きのうの気温は、あちらこちらで桜の開花が伝えられるころとしては異常に低く、僕は遂に"mont bell"の化繊綿入りベストを着た。
夜中を過ぎ日付が今日に変わってどれほど経った時分かは知らないが、ふと目覚めると胃と腰が痛い。胃痛の薬は事務室にしか置いていないが、そこまで取りに行く気はしない。
なにやら熱っぽいので室内の暖房を切り、仰向けになって、背中の下に指圧用の器具を入れる。すると幾分かは楽になって、明け方まですこし眠った。きのう感じた寒気は低い気温のせいばかりではなかったのだ、多分。
朝飯の後に熱を測るとすこし高めだったため、会社には朝のうちだけいて居間へ引き上げる。そして町内の、今年度の決算書と来年度の予算案を形にする。来年度の予算案は町内の戸数減と東京電力の大幅値上げを受けて、今年度よりも更に緊縮を進めたものになる。
そうして夜はこの決算書と予算案を持って春日町1丁目公民館へ赴き、臨時総会の席上で報告を行う。
ここしばらくはリュビドオル、リュビドオル、リュビドオルの毎日だ。「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」についてはもちろん、この日記には書かないところでもあれやこれやしている。
「リュビドオル」は一度にたくさん作ることができず、ここにビンの終売、これは流通業における専門用語らしいが、メーカーまで遡っても在庫は皆無で今後の生産計画もないということが重なり、昨秋の売り切れ以降の受注残は今もまだある。
売り切れから半年ちかくが経ってもこれを手に入れることのできないお客様がいらっしゃるとは申し訳ないこと甚だしい。よって新たなビンが納入された2月からは、それまでの心理的閉塞感から一気に解放され、気持ち良く「リュビドオル」の仕込みをしている。
今朝も、来月あらたに漬け込むロットのワイン液を作成しながら、その材料のひとつ"Cono Sur"の、2007と2011を試飲する。2007年物は経年変化によるものか鮮やかなバラ色で、柔らかくこなれている。一方2011年物は濃い紅色で、カベルネ特有の鞍革のような獣臭をいまだ強く残している。
ワインの香りの充満するガラス張りの小部屋の中で、2007年物と2011年物のコノスルを飲み比べつつ、自分好みの比率で両者を混ぜ合わせるうち、とにかく仕込みは朝から行っているわけだから、朝から酔っ払う。
そして夜は蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを飲み、早々に寝る。
"UNIQLO"のプレミアムリネンシャツについては、店頭で見てからずっと興味を持っていた。しかし2,990円と言う価格は、ユニクロのものとしては高く感じられたから、1年以上ものあいだ買わずにいた。それが今朝の新聞の折り込みチラシによれば「新作」とあるから僕が目をつけてきたと同じものかどうかは不明ながら、この4日間に限っては1,990円だという。
興味はあるけれども冷静に考えてみれば、僕は麻のシャツは何枚も持っている。そして日常に着るのはそのうちの1枚だけだ。そういう次第にて、今朝のチラシのシャツは買わないことにする。
こんど南の国へ行くときには、もらったり義理で買ったりしながら着ないシャツすべてを持参したい。そして「すべて洗濯ずみ。どなたか使ってください」と手紙を添えて部屋に残してこよう。シンガポールの高層ホテルでは微妙な線だけれど、カンボジアのゲストハウスなら喜んで受け取ってもらえそうだ。
「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」の、3回の塩水漬けを経たロットの、いよいよ初回のワイン漬けに開店前より取りかかり、これを40分後に完了する。
15時からは別のロットの「リュビドオル」をビンに詰める。この作業にはサイトーエリコさんとハセガワタツヤ君が携わり、僕はほとんどその様子を見ているだけだが、この仕事をした日の夕刻には、僕はなぜか疲労困憊している。
そして夜は早めに休む。
記録を見ると、ウチのウェブページを暫定的に作ったのは1998年10月15日、ドメインを"tamarizuke.co.jp"にして正式にサーバへ上げたのは翌年1999年3月29日とある。
この「清閑PERSONAL」を立ち上げた当初のアクセス数は1日に1桁だった。ところが2000年9月1日からコンテンツに日記を加えるとアクセス数は急に上がり、その数字はやがて自社ショップのトップのそれを凌ぐこととなった。
その数字を見て僕は、「清閑日記」では僕を知らない人には何のことやら分からないだろうから「社長のごはん日記」として、自社ショップのトップにボタンを置いた。
ボタンには「社長の」とあるが、僕は性分というよりも、理屈では説明できない、ある種の性癖のようなものから、仕事に特化した日記は一切、書けない。それもまずかろうと、Yahoo!ショッピングには「社長のしごと日記」として、Yahoo!のウェブログを使って何かを書こうとしたが案の定、続かなかった。
そんな僕にとって"twitter"は大いなる福音で、これなら文章は細切れで済むから仕事、言い換えれば会社や商品についてのことについても書け、自社ショップのトップからリンク張ることとなった。
しかしここに"facebook"というものが出てくると、こと表現力においては"twitter"よりもはるかに高いこちらに気持ちは傾き、そして口角泡を飛ばして僕に"twitter"を奨めた多くの人たちと同じく、"twitter"への情熱はしぼんでいった。
今朝は会社の「facebookページ」に「なすのたまり漬」を薄く刻んで和辛子で和えた料理の画像をアップした。とても美味いものだが、商品にするかどうかについては、いまだ決めていない。
カメラで撮った画像をコンピュータに取り込み、日記に使うもののみ選んで加工する。それを今月のフォルダに収めようとすると、その最上部にはタイでの画像が日付順に並んでいる。
それらを目にしても、今月の初めには、自分は確かにタイにいた、という実感がどうにも湧かない。常春の国チェンライも、夢のホテル「オリエンタル」も、現実味はとうに去り、今やすべて思い出になってしまった。
そうして夜には、乾燥させたものだから生ほどの強い香りはないが、それでも香り野菜の苦手な人であれば辟易すること間違いなしのタイ風鍋を食べ、ジャルンクルン通りの"TOPS"でまとめ買いしたインスタントラーメン「ママー」を煮る。
今度タイへ行ったら「ヤムママー」を食べたい。屋台ではなしに料理屋でこんなものを頼んだらウェイターに嫌がられるだろうか。ティップを弾んで結果的に高い「ヤムママー」を食べる。そういう絶対矛盾的自己撞着のような遊びは嫌いでない。
右手に持った串カツと自分の口との距離を測りかね、串カツがいまだ遠いところにあるにもかかわらず、それに噛みつこうとしている酔っ払いを浅草の「神谷バー」で目撃して「ああはなりたくない」と次男が言ったのは小学6年生のときのことだ。
以降は「大人になっても、酒はそれほど飲みたくない」と言い続けている次男が先々月、インフルエンザで学校が閉鎖になった折に帰宅し、たまたま会社の宴会に出ることになった。
そうして自身のかねてからの意見を開陳したところ「そういう考えは改めた方が良いぜ、なんつったって人生、山あり谷あり、そして酒ありだかんね」と、製造部長のフクダナオブミさんに諭されたという。
自動改札機に乗車券と特急券の2枚を入れると誤作動が起きやすい。よって東武日光線では僕は、改札機には乗車券しか入れない。
今朝、自分のパス入れに残った特急券が多すぎるので良く見たら、きのう北千住で、同じ列車の特急券を重複して買っていたことが分かった。2枚の特急券の座席が隣接していないところからして、これは同時に2枚を買ったわけではなく、時間差を置いて1枚ずつ買ったことが窺われる。
「人生、山あり谷あり、そして酒あり」の、これは一端を証明している。「酒あり」で得るものと失うものが交錯して結局のところ損得勘定はどうなるか。
「あなたの競馬の結果は今のところプラスですか、マイナスですか」と訊かれた寺山修司は「それではあなたの人生は今のところプラスですか、それともマイナスですか」と、色をなして相手に迫ったという。
「人生、山あり谷あり、そして酒あり」とは、なかなか含蓄のある言葉だ。そして夜は日本酒に特化した飲み会「本酒会」に参加をするため鰻の「魚登久」へ行く。
今月16日、半袖Tシャツに木綿のスモックを重ねて、僕は東京の街で汗ばんでいた。以降、東京へ行くときには16日よりも薄着で出かけることとした。そしていざその格好で東京へ出てみれば、16日ほど気温の上がることはなく、そのつど寒い思いをしてきた。今日も薄着をして下今市駅のプラットフォームに立てば、やはり薄ら寒い。
ちょうど来た列車に飛び乗ってしまう癖が治らない。上り特急スペーシアを北千住で降り、同じプラットフォームで後続の列車に乗る。するとこれが神奈川県のどこかまで行く急行で、京成線に乗り換えるはずの牛田には停まらず、とうきょうスカイツリー駅まで運ばれてしまう。
とにかく江戸川を渡った先で仕事を済ませ、京成線を西へ戻れば、どうしても立石で降りることになる。そうしてどの店も上出来の品々を低い価格売る、古い商店街に足を踏み入れる。
商店街では入口から30メートルほどを歩き、左側の鮨屋で持ち帰り用の鮨を注文する。しかる後はその鮨屋のはす向かいにできた行列の最後尾に並ぶ。店に入れば煮込みの大鍋の前に案内されて「シロ素焼き若焼きお酢」などを注文し、それらを肴に「割らないで」4杯をこなす。
今日明日は寒いらしいが、明後日になれば暖かさが戻ると、今日どこかで聞いた。春はいまだ、安定しない。
「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」は昨秋、テレビで紹介されるや否や半日で売り切れた。もともと量産の利く品ではなかったから「売り切れ」とはいえ大した数が売れたわけではない。
それはさておき品切れから立ち上がるための増産には複数のことが水を差した。ひとつは製ビン会社の廃業で、お客様にとって見慣れた形の、しかし新しいビンというものは、そう簡単には探し出せない。
偶然も手伝ってようよう見つけることのできた、「リュビドオル」にとっては3番目のビンとフタが届いたから念のために合わせてみると、サイズが違っていて嵌まらない。このような馬鹿馬鹿しいことに平行して、2012年産のらっきょうには小粒のものが多く、一定水準以上の原材料を使うためには選別に手間がかかる。
そうして売り切れから5ヶ月が過ぎても、昨秋の受注残をいまだすべて出荷できていない。店頭に出す品も途切れがちであり、ウェブショップは在庫のカウントを頻繁にゼロにしたり、あるいは赤文字による売り切れの表示を出してしのいできた。
今朝は「リュビドオル」の、3回目の塩水漬けを完了する。ワインに漬ける前になぜ塩水で3回も漬け換えるのかといえば、それをしないと僕の意図する品にはならないからだ。
この白いらっきょうがワイン色に染まるまでには、これから数ヶ月を待たなくてはならない。受注残については地道に、しかし着々と減らしていきたい。
きのう夜に帰宅をして居間の襖を開けると、次男が春休みで帰省をしていた。学校は春休みに入ったが、本日は臨時の父母会が開かれる。よって昼すぎの上り特急スペーシアに家内と乗り、自由学園へ行く。そうして水仙が今の季節に咲くことを、男子部への道を歩きながら、あらためて知る。
父母会は1時間ほどで終わる予定とのことだったが、結局は3時間ほどの話し合いを以て完了した。
学校の帰りに家内を同伴するような店でもないのだが、なぜか来てしまう加賀屋北千住店に今日も来る。この店の丸椅子に座るのは、この8日間で3回目のことだ。
先週の土曜日、そしてきのう今日と来て、その3回とも、この繁盛店に満席で断られることはなかった。ある日などは「みんな家で世界フィギュアでも見てんのかな」と、お店の誰かが言うほど空いていた。世界フィギュアに興味を持つ人と、この店の客層が決して重複しないことは、店の人がいちばん良く知っているだろう。
この、対費用効果の抜群に高いこのお店が空いてきたということは、日本の景気が上向いてきたということを現しているのだろうか。他の繁盛店へも回って検証してみなければならない。
夜8時台に就寝すると、朝2時台には目が覚める。2時台とはいかにも早すぎるから二度寝をしようとするが、眠気は一向に訪れない。よって考えを改め、起床する。
コンピュータを起動し、1年に1度、毎年6月に発行するパンフレットの、企画会社がら"pdf"で送られた原稿の最終校正を行う。6月に発行とはいえ納品は4月の半ばだから結構、忙しい。
この"pdf"による原稿を事務室のプリンタで印刷し、ポストイットに修整指示を書いてファクシミリで送ったり、あるいは文章の変更をメールで要請したりするのはこれで3度目のことになる。最終校正とはいえ、今朝の校正が最終になることは恐らくないだろう。
昼から移動した東京の気温は、素肌にラグビージャージを着てちょうど良いくらいのところだった。午前2時台に起床した日の午後の研修では居眠りが懸念されたが、それが杞憂であったことを開始直後から悟らせるような、意義ある3時間半はあっという間に過ぎた。
夕刻には所用にて、いや決して所用ではない、飯田橋から市ヶ谷まで外堀の土手を歩いてみる。このあたりの景色を目にするたび僕は、富士見町にいたナカオキミツルさんを思い出す。何年か前の年末には、この土手を市ヶ谷から飯田橋まで歩いたこともまた思い出す。あのときの内閣総理大臣は確か麻生太郎だった。
そうして北千住でカウンター活動をし、23時前に帰宅する。
「1991年の1バーツは5.0円。そして現在のタイバーツは3.2円。円がバーツに対して5割高くなっているにも拘わらず、円建ての宿泊料も5割上がっている。つまりバーツ建てで考えれば、宿泊料は23年前の2.5倍にちかい」と、僕はオリエンタルホテルの宿泊料について今月5日の日記に書いた。
このことが本当かどうかを示す資料は居間の、僕の席の後ろに立てかけた写真アルバムの中にある。それほど身近なところにあるなら直ぐに確認すれば良いようなものを、今日まで怠ってきた。そして改めて、1991年の伝票を見てみた。
1991年4月12日のバンコク銀行のレートではは50,000円が9,275バーツ、すなわち1バーツが5.39円。そして1泊の宿泊料は食事を含まない"EUROPEAN PLAN"で6,300バーツ。部屋のタイプは、プールサイドに寝転がって旧館の窓を端から見ていけば、各フロアに1室ずつしかないらしい、部屋の床にメゾネットのような段差の無い"SINGLE DELUXE"だった。
今回の部屋は、同じ旧館でも前回とは格段に格上の"PREMIERE"で、しかもあの質量共に素晴らしい朝食付が付いて2泊。それについての価格は、"AGODA"から予約した2012年12月7日のレートで1,273.64米ドル。そしてその日の1ドルは30.643バーツ。
ここまで計算をしてくれば、バーツ建ての宿泊料は前回の2.5倍ではなく3倍になる。「で、どうなのよ」と問われれば「そういう細かい計算は抜きにして、1度は泊まってみてもいいんじゃねぇか、朝飯はかならず付けて」と僕は言いたい。オリエンタルホテルの朝飯は23年前にも食べたけれど、今の方が断然、優れているし。
店舗や工場とは道を隔てた南西側に、味噌蔵の建つ庭がある。この庭にはいにしえに植木屋が植えたとおぼしき木もあれば、また実生から育ったと思われる木もある。実生から育つ木は所を選ばないから、植木屋の仕事による木をじゃましたり、あるいはいつの間にか建物に食い込んだりしながら育ったものも複数あった。
これらの中には育ったなどというものではない、植木屋に言わせれば「ここから更に伸びたところで枯れたりしたときには、塀を壊して重機を入れ、それによって処理しなくてはならなくなる可能性もある」というような巨木もあった。「塀を壊して重機を入れ」とは穏やかでない。
植木屋の言葉に肝を潰して幾本かは根元から伐り、残りの幾本かは高さを半分ほどに詰めた上、枝もほとんど打ち落とした。数年前のことだ。その結果、庭の景色は良く言えば風通しの良い、悪く言えば寂しいものになった。
庭へは昨秋も植木屋を入れ、そのとき桜については葉を落としてから剪定しようということになった。
古い山桜はきのう、上から3分の1ほどのところの太い枝をばっさりと落とされた。国道121号線に、塀を越えて枝を伸ばす染井吉野の、これまた老木を今日は景気よく枝打ちしようとしているところに近所の方が通りかかって「毎年、花を楽しみにしているので伐らないように」と言ったという。
よそのお宅にまで桜吹雪の届く、その迷惑も考えての枝打ちだったが「楽しみにしている」などと言ってくれる方があるとは、何やら有り難い。そうして染井吉野の枝打ちは最小限に留められた。
東京の桜はこのところの高い気温に驚いて、開花予想より10日もはやく咲き始めたという。日光の桜も、来月上旬には花を開き始めるかも知れない。
外で飲酒を為したときには、かなり酩酊しても家まで、あるいは当夜のねぐらまでは、どうにか帰ることができる。
いつかの晩は神楽坂で飲み、大江戸線に乗って本郷三丁目で降りようとして乗り過ごし、そこから本郷三丁目に戻ろうとして、またまた本郷三丁目を乗り過ごしという、フライングパイレーツ状の乗り過ごしを経験した。
そしてようやく本郷三丁目の駅から地上へ出て春日通りを東へと歩きはじめたところ、今度は自分の歩幅がほとんど靴のサイズ、つまり26センチほどしかないことに気づいて「甘木庵は目と鼻の先にあるが、この調子では、あとどれほどの時間を歩けば玄関までたどり着くだろうか」と、焦燥した。
そうであっても、いずれは寝ぐらへとたどり着く。
本日の夕刻には冷えた白ワインを抜栓し、シェムリアップの地図を眺めながら、これを飲み始めた。1杯を飲み終えたあたりで晩飯が出てきたことから計算をすれば、いつもより多く飲んだ量は1杯に過ぎない。
ところが晩飯を食べ終える直前に眠くなり、数時間後に気がつくと、目の前にはグラスに3分の1ほどのワインが残っていた。
外で飲めばどんなに酩酊しても、とにかく寝る場所までは帰り着く。しかして家で飲むときに限っては、なぜ飲んでいる姿勢のまま眠ってしまうのか。その、精神と肉体のからくりが、よく分からない。
「ジム・トンプソン失踪の謎」 ウィリアム・ウォレン著 吉川勇一訳 "Archipelago Press"
については何年も前から手に入れたく考えていたが、絶版のため"amazon"では古書に高値が付き、とてもではないが買う気にはならなかった。先月の下旬には4,000円台のものが1冊だけ出ていたと記憶する。
ジム・トンプソンのモノクロプロフィールによる表紙が脳に刻み込まれるほどの頻度で値を追っていたこの本だが、今月4日に「ジムトンプソンの家」で売店に入ると、何とこの2004年の新版が495バーツで平積みにされていた。
手持ちのバーツは2011年9月末に「タニヤの酒屋」で両替したものであり、当時のレートで計算すれば、495バーツは1,218円にあたる。よってすぐに買うことを決め、レジのオネーサンには500バーツ札1枚を差し出した。
さて思いがけなく手に入れたこの本を、僕はいつどこで読むべきか。それはやはり、タイのどこかのプールサイドで、あるいは南国の樹木の巨大な葉が頭上に垂れかかる、野外のテーブルで開くことが最上ではないか。しかしそれをすると近藤紘一の「目撃者」を退けることになる。まぁ、楽しく贅沢な悩みである。
ところで"amazon"の「ジム・トンプソン失踪の謎」 については、4,000円台の古書はいつの間にか売れ、現在は20,000円のものが1冊だけ出ている。20,000円を業腹と感じる人は即、バンコクへ飛んで欲しい。「ジムトンプソンの家」へ行けば、495バーツの新品が、いまだ大量に積んであるだろう。
きのう夜に帰宅をすると、廊下一杯にしもつかりの香り、いや香りよりも匂いと言った方が良いかも知れない、それが満ちていて「そうか、初午か」と気づいた。
しもつかりは27歳まで食わず嫌いを通し、その後「並木蕎麦」の、今はもう亡くなったオヤジさんに無理強いされて以降、好きになった郷土料理、いや、これが果たして料理と呼べるものだろうか、などと懸念を示したら叱られること確実な、北関東地方のソウルフードである。
塩鮭の頭、鬼おろしした大根と人参、しもつかりというものが説明される際には「節分に撒いた残り」と付記されることの多い大豆、そして酒粕をグツグツと煮込んで完成するしもつかりの見た目は、農園主の捨てた豚の足や鼻を煮て食べていたアメリカ南部の奴隷さえ忌避するような、たとえて言えば猫の吐瀉物のようなものだ。
本日は旧暦の初午にて、赤飯としもつかりと清酒をお稲荷さんにお供えした。人間がお稲荷さんに先んじてしもつかりを食べるわけにはいかないから、折角のそれは昼飯の時間になってはじめて食卓に上がった。
今日はまた彼岸の入りに当たるから、朝は仏壇の拭き掃除をし、墓参りに行った。空は晴れて外気は暖かく、社内の暖房は切られている時間が長くなった。
夕刻になって「仕事が間に合わない」と、今週の日曜当番タカハシアキヒコ君が言ってきたので僕も製造現場に入り、数十分間をタカハシ君の手伝いに宛てる。
次男の学ぶ男子部高等科2年生の成績報告会に出席をすべく、10時すぎに自由学園に入る。
創立から今に至るまで、かどうかは知らないが、自由学園に通信簿はない。高等科であれば1年生から3年生までが集った場に、教科ごとの担当教師が順に進み出て、自らの目指してきたこととその結果、またこれから目指していこうとしていること、クラスの傾向や個々人の様子などにつき述べていく。そしてその場には父母も立ち会う。
長男が男子部にいたときには次男がいまだ幼かったこともあり、成績報告会に出席するのはもっぱら僕の役目だった。それが流れになったのかどうかは知らないが、次男の時代になっても、この会には僕が来続けている。
午後は用事があって品川区まで出かけ、夕刻に大井町の駅へと戻る。そしてジグザグに経路を辿りつつ19時すこし前に北千住に達する。半袖Tシャツに木綿のスモックを重ねて汗ばむほどの春の宵である。
僕は北千住ではほとんど「加賀屋北千住店」でしか飲まない。この店でチューハイの「ナカ」をお替わりするたび「なるほどなー」と感じ入る。酒を飲みながら何ごとかを学習してしまうとは情けない限りだ。
そういえば今月2日にチェンライのサタデーマーケットでもまた、僕はカステラボール屋の商法について「なるほどなぁ」と感心したことがあった。夜店をフラフラしながらも何ごとかを学んでしまうとは、格好の悪いことこの上ない。
そして「まるで研修フリークみてぇじゃん」という自嘲的な気分と共に「ナカ」のお替わりをオニーチャンに頼む。1時間で「ナカ」4つは結構、忙しい。
九段下という地名はあるけれど、九段上についてはどうなのか、と考えて検索エンジンを回すと、都バスの停留所として「九段上」というものがあると、下関マグロが自身のウェブログに書いていた。
そういう次第にて、所用のため朝から九段上に至る。そうして昼食のときなどは靖国通りを避けて、わざわざ靖国神社の中を抜けたりする。
靖国神社の境内に入るたび、中門鳥居の手前左側に掲示してある、第二次世界大戦時の兵士、多くは士官と思われるが、この人たちが家族へ宛てた手紙を読むことにしている。これまで読んだものはすべからく、齢20代にして、既にしてまるで家長の地位にある者の記したような威厳、風格のある文章だった。
「死に臨んでいたからこそ、これだけの文章が書けた」ということもあるだろう。しかしまた「これだけの文章をものすることのできた青年たちが多く死んでいった」と考えれば、靖国神社とは、戦争反対を強く訴え続けている機関と、僕などは認識をしている。
それにしても、靖国神社の巨大な鳥居をいくつもくぐりながら九段下へ向かう行為には、大変な気持ちの良さが伴う。そして「次に来るころには、桜はもう散っているんだろうな」というようなことも思う。
"Chateau Petrus 1961"を飲んだことのある人の感想を、インターネット上の掲示板で目にしたことがある。その人によれば、グラス1杯のみで精神も肉体も満たされてしまい、次の1杯を求める気分にはならなかったという。
その正反対の現象かどうなかは不明ながら、安いワインは普段よりも多くの量を飲むことができる。というわけで夜はフランスの安い白ワイン1本を飲み干し、ごく早い時間にねぐらへと向かう。
店舗の清掃と製造現場の各部補修はきのうのうちに完了した。排水処理に関わるふたりはすべての作業を終えて今朝8時30分に去った。それと入れ替わるようにして今度は、高圧変電室の年時検査をする電気屋さんふたりが9時前に来る。
間もなく製造現場、店舗、事務室、自宅のすべての電源が落とされる。電話の主装置とコンピュータのサーバは、エンジン式の発電機を電源として動かし続ける。そして僕はコンピュータに取り付けた"LED"を頼りに受注作業をする。
いつの頃からか僕の"iPhone"に、知らないところからのメッセージが日に数十通も入るようになった。先日たまたま通りかかった市ヶ谷の"SoftBank"に飛び込み、その件についてオネーサン相談をしたところ、特定のメールアドレスのみに受信許可を与えれば解決すると教えてくれた。
そうして早速、教えてもらった通りのことをしたが、迷惑メッセージは一向に止むことなく届き続けた。
そして本日、昼食へ出たついでに"JUSCO"や"UNICLO"の先の"SoftBank"を訪ね、先日、市ヶ谷でしたとおなじ質問をオネーサンにしてみると「特定のメールアドレスのみ受信許可にしていただければ」と、やはりおなじ答えが戻った。
よって「その対策では一向に効き目がないから試験をして欲しい」と頼むと、オネーサンは営業所の携帯電話から僕の"iPhone"にメールを送り「なるほど入ってしまいますね」と困惑しつつ「本部に訊いてみます」と、カウンターの受話器を取り上げた。
そしてしばらく後に、オネーサンの指示に従って設定をしていくと、今度はオネーサンからの試験メッセージは見事に遮断され、以降、迷惑メッセージも届かない。
それにしても、特定のメールアドレスのみに受信許可を与えても、なぜなお試験送信したメッセージが僕の"iPhone"に届いてしまうのか、そして迷惑メッセージを遮断する方法について、"SoftBank"の複数の営業所が把握していないとは、どのようなことなのか。
しかし、極めて初歩の質問をして係員が答えられない、あるいはハードをいじくり回した挙げ句「本部」に電話をしても解決しないということは、僕は"docomo"でも経験をしている。そして我々は、売っている人も良く分かっていない道具を日常に使って平気でいるのだ。
ウチの会社は年に6日から7日の休みをいただく。元旦で1日、社員研修が年に4日、更に2、3日を社内各所の清掃、設備の点検、修理に充てる。今日は会社は休みでも、店舗に2名、製造現場に5名、排水処理施設に2名の、計9名が朝8時30分から働いている。そして僕は事務室で電話番をする。
夜は外へ出ず、居間にいて、煮物や汁物で焼酎のお湯割りを飲む。そうしてテレビは"NHK"の「クローズアップ現代」にチャンネルを合わせる。今日のテーマは「大人の発達障害・個性を生かせる職場とは?」。サブテーマは「高い集中力や記憶力がある一方、コミュニケーションを取りにくいという傾向がある人たちの強みをどう職場で生かしていくのか?」というものだった。
しばらく観るうち「これはオレのことではないか」と考えられる場面がいくつも出てきた。正直に対応すればするほど、あるいは誠実になろうとすればなるほど人を怒らせてしまう、ということが僕にはあるのだ。
むかしポケットベルというものがあった。出張中にこのポケベルの調子が悪くなったとき、イエローページを繰ると、有楽町に修理センターのあることが分かった。そのとき銀座にいた僕は勇躍このセンターを訪ね、技術職のオジサンに壊れたポケベルを委ねた。
10分か15分で修理の完了したポケベルを受け取りつつ「これで大丈夫ですね」とオジサンに笑いかけると、オジサンは「機械に大丈夫ということはない」と仏頂面で答えた。「機械に大丈夫ということはない」とはけだし正論で、僕はこういうオジサンに腹を立てることはしない。しかしいま考えてみれば、このオジサンも発達障害の一種だったのかも知れない。
発達障害の人にはまた、健常の人であれば大勢に従わなくてはならないと考える場からも平気で離脱する傾向があるという。
仕事や勉強や教育に関する集まりの後で、その参加者と酒を飲みに行く、ということを僕はあまり好まない。それはなぜかと考えてみれば「仕事や勉強や教育という聖域に酒というものを関係させたくない」ということではなく「メシや酒という聖域に仕事や勉強や教育というものを関係させたくない」ということなのだ、多分。
「だったら社員と酒を飲むなどは、仕事と酒を関係させる最たるもので、そのようなことは決してしないんですね」と問われれば、社員と飲む酒については、僕は大好きである。そしてその理由については、長く不明のまま、いまだに分からない。
「数十年来の念願」と表現しても過言ではないと思う。春日町1丁目の屋台庫が昨秋10月に完成し、これからは江戸期の彫刻屋台を組み上げたまま保管することが可能になった。屋台はこれまで数十年のあいだ、お祭りのたび分解組み立てし、その都度こまかいところを欠損させることを繰り返してきたのだ。
その屋台庫には、イワモトミツトシ自治会長の発案により、これまで自治会費を負担して町内を支えてきたすべての世帯主、すべての法人の名を連ねた銘板が掲げられることになった。そうしていよいよこの銘板が完成したため、今日はイワモト自治会長と共に屋台庫へおもむき、回覧板に載せるための、その銘板の写真を撮る。
「回覧板に載せるための写真」とはいえ当方は写真のシロートであり、かつ夕刻でもないのに3月の西日は低いところから墨文字を照らしてテラテラと反射をする。「協力御芳名」として銘板に挙げられた人たちが自分の名を確認するには、次のお祭りのときにでも、屋台庫まで来ていただくことが一番だろう。
屋台庫から帰ってのち「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」の最新ロットを試食し、はじめはサイトーエリコさんと、次はハセガワタツヤ君と、この瓶詰め作業に従う。
「もはや冬に逆戻りをすることはあるまい」という確信は外れることも多い。しかし今朝は遂に、社用車であるホンダフィットのスタッドレスタイヤをノーマルタイヤに戻してくれるよう「EBエンヂニアリング」のタシロジュンイチさんに電話で頼む。
午後2時半すぎから製造現場にいると、そのうち長いサイレンが聞こえてくる。そしてちかくにいた複数の製造係に、というよりも、まるで独り言のように「そうか、いまが地震発生の時間か」とつぶやく。
そんなことをして何になるというものでもないが、4階の仏間に上がって線香を2本、上げる。初夏の若葉を枝ごと揺すって吹く強い風を青嵐というらしい。そうであれば、今日の風は大量の花粉を含んだ黄嵐とでも呼ぶべきものだろう。
夕刻も近くなってから、町内の電気料金を振り込むため郵便局へ行く。すると、並ぶ人もいない"ATM"の下に1万円札がむき出して落ちている。よってすぐに拾って局員に手渡す。
あちらこちらで用を足して会社に戻ると「落とし主が特定できたので、拾った人の名を伝えておいた」旨の電話がちょうど郵便局から入ったところだった。金融機関では、混み合っていないときに限られるかも知れないが、ATMの記録と防犯ビデオの録画を突き合わせながらから、おおよその人物を特定することができるらしい。
そしてその1時間後には「ミカンは仏様に、イチゴはすぐに食べてください」と、落とし主を名乗る人がお礼に来てくれた。「仏様に」とは僕も意表を突かれたが、僕のオヤジあるいはおばあちゃんをご存じの方なのかも知れない。そしてその昔気質に僕は心を打たれ、また、いささか申し訳ない気分にもなった。
今からすれば3週間とすこし前に開催された高島屋での出張販売における、その経費と粗利を表したグラフの説明を、夕刻の、社員を集めたミーティングの席で長男がする。
2年前の今夜は、廊下に散乱したガラスのかけらなどを、靴を履き、家内と夜中までかかって片づけた。アドレナリンが噴出していたせいか、晩飯など食べなくても腹は減らなかった。そういうことを思い出しながら、いただいたばかりの大粒のイチゴを食べる。
総鎮守瀧尾神社および東照宮の、4月から7月にかけて行われるお祭りの役割分担を決めるため、19時前に町内の公民館へ行く。今夜の集まりではまた、来年度の予算についても話し合う。
春日町1丁目の戸数は今年度だけで1割以上が減少した。これだけ少なくなると町会費の減収も半端ではない。
町内はまた、町内各所に設置された防犯灯の維持管理および電気料金の支払いもしている。東京電力に支払う電気料金は、昨年5月28日に引き落とされた金額が前年にくらべて信じられないほど値上げされていたため、僕自身が東京電力に問い合わせた経緯があった。
財政の緊縮が必至であるところに持ってきて、今年は更に電気料金が上がるという話もある。よって来年度の予算は、あちらこちらを大胆に削りながら、電気料金だけは大幅に増額せざるを得ない。つまらない世の中になったものである。
晩飯については、町内の集まりがお開きになってから飲み屋へでも行けば良いと考えていた。しかし公民館の玄関から出ると時刻は20時40分になっていた。銀座赤坂六本木ならいざ知らず、日光市今市地区でこの時間から飲み屋へ行く気はしない。
帰宅して冷や奴で焼酎を飲み、具のほとんどない、しかしレモングラスの香りのする辛いラーメンを食べて、それを晩飯とする。
タイへ行っていた、たった7日間の留守中に、日本は随分と暖かくなった。帰国して今朝まで、僕は毎晩22時に寝て毎朝6時に目を覚ましている。1日の睡眠時間が8時間とは、まるで子供並みである。何が上手く働いているのかは知らないが、血圧の状況はすこぶる良い。
今年は正月にいささか食べ過ぎたらしく、体重が64キロになった。「ちょっとマズいな」と考えつつ、しかし1月末には62.5キロに落ちていた。63キロまでなら自分で決めた許容の範囲内である。その体重が、今週はじめにホテルの部屋の体重計に乗ってみると、正月とおなじ64キロに戻っていた。
「かつてタイ人は食事について、これを栄養の摂取としてではなく、ましてひとつの愉楽としてでももなく、空腹をすこし先延ばしにするだけのものと考えた。タイの食事の量が少ないのは、そのあたりに理由がある」ということを、どこかで読んだことがある。
ホテルの朝のブッフェは別として、そのような量の少ないメシで昼と夜を過ごしながら、なぜ体重が正月並みに増えたか。あるいはホテルの体重計が、ちとおかしかったのかも知れない。
8月下旬に行くシェアムリアップのホテルをインターネットで予約する。
"agoda"では「安いな」と考えながらホテルを決め、予約のための操作を続けて行くと最後に、別途、税サービス料の加算される旨が表示される。よって「だったら他に、もっと安い予約サイトがあったんじゃねぇか」と不安になるが、それでもツインルームに5泊して12,000円であれば、そのまま予約確定のボタンをクリックする。
2010年の6月にシェムリアップへ行った。アンコールワットを案内してくれたのはロンさんという若いガイドだった。
ある夕刻、ロンさんの仕事外ではあろうけれど、カフェーに連れて行ってくれるよう頼みながら、いくらくらいガイド料を上積みすべきかと問うと「それはカフェーの女の人に上げてください」とロンさんは答えた。このひと言を以て「ふたたびこの地を踏むことがあれば、そのときはまたこの人に案内を頼もう」と僕は決めた。
昼前、手帳に残したロンさんの電話番号を、恐る恐る僕の携帯電話に打ち込む。3年も経てば電話番号の変わっている可能性もある。
聞き慣れない呼び出し音が幾度か鳴った後、それほど良くない電波状況の中で繋がった相手に「もしもし、ロンさんですか」と日本語で話しかけると「はい、ロンです」と、3年前よりはいくらか野太くなったような声が返ってきた。僕は興奮を押し殺しつつ「まだ先のことなのですが」と、できるだけ歯切れ良く丁寧に、今年8月下旬の日程を伝えた。
航空券は既に手配済みである。泊まるところは今日明日中にでもインターネットで予約をしよう。次男とのふたり旅であれば、茅葺きのコテージで明け方の無聊に焦燥しようが、あるいはまたカレン族の家で霧に閉じ込められようが、それこそ「心は王侯の栄華にまさるたのしさ」である。
シェムリアップでは広大なワット群を歩くことに3日間を費やし、残りの2日間は休養に充てたい。5日間を合計した歩行距離は50キロほどになるかも知れない。
タイのどこかで家内がレモングラスのオイルを求めた。この容れ物がトランクの中ですこし壊れたお陰で、居間から廊下にかけての空間にレモングラスの香りが満ちている。まこと素晴らしい状況である。
レモングラスの香りは、タイでは料理のほか、部屋の芳香として使われることが多い。おととしチェンマイのピン川沿いに予約したホテルが洪水に見舞われ、急遽、山側のホテルに変更をしたことがあった。その安いホテルのロビーに漂っていたのがレモングラスの香りだった。
そして今回、オリエンタルホテル旧館の小体なショッピングアーケードでもまた、控え目ながらレモングラスの香りを感じた。
レモングラスの香りには、熱帯の瘴気を払う、あるいは祓うような不思議な気味がある。そしてウチの居間から廊下にかけてのレモングラスの香りは、まぁ、数日の間には雲散してしまうだろう。
去ったばかりのタイを早くも懐かしんで、家内は昼にセンヤイ炒めもどきを作った。もちろん、チェンライ山中の風味が再現できるわけではない。まぁ、大人のままごとである。
ところで今回の旅の小遣い帳は、前期繰越が46,751バーツ、収入が565.5バーツに対して支出合計は13,575バーツ。よって次期繰越は33,741.5バーツになるところ、手元の現金は33,543.5バーツだから、使途不明金は198バーツ。
僕が両替したときのレートで換算すれば198バーツは487円になる。487円とはいえカオマンガイ5人前と考えれば現地では決して小さな金額ではない。一体全体どこで消えてしまったものだろう。そして「次のタイ行きでは支出を1万1千バーツ以内に収めるぞ」と心に決める。
成田行きの、機材に"AIRBUS A330"を使った"TG642"は、定刻に26分遅れて00:16にスワンナプーム空港を離陸した。水平飛行に移ってすぐに配られはじめた2種の飲み物のち、オレンジジュースとは異なる方選んだら、それはコカコーラだった。バックレストを倒し、足を前に延ばして眠る姿勢に入る。
複数の客室乗務員による"Good morning"の声が機の後方からいきなり聞こえて、ビックリして目を覚ます。時刻は3時25分だった。タイ国内では美味いものを食べ続けるため、帰国時の機内食は特に不味く感じる。
機内食が配られ始めてから片付け終わるまで、時計を見ていると、ほぼ1時間がかかる。この1時間のあいだテーブルが使えないということが、僕には結構な気分の負担になる。飛行機に乗るといつも「機内食キャンセルで○円キャッシュバック」というような決まりは作れないものだろうかと思う。
左手に富士山が見えてしばらくすると機は降下を始め、定刻より10分はやく、タイ時間05:20、日本時間07:20に成田空港に着陸をした。おなじ"TG642"ではあるが、時刻表の上でも、飛行時間は昨年夏にくらべて30分も短縮をされている。
空港からは08:15発のマロニエ号に乗ることができた。これを「鹿沼インター入口」で三菱デリカに乗り換え、昼前には帰社してしまう。そして昼食を摂り、着替えて即、仕事に復帰をする。
夜は早くもタイを偲びつつ、タイラーメンによる豚しゃぶを食べる。
暗闇に目を覚まし、そのまま静かにしていたが、眠気はまったく訪れない。枕頭の携帯電話を手探りしてディスプレイに目を遣ると、時刻は2時37分だった。よってそのまま起きだしメゾネットの上階から下階に降りて、手持ちの地図を眺めたり、あるいは日記を書いたりする。
7時を過ぎて、きのうとおなじ川沿いの朝食会場へ行き、きのうとおなじく1時間ほどもかけてゆっくりと朝食を摂る。そして「ヤワラーのタイペイに泊まって、朝飯だけここに、トゥクトゥクに乗って食べに来る、というような酔狂をする人間はいないものだろうか」というようなことを考える。
部屋に戻り、9時もちかくなるころ、ふたたび1階まで降りて庭に出る。そしてその先にある桟橋からホテルの舟に乗る。チャオプラヤ河畔に建つホテルはおしなべて交通は不便だ。しかしすぐちかくまで行くにしても舟を使う、その非日常性には抗しがたい魅力がある。
サパーンタクシンの駅から"BTS"に乗ってサラデーンで降りる。ちょっとした用を足して後はタニヤ裏の屋台街を抜け、"BTS"でふたたびサパーンタクシンに戻る。そしてロビンソン百貨店地下にあるトップスで食料品などを買い、ジャルンクルン通りに出る。
通りを北へしばらく歩くと、右側"Lebua at State Tower"の手前に何台かの屋台が見えた。時間はいささか早かったが、今日はなにかと忙しい。よってここで昼飯を済ませることにする。
ステートタワーからオリエンタルホテルまでは大した距離ではない。よってジャルンクルン通りを更に徒歩で北上し、オリエンタルアベニューへと左折をする。そしてこのソイを西へと歩きながらその右側に、とても懐かしい建物を発見する。店の名は"THE HOME INDUSTRIES"。僕のかつて付けたあだ名は「乱雑屋」である。
この店にはタイの、田舎であればいまだ使っているかも知れないが、バンコクではとうの昔に廃れたような日用品、特に籐や竹で編んだものが山積みになっている。そしてそれらすべてはほこりだらけだ。1991年4月、僕はここで緑釉の大きな鉢を見てひと目で気に入った。しかしひとかかえもある鉢などどうやって日本まで持ち帰るのか。
「乱雑屋」に吸い込まれるようにして入った僕の目は自然と思い出の鉢を探していた。しかし当然のことながらその、縦に大きな畝を持つ苔色の鉢は残されてはいなかった。そしてショーケースの中の、こればかりは流石にホコリを浴びていないタイパンツを390バーツで求め、ホテルへと戻る。
チェックインのときに確認した限りでは、チェックアウトは正午だが、15時までは無料で滞在が延長できるという。
その言葉に甘えて13時からはひとりプールへ行き、分厚いタオルの巻かれた寝椅子で「目撃者」を読む。プールサイドがいささか狭くなったように感じて周囲を見まわせば、より多くの人がプールサイドで過ごせるよう、北側の寝椅子の裏手に天蓋付きのベッドをしつらえたことによることが分かった。
と、突然、プール係のひとりが正面に立ち、自分の顔が僕に良く見えるようサングラスを外しながら"How are you?"と笑顔で声をかけてきた。僕も笑いながら返事を返したが、誰かに間違えられたのかも知れない。このような経験は、僕の人生では池袋の焼鳥屋、有楽町の路上に続いて3度目のことである。
ところでこのホテルのプールサイドのもてなしは、23年前にくらべて明らかに良くなっている。1991年には「寝椅子は日なたと日陰、どちらがご希望でしょう」と訊かれた。今回それはなかったものの、寝椅子に落ち着くとほどなくしてパリパリに凍ったフェイスタオルとロンググラスの氷水が届けられた。そして数十分が経つと、今度はアイスティーとシャーベットが専用の台に乗せられ運ばれてきた。代金はもちろん無料である。
「しかし」と考え直さないでもない。1991年の1バーツは5.0円。そして現在のタイバーツは3.2円。円がバーツに対して5割高くなっているにも拘わらず、円建ての宿泊料も5割上がっている。つまりバーツ建てで考えれば、宿泊料は23年前の2.5倍にちかいのだ。
バンコクの最低賃金がこの23年間で3倍以上に高騰したことを考えれば、まぁ、ホテル側も、値上げ分はサービスを以て顧客に還元しようとしているのかも知れない。
14時に部屋へ戻り、30分間で服装を整える。そしてベルボーイを呼んで荷物を託す。当方はロビーのキャッシャーでチェックアウトをする。"wifi"の使用料はきのうフロントで確認した通りの、24時間で620バーツだった。
川向こうのスパを予約している家内をロビーに残し、僕はふたたび来てくれたコモトリ君のクルマで、コモトリ君の家のあるトンブリー側に渡る。そして古式マッサージを受けたりしてのんびりと過ごす。
オリエンタルホテルのスパへは、家内を18時30分に迎えに行った。その足でタクシン橋を渡り、シーロム地区のフカヒレ屋「福魚翅」へ行く。そしてビールで乾杯し、またこの店独特の濃厚なフカヒレスープを肴に焼酎を飲んだりする。
渡し船で帰宅するコモトリ君をサパーンタクシンで降ろした運転手は、今度は僕と家内だけを乗せて東へとハンドルを切った。スワンナプーム空港に着いたのは21時のころだっただろうか。今回、空港とホテルの間に自家用車を出してくれたコモトリ君には感謝に堪えない。お陰で旅のもっとも面倒なところを簡単に済ませることができた。
そうして出発ゲートへ向かう喫茶店でマンゴーの、タイ人には「スムーシィー」と発音しなければ伝わらない"smoothie"を喉元に送り込んで後、23:50発の"TG642"に乗る。
旅先では、朝はほとんど3時台に目を覚ます。前夜の就寝が9時であれば、どれだけ早くに目を覚ましても不思議ではない。起床して2時間ほども本を読んだり日記を書いたりすれば腹が空く。コーヒー紅茶ならホテルにも用意があるが、この手の物には僕は砂糖を必要とし、しかし砂糖は摂りたくない。そして毎朝、日本から持参したインスタントのコンソメスープを飲んでいる。
7時ちかくに服装を整え、エレベータに乗って金色の"L"のボタンを押す。そうしてちいさな、しかし豪華なショッピングアーケードからオーサーズラウンジに出る。ここを抜ければ大きな鏡のある「謁見の間」とでも名付けたくなる部屋があり、更に進むと、大理石の床を持つテラスではすでに天井の扇風機がゆっくりと回っている。そのテラスのドアの、磨き込まれた真鍮の取っ手を回して庭に出る。その庭の石畳を踏んで階段を数段上がると、そこはチャオプラヤ川に面した朝食会場である。
不思議なことにというべきか、あるいはバンコクのオリエンタルホテルであれば当然のことにというべきか、このホテルの朝食はおよそ、何を食べてもすべて美味い。玉子からナムプラー、お酢、刻んだ唐辛子に至るまですべて美味い。優れた材料を選び、そこに優れた技術を投入することによってはじめて可能となる美味さが、このホテルの朝食に実現されている。我々はこの朝食会場に1時間以上もいて、幾皿ものあれこれを愉しんだ。
ホテルの朝食の楽しみは、その味や川沿いの景色だけではない。先ほど通り抜けてきた庭には、インド北部からティベットにかけてを原産とする、九官鳥に似た鳥が飼われている。この鳥がまことに良い声を、朝食会場まで届けてくるのだ。バンコクのオリエンタルホテルは、正に「ホテル夢の国」である。
ロビーの椅子で待つうち、コモトリ君が自家用車でエントランスに現れる。そのクルマに乗って「ジムトンプソンの家」へ行く。入口でひとり100バーツの入場券を買うと、どこの国の人間かを券売所の人に訊かれる。日本人と答えて先へ進むと別の人が待っていて、日本語による案内は10時40分からなので、それまでしばし待つよう指示をされる。
1991年の春、僕はオリエンタルホテルからトゥクトゥクに乗ってここまで来た。そのときの「ジムトンプソンの家」は閑散としたもので、邸内にはほんの数人の客しかいなかった。タイの古民家を移築した屋内に僕はひとりで勝手に入り、ひとりで勝手に見て回った記憶がある。
「10時40分まで待てって、どういうこと」と係にコモトリ君が問うと「すべて施設を守るためです」と係の女の人は答えた。「いつから」「むかしからです」「むかしからってこたぁねぇだろう」
「ジムトンプソンの家」にはカフェなどできて、また入場券売り場のちかくでは繭玉を煮る男の人、糸をつむぐ女の人の実演に客が見入るような、いまや「観光地」になってしまった。これだけ人がごった返すようになれば確かに、監視役を兼ねた案内人も必要になるのだろう。しかしまぁ、いくら観光地になっても、そして個人の勝手な好みと言われればそれまでだが、やはりここは来るべきところだと思う。
僕は旅行に際しては割と入念に計画を立てる。しかし現地に入れば状況は刻々と変わるから、出発前に立てた計画を忠実に実行しようとは考えない。
「ジムトンプソンの家」からは、この家の裏側を走るセンセーブ運河の舟に乗ってプラトゥーナムまで行こうと決めていた。しかし今日はコモトリ君が付き合ってくれている。よってプラトゥーナムには彼のクルマで移動し、11時50分という時刻もあって大混雑の「ガイトーンプラトゥーナム」で、カオマンガイを昼飯とする。食後はコモトリ君の、シーロム地区にあるオフィスに寄ってからホテルに戻る。
夕刻にふたたびコモトリ君がホテルに迎えに来てくれる。そしてコモトリ君の食料の買い出しに付き合ったりする。僕は「伊勢丹」の中の「紀伊國屋書店」でバンコクのバスマップを買った。そんなことをしながらランスアン通りの「ウォンリーランスアン」へ行く。漢字では「源利大飯店」とあらわされるこの店は典型的な南国中華の、僕の大好きな店だ。
「ウォンリー」には自由学園男子部58回生のアズマリョータローさんも駆けつけてくれた。そうして家内も含めた4人による夕食会が開かれる。異国で働くことには様々な苦労がつきものと思われる。それにくらべて当方はただ遊びに来ているわけで、毎日を気楽に過ごし、何やら申し訳ない気さえした夜だった。
夕食会を終え、ランスアン通りから乗ったタクシーが、シーロム通りからジャルンクルン通りに突き当たるところで「この先、右ですか、左ですか」と運転手が訊く。外国人観光客にタクシーの運転手が道を訊く、というあたりがいかにもタイである。地図はホテルに置き放って今は持っていない。たとえ持っていたとしても、信号の変わり際とあっては、それを確認しているヒマもない。
そうして咄嗟に「左」と答えて、次は「真っ直ぐ」を意味するタイ語の「トロンパイ」を運転手に告げるうち、前方に"BTS"の高架が見えてきたから「しまった、サパーンタクシンまで来てしまったか」と、そこでタクシーを降りる。
しかしタクシン橋のたもとまでは川沿いの各ホテルが舟を運行させている。よってしばらく待つうち接岸されたオリエンタルホテルのこれに乗り、乾季の夜風に吹かれつつ部屋に戻る。そしてきのうに引き続いて21時前に就寝をする。
タイに来てから早寝を励行し、いや励行ではない、酔って早寝をしては朝3時台に目を覚ます、ということを繰り返しているだけだ。そしてチェンライは晴れているものの空はボンヤリとして、今朝は霞さえかかっている。
4泊を過ごした"Dusit Island Resort"を8時50分に去り、手配しておいたクルマで空港へと向かう。
"TG2131"は定刻の10:20に4分おくれてチェンライ空港を離陸し、スワンナプーム空港には11:40の定刻より5分はやく着いた。今回の旅では今日の、空港からホテルまでの移動をすこし面倒に感じていた。ところがチェンライで何日か過ごすうち、バンコク在住の同級生コモトリケー君から電話があり、空港まで自家用車で迎えに来てくれるという。これでバンコク初日の日程は、かなり楽になった。
バンコクの宿は"Mandarin Oriental"。1991年の4月、僕はここの旧館に3泊をした。今回も予約をしたのは旧館である。コモトリ君のクルマはジャルンクルン通りからオリエンタルの船着き場に続くオリエンタルアベニューへと入り、右折をしながらスロープを登ってホテルのエントランスに滑り込んだ。大きなドアからロビーに入ろうとするところで、タイスタイルの美女にジャスミンの数珠を手渡される。
メインロビーから日本人の女性バトラーに案内をされ、左手に小さな滝のしつらえられた階段を下る。こぢんまりとまとまった、しかし値段など訊く気もしない高級品の並ぶブティックのあいだを鈎の手に折れつつエレベータに達する。そのエレベータを3階で降りて日の差す廊下を進み、左手の階段を7段上がってバトラーが旧館357号室のドアを開ける。
部屋に入ると右手にまた7段の階段があり、これを上がると左手にベッドが、そして右手にバスルームがある。チャオプラヤ川を行き交う舟はメゾネットの上からも望めるが、別途、川を眺めるための小部屋もしつらえてある。
僕が1991年の春に泊まった部屋は何号室かは忘れたが、ドアから階段を数段くだったところに床が平たくあった。今回の357号室は、そのときよりも明らかに上位の部屋である。
部屋でのチェックインが済み、バトラーが去ってしばらくするうち、我々のトランクがベルボーイにより運ばれる。人の大勢いるエントランスでコモトリ君のクルマから降ろされたトランクが、どこでどう紐付けされたか分からないうちに部屋に届く仕掛けが不思議である。ベルボーイは「あぁ、良いお部屋ですね」と微笑みながらメゾネット上階の所定の位置にトランクを置いてくれた。
ソファに座ってひと休みしていると、次はウェルカムドリンクが優雅な腰つきのメイドにより供される。これが冷たいお茶なのだがトロリと濃厚で、なにやら南の国の草木の香りがする。
「バンコク オリエンタルホテル チップ」と検索エンジンに入れると、ある"Q&A"のページに行き着く。そこには「普通のホテルと同じく20バーツで良いと思います」という答えがベストアンサーに選ばれている。僕からすれば「バカを言うな」である。
ロビーで待っていてくれたコモトリ君とシャングリラホテルの中を横切ってサパーンタクシンまで歩く。そして帝国ホテルの宿泊客が有楽町のガード下でモツ焼きを頬張るような塩梅にて、フードコートのバミーナムサイを昼飯とする。
サパーンタクシンからはコモトリ君のコンドミニアムの専用船でチャオプラヤ川を渡り、コモトリ君の家へ行く。そうして一服の後、外へ出る。コモトリ君の自家用車は運転手により既にしてコンドミニアムの駐車場に回してあった。
タイの観光といえば、することは先ずお寺の見物だろう。しかし僕はお寺の見物はしない。それほど高尚な趣味は持ち合わせないのだ。しかしワットアルンにだけは、遊園地でジェットコースターに乗るような感じで行く。そうして今回もチェディの第二回廊まで上がり、高いところが好きな割には股間をゾクゾクさせたりする。
ハシゴのように急な階段を手すりに頼ってたどり着く第二回廊でさえ怖いのに、これを巡っていくと、避雷針の修理でもするためのものなのだろうか、塔の頂点を目指してステンレス製の縄ばしごがかかかっている。そしてそこには"NO ENTRY"の文字があった。ここから更に上を目指そうとするキチガイなどいるのだろうか。
ワットアルンからサパーンブットを渡って中華街に入る。そして7月22日ロータリーでクルマを降り、僕のかつての定宿だった楽宮旅社跡に家内を案内する。隣の「北京飯店」にもシャッターが降りている。コモトリ君が声をかけた近所の人は「店は廃業した。店主のスワニーさんはコンドーに入った」と教えてくれた。
「晩飯までにはまだ時間があるからワットポーでも行こうか」とコモトリ君が提案をする。1980年以来バンコクには17回ほどは来た。しかしワットアルンを訪ねたのは今回が2度目、ワットポーに至っては今回が初めてである。
いざワットポーの大仏殿に入ってみれば、いやぁ凄い凄い、この寝釈迦の壮麗な様は本当に素晴らしい。そして釈迦の足の裏の指紋とマンダラはすべて螺鈿だった。「名物に美味いものなし」とは聞くけれど、この有名なお寺には「何を今さら」と言われるかも知れないが、やはり流石のものがあった。
空が急速に暮れかかるころ、チャオプラヤ川沿いの料理屋"YOKYO MARINA RESTAURANT"への道を歩き、生け簀で蟹や海老を選ぶ。本日はたまたまバンコク都知事選の投開票日に当たり、飲食店での酒類の販売は禁止されている。そういうことは既に調査済みであるので、席では僕がお茶のペットボトルに入れて持ち込んだ焼酎を飲んだ。
帰りの船はオリエンタルの桟橋に直に着けてもらった。そして歓楽の都にいるにも拘わらず、21時前には早くも就寝をする。
3月1日からのチェンライでの日々はすべて、象トレッキングの休養日、という色を帯びてきた。今般の旅が何よりリゾートであれば、別段、何をする必要もないのだ。午前中は部屋にいて日記などを書き、昼前にロビーに降りる。
"Dusit Island Resort"はコック川の中洲にあり、ひとえにこの地理的条件によって、他の数々のリゾートホテルよりも、部屋からの風光に優れている。市中心部まではおよそ1.5キロの距離があり、僕などは過去には大汗をかきながら1日に2度ほどは徒歩で往復をする、あるいは自転車で探索などをしていたが、家内がいればそのようなわけにもいかない。
ホテルはひとり60バーツの価格で、ホテルとナイトバザールのあいだにシャトルバスを運行させている。今日もそれを使って街まで出ようとフロントで乗車券を求めると、このバスは18:00、20:00、21:00、22:00の、1日4便しか運行していないという。よって今回ばかりは徒歩で街まで行くこととし、熱帯の植物の生い茂る、ホテルの広大な敷地を歩いて行く。気温は30℃には達していないように思われる。
そうして一般道への橋を渡って安全のため左右を確認すると、右手に人力サムローがいる。サムローの運転手などはやせこけた老人の目立つところ、立っていたのは若いオニーチャンだった。近づいていくと控え目な、あるいは曖昧な、更に言えば自信の無さそうな笑顔を浮かべつつ「僕ですか」というような顔をする。
「そう」と頷いて「パイ、タラート、シリコーン、タオライ」と訊いてみる。オニーチャンの言い値は60バーツだった。そしてその、インドのリキシャに比べればずいぶんと狭い席に収まる。
人力サムローの動力源は自転車だから遅い。遅いけれども、遅ければ遅いなりに、乗りながら街の観察ができる。そして遂に、時には上り坂をオニーチャンに申し訳なく感じながら、もしも歩いていれば疲労困憊したであろう花市場に着く。
この市場の一角にイサーン料理屋のあることは以前から知っていた。しかしこのちかくの安宿に次男と泊まっているときにも、そこを見つけることはできなかった。そして今回はより細密な情報を集めた。その結果、当該の店は意外なほど簡単に発見された。それは市場の外縁部にあたるところの、ミツバチを描いた黄色い看板の右手にある。店に近づくと、看板代わりのグリルでは、鶏の頭がこんがりと焼けていた。
店の席に着き、ソムタム、ガイヤーン、カオニャオ、トムセーップを注文する。オヤジがタイ語で何ごとかを訊いてくるが、当方は理解できない。しかしそのうちソムタムの辛さはどうするかと言っていることに気づいた。一瞬のあいだ迷うとオヤジは手の親指と人差し指のあいだをすこし開けて「ほんのちょっとか」というような身振りをする。そして僕は了解をする。
天井の低い、薄暗い、涼しげなこの店で食べた品々は、火傷しそうに熱いトムセーップも含めてみな上出来だった。餅米の好きな次男をここに連れてくることができなかったのは残念だ。好きな食堂を回るため、来春はチェンライにもう1泊ながく滞在しようか、というようなことも考える。
シリコーン市場から1キロほども歩いて時計塔のロータリーに出る。そして「ここは趣味が良いよ」と数年前から気づいていた布と骨董の店に入る。家内はここで、店主によればミャンマー製だという青いビーズのネックレスを買った。
ホテルまでは、時計塔ちかくの日陰で客待ちをしている、きのうと同じオジサンのトゥクトゥクで戻った。そしてプールサイドで3時間ほども「目撃者」を読む。
チェンライに来るのは今回が5度目だが、土曜日に滞在したことは1度もなかった。チェンライにはサタデーマーケットというものがあるらしい。よって今夜はその土曜市で晩飯を食べるべく、今度こそ徒歩でホテルを出る。「今度こそ徒歩で」とはいえサタデーマーケットが開かれるのは時計塔裏の市場の近辺にて、ホテルからそう遠い場所ではない。
金色の時計塔ではない、もっとむかしにできた小さな時計塔から南下をすると、サタデーマーケットの通りはすぐに見つかった。それは聞きしに勝る規模で、一方の端から他方の端まで歩き通す気はまったく起きない。売っているものは小はアクセサリーのたぐいから大はインテリア関係のものまで大変な種類に上る。
しばらく歩くうち、昼に人力サムローから眺めた広場が見えてきた。いやはやこの田舎町からすればとてつもないほどの人が集まって、ステージのショーを見ながら飲み食いをしている。
1979年にスペインへ行ったとき「この国の人は広場の使い方が上手めぇな」と感じた。夜になると三々五々人が集っておしゃべりをし、あるいは夜になれば広場を取り囲む店は地元の人たちで溢れ、そのさんざめきは空の星のようだった。それにひきかえ日本人はどうも広場の使い方が下手だ。日本人は広場よりも路地を好む。だから僕は日本の行政が「広場」というものを作るたび、ヒヤヒヤしながら眺めているのだ。
ステージを真正面に臨むテーブルを首尾良く確保し、屋台で買ったモツ煮などを肴に焼酎を飲む。ステージでは女の歌手がルークトゥンを歌っている。するとそのうちそのステージの下に、ピンクのシャツと、これまたピンクの短いスカートをユニフォームとしたオバサンの一段が現れ輪になって、そのルークトゥンに合わせて踊り始めた。そしてやがては、それまで飲み食いをしていた一般のオジサンやオバサンも次々とその輪に入って行き、しまいには踊る大集団ができあがった。
行政の企画や指導に拠らず、自分たちの手でこれだけ楽しい場所を一瞬のうちに作り上げてしまうタイ北方の民、恐るべし。歌はそのうち女の歌手から白いテンガロンハットをかぶったオジサンに引き継がれた。家内に教えられて初めて気づいたが、その歌は「上を向いて歩こう」を丸ごとルークトゥンにしてしまったものだった。「いやぁ、すげぇな」と、僕はタイ最北部の夜空の下で深く感動をしていた。
「こんどチェンライに来るときには、必ずまた土曜日をその日程に含めよう」と考えつつトゥクトゥクを捉まえ、ホテルに戻る。そして今日もまた早々に寝る。
舟の行き交うコック川の向こうから朝日が上がる。それを眺めながら外の席で朝飯を食べる。タイの夜明けは現在の日本よりよほど遅い。暑くもなく、また寒くもない。
きのうは齢56歳としては過重な活動をした。よって本日は休養日に充てることとする。休養日とはいえ別段、部屋のベッドで終日、寝ているわけではない。
9時45分、コック川沿いのスパを予約した家内の手配したクルマに同乗し、しかし僕は警察の施設の集まる交差点にて降りる。そこから真っ直ぐ600メートルほども南下をすれば、この街の目抜き通りパフォンヨーティン通りに出る。
きのうの象の肩に乗って振り落とされまいと太ももに力を入れ続けた結果、鼠径部の腱が疲れて痛い。タイマッサージでこれを揉みほぐすことは可能だろうか。そんなことを考えながらワンカムホテル横の道を歩く。ここに3軒ほど点在するマッサージ屋は、外の椅子に侍っているオバサンの様子を見れば分かることだが、ちと怪しい。
パフォンヨーティン通りに戻り、ここに並ぶマッサージ屋を眺めながら歩く。しかし僕は「タイマッサージはまこと身がとろけるほど気持ちが良い」とか「マッサージが楽しみでタイに来ている」というような人の気が知れない。タイの古式按摩は、僕にとってはちょっとした苦行に近いのだ。
よって店のオバサンたちはいまだ食事を摂ったりニンニクの皮を剥いたりしながらノンビリしている食堂「ムアントーン」に入り、コーヒーを飲みながら年賀状の返事を書く。僕は日記は書けるが年賀状は書けない。1時間で10通の返事を書いたところで席を立ち、店を出る。
「ムアントーン」のある交差点から真西に進むとワットチェットヨーットに突き当たる。その交差点から今度はチェットヨーット通りを北上する。そうして、このあたりが白人相手の安宿街として結構な昔から栄えてきたことを知る。
気温はそれほど上がらず、そして湿度は低い。しかし街を歩き続けていては休養にならない。バスターミナルを目指しながら、なかなか良さそうなスパイス屋を見つけたりする。
知らない人の行き交うバスターミナルのベンチに座って何もしないでいることが楽しいかと問われれば、楽しい。長距離バスのためのターミナルは数年前に郊外へ移転し、2010年には僕もそこからチェンマイ行きのバスに乗った。しかし周囲を見まわしてみれば、いまだここからチェンマイ行きのバスが出ているし、またチェンコン行きのバスも出ていることが分かったのは収穫だった。
家内とはバスターミナルにほど近い「ウィアンインホテル」のロビーで13時に待ち合わせていた。そして時計塔から西へ右の歩道を歩くとほどなくして現れる牛肉麺の名店「ロテイアム」でセンレックナムを食べる。ここの薄切り牛肉は注文を受けてからスープの中でミディアムレアに湯がかれる。日本でこんな牛肉うどんは見たことがない。食べるたび大したものだと思う。
ふたたび時計塔ちかくに戻ると、交差点のむこうでトゥクトゥクのオジサンが手を挙げる。それに応えて交差点を渡り、ホテルまでの値段を訊くと60バーツだという。そしてこれに乗り込み、市場の喧噪を抜けてコック川の中洲にあるホテルに戻る。
午後から夕方にかけてはずっとプールの長椅子に寝て近藤紘一の「目撃者」を読む。しなくてはならないことがメシ食いと本読みのみとは、素晴らしい1日である。
夕刻にホテルのシャトルバスでナイトバザールへ行く。晩飯の選択は、初日の夜のパッタイがよほど気に入った家内による。そしてきのうの夕食時にセブンイレブンで買いながら飲みきれなかったシンハビールを抜栓する。今年のコオロギの店は大当たりにて、日本の川海老の唐揚げなどよりよほど美味い。
晩飯の後はナイトバザールの入口で人を集めていた甘い物屋でアイスクリームなどを買い、本日2順目のシャトルバスでホテルに帰る。そして入浴して即、就寝をする。