鉄道ファンというわけではないが、東京駅の新幹線プラットフォームに、一秒の遅れもなく鳴る発車の合図を聞くとたいそう気持ちがよい。日本の列車はついこのあいだまで、朝でも昼でも夜でも分単位で遅れることはなかった。ところが最近は東京のどこにいても、ダイヤの乱れを詫びる車掌の車内放送を聞くことが当たり前になってしまった。
この放送を聞く限り、東京の列車に頻発する遅れの原因は、相互乗り入れの増加と人身事故の頻発というふたつに集約される。
今まではB点とC点のあいだを往復していた地下鉄やローカル線が、相互乗り入れによってB点よりも前のA点から、C点よりも先のD点までを守備範囲とするようになる。すると以前は対岸の火事であった他線の事故が、いきおい自らの路線に影響を及ぼすようになってきた。
普段は日比谷線で25分の行程にある北千住から神谷町までを、今朝はその倍ちかくもかけて移動する。東急東横線のどこかで起きた事故が遅れの原因だという。
午後は神谷町から虎ノ門、銀座、日本橋と移動して神保町に至る。駅で用もなく待つのはイヤだから左腕の電波時計を確認し、適当と思われる時刻に大手町を経由して千代田線に乗れば、ここでも列車は遅れて17時8分に北千住駅構内を激走する羽目になる。
鉄道ファンというわけではないが、電波時計と乗り換え案内の通用しないこのところの首都圏の鉄道には、僕はちょくちょく落胆の機会を与えられている。列車のダイヤは可能な限り、コンピュータのプログラムのごとく美しくあって欲しい。
馬鹿の三杯汁ということばがある。同じ朝飯を3日たてつづけに食べることをあらわす言葉はあるだろうか。今回のぶっかけ飯は3日つづけても一向に飽きない。
ここ数日のあいだ、スケデュリングに留まらない、自分だけのデータベースを小さなノートとテキストエディタで作るという、とても興味深い本を読んでいた。出どころは例の安田理央である。そして本日早速アスクルに必要な文房具を発注した。
データベースとしてコンピュータを使い始める以前のもっとも頼りになる武器は3年連続日記だった。外出時には能率手帳を携行した。コンピュータを使うようになって以降は日記帳も手帳も持たなくなった。忘れてまずいことは忘れる前にコンピュータに入れた。コンピュータに入れる前に忘れたことは、大したことでもなかったのだろうと割り切った。
その割り切りが自分のことだけに収まっているうちは良かったが、先日はそうでもない事態が発生した。よって来月1日からは自分でフォーマットを決め、切ったり貼ったりして改造する式のノートを持つことに決めた。
手帳あるいはノートを携行するのは192ヶ月ぶりのことになる。
本日の父母会は午前の授業参観から始まるが、これは家内に任せ、僕は午後1時30分からの、男子部全体会から出席をする。
その全体会の最後のころ、寮の子供を訪ね、部屋へ入ったり玄関で長く子供と話すような親の行為に対し、寮担当のウシダタカシ先生よりひとこと注意がある。注意があるということは、そういう親がいるということだろう。
自由学園の東天寮は、中等科1年生から高等科3年生までの生徒が運営する自治寮である。彼らは時に涙するような厳しい生活を送りながら、その果実として自治という光輝燦然とした特権を得る。この特権は輝かしいものではあるが、それを護る外箔は繭のように薄い。この繭を破るような親の行為は厳に戒められるべきだ。
自由学園男子部1年生の全寮制は、家庭と隔絶した環境でのみ可能となる教育を行うための、創立者による決めごとだ。その決めごとを親が侵略しようとすれば、それは教育の本末転倒である。
僕が男子部にいるころ、初夏のアルプスに向かう我々を見送ってくれたのは羽仁恵子学園長ただひとりだった。ところが今では駅まで見送りに行く親がいる。
登山を目前にした男子部生は、山へ登って何ごとかを得、そして無事に帰還すべき任務の重さを高揚感で鎧った、いわばこれから闘牛場へ出て行こうとしている闘牛士のようなものだ。そういうときに母親から「○○ちゃん、頑張って」などと声をかけられて喜ぶ思春期の少年がいるだろうか。いてもごく少数に違いない。
自由学園の男子部生は、たとえ12歳であっても男として扱われるべきだ。
父母会は7時30分に終わった。浅草駅21:00発の下り最終スペーシアに乗り、11時前に帰宅する。
買い物という行為はしごく偶然に左右される。
過去は当然のこと未来にも消えることはないだろうアナログの買い物においては、街を歩いて未知のものを見つけ衝動買いするようなことがそれにあたる。インターネットが日常のものになると、その偶然性はがぜん高くなった。
能動的な偶然性は、多く検索エンジンによってもたらされる。受動的な偶然性は次々に届くメイルマガジンによって主に高められる。
数軒のワイン屋とネット上で取引をしている。これらのすべてから届くメイルマガジンは、ひとつのフォルダに自動的に収めてデータベースとする。メイルマガジンを、届いた直後に読むことはない。後にそのフォルダに検索をかけて必要な情報のみを取り出す。
こういうメイルマガジンの使い方では、売り切れ間近の希少品を入手することは難しい。ただしごくたまには届きたてメイルマガジンを読み、その文面に刺激されて、そういう品を手に入れることもある。
3年前に買った"Chablis Premier Cru Mont de Milieu Billaud Simon"はそのようにして手に入れたワインのひとつで、これは随分と美味いシャブリだった。これを飲み干して後おなじものを手に入れられずにいたのは、このワイン屋との取引記録をメイラーの中で紛失したからだ。残る手段は検索エンジンにて、つい最近、このワインを取り寄せたワイン屋を特定し、「残り3個」と記載のあったこれを丸ごと買った。
"HOTEL DE MIKUNI"は1980年代、"Chateau Latour"の"Pauillac"を、まるでハウスワインのように使っていた。いま、このワインがネット上に払底しているのは、"rubis d'or"の材料として僕が買い集めたからだ。当時1本2000円台で買えたこのワインの価格は現在、1万円台のなかばで推移している。
"Pauillac"の在庫が尽きそうになり、しかし日本の市場のどこにもこのワインが無いということが起きたらどうするか、そのときにはボルドーまで足を運ぶだけのことだ。
胸に日の丸をつけてやたらに当て字の多い歌を唱和したり、歯車の旗が会場の正面に掲げてあるような高邁な理念を持った団体には生理的な違和感があり、だからそういうところでメシを食うことは苦手だ。
反面、万葉の香りさえ漂わす牧歌的なエロ話を聞きながら、いや、そこには僕も積極的に関わっているわけだが、そういう席の代表である町内会や、趣味嗜好あるいはそこはかとない目標を共有する友だちの集まりは嫌いでなく、だからそういうところでメシを食うことは嫌いでない。
社員とメシを食うことも僕は好きで、本日は、夏の繁忙期へ向けて社内的意思統一を図るための食事会を事務室にて行う。
こういうことの段取りには僕はなぜか力を出せて、この数週間で陶器の器やカラトリーを充分に揃え、調理器具を用意し、肉やソーセージを諸方から取り寄せた。ワインや焼酎の在庫にはもとより不安はない。
炙った肉と小玉葱の酢油漬けと赤ワインのみ、というような単純なメニュを、どちらかといえば僕は好む。ただし今回は社員の要求を家内が受けているうち品数はどんどん増え、卓上は随分と賑やかになった。
食事会は夜8時30分に完了し、その後のことはよく憶えていない。
今月はあと2度の断酒ノルマが残っているため、今夜は慎ましやかなおかずで晩飯を食べ、飲酒は避けた。早めに眠ると半端にも0時前に目を覚まし、なかなか寝付けない。寝室から居間へ移ってソファに座るうち
「カモシダとサイバラのアジアパー伝は全部ほしいんだよな、でも1冊だけ読んだ気がするな、オレは結構やらかすけど本をダブって買うのは馬鹿バカしい、あの1冊は何だっただろう」
と考えるうち、今夜中にその1冊を特定しなくては気が気でない感じとなり、本の散乱する階段室へと出て行く。
本の山をひっくり返していくうち、その1冊とは「アジアパー伝」ではなく
だったことが判明して「それなら安心だ、アジアパー伝は近いうちに"amazon"の古書でぜんぶ揃えよう」と決める。一方「アジアパー伝」とは似ても似つかない
を発見して「これも近いうちに読もう」と考え、寝室へと運ぶ。
そこが有楽町と東京駅をつなぐ高架下の「ミルクワンタン」だろうが、あるいは会席料理屋だろうが、そういうところで飲み食いをするにつけ思うのは「食べ物に好き嫌いのある人は、こういうどんどん出てきちゃう店ではどうするのだろう」ということだ。
いまだ明るい夕刻に会席「ばん」の座敷にいたところ、同席のひとりが初っぱなの穴子鮨を見て「ウナギは食えねぇけどアナゴなら食える」と安堵の表情を見せたため、季節がら「鱧は?」と訊くと「ハモも食える」と言う。
「生まれて初めて食ったウナギがよほど不味かったんだろうな」と別のひとりが問えば「ちがう、ウナギの、蛇みてぇなところがイヤなの」と答えたから「穴子も鱧もおなじようなもんだろう」と僕が口を挟むと「アナゴやハモは、生きてるところを見たことねぇからヘーキなの」とのことだった。
「見ぬもの清し」とはちとニュアンスが異なるが、僕も調理中のカエルとなると、ちと見る気がしない。
そうして最後の葛切りを食べて9時に帰宅する。
今年は空梅雨ということを聞くがどうなのだろう。町内を流れる西裏用水路の流れを見る限り、水量は安定しているように思われる。
先週の4日間を費やしてフォークリフトの運転資格を取得したサカヌシノリアキ君が、ひどく日に焼けた顔で7時30分に出社する。実技試験の日は予報こそ雨だったが、カンカン照りの天気だったという。
フォークリフトの事故は即、人の死に繋がることを教わったかと訊くと、事故現場のスライドまで見せられたと言う。習ったことは頭にたたき込んで決して慣れるなと注意をする。基本を外すと日本の旧軍では上官が殴ってでも本線に戻したが、まさかウチで社員を殴ることはできない。
事務室の外には秋冬春のあいだにかける茶色の暖簾が風に揺れている。「涼味在中」と大書した夏用の暖簾はいつ出そうかと考えている。
食べ物やお酒など、消えて無くなるものには比較的軽率にお金を使ってしまう。その食べ物やお酒が大して美味くなくても、対象は既に消えて無くなっているからそれほどの後悔はない。
それにくらべて耐久消費財の購入については世間相場より慎重かも知れない。ためつすがめつ眺め、手で触り、細部に気に入らないところがあれば「あぁ、これでお金を使わなくて済む」と安心したりする。
ところがウェブ上の店では実物を見たり触ったりできないのにホイホイと物を買ってしまう。それが自分でも不思議でならない。こうして気軽に買って、しかし2、3度使っただけで「やっぱりオレの好みには合わねぇ」ということになった品物をこれまたウェブ上のオークションに出す人がいるが、そのような面倒なことは、とてもではないがする気がしない。
「誰かもらってください」コーナーを自分のウェブペイジに作り、先着順にヤマトの送料着払いで送ってはどうか、ということを数日前に思いついたところで、すぐにそのアイディアを打ち消した。それは、ある駄菓子屋のことを思い出したからだ。
加齢により店を閉じることにした駄菓子屋のオバチャンが「欲しいものがあったら何でも持っていきな」と、今は中年となったかつての客に声をかけたところ、その男は翌日、トラックを横付けして店の一切合切を持ち出そうとしたという。
オバチャンの気持ちは「あんたの思い出になるようなものがあれば、ひとつふたつ見つくろっていけ」というものだっただろう。しかし男は「何でも持って行けと言ったくせに、そりゃねぇよ」と不満を抱いたに違いない。そこには阿吽の呼吸や情緒ではなく、殺伐とした空気があるばかりだ。
地震に見舞われたある被災地で、弁当の仕出し屋を営んでいた知り合いがいる。自分の店は被害を免れたため、感謝の気持ちとしておむすびの無料配布を始めたところ、予期せず強い精神的苦痛を味わったという。先の駄菓子屋のことを考えれば、その情景は容易に想像することができる。
というわけで「誰かもらってください」コーナーは、ウチの会社の社員用通路に設けようと思う。
外の曇り空を見上げながら「今日は夏至です」という、テレビのアナウンサーの声を聞いている。「夏至の日が曇りじゃ、しょうがねぇなぁ」と思う。「夏至はできれば、オレの誕生日の8月なかばに来て欲しいなぁ」とは毎年思うことだ。これから冬至へ向けて昼がどんどん短くなるとは、どうも面白くない。
きのうの晩はサラダのイタリアンパセリとモロッコインゲンのバター炒めをすこし残してしまい、家内にはそれらをそれぞれ翌朝のオムレツと味噌汁にするよう頼んだ。果たして今朝の朝飯のこれらが非常に美味い。オムレツと味噌汁は、残飯処理に向いた料理である。
午前、"patagonia"のボロボロになったポロシャツをまとめて捨てながら
「オレが子供のころは、シャツは捨てずにバッグの材料にしたり雑巾にしたり、ボタンは必ず予備に取り置いたよなぁ、シャツの襟がすり切れれば、その襟を襟腰から外して前後逆に縫い付けて、新品同様にしてまた着たもんだ」
と、むかしのことを思い出す。
聞くところによれば夏至から七夕までの夜に家の電気を消し、ロウソクを灯して過ごす「キャンドルナイト」という環境関係の運動があるという。「そういう活動をしている人の中で、すり切れたシャツの襟を後ろ前に縫い直して着直す人がどれほどいるかなぁ」と考える。
午後はカゴ一杯の真っ赤なトマトを、農家のユミテマサミさんからいただいた。このトマトがトマトのくせをして、まるでイチゴのような香りをブンブン放っている。カプリ風のサラダにしようという案もあったが、「チーズと合わせちゃ勿体ねぇから、このまま食おうぜ」と僕は言った。
冷やしトマトに合うお酒といったら、やはり芋焼酎のソーダ割りではないか。そして芋焼酎のソーダ割りに合う肴といったらやはり、豚カツソースをダブダブかけたハムエッグではないか。
しかし家内が準備したのはトマトの冷たいスパゲティだったため、食卓のある4階から2階のワイン蔵へ行き、棚から発泡ワイン1本を取り出してふたたび4階へ戻る。
「当店のパンは一本ずつ手作りのため写真と現物が異なる場合がございます」と、晩飯の卓に上がったパンのしおりにはあった。見当外れのクレームが少なくないのだろう。
手縫いの人形を販売している工房がある。もっとも多いクレームは「見本と違う」というものだという。見本と異なることがイヤなら手縫いの人形など注文しないことだ。よしそれがミシンによる縫製であっても、同じ物のできるわけがない。
六本木のフランス料理屋"Le Bourguignon"の店主兼料理長がガスパチョについて「野菜をただミキサーにかけるだけなのに、なかなか同じ味にならないのがこの料理の面白いところ」と、6月21日の朝日新聞"be on Saturday"の中で言っている。
森羅万象すべては一期一会のものである。1日に100万個が生み出される単純な工業製品にも当たり外れはある。
「おたくの品物は去年と同じ味ですか」と問われて「はい、当店ではいつも変わらない味を、お客様には笑顔と共にご提供しています」などと平気で口に出す商売人がいたとしたら、それはとんだ不実な人間と言わざる得ない。
ズボンの裾がボロボロになっても、新しいズボンを買いに行くヒマがない、いや、ヒマがないとは明瞭な言い訳で、腰が上がらないだけのことだ。よってなじみのウェブショップから"GUNGHO"のチノパンツ2本を取り寄せ、水洗いして乾燥機にかけた。
早朝、これにアイロンをかけながら「一体全体、どういう人間が作ったらこれほどズボラな製品ができるのか」と、なかば感心をする。1本のズボンに織りむらの部分が3ヶ所もある。ミシンで縫い終えたところからはすべて糸が数センチ伸びたままになっている。裾へ行くに従って測線が正面にねじれていく。
そういうあれこれを見ながら「やっぱユニクロだなぁ」という言葉が思わず口をつき、「51歳の社長の発言じゃないわね、やっぱアルマーニだな、くらい言うならとにかく」と、家内に嗤われる。
1年に何度も着ないコートを仕立屋に注文し、仮縫いを繰り返しながら数ヶ月かかって完成させるようなことはしても、普段着にはどうしてもお金をかけることができない。
日本の家はむかし客間にコストをかけた。しかしいつのころからか、客間よりも日常の用に供する場所にこそお金をかけるべしとの考えが家造りの専門家にも一般にも広まった。この伝からすれば僕も、普段着にこそお金をかけるべきなのだろうが、気質とはどうなるものでもない。
今回のアメリカ製のチノパンツがボロボロになる前に、ユニクロによる中国製のズボンをすこし買いだめしておこうと思う。ユニクロのズボンの縫製は"PORTER"のカバンのそれと比肩し得るほどに素晴らしい。
ヘルメットをかぶってバスタオルを首に巻く。「マッハGoGoGo」の主題曲を歌いながら夕刻の会津西街道を自転車で下る。大谷川に架かる橋を渡り、茶臼山のふもとの温泉「長久之湯」へ行く。
風呂上がりに5分間100円の足つぼマッサージをしながら「裸体と衣装」を開く。三島由紀夫によるこの評論集の最後に収められている「文化防衛論」は繰り返し読んでもさっぱり頭に入ってこず「やはりオレはパーだったか」と感じた。しかし巻末の解説では西尾幹二も、この論文の後半について「あれほど明晰な文章を書く同じ人の手になるものとは、にわかには信じられない」と記していて、すこし安心をする。
「裸体と衣装」の価値はやはり、この本の半分以上を占める、昭和33年から34年にかけての三島の日記にこそあると言って差し支えはない。いや、そう断言するのは僕だけかも知れないが。
「長久之湯」から旧市街方向へすこし戻って「玄蕎麦河童」の扉を開く。7時30分より「第181回本酒会」へ出席し、6種の日本酒を飲んで9時30分に帰宅する。
いくつかのテレビ局は、朝のニュース番組の中に占いのコーナーを持っている。そういうものは見聞きしても仕方がないから新聞を読んでいると、僕の名前のイニシャルを持つ人の運勢が今日は最悪で、しかし「スポーツ観戦でイライラを鎮めましょう」というのがその対処法だと家内が言う。
スポーツ観戦と言われても、自分の子供の出ている試合くらいにしか当方の興味はない。
その他を考えてみれば、ロサンゼルス・オリンピックにおける柔道の無差別級決勝、山下泰裕対モハメド・ラシュワンのような試合であれば感動の涙も流すが、日常のテレビで放映されるたちのスポーツは見ない。相撲は楽しく観ることができる。しかしあれは芸道であってスポーツではない。
結局はスポーツ観戦などしなくても1日、特にイライラすることもなく、飲酒も為さず早めに寝る。
19歳のころ、ある1ヶ月間に観た映画を数えたら30本になった。その月を含む1年間にどれほどの映画を観たかは計算していない。18歳から22歳までの4年間に観た外国映画は2本、残りはすべて日本映画である。
それらの日本映画のうち「あれは貴重品だった」と思えるものが3本ある。「貴重品」とは、今となってはどこへ行っても観ることはできないだろうという意味においての貴重品である。
1本目は岩崎善文監督による「キャンパスポルノ・ピエロの乳房」、2本目は山本薩夫監督の「にっぽん泥棒物語」、雑踏のざわめきは入るが人の発するセリフは全編を通じて「あ」という感嘆詞が1回きりという変わり種が3本目で、この題名は忘れた。
今早朝、これらのことを調べていたところ、2番目については"DVD"が出ていたことを知り、早速"amazon"に発注をする。送り先は甘木庵にした。1、2年前にも長男に"DVD"を買って手渡したことがあり、それはデ・シーカの「自転車泥棒」だった。
「自転車泥棒」に続いて「にっぽん泥棒物語」とは、予期しない偶然の泥棒続きである。
薄明に目を覚まして静かにしていると、5分ほどしてカッコーが啼く。時刻を確かめると3時44分だった。カッコーの声はいつも、町内のカミムラヒロシさん宅横の、通称「ジャングル」から聞こえてくるように感じられる。しかし当のカミムラさんによれば、実際のところカッコーは、遙か彼方にある日光宇都宮道路手前の森に棲んでいるのだという。
ソプラノ歌手のかそけき声が天井桟敷まで一直線に届くように、カッコーも遠くにあって、しかしすぐ間近にいるような錯覚を、その声を聞く者に与えるらしい。
夜7時から町内の会議があるとばかり思って、時間を取らずに食べられる晩飯を作るよう家内には頼んでおいた。ところが終業後に育成会長のタノベタカオさんから電話があり、その会議は本日ではなく一週間後の日曜日に開かれることを知る。
そうと知ってもいまさら晩飯の内容を変更することは能わない。お茶漬けを食べ、税理士のスズキトール先生が北海道から送ってくださった極上のメロンを食べ、飲酒は避ける。
ほぼ満腹にちかいにもかかわらず、なぜ酔っぱらいはラーメンを食ってしまうのか、という話である。
小栗康平の「泥の河」に、ある夫婦の営む食堂が出てくる。夫婦を演じたのは田村高広と藤田弓子。この、川の縁にある食堂を彷彿するのが我が町の「みはと」で、濃い色のスープに似つかわしくない丸い味を思い出しては、ごくたまに行く。
満腹にちかいとき更に腹をふくらますこともない。しかし昨夜は酔っぱらいの習性により、この「ごくたまに」をやらかした。ラーメンはいつものとおり美味かったが、帰宅したときには腹は更にきつくなっていて、だから入浴もせず寝てしまった。
「朝飯も食べずに仕事ができるか」と言う人がいる。堂々の正論である。僕の場合には、朝飯を食べ過ぎて仕事にならない。きのうの晩に引き続き今朝も食べ過ぎ、よって本日は昼飯を抜く。
昼飯だけでなく、今夜と明晩はお酒も抜こうと考えていた。ところが能代の市場に上がった真鯛、雲丹、姫竹、ジュンサイが能代市の「天洋酒店」から届いたため、これらを酒肴として冷や酒を飲み、断酒は繰り延べとする。
今夜は断酒の予定だったが、あれやこれやあってきのうと同じ「和光」へ行く。カウンターの顔ぶれがきのうとほとんど変わらないというところが、何が素晴らしいのかは不明ながら、しかしなんとなく素晴らしい。
「ウワサワさんは宝くじは買う派ですか、買わない派ですか」
「当たる確率を考えれば、とてもではありませんが、買う気にはなれませんね」
という会話を交わしながら、僕はあることを思い出していた。
「で、結局、テラヤマさんの競馬はトータルして黒字なんですか、赤字なんですか」と訊かれた寺山修司は「だったら、あなたの人生はトータルして黒字なんですが、赤字なんですか」と、色をなしたという。
世の中に下品な物言いはあふれているが、博打について赤字だ黒字だと言うのもそのひとつだろう。それを認識して以降、僕は博打の勝ち負けについて語る人には賛嘆あるいは苦笑いのみを以て応えることにしている。
夕刻に日光街道を自転車で下り、飲み屋の「和光」へ行くと、カウンターの4人は常連ばかりだった。右手で椅子を整えてくれたアキモッちゃんに「このあと、ここにきれいどころが来るとか」と訊くと「いやいや、とんでもない」と答えたため、素直にそこへ座る。
煙草が1箱1,000円になったらどうするか、という喫煙者にとっては焦眉の問題が、そのときのカウンターで交わされていた会話である。
「与党も野党も賛成してんだ、ホントに1,000円になっちゃうぜ」
「1,000円じゃ、サラリーマンは吸えねぇわな、1ヶ月30,000円だぜ」
「煙草を吸うのは中毒患者なんだから、1箱1,000円でも吸い続けるでしょ」
「しかし、ねぇ袖は振れねぇぜ」
「アメリカの禁酒法時代にギャングが闇酒を売ったように、煙草も闇のやつが出てくると思うんですよね」
「自販機の横に怪しげな男が立ってて『ダンナ、お安くしときますよ』なんてか」
「1本単位のばら売りも、売り方としてはあり得るな」
「あぁ、インドみたいにね」
「1本吸っただけで頭がグラグラするような、強い煙草が人気になったりして」
「なるほど、コストパフォーマンス、ってやつか」
"JT"はもちろん、この降って湧いたような増税目的の案件に大反対をしているが、1年に4本の葉巻しか吸わない僕は、煙草が1箱1,000円になっても屁でもない。国会議員はこのアイディアをただの議論に終わらせず、いちど実現させてみたらどうか。僕がもっとも興味深いのは、そのとき"JT"の税引前利益がどのように変化するか、だ。
「和光」のカウンターでは人と言葉を交わしながら本も読む。「裸体と衣装」の「現代小説は古典たり得るか」の中に
「日本で小説が成立する方向は、前にも言ったように二つに分裂しており、文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追求するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追求するか」
という箇所を見つけ、「オレなら断然後者だ」と決めつけつつその先に目を進めると
「性急というより鈍感な私は、もう一つの方向がありはしないかとひそかに考えている」と三島は続け、やがて「石原慎太郎氏の『亀裂』について」の章へと移っていく。
「亀裂」という小説を僕は20代のはじめのころに読んだ。ヘミングウェイの「日はまた昇る」を想い起こさざるを得ない、出だしの1行目からいきなりかっこいい文章だ。しかし意外や三島はこのマッチョな小説を、堀辰雄の「菜穂子」と対照をなすものとして論じていく。
ボトルの底に残った2センチ分の「黒霧島」が、どうしても飲めない。よってもうしばらくこれを預かってくれるようオカミに頼み、8時前に帰宅する。
駿河台下ちかく、富士見坂を下る右側の居酒屋「鶴八」が、いつの間にか普通の飲み屋になっている。石井スポーツ登山本店の入り口にあった植物屋が、いつの間にかドーナツ屋になっている。東京の他の地域とおなじく、このあたりの新陳代謝も激しい。
そういう街にあって今や随分となつかしい存在となったカレー屋「ボーイズ」の4階に上がり、"Computer Lib"のヒラダテマサヤさん、マハルジャン・プラニッシュさんのふたりとあれやこれやの作業や話し合いをする。
夕刻の早い時間にそのふたりと専大前からタクシーに乗り、神楽坂上の毘沙門天まで行く。靖国神社の鳥居の下から飯田橋へ抜ける細い道が、僕はなぜか好きだ。
毘沙門天の前から横町へ入り、「伊勢藤」の縄のれんをくぐる。ヒラダテマサヤさんとマハルジャンさんが靴を脱ぎ、座敷へ進みつつあるとき店主が「お飲み物は日本酒しかございませんが」と言う。「あ、大丈夫です」と僕は答える。ヒラダテさんは僕より十いくつは若いだろうが、僕よりも日本酒が好きである。マハルジャンさんはネパール出身だが、僕よりも日本酒が好きである。
燗酒の1杯目をグッと飲んでマハルジャンさんが「この、ノドに沁み通る感じが何とも言えませんね」と笑う。ここで僕は牧水の「白玉の」の歌を思い出さずにはいられない。しかしまた「酒は静かに飲むべかりけり」を実行できず、この店のあるじに「スミマセン、もうすこしお声を低くしてくださいませんか」と注意を受けたりする。
ひとりあて3合の燗酒を飲んで神楽坂を下るころになっても空はいまだ明るい。駅ビルのタイ料理屋「ティーヌン」で、タイのものとは似ても似つかないバミーヘンを食べ、シンハビールを飲む。
浅草駅21:00発の下り最終スペーシアに乗り、11時前に帰宅する。
「それ、穴が空いてるよ」と、着たばかりの僕のポロシャツを見て家内が言うので「かまやしねぇよ、どうせ相手はヒラダテさんだ」と答える。
そのヒラダテマサヤさんと夕刻6時30分より渋谷の飲んべい横町にて飲酒を始める。ここいらへんの焼鳥屋では「鳥重」がいわゆる"icon"になっているが、それよりもずっと地味な「鳥福」は、この界隈ではもっとも早い時刻に仕込みを始める店だ。
梅雨晴れのさわやかな風が吹き抜けるカウンター7席の「鳥福」にて鶏のからだのあちらこちらを食い、焼酎のオンザロックスを数え切れないほど飲む。飲んだグラスの数は数え切れないが、当方はハシゴのクセもないため、8時前には切り上げて山手線沿いの路地を出る。
赤坂見附で丸ノ内線に乗り換えるはずの銀座線を日本橋まで乗り過ごし、そのまま上野広小路に至って湯島の歓楽街を徒歩で抜ける。甘木庵には9時前に帰着した。
目を覚まして枕頭の携帯電話のエンターキーを押すと、ディスプレイに現れた時刻は午前3時49分だった。洗面所へ行き窓を開ければ外は既にして充分に明るく、山々の稜線も朝の光を含んで鮮やかだ。
「有り難いなぁ、今ごろは3時台からもう明るいんだなぁ、夏至もちかいのだろうか」と考えるうち4時を迎え、そうするとあたりで鳥たちが一斉に啼きはじめる。今日は梅雨も、一服をするらしい。
今週の断酒予定は本日月曜日と金曜日にて、初更には飲酒を為さず、家内が言うところの「いかにも健康食」という晩飯を食べて早々に寝る。
瀧尾神社は日光市の小来川地区と和泉地区に山を持っている。この社有林を、当番町と神社の責任役員は毎年かわるがわる視察する。今年は和泉の番にて、僕は責任役員として朝8時45分に神社へ行く。
"Dolomite"の登山靴で湿ったシダの葉を踏んでいく。森は深閑としているが、その静けさを、ちかくに通っているらしい日光宇都宮道路のクルマの音がときおり破る。我々は社有林の更に上方にある雷神社に参拝してのち山を下った。
神社の行事と直会とを切り離すことはできない。今年の当番町である大谷向町はとてもまとまりの良い町内にて、企画してくれた直会は中善寺湖畔菖蒲ヶ浜キャンプ場でのバーベキューだった。
腹も満たされ酔いも回ったところで蝉の鳴く疎林を散策し、植物への知識は至極薄いからその名も知らない花を愛でたりする。
実際に繰り出されるものとしては国内最大級の御輿を中心に繰り広げられる八坂祭が、一ヶ月後に迫っている。そのころ頻りにあるだろう雷雨はまた、梅雨の終わりを知らせるものでもある。当番町はこの八坂祭を無事にやり遂げたところでホッと一息をつくだろう。
普通の本に割く時間が無くなるから週刊誌は読まない。ただし今朝は、おととい家内が電車の中で読むためどこかのキヨスクで買った週刊文春があるため、これを早い時間に開く。
阿川佐和子による対談の、今週のゲストは浅田美代子だ。1970年代のドラマ「時間ですよ」のオーディションに合格して後、演出家の久世光彦や共演の樹木希林に教えられたという数々のことが興味深い。
「家の履歴書」を語るのは細江英公。初期の写真集「鎌鼬」や「薔薇刑」を物していく課程において、努力と運があざなえる縄のごとくに作用していく様子がよく分かる。
「仕事のはなし」で木村俊介の質問に答えてるのは渋谷陽一だ。その見出しには「プロにまかせてもロクなことはない」という大きな白抜き文字がある。「オレなんか、何でもかんでもプロに任せちゃうもんなぁ、プロを信用しているから」と自らの性癖を振り返りながらふと考えれば、実は僕がプロに任せるのは職人仕事のみに限られていることを認識する。
こと発想の分野においては、僕はプロの意見をまったく参考にしない。本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"においても、この開発段階で得たある天啓につき信頼できる筋に相談をしたところ「机上論としては存在するけれど、それを実際に行ったことのあるプロは一人もいない」と諭されたものだ。
「プロにまかせてもロクなことはない」という"thesis"は確かに、時と場合によっては新しいものを生み出す。我が"rubis d'or"のように。
先週末に箕面で行われた「なにわMG」主催者のひとりヨシダゲンゾーさんが、関係団体の研修にてきのうは宇都宮に泊まった。今日は東照宮を見学して現地解散とのことにて、夕刻4時に来社する。
終業直後、つまり5時30分より先ずは「魚登久」にて本日の1杯目を飲む。賑やかにさんざめいている料理屋も悪くはないが、開店直後のいまだひっそりとしたそれの方がむしろ僕は好きだ。
90分後にヨシダさんの今夜の宿泊場所「日光金谷ホテル」へ移動し、バー「デイサイト」に入る。何年か前に改装をされたようだが、磨き抜かれた木製の天井や大谷石の暖炉は変わらない。低くて大きな革製の椅子に落ち着き、シングルモルトのウィスキーを注文する。
家内のシャーリーテンプルに使われたジンジャーエールの色が琥珀よりも濃い。そしてそこから立ち上る生姜の香りは信じがたいほどに高い。訊けばこのジンジャーエールは「デイサイト」の特製で、家内のオーダーに使ったものが最後の1本だという。
「それは貴重品だったなぁ、今夜で最後とは」とつぶやくと、ヨシダゲンゾーさんが「正に二荒山ジンジャーですな」と返す。「いや、ほんとにこの香りは凄いですよ」と家内が賛嘆するとゲンゾーさんは更に「生涯わすれられない香りですか」と、その駄洒落は留まるところを知らない。
シャーリーテンプルの、古拙と典雅の重なり合ったグラスは大正期のものだという。ウイスキーで満たされた小さなグラスも、またチェイサーの薄くて軽いグラスも好もしい。ウィスキーが美味いのは当たり前だがチェイサーの水も美味い。律儀に四角く切られた氷は日光の天然氷だという。
「ある意味、銀座も広尾もここには敵わねぇな、やり方によっちゃぁこのバーだけで宿泊客を呼べるんじゃねぇか、そのためにはまたあのジンジャーエールを作ってもらわなくちゃいけねぇ」などと僕は軽口を叩く。
ロビーの回転ドアを押して外に出ると、酔った頬に夜気が心地よい。神橋ぎわへの急なS字坂を下りながら時計を見れば、時刻はいまだ9時半を過ぎたばかりだった。
茅野の消印のあるハガキが朝、次男から届く。八ヶ岳には天候等の理由から登ることができず本当に残念だった、というのがその内容だった。今週前半の南アルプスは確かに大雨だったらしい。
夕刻、ミヤギ写真館のオヤジさんのお通夜に出かける。
東京オリンピックのころだったか、親戚のセキネ耳鼻科にアメリカの女子学生がホームステイをし、ウチでは彼女に見せるため、桃の節句と端午の節句の人形をいちどに飾った。そのとき床の間の脇に座った我々を記念写真に収めてくれたのがミヤギのオヤジさんだった。フラッシュバルブは既にしてあったが、オヤジさんはあえてマグネシウムの粉を焚いた。古き良き時代以前の話である。
「菊屋ホール」で手渡された式次第の裏表紙には、キリスト教の葬儀についての説明が並び、その最後の項目には「キリスト教の葬儀では死を忌み嫌うものあるいは汚れとは理解いたしませんので、お清めの塩や御酒などはお配りいたしません」とあった。「あたりめぇじゃねぇか」と思う。
僕はどのようなお通夜、お葬式においても、周囲の人に促されない限り塩や酒で自分を清めることはしない。一体どこの誰が僕に取り憑いて祟るというのか。ただし「御会葬御礼」の封筒に収められている小袋の塩をそのまま捨ててしまうのはもったいないから、これはゆで玉子か冷やしトマトに振って使うべしとは思う。
東北地方を北上するにつれ雲は薄くなっていき、岩手県に入ったと同時に青空が見えてくる。冷たい小糠雨におびやかされて半袖ポロシャツの上に長袖Tシャツを、その上には薄いジャケットを羽織ったが、新幹線の中にいてそれらを上から脱いでいく。
二戸駅には10時27分に着いた。プラットフォームにまで大音量の演歌が聞こえてくるから何ごとかといぶかしみ、改札を出て音のする方へ歩いていくと、そこは「ヤンマー」のキャンペーン会場だった。ソフトクリームを舐めているおじさんたちの脇を通り抜け、体育館のような場所に入ってみれば、しかしステージには着物を着た演歌歌手の姿は見えず、黒くて大きなスピーカーがあるばかりだった。
青森県での用事を済ませ、二戸駅15:09発のはやて20号に乗る。青森県といえば本州の北の果てにて、ここへの出張には泊まりが必須と考えていたが、日帰りも可能とは驚いた。
通過した盛岡、仙台、福島に良い盛り場のあることは知っている。そういう北の街の、八代亜紀のようなオカミはいらない、肴も炙った烏賊よりはホヤの刺身の方が好きだが贅沢は言わない、しかしどこかの居酒屋で飲んでその街に泊まってみたかったなぁと考えても、文明の利器はいまだ夕刻のうちに宇都宮駅へ到着してしまった。
いったん失敗すると1時間前に戻って作業をし直さなくてはならないような、つまり電話や来客に煩わされながらしたくはない仕事を朝4時から始める。
午前、あした使う"JR"の切符を買うため今市駅へ行くと「休憩中」の札が窓口に立っている。その休み時間は列車の発着に合わせているのか、こま切れに1日あたり8回もある。「短時間の休みを頻繁に取りつつ長時間の勤務をするのも楽じゃねぇだろうなぁ」と考えながら手ぶらで帰社する。
特許庁からある種の督促状を受け取った件につき、先週、依頼先の弁理士事務所に「一体全体どうなっているのか」と電話を入れたところ「折り返し返事をします」と言われていまだに返事がない。
よって午後に電話を入れ「先生の事務能力が欠如してることは分かってるんですから、事務係の君がしっかりしなくてはダメじゃないですか」と、先方の若い女の人に苦情を述べる。当該の先生からは1時間後に手続き完了の連絡が入った。
早朝にした仕事の続きをするため、午後のなかばから来客を避けてふたたび自宅へ戻る。
夜、食卓にくつろいで「外であれこれ飲み食いするのも悪くねぇけど、ウチでのんびり鍋を肴に焼酎のお湯割りが飲めるのは幸せだなぁ」と思う。欠けているのは「百徳食品公司」 の豆板醤のみである。だれか香港までひと走りしてくれないものか。
MG(Management Game)に2日間を打ち込むと、通常はスキーに行って帰ってきたほどの疲労を感じる。まして今回は4泊3日の行程にて、その最終日にはどっと疲れの出るものと思っていたが、今朝の自分のからだを振り返ってみれば、普段となにも変わるところはない。
北千住駅7:40発の下り特急スペーシアに乗ったところで「そういえば自由学園男子部中等科の遠足は今日が出発の日だったな」と思い出す。僕は八ヶ岳を登り下りした経験はないが、長男によれば侮れない山だという。気候が荒れ模様に推移する中、次男はどのような頑張りを発揮するのだろうか。
9時30分に帰社して通常の業務に復帰する、と書きたいところだが、留守中に届いた郵便物の処理に昼までかかる。
二日酔いになるほどの量ではなかったが5日間を飲み続けたため、今夜はとりあえず断酒をしておく。
イスラムの王が造営した宮殿のテラスに立ち、グラナダを再征服したキリスト教の王は「この眺望を失った者の悲しみよ」と詠嘆した。その故事を思い出させるような今朝の見晴らしである。
通常のMG(Management Game)では初日の夜に行われる"strategy accounting"の講義が、今回は翌朝に繰り延べとなった。よって本日は標準より30分だけ早い9時より研修が開始される。
G卓まである今回の「なにわMG」2日目第4期に、僕はD卓にいた。勝負が始まってみればこの市場は競合する6社がそれぞれ異なる戦略の元にゲイムを展開しているから互いのぶつかり合いが無く、気分は楽だった。しかし陥穽は目立たないところにある。時間配分を誤った僕は更に長期労務紛争のカードを引き、次期繰り越しの戦略チップはたった1枚という頼りなさだ。
昼食を挟んでの第5期は印象深いものだった。市場のランクをひとつ上げてC卓へ行ってみれば、ここには激戦の上位卓から降りてきた、次期繰り越し戦略チップをゴッソリ溜め込んだ面々ばかりがいる。視野狭窄に陥れば倒産は免れ得なかったが、大量の商品を安値で供給する下請けをしてくれないかと、なぜか工場を持たないハルタオサムさんから提案を受ける。
実際の商売においては僕の好みから遠く隔たったこの戦術を、結局は生き残りをかけて採用し、30数分後には期初の自己資本を伸ばすことに成功した。しかし振り返ってみれば計算ミスを原因とする大幅な資金不足に陥るなど、反省すべき点は多々ある。
2日間の戦いを終えての最優秀経営者賞は、バンドーシューコーさんが最終到達自己資本717円を以て奪還した。また次点の優秀経営者賞はヨシダゲンゾーさんが、次々点の優秀経営者賞はチバイクタローさんが獲得した。
「なにわMG」にだけある表彰の部としては「ビリケン賞」がハラダミエコさんに、初MG殊勲賞はイマムラコーヘーさんに、初MG敢闘賞はヤマシタキヨシさんに贈られた。また「なにわ」の「な」にひっかけた「第5期決算7位賞」はコーノカツヒコさんが、同じく「なにわ」の「にわ」にこじつけた「第5期PQ28位賞」はタカハラヤスヒコさんが獲得した。
800字ほどの感想文を書き上げ時計を見ると5時30分だった。いまだ感想文を書き続けている人もいる中で実行委員長オータマジュロさんの挨拶があり、「第2回なにわMG」は無事に完了した。
参加者全44名中の16名ほどが午後6時より「浪花ろばた八角千里中央店」に集まり、打ち上げをする。この2日間の思い出と共に、ちかい将来から遠い将来につながる情報交換をし、7時にこの賑やかなお店を後にする。各々の新幹線で東へ移動する面々は新大阪駅にて7時20分に解散した。
緻密に詰めた計画を以て参加者を迎えてくれた「なにわMG」のオフィシャルには大きな賛辞を送ると共に、その幾分かでも「日光MG」に反映していこうと考えつつ東京駅に至り、御徒町より甘木庵に帰着する。