先月28日、「阪納誠一メモリアル走行会」の前夜祭において、隣席の人に面白い話を3つ聞いた。そのうちの3番目。
「数寄屋橋次郎の真上あたりにルイヴィトンがビルを建てようとして基礎まで打って、しかし例の経済危機のあおりを食らって途中で投げ出したでしょ、ブランドショップの銀座への進出も、これでしばらくは小休止するんでしょうかね、アメリカの白人で、あの手のブランド物を持っているのは超金持ちだけなんですよ」
「それは、英国人のような階級への認識がアメリカ人にもある、ということですか」
「いえ違います、アメリカの白人は、ブランド物なんかにはハナから興味を持ちません。アメリカで、超金持ちでもないのにブランド物を持ちたがるのは黒人とヒスパニックだけです」
「ということは、日本人のメンタリティは、アメリカの黒人やヒスパニックに近い、ということですか」
「それは知りませんけれど」
という会話を交わしながら僕は、1980年の夏のことを思い出していた。同年8月、僕はロスアンジェルスでクラシックカーの修理工場、クラシックカーの博物館、ペブルビーチでクラシックカーのコンクールデレガンス、ラグナセカでクラシックカーのレースを見た。
この旅行の最中にある修理工場で、ロールスロイスの計器板を磨いていたオニーチャンに話しかけたら言葉が全然通じなかった。「彼はヒスパニックで英語は理解しない」と、そばにいた関係者は言った。「英語が話せなくてもアメリカで仕事ができるのか」と、僕はいささか驚いた。
当時のアメリカで、ヒスパニックの乗るクルマにはひとつの特徴があった。ボディの塗色はパール系かメタリック系、ホイールはクローム、ルームミラーには「そんなにあれこれ下げたら前が見えねぇだろう」というほどのアクセサリー。
そしてこのアクセサリーを除けば、その意匠はトヨタのアルファードや日産のエルグランドに非常に近い。ヒスパニックと日本人の好みには、やはり共通するところがあるのかも知れない。
自由学園男子部の昼食は伝統的に、通学可能な地域に住む生徒の親が作る。地方に住んでいればその当番は回ってこないが、ウチは東京へ出るにそう大した時間はかからず、また昼食づくりは楽しい仕事だから、特にお願いをして当番のローテイションに入れて戴いている。
僕が男子部にいた1970年代には、この昼食当番には母親しか来なかった。しかし長男が男子部に入学した1998年には既にして父親の参加が珍しくなくなっていて、僕も何度か昼食を作りに行った。そして本日は次男が男子部に入学して初めて、僕が当番におもむく。
甘木庵を7時15分に出て数十分後に東久留米市の自由学園に達する。羽仁吉一記念ホールでの打ち合わせは8時30分に始まった。8時45分に同ホールの厨房に入り、当番長や栄養士の先生の指示に従って米を研いだりほうれん草の赤い部分を切り落としたり、あるいはお茶を煮出してヤカンに取り分けたり炊きあがったごはんをおひつに取り分けたりする。
12時45分までの4時間は文字通りあっという間に過ぎる。生徒の報告や教師による習字解説を聴きながら食べた今日の昼食は至極美味かった。というか、自分の在学中を含めての、自由学園における最も美味い昼飯だった。
食後は自分の使った長靴を洗い、明日の調理材料の受け取り、掃除などをして2時30分に当番の仕事を終える。
1時間後に神保町の"Computer Lib"の階段を上がり、きのうから預けてあった"ThinkPad X61"をザックへ格納する。キクチマサミさんとマハルジャン・プラニッシュさんは昨夜の飲酒がたたり、今朝は揃って遅刻をしたという。
初更7時前に帰宅する。
「三州屋銀座店」の2階で飲酒を為すこととガルシア・マルケスの「戒厳令下チリ潜入記」を読むことのどちらがスリリングか、という二者択一に答えを出すことは難しい。
とにかく神保町の"Computer Lib"で夕刻5時まで仕事をし、以降は同社の若い人3人と銀座へ移動をする。そして「三州屋銀座店」の2階へ上がっていきなり「なに?」と、オバサンの洗礼を受ける。
「5時40分にウワサワで4人、予約してあるの」
「だれ?」
「ウ、ワ、サ、ワ」
オバサンはふたりいて、ひとりは客用の座敷で着替えをしている。
「4人? だったらここだ」と、ひとりのオバサンが、もうひとりのオバサンが着替えをしている脇の卓を示す。 「了解」と返事をするなり靴を脱ぐ。
その深奥にほんのすこしの良心さえ認めることができれば、メシ屋のつっけんどんなオバサンや眉間に皺を寄せてニコリともしないバーテンダー、といった類の人を僕は嫌わない。なぜ彼らのような人を僕が好むか、彼らには裏表がない。あってもごく少ない。客の前で芝居をしない。そして僕は「何とかしてこの人を笑わせてやろう」と考える。
「すいませーん」
「ちょっと待って、ひとりでやってんだから大変なんだよ」
座敷にはおよそ40人の客がすし詰めになって、うわんうわんと唸るようにして飲み食いをしている。そしてその40人の客の注文を聞き、伝票にメモをし、調理場からエレベーターで上がってくる料理を席へ運ぶオバサンは夕刻6時現在ひとりきりである。着替えをしていたオバサンは1階へ回ったらしい。
客はメニュを熟読吟味し、ためつすがめつし、軽い料理から重い料理への流れを考え、オバサンが返事をしてくれたらその好機を逃さず数品まとめて注文をする。オバサンが次に相手をしてくれるのはいつになるか分からないから、自分たちが放置されている間にも酒肴の切れないよう、空豆や生のトマト、おひたしなどを充分に確保しておく必要がある。
「スイマセン、梅酒、ありますか? だったらそれ、オンザロックで」
「ロック? ビンごとシヤシてっから氷なんていらないよ」
「オバチャン、あとね、白子の天ぷら」
「そんなの無い」
「1階の黒板には書いてあるんだよ」
「2階じゃ聞いてないよ」
「いやー、癒されるなぁ」と言ったのはキクチユミさんだ。「氷を入れてくれ」と客が頼んでいるのに店側に軽くいなされて、それで癒されるとはなにゆえか。その「なにゆえ」が、この店の味わいのひとつである。若い店員がインカムを付けて効率よく客をさばいていく大チェーン系の居酒屋へなど、たとえつきあいであっても僕は行きたくない。
「スイマセン、勘定、お願いします」
「キューセンキューヒャクナナジュウエン」
「はい、1万円」
「あと1万円だよ」
「何で?」
「イチマン、キューセンキューヒャクナナジュウエンだよ」
「イヤー、馬鹿に安いと思った」
「いちいち面白くてさ、あしたの日記に書こうと思っても酔っぱらってるわ、メモしてねぇわで、どうせみんな忘れちゃうんだよな」とヒラダテマサヤさんに言ったとおり「三州屋銀座店」の2階に展開された面白いことのほとんどすべては忘れてしまった。
立ち飲みの方の"MOD"で二次会をし、10時に甘木庵に帰着する。
朝、下野新聞を開いていくとその総合社会面に「日光初の弁護士事務所」という見出しと共に「日光総合法律事務所」の記事が出ている。30歳の弁護士スズキハルキさんはウチの顧問税理士スズキトール先生の息子さんである。
我が社の権益が侵されたり、あるいは「しょがねぇな、まったく」という人物が僕の周辺に立ち現れたときにはこれまで、宇都宮市の新江進法律事務所に相談をしてきた。しかしこのたびは身近に弁護士事務所が誕生したわけで、非常に利便性が高くなった。その名に「総合」の文字のあるところから、ゆくゆくは弁理業務も併せて引き受けてくれそうな予感もあり、大いに心強く思う。
午前、レントゲンの設備を備えた大型バスが会社に横付けされて、健康診断が行われる。
病院の営業戦術によるものか、あるいは福利厚生を手厚くしたいというウチの意向によるものかは知らないが、検査項目は年を追うごとに増え、今年は35歳以上の者に胴回りの測定が義務づけられた。
人により背丈や骨格が異なるにもかかわらず、胴回り85センチ以上は一律にメタボリック症候群とは乱暴な話と常々感じていた。それでも自分の胴回りがその数値を下回ると、何やら嬉しいものがある。
この健康診断に随行して問診を行う医師は、その人が変わっても、うるさいことを言わないところはみな共通している。太ろうが痩せようが、煙草を吸おうが酒を飲もうが、とにかく働けているうちは人間大丈夫、という確信があるのかも知れない。
あるいは「分かる人は言わなくても分かる。分からない人は言っても分からない」という確信が、あるのかも知れない。
「第188回本酒会」に出席をするため、初更7時25分に蕎麦屋の「やぶ定」へ行く。
新酒の季節はまた、にごり酒の季節だ。能代市の「天洋酒店」から年末に届いた2種のにごり酒に加えて本日は、倉吉市のオカノトミちゃんが送ってくれた「天宝酒造」のにごり酒もある。
これらと共に普通のお酒3種を机上に並べ、冬の一夜を暖かく過ごす。
店の中に暖簾を引き込んだ「やぶ定」から9時に外へ出てみれば、知らないうちに降り積もった雪が黒いアスファルトを覆っている。子供のようにわざとその上を歩き足跡を付けようとしたら、雪の表は既にして氷になっていた。
「栃木県味噌工業協同組合」の泊まりがけの新年会では一昨年、早寝をしたところ午前0時に目を覚まし、しかし同室者に気を遣ってそのまま朝の6時まで布団の中でじっとしていたことがある。よって以降は手の平に収まるほどの小さな読書灯を持参し、今朝も5時ごろからこれを使って本を読んだ。
朝食の後はロビーでゆっくりと休み、9時30分に宿を出て「商売の神さまですから」などとおかみに言われた「大洗磯前神社」に参拝をする。次に訪れた「大洗リゾートアウトレット」には好きなシャツ屋が入っていたが、手持ちの現金は6,000円と少々だからここは慎重にならざるを得ない、というか買い物などできない。
11時すぎにひたちなか市の漁港に着き、よくよく考えて1,900円のキンキ2尾と650円の真鯛1尾を包むよう魚屋のオニーチャンに頼む。そうしたところオニーチャンはダミ声で「ヨンセンエン」と安くしてくれたから「へー」と思いながら、買った魚を氷づめにしてもらう。
100キロ以上の移動に僕がみずからクルマを使うことはほとんどなく、だから道路についても詳しくはないが最近、北関東自動車道という道がどこかの道と繋がったとかで、茨城県の太平洋岸と宇都宮市は数十分で結ばれるようになった。
ひたちなか市で昼飯を食べ終えてから1時間もかからず宇都宮市の中心部に入る。「栃木県味噌工業協同組合」に残置した三菱シャリオに乗り、2時30分に帰社する。
「栃木県味噌工業協同組合」の新年会にて夕刻、茨城県の大洗町へ行く。総会を兼ねる新年会というものも世には少なくないが、今回はせいぜい鮟鱇を食べるくらいのところだから気は楽である。
フェリーの着く岸壁まで散歩をし、旅館に帰って一番風呂を浴びる。部屋に戻ってテレビのスイッチを入れると、あたかも白鵬と朝青龍の優勝決定戦が時間いっぱいを迎えるところだった。「はっけよい」と行司が気合いを入れた瞬間に携帯電話が鳴ったから「誰だ、こんなときに」と、受話器を置く赤いアイコンをすかさず押してこれを切る。
食べ物において、キノコ好きは臓物好きで且つ貝好きということが多い。彼らは種々の食感を口の中に覚えて喜ぶ性格の人間である。そして僕もその例に漏れず、だから鮟鱇鍋は好きな食べ物のうちのひとつだ。
生業を超越して味噌づくりそのものを愛する方々との交流は大いに愉しく、早寝の僕としては珍しいことに0時すぎまで話し込んで午前1時に就寝する。
"BUGATTI 35T"のクラッチが、ペダルを床まで踏んだときにではなく、そこから1センチほど上のところで切れる現象を明確に意識したのは一昨年のことだが、この症状はあるいは、僕がこのクルマに最後に触れた四半世紀前から出ていたものかも知れない。
余裕を持ってギヤを上げていくときにはその「1センチほど上」を左足で探ることもできるが、コーナーを目前にして右足のつま先でブレーキを、同じく右足のかかとでアクセルを操作する場面では左足も忙しく、クラッチを踏みながら車体はポンと前に出てしまうことを繰り返してきた。
"BUGATTI 35T"の調整は、今年はこのあたりから始まる。そして"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんからは数日前に、クラッチを外したから見に来て欲しい旨のメイルが届いた。
本日、ようやく暇を得てタシロさんの工房を訪ね、その様子を見る。タシロさんの考えは、クラッチの切れ具合を制御するための、直径1センチ長さ2.5センチほどの2本のロッドの長さが微妙に異なり、それが不具合の元と想像されるから先ずこれを新たに自製し、ついでにクラッチ板も手作業で修復するというものだった。
自製することは構わないが、その参考として新品を見ることも大切というのが僕の意見で、だからクラッチそのものを英国から取り寄せるよう、タシロさんには示唆しておいた。"BUGATTI"はフランスのクルマであっても、その部品は多く英国で揃う。円高ということもあり、過大な経費のかからないことを期待している。
きのうの朝、自由学園男子部中等科1年の担任から、クラスに風邪で休む生徒が無視できないほど増えてきたため、本日より学級を閉鎖する、健康な生徒は帰宅させるが、特に問題がなければ26日の午後5時までに帰寮させて欲しい旨のファクシミリが入った。
10年前、長男が中等科1年生のこの時期にも学級閉鎖があったことを思い出す。そして次男はきのう下今市駅14:17着のきぬがわ5号で帰ってきた。
駅に着いたとき、昨年まで英会話を教えていただいていた先生と遭遇し、寮の生活はどうかと訊かれたため"enjoy"していると答えようとして誤って"happy"を使ってしまったと次男が言う。"enjoy"も"happy"もその意味に大差はないから、いや、あるのかも知れないが「まぁ、いいじゃねぇか」と言っておく。
学校や寮での話を次男から聴くたび「コクのある生活をしているなぁ、幸せ者だ」と思う。家内は「羨ましい、私もそんな生活をしてみたかった」と言う。もっとも、同じ経験をしても「もう、こりごり」と感じている卒業生もいるだろう。世の中すべて、本人次第である。
日光MGを終えるとそれほど間を置かずに反省会を開く。反省会とはいえ大方は気楽な飲み会である。
昨年の3月に行ったリフォームにより事務室にあった本棚のほとんどを撤去し、すべての事務机は壁際に集めた。すると部屋の真ん中に大きな空間が出来、ここに20人は楽に座れる楕円の大きなテーブルを置いた。
終業後、この大テーブルに社員の持ち寄ったもの、家内の作ったものを並べ、隣接する研究開発室のガラスの壁には「ことがら表彰」の紙を貼り、日光MGの反省会を始める。
マネジメントゲームにおいて表彰状が与えられるのは、第5期終了時に種々の条件を満たした上で高い自己資本を達成した者のみで、それはそうだろう、いくら売上金額を上げても設備投資をしても社員数を増やしても、利益を上げないことには話にならない。
とはいえ実のところ決算速度を競う計数力に僕は強い思い入れがあり、だから日光MGでは反省会のとき、第5期決算順位第1位を表彰する。今回の計数力1位は販売係のヤマダカオリさんで、彼女には「カワチ薬品」の商品券が手渡された。
なお、前回2008年9月の日光MGにおいて計数力1位を獲得した販売係のハセガワタツヤ君は、僕が履いているとおなじ"KEEN"のサンダルを賞品として所望し、しかしそのときにはネット上のどこにも彼の指定する色とサイズは無かった。よってそれから数ヶ月を経て購入をし、今回ようやくこれを手渡す。
本日の反省会には、先般の日光MGに参加をした他社の方2名も加わった。そのうちのおひとりから「どうしたらこういう雰囲気の会社ができるんですか」と訊かれたため「こういう雰囲気」がどのような雰囲気なのかは不明ながら「社員の平均年齢を下げて、その教育にマネジメントゲームを採用すれば良いんです」と僕は答えた。
7時30分には早くも片付けが始まり、8時にはすべての社員が通用口から出る。私的なもの以外、飲み会は手早く切り上げるべきである。
飲み会で人の話を聴かず、しゃべるだけしゃべって帰宅し、ふと気づけば自分の中には何も残っていなかった、ということがある。何ごとかを得るために飲み会へ出かけていくのもさもしい気がするが、さりとて何も残らないというのも寂しい。
きのうのpaopao氏の話で僕の脳に刻み込まれたのは「仕事には謙虚さと、したたかさが必要だ。謙虚さとは、たくさんの人のお陰で仕事が成り立っていると認識すること、したたかさとは利益感度分析」というもの。
一方テシマヨーちゃんの話で特に記憶に残ったのは「次の海外駐在に当たっては『自分の得意な地域はインドネシアとヴェトナムだから、できればまたそこにしてくれ』と上申することはしない。人間の本質は変わらないということを自分は知っている。だからどこへ行かされようが一切の不安はない」というもの。
ヨーちゃんの確信には、これまでしてきた実地の経験と共に「三国志」についての素養も影響しているのではないか、と僕は感じた。
paopao氏とヨーちゃんとの飲み会はしかし、ほとんどの時間はヨタ話に費やされているわけだから、3時間30分のうちの3時間15分ほどはエヘラエヘラ過ごしていたわけである。
伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅の弁当「あじ寿司」は、友人paopao氏が経営する「舞寿し」の商品だ。そのpaopao氏は京王百貨店7階の駅弁大会で今月9日から本日までの12日間、実演販売をしていた。百貨店の催事に12日間も通しで出ることによる労苦は、僕には容易に想像できる。
ところでこの催しの打ち上げをしようと早くから言っていたのが先日、日光MGにも来てくれたテシマヨーちゃんで、これに賛同した僕は約束の時刻のおよそ1時間前に新宿駅の西口に着いた。
このあたりは飲み屋のびっしり詰まった路地があるなど何かと魅力的な場所だが、飲み会の前にお酒を飲むことを僕はしない。よって「但馬屋珈琲店」で焙煎の強いコーヒー2杯を飲みつつ本を読み、7時20分にプリンスビルの8階へ行く。
3人で飲食をしながら有意義な話をするうち気づくと3時間以上も経っていた。
池袋を経由して0時ちかくに甘木庵に帰着する。
居間の窓の外に雀が二羽、留まっている。飛び立つまでのしばしを眺めながら「寒雀とは、冬は当たり前としても、何月の季語だっただろうか」と考える。今朝の空はうす青の地に刷毛で掃いたような雲の白が紗をかけ、いかにも寒そうに見える。
栃木県産の厳選した大玉ばかりを漬け込んだらっきょうのたまり漬と、カベルネソービニョンで漬け込んだらっきょう、という2種をひと組にして商品にしてはどうか、との案の出たのは昨秋のことだった。
気軽な話の中からにわかに浮上したこの商品はその後、徐々に実現の方向へ動きはじめ、昨年の暮ごろからは「そろそろ名前を考えてくれ」とカタログ会社から督促されるところまで来た。
商品名の創出とは案外に骨の折れる仕事にて、いよいよ切羽詰まって、ということではない、はじめから何も考えずに締め切りが近づいてきたということだが、家内に「衝突と即興ってのはどうかな」と意見を求めたところ「だからー」と、あきれ顔をされる。
家内の「だからー」とは「一体全体どこの誰が漬物に『衝突と即興』などという名を付けるか、付けるのは自由だが、それで商品が売れるとでも思っているのか」という意味の簡略形だろう。
「売れなくてもいいから自分の好きにやってみる、という手はある」と考えるのが僕の駄目なところで、商売においては、売れない品物にはほぼ意味はないのだ。
夜、何気なくテレビを視ていたら、ボストンレッドソックスの岡島秀樹が「1年間、日本を離れていて、流行に取り残された、と感じたことはありますか」と、アナウンサーに訊かれていた。それに対して岡島は「お笑いの人が、ぜんぜん分かりませんね」と答え「水着を着た人なんて、どこがおもしろいんや、と思いました」と続けた。
「水着を着た人」とは小島よしおのことだろう。ずっと日本にいる自分にさえ小島よしおは面白くない。ではなぜ人は彼の芸を見て笑うのか、それは、彼が曲がりなりにも売れたからだ。それが売れている、流行っているものなら内容の善し悪しにかかわらず、その商品は市場に評価される。
松鶴家千とせという漫談家が1970年代に「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」というボヤき漫談で一世を風靡したが僕はまったく笑えなかった。伊東四朗と小松政夫が組んで踊り歌った「電線音頭」も随分と流行ったが僕には全然面白くなかった。いったん名が出てしまえば大して面白くないものでも売れる。
とにかく流行れば売れるのだから、品質はともかくとしてそれを流行らせるための仕組みを考える人がいる。
「新聞屋が商売ならば大学屋も商売である」と、東京帝国大学から朝日新聞に転職した漱石は書いた。話は大きくなるが、国益とは、つきつめればお金である。「日本を流行らす」という壮大なことを考える人がどこかにいないか。いったん流行ればしめたもので、内容の善し悪しにかかわらず、その商品は市場に評価され、つまりお金は入ってくるのだ。
長男は自分で朝飯をつくり7時30分に学校へ向かった。僕は8時ちかくに甘木庵を出て築地へ行き、ここで朝飯を食べる。
銀座のコリドー街に、いかにも横文字職業の人が知恵を集めて作ったと思われる、格好の良い店がある。格好は良いものの、いつも閑古鳥が鳴いている。「いつ撤退するだろうか」と考えながら見ているが、なかなか無くならない。きのうの夜のこの店の入りはおよそ5割だった。
今朝の築地場内は土曜日ということもあり、普段から客が行列するメシ屋は更に多くの人を集めていた。行列のあるメシ屋と客のいないメシ屋とのあいだにどれほどの差があるかは試したことがないから分からない。それでも、長いあいだ人を集め続けているお店には素直に感心をする。
午前は日本橋へ行き、午後は同学会新年総会の開かれる自由学園明日館へ、きのうに引き続いて行く。総会と新年会は5時の定刻から20分を回ってお開きとなった。すぐに駅へ向かって北千住18:12発の下り特急スペーシアに乗る。
長男は自由学園男子部の64回生で、女子部の同期は84回生となる。彼らの父母の集まりを「8464の会」といって、懇親のための集まりを年に何度か持つ。ここに僕が参加をすることは今まで無かったが、今夜はひょんなことから急遽行くことを決め、夕刻6時15分に会場の自由学園明日館へ入る。
集まった父母は11人だったがいろいろと話はあるもので、9時の閉館まで楽しく過ごす。
本郷三丁目の甘木庵へ帰るべく池袋から地下鉄丸ノ内線に乗り、しかし本を読むうち気がついたら車両は東京駅を出たところだった。乗り過ごしをよくやらかす僕にしても、4駅も先まで行ってしまうことは珍しい。
次の銀座で降り、ついでと言っては語弊があるが数寄屋橋から8丁目まで歩いて飲酒を為す。ふたたび数寄屋橋から地下鉄に乗って甘木庵へ戻る。
参加者ひとりひとりが経営者となって5期分の経営を盤上に展開する"MG"つまりマネジメントゲームの2日目は、午前9時15分より利益感度分析の講義を以て始まり、以降はきのうの第3期の成績によって分けられた各市場による第4期、昼食を挟んで第5期が行われる。
第5期の期初において僕は借り入れ可能枠に残ったわずか1円を借り入れ、これは後に値千金の役割を果たすこととなった。
反面、無災害倉庫を備えながらそこに納められていなかった材料を火災で失う、入札時に誤った金額を提示する、在庫バランスを適正に保てない、などの初歩的な失敗を連続して起こし、第2期と第4期で積み上げた自己資本を更に増やすことは叶わなかった。
結局のところ、第5期終了時に種々の条件を満たした上で最高の自己資本を記録した最優秀経営者賞は、販売係のハセガワタツヤ君が到達己資本342でこれを得た。自己資本第2位の優秀経営者賞は、同じ販売係で到達己資本320のヤマダカオリさんに与えられた。
第5期終了時に満たすべき次期繰り越し戦略チップの数が3枚のところ、勝負には不利と知りつつ自分が必要と考える5枚まで買い進めたハセガワ君には今回、特に感心をした。彼の課題は、この生真面目さを高い次元で実際の仕事に反映させることだ。
原稿用紙2枚ほどの感想文を書きながら僕が締めのスピーチをし、第17回日光MGは夕刻5時に無事に完了した。解散後は西順一郎先生、きのうの夜に新橋の勤務先から駆けつけてくれたテシマヨーちゃんと夕食を摂り、おふたりを東武日光線下今市駅までお送りして7時に帰宅する。
上澤梅太郎商店が主催して年に2回行われる研修「日光MG」は今回で17回目を数える。会場となる「日光東照宮晃陽苑」にはきのうから泊まり込んだ。朝、外に出てみると日光の山々はきのうよりも更に雪の量を増やして光り輝いている。
"MG"とは、参加者ひとりひとりが自分の会社を持ち、自己資本の伸長を目指して体力と気力を尽くすゲームだ。材料購入、製造、入札による販売には無数の選択肢があり、ゲーム中に記録する資金繰り表を元にマトリックス決算書を完成させ、1期が完了する。
2日間で5期の経営を盤上に展開するこの"MG"には今回、ウチの全正社員、今春に入社を予定している高校生に加えて遠くは沖縄からの参加者も迎えている。"MG"を常に新しい視点から検証するためには外部からの参加社が必須であり、本当に有り難く思う。
夕方までに3期のゲームを完了し、夕食の後は西順一郎先生による"strategy accounting"の講義を受ける。
8時20分より席を移しての交流会を持ち、参加者全員が「自分と研究開発」という題でスピーチを行う。僕の記憶はこの交流会の途中からぷっつりと途切れていて、以降の記憶はない。「梅津酒造」のにごり酒が、予想以上に効いたのだ。
このところ成人の日には決まって、成人式の会場で酔って暴れる新成人の姿がテレビのニュースを賑やかにする。「真面目だよなぁ」と僕は感心をする。国の決めた日に、市区町村の決めた場所へ、紋付き袴やスーツを着込んでいそいそと出かけて行く、それだけで彼らは充分に真面目である。
自分が成人の日を迎えたとき、僕はダウンパーカを着て野球帽をかぶって渋谷で酒を飲んでいた。晴れ着を着て街を歩く同年の人たちが、僕の目には違う星に住む生き物に見えた。
夜、"Finbec Naoto"で静かにメシを食べる。ナオトのメシは本当に美味い。「オイみんな、カネを遣うならこういうところで遣え」と、僕は声を大にして言いたい。
伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅の弁当「あじ寿司」は、友人paopao氏が経営する「舞寿し」の商品だ。そのpaopao氏は京王百貨店7階の駅弁大会で今月20日まで実演販売をしている。よってここへ立ち寄るよう、きのう所用で新宿を通過する家内に頼んだ。
家内は無論「あじ寿司」を買って帰り、しかし帰宅は夜だったからこのお土産は今朝の僕のメシになった。
胡麻を振った酢飯に伊豆松崎の桜葉の塩漬けを置き、伊豆近海で獲れた鯵を並べて伊豆天城の山葵を添えたこの鮨の美味いことは以前より知っていた。そして今朝あらためてこれを食べてみて「やっぱり美味いよ」と感じ入る。ぬる燗の日本酒があればその美味さは倍加するはずだが朝から飲酒を為すわけにはいかないところが本日ただひとつの瑕瑾だった。
聞くところによれば「あじ寿司」は今回の駅弁大会において、いちばん先に売り切れてしまう人気商品だという。paopao氏には激務に耐え、この長丁場を無事に乗り切って欲しい。
門松をはじめとする正月の飾りはこれまで、1月の14日に外して瀧尾神社へ持参をしていた。ところが今年は12日にお焚き上げをするので、希望があれば注連飾りなどはこの日に神社へ持参するよう沙汰があった。
よって今朝のうちに会社中の輪飾りなどを門松も含めて集め、それらを三菱デリカに載せて、販売係のハセガワタツヤ君と共に瀧尾神社の境内へ持ち込む。そうしたところ植木屋のマーチャンが待っていて、門松は自分でバラし、竹の節を抜けという。
確かに、旧市内の門松が一気に持ち込まれては、マーチャンひとりの手には負えないだろう。マーチャンに借りた道具を以て門松を分解し、30分後に帰社する。
町内組織の最小単位は「組」で、その組に回覧板をまわしたりする組長は1年おきに交代する。本日はその組長と町内役員の新年会があり、会計係の僕はなぜか食事の用意も任されていたから正月以来気分が落ち着かなかった。
きのうまでにこの刺身、鮨、おつまみ、ビールの手配をし、夕刻にはその鮨を「奴寿司」まで受け取りに行く。
新年会では、公民館の床の間にある掛け軸「天壌無窮」の書かれた昭和3年と現在の日本がとても似た状況にあること、しかし何があっても人の世は続いていくことを、長く教職にあったサトーケンジさんが話してくださり、人生の先輩の話を聞くことの好きな僕は大いに愉しんだ。
次の町内行事は2月のはじめ。行き先は飛騨の高山である。
天気予報にさんざん脅かされ、前夜から積雪の心配をしていたが、深夜に窓を開け北西の空を眺めれば、日光連山はその肌を青く月光に浮き立たせていた。すなわち夜半から明け方にかけての雪の可能性はない。よって安心して二度寝をする。
午前、商品の原材料となる栃木県産の干瓢を仕入れるため宇都宮へ行く。
午後、本当はホテルに缶詰になって行いたい類の、根を詰めてする仕事を事務室にてする。気分を変えるため、事務室中央の大テーブルで、外を見ながらその仕事をする。夕刻5時に至ってふと「ずいぶん日が伸びたなぁ」と感じる。
午前の休憩時間に社内で福引きを行う。その後は場所を移し、社会保険労務士を交えて昇給のための会議を持つ。
むかし1月は成人の日の15日まで店は賑わったが今は三が日、あるいは第1日曜日を過ぎると早くも静かになる。店は静かだが製造現場は味噌や漬物の仕込みに忙しく、「急がず休まずコツコツと」という状態にある。今年の春から秋にかけて次々と蔵出しされる味噌については、これを企画した僕もかなり楽しみにしている。
終業後に「とんかつあづま」で新年会を開く。この席でのビンゴ大会において、最もカネメと思われる"JUSCO"の商品券は販売係のハセガワタツヤ君が獲得をした。
瀧尾神社の禰宜が来社をして、午前10時より水神祭を執り行う。場所は蔵のほぼ中央。「水神」と彫られた石碑に灯明を上げ、水、御神酒、米、鰹節、塩をはじめ野菜や果物、魚などのお供えをする。そしてウチの家族と主立った社員がお祓いを受け、祝詞を聴き、玉串を奉奠する。
毎年水神祭の日、または翌日に会社では福引きをし、新年会を催す。このような行事は絶やすことなく続けていきたい。なお「水神」の石碑がいつの時代のものかは、その裏側に何の文字もないため判然としない。
長男は5日の朝に甘木庵へ戻った。次男は本日おむすびとテニスラケット、そして小倉百人一首の本を持ち、下今市駅11:00発の上り特急スペーシアで学校の寮へ戻った。
先月28日、「阪納誠一メモリアル走行会」の前夜祭において、隣席の人に面白い話を3つ聞いた。そのうちの2番目。
「私、仕事の関係で長くシカゴに住んでいました。シカゴは古き良きアメリカの残る街で、私は大好きでした。
ところで一般のアメリカ人はほとんど、お洒落をしません。男はおしなべて、アウトドア系やトラッド系の通販で買ったようなポロシャツとチノパンにスエット。金太郎飴の断面を見るように、みな同じ服装です。
ま、有り体に言えばダサいんですね。で、たまにおしゃれな男がいるなと思ってよく見ると、これが決まってゲイなわけです。
いま渋谷あたりを歩くと、若い男の子なんてホントにお洒落でしょ、そんなとき、シカゴにいたときの視線を不意に取り戻すと、そういう子たちは総じてゲイに見えるんですよ」
僕が子供のころ、眉を剃り整えている男はゲイではなく、ある種の集団あるいは職業に属する人たちがもっぱらだった。そういう記憶をひもとけば、高校野球の眉を細く整えた選手たちはゲイというよりも、ある種の集団あるいは職業に属している人に見える。たかだか10年ほど前まで日本の一般の男は、眉にカミソリを当てることをしなかった。
友人の兄の経営する会社に髪の毛を染めた男が入社のための面接に来ると、兄である社長は「ウチはガイジンはいらん」と言ったという。たかだか数年前の話だ。しかしいまやNHKの男のアナウンサーでも髪の毛を染めている、そして服装規定の厳しい百貨店にさえソフトモヒカンの男子社員は多い。
日本の街、お店、テレビの中は今後ますます「見た目」のモザイク化が進むだろう。いわゆる解放区、である。
先月28日、「阪納誠一メモリアル走行会」の前夜祭において、隣席の人に面白い話を3つ聞いた。そのうちのひとつ。
「風邪をひくと通常は食欲がなくなるでしょ、そうすると、食べたくなくても栄養のあるものを食べろ、そうすれば早く治る、という人がいるでしょ、とんでもない間違いですよ、物を食べてはいけない状態に体はあるんです、だから食欲が落ちるんです。そこで食べちゃったら、話がまるで逆じゃないですか、動物なんて、食欲が落ちたら何もしないでじっとしてますよ、彼らの方がよほど、自分の体ってものを知っているんです」
これを聞いて「なるほど」と思った。僕は元来、周りにいるすべての人の頭がよく見える質である。
そして実は、おとといの午前から胃が痛くて仕方がない。本日は遠近両用眼鏡をかけると目玉の奥がグリグリと痛み、気分が悪くなる症状もそこに加わった。胃薬は飲んでいるが大して効かない。胃痛と食欲不振とは別のものだが、本日は先日耳にした上記の話を思い出した。
食欲がなければ絶食をしてもなんら苦痛はない。よって昼と晩にほぼなにも食べずにいたところ、夜になって胃痛はその強さを減じ、10時を過ぎるころには随分と楽になってきた。
「食欲のないときには物は食べるな」とは案外、本当のことかも知れない。
事務係のコマバカナエさんに昨年暮のウェブショップの売上金額を出してもらうと、11月は対前年同月比で55パーセント増、12月は同33パーセント増だった。この好成績の理由は何かと考えて分からない。誰のお陰かと考えればそれはもちろん、お客様のお陰だ。
それはさておき明窓浄机を心がけようとして数ヶ月経ってもこれができない。たかだか1平方メートルの机をなぜ清浄に保てないか。
「掃除とはゴミの移動だ」と言った人がいる。上手いことを言うものである。机上に電話と計算機とコンピュータのみを残し、残りのすべてをゴミ箱に放り込んだとしても、誰が困るということもない。しかしその踏ん切りがつかないゆえの、散らかった机である。
きのうの夜は10時ころに寝に付いたが、100頭の豚が今まさに死のうとしていて、そこに電波が共鳴してブォンブォンという音が天空に響いている、そういう夢を見ながら徐々に覚醒していくと、居間から「やったね」「良かったね」「上手だね」という声が聞こえてきた。
寝室から出て行くと、宿題の書き初めをちょうど次男が完成させたところで、半切の和紙には「高い志」とあった。訊けば上級生からいただいた年賀状の「自由学園での生活には高い志を以て当たれ」という一節からこの題を決めたという。時刻は11時15分だった。
「それはさておき」と、先ほどの夢の内容を披露すると、「それはガダラの豚じゃないの」と長男が言う。「ガダラの豚」とは初耳だったので説明を求めれば、人に取り憑いた悪鬼をイエスが一群の豚に移し、その豚がこぞって崖から水に落ちて死ぬと、悪鬼により大騒ぎをしていた人も静かになったという、マタイ伝の中にある逸話だという。
ソニーだかニンテンドーのゲームを次男に強いる悪鬼が一時的に去り、その一瞬の間隙を突くかたちで次男は普段以上の実力を発揮して書き初めを完成させた。その空気が寝室の僕に伝わってあのような夢を見させたのではないか、ということを考えるのは容易だが、まさかそのようなことが実際に起きるわけはない。
「駅伝を走る男は色っぽいな」
「僕は駅伝を、オリンピックの種目のひとつにすべきと思うよ。振り返ってみれば、アテネオリンピックはその絶好の機会だったけれど」
「オリンピックの駅伝ともなれば、42.195キロの10倍を10人で走るのは短すぎるな」
「スタート地点も問題だよね」
「エルサレムとか」
「それじゃぁアラブ系の選手の安全は保証できないでしょう」
「駅伝がオリンピックに採用されねぇのは、警備の難しさもあるのかも知れねぇな」
「それともうひとつ、日本人以外の観客は、たとえばマラソンでも途中経過には興味がないみたいね、スタートとゴールしか見なかったりするらしいよ。北京でも、スタジアムのスクリーンにはなにも中継されなくて、それが問題になったでしょ」
「駅伝がオリンピックの種目になったら、それこそ観客がもっとも熱狂するのはこれ以外にないと思うけどなぁ、しかしあれが好きなのは日本人だけなのかなぁ」
「パリからローマまでなら、古道を辿って走れそうだけどね」
「なにしろ長距離レースってのはロマンティックだよ。三本和彦がロンドンからシドニーまで走った『世界最長ラリーに挑戦して』が甘木庵にあるだろ、あれは面白いよ」
「いや、それは見なかったな」
という会話を長男と交わしたのは今朝のことで、夜は"Finbec Naoto"が毎年のお正月に企画するカレーライスを家族4人で食べに行く。カレーに合わせるお酒は難しいから2日続けての断酒か、と考えていたところメニュにはおつまみも載っていて、ついヴァンムスーを注文する。
開店時刻の前から駐車場にお客様のクルマが見えたため、早めにシャッターを上げ、正月らしく万両の鉢を出す。2009年最初のお客様には、片山酒造の三年熟成カストリ焼酎「粕華」を差し上げる。もちろん、ウェブショップにおける2009年最初のお客様にも、同じお酒を商品に同梱して出荷する。
ご友人のお宅の家には本日の出荷、ご自宅には4日必着の地方発送をご注文になったお客様がおっしゃるに、日光東照宮にはこの30年のあいだ初詣を欠かさないが、今年の混雑ぶりには目を見張るものがあったという。「不景気ゆえの、神頼みなんでしょうな」とのことだが、そう言われてみれば、きのうの瀧尾神社の人出も随分と多かったような気がする。
閉店後に製造現場へ行き、明日の準備をしてから自宅へ戻る。後のノルマに響いてはいけないため、晩飯はすき焼きながら本年初の断酒日とする。
「グルマンズ和牛」の巨大なロース肉には網の目のように脂肪が入り、つまり高級すぎて僕は1枚しかのどを通らなかった。ワインにおいても、たとえば"Chateau Petrus 1961"などは、せいぜいグラス1杯で満足をしてしまい、そこから先へは1歩も進めないらしい。
元旦には、いつものように仏壇を整えて後は何を置いても墓参りに行く。それから帰ると仏壇、神棚、お稲荷さん、水神、地神の5ヶ所にお雑煮を備える。人が朝飯にありつくのはその後になるから、元日の朝はいつも腹を空かせている。
朝飯が済むと瀧尾神社と追分地蔵尊に家族で初詣に行き、その足でおばあちゃんのいる特別養護老人ホーム「森の家」へ向かう。
車椅子に座ったおばあちゃんの手をはじめの5分間ほど握っていたのは、おばあちゃんを慰撫するためではなく、僕がおばあちゃんから力を貰うためだ。「おばあちゃんが生まれた年に、漱石は『門』を東京朝日新聞に連載したしたんだよ」と長男が言う。それだけ長生きをしていれば、もはや人間というよりは縁起物である。
おばあちゃんの耳に口を近づけてしゃべるたび、おばあちゃんの福耳を舐めたくなるが、それをしたら変態のような気がするから、いつも遠慮をしている。
午後は"rubis d'or"の仕込みをし、ウェブショップにことし初めてのご注文をくださったお客様にお礼のメイルをお送りする。夕刻は明日の初売りに備えての準備をする。
夜、日本酒を飲んだところ、朝と同じおせち料理は朝に倍して美味かった。