東京の蕎麦屋には麺が不味く、しかしつゆは美味いという店が目立つ。しかして田舎の蕎麦屋の多くはそれとは逆に麺は美味く、つゆには感心できないところが多いという意見を、蕎麦打ちを趣味にしている人に述べたことがある。するとその人は、自分の知る同好の士は確かに麺については夢中で語るが、そういえばつゆについての議論は聞いたことがないと答えた。
その人は更に、つゆの美味い蕎麦屋でそのつゆを分けてもらい、自分が打った自慢の麺にこれを合わせてみると、どうもしっくりしない。どこそこの美味い麺を、別のところから持ってきた美味いつゆで食べても塩梅は良くないのではないか、と語った。
その言葉は僕にとっては新鮮だったが、しかし同じ理屈をラーメンに応用すれば、これは実に簡単に納得することができるから、つまり僕はこれまで蕎麦における麺とつゆとの相性については何も考えず、「この蕎麦屋の麺は美味い」だの 「でもつゆはこちらの店のが美味い」だのと、知力ではなくほとんど本能だけで勝手に批判をしていたことになる。
というわけで、我が町の蕎麦屋 「報徳庵」の麺、「やぶ定」のつゆ、「晃麓わさび園」の生わさびのセットはきのう無事に、12月の顧客の中から抽選されたおひとりにプレゼントとして送付された。そして今夜、家では 「やぶ定」の麺、「報徳庵」のつゆ、これだけは顧客と同じく 「晃麓わさび園」の生わさびによる年越し蕎麦を食べる。
きのう、サーキットのある茂木は快晴だったが、日光では午後から激しい風に雪が舞ったという。今朝の日光の山は雲に覆われいささかも見えないが、雪は家々の屋根に残るばかりにて、薄日も射し始めたから大いに安心をする。
12月28日の掃除では水で丸洗いしたお稲荷さんの社も、2日を経て完全に乾いた。これにお札その他を納め、外には狐の焼き物を配置する。神棚の榊や幣束も整え、余った幣束は社内の各所へ置く、あるいは担当の社員に手渡す。門松は数日前に届いたが、店内には本日、正月用の花が生けられ、新年2日の仕上げを待つばかりになっている。また一般からは見えない蔵の入り口にも、松の枝が飾られた。
ウチで販売する商品のほとんどは新鮮な生もので、それらは冷蔵ショウケースで販売される。終業後まで居残った社員有志が、これの奥の奥までを拭き清める。
月に8回の断酒ノルマを達成した今月は、もう1回の断酒を新年に繰り越すべく、本日を9回目の断酒日とする。
部屋のカーテンを開けると、窓の外にはサーキットがあった。
8時30分よりコントロールタワー下の会議室にて、本日の 「阪納誠一メモリアル走行会」におけるルールが説明される。出走表にはヴィンテイジクラスが25台、50、60年代クラスに21台の計46台が並んでいるが、先ほどひとまわりしてきたパドックには、これに紹介されていないクルマも見受けられた。
9時30分、西コースのピットロードを出て最初のコーナーをインに沿って過ぎる。バックストレッチから右に入るシケインを抜け、逆バンク気味の最終コーナーを駆け上がる。周回を重ねるごとに速度を上げ、エンジンを慣らしていく。メインストレートで3速3500回転から4速に入れ、3000回転までは挙動も安定しているが、これを3500回転に上げたとたん車体の振動が激しくなる。
第1と第2の右コーナーは、3速の2500回転まで速度を落とせば特に緊張するところはない。最終コーナーも3速の2500回転で危険はないが、試しにアクセルを強く踏んだところ、ダンロップの細いタイヤが神経質に滑って肝を冷やしたことが1度だけあった。
与えられた2時間に十分すぎるほど操縦を愉しみ今後の課題を見つけ、本日の走行を締める。"BUGATTI TYPE35" についてよく目にする表現は 「史上もっとも美しいグランプリカー」というものだが、僕に言わせれば、これは地上に舞い降りた金斗雲である。
快晴の空から徐々に光が失われていく。多くの出席者達は今夜こそホテルに泊まり、懇親会をするそうだが僕にその余裕はない。3時50分にパドックを出て5時30分に帰宅する。
12月28日といえば餅つきの日で、かつ神棚やお稲荷さんを掃除する日と認識している。長男と次男は日光市沢又地区にあるサイトートシコさんの家へ餅つきに行き、僕は男子社員の中で最も若いアキザワアツシ君を指導して神棚の掃除、次いでお稲荷さんの掃除を手伝う。
午後4時20分、ホンダフィットに長男と次男を乗せ、70キロの距離を1時間20分かけて 「ツインリンクもてぎ」へ行く。南ゲートでホテルの場所を訊くと、約3キロ先の丘の上とのことにて、この施設の大きさをあらためて知る。
晩飯で白ワインのボトルの8割方を飲み、部屋でウイスキーを飲み、着の身着のままベッドカヴァーの上で眠っていると部屋の電話が鳴って、それはラウンジ "Bluenote" のバーテンダーからの、「オータロー様はじめ皆様お集まりになっています」というものだった。
靴を履き部屋を出てエレヴェーターで1階へ降りる。洒落た造作のラウンジには、サーキットからほとんど四半世紀も離れていた僕には懐かしい顔が多くあった。明日のスケデュール表と出走表を手渡され、できれば酒抜きで聴きたい貴重な話に相づちを打ちつつ生ビール2杯を飲む。
部屋へ戻ると、既にして長男も次男も眠っていた。家から持参した新聞をすこし読んでから入浴し、11時40分に就寝する。
きのうの晩は雷雨がひどかったらしい。地震もあったとのことだが、そのどちらにも気づかなかった。起きて外へ出てみると、普通の雨では濡れない店舗の犬走りに水が溜まっている。雲はいまだ安定しないが、空は晴れつつあるのだろう。
午前、所用にて宇都宮へ行く。以前は35分かかった道のりが、日光宇都宮道路の大沢インターから市内に乗り入れるバイパスにより、15分は短縮されるようになった。用件を1、2分で済ませ、来た道をすぐに戻る。本日は次男の誕生日にて、ケーキに立てた11本のロウソクは、昼飯のときに消すのだという。
誕生日の晩には同級生タカマツヨッチの家で河豚を食べるとは次男が決めたことかどうかは忘れたが、とにかく昨年の12月27日の晩と同じく如来寺はす向かいの料理屋 「幸楽」へ行く。「河豚のコースの最大の目的は美味い雑炊を食うこと」と言う人は少なくないが、僕がいちばん好きなのは、骨付きの肉をチリで食べることだ。これに勝負をかけ、シャブシャブには1度も箸を触れなかった。
今朝の日本経済新聞 「私の履歴書」には、渡邉恒雄による 「正力さんが販売の要として報知新聞を辞めた務台光雄さんをスカウトしたのは昭和四年のことだった」の一節がある。これに本多勝一が筆を入れれば 「報知新聞を辞めた務台光雄さんを販売の要として正力さんがスカウトしたのは昭和四年のことだった」となるだろう。
シャンペンを飲みたく思うことはたびたびあり、しかしワイン蔵の在庫はマグナムのみだからひとりではこなせない。今夕、長男が帰宅したため、ようやくこれを抜栓する。
「タマモのオバサン」などと言っては失礼だが、「玉藻書店」の奥さんが亡くなった。この本屋の文房具売場で、僕は小学生のときにペンの陳列台を2回もぶち倒したことがある。タマモのオバサンはそのたび床に散乱したペンを黙って拾ってくれたが、僕は恥ずかしくて謝ることもできなかった。
タマモのオバサンは熱心なキリスト教徒で、そういう人が12月の24日に亡くなることができたというのはなんだか凄い。
閉店前の夕刻5時15分にオフクロをホンダフィットに乗せ、「日光聖苑」へ行く。前夜式にはたくさんの人が集まっていた。賛美歌を3曲歌い、帰途、軽く食事をしてから誰もいない会社に戻る。
前夜式のお返しには、タマモのオバサンが1982年にスペインとポルトガルへ旅行した際の記録を元にした写文集が入っていた。中に田中長徳ばりの1枚があって、見ると撮影地はやはり、リスボンだった 。
財閥というものの最盛期から解体、そしてこれが姿を変えて蘇生するまでを、重鎮の側近としてその場に居合わせた者の目を通して知りたければ、江戸英雄の 「すしやの証文」を読むべきだ。ひとりの学者がこの本の2個所のみを取り上げ大いに批判しているウェブペイジを1週間前に見た。頭の良い人でもイデオロギーに固執すると、まるで眼帯をかけたように片目しか見えなくなるという、これは典型である。
櫻井よしこの右斜め後ろに1時間ほども座っていたことがある。それで知ったわけだがこの人は大層いい女で、しかもジジイに好かれるたぐいの可愛らしさを持っている。だからいわゆるフェミニズムの人からすると、これはいけ好かない女ということになるし、その発言の内容から、前出の学者と同じ方向のイデオロギーの人にも、櫻井よしこのかんばせが綺麗に見えることはないだろう。
"ideology" を 「偏見」と訳した辞書がどこかになかったか、なければこれから作ってはどうか。
鬼怒川温泉までの所要時間をクルマでご来店のお客様に訊かれるたび、何ごともなければ20分、信号待ちなどに時間を取られれば30分近くとこれまでご説明をしてきたが、今朝7時55分に 「鬼怒川観光ホテル別館」の駐車場をホンダフィットにて出発し、有料道路まで使って帰社した所要時間が18分だから、同じ道を日中に20分で辿ることはほぼ不可能と知る。
新緑の日光へ行きたい、鬼怒川の紅葉を見たいと友人知人に言われるたび、日光や鬼怒川へは真冬に電車で来て本を読み酒を飲み、あれこれ見物などはせず温泉に浸かって窓の外の雪のみを見て帰るのが最上と伝えてきた。その考えは今もっていささかも変わらないが、このあたりは特に雪の深いところでもなく、だから雪見をするには運が要る。
僕はなぜか夏には南の方へ行きたくなり、冬には逆に北へ行きたくなる。北とはフィンランドやノルウェーなどではなく、下北半島あたりが良い。南はいわゆる南方で、だからニュージーランドや南アフリカ共和国まで南下したいという気持ちはない。
渺茫とした雪の原野を走る列車の中で読みたい本は何かと考え、しかしただちには思いつかない。トロリと凪いだ南の海を往く船の甲板に似合いの本を想像して真っ先に浮かぶのは 「マレー蘭印紀行」だが、あれは金子光晴のヤケのやんぱちに圧倒され、自分の未熟さをつい振り返ってしまうから、軽そうに見えて実は重い。
南方では一膳飯屋や旅社のロビーの中華新聞を拾い読みし、そのうち眠ってしまうのが、活字中毒者にとっては最もあるべき姿、というような気もする。
というわけで朝、近所の 「ミヤギ写真館」へ行く。店にいたのは僕より10歳ほども年長のアベさんではなく、そのお父さんだった。齢は90に近いだろうか。
僕が小学2年生のころ、家に若い女のアメリカ人が来ることがあって、その眼をもてなそうとしたのだろう、座敷に五月人形とひな人形の双方を同時に飾った。そのとき出張したのがこの 「ミヤギ」のおじいさんで、あのころの職業写真家はいまだストロボでもフラッシュでもなく、マグネシウムを光源として使った。
旅券申請用の写真を撮って欲しいこと、それについては古いレンズのついた箱形の写真機を使って欲しいことを伝え、このおじいさんは了承して撮影室への階段を昇り始めた。
きのうの日記に 「古い写真機に取り付けられたレンズがいつどこで作られたかは、店主のアベさんさえ知らない」と書いたがこれは誤りで、撮影室でその古い写真機を覗き込むと、レンズには "FUJI PHOTO OPTICAL CO / FUJINAR " の文字があった。ちなみに明るさは開放で4.5、焦点距離は25CM。
白いシャツ1枚になった僕にアベさんのおじいさんは 「白はちょっと、いえ、撮って撮れないことはないんですが」と困惑の顔つきをし、続けて 「よろしければその上着を羽織っていただいて」と、僕の趣味からはほど遠い灰色のジャケットを指す。既にして照明のスイッチも入っているから 「だったら家へ戻って着替えてきます」とも言えず、10年に1度の機会であるにもかかわらず、意に添わない格好にて僕は "FUJINAR" の奥の乳剤に固定された。
来春の社員旅行の行き先は、社員の投票によりグアムに決まった。これに伴い、パスポートの申請をすべき人が出てくる。パスポートは持っていても、いよいよ期限の切れる人もいる。そういう人たちのために旅行社へ手続きを頼みながら、ふと自分のパスポートを開くと、今年の5月で期限が切れている。
「なんだ、オレも作るようじゃねぇか」と考えつつ近所の 「赤羽写真館」へ電話をし、これから数日のあいだに何人かの社員が訪ねていくから、旅券申請用の写真を撮ってくれるよう頼む。次にこれまた近所の 「ミヤギ写真館」へ電話をし、例の木箱のような写真機で写真を撮った場合、完成までに何日かかるかを訊く。自分の写真だけは 「ミヤギ」で撮る。
「ミヤギ写真館」の古い写真機に取り付けられたレンズがいつどこで作られたかは、店主のアベさんさえ知らない。しかしこのレンズによるモノクロ写真では、皮膚が濡れたように、たとえて言えば長谷川一夫のブロマイドのような写り方をする。長谷川一夫が僕のアイドルというわけではもちろんないが、10年に1度くらいはこのレンズの写り具合を確かめてみたくなる。
2日もあれば写真はできるというアベさんに 「あのレンズを褒める人、僕の他にいませんか?」と訊ねると、軽く笑ってそれには答えず 「柔らかいですよね」と言う。タンバールで撮った写真を柔らかいと説明されればすぐに納得できるが、「ミヤギ写真館」のあのレンズは何というか、烏の濡れ羽色では色の解説になってしまうが、とにかく人の顔がヌメリを帯びて怪しく光るというか、そういう写り方をする。
写真をパスポートに直に貼付することは、日本では十数年前からなくなったので、「ミヤギ写真館」の古いレンズも、その有り難みは中くらいのところになってしまった。しかしなにかの記念に自分や家族の写真を撮るとしたら、一度は 「ミヤギ」へ行って 「ウワサワが言っていた、例の古いレンズで撮ってください」と頼んでみても損はない。
僕が家に戻った1982年当時の師走はどのようなものだったかと思い出すと、先ずその第一は、地元の百貨店や物産店、旅館やホテルにビン詰めの商品や味噌を卸す、それが忙しかった。トラックの運転席と荷台とが別々に揺れ、フレームがよじれるほど荷物を積んで、1日に100キロの道を走った。しかしながらこれはあまり採算性の良くない業務にて、こちらに人員を割くことにより店舗に売り切れが発生することを馬鹿ばかしく感じ始めていた矢先、社員からの提案もあって、卸売りは1993年にすべて止めた。
思い出の第二は、暮の地方発送を、11月15日受注分を以て締めきっていたことだ。年末に向けて高まる需要にお応えすることができず、12月30日までの45日間にご注文を下さったお客様には苦情を言われ叱られ、当然のことながら 「お断りをする」という気の進まない仕事から発生する売上げはゼロ円だから、つまらないことこの上ない。これについては会社の仕組みを変え、今では大晦日の駆け込み需要にも対応できるようになった。
「社会の仕組みそのものが人間を疲れさす」という箴言のようなものをどこかで目にしたことがある。しかしその一部を変えて 「社会の仕組みそのものが人間を楽にする」としてみると、これはこれで通用することもある。
目を覚まして時刻を知るため枕頭の携帯電話を開くと、そこには薄黄色のポストイットが貼ってあり、青いフェルトペンで 「伝票作成」と書いてある。5時に事務室へ降り、きのう処理しきれなかった地方発送の伝票を、いくらかでも完成に近づけるべく机に向かう。
終業後、ウェブショップからご注文くださったお客様のメイルアドレスを、過去のデイタと付き合わせながら顧客名簿へ登録していく。
"hotmail" など無料のアドレスを頻繁に渡り歩くお客様、家族のだれかれのアドレスをその都度あれこれお使いになるお客様、手持ちのいくつかのアドレスをその時々で使い分けるお客様、あるいはドットjpをカンマjpと間違えて打ち込むお客様など様々な方がいらっしゃる中、今の時期にこの仕事を1週間もため込むことは避けるべきと反省をする。
顧客からファクシミリによる注文が入り、追って 「ファクシミリは届きましたか」というお電話がある。その最中にもあちらへ呼ばれたりこちらから声がかかったりする。「詳しいことにつきましては、後ほどご連絡いたします」と答え、しかし人が来る、電話は休みなくかかる、決められた時間までに片付けなくてはならないことに追われ、朝方の 「後ほど」が夕刻まで伸びて苦情を受けたりする。
終業後にようやく落ち着いて発送伝票の作成を始め、しかしそれが終わらないまま、2時間後には製造現場で仕事をしている。何十年もウチの事務方として働いたコイズミヨシオさんが先日、病院の廊下で僕のおばあちゃんに会ったら、おばあちゃんは 「むかしは忙しくて面白かったね」と言ったという。
飲酒は為さず、夕食後にようやくおとといの日記を作成する。旅行でもないのに2日も日記を溜めるとは、そうあることではない。そのままきのうの日記も完成させるが、自宅までLANの電波は届かないから、サーヴァーへの転送は明朝まで棚上げする。
0時30分に目を覚まして5時まで 「すしやの証文」を読む。「作家でもない人の40年前の随筆など、世にはすっかり忘れ去られているに違いない」と、事務室へ降りてから江戸英雄によるこの本の名を "google" に入れてみると、その検索結果は意外や多かった。
中に、ひとりの学者がこの本の2個所を取り上げ大いに批判している書評のようなものがあり、それを読んで 「同じ文章に触れても、感じるところは人それぞれだわな」と思う。
午前中は曇っていることが多く、午後に雨がある。「なんだかおかしな気候ですね、冬でも暖かくて」という人もいれば 「いよいよ冷え込んできました」という人もいる。「同じ温度の中にいても、暑いか寒いかは人それぞれだわな」と思う。
夏は午後7時でも夕刻だが、今の時期はその90分も前から空は夜になる。雨がいつ止んだかは知らない。
そのお客様が中国人だということは何となく分かったが、ウチの商品のほとんどが要冷蔵のため、常温で何日も持ち歩かれると変敗の恐れがある。そこで、いつお帰りになるのかお訊きすると、明日の午後には台湾へ着いているというので安心し、普通よりも少し包装を厳重にしたのみにてお買い上げ品をお手渡しする。
一行のうちのおひとりがマイクロバスへ乗り込む直前、店舗へカメラを向けている、そのカメラが遠目にもライカらしいので店を出て近づくと、それは口径が大きくなる前のエルマリートと共に28ミリの外付けファインダーを付けたエムサンだった。「はぁ、ライカですか」と声をかけるとすかさずバッグからエムロクを取り出し見せるので、事務室へ駆け戻り、僕のエムロクを持って行って見せる。
2台のエムロクには奇しくも等しく第3世代のズミクロンが填めてあり、それを指摘するとその人は 「でもハチマイタマの方が高い」と言うので、「ライカのファンは台湾でも日本でも変わらねぇな、写真を撮るより先ずレンズのコレクションだ」と思うだけで何も言わない。なにはともあれカメラのお陰で国際親善ができて良かった。
終業後、春日町1丁目青年会の忘年会が行われる中華料理屋 「恒香園」へ行く。「瀧尾神社」のお祭に年間を通して責任を持つ当番町の任務を無事に果たしつつあるところから、来春の新年会は特別に韓国で行うこととし、その具体策について話し合いをする。
2等車の荷物棚に寝て数千キロを移動するような、あるいは農家の納屋に寝泊まりするような旅をしてきたから、旅行に出れば、その生活は普段よりつらく厳しいものになるとの常識が、自分の中にはある。発着時間と航空会社を睨んでプランを決めようとしているユザワクニヒロ青年会長に、飛行機は墜ちなければエジプト航空でも構わないし、宿は路地裏の韓式旅館で充分と伝える。
そして 「韓国では僭越ながら、オレ流の 『物語ソウル』 を撮ろう」と考える。ぜんぜん撮れない可能性は、かなり高い。
スターリング・モスが使っていたような古い形のヘルメットの内張を調整していると、強い匂いが鼻を突く。1970年代中期、「紀一&博FRP研究所」の電話番号を覚える符丁が 「パパ臭い何?」だったことを思い出す。しかしFRPとは本来、臭いものなのだろうか。同じくそのころ、ウチの車庫でロータスエリートを分解してビスの1本1本までガソリンで洗い、ふたたび組み上げた、当時 「富士重工」に勤めていたモリタさんの仕事を脇で見ていて、しかし僕のヘルメットが発している、小便のような匂いには気づかなかった。
社員のひとりひとりと面談をしながら賞与を支給し、その合間に事務係を手伝ってギフトの注文を電話で受けたり、あるいは発送伝票を作成したりする。社外から来る営業係の込み入った話については、年が明けたら再開しようと伝えて早めに切り上げる。
終業後、 "Complete Blackhawk" の2枚目を聴く。
「長らく本を借りたままにして申し訳ない」と、同級生のヨネイテツロー君から届いた荷物が僕の背後の床にあり、事務机から離れようとするたび、椅子のキャスターがこれに当たる。「そのうち中のものがベコベコに凹んでしまうのではないか」と、その段ボール箱を取り上げ、貼付されたヤマト運輸の荷札を見ると、そこには8ヶ月も前の日付があった。
「オレの無精癖も度し難いな」と開封すると、本の他に新品の "Miles Davis in Person" があり、短い手紙が添えられていたから 「早くに返事をしなくて悪かった」と反省をする。
マイルス・デイヴィスの1961年のコンボはテナーサックスがコルトレーンではなく、ハンク・モブレーというところが僕の好みだ。ハンク・モブレーのサックスは、布張りの複葉機のような軽い飛び方をする。4曲目の "If I were a bell" が終わる前に、晩飯の用意ができたと館内電話で呼び出される。この、通称 "Complete Blackhawk" をすべてを聴くには、いまだ数日はかかるだろう。
熱心な古書店からメイルマガジンが届く。書名、著者名、出版年、価格の4項目を1行として、これが数百行も並んでいる。ただしこれらのデータはテキストによるものだから、各々の項目は行により右や左へとずれている。テキストに検索をかけた場合、特定の字句を見つけることはできるが、ホールソート型のそれはできない。
メイルマガジンによる古書の情報には、他に出版社名や定価もあって欲しいが、それらを加えては、メイルで送れるせいぜい半角78の1行に1冊分の情報は納めきれないのだろう。だからこそ僕は、掲載される品が数十から数百に上る古書店や酒屋からのメイルマガジンにおいては、情報はテキストではなくエクセルのファイルなどで送って欲しい。
表計算やデータベースのファイルでそれらを送ってくれさえすれば、情報は当方のコンピュータに到着して即、コップの水に入れ攪拌した途端に孵化するシーモンキーのように、蘇生して動き出してくれるのだ。テキストのデータはつぶしが利かない。
嵐山光三郎の 「文人悪食」と 「文人暴食」には旧盆から現在に至るまで、ずいぶんと楽しませてもらった。終業後に事務机背後の棚をあさって次に読むべき適当な本を見つけられず、居間へ戻って東京オリンピックの2年後に出版された
きのうの日記を書きながら、きのうの昼飯の値段について考える。先ず、温かい蕎麦に山菜の水煮、茄子と南瓜と舞茸の天麩羅が上品に載せられ、これが800円、山椒の葉を混ぜ込んだごはんが400円。そのごはんは一般家庭で用いると同じほどの大きさの茶碗に盛られていたから、量はそう多くもない。
蕎麦屋を営む友人に以前、「ラーメンにくらべて蕎麦はちと高すぎるのではないか」と訊いたところ 「蕎麦粉は小麦粉よりもずいぶんと高い」とのことだったが、粉の原価がそれほど製品の価格に反映されるものだろうか。もっともつゆのダシに凝れば、蕎麦の原価はいくらでも高くはなるだろう。
蕎麦についてはそれで納得するにしても、ラーメン屋で上記の混ぜご飯を400円で売ったとして、果たしてこれを注文する客がどれほどいるか。「山椒の葉は貴重品だろう」という意見があれば、きのうの蕎麦屋では舞茸ごはんも同じ価格で売られていた。
このごはんの400円に130円を足せば、それはそのまま 「ラーメンふじや」の味噌ラーメンの価格と等しくなる。蕎麦屋だからこそ可能な価格設定というものが、どうも我が国には存在するようだ。そしてそれを僕は悪いこととは思わない。注文する側が高いと感じれば、そのメニュはほどなく淘汰される。メニュの価格が変わらず販売数量も落ちなければ、顧客はその価格を適正と考えているのである。僕の足は多く、ラーメン屋に向くが。
ここ3日ほどは続けて3時30分に目を覚ます。「文人暴食」の平林たい子と武田泰淳の項を読み、5時に起床する。
街に夏の残り香のあるころ 「白木屋画材店」に特注した縦35センチ横150センチのキャンヴァスには、10月5日に下塗りをした。この下塗りは、上に重ねる色を引き立たせるためというよりも、むしろ画面に線状の凹凸をつけるためのもので、過剰に厚塗りされた部分もある。
下塗りを行った2階の倉庫は寒く、大きな窓があっても朝5時すぎの空にはいまだ星さえ見える。よってキャンヴァスは事務室まで降ろし新聞紙を敷いたカウンターの上へ載せ、生乾きの、縁からはみ出したり、あるいは極端に盛り上がった絵の具をスクレイパーで削る。
スクレイパーは絵画用のものではなく塗装工の道具にて、キャンヴァスを傷めることを懸念したが、案に相違して余分な絵の具はクルクルと丸まりながら素直に剥がれてくれた。2度目の下塗りについては、やはり2階の倉庫で行う他はないだろう。
終業後ほどなくして町内の公民館へ行く。昨夏から今秋にかけて使った当番町会計のお金を区長、町内会計と共に、計200行の金銭出納帳を元に仕分けする。2時間後、完成まで九分九厘のところまで達した決算書は "ThinkPad" へ保存された。
南東の低い空にオリオン座の見える冷え込んだ道を歩き、洋食の 「金長」で軽く打ち上げをする。
午前3時30分に目を覚まして洗面所へ行き、窓を開けると霧が深かった。「初霜」なら三島の辞世だが 「霧ふかし」と来れば何といっても寺山修司だ。三島と寺山を並べて思い出せば、それはそのまま映画の一シーンに直結する。
江戸川乱歩の原作、三島の戯曲による映画 「黒蜥蜴」で、三島は黒蜥蜴により剥製にされた人間を演じた。黒蜥蜴役の美輪明宏はその三島にキスをし、三島は目を見開いたままグラグラと揺れ動いて 「池袋文芸地下」の観客の失笑を買った。寺山については映画の題名は忘れたが、どこかの大学で生硬な理屈を、それもズーズー弁で熱く語る場面があって、これにも観客たちはクスクスと笑った。
プロデューサーの気配りなのか監督の遊びなのか、役者以外の関係者を出演させる映像はままあり、しかし大抵の結果は上のようなものである。そして未明の霧は太陽が昇ると共に晴れた。
旧暦10月20日の本日午後7時30分、ようやく恵比須講の準備が整ったと家内から館内電話があり、事務室を後にする。 恵比須講とは農家においては秋の収穫を祝い、商家においては商売繁盛を祈念するお祭で、自分の知る限りでは家の中で静かに行われる。
廊下から居間に入ると床の間には恵比寿大黒の掛け軸、神棚から降ろした同じく恵比寿大黒の像、一対の鏡餅や祝い膳、鯛などがが飾られていた。幣束とお札を並べた手前の蝋燭に火を灯し、手を合わせ、いにしえの暦では秋、現在の暦では既に冬となったが、年に1度の行事をつつがなく完了する。
開店前の掃除をしていたアキザワアツシ君が屋内に戻ると、その二の腕には雪があった。朝方の雨がミゾレから雪に変わったらしい。
冬になると、洒落たマンションのヴェランダなどにポインセチアが目立つようになり、そういう景色に触れるにつけ、この植物は寒さに強そうに見えるが、実はすこしでも雪に当てると、塩で揉んだ赤紫蘇の葉のようにしぼんでしまう。この経験を昨年にしているため、今月1日から犬走りの軒下に飾ったポインセチアの鉢は、今朝はいちはやく社員たちにより店舗の入り口まで引き寄せられた。
きのう携帯電話のメイルにて本日お持ち帰りの予約を下さった東京のお客様には、路面凍結の恐れは無いようだが気をつけていらっしゃるよう、とり急ぎメイルを送付する。
終業後、ウェブショップに入ったご注文のカード決済をしながら、どうにも通信速度が上がらない。変わりかけて変わらない画面をそのままに製造現場へ出かけ、ひと仕事して事務室へ戻ると、ブラウザは先ほどから微動だにしていない。「電話線が凍りついたわけでもねぇだろうが」と、これを明朝の仕事として棚上げする。夜の雲は厚く、明日の天気の予想はつかない。
「ゆば」は京都では 「湯葉」、日光では 「湯波」とあらわされる。書くものにこの両者が混在して面倒なため、「湯葉」つまり関西の表記法は何年か前にワードプロセッサの辞書から削除した。
湯波は11月の後半から年末需要のため品薄になる。湯波屋の入口には 「予約受付中」とか 「年内の予受受付は終了しました」という紙が張り出され、それを見ると 「今年も、もうそんな季節になったのか」と感じるかといえば、当方はボンヤリしているからただその文字を眺めているだけのことである。
友人知人から地方発送の注文が来ると、町内にある湯波屋 「松葉屋」の徳用湯波を荷物に入れて上げることがある。この徳用湯波は製造の過程でどうしても出てしまう規格落ちを集めて袋詰めしたもので、人にこのようなものを送るのは失礼のような気もするが、その切れ端により食感や歯ごたえが異なること魚や獣の内臓のごとく、僕自身は 「合格」の商品よりもこの 「規格落ち」を美味いと感じるため、あえてこちらを送る。
正規商品の年内分が予約で埋まろうが、「徳用」はとにかく生産に伴って出る 「ハネモノ」だから売り切れない。本日も自転車に乗り 「松葉屋」へ行き、知人へ送る分と共に自宅用にもこれを買う。
大正時代までは車夫馬丁の食べるものとされた鮪のトロが高級品になり、むかしはいくらでもタダでもらえた鮭の頭が有料になったように、そのうち湯波も、高級な刺身湯波よりこちらの 「徳用」の方が高くなってしまうのではないか。あるいははじめから徳用湯波に似せた品を、湯波屋は正規の商品として作るようになるかも知れない。
昼飯の後、腹這いになって新聞を読む。「天声人語」の出だしに 「この欄のちょうど裏、本紙朝刊2面の下に毎月今ごろ、文芸誌の広告が四つ並ぶ」とある。その2面最下部に連なる何十人かの作家の名を左から右へと眺めるが、毎度のことながら 「古井由吉」は 「ヨシイユーキチ」と読み、「荻野アンナ」は 「ハギオアンナ」と読んでしまう。
「こんにちは、長嶋茂雄です」というコマーシャルの台本を、当の長嶋茂雄はなぜか何度も 「こんにちは、ナガシマシゲルです」と読んでしまったとは、不世出の大打者を更に神格化させようとする誰かの創作ではなく、あるいは本当のことなのかも知れない。
"KFC" と印刷された文字を見て 「functionって、何だ?」と一瞬、不思議に思い、もういちど目と脳で確認すると、それは 「ケンタッキーフライドチキン」の紙袋だった、ということがある。そのころ使っていたコンピュータのファンクションキーには "FKS" の文字があり、それと "KFC" を混同したのだ。
スキポール空港の略号は "AMS" で、アンカレッジ国際空港のそれは "ANC" だから 「オレみてぇなヤツに、空港の仕事は向かねぇわな」と、オルリー空港からマドリッドへ行こうとしながら荷物だけはマラガへ送られそうになった経験者としては思う。
コンピュータが与えられた命令をこなすために動いている、その動いている時間は仕事により90分のこともあれば2、3分のこともある。90分の長さがあればどこかへ行ってなにかすることもできるが、2、3分のときにはそのまま席を立たず、背後の棚から本を出す。本は背表紙を手前に向けて整然と並べてあるわけではないから、何が出てくるかは分からない。
ツルツルした赤い表紙のそれは新潮新書で、関川夏央の 「本よみの虫干し」だった。開いたところには 「父の詫び状 向田邦子 戦前日本の家庭とその教養」の文字があり、計3ペイジのその項を読むうち、コンピュータの慌ただしく動いていたディスプレイはいきなり停まった。
「本よみの虫干し」には酒に濡れた跡もラー油がこぼれてハトロン紙のように透けてしまった部分もなく、だから 「まだ読んでいなかったのだろうか」と自分のウェブペイジに検索をかけ、これを今年の8月3日に読み終えていたことを知る。そしていつか長く南へ行くことがあるなら近藤紘一の、それが短いものであれば関川夏央の書いたものを持参しようと考える。
未明の廊下がほの明るい。「月夜か」と洗面所へ入り窓を開け放つと、そう高くないところに丸い月が雲にさえぎられずある。「月を見れば、旧暦の日にちはだいたい分かるよ」と、そういえばおばあちゃんが言っていたなぁと思い出す。 太陽暦と太陰暦を併記した居間のカレンダーは、いまだ暗くて見えない。
「冬、月冴えて、か」と独り言のようなことを声には出さず頭の中に浮かべる。そしてすぐに 「いや、冬に月を愛でる修辞を、日本人が書くわけはない」と、今しがたの独白をすぐに取り消す。
5つに分けた夜をまとめて五更あるいは五夜と呼ぶ。五夜などはワードプロセッサも変換しない。五更の始まりは初更にて、この初更を自分は今まで夕刻の少し後ととらえてきたが、あらためて調べてみると、現在の夜8時にあたるという。
というわけで未明から十数時間を経た初更の30分前に、本酒会の12月例会が行われる 「魚登久」へ行く。「計16本の酒を利き」と書きたいところだが、利き酒はせいぜい10本までが限度、理想として7本くらいのところではないか。
食べきれず折詰めにしてもらった牛肉サラダを提げて帰宅する空に、今朝と同じ丸い月がある。その月に照らされて、日光の山にわずかに降った雪が薄墨のように見える。居間へ戻り、襖に画鋲で留めたカレンダーを見て、今夜が旧暦10月15日の夜であることを知る。そしてやおら 「あぁ、冬に冴えるのは月ではなく雪だったか」と、未明から十数時間を経たころにようやく気づく。
「ナベツネがいるからジャイアンツは優勝できない、と書く記者がひとりもいないという点において、オレは読売新聞を信用しない」と、同級生たちとメシを食べながら誰にともなく口をきいたら、「それを言っちゃぁお終めぇだろう、ニッケーだって同じだよ」という声が隣の席から聞こえた。
そういうことはさておいて、日本経済新聞の 「私の履歴書」に連載中の、渡邉恒雄の文章が良い。今月1日に掲載された 「1」はことに素晴らしく、ひとつひとつの段落は、暗転から明るさを取り戻した舞台に先ほどとはまったく別の景色を見るように鮮やかだ。何よりナベツネは 「読売新聞主筆」である。他人の添削を許すはずもない。
7時前に仕事場から戻って洗面所の窓を開けると、家々の屋根に霜が降りている。どこそこの畑に霜が降ったとの会話は先月、街のどこかで耳にしたが、少なくとも僕がこの冬に見る霜は今朝のこれが初めてだ。三島由紀夫の辞世を思い出す。
先月29日に社員とメシを食べた 「とんかつあづま」の味噌汁碗について 「これが気になって仕方がない」と、当日の日記には書いた。夕刻、「あづま」のオヤジさんが集金に来たため訊ねると 「茂木の人なんですよ」「ちょっと見て良いんでね、皿もあわせて100個、買ったんです」「えぇ、益子です」とのことだった。折しもきのうヤフーオークションで、僕以外の誰も入札しなかった朝鮮の茶碗がある。これは味噌汁には合いそうもないから、もっと寒くなったら大根の鉈漬けを盛ろうと思う。
初更、塩らっきょうを肴に芋焼酎 「白金乃露」をお湯割りで飲みつつ 「文人暴食」の壺井栄の項を読む。
4時30分に目を覚まして以降はきのうと同じ。7時前に4階へ戻り、仏壇の花や水やお茶を整えることもきのうと同じ。朝飯は昆布の甘辛煮、白菜の漬物、納豆、煮鰯、生のトマト、温泉玉子、メシ、厚揚げ豆腐と長葱の味噌汁。
「自分はアングラ系でもサブカル系でもない」ときのうの日記に書いたが、そういえば数年前、女の体にサイケデリックな絵を描く人から定期的に、原宿のどこそこでパフォーマンスをするので、時間が許せば来ていただきたいというようなメイルをもらったことがある。「李朝飴釉面取壺」なんてのは好きだが、僕はサイケには縁はない。あるいは今井アレクサンドルからの繋がりだろうか。
また同じく 「自分はB級食ばかり食べるわけではない」とも書いたが、たとえば立石の 「宇ち多」などは僕からすればB級食ではなく、まぎれもない超A級食である。
12月の第1土日は年末ギフトの申し込みで店は混乱するはずと待ちかまえていた。この予測により、板橋の 「長徳寺」に同級生が集まっての、ハセガワヒデオ君の墓参りにも参加はしなかった。ところが実際には肩すかしにて、きのうも今日も大した繁忙ではない。このあたりについて事務係のイリエチヒロさんに訊くと、彼女は自分のコンピュータを見て 「明日から20日までが忙しくなりそうです」と言うから 「データベースはしっかり検証しなくちゃいけねぇなぁ」と反省をする。
初更、クラゲと胡瓜とレタスのサラダ、舞茸と厚揚げ豆腐と三つ葉の炊き物、うずら豆、焼売、白菜の漬物にてメシ2杯を食べ、飲酒は避ける。今月は3日間で早くも2回の断酒だが、年末から年始にかけての飲み続けを考えれば、これに備えてノルマを稼いでおく必要がある。
入浴して 「文人暴食」の吉田一穂の項を読み、10時30分に就寝する。
4時30分に起床して以降はいつもの通り。
製造現場から事務室へ移動し、コンピュータを起動すると、昨夕からのことだがこれがサーヴァーに繋がらない。こういうときにすべきあれこれをしても状況は変わらないため 「ウェブショップの注文が受けられねぇよなぁ、しかも今日は土曜日だから "Computer Lib" も休みだぜ」と、試みに伝票印刷用のコンピュータを起動してブラウザを開くと、こちらは問題なく見える。
「いや、これはキャッシュが反映されているだけかも知れねぇ」と、試みに "google" バーへ 「清閑PERSONAL」と入れてみる。この語句で検索をかけるのは初めてだが、「さとなお」や 「やまけん」のペイジと共にブックマークしてくれている人もいれば、「なぜ?」と思われるアングラ系、サブカル系、それにB級グルメ系などからのリンクもてんこ盛りで出てくる。 「オレはアングラ系でもサブカル系でもねぇし、B級食ばかり食うわけでもねぇしなぁ」と不思議に思いつつ、「しかし不調なのはオレのコンピュータだけか」と安心する。
きのうの日記を作成しても、そのようなわけでサーヴァーへは転送できない。4階へ戻り、おばあちゃんの居間兼応接間のカーテンを開けたり仏壇を整えたりする。朝飯は薄切り大根とワカメの酢の物、白菜の漬物、梅干し、煮鰯、納豆、ほうれん草の油炒め、メシ、アサリと長葱の味噌汁。
9時前に次男と今市小学校へ行き、テニスコートの、プラスティックの帯を大量の釘で地面に固定したラインを、クラブの人たちと外し始める。小一時間ほどでこの作業を終え、以降はネットを張っただけのコートで練習が始まるとのことにて、僕だけは帰社して仕事に復帰する。
コンピュータは、僕が小学校からかけた電話で駆けつけてくれた "FSE" のシバタサトシさんの手により既に復旧していた。無線をオンオフするスイッチが切れていたのが原因とのことにて 「そんなスイッチ、知らねぇよ」と "ThinkPad X60" を裏返してみたら、果たしてそれはアームレスト前縁の直下にあった。何かの拍子にこれを動かしてしまったのだろう。
初更、ジンギスカン鍋にてはじめ片山酒造のカストリ焼酎 「粕華」を生で飲み、これを干して今度は白金酒造の芋焼酎 「白金乃露」をやはり生で飲む。最後に塩らっきょうと塩昆布でメシを食べ、これも酒肴の一部とする。
入浴して 「文人暴食」の横光利一の項を少し読み、10時すぎに就寝する。
4時前に目を覚ましたが起床したのはそれから30分ほども後のことだった。いつものように製造現場へ降り、この時期は特に、年末ギフトについての作業の進捗状況を見たりする。
6時45分に4階へ戻って仏壇の花や水やお茶を整える。これらの器を洗うためのおばあちゃんの台所からは彼方に例弊使街道の杉並木が見え、今しもその上に太陽が昇ろうとしている。
居間へ戻り、きのうに続いて次男の漢字練習の督励をしながら 「混」という字を自分が間違えて覚えていたことに気づく。「混」の 「日」の下は実は 「比」でないことを、一体何人の人が知るだろう。
朝飯は薄切り大根の酢の物、納豆、温泉玉子、根昆布の甘辛煮。、生のトマト、白菜漬け、メシ、豆腐と万能葱の味噌汁。
年末ギフトの出荷量を折れ線グラフにしてみると、そのドロミテ山群のようなギザギザの、12月1日は左端の山の頂上にあたる。これからは細かく見ればギザギザだが、大まかに見れば高原のような繁忙が少なくともクリスマスまでは続く。1日のあいだに何度も荷造りの現場を訪れ様子を見たり、あるいは特殊なご注文については係に詳しく説明したりする。
おととい知人のお父さんが亡くなり、初更にお通夜の行われる 「菊屋ホール」へ行く。「オヤジのお通夜んときは、大きな方の部屋が朝まで寒かったなぁ」と、ほぼ1年前のことを思い出す。
1日のうちもっともお酒が飲みたくなるのは黄昏どきで、しかしお通夜があればこの時刻から喪服を着て出かけるわけだから、その飲酒欲求とでも呼ぶべきものは封印される。よって今夜もきのうに引き続き断酒をすることを決め、レタスと胡瓜とトマトのサラダ、薄切り大根とワカメの酢の物、きのうと同じカレーライスを晩飯とする。イチゴにて締める。
入浴して冷たいお茶を150CCほども飲む。「文人暴食」の金子光晴と宇野千代の項を読んで10時すぎに就寝する。