日光宇都宮道路の今市インターを下り降り、信号ふたつ目の横断歩道橋から店までの2ブロックのあいだに、お客様を惑わすことなくご案内する方法はないだろうか、ということは大昔から考えていた。考えてはいたけれど、実行に移すことはしてこなかった。
昨年、いろいろと動きがあって、この、曖昧模糊とした構想が、徐々に形になってきた。そうしてその最終の作業が、僕の訪タイ中に行われた。国道121号線の、横断歩道橋から店舗までの白壁に、パンフレットの表紙に使われているらっきょうの水彩画を拡大して取り付けたのだ。
らっきょう、浅太郎、黒太郎の各々のらっきょうが、ころころと転がるようにして店まで続いている、その様子を午前中に歩道橋に上がって確認をする。更には歩道橋を降り、店まで歩きながら見ていく。
このご案内がどれほどお客様のお役に立つかは未知数ながら、まぁまぁ楽しい風景を作ることができた。
明日からいよいよ7月に入る。今年の夏はどのような夏になるだろう。今からあれこれが楽しみである。
周囲のざわついた様子によるものか、あるいは他の何かの理由によるものか、とにかく目を覚まして腕の時計に目を遣れば、時刻は午前2時45分だった。客室乗務員は既にして、朝食の配膳を始めていた。一体全体、どこの誰が午前2時45分に朝飯を食べるか。それを強いるのが航空会社である。朝飯はほとんど残した。
夜が明けると、雲の上には青い空があった。タイ時間04:22、日本時間06:22、機は予定より33分はやく羽田空港に着陸をした。以降の時間表記は日本時間による。
用事のある家内とは羽田で別れ、ひとり浅草に達する。09:00発の下り特急スペーシアに間に合い、11時前に帰社する。旅の荷物の片づけをし、正午過ぎに事務室に降りる。以降は普段とおなじく仕事をする。
終業後は明日の来客に備えてあれやこれやと買い物をする。その買い物をしながら夕食はどこかへ食べに行ってしまおうかと考えたけれど、思い直して帰宅する。自分で茹でたスパゲティは、なかなか悪くなかった。
このホテルは、僕のような、どちらかといえば一人で放っておいて欲しい人間よりも、絶えず人にかまわれていたい性格の人に向いている。朝食を摂っている最中にも、いちいち数えていなければ覚えていられないほど多くの、様々な係から声をかけられ、また質問をされる。結構、忙しいのだ。
きのうの午後は「明日は何時ごろ出発なさいますか」と、フロアバトラーに訊かれた。「チェックアウトは何時でしたっけ」と問い返すと「しばらくお待ちください」を引き下がり、ふたたび部屋に来て「通常は正午のところ、お客様は午後3時までご滞在いただけます」と答えた。
それを受けて最終日の今日の予定を立てた。「ほぼ何もしない」という予定である。
12時30分に部屋のボタンでバトラーを呼ぶ。きのうと異なり今日のバトラーは女の人だった。これから10分後にチェックアウトをしたいのでベルボーイを寄こすよう、彼女には伝える。
荷物は玄関先ではなく船着き場に運ぶよう、白い上着のベルボーイに指示する。彼と共に部屋を出てガーデンウィングの小さなエレベータに乗る。1階の、小さな高級店の並ぶアーケードを抜けて階段を上がればロビー。そしてそこを突っ切ってキャッシャーのカウンター前に立つ。
13時05分、コモトリケー君の乗る舟がチャオプラヤ川の上流から近づいてくる。ふたつのスーツケースはベルボーイと、船着き場の、サファリジャケットを着た責任者が手分けをして舟に運び込んでくれた。僕はそのままコモトリ君の家を目指す。家内は所用のためいましばらくホテルに残ることとして、船着き場で我々を見送った。
タイの旅をスゴロクにたとえれば、その「上がり」は常に、"YOK YO MARINA & RESTAURANT"での、コモトリ君との食事だ。日本から持ち込んで、この店のプレイヤーで流してもらったCDはディオンヌ・ワーウィックの"THE DEFINITIVE COLLECTION"。日が傾き始めると、川風はいきなり、涼しくなった。
18時30分、コモトリ君の呼んでくれたタクシーに乗り込む。タクシン橋を西から東へと渡る。高速道路の料金は来たときと同じく計75バーツで、これは現金で運転手に手渡す。空港に着いたときのメーターは311バーツだった。400バーツを財布から取り出すと、そこに家内は100バーツを足した。
チェックインを済ませ、パスポートコントロールに歩く途中の、サイアム商業銀行の両替所には1円あたり0.3601バーツの表示があった。円高は更に進んだらしい。
いつの間にか眠ってしまい、気づくとタイ航空機に乗り込む人の列はほとんど消えかけていた。搭乗ゲートに置き去りにされるわけにはいかない。指定したとおりの機内最後尾まで歩き、ギャレーで水をもらう。
"Boeing747-400"を機材とする"TG682"は、定刻の22:45に9分遅れてスワンナプーム空港を離陸した。次は9月、である。
暗がりの中で目を覚ましたときには、自分がいまどこにいるか、しばらく分からなかった。年に4本と決めているタバコを立て続けに吸って焦燥する、という夢をしばしば見る。今朝もまた、その夢を見ていたような気がする。
窓際の席にコンピュータを起動して、おとといの日記を書く。夜が徐々に明けていく。
オリエンタルホテルに泊まると、朝食はいつも、1時間以上は食べている。そして昼食は抜くのだ。「朝にたっぷり詰め込んで昼を抜けば、それだけ金が助かるではないか」というケチな了見によるものではない。ここのブッフェが美味いからだ。ワインを取り寄せ飲みたい気持ちもあるけれど、朝酒、昼酒は日中の行動を鈍らせ、また晩飯を不味くするからしない。
ひと休みをしてからホテルの舟でサパーンタクシンへ行く。そしてロビンソン百貨店で食料品を買う。またまた舟で戻って部屋でひと休みする。僕はタイに来ると、覚えていられないほど日に何度もシャワーを浴びる。
午後はホテルちかくにあるショッピングビル「O.P.プレイス」を覗く。更に隣の、僕は「乱雑屋」と呼んでいる"THAI HOME INDUSTRIES"に入る。すると店の面積が隨分と狭まり、商品の陳列も乱雑でなくなっていたから店の女の人に訊くと、建物の中を小さく仕切り、すこしずつ修理をしている最中であることを教えてくれた。確かに味わいの深い、古い建物である。
この店は"INDUSTRIES"とはいえ新しい工業製品ではなく、古い手工芸品が、埃をかぶって積み上げられているところが魅力なのだ。建物の修理は、あと1、2年はかかるらしい。早く元の乱雑屋に戻って欲しいものだと思う。
午後も中ごろになってからプールに出かける。このホテルのプールの水質は、他のところと全然 、違う。まるで沼の水のように、まったりと重くて温かい。「そんなバカな」と思う人は是非、ここで泳いでみて欲しい。ところでここではプールサイドの寝椅子に横になると同時に、冷水と凍ったフェイス タオルが運ばれる。しばらくすると、小さな器に入ったジュースと甘い物が届く。更に本を読み続けていると、アイスクリームのワゴンまで来る。すべてが無料なのは言うまでもない。
日暮れどきには毎日のように来る豪雨の収まりかけるころ、対岸の料理屋「サラリムナム」に舟で渡る。そしてタイの古典舞踊を観ながら「宮廷料理」をいただく。このような「観光」にはまるきり興味がないけれど、まぁ「話の種」である。
雨は上がった。舟にふたたび乗ってホテルに戻る。そして1991年以来のバンブーバーでドライマーティニ1杯を飲み、部屋へと戻る。
第1回バンコクMGは2日目に入った。きのうの第3期でいくらか上を向いたとはいえ、自己資本は第1期初から半分ちかくの164円にまで落ち込んでいる。とにかくこの会社を立て直さなくてはならない。朝から気が重い。
そうして迎えた第4期のA卓では、また自分の欠点が出た。中間決算のとき、同卓の競合他社が意外なほど売れていないことを知った。そうなると僕はきのうの夜に立てた経営家計画を忘れ、途端に販売の手を緩めるのだ。結果は損益分岐点比率98パーセント。製造ミスの13円により税引き前当期利益は▲8円で、回復基調にあった累積損益を増やすことになった。
B卓に落ちた第5期こそ本腰を入れなければみっともないことになる。奇想天外な戦術や壮絶な叩き合いによる討ち死になら意味の無いことでもないけれど、徐々に弱った末の倒産では格好がつかない。
その第5期で僕は遂に頑迷さを捨て、そこそこの値段でまとまった数を売る挙に出た。その結果は損益分岐点比率41パーセントで自己資本は415に急上昇。現金残高も豊富にあり、返済する必要のない借金まで一掃した。
角部屋の広い窓から見上げるバンコクの空は、いまだ昼の光を保ち続けている。今回の最優秀経営者賞は、広島市から参加のフクヤマタダシイさんが第5期到達自己資本535円で、優秀経営者賞はバンコクから参加のカゲヤマフミヒコさんが同516円で、またもうひとつの優秀経営者賞は、やはりバンコクから参加のマエダカズキさんが同487円で、それぞれ獲得をした。
また特別賞としては、これまたバンコクから参加のスズキマサミさんが同407円の次点で獲得をした。スズキさんは第5期に2度の倉庫火災に見舞われ、材料15個を失いながらの受賞だった。
原稿用紙に2枚ほどの感想文を書くときには、なぜか右の手指が痛み、相当に苦労をしたけれど、とにかく文字を連ねなければ気が済まない。
18時、第1回バンコクMGは、関係各位による周到な準備、努力、心遣いにより、無事に完了した。タイ人のオネーサン2名を含めた参加者の優秀さには、大いに驚かされた。0.5期、3.5期も楽しかった。次のバンコクMGは今年の9月3日と4日の土日に、次々回は11月に、その次は来年の3月に開催をされるという。9月と11月は無理としても、来年の3月には是非また、バンコクの地でMGを学びたい。
毎夕のように訪れる豪雨は去った。会場のあるソイ10からトンローの通りに出て、荷物を預けてあるホテルに戻る。警備員、駐車場係、コンシェルジュの助けを借りてタクシーを確保し、また地理不案内な運転手に今夜の宿の場所を伝えてもらう。
運転手はトンローの通りを南下してスクンビット通りを突っ切り、ラマ4世通りからは一路、西を目指した。車寄せへの坂を登りきれば、後は様々な人たちに取り巻かれつつ、あっという間に部屋まで案内をされる。
トンブリーに住む同級生のコモトリケー君は19時40分に、ホテルのロビーに現れた。そして夕食を共にし、部屋に戻り、しばし歓談の後、22時すぎに去った。
オリエンタルホテルのシャワーの水は肌に大層、優しい。就寝は23時のころだったかも知れない。
バンコクMGの、記念すべき第1回の日である。僕と家内のいるホテルがMG会場には至近とのことで、それぞれのホテルに滞在している人、あるいはまた今早朝にスワンナプーム空港に着いた人など計7名が8時30分にロビーに集まる。
バンコクMGの主催者は、こちらでタイ進出支援の会社「グローカリッジ」を経営するタイラマサキさんとニノカタトモヒロさん。そのふたりにMGという研修について伝え、開催を決心させたのは、トンローに住まいを持ちつつタイと広島を頻繁に往復するスズキタカノリさんだろう。講師としての白羽の矢が、広島を拠点にMGとTOCを広めているタナカタカシさんに立ったのは必然である。
今回の参加者は、タイで起業、または日本からタイへ進出した会社の経営者や役員に、総合職を務めているタイ人のオネーサンを含めた14名、そこに日本からの7名を加えた21名から成る。実際にゲームに参加をするのは、その21名から講師と事務局を除いた19名。4卓での開始である。
MGでもっとも大切なのは1日目の夜と言われているけれど、第1期の重要さは、それに勝るとも劣らない。その第1期におけるタナカタカシさんの、大きな声による理路整然とした解説に自身の人間味も加えた指導ぶりに、大いに感銘を受ける。
2日間で盤上に5期分の経営を展開するMGの第2期A卓は、タイから参加の3名に僕と家内を含めた5名で始まった。青チップに走る初心者を尻目に当方は赤チップを購入し、その後、赤チップ2枚を同時に得る僥倖に恵まれて… と言いたいところだけれど、付加価値の高い品を売ることができず、ゲーム終了時の現金残高は13円にまで落ち込んだ。1日目が始まった途端の、150円の短期借り入れである。
バンコクまで来てみっともない形での倒産はできない。「MGを何十年もした人が、この体たらくですか」などと今回の参加者に思われたら、バンコクMGの今後にかかわる大問題である。何とか立て直しを図らなくてはならない。
午後からの第3期はC卓に落ち、ここで捲土重来を期す。
この期における僕の成功の端緒は、赤チップ失敗のリスクカードを引いたことだった。赤チップによる販売に見切りをつけ、しかし残余の赤チップは活かしつつ青チップ2枚を立て続けに手に入れて、平均31円の高級品をそこそこ売る。その結果、損益分岐点比率は85パーセントに回復をした。
「ついさきほど昼食を摂ったと思ったら、もう夜の7時」という時間の感覚は、MGをしたことのある人になら理解をすることができるだろう。
「3.5期」と呼び習わされている交流会は、日本式の居酒屋で大いに盛り上がった。バンコクに来た木曜日の初更とおなじく、外では強い雨が降っている。その雨の間隙を突き、タイから参加のキモトタカヨシさんが熱心に勧める店に計4名で生牡蠣を食べに行く。
その店のあるスクンビットソイ23からホテルまではひとりタクシーで戻った。時刻は午前0時にちかい。そうしてきのうの晩とおなじく、以降の記憶は無い。
07:00 ホテルで朝食
07:55 トンローの西側に見つけた床屋を目指して先ずは東側を南下する。
08:10 床屋が見つからず800メートルを歩き通してトンローのパクソイに至る。
08:15 仕方なくトンローの東側を北に戻りつつ素晴らしい骨董屋を見つける。
08:25 部屋に戻ってマッサージ屋の空く時間を待つ。
10:00 きのうとおなじマッサージ屋"Sumalai"できのうとおなじ施術を受ける。
12:10 マッサージ屋を出て赤バスでトンローの駅へと向かう。
3年前の2013年、初訪タイの家内が「象に乗りたい」だの「マンゴータンゴに行きたい」だの希望するたび「シロートくせぇこと言ってんじゃねぇよ」と僕は嫌がった。その自分の頑迷さを反省して、今日は家内につき合うことにした。
12:30 "BTS"に乗ってサイアムの「マンゴータンゴ」へ行く。
12:35 一番人気のセット「マンゴータンゴ」を食べる。驚きの甘さと舌ざわり。
13:30 "BTS"に乗ってサラデーンの「ジムトンプソン」へ行き、買い物をする。
14:20 タニヤ裏の屋台街でバミーナムを食べる。
14:50 英国のEU離脱を確認して「タニヤリカー」で両替をする。
15:30 "BTS"に乗ってチットロムの「セントラル」へ行き、社員のお土産を買う。
チットロムの駅構内にサイアム商業銀行の両替所があったため、そのレートを見ると、先ほどの「タニヤリカー」のそれが1円あたり0.3430バーツだったのに対して、こちらは0.35515バーツの値を付けていた。為替の相場が大きく動いている。
16:15 朝に見つけた骨董屋で、店の人は150年前の中国製と言う高盃を買う。
16:40 ホテルちかくの床屋"Na Na Style"で髪を刈る。
17:00 髪とおなじバリカンを髭にも使うものと考えていたら最短用を使われる。
19:00 きのうのメンバーに、広島のフクヤマタダシさん、主催者でバンコクに会社を持つタイラマサキさん、ニノカタトモヒロさんが加わって、スクンビットソイ38のパクソイから東に数十メートルを歩いたところのフカヒレ屋にて「0.5期」と呼び習わされている、MGの前夜祭に参加をする。
20:30 僕と家内とタナカタカシさんの3人でトンローの西側を北に歩き始める。
20:35 更にソイ1ちかくまで歩く。
20:45 赤バスに乗ってソイ9はす向かいのホテルを目指す。
部屋に帰って以降の記憶はきのうとおなじくほとんど、無い。
"Boeing747-400"を機材とする"TG661"は、定刻の00:20に26分遅れて羽田空港を離陸した。オフクロの遺したデパスとハルシオンを1錠ずつ飲めば大抵はすぐに熟睡のできたところ、なぜか今回の眠りは浅かった 。
「いきなり」という感じで朝食の配膳が始まったのは、たまたま僕がそのときに目を覚ましたからだろう。時刻は4時46分。機はダナンの上空に達していた。5時10分に朝食が片付けられると即、トイレに入り、顔を洗い歯を磨く。
5時35分にはスリンの上空を飛んでいる。バンコクの天気は晴れ時々曇り、気温は30℃であることを機長のアナウンスにより知る。5時55分、バンコクまで数十キロのところまで近づいたことを教えるように、眼下には夜明けの農地が広がり始めた。
日本時間06:14、タイ時間04:14、機は予定より26分はやくスワンナプーム空港に着陸をした。以降の時間表記はタイ時間による。
これは海外に限ったことだけれど、僕は公共の交通機関を好み、タクシーを嫌う。それはタクシーの運転手と意思を疎通させることに億劫さを感じているからだ。今回の旅は家内を同伴していて、かつ諸般の事情から荷物が多い。しかし昨秋、体調不良にて仕方なく使ったリムジンは価格が高い。かてて加えてリムジンの料金は一律にもかかわらず、ホテルのあるトンローは空港からそう遠くない。
よって今回は、空港からホテルまでタクシーを使うこととし、空港ビルの1階に降りる。外に出てタクシー乗り場に向かって歩いて行くと、係がちかくの発券機を指さし「ボタンを押せ」というような身振りをする。教えられた通りにすると"Lane Number 19"の紙が出てきた。見まわせば、居並ぶタクシーのうちの1台の頭上に「19」の文字が電球で光っている。
人の良さそうな運転手は大きい方のスーツケースをトランクに、小さな方は助手席に載せてピンクのトヨタ車を発進させた。時刻は5時10分だった。メーターの初乗りは37バーツ。高速道路のひとつめの料金所では25バーツ、ふたつめのそこでは50バーツを運転手に手渡しレシートをもらう。
ホテルはトンローの駅からトンローの通りを北上して、左手にソイ9が見えたあたりの右手にある。しかしそのことを僕の拙いタイ語では説明しきれない。運転手は一度ソイ9に入り、迂回しながらふたたびトンローの通りに出たところで目指すホテルを見つけた。時刻は5時45分。僕はメーターの271バーツに色を付けて300バーツ、更に空港使用料の50バーツをそこに上乗せした。タクシーの運転手は上機嫌で去った。
ホテルのロビーに入ってフロントにバウチャーを見せる。通常のチェックインは14時、しかし宿泊料の半額を支払えばアーリーチェックインが可能との提案を受け、了承をする。通された部屋は最上階の2ベッドルーム、つまり寝室、風呂、便所をふたつずつ供えた広い部屋だった。しかしここに落ち着いていたのはわずかな時間に過ぎない。
散歩に出た折、トンローの通りを挟んでホテルのはす向かいにあるマッサージ屋からオバチャンが顔を出す。「何時から?」と訊きつつ看板を見て「あぁ、10時からだね」と声をかけると「来る?」と訊くので曖昧に笑いを返す。そして途中でバミーナムなど食べつつ800メートルほどを歩き通してトンローの駅に至る。そこから高架鉄道"BTS"でサイアムまで出て散歩をする。
10時に先ほどのマッサージ屋"Sumalai"に戻って先方の勧める2時間コースの値段を確かめると800バーツだった。僕はマッサージには割とお金を惜しむ。僕だけ他の安いマッサージ屋へ回ろうとすると、代金は家内が払ってくれるという。そうして受けた、足と肩と背中のマッサージは500バーツのチップを上げても惜しくないほどのものだったけれど、実際には100バーツのチップを担当のオバチャンに手渡し店を出る。
ホテルに戻ると「お部屋のご用意ができています」とフロントに言われ、最上階の2ベッドルームの部屋から9階の普通の部屋に移動をする。
気温が30℃までであれば、僕は暑さを感じない。今日のバンコクは、その30℃にも達していない気がする。それでも南の国にいれば、部屋に戻るたびシャワーを浴び、ベッドに横になることを繰り返す。
午後、トンローの範囲内ならどこでも停まってくれ、どこでも降ろしてくれて料金は7バーツの赤バスに乗ってソイトンローの船着き場へ行く。そこからセンセーブ運河の水上バスに乗ってプラトゥーナムに出る。
運河にかかる太鼓橋のたもとの、従業員がピンク色のポロシャツを着ているところから「ピンクののカオマンガイ」と呼ばれる店に端を発し、緑のカオマンガイは急成長中、青のカオマンガイは空いてたけれど収容人員は充分と、このあたりは札幌のラーメン横丁や宇都宮の餃子なんとかのような観光地になりつつある。そして今日は「ピンク」は昼休みだったから「緑」でカオマンガイを食べ、ふたたび水上バス、そして赤バスを乗り継いでホテルに戻る。
今回の訪タイの主目的は、バンコクで初めて開催されるバンコクMGへの参加である。その講師を務めるタナカタカシさんから、空港に着いた旨の電話が入る。タナカさんは、我々のホテルとは目と鼻の先のホテルに入ったときにも電話をくれた。そして18時の待ち合わせを約する。
気づくと大雨が降っている。今朝までバンコクにいたMG仲間のテシマヨーさんの話によれば、このところこのような豪雨がバンコクでは続いているという。その土砂降りの中を、タナカタカシさんが走ってくる。何十分か遅れて今回のMGの主催者のひとりスズキタカノリさん、そして神戸からやはり今日の午後に着いたオーサトユーイチさんが、ようやく小降りになった雨の中をやってくる。
我々のホテルの、トンローの通りを挟んではす向かいのソイ9にあるイサーン料理屋には空席が目立った。空いていて良かった。そしてチムジュムによる宴会が始まる。僕はMG仲間とする気楽な飲み食いが好きだ。
初訪タイ、初タイ飯にもかかわらずオーサトさんは「五臓 六腑に染み渡りますねー」と感心をしている。タナカさんはカオニャオにチムジュムの汁をかけてダシ茶漬けにしている。ビール、タイウィスキー「センソム」も含めての料金は1 ,000バーツに満たなかった。店内はいつの間にか満員の盛況である。
僕は極端な早寝早起きだから二次会は遠慮をした。部屋に帰って以降の記憶は無い。
「MGを目前にすると、嬉しくて、嬉しくて、何をしに行くのか忘れてしまう私です」とは、湘南MGのかつての精神的支柱カワカミアキヒサさんの言ったことだ。カワカミさんの轍を踏まないよう、MGの道具は真っ先に用意をした。
「ギャルとグルメは不可分です」とは、広島を拠点に、日本全国から遠くは北京にまで頻繁に足を運ぶMG界の伝説イツジエースケさんの言ったことだ。僕の場合「旅と本と酒は不可分」にて、今回は新書と文庫本を1冊ずつ用意した。ある種の学習障害なのだろう、ドラッカーやゴールドラットのような、いわゆる「役に立つ本」は読めない。南の国の食堂で「役に立たない本」を読むことが、無上の楽しみである。
日本でも海外でもビールはほとんど飲まない。美味いラオカーオはバンコクでは手に入らない。現地の物価に慣れると、まともなワインは高く感じられて買う気がしない。今回は"TIO PEPE"1本半を2本のペットボトルに小分けし、厳重に包装してスーツケースに収めた。
浅草07:30発の特急スペーシアに乗って9時すぎに帰社すると、当方がし忘れていたことを社員が教えてくれる形でふたつの仕事が発生し、これを1時間ほどでこなす。その後、11時から12時すぎまで商談、昼に銀行へ行き、13時25分から14時すぎまで商談。それからそそくさと、おばあちゃんの、明日の祥月命日に先だって如来寺のお墓に参る。
今日は来ないはずの人から「これから行ってもいいですか」と、昼食を摂っている最中の15時に電話が入る。なぜ、そういう行き当たりばったりのことをするか。そういう癖のある人がひとりいるだけで、当方も周囲も右往左往を余儀なくされるだ。
MGの道具や本や酒はきのうまでに用意をした。しかしコンピュータなど出発の直前まで使っているものについては、荷物に入れ忘れることなどないよう、ひどく神経を使う。
そうして下今市19:53発の、上り最終スペーシアに乗る。羽田空港国際線ターミナルに着くのは22時22分と、乗り換え案内が示している。出発の2時間前までに空港に着くことは無理である。途中、大きなスーツケースを提げて地下鉄の階段を上り下りしたことで歩行速度が落ちたか、空港に着いたのは22時33分だった。
タイ航空のカウンターに旅客はまばらだった。チェックインさえ済ませてしまえば気分は落ち着く。ひとり旅なら水くらいしか飲まないところ、今回は家内も一緒のため、おでんを奢ってもらう。そうして良い気持ちになって搭乗ゲートまで進むと、我々とおなじ"TG661"に乗ろうとする人だかりがあった。
席は僕の好きな、そして旅行社にその希望を伝えていたとおりの「最後尾または最後尾にちかい、シートがふたつだけのところ」で間違いなかった。ギャレーでタイ人のスチュワードに水をもらい、それを飲み干してから席へ戻って眠る体勢に入る。
ウメツという若い人を知っているかと「鮨よしき」のあるじニシヅカヨシキさんにメッセンジャー経由で訊かれたのは昨秋のことだったかも知れない。かちどき橋のちかくの酒問屋に勤めているのだという。
鳥取で「富玲」という酒を醸す蔵の社長ウメツマサノリ君は僕の3年後輩である。「ウメツという若い人」は、その長男のウメツフミノリ君である。そしてそのフミノリ君の奥さんのハナさんは僕の長男の後輩であり、また次男の先輩である。
そういう次第であれば、僕はこの若夫婦と鮨を食べなくてはならない。
facebookでウメツフミノリ君を探し、メッセンジャーで連絡をすると、しかしいつまでも返事はない。周囲にあれこれ確かめた結果、冬は埼玉県の蔵に籠もって酒を造っていることが分かった。スマートフォンなどはどこかに放り投げて、仕事に没頭しているのだろう。
連絡が取れたのは春彼岸のころだった。それから調整を重ね、本日ようよう3人そろって白木のカウンターに着く。
小遣い帳によれば、"LINDBERG"のフレームによる遠近両用メガネを作ったのは2009年6月2日のことだ。その後、レンズの傷や視力の衰えから2013年6月28日にレンズのみ新しくした。
このメガネを今月13日、ANAの機内に置き忘れた。その日のうちに遺失物係に電話をしたけれど、届け出は無いと言われた。以降は小遣い帳に記録がないから時期は分からない、とにかく、紛失したものより数年前に"999.9"で作った遠近両用メガネを代替としてきた。
午後、池袋のイワキメガネを訪ねる。これまでのフレームはレンズの面積の狭いことが不満だった。よってもうすこしレンズ面の広いフレームを用意するよう先週、電話で頼んでおいた。
検査をしていくうち、右目の視力が極端に落ちていることが分かった。また、メガネは暗いところで本を読んだり、あるいはコンピュータで精密な作業をするときにしか使わない旨を伝えると、そのような用向きなら遠近両用は必要ない、中近または近近にすべしと、担当者は遠回しに言った。
中近とは手元から部屋の壁くらいまでを範囲とするレンズ、近近とは手元からせいぜい70センチくらいのところまでを範囲とするレンズと教えられ、その双方を試した結果、新しいメガネは近近とすることにした。
前回とおなじ最高品質のレンズでも、遠近よりは近近の方が価格は圧倒的に低い。浮いたお金は明日の鮨代に回すこととする。
「暖房のスイッチを入れたくなるほどの、夜の肌寒さである」と書いたのは、さきおととい木曜日のことだ。しかしその翌日の金曜日から天候はガラリと変わって蒸し暑くなった。よってきのうの夜は寝室の窓を開け放ち、網戸のみ閉めて眠った。
窓を開けたまま眠ると涼しいのは良いけれど、普段は気にならない音が聞こえてくるせいか、眠りが浅くなる。「まさか洗面所で水が漏れているんじゃねぇだろうな」と、夢の中で気になった水の音は、玄関前に流れる川からのものだった。
「食欲が無くても、とにかく栄養を摂取しなければ体が保たないから、無理にでも食べなくてはいけない」という意見がある。一方「食欲が無いとは、今は食べない方が身のため、というからだからの信号だ」という意見も、またある。むかしのことはさておき現在は、どちらかといえば後者の意見を僕は信用している。
大して食わずに、しかし普段どおりの仕事をこなしていれば、からだは徐々に疲弊していくはずのところ、別段、いつもより疲れる感じもしない。それでも多少は食べた方が良さそうだから、朝は5時30分から納豆汁を作る。
昼は忙しく働き、18時に店を閉めて、今日の売り上げ金額を記帳するだの現金を金庫にしまうだのすれば、町内役員会の始まる19時が迫る、その合間に「ちょっと待ってくれ」とばかりに食堂へと戻り、ウィスキーの水割りを飲む。
ミャンマーに出かける前日、つまり今月8日の早朝、JR宇都宮駅のビル「パセオ」2階の物産店「宮源」に冷蔵ショーケースひとつを設置した。宇都宮のお客様、また主に鉄道を利用して移動されるお客様の利便を考えてのことだ。
このショーケースの飾り板に改造の必要が生じたため、6時10分にホンダフィットで出発をし、6時50分に駅ビルの駐車場に入って行く。飾り板の製作を頼んだナカムラ装備の面々もちょうど着いて、道具などをトラックから降ろしている最中だった。
飾り板の改造は、本職3人の鮮やかな手際により30分ほどで完了した。そのあいだに僕は、今日からお出しする新たな商品の配置などを考え、また売り場の早番の方にそれを納品したりする。
これだけの仕事をしても、会社には8時15分の開店直後に帰れてしまった。早朝からする行動の効率はとても高い。
ところで今日は、用意したふたつのおむすびを朝には口にせず、昼と夜にそれぞれひとつずつ食べた。本日、腹に入れたものは味噌汁1杯、おむすび2個、胡瓜のぬか漬け、饅頭2個、日本酒をぐい呑みに3杯と焼酎をおなじく1杯だった。こちらについては「効率が良い」と言って良いかどうかは不明である。
百貨店の地下1階なりスーパーマーケットなり、あるいは魚屋なり八百屋なり、とにかくそういうところに出向いて「そうそう、これ、味噌汁の具にしよう」と明確な意図を以て買われるものは、せいぜい浅蜊、シジミ、なめこくらいのものではないか。少なくとも僕はそうである。
味噌汁の具は、大抵は、その朝、冷蔵庫を開けてみて「あ、こんなものがあったか、だったらそれとこれ」と、場当たり的に決められている気がする。更には「あー、これ、だいぶ前からあるよなー、はやく使わないと」という、まるで廃品処理まがいの選択も少なくなさそうだ。
今朝の僕の、味噌汁の具が、まさにそれだった。その、しいたけとピーマンを冷蔵庫の野菜室から取り出して洗う。そしてしいたけは薄切りに、ピーマンは細長く刻む。しいたけは煮ても、ピーマンはほとんど煮ない。
味噌の包容力にはとても強いものがあるから、結構な無茶をしても、どうということはない。そして今朝の味噌汁も美味かった。
「腹減らない病」と食欲不振とは感覚が違う。どのように違うのかと問われても答えるのは難しい。液状のものなら喉を通りやすいから今朝は味噌汁を多めに作る。具はトマトと茗荷にした。トマトの入る味噌汁は酸っぱいところが僕ごのみだ。
「タイの食べ物でいちばん好きなのは、なに」と訊かれて「トムセーップ」と答えたら「あぁ、イサーンの」と、そのオネーサンはひとこと、つぶやいたような気がする。
トムセーップはトマトや小玉葱、生姜、レモングラスなどが荒々しく刻まれた澄んだスープだ。鉈のような包丁で骨の付いたまま断ち割られた鶏肉の入ることもあれば、豚や牛の臓物が煮込まれていることもある。
と、ここまで書いて「そうだ、そのうちトマトの味噌汁には、なにか肉を入れてみよう」と考える。
日光市内ではあるけれど、このあたりでは「在」と呼ぶのだろうか、田園地帯から仕事に来た人が奥さんからことづかったと、混ぜごはんをくれた。それを折り箱から茶碗に取り分け、とても上品に刻まれた生姜漬けと大葉を散らし、ひとくち含んで、それが混ぜごはんではなく、ぜんまいと水菜を用いた寿司だったことに気づく。まるで「新しい天体」である。
この寿司があまりに美味かったため、おかわりをした。「腹減らない病」の最中の満腹感は、健康時の満腹感とは全然、違う。どのように違うのかと問われても答えるのは難しい。
暖房のスイッチを入れたくなるほどの、夜の肌寒さである。はじめビシソワーズを想定して作られたスープは温めて飲んだ。ポタージュも、またいただきもののガレットも美味かった。「この肴なら白ワインだろう」とは思うけれど、冷えたお酒にはどうにも食指が伸びない。そして4日連続の温かいお酒を飲む。
と、ここまで書いて朝食の画像を開いてみたら、トマトと茗荷の味噌汁はきのうのもので、今朝の具は茎若布と油揚げと長葱だった。書き直しは億劫なため、このままサーバに上げることとする。
「腹減らない病」、「酒欲しくない病」そして「ラーメン欲しくない病」という3つの奇病に、何年かに1度の割で取り憑かれる。直近では2014年2月8日に「腹減らない病」と「酒欲しくない病」を同時に発症した。そのときには途中から「ラーメン欲しくない病」も、また重なった。
以前は忘れたころにやって来る病ではあったけれど、そして前回のそれは既述の通りおととし2月のことだったけれど、それからいまだ2年4ヶ月しか経ていないにもかかわらず、どうも「腹減らない病」が、また始まったようだ。
その初日は、いまだミャンマーにいた3日前の12日。昼食は半分以上を残し、夕食は大皿の料理をすこしずつ食べ、そして翌朝の機内食も半分ほどは残した。
おととし2月の「腹減らない病」は、この日記によれば発症から19日を経るころ快方に向かった。とすれば今月12日に発症したそれは、来月まで続く可能性がある。
おとといもきのうも、晩飯は少量のチーズとウィスキーのお湯割りだった。流石に3日連続はまずいと考え、今夜は餃子を食べるべく東郷町まで徒歩で出かけた。そして案に相違して結構な量を胃袋に収めた。腹は減らないくせに食べようと思えば食べられる、それも僕の「腹減らない病」の特徴である。
僕は為替に敏感である。昨週の木曜日、ヤンゴンに着いて現地添乗員のシュエイーさんに円とチャットの交換レートを訊くと、旅行社で用意した現地通貨は、1ドルあたり1,050チャットの30ドルパックとのことだった。
それでは不満なので、僕は直ぐ脇にあった両替所で50ドル札2枚を114,500チャットに替えた。1ドルあたり1,145チャットの計算である。
114,500チャットのうちミャンマー国内で使ったのは54,700チャット、そのうちの7,800チャット、つまり14パーセントはベルボーイやメイドや戦没者慰霊碑の番人にチップとして渡した。為替のレートには細かいくせにチップは惜しまない。自分でも不思議な性格である。
財布に残った59,300チャットのうちの59,000チャットに3ドルを足して、空港でウィスキーを買ったことはきのうの日記にも書いた。
最終日に財布に残ったのは59,300チャットだったけれど、小遣い帳の自動計算装置を働かせてみれば、その時点での残高は59,800チャットと算出された。差額の500チャット、邦貨にして47.6円がどこに消えたかの記憶は無い。
流石にビジネスクラスだけのことはある。スチュワーデスは離陸して間もなく、明日の朝食は必要か不必要か、必要ならそれは和食か洋食か、朝食の時間に眠っていたら起こしても良いか、それとも起こさないでおくか、という質問表とボールペンを、ひとりひとりの乗客に説明をしながら手渡してくれた。
オフクロの遺したデパスとハルシオンを1錠ずつ飲めば、僕は大抵、直ぐに眠りに落ちて、きっちり4時間後に目を覚ます。朝食が運ばれるころには起きて洗面も済ませているだろう。そう考えて、朝食は必要、洋食、眠っていたら起こして欲しい旨を用紙に記して返した。
僕の肩に手を触れる人がいる。それに気づくまでに隨分と時間がかかったような気がする。目を開くと、オネーサンがスカーフを巻いた首をこころもちかしげて「お目覚めでしょうか」と爽やかに笑いかけた。まわりを見まわせば、すべての乗客は朝食を済ませてくつろいでいる。オネーサンは僕を、時間の許す限り眠らせてくれていたのだ。
デパスとハルシオンを1錠ずつ飲めば、直ちに眠りに落ちて4時間後に目を覚ます。それは僕がエコノミー席で身につけたことで、ビジネスクラスの、ほぼ水平になる席では、その安楽さから4時間を過ぎても眠り続けることを知った。時刻はミャンマー時間の午前2時30分だった。
目の前のディスプレイにフライトマップを映し出すと、機は既にして日本列島の上空にいた。"NH814"は定刻より5分はやい、ミャンマー時間03:50、日本時間06:20に、成田空港に着陸をした。
到着ロビーのベンチで寝てしまい、07:55発のマロニエ号には危うく乗り遅れるところだった。そのマロニエ号の中でも昏々と眠り続ける。柳田車庫には9時45分に、そして会社には10時30分に着いた。
4階の応接間で荷物の整理をするうち、メガネの無いことに気づく。スーツケースやザックのすみずみ、また応接間の床、可能性はほとんど無いに等しい寝室や事務室まで調べても見あたない。メガネを最後に使ったのは、きのうの離陸後の機内においてだ。よって全日本空輸の遺失物係に電話をするも、当該の品は届いていないという。
"LINDBERG"のフレームによる遠近両用メガネは、2010年9月にバンコクからチェンライに飛ぶタイ航空機の中に、また2014年9月にバンコクから羽田に飛ぶ、やはりタイ航空機の中に置き忘れ、いずれも戻ってきた。ビジネス席なら機内係も、より綿密に調べるだろう。それでも見つからなかったとすれば、あの安くないメガネは一体全体、どこに消えてしまったのか。
そうして夜は、きのうヤンゴン国際空港で、財布に残った59,000チャットに3ドルを足して買ったウィスキーをお湯で割り、チーズを肴に飲んで、これを夕食とする。
蓮の繊維を織った布がミャンマーにはあると聞いて、居ても立ってもいれられない気持ちになった。その話を、見ず知らずではあるけれど、このツアーに参加している人たちに話したところ、そのうちの女性ふたり組が、ホテルの売店でそれを目にしたという。
よってそそくさと僕もその売店へ行ってみると、蓮の糸から織ったというその布は、店の真ん中の、もっとも高いところに掛けてあった。幅は手織りの織機の幅、そして長さは6尺ほど。価格は230ドルだった。
すぐそばの説明を読んでみれば、この布は実に、1ヤードを織るのにインレー湖畔に育つ蓮15,000本を必要とするのだという。気の遠くなるような事実はまた、大いにロマンティックである。しかしその、高僧の衣として寄進をされることもあるという茶色の布に触れてみれば、それは隨分と淡く柔らかく、安土桃山の名物裂ではないけれど、とても勿体なくて、普段使いにはできないような品だった。
強さはロマンティシズムに勝つ。僕はきのうの、ミンナントゥ村で織られた木綿のような、ちょっとやそっとでは破れない、それを服にすれば肌が擦り切れ血のにじむような強い布が好きだ。蓮の布は思い出の中に仕舞っておこう。そう考えて7時にホテルを出る。
ミャンマーでは、観光の閑散期には直行便が極端に減る。本日ヤンゴンに戻る飛行機は以下の、まるでバスのような運行予定による。
ヤンゴン → ニャンウー 06:50発 08:10着
ニャンウー → マンダレー 08:25発 08:55着
マンダレー → ヘーホー 09:10発 09:40着
ヘーホー → ヤンゴン 09:55発 11:05着
そうしておとといとおなじATR72-300を機材とする、しかし今日はヤダナーポンエアラインズの7Y131便にニャンウーから乗り、ほぼ時刻表どおりの離着陸を繰り返しつつヤンゴンに至る。
11時45分に案内された寝釈迦のチャウッターヂーパヤーは、僕にとっては見る前から「べつにー」の施設だった。
昼食後の1時間を与えられたボーヂョーアウンサンマーケットでは「タイならそこいら辺にやたらマッサージ屋があるから横になって休めるのになー」と考えつつベンチに座って時間の過ぎるのを待つ。その僕の右側で煙草を吸うオニーチャンの右腕には"I LIFE NECESSARY BY FAMILY"の、そして左腕には"FUCK"の入れ墨があった。
ヤンゴンの街の真ん中にあるスーレーパゴダは、バスから数分だけ降りて眺める。そしてことしベトナムの資本により作られたというショッピングモール"MYANMAR PLAZA"で数十分の散策をする。食料品売り場の店員は、バンコクの、たとえばロビンソン百貨店の店員などよりはるかに親切だった。所得は低くても、気持ちに余裕があるのだろう。
初日、空港から街へ向かう途中で「ミャンマーは英国の植民地であったにもかかわらず、なぜクルマが右側通行なのか」とガイドのシュエイーさんに訊くと「20年前に変わりました」と彼女は言った。「それじゃ答えになってねぇじゃねぇか」と責めることはしなかった。ヤンゴンからネピドーに首都を移すという国家の大事業に際してさえ、この国の為政者は民衆に何の説明もしなかったのだ。
きのう訪れたミンナントゥ村の雑貨屋には、アウンサン将軍とアウンサンスーチーの写真が、その店の入口、加えて上がりがまちの上にも飾られていた。雑貨屋のオヤジは僕とおなじヨチヨチ英語しか話せないようだったから、その場では何も言わなかった。今日、街で話しかけてきた男に「それはさておき、アウンサンスーチーの写真ね、あれ、いつごろから家に大っぴらに飾れるようになったの」と訊いたら「トゥウェンティーテン」と男は答えた。
僕は政治的活動を好む者ではない。右翼でも左翼でも、更には真ん中でさえなく、ただのノンポリである。それでもなお、遺跡や寝釈迦よりは街のオッサンによる「トゥウェンティーテン」の方が何やら面白いのだ。
"B767-300"を機材とする"NH814"は定刻21:45のところ21:48ころ離陸をしたらしい。「らしい」というのは、機がいつ滑走路を離れたか分からないほどの滑らかさだったからだ。
目を覚ますと枕頭の時計は2時42分だった。うつらうつらして4時20分に起床する。旅に出るとよくするように、今朝もポットで湯を沸かし、日本から持ってきたインスタントのスープを飲む。
バンガロー式の部屋を6時30分に出て、手入れの行き届いた庭の小道をたどる。フロントや食堂のある棟まで歩く途中に"Monastery complex build in 13 century,Bagan dinasty period."と案内板に書かれた遺跡がある。森の天然木を伐り残して別荘の庭木の一部とするように、遺跡を取り込むようにして建てられているホテルがここでは少なくない。そんなことをしているから、バガンはいつまでも世界遺産に登録をされないのだ。
ホテルを9時に出て、数キロ離れたニャンウーの街に出る。そして街道から市場に続く道へと折れる。魚屋、干物屋、肉屋。路地に足を踏み入れると、食べるお茶ラペットゥを女の人が盛んにかき混ぜる店がある。そのラペットゥに加えるための豆を売る店がある。
ホテルで朝食を摂っていなければ、この市場の中の食堂でメシを食べたところだ。金物屋、米屋、化粧品屋。竹のカゴやお盆には大いに惹かれるけれど、家の中にモノの増えることは避けたいから勿論、買わない。
調味料のかたわら嗜好品を売る店で葉巻を買う。その向かいのお菓子屋でタマリンドの飴を買う。タナカ屋でタナカの木で作った櫛を買う。英語の話せないタナカ屋の女主人と僕のあいだで通訳をしてくれた、腰巻き屋の女主人からロンジーを買う。
これにて僕の買い物はすべて済んだ。ほかに何かを買うとすれば、それはオマケのようなものである。
そこからパガンビューイングタワーにまわる。遺跡群の中に高く屹立するこの巨大な観光施設は2005年、上級大将タン・シュエの女婿により建てられた。こんなものを作るから、バガンはいつまでも世界遺産に登録をされないのだ。しかしその最上階からは360度の絶景が望め、きのうのシュエサンドウパゴダからの眺めなどは問題にならない。
その展望台からはまた、やはりタン・シュエの女婿が作ったゴルフ場付きのホテルを見おろすことができる。こんなものを作るから、バガンはいつまでも世界遺産に登録をされないのだ。もっとも「金儲けと世界遺産への登録と、どちらがより価値のあることか」と問われれば、僕は明確な答えを持たない。
パガンビューイングタワーからすこし南へ下ったところにあるミンナントゥ村は、タイの北部に点在する、映画のセットのようにして作られたいわゆる「民族村」ではなく、住む人の普通の暮らしの見られるところだ。
ひとけの無い土の道を歩いて行けば、いきなり、畑での午前の仕事から家に戻ろうとしている牛車に出くわす。雑貨屋にはアウンサン将軍とアウンサンスーチーの写真に、学校を出て看護師になった自慢の娘の写真が飾られている。大きな壺には、ジャイカの掘った井戸から水を運ぶのだという。
更に歩いて行くと、綿を紡いで太い糸にしているオバサンがいた。おなじ屋根の下には2台の機があった。織られた布は、おばさんの脇の机に積み上げてあった。綿よりも麻にちかい触感で、それはテーブルクロスなのだという。テーブルクロスに用は無い。しかしその机をまわりこんでいくと、そこには正に、オバサンの紡いだ太い糸を、おなじ場所の機で織ったらしい長い生地が幾重にも折られてあった。まるで醤油のもろみを絞る袋のような分厚さ、荒々しい手触り、風合いで、正に僕ごのみの布である。
しかし冷静になってみれば、この古拙の風を強く残した布を買って帰っても、皮膚が擦り切れてしまうだろうから服にはできない。機の幅しかないからベッドのシーツにもできない。結局のところ、それを買うことはしなかった。
昼食を摂った店は、まるでランナー王朝時代の民家のようだったけれど、訊けばこれは、ミャンマーの伝統的な建築とのことだった。
ホテルの部屋に戻り、今日の買い物を机の上に広げてみる。僕は本来、買い物は好まない。だからといって、土産を買わないわけにもいかないのだ。ところで僕の買うものは現地色が強いため、平均的な日本人には喜ばれない。それを知りながら、しかし自分の買い物の傾向を変えることはできないのだ。
夕刻、オールドバガンの城壁のすぐ外、まるで砂浜のような船着き場にバスで運ばれる。目の前のイラワジ川は、河口から千数百キロを遡ったここでさえ、2キロから4キロの川幅を持つ。そして舟に乗って1時間と少々を、夕陽の鑑賞にあてる。
夕食は、この国の伝統的な操り人形を見せる店でのものだった。日記が長くなるからこれ以上は書かない。ミャンマーの人形劇に興味のある人は、瀬川正仁著「ビルマとミャンマーのあいだ」(凱風社刊)76ページからの「マリオネット文化」を読んで欲しい。
昼にニャンウーのマーケットで買った葉巻を、夜、宿のベランダで吸ってみる。火の付いたままの灰が盛大に散る。服に落ちたそれを払いつつ、何十分もかけて吸う。美味いかと問われれば答えに窮するけれど、何十分も楽しめることを考えれば、これはとてもに安い買い物だった。
入浴をしながら念入りに足を洗う。そして22時30分に就寝する。
目を覚まし、しばらくしてからサイドボードに載せたiPhoneのホームボタンを押すと、時刻は2時を1分か2分だけ過ぎたところだった。きのうの就寝は21時30分だったから、4時間30分しか眠っていないことになる。二度寝を試み、無理を悟って3時30分に起床する。
きのうの日記をほぼ書き上げ、またfacebook活動などをするうち5時30分になる。ここで荷物をまとめ、服装を整え、靴を履いて1階の朝食会場に降りる。
07:00 ロビー集合
07:05 ホテル発
07:35 ヤンゴンドメスティックターミナル着。団体客の荷物はまとめて計量される。
07:50 手荷物検査を経て出発ロビーに入る。
08:25 搭乗開始
08:38 "ATR72-600"を機材とする定刻08:45発の"Y5-104"が離陸。航空会社はゴールデンミャンマーエアラインズ
09:55 バガンが近づくに連れ機は強風に煽られ、うねるように揺れる。
09:57 定刻より8分はやく"BAGAN NYAUNG OO AIRPORT"に着陸。
10:30 11世紀に建立されたシュエズィーゴォンパヤーを見学
11:05 13世紀に建立されたティーローミィンロー寺院を見学
11:30 11世紀に建立されたアーナンダ寺院を見学
11:59 12世紀に建立されたタビィニュ寺院を見学
僕がインドシナから中国にかけての寺の見学にそっけないのは、そこに置かれた仏像が、ともすればペンキで塗り立てられ、場所によっては電飾まで施されて安っぽいからだ。有名な寺院になれば、その参道はおろか堂宇の中にまでつまらない土産物を置き、有象有象がよってたかってメシの種にしようとしているからだ。そのくせ寺の中は基壇から回廊に至るまでホコリだらけの汚れ放題で、寺に対する関係者の愛情が感じられないからだ。バガンの大どころも、残念ながらその例に漏れない。
森の中に綺麗な道を切り拓いた先の、木の床と竹吹きの屋根の涼しげな店で昼食を摂るうち、先ほどまでの、傘を差さなくても済むほどの雨が幾分、強くなる。
今日から2泊するホテル"Bagan Thiripyitsaya Sanctuary Resort"は、イラワジ川を見おろす丘に建つ、手入れの行き届いた庭にバンガロー式の客室の点在するところだった。14時をすこし過ぎたころ、その一室に落ち着き、きのうの日記の最後のところ、そして今日の日記の3分の1ほどを書く。
16時にロビーに集合をする。このツアーの一行は13名。その全員がバスに乗り、先ずは漆塗りの工房を訪ねる。こう言っては身もフタも無いけれど、漆塗りは日本のそれが一番と感じている。かてて加えてウチにはおじいちゃん、オヤジ、オフクロの買い集めた膨大なガラクタが溢れている。海外から「モノ」を買って帰る欲は、僕には一切、無いのだ。
17時30分、シュエサンドウパゴダの前でバスを降りると、物売りが一気に殺到してかしましい。この大きな仏塔の北側から人の行くことのできる最高層まで登りつめると、その南側には特に、恐ろしいほどの強風が吹いていた。腰をかがめつつ、狭いテラスをふた回りする。世にも有名な仏塔群が見渡す限り続いている。それはまた、僕には猫に小判の風景でもある。
その信じがたい規模、森の中から発掘されたその神秘性により、アンコールワットには心底、圧倒された。石を精密に彫刻すること、それを組み上げ巨大な仏塔とする技術により、ボロブドゥールには一驚を禁じ得なかった。それらと共に世界三大仏教遺跡の一翼を担うバガンの寺院および仏塔群は、その物理的な存在よりも「仏教を信じる心の深さ×仏教を信じる人の数×仏教を信じてきた歴史の長さ」という目に見えないものの総量こそ、内外に誇ることのような気がする。
9世紀、王宮を防備するためビンビャー王が築いた城壁の、東側に開いているのがダラバー門だ。僕は寺院よりもこのようなものに興味がある。そのダラバー門はバスの車窓からチラリと眺めたのみにて、その門前のレストランに入る。
夕食の後はホテルに戻り、シャワーを浴びて本を読む。そして21時に就寝する。
04:30 クルマにて自宅を出る。
05:50 マロニエ号に乗り柳田車庫を発つ。
07:56 成田空港第一ターミナル着
08:55 全日本空輸のラウンジに入る。
10:35 搭乗。ヤンゴン国際空港のコードが"RGN"であることを知る。
11:23 "Boeing767-300"を機材とする定刻11:00発の"NH813"が離陸
14:00 上海市上空を通過
15:35 広州市上空を通過
16:35 ハノイ上空を通過
17:30 ピサヌローク上空を通過
成田空港を発ってからミャンマーの領空に達するまでほとんど、下界は雲に覆われていた。その雲の中を揺れつつ降下していくと、ことし1回目の収穫を終えたらしい田が、水を湛えて広がっていた。そして定刻より10分はやい日本時間18:00、ミャンマー時間15:30、機はヤンゴン国際空港に着陸をした。先ほどの「天候は曇り、気温は30℃」との、機長によるアナウンスを思い出す。
バゲージクレームに荷物が出てくる前に壁沿いの両替所を見ていくと、1ドルに対して1,180チャット、1,185チャット、1,187チャットと、それぞれレートが違う。よって1,187チャットを示したブースに50ドル札2枚を出すと、1,187チャットは100ドル札の場合であって、50ドル札なら1,130チャットであることを、係は一覧表を指し示して僕に教えた。よってここで両替をすることは止め、スーツケースを曳いて到着ロビーに出る。
今回の旅はクラブツーリズムによる「全日空ビジネスクラスで行く世界三大仏教遺跡バガンの絶景ミャンマー5日間」というツアーに相乗りをした、業界の親睦旅行である。
ロビーに待ち受けた現地旅行者の添乗員はシュエイーさん。彼女の旅行社が客のために用意している両替のレートを訊くと1ドルが1,050チャットだという。よってすぐちかくの、1ドルあたり1,185チャットを提示した両替所で50ドル札2枚を114,500チャットに替える。僕のドルの交換レートからすれば、100円あたり1,050チャット、ということになる。
送迎バスは空港からインヤー湖を左手に渋滞の中を南下していく。英国の植民地であったにもかかわらず、なぜクルマが右側通行なのかをシュエイーさんに訊くと「20年前に変わりました」と彼女は手短に答えた。質問と回答がずれているにもかかわらず「あぁ、そうですか」と納得してしまう僕も情けない。
ヤンゴンの街を往くクルマは、そのほとんどが日本製だ。右ハンドルつまり左側に乗降口のあるバスが右側を通行すれば、乗客は必然的に、歩道側ではなくセンターライン側の、つまり歩行者の都合などお構いなしの、現地のクルマに身をさらしつつの乗り降りになって大層、危険である。
そうして着いた"ROYAL THAZIN RESTAURANT"ではバスの助手、シュエイーさん、レストランのボーイの誘導により道を渡る。料理は香草の使い方が抑え気味で、ベトナムやタイのそれより日本人には食べやすい。
夕食が早かったから、ヤンゴン随一の名所シュエダゴォンパヤーのそそり立つシングッダヤの丘のふもとには、18時前に着いてしまった。靴と靴下を預けてエレベータで上った渡り廊下には、下界とは異なる涼風が吹き抜けている。
高さ99.4メートル、基底部の周囲433メートルという巨大な仏塔の建つテラスは大理石で、今しがた止んだばかりの雨に濡れていても温かい。地元の参拝客のほとんどは、この仏塔を右繞している。それに対して我々は左巻きに案内をされているのが、何となく恥ずかしい、あるいは御利益が減ずるのではないかと心配になる。
ミャンマーの伝統歴による「八曜日」によれば、僕の生まれた木曜日の象徴はネズミだという。その木曜日の祭壇に500チャットを奉納し、仏像に3杯、その守護神に2杯、そして石の床にうずくまるネズミに1杯の水を、シュエイーさんに教わった通りにかける。仏塔全体は、18時の時報と共に灯りに照らされ始めた。
ホテルはシュエダゴォンパヤーからほんの10分ほどのところにあった。ロビーで手渡されたカードキーは308号室のものだったけれど、どうにも開かない。すると遠くでやはり、部屋に入れないでいるオバサンがいた。折良くスーツケースを満載した台車を押してきたベルボーイに経緯を話すと、ボーイは僕の308号室の鍵でオバサンの立っている317号室の扉を開け、オバサンの持つ317号室の鍵で308号室の鍵を開けた。
317号室に落ち着いてwifiを繋ごうとすると、どうしても撥ねられる。何度か試行錯誤をしながらIDの317を308に変えると回線は呆気ないほど簡単に開かれた。日本の、脳の退化により導火線の短くなった年寄りであれば、これだけのことで激高し、憤死してしまうのではないか。しかしここは東南アジアである。
時刻はいまだ19時30分。よってgoogleマップで現在位置を確かめた上で外へ出る。そしてヤンゴン中央駅を目指してスーレーパゴダ通りを下っていく。駅のちかくには繁華街があるだろうと踏んでのことだ。しかし跨線橋から見おろした駅舎は薄暗く、その表に賑やかな夜市が広がっているようにも思われない。よってボーチョーアウンサン通りに出たところで引き返し、ふたたび跨線橋を渡る。
映画館タマダーの裏に飲み屋のあることは、ホテルを出た直後に気づいていた。その飲み屋の冷蔵庫からビールとおぼしき缶2本を1,400チャットで買う。そしてスーレーパゴダ通りの反対側に見える屋台に近づいていく。そこは豚の臓物をシャブシャブにして売る店だった。
中国西域の串焼き屋やベトナムのフォー屋の腰かけよりはよほど座りやすい椅子に座り、飲酒活動を始める。と、ビールとばかり思っていた飲み物が馬鹿に甘い。"SHARK"とい銘柄のそれはビールではなくエナジードリンクだった。
店にたむろする男にビールは買いに行けるかと訊くと安直に応じてくれた。大瓶1本が5,000チャットというから隨分と高いけれど、文句は言わない。そうして楽しく飲み食いをして勘定を頼むと、細い竹串の先に豚の小さな臓物片を刺したもの22本で10,000チャットと言われた。大層な外人価格ではあるけれど、遊園地のアトラクションと思えば我慢もできる。
部屋に戻り、なぜかお湯は出ないから冷水シャワーを浴びる。カーテンを巻き上げると、外には激しい雨が降っていた。そして21時30分に就寝する。
目を覚まして部屋の、白い壁や焦げ茶色の引き戸を見るともなしに見る。それらが水底にあるように青みを帯びていれば、今なら時刻は3時台の最後のころと分かる。しかし今朝は墨汁の中にまぎれたように、すべては暗い。手探りならぬ足探りで床のサンダルを引き寄せて履き、洗面所に行くと時刻は2時57分だった。
5時に雑炊を食べ、階下に降りる。そしてきのう用度品を積み込んでおいた三菱デリカに、今朝は冷蔵庫から商品を運んで載せる。そして長男と共に宇都宮を目指す。
JR宇都宮の駅ビル「パセオ」の通用口には6時20分に着いた。冷蔵ショーケースの装飾を頼んだ専門家3名は既にして、木製の重厚な飾り板と共に我々を待っていた。物産店「宮源」の担当者の到着したところで全員が入店証を首から提げ、エレベータで2階に上がって無人の店内を抜けていく。
開店の8時が間近になるころようやく、ウチの売り場は整った。種々の計算や予測はしたけれど、始めてみなければ分からないことは無論、多々ある。お客様に愛され、成功が収められるよう、色々と考え、行動していきたい。
旅が短ければ荷物も少なくて済む、というものではない。特に海外へのそれにおいては、たとえ短い日程であっても、必需品の数は変わらない。持ち物の一覧表は、きのうコンピュータから出力をした。
今回は97行になったその表に従って早朝、パスポートやドルは金庫から、衣類は寝室のチェストから、薬は本棚の下の引き出しから、ザックやショルダーバッグは階段室から、という具合に集め、応接間のテーブルに開いたスーツケースに収めていく。
出発の前夜または当日の朝にならなければ荷造りできないもの、つまりメガネやコンピュータは、忙しい最中に忘れることのないよう、ピンク色の蛍光ペンでなぞっておく。
あさってからのミャンマー行きは業界の親睦旅行だ。日本の旅行社による企画の常として、短い日程にあれもこれもと詰め込んであり、3泊4日のうち弁当を持って空港に朝駆けをする日が2日もある。水着も一応は持ったけれど、プールサイドで本を読むヒマがあるかどうかは不明である。
何しろ携帯電話を持っていないから、時間を決め待ち合わせをした人に「スミマセン、あれこれあって、すこし遅れます」などと許しの請える状況にはない。本日、何時にどこへ行って、そこからどこへ移動し、どこそこまで戻る、そういう予定は地下鉄の中に立ったままでも読めるよう、オレンジ色の紙に青いフェルトペンで大きく書き、シャツの胸ポケットに入れてある。
丸善の丸の内本店に入ったのは多分、10時よりすこし前のことだ。その4階で、ムーブメントを交換された"MONDAINE"を受け取る。そこから銀座のアップルショップに回り、いまだ手に入っていない"iPhone 6s plus"のカバーを買う。更に根津、小川町、連雀町と歩く。経路が合理性を欠くのは、目的の数ヶ所に時間の制約があったからだ。
淡路町から本郷三丁目まで丸ノ内線に乗り、龍岡町ちかくまで達して、およそ2ヶ月ぶりの"MONDAINE"に目を遣れば、予定より30分ほども余裕ができている。よって早々に甘木庵に入ってダイニングキッチンで本を読む。
ここ何年も動いていないエアコンディショナーの具合を見てくれる業者が来たのは、約束の時間より7分ほども前だった。専門の3人は長いことかかって室外機に処置を施してくれた。
何やら疲れて歩く気がしない。とはいえ短い距離にタクシーの初乗り運賃を使う気もしない。折良く近づいてきた都バスに湯島4丁目から乗って天神下を目指す。
同級生サカイマサキ君を偲ぶ会も含めれば、この8日間で、通夜や告別式に4回も参列をしている。齢を重ねても老いて見えず元気だった人、明るく笑って声をかけ合った人、月に何度も顔を合わせて飲酒喫飯をした人、そういう人たちが目の前から突然、消えるようにして亡くなっていく。
特別に不摂生をしたわけでもない、あるいは僕などよりよほど健康に気づかい、長命に資することに励んできた、そういう人たちが平均寿命より早くに亡くなっていくことが、どうにも腑に落ちない。
亡くなる人は何をしても亡くなるし、長生きをする人は何をしても、あるいは何もしなくても長生きをする。それは分かっているつもりだけれど「しかしなぁ」という気持ちは拭いきれない。
そいういえば今朝、僕の行動範囲にある未知の居酒屋から初回の注文をいただいた。夏が終わる前に名刺を持って訪ねてみたい。初っぱなの肴はげそわさ、酒はチューハイと、今から決めているのだ。
毎朝、不必要なほど早い時間に目が覚める。だから枕元に目覚まし時計を置く習慣は無い。寝過ごすことで問題の発生するときのみiPhoneに目覚ましを設定する。しかし今はそのiPhoneが無い。よってきのうは洗面所から安い時計を寝室に持ち来て床に置いた。
今朝は、その時計が音を発するより1時間数十分ほども前に目を覚ました。そして着替えて食堂の机で本を読む。あるいはまた夜明けの空を眺めている。しかる後に製造現場へ降りて早朝の仕事に従う。
日光の地野菜を朝のうちに日光味噌のたまりで浅漬けにする「たまり浅漬け」は、このところは胡瓜と「しその実のたまり漬」と和唐辛子でお作りしている。そのための胡瓜を「JAかみつが今市」の直売所で8時に手当てして帰ると「そんなに作っても売れるわけないでしょ」と、これを調理する係の家内が言う。だから「売れぬは人の売らぬなりけりだ」と答えて僕は平気な顔をしている。
その「たまり浅漬け」は、昼すぎには売り切れてしまった。明日は更にたくさんの胡瓜を仕入れてこなくてはならない。
業界の総会を宇都宮で終え、その帰りに器の「たまき」に寄る。そして店主のタマキヒデキさん、奥さんのマサコさんと20分ほど意見交換をして、13時30分に会社に戻る。すると店舗にカメラが入っていた。
きのうの午後、所用があってすぐ近くまで出かけ、春日町の交差点まで戻ったところで、店の内外にカメラや三脚やマイクをたずさえた、少なくない人たちが見えた。果たしてその一行は、テレビ番組の取材班であることを、販売係のサイトーエリコさんが事務室まで来て教えてくれた。
僕も空気の読めないたちだから、そのまま事務室にいると、主役らしい女の人が、店と事務室を仕切るガラス越しに頭を下げる。よって店に行き、その女の人、また相棒らしい男の人の相手をした。
一行が去ってから複数の社員に説明をされたところによれば、たまたま僕も家内も長男も出払っているところに大勢のテレビ関係者が来たから大慌てをした。それは、旅の道中で出会った人に土地のおすすめスポットを教えてもらい、その場所をいきなり取材する「聞き込み! ローカル線 気まぐれ下車の旅」というBSジャパンの番組で、視聴率もなかなか高いらしい。
今日のカメラはきのうの取材班の、ディレクターと撮影隊のみが再度、店舗の内外や商品を丁寧に撮りなおすためのものだった。
それにしても、東武日光線の上今市駅で降りたテレビの人たちに「このあたりのおすすめスポットは、たまり漬の上澤梅太郎商店」と言ってくださった方はどなただろう。酒の4、5杯も、ご馳走をさせていただきたい気分である。
1日の中で、空が最も美しくなる時間は季節と共に変わる。今なら3時台から4時台に移りつつある、ほんの短いあいだがその頂点ではないか。そんなことを考えつつ、その空の写真を1枚、撮る。
早朝の仕事の合間に外へ出ると、真っ先に届いていたのは日本経済新聞だった。第40面の「私の履歴書」は、先月の中原誠から松岡功に替わった。その松岡による今日の独白、というか記事というか、何というか、そこに「いまでも読書には特別の興味がない」という1行を見つけて「なるほど」というか「へー」というか、何というか、軽く得心をする。
人と生まれたからには本は読むべし。本を読むことは褒められるべきこと。本を読む習慣を是非、身につけたいもの。という風潮というか常識というか考えのようなものが世の中にはある。本当にそうなのだろうか。
僕は本の虫ではあるけれど、本を読む行為については、生産性に欠けた、つまらないことと認識をしている。本を読む人間よりも、路傍の雑草の1本も引き抜く人間の方がよほど高級と感じている。だから今朝の「私の履歴書」の「いまでも読書には特別の興味がない」の1行には、軽く膝を打ちたくなったのだ。
店舗入口右の季節の書を、家内、販売係のハセガワタツヤ君と共に、これまでの「麦笛」から「萬緑」に替える。僕のもっとも好きな季節は盛夏ではあるけれど、6月の、梅雨に入る前の晴れた日も大好きだ。
この萬緑のときには、1冊の本をたずさえ、列車に乗って、どこまでも行きたい。読んでいた本から視線を上げ、窓の外に目を遣れば、田や森や山は萬緑、また萬緑。そういうことを、今はしたい。
"iPhone 5c"のディスプレイの輝度が一瞬にして落ち、目に見えないほど暗くなったのは先月14日のことだ。4日後の18日にdocomoショップへおもむき"6s plus"への機種変更を申し込むと、納期は1週間後と伝えられた。
それから9日を経た27日になっても連絡が無いため問い合わせると、当該の品はいまだ届いていない旨の説明を受けた。そして今日は、はじめ伝えられた日からちょうど2週間目に当たる。よってまたまたdocomoショップに電話を入れる。
先日より少し詳しく調べたらしい今日の係員が言うには、5月18日に為されたはずの"6s plus"の注文が、なぜか消え失せているという。
赤ん坊のおしゃぶりのようにスマートフォンの手放せない中毒患者ではないものの、2週間もこれを欠いては流石に不具合が出てくる。今月の第2週にはミャンマー行きが控えている。第4週にはタイ行きが控えている。壊れた"5c"を修理し、いつまでも届かない"6s plus"はキャンセルする、ということも考えなくてはならない。
夕刻より銀座に出る。そしてまるで佐田啓二と岸恵子のように携帯電話を持たないまま人と待ち合わせ、夕食を共にし、浅草21:00発の下り最終スペーシアで帰宅する。