社内より18名、社外では遠くは山口県、兵庫県、大阪府からの参加者15名を迎え、計33名を以て第23回日光MGが開始される。上澤梅太郎商店は年に7日から8日のお休みをいただく。そのうちの4日間は、新春と初秋の日光MGにそれぞれ2日ずつ充てられる。日光MGはウチの、社員研修の場でもある。
MGつまりマネジメントゲームは5、6人がひとつの卓に集まり、ひとつの市場を形成する。参加者が33名ということは6市場6テーブル。参加者は今日と明日の2日間に5期分の経営を盤上に展開し、売上金額の多寡によってこの6つの市場を渡り歩く。
MGの第1期は参加者全員がみずからの資金繰り表に決められた数字を書き入れ、全部原価と直接原価による2種の決算書を完成させる。この、いつも変わらない第1期を経験することにより初心者はルールを身につけ、ヴェテランは基本に立ち戻る。そしていよいよ第2期より、参加者各自が経営者となってのゲームが始まる。
MGはゲームであれば、やはりその初手においては端歩突きのような奇手は避けたい。MGを20年以上も続けてなおゲーム展開の下手な僕であれば尚のこと、初手は定石中の定石で行きたい。そのためには5、6人のうちの1番手を決めるジャンケンに勝つ必要がある。そうして気合いを入れすぎ、ゲームの始まる前から脳の酸素を欠乏させる。
今回の第2期は、僕としては上出来の黒字スタートとなった。そしてこの期の売上高トップにして神戸から参加のビトータダユキさんが、第3期の閉鎖市場と固定費の倍率を決めるためのサイコロを振る。
「会社に欠けていたのはこれですよ」と、第1回日光MGの終了時に言ったのは製造部長のフクダナオブミさんだ。「若い人の力を借りなければ何もできないことが分かった」と言ったのは業務部長のアオキフミオさんだ。決算中の会場ではそこここに、教え合いの小さな輪が発生している。
参加者中で売上金額の高い順から6名はA卓でゲームを行う。第3期A卓における僕は、資本金の300円から38円を失い、自己資本を262円に落とした。そして第3期の売上高トップにして大阪から参加のオカモトゴースケさんが、第4期の閉鎖市場と固定費の倍率を決めるためのサイコロを振る。窓の外は既にして暗い。
夕食の後は、西順一郎先生の指導により第4期の経営計画を立てる。21時からは場所を移しての交流会。早寝早起きの僕は夜に弱く、だからこの場で社員たちと夜遅く、というか朝のちかくなるまでお酒を飲んでくださる方には大変な有り難さを感じる。そして僕はといえば日の改まらないうちに入浴をし、皆に先立って寝る。
「思えば遠くに来たものだ」という感懐は、現代の旅では得づらい。どんなに遠い距離でも飛行機でひと飛びしてしまうからだろうか。「思えば遠くに来たものだ」とは距離の遠近よりもむしろ、自分のおかれた状況の大きく変わったときに僕などは感じる。
6時がちかくなるまでは布団の中にいる。そしていよいよ懐かしい木の階段をギシギシと音を立てて降り、右に左にと曲がる廊下を伝って浴場へ行く。那珂川に面して高いところにある露天風呂に仰向けになり、晴れてはいるがいまだ未明の気配を濃く残した空を見る。
夕刻には会社にいて、明日からの「日光MG」に参加をされる方々のうちの前泊組を事務室でお待ちしたり、あるいは下今市駅のプラットフォームに出迎えたりする。
総勢8名のお客様を研修会場までお送りする任を担って前夜祭の席でも飲酒はしない。今朝の露天風呂から一転して、初更には勉強の雰囲気が盛り上がってくる。「思えば遠くに来たものだ」と、夢を見ているような気分でいるわけにはいかない。明日あさっては真剣勝負である。
「馬頭の温泉を利用してトラフグが養殖されている、試行錯誤の状態から、現在は徐々に目標の味に近づきつつあるらしい、時宜を得ることがあれば是非、それを食べに行こう」との話が栃木県味噌工業協同組合の中で起きたのは昨年のことだったか、あるいはそれ以前のことだったか。
その数年来の計画を実行するため本日、組合員たちは馬頭温泉の「いさみ館」に集合をした。我々の目の前には驚くほど広い河原を持つ那珂川があり、折しもその対岸に夕陽が落ちていこうとしている。
その夕陽を眺めながら氷点下の外へ飛び出し、舟を模した露天風呂に浸かる。そしていよいよ宴会場へ出向き、遂にその、トラフグの刺身を食べる。栃木県立馬頭高等学校には、全国で唯一、淡水魚の増養殖を学べる水産科がある。この水産科では昨年暮に、鰻の人工孵化にも成功をしている。馬頭とは目立たなくても、中々おもしろい地域なのだ。
そして問題のトラフグは歯ごたえも良く、また噛めば噛むほど口中にアミノ酸の旨味が広がり、僕は大いに驚いた。これで量産にも成功すれば「海の無い栃木県に、獲れたての河豚を食べに行こう」というツアーも急増するだろう。
今日はたまたま"NHK"の取材が我々の座敷に入った。僕は温泉旅館で入浴をすると、以降、浴衣の下には何も付けない。女子アナウンサーに金玉など見られないよう留意しながらインタビューを受け、しばらく後より飲酒の速度を上げる。
忙しくしていることが好きな人、忙しくないと不安になる人、忙しいことが自慢の人、逆に忙しいと精神の平衡を保てなくなる人、あるいは繁忙と清閑の絶妙の配合にようやく落ち着く人など、世の中にはいろいろな人がいる。
「忙しい、忙しい」が口癖で、しかしその人をすこし見ただけで「君の忙しさは、君の行動の不合理さが原因だわな」と教えてあげたくなる人もいるが、嫌われてもいけないので黙っていたりする。
自分の商用ウェブペイジにGoogleカレンダーを設置している人がいる。勤め人であれば休日に連絡がつかなくても顧客は当たり前と考えるかも知れない。しかし個人事業主にあっては、自分のスケデュールの公開など、みずからの首を絞めるようなものではないか。
そう心配するとその人は「ヘーキ、休みたい日は『終日外出』って書いて、電話が鳴っても出ねぇから」と答えたので、融通の利かない僕などは大いに感心をした。
ところで僕の、明日から来週末にかけては神経も肉体もかなり忙しい。体力を温存するため本日は断酒をし、そのかわり吉田類の「酒場放浪記」の録画を見る。
所用にて東大病院の7階に、朝の8時30分から夕方17時までいる。談話室の窓からはすぐそこに不忍池が、そしてその向こうには東京スカイツリーが望める。右下の、大きな石組みの上の煉瓦塀は、無縁坂に面した岩崎の屋敷のものだ。
視線を直下に転ずると、瓦屋根の、なかなか広い庭を持つ家が見える。防錆塗料を塗られた鉄製の大きな門は、そこに人の棲まなくなった後に管理会社によって取り付けたものだろう。不忍通り沿いにはマンションが林立しても、その内側には荷風好みのすがれた景色が残っている。
甘木庵から本郷三丁目へ向かいつつ顔を上げると、群青色の空には旧暦1月5日の細い月がある。その月に接するほどにして光っているのは宵の明星だろうか。マウンテンパーカの下にあってダウンベストに守られていない両腕が寒い。
池袋の、北口に続くコンコースの本屋で「グレイトフルデッドにマーケティングを学ぶ」を買いそうになるが買わず、外へ出て麦焼酎のお湯割りを中ジョッキで4杯ほども飲む。
午後より東京に出る。開店2時間前の「シンスケ」を横目に湯島の切り通し坂を上がり、裏道に入る。ところどころに残った先日の雪が凍って午後の日を跳ね返している。
所用にて東大病院の7階へ上がる。バブル期の地上げに遂に応じなかったのか、中々に広い庭を持つ、しかし今は訪れる人もなく門の閉ざされた家が眼下に見える。その向こうに不忍池、その更に先には東京スカイツリーが望める。
東大病院と甘木庵は指呼の距離、というよりも、石を投げれば届く関係にある。病院の裏門ともいえる鉄門を出て甘木庵に荷物を置き、春日通りを西南西に歩く。「三原堂」の窓飾りは節分からヴァレンタインデーのそれに移りつつあった。
「スラブはよー」と、池袋の「男体山」でカウンター活動中のオジサンが店員に声をかける。それを耳にして「スラブといえばオールドデリーのマーケット、いや、インドとスラブは関係ねぇ、そう、あれはサラセン風…なんつったかな、あの建物…」と思い出そうとして、しかし加齢のためか酔いのためか脳には何も浮かばない。
「スラブはよー」で始めたセンテンスをオジサンは、しかし「平らじゃなくちゃいけねぇ」と結論づけた。「なるほどスラブはスラブでも建築の方のスラブか」と僕は納得し、以降は壁の品書きなどを眺めつつカウンター活動に専心する。
今日は会社の健康診断の日にて、朝8時に診療所のバスが来る。この寒い時期に健康診断とは多分、ウチの繁忙期を避けて設定されたものなのだろう。
健康診断の最中にもお客様はご来店になり、また取引業者は製造現場に顔を出す。低い気温の中を走りまわった挙げ句に血圧を計られ「ちょっと高いですね」などと白衣のオネーサンに言われたりする。
身長と体重は昨年と変わりなく、しかし胴囲は3センチ減っていた。視力が両眼とも1.5とはめでたい限りだが、これは近眼が治ったのではなく、老眼が亢進しただけのことかも知れない。
採血のために朝飯は抜き、昼は「だからいつもより多く食っても平気だ」などとは考えず、かけ蕎麦のみを食べて恬淡としている。僕が標準体重を維持できるのは、このあたりの食の好みが寄与しているものと思われる。
夜は日本酒に特化した飲み会「本酒会」に出席をするため蕎麦の「やぶ定」へ行く。ここでもそれほどのカロリーは摂取せず、21時に帰宅して早々に寝る。
東京では昨夜から今朝にかけて4センチの積雪。これによる交通事故は千件を超え、転倒などを原因とする怪我人の救急搬送も、とんでもない回数に上っているという。
事故は、積雪や路面凍結といった非日常に、自転車やいつもの革靴、いつものタイヤなど日常を以て対抗してしまうという、つまり危機を回避しようとする意識や行為を欠いたところに発生している。
危機意識の欠如つまり「おっちょこちょい」は僕もしばしばやらかすこと、というより僕の場合にはむしろ危機に対して故意に近づいていくようなところがある。だから、転んで起き上がったと同時にまた転ぶ人の映像を見て「ハハハ」などと笑っている場合でもないのだ。
テレビがそんなニュースを伝えている昨夜から今朝にかけて、しかし日光に降雪は無い。そして「しばらくはまた晴れて欲しいがなぁ」と考える。
「一月は行く、二月は逃げる、三月は去る」の特に三月は年度末だから皆おしなべて忙しく、あっという間に過ぎてしまうという意味だという。しかし年度末で忙しいのは学校と役所くらいのものではないか、あるいは僕が世間知らずなのだろうか。
みずからを振り返れば、1月の末から2月の頭までは中々に忙しい。以降は大した予定もなく、2月の末から3月の頭まではまた動きがある。否、この期間に動くのは僕ではなく社員たちで、僕はその下準備をするくらいのものだった。見栄を張ってはいけない。
テレビではここ数日のあいだ、首都圏に降りそうな雪を懸念するニュースが続いている。そして東京よりも明らかに雪の多そうな日光は、今日も晴れている。
夜に洋食の「金長」へ行く。町内の話し合いの最中に地震がある。地面とおなじ高さの「金長」で不気味に感じるほどの揺れであれば、ウチの4階の居間は、その何倍も揺れているはずだ。そう考えて家内に電話を入れたりする。
火事なら消防が火を消しに来てくれる。地震は処置なしである。
雪が積もれば何かと手間を食う。雪の降りそうなときには深夜でも一度は窓を開け、外の様子を窺う。今未明には星こそ見えなかったものの降雪はなく、夜が明ければあたりの景色はきのうと変わらなかった。
とはいえ週末の雪はたとえその量が少なくても行楽客の気勢を削ぐ。店舗は日曜日としては静かで、僕はそれほど応援にも入らず、新しい宣伝媒体のデザインや、2月に出すダイレクトメールの校正などを事務室にてする。
春や夏や秋におけるもっとも楽しい時間は、尻のポケットに文庫本を入れて飲み屋へ出かける夕刻かも知れない。しかし冬、特に日光にいるときには、日が落ちてから自転車に乗ったり数百メートル以上を歩いたりする気分にはなりにくい。その気分と相反するように、寒い晩には決まってホットバタードラムが飲みたくなる。
終業後、仏壇のお茶や水や花を下げてからホンダフィットを運転して小倉町の洋食屋「コスモス」へ行く。そしてホットバタードラムを飲む。
この店では決まってサラダの後にマカロニグラタンを食べる。マカロニグラタンを注文しないでいると、厨房から「もう焼いてもいいですか」と声のかかるほど、僕はマカロニグラタン以外のものを頼まない。しかし今日は趣向を変えて、スパゲティナポリタンを、ホットバタードラムから切り替えた"TIO PEPE"の肴にする。
その、この店で初めて食べてみたスパゲティナポリタンがあざといほどに美味い。「反則じゃないですか」と言いたくなるほどに美味い。なぜ美味いかは食べてみれば分かる。興味のある人は「コスモス」へ行って、これを頼んでみてください。
そして家内の運転するホンダフィットに乗ってを帰宅する。
夜中に窓を開けると降雪は大したこともなく、水銀灯に照らされた路上を見ると、特にマンホールの上などは地下からの熱によるものか、雪は付着していない。安心して二度寝に入り、そのまま朝を迎える。
朝7時30分に店舗のシャッターを上げ、内外の明かりを点ける。雪は降り続いていてもその量は少なく、車道に落ちたそれはクルマに踏みつぶされてすぐに融けていく。
社員休憩所の冷暖房装置を一新すべく、業者にその旨を連絡する。これについては昨初夏、酷暑の長期予報が出た際に行おうとして時宜を逸した経緯があった。工事は、2月の上旬には完了するだろう。
雪の降った日の夕刻が好きだ。もっとも冬に夕刻のことばは似合わない。あたりの景色はもはや夜のそれである。しかし時刻はいまだ17時30分だ。雪の降った日の夕刻は寒くない。空気は澄んでいる。
未明から降り始めた雪は、積もるまでには至らなかった。雪が降って嬉しかったのは子供のころだけ、いやそうでもない、今でも旅先の雪に限っては好きだ。
今月11日の食事中に、舌の右側面を誤って噛んだ。傷は浅かったがいつまでも治らず、メシを食うことに専心できない。その不快感に「1週間も治らねぇってのは、なんだかおかしいんじゃねぇか」という恐れが加わり、おととい遂にセキネ耳鼻科を訪ね、何種類もの薬を塗ってもらった。
本日昼に「そういえば…」と、何とはなしに舌の噛み跡のことを思い出し、つまり思い出さない限り痛みを感じないところまで傷の癒えたことを知る。セキネ耳鼻科の治療lが効いたのだろう。
夕刻にヤマトのドライバーから電話が入る。"amazon"の包みでCDが届いているという。ドライバーの現在位置を訊ねると、ヤマトの日光営業所にいるという。CD1枚のために往復6キロを走ってもらうわけにはいかない。「明日で良いですよ」と答えて電話を切る。
ここ数日のあいだは右翼に叱られそうなほど朝鮮風のメシを食べてきた。よって、ということもないが今夜は洋風のワンプレートを作ってもらい、それを肴にシャンペンを飲む。
日光に雪が降ると、男体山のルンゼにクワガタムシの形が黒く現れる。それが今年はいまだ、それほど明瞭ではない。雪が少ないのだろう。
事務係のテツカサヤカさんは昨年3月の大震災に遅れること1ヶ月少々の後に入社をした。以降、幾度となく機会があったにもかかわらず、コンピュータについてはアプリケイションレベルでの教育しかできず、気になっていた。
ウチの事務係は2人体制で動いている。シフトの関係から、ひとりでこなす日も多いが今日は2人が揃っている。テツカさんには急なことではあるが「マイツール教室、やろうか」と提案したら「はい、是非」と、にっこり笑った。
よってこれだけは前に手渡してあった、僕の自作のテキストを机上に出してもらい、教室を始める。テツカさんは昨春の入社以来マイツールを使っているから、テキストの不要な部分はどんどん飛ばして進む。教室は90分ほどで終了し、後の時間は西順一郎・山名武史著「戦略的マイツール入門の、50ページから100ページまでを読んでもらう。
「こうなれば一気呵成だ」と、午後はマイツールを使ったスケデュール管理教室を行う。こちらの教室にはテキストは無い。口伝えに使い方を教え、あとはマヒマヒ著「西式スケジュール管理」の第3章を読むよう言う。
コンピュータを使うにあたっては技術と共に思想性も大切になる。その思想性とはことによると、テッドネルソンの「ホームコンピュータ革命」あたりまで遡れるものかも知れない。
昨年12月19日に"amazon"から発注した"Lagrimas Negras Bebo Valdes & Diego El Cigala"がようやく届く。おなじCDでも安いものがあれば国内の在庫には目もくれず海外の業者に注文し、その結果、届くまでに大変な日数がかかるとは、僕のよくやらかすことだ。
それでもこのCDは1ヶ月で届いたからまだましな方だ。3ヶ月を待っていまだ送られてこないものも、僕の注文履歴にはある。これについては、そろそろ見限った方が良いかも知れない。
禁煙に成功するまでの道のりを語って聞かせてくれた愛煙家の目の前で吸って大いに焦燥させてやろうと、巨大な"ROMEO Y JULIETA"を買った。2007年のことだ。しかし彼を焦燥させる機会はなかなか訪れない。結局この葉巻はワイン蔵に保管され、そのうちどこにも見当たらなくなった。
「しかしとにかくワイン蔵にあることだけは確かだよな」と本日夕刻、意を決してワイン蔵の簀の子に膝をつき、床から徐々視線を上げていく。すると意を決した割りにはすんなりと、見覚えのあるアルミニウム製のチューブは下から2段目の棚に見つかった。
チューブのすこしつぶれているのは、どのような理由によるものだろう。ことによると、どこかに挟まれたまま地震などにより圧縮されたのかも知れない。いずれにしても中身に大した影響はないだろう。
次男が元旦に瀧尾神社で引いたおみくじには「待ち人」とか「失せ物」というような項目があった。その「待ち人」と「失せ物」が同時に現れたような、今日は一日だった。
朝飯の味噌汁について「馬鹿に美味めぇな」と感じ、行儀の悪いことではあるかも知れないが、表に浮いた揚げ湯波の下に箸を差し込むと、そこには豚の挽肉が隠れていた。西瓜に砂糖をかける趣味はないが、湯波の油と豚の脂の溶け合った味噌汁は美味い。
美味い食べものは良質の水あってのものだ。ウチの蔵には「水神」と彫られた石碑がある。これがいつごろに建立されたものかは知らない。本日は朝のうちに瀧尾神社よりタナカノリフミ宮司が来社し、この石碑の前にて水神祭を執り行う。
若いころには1週間に1度は焼肉を食べていたような気がする。すこし前までは、夕食に何が食べたいかと訊かれて「ステーキ」と答え「そんなもの頻繁に食べてたらからだに悪いよ」と叱られていた。
本日の晩飯を眺めて「今じゃぁこれで満足しちまうんだから、オレが太らないのも道理だわな」と考える。
古い"BUGATTI"のエンジンには、カムシャフトに直結されたロッドがヘッドカバーの後方に突き抜け、ベルトを介してスカットルの回転計を動かす例が多く見られる。そのベルトのテンションを保つプーリーからややもするとベルトが外れ加減になるため何らかの対策を施そうとは、"EB-ENGINEERING"のタシロジュンイチさんと僕とが10日ほど前に話し合ったことだ。
アルミニウムの塊からタシロさんが削りだした新しいプーリーは、これまでのものとは異なり、縁部に糸巻きのような土手が設けてある。これならベルトのずれることもない。
古いクルマを修復するとき大切なのは、どこをどのように治すかということと共に「どこについては治さない」とか「治すに当たっては、これこれの方法は用いない」と心に決めて動かさないことだと僕は思う。
夜に水餃子を、長男が中国のどこかから買ってきた紅油腐乳で味付けして食べる。この腐乳にはクルミをすり下ろして錬ったようなコクと白酒のような芳香があって、大いに餃子がはかどる。そしてこれまた長男が中国のどこかで買ってきた、何十年も前の上海の流行歌を聴く。
店の入り口の季節の書は「賀正」から「春隣」に変わった。社内店内の正月飾りはきのう外し、社内の一角にまとめ置いた。それを今朝、製造係のフクダナオブミさんがトラックに載せ、お焚き上げの行われる瀧尾神社へと運ぶ。
昨年いまごろの日記を読み返して、1月のなかばには雪の積もったことを知る。ことし日本列島の太平洋側には雪が少ないらしい。反面、日本海側の降雪は例年のそれを大きく超え、その様子をテレビのニュースが伝えている。
この春には102歳になるおばあちゃんが小学生のころには、大雪により今市小学校が学校閉鎖になったこともあったと聞いたことがある。日光とはいえ南部の今市地区では、長靴も間に合わないほどの深さまで雪の降ることは希になった。
5月の連休や秋の行楽シーズンに日光を訪れ渋滞にはまり込んでいる人たちには「悪いことは言わないから真冬にいらっしゃい」と教えて上げたい。日光は変化に富む土地にて、山あいの温泉場では雪見酒もできるだろう。「人の行く、裏に道あり、花の山」である。
同学会の新年総会に出席をするため、午後3時前に池袋の明日館講堂へ入る。本日、礼拝の司会を担ったのは昨年に引き続き、下級生であり自由学園の教師でもあるタカハシカズヤ先生だった。
今年は、僕より5年先輩の男子部30回生が還暦をお祝いされるクラスにて、その人たちが壇上に並ぶ。1970年代には彼らも大学生だったと思えば感慨も深い。そして記念品の赤い、まぁ、真っ赤では数寄も過ぎるから実際には臙脂色ではあるが、その制帽を僕がもらうには、あと5年は元気でいる必要がある。
現在の在学生や今年の春に入学する新入生が、今に続いて将来も、自由学園を助けるために力を出してくれることを切に望みつつ、いまだ宴たけなわの会場を離れ、帰宅の途に就く。
東京大学龍岡門ちかくの甘木庵から神保町へ向かうときにはいつも、タクシーに乗るつもりになっている。お茶の水までの近道はサッカー通りだが、兎に角タクシーを利用しようとしているから春日通りを横断し、本郷消防署に背を向けて南進する。しかし本郷通りを渡り、神田川の崖の見えてくるころには、タクシーをつかまえる気はすっかり失せている。
東の空の、いまだ低いところにある朝日に背後から照らされた、墨色の人たちとすれ違いながら東京医科歯科大学を過ぎ、お茶の水橋を渡って交番の角を右折する。そしてデジタルハリウッド前の道の名が「かえで通り」だったことを初めて知る。
山の上ホテルの裏の、錦華坂とおなじ頂上を持ちながら錦華公園を左に見て下る坂の名は無いのだろうか。クルマの溢れる白山通りを越えれば神保町。ほんの2、300メートルでもバイタクに乗ろうとするタイ人からすれば驚倒すべき距離を歩いて"ComputerLib"への階段を上がる。
何年前のことになるかは自分にも詳らかではない。ある日、九段下から神保町へ向けて靖国通りの右側を進みつつ「表通りばかりを歩いても面白いことはないだろう」と、不意の気まぐれにより裏道に入り、そこに定食の看板を出した、趣味の良さそうな店を見つけた。ちょうど昼どきだったこともあって中に入り席に着いたところ「おまかせ」の1種類しかない料理は大当たりで「ここは凄げぇや」と感激をした。
本日はその「嘉門」に"ComputerLib"の若い人たちと出かけ、やはり「おまかせ」の定食を食べる。神保町にあって昼に食事を供するすべての店を回るなどはとてもできないからこれは客観的な意見とはなりえないが、「嘉門」の定食は神保町屈指のものと僕は確信をしている。
「嘉門」は昼の定食とおなじく夜の酒肴も「おまかせ」の1種類しか持たない。神保町にあって夜に酒を供するすべての店を回るなどはとてもできないからこれは客観的な意見にはなりえないが、「嘉門」の酒肴は神保町屈指のものと僕は確信をしている。
本日は昼に続き夜にも「嘉門」ののれんをくぐり、数十分ほどのカウンター活動をする。
朝、事務室のシャッターを上げ、あたりを見まわすと、手水鉢の、昨夜来の強風に飛ばされた水が、鉢の下の草を凍らせている。いよいよ冬も本番である。
下今市駅07:45発の上り特急スペーシアに乗る。自動券売機で特急券を買うと、空いているにもかかわらず前から3番目の席が割り当てられるとは、どのような考えの基に組まれたプログラムによるものなのだろう。
京成関屋の駅で下りの時刻表を見ると、そこに「う」と「ち」の文字があり、京成線だけに「宇ち多行き?」と一瞬、あり得ないことが頭をよぎる。晴れた日に京成線に乗り、東京を東へ移動するときの窓外の景色が好きだ。3本の川を次々と渡るときには特に、自分の目が、明るく解像力に優れたレンズになったような気がする。
昼に湯島の切り通し坂を上がる。ここでも冬の陽はあたりをあまねく照らし、荒木経惟がペンタックスの6×7で撮った写真のように風景を明るく平板にする。
夕飯というか夕刻の酒というか、そういうものを摂りながら丸谷才一の随筆を開く。午前に京成線の車内で読み始めた「周恩来も金日成も田中角栄も」と題された小文は、あちらこちらに飛びつつ犬肉食いについて触れている。
それを読んで、勤務先の中国工場に赴任しながら昨年の暮に食べた、会社の賄いのオバサンによる犬料理の美味さを語る長男の、その微に入り細をうがった説明を思い出す。「儒教の残る地域では大抵、犬を食う」と長男は言う。そして丸谷はこの随筆の中で「もつとも文化人が犬食を嫌う傾向はあるらしく…中略…これはどうやら道教の影響らしい」と書いている。
儒教や道教について僕は詳しくないが、とにかく僕も、そのオバサンの犬料理を食べてみたいものだと思う。
"twitter"ができて"twilog"ができて、するとそれまでウェブログを書いていたうちのかなりの人たちがウェブログから離れ、"twilog"をその代用としだした。これは昨年に多く見られた現象である。文章のカジュアル化は一体どこまで進むのだろう。
僕も「大昌園で新年会ちう」と書けば、それで本日の日記は"twitter"的には完了かも知れないが、そうもいかない事情がある。「大昌園で新年会ちう」では、作文の時間に原稿用紙を渡され、しかし2行で完結してしまった、小学1年生時代の自分よりも明らかに「下」である。
「だったら俳句や短歌もカジュアルな文章か」と問われれば、それは違う。
そういう次第にて社員たちと焼肉を食べ焼酎を飲み、その後のことは特には覚えていない。
たまに雲の出ることはあっても、ここしばらく、晴れ間の見えない日はないように思う。事務室に差し込む朝日は飾り机の植物を数分のあいだ淡い色にし、やがて南を目指して上がっていく。
1980年代に新大久保の「石井スポーツ」で買ったウォッチキャップは家で洗ったせいか縮み、しかしそれでも無理に使っていたが、このところは見当たらない。"L.L.Bean"の、深緑色のキャップは気に入っていたが、すこしすり減ってきたところでタクシーの中に置き忘れた。
おなじく"L.L.Bean"の、黒いキャップはきのう次男にやってしまった。何年か前のある朝、国道121号線沿いの歩道を掃除していて拾った、手製と思われる毛糸のキャップは、なかなか気に入ってはいるが、編み目が粗いため風が吹くと寒い。
先日、神保町の、今は「石井スポーツ」なのか"ICI"が正式の名称になったのか、とにかくそこで"Mammut"の黒いキャップに出くわした。黒地に"Mammut"と刺繍したデザインに目を留め、これを被ってみるとすこぶる具合が良い。ただし5,775円という価格については気に入らない。
買わずに帰って検索エンジンを回すと、「好日山荘」のウェブショップに、モスグリーンではあるが、1年落ちのそれが2割引きで出ていた。「まぁ、緑色でも」と色については容認しつつ、それでも1週間ほど迷って買い物かごに入れた。それが本日、宅急便で届く。
むかし読んだ冬期登山の技術書に「帽子には服1枚分の保温能力がある」と書いてあった。最近ネット上で「ネックウォーマーには服1枚分の保温能力がある」という売り文句を目にした。ということは、帽子とネックウォーマーを身につければ、服2枚を減らせるのだろうか。それはちと無理だろう。服2枚を脱げば、僕などは冬でも丸裸である。
冬至から2週間と少々が経って、随分と朝が明るくなってきた。洗面所の窓を開けると、瀧尾神社の上のあたりを複数の白い鳥が舞っている。目を凝らせば、白い鳥はまだまだいて、その多くは日光街道の杉並木に羽を休ませている。
居間のカメラを取って戻り、電源を入れ、マクロを普通モードに、そしてフォーカスをマルチから無限遠に切り替えそれを杉並木の方向に構えると、しかし白い鳥の群れは1、2羽を残してすべて飛び去っていた。
午前、学校の寮に帰ろうとしている次男が坊主頭に帽子を被っていないため「臭くても良ければやるよ」と、"L.L.Bean"の、ここ8年ほど使ってきたフリースの帽子を手渡すと、次男はそれを鼻に持っていきながら「臭くないよ」と言う。次男はその帽子を被り、家内の運転するホンダフィットに乗って下今市駅に向かった。
気温が下がるにつれ出不精になる。夜はひとりでおでんを食べながら、ヴィデオに録っておいた「酒場放浪記」を観る。
社員が毎日かならず残業せざるを得なかった12月から年が明けると、まぁ、元旦から3、4日はとにかく、以降は一気に仕事量が減る。もっともこの場合の仕事とは一般的なものであり、これから春の彼岸までは、製造係においては仕込み、そして事務係においては種まきに類する仕事が始まる。
来週の僕は、12日から13日までが初出張。14日も東京にいる。以降の半月ほどは社内に詰めて、今月末から来月はじめには、また動きがある。これからの3ヶ月間には「時間ができたらぜひしたい」と考えていたあれこれを、できるだけ多く実らせたい。
いまだ店の開いている時間に町内の公民館へ行く。そして役員と、1年の任期で隣組を仕切る組長を集めての新年会に参加をする。「組長を集めて」とはいえ寒さのせいだろうか、その過半は出てこない。仲間うちの飲み会のような「公式行事」は20時に完了した。
これから2月にかけて、気温はますます下がるだろう。戦場ヶ原の木道を独行し、すこし奥まったところにテントを張って寝るということは可能だろうか。これは、むかしからしたくて出来ないことのひとつである。
2月29日からの1週間は、日本橋の高島屋で出張販売をする。これについてのデータベース、マクロのコーディング、文書は併せて56シートで、ひとつのファイルに納められている。このファイルの内容を今年のものに更新する仕事はきのうから始めた。そして本日の夕方に、そのほとんどを完了する。
このファイルは来年以降は多分、長男により更新をされることになるだろう。そして僕はもはや、何もしないかも知れない。
むかし西麻布のバーで、ソルティドッグのウォッカを本来の倍量入れるよう頼んだことがある。しかしてその味は「やっぱりレシピ通りが美味いわな」と感じさせるものだった。
「魚登久」へ行くといつも「カスハナ、でかいコップでください」と頼む。メニュにある本来の容量では、お替わりをするのが面倒なのだ。こちらの場合にはカクテルではなく生で飲むものだから、量が本来の倍になろうが3倍になろうが味に関係はない。
「魚登久」の鰻重を食べながら「カスハナ」を飲むとしみじみ、いや、鰻の脂を考えれば「しみじみ」という表現は適当ではないか、とにかくそういう上出来の晩飯を「魚登久」の新館「うなぎのねどこ」で摂って帰宅し、早々に寝る。
何とも名状しがたい、だからもちろん言葉にもできない、しかしその曖昧模糊とした何ものかを自分の脳の中に明確に固定することができれば問題の大半は解決する、というような状況に置かれたとき、あるいはそれほどのことでもないけれど、とにかく机上の仕事に集中したいときには、インターネットの繋がらない場所へ行く。
ところが、これからしようとしている仕事が、とにかく数学的な人事を尽くして後は天命を待つのみ、というようなものだったり、あるいは単純にそれが、自分の好むたぐいのものだったりするときには、いくら便利な環境にあっても脇目は振らない、何時間でも当面の課題に向き合って飽きることはない。
2月29日からの1週間は、日本橋の高島屋で出張販売をする。毎日新鮮な商品を店頭に並べるには、曜日別商品別の販売数量予測が欠かせない。過去の統計を用いて可能な限り細密な予想を立てようとする行為は「く数学的な人事を尽くして天命を待つ」のひとつで、これはかなり楽しい仕事だ。
というわけで本日のしばらくは、その仕事に没頭をする。
日本橋も亀島橋まで南下すると潮の匂いがする。とにかく僕はその日、亀島橋を渡ってどこかのビルに入り、ウェブショッピングに関する研修に出席をした。そのことをこの日記に書いた記憶は無い。会場で机上にコンピュータを開いていたのは参加者数十人中に僕ひとりだった。とすれば、それはいまだ1990年代のことだったのだろう。
ある事務機器メーカーから誘われたその研修の講師は我々に、ひとつの質問を投げかけた。「宴会の幹事を任されたとき、あなたは何を頼りに会場を決めますか」というその問いに対してもっとも多く集まった答えは「インターネット上の情報」というものだった。
講師は更に「それでは会社の帰りに自分ひとりで、あるいは親しい友人とお酒を飲むとき、あなたがお店を選ぶ決め手は何ですか」と問うた。「インターネットで調べます」と答えた人は、今度は少数だった。「行きつけの店」あるいは「友達に連れて行ってもらった店」という答えが圧倒的に多かった。
それから十数年。今ではひとりで飲み食いする店も、インターネットで探す時代になったような気がする。付け加えれば、僕に限っては、それはないけれど。
「食べログの評価を不正に上げる業者の存在が明らかになった」と、テレビのニュースが伝えている。アナログの時代にアナログの手段を以てされた「サクラ」の行為が、デジタルの時代にデジタルの手段を以て繰り返されることには何の不思議もない。
それよりもなによりも、どこの誰とも知れない不特定多数が「美味い」と書き込んだ情報を鵜呑みにして「だから美味いに違いない」と本気で考える面々が、世にはそれほど多いのだろうか。純情ぶりもほどほどにすべきである。
「随分と寒くなってきましたね」と暮のうちから挨拶をする人には「年が明けたら一体全体、どうするんですか」と訊き続けてきた。その、年明けの寒さがジワジワと忍び寄ってきた感のある今日の気温である。
"Finbec Naoto"の、正月限定のカレーライスを昼飯にしながら、大きな窓から外を眺めていると、そこにいきなり、強い風にあおられた雪が渦を巻いて舞い始めた。風は雪だけでなく土手の枯れすすきにも容赦なく吹きつけ、その茎を地面に圧し当てている。
太い毛糸で編んだ目の粗い帽子には風が吹き込むから、これを外でかぶる気には到底ならない。厚着を嫌う僕はそういう風の中に上着も身につけずに出て「ここに何時間くらい放置されたら人は凍死するのだろう」というようなことを考える。
寒さはこれからつのるばかりに違いない。留守番の夜にも飲み屋などには出かけず、家にじっとしている季節が来るのだ。それはまた、ビデオに録り溜めたテレビ番組の、ひとりで一気に観られる季節でもある。
選手全員を山深いところまでヘリコプターで運び、そこから最も早く、たとえばグルノーブルまで降りてきた選手あるいはティームが優勝、というような競技が冬季オリンピックにあったら良いのに、と思う。普通のオリンピックにも、駅伝があったら楽しかろう。
前者については選手を死の危険から遠ざけるための膨大な経費において、後者については警備のための、これまた膨大な経費において、公式競技化は難しいかも知れない。
1907年に第1回の行われた北京パリラリーは壮大な試みだった。三本和彦の「世界最長ラリーに挑戦して」は、ロンドンをスタートしてシドニーでゴールするラリーに著者が参加したときの記録あるいは紀行文で、すこぶる面白い。
きのう始まった箱根駅伝は、今朝から復路の戦いとなる。長距離レース、特に駅伝は極めてロマンティックな競技だが、これをテレビで観ているヒマは僕にはない。
初売りから2日目の店は忙しい。店頭の冷蔵ショーケースにはいま食べごろの、蔵出しされたばかりの商品だけを並べる。お客様の多い時間帯の品出しは特に、高い速度と正確さの求められる真剣勝負だ。
昼食は、焼き餅にバターを載せ、そこにたまり漬の「鬼おろしにんにく」や、同じく「おばあちゃんのホロホロふりかけ」を振りかけ、いつもより短い時間にて済ませる。
夕刻にいたって、きのう今日と出勤した社員には、その労働時間に応じた祝儀を手渡す。過去の統計によれば、忙しいのも明日まで。あさってからは早くも、仕込みの季節の始まりである。
本日は初売り初荷にて、昨春、包装係のサイトーヨシコさんからもらった、5万ウォン紙幣を極大プリントした勝負パンツを穿く。三が日の朝飯はずっと、お雑煮である。そして7時30分に事務室のシャッターを上げる。即、生け花のカワムラコーセン先生が店内に入り、正月用の花の最終仕上げに取りかかる。
開店前にすることが、今朝は特に多い。帰省客の用途に合わせた商品を特別に作り、お客様の目に留まりやすい場所に陳列をする。買い物をして下さった先着1,000名様には、お年賀をお手渡しする。これについてはレジの脇に準備をする。
きのうから気になっていた、国道121号線の吐瀉物はカリカリに凍っていた。この片付けは次男に任す。酒はすべからく、調整しながら飲まなくてはならない。
そうして朝から夕刻まで忙しく働き、閉店後は本日出社した社員たちとミーティングを行う。夜は飲むべきお酒を長男に選ばせ、また夏からワイン蔵に保管してきた「梅乃宿酒造」の「ゆず」を飲む。
元旦には先ず、家族で墓参りに行く。帰宅して後は家内社内の神仏に精進のお雑煮を供えてまわる。それは仏壇、神棚、お稲荷さん、地神、水神の5ヶ所である。これらのことが完了してようやく、我々人間はお雑煮にありつくことができる。
お雑煮を食べて一服するうち、瀧尾神社に昇殿できる最後の時間帯つまり午前11時が迫る。そして瀧尾神社にて初詣をし、次いで追分地蔵尊にも同じく初詣をする。ここからおばあちゃんが世話になっている「ヴィラフォレスト森の家」を訪ね、おばあちゃんとしばし歓談をする。
「私にできることがあったら言ってね」と、おばあちゃんが家内に話しかける。「私がこれだけ長生きしたんだから、あんたもお酒を慎んで長生きしなさい」と、おばあちゃんは長男に訓示を垂れる。「随分おとなっぽくなっちゃって、わかんなかったよ」と次男に笑顔を向ける。「お店はまぁまぁやってんの?」と訊かれた僕は「明日が初売りだよ」と答える。
人間も101歳ともなれば、もはやそれは縁起物である。僕はおばあちゃんに握手を求め、おばあちゃんから力をもらったような錯覚だけでも得ようとする。
夕刻に長男と白衣を着て製造現場へ行く。そして初売りの店に出す商品を見て回る。夜になってようやくおせち料理にありつく。そして21時前に就寝する。