夜中というか未明の雷雨は凄かった。窓にはシェイドが降ろしてある。当方は眠っているからまぶたは閉じている。にも拘わらず、眼球が電光を感じるのだ。やがて二度寝に誘い込まれ、再び目を覚ますと外は静かになっていた。
4時すぎに起きて服を着て食堂へ行く。南の空には、その低いところに雲が浮かんでいた。今日の天気は、あるいは台風一過に似た快晴になるかも知れない。
昼を前にして、白いシャツに炭灰色のネクタイを締め、黒いスーツを着て如来寺におもむく。今月12日の法事のときには呼べなかった親類を、今日は招待していたのだ。そして挨拶をしてから墓前に香華を供える。
空は青く晴れ上がり、気温は30度にちかい。空気が乾いているため、日陰ではむしろ暑さが心地よい。駐車場に戻ったところでふたたび挨拶をし、あとの食事会は叔母に任せて帰社する。
今月のはじめまではヒートテックのシャツを着ていた。早朝に起きれば暖房のスイッチを入れることさえした。それが数日前からは列島のあちらこちらで夏日が頻出している。夜は寝室に冷房を入れ、部屋の空気を冷ましてから寝る。
きのう「EBエンヂニアリング」のタシロジュンイチさんからもらったアサガオが、早くも花を開いた。蔓の勢いは随分と良く、既にしてちかくの雨樋に強く巻き付いている。アサガオは夏の花と思われがちだが意外や長く咲く。このアサガオも上手くすれば、秋の中ごろまでは保つだろう。
社員が開店の準備に余念の無いころ、僕は社員用トイレの手洗い場に液体石鹸を補充していた。そしてふと気づいてその場から離れ、壁に時計のあるところまで歩くと時刻は7時50分になっていた。急ぎ足で店まで来ると、こちらは電波時計だから先の時計よりは正確だろう、針は7時52分を指している。
既にして用意してあった信玄袋にサイフはあっても"PASMO"は無い。事務机まで走って引き出しからそれを取り出し、靴下を履いているヒマは無いからサンダルをつっかける。
そして自転車で駅ちかくの駐輪場まで走り、更に小走りで下今市駅を目指す。上りのプラットフォームに電車は見えない。ここで安心して走ることを止める。そうして改札口に近づくと、07:57発の上りはやはりプラットフォームに停まっていた。頭上の時計は7時57分を過ぎかかっている。
"PASMO"を改札の機械に押しつけ、階段を駆け上がる。跨線橋を走り、プラットフォームへの階段を駆け下りる途中で発車の気配を感じ「すいません、乗ります」と大声を発する。
僕に気づいた駅員は出発を数秒だけ遅らせてくれた。列車に乗り込んだ僕の背後でドアが閉まる。僕の心臓は強く鼓動を打っている。そして電車に乗るときには、あと30秒ほどは早く駅に着いていなければいけないと、反省を新たにする。
来週の水曜日からごく短い日程でインドネシアへ行く。目的は本を読むことと散歩をすることとメシを食べること。流儀は"Back to the backpacker"だ。
旅行の持ち物は、現在は103点をコンピュータに記録してある。それをA4の紙3枚に印刷すれば、準備すべきものは一目瞭然だ。旅行用の服は、押し入れのプラスティックの箱に、そのほとんどがまとめてある。これらの段取りにより、僕の旅の荷物は、通常は小一時間ほどですべて揃う。
しかし今回は"Back to the backpacker"である。キャスター付きのスーツケースにより植え付けられた、余計なものを持つ悪癖を一気に絶つ必要がある。
先ずは薬の数を減らし、種類別に小さな袋に小分けしてジップロックの袋にまとめた。着替えはTシャツと下着を各2枚とした。海で使うゴム草履は持参したくないので、出発時からサンダルを履く。地図は必要な部分のみ本から剥がした。歯ブラシの柄を短く切り落とすまではしない。
そうして出そろったあれこれをテーブルに並べ、いまいちど検分する。列車の荷物棚に寝転んで30数時間を移動するような旅は、最早できない人間に僕は成り下がっている。"Back to the backpacker"などと気取ってみても、実際は楽な旅行になるだろう。
夜は21時台に寝てしまうのだから、朝は3時台に目を覚ましても不思議ではない。夏至を3週間後に控えた空を眺めつつ、棚から数冊の本を選ぶ。それを食堂の机に運び、あるいはコンピュータを開いて、あれやこれやする。
「googleインドアビュー」を申し込んだのはいつごろのことだっただろう。そしてその撮影は本日の7時から行われることになっている。すこし前に予定されていた撮影日が、悪天により今日に順延されたのだ。
いつもより1時間ほども早くに朝食を摂り、6時30分に事務室のシャッターを上げる。そしてドアを開けるとちょうど、きのうから日光に泊まり込んでいたカメラマンが、スーツケースを引いてウチの駐車場に入ってくるところだった。
店舗の内側を360度に亘って映像で記録し、それをウェブ上に載せる「googleインドアビュー」は、大勢のお客様を写し込んで、店の賑わいを主張する手もある。しかしお客様にご迷惑をおかけすることになってもいけないため、またお客様のお顔に「ボカシ」をお入れすることも僕の好みには合わないため、その撮影を開店前に設定した経緯があった。
僕は仕事においては本職を尊重する。仕事の邪魔になることを避け、カメラマンからは遠く離れて、機材について質問することもしなかった。そして撮影は90分ほどで完了した。
画像がウェブ上に反映されるまでには1週間や2週間は要するだろうと考えていたところ「アップされました」とのメールが、早くも15時12分にカメラマンから届いた。そこに添えられたURLをクリックすると、いや素晴らしい素晴らしい、言うことなしのできばえである。そして早速、それへのリンクをウェブショップのトップに埋め込む。
夜はウチの仏間兼応接間にて、日本酒に特化した飲み会「第252回本酒会」を開催する。
本日の「日本経済新聞」朝刊第6面に「スタバ集客へ『酒場』に変身」という記事があった。ファストフード店と高級店による挟み撃ちに危機感を募らせる「スターバックスコーヒー」は、現在はアメリカの26店舗に限っているが、アルコール飲料を提供しているのだという。
「酒場に変身」の動きが日本に波及すれば、現在の生ビール4ドル、シャルドネによるワイン10ドルの価格は各々いくらになるだろう。小ジョッキよりも小さな器の生ビールに日本人が抵抗なく出せる金額は380円だろうか。いくら冷えて美味そうであっても、白ワイン1杯に1,000円は高い気がする。
しかしまぁ、兜町あたりの「スターバックスコーヒー」であれば、この値段でも充分にやっていけるかも知れない。オヤヂ飲み屋の綺羅星のように輝く千住界隈では、ちと難しいだろう。
業界の総会に出席をするため、午前の中ごろにホンダフィットを操縦して宇都宮へ行く。そして午後一番には早くも来た道を戻る。今日は往復とも、クルマの中ではボブ・ディランを聴いていた。僕は「ツー」ではないから、彼の歌は圧倒的に「エレキ後」の方が好きだ。
それはさておきボブ・ディランを聴いていると、クルマの速度がどんどん落ちていく。それも、ほとんどのクルマが自分のクルマを追い抜いていくことによって初めて、そのことに気づくのだ。
一昨日の土曜日に引き続いて、根を詰めた仕事を会社ではなく、自宅の食堂、そして仏間兼応接間で行う。会社から離れるのは、電話や来客により作業を途切れさせたくないためであり、場所を点々とするのは、作業の単調さを紛らわすためである。
昨秋は3日かかったその仕事を、今初夏は2日で完了することができた。そういえば今月16日に、精密さを要するためやはり自宅で行った仕事も、前のときにくらべれば驚くほど短い時間で、その内容を社員に渡すことができた。
根を詰めたからといって利益に結びつくかどうかについては不確定な仕事の結果を夕刻に取引先へ向けて宅急便で送り出すと「何だか疲れた」という感じになった。
そうして夜は和風のあれこれを肴に焼酎のお湯割りを飲み、早々に寝る。
と、ここまで書いて、きのうの日記の文字数を数えると、全角に換算して398文字。今日のそれは同じく322文字だった。「テレビやウェブ上の動画に慣れた身には、映画は長すぎて飽きる」という人もいる今においては、日記はこれくらい短い方が読みやすいかも知れない。
朝一番で、自分の持つ複数のメールアドレスを、メーラーで自動巡回する。普段はコンピュータ任せであらぬ方を眺めていたのかも知れない、今朝に限ってディスプレイを見ていると、僕が設定した条件に従って、スパムメールが次々とゴミ箱に振り分けられていく。
今回は1通だけ、その網をすり抜けたスパムメールが受信箱に残った。メールアドレスの後ろ半分は@yahoo.com.hkである。そういうことであれば、細かいことは面倒くさい、@yahoo.comの付くメールアドレスすべてをゴミ箱に振り分けてしまおうと考えて「待てよ」と手を止めた。
そして@yahoo.comで検索すると、果たして同級生1名とお客様1名に、そのドメインを使っている例が見つかった。すべてのスパムメールを自動的にゴミ箱に捨てようとすることは、やはり止めた方が良さそうだ。
一方では立派なac.jpドメインが、常にゴミ箱に振り分けられる例が発生している。何とも解析不能の現象である。
事務机の天板は何でできているのか。大昔のそれは金属に特殊な塗装を施したようなものだったが、以降のそれは、何か樹脂のようなものでできている気がする。
きのうまで使っていた事務机は、十数年前に買ったものだ。使い始めて間もなく、この右の方に置いた大型の電卓が水平に安定しなくなった。机が平らでないわけはない。電卓の底の4つの足が、精密さを欠いて取り付けられているに違いないと、僕は決めつけた。
何年かするうち、その事務机の、樹脂で作られているとおぼしき天板に、左から右に大きく亀裂が入った。そこではじめて、電卓の安定しないのは電卓のせいではなく、机の上面のゆがみが原因と気づいた。
亀裂はますます大きくなり、ここ数ヶ月は、電卓だけでなくコンピュータも、キーボードを打つたび揺れるようになった。ここまでになれば、もう我慢はできない。仕方なく同じ型番の事務机を注文した。
新旧の机を入れ替えるには、引き出しの中身も入れ替えなければならない。そこで先ずは、大きな紙の袋を用意し、机から引き抜いた引き出しを、その袋の上で逆さにした。そうしてすべての中身を取りあえずはひとつの袋に集めた。
今度はその袋のそばに大きなゴミ箱を持ってきて、不要のものを盛大に捨てることを始めた。不要のものとはたとえばデジタルカメラを買うたびに増えたストラップとか、受け取ってはみたけれど、コンピュータにデータベース化するまでもないように思われた名刺とか、講演会に出席した際に受付でもらったシャープペンシルとか、まぁ、そんなものだ。
"SOUTH TOWER"と表記のあるプラスティック製のカードは、2003年11月に滞在した"Mandarin Orchard"のカードキーだ。「シンガポールMG」の個人的な記念品だが、こういうものを後生大事に取り置くから引き出しの中が乱雑になるのだ。
そして不要品の処分は20分で完了した。明窓浄机復活、である。
春日町1丁目の青年会が町内の廃品を回収し、それをお金に換えて育成会の資金に充てていたのは、いつくらいまでのことだっただろう。その活動をしていたある日、辻ごとに出された新聞紙や段ボール、空き瓶や古書の間に
「クーデターの政治学・政治の天才の国タイ」 岡崎久彦、横田順子、藤井昭彦著 中公文庫
を見つけて即、僕はそれを拾い上げポケットに入れた。場所はトヨダ先生の家の前。時期は1990年代の中ごろだったと記憶する。
きのうタイでクーデターが起きた。2006年以来8年ぶりのことだ。プミポン国王が元気であれば、赤組と黄組による今日の混乱は、何年も前に収束していたはずだ。タイ国軍はよくも伝家の宝刀を抜かないまま、ここまで我慢したものだと思う。
タイに関係する諸兄は慌てず騒がず油断せず、この騒乱を乗り切って欲しい。タイのクーデターについては「まぁ、ヘーキだよ」と僕は言いたい。
丸干しの鰯を網焼きして頭からかぶりつき、入念に咀嚼をしながら、それが口にいまだ残るうちに追って、炊きたてのメシを口に加える。そして更に咀嚼したときの味は、丸干しの製造元が変わっても常に美味い。しかしこれが納豆飯となると、すこしばかり話は違ってくる。
阿片はその効き目が周囲の状況に強く左右される嗜好品である、というようなことをむかしどこかに開高健が書いていた。開口は阿片を、サイゴンのショロンあたりで試したのかも知れない。とにかく、そのときの体調や風の吹き具合によって、阿片の効き目は良くなったり、あるいはさほど面白くならなかったりするのだという。
納豆を混ぜたメシを食べながら僕は大抵、開口のこの話を思い出す。鰯の丸干しとメシの組み合わせとは異なり、納豆とメシの組み合わせは多くの場合、僕には美味くないのだ。
納豆とメシを混ぜて美味かった最近の例は、今月12日のそれだ。朝のお膳にたまたまあった、蕪の葉と油揚げの炒め煮をそのときは納豆に加えた。しかし蕪の葉と油揚げの炒め煮があれば美味い、無ければ不味い、というわけでもない。
納豆の具合とメシ具合が、どのような塩梅かは知らないが、絶妙に組み合わさったときにのみ納豆飯は美味い。納豆飯がたまにしか美味くないとは、中々に難しい問題である。
火曜日は何とか避けられても水曜日は確実に雨、そういう予報が月曜日から出ていたにもかかわらず、家を出るときに雨が降っていなければ、傘を持とうという気にはなかなかならない。
外に雨の気配のあることは、夜中のうちに気づいていた。明け方に至って今日の空模様をiPhoneで調べると、雨はときおり強い風を伴って夕刻まで続くという。
雨が降るたび買うからどうしても本数の増える透明傘のうちの1本を差して本郷通りを歩く。本郷三丁目から乗った大江戸線を飯田橋で降りる。軽子坂から神楽坂へは意図して路地を辿る。遠回りになることを知りつつ丘を上り下りする。そして徐々に市ヶ谷へと近づいていく。
外濠の向こうの桜は雨に濡れて、葉は青々と、幹は黒々と続いている。そしてその桜の並木を覆い隠すようにして、僕などは名を知るよしもない雑草が、まるで熱帯植物のように高く広く密に育ちつつある。
夕刻に用事を終えビルの外に出ると、雲が速く流れている。風は傘を裏返すほどに強い。空は昼日中のそれよりも明るく、雨の勢いは弱まりつつある。
本屋に入り、コーヒーを飲もうとして、しかし飲まない。雨はようやく上がった。そして湯島に至って若干のカウンター活動をする。
公共の交通機関に乗ることが好きだ。飛行機から渡し船まで、その種類は問わない。知らない人の運転に身を任せ、おなじ乗り物に乗り合わせただけという、しごく淡い関係の他人と口をきくでもなく、ただひとつの容れ物に収まって移動をすることが好きだ。
夕刻に恵比寿の「ガーデンプレイス前」から、渋谷区の運営する「ハチ公バス」に"Vector H"のヒラダテマサヤさんと乗り込む。ヒラダテさんもどうやら、公共の交通機関に乗ることが嫌いではないらしい。
バスは恵比寿の高台から駅前に下り、そこから代官山を目指してふたたび上っていく。場所柄、窓の外には洒落た店や広い敷地を持つ個人宅の緑が続く。そして「こういう道は、自転車で走ってみてぇよな」と、公共の交通機関を利用することが好きと言った舌の根も乾かないうちに、辻褄の合わないことを考えたりする。
恵比寿から表参道までは、山手線と銀座線を使えば僅々8分の距離だ。それを、「渋谷区役所前」での10分間の停車を経たり、何十分も前に通り過ぎた南平台に近づいたり、あるいは8の字を描くように迂回しながら70分をかけて、むかしは都バスの広大な車庫のあったあたり、停留所名では「渋谷二丁目」で降車する。
高木町にほど近い"LAUBURU"は大好きなフランス料理屋だ。ここでヒラダテさんと、豚の足だの内臓を肴にかなりの量の白ワインをこなす。
「正月は何故めでたいか」ということについて、むかし高橋義孝が元旦の新聞に、非常に優れた文章を残したことがある。老独文学者は新聞社の依頼によりそれを書いたわけではない。それはウィスキーの宣伝に添えられたものだった。
山手線の内側には当時でも片手で数えられるほどしか残存しなかった作り味噌屋で修業をしていたあるとき、世田谷の親戚、いやそのときにはいまだ親戚にはなっていなかった、とにかく晩飯に呼ばれた。11月のことだ。「こんな時季はずれな」と考えつつ半袖のシャツを着て行ったから季節についてはよく覚えている。
そのとき食卓の議論として上がったひとつが「クリスマスは何故めでたいか」というものだった。当夜の客には幸いなことにキリスト教の原理主義者はいなかったから「クリスマスはクリスマスであるが故にめでたい」というような紋切り型の意見は出なかった。
「キリストがいつ産まれたかなんてことは知らない。ただしクリスマスは冬至に重なる。長く暗い冬がこの日を以てひと区切りを付け、いよいよ明るい季節の到来ともなれば、そりゃぁ、ヨーロッパの人たちはお祝いのひとつもしたくなったろうよ」というのが百出したうちの、僕のもっとも納得できた見解だった。
午前の中ごろ店の駐車場に出てみれば、その片隅にあるモミジの葉はいつの間にか濃く繁り、半袖シャツの二の腕を、暖かいというよりはいささか熱気を帯びた風が撫でていく。そして「先々月くらいまではダウンパーカだったもんなぁ」と、ほんのすこし前のことを思い出しながら、しかし過ぎた冬ではなく、むしろこれから来る夏のことを想い心を踊らせる。
よほどのことがないかぎり目覚ましは設定しない。いまだあたりが闇に閉じ込められているころ、あるいは夜から朝に移りつつあるときの空の色が部屋に青く浸透し始めるころ、はたまた昇りつつある朝日がカーテンを薄桃色に染めるころに、大抵は目を覚ます。
きのうの就寝は僕としては遅く、0時がちかかった。ふと気づいて枕頭のiPhoneを確かめると、いつの間にか3時30分になっている。3時間30分の睡眠時間はいかにも短すぎるが、そのまま起床する。
仏壇に水とお茶と花と線香を上げる。「とにかくダシさえ引いておけば後が楽だ」と、深めのボウルに昆布の切れ端やダシのパックを沈める。知りたいことについて書いてありそうな本を棚に探し、それを食堂に持ち込んで開く。そうしながらお茶を飲む。持ち時間は充分である。やがて朝日が昇る。
成田からジャカルタまでは、直行便でも7時間35分の行程だという。いくら活字を追う速度の低い僕でも、文庫本の1冊くらいは往路を飛ぶあいだに読めてしまうだろう。ということは、現地で読む本も別に必要になる。そう考えて注文した、代金1円送料257円の本2冊が"amazon"より届く。
着慣れたTシャツと木綿のセーターに活字さえあれば、たとえエコノミー席の奥に押し込められたとしても「心は王侯の栄華にまさるたのしさ」である。
「キーホルダー」という語句をこの日記に検索すると、2009年4月2日のそれに「12年ぶりにキーホルダーを換えた」という一節が見つかった。
12年のあいだ使い続けたのは、1997年に「セゾン美術館」で開かれた"GILBERT and GEORGE"展で買ったものだ。まだまだ使えるこれを替える気になったのは、剥き出しの鍵がザックの中で他のものを傷付けたからだ。鍵というものはその性格上、非常に強い金属で作られているらしい。
12年ぶりに買ったキーホルダーは"ABITAX"の、分厚いフェルトの中に鍵を格納する式のものだ。一度つかうと他には目の向かなくなる優れた品である。
これが5年を経て、いつ壊れてもおかしくない状態になってきた。よって数ヶ月前に"amazon"で見つけ「ほしい物リスト」に入れておいた同じ品を満を持して注文すると、それは直ぐに届いた。5年前には日本橋の「丸善」で2,835円だった品が、今回は送料無料の2,333円だった。
予備が手に入れば後顧の憂いは無い。現在のボロボロのキーホルダーは、取りあえずは壊れるまで使おうと思う。
日の昇り始めるころには、つい東の空ばかりを眺めてしまう。そして今朝もそうしながら、しかし「こんなとき、西の空はどうなっているんだろう」と、ふと気になって、南東角にある台所から、北西に面した洗面所まで移動をする。
人や物が、おっとりと、涼やかに、やわらかくある様をあらわす形容詞には、どのようなものがあるのか、それを知らないから書きようがないけれど、初夏から盛夏にかけての良く晴れた朝の山は、いつも、おっとりと、涼やかに、やわらかくある。
夏のギフトシーズンを前に、お得様に案内をお送りする、その送り先をデータベースから選び出す作業を午前に行う。この仕事には精密さが要求される。よって電話や来客のある場所ではできない。そして長い間してきたこの仕事の本日の能率は、なかなか高かった。
家内と長男が研修で留守にしているため、18時30分より夕食の準備に取りかかる。今夜のオフクロは多分、さっぱりしたものが食べたいだろう。そして僕はワインが飲みたい。そういう次第にて和と洋の、とはいえ簡単なおかずを整える。
「日本経済新聞は、第40面の文化面がいちばん面白い」と言ったら、第1面に記事の載るような記者は苦笑いをするだろうか、あるいはそっぽを向いて舌打ちをするだろうか。しかしこの面を欠けば、日経の販売部数は目に見えて落ちるはずだ。
日経の文化面は、昼飯を食べながら読むのにちょうど良い内容と文字の量を持つ。「私の履歴書」は経験と叡智の結晶だ。「こんな人、どうやって探してくるんだろう」と不思議に思われる遺賢や変人が入れ替わり立ち替わり登場する「文化」は、自分の知らない世界を垣間見せてくれる。
「交友抄」は「これからも年に1度くらいは、杯を交わしつつ昔日の思い出にひたりたい」というような、過去に回帰しようとするものは、どうも僕にはいただけない。それを語るのが功成り名を遂げた人であっても、未来を目指す姿を認めたいのだ。
その「交友抄」の本日分は「NTTデータ取締役相談役」が肩書きの山下徹という人によるものだった。経済人がカトリックの尼さんから教えられた「お祈り」を長年に亘って大切にしてきたという、日経新聞のこの場所には珍しい話が僕の心に響くのは、僕が普通の人よりもいくらか多く、小さなころからキリスト教も含めて宗教に触れてきたためだろう。
僕の記憶にある尼さんたちは、今も元気にしているだろうか。「ワインを飲むなら尼さんと」と考えながら、いまだ果たせてはいない。
用賀の駅から世田谷美術館までは、歩ける距離ではない。地図を調べると、環状8号線に最もちかいのは南口だった。その記憶も新しいまま改札口を抜けると、しかし駅構内の案内板には東口に「タクシー乗り場」の表記があった。
流しならともかく、タクシー乗り場に縦列駐車しながら客を待つタクシーに、ワンメーターの行き先を告げることは、僕にとっては少しく心理的な負担を伴う行いである。しかしまぁ、仕方が無い。
「サイゴン」と書こうとすると、ワードプロセッサには「現在はホーチミン」と注意をされるがとにかく、サイゴンの戦争博物館でラリー・バロウズの肖像写真を目にするなり「これはかっこいいオッサンだ」と、胆を惹きつけられた。桑原甲子雄は、僕にとっては、そのラリー・バロウズと同じほどの、写真におけるアイドルである。
いま世田谷美術館で開かれている展覧会「桑原甲子雄の写真」は、写真集を観るだけでは知れないことに満ちている。
美術館に2時間もいて「さぁ、タクシー」だと、美術館通から環状8号線へと、左側の歩道を、ときおり後ろを振り返りつつ、強い日差しの下を歩く。しかしいつになってもタクシーは来ない。轟音と共に走り去るのはトラックと乗用車のみだ。そして遂には用賀駅までの1.9キロを歩き通してしまった。
本日は早めの行動を心がけたため、写真展を丁寧に観ても、タクシーが来なくても、取引先との待ち合わせには余裕を以て臨むことができた。そして若干のカンター活動を経て家に帰る。
定期検診のため、1ヶ月半に1度ほどの頻度にて、オフクロを獨協医科大学日光医療センターに連れて行く。診察は午前の遅い時間に行われることが多い。よって昼食は、その帰りがけに摂ることになる。
診察を終え、駐車場の出口でホンダフィットの助手席に収まるなり「どこだっけ、あそこ、イタリア料理の美味しいお店」と、オフクロが口を開く。獨協大学の病院は鬼怒川温泉の至近にある。そのあたりで「イタリア料理の美味しいお店」と言われれば、目指すところはひとつしか無い。
僕もオフクロ同様、その店の名はど忘れしている。しかし場所は知っている。
大きな温泉旅館の林立する鬼怒川にあって、広葉樹の緑のいまだ濃い一角へ向けてハンドルを切る。そうして見覚えのある山小屋風の建物を探しながら「そうだ、思い出した、カミーノだ」と口を開くと「そうだ、カミーノだ」と、オフクロも同意をする。そして「あそこに行くと、元気の出るスープを出してくれるんだよ」と続けたから、いつものことながら「参ったな」と感じた。
時刻は11時42分。これから昼の繁忙が始まろうとしている飲食店で、メニュにあるかどうかも知れない品物を注文しては店側に迷惑をかける。そう考えつつ到着した駐車場にクルマを停め、6、7段の階段を昇っていく。
10数年も無沙汰をしていたオフクロを、しかし「カミーノ」のあるじ夫妻はとても歓待してくれた。「元気の出るスープ」もできるという。
サラダとカルパッチョに続いて席に運ばれた、パンとポーチトエッグの浮き沈みしているスープをひとさじ口に運べば、それは辛く、酸っぱく、そしてもちろん熱く、とても美味かった。そして僕はチェンライのシリコーン市場にあるガイヤーン屋で飲んだトムセーップを思い出した。あれもまた辛く、酸っぱく、熱く、そして美味いスープだった。
にんにくの香る熱いスープはいかにも、次男ごのみのものでもある。次男が夏休みに帰省したら是非またこのスープを、そのときには家族全員で味わいたい。
おととし102歳で亡くなったおばあちゃんの三回忌について、相談のメールを如来寺のクワカドシューコーさんに送ったのは3月24日のことだった。
クワカドさんからは追って、今年は僕の妹の四十三回忌、おじいちゃんの三十三回忌にも当たることから、この3人の回忌をおじいちゃんの立ち日である5月12日に行ってはどうかと返事があった。そこまで調べていただいたことを有り難く感じ、僕は即、その提案に了承をした。
本日のクワカドさんの袈裟には、格子のあいだにいくつもの山が描かれていた。その山の暖かく、また涼やかな様子を見て僕は、きのうの日光の山々を思い出した。クワカドさんとは今月の末にも会う。そのときにはこの袈裟について、すこし詳しく聴いてみたいものだと思う。しかしまぁ、いずれ忘れてしまうに違いない。
午後は県央にある畑に長男と出かけ、らっきょうの育ち具合を確かめる。本日以降に天候の極端な崩れなどなければ、例年どおり6月中には丸々と太った、たまり漬用のらっきょうが収穫できるだろう。
視察をする場所は一個所に留まらない。そして19時30分を過ぎて帰宅をする。
このところは穏やかに晴れる日が続いている。南西の窓から真正面に見える、金比羅山から鶏鳴山に至る里山には新緑が目立ってきた。
責任役員として山見に参加をするため、9時15分に総鎮守瀧尾神社へ行く。宮司、役員、当番町の面々、そして次期当番町の自治会長と神社総代を乗せたマイクロバスは、9時30分に神社の境内を出発した。
瀧尾神社は日光市の小来川と和泉にそれぞれ山林を所有している。その山林の視察を山見という。山見では毎年、小来川と和泉を交互に訪れる。そして今年は和泉の番だ。
梅林のあいだの草の道の、行けるところまで進んでバスが停まる。そこから先は、森林整備のために設けられたとおぼしき林道を徒歩で進む。雷電神社の参道を往けば足元は楽ではあるけれど、社有林からは外れる。
そういう次第にて下草を踏み、人の足音に驚き逃げるヤマカガシに出くわしたりしながら木漏れ日の中を進む。齢70を越えた人にはすこしくきつかろうと思われる、しかし登山用語を持ち出せば、ピエアンカナールで直登できるほどの斜面を登り詰めれば雷電神社は目と鼻の先に迫っている。
2月の大雪の跡を残す雷電神社にお参りをし、しばしの休憩を取る。そして今度こそ森の裾に向いて伸びる参道を下り、水菜やワラビの群生した林道を抜けつつバスまで戻る。
当番町によって用意された直会の後には二次会も控えていた。しかしそれには遠慮をして会社に戻る。汗に濡れてはいなかったがシャワーを浴び着替えをして店に出る。日光は初夏とも思われる暖かさと乾いた空気に恵まれ、とても気持ちの良い日曜日になった。
仕事を終え自宅に戻って北西の窓を開けると、おっとりとして丸みのある山の夕景もまた、夏を感じさせるものだった。梅雨を経ることなくこのまま盛夏になってくれたらどれほど気持ちが良かろうかと思うけれども、まぁ、そういうことを考えてはいけないのだ、多分。
実に、午前3時台から陽の光を感じる季節になった。東の空は紅く明けつつあり、しかし西の空はいまだ濃紺に静まりかえっている。その美しい景色を、深夜からいくらも経ずに観ることができる。とても嬉しい。
検索エンジンに当たれば、今年の夏至は6月の21日だという。夏至まで6週間も残しながらの、この朝の早さである。夏至の当日などは、一体全体、何時から明るくなり始めるのだろう。当日の朝には是非、晴れて欲しい。
facebookページに仕掛けをほどこすため、午後より文章を考え、画像を選ぶ。すこし根を詰めただけですぐに脳が休息を要求する。普段はそれほど脳を使っていない証拠である。いっとき自宅へ戻り、コーヒーと共に甘い物を口に入れる。
Yahoo!の検索エンジンに自社ページの登録申請を出すと、理由を報されないまま無視されること数年に及んだ記憶がある。堅気の会社が登録を撥ねられながら、しかし怪しげな業者のページはサングラスのアイコンつまりクールマークを獲得している例が珍しくなく、首をかしげる機会が多々あった。
現在のfacebookページにも、法則に従いながらその通りにならないことが度々ある。そのあたりの疑問に一発回答してくれるセミナーがあれば、直ぐにでも駆けつけたい気分だ。取りあえずはできることからこつこつ積み上げていくことにしよう。
女の子供がふたり産まれるようなことがあれば、ひとりに目は「まりか」、ふたり目には「かさね」という名を付けようと考えたことがある。「まりか」は、山登りに特化した紀行文を片端から読むうち、ヒマラヤに「マリカ峰」という山のあることを知ったからだ。「かさね」は言うまでもなく「奥の細道」の中で詠まれた「かさねとは八重撫子の名なるべし」に拠る。
現在「下野新聞」では第19面で「奥の細道」を特集している。今朝はその記事の真ん中に「かさねとは八重撫子の名なるべし」の大きな文字が見えたため、思わず目を吸い寄せられて、これを読む。
芭蕉と曾良は元禄2(1689)年4月2日(陽暦5月20日)の午の刻(午前11時35分ころ)に日光を発ち、大谷川の左岸を東進しつつ未の上刻(午後0時55分頃~1時45分ころ)に激しい雷雨に見舞われたという。この悪天候がどれほどのあいだ続いたかは知らないが、師弟は同日のうちに玉生までたどり着いている。大した健脚と驚かざるを得ない。
芭蕉と曾良を325年前に襲ったと同じ雷雨の中を、しかし当方はハイブリッド車の運転席に収まり宇都宮へと向かう。大粒の雹まで伴う荒天は、しかし30分ほどで収まった。帰路は意図して高速道路には乗らず、新緑の間近い日光街道を使う。
朝の5時に日光の上空つまり北緯36度付近を真西へ向かう飛行機がある。どこへ行こうとしているのか。本州を縦断し、山東省から新疆ウイグル自治区を越え、ギリシャのロードス島あたりまで飛ぶのだろうか。まさかそれは無いだろう。
そんなことを考えながら、1970年代の中ごろ「カーグラフィック」に坂本正治が連載していた「北緯40度線探険隊」を思い出す。検索エンジンに当たると、坂本正治は2011年に亡くなっていた。
8時に農協の直売所へ行く。そうして「たまり浅漬け」用の胡瓜を買う前に、農家の人たちが手塩にかけた、売り台の上のあれこれを眺めていく。するとモリベセリナさんがコリアンダーを出していた。よってこれを個人用として買う。
初めてタイに行った1980年にはパクチーが苦手だった。僕はこと食べ物については負けず嫌いなところがある。日本に帰ってからは台湾料理屋などでこれを大量に食べることを繰り返し、自分で自分をパクチー好きに改造した。
もっとも日本で育つコリアンダーは、タイのパクチーに比べれば香りはとても薄い。野菜の香りの薄い点と、価格が高く感じられる点により、僕は日本ではタイ料理を食べたことがない。
モリベセリナさんのコリアンダーは、昼のうどんに混ぜ込んだ上で、夜も何かに盛ろうした。ところが夜のおかずは純日本風のものだった。残りのコリアンダーは明日に繰り越しである。
アメリカで工業用機械の見本市を見て回っている。その僕の目の前に、頼みつけの旅行社の女子社員が立っている。
日本にいるはずの人間が、なぜいきなりアメリカに現れたか。長袖の白いシャツの上には、紺に白く細い線の入ったベストを着ている。膝丈のスカートも共地である。そして「明日のティケットは手配済みです。1枚は成田ロサンゼルス便、もう1枚は羽田シドニー便です。ダブっていますが、どうなさいますか」と訊く。
僕は脳をめまぐるしく回転させ「どちらの航空券を捨てれば世間的により角を立てずに済だろう、いやしかし、それ以前に、そもそもその飛行機に乗るためには、明日までに日本に帰らなければならないわけだが…」と悩むうち目が覚める。部屋の白いカーテンが、明けつつある夜の青さに染まり始めている。
製造現場での早朝の仕事から上がって事務机に落ち着く。湯沸かしの設備はなく、またタバコも吸わないから、席に着いても一服をするわけではない。朝日のオレンジ色が、やがて事務室に差し込み始める。
むかしの勉強仲間チョーヤさんの髪型はバリカンによる坊主だった。寝癖のつき始めたときが床屋への行き時と、チョーヤさんは言っていた。僕の髪にもきのうから寝癖がつき始めた。よって朝の8時にカトー床屋へ行く。
9時50分に帰って小遣い帳を調べると、前回の散髪は4月5日のことだった。3月に散髪の出費が見あたらないのは、床屋へ行っていないからではなく、記帳を忘れたためと思われる。
この4連休の前半すなわち土曜日と日曜日は気温が高く、上半身は半袖のポロシャツ1枚だった。ところがきのうの月曜日からは季節が1、2ヶ月も戻ったような塩梅にて、押し入れの奥深くに仕舞おうかと考えていたヒートテックのシャツに、再び袖を通すことになった。そしてその寒さは今日も続いている。
いまだ小雨の上がらない7時30分に、事務室と店舗のシャッターを上げる。開店時間は8時15分だが、それ以前でも、お客様がいらっしゃれば即、ご対応をする。今朝もそのようなお客様にお声がけをしたところ「恐縮です」と店に入っていらっしゃった。恐縮をしていただく必要などまったく無いのだ。
ゴールデンウィークの帰省客や観光客は、そのほとんどが、きのうのうちに首都圏へと戻ってしまったとばかり考えていた。しかし案に相違して、今日も予想より多いお客様に恵まれた。僕は1日のかなりの時間を、外の「牛肉のたまり漬け炭火焼き」の炉のちかくで過ごした。寒さに対しては、Tシャツの内側にダウンベストを着た。
焼酎とコニャックを飲んだせいもあるやも知れないが、21時を回るとにわかに眠くなった。そして入浴をして即、バッタリと寝る。
普通の人は1日のうち、いつが、からだの最も疲れている時なのか。僕に限って言えば、朝、目を覚ましたときが一番、疲れている。「疲れたー」と大きな声を発しながら目覚めることもしばしばである。
今朝も同じようなもので、目は覚めているのに、疲れにより、時刻を確かめる気力が湧かない。そうしてようよう枕の下からiPhoneを取り出し、ホームボタンを押すと3時18分だった。ということは、目覚めは2時台だったに違いない。
ゴールデンウィークの天気については、ずっと好天が続くようなことが、先週の初めころまでは予報されていた。それが、週末が近づくに連れて徐々に悪くなっていき、今日の日光地方は12時から18時まで雨とのことだったが、開店からいくらも経たずに降り始めた。
首都圏から日光へ遊びに来ている観光客は、多く、明日まで滞在することなく今日のうちに帰宅するのではないか。朝から雨が降れば、あちらこちらに寄ることはせず、早々と上りの高速道路に乗ってしまうのではないか。そのような心配をしていたにもかかわらず、店舗の混み具合はこの3日間で一番のものになった。
通常の商品は、毎夕16時からの打ち合わせにより、十分な数を用意している。しかし予想の難しい「たまり浅漬け」だけは、今日もまた昼すぎに売り切れた。そして「牛肉のたまり漬け炭火焼き」も随分と忙しい。
ホテルマンからラーメン屋の店員まで、いろいろな職業に就いたヨシザキニャンニャンちゃんによれば、ラーメンのスープというものは、昼の繁忙を過ぎたころが最も良い状態にあるのだという。「牛肉のたまり漬け炭火焼き」も同じく、焼き上がりを待つ人のまったくいない時こそ最も良い状態で焼くことができる。なかなか上手くいかないものだ。
夜は「吉田類の酒場放浪記」の途中までを見届け、早々に寝る。
おとといまでは"UNIQLO"の長袖のヒートテックに木綿のTシャツを重ねていた。それが昨日からはTシャツを脱ぎヒートテックも脱ぎ、いきなり半袖のポロシャツ1枚に仕事着を替えた。気温が一気に上がったからだ。
今日も晴れて暖かい。その好天の下、朝8時に農協の直売所へ行く。そして地元の採れたて野菜を、その朝のうちに「日光味噌のたまり」で浅漬けする「たまり浅漬け」のための胡瓜を、きのうの3倍ほども買う。
4連休初日のきのうから、店の外では牛肉のたまり漬けを炭火で焼いている。「たまり」は日光産の大豆「タチナガハ」と日光産のお米「コシヒカリ」を用いた味噌「梅太郎白味噌」の表面に溜まった最上級のものである。
きのうは「胡瓜のたまり浅漬け」が予想外に早く売り切れた。これを目的にいらっしゃって、買うことのできなかったお客様がいらっしゃったことを販売係から聞いた。そして今日はきのうの3倍量をお作りしたにもかかわらず、またまた午後の早々に売り切れてしまった。
「牛肉のたまり漬け炭火焼き」は、長男による今早朝の仕込みが充分だったため、長男と、きのう学校の寮から帰宅した次男は、これを17時25分まで焼き続けることができた。
明日からの、ゴールデンウィークの後半も、好成績を上げたい。
日本経済新聞は、第1面をチラリと見たら、すぐに裏を返して第40面に目を通す。昼飯が外食になりそうなときには、そこは読まずに取っておく。昼飯を家で摂る確率の高い日は、朝のうちに読む。今朝はその文化面に、桑原甲子雄の展覧会の案内があった。
桑原甲子雄は、僕の中ではラリー・バロウズと並んでカッコ良い写真家だ。大規模な回顧展とあれば是非にも行きたい。
展覧会の開かれる世田谷美術館は最寄り駅が用賀で、僕の活動場所からは近くない。行くとなれば、いまだ小学生だった長男と魯山人展を観て以来だから、16、7年ぶりということになる。
「帽子屋のショーウィンドウ」は桑原の写真の中でも良く目にするうちの1枚だ。この写真には、どうにも腑に落ちないところがある。写真集ではなく美術館でそれを観れば、僕の疑問は払拭されるだろうか。
桑原のパリ滞在時の写真とは、ことによると荒木経惟の欧州旅行と時期の重なったときのものかも知れない。それに触れることも、また楽しみである。
消えて無くなる金には恬淡としているくせに、すり減った服などについては妙にこれを惜しむところがある。それに加えて継ぎを当てた服が好きだ。左右の膝にそれぞれ兎と亀の、アップリケと説明すれば聞こえは良いが、有り体に言えば継ぎの当たったズボンを穿いていたのは何歳ころのことだっただろう。
アイルランドの牧童が着るスモックの、肩の辺りがほつれてきた。10年以上も前のことだ。ホツレは糸でかがったくらいでは直ぐにまた元の木阿弥になりそうな具合だった。よってその部分に大きく継ぎ当てを施すことにした。そして「ついでだからヒジにも継ぎ当てしちゃえ」考えた。当て布は長男の履き古したジーンズだ。
それを街の修理屋「マジックミシン」に持ち込み、継ぎの当て方については、店長のオバサンに図で説明をした。数日後、オバサンは注文以上の仕事をして大いに僕を喜ばせた。
"UNIQLO"のズボンの裾がほつれてきた。このまま履き続ければホツレは更にひどくなる。見た目が悪い上にズボンの寿命も縮む。そこで、この裾の回りにグルリと布を巻くことを思いついた。スモックのときと同じく今回もデニムを使えば、そう簡単にはすり減らないだろう。
検索エンジンで探した店から赤いデニムを取り寄せた。それほど大きくない布ならメール便で送れる。費用は送料共で数百円だった。
そして裾がホツレ加減のズボン3本と赤いデニムの布を、今回もまた「マジックミシン」に持ち込んだ。オバサンが店にいる時間は、あらかじめ電話で確かめておいた。何ごとにも段取りが大切である。
預かり証に書かれた受け渡しの日時は本日の18時である。よって終業後にいそいそと「マジックミシン」の入っている「ジャスコ」に出かける。オバサンの仕事は今回も注文以上のものだった。普段使いのズボンについては、これから数年は買わずに済むだろう。とても嬉しい。
昼がちかくなると、きのうからの雨は上がり、するといきなり晴れ間が見えてきた。よって事務室を抜け出し、味噌蔵のある庭へ出かけてみる。
桃の花は終わっていた。それと入れ替わるようにして、藤の花が咲いている。
空間が少しでもあればやたらと家具を運び入れ、部屋を鍾乳洞のようにしてしまうオフクロが、その悪癖を庭に対しても発揮して、これまたやたらと植えてしまった桜のうちの1本が、淡い色の花弁を下へ向けて開いている。ホームセンターで苗を買ったときから付いていると思われる、雨風にさらされ白茶けた札には「松月桜」の文字が読めた。
下草の緑から浮き立つようにして、朱色や濃いピンクのツツジが、あちらこちらに見える。
この歳までツツジとサツキの違いを知らずに来てしまった。「今日こそは」と事務室に戻って検索エンジンに当たると、両者の特徴を説明したページが見つかった。サツキはツツジより花も葉も小さく、葉はかなりの光沢を持つという。
事務机から取り出した「ホトトギス季寄せ」には、春4月の季語であるツツジに対して、サツキは夏6月の季語とあった。「これでひとつ利口になった」と思うが、それを来年の春まで覚えていられるかどうかは疑問である。