蕎麦は僕には難しい。麺は小麦粉によるものが好きだ。「麺屋ききょう」で昼に塩つけ麺の大盛りを食べ、帰って小遣い帳に、その950円を入れる。そして自作の自動計算装置を走らせると、今月の残高は19,502円と出た。
僕は日本にいるより海外へ出た方がお金は使わない。なぜそうなるか。先ず、日本より物価の低い国にしか行かない。物価で行き先を選んでいるわけではない。行きたい場所が、そういうところばかりなのだ。
次に、旅先では物をそれほど買わない。なぜ買わないか。それは、興味を惹かれる物がおしなべて、市場で量り売りされている発酵食品など、持ち帰るに著しく不利な物だからだ。あるいは、買って帰っても置き場所や使い道に困る日用品だからだ。更には、既にして高騰してしまっている工芸品だからだ。
明日つまり7月に入ったら、反転攻勢をかけなければならない。先ずはデンパサールで失った"RICOH CX6"をふたたび買う。次には先週の水曜日に銀座の"ABC-MART"で履いて試した靴を買う。南の国で使うための短いズボンについては、いまだ決めていない。
パナソニック製のコンピュータの一部に、バッテリーに不具合を持つものがあるとは、どこかで耳にしていた。しかしそういうものが自分のそれにまで及ぶとは、あまり考えないタチだ。
「至急開封のお願い」と赤く印刷された封筒がきのう届いた。封筒にはまた"Panasonic"の青い文字もあった。開封して書類に目を走らせると「まれに発煙・発火に至る可能性のあるものが混入」の文字が読み取れた。
クジ運は良くない方だから、この手のことにも当たらないだろうと高をくくっていたが、書類の3枚目に至って僕の"Let's noteも「まれに発煙・発火に至る可能性のあるもの」に該当することが分かった。
バッテリーを交換するには電話、ハガキ、インターネットのいずれかによる連絡が必要というので早速、ウェブ上で手続きをする。
赤いトラックポイントの使い心地が余りに優れていたため、僕は"ThinkPad"を1995年から使い続けてきた。それを2011年に"Let's note"に乗り換えた。そのマシンのバッテリーが今回はリコールの対象になったというわけだ。
使い始めて3年が経とうとしているコンピュータのバッテリーが無料で新品になるとは有り難い。僕はウェブ上で知らされた受付番号を封筒にボールペンで書き付け、その封筒を事務机に格納した。一体全体、そのバッテリーはいつ届くのか。折角の新品ではあるが、惜しまず使おうと思う。
年賀状の書けない性分である。
印刷屋あるいは年賀状専用ソフトで印刷された、そしてワードプロセッサあるいはコンピュータで宛名を印刷された、つまり肉筆皆無の年賀状には返事は書かない。ただし筆やペンによる墨跡がひと文字でもあれば、あるいはすべてが印刷であっても家族の近況などを少なくない文字数で連ねてあれば、その年賀状には返信を出す。
年賀状への返信は旅先で書く。空港の本屋や街の雑貨屋で求めた絵はがきの、表面の下半分にびっしりと文字を連ねる。宛名書きのみ肉筆、あるいは夫婦や子供の写真の余白に「今年もよろしく」などと1、2行をしたため一丁上がりの先方よりも、当方の労力は大きい。
昨年の年賀状には同年2月にチェンライのメシ屋で返事を書いた。今年はデンパサールのクレネン市場で返事を書いた。その様子はバビグリン屋のオニーチャンに撮ってもらったが、それから1時間と経たないうちにカメラを落としたから画像は残っていない。
今月6日に書いたハガキは翌朝ホテルのフロントに手渡した。そのハガキは2週間ほどもかかってようやく日本の各地に届いたらしい。デンパサールでは、すべての年賀状には返事を書けなかった。次の機会は秋のチェンライになるだろう。
店舗駐車場の南の角に植えられた、紅葉の根元に桔梗が咲いた。そのまわりについ先日まではびこっていた雑草は、今は綺麗に除かれている。
国道119号線と121号線が交わる春日町の十字路から日光宇都宮道路の今市インターチェンジ方面へと続く、ウチの店から工場に沿った歩道は、なぜか、縁石とアスファルトの間に数センチの隙間がある。日当たりの良いことも手伝って、春になるとこの隙間から雑草が顔を出す。
その勢いは梅雨の声を聞くなり凶暴さ増して、人ひとりの手ではどうにもならなくなる。始業前の数十分でこれを抜こうとしても、1回に処理できる距離は数メートルに過ぎない。
「亀の歩みに似て、留まるよりはマシ」と考え手を付けても、当方の草取りの速度より雑草の育つ速度の方がよほど高いから始末に負えない。
そういう次第にて、ここ数年ほど来てもらっている草取りのオバサンを、今年も頼んだ。オバサンはふたりでおととい、きのうと作業を続け、お陰で信号2つ分の距離を持つ歩道から雑草が消えた。オバサンたちはその余勢を駆って、駐車場の紅葉や松の根元も整備してくれた。やはり我々素人には限界があるのだ。
工場に沿った生け垣の剪定と、店舗向かい側の駐車場の草刈りは別途、植木屋に頼んだ。駐車場の草刈りは、昨年は長男が試みたが、当然のことながら、本職のようにはいかない。植木屋は今朝いきなり来て、その結果、生け垣も、そしてまた駐車場も、まるで床屋から帰ってきたばかりの子供のようにさっぱりとした。
歩道の溝には、雑草の生育を阻むための土を、ホームセンターから買ってきて詰め込む必要があるかも知れない。駐車場の雑草は、秋までにはまた伸びてしまうだろう。塀があるから外からは見えない隠居の草木については、植木屋の意見を容れ、盆過ぎに処理してもらうこととする。
日の丸の付いた名札を胸に着けて当て字の矢鱈に多い歌を合唱する青年結社、あるいは歯車や獅子の旗を掲げたオジサンやオバサンの団体、そういう集まりを、僕は子供のころから苦手にしている。生理的にダメなのだ。しかし社員との集まりは好きだ。
夏のギフトの繁忙を前にして、閉店後に店の駐車場で社員たちとメシを食べる。外で食べたいとは、社員から出た提案だという。きのうは午後の早い時間から土砂降りになったそうだが、今日は幸いにも晴れてくれた。
にわか作りのテーブルに、あれこれの食べ物が運ばれる。赤々と熾きた炭の上では、安いものだろうけれど、丸ごとの牛肉が焼けつつある。食事会も佳境に差しかかったあたりで、先ずは包装係サイトーヨシコさんの、勤続20年の表彰をする。次は事務係タカハシカナエさんの、勤続10年の表彰をする。
社員たちはやがて花火を始めた。酔った僕は、それをただ眺めるばかりだ。すべての片付けが済み、製造部長フクダナオブミさんが代行車を呼ぶころになってようやく、雨がまばらに降ってくる。
7月、8月と会社が忙しくなり、質の良い夏野菜、更には質の良い秋野菜に恵まれることを、僕は今年も祈っている。
きのう夕方の甘木庵には、真夏のそれほどではないものの、熱気が籠もっていた。夜に天神下から戻って以降は、窓と玄関を開け、扇風機を弱く回して寝た。今朝は早くから途切れつつも雨が降り、一気に過ごしやすくなった。
"Vector H"の始業時間は9時30分だが、東京に泊まった翌日は我が儘を言って、それを早めてもらう。そして8時すぎに達した恵比寿では、しかしさすがに早すぎるため、ガーデンプレイス脇のベンチでしばし本を読む。
ウチのウェブショップの構築や日々の手直しは、1990年代の外注SEマエザワマコトさんから"ComputerLib"を経て現在の"Vector H"に至るまでずっと、僕の手に負えないところのみを本職に頼り、残りは僕が行う形を維持してきた。そして今日も、予定していた作業のうち自分にできるところは宿題として持ち帰る。
夕刻に恵比寿の駅のちかくに"mont bell"の大きな店を見つける。「なんだ、だったらこれまでみてぇに、神保町まで足を運ぶ必要はなかったじゃねぇか」と中に入り、夏の帽子とズボンを試着する。
山手線で有楽町に移動する。そして飛行機の機内で足を締め付けず、且つ長距離を歩いても疲れなさそうな靴を"ABC-MART"で探す。良さそうなものが見つかったが、そして試し履きをさせてもらい、店員に意見を求めながら申し訳ないことではあるけれど、今日は買わない。送料無料のウェブショップに注文をすれば、靴を家に持ち帰る労力を省けるからだ。
尾張町から数寄屋橋。そして待ち合わせ場所に先に来ていた次男とふたり、道を鉤の手に折れつつ8丁目まで歩く。
北千住を経由して帰るのが普段の経路だが、メシの場所が8丁目なら新橋からの銀座線が便利だ。丸ノ内線に乗り換える次男とは銀座で別れた。そして浅草から下りのスペーシアに乗り、23時前に帰宅する。
店の一角には、ひっそりと目立たず小さな庭がある。それぞれ鉄筋コンクリート造りの建物と塀に囲われた場所で、土の質は良くない。真上には屋根のひさしがあって、雨もそれほどは降り注がない。よって植物が育つに適当な環境とは言いがたい。
幾種類かの草や木のあるここに、紫陽花が植えられた。それは昨年のことだっただろうか。そして毎年のようにいただく朝顔の鉢は、この紫陽花のすぐ隣に置かれている。毎朝さかんに花を開く朝顔だが、今朝はなぜか一輪も咲かなかった。そして紫陽花は小さいながらも相変わらず元気だ。
「今年の梅雨明けは早い」というようなことを、どこかでも耳にした。よって検索エンジンに頼ると、しかし梅雨明けは、今年も7月の下旬になるらしい。とすれば「今年の梅雨明けは早い」とは、僕の空耳だったのだろうか。
所用にて夕刻より大井町に出る。そこから本郷三丁目に戻ると、本富士警察はす向かいの「神勢。」に「冷製トマト涼麺」のビラが貼ってある。
トマトも冷たい麺も大好きだ。しかし酒を美味く飲もうとすれば、その前にラーメンは食べられない。また、太ることを避けようとすれば、酒の後にもラーメンは食べられない。
そして甘木庵の室内を整えてから、天神下への坂を下っていく。
極端に早寝早起きの僕には珍しく、就寝は今日の0時を過ぎていた。にもかかわらず、いくらも眠らないまま目を覚ます。
窓ガラスと日よけ幕の隙間から漏れる蒼い明るみの具合から、時刻は3時40分前後に違いないと決めつける。そして着替えて食堂に出て、自分の勝手な決めつけがほぼ正しかったことを、食器棚に置かれた時計により知る。
東北東の空には、既にして夜明けの青とオレンジ色がある。朝の空と雲は、ただのひとときもじっとしていない。本棚のある廊下の先の窓からその景色を眺め、食堂に戻ってカメラを取り、ふたたび元の窓に戻ると、雲も、それに色を与える陽の光も、もう変わっている。
しばらく本を読むうち、真冬からすれば数十度も東に寄ったところに日が昇る。待ち望んでいたはずの夏至は、雨を気にするあまり、気づかないまま通り過ぎてしまった。
この時期には毎年おなじことを日記に書いている。すなわち夏が来る前に夏至の来ることが、どうにも理解できないのだ。「夏至は、できれば8月の終わりに来てくれねぇかなぁ」と、これもまた毎年おなじ希望を持ちながら、もちろん、天はまるで精密な歯車のように運行して秋を連れてきてしまうのだ。夏にはできるだけ長く居座って欲しい。
僕よりいくつ年長かは知らない。とにかく好きな先輩のひとりハズミさんがある日「あたしも60を過ぎましてね、これからは家内とふたり、簡素に暮らそうと思って、3年着てない服はすべて処分したんです」と言った。
「オレには、とてもできない」と、それを聞いたときこそ感じたが、昨年の晩秋に必要に迫られ、ハズミさんどころではない、タンスごと服を処分してしまう荒技を展開する必要に僕は迫られ、そしてそれは容赦なく、あるいは粛々と実行された。
現在では、たとえばTシャツであれば「"United Athle"の化繊の白が3枚、"SAINT JAMES"の白が2枚、東京ビッグサイトの催しで本を買ったらオマケに付いてきた紺色が1枚、そして神戸のおでん屋さんにもらったピンクが1枚の計7枚」と、数を正確に挙げることができる。また、ジーンズであればタケシトーセーさんにもらった"PAIR SLOPE"の21オンスが1本と、"EDWIN"のストレッチ素材が1本」と、指2本を折るだけで済む。
山のような服を丸ごと処分した気分はどうかと問われれば、それは至極快適、至極爽やか、至極安楽である。
先日インドネシアへ行く前には、気温や湿度の高いところで使うに良さそうな短いズボン、また軽くてかさばらない靴が欲しくて堪らなかった。しかしその物欲は必死で抑えた。モノを増やしたくないからだ。
「金の出が止まる」とは、モノを徹底的に処分したときの副次的現象、否、副次的と言うにはあまりに大きな効果だ。そしてこの効果は、個人の身の回りだけでなく、会社においても顕著に顕れる。やってみれば分かる。やらなければいつまでも分からない。
日本経済新聞の朝刊第39面に「豚の生レバー提供禁止へ」の記事を読む。
牛の生レバーの客への提供が禁止された2012年7月以降も、豚の生レバーについては、そこここの店でいくらでも食べることができる。豚の生レバーでは、いまだ死者が出ていないことから、厚生労働省はこれを黙認してきたのだろう。
仕事がらみで数年前に精肉業者と話をして以降、内臓も含めて動物の肉を生で食べることを僕は止めた。
ところで新聞には「同省(厚生労働省)が同12月に行った調査によると、東京都内を中心に少なくとも80店が豚の生レバーを提供しているとみられる」という下りがある。この「80店」の存在する地域を新聞は書いていない。そして「まさか全国ってことは、ねぇよな」と考えたが、実際のところはどうなのか。
客に豚の生レバーを出す店は、僕の行きつけ、あるいは行ったことのある店だけでも7軒や8軒はたちどころにその名を挙げることができる。ということは、都内に限っても1,000軒や2,000軒は、あるのではないか。
いずれにしても僕は数年前から肉の生食はしていない。しかし立石の「宇ち多」であれば若焼き、池袋の「男体山」であれば軽焼き。そういう「サッと焼き」は、生レバーが禁止された後も続けて欲しい。まぁ、大丈夫だろう。
きのうの目覚めは推定で午前1時30分だった。それだけ早くに目を覚ませば、夜は早くに眠くなる。そうして早寝の結果、今朝はしかし、きのうより1時間おそい2時30分に目を覚ました。
食堂であれこれするうち「もしも気がつかなかったら」と、予防のためiPhoneに設定しておいたアラームが鳴る。それを機に本を閉じ、製造現場へ降りて朝の仕事に従う。その仕事を終え外へ出て新聞受けから新聞を取ると、同級生オーハシタダオ君の、交差点はす向かいの家の上から頃合いを見計らったように朝日が昇る。
14時30分に約束をした取引先が14時32分に来る。15時に約束した相談相手は14時58分に来た。そして双方が重複することはなかった。別途、机の上には僕が留守の間に約束なしに訪れた人たちの置いていった名刺やパンフレットが重なっている。なぜ事前の連絡もなく突然に来るか。そういうことをしても、大抵は無駄足になるのだ。
小遣い帳を「床屋」で検索すると、大抵は、月の初めにかかっていることが分かる。特に計画をしているわけではないが、僕の場合には、散髪をして1ヶ月が経つころに、また髪を切りたくなるものと思われる。
ところが今月の小遣い帳には「床屋」の文字が無い。デンパサールの地図によれば多分"Jalan Surapati"という、どことなくヒンドゥーの香りのする名の通りの床屋でバリカン坊主にしたからだ。そこで使ったルピアは手帳に記したのみで、小遣い帳には載せていない。
ところで本職に言わせれば、鋏による坊主とバリカンによる坊主は天と地ほども出来映えが違うらしい。僕は「バリカンでも良いやな」と内心では考えているものの、志賀直哉の「剃刀」のようなことになってもいけないため、こと日本国内では黙っている。
暗闇にiPhoneのホームボタンを押すと、時刻は2時だった。目覚めは多分、1時30分ころだろう。僕は極端に早寝早起きのため、旅行などの際には人と同室になれない。
それにしても早すぎる目覚めである。そして二度寝もできそうにないため、起床して食堂に移動する。コンピュータにかじりついていては、いかにも馬鹿になりそうだ。よって廊下の本棚から読みさしの本を抜き出し、これを読む。
法人facebookでの懸賞企画を、先月の16日に引き続いて行う。前回の賞品は、ウチの幾種類かのらっきょうのたまり漬を詰め合わせたものだった。今回は、そこから「栃木県産つぶより」を除き、その代わりに「旬しあげ生、夏太郎」を加えた。
懸賞を設定した直後から、続々と応募が入り始める。「ご応募は、facebookにご自身のプロフィール画像を設定している方を対象にしています」と条件の1行目に記してあるにもかかわらず、プロフィール画像を設定していない懸賞マニアによる応募が続々と入る。
会社のfacebookに「顔の無い人」が並ぶことを嫌っての「ご自身のプロフィール画像を設定している方を対象にしています」なのだが、マニアでも、そこまで読む例は少ないのだろう。
"Crocos"のシステムでは、当選者はコンピュータで自動抽出される。しかしその結果は手動が変更が可能だ。「顔の無い人」が当選した場合には、僕の「任意」により当選は取り消される。さて今回は、どのような方に賞品をお贈りすることになるのだろう。
今月5日にジョクジャカルタで買った、ジャコウネコの体内から排出されるコーヒー豆"KOPI LUWAK"を、夕食後に長男が挽き、淹れる。店で試飲させられたものには感心をしなかった。というか、僕はそもそも、コーヒーについてウンヌンする鼻や舌を持ち合わせていない。
ところが家内と長男は、これを飲んで美味いという。美味かったなら何よりだ。と、ここまで書いて、インドネシアでの使途不明金412,750ルピアの4分の3ほどは、この"KOPI LUWAK"に充てたものと気づく。
デジタルカメラについては、その出たてのころこそ、あちらこちらの品を使った。しかしここ10年ちかくはリコーのそればかりを買い換えている。昨年は特に、リコーのカメラを何度も買った。今後のための覚え書きとして以下に整理をしてみる。
2009.0118 "GRD III"を購入。
2011.0320 "CX4"を購入。
2013.0817 "CX4"のピントがマクロでしか合わなくなる。
2013.0828 "CX5"の新品(展示品)を買ったら大きな傷が付いていた。
2013.1027 "CX5"を本郷三丁目で紛失。
2013.1105 "GRD III"を北千住で紛失。
2013.1107 "GRD IV"を購入。
2013.1112 "CX6"を購入。
2014.0607 "CX6"をデンパサールで紛失。
そういう次第にて、いま僕の手元にあるデジタルカメラは"GRD IV"の1台きりである。レンズは単焦点が好きでも、ズームの欲しい時もある。
「味噌汁より山の画像の方が圧倒的に"いいね!"を稼ぐんですよ。何だかなーと思いますよ」と会社のフェイスブックについてこぼしたら「だったら山の画像で勝負です」と、こともなげに答えた人がいた。こういう人のことを「戦略的」というのだろう。
西の窓から見える男体山や女峰山は"GRD IV"の28ミリで撮っても見劣りはしない。しかし南の窓に正対する鶏鳴山は、その山容が大きくないため、同じく28ミリで撮ってトリミングをすると、その稜線がギザギザに荒れる。やはりズームレンズは必要なのだ。
いま市場に出ている"CX6"の最安値は41,980円で、昨夏の39,800円から安くなるどころか2,180円の上昇である。しかしまぁ、買うことになるのだろう、多分。
インドネシアから戻った翌日つまり9日の月曜日に発生したからだの不具合については、今日に至ってようやく収束したように感じられる。胃痛は14日の土曜日から起きていなかったが、熟睡できないことはその後も続いていた。その、睡眠の足りていない気分が、今朝は消えていたのだ。
1週間以上も続いた不調の原因は何だったのだろう。
僕は先ず、旅においては忙しさを嫌う。みずから計画した忙しさであれば気にもならないが、他者により決められた時間割に従って行動をすると、どうも神経と肉体に、知らないうちに負担がかかるらしい。
次には、食べるものを自分で選べないことが、じわじわと精神を圧迫する。ひとり旅の食事においては「食べない自由」さえあるけれど、いわゆる「ツアー」では、そういうわけにもいかない。
「オマエのような性癖の持ち主であれば、仕事なんてできねぇじゃねぇか」と問われれば、それが仕事であれば平気なのだ。ただし遊びと信じていた領域で義務が発生すると、僕は途端にダメになる。
いまだ暗いうちに目を覚まし、聴き覚えのない声で鳥が啼き始めるころにきのうの日記を書く。そして空が光の半球で眩しく覆われる前に短い散歩をする。日中の酷暑を予感させる屋外で朝飯を食べ終えたら部屋に戻ってすこし休む。
日本のそれとはまったく異なる不思議な虫の声を浴びつつ、これまた日本のそれとは比べものにならないほど大きな樹木の下を歩いて街に出る。昼飯を食べ、炎天下を歩いて部屋に戻れば汗は滝のように流れているから水浴びをして横になる。
午後は日が傾くまでプールサイドで本を読み、朝から数えれば3度目の休息を部屋で取る。そして日の暮れるころにはふたたび街へ出て、地元の食堂で地元の人たちに混じってメシを食べる。そしてときおり足元に近づく猫に、自分の皿から肉のひとかけらを投げてやったりする。
贅沢は要らない。見物はしない。1日に交わす会話は地元の人とのふたことみことだけ。白いシャツと半ズボンを身につけ、ただ、好きなままにしている。そういう旅が、したいものです。
相棒のルイーズ・ガレットとバリにたどり着き、住み着き、クタに掘っ立て小屋のようなホテルを建て、そこを客で大賑わいさせた、ロバート・コークというアメリカ人がいる。このコークによる、1930~40年代のバリの写真がウブドゥのネカ美術館にある。
コークのモノクロ写真では、市場で物を売る娘などは上半身になにも纏っていない。まるでゴーギャンの絵から抜け出たタヒティの娘だ。そして更にからだや顔つきは、ゴーギャンの描くタヒティの娘よりバリの娘の方がよほど美しい。
なにも裸の娘が見たいわけではない。娘が裸のまま恥じらうことなく市場で生き生きと物を商っていた時代のバリにこそ来たかった、ということだ。もちろん過去に戻ることはできない。
しかし道はある。できるだけ田舎に、あるいはその田舎から更に山奥へと入るのだ。そしてそこにできるだけ長く逗留をするのだ。時計の針を逆に進めることはできなくても、人の心つまり人情を遡ることはできる。
できるだけ田舎へ行って、何もせず、ただ、そこにいる。そうすれば、心に響くことが次々と起きるのだ、必ず。
いまだ1週間しか経たないにもかかわらず。インドネシアは僕の頭の中では、ずっと前に観た幻灯のように感じられる。思い出の随一は、小商いの店も途絶えがちな暗い道で、ホテルに帰る手立てを失い進退きわまっていたデンパサールの夜のことだ。
ジョグジャカルタからバリに来て、クタ南端のコテージに落ち着いた。コテージとヴィラの違いがどこにあるかは知らないが、ホテルではそれをヴィラと呼んでいた。とにかくそこに籠もって本読み三昧ができたにもかかわらず、あるいはバリにはいわゆる「遊び」があふれているにも拘わらず、なぜ僕はデンパサールを目指したか。
メディアポルタは「歩くバリ島」を2009~10年版の1度しか出していない。それほど売れなかったのかも知れない。それはさておき「歩くバリ島」と謳いながら、ここにデンパサールの地図は無い。旅行社でもらえる薄くて便利な「バリ島ジャワ島徹底ガイド」にも、デンパサールについての記述は無い。
イ・グスティ・ングラ・ライ国際空港の、到着ロビー手前にたくさん置かれた中から引き抜いてきた、最も大きく厚いガイドマップにも、デンパサールのために割いたページは見あたらなかった。
それを知って僕が何に気づいたかといえば「なるほどデンパサールには、観光客はほとんどいないに違いない」ということだ。
6月7日の14時すぎに手配したタクシーがレギャンの繁華街を抜けて以降、その夜22時ちかくにホテルに帰り着くまでの8時間で見かけた外国人は、パサールクレネンの食堂に座っていた、オーストラリア人と思われる女の人ひとりきりだった。あの大観光地バリにおいては、これは非常に珍しいことではないか。
観光地や観光客のいる場所を避け、街の雑踏に紛れ込んでしまう。そこには精神の高揚も、また哄笑を伴うたぐいの愉しさも無い。しかし旅先ではどうしても、そのようなところにジリジリと引き寄せられてしまう。そして僕はそのようなところで大して面白くもなくしていることが好きなのだ、なぜか。
先月末に御料牧場ちかくの畑で収穫したらっきょうを、塩とお酢だけで調製した「旬しあげ生、夏太郎」が今日から発売される。甘味のあるたまり漬と異なり、こちらはお酒、ビール、チューハイなどに合う、どちらかといえば酒飲みの好む味である。
きのう袋詰めしたばかりの、その「旬しあげ生、夏太郎」を早朝、製造現場の冷蔵庫へ取りに行く。それを4階まで持ち来て仏壇に供え、今度はお盆に載せて写真を撮る。その写真を即、facebookに上げる。以降はこれを家族で食べる分として食堂の冷蔵庫に仕舞う。
所用にて、下今市駅07:05発の上り特急スペーシアに乗る。コンピュータを携える必要のない移動は楽だ。今日は中身の見える、手の上に乗るほどの網のポーチひとつを持つのみである。事務室前の新聞受けから引き抜いてきた新聞は、北千住に着いても読み終えない。よってポーチと新聞の双方を持って下車する。
帰りは北千住駅21:13発の下り特急スペーシアに乗る。以前は年に1度ほど、ところがここしばらくは年に数度に増えた、終点までの乗り過ごしのことを、席に着いたところで思い出す。そしてiPhoneには既に設定済みの、22:36のアラームをオンにする。
普段のシャツには胸にポケットのあることが少ない。今日のシャツには幸いにも胸ポケットが付いていた。時22時36分に至り、その胸のポケットに入れたiPhoneの音と振動で目を覚ます。
23時前に帰宅してテレビを点けると、「女酒場放浪記」が江古田の大衆居酒屋を紹介していた。それを眺めながら「途中下車してまで行きたい飲み屋がオレにはあるだろうか」というようなことを考える。
きのう宇都宮の病院でもらった、否、ただでくれたわけではない、薬代は支払っている。それではなぜ病院や調剤薬局で手渡される薬に対しては「買った」ではなく「もらった」と言ったり書いたりしてしまうのか。とにかくきのう手に入れた胃痛の薬は3回分だった。
その1回分は、病院から出てすぐに飲んだ。もう1回分は今朝の5時に飲み、最後の1回分は昼前11時に飲んで在庫は無くなった。明日は東京に行く用事がある。明後日は日曜日だ。胃痛のための薬を欠いての3日間には不安がある。
宇都宮の病院へ行くことは、この5日間で実に3回目のことだ。病院にかかりながら不具合の長引くことに特段の不満も述べない僕に対し、医師は低姿勢だった。そして今日はきのうに倍する7回分の胃痛薬をもらって、否、買って帰社する。
夕刻から夜に至っても、胃痛は発生しなかった。あるいは今朝から午前にかけての胃痛は、快方へ向かう直前の胸突き八丁だったのかも知れない。
ところで今日は、高コレステロール血症の人のための食改善のポスターを病院の廊下に見つけ、その写真を撮ってきた。「摂りたい食品」と「控えたい食品」の番付を見くらべれば、僕の好物は双方に鈴なりである。そしてとにかくモツ焼き屋へは行かず、鮨屋でエビ、カニ、魚卵を避ければほぼ理想ということを知る。
ただ、それを知ったからといって、モツ焼き屋へ行くことを止めたり、また鮨屋でいわゆる「おまかせ」を断ったり、そういうことをするつもりはない。
きのうから感じ始めるようになった胃痛が、今日はいよいよ強くなってきた。よって月曜日にも訪ねた病院に午前中から出かける。病院は大賑わいで、90分ちかく待ってようやく名を呼ばれた。
今回の胃痛は、インドネシアから帰って以降の不調と関係があるに違いない。家で胃酸過多用の胃薬を飲んだが痛みは引かなかった。医師の見立てによれば、この胃痛はむしろ、胃の激しい収縮によって起きているとのことだった。
南へ行くたび胃がおかしくなるということはない。空港の床に倒れ悶絶している同胞を目撃して「オレは元気だ」と、優越感ではない、安堵を感じたことがある。どうも僕は水や氷や果物ではなく、忙しさにこそ直撃されるような気がする。
それはさておき、日本のタバコが多く20本で1箱なのに対して、インドネシアのそれは10本で1箱だ。そのため1カートンを買って帰って人に配っても、いまだ8箱が残っている。
どうしたものかと考えるうち今日になった。今日は19時より公民館で寄り合いがある。そこでこれを持参して、話し合いの終わった頃合いを見計らい、喫煙者の数を確かめるとちょうど8人だった。そうしてこれらの人に"GARAM"を1箱ずつ進呈する。「ちょうど」とは、何ごとにおいても気持ちの良いものである。
小学生のころ風邪をひき、その高熱が一夜にして下がった朝の爽快さ、にはほど遠いものの、不具合から急速に快復した気分で目を覚ます。
「お米に大麦を混ぜると、からだにすごく良いんだってさ」と、オフクロが言いだした。おおかたテレビの影響だろう。そして午前中オフクロをマッサージの横田道場に送っていき、電話連絡があって迎えに行った帰りには「大麦、買って帰ろうか」とクルマの助手席から商店街を見るので、取りあえずはそれを押しとどめた。
帰宅してそのことを告げると「あるよ、真空パックの雑穀が」と長男が教えてくれたので「買わなくて良かったー」と、思わず安堵の溜息を漏らす。
夕食を前にして、米に雑穀を混ぜてメシを炊く。「麦飯なら山かけだろう」と、山芋をすりおろす。1972年の初秋、自由学園の那須農場で、米6に大麦4だったか、あるいは米7に大麦3だったか、とにかく僕は麦飯を常食して違和感を感じないどころか、毎日よろこんで何杯もこれをおかわりしていた。
さて今夜のメシはどうかといえば、折角の美味い米を、雑穀を混ぜることにより、かなり不味くしている。このような行為は米への冒涜ではないか、とさえ思えた。雑穀と混ぜるのであれば、どこかで不味い米を探して、それを使うべきだ、という考えもまた浮かんだ。
何とかオフクロにだけ雑穀メシを食べさせる手はないか。あるいはオフクロもそのうち「やっぱり普通のゴハンに戻すか」などと尻を割るような気もする。
夜のあいだに何度も目を覚ました。そのたび、襟元にすくなくない寝汗を感じた。夏の夜にクーラーなどあるはずもなく、扇風機を回したまま眠ると死んでしまうなどと脅かされた子供のころならいざしらず、この季節に寝汗とは不思議である。気分は当然、優れない。
気分は優れなくても体温は平常の値に戻ったような気がする。そして朝食を済ませ仕事場に降り、社員を迎える準備をする。
きのうのゲリラ豪雨の際には、社員は社内にあれこれの問題を発見し、帰宅前に対策を施していた。その対策を以てしても心配なことについて、朝のうちから報告が相次ぐ。それを受けて、僕はあちらこちらに連絡を入れる。
そうこうするうち「たまり浅漬け」の材料を農協へ買いに行くことを忘れる。
連絡を入れるのは、これから何度も襲ってくるだろう大雨に関してのところだけではない。製造に関係している取引先、販売に関係している取引先にも矢継ぎ早に連絡を入れる。
栃木県内に限っても、らっきょうと大麦の収穫に雨の影響が出ている。長葱も高騰を続けている。梅雨はいつ上がるのか。昨年の梅雨明けは7月のはじめだった。しかしそのあとにも、列島にはゲリラ豪雨が続いたのだ。どうにも落ち着かない。
「それほど高くはないけれど、でも熱がある」という感覚と共に目を覚ます。旅先では、田舎の弊屋や陋巷の木賃宿にに寝起きをするとか、あるいは庶民相手の粗末な食堂で現地食を口にするなどについては、僕はかなり頑丈である。ただ忙しさだけは、どうもいけないらしい。
午後に至って宇都宮のかかりつけの病院に電話をする。ひとりの患者の検査が控えているから16時ころに来てくれれば待たせないと、受付の係に言われて承諾をする。しばらくすると今度は先方から電話があり、検査が遅れているから17時過ぎなら案内に迷惑はかけないと教えられる。その親切心に対して礼を述べ電話を切る。
16時20分に会社を出て日光宇都宮道路に乗った途端、先ほどまでは大したこともなかった雨が、いきなり激しくなる。「オアシスではない、スコールをいつも渇望しているのだ」との一節が金子光晴の、バリで読んでいた「世界見世物づくし」にはあった。しかしホンダフィットのフロントグラスを叩く雨は、金子の旅した南洋のスコールなどは目ではない、文字通りの豪雨である。
その雨も宇都宮がちかづくに連れ弱まり、病院に着くころには止んでいた。診察と投薬を受けて来た道を戻れば、日光宇都宮道路が日光市に差しかかるあたりでふたたび雷雨の中に突入をする。
"Airbus 330-300"を機材とする"GA880"は定刻に23分おくれて、バリ島時間00:53にイ・グスティ・ングラ・ライ国際空港を離陸した。
クルマの中では一日うつらうつらしていたこともあり、睡眠薬は持ってはいたが、そのようなものは必要なかろうと、早くも配られ始めた飲み物とスナックは受け取らないままアイマスクを付ける。
薬に頼らなくても眠れると踏んだが甘かった。ジェットエンジンの音、トイレに水の流れる音、通路を往く人の気配などにより、たびたび眠りが妨げられる。そして結局は半覚半睡のまま朝になる。
"GA880"は定刻より12分はやい、バリ島時間07:38、日本時間08:38に成田空港に着陸をした。第1ターミナルビルからは10:05発のマロニエ号に乗る。その終点の柳田車庫を経由して14時前に帰社する。
会社をしばらく留守にして最初にすることは、そのあいだに溜まった郵便物や書類への対応である。睡眠不足のためか食欲も無かったため、昼飯は抜きにして、取りあえずはそれらの仕事にあたる。
きのうの朝からの、つまりは陽光の燦々と降る僕以外のひとりもいないプールや、海に浮かぶカヌー、遠く離発着を繰り返す旅客機、クレネン市場のあれこれ、そして屋台のテーブルで寛ぐ僕の画像はすべて、カメラと共に失われた。あとはiPhoneに頼るのみである。
予定表によれば本日は正午ごろにホテルを出ることになっていた。しかしバリ初日の晩にガイドのクディさんから伝えられた出発時間は8時30分だった。それではいかにも早すぎると、9時にホテルを出発する。
インドネシアルピアのレートは、羽田空港では1万円が850,000ルピア。ジョグジャカルタのホテルでは1,080,000ルピア、そしてジョグジャカルタに住む人との相対では1,100,000ルピアだった。
ところでインドネシアでは、出国の際に200,000ルピアの空港税を取られる。僕の手持ちはきのうでその20万ルピアを切った。そこで今朝、ホテルの両替所に行くと、1万円に1,120,000ルピアの値が付いている。何となく得な気分になりながら5千円のみを両替する。僕はお布施やティップは頻繁に払うが、為替にはなぜか敏感なのだ。
10時55分にバトゥワンの、1,000年以上も前に建立されたというバリ寺院に参拝をする。標高が高いため風は涼しいが、日差しは肌を射るように強い。
そこからしばらく車を走らせると、それほど広くない道の両側に、絵や工芸品を売る店が何キロも続くようになった。「こんなにたくさん店があって、観光客はクルマで通り過ぎてしまうようなところで、どうやって商売を維持していくんですか」と訊くと、そこは世界各地からバリの美術品を仕入れに来るバイヤー相手の村なのだとクディさんは教えてくれた。
11時30分、テガラランの丘から谷を隔てた向こうの棚田を見る。棚田については、ネパールで尋常一通りの規模でない棚畑を見ている。あるいは3年前にはチェンライ奥地の陸稲の斜面を、次男と息を切らせながら上り下りした。特に今日の棚田は収穫を終えたばかりで水を湛えているわけではない。よって「ふーん」くらいのところで再びクルマに乗る。
12時30分にウブドゥの街に入り、サレン・アグン宮殿前でクルマを降りる。そして家々の戸口にお盆の飾りの掲げられた通りで短い散策をする。ウブドゥの上空には高く、何基もの凧が上がっている。木陰に腰をかけて金子光晴の本を開くと、僕の鼻に良い匂いが聞こえてくる。匂いの方に顔を向けると、それは地元のオニーチャンの吸うタバコの煙だった。
オニーチャンが左手に握る箱を観察してから立ち上がり、数十メートルほども先にあるコンビニエンスストアに入る。そしてレジの奥の棚に先ほどの"MAGNUM"を見つけ、なぜかヘルメットをかぶったままの店員からそれを買う。値段は12,500ルピアだった。
ツアーのメンバーは王宮前の集会所に13時に集まった。そしてすぐ隣にあるバビグリン屋"IBU OKA"の2階ベランダ席に落ち着く。
きのう僕をマッサージ屋からデンパサールのクレネン市場まで運んだ運転手とのあいだに「バビグリンなら絶対、ウブドゥのイブオクです」という会話があった。すかさず手帳に"IBU OKU"と書いて見せると「最後の文字はUでなくてA」と訂正をする。今日の昼飯は偶然にも、その"IBU OKA"に設定されていた。
席に運ばれた、豚の丸炙りの肉やら皮やら軟骨の唐揚げやらをゴハンに載せたバビグリンの、先ずは白い肉の部分を口に入れる。と同時に「あー、これは美味い、きのう市場で食べたのとは全然ちがう。肉がしっとりしてる、何だろう、この技術」という言葉が口を突いて出る。もっともきのうのバビグリンは、豚のどの部分とも知れないフワフワの内臓が僕を夢中にさせた。しかし"IBU OKA"のそれに内臓は含まれていない。せいぜいが、ブーダンノワールを思わせるソーセージのみが、変わった部位といえば部位だった。
小さな努力を倦まずたゆまず積み上げていく。僕に不得手な分野で成功した人のことは、僕は文句なしに尊敬をする。これひと品でビルを建てた"IBU OKA"のオバサンは、大した大人物である。
食後はおもむろに先ほどの"MAGNUM"を取り出し、メンバー中の喫煙者に1本ずつ配る。そして僕もこれを吸う。インドネシアのタバコは一体に美味い。僕は中毒患者になることを避けて、タバコは春夏秋冬に各1本しか吸わない。"MAGNUM"は12本入りで、箱の中には8本が残った。それらはすべて、誰かにやってしまうことになるだろう。それにしても、タールが33mgでニコチンが2.3mgなら、日本の軽いタバコにすれば10本分の毒の強さである。
ネカ美術館は地元の美術愛好家ステジャ・ネカが1976年に創設した魅力溢れるところだ。ネカについては館内の掲示板に「一教師」と紹介されていた。しかし多数の優れた作品を収めた、堅固な6棟からなる美術館を作り上げたのだ、ただの一教師ということはないだろう。
ツアーつまり団体で旅行をした場合、次は個人で来たいという念を僕は圧し殺すことができない。小学生のころ課外授業で訪れた上野動物園で、猿に惹かれて猿山から動かずにいたところ、猿ばかりを見ず全体を見て学ぶよう教師に強制されて憤慨した同級生がいる。ツアー旅行とはつまり、そのときの動物園の見学のようなものだ。本日この美術館のために割かれた時間は30分だった。そして僕は6棟のうち3棟を急ぎ足で回ったのみにて時間切れとなった。
インドネシアの絵画を展示した美術館に来てこんな感想は邪道かも知れないが、ロバート・コークによる、1930年から1940年代初頭にかけてのバリの写真は必見である。
14時40分に美術館を出てすぐに寝入り、15時35分に目を覚ますとクルマは既に下界に降りて、どこかの街を走っていた。そして間もなくまた眠りに落ちる。
予定表では正午ごろとなっていた本日のホテル出発を、クディさんは8時30分と早め、それを我々は9時まで遅らせて妥協した。クディさんは多分、日本人の多くが好むところの盛りだくさんの見物と、もうひとつは夕刻に見物するケチャダンスの、席の確保を心がけたためだろう。
バドゥン半島南西端にあるウルワトゥ寺院に着くころには、あたりに夕刻の風情が漂っていた。ボロブドゥール、そしてバトゥワンのバリ寺院では入場のために腰巻きを巻かれた。ここでは腰巻きあるいは細い帯のどちらでも良いらしい。ズボンの上に腰巻きを巻くと結構、暑い。しかしごった返す参拝客のうちの女の子などは「ワタシは長いの」と、つまり腰巻きを巻きたいと親にねだって微笑ましい。
岬の突端高所にあるウルワトゥ寺院まで登る時間は無い。参道から屋外劇場へと続く崖の道を、これから始まろうとしているケチャダンスの見物客に揉まれるようにして進む。
元々は悪霊祓いに伴う男声のかけ声だったケチャに、1930年代、ドイツ人の画家ウォルター・シュヒーズがラマーヤナを組み合わせ、現在の舞踏劇が創作されたと「腰巻き巻き所」で受け取った説明書にはあった。「地元の伝統に、後から来た白人が手を加えて演出とは余計なことをしたものだ」と感じながら劇場の席に着く。
夕陽はまさに、水平線の右手に沈もうとしている。ギリシャ時代の遺跡を思わせるすり鉢状の劇場の高いところに座った僕には、その夕陽も、またすり鉢の底にある舞台も、手に取るように見える。そしてやがてケチャが始まる。
30分ほど観つづけて分かったことは、数十人の男たちによるケチャだけでは到底、これは見世物にはならないということだ。派手な衣装や冠を付けた男優と女優が裸の男達に囲まれて踊ることにより、ケチャはバリの文化に馴染んでいない観光客の鑑賞にも堪えられるものになった、ということだろう。ハヌマンを道化役とした演出は、あるいはウォルター・シュヒーズではなく、後に劇団の誰かが工夫をしたものかも知れない。
60分間のケチャを充分に愉しみ、まるで大晦日の神社のように暗く人の混みあった、先ほどの崖とは異なる道を辿って駐車場に戻る。そして一路ジンバランの海岸を目指す。
"Ganesha Cafe"は魚貝類の炭火焼きが名物の店で、その大きな炉に目を見張る。席は砂浜の波打ち際に置かれ、客のリゾート感を盛り上げる。専属のバンドは片言ながら何種類もの外国語をあやつり、谷村新司の「昴」からエリック・クラプトンの"Layla"まで自由自在である。まぁ、こういう夜があっても良い。
イ・グスティ・ングラ・ライ国際空港で200,000ルピアの空港税を支払うと、残る現金は281,000ルピアになった。それにカードで23ドル58セントを足してウィスキー1本を買う。
搭乗ゲートは"Boading time"の15分前になってようやくアナウンスされた。今回の旅行でガルーダ航空が乗客に搭乗ゲートを余裕を以て報せることは、インドネシア国内にあっては皆無だった。そして空港ビルの端まで延々と歩いていく。
庭のヴィラで目を覚ます。幾種類もの鳥が、聞き覚えの無い声で啼いている。
きのうまでの2日間の睡眠時間は、合わせても7時間に達していない。今朝も、5時間を眠ったら目が覚めてしまった。そして目覚めて5分後に電話が鳴る。受話器を取ると"This is your cuckoo"と音声が流れる。モーニングコールを頼んだ覚えはない。
本日は今回のツアーで唯一、朝から夜まで何の予定も無い1日である。よって着替えて即、コンピュータを起動する。そしておとといの日記を書き始める。空は曇り加減だが、一部には青空が見えている。
朝食ブッフェの会場には、米はナシゴレンとお粥しか無かった。係に"steamed rice"の有無を訪ねると、その用意は無いとの答えが戻った。よってサラダやオムレツの他には器に多めのお粥を取り分け、席に運ぶ。するとそこに先ほどのオネーサンが"steamed rice"つまりゴハンを持ってきてくれた。
「ブッフェとしてはご用意していませんが、厨房にはあるのでお持ちいたします、くらい言ってくれても良いものを」と思ったが、それよりゴハンを食べられる方が嬉しい。そしてお粥ともども2食分ほどの朝飯を胃に収める。
おとといの日記は書き終えたが、引き続ききのうの日記に手を付ける気力は無い。朝の雲は一掃された。そして水着に着替え「若き数学者のアメリカ」を持って庭へ出る。
このホテルには3つのプールがあるらしい。メインのプールは朝食会場の目と鼻の先にあり、だからプールサイドでは食事も摂れればバーから飲み物を取り寄せることもできる。そして僕はその賑やかなプールを避け、自室にほどちかい、人っ子ひとりいないプールの、ひとつだけあるパラソルの下のビーチチェアに横になった。
耳に届くのはプールに注ぐ水の音、またホースに繋がれた簡易式のスプリンクラーから放たれる水の音くらいのものだ。垣根を越えればそこは海で、岸からすこし離れてアウトリガー式のカヌーが20艘ほども浮いている。1キロか2キロ先には飛行機の次々と発着する飛行場が見えるけれど、エンジンの音までは届かない。
朝にお粥と皿に大盛りのゴハンを食べてるため、正午が過ぎても腹は減らない。そして時刻は遂に14時に達した。このまま夜までゆっくりしていたい気分はやまやまだ。しかしまた「バリまで来て何してるんだ」と、みずからを叱咤する気持ちも、ないではない。そしてロビーへ出てベルにブルーバードタクシーの手配を頼む。
間もなくポーチにブルーバードタクシーが横付けされる。僕は「デンパサールのクレネン市場のちかくにマッサージ屋があれば、そこまで」と行き先を伝える。
「ちょっと、デンパサールまでは、まだだいぶ遠いんじゃないの」という感じのところでタクシーは停まった。タクシーの代金はティップも含めて61,500ルピア。マッサージのオネーサンには、主にふくらはぎを強めに揉んでもらった。
マッサージ屋の駐車場で客待ちをしていたブルーバードタクシーの運転手に声をかけ「デンパサールのクレネン市場まで」と告げる。ホテルのあるクタからデンパサールまでは20キロほどの道のりではなかったか。そして帰宅ラッシュのオートバイに行く手を阻まれながら、クレネン市場には16時30分に達した。タクシー代金はティップも含めて88,000ルピアだった。やはりマッサージ屋は、デンパサールのかなり手前にあったのだ。あるいはクレネン市場のちかくには、マッサージ屋など無いのかも知れない。
"Old style market"とタクシーの運転手が説明してくれたこの市場は、低い城壁のようなもので囲まれた、せいぜい1ヘクタールほどの矩形の内側に、食堂や雑貨屋がギッシリと、しかし整然と並んでいた。僕は食堂というよりも屋台と呼んだ方がふさわしい、豚の丸焼きを置いた店の中から特に良さそうなところを選び、席に着く。そしてバビグリンとビンタンビールの大瓶を注文する。
僕がこの食堂で何をしたかといえば、メシを食べビールを飲んだけではない。日本から持参した、この正月に届いた年賀状に返事を書いたのだ。ビンタンビールの2本目を飲み干すまでに、6通の年賀状が書き上がった。そろそろ腰の上げどきである。城壁のようなものの外に出ると、路上は花や果物の市場で、白熱灯に照らされた南洋の原色は素晴らしく目に眩しい。
「このあたりにタクシーは少ないですよ。待ってましょうか」と、ここまで送ってくれた運転手は言った。「ヘーキ、片道でいいよ」と僕はその問いかけに応えた。そして市場を出るなり表の通りにブルーバードタクシーが通り過ぎる。クタの方面に歩き始めると、またタクシーの停まっているのが見えた。しかしタクシーなら「バリ随一の真面目さ」と評判のブルーバードタクシーを使いたい。
そうして歩き続けるが、以降はタクシーの姿が1台も見えなくなった。オートバイが1,000台来ても、そこにタクシーは1台も混じっていない。20分ほども歩いたところで「ひと休み」とばかりに"Hallo"と声をかけつつ床屋のドアを押す。
床屋には3枚の鏡と3客の椅子があった。しかしオヤジはひとりしかいない。客は散髪中がひとりに待っている者がふたり。日本であれば即、踵を返すところだけれど、しばらく様子を見ている。すると信じられないことに、ひとりの客に要する時間は僅々10分から12分だった。床屋に入ったのは7時ごろ。そして7時35分から僕の番になる。
南国の床屋の特徴は、電動バリカンを多用するところにある。この店のオヤジも、特別にうるさい客にこそ梳鋏を使うけれど、通常の客にはいわゆる「ゲタ」を交換しながら電動バリカン一本で作業をしている。
「どんなふうにするのか」とオヤジはインドネシア語あるいはバリ語で言っているのだろう。僕は親指と人差し指で5ミリほどの感覚を示す。オヤジは鋏の先から5ミリほどのところに爪を立てて僕の目を見る。僕は頷く。話は簡単である。そして髭については更に短く刈ってもらう。襟足を剃る際の石けん液は使い回しだ。そのプラスティックの器には、何人もの髪の毛がこびりついていた。
散髪が済めば料金の支払いである。ポケットから出したサイフを大きく開き、中を見せるとオヤジはためらいがちに20,000ルピア札1枚をそこから引き抜いた。邦貨にして179円。梳鋏の客の半分以下の価格だ。
ところで「バリで床屋にかかったときの画像がぜひ欲しい」と、バッグを探るとカメラが無い。市場を出て路上で1、2枚の写真を撮って後はバッグにしっかり収めたはずだ。考えられるとすれば、歩く途中で水分補給のためにペットボトルを取り出した、そのとき落としたに違いない。
残念な気持ちは不思議なことに起きなかった。「落としたのがサイフでなくて良かった」という安堵が勝ったのだろう。現金は日本円と米ドルを分散して持っていたが、ルピアを失っては面倒だ。あたりにはホテルのような施設はなく、暗い蛍光灯を点した小商いの店か、せいぜいコンビニエンスストアくらいしか見あたらない。
「カメラは到底、落としたまま路上にあることはないだろう」と考えつつ、タクシーも見つからないため、市場への道を戻り始める。日はすっかり落ちている。夜の道にはオートバイの流れのあるばかりだ。中国の故事と意味は異なるが、このときはまさに「日暮れて道遠し」の気分だった。床屋にいた時間も含めれば、もう2時間も異国の夜をさまよっているのだ。
と、やおらそのとき1台のタクシーが脇道から現れて、僕の歩く方にハンドルを切った。僕は間髪を入れず「ヘイ、タクシー」と大声で叫んだ。席に収まり「クタ」と行き先を告げつつホテルの名刺を見せる。
そのまま走り出した運転手に「メーター、使ってくださいね」と頼む。すかさず運転手はメーターのスイッチを押す。メーターには基本料金を示す"6,000"の数字が緑色に浮かんだ。
数十分ほども走ってホテルに滑り込んだタクシーの、そのメーターにいくらか足して、運転手には105,000ルピアを手渡した。本日の画像すべてとカメラは失ったが、まぁ、一件落着、である。
昨年の、マハルジャン・プラニッシュさんと奈緒子さんの結婚式に出席するためのネパール行き、ここ数年は秋の恒例のようになっているタイ行き、あるいは3年のあいだ次男と続けたインドシナ半島への旅。このような場合には、時間は有り余るほどあるから詳しい日記が書ける。
しかし今回のインドネシア訪問は「栃木県味噌工業協同組合」が隔年で催行する親睦旅行であり、そのメンバーは忙しい人ばかりだ。それに加えて日本とインドネシアを結ぶ、あるいはインドネシア国内における航空便の数はそれほど多くない。いきおい日程は過密になり、よって今回の日記は箇条書きのようなものにならざるを得ない。
目覚めてほんの数分も経たないうちに、きのう頼んであった3時30分のモーニングコールがフロントからかかる。自動音声方式に拠らないモーニングコールは今どき珍しい。上半身はTシャツ、下半身にはパレオを巻いてロビーに降りる。
きのう空港に出迎えてくれたガイドのレニさんに先導され、ワゴン車に乗り込む。クルマは4時2分にホテルを出て50分後に"Manohara Borobudur"に横付けされた。ボロブドゥールで日の出を拝もうとする人たちは、このホテルに設けられた券売所を通って遺跡に入る決まりらしい。
インドネシアでは、寺院にお参りをするとき、また遺跡に入域するときなどに、脚の露出度が高いと腰巻きを貸し出されると、あらかじめ承知をしていた。ところが海外はおろかインドネシア国内からの旅行者と思われる人たちまでおしなべて、たとえ長ズボンを穿いていても、また男女の区別もなく、"Manohara Borobudur"の一角で腰巻きを巻かれている。ただしパレオを巻いている僕だけは、その装着を免れた。
「腰巻き巻き所」で手渡された懐中電灯の明かりを頼りに石の畳を進む。懐中電灯を持たなければ転倒必至の暗さである。
「ボロブドゥール」と検索エンジンに入れさえすれば、その概要は誰にでも読めるからここでは詳述しない。とにかくこの、奇跡のような巨大仏跡の最上部の回廊まで登って日の出を待つ。
100人以上はいると思われる、参拝というよりは見物客の頭上をツバメの舞い始めるのと日の出とは、ほぼ同時だった。日の出とはいえ今朝の太陽は雲とも朝靄ともつかないものに隠れ、オレンジ色の淡い輪郭が認められるのみだった。だからといって、今朝の日の出ツアーの価値が落ちるというものではない。
基壇の上に5層の方形壇、そして3層の円形壇を持つ、この世界最大級の寺院の、壇に施された彫刻すべてを詳細に観察しようとすれば、必要になる日数は3日とも4日とも言われている。その浮き彫りの、シッダールタの誕生前後についてのところのみレニさんに解説をしてもらう。安山岩にも拘わらず彫刻の表面が黄色いのは、かつての宗主国オランダのカメラマンが写真のコントラストを上げるために塗ったペンキで、洗ってもなかなか落ちないのだという。
ボロブドゥールとおなじ遺跡群にあるムンドゥッ寺院に寄りながら、出勤や通学のためのオートバイがあふれる道を走り、ホテルに戻る。
朝食の会場へ降りて皿にあれこれ盛るうち、様々な食材を並べた一角で、係の女の子が手持ち無沙汰にしていることに気づく。何やら気の毒になって近づくと、、それはどうやらインドネシアの、好みにより中身を配合する温野菜サラダのようなものだった。
「玉子はお入れしますか」と僕の姿を認めた女の子が小首をかしげる。よって「お願いします。あと、テンペも」と注文をする。テンペは大豆などをテンペ菌で発酵させた、インドネシアを代表する醗酵食品である。係は最後に胡麻のソースをかけまわし、その皿を僕に差し出した。珍しいものは何でも食べてみるものだ。いろいろなスパイスのほのかに利いたサラダは、まるでほうれん草の胡麻和えのように、僕の舌を喜ばせた。
この"HOTEL TENTREM YOGYAKARTA"に入ったのは昨夜の22時すぎだった。今朝は4時に出て8時に戻り、今度は10時にはチェックアウトを済ませてロビーに集合だという。ベランダをふたつ持つ光あふれる角部屋の、7つの枕の並ぶ巨大なベッドで眠った時間は3時間と少々。澄んだ水を満々と湛えたプールは横目で見て過ぎるのみだ。
ガイドの付くツアーは、楽な点が多いけれど自由度は低い。銀細工やジャワ更紗の工房を巡るたび少しずつ買い物をする。そして藩王の屋敷跡と言われれば信じてしまいそうな料理屋で昼食を摂る。
「夜行性のジャコウネコは、夜、山でアラビカ種のコーヒーの木に登ります。そして、その木に実ったうちの、いちばん美味しく熟した実を食べます。ジャコウネコは他にも様々な美味しいフルーツを食べます。コーヒーの実はジャコウネコのおなかの中で、その美味しいフルーツと混じり合って、素晴らしい香りを持つに至ります。翌朝、ジャコウネコは糞をします。その糞に丸ごと残ったコーヒー豆を良く洗い、乾燥させ、ひとつひとつ手で皮を剥きます。それから入念に焙煎し、挽きたての味を抽出したのが、今から試飲していただく、こちらのコーヒーです」
この物語に対抗できる人間は、なかなかいないのではないか。
"KOPI"はコーヒーで"LUWAK"はジャコウネコ。そして"KOPI LUWAK"という看板の店では、そのジャコウネコの生きた様子、コーヒー豆を大量に含んだ糞、洗って乾かしたコーヒー豆、そのコーヒー豆の皮を剥く作業、まぁこの作業はいかにも「見せるだけ」のものだったけれど、そこまで能書きを聞かされては、僕の購買欲は勃興したまましぼまない。
そして遂には、試飲したコーヒーは大いに疑問符の付く風味ではあったけれど、インドネシアの物価からすれば異常に高いコーヒー豆を手に入れる。
そんな名産店巡りをしているうち、日程表に明示してある「水の王宮」の見物は間引かれた。
本日最後の見物は、プランバナン寺院だった。ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌをそれぞれ祀るチャンディの、工事中だったシヴァのそれを除いては階段を上がって堂内まで入り、そのたび像に触れて願い事をする。プランバナンは「寺院群」としての規模こそアンコールワット周辺には遠く及ばない。しかし単独の寺院としてこれを見た場合には、非常に価値のあるものだ。
ところでインドネシアは、種々の理由から、現在はラテン文字を使っている。ラテン文字は表音文字だから、インドネシアにいきなり来た外国人でも、それを読んだだけで、音だけは何となく発することができる。便利といえば便利だが、残念といえば残念なことだ。
夕食を済ませてのち空港へ移動する。ここでも出発ゲートはボーディングの直前まで知らされなかった。そしていよいよ搭乗が可能となって、機の下まで歩いて行く。
"Boeing 737-800"を機材とする"GA254"は定刻に15分おくれて、ジャワ島時間20:45にジョグジャカルタのアジスチプト国際空港を離陸した。そしてデンパサールのイ・グスティ・ングラ・ライ国際空港には、定刻より10分はやい、ジャワ島時間21:40、バリ島時間22:40に着陸をする。
ジャワ島のガイドは女のレニさんだった。こちらでは男のクディさんに迎えられ、0時もちかくなるころクタ南端にある"Patra Jasa Bali Resort & Villas"の庭のヴィラに落ち着く。
僕は目を覚ますためにアラームを設定することはほとんどしない。危険を回避するため設定することはあっても、大抵はそれが鳴る前に目を覚ます。ところが今朝は、きのうなかなか寝付けなかったこともあって、4時30分にiPhoneが音を発してもすぐに起床することができなかった。そして20数分後にようやく服を着る。
05:30 家を出発
06:15 関東バス自動車柳田車庫着
06:47 運転手にうながされて成田空港行きのマロニエ号に乗車
次の乗降場所「宇都宮駅西口」に着く前に、朝飯のおむすびを食べ終える。そしていつの間にか眠りに落ちて、目を覚ますとバスは高速道路を走っていた。窓の外には「蓮田」の文字が見える。時刻は8時23分だった。間もなく浦和の料金所を抜ける。09:55 成田空港第1ターミナル着
ガルーダインドネシア航空885便のボーディングタイムは11時30分。搭乗ゲートは14番。そしてそのゲートまで達すると、eチケットの12:00発が11:50発に早められていた。
"Boeing 777-300ER"を機材とする"GA885"は12:04に離陸をした。席は僕ごのみ最後部通路側。機を前、中、後と大きく三分割した後部124席に、乗客は29人しか見られない。
12:13 すべての乗客にアイマスクと耳栓と靴下が配られる。
12:45 飲み物と昼食のメニュが配られる。
13:22 昼食。
ガルーダ航空機はほとんど常に、気流の悪いところを飛んでいる。特に、昼食の最後のころには小さなエアポケットに落ち、前席の人は、満杯のコーヒーカップを手にしたまま直上の物入れちかくまで跳ね上がった。当方に被害は無かったが、前席の人のズボンは、このままでは身につけていられないほどコーヒーに濡れてしまっている。
13:53 それまでの新聞に換えて藤原正彦の「若き数学者のアメリカ」を読み始める。
14:35 高雄東方海上を通過
15:15 入国審査とヴィザの発給を受ける。
インドネシアのヴィザは、成田空港の専用カウンターで25ドル分の日本円を支払うと、ガルーダ航空機内に乗った入国審査官により、ヴィザの発給を受けることができる。非常に親切な措置と、大いに感心をする。
15:40 マニラ東方海上を通過
16:50 ボルネオ上空に入り、そのまま島西岸を南下する。
18:40 ボルネオ上空からふたたび海上に出る。
"GA885"は予定より12分早い日本時間19:08、ジャワ島時間17:08にスカルノハッタ国際空港に着陸をした。この空港はバンコクのスワンナプーム空港のような巨大さは持ち合わせないから乗り換えは楽である。ただし今夜のうちにジョグジャカルタに飛ぶ"GA217"便の出発ゲートについては、朝現在の"F4"が現地では変更の可能性ありと成田では伝えられていた。
空港内を歩きながら案内のディスプレイを調べると、"GA217"便の出発ゲートにはボーディングカードと同じ"F4"が示されていた。しかし近くに立つ空港係官は僕の様子を目にして"maybe change"と声をかけてくる。そして結局のところはイスラム教徒の人たちと、"F2"のゲートで2時間ほどもベンチに座っている。
ようよう案内されて階段を降り、バスに乗る。バスの着いたところは、朝からボーディングカードに見慣れた"F4"のゲートだった。意味をのみ込めないままたくさんの人たちとふたたび階段を上がり、目の前のボーディングブリッジに歩を進める。
この先の日程に余裕があればそれほどは感じないだろう疲れをどことなく覚える。"Boeing 737-800"を機材とする"GA217"は定刻に40分おくれて、日本時間22:15、ジャワ島時間20:15にスカルノハッタ国際空港を離陸した。
インドネシアには2003年11月にビンタン島に一歩を記したのみだから、今回が初上陸と言っても過言ではない。ジョグジャカルタの街の様子など知らないため、機内で配られたスナックはすべて胃に入れた。そうしてジョグジャカルタのアジスチプト空港には、定刻に13分遅れの、日本時間23:03、ジャワ島時間21:03に着陸をした。
現地のガイドはすぐに見つけることができた。そして活気のある夜の街を走り、ホテル"TENTREM YOGYAKARTA"に入る。かなり豪華なホテルだが、ここに落ち着いていられる時間は半日に満たない。
普段の旅行であればホテルに着くなり街へ出るところだが、明日の行動を考えれば、そのようなことができるわけはない。入浴して身の回りを整え、明朝3時30分に目覚ましを設定して早々に寝る。
「長音からのLまたはR音で終わる街の名称の、後ろ半分はBまたはP音で始まる」という認識が、僕の中には抜きがたくある。ヨーロッパであればStras-bourgであり、Luxem-bourgであり、Gothem-bourgである。それ以東であればればIstan-bulでありBhakta-purでありSinga-poreである。
だからジャワ島にある巨大な仏教遺跡の名もボロドブールと覚えてしまった。ガルシア・マルケスをガルシア・マルスケと脳に刻んでしまうことと変わらない。誤って覚えてしまうとその後の修正が利きづらく、苦労をする。ボロドブールは、正しくはボロブドゥールである。
明日は、そのボロブドゥールにほど近いジョグジャカルタまで達すべく、成田空港12:00発のガルーダ航空機に乗る。赤道の南まで飛んでふたつの島を渡りつつ3泊で戻る日程は、いわゆる弾丸旅行の範疇に入るかも知れない。
この日記はいわゆる"cloud"ではないから、現地で書いてもサーバに上げることはできない。その間は"facebook"による近況報告になるだろう。
現在のボロドブールは、摂氏37度を記録した本日の北海道よりは涼しいものと思われる。
きのうの夜から上の歯茎の、左右のそれぞれ奥が痛み始めた。そのあたりの皮膚も心なしかザラついている。炎症の前兆である。
口内炎には15歳のころから悩まされてきた。みずからの口内炎の歴史の中で会得した最上の治療法は、耳鼻咽喉科や口腔外科で患部に硝酸銀を塗布してもらうことを別とすれば、ビタミンの大量摂取である。
口内炎の兆候を感じたら、ビタミンB群と同Cを規定の倍ほど服用する。そのとき体内では何らかの理由によりビタミンが激しく費消されているらしく、尿の色はほぼ透明のままである。
1日か2日ほどして尿の色が濃い黄色に変わったら、ビタミンを激しく費消する原因が体内から去ったとして、服用するビタミンの量を通常のものにする。そのまま翌日くらいまでビタミンを摂り続ければ、口内炎はほぼ完治している。
口内炎への硝酸銀の塗布はひどく痛む、という情報がインターネット上にあるけれど、僕はその施術に痛みを感じたことはない。ただし病院まで足を運ぶ必要がある。家にいてもできるビタミンの大量摂取は、口内炎の治療法としては優れたものと、自分では信じている。
玄関の軒先に、1週間ほど前から2羽のツバメが盛んに飛び交い始めた。そして今早朝に外へ出てみると、いまだ完成したとは思われない小さな巣に、しかしツバメの落ち着く姿が見られた。
ツバメは南の国から春先に来て秋に帰る。産卵の時期は日本に渡ってきて間もなく、というものでもない。1羽のツバメは時期をずらして年に3個から7個ほどの卵を産むという。
ウチの玄関に営巣したつがいのツバメは、まさかこれが今回の「渡り」で初めての巣ではないだろう。春先から今までは、どこで何をしていたのか。とにかくツバメの来訪は吉兆である。玄関先がいくら汚れても、厭わず掃除をしたい。
「週はいつから始まる」とgoogleに入れると、日曜日という意見と月曜日という意見が拮抗して、どちらが正しいかの判断が付かない。よって日曜日の本日現在、3日後の水曜日を「今週の水曜日」と呼ぶのか「来週の水曜日」と呼ぶのかは知らない。とにかく6月4日の水曜日から僕はインドネシアへ行く。
成田空港を12時00分に発つ"GA885"便は、ジャカルタ国際空港に、現地時間の17時30分に着く。日本とジャワ島の時差は2時間。よって飛んでいる時間は7時間30分だ。それだけあればいくら遅読派の僕でも本の1冊くらいは読めるだろう。ということは、持参する本は1冊では足りない。
往路には藤原正彦の「若き数学者のアメリカ」を準備済みだ。そして現地で読むための、金子光晴の「世界見世物づくし」は、"amazon"に店を出している古書店から昼すぎに届いた。「インドネシアで金子光晴なら断然『マレー蘭印紀行』だろう」と言わることは重々承知をしている。しかしそれは学生のころから何度も読み返して、今は甘木庵にあるのだ。
帰路はグラライ国際空港空発の深夜便を使う。活字は必要ないだろう。