3時とか4時に目を覚ますと得をした気分になる。「ボヌール・デ・ダム百貨店 デパートの誕生」 を床から拾い上げ、これを一気に読み終える。消費が宗教に取って代わる様を、この19世紀の作家は自らの作品の中で書ききっている。20世紀末から現在へ至る世の有様が、ここには既にして十全に描かれている。ゾラ、恐るべし。
ただしこの小説中のクライマックス、「藤原書店」 による初版第一刷では632ペイジ14行目に重大な誤植があるから僕はこの個所を読んで 「やべぇな、おい」 と思う。翻訳者の胸中はいかばかりのものだろうか。
夕刻に春雷が鳴る。風はようやくおさまった。
三寒四温の時期はとうに過ぎたと考え、ダウンベストやシンサレートの入ったジャケットなどを洗濯屋へ出した途端に寒くなる。それに加えて今日は朝から風も強く、閉店後の顧客駐車場に大きな缶の転がる音がしたため外へ出てみると、既にして何もない。
「そういえば」 と、コンピュータのスケデュール管理が僕に命令じていた、看板の照明のタイマーを調整すべく数十メートルを歩き、防雨ボックスを開いたところで 「そうだった、タイマーは空の明るさに連動する自動式にしたから、もう放って置いても良かったんだ」 と気づく。
刺身でも食べられる帆立貝がどこかの港から直送された。「だったら日本酒だろう」 と午後5時には考えていたが、今月はあと1回の断酒ノルマが残っている。「明後日はテニスクラブの総会で酒は飲めない、2日続けての断酒はイヤだ、とすれば今夜しかねぇだろう」 と、その帆立貝や鮪やウニの刺身のある状況で決心をする。
決心とは大げさだが、酒飲みとはまぁ、そういうものである。
本日はおばあちゃんの97歳の誕生日のため、家内と次男との3人で介護老人保健施設 「森の家」 へ行く。日当たりの良い駐車場にホンダフィットを停めると、アスファルトの途切れた先には鶏舎があるらしく、鶏の鳴き声が聞こえてくる。
おばあちゃんはホールで朝食後の休憩をしているところだった。誕生日のお祝いを述べ、花を上げ、世間話をする。おばあちゃんに言葉を明瞭に届かせようとすればいきおい、相手の耳に当方の口を近づけることになる。間近に見るその耳が可愛いので舐めてみようかとも思ったが、なにやら変態行為のような気もしたから止めておく。
おばあちゃんが3粒目のチョコレートを口に入れたところでふと壁に目を遣ると、入居している老人ひとりひとりに看護師さんが訊いてくれたのだろう、現在の希望について入居者各自の述べた色紙が張り出されている。席を立ち壁のところへ行って、それら1枚1枚を読んでいく。
「エビの天ぷらが食べたい」 とか 「田舎の井戸水が飲みたい」 とか 「息子に会いたい」 とか 「畑で野菜を作って、ここへ持ってきたい」 というような中におばあちゃんの名のある色紙を見つけ、読むと 「いつまでも、自分なりの仕事をしていきたい」 とあるから 「すげぇなぁ」 と心底思う。僕などはおばあちゃんより47歳若くても、せいぜい 「南の島の砂浜で、腰巻ひとつで寝ていたい」 くらいのことしか言えない。
そして僕に腰巻の準備はあるのだが、浜辺で寝ているための金とヒマはいまだ足りないのだ。
エミール・ゾラ著 「ボヌール・デ・ダム百貨店 デパートの誕生」 は、本当にこれが19世紀の小説だろうか、との驚きを隠せないほど古びていず、もちろん面白い。遅読の僕にして、残りペイジは早くも5分の1ほどに減った。しかし長編小説を読むたびに思うことだが、文章をこれほど長くする必要があるのだろうか。
風景、ものの色形、空気の匂い、食べ物の味、人の容顔、人の心理、人の動作。こういうものを丁寧に書き込めばいきおい文章は長くなる。しかしそこまで微に入り細をうがたなくても意味は通じるだろう、すべての長編は短編に置換できるはずと考えるが、しかし小説の目的は、人になにごとかを理解させるだけではない。
たとえば小説を読む楽しみをできるだけ長い時間にわたって読者へ与えようとすれば、短編よりも長編の方がその目的にかなっている。新聞での連載であれば、連載の期間に応じて文章は長くなる。あるいは短い小説では、客からそう高い金は取れないという出版者側の事情もあるだろう。
「ボヌール・デ・ダム百貨店」 の、1回につき数ペイジにもわたる細密な店内描写にいささか辟易しているところがあったから、19世紀の出版社と、そこから注文を受けて小説を書いた者に思いをめぐらして今日の日記になった。
なにがきっかけだったかは忘れたが、朝方、"SMAP" と "TOKIO" の違いが分からず家内に嗤われ、ここで僕は、フランス革命を専門とされる西洋史のホリイ先生を思い出さないわけにはいかなかった。
30年ほども前のことになるが、ホンダの小さなオートバイに乗る僕に、先生は 「君、それってナナハン?」 とお声をかけてくださった。先生は、原動機付き自転車とナナハンの区別もおつきにはならない。つまり、世事への疎さと教養とはおおむね反比例するのである。
午前、午後とあれやこれやとすべきことが多く、夕刻に至ってもきのうの日記が書けない。昼には来客や電話が多く、夕食の後にはほとんどなにもしない僕にとっては、早朝にこそ済ませるべきことがいくつもあると、再認識をする。
幹の中心が空洞になり、そこに蟻が巣を作ったため余計に傷み、だから風に倒れて人が怪我などしたら大変なことになると心配しつつオヤジが遂にこれを伐ることを決心しなかった顧客用駐車場の紅葉を今朝、植木屋の 「蜂久保園」 が撤去する。
昼過ぎまでかかって根を完全に掘り出し、夕刻にはこれまであったものよりも小振りの、しかし枝振りの良い紅葉が植えられた。近づいて見ると、既にして数ミリの赤い芽がたくさん育っているから、無事に新緑の時期を迎えるものと思われる。
夜7時30分に、第166回本酒会の開かれる "Casa Lingo" へ行く。新年から春先までの楽しみは喜久水酒造の 「一時」 にて、本日は今年に入って3本目のそれが開けられる。「開けられる」 と書いたが 「本酒会」 で飲む23本目のそれはイチモトケンイチ本酒会長の親指に逆らって暴発し、このイタリア料理屋の床から壁から天井までをしとどに濡らした。
会長が脚立に乗って天井の掃除にいそしむとき、僕が 「春も間近」 との感興を覚えたのは、あたりに満ちる爽やかな薫香に助けられてのものと思う。
2キロの道を徒歩でこなし、9時すぎに帰宅する。
面白い体験をしても、3歩あるけば忘れてしまうこともある。きのうふと、そのうちのひとつを思い出した。
先日、神保町から竹橋を目指して徒歩で移動中、見知らない男の人から 「あ、どうも」 と声をかけられた。心当たりはまったくないから 「失礼ですが、どちら様でいらっしゃいますか」 と訊くと 「コバヤシです」 と、その色黒短躯の50男は答えた。当方はそれでも分からないから失礼は承知で 「どちらのコバヤシさんでしたでしょう」 と重ねると 「ほら、ナベさんの」 と相手は続ける。
目の前のコバヤシさんも、それから我々の共通の知人であるらしい 「ナベさん」 も、僕は知らない。しかしここまで言葉を交わしてなお知らないと言える雰囲気ではなかったから、当方はようやく分かったふりをして 「あぁ」 とだけ答えた。すると先方は 「いま、お忙しいですか」 と、お茶にでも誘うような顔つきをしたため、僕は 「えぇ、これからちょっと」 と会釈をし、その場を離れた。
数年前には池袋の焼鳥屋 「母屋」 で席に着いた途端、若い男の店員が 「きのう、ノグチ様がお見えになりました」 と、僕にとっては未知の人の近況を報告した。明らかに人違いだが 「あぁ、そうですか」 とのみ答え、僕はその店員の差し出したメニュを受けとった。
どうやら僕にそっくりな人物が、あちらこちらを回遊しているらしい。「下手なことだけはしねぇでくれ、オレが刺されちゃ堪らねぇ」 と思う。
春日町1丁目育成会主催のボウリング大会へ参加をするため、夕刻に次男をともない桜木町の 「トーヨーボウル」 へ行く。シバザキトシカズ育成会長の開会宣言、イワモトミツトシ区長の挨拶、ウチの次男の選手宣誓、タノベミヤコさんの始球式という本格的な儀式を経て大会は始まった。
2ゲームをこなして僕は何点を獲ったのだったか。とにかく参加した55名の全員が賞品を受け取り、晩飯の弁当を賑やかに食べて解散した。ボウリングなどしたのは何年ぶりのことだろう。
今月13日にリコーの修理受付センターへ送った "RICOH GR DIGITAL" につき、早くもその2日後にはファクシミリで見積書が届き、そこには 「現象確認しました(ショック品)」 の文字があった。ショック品だから保証は利かず、修理代金は22,575円とのことだが、もちろん心当たりはある。
先月24日、ソウル市明洞のビビンバ屋 「古宮」 で昼食のかたわらマッコリを飲んだ。飲んでも飲んでも酔わないマッコリは不思議な酒と、その前日の日記には書いたが、やはり酒だけにまったく酔わないということはない。昼飯を終えホテルへ帰る途中、ポケットからこのカメラを取り出そうとして道に落としたのは、酔いのせいもあったと思う。
本日、その "GRD" が修理を終え宅急便で配達された。僕はカメラを落とす前から考えていたことに従い、ストラップを手首の太さにまで引き絞るためのコードロックを取り付けた。これさえあればカメラが手から滑り落ちてもストラップは手首から外れることはなく、落下事故の可能性はずいぶんと少なくなる。
今月カメラの修理のために使ったお金は先日のエムロクの分とあわせて72,975円とは、今はじいた電卓の液晶が示している数字である。エムロクは今後しばらくは大丈夫だろうが、 "RICOH GR DIGITAL" の自然故障については大いに不安を感じている。リコーにしてみれば 「昼から酒かっくらってカメラ落としたクセに」 だろうけれど。
「あのお金で何が買えたか」 という題名の本があった。72,975円でいったい何リットルのマッコリが飲めたか、についてはつまびらかでない。
店頭に置いたり顧客へ送付するためのパンフレットについては四半世紀のあいだ、そのデザインや内容をほとんど変えることなく使い続けてきた。これは広告業界の人にとっては信じがたい息の長さ、あるいは愚かさだろうか。思い立ってこれを一新すべく、2月の中頃より準備を進めてきた。
その写真撮りが本日はあり、午前中は店舗内外の様子を思うまま撮影してもらう。午後はブツ撮りにてこれにはずっと付き添ったが、折箱ひとつを撮るのにあーでもないこーでもないと30分をかけることもあり、一体全体この仕事が完了するのは何時になるのだろうかと心配になる。あるいは撮影者の偏執ぶりは仕事熱心さのあらわれと知っているから、画像の出来については安心している。
その心配と安心のいりまじりから、夜8時もちかくなってようやく開放される。カメラマンとプランナーを見送った足で製造現場へ入り、すこしばかりの仕事をする。ソフトボックスごしのストロボを横顔に受けつつ仕上げたパンフレットの文章は、明日のメイルでプランナーへ送ることとする。
下今市駅7:04発の上り始発スペーシアに乗って神保町の "Computer Lib" へ行く。それにしても、東京の真ん中にあって地震に揺れる古いビル、その古いビルの4階にいる自分、という本日10時22分の臨場感は不気味だった。
なにやかやとしているうち夕刻になり、靖国通りへ出る。自分のショルダーバッグには空いた時間に読む本がない。読むべき活字を持たないことは自分に軽い恐怖を与える。本屋だらけのこの界隈にあって店を選ぶことはせず、最初にその前を歩くこととなった本屋で10分後、丸谷才一の 「絵具屋の女房」 を買う。
竹橋は指呼の距離にあるからそのまま歩き続け、パレスサイドビル9階にあるレストラン 「アラスカ」 へ入る。きのう自由学園を卒業した面々を卒業生会の 「同学会」 に招き入れる歓迎会はやがて始まった。普通この集まりに出るときには甘木庵に泊まる。ところが今回はあしたの朝から大切な用事があるため日帰りをしなくてはいけない。
「オレは果たして今夜、ここのメシが食えるのだろうか」 と、皇居の暗闇を背負ってマイクに向かう大先輩の、長いスピーチを聴きながら大いに焦燥する。夜の8時にようやく懇親会となってシャンペン3杯を立て続けに飲む。スモークトサーモン、マッシュトポテトと伊勢海老のサラダ、鮪のカルパッチョを食べ、ウチダヒトシ君の皿からローストビーフをもらい、赤ワインへと移ったところでカゲヤマカズノリ君が 「お前、もう帰る時間じゃねぇのかよ」 と教えてくれる。
もういちど食べ物の並ぶテイブルへ近づき、桜海老とグリーンピースのスパゲティを皿へ盛る。蛸とホッキ貝と帆立貝のマリネをその上に多めに置く。そしてこれを大急ぎで口へと運ぶ。
竹橋から20:30発の東西線に乗れば北千住には20:54に着く。これは昼のうちに調べておいた。北千住駅21:11発の下り最終スペーシアに乗り、11時ちかくに帰宅する。
始業して間もなく、オヤジの親しくしていた友人ふたりが線香を上げに来てくださり、だから4階の仏間にご案内して、そこでお茶を飲みながら何を話すかといえば、横山大観を見てみろ梅原龍三郎を見てみろ、彼らは強いタバコと斗酒なお辞さない酒量を以て、齢90や98まで生きたではないか、下手な節制休むに似たりと、まぁそういうたぐいの、ほとんど飲酒を為さなかった故人を偲んでのヨタ話である。
そういえば家内も、人の寿命など生まれたときから決まっている、月に8日の断酒などしても意味はない、酒など好きなだけ飲めと言う。しかしそういう風に甘やかされると自分がどうなるかは自分がいちばん知っているから、今月に入っての断酒日はおとといで5日目となった。
昼に親戚やオフクロの友人からちらし寿司をいただいた。晩飯はきっとこれだろう。ちらし寿司に酒は似合わない。よって本日を6回目の断酒日とすれば良さそうなものだが、今朝からなにやら花冷えの一日だったため、温め酒でも飲んで寝ようと思う。ちなみに 「花冷え」 は春4月の、「温め酒」 は秋10月の季語である。
お通夜の晩と、町内で会議のある晩は断酒日としているが、「春日町1丁目青年会長交代の件」 という夜7時からの集まりは、場所が飲み屋の 「和光」 だけに断酒はしない。
僕はこの店の、とても酸っぱいポン酢で食べる鰹の刺身が好きだ。黒板にもその品が書かれているのでこれを注文すると 「無くなっちゃった」 とのことだった。しかししばらくすると 「非公式」 というかたちでいつもの基準を満たさない部分なのだろうか、そんなこともないだろう、薬味満載の鰹が化粧っ気もない丸皿に盛られてきたから嬉しかった。
鰹を含むあれやこれやの刺身を食べヤリイカを食べ、数日前にも注文したホッキ貝の焼いたのを食べタン焼きを食べと、いつもの乞食腹ぶりを発揮する僕にくらべると、ほかの人たちはいかにも食が上品だ。ここで 「オレだけがちとおかしいのだろうか」 と心配したというのは嘘で、食うだけ食って9時をすぎたところでいち早く帰宅する。
2時間を飲み続けてほとんど酔わないのは、出がけに 「ウコンの力」 を服用したせいだろうか。
朝日新聞の朝刊36面に 「ニフティのフォーラムサービス20年の歴史に幕」 の文字がある。僕はかつて、"nifty" の "homeParty" や "patio" では引っ込み思案な人の5,000年分もの発言をして、否、引っ込み思案の人は徹頭徹尾 "ROM" だから、こういう人からすれば無限年分、いや、ゼロに無限をかけてもゼロか、とにかく1990年代の後半に僕はネット上であまりに多くの発言をし、その反動によるものか、2002年ころよりは逆にさっぱり電子会議室への書き込みができなくなった。
数年前に若い人から "mixi" に誘われ、しかし書けない傾向はそのときにも続いていたから、僕はプロフィールを整えたのみで、いわゆる "SNS" での活動はしていない。顧客との交流をはかるため自社に "SNS" を導入しようとする経営者を見るたび 「凄いなぁ」 と思うが、今の僕にはこれを運営する気力はない。「ま、オレはビジネス界の熊谷守一といくか」 と自己弁護する。
昨年11月、オヤジの一周忌に挨拶をしてくださった方が亡くなったことを知り、オフクロとふたりでお通夜に参列をする。文字通りの大往生だった由にて、そのような見事な死に際を、西行ならどう詠むだろうかと考える。暖冬とはいえ当方の桜が咲くには、いまだ2週間ほどは必要だろうか。
彼岸の入りにて家内と如来寺へ墓参りに行く。オヤジの初彼岸や初盆のときにいただいた線香から選んだひと箱には 「宇野千代のお線香」 の文字がある。「宇野千代の匂いだよ」 と、これに火を点けながら家内が言う。「宇野千代の匂いったって、嗅いだことねぇからなぁ」 と返す。
湯飲みの水を換えたり花を飾ったりしているところに聞こえてくる挨拶には 「お彼岸だってのに、こんなに寒くてにー」 というものが目立つ。「寒くてにー」 は 「寒くてねぇ」 の変換違いではない、このあたりの方言である。「暑さ寒さも彼岸まで」 なのだから、春はもう数日のところまで来ているのではないか。
お墓から戻り、次男がお世話になっているテニスクラブへ球拾いに行く。「初鰹と空豆ってのは、おなじ月の季語だったかなぁ」 と考えつつ帰宅し、「ホトトギス季寄せ」 を繰ると、果たしてそれらは揃って夏五月のところにあった。
「オンナの匂い、すっぺ、ニオイヒバっつんせ」 と常連客が、カウンター越しにオカミへ針葉樹の小枝を手渡す。オカミはそれを鼻先へと運び 「オンナの匂い?」 と繰り返す。僕も椅子から立ち上がり、その常連客に近づき 「オンナの匂い?」 とおなじことを口にしつつ小さなウチワを重ねたようなその葉を受け取り、クンクンと匂いを嗅いでみる。
「オンナの匂いったって、いろいろあっかんなぁ」 と、ニオイヒバという植物がオンナの匂いを発するということについて、どうにも理解しがたい旨を申し述べると 「ハハハ、言ってらぁ」 と、その常連客は笑った。
なお、こういう会話に参加しつつも本日は 「ボヌール・デ・ダム百貨店 デパートの誕生」 のペイジが大いにはかどって、飲み屋の 「和光」 にいるあいだに第六章のすべてを読み終える。
彼岸を目の前にして、暖冬の東京には雪が降っているという。内側から暖簾をくぐり外へ出てみると、こちらの空は澄んで星が光っている。自転車のペダルをゆっくりと踏んで日光街道を遡上し、8時すぎに帰宅する。
今年に入って 「当番町も無事に終わったから」 という名目の集まりがいくつ持たれただろうか、先月のソウル旅行もそのひとつだった。そして本日は町内役員のOBを洋食の 「金長」 に招待し、同じ名目による昼食会を行う。
「オレが知ってるいちばん古い当番町の写真は 『ひしや』 の前で撮したやつなんせ、桶屋のツネチャンが4歳くらいの感じで屋台の前にいるから、あれは大正の終わりか昭和のはじめだんべなぁ」
「ひしやって、呉服屋の菱屋ですか?」
「違う、今の市縁広場んとこにはむかし 『ひしや』 って格式の高い旅館があったんだわ、オレなんか、あそこの庭でよっぱら遊んだんせ」
と、こういう話を聴いているうちタイムマシンに乗った気になれるから、僕は長老とメシを食ったり酒を飲んだりすることが大好きだ。もっともこの場合のタイムマシンは過去ばかりに飛んで、未来への螺旋は決して登っていかない。
「拝み屋の息子の足に竹槍刺しっちゃって、伊勢屋でお菓子買って総髪のおっかねぇオヤジに謝り行ったよ」
「和泉の禿げ山でカーバイト爆発させたら近くの木に燃え移っちゃってさ、逃げてきたけどタノイのハカルさんが双眼鏡わすれてきちゃって、今さら取りに帰れねぇわ」
「大津屋に丹波のと同じ種類の栗の木があってせぇ、よっぱら盗ったけどあれは美味かったんだ」
という次第だから、今よりもむかしの方が、子供はよほど楽しく暮らしていたのではないか。もちろん、辛い境遇の子供も多くいただろうが。
2月の中ごろから使い始めた携帯電話 "FOMA M1000" は、ソウルにいても明瞭な音声で会話のできるスグレモノである一方、スタイラスペン以外の入力方法をほとんど受け付けないという短所もある。
このスタイラスペンによる、まるで神経の消耗戦のような初期設定に業を煮やしたSEのシバタサトシさんは、インターネットからの、つまりブラウザからのリモートにその方法を切り替え、数時間の格闘の末に僕の面倒な希望を満たした。この初期設定により新しい携帯電話は何とか動き出したが、しかしこれでメイルを書くには液晶上の小さなキーボードをスタイラスペンでタッチしていく方法に従わざるを得ず、これまた神経の消耗戦である。
「メイルなど書かなければ良いではないか」 と言われればそれまでだが、僕はこの携帯電話で自分のコンピュータにメイルを送りたいわけで、それはひとえに、コンピュータを持ち歩くことなくウェブ日記を書くためだ。
そして本日、「リュウド」 社製の "FOMA M1000" 専用キーボード "RBK-1000BT" が届いた。重量については、大きなバッテリーを備えた "ThinkPad X60" の10分の1ほどと思われるが、それはさておき、果たして僕はこれを使いこなすことができるのだろうか。
事務室奥の改装につき、本日は朝7時から職人が入りたいという連絡が数日前にあったため、そのすこし前に仕事場へ降りておにぎりを食べる。僕の仕事の時間配分はホワイトカラーよりもブルーカラーのそれと合致しているから、本日のような約束はまったく負担にならない。
そういえば "Computer Lib" も、あの業界には珍しく朝8時の始業、夕刻5時の終業をこの3月から採り入れたという。あるいは知り合いの経営するコンピュータ会社も、数ヶ月前より夕刻5時の終業を厳守している。こと就業時間帯においては、時代は前倒しの傾向にあるらしい。
「エリック・アレグザンダーはジェントルバラッズんときよりもキスオブファイヤーんときの方がずっと良いな」 と感じつつホンダフィットを運転し、所用にて宇都宮へ行く。
帰途、知人が作っていまだ開店していないレストランの駐車場にクルマを入れると、見慣れた屋根なしのアウディがある。てっきりちかくにいるものと考え相手の携帯電話を呼び出すと、今は別の場所にいるのだという。ふたことみこと話して電話を切り、クルマへ戻る。
「そうだ、さっきから "Kiss of Fire" に換えたかったんじゃねぇか」 と思うが、走りながらそれをグローヴボックスから出すのは危険だから "Gentle Ballades" を繰り返し流して帰社する。
レンズがボディに格納されないという、昨年5月以来2度目の故障を神保町の 「金寿司」 で発生させた "RICOH GR DIGITAL" につき、リコーの修理受付センターへ電話をする。応対した男の人はとても感じが良く、カメラを送料着払いで返送するための箱や荷札を送るので、一両日ほど待って欲しいとのことだった。
さては、あまりに故障の多い "GRD" に限っての親切な対応かと最初は思ったが、ウェブ上で調べてみると、リコーはどの製品に対しても、いやまさかコピー機まではその範疇に含まれないだろうが、小さな製品の故障に対してはこの方法を採っているようだ。
"GRD" は、レンズ銅鏡の故障と時をほぼ同じくしてCCDにゴミのあるらしい状況が見え、だからこちらもついでに交換してもらうことにしよう。昨年 「マップカメラ」 でこのカメラを買った際に付いてきた保証書には、買い上げ日として 「2006年3月」 の記載があり、だから今回の修理が保証期間の1年以内に間に合ってくれれば有り難い。今月はカメラの修理費として、既にして50,400円も使っているのだ。
この 「清閑PERSONAL」 を作って間もなくだから1999年からだろうか、アクセスカウンタできりの良い番号に行き当たった人には赤白どちらかのワインを進呈してきた。はじめのころは1,000アクセスごとにこのプレゼントを出していたが、そのうち1ヶ月に1本ずつも送るようになってさすがにワインが惜しくなり、次は5千アクセスを一区切りにしたような記憶がある。
ローカルに今でも取り置いているむかしのトップペイジを見てみると、2001年6月に10,001が出て以降は1万アクセスごとのワイン送付になり、それが100,001アクセスを超えて以降は10万アクセスごとのプレゼントとした。
300,001を当てた人は自分でも気づかなかったのだろう該当者はなく、しかしおととい、カウンタが400,001を示すトップペイジのgifイメイジをメイルに貼付して送っていらっしゃった人があって、本日、赤白どちらのワインを希望するか、その人へ向けてメイルを書いた。次の区切りは500,001だが、ここに達するにはこれから1年以上はかかるだろう。
それはさておき、今では以前とくらべてトップにアクセスカウンタを置くペイジが少なくなった。その機能はあっても殺しているのだろうか、これを供えたウェブログというものも滅多に見ない。自分のペイジのアクセス数に言及しているようなヤツは、ウェブの世界では今や旧人類と呼ばれて仕方がないのかも知れない。
気が付くと甘木庵の和室で、シーツのない敷き布団とかけ布団各1枚に挟まれて寝ていた。昨夜の帰着は8時30分ごろと推定され、これはずいぶんと早い時間だが、酒量の多さから記憶を失ったものと思われる。いまだ3時30分にて、二度寝をして6時30分に起床する。
本郷三丁目から築地までは地下鉄大江戸線で僅々20分の距離だ。久しぶりに行く 「高はし」 は行列の店になっていて、以前は予想もされなかったクレームへの前もっての弁明がガラス戸に貼ってある。それら5ヶ条は 「そんなことに文句を付ける客が本当にいるのだろうか」 と驚くほどいちいちもっともなことだが、そのうちのひとつ 「同じ魚なのに毎日味が違う。人はそれを天然物という!」 は、同様のクレイムを僕も年に幾度となくいただくから、最後のビックリマークまで一発で記憶した。
再び大江戸線に乗り、練馬からは西武池袋線を使ってひばりが丘へ至る。自由学園記念講堂にて 「学園運営研究・特別実習共同研究報告会」 を聴き、帰路は駅で遭遇した1年後輩のイズミタニタカヒコ君と池袋まで出る。
「フォトメンテナンスヤスダ」 からは数日前に修理完了の電話が入っていた。日暮里駅では先ず北口を降りて谷中の 「川むら」 で昼飯を食べ、次いで南口へ移動して雑居ビルのエレヴェイターを上がる。代金は、エムロクの光線漏れの修理とズミクロンのヘリコイドグリス交換とで50,400円だった。なお "RICOH GR DIGITAL" はレンズがボディに格納されないという、昨年5月以来の故障にて昨晩から使えなくなっている。
北千住では15:11発の下り特急スペーシアの切符が売り切れていたため、何年かぶりに快速を使って帰社する。
夕食後、春日町1丁目の役員会に出席をする。
「ウワサワさん、どこで飲みますか」
「干物、レッテル貼ったまま焼いちゃうとこ」
「あ、そこ、行きつけですから任せてください」
というやりとりを "Computer Lib" の中島マヒマヒ社長と電話で交わしたのはきのうのことだった。
というわけで神保町の 「多幸八」 に夕刻5時すこし過ぎに行くと、マヒマヒ社長は既にして焼酎の水割りを飲んでいた。ここにおなじ "Computer Lib" のイノウエタケシさん、ヒラダテマサヤさん、マハルジャン・プラニッシュさんが加わって飲み会になる。モツ焼きの盛り合わせ、モツ煮に続いて席に運ばれたクサヤには、なるほど 「..島本村水産加工業協同..」 と読めるレッテルが貼られたままになっている。
1時間ほどでここを出ると、はす向かいの 「神田神保町二郎」 には長蛇の列があった。四半世紀前に慶應義塾大学脇の本家 「二郎」 のラーメンを食べて 「それほど騒ぐほどのもんでもねぇだろう」 と感じて以来、いわゆる二郎系のラーメンに僕が裏を返したことはない。
「立ち飲みでいいっすか」 と訊かれ 「オレ、こういう店はダメってことねぇから」 というやりとりがあって、すぐ近くの 「明治屋」 に入る。赤ワイン2杯の後コロナビールを飲み、「かなり酩酊したぜ」 と思っても時刻はいまだ7時をすこし過ぎたばかりだ。酔って耳が弱くなっているとはいえ、我々のテイブルだけがやけに騒々しいことはよく分かる。
相手の都合を勘案することなくあちらこちらへ電話をかけたりするのも酔っぱらいの悪い癖である。あるいはマヒマヒ社長は着ているセーターをまくり上げ、 「ここまで気を遣っているのだ」 と主張するかのように、いつか進呈した 「上澤梅太郎商店」 のポロシャツを当方に見せつける。
もう飲めない。というわけで神保町の交差点まで歩き、僕以外の人たちは地下鉄の駅へと去った。甘木庵までは徒歩で帰れる距離にて、"RICOH GR DIGITAL" のフォーマットを3:2に、モードをモノクロに変えて写真を撮りながら駿河台下へ向かう。もうすぐ富士見坂というところで 「ウワサワさん、なにやってんすか」 という甲高い声が聞こえ、振り返ると先ほど別れたはずのマヒマヒ社長がすぐ近くを歩いている。ヒラダテさんもマハルジャンさんもいる。
「スシ、行きましょう、良い鮨屋があるんすよー、一軒家の」 と言われて頭に浮かぶのは 「金寿司」 しかない。「あー、オレ、あそこ、前から行きたかったの」 と答え、間もなくあらわれた暖簾をくぐる。
「金寿司」 でも賑やかに鮨を食べ日本酒を飲み、ここを出たところで 「次は山の上ホテルのノンノンっしょー」 という声も上がるが、いまや、あの上品で静かなバーに入れる状況ではない。「いや、さすがにもう帰りましょう」 と明治大学前の坂を上がり、マヒマヒ社長は今度こそ御茶ノ水から電車に乗ったようだ。
当方は徒歩の予定を地下鉄に切り替え、本郷三丁目に至る。むかしはエヴェレストの自転車を売り、今はフェラーリを売っている店の前を過ぎ、廃業した中華料理屋 「蘭亭」 の看板を見て以降の記憶はない。
この3日間には社内各所での補修や改装に並行してビジネスフォンも新しくする。この工事によりインターネットの回線がブツブツ途切れる中、メイルでお問い合わせをくださった顧客へ返信をお送りしたり、あるいは必要に応じてウェブショップを更新する。工事に入っている人たちとの打ち合わせの最中に 「東京からわざわざ来たのよ」 などというお客様もいらっしゃるから商品販売もこなしてなかなか忙しい。
そういう合間を縫って、血圧や高脂血症の監視のため通っている病院へ行く。午後は着替えて旧今市市街の区長が集まる 「瀧尾神社」 へおもむき、求められた短い挨拶をして会社へとんぼ返りする。
新装開店を祝う宴を催すから出席してくれとのハガキが数日前に、焼肉の 「大昌園」 から届いていた。宴というからにはパーティだろうか。テレビで顔を見知ったアナウンサーがタキシードを着て司会をしている、人寄せのためタレントが呼ばれている、箔づけのため高い席には宮様が座っている、こういうパーティは僕は苦手だが、すこし遅れて行った 「大昌園」 にはアナウンサーもタレントも宮様もいなくて気が楽だった。
成田空港の税関を出たと、7時30分に家内から電話が入る。Yahoo!の天気予報ではすべて雨のマークが付いていたグアム島だが、ときには暑く照りつけるひとときもあったと聞いて安心をする。仕事がずいぶんと溜まっているから明日を期待するよう社員の皆には伝えてくれと言って電話を切る。
社員旅行の一行が帰社するのを待たず、9時すぎに就寝する。
仕事の道具を置いた店舗のカウンターからは、きのうまでガラス窓を通して工事中の事務室を望むことができた。しかし今朝からは天井のペンキを塗り替えるとのことにてこの窓も養生をされ、目の前には乳白色のビニールが見えるばかりとなった。
どこで読んだかは忘れたが、むかしのアメリカの棟梁は、まず現場に電話線を引くことから仕事を始めたという。その電話でそれぞれの専門職に集合をかけるわけで、つまりこれは棟梁というよりも "coordinator" である。
今は携帯電話がひとりに1台の時代だから僕も工事中にはこれを手放すわけにはいかず、しかし "FOMA" の電波は厚い瓦屋根に遮られて店舗の中まで届かない。よって、まるで二丁拳銃のように左のポケットに携帯電話、右のポケットには有線電話の子機を入れ、あちらへ行ったりこちらへ来たりする。
夕刻、次男の教科書音読の宿題を督励する。青から群青に暮れていく空を見上げる窓には早くも、次男がサンタクロースへ向けた 「2007年のクリスマスには、これこれのものが欲しい」 というような張り紙がある。
家のあるブロックの端まで登校する次男を送り、そこから戻る途中、国道121号線を挟んで店舗向かい側の駐車場にゴミが見える。これを拾うため横断歩道を渡っていくと、本日から社内の改装工事に入る、大工部門の責任者が早くもクルマを停めている。職人の仕事始めは通常8時だが、それまでにはいまだ20分の余裕がある。すぐに通用口を開けると伝えてふたたび国道を渡る。
多くの職種の人たちが出入りを始める。製造現場に左官職が入り、事務室は事務室で神棚、本棚、事務机、接客カウンターが大きなビニールで養生される。そうしたところに、社員旅行の一行は無事に飛行機へ乗り込んだとの電話が家内から入る。時刻は9時15分だった。
すべての机、すべての棚にビニールを張り巡らすほどだから事務室で仕事はできない。ガラス窓を隔てた店舗にコンピュータを移し、ここで夕刻まであれやこれやする。製造現場の工事は8日で完了するが、事務室の方は1ヶ月ほどの工期を要することになる。
飲酒は為さず、本も読まず、早めに就寝する。
子供のころはアレルギー性の湿疹に悩まされたが、そのころ花粉症という言葉を耳にすることはなかった。春先にメガネやマスクにより花粉を避けようとする人の目立ってきたのは1980年あたりからだろうか。
自分に花粉症の症状はなく、その鈍感力を頼もしく感じていた。ところが1999年のある風の強い日、杉林の中にいて目や鼻に異変を感じ、以降は人並みの花粉症患者である。もっともメガネやマスクをすることは1年に1度もなく、目薬と点鼻薬があればどうということもない。
社員旅行により会社が休みになるのは明日から木曜日までで、この3日間に多くの業者が入って社内の改装、補修、清掃を行う。事務室もその範疇に含まれるから、本日も目や鼻に薬を差しつつ改装される場所の片づけをする。
夕刻に次男の通う英語塾の父母参観に出て、途中で退席する。帰社して社員旅行へ出かける一行を見送る。きのう自分で餃子を作り食べた次男が、今夜は市内の繁盛店 「正嗣」 の餃子が食べたいと言うため、2日つづけて餃子による晩飯となる。
次男がお世話になっているテニスクラブで球拾いをし、午後に帰社してメイラーを回すとヤケに重い。重いだけならまだしもダウンロードに時間がかかりすぎて回線が切れてしまう。もういちど試みると大きなpdfを貼付されたそれはようやくコンピュータに吸い込まれた。
メイルは同級生コバヤシヒロシ君からのもので、貼付されていたのは今年1月30日の日本経済新聞文化面だった。堂本尚郎による 「前衛の力十選」 は僕も読んでいたが、十選のうち今回送られた 「4」 だけは未読だったから嬉しかった。
日本からパリを目指した洋画家のうち堂本が感銘を受けるのは 「小出楢重だけといっても過言ではない」 とか、ポンピドゥセンターの近代美術館館長を務めるアルフレッド・パックマンに、東京で見るべきものとしてブリジストン美術館を薦めたところ、帰ってきたパックマンが開口一番 「面白い絵が一点だけあったよ」 と挙げたのが小出の絵だったなどなど、そこには興味深い書き込みがいくつか見られたから、僕はコバヤシ君に感謝をした。もっともお礼の返信はいまだしていない。
なおコバヤシ君が特に小出楢重の項のみを送ってきたのにはワケがある。しかしそれを書いていると時間がかかるため、今日の日記はここで尻切れとする。
毎月1日には日記以外のなにかをこの 「清閑PERSONAL」 に上げる。3月1日はソウルで撮り溜めた写真を "WORKS" にまとめることと決めていたが、デジタルカメラだけではなくライカで撮ったものもそこには混じっているため現像待ちの日数がかかり、しかも2月は28日までしかないときている。
きのうようやく、全196枚から文字通りの自己満足により選び出した紙焼きを並べてみると、それらは奇しくも、奇しくもでは説明不足だが、"WORKS" 1回分12枚の倍の24枚があった。そこから12枚を今回更新分の 「物語ソウル」 として、更に12枚を4月1日更新分の 「続物語ソウル」 としてより分ける。
さてライカで撮った写真はフィルムスキャナによってコンピュータに取り込まなくてはいけないが、"Photoshop" を下手にヴァージョンアップなどしたものだから前回とは使用感が異なってしまい、手探りで作業を進めるうちとんでもない手間を食う。大学ノートに自作したマニュアルには本日の馬鹿ばかしい遠回りを記し、「ここで間違えるとあとで地獄」 と書いてオレンジの蛍光ペンでなぞる。
「物語ソウル」 の出所はもちろん中上健次と荒木経惟による同名の傑作で、1980年代に買っておいて良かった本のうちの1冊である。
暗闇に目を覚まし、時刻を確かめないまま灯りを点けて
を読み始める。10ペイジほどこなして集中力が途切れたところで携帯電話のディスプレイを起動すると、いまだ夜中の2時30分だった。読んでも読んでも残りペイジの一向に減らない翻訳物の分厚い本は、その内容が自分にとって面白い限り大好きだ。二度寝をして6時に起床する。
高校1年のときから口内炎が頻繁にできるようになり、以来この治療法を探ってきたが、その経験からすれば最も効くのは耳鼻科で患部を焼いてもらうことで、これはまぁ、当たり前かも知れない。
2番目に効くのはビタミンB2とB6を摂取することで、ということは、口内炎はこれらのビタミンが不足することをひとつの要因として起きるのだろう。そしてこの場合、食べるものの偏りによってそれらのビタミンを体内に採り入れることができなかったというよりは、ビタミンを激しく費消せざるを得ないような精神あるいは肉体の状態によって口内炎はできるような気がする。
口内炎ができると、先ずビタミンB2とB6を処方箋の倍量飲んでみる。普通は真っ黄色になるはずの小便がそうならないのは、飲むそばからこれらのビタミンがどこかに使われてしまうせいだろう。倍量のビタミンを飲んでこれが体内に余り、小便が黄色くなりはじめるころには口内炎も収束に向かう。
そして今夜も処方箋の倍量のビタミンB2とB6を飲む。
"Alfa Romeo Giulia Sprint GT" を僕に売った自動車屋さんが、以来17年間も手渡せずにいたホイールキャップが届いているとは、きのうオヤジの友人ウスイベンゾーさんに電話をしたとき知らされたことだ。くだんの物件がなぜウチにではなくウスイさんに送られたかは不明だが、細かいことはどうでも良い。今朝のいまだ早い時間にウスイさん宅を訪ね、ホイールキャップを受けとってくる。
帰社して新聞紙にくるまれたうちのひとつを開いてみると、それはまぎれもない新品だった。新品ともなればこれを使わず死蔵してしまうことは明白で、それは僕の貧乏性による。
おなじくきのう友人のモモイシンタローさんから電話があり、昨年暮の 「ツインリンクもてぎ」 の記事が 「カーグラフィック4月号」 に載っていると教えてくれたため、こちらは家内に買ってきてもらう。この雑誌に写真が出るなどはおよそ30年ぶりのことにて、自分もずいぶんと馬齢を重ねたものだと感慨を深くする。