日本列島のかなり広い地域に雪の予報が出ている。夜中の1時30分に西北西の窓を開けると、空は曇っているものの、霧降高原に建つホテルの灯りはいまだ見える。そういう次第にて「いつかとおなじ里雪で、日光には降らねぇんじゃねぇか」などと考えつつ寝る。
朝5時30分に目を覚まして、今度は南南西の窓に近寄る。雪は降ってはいるが、積雪の層はいまだ薄い。「早いこと雨に変わんねぇかな」と、気象庁の人が耳にしたら鼻で嗤いそうなことを望む。
社員を迎え入れるため事務室のシャッターを上げる。時刻は7時30分。目の前に停めたホンダフィットの屋根に定規を差し入れると、積雪は7.5センチだった。2.5キロの道を歩いて出勤したマキシマトモカズ君と、ふたりで雪かきを始める。次々と来る社員たちがそこに加わり、店舗の駐車場を赤いスノーダンプや青い一輪車が行き来する。
開店準備や急ぎの仕事に従う以外の社員8名が雪をかきをしている。その最中にも雪は盛んに降り続く。70分を経過して、しかし店の前の景色は朝のそれと一向に変わらない。あるいは雪は却って深くなったかも知れない。こうなると雪かきも、賽の河原に石を積むようなものである。9時もちかくなったため融雪剤を撒いて、雪かきは一旦、終了とする。
昨夜は高島屋東京店の、今日からウチが出店するブースを設営し、朝に帰社したハセガワタツヤ君とアキザワアツシ君が夕闇も迫るころ外へ出る。そして今まさに凍ろうとしている雪をかき始める。明朝に備えてのことだ。ふたりの額に玉の汗が浮かぶ。
旅先の車窓から眺める雪は美しくても、身近に降りかかる雪は厄介だ。日光宇都宮道路の、大沢から清滝のあいだは雪のため通行止めになった。それでも明日は晴れるらしい。
海を持たない栃木県の貧しさが生み出したような郷土食「しもつかり」を朝からメシのおかずにする。
塩鮭の頭、大豆、鬼おろしにした大根とニンジン、そこに酒粕を加えて大鍋で煮込む「しもつかり」の見た目はまるで猫の吐瀉物で、郷土食とはいえ僕は長くこれを、口に入れることはおろか匂いをかぐことさえ避けて毛嫌いしていた。
しかし27歳のとき「並木蕎麦」の、今は亡いおやじさんに無理強いされ、嫌々ながら食べてみると、これが存外に美味かった。以降は毎年ずっと食べ続けているが、そして「七軒のしもつかりを食べると中気にならない」というよう風説もあるが、その、いかにも汚らしげな外観から依然として、よその家のそれについては恐る恐る少量を口にするのみだ。
「今の若い人の舌は化学調味料でバカになっている」と言う人がいる。いやいやどうして老人の中にも化学調味料大好き人間は決して少なくない。そしてしもつかりにも化学調味料をこってり入れる家があって、そういうしもつかりは僕の口には合わない。
今日は朝にも昼にもしもつかりを食べた。しもつかりはよく冷えたものを温かいメシのおかずにすると美味い。しかしてまた酒の肴にしても美味である。明日以降は酒肴として、これを小鉢に盛ろうと思う。
ルネ・マグリットの「光の帝国」についての評論あるいは感想を、今朝の日本経済新聞40面にハービー山口が書いている。マグリットはこの絵の中に、夜の森と、街灯に浮かぶつつましい家、そしてその家の水面に映る様を描いている。それは完全に夜の世界だが、森の背後には真昼の、白い雲を浮かべた青空が広がっている。
この絵はどうも、シュールレアリズムの世界をキャンバスの上に顕現させたものらしい。しかし僕は夜と昼とが同時に存在する世界を一瞬ならず、何日も続けて経験している。1979年1月のことだ。
そのときグラナダは快晴続きだった。空は青でもなく群青色でもなく、限りなく黒にちかい藍色だった。空の色は深く暗く、星や月の見えないことが不思議なほど夜のそれだった。その空が昼のものであることが信じられず、足下に目を落とせば、そこには太陽の強い日差しによる、僕自身の陰が黒くくっきりとあった。
絵の中のことではない、自分自身がシュールレアリスティックな空間の中にいて、歩いたり立ち止まったりしているのだ。1月のグラナダを訪ねれば、今でもあの空を見ることができるだろうか。是非またあの不思議な世界に身を置いてみたい。
現実に立ち戻ってみれば本日は旧暦の初午にて、この日は毎年お稲荷さんに清酒、赤飯、そしてしもつかりを備え、商売繁盛を祈る。お稲荷さんは会社の坪庭の奥にある。その前の雪は朝のうちにスコップで取り除いておいた。瀧尾神社からの神官は10時すぎに来た。そしてその祝詞を聴くうち「いよいよ春だな」という気分が沸々と高まってくる。
アルコール度数25%の韓国焼酎「鏡月」の、1800CCのペットボトルを、いつも行く酒のディスカウンターで買った。何年も前のことだ。
家の晩飯が洋風であればワインを、それ以外のときには芋焼酎を僕は飲む。甲類の焼酎1800CCは普段の僕には使い道がなく、だからその「鏡月」をなぜ買ったかについては不明である。
とにかく口を開けずに何年も経ってしまった「鏡月」は、しかし思いついてこれを500CCのペットボトルに小分けして旅先に持参するようにしてから、ようやくその中身が減り始めた。
昨年の8月にはチェンライのフードコートでナムケンつまり氷を所望してオンザロックスにし、タイ航空の国内線で支給される軽食用のコップでこれを飲んだ。残余はトレッキング1日目の夕刻、カレン族ガイドのシームンと高床式の家で差しつ差されつするうちすぐになくなった。
その1ヶ月後にまたまたチェンライを訪問する機会があり、やはり夜のフードコートでオンザロックスにした。しかしこのときには共に飲む相手もなく、バンコクまで南下したところで残りは人に譲った。
そうこうするうち冷蔵庫に置いた、1800CCの「鏡月」はようやく底が見えてきた。次にどこかへ行くときにも、小さなペットボトルに小分けした焼酎を僕はまたスーツケースの片隅に納めるだろう。次はどこでそれを飲むことになるのか、については決まっていない。
きのうの深夜には雨が降っていた。その後のことは知らない。朝になると雨の音は消えていた。何だか妙か感じがして外の見えるところまで行くと、あたりには分厚い雪があった。雪が積もって嬉しいのは旅行の最中だけである。
開店準備のための3名を除いたすべての社員が朝一番から雪かきを始める。いくらかいても雪は間断なく降り続き、駐車場はいつまでも白いままだ。ある程度のところで見切りを付け、包装係のアキザワ君に融雪剤を撒いてもらう。
取引先にメイルを書いて送る。別の取引先には書類を作成してファクシミリで送る。インターネットを通じて問い合わせを下さったお客様に電話をお入れする。9時30分と時間を指定された配達があって、雪の中にホンダフィットを乗り出す。降雪のため朝のすべてが忙しくなる。
一時は乗ることを諦めかけた、下今市駅10:35発の上り特急スペーシアにすんでのところで間に合う。今朝の雪は宇都宮にも降っているとテレビは伝えていたが、東武日光線沿線の鹿沼付近には、雪はまったく無かった。
自由学園の、正門から男子部に向かう途中の木々が大規模に選定されて眺望が開けている。「今の学園の木は繁りすぎだ」と、僕より30歳ほど上の卒業生が10年以上も前に言っていたことを思い出す。
父母会の席に最後まで連なっていると、東武日光線の最終に間に合わない。今日もいつものように中座をし、北千住21:11発の下り特急スペーシアに乗る。
2月の最低気温を55年ぶりに更新したソウルに遊んだ。今月はじめのことだ。それから3週間を経ていないにもかかわらず、記憶の中にあるソウルの景色は、随分とむかしのもののように薄れつつある。
そのソウルへの短い旅に総括と反省を加えるべく、旅行の参加者たちが終業後の事務室に集まる。韓国の料理の一部が口に合わず、公のお金でマクドナルドのハンバーガーを買ってもらったサイトーカツ坊には生憎と夜勤の仕事が舞い込んで、今夜の席には来られなかった。
今回の料理はすべて、ユザワクニヒロ韓国旅行幹事が準備をした。当方の労働は、手持ちの食器をテーブルに並べたのみである。
旅行の総括と反省については具体的なところまで言及されることもなく、こちらの方言だろうか「オダアゲ」に終始したのは心残りだった。話し合いの機会はいずれまた巡ってくることだろう。次回はより多くの人数により、町内青年会の親睦旅行の行われることを僕は希望している。
「久方の」は「光」にかかる枕詞だから今日の日記は出だしからおかしいかも知れないが、今朝は久方ぶりに雨が降って暖かい。「週末には寒さが戻る」と、テレビのニュースは、まるで脅かすようなことを言っている。三寒四温とは今ごろのことではなかったか。
必要なことがあって、夕刻に社員2名を事務室へ呼び、打ち合わせをする。気づくと内綿入りのベストを僕は脱ぎ捨てていた。
夕刻から夜に入ってしばらくしたころに外へ出る。そして日本酒に特化した飲み会「本酒会」の、今月の例会場所「やぶ定」まで数分ほども歩く。「春宵」と呼ぶにはいささか早い気もする。しかし人も虫も動物も、そろそろ冬ごもりに見切りをつけそうな今日の塩梅ではないか。
21時に帰宅をする。そして肝臓と腎臓のための漢方薬「ジョッキ」を飲む。
池袋の文芸地下で黒澤明の「生きる」を観ていたときのこと、左ト全が出てくると決まって笑う観客が、館内にかなりの確率で存在した。笑う場面ではまったくなかったにも関わらず、である。文芸地下に来る客であれば、大宣伝に動員されてロードショーに足を運ぶ客よりは、すこしは映画の見方を知っているに違いない。「それでもなお」である。
他の芸能や見世物に接しているときにも、あるいは日常の生活においても、このような状況には少なからず、というか、かなりの確率で遭遇する。
ひとりで鑑賞をする限りにおいては、つまり映画であれば自宅のディスプレイでそれを観れば、他者の妙な反応に神経を逆なでされることもない。しかしこれが落語、相撲、歌舞伎となると、まさか自分の家に噺家や力士や役者を呼ぶわけにもいかない。他者と場を共有するについては、なかなかに難しいものがある。
イヤフォンを耳に突っ込み何事かを聴きながら街を歩く人が多い。気に食わないことが耳に入って神経の逆なでされることを事前に防いでいるのかも知れない。僕は、街を歩くときには街の騒音や行き交う人の言葉を聴きたい。僕の神経は、いまだ鈍く保たれているのだろうか。とすれば相当に有り難い。
都心や副都心の、駅のプラットフォームから階下のコンコースへ向かう奔流のような人の群れを見るにつけ「都会の人はよく歩くよなぁ」と思う。田舎へ行くほど人は"door to door"をクルマで移動し、ほとんど歩かない例が多い。
今朝は東武日光線にて栃木市へ行き、計36分ほどを歩く。僕の歩行速度は高い。万歩計は帯びていないが3キロは歩いたのではないか。
今年の大寒は1月21日で、旧暦では12月28日にあたる。それから1ヶ月を経て寒さは随分と和らいできた。"SIERRA DESIGNS"の、串焼きの煙をたっぷり吸い込んだ"MOUNTAIN PARKA"も、そろそろクリーニング屋さんへの出しどきである。
日光にいて、いま外へ出るときには最大で4枚の服を上半身に着る。来月になればこれが一気に2枚になる。5月からはそれが1枚にまで減る。シャツの裾を熱風がバタバタと乱れさせる季節の、できるだけ早く来ることを僕は望んでいる。
総鎮守瀧尾神社の年間の祭礼を仕切る当番町は、昨年の小倉一二丁目から東町へと引き継がれた。本日はその東町による、各町内の自治会長や神社世話人を集めた初会議が開かれる。そして当方は責任役員として、その初会議に出席をする。
昨年は東日本大震災の勃発を受け、春や夏のお祭りは大幅な規模縮小あるいは自粛をせざるを得なかった。今年は復興元年として、一昨年の規模を取り戻して欲しい。そして東町はその任を担うにふさわしい町内と確信をしている。
ある学者による、メタボリック症候群にはトマトが効くという説がマスコミによって広がり、多くの店の棚からトマトジュースが姿を消しているという。本当だろうか。この「本当だろうか」とは「メタボリック症候群にはトマトが効く」ということと「多くの店の棚からトマトジュースが姿を消している」の両者についての、僕の漠然とした疑問である。
先般の、社内における健康診断の結果が封筒に入って届いた。僕のからだに特段の問題は無かった。飲み屋へ行くたび冷やしトマトを食べているからかも知れない。
仕事場の冷蔵庫に3種のチーズがある。食べ時を早まればそれはいまだ硬く美味くなく、遅きに失すれば小さく縮んで不味い。とにかくそのうちの"Gorgonzola Piccante"を選んで自宅に戻る。
我慢が効かなかったわけではないけれど、そのブルーチーズを薄切りにして皿に並べる。そしてそれを、お湯で割ったウィスキーの肴にする。
むかし割と頻繁にテレビで見かけた漫才師がいる。ふたりのうちの片方は西洋風の顔つきをしていた。漫才が終盤に至るとふたりは決まって言い合いになった。西洋風の方が「黙れ」、純日本風の方が"shut up!"と叫んだところで一瞬の間があり、互いの腹や肩を叩き合って「逆やがな」というのが定番の落としどころだった。
メシの前からウィスキーなど飲んで、僕はむかしの漫才を思い出した。ふたりとも、いまだ死ぬような歳ではない。解散をしたか、片方だけが死んだか、あるいは僕の知らないところでいまだ活躍をしているのかも知れない。とにかくメシの前からウィスキーなど飲むとは、僕のすることも「逆やがな」である。
「ウワサワとしか思えない人物が、NHKの朝のニュースで何やらしゃべっていた」とか「NHKの朝のニュースを見ていたら、お前の顔がいきなり映って驚いた」というメイルが学校の先輩や後輩から届いた。買い物のため日中に近所を歩くと、これまた「今朝、テレビに出てたね」と、知った人に声をかけられた。
先月の29日に僕は馬頭温泉に泊まった。夕食のお膳には、この街の温泉で養殖されたトラフグの刺身が上がった。旅館には、たまたま"NHK"の取材が入っていた。そしてそのフグの味につき僕は感想を求められた。
「土曜日の『おはよう日本』で放送されます」と女のアナウンサーには説明をされたため「2月4日の土曜日か、そのときオレは韓国だ」と考え、テレビのことはその晩かぎりで忘れてしまった。
馬頭町のトラフグについては、何か大きなニュースにより後へ後へと回され、結果として予定より2週間おくれて放送されたのかも知れない。
温泉で養殖されたトラフグは歯ごたえも良く、噛めば噛むほどアミノ酸の旨味が口中に増して「これならお客さんを呼べるよ」と、僕を嬉しくさせた。残る課題は量産で、もうすこし待てば「海なし県に獲れたてのフグを食べに行く」という風変わりな流行が発生するかも知れない。
食べるだけの当方はしごく無責任な立場ではあるが、馬頭温泉のトラフグには、大いに期待をしている。
仕事で外へ出ると、空いた時間に家具を見て歩くことが息抜きであり楽しみだったと、オヤジが人に語っていたことを覚えている。オヤジが家具なら僕は登山用品で、だから小川町や神保町を歩く機会があれば大抵は、これを扱う店に僕は行く。
昨秋「ICI登山本店」で"MESCALITO"のダウンパーカを目にした。簡素なデザインながら細部が洒落ている。赤と青の発色も良い。海外の有名ブランドでも高所用のいわゆる"expedition model"でもないから値段はそう高くない。欲しくないかと問われれば欲しい。しかし自分がダウンパーカを着ることなど果たしてあるだろうかと考えた。
今では雪の中でキャンプをすることもなくなった。冬の夜の街を歩くくらいのことであれば、日光とはいえダウンパーカを欠いて不自由をすることはない。"UNIQLO"のヒートテックとフリースのセーター、"MONT BELL"の薄いダウン、いや中に入っているのは化学繊維だから正確にはダウンではないけれど、とにかくベストを着て、更にその上に風を通さない長袖の上着を着れば何とかなる。
最低気温を55年ぶりに更新した今月はじめのソウルでも、僕がいちばん外側に着たのはダウンパーカではなく、現在のスーパーマーケット「かましん」がいまだ「長崎屋」の時代に2,000円で買った、中国製の綿入れジャケットだったのだ。
そして今月13日の夜、またまた「ICI登山本店」へ行くと、当該のダウンパーカは売れ残って、数十パーセントほども値引かれていた。買おうと思えばすぐにも買える。しかし秋に続いてまたまた僕は考えた。
飲み食いに費やすお金は後に形を残さない、という点において優れている。今ここで、洒落てはいるがそう頻繁には使わないに違いないダウンパーカを買えば、それは春夏秋冬、家のどこかに吊られて存在し続ける。そして時には「こんなの買わなきゃ良かった」と後悔することもあるだろう。
そして遂にその、"MESCALITO"の洒落たダウンパーカを買うことはせず僕は店を出た。しかしこれが来月もまだ売れ残っているようなことがあれば、その時もなお僕がこれを買わずにいられるかどうかについては不明である。可及的すみやかに売れてしまうことを願って止まない。
きのうは宴会場での一次会のみで失礼をし、22時に就寝した。そうしたところ今朝は3時に目を覚ましてしまった。しばらくは布団の中でじっとしていたが遂に起き出し、日本の旅館に良くある、畳と窓のあいだに一段低く設けられた「なんちゃって洋スペース」でブラウジング活動をする。そして二度寝をして次は6時に目を覚ます。
朝風呂を浴びてからきのうの宴会場へ行く。そしてメシを3杯も食べてしまう。「一心舘」の朝飯は工夫が凝らされていて楽しい。
本日は店舗に床磨きが、そして蔵の変電所には年に1度の点検が入る。食後はそれほどのんびりせず、早々に帰社する。朝飯の大量摂取に伴い昼飯は抜いた。
明日は"rubis d'or"の新しいロットを漬け始める。よってその下準備をしてからフランス料理の"Finbec Naoto"へ行く。この店で食べるすべては美味い。そして、オーブンから取り出されたばかりの、いまだ湯気を立てているアップルパイにサクリとフォークを入れながら「どんなに上出来なケーキ屋でも、これは買えねぇぞ」と思う。
昨年の3月1日から3日まで、ウチではソウルへの社員旅行を行った。一行が茨城空港に戻った8日後に東日本大震災が発生した。
東北地方の惨状にはくらべるべくもないが、ウチも少なくない被害を被った。計画停電にもめげず夕闇の中でも営業を続けたが、ガソリン不足の折から客足は極端に減った。蔵の大屋根は万に達する数の瓦すべてを葺き替えざるを得なかった。そういう諸々を鑑みれば、昨年とおなじような旅行は挙行しがたい。
昨夏ある勉強会で鬼怒川温泉の「一心舘」に泊まり、良い印象を持った。よって本日はいつもより1時間はやい17時に店を閉め、社員たちと自家用車で鬼怒川へ向かう。
「一心舘」の、ベンチシートを置いた居心地の良い宴会場で「黒ヒゲ危機一髪」による生き残りゲームをする。このゲームは存外に時間を食い、賞品の獲得者が確定するころには宴も最高潮に達していた。同時に進行したカラオケ大会は大盛り上がりにて、約束の時間に収束させることに心を砕いた。
社員に割り当てられたうちの一室では、その後も遅くまで飲食やおしゃべりが続けられたという。僕は先ほどまでの一次会のみで部屋に戻り、早々に寝る。
「床暖房など、すぐには効かないだろう」とスイッチは入れず、天井のエアコンディショナーはなぜかスイッチが入らず、よって寒い中で朝を過ごす。「明日は9時すぎに来ていただければ」と"ComputerLib"のヒラダテさんには言われたが、こう寒くてはじっとしていられない、7時30分に甘木庵を出て南へ歩き、8時前には神保町に達してしまう。
"amazon"への商品の登録は、テクニカルサポートの人にさえ不明の不具合に阻まれながらも、それを乗り越えすべてを終えた。ところが本日はその、きのうの激務に神経をすり減らしたか、SEのヒラダテマサヤさんの体調が思わしくない。細部の調整などを午後まで続けるも、ヒラダテさんは遂に病院へ行くことを決めた。
その後は僕ひとり、ヒラダテさんに教えてもらった方法であれこれの作業を続ける。そして「ここまで来れば、以降は後日に回しても良いか」という段階まで進み、僕も外へ出ることにする。
小雨の中を京橋、日本橋、竹橋と移動する。東京国立近代美術館における「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」では、それに平行して行われていた所蔵作品展
「近代日本の美術」で、関根正二の「三星」と堂本右美の"KANASHI 11"が見られて良かった。
関根正二については先日、彼の「子供」の絵はがきに勉強を頑張るよう書いて次男に送ったばかりだ。堂本右美の"KANASHI 11"は不思議な絵で、これを見た瞬間から目が離せなくなる。筆の跡の認められるまで近づいたり、あるいは遠ざかったりしながら、これをしげしげと見る。閉館時間を気にしてその場を去ろうとするのだが、また振り向いて見てしまう。そしてジャクソン・ポロックについては、僕は良く分からない。
ヒラダテさんのいない"ComputerLib"に戻り、必要な確認作業をする。そして今日はひとりで仕事を終え、酒飲みに出かける。
焼酎のお湯割り4、5杯を飲んで、地下鉄神保町の駅へと階段を下りる。京橋に出かける前に準備よくコインロッカーに入れておいたザックを取り出そうと、液晶の画面に触れると「暗証番号を入力してください」とアナウンスが流れる。
ザックを預けた際のレシートに目を遣ると、しかし暗証番号などはどこにも無い。慌てて思い当たる4桁の番号を次々に入力するが、これもダメ、あれもダメと、入れるそばから拒否される。駅事務室まで駆けて解決法を訊ねると「ロッカーはロッカー会社の管理になりますので、暗証番号までは…」と、困惑の顔を向けられる。
よってふたたびロッカーの前まで戻り、あれこれするも問題は解決しない。またまた駅員に助けを求めると「ロッカーの上に管理者の電話番号があります」と教えてくれる。三たびロッカーの前に戻って当該の番号に電話をすると「PASMOでお支払いの場合には暗証番号は必要ありません。そのままタッチパネルにPASMOを当ててください」と指示をされる。
その言葉に従うと、ロッカーの扉は一瞬にして開いた。それにしてもアナウンスには「PASMOでお支払いの場合には、暗証番号は必要ありません」という文言も含めるべきではないか。時刻は20時50分。準備よく買っておいた下り最終特急スペーシアの切符も、今や反故同然である。
この日記を書いている今となっては、どのような方法で甘木庵まで戻ったかの記憶は無い。
詳しい説明は避けるがきのうの自分の不首尾によりエラーの出るようになってしまった給湯器は今夜も復旧せず入浴はできない。床暖房のスイッチは昨夜とおなじ理由にて入れず、天井のエアコンディショナーのスイッチはなぜかいつもスイッチが入らない。よってズボンのみをー脱ぎ、帽子は被ったまま布団に潜り込む。
"amazon"へ商品を出すためのアカウント登録は、先週の金曜日に済ませた。次は商品の登録で、これを今日と明日との2日間で完了すべく、朝のうちから神保町の"ComputerLib"に詰める。
作業を始めていくらも経たないうちに、その続行が不可能になる。テクニカルサポートに電話を通じてその状況を訴えるも、先方も不明の現象にて「調査いたします」との返事が戻った。その調査に時間を食われるわけにはいかない。係のヒラダテマサヤさんは先方から示唆された代替の方法にて商品の登録を再開する。
先週金曜日のアカウント登録の際に、僕は"amazon"と取引銀行の間に入って子供の使いのようなことを3度もした。今日の商品登録についても、自分ひとりで作業をしていたとすれば、心はすぐに折れていただろう。
そうして夕刻にいたり、すべての商品の登録を完了する。本日ここまでしておけば、明日は細部の調整に専念できるというものだ。
肩の荷をすっかり降ろして夜の靖国通りを渡る。そして路地裏の中華料理屋「徳萬殿」で、すこし早めの打ち上げをする。焼酎のお湯割りが胃の腑に染みていく。からだのあちらこちらがほぐれていく。
仕事仲間と別れ、ひとり錦華通りを行くと、錦華公園の上の方に光がきらめいている。その、ほの明るさを目指して坂を上がる。お茶の水の裏通りを鈎の手に歩きながら駅前に出る。お茶の水橋を渡り、サッカー通りに入る。「東京の冬、もう終わっちゃったんじゃねぇか」と思われほどに寒さは感じない。
"TBS"とフジテレビの2局がきのうから見えない、鳥でもぶつかってアンテナがずれたのではないか、見てきて欲しいと家内に言われ、朝一番で屋上に上がる。ここからエレベータの機械室に入り、更には上方へと伸びるハシゴを登ってウチで一番高いところに立つ。アンテナは茶臼山の方角をしっかし指して、特段の問題もなかった。テレビの不調の原因は何だろう。
事務室に降りて下野新聞を開くと、片山酒造の槽搾りの様子が写真入りで紹介をされている。"facebook"できのう目にした情報によれば、仲間内に限り搾る様子を見学できたそうだ。しかし連休中とあって当方は忙しく、蔵への訪問は叶わなかった。
午後2時といえば閉店までいまだ4時間も残しながら、店舗の冷蔵ショーケースでは「らっきょうのたまり漬」が残り59袋のところまで売れてしまった。早期の売り切れは必至である。
ウチは「いま食べごろの味」のみをお客様に提供すべく、商品の作り置きはしない。「らっきょうのたまり漬」は特に新鮮さの要求される品にて、毎日の生産量は売り切れ寸前の線を狙う。今日の数量予想が弱気に過ぎたわけではない、何らかの理由により客足が伸びたのだ。「何らかの理由」の真相についてはつまびらかでない。
夜にウィスキーのお湯割りを飲むと、これが美味くていくらでも飲める。このまま調子に乗って飲み進めば、翌日は間違いなく二日酔いになる。よって適当なところで切り上げ、入浴して早々に寝る。
日光市今市地区は日光街道、例幣使街道、会津西街道の三街道が交差すると交通の要衝だけに市が栄え、それが町の名になったらしい。そして今日は花市の日である。その起源については「今市 花市」で検索エンジンを回せばあれこれ出てくる。
ウチの開店時間は8時15分だが、大抵その5分前には自動ドアの電源を入れ、お客様の需要に応えられるようにする。今朝はその時間に目の前の交差点を渡り、30メートルほども歩いて、今まさに花市の準備を始めようよしている人たちの様子を見に行く。
花市は交通の問題により、以前は瀧尾神社から芝崎新道を抜け、仲町と桜木町を縦貫する道で行われることが何年も続いたが、今はまた昔の姿にちかく、日光街道の春日町から小倉町までの数百メートルを閉鎖して行われる。
それはさておきウチでは今月の29日から来月6日まで、日本橋高島屋で出張販売をする。その案内ハガキの送り先を、僕は特定しなくてはならない。期限は本日。とうわけでコンピュータと大判のメモ、それに色や太さの異なるペンを持って居間に移る。細密さを要求される仕事であれば、電話や突然の訪問客を避ける必要があるのだ。
そうしてこの仕事を90分ほどかけて完了したら事務室へ降りてその中身をサーヴァーへ移し、次の作業については事務係のカワタユキさんとテツカサヤカさんのふたりに任せる。
今日は幸い晴れて気温も低くない。花市のため閉鎖された日光街道の一方の端は目と鼻の先だ。よってふたたびその歩行者天国に出かけ、ウチに最もちかい焼きそば屋台で降るメシのための焼きそばを調達する。
そしてあたりの暗くなったころ三たび花市の端まで行き、写真を撮って戻って閉店の準備をする。
テレビの予報によれば厳冬は徐々に遠のき春めいてくるらしいと、きのう「大貫屋」の常連が言っていたが本当だろうか。日光は今朝も晴れ上がり、雨や曇りの日よりは明らかに寒い。
店舗の給茶器やお客様用のちょっとした洗面所は、配水管が凍ったことにより使用中止になっている。明日あさっては連休にて、どうにか復旧しないかと考えても、気温が氷点下まで下がればどうしようもない。
この寒さを奇貨として仕込む品の代表が「なめこのたまり炊」だ。大玉のなめこを下ごしらえし、「たまり」で煮上げて完成するこれは、僕の子供のころからの大好物である。
ウチではむかしから製造の現場を「蔵」と呼び習わしてきた。午後にその蔵へ行くと製造係のフクダナオちゃんが僕を手招きする。「なめこのたまり炊」が最終仕上げを受けている場所に近づくと、鍋の中でグツグツと煮えているそれを、同じく製造係のアオキフミオさんが小さな器に取り分けてくれる。
「おととしよりも味はずっと良くなりましたよ」とナオちゃんが言う。訊けば作り方に工夫を加えたのだという。僕は熱く甘辛いそれをチュルリと口に入れ、入念に噛んで舌のまわりをグルグルと回してから「なるほど」と答えた。
四季の中で好きでないのは秋で、それは最も好きな夏を過去へと追いやってしまうからだ。冬が嫌いでないのは、寒さの持つ厳密さが気に入っているのかも知れない。春は最も好きな夏に繋がる季節だけに、これの訪れるころが待ち遠しくて仕方がない。
列島は本当に春めいてくるのだろうか。その前に、北の方の温泉に行きてぇなぁと思う。
袋物が好きな質だから、首から提げる形のパスポートケースはいくつも持っている。1970年代から今に至っても時どき使うそれはオフクロの作った革製のもので、しかしこれはむかしのパスポートに対応したもので、今となってはいささか大きい。
それよりもなによりも、一体全体パスポートケースなどというものが今の僕に必要なのかどうなのか。そして今月はじめのソウル旅行でようよう判明したが、常に携帯する式のそれは僕には要らない。
パスポートや航空券やボーディングカードは、ほとんど空港あるいは国境でしか使わない。目的の国に入ってしまえば弊屋の連なる陋巷を歩いたりするから安全の面からしてもパスポートはホテルの金庫に保管し、携帯するのは複写のみである。
そのような理由にて自分がパスポートケースを必要としていないことは遅まきながら判明した。しかしパスポートと航空券とボーディングカードを同時に納める、ザックやショルダーバッグの底の暗がりに目立つ封筒状のものは要る。
ということで数日前に検索エンジンを回すと、オレンジ色のティケットケースがヒットした。この色ならエコノミー席の足下に寝かせたザックの中からもすぐに発見できるだろう。
よって即、注文ボタンをクリックしてこれを求め、それが早くも届く。ここにパスポートを納めればいささかキツい。しかし裏面にはポケットが設けてあって、そこであればパスポートは無理なく入る。中には航空券を、そしてポケットにはパスポートとボーディングカードを納める形にて、これをしばらく使ってみようと思う。
今月の4日に訪問した「安重根義士記念館」の売店で求めた、日本語による「大韓国人安重根」を読み終える。この冊子の32ページにある以下の記述は嬉しい。
安義士のこのような毅然とした姿(死刑を宣告された旅順監獄でのもの:上澤注)に感服した為か現存の遺墨の大部分は当時安義士を見守っていたか、周囲を監視していた日本人達が保管している。現在国内に入っている遺墨の内、かなりの点数が日本人の方達が寄贈したものである。この方達が日帝の厳しい統制と監視の中でも、安義士の遺墨を家宝として代を継いで保管しているということに対し、私たち韓国人の立派な亀鑑として学ぶべきであると感じている。
「夜は地面が凍ってるかも知れねぇから、自転車じゃ危ねぇだろう」と考え、徒歩で日光街道を下る。そして「季節料理和光」の席に着く。
石原裕次郎の「錆びたナイフ」から黒木憲の「霧にむせぶ夜」に、有線放送が変わる。常連たちはカウンターに横並びになっているため誰の発したものかは分からない、とにかく「オレの星座? オペラ座だったかな」という声が聞こえる。そのような環境で焼酎のお湯割りを飲むうち、気分が急速にほぐれてくる。
帰宅して居間のいつもの場所に座り、振り向いて棚の電波時計を見ると、時刻は20時を過ぎたばかりだった。そしてきのうの日記のための画像を加工している最中に眠ってしまう。
日光MGを完了し、町内青年会の韓国旅行も過ぎて、次の催しは社員と行う鬼怒川温泉での宴会とばかり考えていた。ところが先月末に持ち込まれた商談により、気分はにわかに忙しくなってきた。今週の後半から来週の前半にかけては、この商談への対策に取り組まなくてはならない。
そう考えつつ事務机左の壁に掛けたカレンダーに目を遣ると、高島屋東京店における出張販売の初日29日に印が付いている。都内あるいは近郊のお客様には、これをお知らせするハガキをお送りすることになるが、その送付先を特定する仕事も、逆算すれば今週末に行う必要がある。
日光の自然が人を呼ぶ季節には来店客が多く、僕も販売を応援する機会が増える。盆暮れのギフトシーズンには、その受発注に忙しい。そういう、いわば他者からもたらされる繁忙ではなく、みずからを律して進めていく類いの仕事においては、僕はとかく時間を無駄にしやすい。
今週は、明日から金曜日までの3日間が契約についての仕事。週末はコンピュータを使った細密な職人仕事。来週の前半は、文章を作り続ける仕事と、その内容は異なるものの、息をひそめて集中し続ける必要がある。
10日ほど前までは予想もしなかった、2月前半のあれこれである。時間管理を厳密にして、この短期決戦を乗り越えたい。
「ソウルでは何が美味しかった?」と家内に訊かれて「そうだなぁ、キョンボックンの茶碗蒸しとプゴグッチッの水キムチかなぁ」と答えた。茶碗蒸し、水キムチとも韓国の食事ではよくある「頼まなくても出てくるおかず」のひとつで、その店のメニュに載っていない、いわば周辺部のものである。
周辺部こそ美味いとはよくあることで、それは食べ物に限らない。周辺部には侘び寂がある。あるいは「野に遺賢あり」ということもあれば「やはり野に置け蓮華草」という言葉もある。ほかにも思い起こせばいくらでも出てくるが、まぁ、このあたりにしておく。
ソウルで自転車を借りて1週間ほども滞在すれば、いろいろな周辺部を見聞できそうだ。しかし前回も今回も、ソウルで自転車を見かけることはただの一度もなかった。そして今日は朝昼晩と、3回も白菜キムチを食べる。
「何の響きだろう」と考えつつ徐々に眠りの底から浮上していく。サイドテーブルの電話が鳴っている。受話器を耳に当てると、それは午前5時に設定された、自動音声装置によるモーニングコールだった。ほどなくして、今度は肉声による起床確認電話がユザワクニヒロ幹事から入る。部屋の中はいまだ暗い。
大人には様々な予定に加えて余計なことが突発する。よって幹事は早くから旅程を決めることができない。「○月○日ころなら行けるかも知れない」という皆の意見をとりまとめて旅行社を訪ねる。するとそこには2泊3日の最終日は朝に帰国、という弾丸旅行しか残っていないのが実情である。
加えて今回は、会社の都合で参加を取りやめた者がふたりも出た。「できるだけ多くの人数で旅行に行く」ということが今後の課題のひとつとして残ったわけだ。
旅行社から差し回されたマイクロバスに乗り、空港を目指す。ソウルの街の薄明に、人とクルマがまばらに見える。
キンポ空港のコーヒーショップでコンピュータの電源を入れる。"wifi"の電波は飛んでいるがパスワードを要求され、ブラウザを開くことはできない。搭乗ゲートへ歩く途中に置かれたテレビが歌番組を放送している。思わず足を止め、この短い旅の中では多分、僕にもっともエキゾチシズムを感じさせるであろうその文物に見入る。
09:00発の"KE2707"は09:07に離陸をした。眼下にはソウルの凍てついた郊外が広がっている。偏西風の影響か、ソウルから東京までの所要時間は往路のそれにくらべていちじるしく短い。機は定刻の11:05よりも随分と早い10:43に羽田空港に着陸をした。
初日に各自2万円ずつ供出した資金は、夕朝昼夕の飲食費、ポジャンマチャでの飲食費、地下鉄代、チャンドックンの見学代、サウナ代を支払った後にも剰余金があり、今朝はキンポ空港で各自50,000ウォンの払い戻しを受けた。そして更に都営浅草線の車内でも700円の追加戻しがあった。というわけで僕のサイフにはいまだウォンの紙幣が豊かである。
浅草駅13:30発の下り特急スペーシアに乗り、16:00前に帰社して仕事に復帰する。
朝が鮮やかと書いて朝鮮。寒さは和らいだものの、ソウルの空は青く、空気は澄んでいる。その気持ちよさを味わいながらホテルちかくの「プゴグッチッ」まで全員で歩く。
「プゴグッチッ」のメニュは鱈スープとライスのみのため、座れば黙っていても、この組み合わせと何種類かのおかずが出てくる。店主らしき男の人は、スープの味を調えるため小エビの塩辛を入れるよう身振りで示した。しかし味見をしてみると、塩気の薄いままでも充分にいける。「プゴグッチッ」のホカホカのメシは美味い。僕は小エビの塩辛をおかずにして、お替わり無料のメシを計3杯も食べてしまった。
ところで「内臓系と鶏肉と魚介類はすべてダメです」と出発時に宣言したサイトーカツ君は「プゴグッチッ」の鱈スープを「ビミョウですねぇ」と、ほとんど残した。それで朝飯の足りるわけはない。カツ君は店を出てから近所のマクドナルドでハンバーガーと飲み物を買ってもらい、結局のところ苦笑いと照れ笑いの入り交じった表情を顔に浮かべた。
午前は「世界遺産めぐり」と称して全員で、キョンボックに対するかつての離宮チャンドックンを訪問する。朝鮮半島の古い建築は焼失後に再建されたものが多く、その点が残念でならない。そして大韓民国指定国宝第1号の崇礼門、通称南大門も、同じ轍を踏んでしまったことは記憶に新しい。
春日町1丁目青年会の旅行は、朝昼晩の食事以外の行動は各自に任されている。ということで午後はひとりでタクシーに乗り、南山の中腹にある「アンジュングンウィサキニョムグァン」つまり「安重根義士記念館」へ行く。
安重根は名筆の持ち主だった。その、安による数々の遺墨の壁に彫られた通路を下って記念館に入る。と、学芸員らしい男の人が近づいて来て朝鮮語で僕に何やら話しかけた。見学に来た旨を英語で伝えると、その男の人はちかくの書架から英語のパンフレットを抜き出そうとしたため、日本語のそれが欲しいと、またまた英語で伝える。
ハルビン駅頭で伊藤博文を暗殺した後、旅順の獄に繋がれながら看守はじめ監獄所長、検察官に至るまで多くの日本人を短期間のあいだに魅了してしまった安重根。2010年に新造された立派な記念館については、館内で放映されるアニメーションや映画にせめて英語の字幕があれば、より理解が深められると感じた。日本語の字幕があればなお有り難い。
帰りは山を下る形になるためタクシーは拾わず、雪解けのまぶしい道を、南大門市場を縦断しながらロッテ百貨店まで歩く。ロッテ百貨店地下食料品売り場の、商品をより魅力的に見せるライティングは健在。奥のイートインは汗牛充棟の充実ぶりで、そこにあふれる市民の姿には、いまの韓国の勢いが現れているように思われた。
ソウルで地下鉄を利用する面倒くささについては文章が長くなるのでここには書かない。またソウルではタクシーが安いため、ロッテ百貨店からすこし北上したところでタクシーを拾い、チョンガクの"YMCA"まで運んでもらう。文字にすれば「チョンガク」だが運転手の発音では最後の「ク」はサイレントになって聞こえない。
とにかく左に"YMCA"、そして右にはセブンイレブンのある路地の奥へと、北に向かって溶け込んでいく。そしてしばし路地裏の散歩者となり、民族酒場の調査などをする。
チョンガクからシチョン、これも地元の人の発音では「シーチョン」と聞こえるが、そのシチョンちかくのホテルまで徒歩で戻ると時刻は16時を過ぎていた。持参したコンピュータを"wifi"のあるロビーにてしばし開く。そして"facebook"と"twitter"活動をする。
各々の行動を終えた面々とは18時30分にロビーで待ち合わせた。そして今や見慣れた道をミョンドンまで歩き、ソウル最後の食事を摂る。
それにしてもミョンドンには日本語が溢れ、多くの店は日本人でごった返している。またそのような店の中には、かつて訪れた有名人の写真を無断借用したと思われる看板を用いて更に日本人の客を誘うところまである。ミョンドンの景色を新宿と言いくるめられても判断のつきかねる状況に異国の香りは薄い。
海外で日本語の通じる便利さは旅の感興を著しく削ぐ。その意味において「安重根義士記念館」でのひとときには旅を実感することができた。今日は10キロ以上も歩いたのではないか。
初日に各自2万円ずつ供出した資金には、いまだ充分以上の余裕があると、ユザワクニヒロ幹事は言う。よってその資力を以てホテル3階にあるサウナ風呂に全員でおもむく。マッサージを受けない僕はチムジルバンというかヒーリングルームというか、そんな薄暗い部屋のマットに横になる。すると日本語を話さないオニーチャンが「上にもっと良い部屋がある」というようなことを身振りで示す。
木の階段を上がっていくと、そこにも同じような薄暗い部屋がある。そして木製の枕に頭を置くなり僕は眠り込んだ。
80分のマッサージを終えたユザワクニヒロ幹事がサウナを出ようとすると、先ほどのオニーチャンなのだろう、ヒゲを生やした友達が上にいると、また身振り手振りで伝えようとする。「上にいるって、そりゃぁ客室はサウナよりも上階にあるわな」と考え、しかし「待てよ」と階段を上がって部屋を覗き込んだらそこにウワサワが寝ていた、というわけで僕は起こされ、無事に部屋へ戻って二度寝をする。
東京12チャンネルの「河本準一のイラっとくる韓国語講座」は面白い番組にもかかわらず、流れ流れて深夜というか早朝というか、3時30分からの放送になってしまった。そして今朝はこれを見ながら"REMY MARTIN VSOP"を生で飲む。
春日町1丁目青年会が韓国旅行をしたのは、この日記では「物語ソウル」 その1~3としてまとめてあるが、2007年2月のことだ。これには総鎮守「瀧尾神社」の1年間のお祭りを取り仕切る当番町を無事に務め上げた直会の意味があった。今回の旅行の名目は「新年会を兼ねて」とのことにて、であれば毎年これを行うことも可能である。
「僕、今朝コニャック、飲んじゃったですよ」
「オレなんて起き抜けに焼酎のお湯割りだぁ、そんで今はワンカップのお燗」
というような、東武日光線下今市駅07:05発に乗った面々は、10時前には羽田空港の国際線ターミナルに着いていた。本日は節分。2階に特設された神社では今まさに、神楽の奉納と豆まきが行われようとしている。
12:20発の"KE2708"は12:40に離陸をした。ソウルの上空には6年前と同じくすこし乱れた気流があり、機はフワフワとした上下動を繰り返しつつ、定刻に12分遅れの15:02にキンポ空港に着陸をした。
市中心部へ向かうマイクロバスの中で聞いたところによれば、ソウルではきのう、2月のものとしては55年ぶりに最低気温を更新したという。ハンガンの岸ちかくには、薄く氷も張っている。
羽田空港で出国手続きをした、その先のSBC銀行では手数料30パーセントオフのクーポンを使って1万円が140,050ウォンになった。キンポ空港のSHINHAN銀行では2万円が280,000ウォンになった。ほかに預かり金が9,950ウォン。それらの合計430,000ウォンのうちの429,100ウォンを、夕刻から出かけたミョンドンの、とある店で一気に費消する。残金の900ウォンは邦貨にして63円。「初っぱなから何やってんだウワサワ」である。
手持ちのウォンが邦貨にして63円ではどうにもならない。ミョンドンの路上にいくらでもあるキヨスクにて新たに1万円を、今度は144,000ウォンに換える。もっとも地下鉄や食事など全員で使うお金については各自2万円をユザワクニヒロ幹事に支払い済みだから、持ち金を使い果たしても飢え死ぬ心配はない。
春日町1丁目青年会の旅行は不文律として、朝昼晩のメシだけはみな一緒に食べることになっている。ミョンドンでの夕食の後は冽寒の中、チョンゲチョンのほとりに積もった粉雪を踏みしめつつチョンノサムガに達する。東京の寒さとソウルの寒さの違いは何だろう、ソウルの空気は爽やかである。
「裏道、行きましょうよ」と皆をうながして足を踏み入れた狭い道は、たまたまポッサム横町だった。すれ違う互いの袖が振り合うような狭い路地では、店の外にしつらえたコンロで豚の巨大な三枚肉がグツグツと茹でられている。「ホントはこういうところで飲み食いしてぇんだよな」とは思うが団体では無理だ。
同窓会が決まって「ぐるなび」にクーポンを出しているような居酒屋で開かれてしまうように、東京MGの交流会が決まって大井町の「和民」で持たれてしまうように、集団は様々な制約により面白い店には入れない。この制約の解決はエリヤフ・ゴールドラットをしても無理だろう。「団体でも細分化をすれば、地域密着の渋い店に行けますよ」と言われても、そもそも細分化をしたら団体の意味がなくなってしまうのだ。
そのポッサム横町を抜けると目の前に突然、ポジャンマチャの並ぶ通りが現れた。よってその中のひとつ、これは店主のオバチャンの手招きに応じたわけだが、そこで二次会を行う。それにしても、ソウルのオバチャンのうちのかなりの数がつやつやの皮膚を持つのは、ハンジュンマクのデトックス効果によるものなのだろうか、あるいは韓国コスメティックの魔法的威力によるものなのだろうか。
ホテルへは地下鉄で戻った。そしてユザワクニヒロ幹事とカミムラヒロシさんの部屋に集まっての三次会ではいくらも飲まないうちに眠ってしまい「ウワサワさん、寝ていいですよ」の声にフラフラと立ち上がって部屋に戻る。そして入浴の後、多分23時30分ころに就寝をする。
日光MGの打ち上げ後に後泊をされたビトータダユキさんが、朝は宿泊場所まで迎えに行くから電話をして欲しいと言ったにもかかわらず、大きな荷物を持って事務室に現れる。
ビトーさんは先ず、ウチの蔵のもっとも奥のところから店舗2階の商品包装場までを見学された。事務室に戻っては、きのう西先生から検証しておいて欲しいと頼まれた件につき、今回の日光MGにおける僕の、第3期以降の決算書のある部分にある定数を入れるとどうなるかを検算し、facebookの当該の場所に何やら書き込みをされた。
「ウワサワさん、湯元の先のキリコミカリコミねぇ、あそこ、私にも歩けるかしら」
「あ、でしたら僕、今度、実際に行って見てきます」
と、そういう種類の検証作業であれば僕も先生に頼まれたことはあるが、学術的なこととなると、これはからっきしである。
東武日光線下今市駅11:35発の上り特急スペーシアにて、ビトーさんは帰路に就かれた。
"BUGATTI 35T"の、30年ほども前に設置されたかかと支えが僕の足癖に合わない件につき、解決策を講じたので見に来て欲しいと、"EB-ENGINEERING"のタシロジュンイチさんから午後に電話が入る。
新しいかかと支えは折り曲げたプレートに過ぎず、ごく単純に見えるが、足形を模したこれまでのものにくらべると、諸処の条件に対しての順応性は高い。スカットルの奥に延ばした足でちょうど良い位置を探り、そこでリベット留めするようタシロさんには注文をする。
夜に入ってようやく、明日のソウル行きに備えて持ち物の準備を始める。
目を覚まして枕の下から携帯電話を取り出す。時刻はもうすこしで6時になるところだった。今朝のことを予想してきのうから枕頭に用意したザックを丸ごと持ち、浴場へ行く。いまだ晴れとも曇りとも知れない空を見上げつつ露天風呂に入る。そこに販売係のハセガワタツヤ君が入って来る。就寝したのは今朝の4時だという。
日光MGの会場「日光ろまんちっく村ヴィラデアグリ」の館内はいまだ暗く、部屋にはいまだ寝ている人たちがいる。よって浴場の脱衣所にコンピュータを開き、きのうから今朝にかけて注文をくださった方々に、商品の納期などをお知らせするメイルをお送りする。
きのうの夜から考えあぐねていたのは今朝から始まる第4期A卓のことだ。そのメンバーは分かっている。心配なのは各々の陣容の似ているところで、6名が叩き合いになったら辛い。考えあぐねていたくらいだから経営計画についても、こと数字については調えたが戦術が決まらない。更に僕の現金残高は低く、借り入れ可能枠はゼロだ。そして9時30分、遂にその第4期が始まる。
いざゲームが始まってみれば、同じような陣容を持ちながら、しかし各メンバーの考えはそれぞれかなり異なるものだった。同じ市場の中でも競合各社が棲み分けできれば小競り合いや価格競争は発生しづらい。そして結局のところ僕はこの第4期において損益分岐点比率60パーセント、経常利益260円の好成績を記録した。
そして第4期の売上高トップにして神戸から参加のハルタオサムさんが、第5期の閉鎖市場と固定費の倍率を決めるためのサイコロを振る。ハルタさんは第4期末において既に自己資本600を達成し、早くも分社、である。
第5期もA卓に居残った僕は、286円と、いきなり増えた借り入れ可能枠に戸惑った。MGにおいて商売っ気のある人は得てして限度枠上限の借り入れをする。しかし僕は来期においては、それほどの資金は必要としていない。競合各社に声をかけるとオカモトゴースケさんが手を挙げる。よってオカモトさんには金利20パーセントで100円を貸し、残りの186円は僕が10パーセントの金利で借りる。
戦い済んで日が暮れて、否、日はいまだ暮れてはいないが、僕は第5期においては378円という、これは多分、僕がMGを始めてからの最高額と思われる経常利益を上げ、自己資本を571に伸ばした。それでも上には上がいる。
研修としての効果を目的としているマネジメントゲームに敗者はいない。しかしゲームである以上、表彰のあった方が面白く、またそれが励みになることもあるだろう。というわけで2日間の激戦を制し、且つ来期への備えなど、種々の条件を満たした上で高い自己資本を達成した人には表彰状が手渡される。
今回の参加者中最高の自己資本を達成した最優秀経営者賞は、神戸市のハルタオサムさんが自己資本736で、また優秀経営者賞は、おなじく神戸市のビトータダユキさんが同637で、また東京都のカワナベキミヒトさんが同629で、これを得た。社員からはヤマダカオリさんの名が決算速度第4位として上がった。みな大したものである。あるいはゲームの苦手な人、計算の苦手な人であっても、この場に来たというだけで大したものである。
原稿用紙2枚ほどの感想文を書きながら、締めの挨拶をする。その内容はいつも、先生と外部から参加の方々に対する御礼である。そして「第23回日光MG」は無事に完了した。
JR宇都宮駅から関西方面を目指す方々は、会場からタクシーに乗り合って去った。僕は西先生はじめ東武日光線でお帰りになる方々、また地元から参加の方々と会社ちかくのファミリーレストランで軽く打ち上げをし、振り返ってみれば短かった2日間を完了する。