昨年の暮からこのかた啓蟄前の虫のように静かにしていたオフクロがいきなり事務室に来て買い物に連れて行けという。そういう次第にてオフクロをホンダフィットに乗せて郊外へと向かう。
「なぜ、いま買い物なのか」と考えて「そうか、今日までは5パーセントの消費税が明日からは8パーセントに上がるのが、その理由か」と気づく。そして"UNIQLO"、電気の「コジマ」、そして業務用のスーパーマーケットを回って、しかしオフクロの買ったものはごくわずかだった。
マスコミの報道によれば、買い急ぎ、買い溜めが全国的に起きているらしい。しかしオフクロと回った3つの店は、どこも混み合ってはいなかった。増税に対しては、栃木県民はおしなべて恬淡としているのだろうか。
きのうの「大貫屋」のチャーハンにはワケがある。
あるときにはひと晩に3杯も食べるほどラーメンの好きだった僕が、2月8日から2週間以上も続いた「腹減らない病」「酒欲しくない病」を境に「ラーメン欲しくない病」にも罹ってしまったらしい。そしてこの3月には驚くべきことに、ただの1杯もラーメンを食べていない。このようなことは恐らく、親から離れて暮らすようになった15歳から今日まで絶えて無かったことのように思われる。
「であれば、新記録達成」とばかりに「大貫屋」ではラーメンのたぐいを避けたのだ。
「腹減らない病」「酒欲しくない病」からは抜け出せたが「ラーメン欲しくない病」はいまだ続いているような気がする。この奇病はいつまで続くのだろう。
おとといあるウェブショップでワインを買ったとき、不思議に感じたことがあった。
そのワインの在庫は20本と表示をされていた。よってプルダウンで"20"の数字を選び、支払い方法にカードを選んで先へ済むと「その決済方法では、支払いの限度を超えています」と警告が出て注文ができない。
僕の持つカードは「楽天カード」のみで、その使用可能限度枠は高くない。それでも普段飲みのワイン20本が買えないほど低くはないだろう。そう考えて調べてみると、現在の使用可能枠は70数万円と出た。
「なるほど、カードの使用限度枠はショップ側の設定によるのか」と気づいたので、その枠に収めるべく15本を選び、通信欄には「20本でも24本でも買える。しかし御社の規定により、それがままならない」と記して注文ボタンをクリックした。
そうしたところ本日の午後になって当該のウェブショップから電話が入った。
「表示の在庫は20本だったが、実際には6本しかない。不足分はこれから仕入れるので配達まで数日はかかるが、消費税は現在の5パーセントで処理をする。カードの使用限度枠は引き上げた。よって15本を超える注文も受けられる」
というのがその電話の内容だったため、僕は注文数を口頭で24本に増やした。
ところで僕は昨秋、同じワイン12本を同じ店から手に入れている。同じ店とはいえ前回はその楽天店から買い、今回はそのYahoo!店に注文をした。不覚にも今回はじめて気づいたことだが、同じ品でもYahoo!店には楽天店より8.6パーセント安い値を付けている。
「ラクテンの方は色々と『カカリ』がかかるので値段を高くしているんですか」
「えぇ、まぁ、そうですね」
とは、そのとき僕と店側の交わした会話の一部だ。検索エンジンの吐き出した結果は、よくよく吟味をしなければならない。
長男は10年前に大学に上がった。僕の、そのころはいまだ生きていたオヤジが「靴でも買ってやるか」と言ったので「だったらコンピュータ、買ってやって」と僕は頼んだ。長男の要求を満たす水準にまで"Thinkpad"の内容を高めると、その価格は40万円を超えた。今では同じ性能のコンピュータが一桁万円で買える。
次男はことし大学に上がる。たまに必要になるだろうスーツは先日、池袋のどこかで「つるし」を選んだという。コンピュータは手持ちのもので充分、スーツに合わせる靴は、現在の普段履きである"MERRELL"の"JUNGLE MOC"で構わないという。
とはいえ日本には「足元を見る」という言葉がある。それなりの靴が、やはり必要ではないか。
長男が大学に上がるとき"trippen"の"yen"を僕は買い贈った。「これ以上の靴は無い」と僕の考えている"trippen"を、底を張り替えながら10年のあいだ履き通した長男は先日、しかし「重くて緩い」と、大して気に入って使ってこなかったような感想を漏らした。
「であれば」と、これを次男に試し履きさせたところ、長男より足の少し大きな次男には、まるで誂えたかのように馴染んだ。
長男に訊くと、これを次男に譲るについてはやぶさかでないと言う。次男も靴などお下がりで構わないと答える。「悪いね」と僕が謝ると「いや、全然」と次男はこだわらない。
"trippen"の中敷きは、履くうち足の裏とおなじ形に凹んで、持ち主は、まるで柔らかい陶板の上にでも立っているような気分になる。"trippen"の持つ醍醐味のひとつである。次男には来月にも、新品の中敷きを買って寮に送ってやろうと考えている。
年度末だからなのか、はたまた来月1日から消費税が上がるからなのか、理由は知らないけれども、このところ安売りの宣伝が多くメールで届く。
革製品のお店からの誘いには、僕はそれほど乗らない。革で作ったあれこれはとても魅力的ではあるけれど、世に次々と現れる新素材による品物の方が革によるそれよりも、軽く丈夫で手入れを必要とせず、且つ安価だからだ。
困るのは登山用品を扱うメーカーからのものだ。こちらには前述の新素材による道具が汗牛充棟のありさまである。また服の素材に限っては、新しいものも、また木綿や麻のように何千年も前からあるものも僕は好きだからだ。
今朝も、アメリカのある登山用品会社のメールマガジンにより、安売りの情報を報される。そしてそのhtmlメールを開くと、たちどころに欲しい品がいくつも目に付いた。ひとつは木綿による襟付きの頑丈な半袖シャツ、ひとつは帆布による頑丈な半ズボン、そしてもうひとつは新素材による長袖のTシャツである。
ここで一旦立ち止まり、自分の服の傾向を振り返ってみる。
僕は半袖の襟付きシャツはほとんど、ポロシャツとアロハしか着ない。今回の襟付きシャツはボタンダウンだから、買ったとしても着る機会は年に1度くらいのものだろう。
2番目の帆布による頑丈な半ズボンは、過去に同じものを何本も穿きつぶしてきた。優れた品であることは分かっている。しかしながら、そこまで丈夫なものではないものの、僕は既にして木綿の半ズボンを色違いで2本持っている。
3番目の、セーターのようにして使おうとしたTシャツは、紺色が欲しかったところ、安売りに出ているのは白のみだ。
こうして買わなくても良い理由をそれぞれ集め、本日のメールマガジンによる誘惑には打ち勝つことができた。その代わりと言っては何だが、シャツ2着と半ズボン1本の数倍の金額を投入して白ワイン24本を買う。
2月8日に発症した原因不明の「腹減らない病」は、それから19日後の26日ころから快方に向かった。しかしこの病をきっかけとして食べ物の好みの一部に変化が生じ、また胃袋の強さがいささか薄れたような気がする。
月に1度の割で開かれる、日本酒に特化した飲み会「本酒会」がきのう行われた。会場は「玄蕎麦河童」だった。ここの天ぷらは上出来でも、今の僕には、特に夜には重すぎる。よってそれはお土産にしてもらった。
そのうちの海老をのぞく茄子、ピーマン、南瓜、そして大葉を今朝の味噌汁の具にする。油や脂を好む性向は「腹減らない病」を経ても変わらない。そして濃い目に仕立てた赤味噌の味噌汁は、朝からメシの量を大いにはかどらせた。
海老の天ぷらについては、オフクロの昼の天丼として、冷蔵庫に取り置く。
今週の晩飯は、火曜日は長男が、水曜日は次男が、そして木曜日の今夜は僕が調理係を務める決まりになっている。肉を赤味噌で煮る料理は僕の得意のひとつで、冷蔵庫に眠っている肉を見つけ次第、味噌で煮る。
それにしても、得意なことについては、あまり得意とは思い込まない方が良いらしい。今夜は味噌にワインを多く加えすぎ、ソースがいささか緩くなってしまった。
朝は大抵、前夜に洗った食器を棚にしまい、コンロや調理台を磨く。台所を磨くのは、ひとえに、僕が掃除を嫌うことによる。台所も便所も使うたび清潔にしておけば、年末などの大掃除は不要になって楽である。
きのうの晩飯は長男が作った。今夜は、その長男と家内が出張、そして僕は酒を飲むため外に出る。よって晩飯は次男がオフクロの分も含めて作り、オフクロとふたりで食べるという。
僕が出かける前に次男は、トマトと生ハムのサラダ、白隠元豆のスープ、そしてトマトソースにたっぷりのソーセージを刻み入れたスパゲティを整えた。僕のしたことといえば、オフクロのためにワインの栓を抜いたのみだ。
春の湿りを帯びた夜気の中を自転車に乗り、大谷川を渡って大谷向へ行く。そして「一時」から「ど」へと、2本の濁り酒を飲む。また、それ以外のお酒も飲む。
「ホトトギス季寄せ」によれば「濁り酒」は秋十月の季語だ。しかし僕の中では濁り酒は、初春から春にかけてのものと意識されている。
21時すぎに帰宅すると、晩飯に使った鍋釜食器類はすべて洗われ、プラスティック製の赤いザルに伏せられ、あるいは斜めに立てかけられていた。空は北の一角を除いてすべて、雲に覆われている。
次男の3学期の終業式は、きのう行われた。当日の帰宅は遅くなるから、家での最初の晩飯はその翌日つまり今日になる。それを知って長男は、おとといから次男のためにスープを仕込み始めた。
長男は今日の夕方も台所に立ち、サラダを作る。今夜の晩飯の内容を僕は知っていたから、自宅へ戻るときにはエレベータを先ず2階で降り、ワイン蔵から1本を抜き出してのち4階へと向かった。
ワインはいち早く飲みたいが、そういうわけにもいかない。そうして次男を除く4人のグラスにワインを注いで回る。1本のワインも4人で分ければ、ひとりあたりの量は大したものではなくなる。その足りない分は、メシの後のアルマニャックで補う。
次男の通う学校の、あと数年で定年を迎えるだろう先生について「誰か池袋のモツ焼き屋でも借り切って、退職祝いの席を設けてくれねぇかな」と僕が口にすると、次男は次男で担任の名を挙げ「先生と北千住の天七で飲みてぇなぁ」と嘆息をする。
「飲みてぇなぁ」とはいえ次男はいまだ18歳で、飲酒の経験は無い。そして「親、教師、校医の誰がするにしても、若いヤツに酒の飲み方を教える人は必要だぞなぁ」と強く感じる。
"BUGATTI 35T"は、吸気側2個、排気側1個、これが8気筒分だから計24個のバルブのクリアランスを、2011年秋に「EBエンヂニアリング」のタシロジュンイチさんが調整した。その結果、それまで「ツインリンクもてぎ」の西コース1周つまり1,490mを走るたび1リットルのガソリンを費消していた2,000ccのエンジンは、その燃料消費効率を劇的に向上させた。
それでも年末の走行会には常に、予備のガソリンを持参する。そして結局は使わずに持ち帰ったガソリンを、3月下旬の本日になってようやく、ホンダフィットとフィアット500に分配する。
「ガソリンの質は日を追って劣化する」というタシロさんには年が明けるなり、ジェリー缶のガソリンはなるべく早く使うよう急かされてきた。しかしウチはクルマでの遠出をせず、またハイブリッド車のエンジンは燃料をほとんど食わない。
「ガソリンの質は日を追って劣化する」と言われれば何やら気にかかる。本日タンクに満たされた燃料を使い切るころ、季節は初夏になりかかっているかも知れない。
実に、4時台から空の明るくなり始める季節になった。それから40分ほどすれば、つまり5時40分ころには日が昇る。日光は今日も好天に恵まれるだろう。
好天は歓迎すべきものだけれど、この時期は着るものに悩む。標高の高い日光から東京へ行くときなどは、特にあれこれと迷う。
僕が書記を務める、日本酒に特化した飲み会「本酒会」では、毎月の例会に3本から5本の1升ビンが並ぶ。そのうちのどれが最も美味いお酒かといえば、それは最も早く飲み干されるお酒だと僕は思う。
それでは最も優れた衣服とは何か。人により意見は分かれるだろうけれど、僕においては「その服の価格÷着た回数」の値が低くなればなるほど良い服、ということになる。
それに当てはめれば、"Patagonia"のシンチラセーターや"montbell"の超軽量タウンベストなどは、僕にとっての良い服の筆頭ということになる。
パタゴニアのシンチラセーターは流石に着古されて、処分するばかりになっている。モンベルのダウンベストはそろそろクリーニングに出さなければならない。
そうして日の出から朝飯までの時間にコンピュータを開き、麻のセーター、旅行用パジャマ、そして来るべき冬のための下着各1点ずつを、"UNIQLO"のウェブショップに注文する。
"Archipelago Press"というシンガポールの会社により発行され、"Mainland Press"という、これまたシンガポールの会社で印刷された、信じられないほど厚い紙をページに用いた本を、今月10日から12日までの3日間に、バスの中で読んでいた。
バスはほぼ満員だったが、2席ならんで誰も座っていない場所がひとつだけあった。よって僕はそこを使うこととし、2席のうちの窓側に位置を占めた。そしてここで重い本を、ひじ掛けに置けない左腕を常に宙に浮かせたまま10数時間ほども読むうち、左の肩に異変を感じ始めた。
その、肩凝りとでも呼ぶべき異変は帰宅するとますます悪化し、しまいにはセーターを着るにも難渋するようになった。それから10日も経ってようやく本日、栃木市まで南下して鍼による治療を受ける。
治療を終えて新栃木駅まで歩くと首尾良く、数分後に下りの快速があった。その、浅草09:10発、新栃木10:31発の快速は三連休の中日とあって、満員以上の乗車率だった。
この快速は、下今市駅で前4両が新藤原・会津田島行き、後ろ2両は日光行きに切り離される。そしてそれを説明するアナウンスは日本語のみだ。だからこの列車に乗って下今市が近づいてくると、つい回りの外国人を見まわして「彼ら、乗り換え、間違えないだろうか」と、いつも尻が浮いてくる。
自分が外国人になったつもりで日本の公共交通機関を使ってみると、日本のガラパゴスぶりが良く分かる。もしも香港の地下鉄のアナウンスが広東語のみだったら、南インド鉄道の乗務員がヒンドゥー語しか話さなかったら、カイロからアレクサンドリアへ行こうとして見上げたラムセス駅の時刻表がアラブ語の表記のみだったら、僕の進退はそこで窮まるだろう。
現地語で「前4両が」だの「後ろ2両は」だの言われても、当方は皆目、見当がつかない。もっとも自らの勘違いによりとんでもないところまで連れて行かれるのも、旅の持つ醍醐味のひとつかも知れない。
彼岸の入りは18日だったという。春分の日である今日は彼岸の中日ということになるのだろうか。そういうことを知らずにこの歳まで来てしまった。家族はとうに墓参りをしたという。そして僕は家族に遅れること3日にしてようやく今朝、三菱デリカを運転して如来寺へ行く。
お盆とは異なって、18日に供えられた花はいまだ瑞々しく露を保っていた。その花の活けられている器に水を足す。
線香は、墓石の前と土まんじゅうの前の2ヶ所に上げる。墓石に手を合わせることはしない。土まんじゅうの下には代々の骨が埋められているから、こちらには手を合わせ頭を下げる。そのとき僕の頭に響いたのは賛美歌312番だった。
響いたのは「いつくしみ深き共なるイェスは」の冒頭ではなく、9から12小節目の「こころの嘆きを包まず述べて」のところだった。そして僕はこの部分の歌詞を「罪とが憂いを包まず述べて」と、誤って記憶していたことを、帰宅してから回した検索エンジンで知った。
夜は早めに入浴し、早めに就寝する。
「あたしも家内もいいかげん年ですからね、これからは夫婦ふたり、簡素に暮らしていこうと考えて、3年以上袖を通していない服はすべて捨てたんです」と語って僕を驚かせた人がいた。数年前のことだ。
そのとき「オレには絶対に無理」と僕が感じた理由を掘り下げてみれば、それは「金を出して買った服を捨てようとする思い切りができない」のではなく「家のあちらこちらに存在する服の中から、しばらく使っていないもののみを選び出し、捨てるべくまとめることが面倒」と考えていることと知れた。
ところが昨秋いきなり、それも服に限らず、ほとんど家1軒分の持ち物を整理する必要に迫られ、しかも5週間以内と期限を切られると、面倒などとは言っていられない、次から次へと行動を求められ、遂には生活空間の中にあって使っていないものの、ほぼすべてを処分することに成功した。
「持っていても着ない服」は、しかしいまだ、100リットルのビニール袋にひとつほどはある。これを昨年ネパールでしたと同じく、今年もどこかの国へ行ったついでに人に譲ってしまおうかと絵を描いてみる。
しかし譲られた現地の人は、それを自分の亭主や子供に着せることはせず、古着屋に売って現金に換えるような気もする。だったら自分の手で海外へ運ぶことなどせず、日本で処分する道を見つけてはどうかと頭を切り換えた。
試みに検索エンジンを回すと即、古着をワクチンに替える団体が見つかった。そのような仕組みを使えば僕のスーツケースは100リットルちかい巨大なものから機内持込用の小さなものになる。荷物が小さくなれば、行った先の空港から街の中心部までも、タクシーではなくバスや鉄道が使える。
そして「だったら、そうするか」という方向に、僕の考えはどんどん傾いていく。「古着をワクチンに」の団体に支払う「サービス利用説明書」と「専用着払い伝票」 の代金は、巨大なスーツケースを家と羽田空港のあいだで往復させる送料よりも安い。更には商品券ももらえるという。一挙両得ではないか。
毎日のように早寝をするから毎日のように3時台に目が覚める。そうして暗闇の中で仏間兼応接間のカーテンを開き、仏壇に花と水とお茶、そして線香を上げる。
あれこれするうち日が昇る。鶏鳴山の南側の里山では、日陰のみに雪がある。その白い色も随分と少なくなってきた。雪を黒くジグザグに切り取っているのは、伐り出した木を運ぶための道だろうか。
朝の大気はもはや、冬の厳しく澄んだそれにはほど遠く、常に霞を帯びている。日はますます長くなって、きのうは看板の照明を、タイマーに拠らず完全に落とした。
「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」の漬け込みを午前より始める。ワイン液は3日前の日曜日に、既に調合して冷蔵庫に保管しておいた。それより前の工程は、更にその2日前に行っていた。
"rubis d'or"も漬物の一種であれば「何月何日に完成」とは断定できない。これから様子を見守りつつ先の先まで手をかけていく。白いらっきょうが紅に染まるまでには、いまだしばらくはかかるだろう。
大井町の駅から外へ出たときこそ感じなかった風が、しばらく街を歩くうち、みるみる強くなっていく。目には砂埃が容赦なく飛び込んでくる。花粉症の人にとっては、弱り目に祟り目、泣きっ面に蜂の事態だろう。
用事を済ませ、ふたたび大井町の駅へと戻る。風はますます強い。
プラットフォームでiPhoneを取り出し、北千住までの道のりを調べると、上野で常磐線に乗り換えるのが最短と出た。よって京浜東北線を上野で降り、案内のとおり12番線のプラットフォームに降りる。
そうしたところ、この強い風により常磐線のダイヤが大幅に乱れている旨のアナウンスが流れた。こんなことなら秋葉原で日比谷線に乗り換えた方がよほど良かった。あるいは日比谷線にも、強風の影響は及んでいるのかも知れない。
北千住に着いたのが11時50分。下り特急スペーシアの発車時刻は12時12分。その22分間で買い物と昼飯を済ませるのは、ちと忙しかった。
常磐線が風に弱いのは鉄橋を渡る回数が多いからと、facebookに書いている人がいる。東武日光線も荒川や利根川を渡るけれど、こちらは遅れることなく下今市駅に着いた。
夜のテレビのニュースによれば、今日の強風がすなわち春一番だという。ならばホンダフィットのスタッドレスタイヤは外すべきか、あるいはもう一度くらい雪の降る日があるのか、どうなのか。「暑さ寒さも彼岸まで」とはいえ、いまだ油断はできない。
「庭の南の方へ行けば原宿駅のアナウンスが聞こえ、北の方へ寄れば千駄ヶ谷駅の放送が耳に届いた」というようなことを、むかし團伊玖磨の随筆で読んだことがある。それを思い出したのは、靴の底を張り替えるため"trippen"への行き方を調べたからだ。
"trippen"の原宿店は、原宿店とはいえ原宿駅と外苑前駅の中間にあって、原宿から歩いていく気はしない。代官山店は、代官山店とはいえ住所は恵比寿だ。どちらへ行こうかと考え、結局は駅から歩く距離の短い恵比寿店を選んだ。
その恵比寿店は、地図では恵比寿駅から800メートルと読み取れたが、歩いてみれば意外と近かった。そして、購入したのは2003年だから、使い出して11年も経つ"SHEET-WAX"の底の交換を依頼する。
「3週間か4週間」と伝えられた納期が過ぎて底の新しくなった"SHEET-WAX"は、そこからまた11年は履き続けることができるだろう。
「それにしても、團琢磨の屋敷はどれほど広かったのか」というようなことを考えつつ、今度は32年ぶりの代官山を歩いて代官山駅から東横線に乗る。
夏至が過ぎて日が徐々に短くなり、気温も下がるに従って、気分のふさぎ込んでくる人がいると聞く。僕はそれには当てはまらないだろうけれど、正月明けから2月一杯くらいまでは、どうも夜の街に出ていく気がしない。
2月は家内と長男が東京に1週間以上の出張をした。通常であれば当方はそれに合わせて1週間以上の外食を連続でしても良さそうなところだが、ずっと家にいて、僕の作ったメシをオフクロと二人で食べていた。
2月にはまた、交通や流通を麻痺させるほどの大雪が2度もあった。日光市今市地区の中心部ではアーケードが雪の重みでつぶれ、一体全体どこを歩けば良いのか判断のつきかねる日々がしばらく続いた。
そういう次第にて、2月はそれほどお金を使うことができなかった。節約は美徳かも知れないが、みながこの美徳を実行すれば、経済は冷え込んでいくばかりだ。
2月の反動か、3月に入ると同時に、あちらこちらのネットショップで、普段の月からすれば考えられないほどの買い物をした。
もっとも本とCDはすべて、amazonの中古品である。ネパール製の手編みの帽子はとても具合が良いので、昨年に引き続いて色違いの二つ目を注文した。これはネパールで買えば邦貨100円程度のものだろうが、日本では1,600円というのが片腹痛い。
「モノを買うときには、先ず捨てろ」とは、"Theory of Constraints"の先生シミズノブさんがついこのあいだFACEBOOKで言っていたことだ。頷ける意見だ。しかし捨てるのは勿体ないので、僕は大抵、捨てずに人に譲る。今回の買い物にはアロハ2着が含まれる。今回はそれより1着多い3着を、人に譲ろうと考えている。
早朝の仕事があるときには4時45分にアラームを設定する。しかし今朝は3時10分に目を覚ました。よくあることだ。着替えて食堂であれやこれやし、iPhoneの、4時45分のアラームに促されて製造現場に降りる。今日の空は、5時30分より前から明るくなり始めた。日の出の時間も日ごとに早くなっている。
朝飯のお膳に「しもつかり」が載っている。ウチでは毎年、旧暦の初午に合わせてこれを作り、赤飯、清酒と共にお稲荷さんにお供えをする。
「しもつかり」は、鬼おろしでおろした大根と人参、煎った大豆、そして塩鮭の頭を加えて長々と煮た、海の無い地方の貧しさを現しているような食べ物だ。その外観は猫の吐瀉物に似ている。
郷土食とはいえ「しもつかり」については、僕は子供のころより食わず嫌いを通してきた。それが27歳のとき「並木蕎麦」の当時の社長アオキウイチさんに無理やり食べさせられ、その瞬間から好物になった。
好物ではあるけれど、僕は「しもつかり」は特に勧められない限り、家で作ったものしか食べない。「人の握った鮨、おむすび、ぼた餅、練り切りなどは気味が悪くて食べられない」という人がいる。僕の「自家製以外のしもつかりは特に欲しくない」という気分も、それとおなじようなものだ。
「しもつかり」の塩分は、ひとえに塩鮭の頭に依存している。時代と共に塩鮭の塩分が低くなれば、「しもつかり」の塩分も低くなる道理である。
2月12日に作った「しもつかり」は、これが無くなる前に、朝飯のおかずだけでなく、夜の酒肴にもしたい。
早い日は20時台に風呂に入る。寝台には21時台に上がることになる。それで寝付けないということはない。目が覚めるのは3時台だ。布団の中でグズグズしていても4時台には起床できる。そして着替えて廊下に出る。
つい最近までは、食堂の扉を開けるなり温風暖房機を稼働させた。しかしこのところは、ふと気づいてみると、床暖房と温風暖房機の、どちらのスイッチにも手を触れないまま恬淡としている。気温は着実に上がってきているのだろう。
秋の彼岸からしばらくすると、国道121号線に接した看板の照明をいつから入れるか、ということを考え始める。春の彼岸が近づいてくると逆に、その照明をいつ切るか、ということを考え始める。あるいはもうそろそろ切っても良いのかも知れない。
友人のオカノトミちゃんから絵はがきが届く。一読してそれは、シドニー横浜線の客船の中で書かれたものと知れた。船がシドニーから横浜までの片道なら、日本からオーストラリアまでは飛行機で飛んだのだろうか。
客船の旅といえば何やら人付き合いの密度が濃そうな気がして、ひとりで勝手にしていたい僕の性格には合わないような気がする。それをいつかトミちゃんに伝えたところ、好きこのんでひとり孤独にしている客も船にはいるとのことだった。
インドシナの太い川を上ったり下ったりする船旅であれば、僕も一度くらいはしてみたい気がする。
2月8日から2週間以上も続いた「腹減らない病」「酒欲しくない病」により、どうも自分の食べ物の好みが一部において変わってしまったような気がする。赤坂で1杯、六本木で1杯、新橋で1杯と、ひと晩に3杯を食べたこともあるほど好きだったラーメンが、まったく欲しくなくなってしまったのだ。
年明けから2月7日までに食べたラーメンは、外で6杯、家で2杯の計8杯だから4.75日間に1杯の割合だった。ところが2月8日から今日までは、外で1杯、家で1杯の計2杯で、17日間に1杯と、食べる頻度が極端に落ちている。
ラーメンは中国のそれを原型としながら日本で独自に発展をしてきた。僕が高校生のころ北海道から東京に伝播した札幌ラーメンは、それまでのラーメンに比べて随分と量が多かった。以降、日本各地のラーメンは札幌ラーメンに引きずられて量を増やしたような気がする。
「腹減らない病」「酒欲しくない病」の最中から胃が弱ったことにより、中国や東南アジア諸国のそれからすればかなり量の多い日本のラーメンに向かう気力が失われたのだろうか。どうもそれだけでもないような気がする。しかしその「それだけでもない」感じをより細かく分析しようとしても、どうもできない。
「腹減らない病」「酒欲しくない病」が快癒した今も続く「ラーメン欲しくない病」は、いつになったら治るか。あるいはその日は突然やってくるのかも知れない。
きのうの鳥羽シーサイドホテルに引き続いてホテルアンビア松風閣でも、ロビーちかくのラウンジできのうの日記を書く。このホテルは山の上に建った巨大な施設で、窓からは駿河湾が一望できる。しかし春の霞のせいか、朝日は明瞭には見えなかった。
今日の出発はきのうよりゆっくりのため、朝飯の後に入浴をする。一昨日から激しく増減を繰り返した体重は結局のところ、初日の夕刻から800グラム多い60.9キロで落ち着いた。
08:30 ホテルアンビア松風閣出発
08:42 石原水産ショッピング
10:09 三保の松原を散策
11:13 日本平からロープウェイで久能山東照宮へ
11:45 久能山東照宮着
12:40 昼食
13:18 日本平を出発
14:00 東名高速富士川P.A.を通過
15:20 東名高速港北P.A.着
15:40 首都高速道路に入る
15:41 車内カラオケ大会開始
16:35 東北自動車道蓮田P.A.着
17:40 「花は咲く」をバスの車内で合唱
17:48 東北自動車道宇都宮I.C.から日光宇都宮道路に入る。
18:15 帰宅
目を覚まして枕の下からiPhoneを取り出す。時刻は3時05分だった。布団の中でしばらくゆっくりしてから浴衣の上に旅館の綿入れ羽織を着る。靴下も穿く。そして枕元に整えておいたコンピュータなどを持って部屋を出る。
早朝に机の使えそうな場所は、きのうのうちに下見をしておいた。その、ロビーちかくのラウンジで、iPhoneをコンセントに繋ぐ。Let's noteのバッテリーは容量に余裕がある。そして自由時間の少ないとき専用の箇条書き形式により、きのうの日記を書く。
08:30 鳥羽シーサイドホテル出発
08:57 伊勢神宮外宮着
09:30 外宮参拝
昨年62回目の遷宮が行われた社殿の前に、大きな玉石を踏みつつ進み入る。すると長年、団体を相手に苦い思いをしてきたらしい神主が「写真と撮るというようなバチ当たりなことはしないでくださいねー」と声を発する。その「くださいねー」の「ねー」の長音が、神主の装束には著しく似合わない。
「バチあたりなこと」とは「神を冒涜する行為」ということなのだろうか。そしてその行為を冒せば「神より罰が与えられる」ということなのだろうか。とにかく、トヨウケノオオミカミのバチなど当たってメシが食えなくなるといけないため、二礼二拍手一拝をして板垣の外に出る。
新しい社殿を右回りに巻いて歩き、古い社殿の裏の鳥居から板垣の内側に入る。そして21年を経た檜造りの貴重な建物を観察しつつ表の鳥居から外に出る。古い社殿と新しい社殿のあいだの距離は意外と狭かった。
昨年の遷宮のように、社殿が東から西へ移って後の20年間は繁栄の年になるという。逆に西から東への場合には安定の20年間になるという。しかし1994年から2013年までの20年間が安定の年だったと納得する日本人がどれほどいるか。せめてこれからの20年間が繁栄の年になることを祈りたい。
10:08 伊勢神宮内宮着
11:05 神楽殿にて神楽鑑賞
神楽殿に招じ入れられると、こちらの神主もやはり、団体による参拝客には手を焼いてきた節がある。
携帯電話はマナーモードにしても電話がかかってくれば震えて音を発する。だから電源そのものを切るよう神主より伝えられる。それを受けて携帯電話を持つ者は一斉にこれを取り出し、電源を切ろうとする。
しかしこの団体を構成するのは、ほとんどことごとく老人である。携帯電話の電源を切ろうとして妙なところを押してしまい、つい滑稽な音を出してしまう人もいる。それを聞きとがめた神主は更に強い調子で「止めてください」と命令をする。
伊勢神宮の神主に接して僕は、テッド・ネルソンの「ホームコンピュータ革命」で論じられる「司祭」を思い出さないわけにはいかなかった。そして「やれやれ」という気持ちで神楽殿を出る。
11:50 内宮参拝
12:00 内宮の参道を歩き宇治橋を渡る。
内宮の参道を歩きながら見られる景色は溜息が出るほど美しい。それは五十鈴川の対岸に続く里山も含め、膨大な手間と時間と資金を投入して弥生時代の日本を21世紀に顕現した、例えていえば三島由紀夫の戯曲のような人工美だ。新緑の晴れた日であれば、どれほど目に眩しいことだろう。
12:15 昼食
12:40 おはらい町通り、おかげ横町の散策
内宮の門前町ともいうべきおはらい町通り、そしておかげ横町の素晴らしい街並みに、俗っぽい店はほとんど見あたらない。「このお店では何々を」「こちらのお店では、あれとこれを」と、買うもの、買い食いするものを決めていざ、手に提げた信玄袋から財布を取り出そうとして、しかし肝心のそれはバスの中に置き忘れてきたことに気づく。あたりは大した賑わいだが、知った顔は一人もいない。
14:05 宇治橋ちかくの駐車場をバスで出発
16:00 東名阪自動車道御在所P.A.着
16:55 伊勢湾岸自動車道から東名高速へ
17:35 浜名湖を通過
17:35 天竜川を渡る
18:37 焼津藤枝I.C.で東名高速を降りる。
18:52 ホテルアンビア松風閣着
19:25 乾杯を待たずに飲酒開始
19:42 「挨拶が長いよ」の野次あり
19:43 二人目の挨拶
19:45 ようやく乾杯
20:00 しばし歓談
20:15 「憧れのハワイ航路」
20:20 「南部蝉しぐれ」
20:25 「ノラ」
20:30 「相撲甚句西方バージョン」
20:35 「今夜は乾杯」
20:45 「雪燃えて」
20:50 「風の子守歌」
20:55 「だんな様」
21:00 「祝い船」
21:10 「今きたよ」
21:15 「祭」
21:20 曲名失念
21:25 カラオケの応援たけなわ
お膳のものには一切、手を付けず、氏子に酌をして回っていたタナカノリフミ宮司の、ようやく席に戻ってきたのが21時32分。そしてその直後に〆の三三七拍子。タナカ宮司は結局のところ、ひと切れの刺身も口にしないまま宴会場の出口へと飛んでいった。部屋に戻る氏子たちを見送るためである。
22:00 入浴
22:15 脱衣所に無料の電気あんま機を発見。そのまま寝入る。
22:50 電気あんま機の上で覚醒
23:10 就寝
iPhoneの目覚ましは04:00に設定しておいたが、3時に目が覚めた。僕はよほどのことがない限り、翌朝に着る服は前の晩から枕元に用意をしておく。それを闇の中で身につけ、食堂に出てきのうの日記を取り急ぎ書く。そして4時45分に家を出る。
05:00 「栃木県神社庁上都賀支部」による「第62回 神宮式年遷宮団」のバスが瀧尾神社を出発。
05:54 鹿沼I.C.より東北自動車道に入る。
06:10 早くも車内にビールやチューハイが配られ始める。
06:27 羽生P.A.着
06:57 蓮田P.A.着
07:10 蓮田P.A.で乗り込んだ業者がお土産の予約販売を開始。
07:35 首都高速道路川口料金所を通過
08:50 首都高速道路飛鳥山トンネルを通過
09:30 第一東海自動車道(東名高速道路)東京料金所を通過
10:38 御殿場市を通過
11:05 富士川S.A.着
12:43 浜名湖を通過
13:55 三重県一帯に雪の予報
14:10 ナガシマスパーランド通過
14:25 鈴鹿付近は横殴りの雪
14:35 亀山P.A.着
15:35 伊勢自動車道伊勢I.C.通過
15:46 二見浦着。
16:05 二見興玉神社は浜の砂が頬を打つ強風。参拝せず写真のみ撮って撤収。
17:00 鳥羽シーサイドホテル着
18:40 総勢322人による夕食を開始。
20:00 宴たけなわ
20:54 就寝
ここしばらくでは珍しいほど山が晴れる。空は青くても、山には雪雲のかかることが多かったのだ。
明日から2泊3日の日程で伊勢へ行く。目的は文字通りのお伊勢参りだ。しかし日光と伊勢を往復する手段が神社の募集したバス旅行ともあれば、こう言ってはバチが当たるかも知れないが、一番の楽しみは車内での本読みということになる。
午後、その2泊3日のための持ち物を用意する。旅行社が寄こした案内書には、服装は背広にネクタイ着用とある。そのあたりについて、たとえばウールのジャケットと木綿のパンツなどの組み合わせでも構わないのかどうかを瀧尾神社のタナカノリフミ宮司にただしたところ、上下揃の方が無難とのことだった。
早朝から夕方まで背広を着てバスに揺られるつもりは毛頭ない。とすれば背広は持参するしかない。僕の仲間内では「お引きずり」と呼ばれるキャスター付きのスーツケースは、2泊3日程度の旅には、なにか大げさな気がして使う気がしない。
よって安くもない三季用の背広を折りたたみ、2日分の着替えと共に"GREGORY"の"DAY & HALF"に詰め込む。ここに更にコンピュータとその電源部品、カメラやメガネや常備薬、それに加えて筆記用具などの細々とした品も入れるのだから楽でない。
夕食後はiPhoneに明朝4時のアラームを設定し、22時すぎに就寝する。
「LUMIX & Let'snote修理工房」は、製品筐体内の部品を交換したときには、それを証明するため古い部品を返してくれる。今朝になって、その返却された部品を本来の場所に載せてみる。
左クリックボタン直下に位置する6ミリ四方ほどの囲いの中には、電気的接触に関するものだけでなく、押された力を戻すためのスプリングのようなものも組み込まれているのだ。そしてその小さな矩形をまじまじと見ながら、自分のうかがい知ることのできない細かい仕事のことを思う。
秋葉原の、昌平橋にほどちかい場所から神保町までは目と鼻の先とはいえ、田舎で"door to door"のクルマに乗り慣れた者には、歩くことをためらうほどの距離がある。それを好天に誘われるようにして、特に裏道を選んでたどってみる。
駿河台坂と靖国通りを三角形の斜辺のように繋ぐ富士見坂は、馴染みのある場所だ。好きな通りだから今日もわざわざ遠回りをしてここに足を踏み入れる。すると、僕が学生のころからあった登山用品屋が、洒落た感じの蕎麦屋に変わっていた。
この登山用品屋では数ヶ月前に、帆布製のアタックザックを見たばかりだ。僕は山の道具は旅行中の利便性のために買う。古典的な重いザックなど今さら買うつもりもなかったが、それでも歴史のある店の消えて無くなることは、なんとなく悲しい。
「食べたい、食べたい」と考えつつ、量が多そうなため入ることを遠慮していたラーメンの「味噌や」も、いつの間にか焼肉屋になっていた。
「三日見ぬ間の歌舞伎町」という言葉がむかしあったけれど、いま東京で人の集まる場所は、ほとんどどこでも「三日見ぬ間の」ではないか。そして買いもしない登山用品屋や、食べもしないラーメン屋が消えて「悲しい」などとつぶやいている僕は、それこそ勝手な人間なのだ。
2011年8月4日に購入した"Let's note"の、左クリックボタンの感触が、1ヶ月ほど前から芳しくなくなってきた。よって先月18日に、秋葉原にある「LUMIX & Let'snote修理工房」に持ち込みの予約を入れた。その予約日が今日である。
「最低6時間は預かりたい」との工房側の返事を受け、始発の上り特急スペーシアに乗る。そして秋葉原には9時すこし前に着く。
日比谷線を秋葉原で降りると、昭和通り口で地上に出る。ここから電気街口へ最短距離で移動する方策を僕は持たない。遠回りをしながら中央通りを渡り、割烹「赤津加」にほどちかい修理工房に入って"Let's note"を預ける。
空は快晴だが、ときおり吹く風は冷たく頬を刺す。昌平橋を渡って靖国通りには出ず、神田川と靖国通りのあいだの、緩やかに起伏する道を歩く。駿河台下ちかくの小さなセレクトショップは、品揃えは好きだが商品の値段は好みでない。よってあれこれの服や靴は見るだけで買わない。そして神保町に至る。
神保町に来ればかならず訪ねる"ICI"で"SEA TO SUMMIT"の透明なポーチを見つる。こういうものをやたらに買っては自分の使い道に合わず、すぐ人にくれてしまうとは、僕の悪癖のひとつだ。そうと知っていながら後で買うための参考として、その品名をiPhoneに記録する。
今日は忙しいことは何もない。昼食の後は"STARBUCKS COFFEE"の、大きな窓から差し込む日差しを受けつつ本を読んだりする。
ところが神保町から移動した先の大井町では、雪が激しく舞っていた。所用を済ませ、戻った秋葉原にも雪はちらついていた。
2月に電話で予約をしたときも、また今朝の申し込みのときも、修理の見積もりはクリックボタンの交換のみで7千数百円と教えられた。ところが実際には、「LUMIX & Let'snote修理工房」ではキーボードも含めて新品に交換してくれて、請求は6,720円だった。
壊れたコンピュータをその日のうちに治してくれる、この工房がある限り、僕は"Let's note"を使い続けるような気がする。各社のサービスセンターは、今や続々と東京の郊外へと場所を移している。1990年代から秋葉原で頑張り続ける"Panasonic"には、エールを送りたい気分だ。
御徒町で調べごとをし、北千住ではおなじく調べことと飲酒活動をする。そして下りの最終スペーシアに乗る。
「土光敏夫は功成り名を遂げて後も、なお好物は目刺しだった」という美談めいたものが世間一般に広まったのは、僕が20代のときのことと記憶する。いま検索エンジンを回してみれば、周囲に推されて経済団体連合会の会長に就任したのが1974年。鈴木善幸や中曽根康弘に乞われて臨時行政調査会長を引き受けたのは1981年とあった。
「土光さんが目刺しを好んだのは質素な生活の実践によるものではなく、ただ好きだったからだ」との意見もあったが、その目刺しは湯島の「丸赤」製で実は高価だった、との説もある。
以前は「目刺し」と聞いても口にする気は全くなかった。ところが今年1月13日の「水神祭」の供物を下げ、翌朝、そのうちの鰯の丸干しをオーブンで焼いたところ、これが美味くてびっくりした。
「酒よりも米の方が明らかに美味い」とは、僕と長男に共通する認識だ。そして鰯の丸干しも、酒の肴にするよりは柔らかめに炊いたメシのおかずとした方が明らかに美味い。それを知って以来、僕は鰯の丸干しを、この7週間に5パック計25尾も買っている。
ところでいま使っている鰯用の皿は何となくしっくり来ない。好みのもの5枚を揃えたいと考えつつ、なかなか果たせずにいる。
目覚めの時間帯として、最も得をした気分になれるのは4時台だ。5時台だと「まぁ、そんなものか」と、さして面白くもない。これが6時台ともなると「あーあ、寝坊をしてしまった」と、損な気持ちになる。
3時台の目覚めは、4時台のそれと、ほぼ変わらない。2時台なら「今朝はちょっと早いな」と感じ、0時台や1時台だとさすがに焦燥して「二度寝は可能だろうか」と考える。
上記のうち、このところは2時台に目覚めることが多い。「今朝はちょっと早いな」の時間帯である。前夜は21時台に就寝しているから「眠れない病」というわけでもない。
海外へ行くときの飛行機は、早朝発より深夜発の方が圧倒的に好きだ。特に、海外での早朝発は好きでない。
深夜と明け方のあいだの時間にアラームをセットしても、緊張のため、まず熟睡はできない。ホテルの、照明を落とした暗いフロントで精算を済ませ、タクシーを呼ぶようベル係に頼む。安全を旨とすればリムジンを予約しておくべきだが、これはウンザリするほど料金が高い。そして座席のどこを探っても安全ベルトの見つからないタクシーに収まり、夜明け前の高速道路を疾走する。
深夜発の飛行機であれば、鉄道などの公共交通機関を使い、タクシーより数百倍か数千倍かは知らないが、空港まで安全に行くことができる。しかも料金は安い。
羽田から初めて深夜便に乗ったときには、眠るための薬をオフクロにもらった。デパスとハルシオンを同時に1錠ずつ飲まないと眠れないと、オフクロには言われた。そして言われた通りにすると、ほとんどノックアウトを食らったボクサーのように、僕は一瞬にして眠りに落ちた。
毎夜21時台に就寝できる人間は、眠るための薬などに手を出してはいけないのだ、多分。
春分の日は冬至と夏至の真ん中にあたる。その春分の日まで、指折り数えればあと17日となった。当方にはいまだ真冬の記憶が鮮明だから、このところの夕刻は随分と明るい気がする。朝なども、5時台から空が白みはじめると、これまたすこし驚く。その驚きはもちろん、嬉しいたぐいのそれだ。
日の昇る方角が、気づかないうちにかなり左、つまり東に寄ってきた。春分の日には、日は真東から昇るのだろうか。そういうことを天文に詳しい人に訊くと、微に入り細に亘って説明してくれて、その詳しさを以て余計に分からなくなることを知っているからハナから訊かない。春分の日も多分、正確には冬至と夏至の真ん中ではないのだ。
自身の誕生日を知らずに育った志ん朝が、ある日、そのことについて訊ねたところ「とにかく生まれたんだから、いいじゃねぇか」と、親の志ん生は答えたという。
そして僕も「細けぇことはどーでもいいから、年がら年中、夏至の国ってのは、ねぇかな」と考える。
あちらこちらから届くメールマガジンを読むことはほとんどない。優れた情報が手の平から流れ落ちて消えてしまうのは日常茶飯のことだ。いちいち気にしていては生きていけない。
次から次へと届き、読まないまま指定のフォルダに保管されたり、あるいはゴミ箱に捨てられるメールマガジンだが、ごくたまに、どこがどう気になったかは知らないが、表題にチラリと視線を走らせ、とりあえずは開いてみることもある。
「新政酒造」の「亜麻猫改」は、そうして読んだメールマガジンにより、結果としては運良く注文できたお酒だ。そしてこれを日本酒に特化した飲み会「本酒会」に持ち込んだところ、すべての会員は驚倒した。「天洋酒店」のアサノサダヒロさんが書いた「日本酒というよりも、何か新しい、美味しい飲み物」という文章は本当だった。
会の翌日、今度は自分用の「亜麻猫改」を、僕はアサノさんに注文した。
その「亜麻猫改」を夜に抜栓する。先週来それは家の最も寒い場所に保管されてきたから気温とほぼ等しく冷えている。そうして先ずは長男のグラスを、その薄く白く濁った液体で満たす。
「まぁ、飲んでみろよ」と言われて長男は冷えたそれを口に含み嚥下するなり「なにこれ、美味い」と驚きの声を上げた。そう。「亜麻猫改」は、そういうお酒である。
「長男と5合ずつ飲めば一発で空く」と考えたが、僕は今夜は2合と少々で降参した。人を驚かせるに足るお酒は、2合と少々でも飲み過ぎと知る。明日はちと量を控えることにしよう。
「来年こそは手に入れたい」と、この「亜麻猫改」について考える人も多いだろう。しかし来年の「新政」は、今年とはまったく違うそれを出してくるような気もする。
ここ数日は好ましい陽気が続いた。先月末日に栃木県の南の方で活動をしときなどは、ホンダフィットの車内は冷房を入れるほどの暖かさだった。しかし同時に週末には雪の予報が出ていた。
暗闇の中で目を覚まし、廊下に出てカーテンを恐る恐る透かしてみれば、なるほど雪の降った跡があった。しかしその積雪は大福の上の打ち粉、あるいはシュークリームの上の砂糖ほどのものだった。しかも白くなっているのは歩道や空き地の一部のみで、車道は黒く濡れている。
それを確かめてから製造現場に降り、早朝の仕事をこなして食堂に戻る。時刻はいまだ5時を回ったばかりだ。
ふと気づいて"BOSE"の、応接間に置き放ったまま使っていなかったCDプレイヤーの埃を払って食堂の一角に据える。そしてアート・ペーパーの"AMONG FRIENDS"を聴く。
出社する社員のため、7時30分に事務室のシャッターを上げる。店の駐車場には、2週間前に寄せた雪しか残っていない。「春雪」という言葉は美しいけれど「まぁ、もう、いいやな」と、あたりを眺めながら思う。
事務机の左に提げたカレンダーの、2月の面を裏にめくって3月の面を表に出す。そこには前々から書き入れたあれこれの予定が、その種類別に異なる色のボールペンで書き込まれ、あるいは異なる色の蛍光ペンで強調されている。
製造部長のフクダナオブミさんなどは人が良いから、その、予定だらけのカレンダーを見て「うわー」と驚き、更には「こりゃ大変だ」などと言ってくれるが、そこにあるすべてが仕事に関係しているわけではない。あるいはそれが仕事であっても、好きでしていることなら苦でもない。
3月は日本では年度末だから、業界によっては多忙を極める月だろう。しかしウチの忙しさは、お彼岸くらいまではそれほどのこともない。しかし、それほどのこともないから「今のうちにやっておけ」ということもある。そして新たに思いついた「今のうちにやっておけ」についてはメモにして、事務机の引き出しに格納する。
「ころもがへ」は「ホトトギス季寄せ」によれば夏5月の季語である。僕としては今月中には、ことし1回目の「ころもがへ」をしたいと考えている。まぁ、できるだろう。