タイへ行く前には「鬼灯」だった、店舗入口に掲げた季節の書が、帰ってくると「秋惜」に変わっていた。
明治5年に太陰暦が廃され太陽暦が用いられ始めて以降、春は2月からとされたらしい。2、3、4月が春なら、秋は8、9、10月となる。とするならば、現在の「秋惜」は本日を以て外さなければならないのかも知れない。
家というか会社にいる限り、朝7時30分を過ぎると道の駅「日光街道ニコニコ本陣」まで自転車を走らせ、ウチの売り場の在庫を確かめると同時に、冷蔵ショーケースを拭き清める。今朝は「だんらん」が売り切れていたから即、会社に戻って始業の前からそれを用意してもらう。そしてまたそれを「ニコニコ本陣」へと運ぶ。他の品については、昼前に納品をしても間に合うという予想である。
小遣い帳を「散髪」で検索してみると、8月は27日に住吉町の加藤床屋に行っていた。9月は30日にチェンライの、タイ語だから店名の読めない床屋にかかった。僕のような坊主頭は、本来であれば3週間に1度は散髪の必要があって、それがひと月まで延びると「もはや限界」という感じになってくる。
あれこれの日程により、今日を除いてはしばらく床屋にはかかれそうもない。よって忙しいことは山々だけれど、8時すこし前に加藤床屋のガラス扉を押す。
「都市のテクスチャー」というテーマで、あるフォーラムの講師を務めている。講義室の窓の外に、南青山5丁目から高樹町へと続くビル群が、晴れた空の下に拡がっている。
そのビルのひとつが急に拡大をされ、平らではない、まるで女の胸のように、しかし控え目に盛り上がった壁の、ザラザラとした表面が目の前に迫る。
そのザラザラとした質感が、徐々に自分のからだの具合と重なってくる。まじまじと見ていたはずの壁はやがて去り、ザラザラとした不快感が、実は自分のからだの真ん中あたりから発していることに気づき始める。そして目を覚ます。
「これは、ことによると吐く、ということなのだろうか」と半信半疑ながら便所へ急ぐうち、嘔吐は決定的、という感触が高まってくる。そして胃の中の、ほとんどすべてと思われるものを吐く。便所とおなじ空間にある洗面所の時計は0時34分を指していた。
ベッドではしばらく眠れたように思われたけれど、1時15分に、今度は胃液のみを吐く。
多分、きのうの晩飯が美味くて食べ過ぎたのだ。しかし食べ過ぎた、というほど食べたわけでもない。あるいは自分の体調と食べたもののあいだに、何かの不整合があったのかも知れない。
夜が明ければからだはすっかり元に戻り、腹が減っている。そしていつもと変わらない朝食を摂った上、かなり大量の米を含む弁当を詰める。
生まれて初めてホッピーというものを飲んだのは多分、1980年の夏のことだ、場所は三田の駅前にあった飲み屋「のみたや」だった。以降、2015年10月26日までこれを口にすることはなかった。その翌日つまり今日からすればおとといにこれを35年ぶりに飲んだのは、僕のそそっかしさによる。
キンミヤ焼酎の1合瓶を注文すると「白ですか、黒ですか」とすかさず中国人のオネーサンに訊かれたため「キンミヤにも白とか黒とかあるのか」と早合点をして「白」と答えたところ、席には栓を抜かれた白ホッピーが届いた。栓が抜かれていれば、もう変更は効かない。そのままキンミヤの「中」による白ホッピーを飲んだ。
飲みたいのはチューハイだったのだ。そして店側の配合によるチューハイはおしなべて僕には薄いため、キンミヤの1合瓶を頼んだわけではあるけれど、そのキンミヤは順序としては、後から追加すべきだったのだ。
次回からは重々、注意をしようと心に決める。
本当の気持ちからすれば「◎◎ハイ」というものは、すべからく自分で混ぜたい。チューハイのソーダと焼酎は自分で混ぜたい。ウーロンハイのウーロン茶と焼酎は自分で混ぜたい。人が混ぜた酒は、僕にはどうにも薄すぎるのだ。
龍岡町の甘木庵から次男と出て本郷三丁目ちかくで朝食を摂る。そこから次男は学校へ向かい、僕はそのまま居残って1時間ほども本を読む。そしてようよう店を出て、用を足すため裏通りへと入っていく。
あの日活を見つけて「こんなところに…」と、虚を突かれて驚く。真砂町にあったはずのハンバーガー屋"FIRE HOUSE"が本郷三丁目に移ってきていることを知って、またまた驚く。
大手町を経由して三越前に至る。雨の予報から空は一転して晴れ、すがすがしい気分だ。木綿のセーターを脱いで半袖のTシャツ1枚になる。室町の福徳神社は宝くじの当選に霊験があらかたらしい。生まれてこのかた宝くじを買ったことはただの一度もないけれど、行きがけの駄賃のようにして、軽くお参りをする。
ふたつの用事を済ませ、夕刻になる前に帰社する。そして終業後は、これからの繁忙を前にして、社員との食事会を催す。その食事会ではまた、9月に開催した研修「日光MG」の、社内的な表彰を行う。
初MGにもかかわらず赤青黄色の戦略チップを駆使して優秀な成績を収めたウワサワモモコには、ビギナーズラックに留まらない活躍を期待して殊勲賞を、このところ安定的な成績を上げ続け、今回は社内最高の自己資本を記録したカワタユキさんには、今後のさらなる飛躍を望みつつ敢闘賞を、社内随一の総合計数力を誇ったハセガワタツヤ君には、次回こそ西研究所の表彰状が得られるよう激励と共に技能賞を贈った。
あと数日もすれば11月。いよいよ冬、である。
下今市発の上りに乗ってしまいさえすれば、電話や人に追いかけられることもない。そうして持ち込んだ新聞その他を目の前に広げ「さぁ、読むぞ」とメガネをかけたところで眠くなる。いつものことだ。電車とメガネの組み合わせはまこと、僕にとっては睡眠薬である。
下今市と北千住の、時間にしてちょうど真ん中あたりで利根川を渡る。この鉄橋には気づかないことが多い。春日部がちかくなってきたあたりで「睡眠」という海底から浮上しつつあるような感覚を覚え、車内に流れるアナウンスに「北千住」ということばを聞くと、いよいよ「眠りの芯」のようなものが頭の中で溶けていく。
「一番好きな日本の食べ物は?」と先月の末に、タイの最北部で訊かれた。「モツ焼きかなぁ」と、英語にタイ語を交えて答えた。「モツ」はフランス語なら"abats"だろうけれど、英語では何というか知らなかったからだ。
何年か前に、バンコクの海鮮料理屋で「一番好きなタイの食べ物は?」と訊かれたときには「トムセーップクルアンナイモォ」と答えた。すなわち「豚のモツが入った酸っぱくて辛い香草のスープ」である。
国を違えても、結局のところ僕の好きな食べ物はその手のもの、ということだ。
次男とは18時15分にビックカメラの前で待ち合わせた。そうして「その手のもの」で僕はおよそ35年ぶりになるホッピーを飲み、次男は冷たい緑茶を飲む。
9月18日からの、だからシルバーウィークも含む1ヶ月のあいだ、釣り銭のために準備した紙幣は払底することなく金庫内に保たれた。両替係である僕の、9泊10日に亘るタイ行きを控えて普段より金額を多くしたとはいえ、それは予想外の保ちようだった。
その釣り銭が、現在は1週間に2度も銀行通いをしなければならないほど、すぐに底を突く。これはあるいは、9月下旬から10月上旬にかけてのヒマさと、それ以降の忙しさが、今年は特に、両極に振れている、ということなのかも知れない。
きのうamazonに頼んだばかりの本が、もう届いたから、いささか驚く。しかしまた差出人の住所は栃木県南部のものだったから「なるほど、それも関係してのことか」と考えつつ中身を取り出す。
エマ・ラーキンの「ミャンマーという国への旅」の価格は3,000円プラス消費税だ。それを今回は本体価格240円、送料257円の計497円で手に入れた。amazonが古書を扱うようになってから、本は定価で買う気がしなくなった。そういうことを言うと「このケチ野郎」と、作家には冷笑をされるだろうか。
僕は、木綿の白い手袋を着けてページを繰るようなマニアではない。誰が手に取ったか知れない古書など触る気もしないという潔癖症でもない。いずれモツ焼きのタレやチューハイの泡で汚してしまうのだ。新本はますます必要でない。
「好き勝手にすることは得意だけれど、人の決めたフォーマットに従って行動することは苦手だ」と自分の性向について考えて「いや、それは誰でも同じか」と、すぐに打ち消す。
10月28日が締め切りの、600字の文章を頼まれた。長い時を経ていつの間にか形の決まった種類の原稿である。それを今日からの5日間で仕上げなければならない。「果たしてオレにできる仕事だろうか」と懸念しつつ今朝は5時からコンピュータに向かい、しかしそれは20分ほどで完成してしまった。
「直せと言われれば直す」、「短くせよと言われれば短くする」という一文を添えて、その文章を指定されたメールアドレスに宛てて送付する。
「日光に来るなら真夏か真冬」というのが、日光に通算で50年ちかく住んでいる僕の感想だ。しかし実際には、日光は秋の紅葉時期にこそ年間で最も多くの人を集める。
午後、勉強仲間のカワナベ夫妻が東照宮を参拝した帰りに寄ってくれる。普段であれば共に食事を摂ることもできるところだけれど、今の時期はどうにもならない。夫妻には是非また、年明けにでも遊びに来ていただきたい。そのときこそ「雪見で一杯」である。
北千住から千代田線で表参道に出る。そこから1時間ほどをかけて、だから青山通りを真っ直ぐ歩いていたわけではない、南青山の路地裏に至る。その路地裏を出て、今度は擂り鉢の底のような渋谷を目指す。
時間はたっぷりある。というよりは、自分で決めた、あるいは先方に決められた、その各々に着くべき時間に開きがあるため、合間合間でヒマが発生するのだ。そのヒマを、本を読むことにより埋める。
初更にはひばりヶ丘にいる。そして北千住への到着時間が20:32と、iPhoneの「乗り換え案内」に教えられる。なかなか厳しい託宣ではあった。しかし僕は足が速い。実際には、北千住には20時25分に着いた。
飲み屋に落ち着くことはできないけれど、立ち飲みなら可能な時間である。そしてチューハイ1杯、ハイボール2杯、串カツ6本を21分間でこなし、21:13発の下り特急スペーシアに乗る。
全275ページの文庫本まるまる1冊を、今日は1日で読み終えた。遅読派の僕には極めて珍しいことである。そしてまた「ブックオフ」と書いた段ボール箱を用意し、家の本棚に残すまでもない本は片端からその箱に投入して、満杯になったら売り飛ばしてしまう、という整理術を思いつく。
中国、台湾、香港、ベトナム、カンボジア、タイ、シンガポール。そのいずれでも、高級料理屋については知らないけれど、屋台はもちろんのこと、ウェイターやウェイトレスが侍る店まで、酒の持ち込みを断られたことは皆無だ。感謝せざるを得ない。
香港の、どこからともなくテレサテンの歌が聞こえてくる店で、豚の内臓の鹵味を肴に白酒を飲む気分には格別のものがある。あるいはタイの、数々のバットに盛られたおかずの中からいくつかを選び、それらを肴にラオカーオを飲めば、この世の天国である。
「お酒の持ち込み、大歓迎」という店が日本にあれば行ってみたい。酒屋がメシ屋を開き「ウチで買った酒なら持ち込んでも良いよ」という形態でも構わない。誰か作ってくれないか。
ところでちょっとしたラーメン屋、食堂で焼酎のボトルを預かってくれるところがある。我が町でいえばそれは「大貫屋」であり「ユタの店」であり「ニジコ食堂」である。今夜はそのうちの「ユタの店」で飲んだ。代金は1,000円と少々だった。とても有り難い。
きのうの終業後、自宅へ戻りながらワイン蔵へ寄ると、いつになく湿気を感じた。勘が働いたのだろう、真っ直ぐ進むと、天井から吊り下げた冷却装置の、水を外へ逃がすドレーンパイプの継ぎ手から水が漏れていた。
漏れた水は棚のワインを濡らしながら下へ下へと伝い、オフクロが旅先で求めたらしい、ビンの下半分を藁でくるまれ、だから太すぎて棚には収まらないから紙箱に入ったまま床の簀の子の上に置いた、その紙箱を濡らしていた。
紙箱の表面にはカビが生えていた。ビンを取り出すと、藁づつみは勿論のこと、ビンの表面にもこれまたカビが生えていた。よって3本のうちの1本を食堂に持ち来て藁の部分を外し、ビンのカビは水で洗い流した。
そうして栓を抜いてグラスに注いだ1988年製の赤いワインは、不出来なシードルにも共通する、ある種の悪臭を伴っていた。しかし我慢できないほどのものでもなかたため、1リットルうちの半分ほどを飲んで冷蔵庫に入れた。
その安ワインと思われるワインを今夜もグラスに注ぎ、飲んでみると、きのうの悪臭は一掃されていたから、不思議な思いもしたし、すこし得をした気もした。
ドレーンパイプの継ぎ手の直下には水を受けるための器を置いた。これで当座は凌げるだろう。残った2本は早々にワイン蔵から運び出し、藁の包みをほどき、ビンを洗い、飲むときには前日から栓を抜いておくことを決める。
きのうも朝から晩まで忙しかった。売上金額は昨年のそれの1.78倍だった。ウチは年間で360日は営業をしている。その360日のうちの340日ほどは、僕も仕事をしている。
銀行を回ろうとしているところに人が来て出鼻をくじかれる。得意先に配達に出ようとすると、またまた人が来る。製造の仕事をしている最中に電話が入り、離したくない手を離さざるを得ないこともしばしばだ。
このような日常を40年ちかくも送りながら「精一杯仕事をした」、「今日は頑張った」と僕が感じられたことは、ただの1度も無い。自己を肯定する能力が異常に低いのだろうか、あるいは実は仕事をしていないのだろうか。
「今日一日頑張った自分に乾杯」というような文章と共に、左手に高々と掲げたグラスの写真をfacebookに上げる人をしばしば目にする。このような人は、自己を肯定する能力が異常に高いのだろうか、あるいは命の限界まで仕事をしているのだろうか。
皮肉で書いているわけではない。人と自分との乖離があまりに甚だしいと、それはそれで気になるのだ。
台湾人のチンさんから電話をもらったのはおととい日曜日のことだ。台北に住むチンさんなら知っているけれど、もう30年も無沙汰をしたままだ。それに電話の声は、台北のチンさんのそれとは明らかに違う。
聞けばことし96歳になる台湾人女性カクさんの自分は世話係である。カクさんは現在、アメリカの市民で、今回は台湾に一時帰郷をする途中で日本に立ち寄った。そして上澤の家をとても懐かしがり、訪問を強く望んでいるという。
チンさんもカクさんも未知の人ではあるけれど、無碍に断ることもできない。よって2日後つまり今日の彼らの来訪についてはとりあえず了承をした。
「開店が8時15分ということは重々、承知をしているけれど、紅葉見物の都合上、早めに開けてくれれば有り難い」という電話をいただいたのは、10日ほど前のことだった。そういう要望にはできるだけお応えすることにしている僕は、その予約をお受けした。
来店時間は7時45分と知らされていた。しかし当該のお客様からは7時30分に「日光宇都宮道路の今市I.C.を今、降りた」との電話をいただいた。特に問題はない。そして普段であればいまだ店を開ける前の時間から売上げが立った。有り難いことである。
朝の繁忙がひとしきり落ち着いたところで、おとといナンバーディスプレイからメモをしておいた、チンさんの携帯電話を呼ぶ。来訪をされるのはチンさんとカクさんの2名とばかり考えていたけど、子や孫に介護の人も含めて総勢は6名だという。
到着時間が11時ということであれば、昼食を用意する必要がある。「そこいら辺で蕎麦でも」というわけにはいかないことを、台湾人の接待を何度も受けたことのある僕は知っている。
フランス料理の"Finbec Naoto"に8名分の予約を入れる。そしてオヤジの妹に今日のことを電話で知らせる。カクさんとは、叔母によれば僕のオヤジではなく、僕のおじいちゃんとの、第二次世界大戦中から続く縁の人だという。
そういう人たちを僕ひとりでもてなすことはできない。即、叔母に応援を頼み、遅くも10時30分にはウチに来てくれるよう言う。
道路の混雑により12時ちかくに到着したカクさん一行には先ず4階の応接間に上がっていただき、お茶を飲んでいただく。そして小一時間の歓談の後、"Finbec Naoto"に席を移す。
夜のメニュと変わらないあれこれを、96歳と88歳のカクさん姉妹はほとんどすべて平らげてくれた。良かった。ひと安心をした。それにしても彼らの話を聞きながら、僕の頭の中では1945年の台湾と2020年の日本が重なってならなかった。
閉店後は、いまや古い商家でも珍しくなった「恵比須講」を催行すべく、自宅の和室を整える。床の間に恵比須大黒の木像を安置し、その上におなじく恵比須大黒の軸を掛ける。総鎮守瀧尾神社のタナカ宮司が届けてくれた御札と幣束は木像に並べて飾る。鏡餅、尾頭付きの鯛、米飯、ムツの煮つけ、なます、ほうれん草のおひたし、けんちん汁をお供えし、灯明を上げて商売繁盛を祈念する。
今日の売上金額は昨年のそれの1.78倍だった。朝から晩まで忙しかった。そしていつもより2時間ほども遅れて23時すぎに就寝をする。
「湯波料理の美味しいお店はありますか」ときのうお客様に訊かれたので、湯波料理を専門とする店のパンフレットを手渡しつつ「しかし、いきなりは無理です。美味しい物を食べようなさるなら、事前に調べて、且つ事前に予約をなさらないと」とお答えをした。
湯波料理ならまだしも「どこか空いている旅館はないでしょうか」と訊かれることもある。10月つまり紅葉時期の週末にいきなり日光に出かけてきて「空いている旅館」と言われても対応のしようが無い。なぜ事前の準備を怠るか。
「湯波料理の美味しいお店…」というお客様には湯波料理屋のパンフレットを差し上げたけれど、その方が次の機会に、そのパンフレットの情報を元に予約をされるかといえば、多分、なさらないだろう。人の癖は治らないものである。
「1粒で2度おいしい」のアーモンドグリコのキャッチフレーズではないけれど、本番の前に準備、本番の後に反省。この癖をつければ旅は3度おいしい。しかし繰り返せば、人の癖は治らないのだから、言っても仕方は無いのだ。
むかしは「杉並木まつり」と呼ばれていたのではないか、神道の関係しない秋祭りが現在は「日光屋台まつり」となっている。
これについての町内の話し合いは、タイへ行く前の9月12日に春日町1丁目の公民館で開かれた。
町内のためのノートは専用のフォルダに収め、更に事務室の戸棚に格納することにしているけれど、そのような奥に仕舞い込んでうっかり忘れるようなことがあってはいけない。よって当該のページは話し合いの翌日に複写をして事務机の左の壁に貼った。
僕が事前に用意すべきは「御礼」の熨斗を付けた日本酒、それに屋台を準備する人たちのための手袋、そして婦人会が作ってくれるカレーライスやおむすびに添える「たまり漬」だった。
日本酒は熨斗が関係するからサカモト屋には早めに注文をしておいた。「たまり漬」はおととい婦人会のタケダさん宅へ持参した。手袋はタイ行きの前に手配しても良かったけれど、屋台の準備日つまりきのうの朝にシバタ荒物屋で購入し、イワモト自治会長の自宅へ届けた。
僕は町内のお祭に関しては会計係として後方支援に専念し、現場へは出ない。現場には頼りがいのある人が年齢層を問わず揃っているから安心である。
屋台が春日町の交差点を通過するときにはいつも写真を撮る。今日はそれを待ち構えているところに急な用事が入り、気づいたときには屋台は交差点を過ぎようとしていたから慌てて外へ飛び出し、1枚のみを辛うじて撮す。
早朝の仕事から上がる途中で外に出る。そして新聞受けから新聞2紙を取り出し、事務室の大テーブルに置く。そこからチラシを抜き取り、資源ゴミ用の箱に入れる。日本経済新聞には折り込みの特集が入っていて、今日のそれは"SNS"についてのものだった。
その記事に感化をされたわけではないけれど、しかしひとつのきっかけにはなった、facebookのいわゆる「友達」の中から、知らない人、何も書かないままシェアばかりを続ける人、"read only"あるいは活動停止中と思われる人、「おはようございます。今日も佳き日に…」などという変わりばえのしないコメントをところかまわず付け続ける人など百数十名を削除した。
何のメッセージもなく友達リクエストだけを送ってきた人については放置をしたままだ。「だったらこれも今朝の勢いに乗って削除しちゃうか」とも考えたけれど「共通の友達44人」などとあればそうもできず、これからもしばらくは放ち置くこととする。
朝の繁忙も収まった10時過ぎ、コンピュータと10キーと幾枚かの紙、そして色違いのペン数本を持って自宅の食堂へと席を移す。そして年末ギフトのための、ダイレクトメールの送り先を、データベースから選び出す。
この作業は精密さを要するため、電話が鳴ったり、あるいは「近くまで参りましたのでお寄りしました」などという、自分の都合しか考えない営業係の来るようなところでは、とてもではないけれど、できない。
今年の5月には、これを30分でやり遂げた記録がある。それを今日は27分で完了した。後はこの結果を事務係のコンピュータに複写し、彼女たちの目視による洗い直しを待つことになる。
昼飯は繁忙により抜いた。さして腹も空かなければ、食べなくても特段の問題は無かったに違いない。
そして夜は「この秋の過ぎる前にあと数尾は、更に秋刀魚を食べたい」と、きのうの日記に書いたばかりにもかかわらず早速、秋刀魚のスパゲティを肴に、年金生活者並みの節約ぶりではあるけれど、白ワインではなしに"TIO PEPE"を飲む。
気づくと素っ裸で寝ている。いつもと違って枕の下にiPhoneはなかったから、時間が分からない。早朝に仕事のある日は04:45にアラームをセットする。iPhoneはどこにあるのだろう。
着替えて食堂に行くと、黄色い"5c"はコンセントに繋がれ充電中だった。おなじ棚に置かれた電波時計は04:42を差している。すかさずiPhoneのアラームを解除する。きのう風呂に入ったか否かの記憶は無い。
「日はまた昇る」のジェイクでもブレットでもないからドライマーティニの駆けつけ三杯は僕には無理だ。しかしきのう「コスモス」では席に着くなり2杯のそれをこなした。ドライマーティニのはかどる晩は要注意である。
オフクロの一周忌は1週間前に完了した。しかし祥月命日は本日10月15日だ。簡単な朝食を済ませ、自転車で如来寺のお墓へと向かう。花と水と線香を供えて後はそのまま下今市駅に至り、07:45発の上り特急スペーシアに乗る。
夕刻に次男と新橋で待ち合わせ、鮨を食べる。その鮨の前に秋刀魚の塩焼きを食べる。今年はいまだ、まともな秋刀魚を口にしていなかった。よって数日前から予約をしておいた秋刀魚である。
この秋の過ぎる前にあと数尾は、更に秋刀魚を食べたい。
1983年の夏が来る前に、阿里山森林鉄路のどこかの駅で買った弁当が、僕の理想の弁当だ。米のメシの上には目玉焼きと炒めたハム、そしてこれまた炒めた青菜がのせられ、それらがフタで押しつぶされていた。メシには醤油に加えて目玉焼きとハムと青菜の油や脂が染みこみ、つやつやと光っていた。
自分で弁当を詰めるときのひな形は、30年以上も経った今でも、その阿里山森林鉄路のどこかの駅で、もう顔も忘れてしまったけれど、とにかく弁当製造業者などではない、自宅の台所で誂えた弁当を、同業の仲間たちと押し合いへし合いしながら売っていたオバチャンによる弁当である。
10月も10日を過ぎると紅葉狩りの観光客が増える。ウチの店も忙しくなる。きのうの日記にも書いたけれど、僕の昼食時間は概ね13時30分からだ。しかしまた、この13時30分から14時30分のあいだになぜか、店は混み合う。
よって今朝は朝食を誂えながら、理想の弁当をひな形とした弁当を詰めた。その弁当は、昼に事務室で電話番をしながら少しずつ食べた。美味かった。
ところで中国人は冷えたメシは決して食べないと聞くけれど、本当だろうか。阿里山森林鉄路のどこかの駅で買った弁当も、そういえば温かかった。僕は日本人なので、冷えた弁当でも一向に構わない。あるいは却って好きだったりする。中国人からすれば、それこそ噴飯もののことだろう。
「大貫屋」のオムライスは大きい。薄焼き玉子の下のケチャップライスは米1合分の量があるように思われる。これに慣れた腹でチャーハンを食べると、ちと物足りない気分になるからいつも大盛りを頼む。
昼食は大抵、すべての社員が昼の休憩から上がる13時30分以降に摂る。本日はちょうどその時間に来客があったため、予定がずれた。
そうしていよいよ「大貫屋」へ行き、チャーハンの大盛りを食べた。食べるときにはすんなりと胃に収まったけれど、夕刻になっても満腹感は減衰しない。
「食欲が無いとは、からだが食べ物を欲していないということだから、無理に食べるべきでない」という意見がある。それに従えば、今夕の僕は何も食べずにいるべき、ということになる。そうして明日の釣り銭の準備をし、また明日の朝食のための米を研ぐ。
19時に至っても腹は減らない。しかし「外で酒を飲みたい」という気持ちはある。よって自転車で日光街道を下り、小倉町の「和光」の戸を引く。
帰宅して食堂の時計に目を遣ると、時刻は20時になりかかるところだった。ことほど左様に、僕が酒を飲んでいる時間は短い。
二重ガラスの窓を通しても、お囃子の太鼓が聞こえてくる。あるいはその音は、換気扇の隙間から耳に届いてくるのかも知れない。
灯りは点けないまま応接間のガラス戸を開ける。そしてソファに座り、今度ははっきりとと聞こえるようになった、その太鼓の音に耳を澄ます。練習をしているのは仲町の人たちだろうか。今市屋台まつりは18日の日曜日に、JR今市駅前通りにて開催をされる。
10月3日、夜のスワンナプーム空港で、ボーディングパスに印刷されたゲートへと向かいつつ、薬を飲むための水が必要なことに気づいた。紙コップのコーヒーに100バーツも取るコーヒーショップには入りたくない。
「こういうときは自動販売機に限る」と、動く歩道を降りてすこし戻り、先ほど目に付いた自動販売機の前まで来ると、ペットボトルの水に45バーツの値が付いていたから「ウッ、高けぇ」と、そのままきびすを返した。
水は飛行機に乗り込み、最後尾にちかい席まで歩く途中のギャレーで客室乗務員にもらった。「あわよくば」とペットボトル入りの水を期待したけれど、彼女が手渡してくれたのは紙コップの水だった。贅沢は言えない。
10月2日にタニヤの酒屋で両替をしたレートで計算すると、45バーツは148円。やはり高い水である。
ところでここで、今回の旅の小遣い帳に"TIP"で検索をかけてみる。それを合計すると1,460バーツになった。
45バーツの水は高く感じて買えないくせに、1,460バーツのチップはいささかも惜しくない。面白いものである。
朝、新聞受けから新聞を取り出し、それを事務室の大テーブルに運んだら、先ずすることは、チラシを紙の質ごとに分けて資源ゴミ置き場へ持っていくことだ。つまり僕は、すべてのチラシは読まずに捨てる。
ただひとつ例外があって、それはユニクロのチラシである。
今年の春に出たスウェットパーカが欲しかった。早速、ウチから最も近いユニクロへ行って実物を確かめた。そして「うーん、ちょっと違うな」と感じて帰って来た。
この週末に入ったチラシにより、そのパーカに防風の機能と裏地にフリースを備えた新しい種類の出たことを知った。よってまたまたユニクロの実店舗に出かけ、今度は見るだけでなく試着までした。そして今回も「うーん、ちょっと違うな」と感じて帰って来た。
その「うーん、ちょっと違うな」は那辺から来るものか考えてみた。フードである。
僕はフードは要らない。パーカを着て、しかしフードをかぶる頻度がどれほどあるかと考えれば、それはほとんど無い。ほとんど使う機会の無いフードを金玉のように常に首の後ろにぶら下げ続けるパーカは妙な服である。
更に加えて僕のタンスには既にして旧式の、木綿によるスウェットパーカが何年も着られることなく提がっている。ここに更にパーカが増えることは避けたい。
かくして秋祭り特別価格2,990円プラス消費税の出費は抑えることができた。それよりも何よりも、家にモノが増えなくて良かった。モノとは買うときだけでなく、捨てるときにもお金がかかる。ここ数年でみっちり学んだことである。
普段であれば3時、4時には起床をするところ、喉と気管支に風邪を負ってタイから帰って以降はどこか疲れているのだろう、どうも早起きができない。今朝は非常用としてiPhoneに設定したアラームに気づいて起床し、早朝の仕事へと向かった。
製造現場から自宅の食堂に戻り、先ずは水とお茶と花と線香を仏壇に供える。しかるのち当方もお茶を飲む。東の雲の中から太陽が見え始める。時刻は5時52分だった。
下今市07:45発の上り特急スペーシアに乗り、ひばりヶ丘に至る。そこで14時30分まであれやこれやして来た道を戻る。
いまだ夕食の時間には随分と間があったけれど、昼食が軽かったため、腹は充分に空いてる。よって昼の光の残る時間から、北千住にて飲酒活動を始める。
エスカレーターで東武日光線のプラットフォームに上がると、16:42発の下り特急スペーシアが入ってくるところだった。特急券はこれから買うわけだから、この列車に間に合うわけはない。次の17:13発を自動券売機で買おうとすると「どうぞ窓口へ」と、近くの駅員に促された。
窓口で17:13発の切符を求める。すると、券売係とは別の駅員に「17時13分発でよろしいんですか」と訊かれたから「はい」と答えた。そのまま改札口に回り込む。どうも様子がおかしい。16:42発は、いまだ停まったままだ。
ふと気づいて「えっ、乗れるんですか? だったら乗ります。乗変で」と急いで言う。「よろしいんですか」と先ほど声を掛けてくれた駅員は「やっぱり」と叫んで発券システムの方に走り、発券係から16:42発の特急券を奪い取るようにした。そして駆け戻り、それを僕に手渡してくれた。そのあいだに改札係は、時間によって値段の変わる特急券の、差額410円を僕の手の平に載せていてくれた。
「お客様を、ご案内中です」というアナウンスがプラットフォームに流れる。案内されている客とはすなわち僕のことである。
下今市駅から自転車に乗って会社に着くと、18時に仕事を終えた社員たちが、通用口から帰るところだった。東武鉄道社員の機転と迅速な働きにより、今日はこれほど早くに戻って来ることができた。有り難く感じる。
高野秀行は辺境を旅し、ときにはそこで暮らすこともする紀行文作家ではあるけれど、むしろ僕は彼の、旅をしていないときの文章が好きだ。挙げてみればそれは「アジア新聞屋台村」であり「異国トーキョー漂流記」であり、また「腰痛探検家」である。
「腰痛探検家」は高野がみずからの宿痾ともいうべき腰痛を治すべく、藁にもすがる思いで右往左往した記録だ。「旅をしていないときの文章」と書いたけれど、高野はあるいは「腰痛の治療なら任せろ」と自信たっぷりな人物の密林を探検していたのかも知れない。
「腰痛探検家」は今週の月曜日に読み終えた。タイへ行く前にほとんどの部分を読み、そして最後のところを帰国してから読んだ、というわけだ。
「腰痛探検家」の最後のページを閉じたとき、僕に湧いた感情は「アジア新聞屋台村」や「異国トーキョー漂流記」のときとおなじ、爽やかさな哀しさだった。不思議な作家である。
オフクロは昨年の10月15日に亡くなった。前夜には家族とメンチカツ、生のトマト、スパゲティサラダをおかずに米のメシを食べての大往生だった。一周忌は僕がタイから戻り、しかも紅葉狩りの観光客の増える前として、本日8日を選んだ。
それはそうとしても通常の業務も忙しく、朝からあちらこちらに行ったり来たりする。如来寺には約束した11時の1分前にすべり込んだ。
本堂での供養が完了して後は砂利を数百メートルほども踏んでお墓に至る。クワカドシューコー住職と息子さんのふたりも来てくださり、そこでまたお経を上げていただく。日光の山々が、青空を背にしてくっきりと見えている。北海道に接近している台風の影響か、吹く風の中で線香を供える。
オヤジの一周忌は席を設け、人をお呼びしてのものだったから、それなりに労力を要した。おばあちゃん、そしてオフクロの今日の一周忌は近親者のみの執り行いで、しごく簡素なものだった。
昼の会食は長引かせず、13時直前に帰社して業務に復帰する。
10時すぎ、今市第三小学校3年の児童19名が、先生と保護者に付き添われて会社見学に来る。嬉しいことだ。ウチは地元の小学校の低学年のみ、見学を受け入れている。
なぜ地元に限定するかといえば、そうしないと申し込みが多すぎて業務に支障を来すからだ。なぜ低学年のみかといえば、子供とはいえ人は年齢を重ねるに連れ好奇心と熱心さを失うからだ。
閉店間近の17時50分、駐車場の目の届かないところまで行くと、それらしいワゴン車が停まっていたから安心をする。
ウチはいくら忙しくても商品の作り置きはしない。店にはすぐに売れる分のみを陳列する。たまり漬と味噌は食べ時を考えた生もので、冷蔵を必要とする。よってそれらすべては冷蔵ショーケースに収められている。
その冷蔵ショーケースは定期的に、専門家の手により徹底的に磨かれる。作業はすべて閉店後に行われる。僕はとなりの事務室に待機し、監督役に呼ばれるたび現場に足を運んで進捗状況を確認する。
店に4台あるショーケースを、4人の集団は2時間20分かけて完璧に綺麗にした。駐車場で東京への帰り支度をしている彼らに挨拶をしてシャッターを降ろす。そして自宅へ戻り、いつもよりすこし遅い夕食を摂る。
第30回目の日光MGは、先月の9日から10日にかけて、日光ろまんちっく村の宿泊棟にて行われた。ひと月ちかくも経てば記憶も薄れてしまいがちになるけれど、両日はたまたま「50年に1度」という豪雨に重なった。
40名の参加者に恵まれた研修だったけれど、危険は回避しなくてはならない。2日目の9月10日は夕方までの日程を昼までに短縮し、すべての参加者は無事に帰宅を果たした。しかし研修の内容にはもちろん、端折られたところもあった。
その端折らざるを得なかった部分については、ニシジュンイチロー先生の講義にはもちろん及ぶべくもないけれど、せめて地元から参加してくださった方々だけにでも穴埋めさをせていただきたいとは、日光MGの終了直後から考えていた。
それが今日まで延びたのは、その翌週から高島屋新宿店での出張販売が始まり、更には僕のタイ行きが重なったことによる。
今夜ウチに来てくださった8名の方々には先ず「STLoWSの法則」について、次に利益感度分析について長男が解説をする。皆さんには実際に、MGの第4表Bを使って売価、原価、販売数量、固定費の各要素が利益に対してどのように作用するかを算出していただく。ここまでの所要時間は50分。以降は酒飲みである。
そして酒飲みが一段落をしたところで、今度はヌマオアキヒロさんのマイツールによる「歯科医院におけるMQミックス表に/hを加えてみたら」の経過報告および意見交換が始まる。
応接間の白い壁がプロジェクターになるとは知らなかった。今後はこのような勉強会を、たびたび開いていきたい。
夜中に激しく咳き込んで目を覚ます。「現地の病気には現地の薬」とばかりにバンコクで買った抗生物質も、また咳止めも効いていない。冗談めかして言えば、9月25日に遭遇した、ひどく咳をする男がばらまいていたのは、ことによるとタイではなく、ミャンマーかラオスの菌だったのかも知れない。
咳が治まって後はふたたび眠ることができ、5時すぎに起床する。
家内の父の米寿のお祝いに出席をするため、家内と共に下今市07:04発の上り特急スペーシアに乗る。それで鎌倉の家内の実家には10時すぎには、そして一服して会場の鎌倉プリンスホテルには11時すぎには着いてしまうのだから便利なものだ。
家内の父はまさに、戦後の日本を育て、支えた世代である。多くが城山三郎の小説の主人公になり得た時代の人である。現在の元気さを保てるなら、ぜひ卒寿を目指していただきたい。
昼の会食では通常のコースに加えて更にふたつのデザートをいただいたため、夕刻になっても腹は一向に減らない。よって銀座や浅草には寄り道をしなかった。21時前に帰宅してから軽く夜食を摂り、22時すぎに就寝する。
行きとおなじく離陸の前にはデパスとハルシオンを各1錠ずつ飲んだにもかかわらず、今回ばかりは熟睡できない。
機は随分と長いあいだ揺れ続けているような気がする。「ただいま気流の状態の悪いところを…」というような客室乗務員のアナウンスが聞こえる。半覚半睡のまま「墜ちるなら墜ちても構わねぇ」くらいのことをボンヤリと考えている。
熟睡できなくてもメシは配られる。時刻は3時40分だった。睡眠は足りていないけれど、メシはすべて平らげた。そして"TG682"は定刻より15分はやい、タイ時間04:40、日本時間06:40に羽田空港に着陸をした。
パスポートコントロールで帰国のハンコを押してもらい、バゲージクレームでスーツケースを受け取り、税関の職員とふたことみことを交わして外へ出る。旅の最中にあっても、また日常にあってもこれは変わらないことだけれど、まるでベルトコンベアででも運ばれているような感覚の中で電車を乗り継ぎ、帰社する。
日曜日の店は忙しいから、荷物の整理などは後回しにして販売の手伝いをする。
僕は旅先では土地の人とおなじものを食べる。それで辟易したことはマルディヴのグライドゥー島を除いては皆無だ。日本に帰ったからといって、すぐに日本のものを食べたいという気は起きない。夜はステーキを食べワインを飲んで早々に寝る。
激しく雨が降っている。プールで泳ぐ白人の姿も、今朝ばかりはさすがに見えない。先にも書いたけれど、僕はこのホテルを朝食付きのプランでは予約をしていない。念のためロビーに降り、朝食会場を見に行く。金を払ってまで食べるようなものでもない。よって部屋に戻り、きのうの日記を書く。
11時30分に荷造りを終える。それから20分後に部屋を出てチェックアウトをする。雨は止んでいる。
今回のバンコク1日目にも来たクイティオ屋をふたたび訪ね、バミーナムを注文すると、顔つきも肌の色もアフリカ系を思わせるオバチャンは達者な英語にタイ語を織り交ぜながら大盛りにするかと訊く。僕は晩飯のことを考え「普通盛りで結構」とタイ語で答える。なかなか親切なオバチャンである。地元の人に観光客も混じる店内にて、今回の旅の最後になるだろう汁麺を食べる。
「タイ人は、からだの具合が悪くなる前にマッサージを受けます」と、2009年にタイ人のオネーサンから教えられたことがある。そう言われた後も、僕はタイマッサージについては暇つぶしくらいにしか認識をしてこなかった。今日は15時まで時間が空いている。よってクイティオ屋の側から歩道橋を渡り、チャロンナコン通りの向かい側に渡る。そして目に付いたマッサージ屋の扉を押す。
手渡された英語の料金表をひとわたり見て、脚マッサージ1時間、背中と肩45分間の双方を選ぶ。施術を終えると、特に肩から背中が楽になっていた。毎日、特に夜中は激しい咳が止まらない。そのことにより背中の筋肉は凝りに凝っていたらしい。次にタイに来たら、その時こそは小まめにマッサージを受けようと反省をする。
15時にはいまだ間があるため、ふたたびクイティオ屋の側に歩道橋を渡り、テイクアウトが主らしいコーヒー屋でホットコーヒーを飲む。
コモトリ君は15時5分にタクシーで僕を迎えに来た。同じトンブリー側の、チャオプラヤ川に面したコモトリ君のコンドミニアムには10分ほどで着いた。水をもらい、ダイニングの丸テーブルにコンピュータを開き、きのうの日記を書き継ぐ。
コモトリ君は今日のために上出来の白ワインを取り置いてくれた。瑕疵があってはいけないと念のため味見をした上で、彼は抜いたばかりのコルクを瓶の口に戻し、トートバッグに収めた。
タイを去る日の夕食はいつも、コンドミニアムちかくの海鮮料理屋で摂ることにしている。この店の、電子ピアノの「先生」が来るまでのBGMは常に変わらず1970年代のポップスだ。"Christie"の"Yellow River"や"Dawn"の"Knock Three Times"の流れる店の木の床を、こんな曲は知らないだろう若い店員たちが行き来する。夜気はいつになく涼しい。
食事を終えてコモトリ君の部屋に戻り、ベランダでしばしくつろぐ。ピンク色の電飾も賑やかな観光船が、チャオプラヤ川をゆっくりと遡っていく。
コンドミニアムの駐車場に早めに降りると「金で買える安全は買っておけ」というコモトリ君が20時に予約したハイヤーは既に僕を迎えに来ていた。高速道路に上がると、運転手のレックさんは一般道を走らせるときより更に姿勢を正し、上半身は微動だにしない。空港までは45分の道のりだった。
"BOEING 747-400"を機材とする"TG682"は、定刻に11分遅れて22:56に離陸をした。通路側の席ということもあり、あるいは充分に満足をしたのか、遠ざかるバンコクの夜景を機窓から眺めようとする気は起きなかった。
ハウスダストによりひどく鼻を詰まらせた人が、その鼻づまり病を人に感染させる夢を見ながら目を覚ます。目覚めた僕の鼻も詰まっている。喉の状態は最悪である。微熱はあるのかも知れないけれど、高熱に至らないことだけが助けである。
きのう抗生物質を買うとき、薬局のあるじは「食事の前に飲んでください」と言った。部屋に帰って検索エンジンにその薬の名を入れると「食事の2時間以上前に服用すること」と書いてあった。
時刻は1時16分だった。冷蔵庫から冷水を取り出し、2錠目の抗生物質と咳止め、日本から持参した消炎鎮痛剤を飲む。外は激しい雨で、稲妻がひっきりなしに光っている。本を読むとか日記を書く気力は無い。窓の外を眺めつつ、ふたたび眠りに落ちる。
外が充分に明るくなるころに起床する。雨は止んでいる。"ibis Reverside"は朝食を含めないプランで予約をしてあった。食欲はそれほどあるわけではない。チャロンナコン通りに出て点心を売る店を見つけ、ここで肉まんじゅうと焼売少々を買う。それを部屋へと持ち帰り、今朝のメシとする。
10時にコモトリ君がハイヤーで迎えに来る。今日は往年のスラム、否、今でもスラムには違いないクロントイに用がある。普通のタクシーでは乗車拒否を繰り返される恐れがあるためのハイヤーである。
先ずはタニヤの酒屋に寄り、4万円を12,140バーツに換える。1万円で3,035バーツとは、2013年10月1日におなじ酒屋で両替をしたときの3,170バーツに次ぐレートの良さではあるけれど、2011年9月に4,000バーツ超を経験した身からすれば、大して嬉しくもない。
タニヤからは一直線にクロントイに向かう。「クロントイ・シーカーアジア財団」は、コモトリ君が微力を尽くす、スラムや辺境の子供たちに可能な限り教育の機会を提供することを目的とした団体だ。隣接の工房では、アカやモンなどの少数民族から届いた布を、クロントイのオバサンたちがポーチなどに仕立てている。僕は日本へのお土産はいつも、ここでのみ求めている。
クロントイ港の税関にちかいフカヒレ屋でメシを食べるうち、雨が激しくなってくる。店のオニーチャンは傘を貸してくれようとしたけれど、それを断りアーケードの端に寄せられたハイヤーに飛び込む。
茨城県つくば市の農業法人「みずほ」が運営する「みずほの村市場」に顔を出す。上出来のぶどう一房に1,300バーツの値が付いていた。汁麺が30杯以上も食べられる計算である。客の内容は日本人が2、3割、残りはタイ人で、料理屋などへの配達もしているという。
本日のすべての用事といえば大げさになるけれど、それらを済ませ、ホテルに戻ってシャワーを浴びる。先ほどまでの雨は収まった。14時30分のシャトルバスに乗り、きのうとおなじく"BTS"を使ってサパーンタクシンで降りる。そしてサトーンの船着き場からオレンジ旗の舟に乗る。時刻は15時12分だった。
「サパーンクルントン」の「クルントン」の発音が難しいから発音は心してした。そのせいかどうかは不明ながら、券売係のオバサンは難なく理解してくれた。20バーツ札1枚を差し出すと、オバサンは券売機と金庫を兼ねる筒から6バーツの釣りをくれた。
本当は旗を立てていない鈍行舟に乗りたいところだ。しかしこれは中々来ないから、いつまでも経験をすることができない。暁の寺ワットアルンは足場に囲まれ修復中だった。
鈍行舟にとっては16番目、オレンジ旗の急行舟にとっては11番目の船着き場「サパーンクルントン」で舟を降りる。そしてクルントン橋のたもとの、京都でいえば河床のようなね、しかし中途半端な時間だから客はひとりもいない料理屋でコーヒーを飲む。
オレンジ旗の舟をひとつやり過ごし、次のやはりオレンジ旗に乗ると、金曜日の夕刻とあって、特にカオサンにちかい船着き場プラアーティットからはとんでもない数の白人観光客が乗り込んできた。サトーンが近づくに連れ、乗客は更に増えていく。この状態で転覆沈没でもすれば、正に大惨事である。
そうしてサトーンに戻る。2時間と少々が経っている。何が面白いということもないのだけれど、しかし僕は、こういう大したこともないことがなぜか好きだ。
時間調整のためロビンソン百貨店地下の"Tops"へ行く。そして冷蔵ショーケースにワインを並べている、普通の店員とは明らかに違う、ラメ入りのハイヒールを履いたオネーサンに「ラオカーオはありませんか」と訊いて"No have"などと、冷たく言い放たれる。
焼酎がもっぱら貧乏人のためのものとしてさげすまれていた時代の日本と、タイは今、こと酒を取り巻く文化においては同じ水準にある。タイにもやがて、高級百貨店にラオカーの並ぶ時代が来るだろう。そして18時15分、コモトリ君がコンドミニアムの舟に乗ってサトーンまで出てくる。
昨年の秋の晩、サパーンタクシンからひとりジャルンクルン通りを南下し、泊まっていた"CHATRIUM RIVERSIDE"へ向かう途中で、右側に砂利の広大な空き地を見つけた。空き地の入口には土鍋からマットレレスまでを売る雑貨屋があり、奥からは、人のざわめきとバンドの音をが聞こえてきた。近づいていけばそれは巨大なムーカタ屋で、ひと目見るなり「来年は是非、ここへ来よう」と僕は考えた。
ムーカタとは、タイの庶民が家族や友人とたまの贅沢として行く、食べ放題の焼肉である。上はジンギスカン鍋、しかしその縁は広く深く、ここにスープを溜める。肉を焼いた脂は上部の溝を滑り落ちてスープ落ち、これにコクを与える。そのスープで野菜などを煮て、肉と共に食べる。コモトリ君には何年も前からムーカタ屋に誘い続けて、しかし拒まれ続けて来た経緯があった。
ようよう今回はコモトリ君を説得して、僕はムーカタに初見を果たせる、というわけだ。
先ずは雑貨屋を横目に奥を目指す。ここのムーカタ屋には一体全体、幾つのテーブルがあるやら想像もつかない。案内されたのは200番テーブルだった。
そのテーブルの番を僕がしているあいだに、コモトリ君は食材のバットがズラリと並ぶ壁沿いへと向かった。そしてメインは焼肉だというのに「おめぇ、あんなの食えたもんじゃねぇぞ」と言いながら、調理済みのソーセージとミートソーススパゲティの皿をテーブルに置いた。そのうちの先ずはスパゲティを口に入れて「ウェーッ、不味い」と顔をしかめた。
ムーカタは思うに、博打とおなじく「見」が必要なのではないか。幾十も並んだバットをひとつひとつ観察し「これなら食えそうだ」、あるいは「これは食べてみたい」と思えたものだけを自分のテーブルに持ち来て焼く。そうすれば失敗は避けられる。
僕の選んだ牛肉のたれ焼きは中々美味かった。しかしコモトリ君はビールとウィスキー以外はほとんど口にせず、隣のテーブルとの交流に活動の軸を移しはじめた。僕の腹も満ちれば、そして「一度はムーカタ屋に行ってみたかった」という気が済めば、あとは店員のオニーチャンに勘定を頼むのみである。
ジャルンクルン通りで停めたトゥクトゥクは、走り出すと大音響でタイのポップスを流し始めた。「カラバーオは? 積んでないのか、田舎は?」とコモトリ君が運転手に矢継ぎ早の質問をする。若い運転手はコラートの出身だった。その派手な音と共にシェラトンホテルの前を通り過ぎ、川沿いのリバーシティに至る。
馴染みの洒落た店"pimienta"のストゥールで、コモトリ君はようやく人心地が付いたようだ。テーブルには生ハムと胡瓜のピクルス、そしてイチジクのジャムを塗ったパンが届いた。バンドに合わせて女の歌手が"Fly me to the moon"を歌っている。チャオプラヤ川には電飾も賑やかな観光船が行き交っている。
夜中に苦しんで抗生物質やら消炎鎮痛剤を飲む、そのときには水が喉を通りづらくて困惑したにもかかわらず、コモトリ君がこの店に預けているグレンリベットのソーダ割りはスイスイと喉に吸い込まれていく。
あまり酔いすぎてもいけないため、それよりも何よりも、当方は気管支と喉に正体不明の風邪を抱え込んだ身である。酒の宜しいはずはない。
シープラヤの桟橋に立ち、対岸への渡し舟を待つ。折しもディナー船による観光を終えた中国人の団体は、その船3艘を横に並べ、それを渡り廊下のようにして岸に降りる数の多さである。
そのような喧噪とは無縁の渡し舟は、地元タイ人の日常を乗せてユラユラと川を渡っていく。対岸に降りればクロンサン市場を通り抜け、チャロンナコン通りへ出ようとする、その境目のとろこで客待ちをしていたトゥクトゥクで、コモトリ君にはホテルまで送ってもらう。時刻は22時になりかかっていたかも知れない。
チェンライでは連日の、20時前の就寝だった。深夜の0時台や1時台に起き出し、あれこれして4時台から2時間ほど二度寝をすることを繰り返してきた。今朝もそれは変わらない。
ホテルのハイヤーは400バーツが基本料金で、それには1度懲りていたから、今回は街の旅行社に300バーツで空港までの送りを頼んでおいた。そのドライバーが約束の8時30分より10分はやくホテルのロビーに迎えに来る。
朝の街を抜け、空港には20分足らずで着く。タイスマイル航空のカウンターでチェックインをし、荷物の検査を受ければ、後はすることが無い。第1、第2のふたつのゲートに続く待合室で、VIP席にふんぞり返る金持ちの写真を撮ったりする。
ボーディングパスには"GATE1"の表記があったけれど、散々待たされた挙げ句にゲートは2に変更された。タイでは良くあることだ。「なんのインフォメーションも無いではないか」と韓国人の、かなり英語を話す若い男がタイ航空の職員に文句をつけている。しかしタイ航空の職員は「はぁ?」くらいのところでノレンに腕押しである。
"AIRBUS A320-200"を機材とする"WE131"は、定員の3分の1ほどの客を乗せ、定刻に33分遅れて10:53に離陸をした。チェンライの、蛇行する川が見る間に遠くなっていく。積乱雲が林立する晴れた空をひと飛びし、スワンナプーム空港には定刻に13分遅れの11:53に着陸した。
チェンライは暑くても空気は乾いて爽やかだった。それに対してバンコクは海にちかい低地のせいか湿度が高い。だからといってその気候が嫌いなわけではない。
実は9月25日に使った、チェンライからチェンマイに下る乗合自動車に、ひどく咳をする男がいた。胸に萬金油を塗るその男を見て「まさかオレにうつるようなことはねぇだろうな」と心配をしたが、27日、つまりパクラ村のシームンの家に着いた夕刻、喉に異変を覚えた。
以降は日本から持参した消炎鎮痛剤を折に触れ飲んでいるけれど、からだはときに微熱を帯びているような気がする。体温計は持っている。しかし何やら恐ろしくて使うことができない。
普段であれば、空港から市内までは電車を使うところ、今日はそれを止め、またタクシーも避けて、二階級特進でリムジンサービスを頼むことに決めた。最も質素なトヨタカムリを使えば料金は街まで1,000バーツ弱ではなかったか。
そしてその"AOT"のカウンターで申し込みをしながらふと料金表に目を遣ると、カムリには1,500バーツの値が付いていた。「1,000バーツくらいと思っていたよ」と話しかけると「BMWは3千いくら、ベンツも3千いくら、それにくらべてカムリは…」と、オネーサンは丁寧に教えてくれた。
どこからともなく現れたポーターが僕のスーツケースを曳きながら歩いて行く。その後ろを僕は追う。しかるべき場所に並んだトヨタカムリの1台に、ポーターが僕のスーツケースを収めたところで20バーツ紙幣1枚を手渡す。運転手は太った若い男だった。彼は行き先を示す、コンピュータから吐き出された紙を僕に見せ「この住所で間違いないですね」と念を押す。「チャーイ、トンブリー」とひとこと言うと、運転手は笑いながらタイ語でなにやら答えた。
滑るように走るトヨタカムリの後席で「人はこうして堕落をしていくんだわな」と感じる。「ドゥシットに泊まっている時点で、充分に堕落しているわ」と言われれば、返す言葉も無い。
運転手はタクシン橋を渡り、チャロンナコン通りに降りた。しらばく進んで「ibis Reverside…ですよね?」と訊くので「多分、行き過ぎたね、セブンイレブンのちかくだよ。戻らなければならない」と返事をする。降りだした雨の中で、渋滞が始まっている。
すこし先の交差点で運転手はUターンをした。そしていま渡ってきたばかりのタクシン橋の下をくぐり抜け、だからかなりの距離を無駄にしている。Uターン禁止の表示があるにもかかわらず、中央分離帯の切れ目で運転手はふたたびカムリを回頭させた。今度は間違いなくセブンイレブンの角を左折する。そして狭いソイ17に入って行く。道を誤らなければ、空港からホテルまでは35分で達していた筈だ。
"ibis"のホテルを"shabby"と言う人がいるけれど、僕はそうは思わない。小さくまとまった合理的な部屋はむしろ好みだ。窓の外にはチャオプラヤ川が見えている。
13時がちかくなっている。先ずは昼飯だ。"trippen"の革靴を"KEEN"のサンダルに履き替える。そしてソイ17からチャロンナコン通りに出て左へ進む。先ほどのリムジンタクシーの運転手がホテルへの入口を通り過ぎたことを幸いとして、僕は車窓からメシ屋の観察をしていたのだ。
地元の人で混み合っているクイティオ屋に入り、センミーナムを注文する。これが非常な薄味で、つまりこれは、卓上の調味料を使って自分好みに仕立て上げることを客に大きく認めている店、または大いに頼っている店、ということだ。
部屋の窓からも見えている交通の要衝サパーンタクシンへ出るとすれば、クルントンブリー駅まではホテルのシャトルバスで、そこからひと区間だけ"BTS"に乗ってサパーンタクシン、という経路が考えられる。もうひとつは渡し舟だ。
桟橋には、タクシン橋の下の公園を通り抜ければ行けることを調べていた。よってチャロンナコン通りを東へ歩き、木々の茂っているあたりからチャオプラヤ川の方面へと辿ってみる。川に突き当たるとなるほど、桟橋はすぐに見つかった。しかし現在の体調でここまで歩くのは億劫だ。取りあえずはホテルに引き返す。
プールサイドを散歩したり、きのう撮った画像を日記用に加工したり、あるいは本を読んで午後は過ごす。そして17:30発のシャトルバスに乗る。僕の下調べによれば、バスはクルントンブリー駅の3番出口に停まるということだったけれど、まったく異なる場所で降ろされたからいささか戸惑った。
クルントンブリーからサパーンタクシンまでのひと区間とは、都営浅草線でいえば浅草から本所吾妻橋までとおなじく、要は川を渡るだけだ。サパーンタクシンの駅からは階段で、下界の喧噪を目指して降りていく。そして高架下に連なる屋台をかきわけ、バンコク在住の同級生コモトリケー君と待ち合わせたサトーンの船着き場でベンチに落ち着く。そろそろ日暮れのころである。
コモトリ君には先ず、タイの抗生物質が欲しい旨を伝えた。日本で病院にかかった際に処方され、余った消炎鎮痛剤が、今回の症状にははかばかしい効果を発揮しないためだ。
ジャルンクルン通りの薬局では、コモトリ君のタイ語の病状説明に対し、抗生物質"PANOXILIN-500"10錠と咳止め"Patar-Cap"10錠を、あるじは出してくれた。価格は80バーツだった。
"lebua at State Tower"下の、なじみの屋台を今夜も訪れる。そして「食事の前に飲め」と言われた抗生物質をビールで嚥下する。体調は良くないけれど、食欲は衰えていない。日暮れどきの蒸し暑さは消え、涼しささえ感じられる。
"ibis Reverside"への行き来は、殊に帰るときが面倒だ。シャトルバスは20時で終了し、ホテルの場所はリムジンタクシーの運転手でさえ道を誤るほど知られていない。ジャルンクルン通りで停めたタクシーは、いまだ夜も更けていないのに、橋を渡って川向こうへ行くことを嫌がった。その運転手をコモトリ君が何とか説得する。
バンコクは脂粉と嬌声の都市でもあるけれど、そのようなものにはあまり興味がない。部屋に戻ってシャワーを浴び、即、就寝する。