「地下鉄…」と口にした弟子に「言葉は略さず地下鉄道と言いなさい」と小言を呈したのは折口信夫だっただろうか。僕は「地下鉄」については最初から「地下鉄」と覚えたから「地下鉄道」とは呼ばないが、略語を嫌うところはある。
今日の「NIKKEIプラス1」の第1面に「スマホ こうやって活用したい」という記事がある。「携帯電話」を「ケータイ」、「コンビニエンスストア」を「コンビニ」と呼ぶことを嫌うように「スマートフォン」を「スマホ」と略することも僕は好まないが、そういちいち五月蠅いことを言っていては、この日記も先に進まない。
"iPhone"は"twitter"を開始し、フォロワー1万人を目指そうと決めたときに契約をした。2010年5月6日のことだ。おなじ月の14日の日記に「あー、これはもう、決して手放せない道具だ」と、僕は"iPhone"について書いている。
"facebook"は"twitter"にすこし遅れて使い始めた。そしてあれこれあって"twitter"への熱心さは徐々に薄れていった。僕は"facebook"には"iPhone"ではなく、多くコンピュータからアクセスして今に至っている。"iPhone"と画像の親和性は高いけれど、大抵はコンピュータを持ち歩いているし、"iPhone"の小さな画面でチマチマするには老眼鏡の必要な齢である。
そうして今や僕の"iPhone"は、ソフトバンクの契約者と無料で通話するための道具に成り下がっている。来年の5月が来たら解約をしてしまおうか。"iPhone"と"docomo"の「2台持ち」も、荷物を嫌う僕にとっては面白くない。
ところで「ドコモは"iPhone"を必ず出してくる」という都市伝説が現実のものになれば、ソフトバンクの"iPhone"は解約して、ドコモの"NOKIA"を"iPhone"に換える可能性はある。アプリケーションは「乗り換え案内」くらいしか使わないけれど。
この週末には本州の日本海側や北部にとんでもない量の雨が降ると、テレビの天気予報が伝えている。日光はその地域には該当しないものの、予報が当たれば影響は免れ得ないだろう。
シェムリアップではほぼ毎日、午後になると強い雨が降った。しかしそれはせいぜい数分から数十分のことだったから、川の水かさが急に増えるというものでもなかった。
「きのうの雨と風は凄かったですね」と案内人のロンさんがクルマの助手席から後席の僕に振り向いて言ったのは多分、5日前のことだ。「日本ではあのくらいの雨が一晩中、降ることもあるんですよ」と僕は答えたと思う。
「お稲荷さんの向こうにヘビがいます」と夕刻、販売係のハセガワタツヤ君が報せてきた。事務室から10メートルほど離れた現場へ行ってみると、脱いだばかりの皮が長々と横たわっている。そしてそこから2メートルほどの植え込みに目を凝らすと、茶緑色のヘビが草の間から頭をググッと持ち上げ、我々を警戒していた。
今となっては誰だったか思い出せないが、女子社員のひとりが「川に逃がしましょうか」と、身を縮めながら僕の顔を伺ったので「いや、そのままにしておいた方が良い。お金の神様かも知れないし」と、その提案を即、退けた。
ヘビはおなじところに長くいたりするのだろうか。お稲荷さんとはコンクリートの塀を隔ててすぐ裏側の植え込みには、しばらくは箒など入れないようにしようと決める。
夜になって、地面からヘビの抜け殻を拾い上げる。それはいまだ完全には乾いていず、僕の手にしっとりとした感触を残した。そしてその皮をすぐちかくの、横に渡してある棒にかけ、明日の朝まで干すことにする。
案内のため、というよりも有り体に言えば、見学者が展示品を盗まないよう監視するため我々に付いて館内を歩いていたオネーサンに1日の見学者数を訊いたら恥ずかしそうに「2、3人」と答えたプリア・ノロドム・シハヌーク・アンコール博物館は、シェムリアップの小さな星だと思う。
展示品のほとんどは、バンテアイ・クデイから発掘された砂岩による仏像で、その99パーセントは、三重にとぐろを巻いたナーガの上で瞑想する仏陀だ。ナーガの複数の頭は仏陀の背後で大きく開き、まるで光背のように見える。
歴史的資料としては第一級のものながら、しかしおなじ様式の仏像ばかりを見ていると、僕のような素人はしまいには飽きてくる。その「飽き」を救ったのが有田の壺だ。
赤や青や緑の釉もいまだ鮮やかな日本渡来の磁器をガラス越しにしげしげと眺めつつ僕は「うーん、森本右近太夫のような旅行者が持ち込んで、当時の旅館に残していったんだわな、きっと」と解釈をした。
ところが本日、前述のオネーサンが手渡してくれたパンフレットを、いまだ片付け終えていないスーツケースから拾い上げ、表紙を見ると「アンコールの休息所コックパトリ寺で発見された、貿易による器」と題が付けられていた。
「なるほど、あれは旅行者が持ち込んだものじゃなかったのか」とページを繰っていくと、カンボジアや中国の器に並んで有田の壺の説明もあって「17世紀には中国の道具類に代わって日本の磁器が市場を支配するようになっていた」とあった。やはり資料は読むべきだ。
日本の鎖国令は1639年に施行されたという。カンボジアに日本製の磁器を運んだのは、どこの国の商船だったのだろう。
今月17日の日記に書いたことだが、2011年3月20日に20,076円で買った"RICOH CX4"が壊れた。マクロでしかピントが合わなくなった。ネオプレーンのポーチに入れた上で、ではあったが、たびたび地面に落としたことを原因として、筐体の接合部はあちらこちらにガタを生じている。
リコーは"CX"シリーズについては何故かだんまりを決め込み、新型の"CX7"を出すのか出さないかについて明言をしない。カカクコムでは"CX5"は「価格情報なし」と表示され、また現行の最終モデル"CX6"には39,800円の価格が付いている。
その、カカクコムにはなぜか反映されないまま今月中ごろ"amazon"に"CX5"のブラックモデルが24,400円で出た。
重くてかさばるカメラを嫌い、且つ食べ物をマクロで撮ることの多い僕に、リコーの"CX"シリーズは最良の選択肢である。しかし僕は迷った。「ソニーの"RX-1"は面白そうだぜ」と、悪魔がささやいたのである。
そして結局のところシェムリアップには、マクロでしかピントの合わない"RICOH CX4"はメシ用として、風景一般用としてはおなじリコーの"GRD III"を持参した。そして不便をかこちつつ2台のカメラを使い分けた。
本日、未練たらしく"amazon"に"RICOH CX5"で検索をかけると、17日に見送ったブラックモデルが今日は23,980円で出ていたので即、これを買った。"RX-1"は魅力的だがザックの中でゴロゴロするカメラは御免である。
なお17日の日記に「種類の異なるSDが3枚も付いているなら、そう高い値段でもねぇわな」としたのは勘違いで、これは「3種のSDが使用可能」という解釈が正解だった。それほど上手い話はない、ということだ。
筐体がゆがみながらも動くことは動く"CX4"は今後、修理するのかしないのか。そのあたりについてはいまだ決めていない。
おとといの夜からきのうにかけては3時間も眠っていなかった。よって昨夜の就寝は21時と早かったにもかかわらず、今朝は6時まで眠り続けてしまった。
シェムリアップに入ってから4日目の23日に、この日記を書くために使っている"Dreamweaver"がローカルのファイルを読みに行かなくなった。このところ少なくない"Dreamweaver"の故障に際しては、日光にいれば外注SEのシバタさんがすぐに来てくれる。またインターネットの回線が確保できれば、シバタさんによる遠隔修理も可能だ。しかし今回はカンボジアにいての故障発生である。
"Shadow of Angkor I Guesthouse"は"iPhone"こそ常時インターネットに繋がったが"Let's note"はある日の停電を境として通信環境が不安定になり、しまいには道を隔てたピザ屋の"wifi"に頼らざるを得なくなっていた。そのような状況では、シバタさんによる修理は望めない。
きのう成田空港の第1ターミナルビルからマロニエ号に乗ると同時にシバタさんには同日の来社を要請し、"Dreamweaver"はお陰できのうのうちに使えるようになった。
そのシバタさんが今日はルータの交換に来る。これについては、ここしばらく店舗や事務室のコンピュータがサーバに繋がらない事態が頻発していたことから、シェムリアップへ行く前よりシバタさんには頼んでおいたことだ。新しいルータは、ウチの回線速度をどれほど高めてくれるだろうか。
きのうから「帰国の無事会をしよう」と言っていたオフクロに従い、夜は焼肉を食べに行く。そして帰宅して即、就寝する。
ノイバイ空港から成田空港へ飛ぶ"VN310"のボーディングカードはシェムリアップ空港で発行され、そこには出発ゲートの記載もあった。しかし我々は往路のタンソンニャット空港において突然のゲート変更を経験して神経質になっている。
ノイバイ空港の出発待合室は、500坪ほどのフロアが食堂や売店を挟んでふたつある。しかしこの計1,000坪ほどの空間に、旅客機の便名や行き先、出発時刻やゲート番号を知らせる案内板はひとつもない。なにか急な変更があった場合、我々がそれを知る手段はヴェトナム語と英語によるアナウンスに限られる、というわけだ。
「それにしても案内板、どこかにねぇかよ」と、計1,000坪のフロアを回遊しつつ「それにしても凄げぇ陳列だな」などと売店の写真を撮って「恐れ入りますが、お写真は…」などと、売店のオネーサンに咎められたりする。
待合室のほぼ真ん中の天井からテレビが吊され、スーザン・ボイルを発掘したスター誕生番組のヴェトナム版を映している。「あんなくせぇ番組より、フライト情報のボードが必要なんだよ」と言っていた次男は、ボーディングカードに印刷されている番号のゲートを頻繁に訪ねていた。そして「今度は間違いないよ」と僕に教えてくれる。
空港で、出発ゲートにいち早く並び、何十分も立ちっぱなしの人を多く見かける。旅客機には、ゆっくり乗り込んでも席は確保されているし離陸の時間も変わらない。なぜあれほど早くに並んで延々と立っているか、それが僕には分からない。そうしてほぼ最後の客として成田行きのヴェトナム航空機に乗り込む。
往路とおなじ"AIRBUS A330-200"を機材とした"VN310"は定刻に14分遅れて00時24分に離陸をした。
先月のネパール行きでは、往復の深夜便ともオフクロにもらった睡眠薬を飲み、飲んだ数分後には眠って4時間後にすっきり目を覚ました。今回はその薬を持ってきていない。そして1時40分ごろにようやく眠り、3時10分には朝飯を配る物音で目を覚ます。その機内食はお粥は味見だけ、そしてパンとバターとコーヒーのみ摂る。
機内食は、出され始めてから片付け終わるまでに、ほぼ1時間を要する。その1時間、目の前にずっとお膳のあることがうざったい。「機内食は、これを希望する者のみがお金を出して買うもの」という"LCC"の常識が、すべての旅客機に適用されることを僕は夢見ている。
窓外の朝焼けは、しばらくするうち晴れた青空に変わった。千葉県上空に入ったところで眼下を見おろし「日本にはホントに山が多いな」と、きのうまでのカンボジアの景色を思い出す。
成田空港には定刻より27分も早い、ヴェトナム時間05時08分、日本時間07時08分に着陸をした。この分であれば、上手くすると第一ターミナル07:55発のマロニエ号に間に合うかも知れない。
ほぼ満席だったため、ベルトコンベア上に我々のスーツケースが見えるまでには随分と時間がかかった。税関で2、3の質問を受けて後は大急ぎで自動ドアを抜け、切符売り場でマロニエ号始発の切符を確保する。
家というか会社には余裕を以て午前中に着いた。そして閉店時まであれやこれやする。
西バライの「海の家」の炭火焼きのうち「プラホックと豚をまぜたもの」とのみ説明された、バナナの皮に包まれたものは、帰宅して即、冷蔵庫に入れておいた。夕刻、これを取り出し洗面所で焦げたバナナの葉を剥き、中のグチャグチャをアルミフォイルに載せる。そしてそれをガスオーブンで軽く焼き直したものが食卓に運ばれる。
市場では強烈な匂いを発していた、鮒鮨味噌とでも呼ぶべきプラホックだったが、熱を通すとその匂いは収まるらしく、日本の器に盛られたそれは、未知の風味ではあったが同時に「もっと買ってくりゃ良かったなぁ」と後悔の念を覚えるほどに美味かった。
日本とカンボジアの違い思い、しかし自然や歴史や文化の差を越えてなお共通して美味い食べ物のことを思う。森本右近太夫は一体全体、どれほどの月日をかけて日本からアンコールワットに達したのだろう。
きのうの夜、部屋に数匹の蚊の飛んでいることは知っていた。しかし大したこともなかろうと、また、こちらの蚊に蚊取り線香は一向に効かないため、何もせずいつものように掛け毛布のカバーの上に半袖短パンツの姿で寝た。
その、寝る前に見た蚊に刺されたのだろう、脚や脇腹の激しい痒さで目を覚ます。時刻は1時40分。「やれやれ」という思いでシャワールームの蛍光灯を点け、その明かりを頼りに薬袋から萬金油を取り出す。僕がかつて経験した薬の中で、蚊に刺されたことによるかゆみを取るにはこの萬金油がもっとも優れている。
そして4時直前まで眠り、しかし以降は眠気は訪れないものの、疲れが溜まってきたせいか起きる気力が湧かない。結局はそのまま横になり、5時を迎えてようやく起床する。日記の遅れは徐々に取り戻して、今朝はおとといの分を書き上げた。
朝食には、洒落ているところが気に入らないが、今のような、バーストリートの典型的な店になる前は地元の人たちもたくさん使っていたという「スープドラゴン」でクイティオを食べた。その盛りつけは簡素で美しい。
8時30分にロンポーコンビの出迎えを受け、クメール伝統織物研究所に向かう。工房は週末で生憎と休みだったが、2階の店でたっぷりと目の保養をする。自然の染料による淡いバラ色、淡い紫、淡い緑、淡い茶の手織り絹は喉から手が出るほど欲しいけれど、僕にはその価値を引き出すことはできない。よってクロマー4点と木製の古いシャトル1点のみを買う。
クメール伝統織物研究所は、シヴァタ通りがシェムリアップの街を真っ直ぐ南下してシェムリアップ川と接する交差点のすこし先右側にある。その、そろそろ郊外に入ろうとしているシヴァタ通りをさらに南へ進み、雨期には琵琶湖の9倍ほどの面積になる、インドシナ半島最大級の湖トンレサップ湖に近づいていく。
この湖で獲れる淡水魚コンプリエンなどを原料とする魚醤トゥックトレイの工場を訪ねたいとは、早くからロンさんにメールで送っておいた僕の希望のひとつだった。そして街からそれほど走らないうち、トゥックトレイの工場、これは「こうじょう」ではなく「こうば」と読みたい感じの家が見えてくる。
先ずはロンさんが下見をしておいてくれた家を訪ねる。作業場の面積は10坪もない、家内工業的な醸造所だ。聞くところによれば、他所から仕入れた、魚と塩を混ぜた「もろみ」の元を自家の発酵タンクに保管し、熟成、搾り、沈殿、火入れ、搾り、沈殿などを繰り返して商品化するという。
一軒目の醸造所は現在、最終段階のものを沈殿濾過中で、今日は何もしていない。よって街道に出て、他に醸造所はどこにあるかと、人に訊ねながらクルマを走らせる。
次の醸造所では、今あたかも、もろみに火入れをしている最中だった。あたりには「くさや」に似た香りが強く漂っている。そしてここでも発酵タンクなどを見せてもらい、また鍋の前に立っていたこの家のオバサンにあれこれ話を聴く。そして500CCの再生ペットボトルに2本のトゥックトレイを計1ドルで買う。
街道を更に南下すると、左には米を収穫中の広大な田んぼが、また右には遠くに大きな蓮沼が見えてくる。やがてクルマは小高い丘のふもとの集落でエンジンを切った。すぐそばの野外市場でポーさんは魚だか蟹を買った。僕と次男はその市場の屋内に足を踏み入れ、行ったり来たりする。
「まだ午前10時ですよ」と腕時計に目を遣りロンさんは困惑の色を顔に浮かべるが、我々の、シェムリアップでの用事はすべて完了した。「大丈夫です、部屋で休んだり荷造りしたりしますから」と、本日前半の予定は切り上げるようロンさんに言う。当方は充分に満足をしているのだ。
ゲストハウスに戻り、昼は1階のレストランで、ゆっくり時間をかけて摂る。僕も次男もメニュから選んだのはおなじBLTサンドウィッチだった。席に届いたそれを見て「おぉ、カンボジアのサンドイッチはフランスパンか」と僕が驚くと、次男は「パンが炙ってあるあたり、分かってるなぁ」と喜ぶ。僕はジョッキに3杯の生ビールを飲んだ。
午後は部屋で休んだり、あるいは荷造りをしたりする。天井でゆっくり回る扇風機の風に当たりつつ裸で寝るとは、南国旅行の醍醐味のひとつだ。
夕刻またロンポーコンビの迎えを受け、ゲストハウスをチェックアウトする。そして西バライへと向かう。「乾季の田畠を水で潤す」ということが、山をほとんど持たない、平原ばかりのカンボジアでは、大昔から為政者の課題だった。空港を右手にして水路脇の田舎道を進んだ先に、1,000年前に作られた貯水池はその姿を現した。
堤防の上に立ち西から東までずっと見渡しても、東西8キロ、南北2キロの全容を一望することはできない。ちかくの階段を降り、水面に近づいてみる。西バライはまた地元の人たちの憩いの場で「海の家」のような小屋がいくつも建てられている。その「海の家」の食器洗いを命ぜられた子供たちは食器ごと水に飛び込み、声を上げて笑っている。
人海のみを以てこれだけの生活基盤を整えてしまう権力とは、どれほど強大なものだったのだろう。そしてこの貯水池の完成が、クメール王朝を12世紀の繁栄へと導いていくのだ。
突風が砂を飛ばす。その砂が顔に当たる痛さは相当なものだ。頭上にはいつの間にか黒雲がある。ハンモックに寝てくつろぐ式の「海の家」に逃げ込み、その入口の炭火焼きを観察する。焼かれているのは魚、カエル、ウズラ、鶏、そしてバナナの皮に包まれた得体の知れないものだ。そして僕はカエルとウズラを注文する。
サンダルを脱いで店の奥に進んだところでやおら、激しい雨がトタン屋根を叩き始める。「いやぁ、運が良かったなぁ」と、次男はハンモックに横になる。今夜のハノイ行きは19時45分に飛ぶ。カエルとウズラは、機内で晩飯が出なかった場合の予防的措置である。
西バライから目と鼻の先のシェムリアップ空港には、17時30分に着いた。"See you next year"と、カンボジアでは使い古された冗談をプーさんが飛ばして笑う。空港ビル入り口まで送ってくれたロンさんと握手を交わし、ヴェトナム航空のカウンターに近づく。
チェックインを住ませたころには明るかった空が、徐々に暗くなっていく。"AIRBUS A321"を機材とした"VN834"は定刻に6分遅れて19時51分に離陸をした。
機内では案に相違して機内食が出たが、我々は飲み物のみもらってメシはすべて返した。そして定刻より12分早い、カンボジア時間、ヴェトナム時間ともに21時13分にハノイのノイバイ空港に着陸をする。
シェムリアップの朝は暑くなく凌ぎやすい。ゲストハウス2階ホールの、明かりと扇風機のスイッチについては、どこを押せばどこの明かりが点き、どこの扇風機が回るか分かっている。そして自分の頭上の扇風機のみを回し、きのうの日記を作成する。
"Dreamweaver"に、ローカルを読みに行かなくなる故障が発生しているが、エディタのみは作動するので大して困りはしない。
いつもの朝と変わらずプーさんのクルマにロンさんの案内付きで乗り込み、今日はシエムリアップ東方40キロにあるベンメリアを目指す。途中、竹に餅米を詰めて焼いている差し掛け小屋というか、焼き台の上に椰子の葉の屋根を載せただけというか、そういう店の並ぶところで、そのうちの一軒からおこわを買う。
ベンメリアは大木に陽光の遮られる薄暗い広場に面してあった。今は蓮池になっている環濠に延びる参道を進むと、思わず「ホーッ」とため息が出るほど崩壊した遺跡が見えた。この場所はアンコールワット造営のための石を切り出したクーレン山のちかくにあり、崩落した砂岩の質はおしなべて高く、角も整っている。何十年後かに修復されることがあれば、かなり立派な遺跡になるだろう。
シェムリアップから離れていることもあって、この寺院を訪ねる客はそう多くなく、それだけに、日本製の巨大な一眼レフにこれまた巨大なレンズを付けた中国人の姿は目立つ。中にはサブカメラにソニーの"RX1"を持つオバサンもいて、日本製カメラに対する彼らの情報量の多さに大いに驚く。
中国の一部に芸術写真ブームが訪れているのだろうか。ポーズを付けると飴をもらえることを覚えた地元の子供たちは、大きなカメラを持つ人たちを見つけると、その後をゾロゾロと付いて歩き、モデルとして声がかかるのを待つのだ。
シェムリアップとベンメリアを結ぶ地域のベンメリア寄りでは電気が届き始め、電線の敷設が急速に進んでいる。道路沿いでは椰子の木が盛んに伐採され、その細い帯状の場所に電柱が次々と立てられている。
途中ローマ字では"DAMDEK"と表記されるが、地元の人の発音はどうしても「バムベイ」と聞こえる集落に立ち寄る。ここには大きな市場がある。本格的なクロマーを買いたいという僕の希望を叶えるため、ロンさんはこの市場に寄ることを提案した。シェムリアップには観光客用の「なんちゃってクロマー」が多く、また今やクロマーは街場の人はあまり使わないため、田舎の市場が狙い目なのだという。
その、通路は碁盤の目状に整ってはいるが、あまりに広いためまるで迷路のように感じられる市場に足を踏み入れる。外から見たときにはトタン張りでいかにも暑そうに思われたが、風が通るためか中は意外に過ごしやすい。
八百屋があり、肉屋がある。調味料屋があり、乾物屋がある。靴屋があり、化粧品屋がある。魚屋があり、穀物屋がある。プラホック屋があり、食堂がある。
2軒目の布屋で大判のクロマーを見つけ、それを若いころの日色ともゑに似た美人のおかみに、伝統的な長さに裁断するよう頼む。数十枚の裁断には時間が必要らしい。よってひと回りしてくると言って市場の更に奥を目指す。このような買い物は、ロンさんの助けが無ければ、とてもではないが、できるものではない。
シェムリアップで何を見たいか、何を食べたいか、何を買いたいかについては、ロンさんには今月5日にメールで報せてあった。その、数十行に及ぶ希望の中には「スラーモルーを噛みたい」というものもあった。しかしロンさんは「スラーモルー」というカタカナを読んで、何のことか分からなかったという。カタカナとカンボジア語の発音は、当然のことながら一致しない。
「ほら、葉っぱに白いドロドロを付けて、ビンロウの実を添えて、口に入れて噛むと、赤いつばが出るやつ」と説明すると「あー、スラーモルーですか」と、カタカナでは決して表記できない声調で、曖昧母音と英語の"th"に似た音を口から発してロンさんは納得した。
そのスラーモルーを売る店には、ロンさんが他の売り場の人たちに何度か訊ねながらようやく辿り着いた。オバサンははじめ、我々がスラーつまり緑の葉をまとめて欲しがっているものと思っていたが「いや、ひとつ食べたいだけなの」とロンさんが説明してくれたのだろう、スラーに少量の石灰をなすりつけると、その葉をたたみ、そこに半割りにした檳榔の実を添えて僕に手渡してくれた。
僕が1,000リエル、邦貨にして23円をオバサンに差し出すと、オバサンは手を横に振って「お金は要らない」というそぶりをする。僕はオバサンに手を合わせて礼を示すと同時に出来たての檳榔煙草を口に放り込み、グジャグジャと噛み始めた。
その様子を見てオバサンは大喜びをしている。田舎の、ガイジンなど訪ねることもない市場で、ガイジンが口に入れようとは到底思われないスラーモルーを僕が噛んだことが、よほど珍しかったのだろう。檳榔屋のオバサンには厚く御礼を申し上げたい。
どれほどの月日と人手をかけたのか、密林を農民たちが切り拓いた稲田を車窓から眺めつつ、往路に買ったおこわの竹の皮を剥く。ココナツミルクのうっすらと効いた小豆おこわはほんのりと甘く「これ、日本のおこわよりよほど美味めぇんじゃねぇか」と僕を嘆息させた。
帰途にはロリュオス遺跡群の、ロレイへの砂利道を辿る。ヤショーヴァルマン一世の治下、893年に建立されたとされるこの寺院の本体は、後のものよりも薄い煉瓦を積み上げ建てられているが、金剛力士とデバターの彫刻のみは後代とおなじ砂岩に彫られているところが興味深い。
プリアは「聖なる」、コーは「牛」。よってプリアコーは「聖なる牛」と名付けられた寺院で、アンコール遺跡中最古の879年の創建。1,100年以上を経ているにもかかわらず、隠し扉やまぐさ岩の彫刻は、まるでレプリカと見まがうほどに綺麗だ。
バコンはプリアコーと同じくインドラヴァルマン一世の時代881年に建てられた。「あの時代に良くもまぁ」と感心するほど立派な環濠の内側に、その寺院は静かにあった。中央祠堂は16世紀に作り直されたものらしいが、五層構造のピラミッド型基壇は堅固な石組みによるもので、その基壇が南国の太陽に焼かれて乾いた様は爽やかで清潔で「タ・プロームやベンメリアより、オレはこういう遺跡が好きだなぁ」と強く感じた。
今日の遺跡はシェムリアップからは離れていたが、総じて小規模だったため、途中買い物をしながら4つの寺院を巡っても、13時にはゲストハウスに戻ることができた。午後は強い風雨がこの時期のものとしては例外的に長く続く中、ゲストハウス1階のレストランに閉じこもり、僕は日記を、次男は学校に提出する夏休み報告書を書く。
夜は次男の希望によりポンティアコォン、つまりアヒルの有精卵の茹で玉子を食べるため、シヴァタ通りを北上し、国道6号線を左折して間もなく右側の屋台にて、茹でたて熱々のそれを食べる。
ポンティアコォンの後は、今度は僕の希望により、6号線を更に西に進んで、しかし先ほどの屋台からは目と鼻の先のカフェーへ行く。カフェーとは、ステージ付きのレストランで、田舎の歌手が自国の演歌を歌い、客はそれを鑑賞しながら食事をするところだ。タイでは廃れつつあるものだが、ロンさんによれば、シェムリアップではますます盛んらしい。
僕は2010年6月にも経験したカフェーを今回も訪ねたく、しかし「シェムリアップ カフェー」で検索すると、バーストリートあたりの洒落たカフェばかりがヒットして、僕の目指す「カフェー」は見つからなかった。本日ロンさんに確かめたところ、カンボジアではこの手の店を「カフェー」ではなく「ビヤガーデン」と呼ぶらしい。
場末感の横溢するステージを鑑賞しながら暗い席であれやこれやを肴に生ビールを飲む。この街も5日目の夜を迎え、し残したことは極くわずかになった。
ビヤガーデンで飲んでも帰りは早い。今夜はきのうよりも遅かったが、それでも21時台の半ばごろには就寝をする。
目覚めて携帯電話を手探りし、ディスプレイを見ると4時台も最後のころだった。「今日は割と眠ったな」と、顔を洗い身支度を調えて2階の01号室からバルコニーに出る。そうしてコンピュータを起動して初めて、携帯電話が日本時間のままだったことに気づく。今朝の起床は午前2時台、ということだ。
シェムリアップに入って以来、朝5時を過ぎると、ごく短時間の停電がある。それまでは順調に繋がっていたこのゲストハウスの"wifi"が、僕の"Let's note"に限っては、その停電を境としてインターネットにアクセスできなくなってしまった。理由は分からない。
夜が明けて周囲が明るくなるまで日記を書き続ける。蚊取り線香は相変わらず焚いているが焼け石に水のため、今朝からは半ズボンを長ズボンに替え、その裾は分厚い登山用靴下にたくし込むことにした。シェムリアップの蚊は小さく、布の上から皮膚を刺すまではしない。
8時にロンさんの迎えを受け、ポーさんのクルマにて先ずはシヴァタ通りのメシ屋"LILY"に入る。この店の繁盛ぶりは大したもので、僕はホーチミンの"NHU LAN"を思い出した。
タ・プロームはジャヤヴァルマン七世が母の菩提を弔うため12世紀後半に建立した僧院だ。建物の多くの部分は熔樹に侵蝕され、その様が不気味なため僕の好まない場所ではあったが、次男の希望により再訪することを決めた。
20世紀の初めごろは、この僧院に限っては人の手を加えず、熱帯の木々が遺跡を蹂躙するままに任せようとの意見もあったらしい。しかしこのところは、遺跡を支えることに役立っていない木は伐り倒し、アナスティローズ技法による修復が進んでいる。
僕の趣味からすれば、崩れて苔むした遺跡よりは、一部に新品の石を使っても、清潔に再構築されていた方が好みだ。
ブリュノ・ダジャンスによる「アンコールワット」は、飛行機や写真の発達する以前の、絵や図面の多いところが、新しい資料に比べて却って優れているように思われる。この93ページにある、ジャン・コマイユによる鳥瞰図を見て、僕はプリア・カンに行くことを決めた。
プリア・カンはジャヤヴァルマン七世がタ・プロームを完成させて後、今度は父の菩提寺として建立したもので、タ・プロームの北北西に位置する。雨期の今だから広く見えるのだろうか、当時の貯水池を背に東進すると、上部にガルーダ、下部に仏陀を彫り込んだ、リンガに似た柱が参道の両脇に並んでいる。
ジャヤヴァルマン七世は、それまでのヒンドゥー教を仏教に改宗した王として知られている。ガルーダと仏陀の上下関係だけでなく、他の彫刻も見て、僕はジャヤヴァルマン七世が、それまでのヒンドゥー教徒派を宣撫しつつ、しかし敢然として仏教に舵を切っていく姿を想像した。
昼は一旦ゲストハウスに帰り、シャワーを浴びてひと休みする。そしてまたオールドマーケット北側の食堂まで歩き、このあたりを流して歩いておひねりを貰っている曲芸師とおなじテーブルで昼飯を摂る。曲芸師はメシとスープだけの質素な食事を2枚の小皿に取り分け、スプーンを添えて陰膳としていた。その、2本のミネラルウォーターまで添えた陰膳を彼は最後に食べるのか否か、ということを確認する前に当方は食事を終える。
午後はプリア・ノロドム・シハヌーク・アンコール博物館を訪ねる。ここには、ジャヤバルマン七世の没後、国教をふたたびヒンドゥー教に戻した王による廃仏毀釈令を由としない仏教徒達がバンテアイ・クデイに埋納し、後にカンボジアの若い考古学者が2001年に発見した、あまたの仏像が保管展示してある。
カンボジアの歴史を検証する上で第一級の資料の揃ったこの博物館を訪れる客の数を案内のオネーサンに訊くと、最初は躊躇っていたものの、そのうち「1日に2、3人」と教えてくれた。「1日に2、3人」では、今日の見学者は僕と次男と案内のロンさんだけかも知れない。
その後はいよいよクメールの至宝バンテアイ・スレイへ向けてポーさんのクルマは疾走する。アンコールワット遺跡群のすべてを踏破するなどは個人には到底できかねることで、僕もそのごく一部を見たに過ぎないが、それでもバンテアイ・スレイを「クメールの至宝」と呼ぶことに誤りはないと思う。
リンガの林立する、ラテライトのこぢんまりとした参道を往くと、固い赤色砂岩に深く明瞭に彫られた彫刻の数々が、遺跡のそこここに現れてくる。クメールの寺院は東を正面としている。よって日が西に傾くころになると写真の撮影には不向きと、客足は減ってくる。バンテアイ・スレイを訪れるなら、その時間が狙い目かも知れない。
1925年だったか、アンドレ・マルローが盗み出してプノンペンで確保されたデバターは、北塔の南面に向かって右側にあり、一般には見ることができない。しかし警備の警察官に数ドルほども袖の下を渡せば白いロープを乗り越えることができる。
警察官は我々にも声をかけてきたが、取り引きには応じなかった。しかし他の観光客がいなければ、僕は「禁断のリンゴ」を食べていたに違いない。この赤く小さな遺跡を再び訪れる機会が、僕にはあるだろうか。
カンボジアの典型的な平原風景を眺めつつシェムリアップに戻る。そして夜はロンさんに頼み、地元の人の行くチュナンダイ屋へ連れて行ってもらう。埃の立つ未舗装路を進んだ先で食べるメシは、ゲストハウス裏の洒落た一角で食べるメシよりも数等美味く、値段は数等安かった。
ロンさんには「臓物」という意味のカンボジア語を教わり、すぐに忘れる。
アンコールワット遺跡群は、想像を絶する規模と質の高さを併せ持つ後世への遺物である。
1961年物の"Chateau Petrus"を飲んだ人の話によれば、グラスに1杯を飲むのがやっとだったという。ただ満足をして、2杯目を飲みたいという欲求は一切、湧かないのだという。アンコールワットを中心とした遺跡群を見て回ることもまた、そのペトリュースを飲むことと同じように、僕は2010年6月の経験から感じている。
アンコールワットを見るなら、1日目は巨大な環濠に延びる参道の入口に立って「なるほど、アンコールワットはここから始まるのか」と感慨を覚えてゲストハウスに帰る。2日目は環濠を越え、西塔門に達したところで「なるほど、ここを抜ければアンコールワットの中心部が一望できるのか」と期待に胸を膨らませてゲストハウスに帰る。
3日目にようやく第一回廊に足を踏み入れ「あとどれほどの回廊を巡り、塔門を越えれば中央塔の下まで行くことができるのだろうか」と、恐れおののきつつ気も遠くなるほど細密な彫刻を目で追っていく。
そのような手順を踏むとアンコールワットの有難味はいや増す。しかしまぁ、それほど優雅な時の過ごし方のできる人は少ないだろう。
アンコールワットについては2010年6月の日記に真面目に書いたので、2度繰り返す気力は無い。
第二回廊の南側に、柱と梁をコンクリートにで補強してあるところを見つける。フランスがいつごろ行った工事かは知らないが、現代であれば、このような見栄えの悪い工法は採られなかっただろう。
第一回廊と第二回廊のあいだ南側には、クメール寺院の窓に特有の円柱形の桟が、その残骸をさらしている。警備担当者達は日差しを避けて暗がりに逃げ込んでいるから、誰かがこれをザックに忍ばせても気づかれないかも知れない。
第二回廊には斜度の低い木製の階段を新設したところもあるが、敢えてひと気の無い、すり減って足を踏み外しそうな場所を選んでこれをよじ登る。
森本右近太夫が父の菩提を弔い、母の後生の平穏を祈った旨を記した墨書は、中央部十字回廊の柱に小さな文字で十数行ほども書かれている。人に咎められることはなかったのだろうか、あるいは400年ちかくも前には、それほど人目も無かったのだろうか。
昼に一旦ゲストハウスに戻り、シャワーを浴びたり休んだり、あるいはシェムリアップ川のほとりを散歩したりする。そして午後は雨降る中を、アンコールトム中心部のバイヨンへと向かう。
アンコールワットは12世紀前半、スールウアヴァルマン二世の治下にヒンドゥー寺院として完成。バイヨンは12世紀後半、ジャヤバルマン七世の時代に仏教寺院として完成。12世紀はクメールにとって激動の時代だったと思われる。雨期の雨はいくら激しくても長くは続かない。驟雨の去った後のバイヨンは静かで風情もあって良かった。
9世紀末にヤショーバルマン一世の命により建立されたプノンバケンは高さ60メートルの山上にある。本来の参道は崩れ草むして、現在は残念ながらこれを使うことはできない。斜面を螺旋状に巻く土の道を辿り、山上に着いてみれば、2010年には四つん這いで登った急勾配の階段には、木製の階段が新設してあった。
僕がここに裏を返したかったのは、このあたりに駐留していたヴェトナム兵が戯れに的にしたという、胸元に疵のあるデバターを再見したかったからかも知れない。
プノンバケンからはまた、11世紀末に作られた東西8キロ、南北2キロに亘る矩形の貯水池で、当時の土木技術の粋を示す西バライが一望できる。16平方キロの貯水池と、そこから各方面に水を供給する水路の整備など、現在の重機を使っても、一体全体どれほどの時間がかかるだろうか。
帰路、ポーさんのクルマがアンコールワット前を通過したのは17時17分。夕刻の混み合った道を時速20から30キロでゆっくり走り、13分後の17時30分にゲストハウスに帰着する。一ノ瀬泰三は僅々この距離を越えようとして命を落としたのだ。
夜は伝統的な影絵芝居スバエクトーイを観ながら食事を摂る。「スバエクの影絵はポルポトの時代に滅んで、また復活したそうですね」と訊くと「スバエクだけではありません。ポルポトの時代にはすべての文化が滅びました。"no culture"の時代でした。その後はすべて、ゼロからの出発です」とロンさんは答えた。
そしてゲストハウスに戻って9時前に就寝する。
3時台に目を覚ます。部屋には椅子を備えた机が無く、また次男も眠っているところから、2階の共用部分のバルコニーできのうの日記を書くことにする。先ずは水を含ませたトイレットペーパーで、ここの丸テーブルを拭く。何度とり替えてもテーブルを拭くたびトイレットペーパーは黒くなる。しまいには業を煮やし、近くにあった使用済みのバスマットを濡らし、これで拭く。椅子の肘掛けもついでに拭く。
5時にゴミの収集車が回ってくる。暗闇の中から道を掃く音や水を撒く音が聞こえてくる。ちかくのお寺では読経の声をマイクに載せ、それをスピーカーから流している。5時10分ごろ短時間の停電がある。ふと気づくと夜が明け始めている。時刻は5時25分。日本から持参した蚊取り線香は、カンボジアの蚊には一向に効かない。
今日は部屋の移動があるため、スーツケースに荷物をまとめ、7時前にフロントに降りる。そしてロンさんの迎えを受け、ポーさんの、トヨタ製の四輪駆動車に乗り込む。
タイとカンボジアの国境地帯に建つ遺跡カオプラウィハーンには、昨年、ウボンラチャタニーから近づこうとして、しかし2008年以来くすぶり続ける国境紛争により果たせなかった。カオプラウィハーンはカンボジア側ではプリアヴィヒアと名を変える。今回はそこにカンボジア側から捲土重来を期す。
ゲストハウスからほどない場所のメシ屋で朝飯を済ませ、弁当を作らせる。そして7時45分、いよいよ北へ向けて出発をする。シェムリアップからプリアヴィヒアまでは250キロの距離がある。往復500キロと考えれば、これは大旅行になるのだろうか。
7時57分にバンテアイクデイ、その2分後にプレループを通過する。シェムリアップの街とアンコールの遺跡群はしごく近い。
カンボジアの一般道を250キロも移動すれば、かかる時間はどれほどになるだろうかと心配をしていた。ジャヤバルマン7世が整備した12世紀の街道に重なっているのかどうかは不明ながら、しかし現在の街道は太く、山をほとんど持たないカンボジアの平原を真っ直ぐに伸びている。
9時37分にアンロンウェイの集落を通過。ここはポルポト派が政府軍に追い詰められた最後の場所であり、クメールルージュのかつての高官たちが今も住む場所であることをロンさんが教えてくれる。
やがて前方に、一定の高さを持つ屏風のような山が見えてくる。10時55分、プリアヴィヘアの建つダンレック山が間近に迫る。11時00分、遺跡に入るための登録所に着く。シェムリアップからプリアヴィヘアまでの距離は250キロとの情報を信用するならば、ポーさんのクルマは平均時速77キロを以て走り続けたことになる。
登録所で支払った入域料は35ドル。ここからはバイクタクシーあるいは四輪駆動車でダンレック山の頂上直下を目指す。登山路は、紛争のたび微妙に変わる国境線に影響され、クルマの往来する公道としては信じられないほどの急坂が続く。
やがて達した平たい場所にはカンボジア国軍が駐屯していたが、多く家族を伴う彼らの宿舎は家というよりは小屋のようなもので、入域券確認所の"I HAVE PRIDE TO BE BORN KHMER"などという看板とは裏腹に、置かれた状況は気の毒なものだ。彼らの子供は学校にも行かず、この場で観光客相手に物売りなどしている。
その入域券確認所から濡れた砂岩の滑りやすいスラブをすこし歩くと、いきなり第一塔門が見えた。タイ側から来れば、参道入口の階段下に着くはずだ。そして我々はこの寺院のすべてを見るため、先ずは第一塔門から長い階段を下る。紛争前は市場があって賑わっていたという場所には、タイ側から打ち込まれたロケット砲弾などが並べてあった。
さていよいよプリアヴィヒアの取り付きに立ち、参道の階段を登り始める。この階段を登り切ろうとする左側には2004年、フランス政府の助けにより4,913平方メートルから612個の地雷と7個の不発弾を撤去した旨の看板が立てられている。0.5ヘクタールに619個の地雷なら、内戦時代には正に「足の踏み場も無い」状態だっただろう。
崩壊した第一塔門を抜けると、かなり倒れてはいるが、両側にリンガの並ぶ広くて長い参道が現れる。そこを直進して第二塔門を目指す。第二塔門はこの遺跡の中で最も状態が良く、その裏側には乳海攪拌図がはっきりと見て取れる。
古いクメール寺院は回廊の中にまた回廊、その内側にもまた回廊。塔門を抜けると次の塔門があり、更に次の塔門、そしてまた塔門と、その構造は、まるで建築上の輪廻転生を思わせる。
プリアヴィヒアは5つの塔門を持つと教えられたが、全長800メートルの参道を歩くうち、自分が幾つ目のそれを越えたかの記憶も曖昧になってくる。崩落した寺院の一部が国境紛争時の塹壕に使われていることについては、紛争時の修羅場を考えればやむを得ないことだっただろう。
ほぼ完璧なままの回廊の中心に、中央祠堂はあった。かつてはビシュヌ神の祀られていたこの祠堂には、今は仏教の小坊主が寝転がっていたりするが、そのうちのひとりに経を上げてもらい、次男のサイフから1ドルを寄進する。
しかる後には中央祠堂の裏手に回り、中央棟の崩落した跡によじ登る。そして先ほども書いたが建てられてから1,000年以上も屋根の落ちなかった回廊にふたたび入る。この遺跡に残された落書きの多くは1962年、国際司法裁判所の裁定によりここがカンボジア領と認定されて後の、カンボジア人によるものだという。
プリアヴィヒアの回廊は中央祠堂の回りの一重のみで、その裏側は即、切り立った崖になっている。昨年たずねた、タイとラオスの国境にあった遺跡パーテムもまた、同じく砂岩の崖だった。タイとラオス、またカンボジアの国境には、同じような崖が延々と続いているのかも知れない。
プーさんの運転するトヨタ製四輪駆動車はダンレック山のふもとの登録所を13時44分に出発。往路とは少し経路を替えて赤い砂の未舗装路を爆走し、やがて砕石をアスファルトで固めた舗装路を駆け抜ける。
16時00分、深い緑の並木道で白人の乗るトゥクトゥクを追い越して、シエムリアップに近づいてきたことを知る。16時24分プレループ前通過、16時25分サラサラン通過。16時26分バンテアイクデイ通過。そして雨期特有の激しい雨の降る中、16時50分にゲストハウスに帰着する。
晩飯はゲストハウスちかくの洒落た店で、きのうに引き続き、これを"KHMER BBQ"と呼ぶには抵抗があるが、とにかくこれまた洒落た焼肉鍋を食べる。そしてゲストハウスに帰って21時前に就寝する。
午前3時台に目を覚まし、先ずは一昨日の日記を書いてサーバに上げる。その後、きのうの日記に取りかかるうち夜が明けてくる。
我々の乗る"VN301"は09:30発だから、7時30分には空港へ行きたい。そこから逆算して朝食を摂り、7時00分発のシャトルバスに乗る。
"AIRBUS330-200"を機材とした"VN301"は定刻に17分遅れて日本時間09時47分に離陸をした。水平飛行に移ると同時にザックから
「アンコールワット」 ブリュノ・ダジャンス著 石澤良昭監修 創元社 \1,680
を取りだして開く。
国益とは面子の部分もあるが、多くは金儲けだ。ある国がある国を植民地化するときの目的もまた、金儲けだ。ブリュノ・ダジャンスの「アンコールワット」はしかし、フランスの植民地政策とは関係なく、カンボジア西部に広がる大遺跡群を調査し、守ろうとしたフランス人たちの記録である。僕はこの中の、ジャン・コマイユによるアンコール周辺の鳥瞰図を見て、タ・プロームに裏を返すことを決めた。
飛行機の、前席のヘッドレストに埋め込まれたディスプレイによる映画や音楽を、僕は必要としない。飛行機の現在位置さえ確かめられれば満足だ。しかし2011年3月のフーコック島行きに引き続いて、ベトナム航空のディスプレイは今日もフライト・インフォメーションを映し出さない。
「国策? まさか」などと焦燥するうち「いきなり」という感じで目の前に台湾の地図が現れた。12:49に台湾南部に接近。14:37にニャチャンに接近。やがて高度を下げ始めた機の窓から"saigonn"と打ち込むとATOKはすかさず《地名変更→「ホーチミン」》と警告を出してくるからうざったいが、とにかくサイゴン郊外の蛇行した川と緑が見る間に近づいてくる。
その郊外の景色は間もなく街場のそれに変わり、"VN301"は定刻より17分早い日本時間15時13分、ヴェトナム時間13時13分にタンソンニャット空港に着陸をした。
スワンナプームのような巨大空港とは異なり、通路の掲示板に示されていた、乗り継ぐべき"VN813"の出発ゲート12番には、持ち物の検査を受けながらも13時45分に移動を完了する。
今回の航空券を手配したのは今年1月のことだ。そのとき僕の見つけたシェムリアップ行きの便は以下である。
VN311 成田(10:00)~ハノイ(14:30)
VN837 ハノイ(15:30)~シェムリアップ(17:10)
ハノイでの乗り換え時間は1時間と合理的だ。そこで、成田発の"VN311"が遅れた場合、"VN837"はハノイで待っていてくれるかと旅行社に問い合わたところ「残念ながら次の便は待ってくれません」との返事が戻った。
次善の策が今日の以下で、タンソンニャット空港での待ち時間は3時間に及ぶが仕方が無い。
VN301 成田(09:30)~ホーチミン(13:30)
VN813 ホーチミン(15:30)~シェムリアップ(17:30)
12番ゲートちかくの椅子で「アンコールワット」を読みつつ2時間ほども経ったころだっただろうか、白いズボンにコバルトブルーのアオザイを着たオネーサンが、ヴェトナム語であたりの人々に何やら伝え始めた。そのヴェトナム語に「シェムリアップ」という言葉が混じるため、自分のボーディングカードを差し出すと、オネーサンはそこにボールペンで"18"という数字を書き、丸で囲んだ。
"wifi"のパスワードをコーヒーショップのオネーサンに教わって"facebook"活動に余念の無かった次男に「ゲート変更だよ」と声をかけて立ち上がる。僕が飛行機の中で決して酒を飲まないのは、今回のような事態に備えてのことだ。
"AIRBUS A321"を機材とした"VN813"は定刻に僅々5分遅れの日本時間18時35分、ヴェトナム時間16時35分に離陸をした。このフライトでは機はそれほど高度は上げない。機は雨期の水を満々と湛えたトンレサップ湖の上を随分と長く飛び続け、右に旋回したところで機体から車輪を降ろす鈍い音を発した。
シェムリアップ空港には定刻より14分早い日本時間19時16分、カンボジア時間17時16分に着陸をした。気温は30℃よりも低いのではないか。空は青く、湿度もそれほど高くない。
2010年にたまたま案内についてもらい、そのとき「この人は信用できる」と確信したロンさんとは数ヶ月前から電話で、その後は"facebook"やメールで打ち合わせを重ねてきた。そのロンさんの出迎えを受け、今回が初見になる運転手ポーさんの運転するクルマで国道6号線、次いでシヴァタ通りに入る。
僕は、特に次男との旅行では贅沢をしない。しかしまた僕は、ゲストハウスは市中心部にあることを好む。今回のゲストハウスは"Shadow of Angkor I Guesthouse"。オールドマーケット至近の、フランス植民地時代の建物である。
"agoda"で予約した際のヴァウチャーを見せると「今日はツインは満員なので、系列の"Shadow of Angkor II"に泊まっていただけますか」と、フロントのオニーチャンが悪びれた風もなく当方の同意を求めてきたので「それはイヤだわ」と答えて2階の3人部屋に入り、取りあえずはシャワーを浴びる。
しかるのち外へ出て、待っていたロンさん、ポーさんとワットボー通りのバーベキュー屋"Hansa"へ行く。この店はタイの安いムーカタ屋とおなじブッフェスタイルで、好きな物を好きなだけ食べることができるが、タイ人とおなじく運転手のポーさんもまた、煮えやすいものと煮えにくいものを区別せず大量にスープに投入する。また火力を考えず、あれこれ大量に鍋の中心部に盛る。よって僕はほとんど、火の通りやすいイカばかりを食べていた。
日本円とカンボジアリエルの交換比率について、僕はこれをいつまでも覚えられないでいる。オネーサンの持ってきた勘定書をロンさんに見せ「ドルではいくらくらいになるでしょうね」と訊き、オネーサンに30米ドルを渡す。お釣りは6米ドルと3,000カンボジアリエルだった。カンボジアの通貨がリエルに統一されることはあるのだろうか。
ゲストハウスに戻っても時刻は20時前だったため、目と鼻の先のオールドマーケットからバースリートを散歩する。バーストリートは白人だらけの繁華街だが、あたりはすべてフランス植民地時代のものだ。その、せいぜい3階建ての古い建物に紅灯の点る様は異国情緒満点で、バンコクのカオサンなどよりよほど目に美しい。
酔いも手伝ってか、本日2度目のシャワーを浴びることはしなかった。そして21時前に就寝する。
朝に冷や奴を食べるたび「夜の銀座より、朝のトマトジュースの方がいいや」と、紀伊国屋書店創業者の田辺茂一がにっこり笑ったところで「お酒を飲んだ翌朝は、カゴメトマトジュース」という女声コーラスの流れる、40年ほど前のテレビコマーシャルを思い出す。
玄人と素人の仕事には無論、差はあるだろう。それでもなお「家でも食えるものを、わざわざ外で食うこともねぇやな」という気持ちがあって、僕は飲み屋などでは冷や奴は注文しない。しかしたまには人に付き合ってこれを酒の肴にすることがあり、そのたび「冷や奴はやっぱり、朝の方がよほど美味いわな」と、生まれて何十回目かの確信を新たにするのだ。今朝の冷や奴も、とても美味い。
きのうの夜に荷造りしたスーツケースひとつと各自のザックを三菱デリカに載せ、14時48分に次男と家を出る。日光宇都宮道路、東北自動車道を経由して、マロニエ号の停留所「鹿沼インター入口」には15時15分に着いた。
15時54分発のマロニエ号は、自分の行き先を打てば響くように答えられない外国人乗客と運転手との、通常より時間をかけたやりとりのためか、定刻より6分遅れて出発をした。
お盆の繁忙もあって、僕はこの日記を今月16日から途切れさせていた。その16日の日記を書いてサーバに上げ、17日の日記を完成させるとさすがに目が疲れ果てた。よってコンピュータを閉じ、ディスプレイに当たる日を遮るため閉じていたカーテンを開く。右手には荒川の向こうに東京スカイツリーが見えている。
マロニエ号は定刻の18時15分に33分遅れて18時48分に、成田空港第2ターミナルビルに滑り込んだ。バスから荷物を降ろす係のオニーチャンに訊くと、現在位置はビルの3階だという。よってエスカレータで1階に降り、外へ出て31Bの乗り場へ歩いて行くと「朝食無料」と横腹に大きく書かれた「東急INN成田」のシャトルバスが目に付いたため、すかさずこれに乗り込む。
成田空港の周辺には、ふたりまとめても7,000円台で泊まれるホテルがいくつかある。家内と今年2月に使ったホテルも宿泊費はそれくらのものだったが、大して美味くもない晩飯に安くない金額を支払った。
しかし今日のこのホテルはレストランもバーも閉鎖してあり、夕食はフロントで販売する500円の食券を、フロントと同じフロアの一角でカレーライスやスパゲティと交換する形式で、ここまで安値に特化すればむしろ気持ちが良い。次の機会にも、僕はここを使うかも知れない。
成田空港の開業に合わせて作られたホテルには、当時の意気込みが現在では却って古くささを感じさせるような設計が随所に見られる。1978年に「成田プリンスホテル」、1997年に「日航ウィンズ成田」、そして2007年からは「東急INN成田」と、資本の移り変わったこのホテルの浅いバスタブも、当時の名残なのだろう。
そしてその浅い風呂のお湯に浸かって22時すぎに就寝する。
今月14日から始めたお盆のかき氷サービスも、今日が最終日になった。きのうは朝4時台に起きて製造現場に入り、ちょっとした仕事を済ませて後は調理室で、かき氷のための甘露水を作った。きのうの甘露水作りは2度に及んだが、今日は1回で済むと、過去4日間の統計が示している。
開店と同時に、かき氷の機械が動き始める。僕は"facebook"に載せるためのかき氷の画像を撮り、毎朝これを食べている。
「たまり甘露」は、日光の大豆タチナガハと日光のお米コシヒカリ、そして純国産塩のみで醸した「日光味噌梅太郎白味噌」のたまりを甘露水で割ったもので、何とも言えず懐かしい味がする。「いちご」は生のイチゴを擂りつぶしているわけではないものの、ウチの特製のため色はしごく淡い。
「本当のワインで作った本当のワインらっきょうリュビドオル」のワイン甘露によるかき氷を注文されてから「何? ドライバーはご遠慮ください? じゃぁ、オレはダメだ」とキャンセル品の出ることがあり、それもまた僕が食べる。
「お客様がこれだけ喜んでくださるなら、来年もぜひ、この企画を実行したいなぁ」と考える。お客様にかき氷を手渡す窓口の行列は、閉店の時間がちかくなっても途切れない。
そして夜には打ち上げでもないけれど焼肉を食べ、早々に寝る。
チェンライ西北西の山中を次男とトレッキングしてカレン族の家に泊まった2011年8月下旬、僕は現地の露店市場に白菜を見て「温帯の、それも冬に限って収穫される野菜が、小ぶりながらもタイで、それも8月に採れるとは」と、すこし不思議な気分になった。
その、チェンライの白菜に似た白菜が農協の直売所に出ていたから僕は「ハッ」として、すかさず買った。南方から伝わった新種なのだろうか。
2011年3月20日に20,076円で買った"RICOH CX4"が壊れた。マクロでしかピントが合わなくなった。故障はリコーの責任ではなく、僕がたびたび地面に落としたことが原因と思われる。
リコーの"CX"については「後継機はもう出ない」だの「ソースは言えないが確実に出る」だのと、あれこれの情報がウェブ上を賑わせている。カカクコムにおける、現在の最新機種"CX6"の価格は「もう出ない」という世論を受けて高止まりしている。
そんな中、"amazon"で何気なく検索をかけると"CX5"の新品に24,400円の価格が付いていた。在庫は1台。
「種類の異なるSDが3枚も付いているなら、そう高い値段でもねぇわな。しかしここでまた"CX"を買えば、前とおなじ写真しか撮れねぇってことだ」などと考えるうち、そのたった1台の"CX5"は売り切れた。
3日後に行くシェムリアップでは、マクロでしかピントの合わない"CX4"と、今のところは問題なく動いている"GRD III"を、その場に応じて使い分けなければならない。すべて、自分の踏ん切りの悪さが招いたことである。
「誕生日は、また1年、生き延びることができたという意味においてめでたい」とは、オフクロの言ったことだ。娘を14歳で亡くした人の言葉と思えば、大いに納得ができる。そして家内によれば、僕は今日から57歳なのだという。日暮れて道遠しの感が強い。
午前、ふと気づくと事務室の大机の上に、厚紙にくるまれた書籍小包が届いていた。おおかたどこかの会社から届いた、山本夏彦の言葉を借りれば「誰も読まない社史」のたぐいと考え、そのまま数時間ほども置き放したその小包の裏を、午後も遅くなってから返すと、先ず「講談社学芸局」の文字が見え、その下に「著者代送(平敷安常)」とあった。
8/03(土)から読み始めた「キャパになれなかったカメラマン」については「日本語から長く遠ざかっている著者を編集者はなぜ助けてやらないのか」だの「校正がズボラ」だのと好き勝手なことを日記に書き連ねていた。
小包を開けると、そこには平敷安常の最新刊「アイウィットネス・時代を目撃したカメラマン」と共に、今はヴェトナム人の奥さんとニュージャージーで暮らす平敷が講談社にメールで送り、印刷して本に添えるよう言づけたのだろう、みずからの「ヴェトナム後」についての長文の手紙が同封されていた。
写真家集団"Magnum Photos"のメンバーのひとりがある日「優れた写真家って、どんなヤツのことをいうのかな」と独り言のようにつぶやいたところ、そばにいたもうひとりが肩をすくめて「そこにいたヤツさ」と答えたという。
平敷安常こそは正しく「そのとき、そこにいた」カメラマンだ。「そのとき、そこにいる」ためには、カメラマンは常に、超人的な切磋琢磨を自らに科し続ける必要がある。
「評論家とは、すべての分野における二流の人」とは、むかしある役者の言ったことだ。そして僕は二流の人はおろか無能の人である。
今般の思いがけない誕生日プレゼントは、 さして読む人のいない僕のウェブ日記が「そのとき、そこにい続けたカメラマン」平敷安常の操作する検索エンジンにたまたまヒットしたことによる。
「無能な人間が、迂闊なことは書けねぇな」と反省しつつ僕は「アイウィットネス・時代を目撃したカメラマン」を、いつ、どこで読むべきかと考える。目の前に迫ったカンボジアへの旅行では、泥縄式の勉強に追われること必定で、そんなときに平敷の文章を読むのは勿体ない。「だったら彼岸過ぎのタイ北部で、だろうか」と考えて結論は出ない。
腹が減ればメシを食う。眠くなれば横になる。だから「寝食を忘れて」と言えば嘘になる。しかし今月3日から、それにちかいほど熱中してページを繰った、平敷安常による「キャパになれなかったカメラマン」を早朝に読み終える。
「ベトナムは一ヶ月も経つと、誰でもエキスパートになったような錯覚に陥る。ベトナムのことは何でもわかってきたように思えるのだ。だが、また三ヶ月経つと今度は、こんがらがって何もわからなくなる。それがベトナムなのだ、とベテランの記者が言ったのは本当だった」
とはABC放送の、1966年から翌年にかけて平敷とティームを組んだ放送記者デビット・スネルが戦後1988年に、平敷に書き送った手紙の一部だ。
ベトナム戦争はやがてラオスとカンボジアにまで戦線を拡大し、且つカンボジアでは同時期にロン・ノルがシハヌークに対してクーデターを起こし、またポル・ポトが頭角を現した。
ベトナムに限っても「何もわからなくなる」上、隣国を巻き込み、隣国の隣国にまで難民を殺到させ、そこに東西の大国による資金、兵力、武器の援助、また"ASEAN"の思惑までもが絡んで、つまりインドシナの戦乱については、これを直接に見聞きした100人を集めれば、そこに100通りの解釈が生じてしまうほどに複雑だ。
この、熱帯雨林の熔樹や蔓草のように絡み合ったインドシナの紛争について、平敷自身は何も断定しない。庶民で賑わう市場で、家族連れの行き交う路上で、流れ弾が頬をかすめる戦場で16ミリカメラを回し続けるように、平敷は淡々粛々と、自分の目で見たこと、自分の耳で聴いたことのみを文字として積み重ねていく。その客観性こそが「キャパになれなかったカメラマン」の最大の魅力だ。
これほど面白い本には滅多に出会えるものではない。それだけに、この本に最初から最後までつきまとう詰めの甘さには活字を追う目を何度も停められ、音楽を聴く最中にCDのキズ音に煩わされるようなもどかしさを感じた。
文庫版下巻の最終部分だけでも「内戦」を「内線」とした誤植が501ページと526ページに。「綴じた」を「閉じた」とした誤りが539ページにある。著者は後書きで校閲者に謝辞を献じているが、校閲者は職責を果たしていない。
それでも僕は、2週に亘って熱中し続けたため指の常に当たっていたところはすり切れ、目印として折ったページは多数ヶ所に及び、常に携帯されて表紙や裏表紙の反り返ってしまったこの本を、近藤紘一の「目撃者」や岡村昭彦の「南ヴェトナム戦争従軍記」、あるいは石川文洋の「戦場カメラマン」などと共に、生きている限りずっと自分の本棚に保管し、折に触れては取りだしてひもとくだろう。
ベトナム戦争の最中の10年間を、ベトナムとカンボジアで報道カメラマンとして生き抜き、その後も世界各地域の戦場、テロリズムや事件事故の現場を取材しながら更に生き延びてこのような本を著した平敷安常の業績には驚倒すべきものがある。
あと何年を過ごせば、これほど優れた書物に僕はふたたび出会うことができるだろう。「さぁ、困った」…今の僕は、なかばそのような気持ちでいる。
「お盆中ご来店になるお客様に、日光の天然氷のかき氷をサービスとしてお出ししてはどうか」と考えたのは家内だ。家内は人にあれやこれやして上げることが好きだ。経費だの利益だのについてはハナから考えない。家内の案を受けて「何らかの決まりを作らないと、収拾が付かなくなる」と懸念を表したのは長男だ。
かき氷は結局のところ「お買い上げ1,000円につき1杯サービス」というところに落ち着き、10日ほど前から準備に入った。
シロップは
「たまり甘露」(日光味噌梅太郎白味噌のたまり)
「梅ジャム」(8年熟成の果肉入り)
「リュビドオル」(ワインらっきょう"rubis d'or"の漬け液、らっきょうトッピング付き)
の3種類と決め、特に「たまり甘露」については、たまりと甘露水を様々な比率で配合し、社員による投票で味を決めた。
そうして本日朝にフタを開けてみれば、まぁ、かき氷代はタダだから当然かも知れないが、予想した倍の数が夕刻までに出て、当方は嬉しい悲鳴を上げることとなった。
始めてしまった以上、もう後には引けない。18日の日曜日まで、何とか頑張る所存である。
師走ほどのことはないが、お盆もなにかと気ぜわしい。
仏壇の、お盆を迎える用意はきのう叔母と家内が整えてくれた。そして今朝は、お墓の掃除、またお墓に花や水や線香を供えるため、家内と次男との3人で如来寺に行く。気温はそれほど高くない。あるいは、夏の好きな自分だけがそう感じているのかも知れない。
帰社して今度は、日光の朝どれ地野菜を、その朝のうちに「日光味噌のたまり」で浅漬けにする「たまり浅漬け」の材料を買いに、農協の直売所までホンダフィットを走らせる。このところは「四葉」と書いて「スウヨウ」と読む、歯応えの面白い胡瓜が出ているため、それを数十本ほども選ぶ。
四葉胡瓜によるたまり浅漬けはサイトーエリコさんの手により、数十分後には見事なたまり浅漬けになった。それほどたくさん作れる品物ではない。いずれ昼ごろには売り切れてしまうだろう。
午後おそく次男と「三ッ星氷室」に三菱デリカを乗り付け、腰が折れそうなほど重い量の氷を買う。その氷は5分後には、販売係のハセガワタツヤ君により店舗の冷凍庫に収められた。
夕刻、提灯を提げた次男とふたりで如来寺のお墓を再訪する。そしてお墓に立てた灯明から提灯の蝋燭に火を移し、大事に持ち帰って、その火を今度は家の仏壇の蝋燭にまたまた移す。
スワヤンブナートの境内でオバサンから灯明一対を買い、それを妹に捧げてからちょうど1ヶ月、である。
本を読むうち部屋の薄明るくなったことに気づき、枕頭の携帯電話で時刻を確認すると午前4時17分だった。今朝、目を覚ましたのはたしか2時台だったと記憶する。それ以降は、明かりを点けて本を読み、明かりを落として目を休め、時にはうつらうつらし、を繰り返していた。
列島の最高気温は40℃になんなんとしている。日光市今市地区でも、日中は34℃くらいまでは上がる。ただし標高400メートルが効いているのか、夕刻18時を過ぎれば涼しくなり、その涼しさは朝7時まで続く。特に、夜が明けたばかりのころに日光の山々から強く吹き下ろす涼風は、とても爽やかだ。
5時前に製造現場に降りて、社員に頼まれた仕事をする。そして居間に戻っては、窓際の籐椅子で、またまた本を読む。
お盆が近づいている。店の前の国道121号線には、日光宇都宮道路の今市ICから鬼怒川へ向かうクルマが増えてきた。帰省を始めた人たちのクルマだけでこれだけ多いとは考えられない。温泉で休みを過ごそうとする人たちも、そこには多く混じっているのかも知れない。
以前にもいちど経験をしていることだが、"Dreamweaver"が壊れて日記が書けない。よってエディタに文章のみ残して保存する。そして外注SEのシバタサトシさんに連絡をし、助けを請う。
日本にいればすぐ近くに住むシバタさんがすぐに来てくれるから焦ることはない。しかし旅先でおなじことが起きるとちょっと厄介だ。今回の故障のからの復旧方法も、シバタさんには訊ねておこうと決める。
「日光奇水まつり」については2008年からこの日記に真面目に書いているから、その説明は今日は省く。とにかく14時30分に、普段着から浴衣に着替える。そのまま事務室にいて、15時30分に責任役員として瀧尾神社へ行く。
御神水で満たされた、3斗6升5勺の容量を持つ八角形の桶を安置した御輿は16時すこしすぎに宮出しをされた。3斗6升5勺といえば65.7リットルで、御輿はその御神水を威勢良くまき散らしながら日光街道を下る。小倉町の渡邊佐平商店前で小休止の後、瀧尾神社からはおよそ八丁の距離にある追分地蔵尊に至る。
御輿はここからトラックに載せられて、また宮司、役員、自治会長、御輿の担ぎ手たちはバスにて日光市大室地区の高お(雨冠に口を横に3並べして下に龍)神社に移動をする。
高お神社は手入れの行き届いた杉山の中腹に鎮座する素晴らしい社だ。やがてその参道を、瀧尾、高お両神社の氏子たちに担がれた御輿が登ってくる。水のお祭だけに、神社に待機した子供たちは笹の葉に含ませた御神水を、おとなたちに向かって盛大に振りかける。離れてその様子をカメラに収めていた僕も、この水を一滴も受けずにいたら勿体ないと、途中からは進んで水の撒かれる方に身を乗り出したりする。
日の落ちて後に山中の参道を登るのは危険と、今年は昨年までより早くに祭りが始められた。よって直会の時間になっても、空はいまだ明るい。湿熱の季節とあって、参加者のおよそ95パーセントは生ビールを飲んでいる。そして僕は残りの5パーセントのところにいて「清開酒造」の「晃水」を飲む。
神社とおなじ山のふもとにあり、直会の開かれている四阿には、やがて爽やかな風が吹き始めた。4年前のこの日には、祝詞奏上の最中に黒雲が湧き、そこから大量の雨が落ちてきた。よって以降はかならず傘を持参しているが、本日の杉木立には蝉の鳴くばかりにて、いささかのお湿りもなかった。
来たときと同じバスで20時すぎに帰宅し、入浴して即、就寝する。
世界のどこら辺に寄港したかについては知らない。とにかく客船で地球をひと回りして帰国した、友達のトミちゃんが昼ちかくに電話をくれた。
「オレみたいな交流嫌いの人間には、船旅は無理でしょうね」
「そんなことないよ、部屋に籠もって本ばっかり読んでる人もいたよ」
「へぇ、そうですか」
「あと、食堂は嫌いだからって、ひとりでラウンジでごはん、食べてる人もいたし」
というわけで、だったら僕にも客船による旅はできそうだ。トミちゃんの乗った船は「飛鳥」だそうだが調べてみると、来年は横浜から3月12日に発って、おなじ横浜に7月1日に戻る、112日間のクルーズが見つかった。
最も安いプランの早期全額支払いで244万円。これを112日間で割れば1日あたり21,800円。これを高く感じるか、あるいは安く感じるかは、当然のことながら人それぞれだろう。「部屋に籠もって本ばかり読む」のであれば、まぁ、チェンライ奥地のカレン族の家にいてもできる。1日あたりの経費も心付け程度で済みそうだ。
と、そういうケチくさいことを考える人間には、船旅は向かない。しかし農民が鶏や豚を持ち込んでいたり、行商人が椰子の実を売りつけてきそうな船によるメコン川の遡上であれば、いつかはしてみたい気がする。
東京大学のセミは、朝4時35分から鳴き始めた。1本のケヤキに一体全体、何匹ほどのセミが隠れているのかは知らないが、とにかくミンミンゼミとツクツクボウシが競い合うようにして鳴いている。
窓のちかくに置いた扇風機は、きのうから回り続けている。にもかかわらず、首に巻いた麻のバスタオルは、僕の寝汗を吸い取って、しっとりと湿っている。
セミの声があまりにうるさいので、サンダルを履いて龍岡門から東京大学の構内に入ってみる。そしてケヤキの大木を見上げ、しかしそんなことをしてもあたりが静かになるわけではない。きのうから今朝にかけてかなりの量を飲んだため少なくなってしまった水を補給するため、目と鼻の先のコンビニエンスストアでそれを調達する。
荷物を軽くするため、今回はコンピュータの電源コードを会社から持ち出していない。よってバッテリーの残量を慮り、乗り換え案内などは調べないまま甘木庵を出る。そうして恵比寿には随分と早くに着いてしまった。
街路樹が陽の光を遮るベンチでしばらく本を読むうち、スカイウォークの出口から歩いてくるヒラダテマサヤさんの姿が見えた。そして以降はふたりで歩いて"Vector H"に入る。東京大学のセミは元気だったが、恵比寿ガーデンプレイスのそれはカメラを至近に近づけても逃げもせず、また鳴くこともしなかった。
夕刻からは池袋に出て、遠近両用メガネの、ひと月ほど前に完成していながら交換しに来られなかった新しいレンズを、現在のフレームに収めてもらう。今回のレンズは、これから何年くらい使い続けられるだろうか。
池袋のビックカメラ裏でカウンター活動の後、いまだ明るい夕刻を北千住まで移動する。そして19:13発の下り特急スペーシアに乗って21時前に帰宅する。
店舗向かって右の、季節の書を「萬緑」から「鬼灯」に掛けかえる。
これからお盆までは、おおむね晴れの天気が続くらしい。お盆過ぎの大雨は、ウチの、種々の原材料の手当に望ましくない影響を及ぼす。ここ数週間の、まるで梅雨が戻ったような日々を取り戻すほど、晴れの長引くことを僕は願っている。
「"Gregory"の"Day and half"は、この10年間に買ったすべての道具の中で、もっとも優れたもののひとつである」と、僕は今年4月6日の日記に書いた。泊まりがけでどこかへ行くときには大抵、僕はこの"Day and half"に荷物を詰めていく。
ところが着替えの嵩張らない夏にはこの、グレゴリーが「1.5日分」としている容量は大きすぎる。よって先日は、これよりもすこし小さな"Halfday"を、ウェブ上で見つけた最も安い店に注文した。
この"Halfday"にコンピュータやら何やらを収めて背に負い、夕刻より銀座に出る。銀座に出ればカメラ屋を何軒か回りたい。その間の疲れを減じるためザックをコインロッカーに入れようとして、4丁目から数寄屋橋に向かって歩きつつ「しかしこのくらいの重さなら、大したこともねぇか」と考えつつソニービルの3階に上がり、"RX-1"の質感を確かめたり、あるいは合焦速度を調べたりする。
そしてあれやこれやして22時すこし過ぎに甘木庵に帰着する。
「それほど古くもないエアコンディショナーがまったく効かないので、ちかくの電気屋に来てもらったらガス漏れとのことで、ガスを充填してもらった。しばらくするとまたまた効かなくなったので、同じ電気屋に来てもらったらまたまたガス漏れと言われたけれど、バカバカしいからそのままにしておいた」とは先日、オフクロに聞いたことだ。
よって窓を開け放ち、その反対側にある玄関の戸も薄く開け、風が通り抜けるようにした上で扇風機を弱く回す。そして23時ごろに就寝をする。
今日も早くに目が覚めたから枕頭の明かりを点けて平敷安常の「キャパになれなかったカメラマン」を読む。この、上下巻で1,100ページを超える本に未読のページがある限り、目覚めてから朝飯までの時間のほとんどは、これを読むことに費やされるだろう。
それだけ素晴らしい内容を持つだけに、この本の各所にある詰めの甘さにはいかにも辟易する。
上下巻ともに目次の次には見開きで、右にはインドシナ半島の、そして左にはサイゴン中心部の地図がある。サイゴンの地図には黒丸で3つのゲストハウスが示してある。そのうちの、マジェスティックゲストハウスの場所に間違いがある。
マジェスティックゲストハウスは実際には、サイゴン川の右岸を走るトンドゥックタン通りとトゥゾー通りの交差点が作る丁字路の、サイゴン川を背にすれば左の角にある。それがこの本の地図では、右の角からトゥゾー通りつまり現在のドンコイ通りをカラベルゲストハウス方向にすこし歩いた地点をマジェスティックゲストハウスの場所としている。
おとといの日記にも書いたが「キャパになれなかったカメラマン」は2008年に単行本として出版され、その4年後の2012年に文庫版が出ている。その間、この地図を始め文中の誤りを指摘する人はいなかったのだろうか。
「まったくもって、不思議な本だぞなー」と妙な感心をしているうちに夜明けの風景が朝のそれに変わる。関東以北は立秋の今日から本格的な暑さをが始まるらしい。西北西の山からは涼しい風が強く吹きつけている。暑さは大歓迎、である。
浅葉克己と糸井重里が、アメリカに残存する、フランク・ロイド・ライトによる一般住宅を訪ね歩き、カメラに向かって感想を述べたり解説をしたりしている。本日の住宅の名はロッコーゲストハウス。一般住宅にもかかわらずゲストハウスとは、どのような理由によるものか。
「ホールは楕円形」とナレーションは説明するが、実際には床に線で楕円形が描かれているだけだ。「階段は建築家の思想を最も強くあらわす場所」とのナレーションと共にカメラは建物の左奥に設けられた、木製の螺旋階段を上がっていく。
2階は、1階のホールと同じ面積の、日当たりの良い居住空間になっていて、その一角にはダブルベッドとシングルベッドが、それぞれ一基ずつ置かれている。壁の上部にはライトの建築に良く見られる水平の出っ張りが巡らせてある。その中には間接照明の光源が隠されているのだろう。そしてそこには現在の住民の趣味なのか、大きなマヒマヒの剥製が飾ってある。
家具はみな新しいもので、木製による、薄く奥行きのある袋状の箱をいくつも積み上げ、透明の粘着テープでひとつにまとめてある棚が簡素かつモダンで悪くない。
今度はカメラは外に出て、この住宅を正面から映しはじめる。玄関に向かって右側には、アメリカの田舎らしく、干し草が積み上げてある。それはただの干し草ではなく、半分はマリファナが混じっているのだという。
夢がこのあたりまで進んだところで目を覚ます。いつものように枕頭の携帯電話を手探りし、真ん中の大きなキーを親指の腹で押すと、時刻は3時半をすこし過ぎたところだった。夢には、ロッコーゲストハウスの現在の住民が台所で料理をする場面もあったような気もするが、そのあたりについては記憶が曖昧で、思い出すことはできない。
朝5時台に目を覚ますと「もうすこし早くに起きられたら」と、すこし残念な気持ちになる。これが3時台だと「ちょっと早すぎるな、日中には眠気を催すかも」と、いささか焦燥を覚える。結局のところ僕には4時台の目覚めがもっとも特に感じられるらしい。
暗闇に目を覚まして部屋の明るさを目で測り「真っ暗ということは3時台も初めのころか」と、枕頭の携帯電話を探ると時刻はいまだ0時台だった。宵っ張りの人にとっては深夜にもなっていない時刻である。そして明かりを点け、床から「キャパになれなかったカメラマン」を拾い上げる。
この本の著者の経験は希有のものであり、また書かれている内容は非常に興味深く、読む者の心を捉えて離さない。しかし惜しいかな文章が拙いとはきのうの日記に書いたことだ。そして今朝もまた、円滑な読書を妨げるような日本語にしばしばつまずきつつページを繰る。
講談社文庫の上巻では359ページに「チャムという言葉で語尾を終わる土地の地名は」という下りがあって、ここで引っかかる。「土地の地名」では「馬から落ちて落馬する」と変わらないではないか。
おなじく366ページの、メコン川を挟んでコンポンチャムとトンレベレットのあいだを地元民が右往左往する場面では「このとき、沢田教一が写した難民の家族の写真は、一九九一年度の『ロバート・キャパ賞』を受賞している」とある。しかし沢田がその賞を受けたのは1971年のことだ。
ベトナム人の奥さんとニュージャージーで暮らす著者の日本語を責めることはできない。沢田のキャパ賞の受賞年を間違えたのは、ワードプロセッサの打ち違いくらいのところだろう。僕が問いたいのは「編集者は何をしていたのか」ということだ。いやしくも第40回大宅荘一ノンフィクション賞を受けた作品である。単行本から文庫版にするときにも、再校正の機会はあったのではないか。
このところ何週間も、太陽のジリジリと照りつける日は無かったような気がする。そして夕刻になってようやく、申し訳ほどの入道雲が南東の空に立ちのぼる。お盆が過ぎれば夏は引き潮のように去って行く。夏が言葉を理解するなら「暴れるなら今のうちだぜ」と、強く言いたい。
早く寝ればそれだけ早くに目が覚める。毎日ほぼ4時台に目を覚まして何をするかといえば、必要に応じて製造現場で仕事をすることもあれば、この日記を書いたり、あるいはブラウジングをして過ごすこともある。
きのうから読み始めた
「キャパになれなかったカメラマン」(上) 平敷安常著 講談社文庫 \990
は1965年、大阪毎日放送のテレビカメラマンとしてとして27歳でヴェトナムを経験し、翌年からはアメリカのABC放送に移って1975年まで現地で仕事をし続けた、ひとりの職業人の成長物語であり、また読む側にとっては冒険譚ともいえる。
助詞の使い方や、句点で区切られるひとつの文に同じ名詞や動詞を繰り返す癖には違和感を覚えるものの、そのあたりに目をつぶれば、インドシナが戦乱に明け暮れた10年間を網羅する素晴らしい記録で、且つ面白い。文章の専門家でないにもかかわらず人物や戦場の描写に優れているのは、著者が命をかけて真正の経験をしたことを濃厚に物語っている。
このような本に出会うと、仕事は別として夜明けから寝るまでのあいだの寸暇はすべて、ページを繰り活字を追うことに費やされ、ブラウジングなどしているヒマは無くなる。
そうして今日も朝から晩までこの「キャパになれなかったカメラマン」は手放さず、読めないときも取りあえずは側に置いておく。
先月の18日と19日は、バンコクのゲストハウスのプールサイドで野地秩嘉による和食の本を読んでいた。今朝、ソファの上にあったきのうの新聞を開くとその第何面かに、同じ著者による「近藤紘一が愛したサイゴン、バンコク、そしてパリ」という本の広告があった。
"amazon"が古書を売るようになって以来、僕は本はほとんど古書でしか買わない。作家からすれば「このケチ野郎」かも知れないが、新品も古書も読む分には変わらない。しかも僕は本を飲み屋で読む癖があるから、モツ焼きのタレだの冷やしトマトの種だのでページを汚してしまう。
本は新品よりむしろ古書の方が好きだ。出版されたばかりの読みたい本は「古書で読めない」という点において、僕の目には毒である。野地秩嘉のこれは記憶の底に残すことにしよう。忘れたら忘れたで、そのときには縁がなかったとするしかない。
日光市今市地区の花火大会の開催を報せる音だけの花火が、午後より威勢良く上がり始める。
この花火大会では、打ち上げ開始の前後から雨の降り始めることの多いような気がする。あるいは花火の日の雨は印象に残りやすいので、僕だけがそう思い込んでいるのかも知れない。
メシや酒は、器に盛られ、あるいは注がれ、卓にのせられたものを椅子に座って飲み食いするのが一番、美味く感じられる。花火は当然のことながら夜に行われ、これは晩飯や晩酌の時間に重なる。よって僕は花火は、家の食卓や飲み屋のカウンターで、その音だけを楽しむことを好む。
今日の雨は、花火大会の終わるころに降り始めた。「始まるころに」ではなくて幸いだった。洗面所の窓から花火を観ていた家内によれば、イチゴやドラえもんをかたどった花火も上がったという。そしてその解説には「へー、それは面白いね」と居間で本を読みつつ返事をする。
東南アジアの諸物を愛好する僕のことだから、一ノ瀬泰三の「地雷を踏んだらサヨウナラ」については、早ければ1980年代に、遅くも1990年代のはじめには読んだはずと、階段室の本棚では東南アジア関係のものばかりをまとめてある左上の場所を探って、しかし当該の本はどこにも見当たらない。
床の本の山まではひっくり返す気にならず「ことによると甘木庵に残したのだろうか」と長男に訊けば、見た覚えはないとの答えが戻った。
過去に読んだことがあるとすれば惜しい金の使い方だが、シェムリアップ行きを前にこの有名な本を再読したく、"amazon"に出品している古書店にこれを求めたのは先月30日のことだった。そして早くも翌々日に届いたこれを、僕はきのうの夕刻から今早朝にかけて読み切った。
記憶にある個所が皆無だったことからすれば、やはり僕はこれを読んでいなかったのだろう。1980年代には、あまりに話題になったことから、当時は購入することを避けたのかも知れない。
シェムリアップへ行くならこれくらいは読んでおいた方が良いと次男に勧めたいのはやまやまだが、次男は本はライトノヴェルくらいしか読まない。よって"TSUTAYA"の会員権を持つ長男に、この映画版を借りてくるよう頼んだ。家で映画鑑賞となれば晩飯は簡単な方が良い。そして宅配ピザの"MILANO"に電話をし、しかし品物は店まで取りに行くと伝える。
終業後、事務室にいるところに"TSUTAYA"から長男が電話をしてきて、今市店には「地雷を踏んだらサヨウナラ」の映画版は置いていないと言う。よって「だったらキリングフィールドだな」と僕は答えた。
"The Killing Fields"は特に映画通でもない僕からしても、大甘の大甘の、またまた大甘の、スカスカの映画だった。しかし「作品」として味わうことを鑑賞の目的としていたわけではないから別段、落胆したわけでもない。この映画に英国アカデミー賞を獲らせたのは多分、1984年という「時代」だったのだと思う。
そして22時ごろに就寝する。
昨年、エリヤフ・ゴールドラットの本を読む必要に、長男が迫られた。それについては、ウチには僕の買ったものと家内の買ったものが混在してあり、だからそれを階段室の本の山から発掘しようとしたが、遂に見つからなかった。
「ねぇわけねぇんだけどなぁ、今さら買う気もしねぇしなぁ」という僕の反応を見て長男はそれを、国会図書館で読んできた。
「ねぇわけねぇけど見つからねぇ」とは、何もゴールドラットの本に限らない。一昨年は次男に「ウォズニアック自伝」が読みたくなったと請われ、これも階段室に探したが、その行方は杳として知れなかった。
先月27日午後の雨はひどかった。そしてこの強雨によりウチの資材置き場では一部に雨漏りが発生した。出入りの業者に修理を頼んだその場所を、今日も念のため見に行って、そこからの戻り際に社員用休憩所の本棚に何気なく目を遣ると、ゴールドラットの赤や黄色の背表紙がチラリと見えた。
「何だこんなところに」と、古くは1992年からそこにあったそれを引き出し、事務室の大机の、長男の座るところに置いた。「ねぇわけねぇ本」は、やはりウチの敷地内にあったのだ。
「さぁ、次はウォズニアックだ」と意気込んで、しかしこれについては社員用の本棚にも見当たらない。どこに消えたかは依然として不明のままである。