以前の検索語句が残るようには"google"を設定していないから、今となってはどのような言葉で検索をかけたかの記憶はない。とにかく友田錫による「カンボジア断想3 シアヌークは叫んだ」という随筆を「日本記者クラブ」のページに見つけ、これを早朝に読む。
その余勢を駆って、と言っては何だが「友田錫」の名を"amazon"で検索すると「シアヌーク自伝」という本が見つかった。伝記で圧倒的に面白かったのはキティ・ケリーがフランク・シナトラについて書いた「ヒズウェイ」だが、その面白さはこの伝記がシナトラによる「自伝」ではないことによる。「シアヌーク自伝」については、今日のところは「カートに入れる」ボタンはクリックしなかった。
24日に続いて本日もラジオの取材を受ける。今日のそれは"RADIO BERRY"によるもので、僕が説明を求められた商品は「赤味噌のアイス」だった。
取材を受けていて、リポーターのナカノトモミさんも、また録音のタカハシシュンスケサンも、以前からのウチのお得意様と知って感激をした。放送は来月11日の朝9時とのことだ。
夜は発泡性の日本酒4合を長男とふたりで空ける。このところは日本酒が、なぜか美味い。
ところで先ほど書名を出した「ヒズウェイ」について。今なら"amazon"に古書が86円で出ている。これを買わない手は、どう考えても無いと思う。
2010年6月3日、密林を切り開いた泥の道を、その山のふもと四方から頂上まで直登すべく設けられた参道と何度か交差しながら山上の遺跡プノンバケンに至り、第五層のテラスまでよじ登った。
プノンバケンはアンコールワットに先立つこと200年前に作られたヒンドゥー寺院で、その壁には既にして優美なデバターが存在している。僕はその女体に破壊の跡を認めて「誰によるものですか」と訊いたら案内人のロンさんは「カンボジアに駐留していたヴェトナム兵が、暇つぶしに銃で撃ちました」と答えた。
そのことが僕の頭にはずっとあって、きのうの夜は1985年に読んだ、近藤紘一の「したたかな敗者たち」を書棚に探した。僕は本を失くすことが多いけれど、その一部は決して散逸させない。そしてこれを端からめくって、その第四部「ジャングルの抵抗者たち」が、ベトナムのカンボジア侵攻についての部分と知った。
「ジャングルの抵抗者たち」は90ページの容量があった。そしてこれを昨日の夜、そして今早朝から6時30分までの時間で再読した。
自国民の虐殺に明け暮れるクメールルージュの掃討を錦の御旗として、遂に隣国に侵攻駐留したヴェトナム。それをヴェトナム攻撃の好機として中越戦争に持ち込んだ中国。カンボジアを共産主義の防波堤とすべく暗躍するタイとシンガポール。その両国とは同じASEANにありながら金持ち喧嘩せずを決め込むインドネシア。そしてイデオロギーを異にする大国の思惑。
1980年代はじめのドンムアン空港には、どこに連れて行かれるのか、カンボジアの難民たちがうつろな目をしてうずくまっていたものだ。これから20日のあいだにできるだけ本を読んで「しかしシェムリアップに持参するのはやっぱり近藤紘一の『目撃者』かなぁ」と考える。
夜はオフクロの誕生祝いを1日だけ前倒しして、霧降高原の「グルマンズ和牛」へ行く。
今月22日から23日にかけての日記に書いた、サーバの移行に伴う作業においては、デザイナーから宿題を出されていた。彼女への納期は8月10日に設定されていたが、そのうち特に知恵を絞るべき部分については本日そのほとんどを書き終えた。すべてが完了したら長男に見せ、編集と校正と頼もうと考えている。
僕が自由学園の最高学部生だったある年は、梅雨が長引いて、夏休みに入っても、泳ぐ気などまるでしない日々の続いたことがあった。今年の梅雨明けは早く、光輝燦然とした空に入道雲の沸き立つ日が今月のはじめごろは良く見られた。
しかしこのところは、夜半に目覚めては星の無い空を見上げ、明け方に外の音に耳を澄ませては「この時間からこの雨量かよ、ウチの近所は平気にしても、またまた災害の起きている地域があるのではないか」と、テレビのスイッチを入れることが続いている。
いま雨で損をしている分、初秋に暑さと好天の日が多くなってくれないかと、僕は淡い期待を持っている。つい一週間ほども前までは豊作を伝えられていた作物が、その後の強雨により一転して凶作となることを、僕は何度も経験している。
胡瓜の価格は7月はじめに最安値と思われるところまで下げて、今はまた上げている。あと2週間もすれば茄子の収穫が最盛期を迎え、その次は茗荷が一気に出てくる。その時期の雨も、また悩ましいのだ。
「○○さん、ケータイを鳴らしてくれればくれれば良いのに、なぜか自宅の黒電話に架けてくるもんなぁ」と、ある人を揶揄気味に語った人がいた。しかし僕などは取引先にも知り合いにも電話は会社の代表電話にかけてくるよう頼む。それが一番、僕という人間を捉まえやすいのだ。
「歳をとると、ことによると1日中、物を探している」と、むかし山口瞳が「男性自身」だったが随筆に書いていた。僕が探すのは圧倒的に携帯電話である。ある朝などは"docomo"の携帯電話が見つからず、"iPhone"も見当たらず、だから丸腰と言っては何だが通信機としては"Let's note"のみを持って出張に出かけたことがある。
そして今朝も、戻り梅雨のような天気からようやく脱することのできそうな空を眺めつつ携帯電話を探す。
朝に携帯電話の見当たらないときには大抵、前日から事務机に置き忘れているのだ。午前に携帯電話の見当たらないときには大抵、寝室の枕元に置き忘れているのだ。午後に携帯電話の見当たらないときには大抵、昼食のテーブルに置き忘れているのだ。
それらを見つけようとして自分のケータイ番号を鳴らしても、それは離れたところで鳴ってるわけだから、僕の耳には聞こえない。
そいえば今月17日の午前、カトマンドゥのホテルから空港へ向かう途中で携帯電話が鳴った。出てみると相手は不特定多数を相手にしているような営業業者だった。番号をどこで知ったか訊ねると、インターネット上に登録があると相手は答えたが、僕はそのようなことは関知していない。
「いま海外にいますので、そちらの電話代が異常に上がりますよ」と教えて上げると「それではご帰国後にお架け直しします」と相手は言ったが、以降、その人からの着電は無い。
およそ17日ぶりに早朝の仕事をして、5時すこし過ぎに居間に戻る。晴れれば南東の窓の正面に見えるはずの鶏鳴山は、ここ数日のあいだずっと雲の中に隠れたままだ。
メイラーを回すと、マハルジャンさんとナオコさんの結婚式を目的としてカトマンドゥに集まって、時には一緒に食事をしたうちの、ハママイさんから画像が届いていた。それはターメルの"Mustang Thakali Chulo"でメシを待つうち退屈をして、隣のヒラダテさんからネパールの国民帽トピを借りたときのものだった。
そのトピは、ヒラダテさんの頭にはまるで烏帽子のようにチョコンと載っていたが、僕の頭にはズボリと深く収まった。僕にはこのかぶり方が自然ではあるが、ネパールの流儀からすれば、小さめのものを頭に載せるのが正式とは、旧王宮ちかくのトピ屋のオヤジが僕に教えたことだ。
カトマンドゥで食べたメシは総じて美味かったが、"Mustang Thakali Chulo"のダルバートは、その中でも指折りのものだった。テーブルの上には皆で分けられるよう色々な料理があったが、僕はダルバートだけを黙々と口に運び続けた。あの7月13日は良い一日だった。
昼を過ぎて、聖ヨゼフ幼稚園の先の「みず家」に家内と行く。むかしはこのちかくに川の水を引き込んだ釣り堀があった。その清流を隔てた先の土地に花が見える。多分、このお店の人の丹精によるものだろう。その景色が目を和ませる。
それよりもなお、この店の人の、穏やかな言葉づかいや静かな振る舞いが、どこか別の世界に来たような印象を僕に与えた。ウチからクルマで数分の場所であるにもかかわらず、何か物語の中に迷い込んだような気さえした。そして「オレなんてのは、まったくもってダメだわな」との認識を新たにする。
たまにはそういう思いをした方が良いのだ、きっと。
夜はまた日常に戻り、どういうきっかけだったか長男のコンピュータにて"You Tube"を細川たかし、テレサテン、ジンタラー・プーンラープと巡回する。
甘木庵を6時30分に出て湯島の切り通し坂を下る。むかしの司法修習所と坂上側に隣り合った建物が壊されている。その建物がどのようなものだったかについては、もう思い出すことができない。
北千住駅07:42発の下り特急スペーシアに乗り、長男とふたりで帰社する。
3日前の、東京の豪雨を境にして、関東以北は随分と涼しくなってしまった。関東甲信の梅雨明けが、今年は7月6日と異様に早かった。そしてこれは僕にとっては初耳だったが、東北北陸はいまだ梅雨明けをしていないのだという。
日本とカンボジアの2時間の時差を勘案して夕刻、シェムリアップのロンさんに電話を入れる。ロンさんについては今年3月8日の日記「ロンさんの電話」に詳しい。
およそ4ヶ月半ぶりにロンさんの携帯電話番号を呼び出すと、先方は僕が名乗るより先に「アァ、ウワサワサン」と返事をした。3月の電話ではロンさんに当方のメールアドレスを求められたが「いや、長いから…」と相手を気遣って、数十文字のアルファベットを伝えることはしなかった。
しかし今日は思い立って「ロンさん、facebookはしていますか」と訊くと「ハイ、シテイマス」と言うので僕の名をアルファベットで伝え、facebookに検索をかけるよう頼んだ。
これでロンさんと意思を疎通させることは大幅に楽になった。後は、僕と次男がカンボジアで何をしたいか、何をすべきか、それを明確にして、ロンさんからの連絡を待つばかりである。
「夏の、いまだ明るいうちから酒を飲むということが、オレは大好きだよ。何だか得をした気分がする」と、地下鉄銀座線を銀座で降りて地上に出るなり口にすると「ヨーロッパなんて夜10時まで明るいよ」と長男が答えたから「だったら毎日、得か」と答えつつ「しかし年がら年中、明るいうちに飲めば、却って有難味は薄れるだろうな」と考える。
銀座通りを尾張町から新橋へと歩きながら、どうも街の印象の暗い感じがして周囲を見まわすと、大きなビルへの立て替えを予定して営業を停止した松坂屋に一切の明かりが無い。「なるほどそれだけでなぁ」と、何か新発見をした気分になる。
銀座で最も多く耳に届く言葉は中国語だ。8丁目の方面から中国人観光客という川が流れてくる。その川を遡上するようにして歩く。日本人観光客がヨーロッパでブランド品を買いあさったのは1970年代から10年ほどのあいだのことだ。日本人はすべて集めても1.3億人。それからすれば中華人民共和国の人口は桁が違う。物を売ろうとする人たちが中国人へとなびくのは当然だろう。
「コムズ銀座」の前から首都高速会社線をくぐると、あたりに白い煙が充満して、当然のことながらひどく煙たい。「焼肉の大規模店でもできたか」と、煙を吹き出すビルの表にまわってみる。そして内側に蛍光灯を仕込んだ大きな看板を目にして「俺の… へぇ、焼鳥屋も始めたのか」と、自らの不明を恥じるかといえば、そのようなこともない。
新橋でカワナベコージンさんを待ち受け、3人で銀座に戻って一夕、清遊をする。
カワナベさんとは22時ごろに7丁目で別れた。長男とふたりで旧電通通りを数寄屋橋へと向かうと、しかし東芝ビルの無い風景にはいつまでも違和感がつきまとう。
そうして22時30分に甘木庵に帰着し、シャワーを浴びて本を読む。就寝時間については覚えていない。
ネパールから帰国した20日に家内より矢継ぎ早の報告をあれこれ受けた。しかしそれらのほとんどは右から左へと抜けてしまった。その抜けてしまったひとつがラジオの取材である。今朝になってそのことをまたまた家内に言われ、1週間か10日ほども前に届いていた企画書を読む。
製作スタッフのダイモンケーコさんとカワカミトモカツさんは約束のとおり10時に来社をした。そしてダイモンさんの質問に答える形でウチの歴史や商品についてのことをお話しする。僕は内気で人見知りだが話すことはそれほど苦手ではない。取材は遅滞なく無事に完了した。
僕が書記を務めている、日本酒に特化した飲み会「本酒会」は規約に厳しいところがあって、そのひとつは「無断欠席の場合は即時退会」というものだ。カレンダーの、仕事についてのことはしっかり確認して実行していたが、今日が「本酒会」の例会日だということは、ウチの冷蔵庫で預かっていた、本日の出品酒をイチモトケンイチ会長が取りに来るまで忘れていた。
雨の中、19時30分に「魚登久」の引き戸を開ける。そして「第242回本酒会」の席に連なる。
龍岡町の甘木庵から神保町の"ComputerLib"までは大抵、歩いて行った。ウチの外注SEのひとりであるヒラダテマサヤさんは昨年秋に同社を退職して恵比寿に会社を立ち上げた。恵比寿まではまさか徒歩では行けない。そうして今朝も9時30分よりその新会社"Vector H"に詰める。
ヒラダテさんは今般の起業に当たっては神様にも何ごとか頼りたかったのだろう。その神様が、ナギグンバで祈祷を受けた経文を体内に収めた黄金のガネーシャである。その梱包を、今朝の作業前に開けてもらう。
思わず目を奪われる、赤味を帯びた艶やかな金色は、かなり純度の高い金メッキだろうか。幾本もの手には武器や法具を持ち、体は蛇に巻かれ、そして足元には彼の乗り物であるネズミまで見える。失礼を顧みず逆さにしてみれば、経文を収めて塞いだ蝋底には十字独鈷を思わせる封印が捺されている。
いまだその右腕のあたりに提げられている蝋印のある札は、これが国外へと不正に持ち出される骨董品ではないことを示すものだ。別途ヒラダテさんは水色の、"CURIO"とか"DEPARTMENT"と印刷されたサイン入りの書類も、地元の世話役から手渡されていた。
カトマンドゥのお土産屋には、真鍮製のガネーシャであればいくらでも売っている。お土産屋ではなく金物屋で買えば更に安くなる神像だが、ヒラダテさんが手に入れたそれは、他のものとは明らかな別物なのだ。そして僕は「これは御利益、ありそうですねー」と、若干の羨ましさを込めてつぶやいた。
きのうの話し合いもあって、新しいウェブショップのデザインは一段と進んだ。「16時に出ればウチで晩飯が食えるわな」と踏んでいるところにいきなり雨が降ってくる。その雨ははじめのうちこそ静かだったがそのうちいきなり激しくなり、電光や雷鳴も賑やかになってきた。
ちかくの避雷針には落雷多数。そのうち街には消防車なのか救急車なのかは不明ながら、サイレンの音がかしましく交錯し始めた。その景色を眺め、あるいは朝からの作業に疲れた目を休めたりしつつ雨をやり過ごそうとして、しかし雨は止むどころかますます強くなる。
渋谷区のピンポイント天気予報を調べると、本日の15時にはつい先ほどまでは太陽のアイコンが出ていたにもかかわらず、しばらく経ってみればそれは「強雨」の文字に変わっている。そして豪雨は16時45分にようやく上がった。
この機会を逃さず外へ出て駅への道を辿る。恵比寿ガーデンプレイスの一角ではマンホールから水が溢れ、それが歩道まで流れ出している。地上から地下鉄日比谷線の改札口まで降りていくと何やら愚痴をこぼす人が群れていた。しかし運休ではなさそうなのでプラットフォームに進む。日比谷線は普通に走って北千住に至った。
15時10分ごろ、埼玉県内で発生した人身事故により、東武日光線に遅れの出ていることは"Vector H"にいるときから知っていた。しかしそれが3時間後まで尾を引くとは考えていなかった。
電光掲示板には、運行されることのなかった北千住16:12発のスペーシアを最後として、その後の情報は出ていない。特急専用ホームの自動券売機はすべて発売中止。そして窓口には長蛇の列がある。そんなところには並びたくないから中央改札口を出たところの、東武の定期券や回数券を売る場所に行けば「特急券はすぐそこの券売機で買えます」と教えられたが、その券売機には幅広のシャッターが降ろされている。
戻ってその旨を伝えると「だったら、すぐそこの東武トラベルでも特急券は売ってます」と言われ、しかし東武トラベルの社員は「今は東武日光線の特急券はすべて販売中止です」と言下に答えた。つまり東武鉄道の職員でも、定期券や回数券を売る人は、列車の運行状況などについては何も知らない、ということだ。
「いざとなったら甘木庵に泊まりゃぁいいんだ」と、外へ出て1時間ほどをカウンター活動に費やし、ふたたび下り特急の専用券売所へ行く。
「19:13発の特急は、いつ浅草から来るんですか」
「それは分かりません」
「ということは、今日は特急は走らないということですか」
「それはないと思います」
「いつ来るかは分からないが、運行停止もないだろう」という駅員の情報に従えば、僕の採る道は「甘木庵に泊まる」「上野からJR線を使い、宇都宮を経由して今市に帰る」「東武線の下り特急を北千住で待ち続ける」の三者択一となる。
そして結局は「北千住で待ち続ける」を選び、22時前に帰宅をする。
下今市駅07:04発の上り特急スペーシアに乗れば、恵比寿には09:21に着く。駅から歩く時間を勘案すれば、ヒラダテマサヤさんとの約束の9時30分には遅刻するが、まぁ数分のことは許してもらうことにする。
現在のウェブショップの、特に買い物かごは2002年に導入をしたもので、設計が古い。お客様が商品をお選びになり、最後に注文ボタンをクリックされても「ご注文ありがとうございます」のページが立ち上がるまでに時間がかかり、ご迷惑をおかけすることがままあった。
ここ数年のあいだ、これをどうにかしたいと考え続けてきたが、先月になって突然その機会が訪れた、というよりも、僕やサーバ管理者の尻を蹴飛ばすような事態が発生し、以降はなかなか忙しいことになった。
サーバを乗り換えるとは、皿に載せたダンゴを別の皿に移すようなこととばかり僕は考えていた。しかし実際には現在のウェブショップのほとんどを作り替えなければならない大工事と知った。
今日はその大工事の、主にデザインにかかわる仕事をヒラダテさんの会社"Vector H"にて始める。「デザインの参考」と言うにはあまりに大きすぎるコンサルティングについては6月末に他社で受け、結果も受け取っている。兎に角これからの2ヶ月間は大いに忙しくなりそうだ。
そして夜は旧知のウェブ関係者なども恵比寿に呼び、煮魚などを肴に飲酒活動をする。
標高1,400メートルのカトマンドゥから同400メートルの日光市今市地区に戻る。日光とはいえ気温はカトマンドゥよりも、そしてバンコクよりも高い。
シヴァプリの山から駆け下り、ナギグンバの尼僧院に着いたころ「繋がった、繋がった」と家内より着信があった。カトマンドゥ市内にいても、日本との通話は海底ケーブルを経由した大昔の国際電話のように相手の声が遅れて届く。ましてナギグンバまで人里を離れれば音声の質は更に劣化し、だから「いま山の上。降りたらかけ直す」とのみ伝えて僕はその通話を切り上げた。
ナギグンバからブダニールカンタを経てカトマンドゥ市内に向かう途中、待ちきれなくなった家内はまた電話を入れてきた。音声は今度は明瞭だったから話を聴くと、それはある商社からの商談についてのものだった。
"NOKIA"の携帯電話を耳に押しつけつつ、しかし目の前にはネパールの渋滞と喧噪が広がっている。視覚と聴覚の乖離により、はじめは何ごとか理解できなかった通話の内容だったが、遠い記憶を呼び覚ましてみればそれは、相手からの提案であったにも拘わらず、僕が突っ張って自ら潰したとばかり考えていた商売についてのものと思い出された。
「あのときの、あの話が先方から復活したとは有り難い。ことによるきのうのスワヤンブナートでの祈り、そして今日の、ナギグンバでの礼拝が効いたか」と、僕は揺れるパジェロの中で考えた。そして電話の相手を家内から長男に替え「すべて任す」と答えた。
帰国してその後について長男に問えば「あれこれの質疑応答を経て先方には見積書を送った。後は返事を待つばかり」とのことだった。
夜は参議院選挙の結果をテレビで観ながら、またまた日本酒を飲む。
今回の機材は始めから終いまで"Boeing777-200"だった。その"TG642"は定刻に28分遅れて00:18に離陸をした。これまでの席すべて、右舷最後尾から2列目の通路側を予約済みだった。しかし"TG642"だけはそこが確保できず、そしてスワンナプーム空港でも眠くて席の指定をし忘れ、結局は右も左も他の乗客に挟まれた席になってしまった。
それでも機内に入ると同時にデパスとハルシオンを1錠ずつのみ、離陸してベルト着用のサインが消えると同時に背もたれを倒すと、そこで眠りに落ちた。4時間後に朝食を運んできたスッチーにはコーヒーだけをもらい、更に僕は眠り続けた。
今回の旅は、羽田での出発時が7名、それがネパールで10数名にふくれあがり、そこからは減ったり増えたり、人も入れ替わって、今朝は5名で成田に着いた。団体旅行のような、そうでもないような、倦むこともなく、適度に刺激のある、とても楽しいことを、時に集団で、時にひとり気ままに行い、いがみ合いもなく、夢のように過ごしたような気がする。
成田空港第2ターミナルビル10:00発のマロニエ号がどこかの料金所を通過した。「お、そろそろ東北道に入ったか」と窓の外を眺めていると、車内のアナウンスは「次は鹿沼インター入口」と告げた。時間の感覚がおかしくなっている。
マロニエ号を宇都宮駅で降り、13:33発の日光線に乗る。そして14:06にJR今市駅に着く。この駅にだけは跨線橋にエスカレータが無いからスーツケースは手で運ぶ。そして家内の運転するホンダフィットにて帰社する。
夜はコモトリ君が土産として持たせてくれたトムヤムクンの素でタイ風鍋を作ってもらい、これを肴に冷たい日本酒を飲む。僕は海外では、ボルネオの山奥にでも行かない限り現地食でこと足りる。しかし普段それほど飲まない日本酒を、今夜に限っては冷蔵庫から選んだ。僕の日本人としての"DNA"が、9日間の空白を経て「日本」を求めたのだろうか。
きのうと変わらず早朝に目覚め、インスタントのコンソメスープを飲み、数日前の日記を書く。今日はいよいよ日本に帰る。よってヒラダテマサヤさんの部屋に電話をし、チェックアウト後のスーツケースの保管場所などにつき確認をする。
ヒラダテさんとはそのままロビーで落ち合い、きのうの屋台横町へ出かける。今朝はその中のスープ屋で複数種の豚モツを指定しながらスープを頼み、そこにカオスアイを沈めて、いわば固めのお粥のようにする。
はす向かいの飲み物屋は何と、屋台でありながらコーヒーは注文を受けるごとにミキサーで挽いている。それを知って僕はアイスコーヒーを注文し、ヒラダテさんはメニュからバナナジュースを選んだ。
チェックアウトは正午だから時間はまだまだ充分にある。きのうと同じくプールに出かけ、デッキチェアに大きなタオルを敷き延べる。そしてそこで昼ちかくまで本を読む。
「さて、これからひとりでどこへ行こうか」と考えているところにコモトリケー君から着信がある。「何やってんだよ、オレ、もうロビーにいるんだよ」と言われて「良かったー、出かけなくて」と胸をなで下ろす。眠くて意識を失いかけていた昨夜、僕はコモトリ君と何ごとか約束をしたらしい。
昼飯はカオマンガイの名店「ガイトーン・プラトゥーナム」へ行く。今日の目標はここで鶏レヴァやハツを食べることだ。店に向かって右手の調理場で鶏モツを刻んでいるオネーサンに「コレ何?」とタイ語で訊くと、ごく短い答えが戻ったが、その口まねをしても店員には通じないだろう。
求めたメニュを開いて「これじゃねぇか」とコモトリ君がその品名を指さすと、果たして僕の所望する品が席に届いた。きのう今日の屋台横町もそうだったが、ここもまた、夜に焼酎を持ち込んで寛ぎたい種類の店だ。
午後は日用品の買い物やマッサージなどをして過ごし、夕刻に今夜の帰宅組とホテルで落ち合う。そして揃ってちかくのタイシャブ屋"COCA"に移動をする。
僕は1991年に自由学園のツジムラ先生、ヤマモト先生、男子部9回生のタナカさんとネパールへ行く途次にバンコクで"COCA"のシーロム店へ行き「こいつぁ美味めぇや」と大感激をした。数年後に支店が有楽町にできたときには真っ先に駆けつけ、しかし現地とはまったく異なるメニュに「やっぱりタイで食わなきゃダメだ」と落胆をした。
そのうちコモトリ君がバンコクに駐在となり、また僕もタイを訪問する機会ができたから喜び勇んで「コカ、行こうぜ」と提案をしたところ「鍋ってのは椎茸とか白菜の根っこんとことか、そういうダシの出るもんとか固いとことかから入れてくもんだ。それをタイ人は何から何まで一緒にぶち込んで『これがタイのスタンダードだ』みてぇな顔してグダグダ煮る、そこんところが気に入らねぇ」と拒否をされ、僕は"COCA"には更に無沙汰をすることとなった。
それが今夜は遂に計5名でタイシャブの卓を囲むことができた。それはとても嬉しかったが僕の味覚はしかし、今ではタイシャブよりもチムジュムを好むようになっていた。なかなか上手くいかないものである。
空港には眠りこけながら、コモトリ君のクルマに運ばれ着いた。携帯電話に着信があって、ディスプレイに目を遣ると、そこにはマハルジャンさんの名があった。「そうか、マハルジャンさんも一緒に帰るのか」と、8日前のミーティングを浦島太郎のように思い出しながら、出発ゲートへと向かう。
雨期のバンコクの夜が明ける。インスタントのコンソメスープを飲むことが、海外で早く目覚めたときの僕の楽しみのひとつだ。今回も日数以上の数を持参したが、カトマンドゥの部屋には生憎と湯沸かしポットが無かった。そしてタイに入ってようやくその1袋目に手を着ける。
きのう共にバンコク入りした3名のうち、ある者は象に乗りに、ある者は水上マーケットを見に、またある者は街歩きへと去った。何となくガランとしたような、何となく気楽なような気分を抱えて僕は、朝の散歩の際に見つけた屋台横町へと出向く。
たくさんの総菜を並べた店の前に立つと「ここで食べていくか」とオニーチャンが身振りで訊いてくる。頷くとオニーチャンは先ず皿にメシを盛り「さて何を載せようか」と今度は目で訊ねる。総菜屋台は日本の鮨屋と同じく口や腹よりも先に目が欲しくなる。そしてあれもこれもと指さすうちメシが見えないほどのてんこ盛りになる。
「インラック首相のバラマキ政策によりインフレが亢進し、そこに円安が追い打ちをかけて、日本人旅行者には辛いバンコク」と、最近どこかで読んだ。そして今朝のメシについては「100バーツを超えたりして」と心配しながら勘定を頼むと「シーシップハーバー」と言われたから45バーツ。それなら安いと思う。ちなみに冬瓜のスープは無料だ。
午前中はプールのデッキチェアに横になり「あぁ、これがオレ本来の旅行だわな」と、ゆったりした気分で本を読む。"Hotel Novotel Bangkok on Siam Square"のプールには、午前の早い時間には陽は差さない。よって人影もまばらだったが、昼が近づくにつれちらほらと客が出てくる。
そろそろ引き上げようとしている僕に番人の届けてくれたタオルを使わないまま返そうとしてプールの脇に回ると、奥に柱上祠が見えた。ここのこれは敷地に対して45度の角度を付けて北東に向いている。それに気づいて「日本ならわざわざ鬼門には向けねぇだろうけどなぁ」というようなことを考える。
昼にコモトリ君が迎えに来て、地元でも評判というクイティオ屋に行く。名前は「隆龍特製魚丸」。場所はラマ四世通り。ファランポーン駅にほど近い北側の道ばたにその店はあった。
僕は叱られない限り、料理屋では裏に回ってみる。普通のクイティオ屋では製麺屋から仕入れるところ、ここは裏庭で麺を自製している。麺の係は4人、焼売の係も4人。他の仕込みの仕事に対しても幾人かがいた。そして確かに、ここの麺は他の店のそれとは全然ちがう。食感がモチモチなのだ。「こだわりってのは大事だぞなぁ」と感心しつつ店を出る。
午後の随分と早い時間からコモトリ君の、チャオプラヤ川沿いの家に落ち着く。別段、特に行きたいところなど無いのだ。会社のfacebookページを留守にしないため荷物に加えた「たまり炊き」を箱から取り出し、ベランダでその写真を撮るなどして夕刻までゆっくりする。
コモトリ君の住むコンドミニアムの専用船に、17時に乗り込む。今日の川風は凌ぎやすい。きのう共にバンコク入りした3人には、サパーンタークシンの船着き場で17時に待っているよう伝えておいた。そしてこの船着き場に近づこうとしている船上から彼らの姿を探す。
この時間には、東京でいえばお台場のような"RIVER CITY"に客を運ぶ無料船が賑わう。あたりは人だらけだ。船が桟橋に着くや、僕は階段を駆け上がって彼らを人混みの中に捜し当て「すぐに出るよっ」と声をかける。そして今度は4人で桟橋まで駆け下りて行く。船着き場の係員が「バンチャオ?」と叫ぶ。僕は「バンチャオ」とオウム返しに返事をして船の舳先を踏む。船は踵を返すようにして満ち潮のチャオプラヤ川を遡上し始めた。
僕はひとりでの行動を好むけれど、夜のメシだけは人と一緒の方が何となく楽しい。「ワイン飲む人」とコモトリ君が声をかけると「ハーイ」と3本か4本ほどの手が上がる。その人たちに「ビールでもハイボールでも良いってヤツは、ワインはあんまり飲むなよ」と僕は牽制をする。
食事の後は、今度は全員でコモトリ君の家へ行き、僕が土産として持参した、ハニトモハル君のCD"my all"を、部屋の照明を落として聴く。僕は「後輩だから」ということだけを理由に贔屓はしない。"my all"は僕の愛聴して止まないCDである。
ホテルには21時台に着いた。眠くて眠くて仕方がない。ネオン煌めくバンコクで、この時間から寝るのは子供とバカくらいのものではないか。風呂に湯を溜めるなど悠長なことはしていられない。シャワーを浴びて即、就寝をする。
カトマンドゥに入ってからの就寝時間は22時台がほとんどだった。しかしきのうは飲酒を為さず、そのこともあってか23時を過ぎてようやく眠った。就寝が遅ければそれに伴い起床も遅くなる。今朝は4時を回ってようやく目を覚ました。
洗面台の直上にある、コップや洗面道具などを置く棚に頭がぶつかるから、洗面台とはいえここで顔を洗うことはできない。いつものように、指先に水を付け、それで目の周りだけを洗う。そしてコンピュータを開いて13日の日記を完成させ、いよいよ14日の日記に取りかかる。
僕の"RIMOWA"の巨大なスーツケースは、半分ほどはバクバクに空いている。ここに、共に帰国する人たちの、カトマンドゥでの買い物によりふくれあがって持ちきれなくなった土産物を収めてみる。しかる後にヒラダテマサヤさん持参のデジタル秤で重さを調べれば20キロを大幅に超え「それじゃぁ無理」と、荷物を各自に戻して運び屋の役を降りる。
最後のティップを置こうとしてサイドテーブルにふと目を遣ると、部屋番号は"307"であるにも関わらず、電話機には"306"の表示がある。それでも電話は通じていた。「細けぇことは気にするな」ということなのだろう。
ホテルが手配した空港へのバスは10時発とのことだったが、トリブバン空港から飛行機が飛ぶのは13:30だから、それほど急ぐこともない。そして50分ほども遅れてホテルを出る。途中、無謀な運転のタクシーに接触事故を起こされたが、とにかく空港には無事に着いた。
カトマンドゥ到着時に、到着ロビーから外に出てスーツケースを自分で曳いていくと、そこに手を添え迎えのクルマまで一緒に歩いただけで「ティップをくれ」という輩が大勢いた。トリブバン空港の、これはまぁ、名物のようなものだ。
今日はその逆に、バスから次々と降ろされる我々のスーツケースを勝手に台車に乗せ、空港入口まで運ぼうとする少年がいた。我々の荷物は多く、入口まではつづら折りの上り坂だから、今日のところは黙認をした。"PASSENGER ONLY"と書かれた入口に来たところで100ルピーを手渡すと、少年は黙って去った。荷物が5つも6つもある今日のようなときであれば、100ルピーはそう高いものでもないと思う。
そこから空港内に入るといきなり荷物のX線検査があり、そのコンベアの出口には、今度は空港の職員であることを示す派手なベストを着た男たちがいた。そのうちのひとりがまたまた我々の荷物を台車に載せ、目と鼻の先のタイ航空のカウンターまで運んで僕の耳元で"Tip sir"と呟いた。
僕がバックパッカーのときであれば大声で「ノーッ」と叫んだところだが、今はそこまではしない。「50もやっときなよ」とヒラダテさんに言い、ヒラダテさんが50ルピーを渡すと「荷物を運んだのは計ふたり」というようなことを男はまたまたささやいたので、以降は無視を決め込んだ。
"Boeing777-200"に乗り込んだ最後の客は、僕とヒラダテさんだったかも知れない。"TG321"は定刻に22分おくれて13:52に離陸をした。窓の外には、膨張し続けているらしいカトマンドゥの市街がしばらく途切れなかった。
機内では14日の日記を書き上げてしまおうとコンピュータを開いたが、キーボードを打ちづらく感じるほどの揺れがあり、またスッチーがギャレーから機内食のワゴンを出し始めたため、立ち上げたばかりのコンピュータを閉じる。機内食は、配られ始めてから片付け終えるまでに概ね1時間を要する。その1時間が、飛行時間の短い場合には特に迷惑に感じられる。
機が降下を始めてしばらくすると、眼下は細長い田んぼばかりになる。そのうち地平線が緑の直線からビル群のギザギザに変わる。夕陽を背に墨色に霞むそのギザギザが大層、美しい。
機内にはネパールの若者がたくさん乗っている。僕の席は機内後方にある。これらの人たちがイミグレーションに殺到すれば空港を脱出する時間が遅くなる。そういう次第にて彼らのひとりに話しかけると、スワンナプーム空港ではトランジットだと答え、横にいたスッチーは彼らのボーディングカードを見て「乗り換えは明朝なの?」と驚いている。
そうして達したイミグレーションの各ブースには、それぞれ数人の待ち客しかいなくて助かった。当方のメンバーは4名。荷物検査を抜けた先で同級生コモトリケー君の運転手に電話を入れる。「カッポン」という返事に「マーラップ、バーサーム」と畳みかける。いつもの黒い三菱車は数分もせず我々の目の前にピタリと停まった。
サイアムのホテルに着くとコモトリケー君が待っていてくれた。慌ただしくチェックインをし、部屋でシャワーを浴び着替えを済ませ、即またロビーに集合する。
僕はオースワンすなわち牡蠣の卵とじは随分と食べたが今夜の屋台のものがちばん美味く感じられた。カトマンドゥでは70円のチベット風焼きそばだの、80円のカレーライスだのを食べていた人間が、バンコクに着いた途端、生意気にもステイトタワーの屋上でモヒートなどを飲んでいる。ミントが上出来なのだろう、タイのモヒートは銀座のそれなど足元にも及ばないほどに美味い。
そうして今回の旅行では最も遅い23時台にホテルに戻り、また今回の旅行では初となる、湯を張った風呂に浸かって0時過ぎに就寝をする。
カトマンドゥに入ってからの就寝時間は22時台。マハルジャンさんとナオコさんの結婚披露宴の日は21時台。きのうが23時台。それに対して目覚めの時間は3時台が多く、2時台が1回。そして今日は長い夢をいくつか見て4時台に目を覚ます。
朝もいまだ暗いうちは、スワヤンブナートのライトアップも続いている。6時を過ぎるとそこからお経の声が聞こえ始め、それがやがては気持ち良さそうな大声の宗教歌に変わる。
結婚式に遅れるわけにはいかないから14日の朝飯はブッフェにした。次の日からはまたアメリカンブレックファストに戻ろうとしたが、ウェイターは「ブッフェでも同じことだからブッフェをどうぞ」と言う。しかし例えば卵料理について言えば、フライド、スクランブルド、オムレツと選べるアメリカンにくらべてブッフェには毎朝1種類の卵料理しか出ない。
ウェイターが自分の「楽」と客へのサービスを秤にかけ、自分の「楽」を選んだ場面に今朝は遭遇したわけだ。その国の人間の常識がその国の経済力を決定するとは、確かにあることだと思う。そして「それほどうるせぇことを言うならネパールになど来るな」という考え方も、また無いわけでは無い。
商社や現地法人を持つ会社の経営者や社員など、海外へ行くことが頻繁な人たちは、社員や同僚にお土産を買わないことが多い。しかしウチはそういうわけにもいかない。そしてお土産を買うということを、僕は苦手にしている。定価や正札の無い国では特に、だ。
そのお土産についてはきのう街歩きをしながら下調べをした。そして今日はその結果を以て、10分ほどで買い物を完了する。「苦手なことほどさっさと済ませてしまえ」だ。そしてその荷物をホテルに置いた後はまた街へ出る。そしてわざと迷路に迷い込んだり、思わぬところから知った交差点に出たりする。
昼は何を食べようかと、また街を歩く。食べ物屋のガラス越しに中を見ては「ゲッ、白人」とか「ゲッ、日本人だか韓国人だか中国人だか知らないけど、とにかく旅行者」とか腹の中でつぶやきながら、かなりの距離を歩く。そしてソラコテの交差点に小さな店を見つけ、席に着きながら「ダルバート」と注文をする。
カレーライスの風味が本格に近づくほど、これは僕に限ったことかも知れないが、ゆっくり食べるよりガツガツかき込んだ方が圧倒的に美味く感じる。そして今日もそのようにして、初っぱなから喉を詰まらせる。すると僕の隣にいた客が奥に向かって「水だよ水」と声をかけてくれる。
きのうのモモ屋とおなじく"GANGA-JAMUNA TANDORI RESTAURANT"と、名前だけは大した、しかし小さな小さなその店のオヤジは、ジョッキの水を運びながら僕のテーブルに勝手に押しかけ新聞を読み始めた。「店の名前からしてインド人ですか」と声をかけると「ネパール人です」とオヤジは答え、以降はそのオヤジと話をしながらダルバートを食べる。
ふと思いついて「カネッシュビリーって葉巻、むかしあったでしょ、今もあるかな」と訊くとオヤジは"Oh my god"を天を仰ぎ「カリマティ地区に行けば見つかるかも知れない」と口を添えた。その場所はきのう長々と歩いてたどり着いた、プルさんの会社のある更に南で、まさか葉巻を買うだけのためにこれから行く気はしない。
朝に見かけた犬が数時間を過ぎてもいまだ同じ姿勢のまま眠る道を歩いてホテルに戻り、水シャワーで汗を流し、ベッドでひと休みしてからコンピュータを開く。
僕はカメラがデジタルでも、ひとつの対象を何枚も押さえておくということはしない。だからそう多くの画像は撮らない。しかしネパールでは絵になりそうな人や風景に多く出くわすのか、日に100枚くらいは撮ってしまう。その画像をコンピュータに移し、要らないものだけを捨てていく。
ひとり旅では日記はそれほど遅れずに書くことができる。しかし今回の旅は盛りだくさんで、ひとりの時間がなかなか持てない。今日はようやく13日の日記に手を付けた。あったことを大幅に端折れば楽かも知れないが、それでは気の済まないこともあるのだ。
停電から復旧した部屋に扇風機を回し、日記を書き進めるうち、空には夕闇が迫り、カラスが飛び交い始めた。「そろそろ晩飯に出かけるか」と考えているところにヒラダテマサヤさんが訪ねてくる。マハルジャンさんの元同僚であるジョさんとウエハラさんは本日午後にナガルコットへ向けて去った。一時は総勢9人までふくれあがった晩飯も、今夜はふたりに縮小した。
晩飯の最中に来た驟雨は、食事を終えるころには上がった。そして濡れた道を歩いてホテルに戻り、天井の照明以外は停電の部屋で3日前の日記を書き継ぐ。
きのう20時のバスには乗らず披露宴に居残った、マハルジャンさんの元同僚ウエハラさんによれば、会場にはあの後DJが入り、21時すぎには「踊るマハラジャ」状態で大盛り上がりをしたという。僕もその場にいれば面白かったかも知れないが、早寝早起きの体質には勝てない。
今回の旅行では、ネパール初日の11日から13日まではヒラダテマサヤさんの計画や自由学園関係者の希望に従った。そのことにより僕はナギグンバを訪ねることができ、シヴァプリのトレッキングができ、そしてカトマンドゥ周辺の観光もできた。そしてきのうは今回のネパール訪問の最大の目的だった、マハルジャンさんとナオコさんとの結婚式に列席を果たした。
そしていよいよ今日からは、僕本来の旅をさせていただく。僕本来の旅とはすなわち「散歩」「本読み」「メシ食い」以外は何もしないということだ。
カトマンドゥには寺や祠を中心とした複叉路がたくさん存在する。ホテルの表玄関から左つまり北へ向かえばすぐにチェトラパティの交差点。この複雑な六叉路を南東に折れて少し行けばタヒティチョーク。ここから更に南東のアサンチョークに達するには、慣れないうちは地図と実際の風景を照らし合わせる必要がある。
何とかアサンチョークにたどり着き、ここから更に脇道へと入っていく。侵入してくるクルマの少ないだけ、広い道にくらべればほこりは立たず、スカーフで鼻と口を覆う必要もない。
寺院の入口を見つけ、その中に入って余りの鳩の多さに退散する。またまた小さな交差点に出て、迷うことを厭わず更に歩く。通りから通りへ、辻から辻へ。道ばたの、神聖らしい場所を横目に過ぎ、立ち止まっては後ろを振り返り、そのまましばらくその場に立ちつくす。
細密な木彫の窓を持つ古い建物を、そのまま使っている店がある。この屋根も破風も窓も、いずれは取り壊されて捨てられてしまうのだろう。
荒物屋街を抜けて繊維街に入る。そこを過ぎれば乾物屋街だ。豆腐、様々な乾物、大小の干し魚。タケノコの漬物は、まるでタクアンのような発酵臭を放っている。そういう泥道を、ゴム草履を履いた足で慎重に行ったり来たりする。
歩き疲れればホテルに戻り、水のシャワーを浴びる。別段、好きこのんで冷たいシャワーを浴びているわけではない。このホテルでは運に恵まれない限り、あるいは時間を見計らわない限り、バスルームにお湯は供給されないのだ。
昼になって腹を空かせ、ふたたび外へ出る。"Chhetrapati Special Mo:Mo Centre"と、名前だけは立派な、しかしその実ボロボロなメシ屋でチョーミンを食べる。
食べ終えてチョーミンの値段は70ルピーと聞く。100ルピー札を出すと「釣りがない」とオヤジが言う。サイフの中の小額紙幣を出すと、これがすべて合わせて65ルピーしかない。するとオヤジはその65ルピーをポケットに入れて「5ルピーは後でいいや」と笑った。
ワイン屋の「ミツミ」がいまだ銀座にあったころ「ロマネコンティの1985年はありますか」と訊いたらオヤジは黙ってワイン蔵の鍵を初見の僕に差し出した。チェトラパティ交差点のチベット料理屋のオヤジは、その「ミツミ」のオヤジと同じほどの大人物だ。この5ルピーは決して踏み倒してはならない。
ちかくの茶屋でミルクティーを飲む。紅茶はインドでは「チャイ」だがネパールでは「チヤ」と発音される。ミルクティーの値段は15ルピーだった。
カトマンドゥの最高気温は26度だから、酷暑の日本からすればはるかに凌ぎやすい。しかしすこし歩けば肌は汗ばみ、またホコリも浴びる。よってホテルに戻って本日2度目の水シャワーを浴びる。
午後も街を歩く。激しく口論するふたりの男を取り囲む集団がいる。喧嘩の当事者は真剣だが、集団の中にはニヤニヤ笑って見ている者も少なくない。木造瓦葺きの家ほど古くはないけれど、それでも充分に古い集合住宅をしげしげと眺めたりする。
午前の、旧王宮近くの古い街から一転して、午後はターメルを歩く。「抜けられます」と立て札のある、建物と建物の隙間を抜け、ふたたび明るい道へと出る。お土産屋はどこもかしこも「中国人御一行様いらっしゃい」だ。
夕刻も近くなるころホテルのロビーにいると、そこにヒラダテマサヤさんが来る。昼食を摂った食堂のあるじがヒラダテさんを日本人と知ると、自分の甥が日本語を話す。ぜひ夕食を一緒に摂ってくれ、と言ったので了承した。いまその「甥」がこのホテルに来ることになっていると言う。
見知ったばかりの人の、更にその親族とメシを食うなどという話には、たとえ相手が日本人でも、内気で人見知りをする僕なら決して乗らない。いま自分のいる場所が外国で、かつ相手が外国人なら尚更のことである。しかしそうして独行ばかりをしているからいつまでも世界が広がらない、ということもある。よってこの旅の前半とおなじく今夜も、ヒラダテさんに従ってみることにする。
約束の時間ぴったりにきた、食堂のあるじの甥というプルさんの顔を見て「あぁ、この人なら大丈夫だ」と勘を働かせる。ヒラダテさんの、"ComputerLib"の同僚だったジョさんやウエハラさんも加わって、プルさんと共に外へ出る。そしてヴィシュヌマティ川に架かる橋を渡って川沿いを南下する。
歩く時間は15分と聞いていたが、プルさんの足は一向に止まらない。肉屋の集まったあたりを過ぎ、廃品回収業者の庭をいくつか目にする。緩い坂を登り、ホテルからおよそ45分ほども歩いて着いた先は、今夜の食事場所ではなくプルさんの仕事場だった。
その仕事場で聞くに、貧しい農家の息子だったプルさんに、北海道のある人からの援助話があり、そのお陰で自分は大学を出て、今はアナウンサーになるための学校を経営している。だから自分は日本には恩義を感じているし、また日本人と交流することをとても楽しみにしているという。
プルさんの仕事場にいた彼の弟、お姉さん、その娘の3人もみな良い顔をしている。人は顔に何ごとかあらわれるものである。プルさんの話を聴き、教室を見せてもらい、そしてまぁ、僕とプルさんのあいだには何ごとも起きないだろうが、デジタルを生業としているヒラダテさんの環境は、ここにきて一歩も二歩も進むかも知れない。
ちかくのネパール料理屋での食事が終わるころ僕が「割り勘」を提案するとプルさんは言下に断り、この場は自分が支払うと宣言をした。恐縮して「ご馳走様でした」と礼を述べる当方に対して「お粗末様でした」とプルさんは返した。そのような古風な日本語を耳にしたのは何ヶ月ぶりのことだろう。
ホテルにはマルチスズキのタクシーで戻った。プルさんのカーストの関係から今夜は飲酒をしなかった。そのこともあって本日ばかりはいつもの22時台ではなく、23時台まであれこれしてから就寝をする。
今日はいよいよマハルジャン・プラニッシュさんとヨシカワナオコさんの結婚式の日だ。
ホテルの食堂はパンが来てもバターが無い。バターが来てもナイフとフォークが無い。目玉焼きが来ても塩コショウが無い。紅茶のポットが来てもカップが無い。その都度ボーイを呼ぶなどするうち朝飯が1時間を超える。そういう経験をここ数日のあいだしてきたから僕は食堂に降りる前からシャツにネクタイを締め、ジャケットを着た。
午前8時07分、15人乗りの送迎バスに16人が乗ってパタン郊外にあるマハルジャン家を目指す。30分ほどで着いたそこは4階建ての豪邸だった。脱いだ靴を持って屋上に上がると左手には自由学園植林ティームの面々が既に着席をしていた。そして右手では祈祷師が様々な法具を使い、経を唱えながら場を清めていた。晴れた空にはためくタルチョーが目に眩しい。
新婦の準備が整ったと屋上まで伝令があって、列席者はつづら折りの階段を降りる。靴の脱ぎ履きが面倒なため、以降、僕は裸足でいることと決める。屋上の清めを終えた祈祷師も降りてきて、新婦が新郎の家の敷居をまたぐ儀式が始まる。
祈祷以外のことになると祈祷師にも不案内なことがあるのか、マハルジャン家の、あるいは親戚らしき女の人たちが寄ってたかって船頭になり、金襴のサリーにネパール風化粧の新婦はおろか、祈祷師にまであれこれ指図をする。そうなれば祈祷師も目を泳がせタジタジする他はない。
およそ20分もの作法があって、新婦はようやくマハルジャン家の玄関に足を踏み入れた。後は屋上での結婚式が残るのみである。新郎新婦が指定の席に着き、ふたたび祈祷師の仕事が始まる。僕はせいぜい神式かキリスト教式の結婚式しか知らないから、ネパールのそれについても同じほどの所要時間と考えていた。
しかし祈祷師の経はいつまでも続く。漏れ聞くところによれば、場を清める儀式は今朝の5時から始められたという。椅子に身を預けて汗をかくうちいよいよ佳境に入った式は、新郎新婦の頭上から眼前の盆にお茶を注ぐ儀式を以て無事に完了した。ここまでに要した時間は2時間ほどのものだっただろうか。
駐車場の一角を調理場としたケイタリング部隊のチキンパコラなどを、芝生の庭に張ったテントの下でいただく。しかし屋上からは次々と人が降りてきて、自分だけ椅子に座り続けることは憚られた。そうして意見の一致した5名で一旦ホテルに引き上げることとし、外に出てタクシーを拾う。
ネパールのタクシーのほぼ100パーセントは、インド製のマルチスズキを車両としている。その小さなボディに運転手を含めれば計6名が鮨詰めになってカトマンドゥ中心部を目指す。元よりエアコンなどはなく、折からの雨と渋滞により車内の不快指数は上昇の一途を辿った。
およそ40分をかけてホテルに帰着したタクシーの代金は600ルピーだった。これを5人で支払い、各自は自室へと戻った。僕は可及的速やかにジャケットを脱ぎ汗まみれのシャツを脱ぎ、シャワーを浴びる。ネクタイと合わせられるシャツは1枚しか持参していないから、夜にジャケットを着ることはできない。
披露宴会場の"Man Bhawan Party Venue"にはふたたびタクシーを頼まなくてはならないと考えていたところ、新婦のご家族や自由学園の関係者もやがて朝のバスで戻ってきた。このバスが16時30分に、今度はホテルから披露宴会場に我々を運んでくれるという。有り難い限りだ。
結婚披露宴の会場は、まるでどこかの野外音楽堂を思わせた。我々がここに着いた17時すぎこそ人影もまばらだったが、お運びの人たちが頻繁に奨めてくれる飲み物やおつまみを口へ運ぶうち、場内にはどんどん人が流れ込んでくる。最も多く目に付くのは赤いサリーを着た女の人たちだ。「お祝いの席には赤いサリー」という不文律がネパールにはあるのかも知れない。
やがて新郎新婦が登場して正面の、まるで玉座のようなところに座る。そこに次から次へと挨拶を述べる人たちが並ぶ。その様子を見ながらブッフェのあれこれを食べ、ワインなど飲んでいたが、いつまでそうしているのも失礼だ。
そしてその「玉座」に近づいたがまぁ、想像以上に人が多くてどうにもならない。また僕やマハルジャンさんの元同僚には「地元の人を邪魔してもいけない」という遠慮もある。そうして新郎新婦には人々の肩越しに言葉を交わし、それで満足することにした。マハルジャンさんのお母さんには、会場が混み合う前に、マハルジャンさんの紹介により挨拶できているのだ。
あたりが暗くなってしばらくしても、会場に入ってくる人たちは、まるで水の流れのように止まらない。中には膝から下を泥だらけにした爺様なども見かけたから、多分、関係ない人も紛れ込んでいるに違いない。ネパールの結婚式には祝儀を持参する習慣はないから、ここに集った数百人は食べ放題飲み放題なわけで、新郎新婦はよくもまぁ頑張ってそれだけのお金を貯めたものだと、僕は深く感心をした。
ホテル行きのバスは、新婦の親族を慮って20時には会場を出発してホテルへ向かうと知らされた。いつでもどこでも早寝早起きの僕にはちょうど良い刻限だ。
ホテルには20時30分に帰着した。そして本日の写真の整理などをして22時台に就寝をする。
自由学園は毎年夏休みに植林ティームをネパールに派遣している。そのメンバーがきのうからカトマンドゥ入りした。
担当教師や学生たちは植林地にちかいキャンプに寝泊まりをする。しかしそれ以外の、マハルジャンさんとナオコさんの結婚式に列席することを主な目的として来た人たちは、我々とおなじホテルに入った。そして今朝はそのうちの数人も我々と共にバクタプールへ行くこととなった。バスの手配などはすべて、マハルジャンさんによる。
ホテルを9時07分に出たバスがバクタプールに着いたのは9時50分だった。入域料を支払う場所に向かって歩いているとすぐに、自分をガイドとして雇えと客引きが寄ってくる。その男たちを無視して券売所で1,100ルピーを払う。そういえばきのうは旧王宮のところに、外国人旅行者がこの地域に足を踏み入れる場合は750ルピーが必要であることを書いた券売所があった。
カトマンドゥの名所旧跡はネパールの資源には違いないが、ミルクティ1杯が10から15ルピーということを考えれば、750や1,100ルピーはいかにも法外に感じられる。そして気がつくと僕はまるで老人のように「むかしはどこもかしこもタダだったのに」ということばを繰り返していた。
バクタプールはカトマンドゥ盆地にある古都で、僕は1982年と1991年の2度ここを訪れている。あのころも客引きはいたが、今ほどはうるさくなかった。客引きがつきまとうのも、我々7人がかたまって歩いているからだ。僕は一行から離脱して脇道へと逸れ、坂を登り、角を曲がって更に登り、そしてダルバール広場の一角へとたどり着いた。
古都に来ているならできるだけ静かに過ごしたい。そう考えて旧王宮内の国立博物館に入る。16から19世紀にかけての仏画の台布に漢字が織り込んであるのはネパールの、どのような歴史によるものだろう。中国との交易が盛んだった、ということなのだろうか。
かつて僕はこのウェブページに「1991年に見た最も美しいもののひとつは、ネパールの屋根瓦だ」と書いた。そのときの屋根瓦は、観光客の多いダルバール広場からすこし離れたニャタポラ寺院ちかくのものだった。そして僕は今日もその寺院のあるトウマディー広場に出て「そうそう、ここだった」とあたりを見まわす。そして更に、バクタプールでは最も古い建物の残る地域を目指して東北東に歩を進める。
広場を過ぎ、辻を曲がり、金物屋を見つけては「サドゥが持ってるバケツで真鍮製のはないですか」などと店主に訊き、更に辻を曲がる。時には路地に迷い込み、20分ほど歩いて目的のタチュパル広場に出る。
先ほど入った国立博物館の、100ルピーの入場券が、この広場に面する木彫美術館でも使えることを知って、15世紀に建立された、かつては僧院だったというこの建物の鴨居をくぐる。僕はネパールの建築の、内部のこぢんまりした様子と簡素さに強く惹かれる。そしてこの木彫美術館は、その典型だった。
民藝の極致ともいえる彫刻を持つ階段。その階段を伝って2階から3階へと登る。手を伸ばせば屋根に容易に手の届く屋外の通路を渡り、ふたたび階下へと降りる。建物の裏手に回ればネワール彫刻の最高傑作として名高い、いわゆる「孔雀の窓」があり、僕はようやく「あぁ、オレはここにも1982年に来たんだった」と、昔の記憶が戻った。
31年前は、しかしきのうの日記に書いたビムラさんに連れてきてもらったもので、その時には日本式観光とおなじく外からこの窓を眺め、そそくさと他の場所に去ったから、思い出も曖昧だったのだ。
続いて目の前の真鍮青銅美術館に入る。先の美術館もこの美術館も、客は僕ひとりしかいない。広場を見まわしても、外国人はひとりもいない。街はどこまでも静かだ。
わざと狭い道に入り、路地の奥を眺めつつ、大いに満足をして、ふたたびバクタプールの中心部へと近づいていく。そして小さなモモ屋で昼飯を摂り、茶屋でミルクティーを飲み、先ほどのダルバール広場に戻る。
約束の集合時間は午後1時。その時間にはいまだ余裕はあったが雲行きが怪しくなってきた。よって朝の道を逆に辿って入域券売所まで降り、地元の男たちの休む、ネパール語では何と呼ぶのだろう、4畳ほどの広さの屋根付きの休憩所で休ませてもらう。
6人が遅れ気味のため駐車場のバスに戻り、運転手にその旨を話す。カトマンドゥの気温は酷暑の日本にくらべてかなり低く、エンジンを切った車内で待機しても死ぬことはない。全員が揃ったのは40分ほど後のことだった。
ヒラダテ計画ではここからボダナートに行くはずだったが、同行のハママイさんの提案にてパシュパティナートに寄ることとし、その旨を運転手に伝える。バクタプールからパシュパティナートまでの距離は、バスで20分ほどのものだった。
パシュパティナートは検索エンジンで調べればすぐに分かることだが、ネパールにおける最大のヒンドゥー寺院であり、国外のシンドゥー教徒にとっても、とても大切な存在である。
その、ヒンドゥー教徒以外は立ち入り禁止の本堂区域に、そうと知らない僕は1982年のシヴァラトリの夜に潜り込み、そして民衆と兵隊に見つかって、ガート側の裏口から命からがら逃げたことがある。そのパシュパティナートに自分がふたたび来るとは考えもしなかった。
これまた昔は無料だったにも拘わらず、今は大枚1,000ルピーを払って寺の域内に入る。本堂に近づき門から中を覗き込めば、金色の巨大な牛の像は健在だった。シヴァラトリの晩には本堂の周りに無数のオイルランプが点され、全身に白い粉を塗ったサドゥが何人も木からぶら下がっていたものだ。
その本堂の北側から高台への階段を登れば、本堂の向こう側に煙の上がるのが見える。今日もいくつかの火葬が営まれているに違いない。そして我々は火葬場直上のベランダからその様子を眺め、バグマティ川に架けられた橋を歩いて対岸に渡る。
下世話なことを言えば、観光としてこの寺を訪れる人のほとんどは、火葬場で人の焼かれる様子を見たくて来るのではないか。それは寺院ではなく火葬場を正面とした、入場券のデザインからも覗える。もしも火葬場を見たいだけなら高い入場券など買うことはない、パシュパティナートの正面入口に向かって右手に進み、川の下流からいくつかの道を辿って火葬場の対岸に出ることができる。
僕は宗教に対してはあまり真面目な方ではないが「物の怪が憑く」とか「バチが当たる」というようなことについては、ちと真剣なところがある。だから火葬場の写真は撮らなかった。第一僕が遺族であれば、家族が焼かれる様子など人に見物されたくはない。
ヒンドゥー教徒以外は立ち入り禁止としながら、しかしヒンドゥー教徒の火葬を観光客に見せて商売にしている、そのパシュパティナートや政府関係者、ひいてはヒンドゥー教徒の意向はどのあたりにあるのか。
バグマティ河畔から下流に歩いて細い橋を渡る。そしてバスまで戻ろうとしているところに雨が降ってくる。雨はやがて激しい夕立となり、我々は近場の軒下へと逃げ込んだ。きのうのこの時間、僕はシヴァプリ山中にいた。今日の雨がきのうに降っていたら、お坊さんも含めて我々5名は山に取り残されたに違いない。
緯度からすればネパールの日は日本のそれほど長くはないだろう。しかしそう短いわけでもない。ボダナートに着いた16時58分には、いまだ日中とおなじ明るさがあった。1980年だか82年にも僕はここに来ているはずだが良くは覚えていない。驚くのはただただ門前の街が大きくなり、人も数も極端に増えたということだ。
仏塔の肩の部分に上がり、これを1周か2周した後はちかくの喫茶店の屋上で一服をする。お茶を飲み終え下に降りるころには参拝者の数は更に増え、その大勢の人たちが塔を右繞する姿は圧巻と言っても良いほどのものだった。
18時45分にホテル帰着。自由学園の卒業生に加えて今日は"ComputerLib"の元社員のジョノゾミさん、ウエハラヒロシさんも増えて夕食のメンバーは9名に増えた。人数が多いせいか料理の運ばれるのが遅い。よって僕は窓から下の通りを眺めて時間をやり過ごしたり、あるいは厨房まで行って次の品を督促したりする。夕食のひとときは賑やかで楽しかった。そしてホテルに帰って22時台に就寝をする。
暗闇に目を覚ましてサイドボードに手を伸ばし、携帯電話のディスプレイを見ると、時刻はいまだ午前3時台だった。きのうの就寝は10時台だったから5時間は眠ったことになる。そのまま横になっていても眠気の訪れないところから起床をし、きのうの日記を書き始めるが、あまりに長すぎて外が明るくなっても書き終えない。
独行あるいは自分の意見の強く反映させられる旅行では、僕は海外にいても散歩と本読みと食事くらいしかしない。しかし今回はマハルジャンさんとナオコさんの結婚式を目指して人が三々五々カトマンドゥに集まり、また散っていくという、緩い形にしろある種の団体旅行であれば、それを奇貨として、人の予定に乗ってみるのも面白いと考えた。
ネパールに来るのは初めてというヒラダテマサヤさんの立てたスケデュールは気合いの入ったものであり、かつ日本人らしく、限られた時間にあれこれを限界まで詰め込む式のものだった。そして僕はとにかく13日までは、ヒラダテさんと同じ行動をしようと決めた。
ヒラダテ計画の本日分は、カトマンドゥから北東に直線距離10キロの山上にある尼僧院ナギグンバを出発点としてシヴァプリの頂上を目指すトレッキングである。そして我々がいまだホテルの食堂にいる7時55分、ヒラダテさんの元同僚マハルジャンさんのいとこで、且つナギグンバで尼さんをしているアルツァナさんが迎えに来てくれた。
総勢6名で外へ出ると、ディーゼルエンジンのパジェロが既に横付けされていて、最後部の座席には年のころ30代くらいのお坊さんがいた。そして定員7名のパジェロは計8名を載せて8時13分にホテルを出る。
ガソリンスタンドで燃料を補給し、別の店でタイヤの空気圧を高めたりしながら、パジェロは徐々に田舎道へと入っていく。
9時25分に"Shivapuri Nagarjun National Park"の入口のひとつに到着。窓口で250ルピーの入域料を支払い、警備の兵士に大きな鉄の扉を開けてもらう。するとその先には入域者を登録する場所があり、手続きはアルツァナ尼がすべてしてくれた。
9時45分、我々とおなじく鉄門を抜けたパジェロはふたたび我々を載せ、森を抜けるとすぐに厳しい山道へと入った。そしてカトマンドゥの街を見おろしつつ10時12分にナギグンバの駐車場に着く。そこから階段を数分ほども登れば尼僧院が見え、経を読む声も聞こえてきた。
チベット仏教の読経は大きなラッパを含む鳴り物入りで、日本のそれに慣れた耳からすれば、何か密教の奥深いところに連れて行かれそうな気がして、僕などは少しく怖さを感じる。その読経の流れる中、靴を脱ぎお堂に入り、作法に従い正面に向かって正座をしながら深くお辞儀をする。そうして若い尼僧たちの背後を歩いて奥に進み、仏像に向かって手を合わせる。
参拝が済むと我々はお寺の食堂に招じ入れられ、ギー茶から始まる軽食の提供を受けた。ネパールに4回も来ながらギー茶を飲むのは初めてのことだ。ギー茶は紅茶の香りのするコンソメスープといった風情のもので、想像を超えて美味かった。
10時45分、ナギグンバの裏門から出ていよいよシヴァプリの頂を目指す。カトマンドゥの標高は1,400メートル。それに対してシヴァプリの山頂は2,700メートルだという。パーティは我々5名に、アルツァナ尼が手配してくれたのだろう、ホテルからのパジェロに同乗してきた男のお坊さんが案内役として付いてくれた。
登り始めた直後より胸突き八丁にさしかかる。否、胸突き八丁というよりも、この登山路は、きのうの夕立のような雨が発生すれば即、泥土を流す滝と化すたぐいのものだ。雨期にこんなところに足を踏み入れるとは、我々はとても危険なことをしているのではないか。
とにかく、我々の登っているのは踏み固められた登山道ではなく、「としまえん」のプールにあるウォータースライダーのようなところなのだ。50メートル登っては立ち止まって休むことを繰り返しつつ、11時40分にお花畑に出て大休止を取る。我々の靴はトレッキングシューズ、ジョギングシューズ、長靴などだが、サンダル履きのお坊さんは遙かに遅れて、その姿は既にして見えない。
12時15分に二つ目のお花畑に出て、ここでふたたび長い休みを取っていると、そこにようやくお坊さんが追いついてきた。ナギグンバからシヴァルプリへの6キロのコースは、登山用語で言えば大変な"arbeit"である。
ふたたび歩き始めて、今回のトレッキングで初めて人とすれ違う。それはネパール人の少女を案内に立てた白人のカップルだった。少女の足元は我々のお坊さんと同じくサンダル。立ったり歩いたりするときの、彼らの足と地面の関係を把握する力は、我々よりよほど優れているのだ。
土や岩の急坂を抜けた我々は森の中に入り、やがて"BAGHDWAR 1KM"の表示を木の枝に見つける。そしてこの"BAGHDWAR"が今回のトレッキングコースの出口考えていた僕は後に、自らの下調べの甘さを痛感することになる。
森の低いところにあるその"BAGHDWAR"は修験場だった。およそ10メートル四方の沐浴場の中心にある神像が蛇に巻かれているところからすれば、それはブダニールカンタとおなじビシュヌ神と思われる。ビシュヌはヒンドゥーの神だが沐浴場の上にはたくさんのタルチョーが提げられている。多分、ヒンドゥー教ではなくチベット仏教のための場なのだろう。
ここにひとりの白人男が追いついてきて、これからシバルプリの山頂を目指すという。"BAGHDWAR"こそが今回のトレッキングのゴールとばかり考えていた僕はいささか混乱し、案内のお坊さんに問えば「一本道。帰りはおなじ道を帰る」と教えられ、力が一気に抜けた。
「ここから、また来たときとおなじ距離を歩かなければならないのか」と考えれば何やら気が重い。それに加えて膝、特に右膝の具合が悪い。先ほどの白人によれば、ここから頂上までは30分ほどの距離ではないかとのことだった。
結局のところ、お坊さんも含む6名の中からはヒラダテマサヤさん、そして自由学園男子部卒業生で、羽田空港から合流したスガタケンタローさんのふたりのみが頂上を目指すことになった。
「いずれ追いつきます」とのヒラダテさんの言葉を背にして当方は一途の下りである。この時の僕の気持ちは「三十六計計逃げるに如かず」に近かったかも知れない。森には既にして雲が降りてきているのだ。
13:45 "BAGHDWAR"発
14:40 森を抜けて急坂へ
14:50 我々が勝手に名付けた「見晴台」に到着
15:03 ナギグンバ着
僕に遅れること5分ほどでお坊さんが、それから10分ほどして残りのメンバーが、やがてヒラダテさんやスガタさんも山を降りてくる。ヒラダテさんには尼さんたちが使うらしい、真鍮の蛇口のズラリと並んだところで頭を洗うと気持ちが良いと教える。
全員が集合したら降りてくるようにと言い残してお坊さんの去った階段を皆で降りていくと、アルツァナ尼は逆に階段を登ってきて「ゴハンを用意したから寄ってって」と、宿舎にある自分の部屋に案内をしてくれた。
その「中は暑いから外の方が良い」と言われて三々五々、宿舎の土台や芝の上に座って食べたカレーライスは最上の味で「あぁ、日本でもこれ、食いてぇなぁ。それにしても今回のメンバーがひとり残らず『何でも食っちゃうヤツ』で良かったよ」などと僕は言い、まわりからは「ホント、ホント」という声が出る。そして我々は一時、ボーッとしたりウットリしながら体を休めた。
ふたたびパジェロの客となったのが16時06分。そしてふもとのブダニールカンタには16時42分に着いた。1982年、おじいちゃんの知り合いビムラ・ピャクリュエルさんの家族にここへ連れてきてもらったときには、周辺はひなびた農村で、人もそうはいなかったような気がする。それがいつの間に整備をされたのか、ビシュヌの神像を寝かせた池の周りには商店やお土産屋が多くでき、随分と賑やかになっていた。
むかしの王宮、現在の「ナラヤンヒティ王宮博物館」ちかくの交差点を経て、ホテルには17時45分に着いた。アルツァナ尼やお坊さんには深くお礼を述べた。そしてシャワーを浴びたり身支度を調えたりしてから街に出る。ホテルから最もちかい交差点はチェトラパティ。そこからほど近いステーキ屋にて牛肉を大量摂取し、今夜も停電の道を歩いてホテルに戻る。そしていまだ飲み足りない数人に付き合って食堂でビールを飲み、すぐに就寝をする。
きのうは午前2時台に目を覚ましたから、飛行機が飛び立つころにはそれこそ眠くて仕方がないだろうと予測をしていた。しかし神経が高ぶっているのか、いつもの、最後部ちかくの右舷通路側の席に落ち着いても眠気は訪れない。
よって「あんた、両方とも飲まないと効かないよ」と言いながら数日前にオフクロが手渡してくれたデパスとハルシオン各1錠を、ペットボトルのお茶で嚥下する。
ちかくにいたタイ人のスッチーに「食事と飲み物は出ますか」と訊くと「サンドイッチと日本の…と言いよどみながら両の親指と人差し指で三角形を作ってみせ、続けて「朝4時ごろに朝食をお出しします」と教えてくれたため「僕は朝まで眠るので、食事は一切、必要ありません」と、自分のボーディングカードを見せた。
"Boeing 747-400"による"TG641"は定刻に8分遅れて00:28に羽田空港を離陸した。そして先ほどのスッチーの持ってきてくれたアイマスクで目を覆って以降の記憶は無い。
ふと気づいて時計を見ると離陸から3時間と50分が経っている。よほど熟睡をしたのか気分は爽快である。デパスとハルシオンの効き目、恐るべし。そして恥ずかしながら、アイマスクを手渡してくれたスッチーのサービスによる朝食を平らげる。
"TG661"は定刻より50分も早い、日本時間の06:00、タイ時間では04:00にスワンナプーム空港に着陸をした。自由学園で僕の25年後輩になるマハルジャン・プラニッシュさんと、彼の下級生ナオコさんの結婚式に列席をするための我々のパーティは7名。この7名が、いまだひと気のない早朝の空港内を移動しながら両替所を探す。しかし両替所はあっても人がいない。
そして数十分後にようやく、ぽつねんとひとりの姿の見えるブースに行き当たり、ここで4人が円をバーツに換える。
次は羽田でするはずだったミーティングを、できるだけ安そうな店つまり冷蔵庫から飲み物を自分で取り出す式の店のテーブルに、僕が人数分をコピーして持参したスケデュール表を各自が広げ、積極的な意見交換をする。このようなことが僕はなぜかとても楽しい。
羽田からの"TG661が"定刻より50分も早く着いたこともあり、7名中の5、6名はマッサージ屋"CHANG"の客になった。そして僕はゲートFの直上部に大きなソファを並べた格好の場所を見つけ、ここで休息を取る。やがてそこに、マッサージを終えたメンバーがひとりふたりと参集をしてくる。
スワンナプーム空港での僕の面白からざる思い出は、ここの案内所で無料でくれるヴァウチャーによる"wifi"接続に成功したためしがない、ということだ。今回は"ComputerLib"でマハルジャンさんの同僚だった人たちが複数参加をしている。よってそちら系の僕の技術不足については何の心配もない。
そして今朝は当のマハルジャンさんにそれを頼むがしかし、スワンナプーム空港は場所により電波の強弱が極端らしい。よって通路を隔てた反対側に移動をして作業を再開する。ようやく繋がっても回線速度は低い。タイ航空に僕の名前は登録できたものの、今回の航空券をマイルに登録する時間は無かった。
"Boeing 777-200"による"TG319"は定刻に20分遅れて日本時間の12:35、タイ時間では10:35にスワンナプーム空港を離陸した。この便はとても空いていて、広々としたところで眠りたいという乗客以外はすべて、ヒマラヤの山々を望もうと、窓際に席を占めている。
12時15分にバングラデシュ上空を通過、12時40分にカルカッタ北部を通過。この機内ではヴィザの申請用紙など書くべき書類が多く、日記も書けなければ本も読めない。
機が徐々に高度を下げ始めると、カトマンドゥ盆地の緑と煉瓦造りの家々が僕の目を射た。1980年、1982年、1991年と、過去に何度も見ているはずの風景が、とても新鮮に感じられる。そして"TG319"は定刻より18分早い、日本時間の15:22、タイ時間の13:22、そしてネパール時間では12:07にトリブバン空港に着陸をした。
ホテル差し回しのワゴン車で空港から市内に入りつつ、カトマンドゥが、これほど起伏に富んだ美しい街であったことを知らずにいた自分に気づく。「カトマンドゥのどこが綺麗なのか」と問われても、カトマンドゥが美しい街という僕の認識は揺るがない。
マハルジャンさんとナオコさんは、空港からマハルジャンさんの、郊外にある自宅へと去った。そして我々5名は"HOTEL HARATI"に荷を解き、シャワーと着替えの後、ロビーへと降りる。やがてそこのマハルジャンさんの次兄のシッダールタさんが、そして長兄のマニッシュさんとその女友達が来て、我々を街に連れ出してくれる。
ホテルの、円からルピーへの交換比率は1万円あたり8,600ネパールルピーで、手数料が100数十ルピーかかるようだった。しかしチェトラパティチョークから道を折れてしばらく行ったところの"NAMASUTE EXCHANGE"では、1万円あたり表示価格の9,420ルピーを9,500ルピーにしてくれた。そして僕はここで先ず1万円のみをルピーに替える。
チェトラパティチョークから煉瓦による建物に挟まれた、それほど広くもない道を南東に進めばアサンチョークに行き当たる。砂埃、タクシーやオートバイからの際限のないクラクション、人いきれと寺院の薫香、混沌と騒乱。カトマンドゥの雑踏は本当に素晴らしい。子供が街に溢れていた昭和3、40年代の日本は、一体全体どこに消えてしまったのだろう。そんなことを考えながら僕は大勢の客を集めるラッシー屋に近づき、ドライフルーツを浮かべた上出来のラッシーで喉の渇きを癒やした。
そしてさらに南下して行った先に旧王宮が見えたときには、何と言うか、改めて胸を打つものがあった。過去に何度も見た風景にいきなり再開して感動を新たにするとは、どのような精神の仕組みが関係しているのだろう。
やがて雨がにわかに街を襲う。道行く女の人の発した「パニプル!」の「パニ」は水すなわち雨。しかし「プル」とはどのような意味を持つのか。そして我々8名はマハルジャンさんのお兄さんの見つけてきてくれた、スズキの軽自動車によるタクシー2台に分乗し、スワヤンブナートを目指す。
具体的な数字については知らないが、カトマンドゥは前に来た1991年よりも随分と街の規模を大きくしたように思う。クルマの数も増え、郊外へ向かう道路は一気に渋滞をした。
それにしても雨は激しさを増すばかりだ。昔の軽自動車は小さい。そこに運転手も含めて5名が乗り込み、スワヤンブナートへの山道を上がり始めると、タイヤの空気圧が低いのか、はたまた使われすぎてトレッドが減っているのか、僕の尻の下の後輪はコーナーを曲がるたび右へ左へと滑って落ち着かない。
ようやくスワヤンブナートの裏門に着いてみれば、出るも入るもできない豪雨にて、寺の階段は、濁流をまるで滝のように山上から下界へと落としている。
「カトマンドゥに帰りますか」と助手席のお兄さんに提案をすると「なぜ」と驚いたように振り向いたので「だってこの雨じゃぁ」と答えると「大丈夫、すぐに止む」と言って彼は外に飛び出して行った。そうなれば我々も同じ行動を執らざるを得ない。取りあえずはトタン葺きの茶屋に駆け込み雨宿りをする。
やがて不思議なことに南から青空が広がってくる。雨は小降りになってきた。いまだ止まない雨の中を「そろそろ大丈夫だろう」とのお兄さんの判断により、つい先ほどまで濁流を流していた階段を上り詰め、巨大な仏塔に裏側から近づいていく。雨は完全に上がった。そして境内のオバサンから小さなロウソクふたつを20ルピーで求める。
中学2年生で亡くなった妹の祥月命日は7月13日。その日に南の国でブラブラしていては妹に申し訳が立たない。そういう次第にて、すこし早くはあったが、先ほどのロウソクに火を点し、また日本から持参した線香を、仏塔の正面に供える。妹には悔やみと礼を伝えた。
カトマンドゥ盆地がかつて湖だったころ、スワヤンブナートはその湖に浮かぶ島だった。湖の水が引くと、スワヤンブナートは山になった。この、大日如来と文殊菩薩の関わる伝説は大いに面白い。そして今度は裏側ではなく、表参道の階段を使って山を下る。
マハルジャンさんのお兄さんたちとはホテルの前で別れた。そしてシャワーを浴び、身支度を調えて夜の街へ出る。
ホテルのある通りニョカトーレ一帯は、我々がホテルに着いたとたん停電になった。カトマンドゥの停電は日常茶飯というよりも、毎日かならず起きることだ。発電量を増やしても、街が膨張して需要が増せば、またまた電力は不足するのだ。
その暗い道を、クルマやオートバイのヘッドランプを頼りに南下する。そして10分以上も歩いてようやく、旧王宮にほどちかいあたりに非常灯を点けた料理屋を見つける。そこは昼に「こういう白人向けの店では食いたくねぇよなぁ」と薄ぼんやり考えていた店だったが、そしてひとり旅であればもうすこし探索を進めるところだが、同行者を疲れさせてはいけない。
そして結局のところ、皆その店の雰囲気やウェイターのサービスや料理を喜んでくれた。終わりよければすべて良し。窓の外にはいまだ停電から復旧しない街がある。そして水などを手に入れつつ22時すぎにホテルに戻り、シャワーを浴びて即、就寝する。
羽田空港から海外へ飛び、10日を経て成田空港に戻ってくる。その場合の、ウチと空港を往復する経費について計算をしてみた。
宇都宮の「鹿沼インター入口」からバスのマロニエ号を使うと、ウチから乗っていったクルマの、今市ICと鹿沼ICとのあいだを往復する高速道路の料金、「鹿沼インター入口」での駐車料金、およびウチと「鹿沼インター入口」を往復する70?分の燃料代が発生する。列車を利用する場合には交通費の他、スーツケースを自宅と空港のあいだで往復させる宅配便代がかかる。
今回は羽田発の成田着という特殊な形のため、行きは列車で帰りはマロニエ号。スーツケースの宅配は往路のみ、という手段を考えてみた。
そうしてはじき出された数字は、3人以上のパーティであれば、人数が増えるに連れマロニエ号で往復をこなす方が幾何級数的に得。しかしひとりで行動する限りにおいては列車とマロニエ号を組み合わせた方が、およそ3,200円の節約になることを知った。
その計算結果をふまえ、下今市17:35発の上り特急スペーシアに乗る。途中、節約になる3,200円の範囲内でカウンター活動をこなし、羽田空港国際線ターミナルには20:55に到着をした。
そうして自由学園では25歳後輩のマハルジャン・プラニッシュさんと、彼の下級生ヨシカワナオコさんとの結婚式に連なるため、当事者ふたりを含む賑やかな一行と落ち合い、チェックインの後、搭乗ゲートへと進む。
今日もまたまた早朝の仕事があり、白衣に帽子、鼻と口はマスクで覆った姿で製造現場に入る、その直前に居間から味噌蔵の写真を撮る。味噌蔵の白壁は朝日により、実際には鮮やかなオレンジ色に染まっている。しかし僕の手持ちのカメラでは、その色を捉えることができない。
夏の賞与は通常7月15日に支給をする。しかし今年のその日は僕はカトマンドゥにいる。そういう次第にて本日は社員ひとりひとりと面談しつつ賞与を手渡す。シフトの関係から本日が休みの社員には、明日の午前に手渡すこととする。社員に賞与を出すことのできる現実を、有り難く思う。
日中の気温は今日も32℃まで上がった。「急に暑くなって、イヤんなっちゃいますよねー」という時候の挨拶が街なかで聞かれる。その人はつい4ヶ月ほど前までは「いつまでも寒くて、イヤんなっちゃいますよねー」と言っていたに違いない。暑いと寒いなら、薄着で歩ける夏の方が有り難いと感じるがどうだろう。
夜は素足にサンダルを履いて日光街道を下り、麦焼酎のオンザロックスを飲む。
早朝、まるで台風一過のような空が広がる。いよいよ夏の到来である。とはいえ僕の住んでいるあたりの標高は400メートルと少々で、だから朝晩は涼しく、そして日中も現在のところは32℃ほどのところまでしか気温は上がらない。
「32℃なら既にして猛暑ではないか」と考える向きもあるだろう。しかし湿度は低いから日陰にいる限り爽やかだし、第一、夏の好きな僕にしてみれば、32℃などはどうということもない。
今回の、羽田または成田とバンコクのスワンナプーム空港を往復する飛行機は行き帰りとも深夜便だ。よって機内で本を読む時間は、スワンナプーム空港とカトマンドゥのトリブバン空港を往復する6時間に限られる。またスケデュールの関係上、チェンライにいるときのような「プールサイドで午前から午後までずっと本読み」ということも望めない。
よって東南アジアへの旅には必ずと言って良いほど持参した近藤紘一の「目撃者」は、今回は持たない。代わりに以下の文庫本3冊を用意した。
「新書七十五番勝負」 渡邊十絲子著 本の雑誌社 \1,260
「娘に贈る家庭の味」 野地秩嘉著 文春文庫 \630
「やってみなはれ みとくんなはれ」 山口瞳、開高健著 新潮文庫 \546
それにしても、いくら文庫本とはいえ3冊も読む時間などあるのだろうか。しあさっての、スワンナプーム空港からトリブバン空港までの3時間にしても、実際には日記を書いているかも知れないのだ。
製造現場に入っての早朝の仕事は、以前は週に1度くらいのところだった。しかしここしばらくはその頻度が高くなり、今週はほぼ毎日のように4時台の起床が続いている。それでも元より極端な早寝早起きの性分であれば、別段、苦にもならない。
八坂祭へ向けて会所を設置するため、9時前に春日町1丁目公民館へと向かう。そして渡御の神主を迎え入れる提灯台や、あるいは子供御輿の組み立てをする。
午後より驟雨沛然、雷も盛んに鳴っている。店の中から外を眺めて呆然とされているお客様や、国道121号線から逃げ込んできたオートバイの人たちには「すぐに止みます。お茶でも飲んでお待ちください」と、お伝えをする。このあたりのこの手の雨は、15分もすれば上がるのだ。
夕刻より先般の東北旅行の参加者が洋食の「金長」に集まり、会計係の僕は決算報告を行う。体調が思わしくなかったり、あるいは急ぎの仕事により休暇を失ったりで、このバス旅行に加われない人のあったことは残念だった。来年はぜひ全員で出かけたい。
「金長」から自宅に戻って洗面所の窓を開ければ、19時50分にもかかわらず西南西の空はいまだ青く明るかった。「梅雨は雷に始まり、雷に終わる」ということを考えれば、日光の梅雨明けはきのうではなく、今日だったのかも知れない。
腰の具合がどうにも悪くて鍼の治療を受けたのはいつだったか、そう考えて小遣い帳を検索すると、1996年以来、症状の重いときだけ、つまり年に数回のみ細々と通い続けている鍼灸院に前回世話になったのは、先月の17日と20日のことだった。
先月は咳をしただけでしゃがみ込んでしまうほどの重症だったが、きのう今日の腰の不具合は、そこまでは達していない。しかし南の国への旅が目前に迫っているとなれば、何やら不安なものがある。そういう次第にて東武日光線で30分ほども南下して、その鍼灸院へ行く。
治療を終えて外へ出ると、いよいよ中天にさしかかろうとする太陽は地面をじりじりと焼き、とても暑い。「こんな日に畑仕事をしている人はさぞかし辛いだろう」などと考えつつ、ふたたび東武日光線に乗り、しかし今度は北を目指す。
下小代駅が近づいてきたあたりで、通路を隔てたボックス席の外国人が、僕の後ろのボックスの若い女の子に英語で話しかけはじめた。目的地は日光らしいが、自分は本当にそこへ行けるのかどうかの心配が頭をもたげてきたらしい。
聴くともなしに後席の様子をうかがっていると「えーっと、なんて言うんだったかな、あー、えーっと、キリハナシ、キリハナシ」と女の子は「キ」にアクセントを置いて答え、南米か南アジアから来たらしいハチミツ色の美男子は大いに戸惑って"Why?"と訊きなおしている。
この車両は下今市駅で前4両と後ろ2両が切り離され、前4両は会津田島、そして後ろ2両が日光に向かうので、ちと説明が難しいのだ。そして僕はといえば、横から口を挟むのもどうかと考え黙っていた。
そのうち美男子は突然、悟ったのだろう。ザックを持って6両編成の後方へと去った。めでたしめでたし、である。
先ほどまでいた栃木県南部にくらべれば、日光の気温は格段に低い。しかし陽は差しても空の晴れ上がらない今日の午後は湿度が高く、快いわけでもない。早朝の仕事から上がって以来、本日2度目となるシャワーを浴び、夕刻ちかくに床屋へ出かける。
腰にはテーピングがほどこされ、髪と髭は短く刈り込まれた。今日に残されたことは、できるだけ早く寝ることのみである。そして念のため明朝04:45のアラームを携帯電話に設定し、昨夜は毛布がなければ寒かったところ、今夜は扇風機を弱く回して就寝する。
ネパールへは羽田空港から発つ。深夜便のため空港には前夜に入る。その前夜とは今月10日で、本日より5日後のことになる。5日もあればいまだ余裕という感じもする。しかしトランクは遅くも8日の月曜日には空港へ向けて送る必要がある。
あさって7日の日曜日には、八坂祭のための町内会所の飾り付けがある。その晩は先般の東北旅行の決算報告を、旅行の参加者を集めて会計係の僕はしなければならない。とすれば荷造りに使える日は今日と明日。そう考えればいつまでものんびりしているわけにもいかない。
"RIMOWA"の巨大なトランクを2階の倉庫から4階の居間へと運ぶ。そしてそれを開き、先ごろ箪笥を漁って集めた、新品も含むTシャツ、それに腹が太って穿けなくなったズボンを先ずは詰める。トランクの片側はこの「どなたかお使いください」と付箋に書いてホテルに置いてこようと考えている衣類だけで満杯になった。
そしてもう片方にはふたつのメッシュ袋に収めた自分の着替えを入れる。着替えの用意については、今月1日の日記にも書いた計画書に添って集めるだけだから、10分もかからない。そしてそのメッシュ袋の間に傘や薬箱やトレッキングブーツなどを収めていく。
その他のあれこれをトランクの残った空間に詰め込むについては、項目ごとに整列させた一覧表をなぞりながらの作業だから極々簡単である。そして荷造りは1時間もかからず完了した。
直近のネパール行きは1991年4月のことで、そのときには酒好きの僕が酒をまったく必要とせず、夜が来れば眠り、朝は鳥の声と共に目覚める生活を自然に送ることができた。あれは不思議な体験だった。しかし帰りに寄るバンコクではそうもいかない。よってウコンの粉を多めにオブラートに包み、5つほど作ってこれも旅の荷物とする。
早朝の仕事を終えて居間に戻るのは、大抵、5時30分ころのことだ。洗面所の窓を開けると杉並木の向こうには低い雲があり、そこから大真名子山と女峰山が頭をのぞかせている。ふたつの山の上には幾層もの雲がたなびき、薄く青空も見える。
杉並木をかすめるようにして鳥が飛んでいる。それを意識しないまま撮った写真からは、その鳥の種類を特定することはできない。北陸は今日も酷暑とのことだが、日光の空気は極めて穏やかである。
今年の梅雨はその入りに雨が降らず、このままでは5月に植えた稲が壊滅するのではないか、とする地方もあった。しかしその後は普段どおりの梅雨らしい日々が続き、そしてこれは有り難くないことだがここにきて集中豪雨に見舞われているところもあることをテレビのニュースは伝えている。
らっきょうは、その収穫前つまり晩春から初夏にかけて大雨が降ると大変なことになる。茗荷についても同じく、盆過ぎに洪水などがあれば市場に出る量は一気に減る。逆に生姜は大量の雨を好み、だから昨年の生姜は出来が良かった。
「向暑の候」で始まる手紙106通を午後に整え、九州四国北海道宛てのものは郵便局に持ち込み、近場のものは17時以降にポストに投函をする。
そうして今朝の、獅子唐の油炒めを具にした味噌汁を思い出す。ピーマン、獅子唐、青くささの強い唐辛子のたぐいは大好物だ。辛みのない大ぶりの唐辛子などは、毎朝でも食べたい。
「ガツン」という感じで朝から忙しい。その忙しさは商売によるものではなく、町内の会計係としての忙しさである。そして銀行や司法書士事務所のあいだを行ったり来たりする。「お中元の繁忙期に何をしているのか」とは思うが、まぁ、仕方がない。
夜になってようやく本日の朝刊に目を通す。
うどんが食べたくなったらここにしか行かない「つけ汁うどんあくつ」の店主夫妻が「下野新聞」に出ている。僕は商売人はすべからくパラノイアであるべきと考えている。「あくつ」は隅から隅まで神経の行き届いた素晴らしいお店で、僕はここを知るなりウェブショップの「日光・鬼怒川の美味しいもの屋さん」に加えた。
長男が自由学園男子部の中等科に入学して東天寮に入ったとき、室長として世話になったのが高等科3年生のマツトモダイ君だった。そのマツトモ君のお父さんが「朝日新聞」に出ている。そしてその記事をゆっくりと読む。
どうもワインに弱くなったような気がする。ワインを飲むとそのまま寝てしまうことが数年前から頻繁になったような気がする。しかし実際には「ワインに弱くなった」のではなく「以前にも増してワインが喉を通りやすくなった」ということなのかも知れない。
そういう次第にて夕食の後はきのうに引き続いて早々に寝る。
家内の伯母の三回忌にて午前、広尾からタクシーで麻布の山を上がる。
伯母は2011年8月13日に亡くなった。その月の22日から僕は次男とタイの最北部へ飛び、そこでトレッキングをする計画を立てていた。伯母の命が長らえれば予約済みの航空券は捨てるつもりでいた。
結局のところトレッキングには行けることになり、感謝と言っては語弊があるかも知れないが、僕と次男は伯母を想いながらチェンライのお寺に香を供えた。
本日、本堂での読経のあとの、お坊さんの話は臨済宗と曹洞宗の、手足の左右の運びについての違い、それと表千家と裏千家のおなじく手足の左右における決まりを対比させつつ「自分にもいまだ分からないところがありますので、皆さまのなかでお詳しい方がいらっしゃいましたらぜひ、お教えください」という意味の言葉で締められた。
お坊さんにも不明のことを素人の当方が知るわけがないけれど、この禅寺のお坊さんの話は、卑近なところから久遠の彼方までを簡単な例を用いて語ってとても面白い。
お坊さんも含めて総勢22名にて昼食を摂れば話題は尽きず、六本木から地下鉄に乗ったのは17時も過ぎるころだった。そうしてどこかでカウンター活動をすることもなく真っ直ぐに帰宅し、夕食の後は早々に就寝する。
ネパール行きまで10日を切った。持ち物についてあれこれ考え始めても良いころだ。もっとも僕は、旅行に持参するものはあらかじめコンピュータに保管して常に更新をしている。今回は96品目に上るこれを順次トランクに詰めていけば、荷造りは60分で完了する。
旅行に携帯するノートは"Campus"の5号を使用し、ここにA4のスケデュール表、また印刷物やインターネットから集めた資料を貼り付け自前のガイドブックとする。このノートはまたメモや金銭出納帳の役目も担う。
南の国で活発に活動しようとすれば、シャツは1日あたり2着が必要になる。洗濯物をホテルのランドリーに出す日を決め、それを元に、もっとも合理的と思われる着替えの計画を立てる。
1980年代のはじめにバックパッキングをしていたころから、薬は充実して持つようにしている。これらの薬は多く、現地人や、準備をおろそかにして窮地に立たされている旅行者の胃に収まったり、あるいは皮膚に擦り込まれたりすることになるが「薬は最も身近な保険」と考えれば、やはり持たないわけにはいかない。
今回はまた、人にもらったり義理で買ったりした新品も含むTシャツ、それに腹が太って穿けなくなったズボンを持参し「どなたかお使いください」と付箋に書いてホテルに置いてこようと考えた。そうして箪笥を漁ったところ、瞬く間に段ボール箱ふたつが満杯になった。
不要のズボンが減ったため、トレッキング用のニッカーボッカーを、これから買おうと思う。