目を覚まして唾を飲み込んでみると、ノドの痛みは劇的に改善されていた。しかし油断をしてはいけない、早々にベッドを抜け出し、洗面所へ行ってうがいをする。次男が通っている学校では、下級生のクラスに学級閉鎖があったという。1年のうちでもっとも気温の低い日々が始まろうとしている。
今月15日に検査のための採血をしたばかりだが、本日は会社の健康診断にて、またまた右の静脈から血を採られる。相手が歯医者であれば、口の中で道路工事まがいのことをされても僕は平気だが、血管への注射はどうにも不気味である。
下今市駅18:52発の上り特急スペーシアに乗る。北千住から千代田線に乗り、9時前に甘木庵に着く。夜間に東京へ着きながら外食も、まして飲酒も為さなず甘木庵で晩飯を食べるとは、学生以来およそ27年ぶりのことではないかと思われる。
ノドの痛みはきのうと変わらず、暗い中を洗面所へ立ってイソジンでうがいをする。
宰相の外遊に随行する医師の手記を読んだことがある。
宰相が訪問先で体調を崩せばすなわち「貴国のメシを食べて腹をこわしました」とか「貴国の兵隊を閲している最中に風邪を染されました」ということになり、しかしそのようなことはおくびにも出せない。よって体には悪くても即効性の高い、つまり強い薬を投与して乗り切ることが多いと、その文章にはあった。
きのうに続いて本日も行ったセキネ耳鼻科は僕の考えるところ、患者のからだに無理を与えるような治療はしない。そこで「ガツンと効く注射を打ってください」とセキネケイイチ医師に頼めば「ハハハ、そこまでの症状じゃないから」と一蹴され、喉に薬を塗られたのみにて帰社する。
断酒が3日続いたことはめでたいが、これは主に体調不良によるものである。晩飯を食べて即、就寝する。
目を覚ますとノドの痛みはきのうの比ではなかった。うがいのため洗面所へ立つ気もせず、数十分を布団の中で過ごす。
しばらく留守にしたから仕事の量は少なくなく、よってセキネ耳鼻科へ行けたのは昼前のことだった。鼻からカメラを入れたセキネケイイチ医師はディスプレイを指し示しながら「声帯まで真っ赤だ」と言う。「ビジネスホテルではたとえ風呂を使わなくても、そこに湯を満たして寝るべきだったわなぁ」と、自らの不覚を悔いる。
今夜は「本酒会」の2月例会がある。当日になってからの欠席には会費全額払いのペナルティを課せられるが仕方がない。本日と明日の断酒を決め、夕刻以降は静かにしている。
「クジラを食えば精がつくだろうか、いや、そんなこともねぇだろう」と考えながらクジラの付け焼きにてメシを食べ、早々に寝る。
朝、雪の道を海へ向かったり、あるいはとても古い木造建築を目指して散歩に出る会員もいるが、そして僕もそうしたいのは山々だが、きのうの日記の作成に手間取り7時になる。
8時30分に「天洋酒店」のアサノさんの出迎えを受け、アサノさん推薦の店を回る。「能代駅前市場」では鯨の肉やしょっつるを、「セキト」ではだまこ餅を社員の数だけ、「桔梗屋」では翁飴を、「鍋谷うどん店」では能代うどんを、「今井麹屋」では味噌となめ味噌を、「ひまわり洋菓子店」ではドーナツ各種を購入して10時に能代を去る。
11:00 秋田自動車道太平山PAにてウインドウウォッシャー液を補充
12:15 全長3776メートルの和賀仙人トンネルを通過
12:27 北上JKTから東北自動車道に入る
12:40 前沢PAで休憩
14:00 大和ICから一般道に降りて塩竃市内に入る
14:45 鮨屋「しらはた」にて昼食
16:00 「しらはた」脇の海産物仲卸市場にて買い物
16:40 仙台東ICから東北自動車道に乗る
17:40 福島飯坂ICから一般道に降りて福島市内に入る
19:00 モツ焼き屋「鳥政」にて夕食
19:50 福島西ICから東北自動車道に乗る
21:15 上河内SAにて休憩
22:00 帰宅
トラックに追い越されたときには巻き上げられた雪煙にて20メートル先も見えない秋田自動車道などを使いながらも無事に帰宅でき、運転係のオチアイマナブ会員には大いに感謝をする次第である。ホテルの乾燥した空気でノドを痛めたことについては、もうすこし自己管理をすべきだったと反省をしている。
きのうと同じく3時台に目を覚まし、きのうの日記を書いたり活字を読んだりする。
9時、「天洋酒店」のアサノサダヒロさんが運転するホンダオデッセイに乗り、先ず「喜久水酒造」を訪ねる。現在は麹作りを担当する跡継ぎのヒラサワキイチロウさんに迎えられ、アサノさんと共に蔵の中を案内していただく。
喜久水酒造が五能線の廃線トンネルを利用した地下貯蔵研究所に行くのも9年ぶりのことだ。我々はここから更に北上し、目と鼻の先は青森県という、秋田県山本郡八峰町を目指し、やがて「白瀑神社」に達する。
自社の銘柄をこの神社に求めた「山本合名」では、やはり跡継ぎのヤマモトヨシフミさんの案内を受け、主に麹や酵母についての説明を受ける。喜久水酒造のヒラサワさんも山本合名のヤマモトさんも、いわば酒造りのオタクである。オタクに敵う者はいない。
能代市へ戻る途中、車中より見た米代川は結氷していた。本日より移った宿「ホテル大原」の大風呂で体を温めて後、アサノさんの先導にて「酒どこべらぼう」の引き戸に手をかける。
2時間後、宴はいまだ最高潮を保っていたが、僕の今朝の起床時間は午前3時台である。ひとりいとまを告げ雪の道を辿って宿に帰る。
ふたたび大風呂に入り、10時に就寝する。
03:45 起床
07:15 本酒会員5名との計6名にて栃木県日光市をクルマで出発
08:55 安達太良SA着
11:25 前沢SA着
12:00 東北自動車道から秋田自動車道に入る
12:30 横手の"AUTOBACS"でウインドウウォッシャー液を補充
12:50 横手駅のキヨスクのオバサンに焼きそばの美味い店を訊く
13:00 昼食
14:25 大森PAにてヘッドランプとワイパーにこびりついた氷を落とす
15:15 北緯40度線を越え、左手に八郎潟が見えてくる
15:30 八郎湖SAにてタイヤとフェンダーの間にこびりついた氷を落とす
15:55 秋田産日本酒のメッカ「天洋酒店」着
日光で15年間続いている利き酒の会「本酒会」において、飲んだお酒のデータベースを整えるようになったのは1995年のことだ。4年後、この年の得票第1位が秋田県能代市の喜久水酒造による「比羅夫」だったことを端緒として、我々と能代のつきあいは始まった。「天洋酒店」店主のアサノサダヒロさんは、この喜久水酒造で酒造りの修行までした人だ。
月に1度おこなわれる本酒会のお酒すべてを天洋酒店に頼ろうとしたこともあった。しかしアサノさんは
「自分は秋田のお酒しか売らない、しかも自分が味を利いたお酒しか売らない、その中でも自分が納得したお酒しか売らない。だから本酒会の年間需要を満たすことはできない」
と断ってきた。つまりアサノさんは気骨のある酒屋である。アサノさんは遠路をたどり着いた我々に30本ちかいお酒を試し飲みさせてくれ、そうこうするうち街はみるみる夜の気配を濃くしてきた。
今夜の宿「タウンホテルミナミ」にチェックインした後、アサノさんに案内された居酒屋「千両」は、ひとけのない道に面した入口こそ大衆飲み屋だが、一歩足を踏み入れれば、そこは堂々とした蔵造りの店だった。
ジャッパ汁をはじめとする秋田の冬の味を肴とし、アサノさんが注いでくれるお酒を次々と飲んでいく。鍋の熱い味噌の汁が美味い。まるで夢の中にいるようである。そして午前3時台に目を覚ました僕は、午後7時30分には早くも眠い。
宿へ戻り、9時30分に就寝する。
きのう秋田県能代市から届いたメイルには「爆弾低気圧のもたらす、まるで台風のような吹雪」という一節があった。昨夕の日光地方は風こそ強かったものの、それほどの荒れ模様ではなかった。今朝は青空が広がり、西の空には旧暦師走18日の月が見える。
「自分んちの品物でいちばん好きなのなに?」と訊かれるたび、子供のころから「なめこ」と答えてきた。その「なめこのたまり漬」の最終仕上げが現在、製造現場では進んでいる。色濃くたまりに漬かった「なめこのたまり漬」を冷たく冴えた大根おろしと和え、炊きたてのごはんや温め酒と愉しむことのできる日は近い。
秋田県能代市からは夕刻、いかにもあてなく彷徨したくなりそうな、深沈とした街の様子を撮した画像が送られてきた。明日の夜、僕はその能代にいる予定である。初更、玄関に"Dolomite"の登山靴を置く。
料理屋で鯵のたたきを注文し、三枚に下ろした中心部すなわち頭、背骨、尻尾までをもバリバリと噛み砕いて食ってしまうのがオーミさんだ。僕はさすがにそこまではしないが、その鯵が干物であれば、頭から尻尾まで食べてしまうこともある。今夜の鯵も、そのようにしてすべて胃に収めてしまった。
ところで同じ食卓にあるメカブにはポン酢による味つけが台所で為されていて、これは僕の好みでない。
酢と醤油の用意がなく、「餃子のタレ」などと書かれた器のみの置かれた餃子屋には、自分でタレを調合する楽しみがない。スペインでは中級程度の料理屋でも「ドレッシングが欲しければ卓上の酢と油と塩を自分勝手に振りかけろ」式のところが多く、これは僕の好みである。
先方がすべて味つけをしてくれた方が嬉しいものもあり、また、自分で味を整える余地も少しは残しておいてもらいたいものもあり。しかして両者の境界は、しごく曖昧である。
中国地方の瀬戸内海沿岸部や神奈川県の太平洋岸など、温暖な地域でもおとといから積雪があり、油断はできないと考えていたところ、こちらでも午前10時30分より雪がちらついてきた。朝の打ち合わせの通り、販売係のトチギチカさんが凍結防止用の塩化カリウムを店舗駐車場に撒く。
ところが雪は徐々にまばらな牡丹雪となり、午後からは弱い雨に変わって積雪の心配はなくなった。雪が積もって嬉しかったのは学生のときまでのことで、今では積もらないうちに雪が止んでくれればひと安心である。
初更、明日は学力テストだという次男の勉強の面倒を見る。次男の書いた「視力」という文字を見て「それはシメス偏じゃなくてコロモ偏だよ」と注意をすると「そう教えられて、この前のテストではバツになったんだよ」と言う。
僕の小学生のころには国語審議会の背骨がしっかりしていなかったせいか、送りがなの変更などがやたらにあった。しかし「視力の視」については、むかしからシメス編だったのだろう。果たして僕は、これをどこで間違えて覚えてしまったのか。
目を覚ましてしばらく後、枕頭の携帯電話のディスプレイを点灯させると時刻は2時30分だった。起きるには早すぎる時刻だが、毎年1月をその第1回目として行う顧客名簿の更新を、今年はいまだしていない。
というわけで服を整え事務室へ降り、コンピュータに向かう。顧客名簿の取り扱いには細心の注意が必要とされるため、電話や来客のある日中には行えない。
初更、春日町1丁目青年会による「新年会の趣向を考える会」へ出席をするため、洋食の「金長」へ行く。今夜は店の奥から見て手前が禁煙席、その向こうが喫煙席とのことにて、年に葉巻4本のみを吸うこととしている僕は当然のことながら禁煙席に座る。禁煙席は別名インテリ席と呼ばれるが、そう名づけたのは他ならない僕である。
洋食屋だけに、テーブルには酒肴としての豚かつやハンバーグステーキが運ばれる。酒ではなく、それをおかずに米のメシを食べたいサイトーカツ君が「あのー、メシ」と要求して、シバザキトシカズさんに「バカヤロー、ピラフにしろ」と叱られる。ピラフが運ばれてなお「あのー、メシ」と言った人が他にいて、またまたシバザキトシカズさんに「バカヤロー、オムライスにしろ」と、その希望をくじかれる。
「ピラフやオムライスなら酒の肴になるから皆で食えるではないか」というところにシバザキさんの理屈はあるのだろう。その間隙を突いて僕はひそかに米のメシを注文し、豚の生姜焼きの玉葱のみをおかずとしてこれを食べる。
9時に帰宅して以降の記憶はない。
初更、鍋で煮た湯波や豚肉をポン酢で食べて後、汁の幾分残った鉢に幅広のうどんを取り、ここに百徳食品公司の辣椒油をふりかける。すると僕の顔のまわりには、たちどころに香港の雑踏があらわれる。
現実に食べているうどんは日本のものだ。しかし鼻のとらえる印象のみを述べれば、それはまぎれもなく香港の粥麺専科で食べる清湯猪河粉だ。
そしてある春の晩、コーズウェイベイから客のひとりもいないトラムの2階最前席に座り、ハッピーヴァレイ競馬場を右手に見ながら軽快なモーターの音を聞いていたときのことを思い出す。
夜のトラムに乗って上出来の葉巻を吸ったらどれほど気分が良かろうかと考える。しかし今やあの野放図な街でさえ、公の場所ではほとんどすべて、煙草は吸えなくなってしまった。悪いことではないけれど。
提供するサーヴィスが自分には特に必要でないものばかりであるにもかかわらず年会費を取られるアメリカンエキスプレスのカードは解約し、VISAブランド付きのアマゾンカード一本に絞ろうと考えたのは今月5日のことだった。
ところが後日、ネット上で法人用のあれこれ数十万円分を発注し、支払いにこのアマゾンカードを指定したところ、与信を通過しない旨の連絡を当該の店舗より受け取った。
原因はアマゾンカードの限度枠が50万円しか無かったためで、普段はここまでカードを使うことはないが、マダガスカル島でオオトカゲに足を食いちぎられるなどの事故に見舞われた場合のことを考えれば、50万円までの保証はいささか心細い。
というわけでアメリカンエキスプレスカードの解約については、しばらく様子を見ることとする。
JR池袋駅の地下中央コンコースから西武百貨店の地下食料品売場、続いてイルムス館を経て地上に出る。
同学会の新年総会が行われる自由学園明日館の講堂に入ると、現在、同学会の運営を担っている37回生の何人かが話しかけてくる。この学年は他の大学へ進んだ者が多く、つまり自由学園を卒業した人数の少なさから前後3年におよぶ同学会の重責を担えるかどうか心配をしたが、それは杞憂に過ぎなかった。継続事業においても新規事業においても、彼らは着実に業績を上げつつある。
礼拝に続いていくつかの報告や挨拶、あるいは26回生の還暦のお祝いがある。僕もあと9年で還暦と思えば何やら感慨深い。
午後8時に設定しておいた携帯電話のアラームにうながされ、ひと足早くこの場を去る。北千住21:11発の下り特急スペーシアに乗り、11時前に帰宅する。
「第15回日光MG」の会場で撮った画像を「かみじょうカメラ」にプリントに出す。これが上がってきたら、数日をおかずして西研究所から届くはずの感想文に添え、外部から参加の方々と今春入社予定の高校生各自に送る予定でいる。
年明け早々の、会社を挙げての行事をひとつ完了し、次に何が控えているかといえば、まぁ、いろいろとある。今月末には秋田県の能代へ行き、来月も出たり入ったり。そういえばむかし、新しい仕事、常規以外の仕事は忙しいときにこそ起こすべしと言った人がいた。
忙中の閑を利用して移動中に本など読めれば幸いである。
MGは2日間にわたる研修だが、2日目の朝は少々の講義の後いきなり、という形で第4期のゲイムが始まる。ここで僕は会社の形を万全としたつもりだった。しかしながら第5期を借り入れなしで開始しようとした矢先、うんざりするような市場の再構築に見舞われる。
僕の中では、大外食チェーンの社長よりも優れたビストロのオヤジの方がステイタスは上である。だから、というわけでもないが、やたらに大きな会社よりも小さくて他に類型を見ないような会社を作ろうとする癖がある。
ところが5期に臨んでの再構築にて自身が蓄えた研究開発の過半を失うこととなり、転向を余儀なくされた。生き残るために限度枠一杯の借り入れを起こし、不本意ながら会社を大きなものとして競合する5社に立ち向かう。この第5期はまさに「しのぐ」という言葉のふさわしい大混戦大乱戦だった。
結果、鳥取県倉吉市より参加のオカノトミエさんが自己資本を448に伸ばして最優秀経営者賞を獲得、"Computer Lib"のヒラダテマサヤさんは同444を得て優秀経営者賞を、また上澤梅太郎商店の販売係ハセガワタツヤ君は同350でもうひとつの優秀経営者賞を得た。
今回の日光MGには初心者が4名いた。この4名は今春より上澤梅太郎商店の社員となる。MGの決算は、初めての者にはかなりの難関である。参加者どうしの助け合いはあっても、初心者が多ければ、どうしも研修時間は延びる。
先ほどまで晴れていた山の端が逆光に沈み、あたりに寒気が満ちるころ、第15回日光MGは無事に完了した。
西先生やヒラダテマサヤさんと夕食の後、彼らを下今市駅のプラットフォームまでお送りする。マネジメントゲームの第1期から第5期までをこなすと、ちょうど朝から夕刻までゲレンデでスキーをしたと同じほどの疲れを覚える。
帰宅して入浴し、即就寝する。
"ThinkPad"を小脇に抱え東照宮の研修施設「晃陽苑」の駐車場へ行くと、ホンダフィットのフロントガラスは凍りついていた。周辺の赤松林にも駐車場の周辺にもいまだ多く雪が残っている。部屋に戻って備え付けのポットを持ち出し、このお湯にてガラスの氷を溶かす。
帰社してウェブショップに注文を下さったお客様に、正式の受注確認書はあさってお送りすることになるなどのメイルを送付し、また今早朝に作成したきのうの日記をサーヴァーへ転送したりする。
10時、「晃陽苑」の研修室にて、第15回日光MGが始まる。社内外からの参加者24名の広げた資料に強く朝日が差して眼にまぶしい。マネジメントゲームは自分が経営者となって第1期から第5期までの経営を盤上に展開する真剣勝負で、個々人の持ち味が即、決算書に反映される厳しい勉強である。
坂田三吉は意図して端歩を突いた。しかし今朝の僕は気のゆるみから、この端歩突きのような一手損を2度も発生させた。まだまだ修行が足りない。
1期から3期まで決算順位第1位を維持した製造係イトーカズナリ君、強烈な研究開発力で自己資本を上げつつある販売係ハセガワタツヤ君の進境が著しい。彼らの課題はその実力を、実際の仕事に反映させることである。
夕食後に"strategy accounting"の講義を受ける。8時30分からの、真面目にして賑やかな交流会は夜11時に完了した。明朝は9時15分より第4期の勝負が始まる。空は晴れて寒さはますます厳しい。
暗闇の枕頭に携帯電話を探し、ディスプレイのスイッチを入れると時刻は3時30分だった。「居ても立ってもいられない」という、これは焦燥ではない、頭の中の繁忙をひとつひとつ片付けて落ち着くべきとの思いから直ぐに起き出し、事務室へ降りる。
午後、"Computer Lib"のヒラダテマサヤさんが来社をする。遅れてナカジママヒマヒ社長も来社をする。同社が来月8日に開くカンファレンスのための取材を、当方は受ける。
18時40分、西順一郎先生を下今市駅頭にお迎えする。ナカジマさんやヒラダテさんも含めて鰻の「魚登久」へ移動し、なごやかに食事をする。「日光MG」は明朝の10時より始まる。
本日は、予定どおり8時30分からテニスの練習が行われることになった。よって次男と丸山公園へ出かける。昨秋から年末にかけての僕は週末の繁忙により、テニスクラブに対しては書記以外の仕事をしてこなかった。よってこれから次男の卒業までは、できるだけ球拾いをしようと思う。
午後に帰宅して仕事に復帰する。明日はウチが主催する研修「日光MG」の前夜祭にて、夕刻より西順一郎先生や前泊の外部参加者がいらっしゃる。"Computer Lib"のヒラダテマサヤさんは、その研修を兼ねて早くから来社をする。仕事のことはあまりこの日記に書かないが、なかなかの忙しさである。
「いつもと同じ生活で臨まなかったら、出てきた数字が信用できねぇじゃねぇか」という批判はあるものの、明日の採血に備えて2日続けての断酒日とする。
「今日の練習は、予定より90分遅らせて10時からになりました」と、次男がお世話になっているテニスクラブの回し電話が来たのは8時前だった。テニスコートの雪が解けないのだろう。
このような日には、お客様の出足も随分と遅くなるはずだ。よって商売は家内に任せ、当方は宿題をする次男の脇で本を読む。
テニスクラブからはその後「練習開始は1時に延期となりました」という連絡があったが、本日は親子とも勉強の日と決め、午後まで次男と一緒にいる。
夕刻に取引先の訪問を受け、閉店後は本日出勤の社員たちと小さな話し合いを持つ。
連休明けの15日には検査のための採血がある。よって今日から明日にかけては続けて断酒の予定である。
ホンダフィットに給油をすべく、日光街道を隔ててはす向かいの大橋油店に入ると、どんより曇った空を見上げながら係の人が「雪にならなければ良いんですが」と言った。それを受けて僕は「これだけ暖かければ、その可能性はないでしょう」と答えた。いまだ朝方のことである。
昼飯を終えて午後、ふと窓の外を見ると牡丹雪が降っていたから驚いて「あ、雪だ」という言葉が思わず口をついて出たが、しかし積もるまでは至らないと高を括っていた。
ところが雪は次第にその勢いを増し、夕刻には地面も見えなくなってきた。よって僕は社員用通用門口から外へ出る斜面の雪を箒で掃き、販売係の3名には凍結防止用の塩化カリウムを手分けして駐車場と歩道に撒いてもらう。
初更、春日町1丁目の会計係として消防後援会の新年会へ出席をし、凍った道を歩いて8時30分に帰宅する。
ほとんど1日中、書類を作成している。その合間には年賀状に返信を書く。書類はほとんどコンピュータで作るが、年賀状は手で書く。書く道具が変わっても、そうして文字ばかりを連ねていると、ふと「昨年12月の本酒会報は書いてあっただろうか」と心配になって、確認をしたりする。
年賀に来る人がいる。外へ出ると、町で顔見知りの人とすれ違う。そういう人たちの発する言葉は、こと気温に関するものだけでも「早く暖かくなってくれればいいですね」というものから「なんだか気持ち悪いほど暖かいですね」というものまで、まちまちである。
内容の難しいものでもないが、分厚い本を読む。商品の紹介文を考える。そうして夕刻になる。
湯島の「シンスケ」で壁の品書きを読もうとすると、それが白い短冊に太い筆で書かれたものであるにもかかわらず、すこし離れたところからはもう見えない、つまり僕には近眼がある。今の時期、年賀状に返事を書こうとして机に向かうと、自分の持つペンの先が明瞭に見えないことを無視してハガキに文字を連ねている。つまり僕には老眼もある。それに加えて物が二重に見える乱視もある。
これらの症状には何年も前から気づいていたが、いよいよメガネを作るべしと昼ごろ銀座へおもむく。
"999.9"では自分がこれまで経験したことのない丁寧な、あるいは長時間の検眼を受け、遠近両用のメガネを注文する。フレームはどうするかと訊かれ、かねてより同社のウェブペイジで選んでおいたモデルを手に取ると、実際には哀川翔がかけていそうな雰囲気である。
「いかにもオシャレをしてます、というようなメガネは好みじゃないんですよねぇ」と店員に説明をし、「こちらにします」と別のフレームを選ぶと「一般的な見地から申しますと、そちらの方が変わったデザインでございます」と言われたが、一般的な見地などはどうでも良い。
飲酒は為さず、夕刻の特急スペーシアで帰宅する。メガネは1週間後に届くらしい。
始業前に外の掃除をしながらふと空を見上げると、平たい筆で軽く撫でたような、冬には珍しい形の雲が出ている。あるいは僕が気象に詳しくないだけで、良くあるものなのかも知れない。
9時より蔵において、瀧尾神社の禰宜による水神祭が執り行われる。このようなお祭りは会社の習俗伝統を守るためにも絶やさず続けていくべきだ。水神の石碑がいつの時代からあるのかは、明治生まれのおばあちゃんも知らない。
ここ数年、社員旅行の行われる3月には、会社のあちらこちらに手を入れることにしている。今年は事務室の大改装を予定しているが、これに伴い事務室から撤去するロッカーの整理を本日、事務係のコマバカナエさんとイリエチヒロさんが行う。
整理に最も必要なことは捨てることで、「これは捨てる」「これは取り置く」という取捨選択を思い切って断行している最中に、大昔の名刺帳が現れる。これは使い道のないものだが捨てるには忍びない。「陸軍主計少佐」や「貴族院議員侯爵」などの文字のあるところを見れば、これは第二次世界大戦中のものだろうか。
終業後、焼肉の「大昌園」で会社の新年会を催す。社員のみなと知恵を絞り労を惜しまず、今年一年を乗り切っていきたい。
山本夏彦の「社交界たいがい」を読み終えた後、年末には
を読んでいた。ウェブ日記を書き始める前には、その本を読んだ記録として裏表紙の内側に読み始めと読み終わりの日を書くことにしていた。これによれば「生物としての静物」は1987年3月と1990年3月のそれぞれ2回読んでいる。
年初、階段室の本の重なり合いから見つけた
「真相はこれだ 昭和8大事件を撃つ」 祝康成 新潮文庫 \460
は、今早朝に読み終えた。
5時に事務室へ降り、届いていた年賀状に返事を書く。僕の年賀状は手書きで文字の量も多いから、それほどの大量生産はできない。
1月の最後の週末には秋田県の能代市へ行く。この打ち合わせのため夜7時より蕎麦屋「やぶ定」の座敷へ上がり、同行者5名と諸々の打ち合わせをする。
9時30分に帰宅して10時30分に就寝する。
開高健の何かの文章に、ヴェトナムの清廉な政治家の食卓風景を書いたものがあった。それは炒めた青菜と汁にメシのいわゆる一汁一菜で、八寸盆に散りばめられた色とりどりの酒肴にも惹かれるが、また簡素なメシにもあこがれるところが僕にはある。
簡素なメシが貧粗にならないための条件はひとえに、それが美味いか不味いかの一点にあるのではないか。
今朝のメシは、米のメシは日光市沢又地区の農家から直接に引いたもの、味噌汁は豆腐と玉葱と万能ネギのそれに"neu frank"のパンチェッタを浮かべたもの、白菜の漬物はきのう春日町1丁目の忘年会にタケダミッちゃんが持参したものの残余で、「毎朝こんな一汁一菜もいいなぁ」と思った。
昼のお雑煮は、餅のほかには大根、人参、牛蒡、三つ葉のみの精進で、普段であればここに鰤か鶏肉か揚げ湯波による脂が欲しい。しかしこのお雑煮には昆布とかつお節による上出来のダシが出ていたから「まぁ、これでも充分に美味い」と満足をした。
先日まで長男がいて飲酒が大いにはかどり、週末は2件の新年会にてまたまた少なくないお酒を飲んだ。というわけで本日は今月2度目の断酒をする。
「安くて美味いものなど存在しない」と魯山人は言ったらしい。しかし田んぼで捕まえたタニシを自から茹でて食べていた彼のことだから、安くても、あるいはタダでも美味いものはたくさんあると、実のところは認識していたはずだ。あるいは「安くて美味いものはこの世にない」とは、料理屋の料理を指して言ったものだろうか。
僕は、美味いものはたくさん食べてきたが、高価なものは食べていない。高価な食べものは嫌いかと問われれば、そういうわけでもない。しかし食べものの美味さとは、その食べものの値段に正比例して高くなるわけではない。よって高価なメシは食べづらい。いわゆる高価な食べもの飲みものとは、実はその「ブツ」の周辺に漂う幻想にお金を払っている、ということがままある。
夕刻、町内の役員と組長を集めた新年会に会計係として出席をするため、春日町1丁目公民館へ行く。婦人会のタケダミッちゃんによる、その周辺に幻想などはひとかけらもない、つまり質実で美味いあれこれにて燗酒を飲み、8時に帰宅する。
20年以上も使ってきたアメリカンエキスプレスのカードを解約するため、カードの裏にある番号に電話をする。
なぜこのカードを解約するかといえば、使わなくても年会費を取られてつまらないためで、なぜ使わないかといえば、"amazon"で盛んに宣伝をしている、VISAブランド付きのクレジットカードを昨夏、手に入れたからである。
カードの使用額が一定水準を越えると、カード会社側で用意した物あるいはサーヴィスと交換できるたぐいのポイントに、僕はまったく興味を持たない。よって、アメリカンエキスプレスのカードで得たポイントを使ったことは、このカードを手に入れて以来ただの一度もない。
カード払いには平均で5パーセントの手数料がかかり、それはお店側の負担となる。売上金額の5パーセントを経費としてお店に支払わせるのは気の毒だ。だからたとえばどこかの飲食店へ行き、そこでカードによる支払いをすることは僕の場合、皆無に等しい。
ただしウェブショップで買い物をする際にはカードを使う。僕がもっとも多くお金を使うウェブショップは"amazon"で、アマゾンカードのポイント制度は、この"amazon"での買い物に有利にできている。"amazon"以外のどこかでこのカードを使っても、そこでついたポイントは"amazon"での買い物から金額で割引きされるのだ。
ある財閥系観光施設の使用料が大幅に安くなる、年会費無料のVISAブランド付きクレジットカードカードも以前は使っていたが、採算性が悪化したのか、カード会社側からこのカードの廃止を伝えてきた。
というわけで今後、僕の使うカードは"amazon"のみとなる。カードによる信用力を必要とするような旅行をしない僕にとって、カードはこれだけで充分である。
酔っているときの会話だから詳しいところまでは覚えていないが、きのう晩飯の席でなにかグラナダについての話をした。そうしたところ「僕も卒論のテーマは外国の何かにしておけば良かった、森鴎外じゃ近すぎて」と長男が言った。
僕が学生のころ、無縁坂を上りきった右側には「雁」のお玉が住んでいたと思しきしもた屋がいまだあった。そのことから「あぁ、鴎外じゃぁ確かに甘木庵のちかくだわな」と答えると、思いついたように長男が「そうか、ベルリンなら行けるのか」と言うので「そういえばおばあちゃんは、ベルリンに行ってみたいと言いながら、もうあの歳じゃぁ到底無理だ、行きたいところには、行けるときに行っといた方がいいよ」と僕は返した。
昨夕は長男とふたりで白ワイン2本を空け、続けてウイスキーまでやらかしたから、今朝になってみれば長男も、このベルリン話は忘れているかも知れない。それにしてもきのうのピュリニーモンラッシェはヤケに美味かった。ワイン蔵にはこれの85年物がもう1本、86年物が6本あるから、今年1年は、折に触れて楽しむことができるだろう。
早朝、事務室へ降りた際「明窓浄机」と大書したメモを残し、日中すこしはこれを実行することができた。暮から年が明ければ急転直下の閑散期、というわけにもいかず、1月はまた違った仕事に忙しくしなければならない。散らかった机は戦闘力に落ちる。気をせわしくするよりも、目の前にある物や事を、ひとつずつ片付けていきたい。
元日の昼に"Bienvenues Batard Montrachet Recolte 1976"を抜栓し、グラスへ注いで香りを聞いた後おもむろに口に含むと横から長男が「どう?」と訊いた。「立派なものです」と答えると、花粉症で詰まった鼻をかむため長男はいそいそと席を立った。このワインがもう1本ワイン蔵にあるため初更、これを携え居間へ行く。
「ブルゴーニュの古い白はどんどん飲んじゃおうぜ作戦」は、長男のいるうちに行わなくてはならない。
2本目にして最後の"Bienvenues Batard Montrachet Recolte 1976"は、コルクが傷んでいたにもかかわらず、元日に飲んだものよりも剛直で当方をクラクラさせた。濃縮された風味を嫌わない者にとっては、今でも飲み頃といえる。バタールモンラッシェ、恐るべし。
僕と長男がそのような飲酒を為していたとき、次男は洗面所の窓を開け、先般サンタクロースにもらったニューPSPを夜空にかざしつつ「ここならインターネットに接続できるんだよ」と言っている。この場所はウチのネットワークの守備範囲にない。ご近所に、奇特なお宅があるのだろうか。
全紙に墨書した「賀正」の文字は、きのうの朝に店舗入り口へ掲げた。店内の生花は、今朝7時30分に来社したカワムラコーセン先生により最後の仕上げを受けた。犬走りには、日光市森友地区の弓手農園から届けられた宝船6鉢を並べる。そして8時15分より初売りが始まる。空はうららかにして気温は低くない。
昨年の営業初日と異なるところは、今年から荷造り担当を常駐させ、地方発送の受注即出荷を実現したことだ。ウチは地方発送の荷造りにおいては、店舗で簡便な包装をし、その場で宅急便に託すことはしない。この仕事を専門とする者が数十種の中から最適の箱を選び、特殊な機械にて梱包をしている。本日はこの任に、製造係のタカハシアキヒコ君が当たった。
定刻の午後5時30分に閉店し、社員のひとりひとりにねぎらいの声をかけて送り出す。
今週末には宴会が続くため、それまでにいちど断酒をしておく必要がある。それは今日か明日かと考え、メシの内容から本日を今年初めての断酒日とする。今夜のメシなら日本酒か焼酎、明日のメシなら飲むものはワインになる。「ブルゴーニュの古い白はどんどん飲んじゃおうぜ作戦」は、長男のいるうちに行わなくてはならない。
仏壇のお茶や花を整え線香を上げることは普段と等しく行う。普段と異なるのは先ず家族と墓参りへ行き、帰宅してお雑煮を仏壇、神棚、お稲荷さん、水神、地神の5ヶ所に上げることだ。ここで午前9時をすぎ、ようやく人間が朝飯にありつく。
瀧尾神社の参拝客は、昨年よりも随分と多いように思われた。11時に昇殿してお札をいただき、次は追分地蔵尊へ回ってここでもお札をいただく。
ホンダフィットには僕、家内、長男、次男の4人が乗っている。そのままおばあちゃんのいる老人介護施設「森の家」を訪問し、おばあちゃんには"Chez Akabane"のチョコレートを食べてもらう。
「私がここまで長生きしたんだから、あなたたちも長生きしてちょうだい」「私はそう頭の悪い方でもなかったんだから、あなたたちも出来の悪いはずはないんだよ、みんなで頑張ってちょうだい」などと逆に発破をかけられ、帰宅する。
昼飯にも少なくないお酒を飲んで夕刻から仮眠をする。7時前に製造現場へ行き、明日の準備をしてから晩飯になる。ここでもまた飲酒を為して10時前に就寝する。