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大空に月と日が姿を現してこのかた 紅の美酒にまさるものは無かった
腑に落ちないのは酒を売る人々のこと このよきものを売って何に替えようとか
Omar Khayyam

 2011.0430(土) でっかいガーベラふたたび

今井アレクサンドルの「でっかいガーベラ」がおととい届いた。梱包は解いたものの、50号のキャンバスをどこへ置くべきか、については難しいものがある。

店舗の、古い壺を置いたり今井による富士山を飾ったりしている空間には、50号のキャンバスは収まらない。その空間に正対する壁には既にして今井の大きな抽象画があって、これまた隙はない。それにしても、オヤジの生きていたときには川上澄生の版画に占められていた壁が、今では今井の作品ばかりになっている。

「でっかいガーベラ」はとりあえず事務室へ置き、今後のことはゆっくり考えることにしようと思う。額装もしなくてはならない。

「日光にもやっと人が出たよ」と、旧日光市街からいらっしゃったお客様が笑顔を浮かべる。先の震災以降、日光の街は灯の消えたようになっていたのだ。しかしこの人出は一過性のものと考えた方が良い。東日本が復興したわけでもなく、日本から逃げ出した外国人が戻ったわけでもないのだ。

ガーベラの花言葉は「希望」「常に前進」「我慢強さ」だという。今井アレクサンドルはそのことを知っていて、僕にこの絵を描いてくれたのである。


朝飯 大根のビール漬け、生の黄色トマト、すぐき納豆、竹輪、メシ、豆腐と揚げ湯波と水菜の味噌汁

昼飯 「大貫屋」のキムチタンメン

晩飯 オイルサーディンのパン粉焼き鶏肉の網焼きトマトソース「金谷ホテル」の田舎パン冷蔵庫から出てきたチーズいちご"Comte Remy de Vallicourt Brut"


 2011.0429(金) 今日のニュース

毎年この季節になると「来年の5月は休みが3日続くんだぜ」と、ワクワクしながらこれを話題にした子供のときのことを思い出す。5月といえどもむかしはよほどの僥倖に恵まれない限り、3日続けての連休にはならなかった。そして僕は、楽しみは細く長く続いて欲しい方だったから、3日連休よりは飛び石連休の方が好きだった。

日本人は働き過ぎだと主にアメリカに叱られて以降、日本は祝日の乱発、振替休日の導入、ハッピーマンデー制度などにより連休を増やしてきた。そして今年は、会社によっては10日連休になるところもあるという。

この連休における東北道の交通量については不確定の要素が多すぎ、専門家でさえその予測を避けたが、いざフタを開けてみれば東北方面へ向かうクルマで長い渋滞が発生した。のみならず栃木県内のインターチェンジでは、高速道路に入るための、一般道の渋滞も目立ったという。

困っている人のことは確実に心の中に留め置きながら、しかし楽しむことのできる人は経済活動も含めて、その楽しみを享受すべきだ。

「これを契機に」などと甘いことは考えないが、それでも徐々に元気になっていこうとしている日本を目の当たりにしているような、今日の各所からのニュースを見聞きして大いに嬉しく思う。


朝飯 玉子と万能ネギの雑炊、たらこ、すぐき、梅干し、じゃこ

昼飯 「金谷ホテル」のパン2種、4種の野菜のサラダ、コーヒー

晩飯 エノキダケと水菜のおひたし豆腐と玉子と三つ葉のお吸い物鯛と平目と鰆と甘海老のちらし鮨、麦焼酎「知心剣」(お湯割り)


 2011.0428(木) 既にして新緑

冬の記憶はいまや近くもなければ、また遠くもない。4時30分ごろ不意に目覚めて洗面所へ行くと、窓の外は早くも薄明るくなっていた。今年の夏至はいつごろになるのだろう。

昼にツバメの姿を認めて嬉しくなり、周囲にそれを伝えると、このあたりでは月曜日からその飛び交わすところが見られたと家内が言う。

「月に雁」は広重の描いたものだが「桜に燕」の絵を描いた人は過去にいなかったか。月も雁も秋9月の季語、これに対して桜のそれは春4月、そして燕については意外と早く春3月の季語だからすこしずれている。おぼろに咲く桜を背景に、黒い鎌のような燕の飛ぶ絵がどこかにあれば、ぜひ見てみたい。

工場の、地震で壊れた屋根瓦はあらかた吹き直され、瓦屋さんは作業の手を味噌蔵の屋根にも着け始めた。その向こうのひときわ高い山桜には、既にして新緑の色がある

明日からの連休が、実り多いものになることを望む。


朝飯 生のトマト、たらこ、浅蜊の佃煮、すぐき納豆、メシ、豆腐とワカメと万能ネギの味噌汁

昼飯 カレーライス

晩飯 「大昌園」のあれこれ、麦焼酎「田苑」(オンザロックス)


 2011.0427(水) 春から初夏へ

4月の末には隠居の庭の、というか味噌蔵の裏の、というか、とにかく店から数十メートル離れた場所の、染井吉野や山桜は散り加減だろうが、しだれ桜はいまだ盛りではないだろうか、との予想から、会社の花見は本日27日に設定をした。

夕刻にその庭に足を踏み入れてみれば毎年の例と違わず、今の時期のしだれ桜は良い塩梅に花弁を開いていた。このしだれ桜を間近に臨む座敷にて、社員たちと花見をする。

花見はまた新入社員歓迎会と永年勤続表彰の会を兼ねる。今春の新入社員はテツカサヤカさん。そして販売係シバタミツエさん、製造係タカハシアキヒコ君には勤続十年の表彰を、同じく製造係アオキフミオさんには勤続三十年の表彰をする。

シバタミツエさんの、今市高等学校の制服を着ていた姿は今でも目に浮かぶ。一昨年からは包装係からの配置転換を受けて力を発揮してくれている。タカハシアキヒコ君とは彼の入社前に、東京でマネジメントゲームの研修に参加をした。地味な作業に倦まず勤めてくれて有り難い。アオキフミオさんはよくこの30年を共に歩んでくれた。これからも堅い仕事を続けていって欲しい

庭への窓を開け放っても寒さは一向に感じない。季節は確かに春から初夏へと移りつつある。明後日からの連休に勢いを以て望めることを嬉しく思う。


朝飯 玉子の雑炊、浅蜊の佃煮、すぐき、梅干し、じゃこ

昼飯 「大貫屋」のキムチタンメン

晩飯 4種の野菜のサラダ(らっきょうドレッシングまたはだんらんドレッシング)、カキ菜のたまり浅漬けチジミ鰹のたたき(にんにくのたまり漬としょうがのたまり漬風味)、ジンギスカンかんぴょうのたまり炊としいたけのたまり炊を散らした五目寿司日光味噌梅太郎白味噌による豚汁鏡餅を乾燥させて作った揚げ煎餅(ジョーイチ醤油味)、いちごババロア、「軸屋酒造」の芋焼酎「紫尾の露」(お湯割り)


 2011.0426(火) 昼食当番

地震の後しばらくは家と会社から離れなかったような気がする。それがヴェトナム以降は頻繁に出かけている。きのうは青山、日本橋、神保町で、今日は次男の通う学校の昼食当番である。

絶対に遅刻はするなと家内に言われ、その言葉は頭に残っていたものの、学校へ行くべきは何時なのか、その肝心なところは忘れた。自由学園の男子部に着いたのは本鈴前の7時45分だった。そして親の控え室にはいまだ鍵がかかっていた。

当番長、副当番長が相次いで到着したところで僕も白衣に着替え、調理室に入って調理台その他を水拭きする。服装を整え待機すべき時刻は8時30分とのことだった。良く覚えておくことにしよう。

今日の献立は麻婆丼、春雨サラダ、ライチー、ほうじ茶、牛乳で、僕の担当は副菜の春雨サラダである。長葱、生姜、ニラ、にんにく、もやし、胡瓜などの下処理と洗浄を終え、胡瓜の千切りに入ったところで、僕のおぼつかない包丁さばきを懸念されたか、冷凍ライチーを袋から出して洗う役を当番長から言いつかる。

ライチーの洗浄と盛りつけを済ませると、サラダ用の野菜は栄養士の先生やお母さんたちにより綺麗に刻まれていた。茹で冷まされた春雨とそれらの野菜を混ぜるところから僕はまた副菜に復帰し、以降は炊きあがったご飯の、おひつへの盛りつけをする。

今日の当番は6名で、そこに栄養士の先生がひとり加わっている。肉や魚や卵が多く含まれたり、あるいは込み入った手順を要する献立ではなかったこともあり、11時30分ころには早くも片付けに入ることができた。

当番長や栄養士の先生は大変だろうが、僕のような者にとっては昼食当番は楽しい。そしてあっという間に終わる。生徒たちと共に羽仁吉一記念ホールで昼食を摂る。今日の昼食当番が生徒たちに紹介される。そして生徒たちによる壇上からの報告を聴く。

親の控え室を拭き掃除したところで時計を見ると13時30分だったから、今日の仕事は本当に早く終わった。仕事は早く終わったが北千住まで行ったら間引き運転により次の下り特急スペーシアの発車時刻は17:12だった。仕方なく16:00発の快速に乗り、いつもの1.5倍の時間を東武日光線に揺られて帰宅する。


朝飯 「江戸屋」の三陸わかめ蕎麦

昼飯 麻婆丼、春雨サラダ、ライチ、ほうじ茶、牛乳

晩飯 ポテトサラダ、鶏肉の味噌つけ焼き、こんにゃくのピリ辛炒め、冷や奴、麦焼酎「知心剣」(お湯割り)


 2011.0425(月) その後のガーベラ

「でっかいガーベラ、上げるよ」と今井アレクサンドルは今月8日、僕の目の前で50号のキャンバスにガーベラの絵を描いた。描き上げるなり今井は間近に迫った展覧会にこれを飾りたいと言い、僕はそれを了承した。

その展覧会「今井アレクサンドル展 - 針生一郎先生に捧ぐ」の会期は今月13日から27日までで、場所は南青山の新生堂画廊である。「いつ来られるか」との電話を今井からは何度か受けていたが、本日ようやくその機会を得ることができた。

今井の、今回の作品は暗い部屋にスポットライトを浴びて鮮やかに浮き上がっていた。そしてその部屋の外に掛けられた先日のガーベラを、改めてしげしげと見る。今回の展覧会は産経ニュースの取材を受けた。そのページがいつまで残るかは知らないが、とりあえずここにリンクを張っておく

昼食は今井と一緒に摂った。そして午後は日本橋から神保町へと移動をする。夜になってから錦華坂を上がり、甘木庵まで歩く


朝飯 たらこ、すぐき納豆、ハムエッグ、メシ、家で生の万能葱を加えた他社のフリーズドライ味噌汁

昼飯 "Le Cristallines"のあれこれ、グラスの赤ワイン

晩飯 「兵六」のあれこれ、芋焼酎(お湯割り)


 2011.0424(日) 露天風呂は蛸壺のように深かった

早起きを自認する僕でさえ「もうちょっとゆっくりしてろよ」と言いたくなるような時間に、同室のコモトリケー君とヨネイテツロー君の起き出す気配がする。

新館地下1階の風呂で入浴を済ませて戻ったらしい彼らは「メシ、7時10分前からだって言われたよな、もう行こうぜ」と今にもスリッパを履く勢いだが、現在時刻はいまだ6時30分である。

その時間を埋めるため、箒川沿いにある公営の露天風呂へ行くこととし、宿の下駄を履き街道から河岸への階段を降りる。1963年夏、4場所連続の休場から再起をかけた柏戸が療養に努めていたのが「和泉屋」で、柏戸はこの小さな露天風呂にも浸かり、9月場所の千秋楽に大鵬を破って全勝優勝を果たすことになる

朝食後はタシロさんを囲んで本館前で記念撮影をする。きのうの強雨にやむなくゴルフを中止した6名は快晴の空の下をゴルフ場へ向かって去った。残った6名はヤマモトタカアキ君のクルマの先導により自由学園の那須農場を訊ね、ここに勤務する後輩マノヒロユキ君としばし歓談をする

東京に戻る一行とは東北自動車道の上で別れた。宇都宮から日光宇都宮道路を北へ向かうにつれ、散り際の桜が満開から八分咲き、七分咲きと徐々に若くなっていく。そして10時すぎに帰社し、仕事に復帰する。


朝飯 「和泉屋」の朝食

昼飯 「玄蕎麦河童」の天丼

晩飯 トマトのオリーヴオイル和えベーコンと九条葱のスパゲティ"Chez Akabane"の杏仁豆腐"Comte Remy de Vallicourt Brut"


 2011.0423(土) 塩原温泉へ行く

14時52分、ホンダフィットに乗って会社を出る。大渡、船生、玉生、矢板を経由して塩原温泉を目指す。15時52分、出発して46キロを進んだところで「もみじ谷大吊橋」の文字が目に留まる。「こんなところにあったのか、見てみたかったんだよー」とハンドルを左に切り、坂を下ってひと気の無い駐車場でエンジンを止める。

「日本一の無補剛吊橋」と説明されても何のことやら分からない。料金所には大人300円との表示があった。これまでの雨がにわかに強くなる。「これはタダで渡れるかも」と考えつつ歩いて行くと、ちかくを掃除していた人が僕を認めて料金所に入った。「万事休す」と言ったら大げさだろうか。

傘をさし、ときおりは横なぐりに吹き付ける雨の中を、はじめは木の床を、しばらく行ったところでは遥か下に箒川の面を直視できるグレッジングの上を歩いて全長320メートルの橋を往復する。日光と同じくこのあたりでも、3月の震災後は一斉に観光客の姿が消えたらしい

大吊橋から20分を走って16時19分に塩原温泉の「和泉屋」に着く。ウチからの距離は52キロだった。「和泉屋」のあるじタシロヨシヒロさんは僕の自由学園における8年先輩であり、今日はここで、タイに駐在しているコモトリケー君の一時帰国に合わせた同窓会が開かれようとしている。

案内された部屋では、今日の雨にゴルフを中止せざるを得なかった参加者が麻雀をしていた。宴会までにはいまだ1時間以上もある。よって雀卓の4人を残し、この旅館の案内をタシロさんにしていただく。

御用邸のあったところから大正天皇もたびたび訪れた塩原温泉福渡地区には、箒川沿いに本館、街道を挟んで山側に水害対策の新館を設けた旅館が多い。「和泉屋」は文人墨客に愛された宿で、その資料的価値は極めて高い

新館から、昭和24年の大火によりその木造部分が失われ、GHQの命により以前よりも規模を縮小して再建せざるを得なかった本館へ移動をする。長谷川伸が専ら愛用した西端の部屋「まぶた」そこから長い廊下を隔てて東端に位置する山岡荘八の部屋「竜胆」、むかしは文士劇にも用いられ、長谷川伸の文字を金糸で刺繍した緞帳を持つ「和泉屋劇場」とも呼ばれた大広間、文士作家たちの揮毫色紙を集めた部屋などを、タシロさんの説明と共に巡る。

あの「姿三四郎」は、富田常雄がこの旅館に1ヶ月の無料逗留をした後の作品で、富田はこの一作によって大流行作家となったこと、戦時中の著作の傾向から戦後に公職を追放された山岡荘八はどの出版社からも忌避され、「徳川家康」ははじめ北海道新聞から1年間を限りとして連載を許可された小説だったなど、この旅館に関係する逸話は尽きない。

宴会まであと10分という時間に、先ほどの大広間直下の温泉に浸かる。参加者12名による宴会の話題は一に「現在、自分の飲んでいる薬について」、二に「親の葬式について」というものだった。旅館内のカフェに移動しての二次会はカラオケ大会になったがまた卓球に興じる者もいた

僕は多分、0時すこし前には就寝したように記憶する。


朝飯 カキ菜のソテー、冷や奴、たらこ、すぐき納豆、メシ、豆腐とワカメと万能葱の味噌汁

昼飯 すぐき、釘煮、たらこによるお茶漬け

晩飯 「和泉屋」のあれこれ、麦焼酎「いいちこ」(お湯割り)


 2011.0422(金) 饅頭と牛乳

「東北地方の親戚に漬物を送ってやりたい」「東北地方の友だちから『たまり漬を送ってくれ』と頼まれた」という需要が少なくない。東北地方の宅急便は徐々に復旧してきた。とはいえクール宅急便だけはいまだに無理、というところもある。

当該の地域あてのご注文はとりあえずお受けしておき、後は毎日ヤマトのウェブペイジを調べるとか、その地域に最もちかいコールセンターに電話をして現状を訊くとかして、取り扱いが可能になり次第即、その日に蔵出しされたもっとも新しい商品を出荷している。

そして今般は、そのようなご注文を以前にくださり、ようやく商品をお送りすることのできたお客様のひとりに「お世話になりましたねぇ」と「武平まんじゅう」をいただいてしまった。当方としては当たり前のことをしているだけのことだが、饅頭は有り難くいただく。「武平まんじゅう」はお茶はもちろん、牛乳と合わせてもまた美味い

夕刻より洋食の「コスモス」へ行き、人の話を聴いたり自分が話をしたり、あるいは生ハムを食べたりする


朝飯 スペイン風目玉焼き、すぐき納豆、肉味噌、白菜キムチ、メシ、揚げ湯波とカキ菜の味噌汁

昼飯 カレーライス、らっきょうのたまり漬

晩飯 「レストランコスモス」のあれこれ、"GOURMET MEAT WORLD"による生ハム、2種のワイン


 2011.0421(木) 特急スペーシア期限付き全車復活

復旧したとはいえ1日に6往復のみだった東武日光線の特急スぺーシアは、数日前よりその運行数をすこし増やした。そして先日は車内放送では聞いたが、今朝は下今市駅の掲示板で確認したから「これは間違いない」とそれをデジタルカメラに収め、9:35発の上りの車内から以下のツイートを飛ばす。

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「4月29日(金・祝)から5月8日(日)までのゴールデンウィーク期間中は、特急スペーシア(1日20往復)、特急りょうもう、JR線直通特急(1日4往復)を全車運転いたします」…東武鉄道の広報より…皆さん、春爛漫の日光・鬼怒川へ、ぜひ来てください! #nikko #tochigi
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「どこそこで何時から、これこれの仕事がある」というときに電車が間引きされていると、遅刻するわけにはいかないから随分と早い時間に出かけ、どこかで他のことをする必要が生じたりする。

水道橋でMG、TOC、ウェブショッピングに関係する研修に参加し夕刻からはその研修の交流会にまたまた参加をする。そして北千住におけるカウンター活動はせず、22時前に帰宅をする。


朝飯 納豆、メシ、きのうの仕出し弁当の天ぷらを入れた味噌汁

昼飯 「肉そば玄丸」のつけ豚そば

晩飯 「てぃーだ」のあれこれ、泡盛(お湯割り)


 2011.0420(水) 青いクルマ、紅い桜

ヴィンティッジ期のブガッティは多く、カムシャフトからベベルギアで取り出した動力により駆動される小さなエアポンプをエンジンの前端上部に持つ。このポンプがガソリンタンクに空気を送り、その圧力を以てタンク内のガソリンはエンジンへと送られる。

昨年末の「阪納誠一メモリアル走行会」において、「ツインリンクもてぎ」のレッカー車に世話になってしまった原因のひとつは、タンクからエンジンまでガソリンを送るパイプの途中に設けられたバルブの不調にあった。このバルブの新品への交換は済んだが、もうひとつの懸念材料は老朽化したガソリンタンクだった。タンクに空気漏れがあればガソリンの、エンジンへの圧送に不都合が生じる。

"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんは主に重量の点から、タンクはアルミニウムで新造すべしと言っていた。それを「またまた錆びるのはイヤだ」と、タンクの素材はステンレスにするよう僕は主張した。

その、ステンレスによるガソリンタンクが完成したので見に来て欲しいと朝、タシロさんから電話が入る。タシロさんの工房へ行くと、新しいガソリンタンクは鈍い光を放ちながら既にフレームに載せられていた。今年の暮れが楽しみである

隠居にある3本の桜はいまだ満開を迎えていない。古い木造家屋の戸を開け放ち、19時30分より「第215回本酒会」を行う


朝飯 卵焼き、雪菜の酢の物、明太子、すぐき納豆、メシ、豆腐と揚げ湯波と万能ネギの味噌汁

昼飯 「ふじや」の味噌ラーメン

晩飯 カキ菜のたまり浅漬けチジミ鶏レヴァのひしお和え「河内屋」の仕出し弁当、5種の日本酒(冷や)


 2011.0419(火) 途中下車

"Computer Lib"で1日半かかるだろうと考えていた仕事は、きのう1日で終えてしまった。よって今日の"Computer Lib"では、次の仕事の段取りをする。昼前に、13時30分に訪ねることにしていた次の仕事先に電話を入れ、その予定を30分前倒ししても構わないかと訊き、快諾を得る。

乗っても支障のない急行には、それがとんでもないところまで直通で行ってしまうことを恐れて乗らず、次の乗換駅で快速に乗れば、こちらは新中川と江戸川を渡った先で目的の駅を通過してしまったから、次の停車駅から普通に乗って戻る。

本日2番目の仕事先でも打合せと話し合いはサクサクと進み、本日の業務は14時30分にして終了した。ふたたび電車に乗って昼飯のため立石で途中下車する。そして押上を経由して浅草に至る。16:00発の下り特急スペーシアは間引きされていた。

浅草で1時間強を本読みに充て、「今度こそ」の17:00発の下りに乗る。そして約100分後に下今市駅に着く。日は随分と延びて、空にはいまだ夕刻の色があった。


朝飯 「小諸蕎麦」のかき揚げ蕎麦、ライス

昼飯 「宇ち多」のあれこれ×6皿、焼酎(甘いの入れないで)×3

晩飯 "Flying Garden"のグリーンサラダ、ハンバーグ乗せスパティ、カラフの赤ワイン


 2011.0418(月) 春宵値千金

きのう下今市駅まで来て特急スペーシアの運行表を調べたら、7:04発の始発が復旧していた。よって直ぐに特急券を買い、今朝はその始発に乗った。千代田線は北千住から町谷のあいだで4回も停車し、半蔵門線も大手町と神保町のあいだで1回停まった。何がどうなっているのかは分からない。

そういう次第にて"Computer Lib"にはいつもより10分ほど遅れて入る。そして懸案の仕事を夕刻までに済ます。

タイから日本に一時帰国している同級生コモトリケー君とは、17時15分に岩波ビルの下で待ち合わせた。「先週末、熱海に行ってたから刺身と焼酎は食傷気味でよ、日本酒が飲みてー」という言葉に応えてタクシーに乗り、聖橋を渡って湯島天神へ行く。境内を突っ切り女坂を下れば「シンスケ」は目と鼻の先だ

この季節の「シンスケ」では、僕は「タルのお燗」を飲む。コノワタの残る舌を燗酒で洗ったコモトリ君は感に堪えたように「ウーン、美味い」と大音声を発する。「もうそろそろお終い」という槍烏賊煮は、その胴の中に半透明の卵をみっちり持っていた。

ふたたび女坂を上がり、そして男坂を下ってと、そういう子供じみたことはしない、普通に平らな道を歩いて男坂下の「すいせん」に回る。先客は初対面の我々に会釈をするような腰の低いオジサンひとりだった。話をするうち、そのオジサンは2月からこの店に預けてあるという自著に名を記して僕とコモトリ君にくれた

春宵値千金。御徒町から電車に乗るコモトリ君とは天神下の交差点で別れた。そして切通坂をゆっくりと上がって甘木庵に戻る。


朝飯 2種のホットドッグ、コーヒー

昼飯 「万花衣」の中華風メンチカツ弁当、味噌汁

晩飯 「シンスケ」のあれこれ、タルのお燗、「すいせん」のあれこれ、赤ワイン


 2011.0417(日) 桜三様

きのう、おばあちゃんの応接間から味噌蔵ちかくの染井吉野を眺めると、それは一昨日とくらべて随分とその花を開かせていた。よって今朝は思い立って、その下へ行ってみる。そして「これは何分咲きくらいだろうか」と考えて、しかし僕には分からない

おなじ土地の、味噌蔵と隠居所のあいだを抜けて南側に回ると、先ほど染井吉野を見た目には鮮やかすぎる、しだれ桜の紅い花があった。そしてそこからすこし離れたところの山桜は高く、そして白い

きのうに続いて今日の夕刻もまた、酒を抜くことをツイートする。ある食べ物がある。それを米のメシと合わせればおかずになり、酒と合わせれば酒肴になる。そしてこの場合の「ある食べ物」のほとんどは、酒と合わせるよりも米のメシと合わせる方が美味いということを、きのうに引きつづきよくよく知る。


朝飯 "TOD's Bakery"のドーナツ、コーヒー、イチゴ

昼飯 「玄蕎麦河童」の季節の天ぷら盛り蕎麦(大盛り)

晩飯 蒲鉾、小鯵の南蛮漬け、茄子と赤ピーマンの味噌炒り、ほうれん草の胡麻和え、鶏の網焼き、らっきょうのたまり漬、メシ


 2011.0416(土) 魔力

コンピュータを遡ってみると、2002年6月から毎日の血圧と断酒した日が記録されている。会社の健康診断であれこれ不具合を指摘され、対策のため訪れた病院で「1週間に7日も酒を飲むなんて、あなた立派なアル中ですよ」と医師に言われたことがその発端になっている。

アル中と言われては片腹痛いから、以降は週に2日すなわち月に8日の断酒日を遵守してきた。このノルマのほころび始めたのが昨年8月で、これは一に酒を好む僕の性向、二に「お酒やたばこをどうしようが、その人のあれこれはとうの昔に神様が決めている」との、家内のことばによる。

自分を自由自在に律することと、規則に隷属することのどちらが難しいかといえば、それは前者だ。自由自在ほど難しいことはない。人の寿命を神様が決めているなら、自らを律する力も神様に与えられているわけで、そういう力のある人は健康的な生活を自らに課し、その果実として長寿を得るかといえばそうでもない。

そうでもないがたまには断酒もしないと神経の座りが悪い。よって夕刻に今夜の断酒を"twitter"で宣言し、それを実行する。何度も書いて馬鹿のようだが日光市塩野室地区の米によるメシは酒よりも遥かに美味い。だったらなぜ米を食べずに酒を飲むか、それが酒の持つ魔力である。


朝飯 玉子と椎茸と長葱の雑炊、すぐき、明太子、梅干し

昼飯 味噌ラーメン

晩飯 胡瓜とレタスとわかめのサラダ、かまぼこ、おから、筍の土佐煮、ハンバーグステーキ、メシ


 2011.0415(金) 明窓浄机

名言、箴言、説教。まぁ説教はないだろうが、そういうたぐいのツイートばかりをする人は多い。今日目にしたのは「整理とは棄てること、整頓とは整えて置くこと」というものだった。整理整頓、明窓浄机は僕の永遠のテーマだ。

「整理とは…」のツイートを見たから、というわけでもないが本日、思い立って事務机の整理整頓をする。整理整頓ができないとは、先のツイートに照らせば先ず棄てることができない、ということだ。

「10年以上も日記を書き続けて、大したものですね」と褒めてくれる人がいる。僕は日記は書けるが年賀状は書けない。「この年賀状にはさすがに返事を書かなきゃなぁ」というものだけを選んで輪ゴムで束ね、それと同数の返信用の年賀葉書もまた輪ゴムで束ねて正月から机上にある。この、返事を書くために残した年賀状の束を先ず棄てる。

オヤジや妹や、僕が幼稚園に上がる前に亡くなった叔父の戒名の横に「右御祠堂法要を同日午前十一時からお勤め致しますのでお参りの上ご焼香下さいます様ご案内申し上げます」と書かれた知恩院からの数葉も棄てる。京都へは行きたくても中々行けない。

読まなければならないと取り置くうち高く積もった業界紙や専門誌は、読めるものはパラパラと開き、すぐに読めないものは別の場所に移す。「掃除とはすなわちゴミの移動である」と喝破した人がいた。世の中には頭の良い人がいるものだ。

お客様の要望によりこれから作ろうと考えている商品のメモについては、その内容を手帳の"to do"に転記する。瓦屋根の修理の見積もりは「見積書」というファイルに綴じ、1月に届いた"Classic Car Club of Japan"の会報は第一級の史料としてとりあえず戸棚にしまう。

電池の切れたらしい"BOSE"のリモコン2台は「三栄無線でボタン電池、早く買わなきゃ」と考えながら引き出しに格納する。朝鮮人参の錠剤もおなじく引き出しに収める。分厚い本3冊は「あと3日もすれば片付けられる」と、そのまま机上に残す。

ここまで来ればあとは帳票の数枚で、これもその内容をコンピュータに入れたりファイルに収めたり、あるいは棄てたりすれば綺麗さっぱりするだろう。

机上が汚いとは、未処理の仕事が多い、ということでもある。問題は、この状態をどれほど保てるか、というところにある。せいぜい頑張ってみよう。


朝飯 きのうのカレー南蛮鍋の残りのぶっかけメシ、サラダ菜、イチゴ

昼飯 「ふじや」の餃子定食

晩飯 「和光」の突き出しの身欠き鰊と筍の炊き物釜揚げ蛍烏賊レヴァ焼き、麦焼酎「吉四六」(お湯割り)


 2011.0414(木) 地震と瓦屋根

瓦屋根のてっぺんにレンガのように重ねられる瓦を熨斗瓦という。熨斗瓦があると屋根の見た目はグッと増す。ところが今般の地震では、この熨斗瓦から屋根の崩落の始まっている例が多い。そしてウチもまた例外ではなかった

今回の修理に際しては熨斗瓦は廃してしまおうというのが瓦屋さんの意見で、僕は玄人の言うことは尊重する質だから、一も二もなく賛成をした。そして工場の屋根のてっぺんは、これまでの重厚なものから軽便なものに変わった。見た目の重みは減じられたがまぁ、仕方がない

屋根の修理について、地震の直後には「瓦はやめてステンレスで葺いてしまおうか」とか「どうせなら太陽光発電装置を設置しようか」とかいろいろ迷いもあった。しかし店舗や味噌蔵とのデザインの統一性また経費を勘案し、以前とおなじ瓦で修理するのが順当と決めた

現在の店舗と工場を建設する以前のウチの屋根は、その大部分がトタンにアスファルトを塗ったものだった。おじいちゃんに訊く機会はなかったが、これは1949年12月26日に起きた今市地震による瓦屋根の崩壊を機に、そうしたものかも知れない。

地震の影響により次男の通う学校の始業式は延びた。そしてようやく明日が帰寮日である。そう言う次第にて今日の昼飯と晩飯は次男の希望を容れたものになった。


朝飯 鶏挽肉のおむすび、焼き海苔、豆腐とシメジと長葱の味噌汁

昼飯 「びしゃもん」の焼きうどん

晩飯 カレー南蛮鍋「久埜」の草餅、麦焼酎「知心剣」(お湯割り)


 2011.0413(水) 日光みそのたまり漬を使ったレシピ

宣伝媒体「日光みそのたまり漬を使ったレシピ其の五」の在庫が少なくなったと、販売係のハセガワタツヤ君に言われたのは、今年のいまだ寒いころのことだった

味噌、ひしお、たまり漬を素材にした料理の画像は数年前に数十点を撮り、その在庫が尽きてからは僕の素人写真を用いてきた。しかし僕の写真ではいかにも見栄えがしない。よってここしばらくは撮影に備えて新しいレシピを考え、その数を積み上げてきた。

このあたりが僕の駄目なところだが、いよいよ撮影の日時を決めなくては夏のダイレクトメールに遅れると腹を括ったのは、先月29日朝のことだ。成田空港でベトナム航空のボーディングが始まる直前になってようやく、数ヶ月前に満足のいく商品写真を撮ってくれたスタジオに電話を入れ、予算や撮影の日時につき慌ただしく打合せをした

その撮影日がすなわち今日で、事務室に特設の撮影場所を設け、料理は事務室奥の研究開発室で家内が20数点を作る。撮影を終えた料理は社員の休憩所へ運んで腹に余裕のある者に食べてもらい、また退社時に持ち帰ってもらう。そして更にその余りを夕食のおかずにする。


朝飯 ゆで玉子、小松菜のソテー、すぐき入り納豆、白菜キムチ、メシ、雪菜の味噌汁

昼飯 "COCO'S"のコンボランチ

晩飯 らっきょうのたまり漬のドレッシングによる3種の野菜のサラダ、他たまり漬、日光味噌、ひしおを素材としたあれこれ、"ACOOL"のクレームカラメル「銀嶺立山」(冷や)、"Macallan 12 Years old"(生)


 2011.0412(火) 専用栓

工場の瓦屋根を修理している屋根屋さんの話によれば、3月の大地震では、ウチのあたりの地面は東南東と西北西の方向で水平に揺れたという。その方向に破風を向けた屋根の瓦だけが落ちている、というのがその意見の根拠だ。地震の起きたその時にも屋根に上がっていた人の言うことだから信憑性は高い。

話の規模をずっと小さくして、2階のワイン蔵に目を向ければ、この中でワインは東南東と西北西に頭と尻を向けて並んでいる。ワイン蔵の中で棚が倒れなかったのは、向かい合った棚と棚の間に別の棚がつっかい棒のように連結されていたお陰である。

それでもワインの並べられた向きからすれば多くのワインが破損しても不思議ではなかったが、棚から落ちたのは1本だけで、しかも床は木の簀の子だから割れずに済んだ。

昨夕の、3月11日以来の大揺れの後にはエレベーターを使わず4階へ上がり、お供えの水やお茶がこぼれて、これまた3月11日以来はじめて水に濡れた仏壇の拭き掃除をした。そして今夕はワイン蔵へ入り、飛び出し気味のすべてのボトルを棚の奧へと押し込んだ。そしてふと、床に置かれた、飲みさしの"Cono Sur Sparkling Brut"に気づく。

今夜のメシはスパゲティだけで簡単に済ますと聞いていたので、この緑色の瓶を4階の居間へ運ぶ。そして栓を外した瞬間の、ブオッシュという大きな音に驚かされる。飲みさしのスパークリングワインに、瓶の中の二酸化炭素を吸い出してしまうバキュバンは役立たない。

今回のオレンジ色の専用栓は、瓶の中の二酸化炭素をよくもまぁ閉じ込めておいたものだと感心し、日記を検索して、これが2ヶ月近く前の、2月18日の飲みさしと知ってまたまた感心をする。


朝飯 ソーセージとピーマンのソテー、トマトのスクランブルドエッグ、白菜キムチ、すぐき入り納豆、メシ、揚げ湯波と三つ葉の味噌汁

昼飯 "Parrot"のチキンソテー、ライス、豆腐とワカメの味噌汁

晩飯 トマトとベーコンのスパゲティパン"Cono Sur Sparkling Brut"


 2011.0411(月) このままフワーッと

何日かに1度は工場の、修理中の屋根に上がって状況を見る。今の足場はむかしのそれと違って階段はおろか転落防止用の壁まであるから、素人でも地上十数メートルのところまで簡単に行ける

工場の屋根瓦は1万4千枚を超えるが、このたびの修理で交換するのは800枚ほどだ。無事だった瓦は引きつづき使う。瓦を敷けば見えなくなってしまう防水シートには「製造年月日:2011.02.01」とある。屋根用の資材は現在、市場から払底している。しかしウチは偶然にも震災の10日ほど前から屋根の修理をしていたため、必要なものはほとんど揃えることができた

夕刻に、3月11日の大地震を思い出させるような揺れがある。春の例大祭の、町内における直会のため18時30分に町内公民館へ行く。公民館の壁にぐるりと巡らせた数々の表彰状や歴代自治会長の写真は、先般の地震により斜めになったり落ちかけたりした。それをまっすぐに直したものが、今日の地震によりふたたび斜めになったり落ちかけたりしている。

宴会の最中にも大小の余震は収まらない。

「酒とつまみ持って、もう解散すっぺよー」
「ヘーキだー、ここは2階だから、おっちゃぶれたとしても、このままフワーッと地面に落っこちるだけだー」
「学者でもねぇ人の意見、信じていいんすか? テレビに出てる学者の言うことも、ここんとこ毎日コロコロ変わるっつーのに」

などと軽口を叩きながら、結局は90分も酒を飲んでいる

いよいよ片付けの段になって僕は、この直会に欠席した人の家に助六寿司と缶ビールのセットを届ける役を申し出る。風の強い夜の街を歩きながら、ときどきゴトゴトガタガタゴーッと音の聞こえるのは多分、こちらは歩いているから気づかないが、また余震が起きているのだろう。

帰宅して入浴し、早々に就寝する。


朝飯 スクランブルドエッグ、茹でたハム、レタス、チーズパン、パンケーキ、チーズ、コーヒー、イチゴ

昼飯 「やぶ定」のカレー南蛮蕎麦

晩飯 春日町1丁目大膳の用意したあれこれ、日本酒(燗)


 2011.0410(日) ヴェトナムの小遣い帳

ヴェトナムで使ったドンの総計は728万1千ドン。邦貨にして29,124円。そのうち最も大きな割合を占めたのが食事や水で約380万ドン。次は土産の200万ドン。タクシーなどの交通に意外や100万ドンを費やし、博物館の入館料などに49万ドン。あちらこちらでのティップが14万ドン、クリーニングは4万ドンだった。

小遣い帳の最終行を見れば、計算上の残高より現金の方が30万2千ドンも多い。これはまぁ「雑踏で立ったまま」とか「酔った状態で」とか「ボーディングが始まったというアナウンスを聞きながら」行った記帳時のミスによるものだろう。

ドン以外で使ったのは米ドルの138ドルで、そのうち95ドルは"Riverside Hotel Saigon"における部屋のアップグレードとレイトチェックアウトに役立てた。

"Majestic Hotel"最上階の"Breeze Sky Bar"のディナーブッフェはカードで支払ったが、2人で邦貨6,000円くらいのものだった。ヴェトナムで食うメシとしては高いが、あの雰囲気とハウスワインの飲み放題、それと後に残る思い出を考えれば「行かなきゃ損」と言っても良いくらいに安い。

小遣い帳は日記ほどに物を言う。そして過去を遡ってみれば、現地でガイドの付く旅行では、僕は小遣い帳をつけていない。個人で歩くときこそ記録を残そうとする意識が働くのだろう


朝飯 納豆、トマトとレタスとツナのサラダ、豆腐の卵とじ、メシ、揚げ湯波と水菜の味噌汁

昼飯 カレーライス、らっきょうのたまり漬

晩飯 トマト鍋、パセリ、イタリアンパセリ牛肉、マルタイラーメン、チーズパン、"Cono Sur Merlot 2008"


 2011.0409(土) 大祭

本日は「瀧尾神社」春の例大祭により、責任役員として神社へ行く。大祭には渡御の行列が付きもので、しかし今年は先の大震災により、警察官が他県へ派遣され手薄になる可能性があった。交通整理の計画が盤石でなければ行列は組織しづらい。

そういう経緯があって、今年の大祭は行列を廃し、宮司、金棒引き、稚児などはバスで旧市街を巡行することになった。渡御の行列には責任役員の半数も付き添う決まりがあり、僕もバスに乗り込む。

神事を済ませた一行は10時の定刻に少し遅れて神社を出発した。春日一、春日二、住吉、相生、朝日、川原、大谷向、清住、東郷、小倉三、二宮、東、小倉五、小倉一二、小倉四、桜木、平、仲の18町内を巡ると時刻は14時30分になっていた。

15時も近づいての直会は当番町小倉一二町目の「ホテルつたや」で開かれた。会社の方にも用事があったため、一連の儀式が完了したところで周囲に挨拶をし、直会を中座する

長男と次男の揃った環境で食事をしたいとは、オフクロが前々から言っていたことだ。僕に呼ばれた長男は本日午後に仕事先から帰宅した。同時に家にいることのほとんどない5人で19時より"Finbec Naoto"へ行く。そして上出来のあれこれにてワインを飲む。

上りの特急スペーシアは現在、1日に6本しか走っていない。長男は21時発の快速で東京を目指した。駅員によれば新栃木で乗り換えて23:10に北千住着とのことだから、これは大して遅い列車ではない。そして「不自由を常と思えば不足なし」という家康の遺訓を思い出し、腹の中で苦笑いをする。


朝飯 白菜キムチ、納豆、トマトとキャベツのサラダ、ハムエッグ、メシ、揚げ湯波と水菜の味噌汁

昼飯 稲荷寿司、ウーロン茶

晩飯 "Finbec Naoto"の赤ピーマンのムース、魚介類のサラダ、フォアグラのフラン、牛頬肉のやわらか煮、ブラックチェリーのタルト、コーヒー、"Lefraive"にしては驚くほど安い白ワイン、赤のグラスワイン


 2011.0408(金) でっかいガーベラ

「でっかいガーベラ、上げるよ」とは、先月11日の地震で工場の瓦屋根が壊れ、総面積265坪の、その屋根の下地から修理しなければならなくなったとボヤいた僕に、今井アレクサンドルがかけてくれた言葉だ。

東武日光線の上り特急スペーシアは、いまだ1日に6本のみの間引き運転だから、東京方面へはなかなか行きづらい。よって7日の明日館行きを利用して、横浜にある今井のアトリエを訪ねることにした。

"iPhone"の地図を頼りに大佛次郎記念館や外人墓地ちかくの坂道を辿る。長袖のシャツは脱ぎ捨てザックへ入れた。曲がりくねった細い道を歩くうち「ウワサワさん、こっち」と呼ぶ声がする。見上げると、アトリエの窓から半身を乗り出した今井の姿があった。

「ウワサワさん、100号にしようか」「いや100号じゃ、縦横比はちがうけど、ほとんどタタミ1枚くらいありますよ」というような話をしながら坂を下り、みなとみらい線で日本大通りへ。そこから横浜スタジアムの脇を抜け、どこかの役所の中を突っ切って「絵具屋三吉」へ行く。キャンバスは結局50号のものにした。それでもこれをタクシーの後席に載せたら前は何も見えなくなった。

今井の絵を描く速度は高い。しかしそれは軽々としたものではない。今井の絵を描く行為に立ち会って、僕の脳は酸素欠乏を起こした。からだも疲れてフラフラになった。画材屋への行ったり来たりを繰り返して昼飯を抜いたことがその原因とは思えない。

今井は50号のガーベラをいたく気に入り、4月13日から27日まで南青山の新生堂画廊で開かれる「今井アレクサンドル展 - 針生一郎先生に捧ぐ」に出品しても構わないかと僕に訊いた。異存のあるわけがない。

今井のアトリエからの帰り際には「これ、上げるよ」「これも持ってってよ」と大盤振る舞いを受けて、いつも大荷物になる。今井は僕を、横浜中華街の駅まで送ってくれた。

節電により、夕刻の駅名の看板は見えづらい。おまけに当方は島津法樹の本を読んでいて、これも乗り越しへの危険な要因になっている。JRも私鉄も駅のエスカレーターは多く停止し、構内も薄暗い。もっとも、暗いとはいえ1970年代のマドリッドの地下鉄よりは格段に明るい。

北千住駅20:12発の、今のところはこれが最終の下り特急に乗る。デジタルカメラは持っていたが、今井が絵を描いているときには撮ることも忘れて見入っていたから、その記録はない


朝飯 「権米衛」の2種のおむすび、豚汁

晩飯 「加賀屋北千住店」のあれこれ、チューハイ


 2011.0407(木) 夜の桜

自由学園の正門を入って右へ進むと、涼しげな木立の中に、第二次世界大戦中に招集され、戦死した生徒の慰霊碑がある。慰霊碑の奧は草深い下り斜面になり、その先は男子部の校舎に続いている。

1972年、男子部への近道として、この慰霊碑奥の斜面に階段を造営したクラスがあった。自由学園は生徒が自分で考え自分で行動しようとする学校ということもあり、この階段については特に、教師側から否定されることもなかった。

その2年後、この近道について「朝の静かなときに、自らの遅刻を案ずる生徒が、こともあろうに慰霊碑の脇を駆け抜けるとはいかがなものか」と問題を提起し、この階段を元の斜面に戻したのが、同級生のスズキマサカズ君だ。スズキ君は長じて自由学園の教師になった。

そのスズキ君が今春を以て教師の職を勇退する。同級生としては、ささやかながらも慰労の会くらいは開いて上げたい。折良く明日館は桜の盛りだ。よって会場は自由学園の明日館と決まった。

夜、池袋の雑踏から暗く静かな小道に入って、その桜の下に立つ。「おぉ、満開だ」と思わず声を漏らしたら、いつの間にか隣にいた同級生が「散り始めていない桜は、まだ満開とは呼べないんだよ」と言った。本当だろうか。

とにかくマサカズ君の慰労会は暖かい雰囲気の中で数時間行われ、男子部賛歌と東天寮歌の斉唱でお開きになった。夜の桜が静かに咲いている。慰霊碑の一件については、マサカズ君はまったく覚えていなかった。スズキマサカズ君の前途を祝したい。


朝飯 玉子と三つ葉の雑炊、焼き海苔、烏賊の塩辛、白菜キムチ

昼飯 「糸屋」の鍋焼きうどん

晩飯 「自由学園明日館」のあれこれ、白ワイン


 2011.0406(水) 桜

「現在、厳しい状況にある方々をお慰めするためには、自分に何ができるだろう、もちろん個人に出来得る範囲の支援はしているが、その他に何かないだろうか、そうだ、これからはできるだけ、自分のメールマガジンやウェブログに桜の画像を載せていこう。実際に桜の元へ連れて行ってあげることはできないけれど、避難所などで偶然にも桜の画像を目にする機会があれば、それがすこしは元気の素になるのではないか」

という意味のメイルマガジンが、朝、メイラーを回すと、秋田県能代市の「天洋酒店」店主である浅野さんから届いていた。

僕の頭は浅野さんのそれのように柔らかくないから、そういうことは思いつきづらい。そしてしばらく浅野さんの文章を眺めるうち「そうだ、ウチにも桜に関係する商品があったではないか」と気づく。

早速その、桜模様の小風呂敷で包んだ贈答品「たまてばこ」の画像を撮る。そしてこの画像をウェブショップのトップに載せ、それを報せるメイルマガジンを書いて昼に発行する

一方、Yahoo!ショップでは先の震災以降、メイルマガジンの発行がシステム上できなくなっていた。だから被災地にお住まいのお客様にも、お見舞いのメイルをお送りすることができなかった。それが本日より復旧したので、保存しておいたお見舞い状をお送りしようとしたところ、東北地方あてのメイルマガジンのみ発行できないように制御してあった。Yahoo!にはYahoo!なりの考えがあるのだろう。

よってお見舞い状のお送りは諦め、こちらも保存してあった新商品のお知らせのみを、予定から2週間後の本日に発行予約する。

ところでホーチミンシティでは、初日の晩に山羊鍋屋でボトル買いしたウォッカハノイの残りをペットボトルに移し、その4日後にはベンタイン市場近くのコンビニエンスストア"SHOP & GO"で買って屋台で飲んだウォッカハノイの残りをまたペットボトルに保管した。そうして持ち帰ったこの強い酒を今夜は、ベトナム航空のスッチーにもらった機内用グラスで飲む。


朝飯 きのうのカレー南蛮鍋の残りによるぶっかけメシ豆腐と雪菜の味噌汁

昼飯 トマトとベーコンのスパゲティ

晩飯 春雨サラダ麻婆豆腐「久埜」の草餅"Chez Akabane"の杏仁豆腐ウォッカハノイ(生)


 2011.0405(火) 低カロリーの健康食

先般の地震により、部分的な修理では追いつかないほど壊れた工場の瓦屋根は、その後、順調に葺き替えの作業が続いている。しかしその工程においては、気になるところが次々と発見されている。きのうの午後に調べたところでは、幸いにも設計者はいまだ現役だった。よってここを糸口に連絡を試み、今日はその設計者と、施工者側の代表が来社する。

屋根の修理に当たっている業者も事務室に呼び、建築当時から残してある工場の設計図を見ながら、今後の方策についてあれこれ話す

気が急いて空回りをしてもいけないと思いながら、ヴェトナムにいるときも僕の心は落ち着かなかった。

「すこし痩せたんじゃないですか」と、きのうは販売係のシバタミツエさんに言われてしまった。瑞々しくも大量の香菜を手早くちぎりながら器に投入する式の豊かな食事を続けながら痩せるとは、一体全体どのようなわけなのだろう。あるいはヴェトナムのメシは、総じて低カロリーの健康食だったのだろうか。


朝飯 揚げ湯波と小松菜の炊き物、グリーンアスパラガスのソテー、トマトのスクランブルドエッグ、メシ、豆腐と揚げ湯波と万能葱の味噌汁

昼飯 炒飯

晩飯 カレー南蛮鍋、「ウォッカハノイ」(お湯割り)


 2011.0404(月) 視線

"Riverside Hotel"を出て右へ進み、ドンコイ通りに行き当たるすこし手前の舗道上には、夕方になると楽しそうにくゴム跳びをする小学生くらいの姉妹がいた。メシを食べて戻ってくると、その4人姉妹は路上に敷いた布の上で眠っていた。我々はこの3日のあいだずっと、彼女たちの姿を決まって同じ場所に見た。彼女たちに屈託がないのは、路上での暮らしが彼女たちの日常になってしまっているからに他ならない。

ベンタイン市場の外縁西奧にある貝屋台"QUAN OC VAN"で支払いを済ませると、両脚のない乞食が僕の足元にいた。アジアを更に南下しなければ、あるいは中華人民共和国の大都市にでも行かなければ、今や遭遇しづらい風景である。

「何でも見てやろう」のどこかで小田実は「これから私は行く先々の、最高と最低を見てやろうと考えている」というようなことを書いていた。旅人には所詮、というか多くの場合、人は最高も最低も見られないと、僕は思う。10年も路上で暮らしたり、両脚を失った姿で乞食をしてみなければ、彼らの見ているものを見ることはできない。

ベトナム航空950便は、出発時刻を40分過ぎた0時45分になっても空港ビルの近くを離れない。荷物室の、跳ね上げられたままの大きなドアが、機窓のすぐ外に見える。機内のアナウンスは先ほどから、いまだ機に乗り込んでいない日本人ふたりの名を挙げ、現在空港内を捜索中と伝えている。

下の方で怒号が飛び交っているのは、この、乗り遅れた乗客の荷物を荷室に探している人たちのものだろうか。チェックインをしながらボーディングをしなかった客の荷物は、安全対策上、機外へ出す決まりになっているのかも知れない。

予定からほとんど1時間遅れで機はようやく離陸をした。半袖シャツのままの僕は生まれて初めて飛行機の中で毛布を使った。そして3時間も眠ったら、頭はもう覚醒していた。機内食をすこしばかり食べ、着陸までに「サイゴンのいちばん長い日」を読み終える


朝飯 "VN950"の機内食(パンは断って、飲物はまだ届いていない)

昼飯 「ねもと」の鶏つけ蕎麦

晩飯 ハムとグリーンアスパラガスのサラダ、鶏挽肉と野菜の甘辛煮、肉豆腐、湯波と小松菜の炊き物、厚焼き玉子、"Vodka Hanoi"(お湯割り)


 2011.0403(日) バトー・ムーシュ

サイゴン川対岸の薄曇りの空に、今日も鈍く朝日が上がる。ヴェトナムへ来る前に次男が特に食べたいと言っていたものは、きのうのホビロンと、もうひとつはバインミーだった。フーコック島の朝飯はバゲットサンドで、あれはバインミーではない。ホーチミンシティでバインミーといえば、何と言ってもきのうの夜、市場から帰る道すがらに見つけた"NHU LAN"だろう。

ホテルで朝飯を食べれば、その料金は宿泊料に含まれるけれど、我々に残された時間はすくない。よってホテルの、フランス風の階段を下って外に出る

"NHU LAN"は喫茶店というよりも、フランスにおける"FOCHION"のような、イタリアにおける"PECK"のような店だ。エトワールが作る三角形の角店で、その規模はかなり大きい。案内された席にはメニュもあったが、細かいヴェトナム語に、更に小さな英文による説明は、僕の近視遠視乱視の入り交じった目にはもはや読みづらい。

次男は店舗に向かって右の外にあるシシカバブの売場へ行き、そこでシシカバブのバインミーを作ってもらってきた。僕はハムエッグのバインミーを食べたいものだと考え、メニュの"BANH MI TRUNG OP LA JAMBON"がそれではないかと見当をつけた。そして中年男の店員に「ジャンボン」とだけ伝えると「それならあそこで作っている」と、僕の席のすぐ後ろのオネーサンを指す。

オネーサンは確かにハムのバインミーを作っていたが、ハムエッグはどこか他のところで焼くのだろう。「みんな忙しいし、玉子なしでもいいかぁ」と、そのオネーサンからハムのバインミーをもらう。

ハムのバインミーとはいえバインミーのことだから、パンの中にはパテが塗られ、2種のハム、大根と人参のなます、生の胡瓜と玉葱が詰められていた。これをテーブルへ運び、パックリ開いて机上のヌオックマムを振りかける。そしてひとくちかぶりついてモグモグと噛むなり「こんな店が日本にもあったらなぁ」と思う。

次男の飲物はいつも決まって氷入りのアイスミルクコーヒー"CAFE SUA DA"でも、僕はコーヒーは熱い方が好みだ。ちかくにいたウェイトレスに「CAFE SUA…」まで言って「熱い」の意味のヴェトナム語が出てこない。苦し紛れに「カフェスアホット」と口走ったら、彼女は「カフェスアホット」と繰り返して愉快そうに笑った。ミルク入りの熱いコーヒーは、正確には"CAFE SUA NONG"である。

僕の日記を資料的に使う人がいるかも知れない。"NHU LAN"のメニュの表裏にリンクを張っておく。それほど縮めていないからすこし重い。「食べ物の部」「飲物の部」

今日の目的はお土産の購入と荷造りだ。それだけに1日を割くのは贅沢な気もするが、旅のスケデュールは過密を避けたい。買い物を好まない僕も、留守番をしている社員のことを考えれば手ぶらでは帰りがたい。

ヴェトナムに着いた日に両替をした2万円分のドンはかなり減っていた。ドンコイ通りまで戻り、髭のオジサンの写真のある両替屋"59"で円をドンに換える。レートは空港よりもすこし落ち、1万円が248万ドンになった。

ドンコイ通りからであれば、国営百貨店へはいくらも歩かずに行ける。ここの2階や3階を歩いて手早く買い物を済ます。次男は段ボールにして1箱以上のインスタントフォーを手に入れた。早くも午前10時30分に買い物を完了し、気分が晴れ晴れとする。

汁麺や、あれこれ載せた飯やらを食べている地元の人を今朝、"NHU LAN"で多く目にした。昼飯もおなじ店で食べることにして、またドンコイ通りを渡り、グエンフエ通りを渡って日本総領事館に向かって右の路地を入る。"NHU LAN"では迷わずフーティウボーコーを頼む。この店の、煮込んだ牛のかたまりは素晴らしい。フーティウボーコーは4万ドン、次男のカフェスアダーは1万5千ドンだった。

午後は、一昨日のヌオックマムや、国営百貨店のスーパーマーケットで買った焼酎"LUA MOI"をエアキャップに包みガムテープで留める。ランドリーから戻った服は丁寧に畳み、汚れたシャツは乾燥させた上で、中の空気を抜く式のプラスティック袋に入れる。いろいろ試してみて、インスタントのフォーは箱ごと機内預けにすることとする。

今夜の飛行機"VN950"は、空港を00時05分に発つ。チェックインは22時、タクシーで街を出るのは21時15分と、逆算をする。ヴェトナム最後の問題は、どこで晩飯を食べるか、ということだ。それを決めるよう次男に言う。ホテルのチェックアウトは18時。タクシーに乗るまで荷物はホテルのベルに預ける。

「ホテルの近くを離れるのは危ないから、晩飯はマジェスティックホテルのバーで食べるのがいいよ」と次男は結論づけた。バーにまともな食べ物があるだろうか。「サンドイッチくらいしかねぇんじゃイヤだなぁ」と思っても「オマエが決めろ」と言った手前、反対はしづらい。

ホーチミンシティでもフーコック島でも、空はほとんど薄曇りだった。皮肉なことに最終日の午後も遅くなったころ、サイゴン川の対岸が明るく晴れてきた。そのサイゴン川の両岸を結ぶ、バトー・ムーシュと呼んで構わないかどうかいささか迷う不格好な楕円形の渡し船にも乗ってみたかったが、いまやその時間はない

17時45分にホテルをチェックアウトする。顔見知りになったベルボーイに荷物を託し、ほとんど手ぶらで外へ出る。一昨日から目をつけておいた、"Ho Huam Nghiep"通りの"Golden lotus traditional foot massage"を訪ね、19時15分から90分間のマッサージを予約する。

すぐにドンコイ通りへと戻り、正面からマジェスティックホテルに入る。折しも到着した客の荷物運びに忙しい数人のボーイに「スカイバーへ行きます」と声をかけ、おとといと同じ、畳1枚分の広さもない古いエレベーターに乗る。

そのエレベーターを5階で降りると、席へ案内される途中の特設テーブルに、新鮮な魚介類がたくさん並べられているそして「これがディナーブッフェか」と気づく。まわりの白人たちは"333"の缶をたくさん空けながら、しかしこれを注文する気配はない。「ブッフェは何時から始まりますか」と訊くと「もうお召し上がりになれます」と白服のボーイは答える。値段を確かめることもせず、ふたり分を申し込む。

ワインリストを頼んだボーイが戻る前に、別のボーイが白のグラスワイン2人分をテーブルに置く。「オレの英語もダメだなぁ、ぜんぜん通じてねぇや」と考えるうちワインリストが届き、それを持ってきた方のボーイが困惑の顔つきをする。よって「大丈夫。この2杯を飲んでから、またボトルを注文します」と安心させる。

とはいえ深夜便に乗る日の夕刻に深酒をするのは危ない。しかしグラスで飲むよりボトルで取ってしまった方がワインは安かろう、というようなことも考える。僕の酒量では、グラス2杯を飲んだ後にボトル1本は干せない。それでもボトルを頼もうと決めてしまうところが僕の悲しい性である。

このバーのハウスワインは悪くない。そしてワインリストにも、このハウスワインのボトルは載っていた。価格は59万数千ドン。そして先ほどのボーイを呼び「これをください」と伝えれば、ボーイは僕の耳に口を近づけて「ブッフェのお客様の、ハウスワインは無料でございます」と説明した。僕は「やった」と腹の中で叫び「だったらずっとグラスで飲みます」と答えた。

2枚目のステーキ肉をグリルのコックに「レアで」と頼んだ次男は「手前共といたしましては、それよりもミディアムレアをお勧めします」と古顔の白服に奨められ、了承したという。マジェスティックホテルの最上階とはいえ、ここは気楽で良いところだ。街とサイゴン川とその対岸は夕刻の空を映し、水色から青へと変わっていく

マッサージは90分を超える大サービスで、しかも"Riverside Hotel"のベル係は到着した客の出迎えで忙しかった。そのようなわけでタクシーが河岸通りを出ると、時刻は21時30分を過ぎていた。人民大会堂の前をグルリと回っていくらも行かないうちに工事渋滞に巻き込まれたときには焦燥したが、タクシーは22時ちょうどにタンソンニャット空港に到着した。

駅や飛行場での待ち時間は最低に抑えたい、そういう自分の性癖から冷や汗をかくことが僕には度々ある。今夜もワインを飲み過ぎていれば、なにか問題が発生していたかも知れない。財布には26万9千ドンが残った。


朝飯 "NHU LAN"のジャンボンのバインミーカフェスアノン

昼飯 "NHU LAN"のフーティウボーコー

晩飯 "Majestic Hotel Saigon Breeze Sky Bar"のディナーブッフェ、ハウスワイン(白)


 2011.0402(土) トンネルと貝

フーコック島での唯一の目的は、魚醤の醸造元"HUNG THANH"を見学することだった。そしてホーチミンシティでの最大の目的は、ヴェトナム戦争の跡を訪ねてクチへ行くことだった。クチへのツアーはホーチミンに着いた日に、デタム通りの"TNK Travel"で申し込んでおいた。

次男と5時30分に起床して身支度を調え、6時ちょうどにホテルの食堂に入る。このホテルの朝食は6時からとのことだったが、オムレツとフォーを作る係のオバサンが出てきたのは6時20分だった。

"TNK Travel"のオネーサンから言い渡されていた7時30分の15分前に、タクシーでデタム通りに着く。クチトンネルへのバスは、その1時間後に来た。そして渋滞するファングラーオ通りで、遅刻したのか待ちあわせ場所を間違えたのか、そういう種類の白人たちを乗せてようやく出発した。

クチはホーチミンシティの北西70キロにある、南ベトナム民族解放戦線が地下に掘り巡らせたトンネルで有名な場所である。日本語のツアーが19ドルのところ英語のツアーは6ドルという点、また「ヴェトナムに来てまで日本語のツアーもねぇだろう」というところから、英語のそれを申し込んだ。

ガイドは中肉中背ながら白いTシャツの下には逞しい筋肉を隠していそうな中年男HOANGさんだった。HOANGさんは自己紹介の後、ホーチミンシティの概要を振り出しに、ヴェトナムには54の言語が存在すること、1975年まではベンハイ川を境として北と南に別れていたこと、教育が自由化されてからは国民の英語の能力が飛躍的に高まったこと等々を、客の興味をそらさない力のこもった声で続けた。

HOANGさんはアメリカの田舎で育ったわけではないから、その英語は聞きやすい。単語により、その発音に自信のないときには、その単語に続けてアルファベットの綴りを言ってくれるから更に分かりやすい。今春から高校生になる次男のためにも、英語のツアーを選んで良かった。

クチのトンネルはベトコンがアメリカ軍に隠れながら軍事行動を行うために掘られたもので、その全長は250キロに及ぶとも言われている。アメリカ軍は軍用犬を使ってトンネルのありかを突きとめようとしたが、解放戦線側はアメリカ製の石鹸やアメリカ軍捕虜の軍服で犬の鼻を攪乱したとは、今日HOANGさんから初めて聞いたことだ。

国道22号線を小一時間ほども進んで9時30分に、ガソリンスタンドでトイレ休憩が取られる。こちらの燃料の値段は日本のそれの半額にちかい。ふたたび走り出したバスはやがて国道から右折して地方道8号線に入る。両側に整然と並ぶゴムの木を見ながら、10時18分にクチトンネルに着く。我々40名は前半組と後半組とに分けられ、入り口へと進む。入場料の8千ドンは、ツアー料金には含まれていなかった。

いまや公園のように整備されたクチトンネルは、何しろその総延長が250キロにも及ぶというのだから、我々が歩いているところより遥かに広い地域に広がって、中にはサイゴン川まで繋がっているものもある。その、クチの地図のある部屋で、先ずはヴェトナム戦争当時に撮られたフィルムを観る

ひとくちにトンネルといってもそれが戦争の道具であれば、斥候用の身を隠すだけのものから数人で行う特殊任務のための小規模のもの、また台所や作戦のための会議室を備える大きなものまで、その形は様々だ。地域内にはまた、四角い縦穴に木の葉で葺いた屋根を持つ武器の製造所や病院もある。

近づく政府軍やアメリカ軍の兵士に対しては、竹槍を埋め込んだシーソー式の落とし穴や、まるで魚釣りに用いるビクのような罠、またアメリカ軍の不発弾から作った地雷などを仕掛け、徹底的に抗戦したという。それに対するアメリカ軍の答えは枯れ葉剤の大量散布、というわけだ。

そういう説明を聞きながらアメリカ軍の壊れた戦車の置かれたところまで来ると、この戦車によじ登ったり、あるいは記念写真を撮る人が引きも切らない。戦車の前でポーズを決める今日の白人がアメリカ人だとすれば、彼らの中ではヴェトナム戦争は、すっかり大昔の出来事になっているのだろう

"M16"や"AK47"を10発30万ドンで撃たせる試射場を過ぎ、我々もいよいよトンネルに潜ってみる。聞くところによればしかしこのトンネルは観光用に広げられた、実際よりも行動しやすいものらしい。それはそうだろう、かつてヴェトナム人たちが自分たちの生存と勝利のために人力で掘ったトンネルだ、それは必要最低限の高さと幅しか持たなかったことは想像に難くない。入り口から一歩を踏み込んだだけで引き返してしまった白人のオバサンは、何か突然の恐怖に囚われたのではないか

当時、このあたりの農民やベトコンたちが食料としていたものの一部タピオカ芋を試食して、このツアーの主要なところはすべて完了した。「20分以内に戻ります」と張り紙をして1時間も戻ってこないヴェトナム人、6時から始まる朝食の会場に20分も遅れて来るオムレツ係のヴェトナム人。彼らも生まれるときと場所が違ったなら、そして祖国の独立と自尊を賭けた戦いに臨んでいたなら、また別のちからを発揮していたかも知れない。

ホーチミン市内に戻ったバスは希望者のみを戦争証拠博物館で降ろし、デタム通りへと帰って行った。時刻は13時50分。昼飯はタピオカ芋ひとかけらのみだったため、腹が減っている。「鼻を利かせて美味そうな店を見つけろよ」と次男を振り向くとが「うーん、利かない」と困った顔をする。観光客相手のこぎれいな店には入りたくない。

周辺をすこし歩き、この博物館の入場券売場を背にして右斜め前に、弁当の仕出し屋のようなものを見つける。入ってみると、この半端な時間でも営業をしているらしい。猫の徘徊する小汚い椅子と椅子の間を近づいた来たオニーチャンに「フーティウナム」と言うと、オニーチャンはパッと明るく笑って「オー、フーティウナム」と答えた。そしてその汁麺は、きのうの昼の麺よりも遥かに美味かった。

戦争証拠博物館については「まぁ、自分の目で観てください」としか言うことはできない

18時を過ぎればあたりは暗い。そのころにホテルから河岸の通りへ出ると、折良く88番のバスが近づいてきた。このバスがベンタインのバスターミナルへ行くことは、きのう既に調べておいた。タクシーを拾うより素早くバスに乗れたことを次男と喜び合う。バス代は僕の持つ資料からすこし上がって1人4千ドン。ホテル前の停留所からバスターミナルまでは、10分とかからなかったような気がする

ベンタインの、バスターミナルと市場とは指呼の距離にある。初めのうちは特攻隊のような気分でしていた、信号のない道路の横断にも慣れてきた。そして市場の時計塔に向かって左奧の屋台街を目指す。しかしそこに食べ物屋の姿はひとつもなかった。「おかしいなぁ」と、念のため市場の中に入ると、そろそろ仕舞いはじめた多くの店の間をネズミが走っている。

「屋台はどこへ行った」と、今度は市場の四囲を歩いてみる。するとオートバイや人力で鉄パイプを運ぶ人たちが目に付いた。現在時刻は18時45分。どうやら我々の到着が早すぎたらしい。そしてまた他の通りに分け入り、コンビニエンスストア"SHOP & GO"でウオッカハノイを買ったりする。

ふたたび市場周辺に戻ると、いまだ照明の点かない屋台の椅子に、早くも現地の人の座っている1軒があった。店の看板には"QUAN OC VAN"の文字がある。「始まる前から客が待ってるぜ、美味い証拠だよ」と、我々も現地の人に混じって、そろそろ店開きをしそうなこの店のテーブルに着く。

ひとりのオバサンがメニュを持ってきてくれたが、そんなものは必要ない。地元の人の食べている皿を指さし、あるいは氷の上に並べられた材料を指さし、次に自分の顔を指さし、最後に自分のテーブルを指さす、それがいちばん手っ取り早い。ただひとつホビロンだけは「ホッビッロンッ」と、勢いよく声で注文した。

アヒルが羽化する途中の卵を茹でたホビロンの、とがった方を下にして置き、上になった丸い方をスプーンで叩く。ポッカリ空いた穴からライムを搾り入れ、塩と赤唐辛子の粉を振る。そして中にスプーンを差し入れ、掬いだした白や黒や黄色や朱色の渾然一体を口へ運んで咀嚼する。いと美味し。ハマグリのレモングラス蒸し、店の人が歩道の縁で叩いて開けた牡蠣の網焼きも、おなじく美味し。

赤貝に似た殻を持つ、しかし色の白い貝の網焼きを食べた瞬間「これはグラタンだよ」と僕は目を剥いた。焼き貝には砕いたピーナッツがちりばめられている。このピーナッツのコクがベシャメルソースを思い起こさせるのだ。ヴェトナム人のセンス恐るべし。次男は隣の屋台へ出かけ、鶏手羽先の照り焼きを注文してきた。そして僕はホビロン用のエッグスタンドを猪口にしてウォッカハノイを飲む。ホーチミンの貝屋台は美味くて賑やかで、ただ楽しいばかりだ

エトワールからの道が作る直角でない交差点に惑わされながら、徒歩でホテルに帰る。左親指の横腹と左下唇の内側に切り傷がある。それは焼き牡蠣を夢中で食べるうちこしらえたものだということに、しばらくしてからようやく気づく。


朝飯 "Riverside Hotel"の朝食バイキング

昼飯 戦争証拠博物館ちかくにある食堂のフーティウナム

晩飯 "QUAN OC VAN"のホビロンハマグリのレモングラス蒸し牡蠣の網焼き殻は赤貝に似ているけれど赤貝よりも大きくて身の白い貝の網焼き隣の屋台から取り寄せた鶏手羽の照り焼き別の屋台から取り寄せた豚の子袋入り麺頼まないでも出てきた冷やし羊羹、ビアサイゴン(赤ラベル)、ウォッカハノイ


 2011.0401(金) 賑やかでもあり、また静かでもある

「サイゴンのいちばん長い日」の、1975年4月25日の日記に著者の近藤紘一は「サイゴンは今、一番暑く、一番美しい季節である」と書いている。「あと3週間もすれば、その季節が来るんだよなぁ」と、朝食前のひとときに、次男とヴェランダの籐椅子に座って話す

この宿の朝食は7時からと聞いていたので、ちょうどその時刻に食堂へ行く。「飛行機は朝の便だから急いでね。それと、レセプションには、もう人はいるかな」と、既に顔見知りとなったオニーチャンに訊くと「レセプションも7時オープンですから、大丈夫でしょう」と答える。食堂に次男を残してレセプションを訪ねると、そこには昨夕から貼りっぱなしと思われる「20分以内に戻ります」の張り紙があった。

朝食を済ませ「今度こそ」と再びレセプションへの坂を上がると、初日のオニーチャンと、英語の達者なオネーチャンがようやく来ていた。そして洗濯物を受け取り、バンガローへ引き返して荷造りをする。洗濯代は4万ドンだった

この島にはフーコック犬という種類の犬がいる。背中の毛はうね状に逆立ち、骨格は頑強で紫色の舌を持つ。聞くところによれば鼻が異常に利くらしい。日本に輸入すればかなりの人気になるのではないか。肝が据わっているから歯を剥いて唸ることもしない。このリゾートの飼い犬なのか、あるいは野良犬なのか、そこのところが不明のフーコック犬に別れを告げて迎えのタクシーに乗る

そして晴れたフーコック島から往きとおなじ"ATR 72"に乗り1時間ほどで薄曇りのホーチミンシティへ戻る

国内線到着ロビー左はす向かいの、タクシーの手配係らしいオジサンが手招きをするので、今夜から泊まる"Riverside Hotel Saigon"の名を出すと15ドルだという。「そりゃねぇよ」と、タクシークーポンのブースへ行くと、オネーサンは気の早いことに複写式の伝票にボールペンを走らせながら「センエン」と微笑んだ。「えっ」と愕き「ドル払いなら」と訊くと"10 dollars"に続けて「オナジ」と答えた。

「高いよー」 "But very far"などのやりとりをした後、今回も152番のバスを使うこととして空港の、国内線と国際線を繋ぐ回廊を行く。152番のバスの料金は今回も2人で1万2千ドンだった。そして鮨詰めの車内で「地元の人と混じって動くってのが、やっぱり面白れぇよな」などと笑い合い、ベンタインのバスターミナルで下車して営業所で市内のバス地図をもらったところまでは首尾も上々だった。

問題はその先にあった。運転手が当方に手を上げながら近づいてきたクルマに、この街で安心できるタクシー"MAILINH"の名があったためよく確認もしないまま乗ってしまった。しかし運転手にネクタイはなく、車内も汚い。「これはマズかったかな」と思わないでもなかったが降りるまではしなかった。

サイゴン川へ向かって東へ進みながら、やはりこのタクシーのメーターはいわゆる「ターボ」だと気づく。今夜の宿"Riverside Hotel"とは似ても似つかない大きいなホテルを「ここがリバーサイド」と運転手は指さす。騙されるときとはオマケもつくもので「あれ、建て替えたのかな」とこちらも納得してしまった。メーターは空港のタクシークーポンのオネーサンが呈示した1,000円や10ドルよりも高い30万ドンちかくに達している。

10万ドン札3枚を差し出すと"One more"を運転手は手を差し出したが、こちらの引っかけには乗らなかった。「既に30万ドンを渡しただろうが」という意味で"Three hundred"と答えると、運転手はそのまま引き下がった。

「建て替えたのかな」などと我々が呑気に思い込んでしまったホテルの上の方を見ると、そこには"Legend"の文字があった。ゴロゴロとトランクを転がす次男とふたりで、今はどう呼ばれているのかは知らないが、むかしの海軍司令部を右に見ながら南へ進む。そして遂に、古めかしい低層階の"Riverside Hotel"に着く。

日本を出る前には次男にさせようと考えていたが、今はまださすがに無理そうなので、部屋のアップグレードと2泊目のレイトチェックアウトの交渉は僕がした。案内された"201B"の部屋には、サイゴン川に面して大きな窓がふたつも開いていた。壁にドアのあるところから、ここは"201"の続き部屋なのだろう。眼下には、1975年4月30日、サイゴンに無血入城を果たした北・革命政府側の、先遣隊のジープが南から北へと走り抜けていった"TON DUC THANG"通りがある

この旅には「やれやれ」と息をつく場面が日に何度となくある。水圧の低いシャワーを浴びながら「やれやれ」と汗を流す。しかし「やれやれ」で落ち着いてしまっては何もできない。外へ出て、今度は"VINASUN"タクシーの、ボディの番号をしげしげと読んでから車内に入り、きのうフーコック島の"HUNG THANH"で手渡された名刺を運転手に見せる。

ヴェトナムは類似品やコピーについての法律が整備されていず、だからタクシーも塗色や社名だけでなくドアに書かれた番号をよく確認すべしとは、日本を出る前に読んだ複数の本に書いてあったことだ。しかし「こんなに大きな桁の数字など覚えられない」と、軽く流していた。しかし本物のタクシーのボディにある番号には、今日はじめて気づいたが共通の傾向がある。

白いボディの"MAILINH"の番号は38,38,38,38。緑と赤の丸い矢印がマークの"VINASUN"は38,27,27,27。黄色く塗られた"VINA"なら38,111,111と、頭に38があって次は同じ数字の羅列と覚えておけば、ターボメーターのタクシーに引っかかることはない。

下町の風情の濃い"CO BAC"通りにある"HUNG THANH"の直売所には、ティップ込み4万ドンで行くことができた。きのうフーコック島の蔵を訪ねたことを店先のオバサンに伝え、最高ランクのヌオックマム3本を買う

"Riverside Hotel"は古くて安いホテルだが高級店の建ち並ぶドンコイ地区にある。こぎれいな店"BUN BO HUE 3A3"で遅い昼食を摂る。

ふと思いついて遊覧船に乗りたいかと訊くと次男は「うん、乗りたい」と顔を上げる。サイゴン川沿いのそれらしいガラス張りの建物には、遊覧船の中でももっとも庶民的らしい「ベンゲー号」の写真の貼られたブースがあった。中のオネーサンに切符を買いたいと話しかけるが彼女の説明によれば、ここから200メートルほど北の埠頭にベンゲー号は着く。出航は19時30分だがオープンは18時で、ただ乗り込んでくれれば良いとのことだった。

すっかり気楽になってホテルへ戻り、次男は昼寝、僕は日記を書くことをする。

夕刻に、これまでのTシャツと半ズボンから襟付きのシャツと長ズボンに着替え、目と鼻の先の"Majestic Hotel"を訪ねる。スカイバーへ行きたい旨を伝た僕に「5階でございます」と、白服のボーイは丁寧に教えてくれた。畳1枚分の広さもない小さなエレベータに乗り込むと、案内板には英語と日本語が併記されていた。開高健と秋元啓ーがこのホテルの103号室に滞在していたころから、これは変わらないものなのだろうか

1975年4月27日の未明、サイゴン川対岸から発射されたロケット砲弾により大破した歴史を持つ食堂には家族連れの姿があり、そこを抜けたところのスカイバーでは大勢の人が立食によるパーティをしていた。カウンターの女の人の説明では、いまは貸し切りになっているけれど、20時からなら一般の客も受け入れられるという。

外へ出てドンコイ通りを西へ進む。狭いけれども光にあふれるこの通りの左右を眺めながら、市民劇場の見えるレロイ通りまで出る。1975年4月24日、産経新聞東京本社より「即時退去」の命令を受けた近藤紘一は、しかしそれを無視してファングラーオ通りちかくの自宅から市民劇場前の"Caravelle Hotel"に移る。市民劇場間近のこのホテルにあるサイゴンサイゴンバーで1杯だけ飲むことも考えたが、すっかり新しくなったそのエントランスを見て引き返す

「これでよく人が死なねぇもんだ」と、そのたびに思うホーチミン名物の「信号のない道路の横断」を何度か繰り返してサイゴン川沿いの遊歩道に出る。そして昼間、案内所のオネーサンに教えてもらったとおりに、夜間遊覧船ベンゲー号に乗り込む

弦も鍵盤もない不思議な電子楽器は何という名前だっただろう。その楽器と伝統的な弦楽器そして打楽器による3人組の演奏が始まるころには、船上のざわめきは最高潮に達していた。1時間もするとその楽器演奏が、オネーサンのファイヤーダンスに変わる。船は夜のサイゴン川を、ゆっくりと下り、また上る。そして"Majestic Hotel"真ん前の埠頭にふたたび戻る

ホーチミンの夜は賑やかでもあり、また静かでもある。今夜も10時前に就寝をする。


朝飯 "Moon Resort"のハムバゲット、カフェスアノン

昼飯 "BUN BO HUE 3A3"の豚足の輪切り入りブンボーフエ揚げ焼売

晩飯 「ベンゲー号」の揚げ春巻き豚の子袋と袋茸の蒸し物"333"、"Heineken"