僕はタバコは吸わない。しかし「吸わない」と言い切ってしまえば、それは正確ではない。春夏秋冬に1本ずつ、つまり年に計4本のタバコまたは葉巻を吸う。しかし「年に計4本のタバコまたは葉巻を吸う」という言葉が正確かといえば、これまたそうでもない。
昨年は新年早々に葉巻1本を吸った。年に4本の縛りを時間で平準化すれば、次の1本は早くても4月まで待たねばならない。4月まで待たず、立て続けに4本を吸ってしまっても構わないが、そうすると後の11ヶ月は、紫煙とは無縁の生活を送らざるを得ない。
昨年はごく早い時期に1本を吸ったところで「調子に乗ってパカパカ吸うと、後のスケデュールが苦しくなるぞ」と思ったから4月にも5月にも吸わずに多分、6月に2本目を吸ったのではなかったか。
インド南西部、例えばコーチンの椰子の葉陰で1年のあいだマリファナに親しみ続けた人が日本に帰ってマリファナの禁断症状に苦しむかといえば、そのようなことはない。しかし「日本たばこ産業株式会社」という固い会社が法に則って売るタバコの習慣性は激烈で、ここから抜け出そうとして抜け出せない気の毒な人がどれほどいるか。
ニコチン中毒は現在はビョーキということになっているから、喫煙者を「ドキュン」などと嘲笑えば今後は人権侵害で訴えられるかも知れない。とにかく僕が煙草や葉巻を「年に4本」と決めているのは、ドキュンにならないための方策でもある。
タバコや葉巻は常に吸いたい。新春の「日光MG」を無事に完了した今は特に吸いたい。特に吸いたいけれども吸えば後のスケデュールが苦しくなる。
チェ・ゲバラは喘息であったにも拘わらず葉巻に親しんだ。それは主な活動拠点がキューバであったことが関係しているだろう。しかしそれよりもなお、葉巻の煙が虫を寄せ付けないところから、ジャングルでの行動には欠かせない嗜好品だった、ということを何かの本で読んだ。
そういう次第にて今年1本目の葉巻はチェンライ奥地の密林で吸ってみようと考えている。そう考えながら結局のところその葉巻は吸わず日本に持ち帰る可能性もある。振り返ってみれば昨年は2本の葉巻しか吸わなかった。「後のスケデュールが苦しくなる」と考えながら、年の後半は1本も吸えなかったのだ。
"MG"の2日目はいつも利益感度分析の講義から始まる。これを聴けば前夜、というか今朝まで酒を飲み続けた人でも大抵は「ハッ」として目を覚ますはずだ。そしていよいよ第4期のゲームが始まる。
「日光MG」の第4期にはいつも、所用により家内が中座をする。その抜けた穴に西順一郎先生が入ってゲームをしてくださるところも「日光MG」の「ウリ」のひとつだと僕は考えている。第4期にたまたま家内と同じ卓に当たった人は、だからしごく幸運である。
その第4期で僕が引いた何枚かのリスクカードの中に「縁故採用」のあったところから、それ奇貨として、あるいはまた競合他社との差別化を図るため販売力をすこし高めることにする。また来たるべき第5期を睨み、戦略チップの用意は怠りなくする。
東京から参加のコモリユータさんはこの第4期に早くも自己資本を600に乗せ、分社を成し遂げた。そして僕は第5期に至ってようやく、そのコモリさんのいるA卓へと上がる。
数十名のうちの売上げの高い順に5名から6名が振り分けられてひとつの市場を形成するA卓は名人上手の集うところであり、特に第5期においては激戦になるものだが、今日はいささか様子が違っていた。競合する5社が3種の業態に別れたから、直接にぶつかることが少ない、というかほとんどぶつからないのだ。
僕はリスクカードにより広告宣伝を意味する赤チップ2枚を本来の半額で手に入れ、ここでまた販売力を上げた。それならそれで戦術の微調整をするまでである。そうしてたとえて言えば「富士山の八合目にモエエシャンドンの自動販売機を置いた」ような会社が出来上がった。あとはその自動販売機にモエエシャンドンを途切れなく補充するだけのことだ。
"MG"という研修は、成績の良かった人から順に気づきや学びが大きかった、というものでは断じて無い。しかしゲームであれば、目に見える数字に準じて表彰された方が参加者の励みにはなる。あるいは単純に面白い。そういう次第にて第5期の決算結果が出ると、来期への備えを十全にした上で自己資本の高かった順に3名が表彰をされる。
今回の最優秀経営者賞は自己資本を765まで積み上げたコモリユータさんが、2位の優秀経営者賞は同606の僕が、そして3位の優秀経営者賞は同520のカタヤマタカユキさんが獲得をした。
2日目夕刻の講義を聴き、原稿用紙2枚分ほどの感想文を書き上げたら、後は「急げ急げ」である。僕が締めスピーチをし、社員たちは会場を片付け道具類を三菱デリカに積み込み、外部から参加の方々は各方面へのクルマに乗り込む。
僕と家内と長男は、東京までクルマでお帰りになる方々、あるいは東武日光線にお乗りになる方々と夕食を共にし、まぁ、この夕食の最中もひどく慌ただしかったわけだが、それについては割愛をする。
そして「第25回日光MG」は多くの方々の尽力により無事に完了した。次の「日光MG」は、茗荷やしその実の買い入れも既に済んでいるであろう9月11日と12日の2日間で開催をされる。またまた多くのご参加を、お待ち申し上げます。
朝5時ごろに目を覚ます。
温泉に浸かりたいということではなく、きのうの夕刻以降にご注文くださったお客様に出荷が遅れる旨のメールをお送りしたり、あるいはきのうの日記を書いたり、ということを公共スペースでするときの寒さを避けるため、朝6時の解放と同時に浴場へ行く。そうして6時15分から90分間ほどは、脱衣所の外の電気あんま機に座ってコンピュータを使う。
定刻の10時より2、3分はやく第25回日光MGは始まった。"MG"とは"Management Game"の略で、参加者各自がひとつの会社を持ち、2日間に5期分の経営を盤上に展開する研修だ。そのゲームは"Military Simulation"と呼ばれる兵棋演習に比較をすれば、よほど実戦に近いと僕は思う。
"MG"の開発者西順一郎先生による1日目朝の講義が終了すると、初心者にはゲームに必要なルールを覚えてもらうための、また経験者にとっては基本に立ち返るための第1期が行われる。
"MG"ではこの第1期の、全部原価と直接原価による2種類の決算を済ませてようやく昼食にありつくことができる。そして本日の、先生によるマトリックス会計表の説明は、いつも以上に懇切な気がした。それは、日光市からの初心者を意識されてのことかも知れない。
"MG"の勝負が始まるのは第2期からだ。その第2期の僕には面白くないリスクカードが続けて現れ、計画したことがなかなか進捗しない。それをどうにか凌ぎながら、赤字額をできるだけ減ずべくあれやこれやする。
"MG"の強い人は、30回来れば30回とも表彰状を持ち帰る。30回も来て、つまり150期分ものゲームをして、リスクカードが雨あられと降り注ぐ経験をせずに済むわけがない。それでも表彰されて帰るとは、つまりどんなリスクが来ても、強い人は強い、ということである。
僕の第2期は65円の累積損を以て終了した。その第2期おいて、参加者40名の中で最高の売上高を記録したのが、今年の1月5日から"MG"を始めた、いまだ6期分のゲームしか経験していないイトーヒロミさんだったとは、驚愕すべき事実である。
第3期において、僕は損益分岐点比率77パーセントのゲームを展開し、累積損を一掃した上に自己資本を306円まで積み上げた。そして第3期の「PQ(売上げ高)区間賞」は、数年前の葉山で、共にA卓でゲームをしたコモリユータさんだった。
夕食の後は、明日の午前中に控えた第4期の経営計画を立てる。それが済むと全員が研修室から宿泊部屋のうちの最も大きなところに集まり、交流会を持つ。今回の「日光MG」には、ウチの会社の人員19名に対して、遠くは関西や九州から21名もの方々が21名も参加をしてくださった。交流会のための部屋は、よって汗牛充棟を思わせるほど充実し、僕は責任の重さをいっそう感じることとなった。
そのような交流会部屋に後ろ髪を引かれつつ23時30分に中座し、入浴して0時に就寝する。
極端な早寝早起きのため、きのうは21時に就寝した。どれほど時間が経ったかは知らないが、同室の方々の声に目を覚まして現在時刻を訊くと、どなたの発したものか「1時半くらいじゃないですかね」という返事があった。そうしてそれ以降は布団の中で静かにしている。
枕元に置いたザックから携帯電話を取り出しディスプレイを見ると、4時30分になっている。多分、半醒半睡のうちに3時間が経ったのだろう。このようなときのために持参した携帯スタンドを枕元に点け、本を読む。
きのう部屋まで案内してくれた支配人が「お風呂は朝5時30分から」と言っていたことを思い出す。よってその時間を見計らって大浴場へ行き、いまだ夜と同じ暗さの中で露天風呂に浸かる。そしてその後は浴場となりの休憩室にコンピュータを開き、明日からの「日光MG」に参加される方々とメイルのやりとりをする。
午前中に帰社すると忙しさが一気に押し寄せてきた。その最中にはまた、製造部長フクダナオブミさんの新しいコンピュータへの、旧データの移し替えなどもする。
西順一郎先生ほか「日光MG」のために前泊をされる方々が続々と、下今市駅に到着をされる。それをお迎えして、やはり「日光MG」の参加者であるカタヤマタカユキさんが社長を務める「片山酒造」の見学をする。しかして後に、小倉町の洋食屋「コスモス」で「日光MG」の前夜祭を行う。
クルマで他府県まで行くような仕事はウチにはほとんどなく、また僕個人もクルマで遠出はしない。そのようなことからウチにカーナビゲーションを備えたクルマはなく、僕の長距離移動はほとんど鉄道に負っている。
栃木県味噌工業協同組合の新年懇親会にて、本日は茨城県の大洗海岸まで行く必要がある。栃木県日光市から茨城県の海沿いの街まで鉄道で移動するのは難儀である。そういう次第にて、こういうときにはいつものことながら、先輩ジンボタカシさんのホンダオデッセイに同乗をさせていただいて午後、良く晴れた海を見おろす「鴎松亭」に入る。
日の丸付きの名札を着けてやたらに当て字の多い歌を合唱する青年結社、あるいは歯車や獅子の旗を掲げた団体、こういうものを僕は子供のころから苦手にしているが、味噌組合の集まりは好きだ。
そうして夜は洒落た座敷で鮟鱇鍋などを食べつつ有意義な情報交換をする。その後も席を移して歓談の続くことは承知していたが、生憎と僕は極端な早寝早起きのため、21時に自室へ戻って即、就寝する。
人前で話せと言われても、僕はそれほど緊張はしない。それほど緊張はしないがすこしは緊張をする。先週の土曜日は、宇都宮の食品会社に勤めるマスブチユキヒロさんとウチの事務係テヅカサヤカさんの結婚式に呼ばれ、挨拶をした。本日は結婚1週間目のふたりを街の居酒屋へ招待して社内的なお祝いをする日にて、当方としては大いに気楽である。
19時に、あそこは住所からすれば日光市土沢とうことになるのだろうか、とにかく「蓮」の座敷に上がって数時間の宴会を持つ。このような席では、その運営はほとんど社員によって行われるから僕はただ座って飲み食いをするのみにて、ますます気が楽である。
何時に家に戻ったかは知らない。「蓮」では500円の代行車代を負担してくれるから、家には僅々500円の追加で帰ることができる。「蓮」の窓からは雪のちらほら舞う様子が見られたが、その降る勢いは強まることもなく、また弱まることもなく、そして止む気配もまたない。
そうして入浴して暖房絨毯の上に床を延べ、早々に寝る。
日光の山には今朝も雪雲があった。きのうと異なるのは、今日の雪雲は西から徐々に東へと広がり、街にまで雪を降らせ始めたことだ。それでもその雲は大して厚くないらしく、ボソボソと牡丹雪を降らせながらも、ところによっては千切れて、陽の光を燦々と地上に届けたりしている。
そのような景色を横目に事務室を離れ居間へ上がり、今年の給与辞令を作成する。この書類についてはコンピュータにマクロを組んでいるため、数字さえ入れれば一瞬でできてしまう。
インフルエンザによる学校閉鎖のため、今週の月曜日から次男が帰宅をしている。本人は発熱もなく食欲も旺盛で、学校から送られてきた宿題をしたり、図書館へ行ったり、あるいはテレビを観たりして気楽に過ごしている。
その姿を認めて「みんなが揃っているならナオト、行こうか」とオフクロが言う。雨上がりという言葉はあっても雪上がりという言葉はない。しかしとにかく雪の上がった、寒くても気持ちの良い晩に5人で"Finbec Naoto"へ行き、上出来のあれやこれやを食べる。
日光の山々は、低く、しかし密度の濃い雲に覆われているが、それ以外のところはすべて晴れている。日本列島の天気はおしなべて西から東へと変わっていく。日光の天気はよって、西の方角にあるこの山を見ていれば予想しやすい。しかし、このところの雲はなぜか下界つまり東には延びてこない。おおむね好天が続いている。
今週末は、所属する組合の新年総会にて茨城県の海沿いの街へ行く。月曜日に帰社すると、翌日から2日間は、ウチが主催する勉強会「日光MG」のため会社はお休みをいただく。それをお知らせするメールマガジンを、午前中に作成する。
「日光MG」を始めて10年以上が経つ。拡大欲求というもののない僕の性格もあって、社外からの参加者はひとりだけ、というようなこともままあった。それが2010年の9月からは徐々に盛況になり、現在は地元からの参加も増えて、今回は41名が一堂に会する。有り難いことであると共に僕の責任もいや増し、すると緊張感も高まって、時として記憶が飛んだりするあたりについては反省をしなければならない。
「日光MG」が完了すれば、それから1週間を置かないまま、今度は高島屋東京店での出張販売が始まる。春のお彼岸までの店舗はヒマに見えて、しかし社内はなかなかに忙しい今日この頃である。
朝から会社の健康診断が始まる。健康診断に際しては、そのときの自分の意識が上出来であれば2日前から、それほど上出来でないときには前日から飲酒を避ける。しかし今回は、一昨日が交流会という名の飲み会、きのうは晩飯が豚しゃぶと分かったところで断酒は断念し、よって今朝の採血の結果は良くないに違いない。
それはさておき長男が家に帰ってきて以来、酒の消費量が倍になった。まぁ、酒などは家で飲む限り大した金額にはならないから、自分の懐の痛む気はまったくしない。
そうして秋田県能代市の天洋酒店には「由利正宗」と「白瀑」のお酒6本を、店主浅野さんの見立てに任せて注文する。焼酎については日光市森友地区にあるディスカウンター「ジャパリカ」に出向いて芋と麦それぞれ1本ずつを買う。
焼酎といえばタイではラオカーオで、これはある種のテキーラに似て、燻香というよりむしろ強い焦げ臭がある。「美味いメシのある地域はまた、伝統的に美味い酒を産む」という"thesis"はタイには当てはまらない。よって「ジャパリカ」では、500ccのペットボトルに小分けしてタイへ持ち込むための安い焼酎も手に入れた
ひとつ問題があるとすれば、僕がバンコクに入る3月3日がバンコク都知事選の投開票日に当たるということだ。タイでは選挙の当日には飲食店での酒の提供が禁じられる。店からは氷だけをもらって持参の焼酎をちびちびとやる、ということであれば、法には触れないような気もする。
東京には雪の予報が出ていた。しかし早朝に冷たい小雨の降ったのみにて、その後、天気は回復した。
所用により午前中は池袋にいる。そしてその池袋から特急スペーシアに乗る。JRと相互乗り入れしている東武日光線の車両は、以前はJRのものばかりだった。時間帯によってはスペーシアも使われることについては、今日になってはじめて知った。
車内でコンピュータを使おうとした場合、スペーシアのテーブルは僕の知る限り天下一品である。スペーシアの、この路線への採用は、だから嬉しい。そして昼すぎに帰社する。
「なめこのたまり炊」は毎年、新春の厳冬期から仕込みが始められる。そして今日も3週連続で、その仕事が進められている。「たまり炊」は「たまり漬」とは異なり、佃煮のようなものだから、製造に要する日数はそれほど長くはかからない。その代わり一瞬一瞬が勝負である。その日に煮方を割り当てられた社員は、いささかも気を緩めることなく、大粒のなめこを「日光味噌のたまり」でコトコトと炊いていく。
会社の健康診断を明日に控え、しかし夕食が豚しゃぶとなれば酒は抜きづらい。よって筒型の湯飲みに2杯の焼酎を飲み、早々に就寝する。
「西の会」は西順一郎先生を囲む小規模かつ先鋭的な集まりで、1990年代にはJR飯田橋駅にほど近い果実店の階上で開かれていた。2000年代に入って一時途切れたこの会が2010年、東京シーガルクラブの尽力により復活して以降は、隔月に1度の割合で連綿と勉強会が続いている。
今回は、昨年の秋に西先生より指名を受けた長男が何やら話すということにて、夕刻から日本橋を経由して青山一丁目に至る。
外苑東通りに面したビルの4階で行われた「西の会」では、僕がかつて聴いたことのないことも長男の口から披露され、その内容は非常に興味深いものだった。
ところで僕の参加する勉強会には、これが終了して以降には交流会という名の飲み会の付いているものが多い。しかして僕は種々の理由にて、この交流会には参加せず、集団からは早々に離脱することがほとんどである。
本日もそのつもりでいたところ「息子の話を聴きに来て下さる方々の気持ちを考えたことはあるの?」との家内のひと声により、交流会への参加を決めた。
そうして南青山で23時以降まで飲み、更に次の店へと向かいそうな一行からは流石に離れて地下鉄銀座線に乗る。それを赤坂見附で丸ノ内線に乗り換え、淡路町にさしかかったあたりまでは覚えていたが、次に気がつくとそこは終点の池袋だった。次の折り返しは新宿行きの最終で、つまり以降の過ちは許されない。
いざ参加をすればこのようなことが頻発する点も、僕が交流会という名の飲み会に二の足を踏むひとつの要因になっている。「問題の根本は交流会ではなく、地下鉄を5駅も乗り過ごすほど飲んだあなたにこそあるんです」と言われればそれはその通りだが、それでも交流会にさえ出なければ、そこまで飲むこともないのだ。
一部の演歌歌手が、長い修練の末に身につけた高い技術を、作曲家の書いた譜面を歪曲して歌うことに使う、その歌い方が好きになれないと夕食の席で言うと「それをしなかったのがテレサテンだよ」と長男は答えた。そう言われてみれば、そのような気もする。
棘のある植物の藪を漕ぎ、牛糞混じりのぬかった泥と格闘して疲労困憊しながら、なお頭上に倒れかかる太い竹をいくつもくぐり抜けて太ももの筋肉を痙攣寸前まで痛めつけ、あるいは増水した川を石伝いに飛び越え、今夜の宿にはいつ着くとも知れない山歩きをチェンライの山奥でしていたとき、カレン族の案内人が息も切らせず歌ったのは、日本語による「北酒場」だった。
おととしの秋にそのことを長男に語ると「あるいは案内人の『北酒場』は、テレサテンによるそれを聴いて覚えたものではなかったか」と推し量った。
チェンマイのメーピンホテルで客死したテレサテンと、チェンライの山の中でカレン族の中年男により歌われた「北酒場」との関係については、僕には何も分からない。それでも南の国で聴く演歌には格別の味わいがある。そして次男などは「日本で聴く演歌はジジイババー臭いけど、タイで聴く演歌は何だか良いんだよ」と言う。
「タイ 演歌 民謡 ルークトゥン モーラム」と検索エンジンに入れると、いろいろなページが見つかる。昨年や一昨年とは異なり、今年は次男とはタイへは行けなさそうだ。その代わりにカンボジアの演歌をシェムリアップで聴きたいと思う。
日光の山々はその頂きちかくに雪雲を浮かべているが、下界は快晴だ。街はあまねく陽の光によって明るく、建物のひとつひとつは、まるで太い鉛筆で縁取りでもしたかのように、くっきりと見えている。
マスブチユキヒロさんとウチの事務係テヅカサヤカさんの今日は結婚式の日にて、午後、ホンダフィットに乗って宇都宮の結婚式場へ行く。
社員の結婚式に呼ばれるたび僕は「若い人は大したもんだよなぁ」と感心をする。その感心は「彼らが普通の考えを持っていることの偉大さ」を源としているような気がする。僕などはとてもではないが、普通の考えなどには、それこそ幼稚園の頃から今に至るまで背を向けっぱなしである。
テヅカサヤカさんの同僚に目を向ければ、彼らはひと月も前から社内外を歩き、寄せ書きを集めた。あるいは新婦にゆかりのある人、ゆかりのある場所を訊ねてカメラに収め、披露宴会場で上映するための映像を作成した。そして今日は衣装を凝らした歌と踊りで招待客を沸かせた。仲間の結婚式に花をそえるためそこまで時間と労力を割く、そのような経験は、僕のこれまでの人生には皆無である。
披露宴が結びに近づくと、テヅカサヤカさんは、これまで育ててくれた親御さんへの感謝の手紙を読み上げた。それは式場で用意した文案に沿ったものではない、心からの感謝の発露である。
自分の晴れ姿を見せることで親に喜んでもらいたい、そのためにコツコツとお金を貯め、遂には自らの手により結婚式を実現させる、そのような考えはこれまた、僕という人間の中には決して醸成されない種類のものである。
そうして家内の運転するホンダフィットに乗って帰宅し、千枚漬と焼き海苔を肴に日本酒を飲む。
日本からパリヘの往路において、飛行機の胴体に預けたトランクが行方不明になった。着替えのすべてはトランクの中にあったから、シャルルドゴール空港から街へ出るなり下着から防寒着までをあたふたと買いに走る羽目になった。
トランクは帰国後に発見され家に戻った。パリで緊急に買い求めた衣類の領収書分と、その買い物に要した交通費を航空会社に請求し、そしてそれらは間もなく支払われた、という単純な話ではない。
「内外のマスコミで著名な何とかシェフを擁する何々料理屋にはこのドレス」「何とか美術館にはこのスーツ」「これこれ離宮まで足を延ばすときにはこの帽子とサングラスにコートはこれでパンツはこれ、靴は早朝の霜を懸念してこのブーツ」と、行き先ごとに細かく計画をした、その計画が破綻したことによる自分の心の痛みはどうしてくれるのかと慰謝料を請求し、相当の現金を得た女の人の話を聞いたことがある。かれこれ四半世紀ほども前のことだが真偽のほどは知らない。
2月の末からチェンライへ行く。そのとき現地で着る服について紙に書き出してみた。書き出してはみたものの「あーでもない、こうでもない」と訂正するうち紙は修正液でベトベトになった。しかたがないので紙をコンピュータに換えて更に考えた。
僕の服装計画は、有名料理屋や美術館や宮殿を想定してのものではない。街をどこまでも歩いて汗だくになる、山で藪を漕いで泥だらけになる、土鍋の汁を垂らして胸にシミを作る。彼の地では1日あたり多ければ3枚のシャツを着替えなければならない、そういう経験によるものだ。特にはじめの4日間はTシャツを取っ替え引っ替えするだけで、だから往路でトランクが失われても、慰謝料など請求すれば航空会社には鼻で嗤われるだろう。
「水神」の碑がいつごろからウチにあるのかは知らない。僕が子供のころには店の入口からトロッコの線路をズンズンと進み、西裏の用水路を渡った先の右側、社員用の風呂や醤油の洗瓶機にはさまれた奥に、ひっそりと見え隠れしていたような記憶がある。
僕が高校生のとき日光街道から日光宇都宮道路への取り付け道路が開かれ、これによってウチは縦に長く削られることになったから、それに伴い工場を建て替えた。以降「水神」の碑は以前の場所から南南東に数十メートルを移されて、以降はずっと現在の場所にある。
総鎮守瀧尾神社の宮司がタカナキヨシさんだった時代には、水神祭は1月15日に固定をされ、会社の新年会もこの日に合わせて開いてきた。しかしタナカノリフミ宮司に代替わりをしてしてからは毎年、水神祭に適当と思われる日を宮司が選んで伝えてきてくれる。そして今年は今日がその日に当たる。
水神祭には僕と家内、製造係から3人、包装係からひとりの計6人が連なった。宮司が持参してくれた玉串もちょうど6本にて偶然にも具合が良かった。
醸造という仕事に清い水は欠かせない。水神祭は、いつまでも続けて行きたい。
「寒くなりましたねー」などと街で挨拶をされても、昨年の暮までは、それほどのものでもないと自分では感じていた。ところが年が明けると、実際の気温については知らないが、年末とはくらべものにならないほど厳冬を意識するようになった。
空気の冷たさがある一線を超えるとからだが辛いものを求めるのだろうか、「ふじや」の雷ラーメンが毎日のように食べたくなり、しかしそればかりを食べるわけにもいかない。そして今日の昼は指折り数えれば、この1ヶ月で3杯目になる「雷ラーメン」を食べる。
「雷ラーメン」の、味噌に豆板醤を溶かしたスープを飲めば、頭皮に激しく汗をかく。そして先日「ワークマン」で「カプサイシン効果」だか「遠赤外線効果」だか、とにかくワケの分からない売り文句の添えられた靴下について「ホントに効くんですか」と店長に訊ねたら「効きます」と言われたため、ニヤニヤ笑いながら買った靴下を今日は履いていたことを思い出す。
「年末とはくらべものにならないほど寒さを感じるようになった」とはいえ、僕は上半身にはいまだセーター2枚を着ているだけであり、その上に"mont bell"の綿入れベストを重ねるまでには至っていない。ことによると今年はずっと、セーター2枚で凌いでしまうかも知れない。
「こちら日光では、きのうの雪が陽の光に照り映え、目に眩しい、とても美しい朝を迎えています」という書き出しのメールマガジンを、きのう激しく降る雪を見ながら準備した。今朝が雨や雪や曇りの天気であれば書き直しが必定だった。しかし日光上空は首尾良く晴れて、甍の雪が朝日に紅く染まっている。
メールマガジンは、ちょっとした賭に勝った気分と共に予定通り09:00に発行した。これは「なめこのたまり炊」の蔵出しをお知らせするものである。
日本橋高島屋でのイベントが2月の頭に迫っている。これをご案内するため東京近郊のお得意様には毎年ハガキをお送りしている。この、送付先の特定がなかなか難しい。僕の仕事はできるだけ早く長男に伝えようと考えているが、ダイレクトメールについては細かいところが難物である。
教えるとなれば、まぁ、大まかなところのみ伝え、答えにたどり着くための手段は長男に任せてしまう手もある。あるいはそうする方が、新しい道筋が見えたりして、却って良いのかも知れない。
夜は外食というか飲酒のため、凍りついた日光街道を長男と下る。
「そろそろ月末の近づくころだろうか」と、事務机の左に垂らしたカレンダーを見ると、1月はいまだその半ばにも達していない。ことしの1月は、なぜか長く感じられる。
天気予報は数日ほど前から列島に大雪の降ることを伝えていた。しかし今朝の日光は弱い雨にて「折角の連休が雨とは情けない限りだ。しかしまぁ、雪よりはマシだわな」と考えていた。その雨が開店から間もなくみぞれに変わる。そしてそのみぞれはすぐ雪になってあたりを舞い始めた。
「これほどの勢いでは、雪かきなどしても、とても追いつかないかも知れない」と感じつつ、しかし午前と午後の2度にわたり、店舗駐車場の雪かきを社員にしてもらう。ウチの前の電光掲示板は、日光宇都宮道路が、始点の宇都宮から終点の清滝まで閉鎖されたことを伝えている。
夜、雪の中にホンダフィットを乗り出し、とんかつの「あづま」へ行く。冬になると僕は、生牡蠣、牡蠣フライ、牡蠣釜飯と、とにかく「牡蠣」の品書きを目にすれば、どこでもこれを頼まずにはいられない。そうして「あづま」でもそれを頼むと、しかし今夜はもう材料が切れていると伝えられた。
よって冬以外の季節に注文する「串カツ」に切り替え、揚げたてのこれで焼酎のお湯割りを飲んでいるところに「よろしければ」と、牡蠣フライ3個が届いた。よって大喜びをしながらこの3個を家内と長男との3人でひとつずついただく。
雪は止んだが曇り空の下で、すべての景色は凍りついている。そんな街をゴトゴトと低速でクルマを走らせながら帰宅し、即、就寝する。
炊きたての温かいメシに納豆を混ぜると、メシは納豆に温度を奪われ、納豆はメシから温度を得て、全体はぬるく、あるいは「冷たい」と表現しても過言でないくらいのところまで冷えてしまう。それが嫌さに一度、メシに混ぜる前の納豆を電子レンジで温めてみたことがある。
炊きたてのメシに熱々の納豆。これは極上絶妙の組み合わせになると予想したが案に相違して、湯気を立てるそれはちっとも美味くなかった。不思議なものである。
今朝、製造係のアオキマチコさんにしもつかりをもらった。そのしもつかりを含む夕食の席に長男の友人が加わった。しもつかりは食べられるかと訊くと、小学校の給食で出されたしもつかりは食べられたが、おばあちゃんのそれについては今に至るまで苦手だという。
給食でなら平気にもかかわらず、家族の手作りになったとたん無理とは、僕の常識からすればいかにもおかしな話である。よって詳細について説明を求めれば、給食のそれが冷えていたのに対して、おばあちゃんのしもつかりはいつも温かかったから食べられなかったという。
そう言われてみれば確かに、しもつかりも納豆も冷たい方が美味い。そしてその理由については知らない。
東武日光線の下り特急スペーシアが、07:41発の始発にもかかわらず満席にちかい。「おかしいな、普段は空いているのに」と考え、一拍を置いて「そうか、今日から3連休か」と気づく。
きのうの「8464の会」を思い返してみて、感心したのはやはり、長男の同級生で今は自由学園男子部の教師を務めているヤマモトタロー君というかヤマモトタロー先生というか、とにかくそのヤマモトタローさんが同級生たちに向けて「誰でも良いから男子部に来て、生徒たちに話を聞かせてやって欲しい」と伝えたことだ。
「誰でも良いから」とは「人選などしない」ということで、つまりそれは「自分は皆を信じている」ということで、まさしく自由学園男子部の神髄を見る思いが僕はした。
そうしてそんな話を、仕事のため「8464の会」には出られなかった長男と、夕食の席で交わす。
空気が澄むと、東京の空でさえ深い青色になる。冬の日はすべてのビルをあまねく低いところから照らし、どこに目を向けても、風景はまるで壁の絵のように平板に、しかしくっきりと見える。そんな晴れた日に靖国神社のちかくで仕事をし、夕刻より池袋に移動をする。
自由学園における長男のクラスは男子部64回生だ。女子部は男子部より20年早くに創立されたから、長男の同級生はすなわち女子部84回生ということになる。このふたつのクラスの生徒と親は「8464の会」として、しかし会則などはなく、ゆるやかな間柄を以て今日に至っている。
本日はふたつのクラスが卒業して5年目の区切りとして「8464の会」が自由学園の明日館で催された。自由学園は高等科までは男子と女子は別学だから、女子部の卒業生はよく知らないが、男子部の面々についてはみな顔を覚えている。そうして彼らとも、また彼らの父母たちとも親しく話をさせていただき、また料理屋お酒をいただく。
今夜の「8464の会」は、まさに「清遊」と呼ぶにふさわしい集まりだった。会を開くに当たって力を出して下さったナカダダイチ君のお母さん、また事務方の方々には、厚く御礼を申し上げたい。
東武日光線下今市駅プラットフォームに長男と立っていると「13時35分発の上り特急スペーシアは、大桑駅を2分30秒遅れで通過した」旨のアナウンスが流れた。東武日光線に限らず、ほんの数分ではあっても列車の遅れることが、ここ数年のあいだに常態化してきたように感じる。
昨秋のヨーロッパにおいて、フランスでは発車の30分前に、イタリアでは発車の60分前には駅へ行くようにしていたと長男は言う。「しかし列車が定刻より早く出るってこたぁねぇだろう」と返すと「その列車が欠便したとき、次善の移動手段に移るための時間的余裕だよ」と長男は答えた。
「乗り換え案内」などで取引先との待ち合わせ時刻を決めるというようなとき、これからは我が国でもフランスやイタリア並みの「余裕」を見る必要があるやも知れない。
夕刻に日本橋から神保町へ移動をする。そしてヒラダテマサヤさんと新年会をする。
ウチの商品の中で、僕が子供のころから今に至るまで一貫して最も好きなのが「なめこのたまり炊」だ。「たまり炊」とは、材料をたまりで炊いたもので、だから「たまり漬」ではなく「たまり炊」と呼び習わしている。
その第1ロット分の材料が、新潟県でも特に雪深い魚沼からきのう届いた。この商品はこれまで何十年ものあいだ厳冬期に限って作ってきた。しかし今年の製造についてはいまだ定まらないところがある。あるいは作業の回数を増やし、秋口にも製造を行うかも知れない。
きのう入った材料は冷蔵庫でひと晩寝かされ、今朝から加工が始められた。「たまり炊」は前述のとおり材料をたまりで煮るものだから「たまり漬」のような長い熟成期間は必要としない。今年の新物は、今週の土曜日にも蔵出しをされるだろう。
ほとんど「なめこのたまり炊」ばかりをご注文になるお得意様からあるとき「送り先にはレシピも入れてくれるかしら」と頼まれたことがある。「レシピの裏には料金表がありますが」とお答えすると「それでもいいわ、みんな、ごはんの上に載せて食べるしか知らないのよ」と、おっしゃった。
「なめこのたまり炊き」を山芋のすり下ろしに和えると美味いとは、和歌山のソインツーさんに教えられたことだ。即、ウチのレシピ集に加えさせていただいたことは言うまでもない。
昨秋テレビで紹介されるりなり半日で売り切れた「本物のワインで作った本物のワインらっきょう"rubis d'or"」は次のロットがようやく漬かり上がり、正月3日に瓶詰めを始めたことはこの日記に書いた通りだ。
売り切れの直後より注文あるいは予約を下さったお客様には、その後、受注の早かった順に出荷やお手渡しをしてきた。しかし今度は外箱の在庫が切れ、ふたたび売ることができなくなった。そして本日ようやく休み明けの製函業者より当該の箱が届く。
しかしこれまた今月3日の日記に書いたような問題が目の前に迫っている。次の売り切れ、それも「中身は完成していても包材が無い」とうことによる売り切れが、数日後にはまた発生するだろう。悩ましいことである。
ウチの年末は忙しくて忘年会どころではない。しかし新年会はある。産休を取っている以外の社員全員が夕刻に焼肉の「大昌園」に集まる。
その新年会の冒頭「今年の社員旅行は、あこがれのハワイです」と発表したら「エーッ」「ウワァー」「キャーッ」とあたりは大騒ぎになってしまった。よって「福島のハワイだよ」と僕は慌てて付け足した。加山雄三や星由里子でもあるまいに、スチールギターの音色と共に画面が変わったらそこはワイキキの砂浜、などということが、このご時世にあるわけがない。それでもみな「福島のハワイ」への旅行については楽しみにしてくれたようだ。
「焼肉に平行してライス大盛り、続いて石焼きビビンバ、そしてカルビラーメンで締め」というような若い社員もいるが、オヤヂ連中は焼酎を飲む。それにしても、いくら正月とはいえ5人で眞露3本はいささかはかどり過ぎではないか。
そして帰宅途中からの記憶は一切、ない。
金の価格は2012年2月を以て暴落すると言った人がいる。その時期には金の価格は確かに下落したが、暴落というほどのものでもなかった。そしてそれから11ヶ月後の今、金の価格はふたたび上がって1グラムあたり5,000円をうかがう勢いである。
僕の知る限り、円建ての金価格がここまで上がるのは、ソビエト社会主義共和国連邦がアフガニスタンに本格的に侵攻し始めた1980年以来のような気がする。金をたくさん持っている人にとって、ここ数年は随分と物狂おしい日々ではなかったか。
昨秋、長男がヨーロッパと中国へ行こうとしているとき「タイまで南下することがあれば」と、手持ちの中から20,000バーツを手渡した。長男は西双版納の南方まで達したが、そこから舟でタイへ渡ることはせず、厦門から台湾を経由して上海に戻った。
そういう次第にて20,000バーツは長男からまるまる返却されて現在、僕の封筒には46,751バーツの現金が残っている。タイは日本に比べれば物価の低い国であり、また僕はタイではせいぜいローカルの交通費と食費くらいにしか現金は使わない。よって現在の手持ちのバーツで、1週間ほどの旅行であれば、もう3回はこなせそうな気がする。
それにしても今から考えれば、僕が円をバーツに換えた2011年9月の、1万円が4,060バーツというレートは、いまや「そこまで戻すのは絶対に無理」と断言したくなるほどの円高だった。次の訪タイにおいても、せいぜい節約をしたい。
諸々の理由により、所属する団体の数は最低限に留めている。そういう僕にも進んで参加をする集まりはあって、そのひとつが町内会だ。
いわゆる「向こう三軒両どなり」が組であり、そこで回覧板の配布や町会費あつめなどを担うのがすなわち組長である。
本日は春日町1丁目の役員と組長による新年会の日にて、卒業した学校の新年総会などがこれに重なれば出席しないこともあるが、今年は首尾良く他に予定はない。そういう次第にて17時30分に公民館への階段を上がる。
座敷にロの字型に置かれたテーブルには、僕より早く来た役員たちにより、既にして刺身とオードブルが並べられていた。お祭りに上がったお酒はヤカンで直火にかけられ、17時40分には適温に達したが、会が始まるのは18時ちょうどであり、酒の好きな面々は僕も含めてそわそわとする。
宴席では、酒を注ぎながらあちらこちらと移る人もいれば、僕のように徹頭徹尾、同じ場所に座りっぱなし、という不精者もいる。
そのようなとき「缶ビールは飲み口のすこし下を凹ませると、コップに注いだ際に、ちょうど良い泡立ちを得ることができる」ということを、オノグチショーイチ頭が教えてくれる。そうしてそれを頭みずからが実演してみせると、なるほどコップの表面には2センチばかりの泡の層ができ、なかなか塩梅が良さそうだ。
缶ビールの飲み口の下に設けられた凹みがこれだけ具合の良いものならば、どこかの特許マニアが実用新案などを申請しているかも知れない。しかしこれだけ具合の良いものを、ビール大手4社はなぜ自社の缶ビールに採用しないか。
それはさておき「それにしても、人間は子供のころからちっとも変わんねぇなぁ」と僕は薄い座布団をふたつ折にしながら感心をする。オノグチショーイチ頭は子供のころから、身の回りのあれこれを、自分ごのみに改造することが好きだったのだ。
「手の指ではなく右膝の内側で押す式の、自転車の警笛ボタン」というものを僕は覚えている。オノグチショーイチ頭による、それは中学1年生のときの工夫である。
初対面の人と接したとき、相手がみずから明かさない限り、僕はその人の名前や年齢や職業などについて訊くことをしない。よってその人の名前も年齢も職業も知らないが、とにかくあるとき未知の人に「あなたの日記で面白いのは本と食べもの」と言われたことがある。
僕は以前は本を読み終えるたび、自分の名前と読んでいた期間を裏表紙のひとつ手前のページに記していた。ウェブ上に日記を書き始めてからは、そこに読んだ本の跡を残すようにした。ところが現在は、読んだ本についてはどこにも記録していない。
2005年には50冊の本を読み、ひとつのページにまとめた。2013年の今でも活字中毒は相変わらずだが、読んだ本をこの日記にいちいち上げることはしなくなった。その理由については知らない。
「あの本は面白かった」と今でも思い出す3冊は、2002年に読んだ馳星周の「夜光虫」、そして2004年に立て続けに読んだ R・エヴァンズの「くたばれ! ハリウッド」とA・ボーディンの「キッチンコンフィデンシャル」で、とすればそれから9年のあいだ僕は面白い本とは出会わなかったのか、といえば、そのようなことは決してない。勿体なくて読めない本が、階段室の本棚には幾冊も眠っているのだ。
"Richebourg Domaine Jean Gros 1985"のマグナム瓶がワイン蔵にあってもそれは取り置き、安いワインをちょこちょこと取り寄せてはそういうものばかりを飲んでいる、そのような行いに、本の温存は似ている知れない。
ウチの製造係は業務日報を1行1データの形でコンピュータに記録している。その日付と曜日を制御するカレンダーを新年のものに更新するため、年が明けると製造係が続々と、各自のコンピュータを手に事務室にやってくる。
そのうち製造部長のフクダナオブミさんは僕にコンピュータを預けるなり「画面の左下の方を押さえれば何とか開きます。蝶つがいんとこ割れてっから」と言った。よってフクダさんの言いつけを守りつつディスプレイを開くと、しかし僕の押さえ方が甘かったか、古い"Thinkpad"のヒンジとディスプレイ回りはバリバリと音を立てながら更に割れた。
過去を振り返ってみれば、僕などは1台のコンピュータを最長でも2年10ヶ月しか使っていない。しかしフクダさんの"Thinkpad"は既にして、ひとむかし十年を経ているのではなかったか。
そういう次第にて外注SEのシバタサトシさんには"facebook"経由でコンピュータ1台の新調と、ほかのこともあれこれ頼む。
「2日の初売りから6日の日曜日までに売り切れれば良いなぁ」と考えていた福袋は、しかし本日の午後おそくに完売した。それからしばらくして、そのことを伝えようと製造現場へと足早に向かいながら、製造現場の徹底した節電ぶりに改めて驚く。2011.0311の大地震が一変させてしまったものは、あまりに多い。
夜は早々に就寝しているにもかかわらず、あたりのいまだ暗いうちに目をさますことができない。6時を過ぎてようよう起きて冷たい水で顔を洗う。
初売りの翌日にする仕事とも思われないが「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"」の仕込みの「第2段階」を、朝のうちに行う。
「2日の初売りから6日の日曜日までに売り切れれば良いなぁ」と考えていた福袋は、きのうに続いて午前のうちに残量が少なくなった。よってきのうと同じく追加分を、昼すぎより製造係に詰め合わせてもらう。
販売係のサイトーエリコさんを14時30分より包装係に配置転換し、"rubis d'or"の瓶詰めをしてもらう。そして16時からは、これまた販売係のハセガワタツヤ君を包装係に配置転換し、サイトーエリコさんの計量した"rubis d'or"入りのビンに蓋を閉めてもらう。この"rubis d'or"はもちろん、僕が午前に仕込んだものとは別のロットのものである。
"rubis d'or"の第1ロット第1本目は2008年3月3日に完成した。以降4年のあいだにビンの製造会社がふたつも廃業をした。そのあおりを受けて、当方もその都度、似た形の、しかし異なるビンを苦労して探した。ふたつめの製ビン会社によるビンも、廃業を知って相当数を確保したが、それも本日の作業で使い果たした。
ビンの形が変わればそれを収める箱の形も変えざるを得ず、そうすると必然的に、原紙から箱の形を打ち抜く「型」も、ウチが経費をかけて新調しなければならない。廃業も終売も、まったく以て迷惑な話である。
そうしていまだ正月休み中の箱のメーカー、またビンの問屋には「御社の正月休みが明け次第、当方にご連絡ください」との連絡をファクシミリにて送付する。
正月2日は初売りの日である。あるいは今日はまた、他社での修行を昨夏に終え、以降はヨーロッパや中国であれこれしていた長男がウチの製造現場で初仕事に就く日でもある。
初売りの朝一番のお客様には毎年、地酒を進呈している。このお酒はここ数年のあいだ、ほとんど同じお客様が手に入れられている。そのお客様のお顔はもちろん見覚えている。しかしお名前については知らない。いずれにしても有り難いことである。
店舗の販売カウンターには、ここ1週間ほどで用意した福袋を開店前に製造現場から運び、右から左までずらりと並べた。お客様の出足は朝のうちこそ遅く感じられたが、その後は徐々に混み始め、昼にさしかかるころには随分と忙しくなった。
その忙しさに呼応するようにして、福袋の本日販売分が見る間に減っていく。よって製造現場へ走り、追加の袋詰めを頼む。体は早くも疲労を覚え始めているが、それでも社内を急ぎ足で行ったり来たりしているときの気分は悪くない。
そして今夜も日本酒を飲み、早々に寝る。
元旦には先ず家族そろって墓参りに行く。そこから戻ると家の中では仏壇、社内にあっては神棚、お稲荷さん、水神、地神の5個所にお雑煮を上げる。我々人間がお雑煮にありつけるのは、それからのことになる。お雑煮には酒の肴のようなものも添えられたから、これが本日の朝食なのだろうが冷や酒を飲む。
朝の食事を済ますと毎年の恒例ながら、日光市今市地区旧市街南東端にある追分地蔵尊に参る。次はおなじく日光市今市地区旧市街北西端にある瀧尾神社に初詣をする。
瀧尾神社で昇殿をしたときには、僕は既にして充分に酔っ払っているから、祝詞が奏上されている最中には毎年、眠ったまま後ろへ転んだり、横に倒れたりする。今年は前の人の背中に頭をくっつけて眠ってしまった。前の人がたまたま朝日町の、酔っ払いには深く理解のあるフクシマヨシミツさんで良かった。
昼は蕎麦で酒を飲み、夜はおせち料理でまたまた酒を飲む。その酒の間隙を突くようにして製造現場へ降り、初売りの準備をする。そうしてきのうに引き続き21時に就寝する。