椎名町で1件、池袋で1件の所用を済ますと17時20分になっていた。池袋から銀座までは地下鉄丸ノ内線で20分。その銀座で飲めば1万数千円、池袋で飲めば2,000円。というわけでビックカメラの裏の、頭にバンダナを巻いた怖いオバサンのいるモツ焼き屋「男体山」へ行く。
その「男体山」に、いつもの怖いオバサンはいなかった。そしてそのオバサンにいつも叱られていたオジサンが、今日は生き生きと働いている。そして僕はカウンターの案内された席に着いて焼酎のお湯割りを頼み、ミランダ・シーモアの「ブガッティ・クイーン」を開く。
モツ焼きと"BUGATTI"とはマリアナ海溝の海底と水面くらい隔たったアイテムだが、それにしてもこの本は、主人公のエレ・ニースとブガッティとの関係が100ページに到るまでまったく出てこず、そういう遅遅とした運びによる翻訳物の分厚い本は、文章をスルメのように楽しめる点で大好きだ。
三つ葉のおひたしを頼んだら、オジサンはその小鉢をこちらへ寄こす直前に素早く味の素を振った。よって次に納豆を頼んだときには「そろそろ来るぞ」とそのタイミングを計量し、オジサンが赤いキャップの器に手を伸ばすと同時に「あ、それは結構です」と、断りを入れる。
「池袋で飲めば2,000円」と計算したが、面白い本は優れた酒肴とおなじく酒の量を増加せしめる。よって予想の1.5倍ほどの代金を支払い、池袋駅から地下鉄丸ノ内線に乗る。
本郷三丁目交差点「三原堂」のディスプレイは桜の花をかたどった最中「播磨坂」だった。都心の桜はいま三分咲き、といったところである。
3歩を歩いただけで物事を忘れる鶏頭人間に必要なのがジョッターだ。そのジョッターはペンを欠いては機能しない。ジョッターとペンを納めるには上半身にポケットが必要で、だからたとえばポケットのないTシャツを着てジョッターは使えない。
それに対してより高度な利便性を提供すべく、首からペンと共に提げる式のジョッターを作った人がいる。その中には有名ブランドによる凝った革製のものまであるが、どれこもれもデザインが気に入らない。
コクヨの小さなノートの隅に穴を開け、ここに細い紐を通して首から提げる、ということを実はしている。こんなものを使いながらブランド品に対して「デザインが気に入らない」もないものだが、自分の手作りなら我慢もできる。しかしこの仕掛けではやはりペンは上着のポケットに差すしかない。ズボンのポケットに納めればペンは間違いなく破損する。
ところでジョッターの不便さはペライチの紙にメモをするところにある。ペライチの紙は紛失しやすい。他の何かへの転記を要することも多い。いっそジョッターなど無視して小型のポーチにノートとペンを格納し、それを首から提げるのが最上の忘備録ではないかと結論づけ、先日、あるカバン屋にポーチのセミオーダーを頼んだ。
ところが次男の学習教材と共に注文した"DELFONICS"のペンクリップが「山田文具店」より本日午前に届き、これをコクヨのノートに固定してペンを差し込んだら何のことはない、革製のポーチなど必要ないではないか。しかしポーチは既に発注済みである。セミオーダーであるところから制作には時間がかかり、納品は5月なかばの予定だという。
積雪の上に青空の広がる本日は、おばあちゃんの満100歳の誕生日だ。そのお祝いは、おばあちゃんが世話になっている介護老人保健施設 「森の家」でしてくださるという。
午前、僕と家内と次男が花とチョコレートを持って「森の家」を訪ねると、普段はホールにいるおばあちゃんが、今日に限っては部屋で眠っていた。わざわざ起こすのも本人にとっては迷惑と判断し、介護士に花をことづけて帰社する。
内閣総理大臣・麻生太郎と栃木県知事・福田富一からの100歳の表彰状というか何というか、それは早くも昨年の秋に届いた。国や県にくらべれば市の対応はよりきめ細かく、日光市長・斎藤文夫の名による祝詞は本日の午後、市役所の職員が届けてくれた。
「君は3桁の年まで生きられるか」と問われて本気で首を縦に振る人は少ないだろう。おばあちゃんには現在の健康体のまま、できるだけ長く生きて欲しい。
決して積もることのない、ガラスの細粉のような雪が朝から降っている。「道理で寒いわけだ」と一旦は思ったが、当方の服は厳冬期のそれよりも薄い。実際の気温は、そう低くもないのかも知れない。
夕刻の仕事を社員に肩代わりしてもらって17時50分に春日町公民館へ行く。
町内は数軒の単位で「組」としてまとまっている。1年あるいは数年の任期で「組」を代表し、世話をするのが組長だ。今日はその組長を集めての、今年度の決算報告および来年度の予算審議が行われる。というわけで会計係の僕は今年度の予想決算と来年度の予算案を1枚の紙にまとめ、30部を持参した。
出席者への決算報告が済み、予算が認められれば後は組長への慰労会となる。今月いまだ2日しか断酒をしていない僕は家からノンアルコールビールを持ち込んだ。
それにしても、電卓一丁で町内の会計係を引き受けてきた諸先輩方には頭が下がる。計算のための道具が電卓であれば金銭出納帳への記帳のほか、その内容を費目ごとに転記する作業が必要になる。長い縦計算を電卓で行えば必ず間違える。電卓は間違えないが人間が間違える。転記作業にも間違いは付きものだ。
表計算ソフトに自身のアイディアをコーディングすることができれば、とかく敬遠されがちな町内会計、当番町会計でも、こと計算に限っては楽に行うことができる。このようなボランティアを忌避する人がいれば行って、そのことを教えて上げたい。
年が明ければお彼岸くらいまではそれほど忙しくない、というのが僕のこれまでだった。しかし今年の1月、2月、3月には、なんとも気ぜわしい日々が続いた。その気ぜわしさのほとんどはこの春に売り出す新商品によるものだが、また、勉強すべきあれこれが新たに出てきたことも、いくらかは関係している。
その3月も、いよいよ終わりに近づいている。容器やデザインも含めての新商品の準備については、いよいよ最終の局面が見えてきた。いまだ分からないのは、これらの新商品を、お客様が買ってくださるのか、はたまた買ってくださらないか、ということだけだ。
というわけで来月も相変わらず、気分の落ち着かない日々が続きそうである。そういうときには忙中の閑を見つけ、ひとり遊びをしようと思う。
朝、中学生3人とホンダフィットに乗り、宇都宮市の大谷へ行く。大谷はその文字の示すとおり大谷石の産地だ。大谷石を多用した建物を持つ学校の生徒であれば、ここは一度は訪ねるべき地である。
ウチから大谷までは、日光宇都宮道路を利用すれば30分ほどで行くことができる。朝が早いせいなのか、いまだ観光の季節ではないからなのか、はたまたそれほど人気のある場所でないためか、ひとけのない田舎の町にクルマを走らせ、大谷寺前の駐車場にこれを停める。
このあたりの山はすべからく大谷石の巨大な固まりで、大谷寺は山肌の磨崖仏をそのまま屋内に取り込んだ、珍しい構造をしている。寺の創建は平安初期。石を浮き彫りにした千手観音菩薩立像もそれなりの古さで、この手のものの好きな人には、なかなか見応えのあるものだろう。
そこから、僕が小学校の遠足でも来たことのある公園まで歩き、ここでも山を手彫りした、しかしこちらは昭和20年代製の、高さ27メートルの平和観音を見る。
大谷資料館へは、きのうの雨によりすこしぬかるんだ道を、クルマで迷いながら達する。ここにも人の姿は認められず、あたりには山と緑と高曇りの空のあるばかりだ。資料館のホールには、来日して大谷石を発見し、これを自身の設計した建物の主な材料としたフランクロイドライトや、旧帝国ホテルを代表とする彼の作品の写真が並べられている。
ロイドの弟子・遠藤新の設計した自由学園女子部食堂の写真には誤って「自由学園明日館」の説明があるが、まぁ、受付のオネーサンにそれを言っても仕方がないので黙っている。
大谷資料館の小さなホールからアルミの引き戸を開いて一歩を踏み出すと、そこは地下採石場跡への入り口だ。第二次世界大戦中には中島飛行機の工場もあった、大小のコンサートホールがいくつも納められそうな巨大なあなぐらへ、白熱灯の明かりを頼りに降りていくのは我々4人のみ。そしてそれからのおよそ30分間を、その暗い空間を歩き回って過ごす。
帰途、中学生のひとりが不気味な建物に気づき「むかしの工場かなにかでしょうか」と訊く。そのたたずまいには僕も興味を覚え、枯れ草の密生する土の上にクルマを停める。我々と建物のあいだには数十メートルを隔てて2本のロープがあり、「関係者以外立入禁止」の札が下がっている。
僕は廃墟マニアではないが、その建物にはなぜか強く惹かれるものがあり、次男の「行っちゃマズイよ」の声を背に屈曲した道を上がっていく。するとまるで温泉ホテルのロビーのような場所があり、その右には大谷石の山肌を壁とした畳敷きの部屋がむき出しになっていた。
次はロビーの左手から、散乱した硝子を踏みしめ階段を上がる。階上は大きな広間だった。ステージがあり低い座卓のあるところからすれば、ここは健康センターの宴会場のような場所だったのかも知れない。後を付いてきた中学生に「とてもじゃねぇけど、ひとりじゃ来る気、しねぇよな」と言いつつきびすを返し、やがてクルマを停めたところまで戻る。
次男の同級生ふたりは、下今市駅15:04発の上り特急スペーシアで帰宅した。4枚だけ残った温泉の回数券は、そのうち使うこともあるだろう。今週いっぱいは、寒さが続くという。
彼岸も過ぎて、あたりは雪景色である。
昨夕の露天風呂に今夕も裏を返す。きのうの雪が、今日は細かい雨に変わっている。普段よりも長い時間を、暖かい岩を背に過ごす。
19時20分、「第202回本酒会」の開かれる蕎麦屋の「やぶ定」へ行く。年末から年明けにかけては新酒、そして今は濁り酒の季節だ。抜栓するに難しい濁り酒、まるで米を食べているような濁り酒。あれこれ飲んであれこれ話し、21時に帰宅する。
居間へ戻ればお好み焼きの香ばしい匂いの残る畳の上で、きのうに引きつづき中学生たちがなにやらしている。そのかたわらに1時間ほどを過ごしてから就寝する。
午前、長男が所用により帰宅して、しかし夕刻にはJR今市駅より関西方面へ向かう。そのころ次男からは浅草駅16:50発の東武日光線下り快速に乗る旨の電話があった。
同級生ふたりとの計3人で寮から帰ってきた次男を、夜7時すぎに下今市駅に迎える。そのまま三菱シャリオを走らせ茶臼山のふもとの長久温泉へ行く。露天風呂では降る雪が照明の帯に白く浮かび上がり、風情は満点である。
そういうわけで晩飯の開始は夜8時を過ぎてしまった。そして中学生の男子はしゃぶしゃぶの豚肉を、まるで蕎麦かうどんを食べるような速度でノドに呑み込むことを知る。
中学生たちは夜の11時すぎまで居間にいて、あれやこれやしていた。当方はその横で、なんだか楽しい。そして午前0時に就寝する。
人に言われたことは3歩も歩けば忘れる。あたかも天啓のような妙案を思いつき、しかし数秒後には忘れて「あれ、何だったっけ、いや、これはちょっと惜しいぞ」と切歯扼腕することも常である。そしてそういう人間のためにあるのがジョッターだ。
しかしジョッターを持ち歩くには、上半身にポケットのある服を着る必要がある。ジョッターにはペンが必須であり、しかしペンをズボンのポケットに入れると種々の不具合が発生するからだ。
検索エンジンに必要な語句を入れて回してみれば、首からペンと共に提げる式のジョッターも見つかる。しかしどれもこれもデザインが気に入らない。
コクヨの小さなノートの隅にパンチで穴を開け、ここに登山用の細いザイルを通して首から提げる、ということを実はしている。こんなものを使いながら内外の優れた道具について「デザインが気に入らない」もないものだが、自分の手作りなら我慢もできる。
ノートに細い紐をつけることによる便利さは、これを首から提げられるだけに留まらない。雪崩に埋まった人が、雪上に露出した赤い靴紐を手がかりにしばしば発見されるように、乱雑な机の上にあって郵便物などを上に重ねられても、この紐さえあればノートは容易に見つけることができる。
いや、本題はジョッターだった。ジョッターの気に入らないところのもうひとつは、そこに格納されるのがペライチの紙であるから、ここに書き込んだことはいずれ他の何かに転記をしなくてはならない、そしてその転記が面倒なのだ。
よって更に検索エンジンを回すと手ごろなポーチが見つかった。ポーチならここにノートもペンも収まって具合が良さそうである。そしてそのウェブショップの問い合わせフォームに「御社の黒いポーチは、一部に茶色の革を使っているところで欲しい気持ちが減衰します。すべてを黒革で作ることは可能でしょうか?」と入力して送信ボタンをクリックする。
こうしてまた、余計な金を遣ってしまうのだ。
「しもつかり」は多く「しもつかれ」と呼ばれる。"Google"に「しもつかり」と入れると「もしかして: しもつかれ」と出るが、ウチではむかしから「しもつかり」である。
しもつかりは猫の吐瀉物のようなその見た目から、長く食わず嫌いを通していた。これをはじめて食べさせられたのは「こういうのを食わねぇから、からだが弱えぇんだ」と、蕎麦の「並木苑亭」のオヤジさんに無理強いされた27歳のときで、食べてみればなかなか美味いものだった。
「七軒のしもつかりを食べ歩くと風邪をひかない」という俗諺がある。しかしなかなか美味いものだと知っても、しもつかりの外観の、猫の吐瀉物のようなところは変わらない。だから自分の目の届かない場所で作られたしもつかりは、あまり食べる気がしない。
それでも他所で出されれば残すのも失礼だからこれを食べ、するとこの郷土食に化学調味料を入れているお宅があって驚く。そのような場合、僕の口の中はグルタミン酸ソーダの付着を受けてネロネロと気持ちの悪い感じになる。
「しもつかりを作るってことは、それなりの年齢かつ料理が嫌いじゃねぇってことだろ、そういう人がグルソーを使うってのは、どういうことなんかなぁ」と問えば「老人ほどグルソーを好むよ」と長男は言うのだが、果たしてどうなのか。
午前4時に目の覚めたことを奇貨としてすぐに起床する。すこし前までは早朝に覚醒しても、布団から抜け出しがたい寒さがあった。暑さ寒さも彼岸まで、である。
事務室へ降りてきのう書きかけた、取引先へのメイルというか作業指示書を「こんなに長げぇの、読みたくねぇだろうなぁ」と考えながら312行目まで書き継ぐ。
昨夜から首都圏には強風だの波浪だのと気象上の注意報が続出していた。こちらも明け方までは降雨があったが開店前には日も差し、すこし風はあるものの穏やかな午前となる。そしてお稲荷さんに赤飯、しもつかり、清酒をお供えする。
午後は一転、窓を圧する風に室内の空気は膨張と収縮を繰り返し、襖や障子がガタガタと揺れる。店舗駐車場では吹き寄せといえば聞こえは良いが、あたりの枯葉や砂が地面や建物の角に溜まってそれを掃くこと容易でなかった。
夜、見た目には分からないが選びに選んだ材料によるしもつかりを食べてみればサッパリしすぎ、あるいは上品すぎる。よって「次からは油揚げも入れてよ」と注文すると「おばあちゃんが入れなかったんだから私も入れない」と家内が言う。仕方なしにその上品すぎるしもつかりをごはんのおかずにし、また酒の肴にする。
このところほぼ1日おきに東京へ行く予定があったから墓参りは17日に済ませておいた。家の仏壇は彼岸の入りに花を生けかえられ、それまで節分の大豆を上げていた高台には干菓子が供えられた。節分の大豆はおとといから、しもつかりの鍋の中で煮込まれている。
お稲荷さんには通常、神主は初午の日に祝詞を奏上したように記憶している。今年はそれが春分の日に重なるからかどうかは知らないが、宮司と瀧尾神社の手伝いマーチャンは今日の午前に来社をした。空は晴れ黄砂は降らず、良い日柄である。
先月は食欲の減退と共に飲酒欲も落ち、月の断酒ノルマが8日のところ12日も酒を抜いてしまった。余った4日は勝手ながら今月に繰り越させてもらった。ところがその前期繰越に気が大きくなったせいもあって、今月はいまだ1日しか断酒をしていない。
よって本日は飲み物をアルコール分0パーセントの疑似ビールに換える。"KIRIN FREE"は「飲めないよりもマシ」という程度の味を保ち、また飲めば酔ったような錯覚さえ覚えさせる点においてなかなか悪くない。だったら年がら年中これを飲めば良さそうなものだが、あれこれの状況を鑑みれば、そういうわけにもいかないのだ。
おばあちゃんの居間から望む南西の山が、また冬に逆戻りである。冬も雪も嫌いではないが、そろそろ春が見えてきても良いころではないか。
始業前にきのうの日記のための画像を選びつつ、新宿駅南口のそれを見て、ある種の感懐を覚える。その感懐とは「闇が消えた分だけ、街はつまらなくなる」というものだ。
このウェブペイジの"WORKS"「南口から」に、1985年初夏に撮ったおなじ場所の写真がある。新宿駅の南口を出て左へ進み、すこし階段を降りた先のS字結腸のような坂には上出来のラーメン屋や飲み屋が並び、そしてその坂を下りきった角には「ボニータ」という、客ひとり女ひとりという小さなヌード小屋があった。
いまこの坂を見ようとすれば梶間俊一監督、陣内孝則主演の映画「ちょうちん」のビデオか、荒木経惟の写真集「東京は、秋」を手に入れるのが一番の早道だ。
「闇を街に探す旅」というものがあるとすれば当然、これはひとりで行くしかない。そして独行は楽しい。
次男の通う学校に通信簿はない。生徒と教師が大きな部屋に集まり、学科ごとの担当教師が前に出て各生徒の成績を述べたり短評を添えたり、あるいはクラス全体を励ましたりする。その場には保護者も出ることができるから本日は僕と長男が参加をすることとし、午前10時前に自由学園に入る。
午後は先ず高田馬場の竹宝商会を訪ねて次男に適当なノートを探し、その型番をメモする。次に新宿へ移動してルミネ1のブックファーストへ行く。この本屋はエレベーターを5階で降りた正面に写真関係の書架があり、ここで未知の写真集、新しい写真集を調べるのが僕の楽しみのひとつだ。そしてここでも欲しいものをメモに残す。
見るだけ調べるだけで買わずにメモをするとは、そのお店に対して申し訳ない気持ちが多々ある。しかし10冊のノート、大小何冊もの写真集を自分で持ち帰る気にはならないのだ。いずれこれらは諸方のウェブショップへ注文をすることになるだろう。
ひとつ仕事をこなして夕刻に下今市駅に着くと、ボソボソと雪が降っている。そして「雪も今年はこれが最後かなぁ、しかしオレが12歳のときには桜に雪が積もったしな」というようなことを考える。
「ホトトギス季寄せ」によれば「麻」とは夏7月の季語らしい。とはいえきのうの東京の最高気温は20度と予報されていたから僕は麻の上下を着た。ところがその東京にはウールのスーツに"Gloverall "のダッフルコートを重ね着した人が歩いていて、僕はイギリス東インド会社の提督を思い出した。
1982年、現在のチェンナイはいまだマドラスと呼ばれていた。とにかくこの街にあるセントジョージ砦の要塞博物館で僕は、むかしの英国の将軍たちの服を見た。それらは太い金モールで飾り立てられた分厚い赤羅紗の詰め襟コートだった。
耐えがたい湿熱の中、彼らはそのような服を着て威厳を保っていた。半裸のインド人たちは、その赤く巨大な布の固まりを一瞥しただけで「こらぁ、かなわねぇ」と、反抗の意志を阻喪させたことだろう、少なくともシバーヒーの乱までは。
それはさておき素肌にシャツ、そして麻の上着という薄ぎぬ2枚で汗をかく3月とはいかがなものか。僕は昔の提督ではないから気温の上昇に合わせて服を脱ぐ。衣替えなど待ってはいられないのだ。
みずからの読書の傾向を訊かれて「下らんものが好きだ」と答えたところで止めておけばよいものを「銭形平次とか」と続けてしまったのが吉田茂で、野村胡堂は苦笑いをするしかなかったのではないか。しかし吉田茂に限らず、下らないものはおしなべて面白い。
歌舞伎の狂言の中でも、その下らなさで一頭地を抜いているのが「白浪五人男」と僕は思う。あと46日間の興業を以てその建物の取り壊される歌舞伎座の、現在の第二部は「筆法伝授」と「弁天娘女男白浪」。これを家内がおごってくれるというので午後、銀座で待ち合わせる。
「菅原伝授手習鑑」の「筆法伝授」は仁左衛門をはじめとする役者も大したものだが浄瑠璃と三味線が素晴らしい。そして中休みをはさんでいよいよ弁天小僧が始まる。本日の上演は「雪の下浜松屋の場」と「稲瀬川勢揃いの場」の二場で、菊五郎、吉右衛門、左團次、菊之助、團蔵、東蔵、梅玉、幸四郎と、その配役も華やかだ。
我々の席は花道の右側に接した前から3分の2ほどのところで、舞台からはいささか遠いが「稲瀬川勢揃いの場」では、花道から現れた日本駄右衛門、弁天小僧菊之助、忠信利平、赤星十三郎、南郷力丸がそれぞれ2メートルの近さで立ち止まり見得を切るからその迫力は凄い。
台詞の方も、たとえば菊五郎のもののみを取り上げても「ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた祖父さんの、似ぬ声色で小ゆすりかたり」というようなくすぐりが多く、3時間はあっという間に過ぎた。
歌舞伎座が建て替えられれば、いまは階段を昇っていくしかない最上階までもエレベーターやエスカレーターが届くだろうから脚のおぼつかない人も助かるに違いない。2013年春の、新しい歌舞伎座の待たれるところである。
20年ちかく前からの友人タケシトーセーさんから、自分の仕事をテレビが紹介するので良ければ見て欲しいとのメイルが届いたのは先週土曜日のことだった。その番組「地球号食堂」の放映は日曜日23:00からの30分間で、しかし僕は、この時間には寝ている。よってこれを録画予約し、今朝の未明に目覚めて観る。
修善寺駅前のお弁当の会社の経営は、タケシさんの仕事のひとつだ。ここの「あじ寿司」の美味さを僕はよく知っている。ところが駿河湾産の真鯵の漁獲量が最近とみに落ちたというところから、この番組は始まる。
タケシさんはやがて地元の軍鶏に目を付け、このソテーと、スープによる炊き込みごはんを主として地採れの野菜や山葵による新しいお弁当を開発する。このお弁当が、まるで太い墨の筆と赤や緑の鮮やかな絵の具による文人画のように美しい。
地鯵の減少という危機を、新しい食材を発見また洗練させることによって見事に回避した素晴らしい仕事ぶりを明け方に見て「オレもますます、色々なことを推進しなくちゃなぁ」と考え、二度寝はせずに服を着る。
午前、南北線の六本木一丁目駅を出て晴れた空の下をしばらく歩き、むかしの地名で言えば麻布谷町の道源寺坂を下る。六本木通りを右に折れればすぐにアークヒルズだ。館内のエスカレーターを上がってカラヤン広場に入る。
新旧の青や黄色のクルマが集まっていたから"BUGATTI BLANCH 2010"の場所はすぐに分かった。受付を済ませ、戸外用ストーブに暖を求めながら旧知の顔と歓談をする。
ほどなく、歓迎会を兼ねた昼食会が始まると知らされ"ARK HiLLS CAFE"の席に着く。今日は1日、仕事は休みにしたけれどお酒は遠ざけ、トマトジュースを飲む。この場所では会の代表であるミズノセーイチさんの挨拶に続き、興味深い映像がふたつ紹介された。
ブガッティを一堂に集め、そこに人も群れ集う今回の催しは、人的交流、技術交流、知的交流の面においてとても意義あることだ。一方、僕は古いクルマについては、それを良い状態に保ち、走らせ、往年の性能を実感できるまで熟成させていくことを楽しみにしている。そしてそのためにフトコロは不如意となり、今回は自分の身柄だけを参加させた。
幾台もの古いレーシングカーが広場から盛大な排気音と共に公道へ出ていくころ、別れの挨拶と御礼を述べると「次回はクルマを持ってきてください」とミズノさんは言った。僕の返事は周囲の騒音にかき消されてミズノさんの耳には届かなかったかも知れない。
2年とすこし前、ある人に「古いブガッティを操縦する楽しみはどこにあるか」と訊かれて「幻想、あるいは歴史の共有」と答えたことがある。お土産にいただいた
「ブガッティ・クイーン」 ミランダ・シーモア著 オルダダイス香苗訳 二玄社
を帰途に読めば、これはかなり面白い。ブガッティはいつまでも、伝説と幻想と共に存在し続けるのだ。
朝、甘木庵でメシ2杯を食べたにもかかわらず、帰社して10時になるころにはもう腹が減っている。
雪が盛んに降っていた日だからこの日記を遡ってみればそれは今週火曜日のこと。県南から戻って日光宇都宮道路を大沢インターで降り、北へ向かって走ってくると関根耳鼻科のはす向かい、というか吉沢のセブンイレブンの裏に新しくうどん屋ができている。ちょうど昼の時間だったのでホンダフィットを駐車場に入れ、その店の引き戸を開けた。
結論から言えば、その店のうどんもつゆも、とても良いものだった。そして僕は勘定をしながら「また来ます」と、女の人に言った。
10時から空腹を覚えていた僕は、今日は11時50分にそのうどん屋を訪ね、白くて太いうどんと黒っぽくて細いうどんの合い盛りの大盛りを、乳茸のつゆで食べた。
「つけ汁うどんあくつ」はもうしばらくすれば多くの人に知られ、大混雑の店になってしまうような気がする。
1980年、ヤワラーの定宿「楽宮旅社」1階の「北京飯店」から何気なく外を見たら、登山靴を履いた人物が立っていた。南の国の普段履きはゴム草履と決めていた僕は不思議に思い、その人物が席に着くなり靴についての質問を発した。
「スリランカを旅する最中、つま先に怪我をした。消毒などひととおりの処置はしたが数日後に新たな痛みを感じた。見ると指先に蛆が湧いていた。南国の蝿は人の傷口に卵を産む。よって以降は可能な限り怪我を避ける服装を心がけている」
というのが、その人のおおまかな答えだった。
蝿や蛆は別としても、歩道の敷石が剥がれていたり、スコールによる冠水に備えて歩道と車道の段差が30センチ以上もあったり、あるいは工事用の鉄骨が歩道に無造作に積んであるようなところを旅して歩くことは僕にもある。丈夫な靴は安全性が高い。そして僕もここ数年は、海外への旅行においてブーツを履くようになった。
ところでブーツに合わせる登山用の分厚い靴下は、1足を2日つづけて履いても汗や脂で感触の悪くなることがない。数年前にこれを2足買い、しかし2足では4日間の旅行にしか対応しない。だから本日、神保町へ出たついでに「ICI石井スポーツ」に寄り、これまでとおなじ靴下1足を買い足した。
それで用事は済んだはずだが次の予定までにはすこし時間があった。よって「石井スポーツ」の店内を歩きながら「これ、良いな」「でも必要ないよな」「買ってもしまい込んで、それでお終いだ」などとあれこれを品定めするうち"MILLET"のアタックザックが目に付いた。
そのザックのデザインは半世紀も前のものだが素材は新しい。新素材に簡素なデザインが相まって非常に軽い。非常に軽いザックなら"Patagonia"のものを持っている。しかしそれはすこし高価だったから日常使いにはちと勿体ない。構造が複雑なだけに汚れたときの洗濯も面倒そうに感じられる。
「このミレーの、ちょっと良いな、しかし買うまでのことはねぇな、何しろ"Patagonia"のやつがあるんだから。買ってもどうせ社員にやってしまう結果になるだろう、でもちょっと良いよな、しかし黄緑か、持てないこともないけど使用頻度は落ちそうだ、その後ろに青いのがある、青はイヤだ、その隣は赤か、オレは登山道具は赤で揃えているけど、このザックを使うとしたら街なかだ、街なかで赤は浮きそうだ、黒があれば欲しい、しかしそれがねぇんだから今日の買い物は靴下だけで終わりだ」
と、買わないための予防線をみずからに張りつつ手探りすると、まずいことに棚の一番奥にひとつだけ黒い色のそれが発見された。そこでしばし逡巡し、やがてレジにそれを持っていって「これ、ください、包まなくて結構です」と、靴下を買ったときとおなじ言葉を先ほどとおなじ店員にかける。
終業後、社員たちと事務室の大テーブルに集まって、随分と遅くなってしまったが1月に開催した「日光MG」の打ち上げをする。食べ物は家内が作ったり社員たちが持ち寄ったりしたものだ。
そして本日は先ず、販売係のツカグチミツエさんに100期達成の記念品を渡す。"MG"つまりマネジメントゲームは2日間で5期分の経営を盤上に展開する。100期とは、そのマネジメントゲームを20回のべ40日のあいだ行ったということだ。これはひとつの区切りである。そして本日の表彰はもう1名。
1991年6月、当時は新宿で行われていた西研究所のマネジメントゲームに僕は初めて行った。全参加者63人中、僕の第5期の決算順位は61位だった。あとのふたりはこの研修の辛さに途中で逃げ出した人である。
数年後、名人上手のひしめくこの新宿のマネジメントゲームにおいて、僕は同じ60人中の決算順位トップを獲った。それだけに、僕のこの計数力への想いは強い。よってウチの主催する「日光MG」では創設の当初より、第5期の決算速度のもっとも高かった者を計数力第1位として表彰し、賞品を手渡してきた。
そして今回の計数力第1位は包装係のヤマダカオリさんだった。彼女には賞品を手渡し、今後の活躍を期待する。
今回の降雪がこの冬の最後の雪になるかどうかは知らない。とにかくその量は雪の多かったことしの中でももっとも多い。そして定刻の1時間前に店のシャッターを上げてしまう。なぜ雪の積もった朝に限って社員の出勤する前から店を開けるか、それは、暗鬱な風景もいくらかは明るくなるような気がするからだ。
片付けずに正解だった雪かき道具を店舗駐車場に運び出す。そして次々と出勤する社員たちと雪かきをする。本日の雪かきはおよそ70分で終了した。
午後、仕事の合間に「モリカゲシャツ東京2010」の案内ハガキを見る。裏面のモノクロ写真から「モリカゲシャツ東京二○一○今年は代官山にて」の文字を外せば、その雰囲気は荒木経惟による「東京は、秋」のそれによく似ている。
きのうから長男が帰省しているため夜は2種2本のワインを飲む。
先週の金曜日は上半身に2枚の服しか身につけていなかったにもかかわらず、横浜で汗をかいていた。空は青く空気は乾き、まるで初夏のような1日だった。そして今井アレクサンドルは「ウワサワさんはツイてるよ、こんな日に来られてさー」と言った。
それでも僕は、会社の雪かき道具を片付けずにおいた。だから今日の雪に遭遇しても「ハハハ、やっぱりな」くらいにしか思わなかった。午後の早いころからもう、スモールライトを点灯したクルマが往来している。雪かきに要する労力などを除けば、僕は冬が嫌いではない。3月にこんな1日2日があっても、それは季節の味わいというものである。
夜に鶏鍋を食べて焼酎のお湯割りを飲む。昨月の貯金があるから今月はいまだ断酒をしていない。雪は相変わらず降り続いている。
裏玄関の下駄箱に"Jose Cuervo Clasico"の半分埋もれているのを見て「さて、このテキーラはいつからここにあるのだろう」と考え、昨年のいつだったか会社の飲み会で、社員たちとこれを飲んだことを思い出した。酔ってその残りを裏玄関まで運び、そこから居間まで持ち上げることを忘れたのだろう。
ところでこの"Jose Cuervo Clasico"、あちらこちらのウェブ酒屋では「マイルド」だの「まろやか」だのと説明をされているが、実はかなり特殊な焦げ臭がある。そしてこの焦げ臭は昨年チェンライで飲んだラオカーオ、40度あるところから「シーシップディグリー」とも呼ばれる焼酎のそれに酷似している。
タイにはテキーラを好む人がかなりいる。焦げ臭のある蒸留酒を好む遺伝子をタイ人が持っているからなのかどうかは知らない。なぜなら焦げ臭はテキーラの中でもこの"Jose Cuervo Clasico"でのみ顕著だからだ。
終業後に自社ショップとYahoo!ショップのメイルマガジンを発行し、19時よりテキーラではなく焼酎による飲酒を始める。
これまでは「たまに見かける」くらいだった商品が、あるときを境として急に世にあふれ出ることがある。1990年代後半の"MERREL"や"NEW BALANCE"の靴がそうだった。おととしから昨年はじめにかけて爆発的に広まったのが"LeSportsac"のバッグ類で、今や女子高生から中高年女性まで、これを持つ人は星の数ほど存在する。
特定の商品が、あるときを境として急に世にあふれ出るときには、どこかで誰かがそれなりの知恵を絞り汗を流している。そしてその「どこか」や「誰か」は多くの場合、一般の目に触れない。
その、一般の目に触れないところを書いた本は、たとえ多少の嘘が混じっていても、あるいはその嘘がむしろ香辛料のように効いて面白い。
注意すべきは「よし、これを読んでオレもひとつ金もうけをしてやろう」と考えて読むと、この手の本は途端に面白くなくなるところだ。邪念を離れてこその読書ではないか、と僕は思う。
1年に1、2度しか使わないけれど、これがあると無いとでは大違い、というマクロのバグを午前中に潰しながら時間を忘れ、昼前にちと慌てる場面があった。好きな仕事には必要以上に没頭するクセがあり、しかし治そうとして治らないのがクセというものである。
先日イワモトミツトシ区長から頼まれていた、町内の現時点における仮決算書の作成を午後おそくにする。
人口減に伴って戸数が減る。だから町内の予算も減る。老人が増えて子供は減る。敬老会費や慶弔費、この慶弔費とは有り体に言えば香典だが、これに割くお金が増えて子供育成会の予算は減額される。町内のお金の出入りが、そのまま日本という国の現状を映している。
入金が減って出金は増える。今年の決算も昨年に引きつづき厳しいものになると予測していた。ところが偶然に左右された面はあっても思わぬところで使わずに済んだ経費があった。よって今年の決算は、次期繰越金をすこし減らすくらいで無事に締められる見込みが立った。
しかしいずれにしても町内の予算においては、経費の削減はいつも念頭に置いて、これを続けて行かなくてはならない。知恵の出しどころである。
石川町では列車のドアの開いた途端、ピーナツオイルの香りが鼻腔を直撃する。中華街から運河ひとつを南に越えれば元町商店街だ。その中ほどから汐見坂を上がって今井アレクサンドルの個展が開かれている画廊「あいおらいと」に入る。
気温は20度を超え、しかし湿度は低い。今日の陽気はまるで初夏のそれのようだ。今井と画廊を出て汐見坂を登り切り、新旧の洋館の建ち並ぶ屈曲した道を上り下りする歩行は楽しい。
今井のアトリエを訪ねて後、家族づれの青い空の下で遊ぶ風景を眺めながら坂を下って元町中華街駅まで送ってもらう。手に提げたスーパーマーケット"union"の紙袋には今井の作品が詰まっているからこれを紛失するわけにはいかない。
よって帰路においてはどこにも寄らず、もちろん飲酒も成さず、北千住16:12発の下り特急スペーシアに乗る。ところで僕が今井アレクサンドルを「今井」と呼び捨てにして敬称を付けないのは、バスキアを「バスキア」と呼び捨てにして敬称を付けないことと同じ理由による。
会社は本日まで休みだ。休みとはいえ「鬼怒川のホテルから急いで行くから大根のたまり漬、売ってください」とか「娘があした東京の下宿に帰るので、大家さんに持たせるのにらっきょうのたまり漬が欲しいんです」というような有り難い電話があるから、普段と同じく朝から夕方まで事務室にいる。
留守番電話に切り替えると、上記のようなお客様への対応ができなくなる。よって急ぎの荷造りは早朝に済ませておく。
会社中のすべての電源を落としての、変電室の法定点検が午前中にあり、これでウチの3日連休の、外から人が入ってする仕事はすべて完了した。そしてこの3日間で読んでしまおうと考えていた社会保険関係の本は、遂にはじめの数ペイジしか進まなかった。これは明日以降の宿題としよう。
夕刻に弱い雨が降ってくる。当方が服を着すぎているのか、すこし暑さを感じる。あるいは明日から急激に上がると予想されている気温が、既にして今日のうちから徐々に高まっているのかも知れない。
雨はその強さを変えることなく夜半まで降り続いた。
「インドシナの地図を一瞥しただけでヴェトナムのしたたかさが理解できる」と言ったのは開高健だっただろうか、それとも近藤紘一だっただろうか。
食べ物は一般に、その地域の地貌が変化に富むほど美味そうに思われる。変化とは海があり山があり沼沢があり平野があり、ということだ。そういう意味からするとインドシナの海岸線のほとんどを独占しているヴェトナムの食べ物は美味そうだ。
しかし鴨志田穣と東南アジアのあちらこちらを歩いた西原理恵子の文章を読むと、彼女にとってはミャンマーのメシがもっとも美味く感じられたという。中尾佐助はこの国についてなにか語ってはいなかったか、石毛直道はどうだったか。とにかく地域と伝統食の関係には意外性がありすぎて面白い。
1980年、カトマンドゥのバザールを歩いていて日本の沢庵そっくりの食べ物の売られている現場に遭遇した。地べたにしゃがんでそれを商っていたオバチャンに匂いをかがせてもらったらその発酵臭は沢庵そのものだった。「これは自分で作ったの?」と訊きたかったが僕はネパール語ができず、オバチャンは英語が話せない。そして僕はその沢庵を買わずにその場を離れた。惜しいことをしたものである。
「というわけでミャンマーだよ、いつか行ってやろう」と考える。
携帯電話に不在着信を見つけるたび「なんでケータイにかけてよこすかなぁ」と思う。僕は携帯電話は携帯しない。地下鉄銀座線車内にこれを置き忘れ、上野警察署からハガキで知らせてくるまで紛失に気づかなかったこともある。それほど僕は携帯電話を使わない。
僕はいつもほとんど会社にいる。だからほとんどいつも会社の電話に出ることができる。会社の電話でこと足りれば携帯電話は携帯しない。身につける物は最小限にしたい、という性格も、携帯電話を携帯しない理由のひとつだ。
しかし屋外には諸工事、屋内には清掃が入るため、本日より3日間は会社を休む。そして会社は休みでも関係者との連絡手段は確保しておく必要がある。だからこの3日間に限っては僕も携帯電話を携帯している。
ところで本日より3日間はひとり暮らしだが外へ何かを食べに行く気には依然としてならない。よくよく考えてみればこれは「外へ行く気がしない」というよりも「居間のホットカーペットの上でのんびりしたい」という気分のより強いせいだろう。
というわけでおでんなどを肴に焼酎のお湯割りを飲み、早々に就寝する。
家にいてひとり暮らしをしていた先月23日にテレビのリモートコントローラーを紛失した。居間でテレビの天気予報を見ているところに取引先から電話が入ったから、リモコンで音声を低くしながら立ち、会話を終えると即、事務室へ降りた。
その日の夕刻に居間へ戻ると、昼にあったはずのリモコンがない。およそテレビのリモコンがテレビの周辺を離れることはないと思われるが、世の中なにがあるか分からない。よって居間から寝室、応接間、台所、風呂場、便所と見て回ってどこにも見当たらない。
「ゴミと間違えて捨てちゃったんじゃないの?」と家内は言ったが、まさかそれはないだろう。「神隠しとは、正にこういうことを指す言葉だわな」とか「馬鹿ばかしいけどリモコン、買い直すか」と考えつつ7日のあいだ不便をかこった。
そして本日、ひとり暮らしをしていたときの洗濯物を箪笥へ収めようとして、その下に懐かしい銀色を発見する。そして「やっぱリモコンは便利だ」としみじみ思う。