10時40分に下今市駅へお迎えした西順一郎先生と、昼前に戦場ヶ原の赤沼茶屋へ行く。先日次男とここで調べたのは、千手が浜へ行くハイブリッドバスのダイヤについてだった。ハイシーズンには平日であっても休日ダイヤが適用される、そのことを知らずに昨年はこのバスに乗れなかったのだ。
下調べの甲斐あって本日は何の間違いもなく、小田代ヶ原、西の湖入り口、弓張峠と、バスは木漏れ日の中を進んでいく。赤沼車庫からおよそ30分ほどで我々は終点の千手が浜に着いた。人の姿はほとんど見えず、中禅寺湖の水際と砂浜のあいだを水鳥が行ったり来たりしている。気温は22、3度といったところだろうか。
弁当を食べ、しばし散策をし、写真などを撮って、ふたたび赤沼茶屋へ戻る。そしていろは坂を下って下界へ戻る。
明日から上澤梅太郎商店の主催する「日光MG」が2日にわたって開催される。今回の「第20回日光MG」には、社員全員と僕や家内や長男を含めても19名のところ、社外から18名もの方が参加をされる。このところ何かと気ぜわしかったのは、この日光MGのことがいつも頭にあったからだ。
それでも夜、先生や前泊の方々と宴を共にすれば、緊張していた神経はほぐれ、久しぶりにゆったりした気分になってくる。そして農家を改装した店の外では、秋の虫が盛んに鳴いている。
自身の属するゼミの勉強会が日光で開かれる、その準備のため長男はおとといから帰宅している。次男は夏休み報告書を本日午前にようやく書き上げ、下今市駅12:04発の上り特急スペーシアで帰寮した。行ったり来たり、重なったり交錯したり。
ゼミの先生や仲間の前泊組はきのう「竹美荘」に宿を取り、茶臼山の麓の「長久温泉」で露天風呂に入り、「魚登久」で前夜祭をしたという。そして今日の昼飯は先生が二宮尊徳関係の仕事をしていらっしゃることもあって「報徳庵」で蕎麦を食べたという。
今日の午後はウチの隠居で課題の発表をし合い、場所を移さず打ち上げに入るという。そのため家内は夕刻よりあれこれ酒肴の用意をし、我々は夜7時30分にそれらを隠居へ運んだ。勉強会はいまだ続いていた。
僕は母屋で晩飯を済ませ、そのまま寝ようとしたが家内の言うには、長男はどうも僕に、先生と話をしてもらいたいようだという。そういうところのニュアンスについては、僕は非常に鈍い。家内に急かされ隠居へ行き、先生や長男のゼミ仲間たちと数十分の歓談をする。やがて先生は庭へ出て尺八を吹き始めた。
彼らは今夜「熱海館」に泊まる。明日はもういちど「長久温泉」で露天風呂に入り、先生に昼酒を飲んでいただいてから帰京するという。夏の終わりの日光の、理想的な過ごし方である。
僕の同級生アリカワケンタロー君は夏休みの宿題を3日で終わらせた。僕より29歳年下の長男の宿題は僕の時代のそれよりも多く、長男より10歳年下の次男の宿題は長男の時代のそれよりも更に多い。今やあのアリカワケンタロー君でさえ夏休みの宿題を3日で終わらせることは不可能だろう。
そして次男は本日、読書感想文に引き続いて夏休み報告書に取りかかったが夕刻になっても終わらない。本日、次男は「市本サイクル」のバーベキューに呼ばれているのだ。
18時の閉店も近くなったころ「市本サイクル」に電話を入れてバーベキューに必要なものを訊くと「肉だけで大丈夫です」とのことだった。ということは、ウチが行かなければ鉄板の上にはキャベツや具無しのもんじゃ焼きのみが展開される、ということだ。
よって次男には「その続きは夜にしろ」と言い、ふたりで三菱デリカに乗ってスーパーマーケット「かましん」へ行く。ここで大急ぎで数種類の肉を買い、日光市瀬尾地区の自転車屋に次男を送る。
とんぼ返りで帰宅した僕はシャワーを浴び晩飯を食べ、小休止をするうち時刻は早くも9時だ。ふたたび三菱デリカを走らせ「市本サイクル」へ行く。
明日は帰寮日だから、今日のバーベキューが次男にとっての夏休み最後の晩飯ということになる。そして次男を催しに呼んでくれたイチモトさんに礼を述べ、いまだ鉄板の周りにいる中学生たちに別れを告げる。
窓を全開にして大谷川の橋を渡る。吹き込む夜気が心地よい。誰かが河川敷で、夏を惜しむようにして上げている花火を横目に帰宅する。坪庭の百合が闇の中に白く浮かんでいる。
足尾における古河財閥の迎賓館「掛水クラブ」をきのう次男と見学した際、2階の和室に青淵渋沢栄一の書ふたつを認めた。「書ふたつ」とは無教養もいいところで恥ずかしい限りだが、揮毫扁額についての数助詞を僕は知らないのだから仕方がない。
それはともかく江戸期からあった足尾銅山を手に入れ近代経営に乗り出した古河市兵衛と渋沢栄一は刎頸の友だった。その渋沢の書「晴晩貴間人」は明治初期の大実業家にふさわしい達筆だ。しかし僕はむしろ次の間とも言える隣の部屋にかけられた別の書に惹かれた。号は進乎齋とある。
1階に降りて案内の人に訊ねたがよく分からないらしい。よって帰宅してから検索エンジンに当たったところ「進乎齋」とは嘉納治五郎60歳代の書号とのことだった。そして渋沢と嘉納のあいだには交流のあったことも知った。
ところでその進乎齋による四文字は「友得誠唯」というもので、知ってはいても中々できないことのひとつである。
「環境問題について考える」という夏休みの宿題が、次男には出ている。環境問題といえば、真っ先に思い浮かぶのは足尾銅山だ。かつて長男にも同じ宿題の出たことがあり、しかしそれは中学2年のときのことだったのではないかと先日、長男に質したところ、長男もまた、これは中学3年の夏休みの課題だったという。長男と次男の年齢差は10歳で、だから本日は10年ぶりに足尾を訪問する。
足尾銅山の通洞坑からは直線に6,500メートルの軌道がある。その取り付きまで行くトロッコ電車に10年前も乗ったかどうかの記憶はない。足尾銅山の坑道の総延長は1,200キロとのことで、これは東京から博多までの距離に匹敵するという。
銅山を出たら真っ先に訪ねるべきは、煙害で草木の枯れた松木渓谷だ。と、10年前は道の続く限りどこまでも進むことのできた渓谷沿いの道が、現在は工事専用道路として、ゲートが設けられている。仕方なしに、そのゲートの手前から渓谷の様子を窺う。山肌は近年の緑化運動により、随分と緑を取り戻していた。
そこから足尾の街へ戻る途中で「龍蔵寺」に寄る。明治25年には40戸240人の規模であった松木村が、その9年後には煙害により廃村になった、その村の墓を集めた石塔が、このお寺にはある。そしてその石塔の先、松木川を隔てた向こう岸には、精錬所の大煙突が、いまだ遺跡のように屹立している。
古河財閥の迎賓館「掛水クラブ」を見学し、資料となる本を買うころには昼時を過ぎていた。よって足尾の街道筋にひなびた蕎麦屋を発見し、ここで昼飯を食べる。その際、店のオバサンに「本山鉱山神社」の場所を確かめると、オバサンは僕の問いに答えながらも、あまりはかばかしい顔はしなかった。かなり荒れ果てているらしい。
食後、明治23年製の古河橋を右手に精錬所の専用軌道をくぐり、本山地区の鉱山住宅跡を見に行く。ここは年長の友人ヨコタジュードーが、後に1997年のアニマ賞を獲ることになる写真を撮影したところだ。その1997年には形を留めていた廃屋も、長男と来たその3年後には随分と傾き、そしてその10年後の今となってはほとんど形を留めないまでに崩壊している。
その廃墟の脇から山の上に向かって伸びている細い道を辿り、「本山鉱山神社」を目指す。この神社には「上澤梅太郎商店」の名のある鉄の水鉢だったか、そういうものがあり、だから次男にもこれを見せてやりたかった。しかし道は夏草に覆われ、折しも雷が近づいてきた。よってこれ以上の登坂は危険と、今回の参殿を諦める。山道を一目散に下る途中で鉱山住宅の共同風呂を、草をかき分け次男に確認させる。
一瞬にして土砂降りとなった足尾から2,700メートルの日足トンネルを抜け、細尾地区からいろは坂を目指す。これからの行程は夏休みの宿題とは何の関係もないが、ちと調べたいことがあったのだ。雷雨の中、いろは坂を登る。その雨も中禅寺湖を過ぎるころには弱まり、竜頭の滝を過ぎて戦場ヶ原の赤松茶屋に至って完全に止んだ。間近の雲の上には男体山の頂上も見える。
調べものを済ませてふたたび来た道を戻り、中善寺湖畔から道1本裏に入ったところのパン屋"Feu de Bois"で買い物をする。そして濡れたいろは坂を慎重に下り、午後3時すぎに帰宅する。
おととい大久保の「でめ金」でぶつ切りのレヴァを七輪の網の上に転がし、そのサクサクとした感触を味わいながら「ここに次男がいたらな」と思った。きのう湯島の「英鮨」で秋刀魚の握りを醤油にちょこんと付けて口へ運ぶときにも「ここに次男がいたらな」と思った。
本日午前に帰宅して「そういうとき、なんで長男のことは思わないかね」と家内に訊いたところ、長男はひとり暮らしをしているから自炊するにしろ他所で食べるにしろ自由自在だ、しかし次男は寮で暮らしているから、そして寮の食事はよく考えられているにしても、決まった献立のものを食べなくてはならない、そういうことが頭の片隅にあるから、自分がひとり気楽に食事をしているときには次男のことばかり思い浮かぶのだ、というようなことを答えた。まぁ、そうなのかも知れない。
次男の帰寮日は今月の30日だ。そして次男は帰寮日までに焼肉と鰻を食べたいという。そういう次第にて夜は焼肉の「大昌園」へ行く。
「54歳の人間が3日のうち2回も焼肉を食ったらマズイんじゃねぇか」とも思われたが、寮に帰る次男の希望なのだから、それでいいのだ。
国内最大規模となるTwitter利用のECショップ「ツイモール」が、本日は「プチ贅沢」をテーマに夜8時から3時間限定のタイムセールをする。そしてこの「ツイモール」を形成する「ソーシャルメディアマーケティング協会」の、僕は会員である。今回、僕は「夏のクリスマス」という商品を出す。そしてその準備は数日前から続けてきた。
間の悪いことに僕は本日、東京に出張があり、帰社していてはタイムセールの時間に間に合わない。よって会社の光回線ではなく、甘木庵のダイニングキッチンに置いた"ThinkPad"に"docomo"の通信端末を取り付け、これを今夜の道具立てとする。
前回のタイムセールは7月15日だった。そしてこの日は八坂祭の直会で、我々町内役員は公民館に詰めていた。僕は"docomo"の通信端末を取り付けた"ThinkPad"を公民館に設置し、ここでタイムセールを行った。前回といい今回といい、同じような状況は続くものである。
メシを食って腹をふくらませ、セールの最中に寝落ちなどしては大ごとだから、コンビニエンスストアで買った柔らかいケーキと牛乳を軽食とした。そしてタイムセールは23時に無事、終了した。
商品を買ってくださった方や関係者にお礼のDMを送ると時刻は11時30分になっている。今日の朝飯はコンビニエンスストアのサンドウィッチと牛乳、昼飯は「小諸蕎麦」の蕎麦、そして晩飯がケーキと牛乳であれば、何のために朝から晩まで働いたか分からない。
よってブーツを履き、岩崎の屋敷裏から切通坂へ出る。これを下って天神下を通り過ぎ、湯島の繁華街というか歓楽街に入っていく。そしてその、中国なまりや韓国なまりやタイなまりやフィリピンなまりの日本語の交錯する歓楽街で鮨を肴に燗酒2合少々を飲む。
切通坂をふたたび戻る僕の歩行速度は、100リットルのザックを背負い、体力の消耗を避けつつ山を登っていく人のそれのように低い。そして午前1時30分に甘木庵へ帰着する。
所用にて夜9時すぎに大久保へ行く。所用とはいえ行き先が大久保であれば、大した所用でもない。そしてJR大久保駅の、まるで堤防かダムのように高い壁を見上げながら狭い道を歩く。
夜9時を回っても晩飯は食べていない。よって残暑厳しき折にもかかわらず、卓上に七輪のある店で肉を食べる。飲物は麦焼酎のオンザロックス。ところがグラスの焼酎などは1、2分で飲み干してしまい、お代わりを頼むのも面倒だ。メニュを見るとマッコリのボトルがあったので、これを取り寄せ数十分で空にする。
いつの間にか大久保駅のプラットフォームのベンチで寝ていて、駅員に起こされる。何本もの電車を僕は見送っていたらしい。そして次の電車に乗った途端、ふたたび眠りに落ちる。
一体いくつの駅を通り過ぎただろう。電車が停まるたび目を覚まし、周囲を見まわし、そこがどこであるかも分からず、すぐにまた眠ってしまう。そして電車が次に停まったところで「まさか船橋や千葉じゃねぇだろうな」とプラットフォームに飛び出せば、そこはまだ飯田橋だった。
そういう紆余曲折を経て甘木庵にたどり着く。
この数日のあいだは、晩飯を食べるなり寝てしまうようなことを続けている。すると先ず2時30分のころに目が覚め、すこし本を読んで二度寝をし、次は4時30分のころに目が覚める。早くに目が覚めても、何をするでもない、寝台の下に重なった本から1冊を取り上げ、それを読み、しばらくすれば起床する。今朝は晴れてはいるが、山の姿は薄い。
開店前の掃除をしながら、坪庭に百合の開きつつあることを知る。この百合は昨年から咲き始め、そのとき植物に詳しいと思われる人が「来年はもう1輪、花が増えますよ」と言った。花のことに疎い僕は大いに感心し、そのことを昨年8月の日記に書き留めた。
日記に書き留めた百合の花は8輪だった。今朝のそれを数えてみれば、つぼみも含めて10輪ある。10マイナス8は1ではなく2だから、何だかおかしい。
夕刻、イワモトミツトシ春日町1丁目自治会長の名代と言っては大げさだが、祝儀袋に入れた祝金を持って、追分地蔵尊の「二十三夜祭」を訪ねる。本部に祝金を届け、もらった福引き券で福引きをした結果の食用油を提げて家に戻る。
休む間もなく、関西から帰ってくる次男を下今市駅まで迎えに行く。
次男が学校から与えられた夏休みの課題は「男旅」で、「男旅」といえば河口慧海、浮谷東次郎、上温湯隆、植村直己などの名が先ず浮かぶ。関西に3泊くらいしてどこが男旅かという気持ちもあるが、晩飯の時間にあれこれ聞いたところによれば、大阪ではユースホステルのドミトリーに泊まり、オーストラリア人やスペイン人と交流したという。
次男には長い休みのたび、あちらこちらへ旅行して欲しいと思う。
きのうの夜9時前に就寝したら、今日の午前2時30分に目が覚めた。「これはしめた」としばらく本を読んだがそのうち眠くなり、結局は朝6時ちかくまで寝てしまう。これだけ寝られるということは、それなりにからだも休息を必要としているのだろうか。
開店前、国道121号線を隔てた店舗向かい側の駐車場でゴミを拾っていて、そこにクルマを停めた、若い男女の女の人の方に声をかけられる。彼らは近い将来に棲む場所を決めるべく、このあたりを見て歩いているのだという。そして日光市今市地区まで来たところで、何やら良い波動を感じたという。
「どうですか、このあたり」と訊かれても、僕は市役所の人ではないから、あれこれ具体的な数字を挙げて説明することはできない。よって「空気と水は美味い、雪は少ない、暑さ寒さは彼岸まで」というような、極めて曖昧な感想を述べる。
やがてその夫婦らしき男女は、国道121号線を渡って店まで来てくださった。そして少なくない買い物をしてくださった後、まるで龍のような白雲が富士山を横断している写真をくださった。そして間髪を入れず、パワーストーンだという紫色の石もくださった。「くださった」の四連発である。
冗談はさておき僕はその写真と石を即、辰巳の方角へ向いた、店の棚に安置した。早くからゴミ拾いをしていると、良いことがあるものである。
日中、客足も繁くなるころ、今年の6月に惜しまれつつ店を閉じた「グリル富士」の奧さんが来てくださる。そしてワインの瓶2本分のタレをくださる。「グリル富士」のステーキのタレは「タレの世界における黄金比」と言っても過言ではない。
飲むというよりは噛んで食べるような感じのワインを夕刻のうちに抜いておく。そして晩飯にはいつものOGビーフではなく国産牛を焼き、これを「グリル富士」のタレで食べる。
きのうはそれほど遅くならないうちに寝ることができた。よってそれだけ今朝も早くに目が覚める。週末の日光行きは混み合うから早くに甘木庵を出ようと考えつつ、きのうの日記を書くなどして、結局はいつもと変わらない時間を壁の時計に確認する。
東京大学の杜から、降るようにして蝉の声が絶えない。歩いて東京大学が遠のけば、今度は岩崎の屋敷が近づいて、また蝉の声が降り注ぐ。軽くないザックを背負って切通坂を下る。「東京も涼しくなったなぁ」と一瞬、感じて「いや、別段、涼しくはない。真夏の暑さが峠を越しただけだ」と訂正をする。
夕刻もちかくなってから、所用にて東照宮のちかくまで行く。行楽の帰り道なのだろう、市内にはクルマが数珠つなぎになっている。その1台1台に「有り難う、また来てね」と言いたくても、そういうわけにもいかない。
夜、シャワーを浴びてから裸に近い格好で冷たいお酒を飲む。至極気分が良い。そして21時前に就寝する。
所用にて夕刻より日本橋に出る。用事が済んだのは21時30分だった。
日本橋から甘木庵へ帰る最も合理的な方法は、何を以て合理的とするかによって異なる。銀座線で上野広小路に出れば切符代は160円で足りる。しかし1,000メートル以上の歩行と切通坂の登りが待っている。
よってすこし遠回りにはなるが銀座線で先ず銀座へ移動し、そこで丸ノ内線に乗り換えることにした。甘木庵の最寄り駅は本郷三丁目である。
ところが銀座で地下鉄を降りればそのまま乗り換えというわけにもいかず、旧電通通りから鉤の手に入った路地の和食屋に吸い込まれてしまう。いつまでも汗が引かないのは、8月の東京で焼酎のお湯割りを飲んでいるせいだろうか。
小一時間後に数寄屋橋の交番脇から階段を降りる。すると、丸ノ内線のプラットフォームの、中途半端なところにオバサンが立っている。キヨスクで何かを探すでもない、安全柵の内側で電車を待つでもない、その中途半端な場所を通り過ぎようとして、オバサンの頭上80センチのところから冷風の吹き下ろしていることを知る。
そして僕もオバサンの脇に立つ。冷風の出口はオバサンの頭上80センチ。そしてオバサンより推定で20センチほど背の高い分、僕の場合には頭上60センチと、より近いところから勢いよく吹き出す冷風にハゲ頭をさらし、涼を取る。
本郷三丁目の「三原堂」のショウウィンドウにはススキと月があった。東京も、いよいよ秋、である。
朝、次男の机を見ると、今月12日に訪ねた「子規庵」の状差しからもらってきたパンフレットがあった。パンフレットの写真は若いヘチマも涼しげな、「子規庵」の庭を撮したものだ。手前の座敷には子規が立て膝で物書きをするための、一部が切り取られた机も見える。
パンフレットを裏返すと子規の写真が添えられてあり、その右に「明治三十一年三宅雪嶺撮影」とある。三宅はこのとき、どのようなカメラを使ったのだろう。あるいは写真師がすべてを準備した後に、三宅がシャッター作業だけを行ったのかも知れない。
ウチの店の入り口に掲示した書は随分と前に、それまでの「萬緑」から「鬼灯」にかけ替えられた。「鬼灯」の次は、どんな文字になるのだろう。
チタケを戴く。これが今夏における何度目のチタケかは、もう記憶にない。今年はチタケの当たり年という。それに伴いキノコを採りに行って山で命を落とす人の数も、昨年の何倍にも上るという。
午前、かんぴょうを仕入れに宇都宮へ行く。別のところで集金を済ませてから器屋の「たまき」に寄る。その駐車場に新しいメルセデスがある。そのメルセデスを見て「最近、色んなクルマがBMWに似てくるな」と感じる。
「たまき」の入り口に、店主のタマキヒデキさんの書いた「最中」の文字がある。それを見て「素人にこんな字を書かれちゃ、本職の書家は堪んねぇだろう」などと思うのは僕だけだろうか。
僕は利き酒の「本酒会」では書記を務めている。むかしは例会に出す酒を選びこれを取り寄せる「酒長」という係もいたが、その人が辞めて以降は僕がその役割を代行するようになった。
おとといの本酒会のお酒を「山本合名特集」としたのは、今月3日に銀座の鮨屋「よしき」で「何か冷たいお酒」と頼んで、この会社の「ドキドキ夏生」を飲まされ、その美味さに驚いたからだ。「山本合名」のお酒には間違いがない。僕は蔵を見学することまでしたからよく知っている。「よしき」の店主のお酒の選定には間違いがない。
そして「山本合名」のお酒は能代の酒屋「天洋酒店」に注文すれば間違いがない。店主の浅野さんに「山本合名のお酒、今の季節の良さそうなところを見つくろってください」とメイルを送ればそれでこと足りる。プロに任せておけば、間違いはないのだ。
素っ裸で目を覚ます。からだの下にはフィンランド製の、杉綾織りのバスタオルがある。首にはリトアニア製のバスタオルが巻き付いている。いまだ夜は明けていない。
日本の気温は一時、秋に向けて下がる気配があり、窓から吹き込む風も冷たくなった。よって数日前より念のためパジャマを着るようにした。ところがその後に夏は勢いを取り戻し、だから僕もふたたび素っ裸で寝るようになった。そのような格好で目覚めた朝は暑くもなく寒くもなく、雲の上にフワフワ浮いているようで、至極気持ちが良い。
家内の寝ている隣の部屋から蚊取り線香が聞こえてくる。と、ここまで書いて先日、長男と交わした会話を思い出した。
「聞香とは不思議な言葉だよな」
「鮮やかな色を愛でるときにも『聞く』という表現を、むかしの人はしてるんだよね」
「流れに枕し石に口すすぐとは違うけど、でもそれと同じような洒落た表現、あるいはこじつけみてぇなものだったんじゃねぇか」
「いや、むかしの人は本当に、匂いや色を耳で感じたのかも知れないよ」
「ンなこたぁねぇだろう」
というのがその会話の内容だった。これ以外にも「観音」という言葉がある。「音を観る」ということだ。あるいは今でも我々が日常的に使っている言葉で「味見」というものがある。味は舌で感じるもので目で見るものではないけれど、我々は何の違和感もなく「味を見る」という言葉を使っている。
「そのあたり、どうなのよ、漢文学の先生さぁ」と訊きたくても身近にそんな人はいないから「そのあたり」についてはいつまでも、僕にとっての謎であり続けるのだ。
お盆に店の手伝いをする長男のために、販売係のハセガワタツヤ君が使っているものと同じ、藍染めの古い前かけを倉庫から出してやった。この前かけは脛のあたりまで達する長いものだ。前掛けは大きな段ボール箱ふたつ分の在庫があったが、このたび行ってみるとひと箱は完全に空になり、ふたつ目の箱が開けられていた。
よって空になった方の段ボール箱を処分しようとしてそれを棚から下ろすと、隙間を埋めるために使ったのだろう、茶色く変色した、昭和43年つまり1968年2月1日の「朝日新聞」が出てきた。
第12面に、いまだ120円だった時代の「アサヒグラフ」の広告がある。そこには「新しい頭脳コンピューター(電子計算機)-それは豊かに繁栄する理想社会を作り出すと言われるが…」という見出しが見える。「帰ってきたヨッパライの三人」とのキャプションが「ザフォーククルセダーズ」の写真に添えられている。
第4面に目を移せば「濃い心理戦様相 解放戦線のテト攻勢 都市民衆に力を誇示」と、正にあの時代を象徴する記事が大きく誌面を割いている。サイゴン陥落は1975年4月。南ヴェトナム軍はここから7年間も、よく持ちこたえたものである。
と、いつまでもその43年前の新聞を読んでいたい気分だったが、お盆が去っても店は忙しい。というわけで資源ゴミにもなり得ないようなボロボロの新聞を潔くゴミ箱へ捨て、仕事に復帰する。
朝5時30分に"iPhone"で日光の山を撮り、それを添付したツイートを上げようとして失敗する。そしてその1時間後、今度はデジタルカメラでおなじく日光の山を撮る。これ以上ない好天だが、秋の気配を感じさせるところが瑕瑾である。
昼過ぎ、東京へ向かう長男と次男を、下今市駅まで家内が送ろうとしている。次男は学校から与えられた夏休みの課題「男旅」を実行すべく、数日後に関西へ移動する。その次男に向かって「オトコ旅なんだからな、そのあたりを認識しろよ、オンナ旅じゃねぇんだから」と声をかける。
「男旅」という言葉を耳にして頭に浮かぶのは上温湯隆であり植村直己であり、あるいは河口慧海である。上温湯はサハラ砂漠で死に、植村はマッキンリーで死に、しかし河口だけは畳の上で死んだ。
登山靴を履き、100リットルほどのザックを背負った白人女を、僕はあちらこちらで見ている。「男旅」を定義することは難しい。
午後も4時ちかくにになりかかるころ事務係のコマバカナエさんが「荷造り、見てきていただいてもいいですか」と言う。「いいよ」と答えて当該の場所へ行くと、「こんなにたくさんの発送伝票、時間までに荷造りできるわけ、ねぇじゃねぇか」という量の仕事を抱えて製造係のタカハシアキヒコ君が悪戦苦闘していた。
年間の売上金額を高い順にソートすると、お盆のそれは毎年かなり上の方に来る。そういう状況の下、朝から店舗で販売作業に従っていて、荷造りの現場には思いが至らなかった。
幸いというか何というか店の方は客足も落ち着いてきたから、僕はみずからを荷造り現場へ配置転換し、作業を手伝う。5時になるころタカハシ君はすべての商品をヤマトのドライバーへ手渡し、次の仕事をするため製造現場の奧の方へと走り去った。
終業後、汗だらけの体をシャワーで洗い、黒地に極楽鳥のアロハを着る。そして家族5人でフランス料理の"Finbec Naoto"へ行く。明日は僕の誕生日にて、しかし明日は長男も次男も昼のうちに東京へ移動する。今夜のメシは、まぁ、僕の誕生祝いの前倒し、というようなものである。
僕の誕生日は毎年「キャーッ」と言いたくなる繁忙の中にある。そしてそのことが僕は結構、嫌いでなかったりする。
ここ数週間は寝室の窓を薄く開け、素っ裸の上に麻と綿を混紡にしたバスタオルをかけて寝ていた。ところがきのうの明け方は寒くて闇に布団を手探りし、これをかぶって二度寝した。きのうの夜は風邪を予防するためパジャマを着た。「暑い夏」という何者かが存在するなら、ぜひ日光の上空まで戻ってきていただきたい。
長男が帰宅すれば食卓での話題も豊富になり、中尾佐助の「料理の起源」からいきなり村西とおるの「SMっぽいの好き」まで飛ぶ。中学3年の次男が中尾佐助のみを記憶して村西とおるの方を忘れ去れば良いのだが、こういうことは得てして逆の結果を呼びがちである。
「スパゲティは外で食べることはない」と長男が言う。「そうなんだよ」と僕が同意する。「それでも私は外で食べたい」と家内が言う。次男はブロッコリーのにんにく炒めを食べて「美味めぇ」と言っている。
家内と次男との3人で朝、如来寺のお墓参りに行く。何日か前に降った夕立のせいか土の上の敷石に泥が跳ね上がっている。そういうところも含めてお墓を綺麗にする。
先日、農協の直売所に、ユミテマサミサンの出品したスイカを見つけた。スイカには「タヒチ」という品種名が添えられていた。生産者が元社員のユミテさんで品種名が「タヒチ」とくれば、そのスイカを買わないわけにはいかない。そしてそのスイカは即、店の手水鉢に沈められた。
翌日、スイカは出勤しているすべての社員に行き渡った。しかし僕はタイミングを外し、それを食べること能わなかった。そして今日になってようやくその一部が僕の目の前に現れ、だからこの「タヒチ」ふた切れを昼飯の前に食べる。「タヒチ」はたっぷりの果汁を含み、果肉は甘く、美味かった。
しその実の買い入れについて報せるハガキを、午後の店舗の繁忙を縫って整える。しその穂を指でしごいて実を取る作業は根気の要ることで、だからこのハガキの宛先の農家には、本当に感謝している。しその実の買い入れを何日続けるかは、今のところ未定である。
北千住発の下り始発で帰宅し、店舗を手伝っていた長男が夕刻、次男と提灯を持ってお墓へ出かけていく。そしてお墓に上げた灯明を提灯へ移し、その灯明が仏壇のロウソクへと移される。
夜の風が涼しい。そして焼酎のソーダ割りを飲む。
朝、散歩の途中で岩崎の屋敷の裏を抜けようとすると、ある三菱系の施設の塀に「旧岩崎邸庭園」の説明看板があった。僕はかつてこのあたりに6年ほどを暮らしたが、岩崎の屋敷は見たことがない。ブラブラと無縁坂を下り、また上がって甘木庵へ戻る。
長男の作った朝飯を食べ、次男がその後片付けを済ませたところで次男と外へ出る。そして切通坂を下って地下鉄の湯島駅へ至り、ここのロッカーにコンピュータや着替えを格納する。
湯島の天神下から、S字型に大きくカーブした砂利の道を上がっていく。そして「旧岩崎邸庭園」を見学する。団体を案内するオジサンに折良く遭遇し、またオジサンも良かったら一緒に聴いてくれと言うのでその言葉に甘え、あれこれ新しい知識を仕入れる。
大木から降り注ぐような蝉時雨を浴びながらもと来た道を下り、湯島から根津までのひと駅のみを地下鉄で移動する。日陰を選んで歩きたくなるほどの暑さだから、言問通りの古い喫茶店「カヤバ」に入り、谷中生姜のジンジャーエールで水分を補給する。「カヤバ」の店内はいつの間にか、モダンな空間に変わっていた。
上野桜木の交差点を右に入れば程なく「東京藝術大学大学美術館」に行き着く。ここで「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」展を観る。地下に深く潜っていくこの美術館が、僕は嫌いでない。
ふたたび言問通りに出て北へ歩く。日本海を台風が通過しているため風が強い。雲が異常な速さで流れ、空は晴れたり曇ったりしている。
寛永寺陸橋は僕の東京八景のうちのひとつ。大好きな景色だ。ここから階段を下って正岡子規の旧宅を訪ねる。「訪ねる」とはいえ次男の興味を喚起するところではないから、ここではただその前を通りすぎるだけである。そして尾久橋通りに出て「むしろこちらの方が」と思われる「根岸三平堂」を見せる。
このあたりで昼もちかくなったため、鶯谷から有楽町へ移動して昼飯を食べる。そして「伊東屋」から「東急ハンズ」を巡って東京国際フォーラムに入る。
4月5日からチケットを買っておいた「ドラムライン」は、かなり良いコンサートだった。踊りの「リーヤガールズ」こそそこそこだったが、楽器の面々や司会役の技術はかなり高い。トロンボーンのオネーサン、トランペットのオニーチャン、アルトサックスのオジサン、そして何より後方正面に位置して力を見せつけるドラムが凄かった。
体に太鼓のリズムが残ったまま地下道を歩き、日比谷から千代田線で湯島へ行く。ここでロッカーから荷物を取り出し、ふたたび千代田線で北千住へ移動する。その地下鉄の車内で、北千住で食べられるあれこれを並べると「串カツ」に至ったところで「あ、串カツ、食べたい」と次男が言う。よって「天七」で串カツ11本を食べる。
8時に帰宅して旧岩崎邸庭園、シャガール、子規庵、ドラムラインと本日、次男と行ったあれこれを次々と頭に思い出しながら「どこがいちばん楽しかったかなぁ」と考える。そして「やっぱ天七だろう」との結論に達する。
下今市駅15:04発の上り特急スペーシアに次男と乗る。そして2時間と少々の後に表参道に出る。待ちあわせの場所として指定していた"RAT HOLE GALLERY"で長男と落ち合い、高樹町ちかくまで裏通りを辿る。そして路地のどん詰まりにある豚料理屋"LAUBURU"に達する。
検索エンジンに"LAUBURU"と入れればこの料理屋の、主に接客についての悪評が目に付く。しかしこの店について「接客に難あり」とウェブ上に書く人はむしろ、自分の、店の人への態度に問題があるのではないか。
とにかく僕も長男も次男も"LAUBURU"は大好きな料理屋だ。そして目の前に運ばれる料理のいちいちに「美味い、実に美味い」を連発ながら今夜の晩飯を終える。
「赤貧洗うがごとし」は悲惨だが適度な貧乏はむしろ洒落ている。僕が知る中にもミドルネームに「ビンボー」と入れたら良いのではないか、と提案したくなるような洒落た人たちがいる。
そういう人たちが「ウワサワさん、今オレ、ビンビン来てんのよ、オタクの店のイメージについてさ」とか「この商品を開発したなら、すかさず二の矢を放たないと、最初の商品が生きてきませんよ」なんてことを僕に言う。
言われたときこそ鼻で嗤ったりしているが、それから数日、数ヶ月、あるいは数年を経たところで「そうだ、その通りだよ」と、その、ミドルネームに「ビンボー」を入れたら良いのではないか、と提案したくなるような人の顔を思い出す。そしてその人に言われたことを遅ればせながら実行するのだ。
そうするとやはり何がしかの効果は上がり、だから「一杯飲み屋じゃ失礼だ、やっぱり銀座の鮨屋あたりで接待しないと」などと考え、「しかし彼を同伴したら、一体全体どれほどの勘定になるだろう」などとケチくさく逡巡し、結局は一杯飲み屋で、また一緒に騒いでいたりするのだ。
それにしても意表を突くアイディア、豊穣の語彙、普通の大人の失ってしまった闊達さをいまだ保ちながら、なぜ彼らは貧しいのか。「実に惜しい」と言わざるを得ない。
3日も4日も日記を溜め込んで、しかし難なく追いついてふたたびウェブ上にアップすること再々だった人にそのコツを訊くと「画像で記録を残しておく」とのことだった。僕が日記を溜め込むことはなく、それは一旦溜め込んだらお終いとの意識が働くからだろう。
ところで「画像で記録を残しておく」と答えた人が今度は逆に、僕におなじことを訊ねてきたから「自分が記録を残すとすれば、それは画像ではなく文字だ」と教えた。しかし最近は「これほど記憶が明瞭であればメモすることもあるまい」と何も残さず、そして翌日を迎えてみれば何ひとつ覚えていない。
日々あれやこれやの面白い事象は発生し、しかしそれを多くの人に披露しても興味を持ってはもらえないだろうからいちいちここへは書かない。
今夜「珈茶話」へ行ったのは「100円あげる」という店主のツイートを見たからで、これが「100円オマケする」だったら僕は「珈茶話」へは行かなかっただろう、ということも、分野分野の人にしか通じないことかも知れない。
「日光奇水まつり」に責任役員として列すべく、浴衣を着て午後4時45分に瀧尾神社へ行く。「日光奇水まつり」とは日光市今市地区の瀧尾神社、同大室地区の高お(雨冠に口を横に3並べして下に龍)神社による、全国でも珍しい二社合同のお祭りである。
このお祭りは毎年、双方の神社の氏子が代わる代わる、相手の神社を訪ねあう。昨年は瀧尾神社の氏子が、山の中腹にある高お神社を御輿と共に訪問した。今年は高お神社の氏子が主となり追分地蔵尊より瀧尾神社までの日光街道を遡上していく。
奇水まつりの御輿は3斗6升5勺の容量を持つ八角形の桶に御神水を満たしたもので、この、揺れる水を担ぐことは決して楽ではない。揺れる桶よりこぼれ出る水に濡れれば見物の市民たちは御利益を確信して大いに喜ぶ。そして御輿は無事に宮入を果たした。
瀧尾神社と高お神社には創建当時から霊験あらかたと伝えられる御神水があり、両者の御神水を合わせることにより良い水を後世へ伝えようとする「日光奇水まつり」はまこと、上質の水を求めて進出する食品工場も多い、日光にふさわしい祭祀である。
本殿前に安置された御輿によじ登った瀧尾神社のタナカ宮司の水占いは「これから突然の大雨に見舞われることはあっても、秋はかならず豊作に恵まれる」というものだった。
瀧尾神社境内での直会に出席をし、7時45分に帰宅する。
昼ごろ「店が忙しくてツイートができない、お盆の帰省、まだだよね?」とツイートしたら、未知の人からすかさず「宇都宮インター付近も渋滞。今日明日がピークの模様」とのリプライが入った。これから1週間以上も店が賑わってくれるなら有り難いことだ。
もっとも種々の理由から「このお盆は史上最悪の渋滞」という噂もある。渋滞がひどくなれば"Goldratt"の"Theory of Constraints"ではないが、実家に帰る人、家族と旅行をする人、それに我々のような商店までが大きな迷惑を被ることになる。 今回は特に、渋滞の報道に目を凝らしていようと思う。
今日は夕刻6時から、旧市街の日光街道の半分ほどを使った納涼祭が開かれる。数日前に入った新聞広告には鰻の「魚登久」が店を出すとあった。よって閉店後に次男を伴い日光街道を下る。そして「清開酒造」の駐車場にあったその店にて、蒲焼き2枚の入ったパックを4つ買う。
納涼祭はジャズのビッグバンドまで出る大がかりなものだが、当方は早く晩飯が食べたい。よって即、帰宅する。
一瞬にして物を紛失する。というか一瞬にして物を見失う。まるで子どもが神隠しにあった親のようにオロオロし、つい10秒前まで手に握っていたはずの物を求めてウロウロと歩き回る。
「たまり浅漬け」とは毎朝、主に僕が農協の直売所へおもむき、農家の人たちがその朝に持ち込んだ野菜から良さそうなものを選び、そして求めて帰ったら今度は家内がそれを「たまり」で浅く漬けて店頭に並べる、というものだ。
直売所からは画像付きのツイートを飛ばすこともあり、だから今日も"iPhone"を携帯した。そして帰社してふと気づいたらその"iPhone"が無い。メガネもない。そして、まるで子どもが神隠しにあった親のようにオロオロし、つい10秒前まで手に握っていたはずの物を求めてウロウロと歩き回る。
"iPhone"の電話番号は記憶していないからコンピュータに検索をかけてそれを拾い出し、事務机の電話からその番号を回してみる。しかし呼び出し音は聞こえない。とすればクルマの中だろうか。受話器を置かず、つまり呼び出しを続けながら駐車場のクルマのドアを開けるが、ここでも音はしない。"iPhone"の呼び出し音は元々、蚊の鳴くような音量に設定してある。
事務室へ戻ってふたたびオロオロしていると、僕のツイートに対して誰かがリプライしてくれたことを知らせる「ポディドン」という音がする。ちかくにいた事務係のコマバカナエさんと、その音のした場所を特定しようとするが、それでも分からない。
そして10分ほども経ってやおら、僕は「あった」と叫んだ。事務室の来客用のスリッパとスリッパの間にメガネのケースがあり、その下に"iPhone"は隠れていたのだ。楕円形のメガネケースがスリッパの丸みに溶け込んで、我々の目をあざむいていたのだ。
そしてようやく心に平静さを取り戻し、仕事に復帰する。
僕は基本的には早寝早起きだ。しかし時には遅くまで起きていることもある。きのうの夜も早い時間には就寝せず、「深夜プラス1」どころではない1時30分にメイラーを回すと、たまたま数分前に送られたメイルが目に付いた。それはこの秋に出す新商品の、パッケージの意匠を考えるよう頼んであったデザイナーからのものだった。
「第1回目のデザインを送付いたします」とあるメイルには基本のデザインが3点と、それらの色違い計10点が添付されていた。よってそそくさと最初の1点を開いたところで僕は早くも驚き、更に次々と見て直ぐに返信ボタンをクリックした。そして
「素晴らしいを3回、言いたいです。想像以上のデキです。ラフデザインの(1)から(5)までのすべてを出力して、すぐに当社まで送っていただけますか? それを見ながら最終校正に入ります」
という返事を送信した。先方が当方へ向けてデザインを送り出してから16分後の、これは出来事である。そして「いつもこんな風に、1日の始まる前に仕事が終わったら良いよなぁ」と考える。
目を覚まして枕頭の時計を見ると朝の4時30分だった。ホテルの、谷底のような部屋にいるため、天気の具合は分からない。「むかし泊まったパリの部屋も、こんな感じだったなぁ」と、30年も前のことを思い出す。
ひとりには広すぎる部屋でただ寝そべっていても仕方がない。起きてコンピュータの電源を入れ、きのうの日記を書いたりツイッター活動をしたりする。そしてきのうとおなじく空が充分に明るくなったあたりで靴を履き、あたりを散歩する。
午前中に帰社して財布を開くとタクシーの、きのうの日付のある領収書が2枚出てきた。どう思い出しても、きのうは1度しかタクシーを使っていない。領収書には降車時間までは刻印されていないから、記憶にない方の領収書が何時に発行されたかは不明のままだ。
商用のツイッターアカウントをメインテナンスしてから個人用のアカウントに移る。すると、商用の方では現れなかった「おすすめユーザー」の文字が、こちらには見える。その右の「全てを見る」という小さな文字をクリックすると、知っている人、知らない人がゾロゾロ出てくる。知っている人の中には鳩山由紀夫もいる。
「おすすめユーザー」とはすなわち「これらのアカウントをフォローしろ」ということなのだろう、まるで"amazon"の「この本を買った方は…」みたいな感じだ。いちいちフォローしてもタイムラインは追い切れないから、そのまま「ホーム」をクリックして元に戻る。
夜はちょっとした会合に出て21時に帰宅する。
朝4時30分に目を覚ます。空は晴れている。開け放った窓から、ドアに少しだけ隙間を開けた玄関へと風が抜けてしごく涼しい。
あたりが充分に明るくなるのを待って草履を履き、龍岡門から東京大学へ足を踏み入れ構内を散歩する。東大病院のちかくから東京スカイツリーの遠望できることを知る。銀杏、桜、欅、楠。とにかくここには巨木が多くあって目に楽しい。巨木とはしばしば不気味なものだが、日本国内で見ている限りでは、それほど怖いものでもない。
剣道場の七徳堂は裏口が開きっぱなしだから、ねぐらがなければここで寝ることもできそうだ。三四郎池はいつ来ても薄気味が悪い。死んだような水面を覗きながら一瞬にして、足の甲や腕、首などのかなりのところをヤブ蚊に刺される。
「ウェブショップの商品に賞味期限が欲しい」と、しばらく前にお客様から"twitter"経由でいただいた提案を具現化するため、朝8時すぎより神保町の"Computer Lib"に詰める。「詰める」とはいえ場所を借りるだけで、作業自体は僕が行う。そしてその作業は午前の数時間で完了し、午後はまた別のことをする。
夕刻より銀座へ移動する。あるじと客のあいだには研ぎ澄ました包丁が、まるで結界のように寝かせてある、そしてあるじもその包丁のように精密な仕事をする。そういう店で鮨を食べ、冷えた「白瀑」を飲む。
本橋成一の写真展が銀座のニコンサロンで開かれている。そこで、次男をここへ連れて行ってくれるよう長男に頼んだ。そうしたところ、会場で写真集「昭和藝能東西」を買った、本橋本人も会場に詰めていた、話ができて良かった、という旨の電話が午後おそくに長男からあった。これぞ「ザ夏休み」ではないか。本橋成一は我々の先輩である。
夕刻、とはいえいまだ昼のように明るい神保町の街へ出ていく。晴れても降っても、あるいは朝であっても夜であっても夏の景色は好きだ。
その夕刻より仕事仲間たちと飲酒活動をする。「あー、楽だ、楽だ」と、頭や肩から力が抜けていく。最後に皆から1,000札を1枚ずつもらう。
駿河台のどこをどう登って御茶ノ水駅前に達しかの記憶はない。そして8時に甘木庵に帰着する。
目を覚ますと、フィンランド製の、麻綿混紡のバスタオルが首に巻き付いている。部屋の中は暗い。窓からの夜気を随分と長いあいだ愉しむ。そして、もうそろそろ4時になるころだろうかと枕頭の携帯電話を取り上げてディスプレイを見ると、いまだ夜中の1時45分だったから「ウッキャー」と思う。
夏の朝は、4時に起床できれば嬉しい。夏の早朝は、皮膚に感じる空気が心地よい。景色も美しい。しかし夜中の1時45分ではなにをするにも中途半端だ。仕方なく寝台の下に散らばった本のうちの1冊に手を伸ばす。
昼、町内の納涼祭の開かれている公民館へ行く。イチゴミルクのかき氷2杯を食べる。公民館には子供用のプールが用意してあったが、まさか僕がここに入るわけにはいかない。
納涼祭の後片付けを済ませてから帰宅した次男を夕刻、三菱シャリオに乗せて日光市瀬尾地区の「いちもとサイクル」まで送る。数時間後には、同地区からほど近い大谷川で花火大会が始まる。膝の上ですっぱり切れているとか、裾にレースのフリルが付いているとかの浴衣を着て、髪をポメラニアンのしっぽのように茶色く逆立てたオネーチャンが街にあふれている。そのオネーチャンの手を引くオニーチャンは、白いシャツに赤い蝶ネクタイをしていたりする。
地味な晩飯を食べてアルコールは抜く。花火は自宅の窓からすこしだけ観る。