きのう日光の空に快晴の広がっているとき、しかし"twitter"のタイムラインには「明早朝から雪」とのツイートがあった。「まさか」と感じてウェブ上の天気予報を調べると、なるほど日光市には「乾雪」の予報が28日の午前3時から午後6時まで出ていた。
実際の降り始めは午前3時よりも遅かったが、社員の出勤するころには随分と強い降りになっていた。それまでの降雨により地表は濡れていて、そのため雪の積もらないことについてのみ有り難く思う。
この雪のせいもあって店舗はそれほど忙しくはならなかったが、他のあれこれによりバタバタとした。よって昼飯は家でではなく外で摂ることとして「麺屋ききょう」へ行く。
「ききょう」は、まるでコンソメのようなスープの、上出来のラーメンを供する店だが大抵は空いている。優れた商品を持ちながら空いている、という店は他にもある。その逆に、なぜいつも混んでいるのか、その理由が僕にはまったく分からない、という店もある。世の中には不可解なことが実に多い。
雪は夕刻には止んだ。そして27、8年ほども前に手に入れた、というか雲仙焼の石川夫妻にいただいたビールマグにて焼酎のお湯割りを飲む。
今朝の日光の空には一片の雲もない。そこにはただ、天頂へ向けて徐々に色を濃くする青があるばかりだ。
日曜日で店は忙しいが、決算月もちかいため、町内の金銭出納帳を開く。そして年長の友人カネコマスさんが昔、その日の金の出し入れはその日のうちに記帳するから、たとえ寝入りばなに税務署が来ても何ら問題はないと言っていたことを思い出す。
町内の金銭出納帳も、カネコさんの会社の帳面と同じであるべきだ。僕はキーボードに"RUN"と打ち込んでエンターキーを2度叩き、帳面と現金の、それぞれの残高を確認する。
町内の金銭出納帳は健全だが、僕の小遣い帳は不健全である。今月の前半までは「よしよし、この調子」と来たが、後半は前半の13倍を超える出金があり、予断の許されない状況である。
午後の早い時間に自由学園へ行く。普段は家内任せにしてしまうこともあるが、今日は次男の、中等科最後の父母会ともあれば、これは務めとして、あるいは楽しみとして、僕もここへ連ならないわけにはいかない。
羽仁吉一記念講堂での、男子部や女子部や最高学部による全体会の後は、いまだ3分咲きほどの梅の林を抜けて男子部へ移動をする。本日の、中等科3年生に与えられた場所は羽仁吉一記念ホールだった。ここに3年生の全員が集まり、これまでの3年間の振り返り、また今後の希望につき、ひとりずつ述べていく。
1年生のときの寮生活から今に至るまで、同級生たちと、上級生たちと、あるいは下級生たちと生活し、学んだ濃厚な経験は、彼らの中に強い財産として残るだろう。そしてこの春からは、次の段階としての3年間が始まるのだ。
父母会はお弁当による夕食のあいだも続く。20時を過ぎれば、もはや東武日光線の下り最終には間に合わない。そして父母会の終了するまでその場にいては、東北新幹線を使っても帰宅できなくなる。
よっていまだ発言の続く場を、後ろ髪を引かれつつ20時30分に中座し、0時前に帰宅する。
このところの気温の変化も三寒四温の範疇なのだろうか。寒い日が3日、暖かい日が4日、それが交互に繰り返されるか否かについては、手帳に付けているわけでもないので自分では確認ができない。
とにかく「このまま春へ向かうのかな」と思えば、その翌日からは急に冷え込むことを繰り返している中の、今日は随分と暖かい晴天にて、午前9時45分に瀧尾神社へ行く。そして当番町小倉1.2丁目による今年はじめてのお祭り「春季小祭」に連なる。
今年の五穀豊穣を祈る春季小祭は春の大祭とは異なり、神殿での儀式は短い。そして当番町の婦人会による心づくしの直会もまた簡素で好ましい。僕は責任役員として、小倉町1.2丁目のさい先の良さを挨拶として述べる。ところで今週月曜日にあった初会議ではいささか飲み過ぎた。よって今日は乾杯の猪口1杯に留め、以上は冷たいお茶ばかりを飲む。
直会の座布団の半分ほども空いた頃合いを見計らって席を立つ。そして直ぐに帰社して仕事に復帰する。
僕の仲間内では、黒と赤のボールペンの、それぞれの尖端を異なる方向へ向けてセロテープで固定し、これを愛用する例が多い。
10年ほども前のことになるだろうか、"Computer Lib"の中島マヒマヒ社長と僕がおなじ姿のボールペンを所有しているのを見て「そんなの、2色や3色のボールペンを使えば良いじゃないですか」と言った人がいた。すると説明することを面倒と感じたか、マヒマヒ社長は「シューキョーっすよ、シューキョー」と、おどけてみせた。
この、ぶっちがいに連結したボールペンは、経験した者でなくては分からないが、胴内に色違いの芯を内蔵した2色や3色のボールペンよりも、実は遥かに使いやすい。無論、特殊な宗教の秘具などではない。
「情報は1冊のノートにまとめなさい」の中で、著者の奥野宣之が、使う環境に左右されることの少ない高性能さを謳ったボールペンが、三菱の"uni POWER TANK"だ。そして僕は早速、これの黒と赤を求めた。
ボールペンの黒と赤が揃えば当然、これまでの習慣からして、これをぶっちがいに連結したくなる。ところが、これまでの「三菱 new liner SN-80」が六角形の断面からして簡単に擦り合わせることができたのに対して、今度の"uni POWER TANK SN-200PT-07"の断面は丸く、且つ太い。
枕頭にこの黒と赤の2本を並べ、電気スタンドを点けて「あーでもない、こーでもない」と考え、あるいは諦めて数ヶ月。今朝ふと「これを工事用の結束ベルトで締め上げたらどうか」ということを思いついた。そして朝食を済ませて事務室へ降りると同時に、その案を実行に移してみた。結果は成功である。
丸くて太いボールペン。ゴムのグリップ部とプラスティックのクリップ部は胴部よりも一回り太く、これを2本、平行に重ねようとすれば、ゴロゴロとずれてまったく落ち着かない。その不安定さを、ちょっとした道具を以て平定した達成感は、まぁ、馬鹿にされるかも知れないが、なかなかのものだった。
そして気分良く、本日の仕事を開始する。
町内の、来年度の予算案を出しておくようにと、イワモトミツトシ春日町1丁目自治会長に言われたのは数日前のことだ。よって今年度の金銭出納帳から費目別の小計を出し、それを元に来年度の予算案を作成する。コンピュータがあれば、これは大した作業ではない。
一昨年はひとつの費目に赤字が出たため、今年度はその支出を徹底的に減らした。結果、今年度の次期繰り越し金は昨年度のそれを大きく上回りそうだ。
午後、日本橋の高島屋東京店へ出張していた面々が帰ってくる。家内が留守の8日間に、僕の使った食費は1日平均で900円と少々だった。夜に外食などをしていては、とでもではないが達成できる数字ではない。
町内の予算を削減する、自分の遣うお金を削減する。町内では次期繰り越し金が増え、僕の財布にはいまだ現金が残っている。削減とはすなわち節約で、しかし節約が美徳かどうかは分からない。節約は、大げさに言えば市中に出回る資金を減らすのだ。
多くの法人、多くの団体、多くの個人は、自分の金は節約して、しかし自分だけはより大きな収入を得ようと、虫の良いことを考えている。現在の中東で起きているような「みんなで渡れば恐くない」という状況を、何とか金遣いの面で顕現できないものだろうか。そしてむかし読んだ岩波の「おかげまいりとええじゃないか」を思い出す。
おばあちゃんがサクサク歩けていたころには、如来寺の墓地管理料はおばあちゃんが払ってくれていた。今は僕がその役を務めるべく、コンピュータのスケデュール管理には、1月の"to do"としてそれを記帳してある。記帳はしてあるが、これがいまだに行けていない。僕が行けていないなら、他にも行けていない家はゴマンといるだろう。
墓地管理料については住職のクワカドシューコーさんに「ハガキを出したらどうですか」と以前、提案をしたことがある。しかし檀家に対する遠慮があるのか、実現はしていない。
10年ほども前のことになるだろうか、ある土曜日に東京へ向かいながら、奥歯の1本が、まるであめ玉のように、グサグサに割れてしまったことがある。翌日に帰宅して、日曜日でも治療をしてくれる歯科医院を捜したところ、日光市の"JUSCO"にそれは見つかった。以降、歯のあれこれについては、ここへ通っている。
昨秋、この歯科医院で歯のクリーニングをしてもらいながら、診察を受けるべき頻度につき衛生士のオネーサンに訊いてみた。そのことが院長に伝えられたためか、あるいはその歯科医院の新しい方針としてか、先日「そろそろ検診の時期です」というようなハガキが届いた。そして僕は早速ホンダフィットに乗り、"JUSCO"を目指した。先生の見立てによれば、僕の歯に特段の不具合はないという。
墓地管理料については、なるべく早く払いたいと考えている。
日光の山々は女峰赤薙だけが見えて、それより西に連なるものは雲に隠れている。そして空は青い。季節は日一日と春へ向かっているように思われるが、突然の雪に見舞われる可能性も、また少なくはない。
この1週間、僕の昼飯は13時30分からと決めていた。しかし今日はそうも言っていられない事情がある。午前のうちに町内の塚田屋さんへ行き、パンを買う。そのパンを事務室で食べ、慌ただしい昼飯とする。
瀧尾神社の祭礼一切を1年のあいだ取り仕切る当番町が、次の当番町へ書類等を渡す引継ぎ会議は、今月10日に行われた。今日は、本年度の当番町が予算案を各町内に審議してもらう初会議の日にて、13時45分に社務所へ行く。
会議が終われば直会となり、その直会に酒は付きものだ。小さな猪口で受けていればそれほど飲まなくても済むだろうと考えたが甘かった。指されれば受け、受ければ飲み、そうするうち冷や酒、燗酒あわせてかなりの量を飲んだような気がする。
昼酒の欠点は晩飯を不味くすることだ。よって19時30分に迎え酒をし、いささかでもメシの美味く食べられるよう、からだを調整する。そして今月25日といえば早くも4日後のことだが、春季小祭は目の前に迫っている。ツイードのジャケットは、それを最後に今冬の役を終えるだろう。
"BUGATTI 35T"には、2006年から昨年まで4年続けて乗った。それ以前のことは「鈴鹿サーキット」の"Silver Jubilee"まで遡らなくてはならない。
今このサーキットを検索エンジンに当たってみれば、1961年6月に着工、そして翌1962年9月に完成とある。とすれば25周年は1986年または翌87年ということになる。しかしその頃には既にして長男が生まれていた。あれこれを思い返してみれば、サーキットへなど行ける道理がない。果たして「鈴鹿サーキット」の25周年記念式典は、いつ行われたのだろう。
とにかく我々が立食によるパーティでビールを飲んでいた、さして大きくもないバンケットルームにいきなり入ってきたホンダのオヤジは血色の良い顔に笑みを浮かべて絶好調だった。シワの目立つベージュ色の綿パンツに、当時のホンダのイメージカラーだった赤と青のジャンパーを引っかけた本田宗一郎の姿には、多分、会場にいたすべての人間が圧倒された。そして嬉しくて、ただただ歓声を上げていた。
「鈴鹿サーキット」の25周年が、1980年代の前半後期に行われたことは間違いない。そして以降20数年のあいだに"BUGATTI 35T"が修理調整を受けたのは、"Car Graphic TV"の撮影に引き出されたときくらいのものではなかったか。
昨年の12月30日に「ツインリンクもてぎ」で、エンジンへのガソリンの供給が一時途絶えたのは、タンクとエンジンを繋いでいるパイプのバルブに不具合があったためだ。しかしこのクルマの整備を担当している"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんは別途、ガソリンタンクの錆にも言及していた。
先日タシロさんは遂にこのタンクをリヤカウルから取り出し、ウチまで持ってきた。中をのぞき込めば確かに錆はひどい。よってこれをステンレスで作り直す件につき2、3の業者に見積もりを頼んでみた。見積もりの最も高い数字と最も低い数字とのあいだには倍以上の開きがあった。
そしていよいよ業者を定め、この錆びたタンクは採寸のため、その工場へ運ばれようとしている。作業は拙速を避け、ゆっくりやって戴きたいと思う。
「活字を欠いては生きていけない」とまでは言わないが、もし活字のない生活を送らねばならないとしたら、僕はひどく焦燥するだろう。むかしは本を読むたび奥付の次のペイジというか裏表紙のひとつ手前の部分に自分の名と、その本を読んでいた期間を記した。
それをしなくなったのはこの日記に「○○を読み始める」「○○を読み終える」と書くようにしたからだ。2006年には前年の1年分を、この「清閑PERSONAL」の"BANYAN BAR"に「本読み」と題してまとめることさえした。
その本読みの記録をいつの間にか止めたのは、自分の読む本の殆どは下らないものと自覚をしたためで、本を読むことそのものを止めたわけではない。
居間のソファの肘掛けには常に6冊ほどの本が載っている。寝室のベッドの下には常に30冊ほどの本が重ねてある。それらの殆どが下らないとは、ちょっとしたものではないか。そして今朝も下らない本1冊を読み終えた。今夜はどんな下らない本を読み始めようかと思案している。
「年をとったらマンションだ」と言う人がいる。マンションなら角部屋や1階や最上階でない限り、上にも下にも左にも右にも人の家があるから冬は暖かく、夏もそれほどは暑くならない。ところがウチのような家では、今の季節は廊下が寒い、風呂場が寒い、台所が寒い、洗面所が寒い、便所も寒い、ということになる。
一体全体、便所や洗面所へ行くのに、いちいちフリースの帽子をかぶる家があるだろうか。しかしながらきのうの晩から雨の降り続いた今朝はとても暖かく、帽子もベストも要らない。とても不思議である。そうして事務室へ降りる。
「今月はそれほどの出金はなく」とは、今週月曜日の日記に書いたことだ。そうしたところ本日ある封書が届き、そこに同封されていた振込用紙を見て「だっふんだ」と声を出しそうになった。明日は明日で、降って湧いたような支払いがある。そして「やっぱりオレは、金の貯まらないようにできているんだわなぁ」と思う。
夜は久方ぶりにワインを飲む。焼酎はストンと酔う酒だが量を飲まないのでそれほどは効かない。ところがワイン特に白となるとつい水のように飲んで酔いを深くする。そしてついうたた寝をし、午前0時30分に入浴して1時に就寝する。
家内が留守ともなれば、いまだ夕刻の空の下を、いそいそと歩いて飲み屋へ出かけていた。ところが昨年の今ごろからは、なぜかその癖が消失した。冬眠性出不精症とでも呼ぶべき病に冒されたか、今週火曜日からの家内の不在にも、僕は居間にひとり座って自炊のメシを食べている。あるいは既にして出来上がっているものを温め直すくらいのことだから、これは自炊の範疇には入らないかも知れない。
既にして出来上がっているものを温める。その、温めるための器でそれらを食べれば洗い物は少なくて済む。しかしそれでは犬がドッグフードを食うこととさして変わらない。
今夜は、ウチの倉庫の、時代がかった木箱から取り出した、大したこともない、有り体に言えば駄物に見えないこともない、しかし僕は中々気に入っている染め付けの鉢におでんを盛った。そして焼酎は、玄関の朝鮮箪笥から見つけた、まるで敦煌の遙か西の砂漠から掘り出されたような薄緑の「のぞき」に満たし、静かに飲んだ。
これですこしでも暖かくなれば、外で飲みたいという欲求も勃興してくるかも知れない。少なくとも昨年は、そういう感じだった。そして予報よりも早く、雨の音を聞く。
社員総出で雪かきをしたきのうが遠い昔のように思われる今朝の快晴である。とここまで書いて、さてこのセンテンスには、どのように読点を打つべきかを考える。入れようと思えば最大で2つは入るだろう。しかし入れなくても意味は通じる。読点の打ち方は、学校でも論理的には教えてくれない。自分で学ぶしかないのだ。
それはさておき本日より、日本橋の高島屋東京店における出張販売を開始する。僕は1985年から2005年までこの売場に立ち、2006年からは留守を守るようになった。その現場から昼過ぎに電話が入り、商品の一部に売り切れの恐れありと伝えられる。
予想を遥かに超える数量を用意すれば売り切れの危険は回避される。しかしそれではお客様に新鮮な品を召し上がっていただくことができない。「売り切れる寸前の数」を僕は予想し、製造係はそれを出荷する。本日は、きのうの朝まで続いた雪から一転しての晴れで、予想以上に客足が伸びたのだろう。
終業後の事務室にいると高島屋の現場から電話が入り、ふたつの商品の売り切れを伝えられる。買いそびれたお客様には深くお詫びをしたい。
きのうの夜から今朝にかけてのテレビには、まるで首都圏が雪に呑み込まれてしまうかのようなニュースが相次いだ。それは、雪国の人が見聞きしたら嗤ってしまうような大げささ加減だったが事実、"twitter"には「自分の乗った電車が○駅でストップ」とか「□高速道路が△インターで通行止め」というツイートが多く飛び交った。
そういうあれこれを眺めていれば当方も不安になり、深夜というか今早朝に洗面所の窓を開けてみれば日光上空から降る雪はほとんど無く、胸をなで下ろす。
朝の積雪はせいぜい10センチ強というところだっただろうか。店舗の駐車場は社員の協力により、1時間後には綺麗になった。
下野新聞のお悔やみ欄で、町内の郷土史研究家サトーケンジ先生の病没されたことを知る。奇しくも本日届いた情報誌「今市楽 2011.02」には先生の論文「今市の歴史8 中付活躍の舞台 会津西街道」が掲載されていた。先生にはかねてよりお見せしたいと考えていたものがウチにはあった。しかし時は既にして遅い。
今日から1週間はひとり暮らしだ。秋山小兵衛の時代には決して無かったであろう小鍋でメシを食べ、焼酎のお湯割りを飲む。
金の貯められない性格を幾分かでも矯正することはできないか、そう考えて、2006年の6月から小遣い帳を付けるようにした。この小遣い帳はコンピュータに自作をしたものである。
学生のころの手書きの小遣い帳については、13年ほども前に、このウェブペイジに「小遣い帳のススメ」として振り返った。お金の出入りは日記ほども物を言う。
僕の小遣い帳には毎月の予算や年末における貯金の目標額があるわけではなく、だから金の貯められない性格の矯正にはそれほど役立ってはいない。それでも今月はそれほどの出金はなく、大いに気を良くして夜は焼肉屋へ行く。
腹を満たして帰宅してみれば、夕刻よりちらつき始めた雪は白く地面を覆い始めていた。
今日は晴れた。晴れれば嬉しいから写真を撮り、これを添付してツイートをする。
朝から日光まで配達がある。日光にいて日光まで行くとはおかしなことだが、これはまぁ、荻窪の人がむかしたとえば日本橋などへ出かけるときに「東京へ行く」と言ったことと同じようなものである。
とにかく配達に出かけるハセガワタツヤ君が駐車スペースから三菱デリカを出すと、その屋根には厚さ15センチほどの雪が載っていた。この雪が明後日までに融けなければ、スクレイパーか何かで落とさなければならない。
瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」により日曜日の日本経済新聞は「得な感じ」を増す。夜はこれを読みながらカレーライスを食べ、今月4回目の断酒日とする。それにしても先週の「奇縁まんだら」は強烈だった。この「強烈だった」がメイルやツイッターに書かれたものであれば、その末尾には(^^;の顔文字あるいは(笑)が付いたことだろう。
今週末は3日連休の初日から雪である。今朝も社員たちは総出で雪かきを行う。普段であれば僕も手伝うが今日は朝から用事があるため、事務室にてその準備をする。
9時前にホンダフィットを凍結した道へ乗り出し、南を目指す。雪のため80キロ規制の敷かれている東北道の真ん中の車線を、時速100キロを保って走る。その僕の両脇をたくさんのクルマが追い越していく。
時速100キロを数十分間も維持しながら、"FISCO"から銀座の日産本社まで、日産のスポーツ課長を乗せて走った30年ほど前のこと思い出す。「国産で好きなクルマはありますか」と訊かれて「ホンダとスバルです」と僕は答えた。今でもその考えは変わらない。
それにしても日産の人に「好きな国産車は」と訊かれて日産以外のクルマを挙げる馬鹿がいるだろうか。そして僕はこの齢になっても、政治的に配慮した受け答えというものができない。いや、できないということはない。しかしそれをしているときには多分、会話そのものが成り立っていないのだ。
来た道を今度は北へ辿る。雲は徐々に厚くなり、雪がふたたび降ってくる。その景色はまるで雪国、である。
きのう捜し物をしていて、それが目的のものだったわけではないが、何年も開けたことのない引き出しに蝦蟇口を発見した。蝦蟇口は普段は持たないものの、旅行のときにこれがあると何かと便利だ。
そういう次第にて、この蝦蟇口の小さな輪に細いザイルを通し「これをベルトに巻き付ければ盗難対策も十全だ」としげしげ眺める。そして、そのあまりの悪趣味さに辟易する。トカゲの腹を模した型押しの革は赤く染められ、口金の輪に通したザイルはピンク色である。
ちと思い立って検索エンジンに「財布、色、赤」と入れて回すと出てくるわ出てくるわ、中には「赤は火の色、すなわち赤い財布はカネを燃やす。一瞬たりとも手にすべからず」というような一節も見つかった。僕は占いや風水の類は一切信じない。しかしここまで言われれば何やら不気味な気もする。よってこの蝦蟇口を使うか使わないかについては、すこし検討してみることとする。
ところで本日は日光市今市地区に長く続く「花市」の日だった。「花市」は旧市街の日光街道を閉鎖して朝から行われた。生憎と雪の天気にて、露天商には気の毒な一日となった。否、露天商だけではない、1月には日曜日に雪、そして今般は3連休の初日に雪である。当方もウンザリ、である。
「毎日毎日、それも10年以上、良く続けられるものですね」と、この日記について驚いたり感心したりしてくれる人がいる。日記を書くことは僕の遊びのひとつで、刻苦勉励の歴史でも何でもない。
先月のある日、立て続けに2日分の日記を書いた。その日記はその日にあったことを記したものではないから使い回しが効く。よって「別にこれを今日の日記にすることもねぇや」と温存して数週間。いま読み直してみると、その日にあったことを記したものでもないのに、なんだか古びて感じられるのは気のせいだろうか。
不意に帰宅した長男と遅い昼飯を食べに出る。帰社すると当番町の引継ぎ会議の時間が迫っている。神社の責任役員としてその席へ連なるべく、取り急ぎ白いシャツを着てネクタイを締め、上着を着て瀧尾神社へ行く。
引継ぎ会議とは、神社の祭礼一切を1年のあいだ取り仕切る当番町が、次の当番町へ書類等を渡す、実務と儀礼の入り交じったものだ。その、今回は朝日町から小倉町1、2丁目への引継ぎはすぐに完了し、直会の席へと移動する。
昼飯は遅く、直会は午後4時開始だから腹がキツイ。そして直会の会場「ブライダルパレルあさの」のテーブル上に手帳を出し「来年のこの日の昼飯は午前に軽く済ませること」と書き入れる。
起床して洗面所へ行き、自分では西北西に向いているとばかり思っている、しかし方位磁石で測ったわけではないからそれが本当かどうかは不明の、とにかく窓を開けると外の景色は真っ白だった。
通常、店舗は始業5分前の8時10分に開ける。しかし雪の日は社員の出勤する7時30分頃にはシャッターを上げてしまう。開けても別段、多くのお客様が早くから詰めかけて収拾の付かなくなる可能性は皆無にちかく、また、店内の照明によりあたりを少しでも明るくしたいからだ。雪は地表にうっすらとあるばかりにて、雪かきは20分ほどで完了した。
先月28日の夕方に発注し、31日にメイルで受注確認書の送られてきた、テレンス・コンランの"small spaces"が英国より届く。「英国に本を発注」とは何やら金のかかった行いのように感じられる。しかしこれは古書にて、その代金は送料を含めても「ふじや」の「味噌バターコーンチャーシューラーメン」ほどのものである。
これは人に贈り物として上げるためのものだから開封はせず、そのまま事務室に保管する。
「サイゴン」と書こうとするたび「サイゴン《地名変更「→ホーチミン」》」と、"ATOK"は余計なことを言う。五月蝿くて仕方がないので辞書から「サイゴン」の文字を削除し、手動で登録し直した。しかしそれでも相変わらず同じ注意が現れる。「人をバカにするのもいい加減にしろ」と言いたい。
それで思い出したのは、"WORD"にシェイクスピアの詩文を入力すると「スペルが違う」と赤文字で盛んに訂正を要求してくると、長男の言ったことだ。
事に及んで三つ葉葵の印籠を掲げるのは助さんと角さんのどちらだっただろう。「控えおろー、この英文をどなたのものと心得る、恐れ多くも沙翁の筆にあるぞ」とマイクロソフトの人に言ってもまぁ、通じないから仕方がない。
病気で声の出づらくなったスティーヴン・ホーキングは遂にある日、声帯の振動を音声に換えるアメリカ製の装置を携えケンブリッジ大学での授業に臨む。そして学生へ向けた第一声は「諸君、アメリカの英語で失礼」だったという。
「ホーキングは"WORD"なんか使わねぇんだろうなぁ」とは僕の想像である。ところで"ATOK"は余計なことを言う割りに、動物を解体する際の用語などはほとんど出てこない。お節介の役立たず、という感じである。
昨年12月30日の日記に以下のようなことを書いた。
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"BUGATTI 35T"の助手席左膝のあたりには、シート後部のタンクからエンジンへガソリンを供給する銅製のパイプが複雑に組まれている。このパイプ上で燃料の流れを制御するバルブに不具合があり、第1回目の走行では、僕は第1コーナーの手前100メートルのところで操縦席を離れることになった。
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このバルブの代替品がドイツから届いたと、"EB-Engineering"のタシロジュンイチさんが午前、これを見せに来てくれる。球状の部品を組み合わせたオリジナルとは異なり、こちらはレンチで素早く脱着できるよう継ぎ手の部分が6角形になっている。無論、この形の方が道具としては合理的だ。
「古いクルマを巡っては5つの楽しみがある。それはすなわち操縦する楽しみ、修復する楽しみ、文献にあたって勉強する楽しみ、同好の士が集まってする交流の楽しみ」と続け、しかし5つめは遂に出てこなかった小林彰太郎のスピーチを、2006年の1月に学士会館で聴いた。
できるだけ昔日の姿を保つべきか、それとも自分の好みに合わせて、あるいは日進月歩の技術を最大限に利用して改良すべきかとは、古いクルマにかかわる者に常につきまとう命題だ。
僕はどちらかといえば前者に属するが、サーキットの係員に牽引の労をお願いすることはできるだけ避けたい。今回のドイツ製のバルブも、いざ取り付けてしまえばそのうち見慣れてしまうのだろう。
クロコキョーコさんの家の茶事に使われた茶杓「笛声」は忘れがたい。その姿こそ今ではおぼろげだが、銘については四半世紀も覚えているのだ。僕も銘の入った道具は持っている。しかしこれを銘と言って良いものかどうか、それは「清閑」と彫られた豆腐すくいである。
飲み屋で出されるより飲み屋らしい酒肴3品で焼酎のお湯割りを飲む。次はその豆腐すくいで鍋から自分の鉢におでんを移し、これまた酒の肴にする。
ふと思い立って「笛声」の文字を稲畑汀子の「ホトトギス季寄せ」に探す。「麦笛」は夏5月の、そして「瓢の笛」は秋十月のそれぞれ季語と知ったが「笛声」は無かった。
「笛声」と聞けば僕の頭には晩秋の荒野を渡る風の音が浮かぶ。そして「鹿笛」は「瓢の笛」とおなじ秋10月の季語だった。
「掃除はヒマになってからすんべぇ、と考えて、いざヒマになってみると案外、掃除なんてできないものです」とは、ホテルマン、ラーメン屋、その他いろいろな職業を経験したヨシザキニャンニャンちゃんが生前に語ったことだ。
今朝、僕の"twitter"の履歴を示す"twilog"を見に行ったところ、月別のツイート数は以下のようになっていた。
2011年02月 (024)
2011年01月 (168)
2010年12月 (229)
2010年11月 (211)
2010年10月 (364)
2010年09月 (294)
2010年08月 (513)
2010年07月 (490)
2010年06月 (389)
2010年05月 (218)
今月はいまだ5日になったばかりだからその数字は統計になり得ない。しかしとにかく昨年の7月8月と、夏休みやお盆を含んで繁忙なときにこそカッコ内のツイート数は多い。そして「だったら今月は、ヒマなときのツイートの仕方でも研究してみようかねぇ」と考える。
自由学園男子部の昼食は伝統的に親が作る。その当番は通学生の親に回ってくる。通学生の親でなくても希望すれば当番に参加をすることができる。僕の在学中は当時の常識として母親のみが昼食を作った。しかし長男が入学した1998年には、既に父親の姿もこの昼食作りに見られるようになっていた。
朝7時15分に甘木庵を出る。そして1時間後に正門から自由学園に入る。本日の僕の係は「主菜」にて、作るのは生鮭のピカタだ。親の控え室で白衣に着替え、本日当番の父母や栄養士の先生と8時30分から打合せを行う。
自前の前掛けの上から肉魚卵専用の前掛けをかける。羽仁吉一記念ホール裏に届いていた箱から鮭を出し、その上質な切り身206枚をバットに並べる。そしてそれに塩胡椒をする。手を洗い手袋を替えて今度は生玉子40個を1個ずつ割る。ボウルに満ちたその玉子を泡立て器で攪拌する。
またまた手を洗い手袋を替えて、今度は鮭の切り身に小麦粉をまぶす。それを溶き卵にくぐらせ天板に並べる仕事は係のお母さんがしてくれる。
鮭や卵に使ったバットやボウルは、厨房とはドアを隔てた別室の専用シンクで洗う。卵を含んだ小麦粉はステンレスにこびり付きやすく、だからこの仕事は少しく厄介だ。係のお父さんがオーヴンに入れておいてくれた天板の位置を、鮭への熱の通りを均一にするため、僕が並べ替えていく。
ティルティングパンでは粉ふきいもが湯気を上げ、別の鍋ではトマトソースが完成しつつある。手の空いた僕はコーンとほうれん草をバターでソテーするという力仕事を手伝うため、大鍋の前へ移動する。
オーヴンから出した天板を配膳台に運び、6切れずつ鮭を大判皿へ並べていく。係のお母さんがそれにソースをかけていく。僕はふたたび洗い場へ戻り、使い終えた鍋やざるを洗う。先ほど見たときには10時30分を指していた時計が、いつの間にか12時を回っている。
12時25分になると生徒たちが配膳をするため厨房へとなだれ込んでくる。僕はそのまま鍋を洗い続け、すこし遅れて親のテーブルに着く。生徒の書いた習字への担当教師の講評や、各係を担っている生徒たちの報告などを聞くのもまた、昼食当番の楽しみのひとつである。そして本日の昼飯は美味かった。
食後の僕の仕事は控え室の拭き掃除だった。それを済ませ、男子部の校舎を振り向きつつ午後2時に正門を出る。昼食当番は親の義務なのだろうか。僕には親の権利と思えてならない。
3時05分に北千住に達する。下り特急スペーシアの中では、きのう階段室の本棚に発見した1967年刊の本
を読む。そして就業時間中に帰社する。
青山学院大学に在学中、心臓病で早世した叔父がいる。この人の、今市高等学校の文芸誌に書いた随筆を読んで「文章でこの人を超えることはオレには無理だ」と感じた。とにかく昭和30年ころに書かれたそのオムニバス風の随筆の、主題のひとつが節分だった。
僕にも覚えはあるが、むかし豆まきは夜に行った。検索エンジンに当たってみれば夜の8時以降が適当とある。しかしウチの今の豆まきは店舗から社内全域を回るもので、夜にはし難い。
そういう次第にて午後2時30分ころより駐車場、店舗、工場、自宅、隠居と回って「フクハウチ」「オニハソト」と豆をまく。
夜6時30分に湯島天神下に達して「シンスケ」の暖簾をくぐる。アメリカの何とかという作家と同じく僕も、店を開けた直後のいまだ空気の澄んだ酒場が好きだ。だから「シンスケ」であれば夕刻5時に入りたい。しかしそうもいかないこともある。案の定カウンターに空きはなかったから、それと平行したテーブルに着く。
冬の「シンスケ」では樽酒を飲む。春なら「樽冷や」でも今の時期なら「樽のお燗」である。「今日は節分ですから」の言葉と共に供されたお通しは炒り大豆だった。その大豆の乾いて甘い香りが鼻をくすぐる。
「樽のお燗」の1合徳利を4本空ける。そして切通坂ではなく、すこし遠回りをして無縁坂から甘木庵へ行く。玄関に荷物を置き、すぐに戸を閉めて外へ出る。少々の用事もあって本郷三丁目の交差点まで歩くと「三原堂」のショーウィンドウも鬼の面と豆という、やはり節分の風景だった。
日光MGでは、否、西研究所の主催するMGであれば常に、2日目の朝は"strategy accounting"の講義が行われる。
マネジメントゲームはどのような会社であろうと融通無碍に展開し得る。その都度いろいろな経営を盤上に試すことができる。盤石の体制を作ることもできれば、羽化直後のカゲロウのように心許ない会社で自己資本の積み上げを計ることもできる。だから時に応じてあれこれ変わったことをする人もいる。
僕は自分の好みから、マネジメントゲームにおいてはあまり大きな会社は作らない。社員は2名もいれば充分だ。それがきのうの第3期においては黄チップ失敗、青チップ失敗に続いて縁故採用のカードを2度も引き、社員の数は今回の自分の理想の倍になってしまった。MGのルールでは解雇はできない。
4期を前にして僕が何をしたかといえば、資金潤沢な長男から借金をし、その借金を以て長男の会社のアタッチメント付き小型機械を買った。そうすれば僕の会社の機械は1台増え、これを余剰な社員に操業させることがれきる。やがて第4期のゲームが始まる。
第4期の期初に黄チップを買い、5人の競合相手から意志決定が回ってくると、次のカードには黄チップ失敗の文字がある。そしてしばらく経てば青チップ失敗、そしてまたまた縁故採用。理想の2.5倍の社員の人件費その他を期末に確保するためには売上を予想よりも上げざるを得ず、その結果また、売上金額順に並べ替えられる市場の決定方法により、とにかく売上金額の高い僕は、利益も上がっていないのにまたまた競争激烈なA卓に残留することになる。
そして第5期を前にして、そのA卓では青チップを持ちすぎた人の、その青チップを今期と来期に振り分けるサイコロ振りが行われる。しかしもとより青チップなど持たない僕には何の関係もない。そして僕にはまたまた黄チップ失敗と青チップ失敗のカードが巡ってきた。結局のところ第5期終了時の僕の自己資本は▲20にまで下落した。
マネジメントゲームは勝ち負けではないと言われるが、ゲームの形式を取っているため表彰式はある。表彰状は、来期へ向けた一定以上の準備を整えた上で自己資本のできるだけ高かった人から3人に与えられる。今回の参加者中最高の自己資本を記録した最優秀経営者賞は、東京から参加のウワサワユーキが到達自己資本592でこれを得た。同じく自己資本第2位と第3位の優秀経営者賞は、蓮田市から参加のキリヤアキヒロさんが同430で、また修善寺から参加のタケシトーセーさんが同424でそれぞれ得た。
原稿用紙2枚ほどの感想文を書きながら、僕がマイクを持ってする締めの挨拶は主に、先生と外部から参加の方々に対する御礼である。そして「第21回日光MG」は無事に完了した。
先生と共に東武日光線にお乗りになるタケシトーセーさんとは大急ぎの夕食を済ませ、下今市駅のプラットフォームまでお送りをする。
なおここまでお読みになって「黄チップだの青チップだの言われても分かんねぇよ」という方がいらっしゃったら、今年の夏の終わりに開催される「第22回日光MG」にお申し込みください。
本日より第21回目の「日光MG」が始まる。今回は全社員と僕と家内とで19名、外部から10名の計29名がこの研修に参加をする。朝食を済ませ、会場へ降りていくと包装係のセオヨーコさんが来ていた。ほかの社員たちはクルマから道具類をおろしているところだという。
マネジメントゲームは5人から6人がひとつの卓を囲んで立ち、それがひとつの市場を形成する。よって今回は5卓でのゲームとなる。普通の教室のように並べられていた椅子とテーブルを、セオヨーコさんとふたりでゲームのできる形に並べ替える。
定刻の10時に僕が開会の挨拶をし、西順一郎先生のルール説明が始まる。マネジメントゲームとはひとりひとりが自分の会社を持ち、2日間で5期分の経営を盤上に展開する教育だ。そのうちの第1期はルール説明とフルコスト、ダイレクトコストの比較検討に費やされる。マネジメントゲームを何百期経験した人も、また初心者も、等しくこの時間を共有する。そして午後より第2期の、つまり実際のゲームが開始される。
この第2期の売上金額において僕は区間賞を達成し、第3期の市場の制約条件を決めるサイコロを振った。実は僕の調子の良かったのはこの瞬間までで、第3期以降にはとんだ陥穽が待ち構えていたのだ。
マネジメントゲームの名人、巧者、鬼、巨匠といった人たちは何十回ゲームをしても、その都度2日めの夕方には高い自己資本を実現して表彰状をさらっていく。何回もゲームをしていれば時にはリスクカードの嵐に襲われ、彼らは手負いの熊のような状況に陥るが、必ずリスクから立ち直り、あるいはリスクを奇貨として上手に方向転換をする。しかし僕は名人、巧者、鬼、巨匠には分類されない。
2期末から次期繰越をした青チップは取られてしまう、取り急ぎ手に入れた黄チップもほどなく取られてしまう、2名いれば足りる社員が瞬く間に倍の4名に増えてしまうといったビジネス上の災厄に見舞われ、折角伸ばしかけた自己資本を第3期は減らす結果となった。しかし上手くいかないときほどあれこれの方策を考えて脳は加熱する。それを有り難く思えるようにならなくてはいけない。
夕食の後に第4期の経営計画を立て、8時からひとつの部屋に集まって交流会を行う。深夜まで続きそうなその会を僕は11時に中座し、露天風呂経由で自室へ戻って本を読む。