お盆の前から今に至るまで日照の少ないことはきのうの日記に書いた。
おととい土曜日には、いつもしその実を持ってきてくれる農家の夫婦が「まだ全然、育っていない」と言うために来社をした。きのうはやはり別の農家が「この夏はしその実の育ちが遅い」と電話をしてきた。
今年のしその実の買い入れ期間は8月31日から9月2日と決め、いつもの農家へ向けてお盆の直前に、それを報せるハガキを投函をした。3日間に限ったのは、天候が良い場合、長く買えば材料が集まりすぎて在庫が過剰になるからだ。
しかしここ2週間の天候、そして農家の意見を鑑み、今朝は製造部長のフクダナオブミさん、そして長男と相談の上、買入期間を7日まで延ばすことに決めた。
名簿にあるすべての農家に状況を訊くため長男が電話を入れるかたわらで、買入期間延長のハガキを僕は作成する。そして午後の中ごろにそれを郵便局から投函する。
しその実の生育の遅れは8月2日に降った、ウチの店のちかくではパチンコ玉ほどの、場所によっては、たとえば瀬尾地区のヒラノショーイチさんに言わせれば「ペンポン玉」ほどの雹も関係しているのか、どうなのか。
一昨年は豊作だったけれど昨年は不作だった茗荷についても、心配のされるところである。
「今年は8月12日以降の日照時間が平年にくらべて著しく短い」とは、下野新聞で読んだことだっただろうか、あるいは日本経済新聞で読んだことだっただろうか。
店の坪庭の百合が、今年はいつもの半分ほどまでしか茎を伸ばさなかった。そしてその、せいぜい人の膝丈くらいの茎から小振りの花を咲かせ、その花はすぐにしおれて散った。
遊びざかりの学生時代にこの天気を経験していたら、大いに不運を呪っていただろう。夏休みは最後まで晴れて暑くあって欲しいではないか。
店の犬走りの花は盆を過ぎて、ニューギニアインパチェンスからカランコエに変わった。首から名札を提げたままこの鉢を持ち運びすると、名札が華奢な花に触って気になるけれど、実際にはそれほど弱い植物でもないのかも知れない。
昨年は茗荷が不作だった。よって充分な量の材料を確保することができず、このたまり漬は先月の下旬に売り切れた。今年の茗荷の出来はどうだろう。売り切れてなお僕の朝のお膳に「みょうがのたまり漬」があるのは、店頭に置くための試食が余ったことによる。
それよりも先ずは、しその実である。明日からしその実の買い入れが始まる。お盆このかたの日照により、初日の出足は遅いような気がする。
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もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。マンガもライトノベルもあるよ。一日いても誰も何も言わないよ。9月から学校へ行くくらいなら死んじゃおうと思ったら、逃げ場所に図書館も思い出してね。
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という、鎌倉市中央図書館の女性司書のツイートが話題になっていることをfacebookで知った。子供の自殺は、二学期が目前に迫った9月1日に起きることが最も多いのだという。
学校に行きたくないと感じたことは、僕は一度もない。特に、寄宿舎にいた高等学校のときなどは、夏休みはもちろん嬉しかったけれど、8月も下旬を迎えるころには寮に帰りたい気持ちが募った。
自由学園の、自治により運営される寮の生活は厳しかった。授業さえ受けていれば良いというわけでもない学校もまた、楽ではなかった。それでもなお、夏休みも終盤になりかかるころには寮に帰りたかった。それは、寮や学校が嫌いでなかったということとと共に、家の居心地が良くなかったことも関係していたと思う。
この時代には、僕が帰るべきは家ではなく寮だったのだ。
もしも子供時代の僕に、図書館しか帰るところがなかったとしたら、どんな本を読んだろうかと想像をしてみる。僕は活字中毒ではあるけれど、図書館に行ったことはほとんどない。それは、僕の興味を惹く本を備えたような、大きな図書館が身近に無かったせいかも知れない。
図書館にはマンガもある、ということを僕は今回のツイートで初めて知った。「死ぬくれぇなら逃げちまえ」とは、僕も思う。
腹と左腕の、あまりの痒さに目を覚ました。痒いところを指で探ると徐々に膨らんでいく。どうやら蚊に刺されたらしい。起きて寝室を出る。家内は明日の来客に備え、台所で料理を作っていた。時刻は1時になりかかるところだった。
2009年8月、はじめて訪れたチェンライでイヤと言うほど蚊に脚を刺された。街の薬局を訪ね、当該の部分を見せると店主はガラスのカウンターごしに萬金油を差し出した。萬金油はむかしの香港土産の定番で、珍しいものではない。タイ製の薬を期待していた僕は落胆を禁じ得なかったけれど、その萬金油は激しい痒みにすぐに効いて僕を驚かせた。
普段使いではない、旅行に持参する薬ばかりを入れている引き出しに、そのときの萬金油はすぐに見つかった。そして6年前とおなじく、これを患部に入念に塗る。そして寝室に蚊取り線香を焚く。
眠るに眠れずきのうの日記を書く。更に眠れず今日の日記にも手を付ける。こうして僕の、早寝早起きによる昼夜の逆転はいつまでも続いてしまうのだ。
下今市07:45発の上り特急スペーシアに乗る。今日の予定からすれば08:33発の鬼怒川号が適当だけれど、スペーシアに比しての運賃が極端に高く感じられ、どうにも乗る気にならない。
千代田線をわざと乗り越し原宿で降りる。そこから表参道、更には脇道を辿りつつ青山通りを渡る。またまた脇道、裏道を歩いて南青山の一角に達する。そこで少々の用を足す。
表参道から神保町までは僅々10分の距離と、iPhoneの乗り換え案内に教えられて大いに驚く。その神保町でもまた少々の用を足し、午後の遅い時間に帰社する。
次の日光MGが9月の上旬に迫っている。今回は地元から多くの初心者が参加をしてくれる。初心者にはできるだけ楽に初日を迎えて欲しい。その気持ちから、ほんのさわりの部分だけではあるけれど、MGの入口を知ってもらうための会を今夜は催した。
会の勉強の部分は19時に始まり20時すぎに完了した。後はメシを食べ、酒を飲むのみである。そうして来月に楽しみを残しつつ、22時30分に散会をする。
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と、ここまでは前述のとおり8月28日の早朝に書いた。ところがその後、予期しないことが起きた。
東京スカイツリー線の、押上と曳舟の間で発生した「車両点検」をテレビのニュースが伝えたのは、午前7時になりかかるころだった。下今市07:45発の上り特急スペーシアはこの「車両点検」のあおりを食って、南栗橋を過ぎると停止と徐行を繰り返すようになった。結局のところ北千住に着いたのは、定刻から126分も遅れた11時24分にだった。切符を払い戻すためなのか何なのか、東武線の特急券売り場には長蛇の列があった。
南青山での仕事の約束は11時だったから、千代田線をわざと原宿まで乗り越し、表参道を散歩をしながら仕事場に向かうなどは、できるはずもない。
東武線の混乱は午後になっても収まらず、帰りは仕方なく上野から15時25分発の宇都宮行きに乗った。そして今市には17時54分に着いた。
「その日の日記を、その日の夜明け前に書いてしまう馬鹿がどこにいるか」と問われれば、たとえば吟行した先で詠むべき句を事前に作り置く俳人は珍しくない。日記もおなじである。
食堂の蛇口からは、夏は10リットルほども流し続けないと、水が冷たくならない。それだけの水を無駄にし続けることは忍びなく、しかし仏壇に上げる水が生ぬるいことにも我慢がならず、よって専用の湯飲みにはいつも、ひとつかふたつの角氷を入れていた。
その、仏壇の水に氷を加える必要もさして感じなくなってきた、このごろの涼しさである。否、涼しさよりも寒さと言った方が良いかも知れない、きのうは分厚いセーターに袖を通すことさえした。
今朝、夜明けの空の様子を見ていると、どうもこれまでの数日とは異なって、何やら暖かく、あるいは暑くなる気配がする。そしてその数十分後、霧の晴れていく鶏鳴山の様子を撮る。
今を去ること99年前の大正5年、足尾銅山の大きな地図が作られた。その復刻版が、なぜかウチには10枚ほどもあり、足尾に縁のある人が来るたび、1枚また1枚と譲っていた。
いまだいくらかは残っている筈だけれど、それがこのところ見あたらない。どこかで新たに手に入れることはできないだろうかと、足尾の古い写真館の跡継ぎオノザキハジメさんに相談をしたところ、彼は随分と熱心に動いて、これを所有する人を特定するまでしてくれたけれど、無論、その人が僕にこの古地図を譲ってくれるはずもない。
諦めかけ、しかし「もう一度」と、社内で最も湿度の低い倉庫に狙いを定めて見回ると、それは果たして厚紙の筒に収まってひっそりとあった。数えてみると、いまだ4枚が残っている。よってオノザキさんにはこのことを直ぐに知らせ、1枚を進呈したいと書き加えた。
オノザキさんからは追って「27日木曜日の午前に訪問する」旨の返事が届き、僕もお待ち申し上げると更に返信を送ったけれど、このような約束をきれいさっぱり忘れてしまう悪癖が僕にはある。
このところ髪を切る機会に恵まれず困っていたところ、今朝は思いがけずそれの許される環境が整ったため、すかさず加藤床屋へ行った。そして散髪の最後の行程に差しかかったところで家内から、オノザキさんの来訪を伝える電話がかかってきた。
オノザキさんへの申し訳なさを感じつつ、家内にはその「足尾商業案内便覽圖」の置き場所を伝え、オノザキさんには残り4枚のうちの1枚が無事に手渡された。
「便覽圖」の裏には、発行の費用を負担させたのだろう、足尾銅山に関係した個人法人の広告が全面に印刷されていて、そのほぼ中央にはウチのそれも載っている。これを接写した画像はことによると、次に作るパンフレットの一部を飾ることになるやも知れない。一件落着、である。
コンピュータは持たなくてはならないけれど、他のものはそれほどない。そのようなときのザックは"Tumi T-Tech Empire Smith Laptop Briefpack"と決めている。今日はこのザックに、仕事の道具以外には"Patagonia"のウィンドブレーカーと"montbell"の傘を格納した。
駒込の、西日暮里寄りの改札口を抜けてトンネルのようなガードから外へ出ると「風邪をひきたくなければ傘はさすべきだね」というほどの、霧雨よりはすこし粒の大きな雨が降っていた。よって面倒ではあったけれど、ザックから傘を取り出し、これを開く。
仕事の量は、泊まり込みになりそうなほど多く思われたけれど、18時20分には完了して、関係者は三々五々、駅前で別れた。雨は、昼すぎよりは弱まっていた。僕は傘をさす代わりにウインドブレーカーを着た。ウインドブレーカーの色は、傘とおなじオレンジである。
山手線と千代田線を乗り継いで、北千住に移動する。飲み場所は今夜も、いつもと同じ店である。それはさておき、この日記を読んで、この店に中学生の娘を同伴した人がいる。
「道徳に鑑みて」とか「教育上の見地に立って」というようなことを言う資格は僕には無い。それよりも先ず、中学生の女子がこんなところに連れて来られたら、ただただ違和感と嫌悪感を覚えるだけではないか。もしも「楽しかった」などと感想を漏らしたとすれば、それは大した素質の持ち主である。
そして最終よりひとつ前のスペーシアに乗り、22時前に帰宅する。
日光市今市地区の旧市街中心部にある道の駅「日光街道ニコニコ本陣」には、多いときで検品、納品、検品と、1日に3度は足を運ぶ。そして今朝も検品のため、半袖シャツ1枚の姿で自転車に乗り、かつては歓楽街だった東郷町の通りを下っていくと、涼しさを通り越して寒さを感じた。
早朝の気温が低くて分厚いセーターを着たのは7月はじめのことだ。「7月になってもセーターかよ」と、いまだ来ない夏を待ちわびていた。明日あさってあたりにセーターを着ることになれば「まだ8月なのにセーターかよ」と、今度は行く夏を呼び止めようとして焦燥するのだ。
夕刻、店の軒先に提げた5個の風鈴を外して箱に仕舞う。「時期尚早だった」と、ふたたび風鈴を取り出すことは、今年はもう無いだろう。
晩飯はきのうに続いて鍋だった。鍋が食えるのは嬉しいけれど、夏が去るのは寂しい。9月のタイではチムジュム、ムーカタ、あとはスッキーでもトムヤムムートンでも構わないけれど、少なくとも3度は鍋を食べたい。
たびたび鳴る電話、いきなり訪れる人。そういういものに煩わされながらでは決してできない精密な仕事をするため、昼飯の後はそのまま食堂のテーブルに居残る。この仕事を僕は四半世紀ほども続けているけれど、いつまでも慣れることはない。
「山手線の東側には夏の気温と秋の風があった」ときのうの日記には書いた。正確には「夏の終わりの気温と秋の始まりの風」である。
カンボジアやラオスやタイでは鍋料理が盛んだ。彼らは日本の夏より暑い環境で、チュナンダイやジェオホーンやチムジュムを食べる。「それを知っているから」ということでもない、ただ食べたいから僕は夏の最中にも鍋を望んで、しかしその望みの叶えられることはない。
今夜の食卓には電磁ヒーターが置かれ、そこに昆布と厚揚げ豆腐とエノキダケの鍋が載せられた。僕は驚き喜び、焼酎を割るためのお湯を沸かした。
誰かマスコミと組んで「夏こそお鍋」というキャンペーンを張ってくれないか。いちど流行ってしまえばよほど無理の無い限り、人々は民族の伝統など忘れ、それは習慣として定着するのだ。
上出来、且つ食べきれないほどの量のスパゲティが目の前にあると、何とも嬉しい気分になる。きのうはこれを肴に白ワインを飲んだところ、食卓にいながら眠くなった。椅子に座ったままうつらうつらすることはからだに悪い。そうと分かっていながら、いかんともし難い。やっとのことで寝室に移動をすると、今度は裸で寝てしまう。
日付の変わった午前1時に気がついて、ようようシャワーを浴びる。それから3時間ほどはベッドに横になりつつ眠れず、ここでもまたうつらうつらしたのみで、結局は起きてしまう。
「いずれ眠ってしまうに違いない」と、一度は棚に戻したけれど、欲しくて無ければ落ち着かない。よって新聞のほかに、その読みさしの本もザックには入れた。
下今市10:35発上り特急スペーシアの車内では、案に相違して眠気は訪れなかった。そして高野秀行の「西南シルクロードは密林に消える」の全533ページを読み終える。
北千住で下車してのちは時間を調整するため、喫茶店に入る。活字が尽きるとどうにもならなくて、今度は日本経済新聞を開く。
第32面右上の、青い色の重なりが目の端をチラリとかすめただけで「堂本右美だ」と感じる。文字に焦点を合わせると、そこには果たして彼女の名があった。「ということは、堂本右美も遂に、一家を成したということだろうか」という思いがつかのま浮かんだけれど、画家自身はそのようなことは爪の先ほども信じていないに違いない。
山手線の東側には夏の気温と秋の風があった。午前の後半から夕刻にかけては、いわゆる「ブツ撮り」についての研修を受ける。そしておなじ会場での懇親会を経て、下りの最終にて帰宅する。
きのう23時ちかくに帰宅してエレベータに乗ると、早朝の仕事を指示する張り紙が、階数を選ぶボタンの脇に貼ってあった。よって今朝は4時すぎに起床し、5時前から製造現場に入る。早朝の仕事は真夏にも真冬にもあるけれど、苦にしたことはない。
上巻、中巻、下巻の3冊組の本が、amazonに出品をしている異なる古本屋から次々と届く。既にして絶版であれば、そして3冊を揃えた店がなければ、仕方のないことだ。その3冊が、時間差を置いて本棚に並んでいく。
"kindle"を経験した人によれば「いちどやったら止められない」ほど具合が良いのだという。特に目の衰えてきた世代に、そのような意見は多いらしい。南国のホテルのプールサイドにも、これで本を読む人が目立つ。しかし僕はどうもダメだ。
飲み屋の、チューハイのグラスを伝った雫に濡れるカンターで読むことを好んだり、あるいはそうして読むにつれ柔らかく、ページも開きやすくなる本そのものが好きだったりする性癖のゆえだろう。あるいはまた、絶版になるような古い本は多く"kindle"版を持たない、ということもある。
明日に備えて"NIKON D610"のバッテリーを充電する。
きのう小酌を為しながら、手首から外してカウンターに置いた時計を見ると、馬鹿に時間に余裕がある。「まだこんなに早かったか」と喜び、しかし一方では不審に感じて秒針に目を遣ると、果たしてそれは動いていなかった。直前に電池を交換した時期については覚えていない。
本郷三丁目の駅へ向かいつつ次男と朝飯を摂る。次男は甘木庵にきびすを返し、僕は池袋行きの丸ノ内線に乗る。そしてあちらこちらの店の開く10時までは喫茶店で本を読んでいる。
池袋ショッピングセンター内の時計屋に行くと、受け渡しは15時になるという。そうはのんびりしていられない。ビックカメラ8階の時計売り場を訪ねると、こちらは20分で済むとのことだった。よって時計を預け、地下1階のカメラ売り場に降りて"LEICA Q"の入っていないショーケースを眺めたりする。
ビックカメラの、"MONDAINE"の電池交換に要した費用は1,609円だった。
水道橋での研修を終えて外へ出で、いましがた雨の上がったことを知る。東京は断続的に雨との予報により、荷物嫌いにもかかわらず、きのうから傘を携えている。そしてきのうから今日の夕刻まで、それを使う機会はいまだ無い。
帰宅してトートバッグからコンピュータを取り出し、電源を入れてマイツールを立ち上げる。そして小遣い帳のファイルを開いて「電池」と検索してみれば、前回の交換は2012年5月28日。店は日光市の時計屋LOOKSで、費用は840円だった。
目を覚まし、闇の中でしばし安静にしてから時刻を確かめると深夜の1時9分だった。いかにも早すぎるけれど、起きて顔を洗い、服を着る。
「これは名著」と長男が言いつつ食堂のテーブルの、僕の定位置に置いた農山漁村文化協会、通称農文協の本を、2時40分までに50ページほども読む。朝は活字を追う速度に勢いがある、というよりも、今朝の本は僕にとって読みやすい内容と文章を供えている、ということなのだろう。
下今市10:05発の上り特急スペーシアに乗る。とにかく午前0時台から目覚めているわけだから、新聞を読んでいても、たびたび寝てしまう。しかしまぁ、下りとは異なって、上りは乗り過ごしても浅草が終点なのだから気は楽である。
北千住から日比谷線で恵比寿に移動し、少々の用を足す。恵比寿から湯島までの経路は頭に入っていないから、iPhoneのアプリケーションに頼る。
天神下で小酌を為して後も、今夜のねぐらについては決めかねていた。徒歩で帰れる距離であるにもかかわらず、ちょうど来たバスに乗る。そして切り通し坂を上がりつつ「やっぱり甘木庵だ」と腹を決め、ひと区間のみで下車して横断歩道を渡る。
振り返ってみれば、お盆中の天気がそれほど崩れなかったことに感謝したい。以降はどうも気持ちの良い日が少ないように思われる。今朝は久しぶりに暖かく乾いた風が吹いている。そして4時48分の東北の空へ向けてシャッターを切る。
御料牧場ちかくの畑で社員が6月2日に収穫したらっきょうを、塩と酢とたまりであっさり漬けた「旬しあげ夏太郎」は、お盆最終日の16日に売り切れた。店の前の季節の書は、その翌日に「新らっきょう」を外して「鬼灯」に掛けかえた。
数日前から電気炊飯器の具合が悪くなった。そのあおりを受けて、おとといの朝の飯はステンレスの鍋で炊いた。きのうの朝飯はホットドッグ、そして今朝のメシは土鍋で炊いた。土鍋で炊かれた米は粒のひとつひとつが絶妙の感じで独立して面白い。
炊飯器の会社にはお盆明けと同時に修理を頼むため電話をしたけれど、回線の数が少ないのか、アナウンスのみ聞こえて繋がらない。そのアナウンスも専門の会社に外注したものではなく、素人による内製であること明白な出来である。テレビのコマーシャルには経費を使っても、締めるところは締める会社なのだろう。
家での朝飯は明日まで。金曜日のそれは外食。土曜日はどうしようか。日曜日の朝飯は、ことによるとコンビニエンスストアのおむすびになるやも知れない。
夜は21時の声を聞く前に寝てしまう。バンコクの爆弾テロのことは、今朝になって知った。
爆発が起きたのはきのうの18時55分。現場のエラワン廟は、ラチャプソンの交差点に位置している。日本に例えてみれば、銀座4丁目の交差点に浅草の観音堂があるようなものだ。
「犯人の狙いはタイの観光と経済の破壊」とプラユットは言ったらしいけれど、観光に打撃を与えたいなら空港を狙った方が効果は格段に高い。犯行グループは、TNT火薬を使いこなす集団である。スワンナプーム空港の軒先で爆発騒ぎを起こすなど、赤子の手をひねるようなものだろう。
僕は観光には一切の興味を持たない。エラワン廟も、クルマの中から通りすがりに目にしたのみだ。そのような場所に近づかなければ、バンコクもそれほど危なくないのではないか。
そんなことを考えつつ夜のテレビニュースを視ていると、きのうに続いて今日の午後にも同様の事件があり、その現場はサパーンタクシン。橋の上から桟橋めがけて投げ落とされた爆弾は、幸い目標を外れて川に沈んでから爆発したという。
サパーンタクシンはチャオプラヤ川の交通の要衝で、訪タイ中には僕も幾度となくここから舟に乗ったり降りたりする。
今秋の、タイ行きの航空券は既に予約を済ませた。ほぼ北の国境ちかくにいるけれど、最後の2泊はバンコク。ホテルはサパーンタクシンの対岸にあって、交通の手段は渡し舟。「穏やかじゃねぇな」という感じである。
雨が降っている。お盆休の休み明けを待ちかねたように、日光市大桑地区のアライジンクリニックまでホンダフィットを走らせる。
皮膚の衰えの、止まらない気がする。
少なくとも記録のある1993年から昨年までの23年のあいだ、僕のかかとには、6月から8月の3ヶ月間を除いてずっとアカギレがあった。それが今年は6月を過ぎても、そして今に至るまで、かかとにはずっとアカギレがある。
朝、起きるたび口角が切れて、分厚くリップクリームを塗らなくては痛くて朝飯が食べられない、それは今年の冬に初めて経験をしたことだ。この症状は春になって霧消したけれど、8月に入ってぶり返したのには驚いた。今は治まっている。
足の爪が、102歳まで生きたおばあちゃんのそれのように、波打ち、あるいは反り返って伸びてくるようになった。特に小指のあたりは切りづらくて仕方がない。
子供のころはアトピー製皮膚炎に悩まされた。そして8月も半ばに達するころ、首の後ろにあせもができた。あせもと書いたけれど、湿疹かも知れない。
アライジンクリニックのアライ先生は僕の、衣紋を抜いた患部を診るなり薬の名を看護婦さんに告げた。看護婦さんは「このくらい少量で良いんです」と、チューブから指先にひねり出した半透明の軟膏を見せてから、おもむろにそれを僕の首に塗ってくれた。
「これは湿疹ですか」と訊くと「湿疹ということで、治療しましょう」と先生は力強く宣言した。先生はグルカ兵の穿くようなカーキ色でダブダブの半ズボンを身につけ、裸足をスリッパに突っ込んでいた。秋が来れば先生のズボンは長ズボンに変わる。しかし裸足は年間を通じてのものだったように記憶する。
半ズボンは僕も好きだけれど、どうにも穿きづらい年齢になった。壁の免状によれば、先生は僕より6つ年上らしい。
普段は目を覚ませばいくらも経たないうちに枕の下に手を差し込み、iPhoneを引き出し時間を確かめる。しかし今朝ばかりは「いくらも経たないうちに」とはいかなかった。闇の中でかなり長いあいだ横になっていた。そしてようよう起き上がり、洗面所に入って時計を見ると時刻は2時38分だった。
日曜日の日本経済新聞には読むところが多い。しかし一般の人がゆっくりする日曜日こそウチは忙しい。読めない新聞の、特に面白そうなところを切り取り、透明ファイルに納めて後日、電車の中で読もうとしても、座席の背もたれを倒せばすぐに寝てしまって、結局はそのまま持ち帰ったりする。
青い空に白く輝く入道雲が湧き上がり、地面のどこにも日陰はなく、街には熱風が吹きわたる、そういう僕好みの夏は、立秋を境にどこかへ行ってしまった。しかし今日は久しぶりに、盛夏のそれほどではないものの、蒸し暑さが戻った。
お盆限定のかき氷サービスも、今日が最終日だ。晴れて良かった。御料牧場ちかくの畑で社員が6月2日に収穫したらっきょうを、塩と酢とたまりであっさり漬けた「旬しあげ夏太郎」は、午前のうちに売り切れた。
店舗前の季節の書は明日にも、現在の「新らっきょう」から「鬼灯」に掛けかえられるだろう。
お盆に来店してくださったお客様には、日光の夏を楽しんでいただこうと、税込1,080円のお買い上げごとに、天然氷のかき氷1杯を進呈している。これは一昨年から始めたことで、昨年までは13日から16日までの4日のあいだ続けていた。しかし今年はオフクロの初盆ということもあり、普段のお盆よりも忙しかろうと、14日から16日までの3日間とした。
きのうはこのかき氷のことを会社のfacebookページで紹介したいと考えながら、繁忙に巻き込まれて果たせなかった。
ウチは8時15分の開店だけれど、それより前にいらっしゃったお客様には、時間にこだわることなく店に入っていただく。そして今朝も、そのような家族連れがいらっしゃった。
三ツ星氷室からきのう手当てした氷はきのうのうちに払底したから、今日は今日で買いに行かなければいけない。その氷が朝一番のお客様に間に合うか否かに気を揉んだけれど、そのご家族は先を急ぐでもなく、軒下のベンチでかき氷を楽しんでいただけた。
3種のシロップのうち「日光味噌のたまり甘露」と「梅」は長男が作った。「梅」については数ヶ月前からの仕込みである。「ワイン」は「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」のために僕が調合して冷蔵庫に保管してあるものだ。
先に「今年はオフクロの初盆ということもあり」と書いたけれど、日光の天然氷はここ数年で異常に需要が高まり、手に入りづらくなっている。よってお盆のかき氷は今年に留まることなく来年も「3日間のみの提供」になるやも知れない。
閉店は18時ではあるけれど、その時間にこだわることなく客足が途切れるまで、定時から40分ちかく延長して営業を続ける。
「静かなお盆さまです」という挨拶のあることを、1982年の夏に知った。おじいちゃんの初盆に来てくれた、元社員の発したそれは言葉だった。
「静か」という言の葉には、寂しさ、も含まれているような気がする。その寂しさとは、たとえば平安時代の日本人なら理解していた、あるいはマイルス・デイヴィスも分かっていたかも知れない、すがれた、しかしある種の涼しさ、爽やかさを伴うものだ。
普通の家の初盆であれば「静かなお盆」かも知れないけれど、ウチは商売家である。そしてお盆は、ウチの商売においては1年でもっとも忙しい数日のひとつにあたる。
社員には数週間前の、そしてきのうのミーティングでも、このお盆のあいだは、僕と家内はほとんど店の手伝いのできないことを伝えていた。そしてやはり、有り難いことに、オフクロの初盆には随分とたくさんの方々が線香を上げに来て下さった。
明日の終戦記念日にも、今日よりは少なくなるだろうけれど、オフクロの遺影に手を合わせて下さる方は、お見えになるに違いない。
店のお客様、初盆のお客様、その双方に心を配りながら、16日までの残り2日間を送りたい。
オフクロの初盆用の祭壇は、菊屋造花店のワガツマさんと女の人が数日前に届け、組み立ててくれた。仏壇は、オヤジの妹と僕以外の家族がきのう、隅々まで拭き清め、飾り付けてくれた。僕はそろそろ線香立ての灰をきれいにしなければならない。
菊屋造花店のワガツマさんによれば、祭壇には「まこも」を置くとのことだったけれど、僕はその「まこも」を知らない。訊くとワガツマさんは「スーパーなどで売っている…」と教えてくれたけれど、スーパーマーケットでは肉も魚も売っている。
そこで検索エンジンに「お盆 まこも」と入れて回してみると「川や湖沼に育つイネ科マコモ属の多年草で、漢字では真菰。魔除けの力があると信じられ、先祖の霊を安全なところに迎えようとして敷くものに用いられる」とあった。
生まれてこのかた僕はその「まこも」というものは見たことがなく、またウチでは割り箸の足を付けて馬や牛に見立てた胡瓜や茄子を置くこともしない。よって「まこも」についても、これまでのウチの流儀に従い、用意しないことにする。
検索エンジンにより示されたページには更に「お盆は正しくは盂蘭盆。サンスクリット語のウランバーナが漢字に音写されたもの」との記述もあった。そこで僕は「ウランバーナの森」という小説を思い出した。
僕は活字中毒ではあるけれど、小説はほとんど読まない。その僕にこれを勧めたのが後輩のゴーダタカシ君だ。読んだ感想は「何だかよく分かりませんでした」だった。
目を覚ましたのは1時30分だった。すぐに起床するわけではないけれど、しかし2時台には服を着て洗面を済ませた。暗いうちはおろか丑三つ時にいかがなものかとは思ったけれど、仏壇に花や水やお茶や線香を供えた。これをしないと自分がお茶にありつけないのだ。
勉強をしている先というか、仕事を頼んでいる先というか、とにかくその会社からきのう本が届いた。即、読み始めて今朝も読んで、夜明け前に最後のページに達した。
僕は活字については中毒気味ではあるけれど「これを読んで仕事の役に立てよう」とか「これを読んで自己の啓発に充てよう」という意識を覚えた途端、文字が読めなくなる。「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」のようなマンガでさえ受けつけない。まぁ、ある種の学習障害だろう。
今回の本が読めたのは「仕事のため」とは考えなかったからだ、多分。
街では「いつまでも暑くてイヤになっちゃいますね」という挨拶に「立秋この方、まさか涼しくなりましたね」というものが混じり始めた。「まさか」とは「さすがに」を意味する、このあたりの方言である。
夏好きの僕としては、いまだ涼しくなられては困るのだ。9月の末ころまで猛暑が続いてくれれば、とても嬉しい。
朝4時30分の、南東の空へ向けてシャッターを切る。東の高いところに旧暦6月27日の月が見える。
「月はどっちに出ている」という映画があった。ヤン・ソギルの原作は、今は日光街道ニコニコ本陣の土地の一部になっている玉藻文庫で買って読んだ。しかし映画はいまだ観ていない。ルビー・モレノは元気にしているだろうか。
僕は子供のころから、漫画とアニメーションなら漫画の方が圧倒的に好きだった。今でも活字と映像なら活字の方がよほど好きだ。理由については分からない。
前出のニコニコ本陣に、今日は4回も行った。冷蔵ショーケースの品が売り切れそうになるたび電話を受けて配達を繰り返したからだ。ウチは新しい品のみをお客様にお買い上げいただきたいため、売り場にはそれほどの量を置かないことを常としている。
今日の売上金額は、昨年のそれには及ばないだろうと考えていた。しかし客単価が高く、客数も多かったのだろう、閉店時に出た数字は意外や良かった。らっきょうはすんでのところで売り切れを免れた。
今年はお盆の繁忙にオフクロの初盆が重なる。いささか頑張らなくてはならない。
夏の楽しみのひとつに「午前3時台に、既にして明るい空を愛でる」というものがある。今朝は辛うじて3時台といえる3時58分に、北東側の窓を開けてみた。夜は辛うじて明けつつあるものの「既にして明るい」は、過去の栄光のように去ったらしい。
僕は家いる限り朝飯はほとんど和食にしてる。しかし家族の中にはパンを好む者もいるから、味噌汁のだしは何人分を引いて良いものやら分からない。よってそのあたりは家内に任せている。しかし今朝は次男とふたりきり、そして次男はきのうのうちにパンを用意していた。
そういう次第にて6時から自分ひとりのための味噌汁を用意し始める。鍋に入れる水はお椀1杯分では足りない。1杯半にすることが肝要である。
朝飯は多めに食べてもすぐに腹が減る。しかし午後に空腹を覚えることはなく、それが晩飯どきまで続くとはきのうの日記に書いたことだ。そしてその状態は今日も変わらない。
19時ちかくに次男と徒歩で日光街道を下る。そして小倉町の「ニジコ食堂」で、自分用としてはもやし炒めと焼き茄子を注文する。この店の値付けは200円とか300円というものだからさぞかし量は少ないだろうと考えていると、けっこうな量が来たりする。
もやし炒めのほとんどは次男に食べてもらった。焼き茄子も半分は次男に譲った。すこしの野菜とお通しのジャガイモ煮、そしてビール大瓶1本を摂取すれば気分も腹も大満足である。
そして往きとおなじく徒歩で帰宅してシャワーを浴び、19時台に就寝する。
夏至と冬至の真ん中にあるのが秋分。夏至とその秋分の真ん中にあるのが立秋。その立秋を過ぎた途端に涼しくなった気がする。
早朝の仕事を終えて製造現場から自宅4階に戻ると、鶏鳴山は晴れてきていた。その景色がいまだ夏のものなのか、あるいはいくらか秋めいたのか、そのようなことは、僕には分からない。
朝飯は6時台から摂る。7時には食べ終えていることが多い。そして11時が過ぎるころにはひどく腹を減らしている。それから昼飯までの2時間半は結構、辛い。
昼飯は13時30分から摂る。14時には食べ終えている。午前とおなじく腹が減るかといえば、午後は晩飯の時間が来てもそれほど食欲は湧かない。
腹は午前に減って、午後は減らない、別段、午前にきつい肉体仕事をして、午後にのんびりしているわけでもないのに、この差は何なのだろう。量にしても、朝は昼に比べてずいぶんとたくさん食べているにもかかわらず、だ。
立秋を過ぎたとはいえ、湯船でからだを温めなければ寒くて仕方がない、ということはない。今年はいつごろまでシャワーのみで過ごせるだろう。
北千住から霞ヶ関方面へ向かう千代田線の中で、数メートル離れたところから僕の顔を伺う男がいる。そして「半信半疑」という顔つきで軽く頭を下げた。僕もまたその男の顔を見て、記憶の底を探りつつ会釈を返した。
霧が徐々に晴れて、その男とは、何年かに一度しか顔は合わさないけれど、しかし旧知の間柄だったことを思い出す。そして互いに歩み寄り、隣り合った釣り革を握った。
男は僕のオヤジの思い出をひとしきり語ってから、話題を金儲けに転じた。
地下鉄の車内の騒音はかなりのものだから声を落とす必要など無いように思われたけれど、男はそれまでより明らかに低い声で「マツダです」と言った。
僕は、たとえば"MG"の"TD"と"TF"の違いについてなら話せるけれど、マツダのことはほとんど何も知らない。地下鉄の車内で秘密めかして伝えられる「情報」を信じるほど初心でもなければ、またどこかの株を買うような金も無い。
たしかあのとき男は水色の半袖シャツを着ていた。昨年のことではない。とすれば男と会ったのは2013年の夏、ということになる。
"theory of constraints"を学ぶ人たちの中に、このところマツダのクルマを買う例が目立っている。マツダがこの学問を社内に採り入れたのは、インターネット上のあるページによれば2007年。そしてそれが商品として実を結び始めたのは2012年。
これまた検索エンジンを回してマツダの株価を調べると、2013年の夏に2,000円前後だったそれは4ヶ月後に2,800円、そしてその1年後には3,250円ちかくまで上がっている。
情報信ずべし、しかもまた信ずべからず。二匹目の泥鰌を狙ってその男に接触を試みても、今度は失敗をするに違いない。世の中というものは大抵、そのようにできているのだ。
2014.0822(金)という日を僕は強く覚えている。この日の朝はオフクロの診察に付き添って獨協医科大学日光医療センターへ行った。昼からは次男と渋谷のセンター街を抜け、映画「365日のシンプルライフ」を観た。オーディトリウム渋谷を出て携帯電話に目を遣ると、馴染みの旅行社からの着信記録があったけれど、雑踏の中での会話は躊躇われ、18時すぎに北千住から折り返した。
旅行社にはその前日に、9月下旬から10月にかけての航空券の手配を頼んであった。電話に出た係によれば、本日午後にファクシミリで送った書類に署名の上、返送してくれれば即、発券するという。そうは言われても、北千住にいる自分にはどうすることもできない。
「帰国日のタイ航空TG682便は残り5席。週末の発券はできない」と係は続けた。何百人も乗れる飛行機の、ひと月半以上も先の残席が5とは穏やかでない。
翌日土曜日の朝、その書類に自分の名を手書きして旅行社にファクシミリで送ると、間もなく電話があって、航空券は無事に確保されたと知らされた。残りの席は3に減っていた。
というわけで今秋の旅程は、お盆までには決定したい。
11:35発の上り特急スペーシアに乗るべく自転車で下今市駅へ行く。弁当はおむすびのため、まぁ、おむすびでなくても兎に角、プラットフォームの自動販売機に160円を入れてお茶のボタンを押すと、しかしゴトンと落ちてきたのは120円のミネラルウォーターだった。そして差額の40円は返却されない。
むかしどこかのスキー場のロッジで、コインロッカーに100円玉を無駄に呑み込まれたことがある。ロッジの係員にそれを知らせると、ロッカーはロッカー会社の管理によるので自分たちにそのようなことを言われても何もできないと返事をされ、その100円は諦めざるを得なかった。
今日のこともまた、駅員に訴えてもらちは明かないだろう。そしてスペーシアがプラットフォームにすべり込んでくる。僕はミネラルウォーターのボトルを掴み、開いたドアに向かって歩いて行く。
仕事を終えると時刻は19時30分がちかかった。腹も減っている。よって北千住にて若干の飲酒活動をしてから下り最終のスペーシアに乗る。
朝、茗荷の味噌汁を飲みながら「鰹の刺身に茗荷はつけないでちょうだい」と注文を付けていた、居酒屋の客のことを思い出した。ある程度まとまった人数のいるところで訊いてみると、香り野菜の苦手な人は意外なほど多い。
「茗荷さえ食えないとなれば、東南アジアなんて、絶対に行けませんね」と、たまたま隣に座っていた僕が話しかけると「行く気もしねぇ」と、僕よりすこし先輩らしいその人は笑って答えた。
東南アジアで食べる野菜は目を見張るほど、あるいはウンザリするほど力が強い。この夏、東京ではパクチーが流行っているという。僕は日本ではタイ料理を食べない。野菜が全然、違うのだ。
「だったらオマエ、フランス料理もインド料理も日本では食わねぇんだな」と問われれば、それらには別段、現地の味を求めないから痛痒は感じない。
午前から昼にかけて「限りなく勉強にちかいけれど、やはり仕事には違いない」と思われることを長男とする。
飲み進むとあるところでストンと意識を失う飲み物は蒸留酒、という常識が世間にはあるように思う。しかし酔いの強さは実際には酒の種類ではなく、摂取したアルコールの多寡によるのではないか。
僕をもっとも酔わせる酒はワインだ。きのうは晩飯の前にシャワーを浴び、だから食後に入浴をする必要はない。そのような安心感も手伝ってか、食堂と寝室のあいだにある応接間のソファで4時間ほども眠ってしまった。応接間にエアコンディショナーは動かしていず、窓も開け放ってはいなかったからひどく蒸し暑かった。その蒸し暑さよりも眠気が勝ったのだ。
午前1時にようやく目を覚まして寝室に移った。その寝室でまた4時間も眠り続けたのだから、まるで子供並みである。
午後に風が強くなる。驟雨が迫っている。ノレンを取り込み、社内に溜まって使われない傘を店の入口に出す。「どうぞ店からクルマまで歩くあいだに使っていただいて、そのままお持ち帰りください」という意味の傘である。
しかし今日の雨はおとといの雹を伴う豪雨とは異なり、ずいぶんと穏やかなものだった。事務室内に仕舞ったノレンを再び犬走りの軒下に提げる。傘は社員の誰かが元の場所に戻してくれた。「羮に懲りて膾を吹く」とは正に、このことである。
きのう2時間ちかくも降り続いた雹は、店の駐車場に青々と茂ったモミジを直撃し、その葉を大量にたたき落とした。よって今朝は秋の枯れ葉の時期にしか使わない高箒を持ちだし、広い範囲に散ったそれを掃き集める。
むかし、それがどれほどむかしのことかについては覚えていないけれど、雹が降るたびテレビや新聞はタバコの被害を伝えた。しかしきのうの雹について、それに言い及んだテレビのニュースは、僕の知る限り無かった。
そこで財務省の資料にアクセスすると、1985年には78,653戸あった生産農家が26年後の2011年には10,801戸に、また耕作面積はそれぞれ47,801haから14,083haに減っている。雹によるタバコの被害がマスコミで伝えられないのも「むべなるかな」なのかも知れない。
昨年は茗荷が不作だった。そしてウチの「みょうがのたまり漬」は数週間前に売り切れた。きのう盛大に降った雹が茗荷の畑を蹂躙していないかどうかが気にかかる。長男には、農家まわりをしてもらわなければならない。
店舗向かい側の駐車場、蔵脇の駐車場、蔵脇の生け垣、隠居の庭、玄関前の草刈りを頼んだ植木屋は先月28日の火曜日に来て「ふつかで終わらせるつもり」と言ったけれど、実際には夕立などに阻まれ、31日の金曜日にようやく玄関前まで達した。
玄関前の竹については特に、これが短くなるたび「なぜ伐った?」「誰が伐った?」と言いつのったオフクロは昨年の10月に亡くなった。もはや遠慮すべきは誰もいない。「腰のあたりまで低くしちゃっても良いんじゃないですか」と言う僕に「さすがにそこまでは」という意味なのだろう、苦く笑った職人は結局のところ、塀の高さに合わせて竹を詰めた。
その様子を髪型に例えれば、ヒンドゥーのサドゥから一流ホテルのベル係に一瞬で変身、という見事さだった。気分は大いに爽やかである。
13時30分を過ぎたころから風が吹き渡り、やがて雨が降りだした。その雨は瞬く間に大きな雹を含み、折からの強風に煽られ横なぐりに飛び始めた。社員たちは手分けをしてノレンを外し、また立て看板を駐車場から屋内に移す。
雨と雹は犬走りはおろか、お客様が出入りするたび開く自動ドアから店内にまで吹き込んでくる。社内にあって使われることのない傘を、僕はこの雨に先立ち店に運んでおいた。クルマの乗り降りにも難渋するような雨に際しては、この傘をお客様に差し上げるのだ。
大粒の雹を伴う豪雨は2時間ちかくにおよび、やがて去った。閉店の18時が近づくころ、先ほどまでの雨は地面にのみ残り、空は元の青さを取り戻した。白日の夢のような雨は、今日のこれだけに限らないのではないか。なるべく手柔らかに願いところである。
「ヒグラシが鳴き始めると、山に乳茸が出る」と言ったのは、定年で退職した製造係のアオキフミオさんだっただろうか、あるいは現在の製造部長フクダナオブミさんだっただろうか。それを耳にしたのはかれこれ15年ほど前のことだけれど「ずいぶんと詩的な表現をするものだな」と、しみじみ感心をした。
つい数日前、facebookに「乳たけをいただきました」というコメントを見てギョッとした。乳茸は秋の気配の濃厚なきのこである。「まさか夏、終っちゃいませんよね?!」と僕は即、返信をした。ほどなく「乳たけは8月が本番」とのコメント主の返事がタイムラインに上がった。
そう言われて、乳茸のつゆの素麺がお盆の仏壇に供えられている様子が目に浮かんだ。その仏壇がウチのものだったか、はたまたよそのものだったかの記憶はない。
手入れの行き届いた赤松の林にヒグラシが鳴く、それは初秋の美しい風景だけれど「ちょっと待ってくれ」と僕は言いたい。どこへ向かって言えば良いのかは知らないけれど。