ことし初めてツバメに気づいたのは、社員と花見をした今月25日のことだったと記憶している。ツバメは味噌蔵のある庭と「早川設備」とを繋ぐようにして国道121号線を跨ぐ歩道橋の上で、集団で舞っていた。
関西ではことし「雪にツバメ」の景色が見られたという。日光では「雪と桜」はあったが「雪にツバメ」は流石になかった。それにしても、季節を強く感じさせるふたつのものが組み合わさると、そこから想像される色彩が、あたかも歌舞伎の舞台のような明るさを、あるいは花札の絵柄のような鮮やかさ帯びるのは、どのような理由によるものだろう。
店舗犬走りには昨年の暮れから万両の鉢が置かれていた。その万両の赤い実は、先輩のクスヤマモッちゃんが教えてくれたところによればヒヨドリらしいが、その「グギョー、ピーッ、ピーッ、ピッ」と大きな声で啼く鳥に食われて、徐々に丸裸に近づいていた。
その万両が、今日の午後には日光市森友地区の農家ユミテマサミさんが植え込んでくれたニューギニアインパチェンスに一気に交換され、その鉢ごとに異なる暖色は、何やら蛍光めいた光を帯びて僕の目を幻惑した。
夕刻には「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」の、今年に入って5回目のワイン漬け作業をする。次のロットの蔵出しは、来月の上旬になるだろう。
朝の5時前より製造現場へ降り、あれやこれやするうち朝日が昇り始める。日光の空は今日も快晴らしい。
冬のあいだ休んでいた、日光の朝採れ地野菜を「日光味噌のたまり」で浅漬けにする「たまり浅漬け」を、おとといの土曜日に再開した。その日「たまり浅漬け」は12時30分に売り切れた。よってきのうは倍の量をお作りし、しかし11時30分に売り切れた。
そういう次第にて今日は販売係のサイトーエリコさんを製造係に配置転換し、きのうの1.5倍、つまりおとといの3倍を調製したが、これまた12時30分に売り切れた。明日からの3日間は日祭日でもなく天気も良くないそうだから抑え気味の完成投入として、しかし来月3日からの4日間には、サイトーエリコさんには更に頑張ってもらおうと考えている。
「たまり浅漬け」には、以前はいろいろな野菜を使ってきたが、今は春から夏にかけては胡瓜、秋から冬にかけては大根で落ち着いている。
現在の胡瓜の価格は盛夏のそれに比べて2倍以上だろう。そのようなことには関わりなく、良いものがあれば僕はどんどん買う。それにしても「盛夏」という文字の、何と甘美に見えることか。あと2ヶ月と少々で、その盛夏は、来る。
きのう町内の総会へ行く際には、もうとうの昔にクリーニングに出しておかなければいけなかった、冬物の綿入れジャケットを着ていった。そのような寒さであれば、ガスストーブの焚かれた公民館には、ダウンジャケットを身につけた人も、また見受けられた。
今朝、洗面所の窓を開けると霧降高原の、以前はスキー場だった斜面に刷毛で掃いたような雪があった。「4月の末とも思えねぇな」と感じつつ夜の道を歩いていたころ、山では雪が降っていたのだ。
5月12日が祥月命日の、おじいちゃんの戒名には「薫風」の2文字が入っている。「薫風」と聞けば僕の頭には半袖のTシャツが思い浮かぶ。あと2週間もすれば、本当に風薫る季節になるのだろうか。
夜にたけのこごはんを食べながら「日本以外でタケノコを食べるのはどのあたりだろう」と考える。「しなちく」と変換しようとして"ATOK"では「しな」を「支那」と変換しないから辞書登録をして、ふたたび日記に戻る。
「支那竹」というくらいだから中国の文化圏ではタケノコを食べるだろう。タイでは2011年にタケノコを盛んに食べた。それ以外の地域での食竹については知らない。
1982年にスリランカで、登山鉄なみの勾配をこなす列車に乗ってキャンディへ行った。キャンディでは仏歯寺には寄らず、バスでペラデニヤ植物園へ直行した。50ヘクタールとも70ヘクタールともいわれる園内に、客は僕ひとりしかいなかった。
眼下はるかに象の遊ぶ川を眺めながら歩いて行くと、一抱えほどもある巨大な竹が現れて、僕は自分が原始時代に連れて行かれたような気になって怖くなった。あの竹のタケノコも食べられるだろうか。学芸員に訊いておけば良かったと思う。
朝の味噌汁の具はタケノコとワカメだった。この組み合わせにどのような薬味が加わろうと、味噌汁における僕のもっとも好きな具はタケノコとワカメだ。その理由を問われれば、味の好みとは極めて情緒的なもののため、言葉では説明できない。
あるいは、味の好みについては、これを極めて情緒的な要因によるものと考える僕のような人間と、調理というものが極めて化学的な作業であれば、化学的な作業の結果としての味に対しては、これを極めて論理的に解析している人もまた存在しているのかも知れない。
冬の、お客様の少ない時期にはお作りしていなかった、日光の朝採れ地野菜を「日光味噌のたまり」で浅漬けにする「たまり浅漬け」を、このゴールデンウィークから再開すべく、朝8時に「JAかみつが今市農産物直売所」へ行く。
夜は春日町1丁目の総会に会計係として出席をし、前年度の決算報告および今年度の予算案の発表をする。そして21時ちかくに帰宅し、またまたタケノコを食べる。
「グギョー、ピーッ、ピーッ、ピッ」という、鳥の大きな啼き声が耳に届くたび、事務机から立って窓に近づき、外を窺う。昨年末から店の前に起き続けている万両の、赤い実を食べ尽くしてしまうのが、この鳥である。
「この鳥である」とのみ書いて鳥の名を特定しないのは、僕が鳥に詳しくないためだ。僕は植物のことも何も知らず「だったらお前は何についてなら詳しいのか」と問われれば、僕は何についても詳しくはない。
今朝、日光市森友地区の農家ユミテマサミさんに電話をすると「オレも連絡しようと思っていたんだよ」と間もなく、とても立派なトマトひと箱を抱えてユミテさんは来てくれた。そして僕は「万両、もう終わりなんで、そろそろ次の鉢植え、お願いします」と注文をした。
「パラノイア」と呼びたくなるほど、ひとつの物事に詳しい人がいる。パラノイアは自らの「詳しい」ことについては、語って語って倦むことがない。消化管の癌をコーヒー浣腸で克服したという人に、90分に亘ってコーヒー浣腸の効能を語られたときは参った。その人にはコーヒー浣腸を解説するDVDまでいただいたが、それから数年を経た今も、視聴するには至っていない。
「畳屋職人気質」という名の製畳店を営むヤナギバヤシヒロシさんは畳のパラノイアだ。ヤナギバヤシさんは畳について語って語って倦むことがない。そして僕は、ヤナギバヤシさんによる畳の話に限っては、聴いて聴いて、いくら聴いても飽きない。
今夜はヤナギバヤシさんによる畳の話を聴きながら沖縄の畳表を触らせてもらい、その匂いをかぐうち、かつて沖縄で味わった古酒の味と、それを飲みながら観た舞踊を思い出して、しばしうっとりした気分になった。
沖縄の畳はそのうち、芭蕉布のような芸術品になってしまうかも知れない。「家の座敷に敷くなら今」なのかも知れない。
4月17日の鳥は午前4時41分に啼きはじめた。今朝、鳥の声に気づいたのは4時34分のことだ。
シンガポールでは、クルマは夕刻18時から朝6時のあいだにヘッドランプを点ける決まりと聞いたことがある。赤道直下の国であれば、日の出と日の入りの時刻は年間を通して変わらず、だから「暗くなったら」だの「充分に明るくなるまで」などというあやふやな言葉の法に無いところが何とも良い。
それでも冬から夏にかけて朝の徐々に早くなっていく、そして日没の遅くなっていく、日本の緯度がもたらす季節感は好きだ。
しだれ桜に辛うじて花の残る、味噌蔵のある庭にて夕刻より社員と花見をする。新年から春までに表彰すべき社員のいるときには、この花見の席を使うことがウチでは多い。
本日は販売係のハセガワタツヤ君に勤続十年の表彰状を、そして包装係のアオキマチコさんにはマネジメントゲーム100期達成の記念品を手渡す。5月もちかくなれば、空はしばし藍染めのような色を保ってすぐには暮れない。
日本酒に特化した飲み会「本酒会」は、市内の飲食店にて月に1度の会を持つ。しかし春の桜と秋の月の時期のみは例外として場所をウチの隠居と決め、肴は仕出し屋のものを用いる。
今年の桜は日光でも早く、いちいち隠居まで調べに行ってはいないものの、もっとも長く花をつけている「しだれ」でさえ、とうに散っているだろう。「散ってはいても、まぁ、花より団子だ」とばかりに今日の日を設定したが、午後より雨が降り出した。
よって本酒会員には夕刻になってから同報メールを送り、場所を隠居から事務室に変更する旨を報せる。
柴折り戸の鍵を開け、濡れた草を踏み、玄関を開け、更には参加者や仕出し屋の出入りする門のかんぬきを外しと、そういう手順を踏む必要のない、事務室での飲酒は実は楽だ。
ソニー式というか西式というか、仕事用の机はすべて壁に向け、空いた部屋の真ん中にフリーアドレスの大きなテーブルを置くと、これがまことに具合の良い共用スペースとなる。
このテーブルの半分を使って19時30分より6種の日本酒を飲む。この時期の本酒会では、1本目はもちろん「喜久水酒造」の「一時」である。
今週の末には早くもゴールデンウィークに突入する。そういう次第にて、この期間中も休まず営業する旨のメールマガジンを、自社ショップとYahoo!ショッピングにそれぞれ用意する。そしてその双方について、明日の午前11時に発行予約をする。
facebookページはどうしようかと考え、メールマガジンと同じくゴールデンウィーク中の無休を伝えながら「必要に応じては周辺の食事処などもお教えできます」と、僕が足で調べた結果を反映させた、タウンマップの画像をアップする。
facebookの画像といえば、事務机の引き出しに長くあって気になっていた1枚を、今日は「フォト自由レトロ倶楽部」へ上げた。学年を横断してスポーツで対戦するうちのバスケットボールリーグの一場面で、撮影された年は1973年または74年。場所は自由学園男子部体操館だ。
ところで、ここに写っているふたりのうちの右は僕で間違いないが、同級生のヒロオカヨシヒロ君とばかり思っていた左の人物については即、メンバーから「1学年下のイークニ君ではないか」と疑問が呈された。そう言われてみれば何やら、これを40年ちかく温存してきた僕でさえ、イークニ君というよりも、3学年下のシライ君に見えてくる。
この写真はいずれ現物を複数の同窓生に見せて、人物の特定をすることになるだろう。
日光の山々は、きのうの雪によって、その景色を冬のものに逆行させた。しかしそのおもてを子細に観察してみれば、雪はそれほど深いものでもなく、空が晴れていることと合わせて考えれば早晩、先日までの春の姿を取り戻すだろう。
洗面所の窓を閉め、食卓に朝刊を開くと、折り込まれたチラシの1枚に目が吸い寄せられる。それは益子の陶器市を報せるもので、だから「陶器市かぁ」と無意識のうちにつぶやく。いくらつぶやいても、益子の陶器市には行けない。その開催時期がゴールデンウィークと重なるとなれば、僕は会社を離れることができないのだ。
益子の街に泊まり、昼は陶器によるあれこれを見て回り、夜はそこいらへんの飲み屋で本を読みながらカウンター活動ができたら、それはいかにも楽しそうな行いに思われる。しかしここしばらくは、それは妄想の範疇でしか実現しえないことだ。
目と鼻の先の益子へは行けず、しかしタイ北部の山中で汗まみれ息たえだえになることはできる。その両者の関係をどう考えるべきか。
そうして夜は飲み屋メニュにて数年前に見学した蔵の上出来の日本酒を飲み、即、就寝をする。
僕はおよそコートというものを着ない。スーツのときには特に着ない。できれば裸で暮らしたいほどの薄着好きからすれば、スーツのようにかさばる服の上から更にコートを着るなどは、とても我慢がならない。
そういう次第にて、きのう「笠抜き」の行われた小倉町の「竹見荘」からは、雪に変わろうかという氷雨の中を、シャツと三季用スーツのみの格好で、およそ1キロの道のりを歩いて帰った。燗酒にほてった体に、その寒さは心地よかった。
ウチは日光市今市地区にある。今朝は、おなじ日光市でも久次良地区に住むサイトーヨシコさんが「ウチの方は雪だよ」と言いながら出勤をした。お客様のクルマには、中にはその屋根に分厚く雪を載せているものもあった。
日光にあっても、桜はとうに散った。桜の花びらなど、もうどこにも残っていない車道に、それほど遠くないところから来たクルマの落としていった雪が、こんもりと残っている。
夕刻にはすることがあって、西北西の空を見ることが叶わなかった。それでも明日からしばらくは、好天が続くらしい。
当番町小倉町5丁目が主催する「笠抜き」に、本日は瀧尾神社の責任役員として招待をされた。よって午後の遅い時間に小倉町の旅館「竹見荘」に入る。
渡御行列において、せいぜい小学生までの子供が務める露払いを金棒引という。その装束は、黄八丈のたっつけ袴に鮮やかな上衣の肩を脱ぎ、背には笠を背負う。この笠を脱がせる儀式を「笠抜き」といい、これを以て金棒引は神格化された存在から普段の子供へと戻る。そして大祭は正式に完了をする。
今年は例年になく多くの金棒引、そして稚児が大祭に参加をした。その理由などを当番町の役員に教えていただいたりするうち酒宴もたけなわとなり、大いに有意義な時を過ごす。
今年の当番町は、天気にも恵まれた。大祭の数日前には桜に雪が積もった。大祭の2日間は晴れて、その1週間後の今日はまた、夜になれば雪になるかも知れないとの予報が出ている。
春の大祭が過ぎれば、夏の八坂祭が早くも迫る。当番町には、その八坂祭の無事に完了するまで頑張っていただきたいと願っている。
朝、甘木庵の外に出ると、大柄で、スケートボードを持った、それほど若くはない、そして人間のちゃんとしていそうなオニーチャンが「すみません、湯島の駅って、どこですか」声をかけてきた。「このあたりまで迷い込んじゃぁ、混乱するばっかりだわな」と考えつつ「そこの大きな通りまで一緒に行きましょう」と答える。
春日通りに出ながら、切り通し坂を下って天神下の交差点で四囲を見まわせば地下鉄の駅は見つかるはずと教えると、オニーチャンは礼を述べて僕の指し示す方へと去った。
…とここまで書いて「いや、19日の朝はそうじゃねぇ。だって甘木庵には泊まってねぇもん」と気づく。連日の飲酒によるものか、どうも記憶が曖昧になっている。
上げ潮の日本橋川を茅場橋で渡る。小網町の「日本醤油協会」では、夕刻まで技術セミナーを受講した。
広い東京も、江戸時代からあった街で行動をする限り、移動距離も、従って移動時間もそれほど長くはならず、なんとなく楽な気分がする。そして湯島でカウンター活動をして後、2日ぶりに帰宅をする。
午前中はあちらこちら、11時ごろは日本橋の神田寄り、昼には新橋にいて、午後は銀座の1丁目。そこから道を渡って木挽町。歌舞伎座には、その裏側から近づいていく。
今月はじめに柿葺落の成った歌舞伎座の第二部は、1階9列7番の席で「弁天娘女男白浪」と「忍夜恋曲者」を、そして第三部は同じく1階2列7番の席で「盛綱陣屋」と「勧進帳」を観る。7番とは舞台に向かって花道右側すぐの場所で、役者の汗も飛び散ちってこようかというところだ。
僕はチラシにもパンフレットにも目は通していない。
二人舞踊「忍夜恋曲者」の、玉三郎演じる「傾城如月」の相手役「大宅太郎光圀」は、僕の記憶にある辰之助に生き写しだ。よって「誰かなぁ、踊り、上手めぇなぁ」と、じーっと観ていた。そして幕が下りてからロビーへ行き、配役を調べたら松緑とあった。
父親の辰之助が死んだとき、松緑はいまだ小学生ではなかったか。今日の松緑の踊りに触れて僕は、むかし辰之助の踊りを褒めていた、亡くなったおばあちゃんに見せて上げたかったと、しみじみ感じた。
幸四郎、梅玉、染五郎、松緑、勘九郎、玉太郎、左團次、菊五郎という、勿体ないようなオールスターによる「勧進帳」を見終えて外へ出ると、時計の針は既にして、普段であれば寝ている時間を差していた。そして夜の歌舞伎座を見返りつつ8丁目へと向かう。
外で鳥が啼く。その声に気づいて窓を開けると必ず、夜が明けようとしている。鳥の声に気づいたのは、今朝は4時41分のことだった。この時間は今後、日を追って早くなるだろう。夏至が近づけば、鳥は殊によると3時台に目を覚ますかも知れない。
ウェブショップの、僕の手に負えない部分を任せていたヒラダテマサヤさんが"ComputerLib"から独立をし、自分の会社「ベクトルエイチ」を立ち上げた。そういう次第にて北千住から日比谷線に乗り換え恵比寿に至る。
大きな街路樹を強い風が揺らせている。気温は随分と高く、僕はスカーフを外し帽子を脱ぎ木綿のセーターを脱ぐ。そうしながら平舘さんの会社へと近づいていく。
マンションの3階にあるヒラダテさんの仕事場に着き窓を開けると、正面に「サッポロビール」が見える。その向こうは「恵比寿ガーデンプレイス」である。僕がこのあたりに来たのは「恵比寿ガーデンシネマ」で「リストランテの夜」を観て以来のことだから、およそ16年ぶりのことになる。
ヒラダテさんの仕事場では毎月の諸々の分析のほか、今日はパンフレットのページを2013年版に更新した。いまだ大まかな作りにのこのページには来週のはじめにも、僕が文字を埋めることになるだろう。
夜、銀座から本郷三丁目へ移動すべく丸ノ内線に乗る。ふと気づくと、車両は逆方向の新宿に停車中だった。理由については分からない。そして池袋行きの車両に乗り直し、23時すぎに甘木庵に帰着する。
店舗に向かって右側の季節の書が「杉菜」に変わっている。これは多分、春4月の季語だ。
きのうは久しぶりに脳を激しく使い、そしてその後はいささか飲み過ぎ、よって今朝はどうにも頭が回らない。ピストンエンジンに置き換えれば、バルブがサージングを起こしたような塩梅である。
頭がそんな状況であるにも拘わらず、本日は公私にわたって小さくもない仕事が控えている。最善の道は何かと探れば、それは、その仕事についてのきのうまでの考えを、そのまま粛々と実行することだ。
動かなかった脳も夕刻には復旧した。そして長男と小倉町の真っ暗な路地を辿って居酒屋の「和光」へ行く。
「和光」の、今夜の音楽は加藤登紀子だった。「加藤登紀子も悪かねぇけど」と復旧したばかりの脳を徐々に動かしながら「ズンドコ節メドレーなんてCDはねぇかな」などということを考える。
「旭のズンドコ節」「ドリフのズンドコ節」「きよしのズンドコ節」そして「海軍小唄」。ズンドコ節ばかりが続いてメリハリに欠けるようなら合間にツーレロ節を挟んでも良い。検索エンジンを回せばそんなものが、どこかに見つかるかも知れない。
下今市駅07:04発の上り特急スペーシアに乗る。普段は北千住で降りることの多いこの列車で、今日は浅草まで行く。浅草からは都営浅草線を使って五反田に達する。そして本日の勉強部屋に入る。
"Theory of Constraints"を"THE GOAL"のような活字ではなく、物理的なモデルを使って説明する場に初めて立ち会ったのは2002年11月のことで、場所はシンガポールだった。しかしこの夜の研修では、僕はその直前にホーカーズで飲んだ白酒により意識はほとんどなく、その出だしのところを覚えているのみだ。
次の機会がそれから何年後に訪れたかは明確に記憶していない。とにかくその大井町での教室で僕は、生産現場における原材料から仕掛品を経て商品に至る「モノ」の流れの能率変化を目の当たりにして文字通り仰天した。
本日はその"Theory of Constraints"を業務に活かした実践報告を、午前から夕刻にかけて濃く聴く。主催者や発表者の顔ぶれを見れば、この研修に感想文を書く時間が付されることは予想できたはずだが、持参した筆記具はボールペンのみだった。よって誤字脱字を慎重に避けながら800文字ほどを書き、机上の勉強に終止符を打つ。
研修の後の、よってその場でもまた学び続けることを宿命づけられているにも拘わらず「皆の話を皆で静かに聴く」ということのできない点において僕は「交流会」あるいは「懇親会」というものが好きでない。今回も随分と逡巡しながら、今朝になってようやく参加を決めた経緯があった。
今日の懇親会の良かった点は、参加者が増えすぎたためにやむなく立食にした、そのリスクの回避手段にあったような気がする。狭い居酒屋に押し込められる式の飲み会ではなく、どこにでも回遊していける自由性は悪くない。
それでも今回の勉強会の主催者であるシミズノブヒロさんの、示唆や警鐘に満ちた片言隻句が会場の喧噪により聞こえづらかったのはやはり惜しかった。そしてシミズさんとふたり新橋で飲んだ、10年以上も前の寒い晩のことをありありと思い出す。
早朝の仕事から上がっておばあちゃんの応接間へ行くと、先ほどまでいた味噌蔵に朝日が差している。ここしばらくは晴天が続くらしい。
日曜日は特に、事務室にじっとしているだけでなく、店にも頻繁に足を運ぶ。毎日すこしずつしかお出しできない商品は、ここに買いが集中すると途端に、売り切れに向かって突っ走っていく。今日の「ピリ太郎らっきょう」も正にそのような動きを示して「何とか夕方までもたないものか」と焦燥する。
当番町・小倉町五丁目の彫刻屋台が本日も、瀧尾神社を目指して日光街道を上っていく。この屋台が来た道をふたたび戻るに連れ、各町内の七五三縄が外されていく。そして僕も町内の役員あるいは春日町一丁目五組の組長として、15時より七五三縄の撤去作業に加わる。
夕刻に至って、普段は「春日町一丁目公民館」、ただしお祭りのあいだだけは「会所」と呼ばれる座敷に入り、役員の直会に参加をする。そしてあと3ヶ月もすれば、夏の八坂祭が始まるのだ。
朝、総鎮守・瀧尾神社の例大祭に、責任役員として向かう。日光市今市旧市街の北端まで歩くと、山岡鐵太郞の筆を写した幟旗が、4月の青空を背にして風にはためいている。
夏の八坂祭にくらべて春の例大祭は儀式の部分が多い。本殿北側の砂州にて清めを受け、昇殿をする。「開扉」から始まる祭祀は、およそ1時間ほども続いた。当番町の金棒曳きや稚児たちと本殿から降りれば、渡御の行列は既にして整いつつあった。彼らの出発を見送ってようやく、来賓ともども直会のため社務所に上がる。
直会での責任役員の仕事は、有り体に言えば来賓との歓談にあるやも知れない。僕は乾杯の役を任され、おとといの雪から一転しての好天に触れつつ挨拶をする。
昼前に帰社して即、普段の仕事に復帰をする。いわゆる「アベノミクス」による株高にいよいよ人心が連れてきたか、あるいはなにか他の理由によるものか、日光宇都宮道路の今市インターから鬼怒川方面には、軽く渋滞が起きている。もうあと2週間もすれば、ゴールデンウィークである。
終業後に洗面所の窓を開けると、西北西の山々は夕陽の中に沈みつつあった。明日も多分、空はは快晴になるだろう。
今年のパンフレットは新春1月10日から企画することを始めた。製作会社には長男が出向き、僕も出向き、"pdf"により送られたデザイン案や文案、またそれから1、2日おくれて届く、同一の内容を紙に出力したものを検討し、手直しすること幾度に及んだかは記憶していない。
そのパンフレットが本日いよいよ届き、社員の手により2階の倉庫に上げられた。今年の表紙は今井アレクサンドルによる男体山である。
先日、街のどこかで長男が、僕の山遊びの先生ヨコタジュードーに遭遇した。そのときヨコタジュードーは「なんつっても今市のシンボルは男体山だわな」と語ったという。男体山という山は、日光市日光市街つまり東照宮のあたりまで行くと確かに、周囲の低山に阻まれて見えなくなってしまうのだ。
「今井さん、男体山、描いてよ」「うん、分かった」という短いやり取りののち、今井が僕の目の前で描いた男体山は、男体山など見たこともないだろう今井の腕の動きにより、男体山として見事に顕現された。このときもまた今井には「降りてきた」のだろうか。
夕刻にお囃子が聞こえてくる。外へ出るとちょうど、今年の当番町である小倉町五丁目の彫刻屋台が瀧尾神社へ向かって日光街道を遡上していくところだった。
日光市今市市街の中心を貫く延長800メートルの日光街道には、下は追分地蔵尊から上は瀧尾神社までのあいだに杉の大木1本分の高低差があると耳にしたことがある。例大祭に際して、この間を清めのため早朝に駆け上がったり、あるいは屋台を曳き上げたりすることは、よって山の用語で言えば結構な"arbeit"なのである。
早くに眠れば早くに目が覚める。僕の場合「早起きは三文の得」と思えるのは午前4時台だが、今朝は2時台の目覚めで、これはいささか早すぎた。
本日は5時前より製造現場に降りて、あれやこれやする。早朝から白衣を着て仕事をする頻度は季節によって変わる。そして今の時期のそれは、そう多い方でもない。
製造現場でのよしなしごとを終え、居間に戻って障子を開けると、作業場の瓦屋根、その先の味噌蔵の瓦屋根に、夜中に吹きつけたらしい雪がこびりついていた。僕は大いに驚き、ふたたびエレベータに乗って、今度は外へ出る。そして味噌蔵のある庭というか隠居というか、その柴折り戸を開ける。桜に雪の降り積もるのは、僕の記憶をたどる限り、1969年以来のことである。
日光市今市の総鎮守・瀧尾神社の春の例大祭は、今週の土曜日に挙行される。それを祝う「奉祝」の提灯は、月曜日から店の前に出している。そして今日は販売係の面々に頼み、店舗犬走りのしめ縄には幣束を提げてもらう。
「いつまでも寒くて嫌んなっちゃいますよねぇ」と挨拶を交わしていた人たちは、お彼岸を過ぎるころから「急に暖ったかくなると、調子、狂っちゃいますよねぇ」などと言い始めていた。彼らは今朝の雪を迎えて、今度はどのような言葉を口にするのだろう。
きのう届いた、今井アレクサンドルによる大黒天の顔には青と黒が用いてある。大黒天を検索エンジンで調べてみると、その大もととされるヒンドゥー神マハーカーラの顔とからだは「しょうこく」と読むらしいが青黒だという。それを知って僕は今井の教養に深く感心をした。
そんなときに当の今井から電話が入ったから「凄いね、そういうところまで知ってたんだね」と訊くと「いや、知らなかった。でもそんとき降りてきたの」と今井は何の衒いも屈託もなく答えた。今井は絵を描くに当たっては何も考えない質だから確かに、どこかからのある種の信号に従って大黒天の顔を青と黒で塗ったのだろう。
これで今井に、今度は恵比寿が降りてくれば、今井による恵比寿大黒が揃うことになり、めでたいことこの上ない。しかしそんなことをうっかり口にすれば「実は今、降りてきてるのよー」などと調子の良いことを言われ、僕の気に入らないようなものを売り込まれる恐れがある。よって今井に対しては、しばらく静かにしていようと思う。
ところで僕が今井アレクサンドルを「今井」と呼び捨てにして敬称を付けないのは、"Vincent van Gogh"を「ゴッホ」と、また"Pablo Picasso"を「ピカソ」と呼び捨てて敬称を付けないことと同じ理由による。他意は無い。
数日前に今井アレクサンドルの"facebook"を訪ねると、そのタイムラインに気になる絵があった。米俵に乗った大黒天である。大黒天はヒンドゥ教ではシヴァ神の化身マハーカーラで、その名を表し顔も体も青黒い。今井の絵は、その大黒天の出自を正確に写していた。
「これは良いな、キャンバスに油か、いや紙にクレヨンにも見えるな。『いいね!』なんてクリックして誰かに買われちゃいけねぇ」と即、今井に電話を入れると「ダイコクサマ? えぇーっと」と寝ぼけまなこの様子だったが、絵を売ろうとする、脳のその部分だけはいち早く覚醒したらしく「ウワサワさん、11時までにお金、入れてくれる? 無理? だったら3時まで。今日中にお願い」と急に元気になった。
「今井さん、だったら即、金、入れるから何かオマケ、入れて」と答えると「うん、分かった」と、その日のやり取りはここで終わった。
今井アレクサンドルは、これから絵を描こうとしているときにも、また絵を描いている最中にも、何も考えない。何も考えないから、まるで子供の描くような絵を描くことのできる、希有な画家である。
そして数日が経って本日、その絵が届けられた。サイズの合わない額に納められたそれは数年前に描かれたものらしく、紙の上縁にはセロファンテープでどこかに貼られていたらしい跡がある。しかしそのようなことはどうでも良い。今井のタイムラインでこの絵を観てピンと来た僕のカンに外れはなかった。
そうして早速その大黒天の絵をおばあちゃんの応接間に運び、空いた場所に安置する。2014年のパンフレットの表紙はこれで決まり、である。
ところで今井アレクサンドルが絵を送ってきた外箱には、雲の上に乗った勾玉のようなスケッチがあり、「おまけ」「らっきょ」の文字が添えてあった。このマジックインキによる落書き様のものが、どうやら今井の言いなりに送金した僕への「おまけ」らしい。
東京はきのうから台風一過のような晴天に恵まれたという。日光では深夜に雲が一掃されたらしい。そして今朝の空はどこまでも青い。今週いっぱいは、おおむね気持ちの良い日々が続くのではないか。
総鎮守・瀧尾神社の春の例大祭は今週土曜日の挙行だが、きのうの縄張りに備えて赤柱はその前日に、製造係のイトーカズナリ君とタカハシアキヒコ君が店頭に出してくれた。そういう次第にて、お祭りまではいまだ5日の間があるけれど、早くも「奉祝」の提灯を赤柱に提げる。
ヒートテックによるハイネックのシャツの上には、きのうまでフリースのセーターを着ていた。それを今朝からは、ヒートテックのシャツはそのままに、フリースのセーターのみを木綿のTシャツに換える。
ふと気づけば、否、「ふと」ではない、ずっと気づいていたことだが、今日は朝から夕刻に至るまでずっと町内の仕事をしていた。明日こそは、本業に力を注ぎたい。
「前にもそんなことがあったよな」と考え"google"で「サイト内検索」をかけたが、それがいつのことだったかは分からなかった。
東京に大雨暴風警報が出ていた晩に「銀座松屋」でちょっとした展覧会を観た。それから数百メートルを歩いて入った数寄屋通りのおでん屋では、いつもの繁盛ぶりはどこへやら、カウンターにはひとりふたりの客しかいなかった。
家に電話を入れると「なにやってるの、早く甘木庵に帰りなさいよ、怪我でもしたらどうするの」と言われたが、街を歩いた限りでは雨は傘を必要としないほどの量で、風も大したことはなかった。「折れて倒れてくる樹木や建物から外れて飛んでくる看板に注意せよ」と、テレビのニュースは伝えていたらしい。
そしておでん屋のオヤジは、気象庁にだかテレビにだかは知らないが「営業妨害です」と嘆いてみせた。
昨夜から今朝にかけて日光には「強雨」の予報が出ていたが、夜のあいだはずっと静かなものだった。弱い雨は早朝に上がり、西北西には山々と青い空さえ見え始めた。しかしまぁ、日本の特に北半分に対してきのうから「外出は控えてください」と呼びかけ続けたテレビの報道により、今日の来店客は極端に少なくなるだろうと予測をする。
総鎮守・瀧尾神社の春の例大祭に備え、幣束を提げるための縄を町内に張り巡らす仕事が15時よりある。今後この手の労力提供は長男に任せたく考えたが、今日のところは僕も手伝うこととした。春日町1丁目の日光街道に面した「中央」にはオノグチショーイチ頭がいる。縄は90分ほどの時間をかけて、どの家にも「ピン」と気持ち良く張られた。
縄張りが完了して後は公民館での役員会に参加をする。いわゆる「ホカ弁」を支給されて閉店間際に帰社すると、思いがけない来客があった。よって「ホカ弁」は明日に回すこととして鰻の「魚登久」へ行く。
総鎮守・瀧尾神社の春の例大祭は、今月13日に挙行の予定である。天気は多分、快晴だろう。
事務室のシャッターは、社員の出勤時間に合わせて通常7時30分に開ける。今朝は事務室に入ると外で話し声が聞こえた。よって「しまった、もう誰か来て、外で待っているに違いない」と考えつつ壁のボタンを押し、シャッターが徐々に上がっていくと、しかし外にいるのは市長や市役所の職員、また警察官や交通安全協会の面々だった。
おそろいの帽子とウインドブレイカーを身につけた人たちは、春日町交差点で信号待ちをしているドライバー達に、啓蒙のためのチラシや安全グッズを配っている。今日から「平成25年春の全国交通安全運動」が始まるらしい。
僕ももらうことのできた今回の安全グッズは、持ち物に取り付ける式の、猫の顔をかたどった反射板だった。なかなか良いデザインながら、ゴム紐に取り付けられた「じこにあわニャい」の魚型のタグだけは何やら"NHK"のアナウンサーのダジャレを感じさせ、よって直ぐにハサミで切り取った。
夕刻に至ってその猫の反射板を"Gregory"のザックの、普段は「これはオレは、使わねぇわなぁ」と感じながら外さずにいる、ピッケルフォルダーに取り付けてみる。悪くはない。悪くはないながら、これをいつまで付けたままにしていられるかどうかは分からない。
"Gregory"の"Day and half"は、僕がこの10年間に買ったすべての道具の中で、もっとも優れたもののひとつである。
味噌蔵の建つ庭の古い山桜は先月19日、植木屋の手により上3分の1をばっさりと剪定された。国道121号線に、塀を越えて枝を伸ばす染井吉野は、その枝を、これまた幹のところから思い切りよく伐り落とされた。花の咲く前の剪定とは勿体ない限りだが、葉を付けてからではかさが張って処分に困るのだ。
山桜は背も高く、よって昨年までは自宅の居間からよく観察をすることができた。しかし今年はそのようなわけにはいかない。そういう次第にて、家の庭の桜でありながら、それがいつごろ咲くのかの見当さえつかずにきた。
そして今朝ようやく庭に足を踏み入れてみると、先の染井吉野は淡い色の花が薄曇りの空を背に、ひっそりと開きかけていた。味噌蔵の影になってまったく望めないしだれ桜も、染井吉野よりはよほど紅い花がちらほらと咲いていた。
染井吉野は満開と同時に散り始めるのが毎年の例だ。山桜は、花の咲く枝はすべて落とされている。しだれ桜はいったん咲くと、その花はウチの桜の中ではいちばん長持ちをする。その見ごろは今月なかばになるかも知れない。
午後は古典車修復工房の「EBエンヂニアリング」を訪ね、工房長のタシロジュンイチさんに預かり物を手渡す。そして仕事の打ち合わせをして即、帰社する。
夜に早く眠れば、朝も早くに目が覚める。冬至からは随分と時が経ち、再来月には夏至が来る。このところは日も延びて、夜明けも早くなった。
ここ数日のあいだ雲に隠れて見えなかった日光の山々が、今朝は久しぶりに姿を顕した。その山容は朝の5時台にはいまだ藍色に沈み、しかし山頂付近はおしなべて、西は男体山から東は赤薙山まで白く燐光を発している。下界の雨が、山の上では雪になっていたのだろう。
やがて朝日が昇れば、木々の1本1本に積もった雪が山肌に明暗の粒々を作りだし、更に詳しく観察したくなったが朝は忙しい。そして洗面所の窓を閉め、事務室へと降りる。
先月22日に春休みで帰宅した次男が、明日は新学期に備えて帰寮する。よって今夜はみんなでどこかへ行こうとオフクロが言う。そういう次第にて19時ちかくに"Finbec Naoto"を訪ない、あれやこれやを食べながら、あれやこれやの話をする。
先月24日に引き続いて今日も「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」の、ロレーヌ地方の岩塩による塩水漬けをする。
きのうの日記にも書いたことだが、この商品は作っても作っても売り切れる。というよりは、昨秋のテレビ放映によって需要が一気に喚起され、しかし当方は普段どおりの適正在庫を保っていたから即、売り切れた。
以降はそのときの受注残に応えることで品薄な状態が続き、そこにビンの終売、それに伴う外箱の新規作成などが重なって蔵出しのできない時期があった。つまり水の高きから低きに流れるごとく、の正反対の状況から数ヶ月も抜け出せないまま今に至ってしまったのだ。
「リュビドオル」については、今年は無限軌道のようにギッチリ詰まった完成投入を続けて行こうと考えている。そしてその計画に対しては、現在の設備のままでも充分に対応が可能だと、僕は自信を持っている。
その日にすべきこと、慣用的には"to do"などとも言われるが、これについては前々から覚え書きをしておいた、きのう思いついた、今朝になって急に必要になった、などのことを日ごと1枚の紙にまとめている。
その日にすべきこととはいえ、紙にまとめたすべてがその日のうちに完了することは希である。しかし今日は珍しく"to do"のほぼすべてを消化し、できなかったことは取るに足らないこと、あるいはいつでもできることのみだったから、夕刻にはすこしばかり気分が良かった。
その一方で、きのうサイトーエリコさん、ハセガワタツヤ君と75分間かかって瓶詰めした「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょうリュビドオル」は、その大部分を「完成し次第送ってください」という受注残に取られて残りは早くも20本と少々になった。
次の蔵出しは6月上旬の予定だから、4月の大部分とゴールデンウィークを含む5月中はずっと品切れ、ということになる。今後「リュビドオル」については、より強気の生産計画を立てていこうと決める。新しいワインも発注しなくてはいけない。
こんなことを"facebook"に書くとすぐに借金取り、まぁ借金はしていないけれども、押し売りなら来る可能性があるから書かないでいたが、3月の小遣いは予算の67パーセントを消化したのみだった。
それなら浮いた金は来月に回せるかといえば、実は月も下旬にいたるころ小遣い以外のところで小遣い以上の経費が発生した。それも含めれば金銭の出納結果は大幅な赤字である。
大幅な赤字でなぜやりくりを続けることができるかといえば現金という緩衝帯があるからで、しかしこの緩衝帯が消え失せたら待っているのは窮乏生活どころではない。そしてその緩衝帯も大した幅ではないところが情けない。
生活にも"Theory of constraints"を採り入れ、身の回りのモノを削って減らして徹底的に捨てて合理化していけば現金残高の急上昇することは自明の理である。それを分かっていながら実行できないところがまた人間というものなのだ。