昨年の8月3日に銀座の鮨屋「よしき」で「何か冷たいお酒」と頼んだら、店主のニシヅカヨシキさんは奧の冷蔵庫から山本合名の「ドキドキ夏生」を出してきた。感じ入りながら僕は「その蔵のお酒だったら間違いはありません、僕はその蔵まで行ったことがありますから、よく分かります」と言った。
明日から「第21回日光MG」が開催される。社員ほか大部分の参加者は明朝の会場入りだが西順一郎先生と修善寺のタケシトーセーさんだけは前泊の日程で、夕食の場所には"Finbec Naoto"を選んだ。
ワイン蔵を持つこのフランス料理屋は別途、日本酒も準備している。しかしワインとは異なり日本酒のリストはない。もしも日本酒を所望すれば、そのときのありったけをワゴンに並べてくれる。
西先生はワインをお飲みにならない。もっとも好まれるのは日本酒だ。「どれにしましょうかねぇ」という先生の声を聞きながら僕の目は林立するうちの1本に吸い寄せられる。そしておもむろに「先生、美酒の設計です。間違いありません」と言う。
子供のころ、どう評価して良いか分からない食べ物の代表が平貝の刺身だった。舌の奧、ほとんどノドに近いあたりに感じる独特の味あるいは香りを持つ貝柱。これを醤油につけてメシのおかずにしても別段、大して美味いとも思えなかった。おでんやかまぼこのたぐいもまた、あまり有り難いおかずではなかった。
いま平貝の刺身や鮨は僕の好物である。おでんについてはおでん屋へ行って遂におでんまでたどり着かないこともあるが、かまぼこはこのところ、蕎麦屋で頼むなど好きになってきた。
月に8日と決めた断酒ノルマのうち、今月27日までに達成できたのは4日のみだった。ノルマを守ろうとすれば残り4日のすべてを断酒日に充てなければならない。そして今日はその3日目である。
平貝の刺身、烏賊の刺身、おでん、かまぼこを子供のころに疎んじたのは、ひとえにこれらをメシのおかずにしなければならなかったからだ。そしてその違和感から解放されたのは、これらを酒の肴とするようになったからだ。
本日の晩飯は鍋だと、夕刻になってから知らされた。鍋もまたメシのおかずにはしづらい。しかし当方は断酒の意欲満々である。というかなぜか飲酒への欲求はあまりない。そしていざその鍋をおかずに米のメシを食べてみれば予想に反する美味さにて、今月7日目の断酒を楽々と達成する。
恵比寿ガーデンシネマ休館のニュースが、きのうから多くテレビで流されている。マスコミュニケーションでの宣伝を見る限り、映画をとりまくあれこれは賑やかなように感じられる。しかし実際には、大規模な宣伝で観客を動員しようとする映画にのみ人は集まり、そうでない作品にはほとんど閑古鳥が鳴いているのだろう。
日本映画ばかり300本を観た年があった。多分、1970年代中ごろのことだ。池袋の文芸座では、オールナイトの5本立てを観ながらペン先に目を遣ることもなく小さなノートに詳細なメモをしている人がいた。銀座の並木座に長男を間に合わせることのできなかったのは僕の、親としての怠慢である。
ある夏に、恵比寿ガーデンシネマで「リストランテの夜」を観た。映画のはねた後は権之助坂下の「仁平」で鮨を食べたような気がする。いまこの映画を検索エンジンに当たってみると日本での封切りは1997年となっている。目黒といえばむかし駅前の映画館で北野武の"HANA-BI"を長男と観た。これもまた1997年夏のことと思われる。
文芸座のウェブペイジを訪ねて、今月の15日からきのうまで「三國連太郎の映画人生をたどる」という企画の組まれていたことを知る。20日に上映された「にっぽん泥棒物語」は、僕の思い出に残る映画のひとつだ。
「2月3日の夜はオレもヒマなんだよな」と、文芸座の上演スケデュールを上から下へスクロールさせていくと、その日は「怪獣総進撃」と「ゴジラ対メガロ」の2本立てだった。僕はマニアではないので、この齢でその手の映画を観ることはしない。
2月16日の水曜日から22日の火曜日まで「高島屋東京店」の地下1階食料品売場に出店をする。その案内状の送付先を午後、顧客名簿から抽出する。これは精密を要する作業にて「ちかくまで参りましたのでお寄りしました」というような人の頻繁に訪れる環境ではできない。よって"ThinkPad"を持って自宅へ避難する。
途中で失敗すればまた振り出しに戻ってやり直さなくてはならないこの作業を、むかしマクロに組んでみたことがある。しかしどうしても途中で考える、目で見て決める、というアナログな作業が発生するため、そのマクロは「ただ作っただけ」に終わった。
週に2回、月に8回と決めた断酒ノルマがこのところ守れていない。先日の健康診断で明らかになったことだが1年前より体重が2キロ増えていたのは、この断酒ノルマと関係しているのではないか。
というわけで夜はハンバーグステーキをおかずに日光市塩野室産米のメシを食べ、飲酒は避ける。「米のメシって、酒なんかよりよっぽど美味いよな」とは、何度「バカ」と言われてもついつぶやいてしまう、僕の口癖のようなものだ。それではなぜ僕は酒を飲むか、それが分かったとしても酒の止まることはないのだから、考えても意味はないのだ。
冬至から1ヶ月と5日が経った。しかし朝はいまだ暗い。それがようよう明るくなってきたころ北西に向いた窓を恐る恐る開けると、きのうの夕刻から降り始めた雪は早くに止んだらしく、屋根の上には霜と見まがうほどの浅い積雪しかなかった。
昨年の9月27日に「今年は夏の暑かった分、その揺り返しとして冬は寒くなるらしい」というようなことを、町内のタノベタカオちゃんが言った。そして今、日本列島の日本海側では大雪が続いている。雪が多いという報道はされているが、今年の冬が例年にくらべて寒いかどうかについてはとんと聞かない。
冬至から1ヶ月と5日が経っても夕刻は早くから暗い。「随分と日が延びてきたねー」という慣用句のような挨拶は、一体いつごろから発せられるものだっただろう。
昨年の初春に感じたような、外へ出る気もしないような寒気を、僕はいまだ感じていない。夜7時20分を過ぎて「第212回本酒会」の開かれる「やぶ定」へと向かう。
今日は会社の健康診断にて、朝食を抜く。会社がヒマな時期ということで、毎年いまごろがそれに充てられるのだろう。ヒマな時期に健康診断を行うのは結構だが、1年でもっとも寒い時期、というのが困るといえば困る。心電図を得るための吸盤はヒヤリと胸に吸い付き、血圧が余計に上がりそうである。
僕は歯医者であれば口の中で道路工事まがいのことをされても平気だが、採血だけは苦手だ。痛みの問題ではない、血管に針を刺されるということがしごく不気味なのだ。その不気味さとは、たとえばカエルの活き作りというようなものがあったとして、それを食えと命令されたら感じるようなものだ。「グエーッ」と叫んで逃げ出したくなる。
そしてそのような採血にまつわる不気味さは、販売係のハセガワタツヤ君も同じく感じているという。ハセガワ君は毎年、健康診断の日には有給休暇を申請する。健康診断のためだけに出社し、社内における最後のひとりとして採血を受けると、そのまま帰宅して布団に潜り込んでしまうのだという。
カエルの背中の皮を削ぎ、ここに腹から取り出した腸や肝を盛りつける。カエルは目玉をキョロキョロ動かしたり口をパクパク開け閉めしている。そういうものを「さぁ、食え」と言われても食えるものではない。カエルはやはり、ピーナツオイルで揚げるのが一番である。
「このカードで貯まったポイントは"amazon"で使えます」という売り文句に惹かれて作った"CITI CARD"は、ほどなく"amazon"との提携を解消し、持っている意味はなくなった。しかし僕はそのころ"American Express"のカードも持っていて、しかし自動的に貯まるポイントはいつまでも使わず流れるままにしてあった。
"American Express"のカードを維持するには会費がかかり、しかし会員に対する特典を、僕はポイントも含めて何ひとつ使わなかった。よって20年ほども持ち続けたこのカードは解約をした。そして手元には"amazon"でポイントの使えなくなった、だから僕の使い方からすればポイントはただ貯まって流れていくだけの"CITI CARD"だけが残った。
この"CITI CARD"から本日「ご利用代金明細をお届けします」という件名のメイルが届き、パスワードを打ち込んでその明細を見てみると、今月はじめにインターネット経由で予約した、ヴェトナムのホテルの宿泊料が既に計上してあった。
ヴェトナムでは次男とサイゴンに3泊、フーコック島に2泊する。そしてそのホテル代の合計は日本円に換算して17,232円だった。「平均してひとり1泊1,723円。そんなに安かったかなぁ」とキツネにつままれた気分だが、カード会社の明細にもそう書いてあるのだから、まぁ、そんなものだったのだろう。
目を覚ましてから数十分のあいだは布団の中で静かにしている。そして「まさかまだ午前3時なんてことはねぇよな」と、枕頭の携帯電話を見たら4時50分だったので安心をする。
ノドを痛めてはいけないと、きのうは暖房を切って就寝した。そのお陰かノドは快調だが部屋は寒い。早朝のヒマな時間をやり過ごすため、ザックには本を用意してきた。しかしそれは読まず、すっと布団の中にもぐっている。そしていつの間にかまた眠ってしまう。
気づくと7時がちかくなっている。いよいよ起床して服を着る。そして廊下へ出て坪庭に目を遣って初めて、夜半に降雪のあったことを知る。
帰途に立ち寄った鮮魚店には干物と、それから冷蔵庫から出されたきのう以前の生魚が並んでいるばかりだった。よってそれらは買わず、ふたたび平潟へ戻って「大黒屋水産食品」のオバチャンに声をかける。そして鮟鱇を練り込んだ薩摩揚げなどを、社員の分も含めて買う。
今朝の午前3時から6時にかけて、日光には雪の予報が出ていた。雪は日光には降らず茨城県の海沿いに降った。太平洋岸から離れて内陸部に向かうほど雪の少なくなる不思議な景色を眺めながら、午前のうちに帰社する。
毎年この時期には茨城県の海沿いへ行く。そして鮟鱇鍋を食べる。宇都宮から多分、東に延びているらしい高速道路に乗り、2時間後に平潟の料理民宿「やまに郷作」へ達する。
部屋の暖房を強くし「メシの前に風呂、入ろうかなぁ」と考えているところにフロントから電話があって、これから鮟鱇の吊るし切りを行うという。よって玄関から宿の下駄を借りて外へ出る。
駐車場に吊された鮟鱇は40キロの重さで、これだけ大きな個体がこの港に上がることは年に数えるほどだという。宿のオヤジはその鮟鱇を、ほんの数分で解体してしまった。鮟鱇鍋をいくら食べても目玉に遭遇することはない。目玉はやはり、宿のオヤジや料理人が自らの特権を行使して隠匿してしまうのだろうか。
このあたりの鮟鱇は、肝を溶かして黄色く濁った汁の中で煮込まれる。僕は身には見向きもせず、クニョクニョプルプルギョックリしたあたりのみを箸で拾う。肝をたっぷり含んだ「通風持ちがこんなの食ったら一発でアウトだ」と思われるほど濃厚な雑炊は特に美味かった。
そして木の縁を持つ風呂桶の、しごく熱い湯に浸かってから就寝する。
天気晴朗なれども山には雪雲。"RICOH R8"が壊れ、"GRD III"はデジタルズームなど使ったこともないから今朝の山の景色は28mmで撮る。
ところでザックやショルダーバッグをインターネット経由であれこれ買い、1度使ってみたところその機能に隔靴掻痒の感があったから、あるいは届いて梱包を開け、すこし触ってみただけでその質感や各部の動作に気に入らない部分を発見したから即、人に譲ってしまうことが少なからずあると、以前この日記には書いた。
旅行中の街歩きにどのようなバッグを持つかは永遠のテーマだ。
ショルダーバッグを持てば観光客と認識され、有象無象いる客引きに声をかけられ面倒だ。ウエストポーチは更に目立つ。しかし持ち物のすべて、つまりカメラ、財布、メモ帳、ボールペン、地図、文庫本、部屋のカードキーなどすべてをズボンのポケットに入れては煩わしい。暑い地方へ行くことが多いからジャケットは着ない。メッシュ地の釣り用ベストは自分の好むところではない。
しかし永遠のテーマと言いながら実は何十年も前から結論は出ているのだ。旅行中の街歩きにバッグとして使って最も優れるのはスーパーマーケットの袋である。両手が自由にならないところを除けばほぼ完璧だ。
何十年も前からそういう結論に達していながら、今日も"Chico Bag"のペイジあたりを逍遙してしまう。宿痾としか言いようがない。
「楽宮旅社」の裏口から外へ出てトタン屋根の重なり合う路地を抜けると、ビルとビルとのあいだにメシ屋や屋台の集まる一角があった。1982年はじめのことだ。
あのころタイの大衆メシ屋は多く、グラスの3分の1ほどのところまで水を入れ、それを冷凍庫に保管していた。ビールの注文があると店はそのグラスを客の卓へと運ぶ。グラスの底の氷はビールを注ぐと融けて、縁のところまで浮き上がった。
ビールの肴は鹵味にした。ピンク色の照明を施したショウケースにゼンマイ状に垂れ下がる子袋を、僕は店のオカミに指さしで頼んだ。和辛子が欲しかったがもちろん、そのようなものはない。
僕は活字を欠いては一人で飲食をすることができない。そのときも何か読んでいたはずだが何を読んでいたかの記憶はない。
後に近藤紘一の「目撃者」を手に入れたとき「いずれこの本を携えて、また、あのヤワラーへ戻ろう」と考えたが、タイへ行くことは長く途絶えた。そしておととし遂にこの「目撃者」を持ってバンコク入りを果たした。しかしヤワラーへ足を踏み入れるまでには至らなかった。
「目撃者」は、本来であればバンコクよりもサイゴンに似合う。しかし2ヶ月後のヴェトナム行きでは荷物を減らしたい事情がある。持参すべきは「サイゴンのいちばんながい日」と決めた。そして夜になってから本棚にこれを探す。しかし見当たらない。誰かに貸したまま戻ってこなかったのかも知れない。明日になったら"amazon"に発注しようと思う。
商品撮影の立ち会い、という仕事が今日は目白のスタジオである。よって上りの特急スペーシアに乗る。目的地へ向かって北千住から乗り換えを繰り返す。その乗り換えの連絡が今日はことごとく悪い。当該のプラットフォームへ上がると、あるいは降りると、自分の乗るべき電車が目の前で発車していくのだ。そのたび当方は次の電車を待って5分かそこいらの時間をやり過ごす羽目になる。
スタジオの最寄り駅は都電荒川線の鬼子母神前と記憶していた。出発前に調べるべきだったが過去に2度も来た場所だったから若干の油断があった。途中で"iPhone"を取り出しGoogleマップを確認しようとするも、ダウンロードの速度が低くて使い物にならない。
地下鉄有楽町線を東池袋で降り、東池袋四丁目から都電荒川線に乗る。そして2駅目の鬼子母神前で降りる。そのままスタジオへ歩く道すがら、有楽町線の雑司が谷駅前を通過する。荒川線に乗り換える必要など無かったのだ。
撮影を無事に終え、今度は先ほどの教訓を活かして雑司が谷から池袋まで有楽町線で移動する。そして飲酒活動を開始する。
北千住駅の、東武日光線の切符売り場にたどり着いた途端、プラットフォームの方から「20時11分発、特急スペーシアが発車します」というアナウンスが聞こえる。1時間後の下り最終まで時間を潰さなくてはならない。これでまた酒の杯を重ねることになる。
ふと目覚めて外に目を遣ると下今市駅に着いている。「すわっ」と荷物を持って外へ飛び出し、何歩か歩いたところで、そこがいまだひと駅手前の新鹿沼であることを知る。自分はプラットフォームにいる。そして下り最終スペーシアのドアが閉まる。後続の電車はない。
「新鹿沼の駅前って、なんにもないのね」と話しかけると「活性化だー、つってロータリー作ったら、却って寂しくなっちゃったんだわ」と運転手は答えた。そしてタクシーは漆黒の例幣使街道を走り続ける。ウチまでの代金は7,910円だった。チェンライの食堂「シークラン」へ行けば、50回ほどはメシの食える金額である。
2008年3月16日に買った"RICOH R8"が昼に突然、壊れた。過露光を遥かに超えた画像4枚を記録した後、ディスプレイが真っ黒になった。そのまま更にシャッターを切り、コンピュータに移して確認すると、撮れた画像も真っ黒だった。撮影素子が死んだのだろうか。
メモに残さなければ何回故障したか覚えていられないほど壊れた"GR DIGITAL"にくらべれば「3年のあいだ良く保ったものだ」とも考えられる。
さてここでこの"RICOH R8"を修理に出すか、それとも新しいカメラを買うか、ということを決めなくてはならない。修理代にどれほどかかるかを知るには銀座にリコーの修理センターを訪ねる必要がある。あるいはリコーのサイトで当該の症状をクリックすると「不具合の修理料金の概算は19,500円」と表示された。僕のこのカメラの買値は39,370円である。
「新規に手に入れるなら"CX4"か、それとも"GXR"か」と考える。「リコー以外の選択肢はないのか」と問われれば「オレはデジカメなんて何でも構わねぇからリコーで良いんだ」と答えるだろう。
「私はスナップ派ですから、レンズには拘らないんです」と言ったのは桑原甲子雄だ。桑原の言うことが僕には良く分かる。空気感とか表現力とか、そういう人間の錯覚に依拠した曖昧さに僕は興味を持たない。
「レンズには拘らない」と言った桑原はバルナック型のライカを愛用した。「デジカメなんて何でも構わねぇ」という僕に買われては、リコーも迷惑だろうか。
3月末のサイゴンからフーコック島への、そして4月はじめのフーコック島からサイゴンへの"e-ticket"は「以下のリンク先をプリントし、パスポートと併せてチェックインカウンターへご提示ください」というメイルと共に届いた。
むかしの航空券は複写式の冊子状で、貴重品袋に入れて長く持ち歩くと赤いカーボンがこすれて文字が見づらくなった。今の航空券は、ハードとしては「ウチのプリンターから排出された紙」に過ぎず、何とも不思議な感じがする。
夜、自動録画による吉田類の「酒場放浪記」をまたまた観る。その合間にハイボールのコマーシャルが画面に流れる。小雪がハイボールを作りながら「ウイスキー1に対してソーダは3」と、レシピについての説明をしている。そこで「なぜ、オレのハイボールはソーダが大量に余ってしまうか」ということを突然に悟る。僕が自分で作るハイボールは多分、ウイスキー7に対してソーダは3くらいのところである。
雪はきのうの夕刻にもすこし降り、今朝は2日続けての雪かきをする。そして駐車場のあらかたが綺麗になったころ、瀧尾神社のタナカ宮司が来社をする。
水の神に供物を捧げ祝詞を奏上し玉串を奉奠する水神祭は、5年ほど前までは毎年1月15日に行ってきた。だから僕はこの日こそが水神祭の日と考えていた。ところがある日、先代のタナカ宮司の言うには「いつでもかまわない」とのことにて、以降は15日よりも早い時期にこの社内的なお祭りを行うようにした。
宮司が代替わりしてからは「何なら水の日にしましょうか」ということになり、今年は元旦から数えて2回目の「みずのえ」である本日が選ばれた。
「水神」の文字の彫られた、いつ頃からウチにあるのかは誰も知らない碑の前には、早朝より米塩かつお節野菜くだもの魚そして水と清酒が供えられた。そして宮司の準備の整ったところで灯明を上げる。水神祭は15分ほどで完了した。
ところでこの厳冬の最中にウチでは電気温水器のふたつあるヒーターのうちのひとつが故障して熱いお湯が出ない、また事務室のエアコンが故障して電気ストーブに頼らざるを得ないという、絶妙のタイミングで起きたふたつの故障により、うすら寒い日々を送っている。
そして夜は凍った雪を踏んで季節料理の「和光」へ行く。
雪の少ない日光にも、遂に雪が積もってしまった。それでもその深さは15センチに達しなかったからひと安心をする。この雪ではお客様の出足は遅いだろう、つまり店員のいない状態で店を開けてもお客様にご迷惑をおかけすることはない。そう予測をして開店時間は8時15分だが、7時30分にシャッターを上げる。
販売係のハセガワタツヤ君は開店の1時間前に出社し、社員駐車場の雪ならしをした。店舗駐車場については、7時40分から社員たちと雪かきを始める。今朝の雪はパウダー状にて、だからそれをスノーダンプで押しつつ社内に流れる川まで運ぶにも、そう大した力は要らない。駐車場の北の端にかまくらを作り、9時すぎに雪かきを完了する。
「温め酒」は秋十月の季語だが今日のような日にこそ温かい酒は欲しい。夜になってから洋食の「コスモス」へ行き、クローブの代わりにレモンを入れた"Hot buttered rum"を飲む。
今月11日に引きつづき、届いた年賀状と返信用のハガキを小さなショルダーバッグへ入れて上り特急スペーシアに乗る。しかし本日は先ず本を読み、そうしたら睡魔に襲われて、春日部がちかくなるまで眠ってしまった。よって年賀状への返信は、今日は1枚も書けていない。
同学会の新年総会に出席をするため、午後3時前に池袋の明日館講堂へ入る。本日、礼拝の司会を担った、下級生であり自由学園の教師でもあるタカハシカズヤ先生が読み上げてくださった、中等科1年生のひとりによる新年言志に大いに感心をする。
予定では午後5時12分に終了するはずの総会は、いつものことながらすこし延びた。ひとつ上のクラス、そして同級生との10人足らずで駅近くの料理屋へ入り、二次会を行う。
二次会が終われば次は三次会ということになり、しかし僕は今夜のうちに帰宅しなくてはならない。「ウワサワは本屋に行くとか言って消えちまうんだ」と、僕から目を離すまいとする上級生ウチダヒトシ君の隙を突いて駅コンコースから西武百貨店の食料品売場へ紛れ込み、西日暮里を経由して北千住に至る。
下り最終スペーシアを降りた下今市駅は、夕刻から降り出した雪に白く覆われていた。これが大雪になりそうであれば、明朝にかけていろいろと段取りをしなくてはならず、だからこういう晩に、いつまでも池袋にいるわけにはいかないのである。
店舗の坪庭ちかくに手水鉢がある。その鉢に落ちるが水が明け方の風に散り、周辺の草に氷りつく。その氷が昼になっても融けない。
3月末のサイゴンからフーコック島への、そして4月はじめのフーコック島からサイゴンへの航空券をインターネットで予約しながら、むかし香港で、香港から成田までの航空券をコンファームしたときのことを思い出す。
知り合いのアパートからエアインディアの香港事務所に電話をして繋がらず、しかしバンコクで買ったその安チケットが無効になっては路頭に迷う。僕はバスに乗って啓徳空港まで行き、中国語で何と書いてあったか、とにかく関係者以外立ち入り禁止の通路からエアインディアの事務所に入った。
航空会社の事務所といえば幾分かは華やいだ空気を持つものと認識していたが、そこには龍の模様のガウンを着た男がひとりいるだけだった。あれは本当にエアインディアの職員だったのだろうか。とにかく男は僕の航空券を持って物陰に消え、そして再び姿を現して、予約の受けつけられていることを僕に告げた。いま思い出してみれば、なにか夢の中の出来事のようだ。
昼に食べたカツ丼の影響か、夕刻になっても胃がもたれている。よって胃薬を飲むが、もたれはとれない。夕食には汁うどんを食べ、飲酒は避ける。
「竜頭も凍る奥日光」との見出しと凍った竜頭の滝の写真が、今朝の下野新聞の第1面に目立っている。この滝のすぐ脇を真冬に通ったことは数え切れないが、わざわざ立ち寄った経験はなく、だから新聞の写真の氷が平年よりも多いのかどうかの判断はつかない。
昨年の2月だったか3月だったか、とてもではないが、昼飯を食べに外へ出る気もしないような寒さの続いたことがあった。それにくらべれば今の気温の低さは、まだそこまではいっていないような気がする。
1983年末から翌春にかけては中禅寺湖が全面結氷した。僕は湖畔までその氷を見に行き、当時ウチの製造係だったヒラノショーイチさんにそのことを伝えた。ヒラノさんは翌日すぐに中禅寺湖へ行き、その氷の上を歩いた。そしてそのバリバリと割れる音に驚いて湖畔に飛び戻ったという。
同じころ、クロスカントリー用のスキーを履いて、中禅寺湖の氷上を対岸まで渡りきった女の人のいたことを人づてに聞いた。もしもそれが事実だったとすれば、大した冒険である。
「山高ければ谷深し」だか「谷深ければ山高し」だか知らないが、昨春から今春にかけては厳寒と猛暑が代わる代わる押し寄せている。日光は、これからまだまだ寒くなるだろう。温かいメシと風呂と布団さえあれば、とりあえずは幸福である。
どうにも貯金のできない性格にて、だから出て行ったお金を後から振り返り、すこしでも反省の材料になればと、2006年の6月から小遣い帳を付け始めた。小遣い帳とはいえ毎月の予算などなく、だから実際には節約の役には立っていない。
きのう遣ったお金をその小遣い帳に入力しようとして今朝、財布の中のレシートを机の上に並べる。そして、酔っていたから値段も見ずに買った鯨ベーコンが80グラムで3,500円だったことを知り「ダッフンだ」と思わず声を出す。
酔ってした買い物は夢の中の行いのごとく、時が過ぎればその記憶を失ってしまう。"Eddy Bauer"のザックを開いて「あぁ、そういえば」と思い出したのは、浅草橋から浅草まで歩く途中に見つけた古本屋での買い物だった。
今夜のテレビ番組は目にも耳にも五月蝿いものばかりだ。よって吉田類の「酒場放浪記」の、採り置いた録画を観る。
朝、所用にて上り特急スペーシアに乗る。その車内で年賀状の返事を書く。少なくない文字を手書きするため、そうたくさんの枚数は書けない。やがて車窓に東京スカイツリーが見えてくる。その画像を"iPhone"で撮り、ツイートに添付しようとするが、僕の乾いた指先にキーパッドが反応しない。このところ"iPhone"は「ただ持ってるだけ」である。
日本橋から用を足しつつ室町、今川橋、須田町、秋葉原と歩く。ここでさすがに総武線に乗って浅草橋に出る。ここでも用を足して、また遅い昼飯というか早い飲酒というか、そういうこともしながら浅草まで歩いてしまう。まるで江戸時代の町民である。
そうして帰宅して、昼は日本酒だったが今度は焼酎のお湯割りを飲む。
夏の山は青い空を背にして緑ふかく、それを当方は熱風の中に眺めて至極気持ちが良かった。それに比しての冬の山は雪をまとって厳しく、当方は、あの猛暑をうっとりと思い出すばかりだ。それでもこの1月が毎日のように晴れ、雪も降らないのは有り難い。
きのう次男に頼まれた、2学期の成績への感想を書いて封筒に収める。そしてその封筒に次男の担任教師の名を記す。次男は紺色の制服と制帽を身につけ、白鼠色のマフラーを巻いて午後、寮へと戻った。
終業から90分ほども経ち、腹の減っているところに晩飯のおかずはハンバーグステーキと知らされる。バキュバンで栓のしてある軽めの赤ワインを飲もうとして、やはり今夜は断酒しようと決める。
オイルヒーターやホットカーペットだけではいかにも部屋が寒い。よってボイラー室へ行き、暖房機に温水を供給する装置のスイッチを、この冬はじめて入れる。
1991年の春に自由学園の植林ティームとネパールを訪れた際に一夜、僕だけ一行を離れて、おじいちゃんの代から知り合いの、ネパール人の家で夕食をご馳走になった。
「日本へはじめて行ったとき、特に日本酒と、それからエビフライと焼き鳥と温泉には感服しました。しかしあれだけ美味い酒がありながら、私と会食したほとんどすべての日本人は料理屋の席へ着くなり『とりあえずビール』 と言いました。あれは一体全体どういう理由によるものですか」
とは、そのときその家のあるじに訊かれたことだ。それが分かれば僕も苦労はない。
平成22年度の町内組長を招待した今夕の町内新年会においても、燗酒を飲んでいたのは僕も含めてたったの4名。他の人たちはおしなべて冷えたビールだった。外気温は氷点下、卓上に出ているのは刺身と鮨である。
「美味い日本酒がありながら日本人はなぜビールばかりを飲むか」について、分かる人がいたら教えていただきたい。またまた同じことを外国人に訊かれないとも限らないのだ。
パリの展覧会に作品を出すと、昨年の暮に言っていた今井アレクサンドルから年賀状が届く。パリ17区の"Rue Guy-Moquet"や"Avenue de Saint-Ouen"のちかくから投函したらしい。
「1日に10ユーロあれば生活できるんだよ」と、出かける前に言った今井に「いくら何でも10ユーロじゃ無理だろう」と答えたことを思い出す。何とかやっているのだろうか。「諸々うまくいけばいいなぁ」と思う。
なお、僕が今井アレクサンドルを「今井」と呼び捨てにして敬称を付けないのは、"Jean-Michel Basquiat"を「バスキア」と呼び捨てにして敬称を付けないことと同じ理屈による。もっとも今井本人と向き合えば僕も「今井さん」と敬称付きで呼ぶ。当たり前のことだ。
ところできのう神隠しのように消えた玄関の鍵は、今日になって、次男の洗濯物の中から出てきた。不思議なこともあるものである。
学校の寮から次男が帰宅すると、普段は本人の洗濯しているあれこれを「この機会に」などと、まとめて念入りに洗い直す。その際には家の洗濯機では間に合わずにコインランドリーを使うこともある。
本日も、夕刻のうちに家内がコインランドリーの乾燥機に入れておいた洗濯物を、終業後に次男と取りに行く。備え付けの雑誌を読みながら、ふと振り返ると次男はすべての衣類を丁寧に畳んでいたから大いに感心して「だったらオレも手伝わねぇとなぁ」と、すこしばかり協力をする。
大きな段ボール箱に詰めた洗濯物をホンダフィットに載せて家に帰り、さて玄関の扉を開けようとしてポケットに手を入れると鍵がない。「そんなわけねぇだろう」と、更に念を入れて探っても鍵は出てこない。よって携帯電話で家内に助けを求め、内側から鍵を開けてもらう。
夕食の後、いまいちどホンダフィットに乗り込みエンジンをかける。ウチの駐車場から途中の道、コインランドリーの忘れ物カゴまで調べて、そのどこにも鍵は見当たらない。ウチの玄関前には川が流れている。鍵はそこに落とした可能性もある。懐中電灯で入念に川面を照らすも水量は多く、その流れも速い。鍵はどこにも見当たらない。
そしてなかば開き直って居間へ戻り、家内と次男との3人で百人一首をする。ウチのそれは朗詠のCDつきで、これを回せばオジサンが下の句を2度くりかえすこともあって、すべての札が各々の手元に集められるまでにはたっぷり1時間を要した。
紛失した鍵が誰かに拾われ、その誰かがその鍵をウチのものと認識し、悪意があれば僕の寝首をかくことも可能であるが、なかば開き直って就寝する。
店舗の犬走りには開店と同時に花の鉢を出す。しかし春先は寒さが厳しく雪の降ることもあって、鉢は花ではなく万両と決めている。その万両の厚い葉が、朝日を受けて光っている。
年始の挨拶に来た取引先の顔を見て「そうそう、電話しようと思っていたんだ」ということが今年は多い。会社の中の修繕をしたいところ、買い増したいと考えていた消耗品、かねてより訊こうとしていたことなどが、その場ですいすいと決まっていくのだから気持ちが良い。
社内における新年の催しには水神祭と新年会がある。水神祭は17日に行うと、瀧尾神社からは連絡があった。新年会はいまだ新年らしさの残るうちにした方が良いと考え、昨年末に場所を予約した。その、焼肉の「大昌園」へ6時20分に全社員が集合する。
会合の食事は好まなくても、社員とのそれは好きだ。そして今夜のことは、レジで支払いをしたところまでは覚えているが、それ以降の記憶はない。焼酎とマッコリを同時進行させたせいかも知れない。
1996年3月、当時小学校4年から5年に上がる春休みにあった長男を連れて香港へ行った。香港は中国への返還を翌年に控え、着陸しつつある旅客機が啓徳空港へ向けて旋回する際には、アパートの屋上を走る子犬の姿まで目視できる時代だった。
香港ではモジュラージャックの差し込める公衆電話を探して尖沙咀を4キロほども歩いたり、小雨の中、気根を不気味に垂らした巨木の並ぶ、そしてひとけの無いビクトリアピークの頂上を一周したり、今では鳥インフルエンザが怖くてとてもできたものではないが、旺角だか油麻地の市場を、鳥の糞を踏みながら見て回ったりした。
そういう旅行を次男とはしていないと、昨年の夏に家内との会話の中でしたところ「連れてって上げてよ、香港」と言うので「15歳で香港もねぇだろう」と答えた。するとたまたまそばにいた長男が「だったらフーコック島に行ったら」と提案し、僕は一も二もなく乗り気になった。フーコック島はヴェトナム南部にある、魚醤の名産地である。
秋に成田とホーチミンの往復航空券を買い、そこでひと安心をして、以降はヴェトナム関係の本をゆるゆると読むのみだった。しかし考えてみれば当方の、3月末から4月はじめの日程は春休みに重なる。そろそろホテルの予約をした方が良いのではないか、そう考えてきのう今日と、フーコック島のバンガローに続いてサイゴン、と書こうとすると"ATOK"は《地名変更「→ホーチミン」》と、使い手の注意を喚起するところが気に入らないが、とにかく宿泊施設3ヶ所をインターネットで予約した。
「旅は不便なるがよし」と考えてはいても、人間はつい便利に転ぶ。便利と不便との配合をどれほどの比率に保つか、というところがなかなか難しい。宿は安いところばかりを選んだ。子連れで贅沢はしたくない。それよりなにより高級なホテルに泊まるのは格好悪いという気持ちが、かつて南の国の安宿を泊まり歩いた僕には染みついているのだ。
事務室の大机の上に「高島易断所總本部編纂平成二十三年開運暦」というものがある。初詣の際にどこかでもらったものか、あるいは年始まわりに来た誰かが置いていったものか、そこのところはつまびらかではない。とにかくこの暦の八白土星丙申生まれの項目を読む。
「資産の増大か業務の繁盛あり」(それほど甘かぇねぇだろう)
「何かと多忙も大事から優先」(そりゃそうだね)
「無謀怠慢に無駄骨を用心し」(無謀と怠慢はオレの得意項目だ)
「吉」(終わりよければすべて良し、か)
読点もなしにずらずらと書かれた一行だから、どこで区切って良いのか分からないが、とにかく「吉」なら一安心か、しかし僕は占いのたぐいは信じない。それでもまぁ、今年も気分を引き締めていこう、と思う。思っても忘れがちではあるが。
ここ1週間ほどは、朝の6時30分になると、いまだ明け方の気配を残した空と山を背にして家々が朝日に色づき始める。そしてその硬質の美しさを嘆賞している閑はない。
1月の前半は、年末の繁忙に紛れてできなかった諸々を、徐々に片付けていくときでもある。そして事務係のコマバカナエさんには、2種の書類の作成を頼む。また別の書類については、同じ事務係のカワタユキさんに頼むことになるだろう。
1月の店舗は、以前は成人式の15日まで忙しかったが、今はせいぜい今日明日くらいまでの賑わいではないだろうか。その繁忙の中で社員たちと立ち働けるとは張り合いのあることだ。
終業後にコンピュータから、フーコック島のバンガローを予約する。この島への行き帰りに泊まるサイゴンのホテルについては、いまだ決めていない。
夜、オフクロからもらったボジョレヌーヴォーをひと口飲んで「おー、美味めぇ、これ」と不覚にも声を出してしまう。人生いろいろ、ワインも色々である。
初売りは嬉しい。この日を期して売り出す品の売れ行きが楽しみだったり、陳列の方法を新しくした品の売れ行きが楽しみだったり、あるいはたかだかあいだに1日の休みを挟んだだけだが、社員の顔を見るのも楽しみだし、第一「今日のお客様には、一体どれほどの数の品を買っていただけるか」と想像することも楽しみだ。
朝7時30分に事務室のシャッターを上げると、ちょうど生け花のカワムラ先生が到着したところで、先生は早速、正月用の生け花の仕上げをしてくれた。
新年一番乗りのお客様には毎年、日光市朝日町の「片山酒造」が吟醸酒の酒粕で醸す焼酎「粕華」を差し上げている。今年最初のお客様は、今早朝に福島県から出ていらっしゃったというヨシヅヒサエ様で、ヨシヅ様には許しを得て記念撮影をする。
初売りの日は忙しい。昼にいたって僕は、それまでのフリースのセーターを木綿の長袖Tシャツに慌ただしく着替えた。そして夕刻、閉店の3分前にいらっしゃったお客様のお買い物を以て昨年1月2日の売上金額を超えたときには「へぇ、そんなこともあるんだなぁ」と、すこしばかり感動した。
本日出勤の社員にはささやかなお年玉を手渡し、通用口を閉める。そして今夜も冷たい日本酒を飲む。
元旦には先ず家族で墓参りに行く。帰って家内はお雑煮を温め、それを仏壇、神棚、お稲荷さん、水神、地神と、家や会社の中を歩いてお供えする。人間がお雑煮にありつけるのは、その後のことである。
昼前に瀧尾神社と追分地蔵尊の2個所に初詣、初参りをする。その足で老人介護施設「森の家」を訪ね、おばあちゃんとしばし談笑をする。おばあちゃんが僕の髭の白いところを触って「何だか年寄りじみてるね」と言う。早々に床屋へ行き、短く刈ってもらわなくてはならない。
朝飯が遅かったから昼飯は抜き、午後は本を読んだりブラウジングをしたりする。家内と次男は年賀状を作るため事務室へ降りたが、僕は年賀状を書くことについてはとうに諦めている。いっそ今年の松の明ける前に2012年壬辰の年賀状を印刷屋に頼んで作ってしまおうか、というようなことも考える。
夕刻から明朝の初売りの準備をし、早々と入浴をする。からだの暖まったところで鄙には希な会席料理屋「ばん」のおせち料理を肴に強く冷たいお酒を飲む。そして長男と次男にお年玉を渡す。