷から徒歩で向かうと言っていた長男は雨のため地下鉄で来た。親子4人で食事をして8時30分に甘木庵へ帰着する。
このところなにかと気ぜわしい。それは仕事、私事、公のことが脳の中に絡まり合っているためで、これを整理できないのは自分の責任である。
社内における先日のミーティングにおいても、つい数日前にみずから言ったことを直ぐには思い出せない僕を見て、販売係のトチギチカさんがわらった。製造係のフクダナオブミさんは「頭ん中に色んなことが詰まり過ぎてんでしょう、オレなんかカラッポだから、まだまだナンボでも入りますよ」と言った。
詰まり過ぎの頭とカラッポの頭をくらべてみれば、これは皮肉でも冗談でもない、後者の方がよほど高級である。
そういう次第だからおなじ時間に重複して用事を入れてしまう誤りもこのところは多く、今日の昼までは次男とゆっくりする予定でいたが、午前中に入れた商談の予定を思い出し、北千住駅7:40発の下り特急スペーシアで帰社する。
入寮を前に家での晩飯は今夜が最後、という次男の希望によるカレー南蛮鍋にて泡盛と芋焼酎を飲み、食後の甘みにはウイスキーを合わせる。
「肉の中ではブタが一番好き」とは次男が常々言っていたことだ。自由学園で育てた豚を屠殺場へ送るとき、肉にして納品する際には背脂と足と腎臓も付けて欲しいと業者に頼んだ長男ももちろん、豚肉は好きである。僕はといえば、ラーメン屋がスープを取る際の、むせかえるような豚の匂いにうっとりするたぐいの人間だ。
よって下今市駅15:04発の上り特急スペーシアに次男と乗り、長男とは表参道のスパイラルホールで待ち合わせてフランス料理の"LAUBURU"へ行く。
傘を差さなくても済むほどの雨が強風によりスプレーのように道路やビルを濡らす。夕刻の窓の明かりや自動車のヘッドライトが、その濡れたビルやアスファルトに照り映えて南青山の街はとても美しい。「新緑も、そう先のことではないなぁ」と感じながら高樹町ちかくの路地へと入っていく。
行く先が料理屋でも飲み屋でもバーでも、僕はいまだ客のいない開店直後に入るのが好きだ。長男とシェリーを飲みながら、次男も含めて黒板のメニュを検分する。
長男はエスカルゴにアンドゥイエットの鉄板焼きを選んだ。次男はハムと野菜のスープに豚頬肉とジャガイモのグラタンを選んだ。ワインは長男に決めてもらう。
アンドゥイエットと豚足のパン粉焼きをそれぞれ片付けた長男と僕はふたたびアントレに戻り、それぞれ豚のパテとホワイトアスパラガスを注文する。長男のパテの皿にはブーダンノワールのぶつ切り3個がおまけで乗っている。お運びのおねーさんは次男もホワイトアスパラガスが食べられるよう、熱くした皿を余分にくれた。
長男はガトーバスク、次男はバニラアイスクリームと来て食後酒を所望すると、おにーさんは「まだいろいろあります」と、6本の酒瓶を我々のテーブルに立てた。ここから長男はカルヴァドスを抜き取り、僕はマールを指す。家内がいれば賑やかだが親子3人のメシも悪くはない。
骨董通りから青山通りへと抜ける道の桜は、雨と強風にその花弁のほとんどを散らしていた。「まだ飲みたりねぇ気分だ、湯島でバーに寄ろうかな」と言うと「エスト?」と長男が訊く。「あれだけ飲んでまだ飲むの?」と次男が言う。しかしいざ湯島に達してみれば、酔いは思いのほか回ったようだから、そのままおとなしく切通坂を上がる。
9時すぎに甘木庵へ帰着し、入浴して11時に就寝する。
先月22日に子供のためのバーベキュー大会を開いてくれたイチモトケンイチさんが、小学校の始業式を明日に控えた本日も、おなじくバーベキューを催してくれた。
バーベキューといえば自宅の芝生にアメリカ製の道具を持ち出してのそれや、アウトドア雑誌に紹介されているような、"Coleman"のバーナーやダッチオーヴンを河川敷などにズラリと並べたものが先ずは思い出される。しかしイチモトさんは「そういうのは面白くねぇじゃん」と言う。僕も、その意味するところはよく分かる。
午後1時にイチモトサイクルへ行った次男が夕刻、何時に帰るべきかと電話をよこす。その奥で「そんなことは自分で決めろ」と、イチモトさんが大きな声で言っている。ドラム缶をふたつに割った炉を囲み、自転車置き場のひさしで雨をよけながら次男は今、夢のような時を過ごしているに違いない。
7時すぎにホンダフィットでイチモトサイクルに達すると、いまや肉も野菜も食べつくし、子供たちは薄暗がりで玉子を焼いていた。イチモトさんに礼を言い、参加者にはまとめてさよならのあいさつをして帰路につく。
先日、飲み屋の「和光」で本酒会のイシモトヒトシ会員は「桜はまだ咲いてますかねぇ」と言った。このあたりはいまだ梅も散ってはいず、だから「桜はいまだ咲いているだろうか」とは未来進行形を疑問文とした独り言、と説明するとひどくややこしい。
イシモト会員の独白を解説すれば「今月16日にウワサワの隠居で開く予定の飲み会では、いまだ桜を見ることができるだろうか」ということになる。
そのことを思い出して今朝、隠居の方角を臨むと、染井吉野、しだれ、山桜の3本のうち山桜だけはずいぶんとそのつぼみを紅くしている。このところの気温は乱高下を繰り返しているが、暖かい日が2日も続けばそのまま開花してしまいそうだし、氷雨でも降ればとにかくそのあいだだけはつぼみも固いだろう。
「満開のときに嵐は来るだろうか、しかし、それは避けて欲しい」と思う。
「暑さ寒さも彼岸まで」とは、旧暦のころからあった言葉だろうか。ことしの3月20日は旧暦の2月13日、おなじく9月23日は旧暦の8月24日ということを考えれば、体感的には新暦以降のもののように思われる。
それはさておき本日の東京は初夏の気温と、テレビの天気予報が伝えている。数日前に雪の降ったことを考えれば、いまどきの気候の変化は、まるでジェットコースターに乗っているような塩梅だ。
店舗前には、いっこうに衰える気配もなかったため、正月以来の千両の鉢があった。これを森友地区のユミテマサミさんが来て赤、黄、ピンクのベゴニアに換える。ユミテさんの花は質が良いから、これまた数ヶ月は保ってしまうかも知れない。
「カメラは知的な遊びなのだ。」 田中長徳著 アスキー新書 \980
の残りペイジがわずかになったため
も自転車のかごに入れて夕刻あるいは夜6時30分の日光街道を下る。
飲み屋の「和光」の戸を開けると、いつもは常連で埋まっているカウンターに今夜はひとりしか客がいず、それは本酒会のイシモトヒトシ会員だったため隣に座る。
僕が子供のころ、低俗番組の誉れも高かったのがトニー谷の司会による「アベック歌合戦」だった。日劇ミュージックホールのダンサーが猿飛小助を抱いて滑り台から舞台に降り立つと、トニーが拍子木を叩きながらふたりのなれそめを訊き始める。ゲストのふたりはツイストを踊りながらその質問に答え、やがて賞金をかけて歌を歌う。これが、ある日のこの番組の一風景である。
あれほどキッチュでアナーキーな映像にはそうお目にかかれるものではないと今でも思うけれど、このときのトニー谷には、僕は大して面白さを感じていなかった。
しかしその20年後、景山民夫が構成を手がけたテレビ番組で、僕は谷の才能に仰天することになる。このときの仕事については景山もよほど感慨が深かったらしく、後に「トニー谷のディナージャケット」という文章を書くに至る。
とにかくまぁ、そういう興味深い芸人の評伝は閉じたままイシモト会員と2時間ほども歓談を為し、9時前に帰宅する。
きのう届いた自由学園の制服を着て、次男は朝のうちに「ミヤギ写真館」へ行った。それを身につけただけで、入学もしないうちから早くもその組織の一員に見えるのだから、制服とは不思議なものである。
写真を撮り終えて後はそのまま僕と長男との3人で、老人介護施設「森の家」を訪ねる。
おばあちゃんを含め4人で談笑しながら、おばあちゃんは次男よりも86歳年長であると僕が言うと、だったらおばあちゃんは鴎外が「妄想」を書いた年に生まれ、また漱石が「道草」を発表したときには既にして小学生だったと、長男が計算をする。
100年ちかくを生きていれば、人はタイムマシンに乗っていると同じく時空を旅している。おばあちゃんを見ていれば江戸もそう遠いものではないというのが、僕と長男との共通の感想だった。
午後、羽仁吉一の「我が愛する生活」を、長男はお祝いとして次男に手渡した。「だったら読んでみる」と次男はそれをサックから抜き出し、開き、そしてすぐに閉じてサックへと戻した。古い文章に触れた経験がなければ、大人でもこれを読み通すことは難しい。しかし一読すればその内容の新しさ、あるいは普遍性に驚くこと必定である。
次男のお祝いにメシをごちそうしてくれるとオフクロが言うので、夜はイタリア料理の"La Verde"へ行く。夕刻の空腹に堪えられず"Chez Akabane"のチーズケーキを食べてしまった僕だけはコースを取らず、サラダとパスタのみで軽く済ます。
きのうの雪によって、日光の山々はふたたび冬の外貌を取り戻した。そういう景色を見ながら階下へ降り、外へ出ると空を突っ切り飛ぶものがある。店舗のひさしに吸い込まれ、また勢いよく飛び出していく黒いものをしげしげと見れば、それはツバメだった。
ことしツバメの姿を目にしたのは今日が初めてのことだ。降雪のきのう、彼らは一体どこで過ごしていたのだろう。暖かいところを選んで往還する彼らが、僕は心底うらやましい。
桜前線を追うようにして競輪場を旅する人がいる。僕もツバメと共に旅をしたい気分である。
年度替わりに特有の仕事があるため早朝から事務室へ降りる。6時30分に、新聞を取るためシャッターを上げると雪が降っている。「4月に雪かよ」という言葉を思わず飲み込んだが、桜の花に雪の積もった1969年のことを考えれば、そう驚くことでもないのかも知れない。
いったんやんだ雪は朝食のころに息を吹き返し、一時は激しく舞う牡丹雪にあたりの景色のかすむこともあった。
朝のテレビの天気予報どおり、昼からは晴れ間が見え始める。本日以降は暖かくなる一途ではないだろうか。
いつもの年よりもずっと忙しかった3月が終わり、しかし4月もかなりの繁忙になりそうな雲行きである。