事務室の大改装の第一弾として、あしたは鉤の手のカウンターと壁一面の本棚が撤去される。それを知っていながらやはり、本棚をすべて空にし得たのは工事前日の本日午後だった。青山学院モダンジャズグループの、1977年のパンフレットまで突っ込んである、本棚というよりは乱れ箱のような有様だった現実を鑑みれば、やすやすと片づかなかったこともむべなるかな、である。
夕刻より古河市へ移動し、第一回古河MGの前夜祭「西の会」へ出席をする。東京MGに続いて人生2度目のMGが日光MGだったというスズキケンジさんが主催者となれば、これに駆けつけないわけにはいかない。
10時すぎにホテルへ戻り、テレビを点けると、ハイヴィジョンというのかデジタル放送というのか、大写しになった人の毛穴まで見える鮮明さに驚く。これでNHKのスポーツ関係の番組を見ながら本日の日記を作成し、0時30分に就寝する。
早朝に「戦艦大和ノ最期」を読み終える。
高島屋での、日別アイテム別販売管理ソフトにバグがあるため、これを数十分かけてつぶす。このバグは、その年により販売日数が変わることを原因として発生したものだが「一体全体、過去の俺はどうしてこんなコードを書いたのか」と不思議に思われる無駄な数行もついでに削除する。
夜、「第177回本酒会」に出席をするため、今月の会場「やぶ定」へ行くと、日本酒とおでんを特集した"dancyu"をイチモトケンイチ会長が持っていたため、これを見せてもらう。ここに出ている「たこ梅」のさえずりは、僕が1986年から2002年までのあいだに食べた美味い物のベスト1である。
ちなみにそれから現在までのベスト1は、2003年のある晩に家で食べた湯豆腐で、つまり美味い物とは僕の場合、満を持して迎えるものではなく、あるとき思いがけず遭遇するものらしい。
下今市駅9:02発の上り特急スペーシアに乗る。仕事のために読むべき活字が山ほどある。乗り物での移動は、このようなものに目を通す絶好の機会ながらそれはせず、「戦艦大和ノ最期」を読む。
11時35分に日本橋の高島屋東京店に至る。きのうまで一週間の出店をした「老舗の味を集めて特選会」の担当者にご挨拶をし、昼食の後、販売係アキザワアツシ君の運転する三菱デリカにて帰途に就く。関東地方は本日も突風に見舞われたが、東北自動車道での横風は特に強く、その全行程を四輪駆動にて走った。
午後7時より春日町1丁目公民館へおもむく。小学校や中学校における来年度の町内役員を決める育成会議に出席をし、9時前に帰宅して晩飯を食べる。
題名は「華やかな食物誌」でも食べ物についての記述は前半のみにて、後半は絵画や彫刻、舞踊など美についての評論に変わる。この後半の、特に関西への紀行において、澁澤龍彦の筆は闊達さを増して楽しい。これを早朝に読み終える。
昨年末、どうもテレビの映りが悪いといぶかしんでいたところ、屋上のアンテナが倒れていると、近所のユザワさんから知らされた。そのとき応急処置をしたものが、先週末からの強風によりまた倒れたらしく、社員の休憩所でもテレビがまともに映らないという。
よって屋上の更に上、エレヴェーターの機械室上に立てられた、およそ30年ちかくも前に設置した錆だらけのアンテナを調整する。僕は、自然の中にあっては切り立った崖の端に立っても一向に動じないが、 人工的な構築物の上では人並みに怖い。
夕食後、座ったまま寝ているところを次男に起こされる。入浴を済ませて後
を開いて始めの数ペイジのみを読む。
朝、会社のまわりをひととおり歩いて、吹き寄せは会席料理屋の籠か盆の上だけにして欲しいと思った。土曜日から一向に収まらない強風はきのうの晩も吹き荒れ、その集めた砂や落ち葉、紙くずからどこかの店の壊れた看板までもが、店舗の駐車場や歩道沿いに散乱している。
よってこれらを朝飯の前から掃き、あるいは拾い始め、社員が出社してからは販売係のサカヌシノリアキ君と、ひととおりの格好がつくまで続ける。
いつもより2時間ちかく遅い朝飯を食べ、それから数十分後に瀧尾神社の春の小祭へ行くと、直会の会場には里芋とこんにゃくの田楽、けんちん汁の用意があって、満腹の上に更にそれらを詰め込む。神事に日本酒は付きものにて、こちらも少々いただく。さすがに昼飯は抜いた。
夕刻、次男が通う英語塾の授業参観に行く。次男の小学校への登校もあと十数日と考えれば、なにやら感慨深い。
目覚めると窓の外には一面の積雪があった。強風は収まっていないものの、空に星が見えないところを見ると、風は雲よりも低いところを吹き荒れているらしい。あるいは風は、雪の降ったときにだけ止んだのだろうか。
朝食の後、店舗犬走りに吹き込んだ雪をとりあえず除く。テニスクラブの練習が中止になったため、次男を呼んで社員の雪かきに参加をさせる。
9時前に停電があったときには、工場内のブレーカーでも落ちたかと思ったが、ふと外を見ると国道119号線の信号機も消えている。間もなく東京電力のワゴン車がサイレンの音と共に北上していったから、あるいはどこかで送電線が切れたのかも知れない。
今年に入って積雪が3度あった。そのどれもが土曜日の夜から日曜日の朝にかけてのものである。商売のことを考えれば、間の悪いことこの上ない。
こういう日々を繰り返しながら、しかしあるとき突然、春は見えるのだ。
中学校に上がる子供に読ませたい本は何かと問われれば、浮谷東次郎 「がむしゃら1500キロ」、植村直己 「青春を山に賭けて」、堀江謙一 「太平洋ひとりぼっち」、 小澤征爾「ボクの音楽武者修行」と、即座にこの4冊が浮かぶ。
それではこれら4冊をことし中学生になる次男に与えるかといえば、それは否である。長男は小さなころより本を好んだが次男は今でもせいぜいマンガしか読まない。 本好きの子供を育てようと教育機関があれこれ工夫をしても、こういうことは生まれつき決まっているもので、思うようにはならない。
本を読む人と読まない人とを比較して、本を読む方が人として優れているというわけでもない。本は無限のことを教えてくれると言う人もあるが、土中の虫や空の雲から何ごとかをつかみ取る人もいる。
午後、池袋駅を発って間もない西武池袋線の車両から目白の方角を眺め、春霞どころではない空気の濁りに驚く。「花粉だろうか、いやまさか」と考えながらひばりヶ丘駅で下車すると、霞は強風に巻き上げられた砂塵によるものだった。
自由学園における、長男の最後の父母会に出席をする。締めのときまで参加していたい気持ちは山々だったが、北千住駅19:12発の下りに間に合うべく、5時50分に中座をする。家内が東京へ出張中につき、今日はできるだけ早く帰らなければならない。
西武池袋線、山手線、地下鉄千代田線とすべて強風のために遅れ心配しつつ、しかし下り特急スペーシアも同じく遅れたため、これを逃すことはなかった。
の表題作を、晩飯から寝るまでのあいだにほとんど読む。歴史の中の美食を学究として訪ねることに、著者は並々ならない興味を持っている。しかし同時にこの人は、自分が食べる側になったときの美食については、それほどの関心はない。
ところでこの文章の書かれた昭和57年すなわち1982年と現在とでは、日本人の気質がまったく変わってしまっている。そのことに僕は驚き、そして現在の日本人は、ウェルズの「タイムマシン」に出てくる、裕福な有閑階級の末裔としての、怠惰で知性に欠けた「エロイ」になりかけているのではないか、とおののくのだ。
長男はいま、正式な学校行事としての卒業旅行の最中にある。旅程にはバンコックが含まれるため、長年の使用により凹みはおろか穴まで開いたゼロハリバートンを家から甘木庵へ送る際には、ここに「なめこのたまり漬」2本を納めた。
「なめこのたまり漬」は"NIPPON OIL (THAILAND) Ltd."の社長を務める同級生コモトリケー君の好物である。自由学園男子部高等科のとき、僕が東天寮に持ち込んだこれを、コモトリ君はビンの半分ほどもメシに乗せ、 一気に食べてしまった。
最高学部4年の一行は今夜、タイ在住の卒業生たちと夕食を共にする。晩飯の場所はどこだろう。
あの湿熱の都市に漂う、排気ガスと麺を茹でる湯気とパクチーの混じって一体になった匂いが僕は大好きだ。しかしスカイトレインや地下鉄ができてからのバンコックを、僕は知らない。「また行きてぇなぁ」と考えながら、もう17年が経つ。
いまだ暗い中に起き出す。
出先では一向に気にならないが、自宅にいるときには、先ず仏壇にお茶を上げないうちは、お茶を飲む気がしない。自らがホトケに先んじてお茶を飲むことに罪悪感を覚えるためだろうかと考えてみれば、まぁ、そうなのかも知れない。というわけで午前5時の仏壇にお茶や水や花を整え、線香を上げる。
あるマンションの住民が、自分の住むマンションの向かい側に別のマンションが建つことを嫌い「そうなったらウチは丸見えだから、今後はパジャマで朝飯を食うこともできねぇ」と言った。横でそれを聞いていた僕は「そもそもパジャマを着たままメシを食うことが間違っている」と思ったが、相手は自分の子供でもなし、口には出さなかった。
もっとも、僕がすべてのことにけじめを求める人間かといえば勿論、そのようなことはない。僕は本来、しごくだらしのない人間である。
本日より高島屋東京店の「老舗の味を集めて特選会」において、たまり漬の出張販売が始まる。日本橋のこの百貨店へ年に1度だけ通うようになってから24年が経つ。きのうは販売係のハセガワタツヤ君とサカヌシノリアキ君が、必要なものを三菱デリカで現地へ運び入れた。準備は夜10時すぎまで続いたことだろう。
これから1週間、穏やかな天気が続くことを望んでいる。
「我、拗ね者として生涯を閉ず」を読むことを先週は一時、中断した。読み終えてしまうことを勿体なく感じたためだ。しかし今早朝、文章は次章へ続くことを示唆しながら最後のペイジへ至り、つまりここが本田靖春の絶筆である。
2005年に読んだ50冊の本の内訳を、2006年2月の"BANYAN BAR"に上げた。全50冊のうち小説は3冊だった。学生のころはあれほど読んだ小説を、その後はとんと読まなくなった。理由は分からない。
「我、拗ね者として生涯を閉ず」の次は何を読むか、まぁ、小説でないことだけは確かである。
日本橋丸善の地下1階で文房具を見るのが好きだ。そのときには文房具だけではなく、"barbour"のジャケットや"Eagle Creek"の小物入れも見る。先日はここでターポリンを素材にした"Gregory"のショルダーバッグを発見し、その、通常の使い方では到底こわれることはないだろうと思われる質感に物欲が騒いだ。
15年以上も使ってきた"Eddie Bauer"のスリーウェイパックは、コンピュータと1泊分の着替えを入れるにはすこし小さい。この場合、最低20リットルの容量は必要で、それに見合った僕の入れ物は27年前に買った"karrimor"のサブアタックザックひとつきりである。しかしこれは当時のカリマーのイメージカラーである赤に緑の縁取りで、今の僕には違和感がある。
そこで、先日いたく感心をした"Gregory"の、しかしショルダーバッグではなくリュックサックをウェブ上の店舗に注文し、先週末の三浦海岸行きに使ってみた。
生来のケチだからすり減る道具は好きではなく、だから今回のザックには大いに期待をしたが、実際に物を出し入れしただけで、これは自分には丈夫すぎる代物と知った。
素材が硬いから、それに沿って動くジッパーの動きも硬くなる。ラーメンにおいては僕は硬めの茹で加減を好むが、いわゆる「バリカタ」までは求めない。このザックはそのバリカタである。
また、ターポリンという素材はしごく重い。このザックも23リットルの容量にして乾燥重量が1キロもある。つまり同じサイズの他のものにくらべて6割方は重い。今にしてようやく気づいたが、すり減らない道具は大抵の場合、ひどく重い。
買ってしまったものだから、しばらくは使ってみよう。疲れるけれど。
いまだ暗いうちに廊下の明かりを点け、テレビのスイッチを入れた人がいる。今の今まで交流会部屋で飲んでいた人だろうか、と考えるよりも先にふたたび眠りに落ちる。次に目を覚ますと時刻は5時30分で、廊下の明かりとテレビは、何ごとかをシミュレートするオガワユーゾー先生が、コンピュータの手元を照らすためのものだった。やがて夜が明ける。
今日も天気はしごく良い。空ではヒバリが啼いている。"MG Festival"の2日目は座学にて、午前はテシマヨーさんとシミズノブヒロさんによる「MGとTOC」、チバヒトシさんによる「全員科学経営」。午後はオーツカヒロシ先生による"Throughput Account"と、西順一郎先生によるまとめの講義を聴く。
原稿用紙数枚分の感想文を書き、解散して三浦海岸駅から上り列車に乗ったのは夕刻4時30分だった。浅草まで直行して19:00発の下り特急スペーシアで帰宅しようと考えていたが、本日の講師のひとりであるシミズさんに誘われ、八重洲の焼鳥屋で総勢10名の飲み会に参加をする。
11時前に家へ帰り着き、入浴して0時30分に就寝する。
午前、"MG Festival"の開かれる三浦海岸へ行く。毎年いまごろは社員の出張が相次ぎ人員が手薄になるため、この西研究所の催しには滅多に顔を出すことができない。今年は上手く調整がつき、僕は「マホロバマインズ」の高いところから房総半島を遠望している。
"MG Festival"の1日目はマネジメントゲームを行う。61人が参加という大きなゲームに僕が出るのは、およそ10数年ぶりのことと思われる。懐かしい顔や初めての顔に混じってゲームをするうち神経が高ぶってきたのだろう、まるで風邪の前兆のような熱をからだが帯びてくる。
2期でそれほど売上げを上げられず3期にF卓へ落ちると、そこにはチバキン、マイタイというMG界の大看板がいた。このふたりから何ごとかを得てやろうと意地汚くも考える。しかし実際には、彼らのMGは喩えるならば先代馬生の芸のように渋く、そのいぶし銀は到底、自分に取り込める種類のものではない。
僕はそのF卓において自己資本を306まで上げ、名人上手の集うところで決算速度9位を記録した。しかしそのようなことは、マネジメントゲームの中では枝葉末節に過ぎない。
夜7時から始まった交流会では多くの人たちと談論をするうち、時刻はいつのまにか11時30分になってしまった。その時間になってもなお、自分の考えをコンピュータのディスプレイに出して人の意見を訊こうとしている人がいる。
「こういう場所には、やっぱり定期的に来なくちゃいけねぇなぁ」と感じつつ入浴し、0時30分に就寝する。
今朝の下野新聞第一面に「食品表示の法令一本化 縦割りから消費者重視へ」と題する記事があり、中に「国民生活審議会の食品安全作業チームは(中略)安全に食べられる時期を示す消費期限を中心に、製造年月日を併記する方向を示した」とある。
むかし日本の食品には現在の消費期限や賞味期限ではなく、製造年月日が表示されていた。製造年月日を廃して消費期限や賞味期限を表示する、と日本の法律が変わったのは、アメリカの圧力による。
アメリカの食品と日本の食品が百貨店やスーパーマーケットの棚に隣り合って置かれたとき、そこにある日付が製造年月日では、その新鮮感においてアメリカの食品は日本の食品に太刀打ちできない。「新鮮さ」のイメージにおいて日本国産の食品と肩を並べるには、それがいつ作られたかを消費者に知らしめない消費期限や賞味期限を用いた方が、アメリカの食品には有利である。
高度の政治的判断により、日本の食品は、それまでの製造年月日を捨てて消費期限や賞味期限を用いることとなった。日本の食品表示が製造年月日を復活させることに、僕は賛成である。
そしてこれは今さら後戻りはできないだろうから無理を承知で書けば、消費期限や賞味期限の表示は撤廃していただきたい。賞味期限の定義は「その食品が腐敗変敗する時期から充分手前に遡った日」である。しかし賞味期限が切れれば即、その食べ物を捨ててしまう人は多い。この食品表示の変更によって、いまだ食べられるにもかかわらず捨てられていく食品の量はいかほどだろう。日本の食糧自給率はたかだか40パーセントに過ぎない。食べ物を大量に投棄している場合ではないのである。
もうひとつ、消費期限や賞味期限が適用されるようになってから、その食べ物がいまだ食べられるか否かを判断する能力が、日本人からはいちじるしく欠けてしまった。指示されなければなにも自分で判断できない、指示されたことには盲目的に従ってしまう、それは人間としての堕落に他ならない。
今朝の朝日新聞の天声人語が市川崑の死を伝えている。僕は地元の映画館「千歳座」に妹とふたりで行き、「東京オリンピック」2回分を立て続けに見た。その結果、オフクロに遅い帰りを咎められて「もう映画は見に行かせない」と叱られた。
長じてこの監督による映画に親しむことはなかったが、小学校低学年の子供が数時間も飽きずに見ることができたのだから、市川崑による「東京オリンピック」は確かに、なにものかを持った映画だったのだろう。
オマル・ハイヤームという詩人のことを、僕は10歳年長のフクザワカズオ君に教わった。場所は三重県の海山にある自由学園の演習林で、そのときフクザワ君は山小屋の番人をしていた。1978年の夏のことだった。フクザワ君はいま、北海道の寧楽でソーセージやベーコンを作っている。
朝、空がいまだ美しい紫色をたたえているころ、戸外で赤く燃えるストーブから若い女が分厚いパンを取り出し、豆と炒めたベーコンの肉汁をかけると、老人はこれを口いっぱいに頬張ってグシャグシャと噛み、ゴクリと飲み込んで「こいつはうめえや」と言う。
フクザワ君のところのベーコンを食べるたび、僕はスタインベックの「朝食」を思い出す。そして「あのときあのジジイが食べていたベーコンは、こんなやつだったのではないか」と夢想する。
そのベーコンを今朝は味噌汁に入れ、晩には普段あまり食べることのできないベーコンエッグにする。ベーコンエッグには削ったパルミジャーノレッジャーノを振りかけたく思うが、そうすると何やらフクザワ君に叱られそうな気がして、というのは誰かが西瓜に砂糖をかけて利休に供したところ、利休は砂糖の付いたところのみ食べ残したという逸話が頭をかすめるためで、だから僕はチーズを欠いたまま、このベーコンエッグを食べる。
しかしまぁ、とうに飲みごろを過ぎたと思われる白ワインくらいは飲ませていただきたい。というわけで初更、カビのみっしりと付着したコルクを抜き、黄金色に近くなった液体をグラスに注ぐ。
結論を述べるならば、23年前の葡萄酒は磨き立ての鋼のように光輝燦然として、いささかの衰えもうかがうことはできなかった。
今月の20日より1週間、日本橋の高島屋東京店で出張販売をする。今朝は、それをお知らせするメイルマガジンの準備をしていた。
ところが本日の下野新聞朝刊第一面に、中国産のらっきょうを日本国産と偽って販売していた栃木県内の漬物業者についての報道があり、急遽メイルマガジンの内容を「当店の品は安心してお求めください、もしもご心配の点があれば、どうぞ遠慮なくお問い合わせください」というものに変更し配信する。
午後、下野新聞社から電話による取材があり、今朝の記事についての意見を求められる。その際、イトー君のことは知っていますかと相手の記者に訊くと、いま自分の後ろに座っていると教えてくれたため、ウチのことはイトー君が良く知っていますと伝える。イトー君と僕とは、聖ヨゼフ幼稚園のときからの同級生である。
終業後、社員たちと「とんかつあづま」に集まる。ちと遅くなってしまったが、これは先月に行った日光MGの反省会にて、必要事項を伝達したり、あるいは締めの第5期に決算速度が第1位だったツカグチミツエさんに記念品の贈呈をしたりする。
決算がいくら速くても、それは経営の才とはいえないから普通のマネジメントゲームでは表彰されない。第5期の決算順位第1位を表彰するのは日本中で日光MGのみで、これは計算の速い人に対する、僕の畏敬の表出である。
10年前、長男が中学生になるとき買ってやった腕時計がある。ことし中学生になる次男にも同じものをと考え、調べたところ、デザインはほとんど変わらないまま、これに電波時計の機能が加えられていた。
むかしの電波時計にはいろいろと問題もあったが、今では随分と改良されているのではないか、第一その正確さにおいて、僕は電波時計が大好きだ。というわけでこの時計をウェブ上のある繁盛店に注文すると、数日を経て在庫切れの詫び状が届いた。更に他の店に発注をかけると、ここもまた在庫を切らしているという。
両店ともに在庫切れと表現しているものの、返信が揃って遅れがちなところから考えれば、これは注文があってからメーカーに発注する品であって、もともと在庫は持ち合わせていないのではないか。
そのようなわけで3軒目の時計屋に注文を出すと、ここでようやく、商品は今月16日に届ける旨の連絡があった。そして案の定、メーカーはこの時計の生産を、既に終了しているという。
僕は今、世界中のどこへ行ってもその国の標準時にピタリと合う電波時計を欲しいと考えている。しかしそのようなものは、いまだ開発されていないらしい。
朝のニュースをテレビで見るうち「ソウルの南大門が火災により崩落しました」のアナウンスと共に、多数の消防車が大きな炎へ向けて一斉に放水する映像が画面に映し出され、それを一瞥するなり僕は、子供のころに見たゴジラ映画の不気味さを思い出した。あの下に、いったいどれほどの阿鼻叫喚があるか。
思わず「あー、オレ、この建物、大好きだったんだよ、去年、やっと間近で見られてさぁ」と声を出すと次男が「良かったね」と言うので驚いて「エッ?」と訊きかえすと「良かったね、行っといて」と続けるので「まぁな」と答えたが、しかしなんとも形容しがたい、落胆させられる出来事である。
韓国の大統領は可及的速やかに再建に取りかかると述べたそうだが、600年前に建造された巨大な木造建築を再び作り上げるには、材料から人の技術に至るまで、今になっては手に入らないものだらけなのではないか。
スプリンクラーなどの消火設備を敷設すれば建物の原型を損なわざるを得ないとの理由から、韓国の文化財庁は南大門にこれを設置していなかったという。その言い分は良く理解できるがしかし、潔癖主義はしばしば無に直結する。そして今回の事件は、その典型的な例である。
崩れた漆喰をコンクリートで固め、剥げた漆をペンキで上塗りするような修復は、世に珍しくない。そのような程度の低い方法が、南大門の再建には用いられないことを祈るばかりだ。
朝4時に外へ出る。雪は夜半より止んでいたらしい。雪の深さは5センチだから昨夜のそれと変わらない。ただしその表面は、強風を受けた山肌のように凍りついている。
平日の数日分を日曜日に売り上げるウチのような商売にとって、週末の積雪は痛い。今月はそれが2週続けて起きている。開店前より社員たちと店舗駐車場の雪かきを始め、2時間後にようやく目鼻を付ける。
午後は蔵の中を巡回して歩く。
昨月はノルマを2日も上回って10日の断酒日を持った。上回った2日は今月への繰越分と考え、月初から良い調子で飲酒を為してきたが、きのうに続いて今日もからだがそれほどお酒を欲しない。よって軽い赤ワインが似合いそうな晩飯にもかかわらず、2日続けての断酒をする。
深夜1時30分に目を覚まし、「我、拗ね者として生涯を閉ず」を読み始めて上巻から下巻に入る。以降、起床するまでこれを読み続ける。常に活字を手放せない性癖の僕にして、この本田靖春の遺作は数年に1度出会えるかどうかの好著である。もっとも、当たり前のことだが、僕にとっての面白い本が誰にとっても興味の対象になるわけではない。
午後より細かい雪が降り始め、それが徐々に勢いづいて一向に止まない。夜9時に外へ出て積もった雪に指を差し込むと、深さはおよそ5センチほどのものだった。コンピュータに向かい、今夜から明日の天候を調べてみれば午前0時以降に晴天の予報が出ていたため、ひと安心をする。
10時30分に就寝する。
日本橋の旧丸善ビル屋上にあったガラス張りの「スナック」は、2004年の秋にその姿を消した。新しい丸善の"MARUZEN Cafe"には、メニュこそ「スナック」時代から引き継いだものもある。しかし隣席のふたり連れに運ばれた「合いがけ」やオムライスを見る限り、昔日の面影はない。作っている人も、だから味も、以前のものとは違っているはずだ。
その"MARUZEN Cafe"での商談を終え、銀座へ移動し、また日本橋に戻って次は目と鼻の先の八重洲まで歩く。
"Computer Lib"による「第11回CPLユーザーカンファレンス」では、午後4時よりウチの事例を基にした発表もあり、よって必要に応じては僕も補足の説明をする。
夕刻からの、ちかくの中華料理屋での交流会は途中で退席し、浅草駅19:00発の下り特急スペーシアにて帰宅する。夜9時より2度目の晩飯を食べる。
先日甘木庵に泊まった折、薩摩治郎八の「ぶどう酒物語」が現在は1冊だけ、町田の古本屋に5,000円で出ているが、買おうかどうしようかためらっていると長男が言うので、それは手に入れるべきと代金を差し出したら、いやそれは自分で買うからと、そのお札は僕の財布に戻ってきた。
数時間後、"Computer Lib"での仕事の合間に検索エンジンを回してみると、しかし同じものの裸本が市川の古本屋に3,150円で見つかった。よってただちにこれを注文し、長男にはその旨をメイルにて連絡した。
この「ぶどう酒物語」が本日、郵便受けに入れられていたため早速、甘木庵に転送する。若いころからこの手の文章に親しむと、人はまぁ、ろくな大人にならないわけだが。
1982年8月、"Laguna Seca"に古いクルマを集めての走行会や、"Carmel"のホテルにおけるコンクールデレガンスを見に行った。僕はそこでクロームメッキを多用した、いわばアメリカ式の自動車修復のありようを知ってとても驚いた。あるいはそこにあった"Duesenberg"などは、実は新車のときからエンジンルームの隅々までクロームメッキに覆われていたのかも知れない。
"BUGATTI TIPO35"はレーシングカーのため過度の磨き込みは行わず、ボディの外観はオイルや排気ガスの汚れをウェスで軽くひと拭きした程度で構わない、というのが"EB Engineering"のタシロさんと僕との共通した見解だ。
よって昨年12月に見つけた種々の不具合については、走りに関するところのみを修理し、ボディ底面のカウルにある凹凸などは軽く叩いてペンキを塗るに留める、またデファレンシャルギアのオイル交換などを迅速に行うため、ボディの見えないところに切り欠きを作るなどの改造は大胆に行うこととして、本日の確認作業を終える。
布団に腹ばいになって
「我、拗ね者として生涯を閉ず(上)」 本田靖春著 講談社文庫 \730
を読む。このところは仕事に関係する本ばかりに触れていた。仕事とは何の関係もない本を読むことは、僕にとっての大きな楽しみのひとつである。そのうちに長男の部屋で目覚ましの音が鳴る。それで僕は、現在の時刻が5時30分であることを知る。
所用にて椎名町へ行き、追って神保町へ移動をする。"Computer Lib"にてあれやこれやし、夕刻に至って九段下から地下鉄を使う。日本橋で用を足し、浅草に出る。19:00発の下り特急スペーシアに乗って帰宅する。
きのうの鉛色の空が思い出せないような晴天に、家々が光り輝いている。
"Computer Lib"とは2月5日が事実上の仕事始めとなるところから「その前日にでも銀座で飲みませんか」と、同社との連絡に使っているメイリングリストに提案を上げたのは10日ほども前のことだった。僕としては担当の若い2人のみが相手と心得ていたが、翌日届いた返信には「待ち合わせは15時でいかがでしょうか、ナカジマも調整済みです」とあった。
社長のナカジママヒマヒ氏も参加して午後3時から酒飲みとなれば、夕刻には早くも大酩酊が確実と思われる。そういうある種の危惧と共にコリドー街7丁目に歩を進め、指定されたバー"RockFish"の窓際のボックス席に落ち着く。
こういうときの1杯目には気を遣う。強いショートドリンクでは夕食に差し障りが出てくるし、弱いロングドリンクでは腹が膨れ、やはりその後のメシが不味くなる。どうしようかと思案しているところにいきなりハイボールが出てきたので、おとなしくこれを飲む。味はもちろん佳、である。
ちなみに2杯目はノイリープラットを注文した。肴にはオイルサーディンとチーズの盛り合わせを頼み、3月下旬に行うコンピュータのネットワークについて話し合う。
5時前に旧電通通りを横断して「伊勢廣」の銀座店へ行く。ここへ来るのはおよそ16年ぶりのことと思われる。二次会あるいは三次会になるのだろうか、立ち飲みでない方の"MOD"へ寄り、9時に本郷三丁目へ戻る。「三原堂」の飾り窓は雛祭りの桃色一色だった。
昨年の暮から雪は降ったが、積もることはなかった。しかし今朝は10センチを超える積雪にて、そうなれば座視しているわけにもいかない。開店前より本日出勤の社員全員と共に店舗駐車場の雪かきを開始し、およそ2時間後に、どうにかお客様をお迎えできる体制を整える。
雪かきの後はずっとワイン蔵か研究開発室にいる。午後3時30分より次男と店舗、蔵、自宅をまわり、節分の豆をまく。
朝、潤目鰯の丸干しを食べてその美味さに驚き「これは朝飯のおかずにしている場合ではない」と思った。訊けば丸干しの段階まで乾燥されなかったいわば仕掛品を「半生ではまずかろう」と、素揚げにしたものだという。
税理士のスズキトール先生に折良くいただいた一升瓶が冷蔵庫に安置してあったところから、この「王禄超辛純米春季限定無濾過生原酒」を居間へ運び、湯飲みへ注いで口に含む。瓶の裏の表示によれば日本酒度は+10.6だから、これは大辛以上の大辛である。ところが僕の舌の感ずるところは随分と甘く、微発泡のような刺激があり、また樽酒でもないのに樽香のような香りがある。
いろいろと書いたがひとことで言えばこのお酒は極めて個性的、かつ極めて美味い。小振りの湯飲みで3杯なら2合は飲んでいないだろう。これは寒いところに保管をして、大切に味わおうと思う。
年が明けてからお彼岸までは通常、ゆるゆると時が過ぎていくものだが今年はどうにも気分が忙しない。それは、初めて手を着けることが目白押しに、新年以来続いているためだろう。
夕刻に電報が届き、次男はことしの春より自由学園の中等科に入学できることとなった。次男には、この喜びを忘れることなく精進して欲しい。
町内の会合にて夜6時より外出をし、8時30分に帰宅する。
メシの炊ける匂いで目を覚ます。枕頭に置いた携帯電話のディスプレイを点灯させると時刻は4時30分だった。すぐに起き出してお茶を飲み、本を読む。
家内と次男との3人にて6時30分に甘木庵を出る。1時間後に自由学園へ達し、次男は8時より中等科の入学試験を受ける。控え室の窓外には桜の大木が幾本もあり、それがまるでどこかの屏風絵のように美しい。
夕刻4時すぎに試験を終えて正門を出る。今日は日が穏やかに差して暖かく、過ごしやすい一日だった。
9時前に帰宅して入浴し、すぐに就寝する。