テレビに映る国会議員の姿を思い起こせば「あぁ、あれか」と誰の目にもすぐに浮かぶクールビズ、つまり黒いスーツを着ながらシャツにネクタイはしない格好と、白いシャツにネクタイを締めて、しかし上着は着ない格好のどちらがマシか。
それを家内に訊いたところ「スーツを着ながらシャツにネクタイをしないとは、明け方に仕事を終えてビルから出てくる男たちを想像させて、昼の業務にはまったく適さない」と言う。
屋根もドアもないクルマで真冬のサーキットを周回するときにしか着ない、分厚い木綿にワックスを染みこませた"Belstaff"の"Tourist Trophy"はクローゼットに保管しているくせに、夏用の麻のスーツはハンガーに掛けて納戸の棚にぶら下げておいた。これが先の大地震により滅茶苦茶になった納戸の、どこに埋もれたか見当が付かない。
大地震以降の通夜、葬式には三季用のスーツで出かけていた。しかしこれは誂えたときから胴回りがきつく、長い時間これを着る気はしない。そして麻のスーツを見つける気力もない。
そういう次第にて白いシャツにネクタイを締め、上着は着ずに霊岸島のちかくを歩いていく。台風の後の強風にシャツはパタパタと煽られ、地下鉄の熱気に蒸されて浮いた汗を急速に乾かしていく。涼しいよりもむしろ寒い。それでも風が止めば街には梅雨の走りの温気が戻り、だから夕刻には冷たいお酒を飲む。
きのうの夜は春日町1丁目の会計係として、組長を集めた総会に出席をした。その総会が終了して後は、僕の計画としては飲み屋へ向かうはずだった。しかし公民館を出て日光街道を下り始めた僕の姿を誰かが天から見ていたように、それまでの雨は一斉に強くなった。いまだ5月にもかかわらず、台風の襲来である。
日光市今市地区旧市街の飲み屋は街の南東にまとまってあり、街の北西に位置する我が春日町には、1丁目から2丁目までその範囲を広げても、そこに飲食店はただの1軒もない。どこかで飲もうとすれば公民館から出てウチの前を通りすぎ、更に日光街道を数百メートルは歩く必要がある。そして結局、飲み屋は諦めて、自宅での飲酒に切り替える。
それから数時間を経て、夜中から寝たり起きたりするうち、雨の中心は北東へ去ったか、あたりは急に静かになった。そして朝を迎えるころ、日光の山々を覆っていた雲が切れ始める。
夜に日光街道を下って洋食の「コスモス」へ行く。この店ができたのは僕がいまだ10代のころと記憶する。そのころから店のメニュにあるカツレツは、そのころと同じ味を保ちつつ、しかしより美味くなっている。地味な研鑽に気づく人はどれほどあるだろうか。
「クルマが人を変える」ということは確かにある。普段は羊のように大人しい同級生が一昨年、6気筒のBMWを運転していて、長く免許を停止されるほどの速度違反をした。
昨夏、別の人の運転するやはり6気筒のBMWの助手席に収まり、ある高速道路を走っていると、前方に、まるで停まっているようなクルマがあった。BMWの運転者は「なんだー」と声を上げながら強くブレーキを踏み、追突は免れた。時速100キロで巡行するクルマが停まって見えるほどの速度で当方は走っていた、ということだ。
上の例の逆の意味でも「クルマが人を変える」とは確かにあり、それはハイブリッドのクルマに乗れば分かる。この手のクルマを運転すれば、信号が青になった途端となりのクルマよりも早く次の赤信号まで達しようとか、高速道路で前を行くクルマにヘッドライトの点滅を浴びせて道を空けさせようとかいう気持ちは一切なくなる。
つまりハイブリッドのクルマは人を、満腹の草食獣のようにする。餓えた肉食獣になりたければドラッグレーサーのようなクルマに乗るべきだ。満腹の草食獣にくらべれば、餓えた肉食獣の方が仕事もしそうである。
朝は得意だから目覚ましをかけることは普段はしない。しかし今朝は例外的に、携帯電話に設定した4時のアラームで目を覚ました。そして4時15分に事務室へ降りる。
夏のダイレクトメールの送付先は土曜日の朝までにくれと、数日前より事務係のタカハシカナエさんに言われていた。顧客名簿からDMの送り先を抽出する作業には高い精密さが要求される。電話や来客の絶えない日中にこれを行うことはできない。
10年以上も前のことになるだろうか、この作業を一度マクロに組んでみたことがある。しかし名簿にはその時々の例外が存在し、その例外を抽出に反映させるにはどうしても手作業が必要と分かったから、このマクロを実際に使ったことはない。
朝の作業は1時間ほどで終わった。朝飯までの時間は気楽なブラウジングに充てる。
6月の2日から3日にかけての仕事に必要な資料は当然、1日までに作っておかなければならないと考えていた。しかし作業の一部は2日当日まで引き延ばされてしまうのではないか、という予感もあった。その資料の作成を、首尾良く本日午前のうちに完了する。
予報では、雨は本日の午後3時には上がることになっていた。一旦止むかに見えた雨は、しかし雲を連れてどこかから戻ってきたらしい。梅雨とはいえ雨は夜間に限って欲しいものである。
「森永乳業、サマータイム導入 就業1時間早め節電」の記事が本日の日本経済新聞にある。そしてそこに添えられた写真を見ながら「へー、森永は昭和の時代にもサマータイムを採用したことがあったのか」と一瞬、思った。その写真が強烈に昭和の香りを放っていたからだ。
太めのボーダーのカットソー、裾がすこしフレアした膝丈のスカート、そしてストレートの長い髪のオネーサンは昭和のコンサバそのものだ。また「森永プラザビル」や「エンゼル街」のレタリングも今の目からすれば古めかしい。何か懐かしいものを見たような気分を味わった僕は、しかし記事を読むうちその写真が今初夏のものであることを知った。
「今」を残したいと考えながら僕は写真を撮っている。上の例を引くまでもなく「今」をカメラに残すことはなかなかに難しい。来月1日に更新するための写真は、いまだ1枚も撮れていない。
日々、あちらこちらから電話がかかり、あるいは人が来て、あれこれと用事を入れることになる。用事を入れるときには、おなじ日時に既にして他の何ごとかが計画されていないかどうかを調べる必要がある。
その際に、調べる対象が手帳では、いちいち当該のページを探さなくてはならないから手間がかかる。コンピュータに入れておけば検索は一瞬で完了するが、電源が入っていなければ役立たない。よって会社に関する予定はすべて、机上のカレンダーに様々な色で記している。
「19:00~ 高橋結婚祝い」とあるのは製造係タカハシアキヒコ君と事務係コマバカナエさんの社内的披露宴のことで、それは本日の夕刻より行われる。
ケーキの"Chez Akabane"を経由して居酒屋「蓮」の駐車場にホンダフィットの鼻先を侵入させると「ここに停めると何かと便利だ」という場所に販売係のハセガワタツヤ君が誘導してくれる。座敷に座って以降はまぁ、社員に言われるままというか、請われるままにしていれば祝い事は粛々と、というか騒々しく進む。
「今の若い者は」という物言いを僕はしない。大抵の若い者は僕よりもマシである。タカハシ君とコマバさんも、しっかりした家庭を築くことと確信している。
ウチの店と、春日町の交差点を隔ててはす向かいにあるガソリンスタンド「大橋油店」に飼われているブルドッグの夢を見ながら目を覚ます。「あの犬とひとつの布団で寝られたら嬉しいよなぁ」というようなことを常々考えていたための夢と思われる。
短いとはいえブルドッグには毛が生えている。触ると皮膚のペトペトしそうな、毛のない犬がいる。あれなら一緒に寝ても、より衛生的かも知れない。蛇なら更に衛生的だろうが、蛇と寝る気はしない。
いちいちメモにつけないと覚えていられないような細々したことに時間を取られ、気づけば夕刻になっている。その夕刻の景色が中々美しい。
午前0時が近づくころ、きのうの日記をいまだ書いていなかったことに気づく。酔った頭で5月24日の日記を作成し、サーヴァーに転送する。
国道121号線沿いの歩道の草むしりを始めて何日になるだろう。「1日に3メートルを進めば10日で30メートルだ」と考えてウチの店舗の端から南東方面へ向けて出発し、本日ようやく信号機ひとつ分の区間を綺麗にする。
雑草の種類によっては根の下に大きな蟻の巣を隠すものもある。そういう草をゴッソリ抜くと、朝日にいきなり晒された蟻たちは白い卵の上や下を右往左往し、声のない阿鼻叫喚を発する。
民主主義は少数意見をも尊重する。雑草や蟻の擁護団体があれば、僕などは声高に糾弾されても仕方のないことを毎朝しているのだ。
「本物のらっきょうで作った本物のワインらっきょう」の仕込みの初期段階を行うべく、終業後はひとり会社に残って1時間と少々の作業をする。そして「第216回本酒会」の開かれる鰻の「魚登久」へ向かう。
きのうから今日への気温の落差は大きく、出がけには長袖の上衣を持つよう、朝のテレビの天気予報は伝えていた。
日光では日中より雨が降り始め、確かに気温は低いようだが「外出時には長袖の服を」と、東京のテレビ局の人に言われるほどのことはない。もっとも重ね着を好まない僕は薄ら寒さを覚えるくらいが常態だから、そんな風に感じるのかも知れない。
閉店後、シャッターを降ろした事務室にいると、国道121号線を走るクルマの、水しぶきを上げる音が聞こえてくる。雨は夕刻から徐々に強くなったらしい。
物欲に負けて購入に至った"POST OVERALLS"のベストはポケットが大きく、懐にはA5版のかなり厚い本もスルリと収まってしまう。そしてその本の重さを胸に感じつつ日光街道を歩いて下り、「ユタ」にて若干のカウンター活動を行う。
外で昼飯を食べるときには多く日本経済新聞を持参する。「外で」とはいえ公園の芝生にビニールシートを敷いてサンドイッチを食べるわけではない。この場合の「外で」とは外食のことである。
日本経済新聞はほとんど第32面しか読まない。「やぶ定」で「盛りの大盛り」を頼んでからおもむろに、この32面をテーブルに開く。「狸ビール」は随分と前に読んだ。しかしこの本の著者である伊藤礼が伊藤整の息子とは、本日の「失せ物落とし物」に目を通して初めて知った。
野尻湖の外人村23番は同級生コバヤシヒロシ君の家の別荘だ。湖畔に接したその23番から熊笹に縁取られたS字坂を上がっていくと「ここで冬を過ごすことは到底、無理だろう」と思われるほど窓の広い家があって、それは伊藤整の別荘と学生のころに教えられた。
「狸ビール」と聞けば僕はただちに「ネパールのビール」を思い出す。「ネパールのビール」は誰が書いたものだったか、それは忘れた。とにかくこの随筆集は現在"amazon"で1円で買うことができる。手に入れて損はない。
今月の「私の履歴書」はアサヒビール元会長の瀬戸雄三。アサヒスーパードライがなぜあれほど売れたか、それが僕にはどうしても分からない。浅草はアサヒビールのお膝元である。浅草で飲み屋、料理屋に入ると置いてあるビールは大抵アサヒだ。アサヒビールは嫌いでないが、スーパードライしか用意のない店は困る。
大地震と津波による崩壊からよみがえったリスボンについて、樺山紘一が書いている。読めば読むほどリスボンという小体で洒落た街を訪ねてみたくなる。安部龍太郎の「等伯」は読まない。新聞の連載小説は生まれてこのかた一度も読んだことがない。
瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」のある23面へは32面から遡った方が早く行けるが、これが23面にあるということは普段は忘れているからいつも、第1面に戻ってここから徐々に紙をめくっていく。途中第5面の「iPad工場で爆発」、第7面の、オリンパス社長へのインタビュー「デジカメ撤退はありますか?」という見出しに目が留まる。
そして「奇縁まんだら」まで達しないまま「盛りの大盛り」を食べ終えて会社に戻る。
オリガ・イワーノヴナ・パヴロワ。いや、誰かは忘れたが、とにかくそのむかし西洋から来日したバレーの教師が日本の生徒たちのうどんをすする様を見て「そんなものを食べていてはバレーは踊れない」と言ったという。
「バレーは西洋のものだから、これを身に付けようとすれば先ず、食べ物から西洋化せよ」という意味ではない。運動には高タンパク高カロリーの食事が必須である、ということを伝えたかったのだろう。
オフクロがあるところで風邪をひいてゲンナリしながら「それでも、うどんかお粥は食べないと」と自分に言い聞かせたところ、「風邪なら肉を食べなさい」と、たまたま居合わせたフランス人に叱られ励まされたという。試合を明日に控えた高校球児にステーキと豚カツを出してしまう甲子園ちかくの旅館のオバチャンと、このフランス人の考え方には、似たところがあるやも知れない。
「からだの具合が悪く食欲のないときには、体力を回復させるため食物の摂取に勉めるべき」と言う人がいる。一方「食欲の喪失は、いま体に食物を入れてはいけないという体からの信号で、それを無視して何かを食べようとするのは、まったく理に適っていない噴飯的行為」と言う人もいる。
今日の昼飯は遅かった。加えて午後遅くに牛乳を飲んだ。そうしたところ、早朝、昼前、夕刻には常に腹を減らしている僕が、今日に限っては18時の閉店時間を過ぎても空腹を覚えない。よって詳細については忘れたが、宴会の残りか何かを会合の帰りに支給されたものだろう、自分では買うことのない果汁入りの、有り体に言えばチューハイをシャワーの後に飲み、早々に寝る。
昔の映画を観ていてもっとも違和感を覚えるのは、男たちがやたらにタバコを吸うところだ。そのころの映画においてはタバコは慣用句的に、あるいは陳腐なまでに小道具のひとつとして使われている。「と、ここでタバコに火を付ける」というト書きまで目に浮かぶようだ。そしてそういう場面に接すると大抵、自分もタバコが欲しくなる。テレビからタバコの宣伝を追放したことは正解である。
そうでなくてもタバコは年がら年中、吸いたい。しかしそうしょっちゅう吸っては中毒になるから、その数は年に4本と決めている。均せば3ヶ月に1本の割合である。
今年の1本目はフーコック島のバンガローのヴェランダで吸った。4月1日のことだ。1本目は1月から3月までのあいだには吸わない、というところがミソである。1本目を3月までに吸ってしまえば、それは何やら次月に繰越金のない家計のように思われ、その余裕の無さが中毒に繋がるように思えるからだ。
タバコは年がら年中、吸いたい。しかし2本目を6月までに吸うことは避けたい。そしてこのようなことを繰り返すうち結局は毎年、年に吸うタバコの数は3本に留まるのだ。
「ラジオで聴いたんですけど、中禅寺湖の桜が綺麗だそうで… どこら辺でしょうね」と今朝、お客様に訊かれた。僕に特段の情報はない。記憶を辿り、桜の木のあったような気もする場所をお教えする。
20代のはじめのころ、5月の初旬に戦場ヶ原を訪ねたことがある。その時期のそのあたりの木々はいまだ、冬の姿を留めていた。中禅寺湖は戦場ヶ原よりも幾分かは標高も低いし、また現在は5月も中旬の最後に差しかかっている。桜もいよいよ咲くころなのだろう。
栃木県味噌工業協同組合の総会に出席をするため、三菱デリカを運転して日光宇都宮道を走る。窓からの風は涼しく、あたりは新緑の若緑一色である。宇都宮に出たついでに「たまり炊」の材料の干瓢を、昔から付き合いのある専門店から仕入れる。
段取りの悪いわけではなく種々の理由により、今日は日光宇都宮道路に計5回も乗った。半袖のシャツ1枚でクルマの窓を開け放っても寒くないどころか、むしろ爽やかである。6年前に買った"KEEN"の"YOGUI"は随分と傷んできた。そろそろ新品に替えようと思う。
4時30分に目を覚ましてすぐに起床する。靴下を履かなくては足が冷たくて歩く気もしない、という季節では最早ない。4階から素足のまま1階の事務室まで降り、コンピュータを持ってふたたび4階に戻る。
起きて間もなくの空には一面の雲があった。仏壇に水とお茶と花を供え、おばあちゃんの応接間でお茶を飲むうち、その空に小さな穴が開き、やがてその穴は徐々に大きくなり、そのうちその穴は空のほとんどの部分に広がった。その穴とは青空のことである。
ふと気づいて、きのう供えた到来物のお菓子を仏壇から下ろす。そしてそれをテーブルに運ぶ。包装紙の「坂の上の雲」の文字を目にして「松山かぁ」と、また空を見る。
自由学園男子部の、遠足を前にしての足慣らしは毎年、伊豆ヶ岳で行われる。奥武蔵における全行程15キロの縦走は楽でない。そして僕にも覚えがあるが、男子部のペースは時にマラニック級のものになるから余計にきつい。今日はその足慣らしの日で、次男もそろそろ起きるころだろう。
次男に叱咤激励の葉書を書き、朝飯を食べ、1階に降りて事務室と店舗のシャッターを上げる。そして国道121号線沿いの雑草を抜くため外へ出る。空気は乾き、空は晴れている。
昨年、高田馬場の「竹宝商会」で、あるノートを買った。これを次男に与えたところ、授業中のメモが楽な上に、ノートの付け方が良いと教師に褒められるという希有な経験もしたらしい。そして春休みに帰宅した折、また同じものが欲しいと言う。
よって先日、ついでを利用してふたたび高田馬場へ行けば、しかしこれが「竹宝商会」の棚には見当たらない。店員を呼んで訊ねると、入荷はしばらく無いという。
翌日、このノートの種別を細かく報せるよう、学校の寮にいる次男にハガキで要請をした。戻った答えは「KOKUYOのCAMPUS」です、という舌足らずなものだった。「まぁ、そういう客観性を欠いたヤツは大人にもたくさんいるから仕方ねぇか」と考えながら僕は、しかし同時に腹の中で舌打ちをした。
先日、父母会で教室に行くと、次男は僕の顔を見るなり机からオレンジ色のノートを取り出し「あ、これ」と言った。
その「KOKUYO ス-T225AT」をきのうの朝、近所の「シバタ荒物屋」にメイルで注文した。そしてそれは早くも今日の午前に届けられた。ノートの数は50冊。かなり使いでのある量である。
寮では平日に勝手な飲み食いはできない。金曜日になったら"Chez Akabane"のケーキか何か一緒に、このノートのうちの10冊ほども送ろうと思う。
久しく更新のないウェブページを目にするたび「だったら、やめちまえ」と思う。それが企業や団体のものであれば尚更である。あるときこの日記の中で、そのようなウェブページのひとつについて名指しで「やめちまえ」と書いたら、やめはしないが頻繁に更新をしなくても違和感の無いデザインに変わった。エゴサーチによりたどり着いた僕の日記を読んでの変更かどうかは知らない。
よそのページにそんなことを言いながら、自分が書記を務める「本酒会」のウェブページは2009年の8月以来更新していない。たかだか十数名の会員のために毎月1,000文字をひねり出すことが面倒になったことと、もうひとつは飲んだお酒のデータベースを"Mytool"から"excel"に変えたことによる面倒との「ダブル面倒」に辟易したことがその原因である。
そして本日、その「本酒会」のトップページに「ダブル面倒」とはちと書きづらいから、もうすこし柔らかい表現の言い訳を添え、1年9ヶ月ぶりの更新とする。
その詳細をここで説明するわけにはいかないが、僕には何かと物を失くす癖がある。
何週間か前のこと、まとまった額のお金を郵便貯金の口座から引き落とす際に、身分を証明するものとして健康保険被保険者証を提出した。数日してこの保険証が見当たらないため、郵便局の窓口を訪ねたが案の定「そのようなものを利用者から預かって返さないわけがないだろう」という顔をされた。
会社に帰って再度探したが、保険証はやはり見つからない。よって社会保健事務所へ行き、再発行を依頼した。「新しいものは1週間ほどで郵送される」とのことだったがそれは思いのほか早く、申請から数日で届いた。
保険証の表側は見慣れた水色で、しかし裏側には「臓器提供に関する意志」を記入する欄ができていた。とりあえずそこには何も書かず、外へ持ち出すことのない皮財布に納めて事務机の引き出しにしまった。
夜に「人生のきほん」を読み終え、ナンシー関の「ナンシー関大全」に移る。この「清閑PERSONAL」をリニューアルする以前、リンクページのあった時代には、そこからナンシー関の「ボン研究所」にリンクを張っていた。
その「ナンシー関大全」を腹這いになって読みながら「こんな人間は滅多に出ねぇよなぁ、惜しかったねぇ」としみじみ思う。
次男がハガキで報せてきた、学校まで持ってきて欲しい諸々、それらと共に日本経済新聞と佐野洋子の「人生のきほん」をザックに入れて上り特急スペーシアに乗る。「人生のきほん」は文庫ではないからちとかさばるが、今日はコンピュータは持参しないので、荷物はそう重くない。
僕が学生のころの西武池袋線は普通がほとんどで、その合間に快速や急行が走っていた。ところが今や普通の方が希少になってしまったため、池袋と練馬の間の駅へは却って行きづらくなった。そういう駅のひとつ「椎名町」で少々の用を足してから、おなじ西武池袋線に乗って「ひばりが丘」まで行く。
次男が自由学園男子部の高等科に上がって初めての父母会は、14時から始まって18時に夕食となった。この時間でもいまやあたりは明るく、テニスに興じる生徒たちの姿が木々の合間には伺える。
高等科1年の父母会は19時40分に終了した。この時間であればJRではなく東武日光線に間に合う。北千住駅21:11発の下りに乗り、23時前に帰宅する。
男子部高等科の今年の遠足は、丸山、中山、天狗岳、根石岳、硫黄岳、横岳、赤岳、阿弥陀岳と登っては下る、つまり八ヶ岳の縦走だという。折角登ったと思ったらすぐに下り、そしてまた登り、というあたりが縦走の辛さである。みんな大いに頑張って欲しい。
この年になれば多少の年齢差があっても、周囲から見れば齢の区別は付かない。そのくらいの差しかない年少の友人ヨシダゲンゾーさんがむかし、1年にひとつの店を作ることが目標と言ったことがある。大規模チェーンでもない飲食店が年ごとに店をひとつ増やすとは大仕事だ。
それほどの大仕事ではないが、ウチでは数年前から新商品の開発が盛んだ。今朝も9時を過ぎたころに、次の商品に使おうと考えている工業用機械の会社に電話をすると、この時間は営業していない旨の、女の人によるアナウンスが流れた。よって1時間ほども経ってから裏を返すと、今度は呼び出し音が鳴るだけで誰も出ない。「13日の金曜日は休業」というような社内規則でもあるのだろうか。
3月11日の大地震で屋根瓦の一部が崩落した工場から、工事用の足場が外されていく。僕が計算をしたところ、この屋根に葺かれている瓦の数は、頂部の半筒形の部分を除いて14,072枚だった。
「割れたり落ちたりした瓦だけ換えれば良いんじゃないですか」と震災の直後に瓦屋さんに訊ねたところ「すべての瓦がずれているので、とりあえずは全部はがして、使える物だけ再利用します。それよりも、先ずは下地の破損した板から直さないと」と言われた経緯があった。
イワモトミツトシ春日町1丁目自治会長によれば「瓦万年、手入れ毎年」という言葉があるらしい。地震が発生していなければ、30数年のあいだ風雨干天から工場を守り続けた瓦の手入れをすることもなかっただろう。「そのことを四文字熟語で言い表すと何?」と訊かれても、いますぐには浮かばない。
朝に冷や奴を食べる。田辺茂一ではないが冷や奴は、夜に酒の肴にするより朝にメシのおかずにした方がよほど美味い。ちょっと変わったレタスは、姓は忘れたが名は「コーサクさん」という人が農協の直売所に出している品で、葉の柔らかさと青い香りが気に入っている。トマトはユミテマサミさんの畑のもので、今でも充分に美味いが、その美味さは気温が上がるにつれ尻上がりに増していくだろう。
1996年に、なかば義理がらみで買った三菱シャリオを、この6月の車検を前にして廃車すべく、男体自動車に電話をする。
むかし6ボルトのバッテリーを積んだフォルクスワーゲンをアルファスッドに換えて、まるで第一次世界大戦時の複葉機からセスナに乗り換えたような気分になった。ハイブリッドのホンダフィットを常用しながらたまにディーゼルエンジンの三菱シャリオに乗ると、その差は宇宙船と、第二次世界大戦時のレシプロエンジン機ほどもあるような気がする。
三菱シャリオがなくなれば、会社のクルマはホンダフィットと三菱デリカの2台になる。必要にして充分の数である。
安い服が好きだ。
子供のころはアトピー性皮膚炎がひどかった。鋭い突起や割れた爪などに引っかけてシャツや上着の糸をほつれさせると、それだけで二度と着なくなるようなところが僕にはある。カシミアのセーターなどは天敵と言って良い。僕の持つ服は大抵、綿か麻でできている。
服はできるだけ着たくない。裸でいるのがもっとも楽だ。服を着なければならないなら、より単純な構造のものを最低の枚数だけ着たい。襟とボタンの付いているポロシャツよりはTシャツの方が好きだ。
と、ここまで書いてくると、安い服が好きというよりも、自分ごのみの服を選べばそれは当然、高くなりようがない、ということになる。
着る服の枚数を最低にするため、冬は帽子をかぶる。イヴォン ・ シュイナードの"ICE CLIMBING"に詳しいが、帽子には上着1枚と同じ保温効果がある。帽子だけで足りないときにはスカーフかマフラーを首に巻く。寒くなったらこれを、リキシャの上で丸まって寝るインドの人力車夫のように上半身に巻く。
荷物はできるだけ持ちたくない。冬に着る"SIERRA DESIGNS"のマウンテンパーカにはポケットがいくつもあって便利だ。ところが夏にTシャツを着ると物の持ち運びに困る。物を納める服として便利なのが釣り用のベストだ。しかし街であれを着るのは六本木でメルセデスの"Gelandewagen"に乗るようなもので気が進まない。
何が言いたいか。"POST OVERALLS"のベストが欲しい。
ここ数日のあいだ、この会社のシアサッカー地のベストがYahoo!オークションに出ている。何とかこれを落札できないものかと、今日は事務室から居間へ戻る夕刻に"ThinkPad"を携帯した。当該のオークションは本日の21:00までで、晩飯を完了した20:30に食いつくのはいまだ早い。そう考えているうち不覚にもうたた寝をして、気づいたら22:00を過ぎていた。
シャツやTシャツの上に着るものとして自分の持っているあれこれを思い起こせば、それらの色は総じて濃い。ベストはグレーと白のシアサッカーよりたとえば紺色などを選んだ方が着る確率は高くなるだろう。しかし"POST OVERALLS"の紺色のベストはただでさえ数が少なく、オークションで見かけたことは過去にない。新品は29,190円。
「たかだか木綿のベストにあなたは3万円ちかい金額を投じることができますか」という命題が今、僕には突きつけられているのだ。
このところ早くに目の覚めるのは、空の早く明るくなることと無関係ではないと思う。加えて気温も上がり、目が覚めると同時に起床できるようになった。
僕が普段いる4階で、もっとも日当たりの良いのはおばあちゃんの居間兼応接間だ。ここのソファに朝5時から座り、コンピュータはないからメモ用紙にボールペンで、過日世話になった人への礼状を下書きする。
人に葉書を書こうとして文章が浮かばないときには「ア、ス、ガ」の3文字を使えば造作ない、ということをどこかで読んだ記憶がある。すなわち「○○につきましては、アりがとうございました。承るところによれば△△とのこと、スばらしいですね。これからもガんばってください」という文面である。
しかし便箋を使った礼状ともなれば「ア、ス、ガ」というわけにもいかない。気合いを入れて書き始めたところ、案に相違してそれは10分ほどで完成してしまった。そういう次第にて6時までは、窓の外に飛ぶツバメやトンビを眺めて過ごす。
羽仁吉一の「雑司ヶ谷短信」をきのう"amazon"に注文した。それが早くも今日の午後に配達される。1972年、僕が自由学園男子部高等科1年の夏休みに求めたそれは、上下巻それぞれが別の箱に入っていた。今は2冊がひとつの箱にまとめられている。この形の方が座右に置くには便利そうだ。
今般の「雑司ヶ谷短信」はプレゼント用に買った。昭和の前半に書かれたこの優れた随筆が、僕より20歳ちかく年長の読書人に愛読されることを願ってやまない。
大麦、小麦、大豆、お米の麹を、ウチの味噌蔵の最深部で長期低温熟成させたものがすなわち「ひしお」で、今日の昼飯にはこれを用いた肉味噌のスパゲティを食べた。「美味い、美味い」と調子に乗るうち、胃袋に大量の麺を詰め込む結果となった。
このことにより腹は夜になってもまったく減らず、"KIRIN FREE"の350cc缶2本を晩飯の代わりとする。
「九段下寿司政のしんこを食べないと、私の夏が終わらない」と山口瞳は言った。「日光市東郷町ふじやの冷やし味噌ラーメンを食べないと、私の夏は始まらない」と僕は言いたい。
「ふじや」は毎年、ゴールデンウィークの頃には冷やし味噌ラーメンを始める。ところがこの数日間は、天気こそ良いものの気温は大して上がらなかったから店主も様子見をしているらしかった。そして今日の午後たまたま家内と「ふじや」の前を通りかかれば「冷やし」の青い旗が遂に出ている。よってすぐ店に入って冷やし味噌ラーメンを注文する。
とそこに、店の奥にあるカウンターから長男が現れた。所用あっての急な帰宅とのことで、こちらは熱い味噌ラーメンと炒飯のセットを食べているところだった。長男を我々の席に呼ぶと、長男はザックから白い封筒を取り出し僕にくれた。中にあった1万円札2枚は初月給からの、僕と家内への小遣いだという。
僕は初月給は銀座5丁目の、いまだ木造3階建てだった「鳥ぎん」で焼き鳥とビールに使った。初ボーナスはその「鳥ぎん」の左隣にあった「やま平」でおでんとくさやとビールに使った。親に小遣いを渡すなどは生まれてこの方したこともない。
長男は帰宅後に僕のオフクロへも小遣いを渡し、用を済ますと夕刻のうちに今の住まいへと帰って行った。
本日は母の日にて、終業後はオフクロを連れて"Finbec Naoto"へ行く。「ナオト」に行きつけると、フランス人のウェイターのいる南青山の洒落た料理屋で昼飯を食べても、あるいはライトアップされた東京駅を見下ろすガラス張りのちょっと高級そうな料理屋で晩飯を食べても「ナオトの方がよっぽど美味めぇよなー」と感じてしまう。そういうフランス料理屋を家の近くに持った僕は幸福なのか、不幸なのか。
そして帰宅して22時に就寝する。
ゴールデンウィークの繁忙も、実質上は5日までだろう。昭和の日からきのうのこどもの日までのあいだ、店舗では社員が主体となって様々な実験をし、僕は色々と勉強になった。
ある商品を店舗に4台あるショーケースのうちのとある場所に置くと、そこがこれまでの脇役から一等地とまでは言わないが1.5等地くらいにはお客様を集めるようになった。その1.5等地には早く売れていく商品とそうでない商品が混在して納められている。
他のショーケースからその1.5等地に別の商品を移し、またその1.5等地に今ある商品を他の場所に移動させたら結果はどのようなものになるか。そして最良の結果を得るための基準をどこに置くか。
お客様に宣伝媒体をお渡しするとき、どのお客様にどの媒体をお渡しするかの基準をどこに置くか。
漬物は保存食品との印象が一般には強いが、ウチはいま食べごろの新鮮なものしか店頭に並べない。そのためには明日、明後日の売れ数量の予測が毎日欠かせない。この予測になにか定数のようなものを用いることはできないか。
そしてこの連休中に思いついたこと、教わったことは月曜日にレポートに仕上げて社員に渡す。レポートの作成には1時間の4分の1ほどもかからないだろう。その内容のすべては、自分の頭の中と机上のメモに記録してあるからである。
「本酒会」は飲む対象を日本酒に絞った飲み会で、月に1度の例会を持つ。そして僕はこの会の書記を務めながら酒の取り寄せも担当している。5月の例会は24日で、この日に出すお酒のうち2本は既に冷蔵庫に保管してある。しかし2本では足りない。
ふと思いついて、先月の例会で最高の点を得た「ゆり」の醸造元で福島県会津若松市にある「鶴乃江酒造」にメイルを送り、そのウェブペイジの中で僕が「これ」と決めたお酒を1升瓶で4本、注文する。そしてこれから数ヶ月間は、本酒会の例会用には東北の酒を取り寄せることを決める。
「東北の酒」と決めたのは「震災からの復興のお手伝い」というよりは、本酒会の会員には多く東北地方の酒が支持される、という理由による。
そして来月の例会には宮城県柴田郡村田町に蔵を構える「大沼酒造店」の酒を使いたい。聞くところによればこの蔵は先般の地震で少なくない損害を被ったらしい。お酒の出荷が可能かどうか、週が明けたら直接に電話をして訊いてみたいと思う。
僕の知る"BUGATTI 35T"は1.6キロを走るあいだに1リットルのガソリンを費消する。一昨年の暮の走行会では夕刻にガソリンが底をついたため、昨年は「ツインリンクもてぎ」に別途100リットルを持参した。ところが当日は降雪により午後からサーキットが閉鎖され、専用缶に満たしたガソリンはほとんどそのまま残った。
ガソリンはその後、車庫に残置され、よって先の震災によるガソリン不足も僕にはどうということもなかった。ハイブリッドのホンダフィットに100リットルのガソリンがあれば、3、4ヶ月はウチの業務に何ら差し支えない。
そのガソリンの最後のところを午前、"EB-Engineering"のタシロさんに会社まで持ってきてもらってフィットのタンクに満たす。ここから先は、僕のガソリンの備蓄はゼロである。
工場と味噌蔵の、崩落した屋根瓦はほぼ復旧した。余震もこの頃はあまり起きない、と思っていたところ、入浴中に風呂全体が揺れていささか焦燥する。
夜にはスパゲティを食べ、その晩飯の内容とはいささか相容れないものの、録画しておいた「吉田類の酒場放浪記」を観る。
朝、空が明るくなってから、日光の山の白い部分の増したことを知る。きのう里に降った雨が、奥日光から先では雪になったのだろう。
購入すれば震災の被災地へ幾ばくかの寄付になるとのことにて、日光の名所の写真に「元気です!! 日光」の文字のあるのぼりを買った。犬走りの北東端に置くと、これが風に良い具合になびく。店舗入り口の季節の書は「春隣」から「麦笛」に替わった。
きのう午前、所用にて東照宮の社務所までクルマを走らせた。旧日光市街の手前、左側に旧日光街道の短く平行するあたりから渋滞が始まったため、JR日光駅から東武日光駅の前を通って裏道を抜け、神橋ちかくでふたたび日光街道に合流した。
道を知らない人よりは数十分ほども時間を節約することができたが、それでもウチから社務所までの8キロには1時間20分を要した。日光のいきなりの賑わいは、まるで人間の啓蟄を思わせた。これをきっかけとして、何とか平年なみの観光客数が戻ればと願う。
飲み食いをし、店の人にその代金を訊ねて「いやっ、安いなぁ、それでいいのー?」と不思議の念に打たれる店が僕には2軒ある。1軒は北千住の「加賀屋」、そしてもう1軒は立石の「宇ち多」だ。これに対して「ゲッ、高けぇ」と感じるのが東京の蕎麦屋だ。
ものの高い安いは絶対値ではない。絶対値が高くても、満足度もまた高ければ「高けぇ」とは感じない。つまり蕎麦屋の酒は、僕にとっては満足度が低いということになる。
我が町のお蕎麦屋さんには昼しか営業をしないところが多い。だから蕎麦好きのお客を夜にもてなそうとすると大抵は進退に窮まる。そういう状況にあって、しかし「玄蕎麦河童」は金土日と祝祭日のみ夜の営業をしているという。よって今夕は念のため店の開いていることを電話で確かめてから出かけてみる。
結論から言えば河童の酒は安い。「河童の酒は安い」とは、くどさを承知で言えば「河童で肴と酒を頼んで蕎麦で締める、その味と値段を勘案すれば、これはとても安い」ということだ。僕の感覚からすれば東京のおよそ半額、といったところだろう。それに加えて肝心の蕎麦は、東京の観光地化された蕎麦屋のそれよりも遥かに美味い。
そして必要以上に蕎麦湯を飲み、ふくれた腹をさすりつつ家に戻る。
あるとき社内で僕の似顔絵を見つけ、誰が描いたかを周囲に問うて、これが販売係シバタミツエさんの手になるものと知る。筆ペンと消しゴム版画との違いはあるが、その墨の跡にはナンシー関の作品にも通じる雰囲気があった。
社員の才能を見つければ、これを何かに使えないかと考えるのは当然で、あれこれその使い途を探す。シバタさんのイラストには他にらっきょうを擬人化したものもあり、こちらであれば即、らっきょうに特化した宣伝媒体に用いることができる。そして連休の繁忙が過ぎたら直ぐにでも、その作成に入ることを決める。
今年の山菜の芽吹きは昨年より遅いと言う人があるが、本当だろうか。そして今日はご近所より山菜の天ぷらを戴き、他からはまた山から採ってきたばかりのコゴミをいただいたため、それらを夕食のおかずにする。
3月11日の震災以降は「あれもしなくては」「これもしなくては」ということに頭が支配され、というか、されるもされないも、とにかくしなくてはならないことが降りかかってくるわけだから否も有無もない。頭ばかりが忙しく回転して、しかしそれは回転ではなく空転であったり、あるいは気持ちは焦燥しながら気持ち以外のすべては停滞したりと、平時とは異なる時を過ごした。
そして今はどうかといえば、いまだに何やら腰の据わらない、どこか落ち着かない、具体的になにをすべきかが定まらない、いや、定まらないということはないのだが、どうにも整合性を欠く自分がいる。
それでは自分も、また自分を取り巻く状況も何やら液状化している、そういう環境に対して真摯に立ち向かっているかと自らに問えばそうでもない。このあたりについては、まったく平時のままである。
この1ヶ月ばかりのあいだに撮り溜めた画像はきのうのうちに12枚の組写真にまとめておいた。この「二駅ばかり」を朝のうちに"WORKS"へ上げる。
"Chez Akabane"の杏仁豆腐とシャンペンの晩飯をいつか試したいと考えながら実現はしていない。今夜のメシはそれに近かったが、田舎パンとバターとチーズに合わせてワインは赤いものにした。