6/27(木) 02:22 ヒラダテ → ウワサワ
6/27(木) 04:55 ウワサワ → ヒラダテ
6/30(日) 06:40 ウワサワ → ヒラダテ
6/30(日) 08:09 ヒラダテ → ウワサワ
6/30(日) 08:13 ウワサワ → ヒラダテ
6/30(日) 08:55 ヒラダテ → ウワサワ
「オレの仕事は年中無休なのだから、人もオレに従え」とまでは言わないが、たとえば土曜日に突発的な何かが発生し、それを取引先に急告したくても当該の会社はは休業日、ということがままあり、そのようなときには非常に焦燥する。
しかしコンピュータやデザインに係わる個人事業主に関しては、一体全体いつ寝ていつ休んでいるのか不明の人も多く、そういう人のメールに対する反応は常に機敏だから、当方の心理的な負担はとても軽い。
この日記の冒頭に期したように本日も、日曜の朝にもかかわらず"Vector H"のヒラダテマサヤさんとは早いうちから話し合いがはかどり、とても良い気持ちになった。
そしてメールのやり取りを一段落させて外に出てみれば、桔梗は地下で株を増やしたか、つぼみの数を急に増やしている。アジサイは植えていくらも経っていないからその花はいまだ小さい。アサガオは毎朝「よくもまぁそれだけ律儀に」と声をかけたくなるほどたくさんの花を開いている。バラは霧雨を浴びて涼しそうだ。花々の根元に一歩を踏み入れると、土は随分と軟らかかった。
きのうあれだけ飲み歩けば当然のことかも知れないが、軽い二日酔いである。トートバッグに入れた冷たいお茶を飲みつつ北千住には7時前に着いた。普段であれば東武日光線のプラットフォームにある「小諸蕎麦」にでも入るところだが、その気はまったく起きない。
中央コンコースと同じ高さの、食べ物屋や本屋の集まっているフロアの「権米衛」で、しかし玄米系や炊き込みごはん系を食べるほどの気力はない、塩、それに南高梅のおむすびを1個ずつ買って始発の下り特急スペーシアに乗る。
「これだけ地味なおむすびでも、今は喉を通らないのではないか」という懸念があったが、大きなおむすび2個は案に相違してするりと僕の胃に収まった。
夕刻に至るといつものように飲酒欲の湧いてきたということは、二日酔いも大したものではなかったのだろう。そして空がいまだ夕刻の青い色を帯びているころに「玄蕎麦河童」の暖簾をくぐり、蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを注文する。
誂えた当初こそ「これは最高だ」と感じ入っていた遠近両用眼鏡だったが、特にここ数週間は使用中に目の疲れを覚えることが多く、活字を読んだりコンピュータを使うとき以外はマメに外すことを余儀なくされていた。
そして本日午前、池袋の眼鏡店を訪ねワケを話すと、店の人は引き出しからカルテを取りだし僕の目の前に広げた。それによると現在の眼鏡の出来上がりは2009年6月2日のことで、とすれば以来4年が経っている。
売り場から案内された裏手には眼科の看板を掲げた部屋があり、ここで検眼をした結果、特に利き目である左目の近視が加齢と共に通常の値まで戻ったことが疲れの主な原因と見立てられた。
前回はカタログにあるうち上から2番目のレンズを選んだが、今回は1番上のものを選び、しかし予算の関係というか僕の節約意識から、フレームは現在のものをそのまま使うこととした。それでも今月は歯にセラミックのクラウンをかぶせ、ブガッティのタイヤを海外に発注し、そして今回の遠近両用レンズと、小遣い帳は大幅どころではない、とんでもない支出超過となっている。
午後は高田馬場で2時間ほども仕事をし、それから赤羽に移動して同級生のコモトリケー君と落ち合う。
赤羽に来るのはおよそ40年ぶりのことだ。前回はオフクロと一緒だった。ひと気のないロータリーを目の当たりにして「ずいぶん外れに来ちゃったね」と不安がるオフクロに「これでも東京だよ」と、たまたま近くにいたオジサンは言ったものだ。それがどうして今は大した発展ぶりである。
夕刻よりも昼にちかい刻限に、駅から「まるます家」への道を辿る。そしてこの店のカウンターに落ち着き、鰻の蒲焼きなどで常温の日本酒を飲む。コモトリ君はかなり物持ちの良い性格らしく、四半世紀ほども前の、僕とコモトリ君が並んで撮られた写真などを持ってきていた。思えば遠くへ来たものである。
「まるます家」で2時間ほど飲んでも外の明るさは昼のそれと変わらない。裏道を歩き、立ち飲みの「いこい」で小休止の後、京浜東北線と千代田線を乗り継いで湯島に至っても、日は一向に陰らない。
夏の夜はジャブジャブと使い放題である。
店舗の駐車場には舗装が施されているけれど、その一角に植えられている紅葉の根の部分にだけは、猫の額ほどの広さだが苔むした土がある。ここをオフクロが丹精するうち、夏を迎えるころになるといくつかの花が開くようになった。すこし前にはピンクのバラが、そしてきのうは桔梗が咲いた。
桔梗は夏を前にして咲く。しかし稲畑汀子編「ホトトギス季寄せ」では秋9月の季語とされ、「桔梗のしまひの花を剪りて挿す」の、高濱虚子による例句が添えられている。桔梗とは初夏から秋まで咲き続ける花なのだろうか。
いまだ47歳の若さで亡くなった人の葬儀に11時より連なる。むかしならポックリ病と呼ばれた病気による死だった。つい10日ほど前にも52歳で突然死した人がいて、こちらは普段は顔を合わせなくても重要な取引先だったから、夏の繁忙期を前にして、更に忙しく頭を働かせる必要に僕は迫られている。
人は暗闇の中を手探りで歩いている。行く手はおろか、自分が立っているすぐ脇にも深い穴がポッカリと口を開けている。その暗い道を、恐れず疑わず102歳まで歩き通したのが僕のおばあちゃんだ。そしてそれとは逆に、いまだ人生の途上と思われる齢でその穴に墜ちる人もいる。
朝から止まない雨の下で、傘を差しつつ「魚登久」の新しい座敷「うなぎの寝床」の引き戸を開ける。日本酒に特化した飲み会「本酒会」の書記として、月に一度の例会に参加をしている。
「本酒会」はそれほど禁欲的な飲み会ではないが、各人には採点用紙が配られる。本日もっとも多くの点を集めたのは、出品された5本のうち最も安かった「喜久水酒造 喜一郎の酒 純米生原酒」。それに対して最も点の集まらなかったお酒は、価格の最も高いものだった。「本酒会」ではしばしば起きることである。
原作は花登筺ででもあっただろうか、造り酒屋の女主人が浪花千栄子、社員に夢路いとし喜味こいしというドラマがあった。
あるとき浪速千栄子が「良い酒とはどのような酒か」と訊く。いとしは「美味い酒」と答え、こいしは「コクのある酒」と即答をした。女主人が正解としたのは、いとしの方だった。
本酒会では「いちばん美味い酒とは、減りのいちばん速い酒」と言い習わされてきた。面白い意見だが正確さに欠ける。「いちばん人気のある酒とは、減りのいちばん速い酒」と言い換えれば正確だ。
ところで人は正確さよりも面白さに惹かれる。だから新聞やテレビも商売であれば、情報にはしばしば正確さより面白さを求めて発信をする。あるときある騒動を巡る報道について関係する役所の役人と話をしたことがある。そのときのみ、その役人とは意見の一致を見ることができた。まぁ、大したことではない。
店舗に向かって右の季節の書は「麦笛」から「萬緑」に変わった。それを眺めつつ自転車に乗って下今市駅へと向かう。
「いつも音楽を聴いていたい」「方向音痴だから音声で道を教えて欲しい」「ジョギングの記録を残したい」「いつでもどこでもゲームが手放せない」「facebookはリアルタイムで読み書きしたい」…「だからiPhoneが手放せない」という人がいる。
僕は街では音楽よりも街の音が聴きたい、方向音痴ではないから道には迷わない、ジョギングはしない、コンピュータゲームはスペースインベーダーのころからしない、facebookはときどき読み書きできれば良い。だから僕は、iPhoneはいつも家に置いてくる。
そういう僕も、乗り換え案内と天気予報はときどき使いたくなる。しかしiPhoneは家に置いたままだから北千住から銀座一丁目までは乗り換えをせず、日比谷線で東銀座に出て「双葉鮨」のある裏道を一丁目まで歩く。
所用を済ませて次は神保町に向かう。神保町で和風の昼飯を食べるとしたら「嘉門」か「近江や」だと僕は思う。そして今日はその「近江や」にて鯖焼き定食を食べる。キャベツと大根のぬか漬けが強く乳酸発酵して、極端に酸っぱくなっているのも僕の好みだ。
この店には、今度は夜に来て、冷やしトマトやワカメの三杯酢や肉豆腐で菊正宗のお燗が飲みたい。
神保町から北千住へ戻るには、いつものように半蔵門線を大手町で千代田線に乗り換えれば良いのか、あるいはちょうど入ってきた半蔵門線が久喜行きの急行であるならば、そのまま北千住まで直行した方が合理的なのか、それを乗り換え案内で調べたく思うが、iPhoneは家に置いたままだから神保町から北千住までは半蔵門線のみを使った。
そうして15時すぎに帰社し、夜は社員たちと、夏の繁忙期に向けた「ガンバロー会」という名の交流会を行う。
目を覚まして枕頭の携帯電話を見ると、時刻は3時30分だった。しばらくうつらうつらするうち4時50分になった。きのう宿の人に訊いたところによれば、大浴場には5時から入れるという。そして部屋の何人かは風呂へ行き、僕はロビーに隣接した、朝日の差し込むラウンジできのうの日記を書く。
朝食を済ませて、きのうとは異なる、しかしやはり豊沢川に面した別の露天風呂までエレベータで降りる。そしてひとり用の浴槽に浸かる。空はきのうと同じくどこまでも青い。風呂から上がって体重を量ると、13時間でおよそ1キロも増えていた。
「あのバスガイドさんは何歳くらいだろうか」という問題が、きのうの宴会場では討議された。言い出したのは僕である。そしていつの間にか各人から100円が徴収された。徴収したのはシバザキトシカズさんである。集められた総額900円は、当てた人の総取りと伝えられた。
今朝、バスに乗り込む際にアンザイカツイチさんがガイドさん本人に確認したところガイドさんは子年で、その干支は奇しくもアンザイのそれと重なるという。アンザイさんは77歳。これから24を引けば53歳で、ガイドさんは、まさかそれほどの年とも思えない。しかし36を引けば41歳で、そこまで若くも見えない。
そうして走り出したバスの中でお茶を配り始めたガイドさんに誰かが満年齢を訊ねると「18歳よ」と意外な答えが戻り、よって賭には全員が負けた。
08:08 新鉛温泉「愛隣館」発
08:56 釜石自動車道・宮守IC
09:22 「遠野伝承園」着
「遠野伝承園」では語り部の女性による、河童や座敷わらしについての古民話を、更には河童は実在して、すこし前にはこの遠野から他所へ嫁に行き、子供3人をなして家族5人で里帰りした例もあると、まるで自分が佐々木喜善になったと錯覚するような、ライブ感の強いおとぎ話を聴く。
ここまで来たら河童の出るというカッパ淵へ行きたい。しかしバスのコースにそこは入っていない。それを嘆くと「行かなくても、行った気になるパネルがあります」と、 「遠野伝承園」の売店のオバサンが僕を、施設の入口まで連れて行ってくれた。よってそのパネルの穴から顔を出し、記念写真を撮ってもらう。
11:11 「ワインシャトー大迫」着
12:10 「金婚亭」着
13:09 釜石自動車道・花巻空港IC
14:32 東北自動車道・鶴巣PA
16:08 東北自動車道・安達太良SA
17:36 東北自動車道・上河内SA
17:52 東北自動車道・宇都宮IC
昼食の後は、休憩を挟んで5時間以上もバスに揺られ続け、そのお陰で「東京アンダーワールド」は巻末の資料一覧まで読み通すことができた。
明るいうちに帰宅し、今回の旅行の会計係として領収書と残金の照合をしてから夕食を摂る。夜になってから読んだ今日の朝刊によれば、都議会選では民主党が惨敗し、自民党と公明党で過半数を奪還したらしい。
本日はおばあちゃんの初めての祥月命日にて、朝5時に起きて家内と墓参りをする。墓地のあらかたは、きのうのうちに長男が整えていてくれたらしい。
春日町1丁目役員によるバス旅行「高山植物の宝庫! 栗駒山原生花園と、いわてクラシック街道遠野」の待ち合わせ場所は町内の「いち縁ひろば」、そして時間は6時40分と決められていた。
6時30分すぎに玄関を出て、坪庭のアサガオやアジサイを眺めていると携帯電話が鳴った。相手はシバザキトシカズさんで、用件は「もう、みんな来てる」というものだった。日光街道に出てみれば、バスも到着していた。そして6時37分に出発をする。
バス旅行の何が嬉しいかといえば、早朝から夕刻まで走り続けるバスの中で本を読むことができる、それがいちばん嬉しい。昨年はその2日間のバス旅行で増田俊也の「木村義雄はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んだ。今回は家の本棚で10年以上も眠り続けていた、ロバート・ホワイティングの「東京アンダーワールド」である。
07:13 東北自動車道・宇都宮IC
07:21 東北自動車道・上河内SA
08:55 東北自動車道・安達太良SA
10:30 東北自動車道・泉PA
11:38 東北自動車道・若柳金成IC
若柳金成ICで東北自動車道を降りると「安重根記念碑」の案内板が正面に見えた。「あ、そこ、行きたい」と望んでも、しかし今日のコースにそれは入っていない。
いまだ雪の残る栗駒山が見えたり、あるいはまた隠れたりする曲がりくねった道を走って12時40分にバスが止まる。その駐車場から舗装された急坂を登り、不思議なキノコなども生える林道に入る。その林道を15分ほども歩くと、そこが「世界谷地第一湿原(下田代湿原)」だった。ニッコウキスゲはそろそろ終わりかけていたが、夏の空の下に吹く風はとても爽やかだった。
2008年6月14日に発生した岩手宮城内陸地震により崩落した祭畤(まつるべ)大橋が防災のための記録として遺されている展望台には14時40分に着いた。地震の発生は朝8時43分だったという。そのときこの橋を渡っていた人やクルマはいなかったのだろうか。
そして僕は、こういうところに来ると、その現場の突端まで行ってみなければ気が済まない。よって地震の2年後にようやく完成したとう、高い場所にある新しい橋を渡り、渓谷を大きく巻いていく。旧橋に至る道は、キャタピラを備えた特殊車両でさえ走れないほど、断層状にひどく陥没している。
その上に設けられた遊歩道を進み、折れ落ちた旧橋のたもとまで達する。僕としては更に「墜ちたら死ぬ」というところまで行きたい。しかし柵と地割れに阻まれ、まぁ、匍匐前進をすれば何とかなっただろうが、今日は団体旅行ということもあり、そこまでするのは止めておいた。
15:37 東北自動車道・一関IC
16:36 東北自動車道・花巻IC
16:55 新鉛温泉「愛隣館」着
「鉛温泉ということは、昔は鉛でも採れたんですか」と訊くと「実は出たのは金なのですが、藩政の時代に入って税を逃れるため、金を鉛と登録したんです」と若い仲居さんは説明してくれた。この村まで藩の役人が来たら、一体全体どうするつもりだったのだろう。
宴会の後は、京都に源流を持つ、しかしこの地方に伝わって長く伝承されてきた鹿踊りの実演を観る。そしてまた「なぜこの場所で」と疑問ではあったが炭坑節の輪に加わり、仲居さんの指導により踊りの習得に励む。
豊沢川沿いの大浴場で測った体重は63キロだった。ベストではあるが、あと1キロほどは減らしても良いかも知れない。
「ここまで削るとふたたび金冠をかぶせることは不可能で、残された道はブリッジか部分入れ歯」と告げられたから「それはイヤだ」と答えると「であれば」とインプラントについての説明を受けた。昨年3月のことだ。
その5ヶ月後に別の歯の治療でこの歯科医院を訪ねると、それまでの医師はどこかに転勤し、代わりに口べたなのか不親切なのかは知らないが、ぶっきらぼうな新顔の医師をあてがわれた。よって治療途中ではあったがこの歯科医院には見切りをつけた。
「ふたたび金冠をかぶせることは不可能」という、歯肉とほとんど変わらない高さまで削られた奥歯のまま年を越し、今年の2月になってようやく親戚のソーマ歯科室に診察を請うと「これだけ根がしっかりしているにも拘わらず、それを抜いて入れ歯にせよとは信じがたい」と、ふたたびクラウンをかぶせるべく治療が始まった。今度のクラウンは金属ではなくセラミックである。
そのセラミッククラウンが本日ようよう僕の口に収まった。象牙色のクラウンには僕の他の歯に合わせて"staining"が施され、先生だか歯科衛生士に渡された手鏡で口の中を覗き込むと、もはやどの歯がセラミック製なのか見分けのつかないほど他の歯に馴染んでいる。肝心の噛み合わせも、もちろん完璧である。
十数年も通ってきた前の歯科医院の言うことに従っていれば、55歳で入れ歯になるところだった。今後の歯科医院は大井町のソーマ歯科室で決まり、である。
このところは朝の山を見ても、これからの天気を予測することは難しい。霧が去って大真名子山が姿をあらわし、また瀧尾神社の先の杉並木も、晴れつつある空に照らされその色を明るくする。しかしお茶を一服淹れ、ふたたび同じ方向に目を遣れば、降りてきた雲に隠され、先ほどの景色は神隠しにでも遭ったかのように消えていた。
暦の上では、否、暦の上だろうが何だろうが今日は夏至である。この、いまだ夏に至っていないにも拘わらず夏至が来る、ということがどうにも納得できない。できれば夏至は、8月の真ん中あたりにあって欲しい。
夕刻より家内と共に尾張町に出る。そして幸四郎、梅玉の「御存鈴ヶ森」と海老蔵、福助、左團次の「助六由縁江戸桜」を観る。「助六」で「福屋かつぎ」を演じた菊之助が、今日はことのほか良かった。
芝居がはねて後は雨の中を8丁目まで歩き、石巻から期間限定で出ている「復興バー」に寄る。日光のカタヤマタカユキさんが一夕ここを手伝う日と当方の芝居見物とが重なれば、一杯飲んでいかないわけにはいかない。
そして同じ8丁目を東から西へと移動し、あれやこれやを肴にまたまた日本酒を飲む。
朝5時からの仕事を終えると、すこしゆっくりした時間を持つことができる。当方の気分は静かだが、この時間の雲は一時もじっとしていない。居間の窓の真正面にある鶏鳴山は、見えたり隠れたりを繰り返している。春はとうに過ぎたのに、ウグイスが啼いている。空をヒラヒラと舞っているのは、いまだ飛ぶことに慣れない、今年生まれのツバメなのだろうか。
このところの日光には梅雨らしい日々が続いている。しかし列島のどこにもかしこにも日光とおなじような穏やかな雨が降っているわけではない。北陸は観測史上初になるような豪雨に見舞われているという。
先週末からの腰の痛みを減ずるため、今週の月曜日に鍼の治療を受けた。先生によれば、低気圧は人間の筋肉にも良くない影響を及ぼすらしい。その腰の具合は火曜日に良くなり、そして今朝はまた一段と回復をした。
午後より、今回の腰痛にあたっては最後になるだろう鍼の治療を受ける。
明日21日から22日にかけては東京。23日から24日までは、僕にとっては柳田國男よりも荒木経惟の写真集で印象の深い遠野。25日が東京で、28日も東京。いつまで妙な腰つきでそろりそろりと歩いているわけにはいかないのだ。
数値を伴う結果を持たない点において僕の以下の経験はいささかの客観性も持たないが、木炭の近くに置くと革靴はかびない。木炭は、ウチの中でも最も乾燥した場所に保管されているから革靴は、あるいは湿度の低さと木炭の持つ何かの効能という、ふたつの要因によりかびないのかも知れない。
"WHITE'S"の"Semi Dress Boots"を履くたび、その足下を見おろし「これほど美しいブーツは、そうあるものではない」と、ひとり嘆賞することを常としていた。広く薄いコバに二重に巡らされた縫い目などは、特にこの靴の白眉である。
それほど愛用しているブーツであれば、その置き場所は当然、乾燥した倉庫の木炭ちかくと決まっている。それがどうしても見つからない。木炭のそばから離れ、決して狭くない倉庫のそこここを探し、場所によっては物をどかしてその奥を覗いてみたりもしたが、それでも当該のブーツは見つからない。
このブーツを最後に履いた日のことはよく覚えている。この日記の検索窓に「ゴーギャン、美術館」と入れてボタンをクリックすると、それは2009年8月8日のことと知れた。その姿に感じ入って文章まで書いた、あのブーツはどこに消えてしまったのか。
先日、天井の明かりも届かない裏玄関の暗がで、オフクロの古い靴が突っ込んであるとばかり考えていた紙袋に足が触れた。「どうせ何十年も使っていない靴だろう、捨ててもそのことに気づかれることはないに違いない」と、その袋の口を開いてみると、そこには案に相違して"WHITE'S"の"Semi Dress Boots"が押し黙ったままうずくまっていた。
そしてその、湿気の高いところに4年ちかくも眠っていたにしてはかびてもいないそのブーツを、しかし怪我人に機能回復のためのリハビリテーションを受けさせるような気持ちでクリーニングに出した。
革底の靴で舗装された道を長く歩くと腰に響く。ブーツがクリーニングから戻ってきたら、それには今年の春に買った「ハリソン」の、スコッチウールによる分厚い靴下を合わせようと思う。
「なんだか珍しい種類らしいですよ」と、古典車修復のタシロジュンイチさんが朝顔の鉢を届けてくれたのは先週木曜日のことだった。朝顔は高くツルを伸ばすから、いつまで鉢のまま置くわけにはいかない。
よって店舗に向かって左側の、お稲荷さんのある坪庭をスコップで掘る。そのあたりはコンクリート塀に隣り合っているため、その基礎が地中に張り出し、またがれきも少なくないから難渋したが、とにかく鉢ひとつ分の穴は空けられた。
そうしてそこに先の朝顔を移植したところ、2日後の土曜日には青く大きな花を開いた。よってこれを会社のfacebookページに載せたところ「これは琉球朝顔とか台湾朝顔と呼ばれる南方種ではないか」とのコメントを複数いただいた。
そんなことから僕も検索エンジンに当たり、そこで得た知識から「うーん、やっぱり琉球朝顔なのかなぁ」と信じ始めている。花は青くても花弁の下の方は赤味を帯びている、その姿がインターネット上の画像とおなじなのだ。
琉球朝顔の特徴は、朝だけでなく夕方まで花の開き続けるところ、また種ではなく地下茎を分けたり差し葉をすることにより増やすところにあるという。そしてその朝顔の小さな株から、今朝は10輪もの花が咲いた。
腰についてはきのうの鍼と冷湿布とロキソニンが効いたか、今朝は劇的に良くなっていた。もっとも「劇的」とはいえ、それはあくまでもひどいところからの「劇的」であり、咳をした途端に腰が抜けてしまうほどの鋭い痛みは相変わらずである。
先週の中ごろから腰に疲れが溜まりはじめ、金曜日には椅子から立ち上がるにも難渋するようになった。
"MG"は、健康なときでもこれを2日に渡って受ければ、朝から夕刻までゲレンデでスキーをしたと同じほど体力を消耗する研修だ。しかし埼玉県蓮田市で開かれる「岩崎MG」には早くから申し込んでいたこともあり、腰痛くらいで参加を取りやめるわけにはいかない。
"MG"には、開催される地方、また主催者により様々な色がある。1日目の夜は街に繰り出し派手に遊ぶ"MG"や、あるいは手厚い供応を含む"MG"は、これは僕に限ったことかも知れないが、疲れが増す。「岩崎MG」はそのあたりがサラリとしていて、だから僕は気分も体も楽だった。
腰痛については実は、行きつけの鍼灸院を「岩崎MG」の休憩時間中に予約していた。そして本日午前に治療を受ける。
腰の具合がどうにもならなくなるたび通うこの鍼灸院では、帰宅したら湿布をするよう必ず奨められる。そして本日はまた「辛ければロキソニンも併用すると良いですよ」と初めて言われた。
診療券の日付を見ればもう15年間もこの治療院に通いながら、帰宅して後に湿布をしたことは、これまでただの一度もなかった。しかし今週末から来週にかけては予定が目白押しである。
よって本日に限っては湿布を買い、またロキソニンは昨年のいまだ寒いころに歯科医院で処方されながら手を付けていなかったものを探しだし、夜に至ってこの双方を貼ったり飲んだりする。
「岩崎MG」では、税理士のワダノリコさんが所用により1日目のみで帰った。よって2日目からはインストラクターのサトーマサヒデさんがその穴を埋めるべくゲームに参加することとなった。
"MG"に途中から参加するに当たっては様々な形がある。今朝のサトーさんは、第4期の開始前に意思決定カードを6枚続けて引く方法を採った。傍で見ている分には、これが中々に面白い。
そうして始まった第4期は、ここには詳述しないが僕は定石を外した手を何度も続けて打つうち大きな機会を損失し、粗利73をみすみす逃す。そして自己資本は第3期末の306からわずか323にしか伸ばすことはできなかった。
それにしてもこの第4期末に各テーブルに散った各人の会社を見てみれば、カンダ氏、ゴルゴ氏、オガタケ氏、そしてサトーマサヒデ氏と、個性あふれるものばかりで見ていて楽しい。また、彼らベテランの派手な会社にくらべて極々簡素な初心者の会社は、それはそれで興味深いものがある。
サトーインストラクターは先週の「壱岐MG」で何やら頑張ったことによるらしいが、それから1週間を経ても声が出づらい。それもあって昼食の後は請われて僕が、30分ほどのスピーチをさせていただく。そしてそれを元にまた、サトーインストラクターがダイレクトコストとフルコストの間に発生する差額について説明をする。今日もまた、サトーインストラクターの講義は、かすれた声を除けばとても冴えている。
いよいよ迎えた第5期には、これは自分でも気づきながらどうしてもできない価格と販売数量の最適化の問題にて、前期までの累積利益を一気に失う赤字に見舞われる。時期と場所については未定ながら、次の"MG"では捲土重来を期したい。
"MG"では、来期への備えをした上で上位の自己資本を達成した者に表彰状が手渡される。今回の最優秀経営者賞は「岩崎食品工業」のコフネヨシヒロさんが自己資本423で獲得をした。
原稿用紙にして2枚分ほどの感想文を書き終えると、時刻は17時に迫ろうとしていた。これから交流会を持つという方々と別れ、僕はホンダフィットにて白岡菖蒲インターチェンジから首都圏中央連絡自動車道に入る。そして久喜白岡ジャンクションからは東北自動車道を北上して19時すこし前に帰宅する。
如来寺での用事が昼前にあったため、埼玉県蓮田市で開かれている「岩崎MG」には14時30分の、第2期の後半から参入をした。"MG"とは参加者ひとりひとりが自分の会社を持ち、2日をかけて盤上に5期分の経営を展開する「マネジメントゲーム」のことである。
「期の後半から」という特殊な開始時期、またいくら経験を重ねても下手なゲーム運びにより、僕はここで自己資本を一気に140まで落とし「倒産はしたくねぇなぁ」と、にわかに危機感を覚えた。
岩崎食品工業さんは毎年1月と9月に開催される「日光MG」に、毎回のように社員さんを派遣してくださる優れた会社で、その会社の主催する"MG"でみっともないことはできない。
よって第3期にはなりふりかまわない、まるで初心者のような戦法にて経常利益172を上げ、自己資本306と、累積利益を黒字に転換させた。ここで1日目のゲームは終了。決算を完了して以降は、参加者による今日1日の感想スピーチ、引き続いてサトーマサヒデインストラクターによる利益感度分析の講義に入る。
「鮨は九段下の鮨政でしか食べない」とか「蕎麦は並木の藪でしか食べない」という人がいる。
僕の、1991年に始まる"MG"の歴史の中で、開発者である西順一郎先生以外のインストラクションによる"MG"を経験するのは、今回が僅々2度目のことである。僕はことによると「MGは西順一郎のインストラクションでしか受けない」という人間なのかも知れない。
それにしてもサトーマサヒデインストラクターによる夜の講義は、西順一郎先生によるそれとはまた異なる面白さにて「これはまた来ないといけないぞ」と感じさせるものだった。僕と同じく社外から参加をしたスドーヤスユキさんの、本日のゲームにおいてみずからに課した「縛り」、またワダノリコさんの述べた感想も、僕を大いに触発させるものだった。
蓮田駅前での交流会も楽しかった。そして指定のホテルにて午前0時ごろ就寝をする。
台風3号の接近に伴うフェーン現象にて、列島各地は酷暑に見舞われている。しかし日光はまぁ、時節がらの蒸し暑さは感じるものの、酷暑には縁遠く、夜来の雨の去った後はむしろ爽やかささえ感じさせる空気が、緑の山々にはただよっている。
窓から見る地面に、濡れた部分と乾いた部分が、線を引いたようにくっきり別れている。あるいは雨雲は、ちょうどウチの近所にさしかかったところで散り消えたのかも知れない。
机上の、日々季節の食べ物の描かれた日めくりカレンダーで、数日前にジュンサイを見た。ジュンサイは食感ヲタクの僕の、好物のひとつである。そうして「ジュンサイかぁ」などと考えていたところにたまたま秋田の酒屋から「瞬間最高気温で沖縄を超えた能代より。いまお酒を注文していただければ実費でジュンサイをお入れできます」という内容のメールマガジンが届く。
そしてまた「ジュンサイかぁ」と、あの何とも言えない緑色と、箸に触れて揺れる透明の寒天質を思い出し、その「天洋酒店」に「ジュンサイひと袋、それに今お奨めのお酒を1升ビンで6本」との注文メールを送る。
むかし雑誌「面白半分」に「皇居再利用計画」という与太話の掲載されたことがある。あるひとりは「お堀でジュンサイを栽培してはどうか」と書いていた。しかし僕からすればジュンサイはやはり、山奥の沼沢にひっそりと浮かんでいて欲しい。
そしてジュンサイを具にした味噌汁には、白味噌よりは赤味噌がふさわしいと思う。赤味噌には味噌蔵の奥の奥の玄妙な香りが、またひっそりと息づいているからである。
NHKの朝の連続ドラマは何十年ものあいだ1日も欠かさず観ている、という人がいる。日曜日の夜の大河ドラマについても、同じような人はいる。長い間の習慣が、決して止まらない独楽のような慣性を、その人間にもたらされるのだろう、多分。
おととしの6月に、あるところでプティトマトの栽培キットをもらった。僕に植物を育てる趣味はないが、命といえば命を宿したそれを、もらったそばからゴミ箱に放り込むことは憚られ、会社の目立たない一角に、水を注いで置いた。
僕に植物を育てる趣味はないが、一旦はじめると途中で止めようという気にはならない。そして栽培を始めてから3ヶ月が過ぎるころ、そのオモチャのようなキットからは10個以上の実を収穫することができた。
きのう古典車修復の"EB-Engineering"を訪ねた折、朝顔は要らないかと、オーナー兼工場長のタシロジュンイチさんに訊かれた。朝顔は好きな花だから「要ります」と答えたところ、本日の午後、僕が留守にしているあいだにタシロさんはひと鉢の朝顔を届けてくれた。
店の駐車場には土の部分が3個所ばかりあるから、鉢のまま置くよりはどこかに移植した方が良い。そうしてお稲荷さんの坪庭の一角をスコップで掘ると、がれきばかりの出てくる痩せた土質ながら、ひと鉢ほどなら植えられる穴ができた。そしてここに、何やら珍しい種類らしい朝顔は無事に収まった。
僕に植物を育てる趣味はないが、これから数ヶ月は、この朝顔を丹精する日が続くだろう。
居間の南西に面した窓の真正面には鶏鳴山が亭々とそびえている。普段はひとかたまりに見えるその山も、雲あるいは霧が谷に満ちると、実は複数の山の集合だったことが分かる。あるいは鶏鳴山は複数の山の集合なのではなく、谷に隔てられたふたつ、みっつの山が、それぞれ別の名前を持っているのかも知れない。
晴れた山の様子はもちろん悪くない。しかし今朝のような、谷ごとに霧を含んだ景色は随分と味わいが深い。
2012.1229(土)の日記に僕は以下を書いた。
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1980年代の"FISCO"にあったような路面の荒れは「ツインリンクもてぎ」には皆無だから、ギアを4速に上げて徐々に速度を高めていくときの不安は特にない。ただしコントロールタワー前を過ぎてエンジンが3,700回転を超えようとすると、前輪の周辺から強い振動が発生し、僕は松本零士の「ザ・コックピット」を思い出して思わずスロットルから右足を離す。
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「前輪周辺からの強い振動」についてはその後「タイヤの真円が失われていることによる」と、このクルマの維持管理をしているタシロジュンイチさんは診断した。とすればタイヤを履き替える必要がある。
オヤジの遺した"BUGATTI 35T"は、年に一度、年末の「阪納誠一メモリアル走行会」で操縦するのみだ。よって慌ててタイヤを買う必要はない。そう考えて待つうち予想外に円安が進んでしまった。
「ウワサワさん、ドルが100円を割ったらタイヤ、注文しましょう」
「ドルが100円を割る? タシロさん、ここしばらくは、それはないよ」
というやり取りを交わしたのは先月20日ごろのことだった。
「アナリスト? 予言者や占い師と大して変わりゃしねぇよ」などと普段はうそぶいている僕だが、彼らには知らず知らずのうちに感化されているらしい。タシロさんには即、タイヤを発注するよう連絡をした。
「雨の名前」という辞書というか読み物というか、これを買おうとしながら何年も買えないでいる。何ヶ月ぶりかで"amazon"を検索すると、この本の、新品と古書の価格には相変わらずそう大きな差がなかった。
「読みたいなら古書の価格などにこだわるな、すぐに買え、このケチ」と言われればその通りだ。しかし人にはそれぞれ好みというかクセというか譲れないものがある。
「どんな人が読んでたか知れないんだよ、気持ち悪い」と、オフクロは古書を毛嫌いする。「内容が同じなら、なぜわざわざ高い方を買うか」というのが古書好きの僕の、子供の頃からの一貫した主張である。
そうして「雨の名前」は今日も買わない。
今朝は3時50分にはじめて鳥の声に気づいた。鳥が啼いたということは、夜来の雨は上がりつつあるに違いない。そう考えつつ起床して、外が明るくなっていく様を、ときどき見ていた。はじめは雲ばかりだった空も、日が昇りきるころにはすっかり晴れ上がり、ツバメが、まるでヒバリのように高く舞っている。
夜に降って明け方に止む雨を「親方雨」と呼ぶらしい。きのうから今朝にかけての雨は、まさしくその「親方雨」なのだろう。
午前に「トチギ旅行開発」から、7月11日に発って20日に帰ってくるeチケットの控えが届く。日本が梅雨ならネパールは雨期。カトマンドゥからヒマラヤを望むことは難しいかも知れない。
モノを買うという行為には、そのモノが必要だから買う、必ずしも必要ではないけれど欲しいから買う、以外に「買い物という行為そのものをしたい」という欲求に突き動かされてしてしまうことがあるように思う。そしてこの性向の亢進したものが、すなわち買い物依存症ではないか。
12月の忙しいときになど、ふと気づいてみれば月曜日から日曜日までの7日のあいだ、いちども家と会社の敷地から外へ出ていない、ということがある。そのようなときには、何か買い物がしたくなる。
むかしと違って今はウェブ上で買い物ができる。家や会社の敷地から出ることなくあれこれ取り寄せられる環境は、買い物の好きな人間には危険だ。
僕は買い物依存症ではないが、無くて済むと分かっているものを買うことは年に何度もする。今は"Patagonia Men's Lightweight Climb Pants"の赤い色が欲しい。
10日もすれば千代田線に乗る機会がある。新御茶ノ水から目と鼻の先の小川町には"patagonia"の直営店がある。在庫があれば欲しい物が手に入って幸い、在庫が無ければお金を使わずに済んで幸い。どちらに転んでも幸いである。
「1年のうち僕のからだにアカギレが無いのは、5月から8月までの4ヶ月だけなんですよー」などと、年寄りの病気自慢にも似たことを1993年から言い続けてきた。「1993年」と明瞭なのは、ある記憶を元に、コンピュータの覚え書きに検索をかけたからだ。
今年は梅雨入りが宣言された後も、まるで五月の空のようにカラリと晴れ上がる日が多く、その陽気による湿度の低さが影響しているのか、僕のかかとには6月の声を聞いてもいまだアカギレがある。
疲れ果てて、というわけではない。早すぎる目覚めに伴い、夜も早くから眠くなる。その睡眠欲求に負けて20時30分に就寝すると、2時30分に目が覚める。そのくり返しで翌日も早くから眠い。
夕刻いまだ空の明るいうち、つまり眠くなる前にホンダフィットに乗り込み、日光街道を6キロ遡上して日光市旧市街の坂を登る。開け放った窓からの空気はヒンヤリとして、試しに手を突き出してみると、涼しいというよりむしろ寒い。
ウチから東照宮のある日光市旧市街まではたかだか6キロ。しかしその6キロのもたらす天候気温の差はとても大きい。冬であれば、ウチのまわりが雨でも6キロ上では雪が降っている。今の季節なら、ウチのまわりでは半袖シャツが、しかし6キロ上では長袖が目立つ。
昔ほどは頻繁に訪ねないけれど忘れた頃にはまた行く広東料理屋にて、あれやこれやを肴に紹興酒を飲む。そうして先ほどとは逆の右側に神橋を眺めつつ、ふたたび6キロを走って下界に戻る。
ちかくは針葉樹の森、そして里山、更に奥に日光連山。それらが折り重なるようにして見えている。雨は降っていない。しかしウチから西の方では、いまだ夜の湿気が残っているのかも知れない。
そしてその景色を見ながら「こういうのがジュージョートシテ、なんていうんだろうなぁ」とキーボードを叩くが目指す漢字には変換されない。検索エンジンを回してようやく「重畳」の読みは「じゅうじょう」ではなく「ちょうじょう」だったことを知る。
「弊衣破帽、蓬頭垢面の」を「へいいはぼう、ほうとうきめんの」と、学校の弁論大会で四文字熟語を並べ、しかし後に「垢面」は「きめん」ではなく「こうめん」と知って、みずからの失態を恥じる文章があった。「受験番号****」、この「****」は失念したが、東京大学を受験するための、1年間の浪人時代を綴った本の中で読んだものだ。確かカッパブックスだったと記憶する。
これは非常に面白い文章で、僕は中学生のときに2度も読んだ。多分、東京オリンピック前夜に受験勉強をしていた、叔母の買ったものだったと思う。
そして「あんなに古い、しかもカッパブックス。ウェブ上に探しても見つかることはないだろう」と考えつつ「受験番号 カッパブックス」と"google"に入れてみると、しかし当該の
「受験番号5111-東大受験生の赤裸な日記」 塚本康彦著 カッパブックス \220
は直ぐに見つかった。僕は別段マニアではないが、古書を手に入れるについては本当に便利な世の中になったものである。
「ダサいお酒の好きな人はいるの」
「そういうヤツは、ウチには決して来ない」
「取りあえずビール、なんて人はいるかな」
「一切、いない」
そういう会話を長男と交わして僕は、いまだ明るいうちに発泡ワイン2本、白ワイン3本、赤ワイン3本、そしてカルヴァドス1本を隠居に運んだ。「ダサいお酒」とは、インカムを付けた店員のいるチェーン系居酒屋で若い女の子が好んで注文するところの、口径も高さもある大きなグラスに満たされて出てくる綺麗な色をした飲み物を指す、ウチの家庭内隠語である。
同級生を迎えるにあたっては、長男は何日も前から隠居の草を刈り、料理の用意をしてきた。そして徐々に集まってきた若い人たち7人に混じり、夕刻より夜に至るまで飲酒喫飯活動をする。
このところ本は、バンコクに住む同級生コモトリケー君への土産になるようなものを選んで読むきらいがある。「土産なら新品をやれ」と言われれば「やる前にオレが読めば、本も二度うまかろう」と答えておく。もっとも僕は、本は新品ではほとんど買わない。
「小説・吉野秀雄先生」は山口瞳の遺した文章の中でも白眉のもので、僕はこれを2度、読んだ。高橋義孝に師事した山口の頭の中には当然「小説・高橋義孝先生」を書く腹づもりがあっただろう。しかし健康上の理由から、山口はその目的を果たせなかった。
"amazon"で
「したたかに酔ふや 高橋義孝先生」 加藤建亜著 里文出版 \1,800
という本を見つけ、すぐに注文をした。1997年の刊行で、現在は古書でしか買えない。
届くなりこれを読み始めてみると、しかし本文233ページのうち高橋義孝についてのことは98ページまでで、以降は著者による5編の短編小説が続いている。それに気づいて僕は、気に入りの玩具を取り上げられた子供のような気分になった。しかし気を取り直してその小説を読み始めると、これはなかなか手練れの文章である。
手練れの文章ではあるが、この人の書くものの中には僕の読めない字がたくさん含まれているため、文章を味わいつくすことができない。正確に言えば「読めない」のではなく「読み方が分からない」のだ。音で読むのか訓で読むのか、はたまた重箱で読むのか。その上「この送り仮名からすると、さて…」と文字を追う視線の止まることもたびたびある。ひとえに、能、草木、和服についての教養が僕に欠けているせいだ。
夜の街に身を沈めていると、その道の著名人よりも遙かに優れた歌手や演奏家にたびたび出会う。彼らはおしなべて無名である。そのような無名の人たちを、加藤建亜による文章は僕に思い出させた。
きのうはピリ太郎だったが、今日は
「おたくのらっきょうのたまり漬が好きでよく食べている。ところで本日、泥付きのらっきょうをもらった。これを、おたくのらっきょうのような漬物に仕上げたい。ついては作り方を教えて欲しい」
という意味の電話がかかる。
きのうとおなじく懇切丁寧に説明を始めるが、手順を述べる僕の言葉をさえぎって「八百屋さんに売ってる、らっきょう漬けの元みたいの使ったんじゃダメかな」と、先方は先を急いだ。よって「それでは別の者が折り返し電話をさせていただきますね」と僕は一旦、受話器を置いた。
数分をおいて今度は長男が受話器を取り、着信履歴からリダイヤルをする。そして先の僕より更に詳しく説明を始めると、先方はやはり「八百屋さんに売ってる、らっきょう漬けの元みたいの使ったんじゃダメかな」と、おなじことばを繰り返したらしい。
結局のところ「それでもよろしいと思います」と言って長男は電話を終えた。
「身の上相談をしてくる人は、最初から自分なりの結論を持っている。その結論を推し量り、その、先方の結論と同じことを、あたかも相談を受けた側の言葉として返して上げると先方は安心する」とは、むかし美輪明宏がテレビで言っていたことだ。
「上澤梅太郎商店の、らっきょうのたまり漬と同じようならっきょう漬けを自作」しようとしても「八百屋さんで売ってる、らっきょう漬けの元」を使っては、所期した目的は絶対に達成できない。しかし質問を受ける側が、その、先方の結論を肯定しない限り、先方は絶対に納得をしない。美輪明宏の言うとおりである。
明日もまた、同じような電話がかかるのだろうか。
午前に"Hanako FOR MEN"と、外側にフェルトペンに書かれた封筒が届く。その上縁をハサミで水平に切り、中身を取り出すと、それは黄色い表紙を持つ「"Hanako FOR MEN" 食べたくなる、作りたくなる、元気になる。カレー万歳!」というマガジンハウスの雑誌だった。そして僕は、1ヶ月以上も前に受けた取材を思い出した。
ライターから届いた原稿に、昔風に言えば朱を入れ、返送したのは数週間前のことだった。そして僕はその"Hanako FOR MEN"の特集号の、当然ながら、らっきょうのたまり漬「ピリ太郎」の紹介記事が、僕が指摘したとおりに修正されているかどうかを確かめ、その後は他のページを逍遥して、あれやこれやの記事を読む。
雑誌にらっきょうのたまり漬「ピリ太郎」が紹介されたこととは何の関係もないだろうが午後
「ピリ太郎が好きでよく食べている。ところで本日、泥付きのらっきょうをもらった。これをピリ太郎のような漬物に仕上げたい。ついては作り方を教えて欲しい」
という意味の電話が入った。よって懇切丁寧に手順を説明し始めたが、懇切や丁寧をつくすほどに相手は「そんなに時間はかけられない」とか「そんなに手間はかけられない」と言う。そして結局は「まぁ、良い塩梅にやってください」という結論になった。
「生のらっきょうを手に入れた。これを以て、おたくで漬けているようならっきょうに仕上げたい」とは「米と米麹を手に入れた。これを以て、おたくで醸しているような日本酒に仕上げたい」と酒蔵に電話で醸造法を訊くと同じく、先々の困難が予想される企てだろう。
家庭の主婦であれば、職人や専門家による味を追いかけるのではなく、その家の、自分にしか作れない味を目指してはどうか。そしてそれこそが「新しい天体」への近道だと思う。
夕刻に、サイトーエリコさんによる計量、ハセガワタツヤ君によるワイン注ぎとフタ締め、という分担にて、今年何度目かの、リュビドオルの瓶詰めが行われる。このうちの7割以上は予約の品だから、いずれすぐにまた、同じ仕事が必要になるだろう。
自分にとっての適正な体重は63キロと勝手に決めている。これが62キロに落ちると「へー、何なんだろう」と気にも留めない。そして64キロになると「ちと気をつけなくちゃいけねぇな」と、少々の危機感を覚える。
僕のこのところの体重は64キロで、だからきのうの朝飯は雑炊、昼飯はうどん少々にしてもらった。そして今朝のメシは蕎麦だったが、揚げ玉を追加してしまうところが僕の弱さである。
現在の日光は、晴れさえすればとても爽やかだ。そして今朝は、素晴らしく晴れ上がった空の下、恵比寿ガーデンプレイスの外縁を歩いてヒラダテマサヤさんの会社に行く。日光よりも湿度が高く、また気温も高すぎるところが東京は惜しい。
昼飯は、冷たい釜玉に鶏の天ぷらを追加したヒラダテさんを尻目に僕は、大根おろしと青葱と鰹節のみを具にしたぶっかけうどんにした。きのうの雑炊とうどん、今日の蕎麦とうどんで、僕の腹はいくらかは凹むだろうか。
「ウワサワさん、炭水化物を摂取している限り、人は痩せませんよ」などと教えてくれる栄養学に詳しい人ほど得てして太っている。よってそのような意見を容れる必要はない。
夕刻の下り特急スペーシアの車中でサイフの中身を確かめていると「アジスキタカヒコメ」と「アジスキタカヒコネノミコト」と、裏側に赤いボールペンで書いたレシートが出てきた。
昨夜の記憶は、地下鉄を乗り過ごすほどの大酔だったから曖昧ではあるけれど、そういえば隣の客に何か言われた覚えがある。「アジスキタカヒコネノミコト」ついては、帰宅してからゆっくり調べてみたいと思う。
「あさみどり」とつぶやくと「緑じゃダメでしょ」と、すかさず長男が返した。らっきょうを原材料とした新商品の名を考えている。
「緑じゃダメでしょ」とは、地中にあるらっきょうへの配慮が足りず、これが地上に露出すると太陽の光を浴びてらっきょうは緑色を帯びる。この手は「アオ」と呼ばれて価値が落ちるのだ。よって「みどりってのは色についての説明じゃないよ、爽やかさの、抽象的な表出だな」と僕は答えた。
「しかし、あさみどりは春でしょ」と、長男はなおも食い下がる。よって稲畑汀子編「ホトトギス季寄せ」を調べると、そのような季語はそもそも存在しなかった。
夏に蔵出しされる新商品に「あさみどり」の名を充てることに固執するのは「あさみどり、澄み渡りたる大空の、広きをおのが、心ともがな」の、明治天皇御製を僕が好むことによる。
ところで明治大帝はこの歌を紙に記すとき「あさみどり」については、どのように表したのか。大和の歌にふさわしく平仮名を用いたのか、あるいは「朝緑」だったのか、はたまた「浅緑」だったのか。
とにかく、梅雨の最中とは思えない涼しげに晴れた今朝の空を見たことで、思わず僕の口からは「あさみどり」の語が出たらしい。そして夜は池袋で大酔をし、丸ノ内線をお茶の水まで乗り過ごして本郷三丁目まで戻りつつ甘木庵に帰着をする。
きのうのオフの会場「天府舫」は、新宿の大ガードからほど近い。しかし新宿駅の構内を延々と歩くよりは合理的だろうと、僕は秋葉原で乗った総武線を大久保で降りた。帰りも同じ道を辿ったが、その大久保でどこにも引っかからなかったのは、白酒を4時間15分も飲み続けたお陰だと思う。
僕の飲酒活動はせいぜい2時間で完了するが、若い人は飲み会を引っ張る傾向があるのだろうか。自分の過去を振り返ってみれば、なるほど20代のころには六本木で朝まで飲むことも珍しくなかった。
前述の通り、新宿からの帰りに寄り道はせず、よってきのう使ったお金は、交通費を別とすればオフの会費3,500円のみだった。僕としては上々の節約である。
そして今朝は外が明るくなりかけるころに目を覚まし、枕頭の明かりを点けて本を読み、6時を数十分すぎたころに甘木庵を出る。そして切り通し坂を下り、「大喜」の裏を抜けて千代田線の湯島に達する。
下り特急スペーシアの始発で帰社して後は、「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」の、ごく初期の漬け込みを行う。昼からはオフクロを連れて、オヤジの先輩ワダキョーゾーさんの葬儀に参列をする。
ワダさんは美丈夫で、人を惹きつけてやまず、また色気のある人だった。そしていくつもの弔辞を聴きながら島尾敏雄の「出発は遂に訪れず」を思い出す。
自由学園男子部60回生のマハルジャン・プラニッシュさんが、下級生ヨシカワナオコさんとの結婚式に僕を呼んでくれた。僕は35回生だから、マハルジャンさんは25年、3歳年少のナオコさんは28年後輩ということになる。カトマンドゥで来月15日に挙行される結婚式には、マハルジャンさんのかつての勤め先"ComputerLib"の同僚なども出席をする。新郎新婦を含めた総勢は9名と伝えられた。
9名のツアー、行き先はカトマンドゥ、目的は結婚式ともなれば、普段の飲み会とはわけが違うから「それでは来月10日の夜10時、羽田に集合ということで」などという軽い約束のみにて当日を迎えるわけにはいかない。
先々月、ヒラダテマサヤさんが"facebook"に専用のグループを設け、以降、参加者たちはここで種々の情報を交換してきた。
しかし一行の中には、ヒラダテさんや僕のような、計画の立案に情熱を傾ける人間もいれば、行き当たりばったりが性分なのか、はたまたこれまで、おんぶにだっこで世の中を渡ってこられた「愛され派」なのかは不明ながら、ほとんど発言しない人も半数以上はいた。
結局のところ必要となるのは"SNS"などではなく昔ながらの「顔合わせ」なのだ。そして本日17時30分より9名のうちの8名が新宿の一角に集まり、ここで初めて本格的な打ち合わせをする。
1980年、82年、91年と、ネパールには過去3回の訪問を僕はしている。指折り数えてみれば、最後の機会から早くも22年の歳月が過ぎた。いまや僕も、ネパールについては浦島太郎なのだろうか。結婚式や会食以外の日には、街や山を存分に歩きたいと思う。