4時前に目を覚まして洗面所へ行き窓を開けると、直線距離にして8、9キロ北の霧降高原にある「メルモンテ日光」、いや現在は「東京大江戸温泉」の明かりが見える。しかしその高原の更に先にあるはずの日光連山は雲にでも覆われているのか模糊として曖昧である。
寝室へ戻って「私の岩波物語」を開く。面白い本の残りペイジが充分にあるときの気分は、上出来のパスタを目の前にてんこ盛りされたときのそれと同じである。30年前未来学者を名乗って売れに売れた坂本二郎について長く語ったところを今朝はこの本に読み、懐旧の念を覚える。坂本は一時期、同級生の身元引受人だった。
雲に覆われた空も日の出のころになればすっかり晴れ渡るのがここ数日の天気にて、夜半の雨の残った地面が空の青さを映す様を眺めながら熱いお茶を飲む。
秋田県能代市の酒蔵「喜久水酒造」の濁り酒「一時」は宮中晩餐会の食前酒にしても恥ずかしくない酒と、書記を務める利き酒会「本酒会」の会報にはこれまでさんざん書いた。
僕に韓国朝鮮人の友人はいないが、もしいたならぜひこのお酒を飲ませて上げたい。僕にフランス人の友人はいないが、もしいたならぜひこのお酒を飲ませて上げたい。「一時」は極上のマッコリにも、また極上のシャンペンにも肩を並べることのできるお酒で、しかし一般の市場には出回らないから知る人は少ない。
第173回目の本酒会に出席をするため、夜7時30分に鰻の「魚登久」へ行く。1本目の「一時」は能代市の天洋酒店が冷蔵庫に保管をしていたもので、同店のアサノサダヒロさんが「よろしければお送りしますよ」と言ってくれたため、この季節はずれにも飲むことができる。
「一時」の開け手は長くコバヤシハルオ会員が務め、その後はイチモトケンイチ会長がこれを引き受けてきたが、今夜はヤマコシシンヤ会員が初めてその任を与えられた。結果から言えば不慣れなヤマコシ会員はこの活発な酒を暴発させ、「魚登久」の壁や障子をしとどに濡らした。
天井まで噴き出してしまう危険を常にはらんでいる点、一気に飲んでしまわなければ気の抜けてしまう点、このふたつの困ったところを解決しさえすれば「一時」は常に優れた飲み物である。今夜の「一時」もしごく美味かったことは言うまでもない。
便箋に青いフェルトペンで「今度の故障は」と書き出したところで「文通じゃあるめぇし」と、自分でもおかしくなる。
ゴムグリップの剥離とCCDのゴミの問題から今月4日に銀座のサービスセンターへ持ち込み、その2日後に返送されてきた修理済みの"RICOH GR DIGITAL"が、今度は設定を記憶させておくアジャストダイヤルの利かなくなる不具合を起こすようになった。
前の修理の完了したとき、新たに3ヶ月の保証期間が与えられた。しかしこの保証とは、そのときとおなじ故障にのみ有効なのではないかと疑いリコーに電話をすると、それでも誤った使い方をしていない限り修理は無償でさせていただくとの説明に安心し、夕刻このカメラを送料先方払いにて発送する。
昨年2月に購入以来"RICOH GR DIGITAL"を修理に出すのはこれで4度目になる。ことこのカメラにおいては、リコーはせっかく獲得した粗利総額を、無償修理と、それに伴う往復の送料負担により失い続けているのではないか。すくなくとも僕の"GR DIGITAL"に限っては、リコーは今なお赤字の幅を広げつつある。
"RICOH GR DIGITAL"は、表向きは商業的に成功したカメラといえる。しかしこのカメラがリコーの当座残高をどれだけ増やしたか、ということを考えれば、リコーの商売は決して成功していない。僕と同じ経験を持つ"GRD"のユーザーは、それこそ世界中にゴマンといるのだ。
台風一過により空は晴れ上がり、湿気は去った。
先月19日、保健所が主催した百数十名ほどの研修会で、手の平の菌数を知るためのモルモットに選ばれたことは当日の日記にも書いた。人の手には天文学的多量のバイキンが付着していると参加者を驚かせるところに趣向はあったのだろうが、僕の手に測定器を当てた係は「駄目だ、こんなに少なくちゃサンプルにならねぇ」とぼやいた。
僕の手がなぜそれほど清潔かといえば石けんを用いて頻繁に洗い、またアルコールで消毒をするためだが代償として手が荒れる。自分の手が冬のそれになったことを今月20日に認識し、その2日後からアカギレが切れ始めた。「クリームを塗れば良いではないか」と言われても、クリームを塗った直後にそのクリームを洗い落としてしまうのだから意味はない。
小さなころより薄着で育てられた人間は、重ね着の気味の悪さに耐えられない。よって寒くても最小限の服しか身につけず震えている。それがバイキンであろうとクリームであろうと目に見えない薄い膜が掌を覆っていることに我慢ならない人間は、たとえアカギレが切れてもクリームは塗らない。ウチの会社では販売係のハセガワタツヤ君と僕が、薄着とアカギレの代表である。
今月の日記をざっと見て文章の長すぎることを反省する。日記の文字数を600以内に納めようとして、しかしそれがなかなかできない。
神保町のカレー屋"SHANTI CLUB INDIA"で先日、普段は見ることのないランチ以外のメニュを縦覧したところ、チャナ豆に玉葱のみじん切りをまぶしたサラダを発見した。コーン型に丸めた新聞紙に入れたこれを南インド鉄道の2等自由席でむさぼり食ったことのある僕は懐かしさを覚え、その写真をまじまじと見た。
そして「夜にここへ来れば、これを肴に酒が飲めるな」と考え「いやしかし、酒を飲むなら行きたい店は他にたくさんある」と、カレー屋での飲酒を否定した。僕の嗜好からすると、カレーはどうにも酒とは合わない。
そして今夜はそのカレーライスを食べて飲酒を避ける。これで今月の断酒ノルマはすべて果たした。明日からの4日間は大手を振って飲み放題だ。ちなみに日記はここまでで365文字である。
長男の部屋から物音がするのと僕の目覚めるのと、どちらが先だったかは知らない。「徹夜で勉強してたのか」と、5時前に部屋を出てきた長男に訊くと、本日は羽仁吉一の命日にあたり、6時から雑司ヶ谷の墓前で礼拝があるから早く起きたという。長男の作ったマサラチャイをダイニングキッチンで飲む。長男が甘木庵を出た5時20分の外光は夜のものと変わりなかった。
きのうの日記はきのうのうちにできている。ヒマをもてあますのも勿体なく、外もそろそろ明るくなりかけてきたため、帰り支度をして5時40分に甘木庵を出る。
きのう登った切通坂を天神下まで下り、地下鉄千代田線でとなりの根津に移動する。言問通りを北へ進めば根岸までは2キロほどと記憶していたが、傘の欲しくなるほど雨の降り出した道は20分足らずで山手線の跨線橋に達した。根津を背にして見るこの寛永寺陸橋のたたずまいは、僕にとっての東京八景のうちのひとつだ。
こういうところに出入りをしているとは、あまり人に知られたくない「信濃路」で朝飯を食い、西日暮里、北千住と移動して7:40発の下り特急スペーシアに乗る。
静かな環境でしたい仕事があったため、午後は隠居に避難をする。夕刻に事務室へ戻ると案の定、約束をすることなしに訪ねてきた2社の名刺と資料が僕の机上にはあった。「近くまで参りましたのでお寄りしてみました」という迷惑をなぜするか。そういう営業係を持つ会社を訪ねてみると、果たして自社の入口には「アポ無し営業お断り」というプラスティック板が貼ってあったりする。
夜のテレビのニュースによれば、台風が近づいているという。日光の紅葉はいまだ始まったばかりである。
"Take me out to the ball game"を日本語に訳せばすなわち「私を野球に連れてって」となる。
9月の日光MGにおいて「僕をシンスケに連れてって」と言ったのが「リバーストン」のヨシダゲンゾー社長で、お互いのスケデュールを調整した結果、10月25日の午後4時30分に神保町の"Computer Lib"で待ち合わせることとした。
神保町から湯島天神下の「シンスケ」へ至る経路については「これしかねぇだろ」というものがある。タクシーに乗り靖国通りを小川町で左折、聖橋から湯島坂を下って清水坂下、こんどはその清水坂を一気に上がって湯島天神前、ここでタクシーを降り、湯島天神の境内を右へ進めば正面に男坂で左手に女坂、その女坂を下って突き当たりを左に折れればそこが「シンスケ」で、酒を飲むことは実際にはその随分と以前から始まっているのだ。
「シンスケ」には午後4時59分に到着することを最上とする。風に揺れる柳の下で待つうち店内へ請じ入れられカウンターに席を占める。あとはただ普通に飲み食いをすれば良いだけのことだ。
湯島で飲酒を為すときの先発は「シンスケ」、中継ぎは「池之端藪」で抑えは"EST"。この連携を堅持する限り気分は至極良く、つまらないお金は一切、使わずに済む。
タクシーで新橋方面に向かうヨシダゲンゾー社長および"Computer Lib"の中島マヒマヒ社長とは天神下の交差点で10時10分に別れた。当方は切通坂を上がって10分後に甘木庵へ帰着する。
目覚めて枕頭の携帯電話に手を伸ばし、ディスプレイを点灯させると深夜2時30分だった。そういうときに「まだこんな時間か」とゲンナリするかといえばそのようなことはない。早く目が覚めるということは早起きができないことにくらべればずいぶんと幸運なことである。全396ペイジの中ほどまで差しかかった
を2時間ほど読んで二度寝をする。
平日と週末の売上金額に大きな差を持つのがウチの商売だ。しかし今の時期は紅葉見物の行楽客が多く、平日においてもそうヒマではない。こまごまとした用事は短時間で片付ける要があり、立ち寄る順に列記したメモを持ってホンダフィットで町をめぐる。
「このあたりでいちど酒を抜いておこう」と夕食の席に着けばそこに刺身の皿があり、「タコブツでメシを食う馬鹿があるか」と思うがいちど決めた断酒の計画は、これを貫かないと後が苦しくなる。そして今月の断酒ノルマは残すところあと1回のみとなった。
港区三田の会社に勤めているとき、誰かから品川で酒を飲もうと誘われたら、浜松町よりも東で飲もうと、場所の変更を要請しただろう。三田から品川へ出れば、ねぐらの甘木庵から一時遠ざかることになるからだ。僕は経路の不合理を嫌う。
今夏、客用男子トイレの棚に販売係ハセガワタツヤ君がオーストリッチのハンドバッグを発見した。事務室で確認すると、中には多額の現金と複数枚のクレジットカードが入っていた。ハンドバッグの持ち主は当日夕方に特定され、お客様は翌日午前中に、そのハンドバッグを引き取りにみえた。
今秋、エジプトに日光味噌5キロを送って欲しいとの注文があった。想定されるいくつかの危険についてご依頼主に説明をすると、その危険は自分が引き受けるからとにかく味噌を送れとのことにて、ある金曜日の午前中に商品を今市郵便局へ持ち込んだ。
事務係イリエチヒロさんがウェブ上で追跡するに、荷物は土曜日の1:20に東京国際支店着、そしてカイロには翌日曜日の18:46に到着した。
こういう美しい数式のような合理性を日常に経験できることは、大いなる幸せである。
本日は旧暦9月13日で十三夜のため、おばあちゃんの応接間にお供えを置き、窓を開ける。
午前、店にお客様を乗せてきてくれたタクシーの運転手さんが、今年の日光の紅葉は1週間遅れ、いまちょうど良いのが瀬戸合峡と教えてくれた。僕の駄目なところは多々あるが、そのうちのひとつが名所旧跡への興味のなさで、瀬戸合峡と聞いてもそれがどこにあるのか知らない。
検索エンジンに当たってみると、国土交通省関東地方整備局鬼怒川ダム統合管理事務所のペイジに「瀬戸合峡ライブカメラ」というものが見つかった。この渓谷は川俣ダムの近くということだから、とすれば川治温泉の先にあるのだろう。カメラの映像からは、いまだすこし早い紅葉の様子が見て取れた。
そういえば今朝のテレビニュースで、夏の酷暑のせいか、松茸の生産地のひとつ広島県世羅町では松茸の出荷がひと月遅れで最盛期を迎えているいう話題を流していた。昼と夜との寒暖の差が大きくならないと、松茸も育たないいう。
最盛期とはいえ立派な松茸の値段は1本あたり1万円で、これが1箱ならば5万円。それを見ていた次男が「こういう松茸は、バターと醤油で炒めたら勿体ないね」と言うので「だったら何にすべきか」と訊くと「土瓶蒸しだよ」と答える。
ここで僕はむかしウチに勤めていたコイズミヨシオさんのことを思い出さずにはいられない。コイズミさんによれば、もっとも美味い松茸の食べ方は、山で見つけた松茸をその場で新聞紙にくるみ、落ち葉に入れて蒸し焼きにすることだそうだ.。しかし今の世の中に、そういう贅沢を享受できる人間はほとんどいないだろう。
それはさておき今朝、地ナメコとジャリ茸とモダシの混じったものを人からもらった。僕はこういう茸でも充分に嬉しい。
明け方に「夏彦の影法師」を読み終える。
山本夏彦の随筆に幾度か触れたことのある者ならば、平成19年10月1日発行の新潮文庫版では360ペイジにある、夏彦10歳のときの綴り方「人の一生」を読んで仰天しないわけにはいかない。この人の、人間に対する観察眼やものの考え方から文体も含めたすべては、10歳のときから死ぬまで一環して変わらない。そんな人が、果たして他にいるだろうか。
丸山公園のテニスコートに次男を送り、すぐに帰社して仕事にあたる。本日は店も随分と忙しく、販売の社員ほどではないが、就業時間中のほとんどは店にいた。
「注文して半年経って、やっと届きました」と、きのうニコニコしながら僕に「ペンギン食堂」の「石垣島ラー油」をくれた人がいる。今夜はこのラー油の味を見るため、メシのおかずはワンタンにしてもらった。
ラー油は現在、香港島の「九龍醤園」で購った「百徳食品公司」のものを使っている。同じく香港は九龍城の 「粗菜館」で手に入れたラー油は開封せず、ワイン蔵に取り置いてある。 「ペンギン食堂」の「石垣島ラー油」は胡麻の香り高く、辛さはほとんどなく、しごく穏やかなものだった。
いまだ暗いうちに窓を開けると、日光連山の稜線は闇にくっきりと浮かび上がっているにもかかわらず星は見えなかった。ために「今日は曇りか」と考えたが、朝になってみれば天気は悪くなかった。
下今市駅9:02発の上り特急スペーシアに次男と乗り、自由学園の学校説明会へ行く。6月16日にオープンキャンパス、7月21日から22日にかけては東天寮への宿泊も含む体験学習、そして本日の学校説明会と、今年に入って3度の学校紹介を、僕と次男は受けている。
感心するのはそのつど資料、説明内容、説明方法の更新されていることで、学園側の、広報活動への工夫や努力が強く伺える。説明を聴く側にとっては、あるいは教師によるそれよりも強く印象づけられる生徒の発表は今期の委員長、寮長、広報担当によるもので、自らの日常を語ってよどみないのは、それが実践に裏打ちされたものだからである。
本日は商家や農家が内々に行うお祭り「恵比須講」があるため、そうゆっくりとはしていられない。自由学園の正門を3時10分に出る。そして北千住駅の東武日光線下りプラットフォームに4時5分に達するという芸当により、16:11発の特急スペーシアに乗る。
下今市駅を出たところで、店が定時に閉まらないから迎えには行けないとの電話が家内より入る。よって徒歩で帰宅して次男は自宅へ、僕は即、店に出る。
初更に「恵比須講」の準備が整い、家内と次男と共に商売繁盛をお祈りする。しかる後に,晩飯にありつく。
「夏彦の影法師」が区切りの良いところまで進んだため、いまだ暗かったが起床して事務室に降りる。日中にしようとしていた仕事を明け方に終わらせてしまったら、その後は何をすべきだろうか。
公民館に三々五々集まってきた多くが、その時々の仕事の開始時間まで煙草や立ち話に時を過ごすとき、サイトーヨーイチさんだけはしゃがんで雑草を抜いている。こういう人は、ほんの4、5分もあればひと坪ふた坪ほどは綺麗にしてしまう。ふた坪を50回こなせばすなわち100坪で、これはできそうでいて常人にはなかなかできないことだ。
「だからお前も、ヒマだったら草取りでもしろ」という声が後ろの方から聞こえないでもないが、僕はサイトーヨーイチさんではないからつい、あれこれと非生産的なことに労力をつぎ込み、気づいてみれば夕方も近い。
食品製造会社の者として、年に何回かは保健所の召集する講習会に出席をする。そのような場には料理屋の経営者も来ているから「客に出すものとして、専門業者が販売する以外のキノコを使ってはならない」というような指導も受ける。
続けて「個人としても、人からもらったキノコは食べるな」と言われるわけだが、食感オタクの僕は貝類、内臓類、キノコ類が大好物のため、キノコ採りを趣味とする人からキノコをもらえば、それは喜んで食べてしまう。
今朝の食卓には、そうしていただいたジョウケンボウとモダシの醤油煮に大根おろしが添えてあり、これは恰好の酒肴であると同時にメシの嬉しいおかずでもある。
小学生のころ、同級生の一家がキノコの食中毒によりしばらく寝込んだことがある。その家のあるじは職業的に山の専門家だったが、このような「上手の手から水」を、保健所は懸念するわけである。
20年ほど前に、やはり山を専門とする職業の人にジョウケンボウ3株をもらったことがある。ひと株の大きさはモンキーバナナ1房分ほどもあった。酒と味醂と醤油で薄味に炊いた3株を、僕はこのとき一気に食べた。その直後より、濃い煎茶を飲み過ぎたときのような気分の悪さを覚えたが、それがジョウケンボウによるものかどうかは知らない。
秋という季節は好きでない。しかし様々なキノコを味わうことができる、という点においては、秋もそう悪いものではない。
外神田、外神田、神田神保町と、朝から神田ばかりを回る。
3軒目の"Computer Lib"で「なにか冷たい飲み物、ありますか」と訊くと弊社担当のマハルジャンさんが「水ならあります」と言うので「神田の水は飲みたくねぇなぁ、なにしろオレ、まいんち日光の水、飲んでるから」と返すとマハルジャンさんは外へ出て行き、ペットボトルのお茶を買ってきてくれた。
のどが渇くのは、きのうにくらべていきなり高くなった気温に加えて昼に「シャンティ」のカレーを高速で食べたことも関係しているものと思われる。次から次へと鮨を口へ放り込み飲み込むようにして食べる山本益博の姿をいつかテレビで見て「あんなことをして味の分かるものだろうか」と呆れたことがあった。
しかし対象がこと「シャンティ」のカレーとなると、無理やり口へ突っ込むようにして食べた方が確かに、まったり上品にいくよりはよほど美味いと感じる。
浅草には5時3分に着き、次の下り特急スペーシアには57分も余裕がある。胃袋にはいまだカレーライスが居座っていささか苦しい。「生のウイスキーをパッと飲みてぇ気分だ」と、目星を付けたバーへ向かって隅田川の右岸を上がっていく。そしてそのバーに人の気配はなかった。
言問通りから馬道通りへと出て「神谷バー」へ入り、デンキブランオールドを飲みながら
を読む。
8時前に帰宅して10時前に就寝する。
昨晩、携帯電話のアラームを午前3時30分に設定して寝たところ、それに先んじること40分前の2時50分に目を覚ます。
その30分後に事務室へ降り、暮のギフトシーズンへ向けた、ダイレクトメイルの送付先を特定する。間断なく電話がかかったり、あるいは不意の来客があって気分の乱れがちな日中には、これについての精密な作業はできない。
当方の気分が関係しないよう、いちどこの作業をマクロに組んでみたことがある。しかし事情はなかなか複雑にて、機械まかせにできないところがどうしても出てきてしまう。目視と指先による作業を小一時間で終わらせ、きのうの日記を作成する。
子供のころに映画で見た「王子と乞食」では、屋根裏部屋に帰った乞食の少年が母親に夕食を手渡される場面がもっとも印象に残った。その夕食とはひと碗のスープで、少年はそれを一気に飲み干し、彼の夕餉は数秒で終わった。
牛のすじ肉や横隔膜を、数日前よりトマトや赤ワインで煮込んでもらってきた。火を落としたときの鍋を覗き込めば、すべてはコラーゲンによりまるでゼライスのように固まっている。「乞食の子のメシは数秒で終わったけど、オレはもうちょっと長く食っていてぇなぁ」と、残り2本になった1985年製のブラニーをワイン蔵へ取りに行く。
1985年製の次は1994年製が、その次には1995年製が控えているから、このワインの在庫は当分のあいだ安泰である。
先日オフクロが江戸東京博物館の「文豪夏目漱石そのこころとまなざし」展に行った折のこと、順路の終わりに感想を書く紙とペンの用意があったため、ひととおり記入したが来館日のところではたと当日の日付を思い出せず、右の人に訊ねるとこれが明らかな間違だったから左の人に同じ問いを投げるとこちらもアヤフヤだったという。
「そういう半ボケの人たちが、ずいぶんとアンケートを書いてるんだよ」というオフクロの報告には笑った。なんとなく、そのあたりの風景が目に浮かぶではないか。
それはさておきこのところ随分と涼しさが増してきて、明け方などは水で顔を洗うことに気の進まないことがままある。よほど体を動かしているとき以外に半袖のシャツでは肌寒く、できれば裸足で過ごしたい僕でも部屋以外では靴下を履くようになった。
夕刻より弱い雨が降り始め、それが徐々に強くなる。クルマが水を切って走る音を聞きながら熱いキムチ鍋をおかずにメシを食べ、飲酒は避ける。気分は既にして「秋深し」である。
ヒラノヒロシさんが日光市瀬尾地区に個人所有するテニスコート「ひろしコート」では、毎年秋にこれを開放して「ひろしコート杯」が行われる。僕は次男と共にヒラノさん宅へおもむき、8時15分にフォールディングテイブルを設置する。
午前、次男はオーシマ兄とのダブルスにて一勝一敗を記録して後は審判、次いで応援に加わった。僕は他の子供たちの試合を見たり、あるいは新聞を読んだりしてのんびり過ごし、12時30分に来たサイトートシコさんと交代して会社に戻る。
初更、22年前のワインをなんとか飲み干そうとして、しかし晩飯はすべて食べ尽くしてしまった。よってモツァレラチーズにオリーヴオイルと塩をかけ、これを最後の酒肴とする。
月に8回と決めている断酒ノルマの半分を、今月は早くもきのう達成した。12日割る31日は0.39で、月の4割が経過する以前の記録だが、ここから3日を飲み続ければ早くもそこが損益分岐点だから油断はならない。
今朝は目を覚ますといまだ午前1時30分で途方に暮れた。昨夕の眠気は8時30分に訪れて早寝をした。5時間に満たない睡眠だがふたたび眠れる保証はない。結構なことといえば、飲酒を為さなくても眠れる体質で、しかしそういう体質はまた、いつでもどこでも寝てしまうことを意味する。
寝ているとは死んでいることと同じで何やら勿体ない気もするが、大抵の人の寝ている時間に自分は起きているのだから気にすることはないと、自己弁護をする。
堀田善衛の「インドで考えたこと」や横尾忠則の「インドへ」は僕にとっては「どうもね」というたぐいのものだったが、山下洋輔の紀行文には1970年代に大いに親しんだ。
山下洋輔トリオが当時の西ドイツで公演を行う際のマネージャーはいつもホルスト・ウェーバーで、このホルストが来日して山下家に泊まった翌朝、厨房から漏れ出る匂いを嗅いで「日本人はクソを食っているのか」と叫んだ逸話が本当かどうかは知らない。
本当かどうかは知らないが、僕は今朝の僕のメシを見て久しぶりにホルスト・ウェーバーの名を思い出した。ウチでは朝飯に和食を食べるのは僕のみにて、家内と次男はおおむねパン食である。その次男が「クサい」と、僕の朝飯から遠ざかるから「いい匂いでしょ」とくさやの皿を近づけると、いまにも泣き出しそうな顔をする。
食卓から発酵食品の数が少なくなるにつれ、その食卓の文化度も逓減するとの意見の僕は持ち主だが、いかがなものだろうか。
古河商工会議所が主催する、のべ8日間の「経営脳力開発学院」において、上澤梅太郎商店の見学と僕の講演を企画したからひとつよろしくとの依頼が同市のナガツカタカユキさんからメイルであったのは、およそ半年ほども前のことだっただろうか。本日はその当日にて、先ず自分の机上を整頓する。
一行はバスにて11時に到着をされた。先ずは工場の横で会社の概要をご説明し、次は工場の中から完成投入の状況について、事務室にては一昨年から今年にかけての出来事を交えてお話をする。
午後1時30分に日光商工会議所へおもむき、2階の会議室へ上がる。会場に入ってはじめて知ったテーマは「長期的継続的に卓越した業績を上げている会社とは」というもので、当方はそれほど立派なものではない、無い知恵を絞り諸方から助けを得て悪戦苦闘の毎日を送るのみだ。
それでも僕の小さな経験が何とか参加者皆さんのお役に立てばと、レジュメに従い、あるいはそのレジュメを行きつ戻りつして懇切丁寧にお話しをする。いわゆる「講演」は、質疑応答も含め2時間で終了した。
日光街道を下り行くバスを見送りつつ肩の荷を降ろす。そしてまた日常の仕事に戻る。
"Computer Lib"のマヒマヒ社長より、メイルに貼付されて僕のアイコンが届く。
同社のある神田神保町は「カレーの街」と呼ばれているが、昼どきの"Computer Lib"では社長以下の全員が町内のカレー屋へ散り、同社ウェブペイジの1コンテンツ「神保町カレーマップ」に着々とリポートを蓄積している。そしてそのリポートには逐一、調査員のアイコンが貼付される。
これを知った僕が「なに、そんなことしてるの? だったらオレもアイコン欲しいなぁ」と言ったのが2ヶ月ほども前のことで、マヒマヒ社長はこれを覚えていたらしい。「オレは申年だからサルにして」と頼んだとおり、そのアイコンはサルには違いないが、ずいぶんと可愛らしい。描いてくれたのは画家の吉田稔美で、だからこれはずいぶんと由緒の正しいものなのだ。
これから僕は、神保町へ行くたびカレーを商う店に通ってその感想を書くことになる。しかし「神保町カレーマップ」には既にして58店舗のリポートが並び、ここにないカレー屋を探すことがそもそも困難と思われる。せいぜい鼻を利かせていくことにしよう。
日記を書くことは苦ではない。しかしこの「清閑PERSONAL」における日記以外のコンテンツをひとつ、毎月1日に更新する作業はそう楽でもない。
ここに文章を載せようとすると、その主題が頭に浮かぶ偶然を待たなくてはならず、しかしその偶然はいつまで来ない可能性もある。月に1度更新するコンテンツに、画像による"WORKS"を加えたらどうかと考えたのが2004年の秋で、しかしいざ始めてみると、12枚の組写真を整えることは、ひとつの文章を組み立てるよりよほど手間のかかることだった。
春3句、夏3句、秋3句、冬3句の計12句を12月1日の更新分として用意しようと目論んだのは先月下旬のことで、この前後には8日間に9首を詠んでコンピュータに保存した。
しかしその後はサッパリだから、師走を控えての大繁忙期にも、なにやら探してウロウロしなければならないかも知れない。
ずいぶんと日の短くなった閉店直前、あたりの明るさ暗さに連動して点灯する看板の照明を点検する。その1時間後には、次男の勉強机で赤ワインを飲んでいる。人は時間と空間を自在に移動して当たり前と思っているが、つきつめて考えてみれば、これはなかなかに不思議なことである。
この「清閑PERSONAL」を、ウェブショップの新しいデザインと合わせる作業は"Computer Lib"のマハルジャンさんが請け負った。
本人によれば2000年9月から2007年7月までの日記中に直さなければならないリンクが千数百ヶ所あり、そのうちマクロで書き換えられたのは約800ヶ所に過ぎないという。残りの数百ヶ所はいまだ手つかずにて、これらは手直しをされサーヴァーへ転送された後、僕のローカルへと格納される。それが完了するのは11月になるかも知れない。
午後も遅く客足も途切れがちになってより「清閑日記」の不具合をざっと見ていくと、今年の1月から7月までのあいだにおよそ二十数ヶ所の行ズレやテイブルの不備が見つかった。これらもマクロによる書き換えが不能だった所なのだろう。これらを数十分の作業にて修理をし、サーヴァーへと転送する。
2000年9月から2006年12月までの76ヶ月分については、とてもそのすべてを確認修理する気力はなく、「そこいらへんは、もういいだろう」と、さすがの僕も諦めて放擲することにした。
入浴後に「もの食う話」の近藤紘一の項を読んで10時に就寝する。
「もの食う話」は古くは堀口大學、新しい方では赤瀬川原平までの文章31編を聚めたもので、その中には得意のものもあればそうでないものもある。不得意な文章は酒の肴として適当でない。
そうはいってもその部分も本の値段の内だから読まないのは惜しい。よってきのうは早朝、どうにもその文体の苦手な筒井康隆、吉田健一、森茉莉をやっつけて夕刻に飲み屋の「和光」へ行った。
カウンターに着いて「さぁ、これから古川緑波の『悲食記』だ」と"ISKA"製の緑色の信玄袋を開いてみれば、中にはデジタルカメラとサイフと家の鍵のあるのみだった。僕は活字を欠いてはひとりでの飲食ができかねるから本を取りに戻ろうとしたが、幸いにも先客として本酒会のイシモトヒトシ会員がいたため、歓談を為して大いに焼酎がはかどった。
というわけで今夕は豚かつの「あづま」へ行き、串カツを晩飯として飲酒は避ける。
リコーのデジタルカメラが壊れたら、それを買った店に修理を依頼するのではなく、リコーのサービスセンターに持参するか送るかした方が話は速い。
グリップのゴムの剥離とCCDのゴミ、という"RICOH GR DIGITAL"におけるふたつの問題については数ヶ月のあいだ我慢をしてきたが、これをようやくおととい、銀座のサービスセンターに持ち込み、それが今朝、宅急便にて戻ってきた。
修理工料17,600円で値引きが7,600円だから都合10,000円。これに消費税が付いて10,500円。返送費用は無料だった。
サービスセンターの仕事には満足をしているものの、このカメラは昨年2月に購入以来、既にして3度も修理に出している。僕はこれをヤワな道具と認識しているが、他の持ち主はどう感じているだろう。
今回の修理伝票には「本体内に埃り等が多数見受けられましたので、お取り扱いには充分ご注意下さい」とのコメントがあった。自慢ではないが、僕の品物の扱いは大方の人よりも丁寧だ。
「オレは充分に注意してるよ、それよりもこのカメラの構造自体が、ホコリを呼び込みやすくできてるんじゃねぇか」と言いたい気持が僕にはある。
手放しがたい道具ゆえ同時に2台を所有して、片方が壊れたときの予備とするのがこのカメラの正しい使い方ではないかと、僕はなかば本気で考えている。
夏葱を薬味とした納豆、細かく刻んだすぐき、炊きたてのメシ、豆腐となめこと夏葱の味噌汁。この、なんの変哲もない朝飯が旨くて美味くて仕方がない。たかだか納豆、たかだかすぐき、たかだかメシ、たかだか味噌汁がなぜこれほどに美味いのか。
今朝のメシを食べて思い出したが今年の夏ごろより、外食をしてもなにか感動がない。そして家で食うものがヤケに美味い。今月1日に食べた、豚肉団子の鍋もたいそううまかった。開高健が書いたところの「新しい天体」は、ことによると最早、家の中にしか見つけられないのではないか、というような気がしないでもない。
「だったらきのうの日記であれほど語ったシャンティのカレーはどうなんだ」と問われれば、あれは今の僕に残された、希少な「外で食う美味いもの」のひとつである。
初更に小倉町の「和光」へ行く。同級生のアキモッチャンが、スパムを炒めたようなものをチューハイの肴にしている。「オレもあれ、食いてぇな」と意地汚く考えるが多分、常連用の裏メニュだろう。次回はアキモッチャンの隣に座って、これのひと切れをもらおうと思う。
"Computer Lib"で仕事をしながら昼が近づくと舌あるいは胃袋、いやそうではない肉体が「シャンティ」のカレーを求めて焦燥する。
というわけで午前11時50分、同店にて茄子と蓮根のカレーを"HOT"で注文し、これとメシ、豆をすりつぶしたような緑色のドレッシングのサラダ、玉葱のアチャールもろともに混ぜ合わせて休みなく口へと突っ込む。マサラティーを素早く飲むことができないのは、口中に残った辛さをお茶の熱さが再燃させるためだ。
ウェブショップに遅れること5ヶ月、1999年3月29日に立ち上げたこの「清閑PERSONAL」は、当時の意匠を今秋まで変えずに8年半が過ぎた。これを本日は新しいものに総入れ替えすべく、朝から作業が続いている。
午後4時、「仕事はまだ終わらないのか」という旨の電話がマヒマヒ社長から入り、社員のヒラダテマサヤさんは「えぇ、まだちょっと」と返事をした。当方としては納得のいくまでキーボードを叩き続ける必要があり、銀座の8丁目あたりにいるらしい社長に合流してジンアンドトニックなどを飲むわけにはいかない。
5時30分にようやく一区切りをつけ、「家康本陣」へ「いまから4人、入れますか」と電話をすると、まぁ、この店に行ったことのある人でなければ分からないが「入れて上げます」と、例のガナリ声が受話器の向こうに聞こえる。
「もう神保町へは戻る気力がない、ウワサワさん、よろしく」との、マヒマヒ社長からの電話を受けつつ"Computer Lib"の若い人たちと白山通りを歩く。鉤の手のカウンターにはおよそ2時間ほどもいて、串焼き百数十本を肴に生ビールや芋焼酎を飲む。
午後10時41分、気づくと下り特急スペーシアは下今市駅のプラットフォームに停車中で、当方は重いザックを胸に抱き、車両の出口に立っていた。駅員のアナウンスも下今市駅到着を伝えていたが、なぜか「ここはオレの降りるところではない」と酔っぱらい特有の即断即決により席へ戻る。その途端「いや、オレの降りる駅はやはりここだった」と気づいても、もう遅い。
終点の日光駅からタクシーに乗り、11時すぎに帰宅する。
午後、千代田区神田神保町の"Computer Lib"へ行く。「結庵」から出前したおむすびを先ず食べ、直後より数時間の議論に入る。
5時に外へ出て靖国通り北側の狭い道をクランク状に抜け、猿楽町の蕎麦屋「松翁」へ行く。常温の片口で供される「福光屋」の「黒帯」をひとくち含むなり「こーれは美味いです」と嘆息したマハルジャンさんは、これみよがしの吟醸香を乗せた冷酒を喜んで飲む大方の日本人よりも日本酒の味を知っている。
"Computer Lib"の面々5、6人と飲酒を為せば翌日の二日酔いは必定である。よって本日は自重しつつ杯を口へと運ぶ。
帰途、錦華通りから山の上ホテル裏の崖を登っていくと、ペンダントのトップだろうか、唐草風の彫金にガラス玉を埋め込んだらしい十字架が足許に鈍く光っている。それを拾いかけて「いや、落とし主は気づいて戻ってくるに違いない」と、酔っぱらい特有の即断即決によりそのままにする。
右に聖橋を眺めつつ御茶ノ水橋を渡り、黒い晴れ間と薄ぼんやりとした雲がちょうど半々の空を眺めつつ甘木庵に帰着する。
明け方に「目玉」を読み終える。最後のペイジに初出一覧があり、ここ数日に読んだ7編が並んでいる。そのうち1番目から5番目までについては、その内容をもはや覚えていない。僕の眼球から入った活字は脳で認識された直後に、まるでシャンペンの泡のように消えてしまう。
シャンペンは泡と小便に消えるが飲んでいる最中は美味いのだからそれで良い。本も、読んでいる最中が面白ければそれで良いのではないかと、自分の本読みにおける性癖を弁護してみたりする。そして4時30分に起床する。
ジャイアンツがヤクルトに勝てばセリーグ優勝というナイトゲイムを日本テレビさえもが中継しない。BSでなら見られるそうだが居間のテレビは古くてBSに対応していない。よっておばあちゃんの居間へ行きテレビのスイッチを入れると、3対4で1点を追うジャイアンツが9回裏の攻撃に入るところだった。
ひとつの失敗とひとつの幸運、監督の采配と選手の気力によりジャイアンツが2死満塁としたところで次男が風呂に入ろうと言う。親の都合により子供の就寝時間を遅らせてはいけない。入浴して出てくると、どういう経緯があったかは知らないがジャイアンツが優勝を決めていた。
9時30分に就寝する。
次男は今年の春に市内沢又地区にあるサイトートシコさんの田んぼを借り、米の苗を手植えした。これが実って先日、同じ場所で稲刈りをした。子供が田植えのできる範囲だから猫の額ほどの区域だが、それだけでは満足できず「もっと稲刈りがしたいけど、どこかないかな」と言う。
他の稲は既にしてすべて機械により刈り取られてしまった。更に稲刈りがしたければ来秋を待つ他はない。あるいは競輪ファンが春、桜前線と共に全国の競輪場を転々として北上していくように、米の収穫前線を辿って列島を北上していくような、そういう職業はないだろうか。
「いっそのこと、農業を自分の仕事にするという選択肢もあるな」と言うと次男はまんざらでもない顔をした。農業は人間にとってもっとも重要な仕事であるし、今後は最先端の仕事になっていくだろう。