長男と次男との3人でホンダフィットに乗り、朝6時40分に家を出る。日光街道を北上し、松原町の交差点を右折する。大谷川を渡って霧降高原への長い坂道を上がり、途中のY字路を左へ進んで別荘地に入る。いまだ暑熱の残るころに予約をした牛肉を受け取るため、大晦日には霧降のステーキ屋「グルマンズ和牛」へ来る。
昨年よりも出発が20分遅れたためか、あるいは昨年よりも客の増えているせいか、道に渋滞するクルマの数も、受付をする棟に並ぶ人の数も、昨年より随分と多い気がする。僕はよその家の迷惑にならないよう、裏道の、雑木林に面したところにクルマを停めた。
受付を済ませた客には軽食が振る舞われる。今朝のそれはビーフメンチカツのホットドッグとベーコンの香り高いスープだった。
きのう降った雪の影響ではなく、客の多さによるものだろう、店の前の道にはますます多くのクルマが連なり、その中の、しびれを切らした中年男が店の人に「どうにかしろ」と詰め寄っている。
「大晦日の早朝に」「絶対値としては安くない牛肉を」「大勢の人が行列も厭わず受け取りに来る」理由を考えてみれば、それは店主はじめ店の人の客に対する歓待や厚遇のほかに「店にとっては決して儲からない価格設定」があると僕は思う。
「この1年間のお客への感謝」という意味合いの「トク」を享受するのであれば、すこしばかり待たされたくらいで店の人に詰め寄るなどは野暮の骨頂である。
そして当方はさっさと山を下り、今年最後の仕事に臨むべく、開店前の会社に戻る。
ようよう明るんできた朝の空は快晴だった。しかしその空も、第1パドックのコントロールタワー下でドライバーズミーティングの開かれるころには、英国であればさしずめ「ラグビー日和」と呼ばれるような、どんよりとした曇り空に変わった。とても寒い。
本日の阪納誠一メモリアル走行会には古いクルマ40台が集まり、9時30分からの出走を待っている。僕のサーキットに出て行ける時間は9:30から9:55、10:30から10:55、11:30から11:55の75分間に限られる。午後にもおなじ時間が確保されているが、僕は都合により昼でこの場を去らなくてはならない。
"BUGATTI 35T"の助手席左膝のあたりには、シート後部のタンクからエンジンへガソリンを供給する銅製のパイプが複雑に組まれている。このパイプ上で燃料の流れを制御するバルブに不具合があり、第1回目の走行では、僕は第1コーナーの手前100メートルのところで操縦席を離れることになった。
そのバルブの、どうにか機能する角度を見つけた"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんからクルマを手渡された第2回目の走行では、クラッチの具合がひどくおぼつかなく、ピットへ帰る途中のピットロード入り口から、またまたレッカー移動を受けてしまった。
このクルマを走らせる機会は1年に1度しかなく、その1度しかない日にこの調子ではどうにもならない。他のクラスのクルマの走っている30分間に、タシロさんはふたたび狭い車内に上半身を突っ込み、今度はクラッチの調整に取りかかった。
"BUGATTI 35T"を真冬に操縦しても、寒さを感じることはほどんとない。それはスカットルからの熱と、もうひとつは精神の熱狂によるものと思われる。しかし今日はさすがに寒い。空からはいつの間にか雪さえ落ち始めた。
そうして臨んだ本日3回目の走行は僕にとって最後の25分間であり、ここでクルマの調子が上向かなければ、この84年前のグランプリカーを1年のあいだ維持してきた意味がない。そして"BUGATTI 35T"はよみがえった。
第1コーナー出口でスピンした黄色いロータスを避け、それを振り返った後はずっと、僕はこの駻馬に鞭を与え続けた。雪の中でも直線路では速度は落とさない。第1コーナーも、普段の3速2700回転で危険を感じることはない。ただし西コースの最終上りコーナーでのみ、オリジナルの細いタイヤを履いたブガッティは常に尻を外側へ振り出して滑った。
雪はますます激しく、先ほどまで轟音を轟かせつつ疾走していた赤や黄色や緑のクルマはすべてパドックに消えた。ホームストレッチの信号灯は消え、しかしチェッカーフラッグは振られない。「もう走行会は終わったのだろうか、オレは空気の読めない人間なのだろうか」と考えつつ、折角調子の上がったクルマを降りることはあまりに惜しい。
クラッチカバーに押し当てた左の脛が火傷しそうに熱い。そうして更に数周ほどもすると、横なぐりの雪に煙った数百メートル先にようやく白と黒の市松模様が見えた。僕は第1コーナーこそ普通の速度で抜けたものの、バックストレッチは4速の2500回転付近でゆっくりと走り、そしてパドックへと戻った。小さなウインドスクリーンには雪がこびりつき、それを透かして正面を見ることはできなくなっている。今日はこれで満足だ。
オフィシャルと参加者の話し合いの結果、午後の走行は中止となった。僕は慌ただしく昼食を摂ってすぐにパドックを出る。そして午後2時すぎに帰社して仕事に復帰する。
三菱シャリオに乗り、"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんが運転するトランスポーターの後について会社を出る。時刻は午後4時19分だった。
ツインリンクもてぎまでの道のりを僕は覚えていない。右折や左折すべき要所に差しかかるたび、助手席に置いた紙を取り上げ、現在時刻と距離計の数字、そしてその交差点の名前あるいは特徴をメモする。生まれてこのかた"car navigation system"は使ったことがない。
そうして6時に「ホテルツインリンク」に到着する。明日はここのサーキットで「阪納誠一メモリアル走行会」が行われる。
部屋でメレルの靴をレーシングシューズに履き替え、懇親会の開かれるバンケットルームへ移動する。オフィシャルの紹介や挨拶が7時過ぎに完了すると同時に、庭に面したガラス壁のカーテンがしずしずと上がる。その向こうには3台の古いクルマがあった。僕は庭へ出てそれらの写真を撮り、また中へと戻る。
二次会などには出ず、持参した本を読んで11時に就寝する。
子供のころ、社員のコイズミさんの家族に連れられ、コイズミさんの親戚のフジワラさんの家まで餅つきの見物に行った。それは暮の28日だったと記憶する。その28日は、社内のあちらこちらに正月の飾りを施す日でもある。
朝、店舗や事務室の、拭き掃除の済んだ壁や柱に熊手や柱飾りを取り付ける。お客様からいただき当方で額装した「謹賀新年」の書も、店舗の柱にかける。「久埜」から届いた鏡餅は30日に飾ることとし、寒いところに保管する。
この3日のうちの2日ほどは、夜の早い時間に茶臼山の麓の「長久温泉」へ行っている。内湯へは入らず露天風呂に直行して、山の雑木林や空の星を眺めている。オリオン座は南の空の低いところにある。そのオリオン座が、今夜はおとといほど明瞭に見えない。温泉を去るころ、空には一面の雲がかかった。
温泉のお湯は自宅の風呂の湯とは違って、上がった後も長くからだが温かい。夕食の鍋を前にして、普段は飲まない、町内の集まりの際に手渡された缶チューハイを飲む。
日光の山が日の光を浴びて紅に染まっている。このところ毎朝のように望める景色だ。雲はどこにも見当たらない。
正月の飾り付けは通常12月の28日または30日に行う。僕は29日の午後から30日の昼まで会社を留守にする。30日の午後には「日光の美味七選」の荷造りがある。そういう次第にて、できることは今すぐにしておく必要がある。
次男は22日に帰宅し、きのうからは同級生のスエイシ君が遊びに来ている。よってふたりには朝から神棚の、続いてお稲荷さんの掃除をしてもらう。ふたりのお陰にて、2個所とも9時10分には綺麗になった。
次男の誕生日の晩には次男の同級生タカマツヨッチの家へ河豚を食べに行く。本日もその恒例に則り、僕はひれ酒を4合ほども飲む。ヨッチの家は如来寺のはす向かいにある。「ひれ酒の似合う寒さや寺の杜」である。
社員への給与は毎月20日締めの28日払いと、就業規則には書いてある。ところが実際の支払いはなぜか昔から、規則より1日早い27日に行われている。その理由は僕も知らない。
今月はその振込手続きを22日に行ったところ、休業日の関係により、引き落としが可能になるのは28日と、銀行の当該ペイジには表示された。手続きから5日後の27日になっても相手の口座へ入金されないとは片腹痛い。
よって僕は直ぐにその旨を紙に書き、更に「お金の足りない人は申し出てください」と加えて社内の掲示板に貼り付けた。
今日まで申し出てくる社員のいないのは、みな堅実な家計を運営をしているためだろう。そして社内でいちばんお金の忙しいのは僕である。銀行から密かにお金をおろすと、まるでそれを待っていたかのよう思いがけない請求が舞い込むのだ。不思議という他はない。
このところ晴れの日が続いている。日光の山は日々その白さを増しているが、大雪というほど降雪はない。店舗前の季節の書は現在「冬耕」で、朝、駐車場を見回りながらその写真を撮る。
門松が届く。神棚の縄飾りも届く。ミカンの縛りつけてある縄飾りは即、会社の中の寒いところへと運ぶ。神棚とお稲荷さんは次男が28日に掃除をするだろう。
今月30日に出荷をする「日光の美味七選」について、これが当日になってから何らかの齟齬を来すようなことになってはいけない。よって確認すべきことや念押しを、 各々の製造元へ電話やメイルで行う。
夜、オフクロと家内と次男との4人で"Finbec Naoto"へ出かけ、クリスマスの料理を食べる。
きのうの日記に「"few"は『少数の』と学校では教わった。"a few of"は『2、3の』と学校では教わった」と書いたところ、それを読んだらしい同級生のウィルソン君がアメリカから以下のメイルをくれた。
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a few は“いっぱい”“たくさん”,few は“ほとんど ない”と思ってください。
A few of them liked it:大半が好きだった。
Few of them liked it:ほとんどのひとがこのまなかった。
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日本の「多少」は「少し」の意で、しかし中国における「多少」は「多少楼台烟雨中」の例を引くまでもなく「多い」の意であるとは知っていた。しかし"a few"が「たくさん」などとは、僕は中学校では決して習った覚えがない。
英語の古語では"a few of"は「2、3の」の意味であり、それが日本の英語教育の中で生きながらえてガラパゴス化した、という推測は成り立たないだろうか。長男が帰宅したら訊いてみようと思う。
アメリカ軍が北ヴェトナムへの爆撃を開始し、海兵隊がダナンに上陸した1965年に録音された、"the Supremes"のクリスマスソングを聴いている。
"few"は「少数の」と学校では教わった。"a few of"は「2、3の」と学校では教わった。しかしこのアルバムの中の"My favorite things"の歌詞を聴く限り"a few of"は「2、3の」でもない。多分「ネイティヴにしか分からないニュアンス」があるのだろう。
それはさておきこのアルバムを形づくる「主だった人」は当時アイドルだった"the Supremes"のみで、他の演奏者は「詠み人知らず」のように扱われている。だからどんなバンドがバックをつとめているのか、そういうことはライナーノーツを読んでも分からない。
なぜこのようなことを書くかといえば前出の"My favorite things"と賛美歌112番もとい"Joy to the world"のドラムスが、もう滅茶苦茶に格好いいのだ。原盤は"Motown"だから多分、ジョージ川口ではないと思う。
日光の二荒山神社から「平成辛卯二十三年」の暦が届いたので早速、自分の九星である八白土星の項目を見る。
「本年の八白土星は…」という冒頭からすらすらと読み進んで終わりのあたりの「たまにはのんびりと趣味や旅行などを楽しんで英気を養うことも必要です」というところに目が留まる。そして「のんびり旅行といったらどこいらへんだ、キリマンジャロとか?」というようなことを考える。
キリマンジャロへ行くとしたら持参する本は当然ヘミングウェイの「キリマンジャロの雪」だろう。しかし「のんびり」な旅行では1冊の本はすぐに読み終えてしまう。「あるいは『日はまた昇る』も持参してパンプローナへ回る手もあるな」というようなことを考える。
まぁ、無理を承知の妄想、である。
目覚めて洗面所へ行くと、北西に面した窓がやけに明るい。「月だろうか」と考えつつ窓を開けると、いまだ明けていない空に日光の山々がうっすらと見え、その稜線ちかくまで降りた月が煌々と光っていた。
朝食を済ませて事務室へ降り、カレンダーを見て初めて、今日が旧暦の11月16日だったことを知る。
「月を見れば大体、旧暦の日にちが分かる」と、おばあちゃんは言っていた。僕も「今日は旧暦で14日か15日か16日だ、多分」くらいは言えるが、それ以外の月については皆目見当もつかない。
きのうに引き続いて電話がひっきりなしに鳴り、仕事ができない。「それも仕事のうちだろうが」と叱られるなら「電話を取る以外の仕事ができない」と言い換えよう。その繁忙もクリスマスの頃までではないか、と予想される。
電話以外は静かな年の瀬、である。
"twitter"の大海を逍遙していて松岡正剛のアカウントに行き当たった。先月下旬のことだ。そのときのフォロワーは本人の高名に反してたかだか数十人だった。現在ではそれが3,000人に達している。
松岡のフォローしている2人が鳩山由紀夫と成毛眞とは不思議な気もするが、これは松岡にツイッターの開設を頼まれた誰かが初期設定の際に便宜上行ったものではないか。そして松岡は11月22日、初ツイートに引きつづきもうひとつ「千夜千冊ーアンチ資本主義宣言https://www.honza.jp/senya/1391」という、ツイートの範疇には入りそうもない案内を最後として以降、ツイートはしていない。
「文章上手のツイート下手」とは友人マエザワマコトさんが数ヶ月ほど前に僕に書き送ったことだ。その言わんとすることは良く理解できる。
若いときは酒といえばビールかワインしか飲まなかった。燗酒は立ち上る匂いを嗅いだだけで吐き気がした。冷やや常温の日本酒は飲めたが美味いと感じたことはなかった。乙類の焼酎も匂いが気になって飲めず、強い蒸留酒であればブランデーは飲めてもウイスキーは苦手だった。
ところが年齢が長ずるに従って日本酒は燗でも冷やでも美味くなり、米や芋や麦の焼酎を好きになり、遂にはウイスキーも飲めるようになった。ウイスキーは生またはお湯割りで飲む。
「食事に合わせて小うるさくワインを選ぶなどはスノッブの所行であって鼻持ちならない」とする人たちが、食中の酒はすべてウイスキーで通すことを始めた。20年ほど前のフランスでのことだ。しかしそのようなことをするフランス人こそ却ってスノッブ、というような気がしないでもない。
食中はすべてウイスキーで通すという、このフランスで起きた潮流は、結局はごく一握りの人たちの自己満足で終わったらしく、その後のことは聞かない。
ところでビーフシチューや、グレイビーソースをたっぷりかけまわしたビーフハンバーグステーキなどには、僕はワインよりもウイスキーを合わせる方が好きだ。そして今夜も、まるで中国西域の砂漠から発掘されたような薄緑色の酒器を茶箪笥から取り出し、それでウイスキーのお湯割りを飲む。
朝、業界紙を読んでいて「鍋派も焼肉派も大満足」という見出しが目が留まった。ジンギスカン鍋の中央に湯を満たした小さな丸鍋の乗った写真が記事には添えられている。「ムーガタ」の日本版ついに登場、である。
1980年8月、"Laguna-Seca"へ行った折、アメリカ西海岸のどこかで僕は焼肉屋に入った。その焼肉は網ではなく、ジンギスカン鍋を用いるものだった。鍋のぐるりの溝に溜まった肉汁で白菜キムチを煮て食べると美味いと、森英恵によく似たおかみは僕に教えてくれた。
ジンギスカン鍋の周囲を深く広くしてスープで満たし、そこではしゃぶしゃぶを、そして上の兜型のところでは肉や魚介類を焼く料理は、タイ人が韓国の焼肉にヒントを得て考案したものと言われる。それが「ムーガタ」だ。
これを僕は食べたくて食べたくて、しかしひとりで食べる類のものではない。よって今夏チェンライからバンコクまで南下した折、現地駐在の同級生コモトリケー君に「ムーガタが食いてぇ」と言ったら「あれはダメだ」と即座に却下された。
確かに、何種類もの肉やソーセージ、野菜、シーフード、麺類、サラダ、揚げ物、寿司、フルーツ、アイスクリーム、ほか多くのスイーツ。こういうものが食べ放題で料金はたかだか200バーツ、邦貨にして600円なのだから「あれは危ねぇ」というコモトリ君の言うことももっともなのだが、食べたいものは食べたい。そして「鍋派も焼肉派も大満足」という日本のそれについては食べたいという気が一向に起きない。
こういうものは南の国の屋外で、半袖半ズボンにゴム草履で食べたい、そういう気持ちが僕にあるからなのだろう、多分。
数年前に買ったスウェーデンの戦車兵用ジャケットを先日、初めてクリーニングに出した。そして戻ってきたそれの、袖のあたりの鮮やかな緑色を見て「いやぁ、新品のときより綺麗になった」と、クリーニング屋さんの仕事を褒めた。
そしてハンガーに掛けて畳んであったそのジャケットを、今度はハンガーのツルのところを持ってスッと持ち上げた。するとその左ポケットの周囲に白く大きな汚れが露わになっていたから僕は反射的に「あ、落ちてない」と、驚きの声を短く発した。
「もういちどやり直してきます」と、クリーニング屋さんは恐縮して桂文楽最後の言葉と同じようなことを言い、更に「この汚れは何でしょう、クリームシチューとか?」と僕に訊いた。汚れの種類によって対処のしたかも変わってくるのだろう。
それはペンキのようなものではなく、水で洗えば簡単に元通りになるような類の汚れ、とまでは記憶しているが、具体的に何の汚れだったか、そこのところがどうしても思い出せない。
そしてクリーニング屋さんがワゴン車に乗り込むころになってようやく、左ポケットを汚して自らの不器用さを呪った日のことを思い出した。牛丼の「吉野家」で生玉子を割ることに失敗し、更に、左手にドロドロの白身の付いていることに気づかずハンカチを取り出そうとして、ポケットの周辺をもドロドロにしてしまったのだ。
クリーニング屋さんには「思い出しました、生玉子の白身です」とだけ伝えて「吉野家ウンヌン」については黙っていた。軍服を着て「吉野家」で牛丼を食べているのは新橋駅前で街頭宣伝活動をしている人たちだけではない、そういうことが露見してしまうからだ。
欲しい本があれば"amazon"に入って検索をする。送料を払ってもなお新品より安い古書があれば必ずその古書で買う。送料を払ってもなお新品より安い古書がなければ一時、その本を買うことを保留する。"amazon"ができてから僕は、本はほとんど古書でしか買わない。
夜、小料理の「和光」のカンターで、そうして買った本を読んでいると、あるペイジに食べこぼしと思われる、すこし盛り上がった汚れがあった。汚れは数ペイジに亘っているが、とりあえずその1ペイジ目のクリスピーな固形物を爪で擦ったら活字まで消えかけたからそこでその行為を中止する。
古新聞を貼り合わせた袋に中身の見えない状態で入れられたマンガの古書が、むかし駄菓子屋で売られていた。一度それを買って帰ってオフクロにひどく叱られた覚えがある。「伝染病の患者の読んだ本だったらどうするのか」というのが叱責の理由だった。
「新品で本を買っても、印刷所やその後の流通や書店に伝染病の人のいる可能性は否定できない。自分がその本を買う前に、伝染病の患者が書店でそれを立ち読みしたかも知れない」というような理屈は子供の頭では思いつかないから、僕はただ叱られていた。
「一番風呂はお湯が硬いから、特に老人などは、既に誰かが浸かって練れたお湯に入った方が良い」という話がある。古書は安いだけでなく、何となく練れた感じがして、そういうところも悪くないのだ。
空と雲が綺麗だ。冬至まで1週間と迫った今朝の空は、午前7時であってもまるで夜明けのような色をしている。
冬の賞与は、5年ほど前までは「12月の中ごろ」と、その支給日は曖昧だった。それが近ごろは「12月15日」と固定されたらしい。「らしい」というのは、その日にちが何となく決まったもので、就業規則などには書かれていないからだ。
賞与の支給は通常、午前9時30分から始められる。社員がひとりずつ個室を訪ね、そこで僕と面談をするのだ。
ところが本日は、朝から何人もの人がいきなり来る、複数の電話が一度に鳴る、その電話に出ている時に限って本当に用のある人が僕を訪ねてきて、しかし繁忙を察してきびすを返してしまったりするから追っつけその人に電話をかける羽目になる、そんなことを繰り返しているうち昼になってしまった。
よって賞与は午後2時30分を過ぎてようやくその支給が開始された。そしてその仕事から解放された時には葉巻の吸いたい気分になっていた。しかし「1年に4本」と決めている葉巻をいま吸ってしまうと、それは今年4本目の葉巻になってしまう。「1年に4本」と決めた葉巻は3本までに留めておく寸止めが良いのだ。
そしてエレベータを降り、普段の仕事に復帰する。
きのうの朝9時のメイルマガジンでお知らせをした「日光の美味七選」の限定40セットは、今朝で残り6セット、そして夕刻には残り3セットになった。その3セットも18時台に2セットが売れ、最後の1セットも20時に売れた。
2007年から始めたこのセットが完売するまでの時間としては、この35時間が新記録だ。考えられる最も大きな理由は、2008年から始めた「クリスマスは家で愉しむ派、のための佳選7品」を、今年は企画しなかったことによる需要の集中だろう。
「クリスマスは家で愉しむ派、のための佳選7品」の、僕が考える目玉はクリスマスソングのCDで、しかし今回はどうしても「これだよ」と思えるCDが見つけられなかったのだ。
このCDについては過去毎年100枚を取り寄せ、いまでも在庫は充分だから「そのCDに興味あり」という人がいたらメイルをください。実費でお分けいたします。
僕が幼稚園のころから見知っている店、その品を食べつけている店、普段から感心しつつ通っている店の優れた商品を集めて大晦日にお届けする「日光の美味七選」を告知するメイルマガジンは先週の土曜日に準備をしておいた。それが今朝の9時に発行される。
すると有り難いことに毎年のお客様から続々と注文が入り、限定40セットの半分は夕刻までに売れてしまった。今夜から明日の朝にかけても、まだまだ注文をいただくことができるだろう。
ところでおとといの日記に書いた、予期せず戻った46,232円は本日、所属する自動車愛好会の年会費と、今月末に開かれる走行会の参加費を振り込んだら、そのあらかたは消えてしまった。月日が百代の過客であれば、お金もまた過客にすぎないのだ。
あれだけ酒を好んだ志ん生も会合の酒は嫌ったという。「酒なんてぇものは手前ぇ勝手に飲むところが良いわけでー」というのがその理由で、それは僕もよく分かる。会合からはできるだけ早く抜けだしてひとりになりたい、そういう性癖の僕は持ち主だ。しかし2、3の例外はある。その少ない例外のひとつが町内の酒である。
町内役員の忘年会のための買い出しは、本来なら大膳係シバザキトシカズさんの仕事だが、シバザキさんは本日あいにくと消防の通常点検で忙しかった。よって書記カミムラヒロシさんがその役を肩代わりし、材料は無事に調った。
夕刻6時に町内公民館への階段を上がり、座敷の戸を引くと、その正面では既に大鍋が盛大に湯気を立てていた。第1の鍋は、内田百閒の馬鹿鍋ならぬ豚足と鶏手羽が具になっていた。足と手を入れるとは、何かのシャレでもあるのだろうか。
ひとりあたりひとつの豚足を与えられると、人はそれを食べることに熱中して寡黙になる。なにやら蟹を食べることに似ているが、豚足は蟹よりも遙かに安価である。
10人の男はまるで相撲部屋のような勢いで豚足鍋を食べつくし、次の海鮮鍋に取りかかると、これもごく短い時間で食べつくした。
昨年までは料理屋で行っていたこの忘年会だが、諸事世知辛い時代により今年は公民館での自炊となった。それでも今回の味や愉しさに不満はない。今後、町内役員の忘年会はずっと、公民館で行われるかも知れない。
今年の夏ごろ、仲間内の愛好会のようなところで1、2度、必要なお金を立て替えた。記帳は会計係に任せ、当方は鷹揚に構えて、いくら出したかも覚えていない。
そして本日「年を越す前に」ということなのだろう、会計係が来て僕の立替分を返してくれた。封筒に書かれた金額は46,232円だった。2万数千円とばかり考えていたものが、いきなりそれより2万円も多かったから、僕は大いに気を良くした。
「あの金で何が買えたか」とは村上龍が10年以上も前に書いた本の題名だ。そして僕は今「この46,232円で何が買えるか」と考えてみた。
南の国でこの金額を握っていれば、1週間くらいは、その内容にもよるが遊び放題だ。僕はそれほど贅沢はしないから、ひとり飲みなら銀座で4回、池袋や北千住であれば20回ちかくはイケるだろう。おなじく銀座の鮨屋であれば3人は無理でも2人なら充分に食べて飲める。地元で言えば如来寺前のタカマツヨッチの店で、上出来の虎河豚が食べられる。
と、ここまで書いて、自分の場合には「この金で何が飲み食いできるか」であって「何が買えるか」とはまったく考えない。一夜明けれて「あの金はどこへ消えてしまったのか」と不思議な気分になるのは、そのあたりに原因があるのだろう。
「アップルを創った怪物―もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝」を再読したくなったので寮まで送ってくれとのハガキが珍しく次男より届く。長男とは異なり次男はおよそ本を読まない子供だった。読み聞かせも嫌った。
前出は、その次男がはじめて面白いと言った大人向けの本だ。よって次男の机の回りや階段室の本の山を探したが見つからない。その代わりになるかどうかは不明ながら、クリフォード・ストールの「カッコウはコンピュータに卵を産む」の上下巻と植村直己の「青春を山に賭けて」をエアキャップに包んだ。
前者はハッキング系ノンフィクションの名作、後者は言うまでもなく無名の若者が冒険界に打ち立てた金字塔である。次男は他に、夏休みに買ったCDも送るよう書き加えてあったが「そんなものは冬休みに聴けばよい」と家内が却下した。
自分の要求したものの一切入っていない段ボール箱を開いて次男はどのような顔 をするだろうか。
朝の雲はすこし目を離したすきに素早く変わる。6時30分のころには、街の上空には暗雲が、そして奧日光の山の上には白雲があって、しかし山の頂のみは朝日を受けて眩しいほどに光っていた。そして朝食を終え、ふたたび北北西の窓を開けると、先ほどの雲はどこかに一掃され、快晴の空が広がっている。
夜、会社の通用口から外へ出る。そこにパラパラと雨が降り始める。大したことにはならないだろうとそのまま歩き出すも、思い直して社内へ戻り、傘を持つ。
仲間内の話し合いのため、その雨の中を蕎麦屋の「やぶ定」へ行く。あれこれ飲み食いして手提げ袋を開けると財布が入っていない。先日おなじ蕎麦屋の「いとや」で昼飯を食べたときにも財布を持ち合わせていなかった。ラーメンの「ふじや」には、帽子を置き忘れることたびたびである。そして先日は東京での飲酒活動中にも、すこしばかり良い帽子を紛失した。
酩酊中はさておき、しらふの時くらいは持ち物を念入りに点検しようと、反省をする。
新しいホンダフィットに、購入後2度目の給油をする。今回は32.7リットルで500.4キロの走行だったから燃費は15.3Km/Lで、ハイブリッド車ということを考えれば特に良い数字でもない。
ウチのこのクルマの使い方は主に、1回あたりの走行が3キロ以内。その半分はエンジンの暖まっていない状態で、昔でいえばチョークの引かれた状態で回転が高い。赤信号で停車してもエンジンの自動停止は働かない。アクセルから足を離しても惰力で走ることはないからバッテリーへの充電も行われない。つまりハイブリッド車の利点を封じられた状態で走っているわけで、これでは良好な燃費は望むべくもない。
ウチはクルマを使った営業活動はしない。1年に走る距離は多分5,000キロくらいのものだろう。以前のフィットは10.0Km/Lほどの燃費だった。つまり1年に使ったガソリンは500リットル。同じ計算で予想すれば新しいフィットは1年に325リットルのガソリンを消費する。その差は175リットルで、価格にすれば22,750円。
こう考えると、社用車をハイブリッド車にしても、軽減できる費用は大したものでもない。ウチの場合、ハイブリッド車の効用は、以前にも書いたことだが運転する者を草食系にする点にあるのではないか。草食系であれば、事故を起こす率も格段に下がりそうである。
普段より自分が食べて「これは美味いよなぁ」と感心している地元の品を集め、これを「日光の美味七選」として大晦日にお届けすることを2007年から続けている。「七選」を提供してくださるお店には、挨拶をしてまわる必要がある。そして今年は今日をその日として選んだが、繁忙に阻まれてなかなか抜け出せない。
午後、手書きの手紙を携えようやくホンダフィットに乗る。そして蕎麦の「いとや」さん、生わさびの「晃麓わさび園」さん、湯波の「松葉屋」さん、お酒の「片山酒造」さん、生チョコレートの"Chez Akabane"さんを訪問する。
餡を含めて栗100パーセントの栗きんとんを作る「久埜」さんは、いきなり行った僕が悪かったわけだが今日は定休日だった。そしてステーキソースの「金長」さんは中休み中だった。これら2軒は数日以内に再訪することとする。
夕刻より神保町で"Computer Lib"の忘年会に参加をする。この集客が予想以上に良く、準備した会場の容量の問題から、"Computer Lib"の忘年会とはいえ同社の社員や身近な関係者は「後日仕切り直し」ということで参加できなくなった。
今月は忙しい。夜遅くまで歩き回って体力を消耗することは避けたい。よって一次会のみで一行からは離脱し、帰宅の途に就く。
朝に空が晴れれば気持ちが良いから、西北西に居並ぶ日光の山々にカメラを向ける。そしてそれを朝一番のツイートに添付したりする。空の色、山の色、空気の感じ。快晴にもいろいろあるが、写真では細かいことが分からない。また快晴は他の天気にくらべていささか平板である。よってツイートには「毎日おなじ画像の使い回しではないんですよ」とつけ加えたりする。
日本列島のそこここに気温25℃を超える土地がある。25℃を超えればすなわち夏日で、だから「12月に夏日かよ」と、天気予報を流しているテレビに向かって独り言を言ったりする。まるで亜熱帯ではないか。
それでも街にはクリスマスソングが流れている。「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"」のリボンも、今日からすべて、クリスマス柄のものになった。
この12月も正月を窺うころになれば、本来の寒さを取り戻すのだろうか。暑くない夏とか寒くない冬の消費はとかく落ち込みがちである。この冬も、早く寒くなって欲しいものだと思う。
神田川を舟で下るとやがて隅田川に行き着く。その合流する手前にあるのが柳橋だ。
佃煮は柳橋の「小松屋」のものが好きだ。先日ここに品物を注文したところ、届いた荷物には柳橋界隈の地図が同梱してあり、そしてその裏には「昭和36年当時の柳橋周辺」と説明の添えられた写真があった。
昭和36年といえば僕は5歳。しかし神田川に手こぎの和舟の多く蝟集する景色は、それより遙か昔のものに見える。
いつだったか「小松屋」のあるじアキモトオサムさんと夕食を共にしたとき「柳橋の花街はなぜほとんど壊滅したんでしょうね」と訊いたことがある。アキモトさんの答えは「隅田川に高い堤防ができたからです」というものだった。僕はなにか「史観」というようなものを聞いた気がした。
「小松屋」は柳橋の北のたもとに水上家屋のようにしてあって、昭和36年当時と同じ姿を今も保っている。偉業という他はない。
54歳の男が小遣い帳を付けている例は、世間には珍しいだろうか。僕の小遣い帳の記帳は、あまりに金を貯められない自分に業を煮やしてのものだ。
僕の母方のおばあちゃんは「借金は返せても、お金は貯まらない」と言ったらしい。そしてそれは真実と思う。「だったらお前も借金をしろ」と言われれば、その借りた金はいずれ雲か霧のように消えてしまうのだから後に残るのは返済の義務だけで、とすれば貯まらないことに変わりはない。
先月の末は「落語の芝浜のようなことが起きない限り、自分は金を貯めることはできないのではないか」と考えながら「しかし今月は、それほど金を遣わずに済んだな」とすこしばかり喜んでいたところに古いクルマの整備費の請求書が届いたから「あぁ、やっぱり」と妙に得心をした。
東京電力の名を騙って検針票の番号を聞き出そうとする詐欺グループから数ヶ月ぶりに電話が入る。
以前は短い用件説明からいきなり本題の質問があったけれど、本日は数分に亘るもっともらしい質疑応答に続いてようやく「ところでいつも係員が置いてくる検針票ですが」と来たから「随分と手が込んできたね、詐欺に変わりはねぇけどさ」と答えた。彼らは1日にどれほどのあいだ電話にしがみついて、何人くらいの人を引っかけるのだろう。
お陰様で地方発送の受注の忙しい時期になった。受注データをコンピュータに入力するのは事務係の仕事だが、それをここ数日は僕が肩代わりしている。本来であればきのうの分を今朝のうちに入れてしまう。しかし他の用事があれこれ闖入すれば夕刻になっても終わらないこともある。
そして今日もキーボードをタカタカ打っていると、そこにボトンと音を立ててカメムシが落ちてくる。彼か彼女かは知らないが、一体全体どこから飛んできたのだろう。そしてその彼だか彼女だかを紙の上に載せ、とうに暗くなった坪庭へ放つ。
家内とホンダフィットに乗り、2時間を走って東京芸術劇場に至る。今日は自由学園の、4年に1度の音楽会である。席は前から2番目のほぼ中央。オフクロと長男はそれぞれ東京のどこかから来た。
プログラムは以下。
「ハレルヤ」がドーンと終了して気づくと頭にびっしょりと汗をかいている。「吹奏楽も管弦楽も、今年は群を抜いて上出来だったなぁ、合唱も、みんな、真面目にやってたなぁ」と大いに感動をする。"The Brecker Brothers"の正面2メートルのところで寝てしまう僕も、自由学園の音楽会では寝ない。
そして往路より30分余計に走って23時15分に帰宅する。
電話が鳴る。受話器を取って応対をしているあいだに別の電話が鳴る。その電話に事務係が対応しているうち自分の方は受話器を置く。するとまた電話が鳴る。事務係の方も、受話器を置くなりまた別の電話が鳴る。
電話に出て相手の用件を聴きメモを取るだけで、ほかの仕事には手が回らない。そのような年末特有の傾向がきのうから急に強くなった。
天気は相変わらず良い。事務係と荷造り係は忙しさを増し、しかし紅葉の時期の去った今、急に静かになった店では販売係が格子戸のガラスを拭いている。その店に見知った顔を認めるたび、事務室から移動して挨拶をする。
目に見える風景は静かだが、お得意様からの電話には、時に肝を冷やすようなものもあり、脳は忙しく回転するし、神経は時にひどく細る。とにかくこのような繁忙を乗り越えなければ僕も社員もメシを食っていくことはできないのだ。
例年、この状況がクリスマスまで続く。気を引き締めて行こう。