午前、次男と三菱デリカに乗り宇都宮の器屋「たまき」へ行く。僕は絵の額装はすべてここのタマキヒデキさんに任せている。家にあった今井アレクサンドルの絵を表装して額に納めてくれるようタマキさんに頼んだのは数週間ほども前のことだった。
縦1メートル、横2メートルの絵を額に入れたら手持ちのワゴン車には到底収まりきれなくなったから取りに来てくれと3日前にタマキさんに言われて本日、「たまき」の駐車場に三菱デリカを乗り入れれば、巨大な額はその荷台に辛うじて収まった。
夕刻5時30分にタマキさんと「手塚工房」のテヅカさんが来てその額を店舗客だまりのもっとも大きな壁に取り付ける。天井ちかくの照明がアクリル板に反射するのが残念だ。しかし金地に厚く絵の具をたたきつけたその絵は口から水や火を吐く龍に見え、その水や火はやがて雲の柱、火の柱になるのではないか、そういう想像さえさせてしまうこの絵は実に大したものだと思う。
本日はまたオフクロの誕生日にて、1日だけ帰宅した長男も含めて初更、霧降高原の「グルマンズ和牛」へ行く。
八坂祭の子供御輿にも夏休みのラジオ体操にも、小学校を卒業するとみな出てこなくなる。しかし次男は中学2年でもこのラジオ体操に参加し、すると最終日の今日は小学生たちが町内からご褒美の花火をもらうところ、次男には図書券が進呈された。何だか申し訳ない気がする。
「もっとも夏らしい天気は、梅雨明けから2週にわたって続くことが統計上は多い」と、むかしテレビの天気予報で聞いた覚えがある。しかし今年の「梅雨明けから2週間」はほとんど雨ではないか。そしてこのような恵まれない夏を、僕は20代の初めごろに経験している。
今年のらっきょうには豊作の予想があった。しかし収穫期が近づくにつれその予想は怪しくなり、やがて不作が確定した。北海道は日照不足で野菜の収穫に支障が出ているという。ウチの漬物原材料の胡瓜や茄子の動向はどうだろうか。茗荷は収穫期に大雨が続けば一発で不作が確定する。
一向に終わらない宿題をどう処理するか子供たちが頭を悩ませ始める8月下旬になってようやく晴れても、もう遅い。そしてそれは夏野菜たちにとっても同じである。
職場や学校、あるいは一定水準以上の仲間により構成されるIT環境以外、端的に言えばいわゆるケータイメールでeメイルを身につけた人の一部と想像されるが、僕にとって非常に違和感のあるメイルを送ってくる人がいる。
今朝も、自分がどこの誰とも名乗らないまま商品のサンプルを要求する「その手の書式」のメイルが届いた。僕としては返事をする気にもならないが、当店事務室内にその文章を回覧した結果「ことを荒立ててても何だから」という極めて日本的な理由により、とりあえず返信だけは送ることにした。
もっともその内容は「ご希望のサンプルをお届けいたしますので、ご住所、お名前、電話番号をお知らせください」ではなく「生憎と当店にはサンプルのご用意がございません、ご購入は以下からお願いいたします」として当該のURLを添えた。
すでに取引のある関係であればサンプルの無償提供も気軽に頼めるだろう。しかし見ず知らずの人に対するそれについては、細心の注意を以てすべきではないか、そしてそのような気遣いを厭うゆえに僕は未知の人や法人に対する無料のサンプル依頼はしない。
初更に居間へ戻ると「こんなのが出てきたよ」と、ソファに座ったオフクロが白い封筒から数葉の写真を取り出した。そのうち最も色鮮やかだったのは、1972年に登った富士山頂でのものだった。僕の右に、2年上のオームラトミヒコ君が見える。
吉田口の馬返しから頂上を目指すこの登山のための体力作りには、主にクロスカントリー走が用いられた。図書館脇の柴折り戸から出て郊外を4キロほど走り、フラフラになりながら東天寮の脇を通過するとき、後ろから追いかけてきて「ウワサワーッ、体力が無くなったら次は気力ダーッ」と怒鳴ったのが、このオームラ君である。
このときの僕より次男はいまだ2歳若い。背後から上級生に追い立てられる楽しみも、あと3年ほどは残っている。羨ましいとしか言いようがない。
夜は食事の前にシャワーを浴びる。夕食後は直ぐに就寝する。夏になってからは、この段取りが僕の健康維持のためには優れているように思われ、10日ほど前から続けている。9時に就寝して午前2時ごろに目覚めて冷たいお茶などを飲み、それから二度寝をして起床するのが朝の5時となればいささか寝過ぎの感も否めないが、それだけ肉体が疲れているのかも知れない。
そして本日起床直後の山を見る限り、青空は西にごく薄くあるのみにて、だからこれからの天気が良くなるのか、あるいはきのうと同じように崩れるのかの判断はつかない。
春日町1丁目では7月21日から30日までの10日間、ウチの店舗駐車場でラジオ体操を行う。このラジオ体操で腕や首を動かすところに差しかかるたび、肩に乳酸の集まる気配がする。たまにマッサージにかかると「肩、凝ってるねー」などと言われ、そのたび「自分じゃ分かんねぇけどなぁ」と答えてきたが、やはり僕の肩は凝っているのだろうか。
というわけで本日も晩飯の前にシャワーを浴びる。今月8回目の断酒ノルマを今夜は達成したから、以降は月末まで飲み放題である。
直線距離にしてウチから100メートルのところにある「市縁ひろば」では、きのう一昨日とコンサートが開かれていたらしく、夕方から夜にかけて、いろいろな音楽が聞こえてきた。
そういうイヴェントを見に行かず、家でその音だけを聴いているというのはなかなか風情のあるもので、花火についても僕は、これを見ることなく音だけを聞いている方が好きだったりする。
目と耳から同時に入ってくる情報のうち、目からのものを遮断して耳からのみ受け取るようにすると人は格段に疲れない、ということを知ったのは2000年9月24日のことだ。まぁ、長くなるのでこれ以上のことは書かない。
昼のうちに録画しておいた、全国高校野球千葉大会の決勝を、夜になってから観る。八千代東に1点ビハインドの9回表2死ランナー1、2塁という痺れる局面に登板した拓大紅陵のコモトリジョー君は、みずから与えたデッドボールによる満塁のピンチを、次打者をレフトフライに討ち取って切り抜けた。
続く拓大紅陵9回裏の攻撃。同点の走者を2塁へ、逆転の走者を1塁へ送る場面もあってスタンドは沸きに沸いたが彼らが本塁に生還すること遂になく試合は終了した。
甲子園を逃しても夏は終わらない。彼らには、更に70回ほどは夏が巡ってくるのだ。若いとは、ただそれだけでひとつの財産である。
1980年、長いレンズでハウラー橋を狙った1枚が特に印象的な写真集を、カルカッタの本屋で見つけた。「これは良い写真だ」と確信しながらその重さに購入をためらっていると「いま買うなら安くする」と、店主らしき男が僕に向かって言った。彼の黒い顔、その顔の黒さにより余計に大きく見える目と歯の印象からすれば、それは「言った」というより「言い放った」と表現すべきかも知れない。
1982年、カトマンドゥの本屋で、おなじ写真集に出会った。僕はペイジを繰って思い出深いハウラー橋の写真を眺めた。しかし旅の途中で大きく重い品物を買う気にはどうしてもなれない。写真集を本棚に戻す僕を見て店主は、2年前のインド人と同じく「いま買うなら安くする」と言った。
「今夜は鬼怒川に泊まって、あした帰るんですけど、やはり漬物はあした買った方が良いですか」というお客様には、ウチは躊躇することなく「そうですね、その方が宜しいです」と、お答えをする。ウチの品物は要冷蔵だし、あしたの帰りがけにお寄りいただければ、より新鮮な商品をお渡しすることができる。
ところで日本にも「いま買うなら安くする」という商売があるだろうかと考えれば、それはそこここに転がっている。その典型が、大手のショッピングモールでよく見かける「タイムサービス」というやつである。
きのう「8月4日までに」と依頼された仕事を朝のうちに仕上げ、メイルに添付して送付する。ひとつの作業を早く終えたとき、そこに次の作業を充填すれば仕事の能率は加速度的に上昇する。それをしないのが僕の駄目なところだ。
午後、新潟県に住む人の日記に「梅雨明けはいつになるのでしょうね」とあるのを読んで「梅雨? とうの昔に明けているだろう」と驚いたが、考えてみれば気象庁が梅雨明けを宣言して以来ずっと、雨がちの日々が続いている。
まるでフェーン現象のような気温と湿度に疲れて初更「ユタの店」へ行く。次男はこの3日間で3杯目の担々麺を食べた。僕は皮蛋で焼酎のオンザロックスを飲む。
マドラスの雑踏を歩いていて、人々の肌から立ち上るクミンの香りにうっとりしたことがある。先日は外国のお客様が集団でご来店になり、その身体からなのか服からなのかは判然としなかったが、南方中華の香りに旅心をそそられた。
台湾や香港は南方というには大げさかも知れない。しかしそのあたりも含めてたとえばバンコクのチャイナタウンやシンガポールに漂う、何とも名状しがたい香りが僕は好きだ。
次男とクボ君、スエイシ君の3人を午前10時に日光東照宮の社務所まで送り、同じ場所へ正午に迎えに行った。そして昼飯を食べるため山を下って中華料理の「翠園」に入った。
僕の注文品は酸辛湯麺で、これが自分の前に運ばれたときには、やはりその南方中華の香りにクラクラした。普通の中華料理屋のメシに、この種の香りを聞くことはない。
そして「行きたいよねぇ、南の方へ」と、強烈に思う。
日本経済新聞の「私の履歴書」はいま加山雄三が書いている。
自身も経営者のひとりとして加わっていたホテルが倒産し、その騒ぎから逃れるためロサンゼルスに逃亡した加山は、そこから東京の松本めぐみに電話を入れる。
「わたし、ローマに行くの。いいじゃない、私が行きたいんだから」の松本のことばに目覚めた加山が 「おれもローマに行く。凱旋門で会おう」と口走ったところが本日の最終行で、僕は「いや、ホントっすか、カッコ良すぎるっす、若大将」と感動した。
小学生時代の僕はアルベール・モラリスの「素晴らしい風船旅行」や黒澤明の「赤ひげ」を観ることもあったが、圧倒的に多く見物したのはクレイジーキャッツの「無責任男シリーズ」と加山雄三の「若大将シリーズ」だった。
このシリーズの中で加山雄三演じる田沼雄一は様々な危機を乗り越えるべく、東京の街をクルマやオートバイで疾走する。それが時には「麻布から神宮へ行くのに代々木の体育館脇は通らねぇだろう」という突っ込みどころもあって、しかしそれを嗤うのは野暮というものだ。
加山雄三の「私の履歴書」は、細部を廃した直接話法や急な場面展開など、読む者をまるで映画を観ているような気分に誘う。また「若大将シリーズ」でおなじみの「いや、ホントっすか」と思わず問いたくなるケレン味も劇場性を帯びた文章に色を添え、大いに興味深い。
今でも4時をすぎれば空は白み始める。しかし夏至などはもう遠い過去に去ってしまったような気がする。
シェークスピアの「真夏の夜の夢」の"midsummer"は夏至のことで、だから正確には「夏至の夜の夢」とされるべきだが、現在の日本においてこの戯曲の題名は「夏の夜の夢」がほとんどすべてではないか。
叔母の使っていた、押し入れを改造した小さな勉強部屋を僕が譲り受けたのは小学3年生のころだったと記憶する。小さな部屋に合わせた縦横1メートルほどの小さな本棚に坪内逍遙訳の「ハムレット」があった。
表紙と背表紙の「ハムレット」の「ム」の文字は装丁家の案によるものだろう「△」と表記されていた。そのころの僕はそもそも「ハムレット」という物語があることも知らず、だからこの「△」を読むことに苦慮し、△なら□の仲間だろうと、これを「ハロレット」と解釈していた。
この本の1ページ目を開いてみればそこに「そこもとは何者ぢゃ」という下りがあって、その「そこもと」が分からない。僕はその部分で挫折し、以降52歳の今日までシェークスピアの著作はただの1行も読んでいない。
僕より4歳年長のマイタイさんによれば、自分の子供時代には東映の時代劇が全盛だったこともあり、「そこもと」などという言葉はそれこそ誰でも知っていたという。僕ももうすこし早く生まれていれば「真夏の夜の夢」も読めていたかも知れない。
初更、次男が同級生ふたりと共に帰宅したため、晩飯はすき焼きにする。
頭上から顔をめがけて風が吹きつけている。「この部屋の天井に扇風機など無かったはずだが」と考えながら目を覚ますと、それは細く開いた窓からの朝風だった。
午前4時20分の山は晴れている。夜明けは綺麗でも、今日も暑くなるかどうかは知らない。新聞を取りに外へ出ると、軒先で巻いた風が風鈴を賑やかに鳴らす。「盛夏よできるだけ長く、残暑は更に長く」と願う自分がそこにいる。
夏らしい、美味いものが食べたいと思う。それはたとえば鱧の梅肉和え、というようなものではない。畑で熟した茄子、畑で熟したトマト、畑で熟したオクラ、畑で育ちすぎた胡瓜、そういうものの、採れたてのところを食べたい。
初更、冷えた白ワインを飲む。
店舗はきのうから夏の営業時間を採用し、閉店時間は通常より1時間おそい夕方6時30分になった。梅雨が明けてもカラリと晴れ上がる日がなかったため、つい失念していた夏の暖簾を今朝になってようやく出す。犬走りの軒先には風鈴も提げた。
十代のころの日記に、冬は好きだが夏は好きでないようなことを書いた覚えがある。しかしそれは本心からのものではない。夏は生まれて以来、ずっと好きだ。
異物の混入を避けるため手首を絞った白衣や帽子を身につけ終業後の製造現場にいると、やがて汗が噴き出し身体から力の抜けていく気がする。それでも当方はそう長いあいだ作業をするわけではない。
初更にシャワーを浴び、断酒をして9時前に就寝する。
きのうは「湿地」ということばにより"Reconquista"というスペイン語を連想した。その"Reconquista"からは「右翼」の2文字が浮かぶ。「右翼」として僕の印象に最も深いのは野村秋介で、この人が大手町の経団連を襲ったとき、僕はそこから600メートルの中華料理屋で五目焼きそばを食べながらテレビの実況中継を見ていた。
これから書く団体は、上記のような右翼ではない。右翼を騙った押し売りである。
「こちら千代田区平河町に事務所を構える政治結社、政治経済研究会と申します」で始まる電話がかかったのは今年で2度目になる。「靖国神社の創建140周年を記念した本を出したから48,000円で協力してくれ」という売り文句も春のそれと同じだった。
ただ断るのも芸がないと考え「靖国神社の境内から飯田橋に抜けるあたりにインド人の写真を埋め込んだ石碑が建ってますよね、そのインド人の名前、知ってますか?」と訊いてみた。すると先方はにわかに怒鳴り始めたから「売ってる本人がその程度じゃ、しょうがねぇなぁ」と言ってあげた。
今回の相手の最後のせりふは「買ってくれないの~?」だった。いきなり可愛くなられても、当方は当惑するばかりである。
店舗駐車場の南端に1本の紅葉がある。駐車場でもここだけはコンクリートが無く、土は銭苔で覆われている。雨が途絶えるとこの銭苔は乾燥し、周囲の草花もしおれてしまうからホースで水を撒く。
撒いても撒いても夏の乾いた土は水を吸い込んできりがない。よってホースの先端を紅葉の真下に置き、蛇口を絞ってごく少量の水を出しっぱなしにしておく。やがて銭苔のところどころにある窪みに水が溜まり、あたかも上空のヘリコプターから湿地帯を観察しているような錯覚を当方はおぼえる。水たまりにはいくら接写モードにしてもカメラでは到底とらえきれない小さな昆虫がたくさん泳いでいる。
"Reconquista"ということばが頭に浮かんだのは「湿地」が「失地」を連想させたからだ。もっとも"Reconquista"は日本では「失地回復運動」ではなく「国土回復運動」と訳される。
グラナダのアルハンブラ宮殿が陥落したのは、コロンブスがアメリカ大陸を発見したとおなじ西暦1492年のことだ。
朝飯を食べながら「昼飯にはあれが食べたい」とか「晩飯にはこれが食べたい」と家内に頼んで疎んじられる。しかし次男も7月の上旬、雨と風の上高地で「夏休みに帰ったらすき焼きが食べたいです」のハガキを書いたのだ。
8月の上旬には長男、次男と3度の外食をする。朝飯を食べながら晩飯の内容が気にかかると同じく、今からその場所を考えて高樹町の"LAUBURU"、神保町の「七條」、湯島無縁坂下の"Caudalie"の3軒が浮かぶ。
洋物ばかりが並ぶのは、僕の最も好むお酒がワイン、ということが多分に関係している。そして長男に「これでは均衡を欠いているだろうか」とメイルを送れば「和を入れるならシンスケ、中華なら栄児家庭料理でしょうか」と返信があった。
よって8月上旬の3度の晩飯は"LAUBURU"、「シンスケ」、「栄児家庭料理」のラインで行くことに決める。
次男の同級生の親から「登山」という表題の同報メイルが入っていた。本文にあったURLを辿るとそれは「徳澤園」のウェブ日記だった。その今月13日の「J学園」とは自由学園のことだ。先方は気を遣ってアルファベットの頭文字にしたのだろうが「はっきり書いてくれて良かったのになぁ」と思う。
その「徳澤園」で次男が書いたと思われる絵はがきの最後のセンテンスは「夏休みに帰ったらすき焼きが食べたいです」だった。
午前10時より4階の応接室にて社員ひとりひとりと面談をしながら夏の賞与を手渡す。
ポケットコンピュータ"PC-1262"は1980年代の名機だ。この裏ブタのネジが1本だけ抜けてしまったため午後、シャープの修理相談窓口に電話をする。
「大昔のマシンでも、ネジで留めるだけだから簡単でしょ」と訊くと、ポケコンの場合には先ずサービスセンターに持ち込んで技術者の見解を聞いて欲しいと、電話の向こうのオネーサンは答えた。
僕はシャープのウェブペイジを見ながら「でも御社のサービスセンターって、北区東田端、墨田区石原、大田区南馬込って、交通の不便なところばかりなんですよね、銀座とか、せめて秋葉原にあればなぁ」と、一応は言ってみる。するとオネーサンは「私は東京の人間ではないので、何とも、、、」とのことだった。僕がかけている"0120"で始まる電話は、一体どこに繋がっているのか。
"PC-1262"はウチには複数台あるが、自分が十数年のあいだ愛用してきた1台を、できれば直して使い続けたいのだ。
八坂祭はきのうようやく終わった。お祭りに直会は付きもので、今夜は役員のそれにて小倉町の「一葉亭」へ行く。
カタパルトから打ち出された戦闘機のように、朝からいきなり忙しい。そういう繁忙の最中に「いま、そちらの地域の電力消費量について調べているんですが、お手元の検針票をご覧いただいて、そこにある番号を教えていただけますか」と、丁寧な口調の電話が入る。丁寧であってもその声は卑しい。卑しい仕事をしている人は、それが声に出る。
「電気料は自動引き落としされますから、検針票がポストに入っていても、ウチは見ないで捨てちゃいますねぇ」と、相手にせず電話を切る。すると先ほどとは異なる、しかしやはり卑しい声の、同じ内容の電話がすぐにまたかかってきたから「バカタレ」と言って受話器を置く。
その、「バカタレ」と言った瞬間、事務室に入ってきたばかりの取引先の顔が見えて「しまった、彼はオレのことを乱暴者と誤解しただろうか」と心配するが、もう遅い。取引先は仕事のついでにリュビドオルを4個も買ってくださった。
本日は夕刻6時から、子供御輿のテントと会所の飾り付けを撤去することになっていた。そうしたところ午後4時にイワモトミツトシ自治会長より「夕立が来そうだから片付けは今すぐに行う」旨の呼び出しがかかる。「こんなに忙しいのに無理ッ」と思ったが、断るわけにもいかないため事務係のコマバカナエさんに言い置いて会所へ駆けつける。
妹の祥月命日にて朝、墓参りのため家内と如来寺へ行く。
本日は午前から吹き続けた熱風が、街をカラカラに乾燥させた。夏らしく、しごく心地よい。次男から届いた蝶ヶ岳の絵はがきを見る。
午後、この日光市今市地区が観測史上最高の気温を記録したことを、インターネットのニュースで知る。「観測史上最高の気温」とは35.6度だという。それでもウチの事務室に冷房は入れていない。
青年御輿の片付けを、夕刻6時より町内の人たちと行う。本日は10名が集まったから作業は楽だった。きのうの直会を原因とする二日酔いにより本日は何もできなかったという人が「ところで都議選の結果、どうだった?」と訊く。「自民が惨敗で、公明と合わせても過半数割れです」と答えると「政策からすれば、幸福実現党を応援してたんだけどなぁ」などと言う。その党の当選人数については、僕も知らない。
支給された缶チューハイを会所の前で飲み、家の前まで戻れば南西の空に不思議な雲が出ていたため、その写真を撮る。そして更に飲むため日光街道を下る。
「自分が"GOURMET"に書いた全20店のうちの5店は浅草にある、そのうちの3店は既にして無い」というようなことを昨年11月24日の日記に書いた。無くなった店の中には串揚げの「光家」も含まれる。
ところがおとといモツ焼きの「千代之家」から馬道通りを渡り、浅草駅の裏口からプラットフォームへ上がろうと歩いていくと、元の場所のすぐ右隣に「光家」の電飾看板が見えた。よって僕は驚き喜びつつ引き戸を開け、店が再開したことをおかみに確認して、次回の来訪を約した。
そして長男に「光家復活」という表題の携帯メイルを送れば折り返し返信が届いて、そこには「京都から戻ったら直ちに行きます」の文字があった。長男は近々京都入りをするらしい。
「蝶ヶ岳の登山は生まれて以来の、もっとも苦しい経験だった」との電話をきのうかけてきた次男も、「光家」の復活を聞けば喜ぶに違いない。
本日は青年御輿と子供御輿がそろっての町内巡行があった。初更その直会にて「ふみよし」へ行く。カウンターには長老が並び、入れ込みにには子供たちがあふれている。それに押し出された形の青年会員たちは外に張られたテントで酒を飲んでいる。僕は1時間で中座し、家で飲み直しをする。
ふだん僕がしている夕刻以降の仕事の、今月8日から15日までの分はすべて社員にその代行を頼んだ。8日から10日までは出張だった。今日から15日までは八坂祭にまつわる諸行事がある。
町内役員が朝7時に春日町1丁目公民館へ集まり、会所の設営と子供御輿の組み立てを行う。その朝のうちにタケダミッチャン宅に、おむすび用のたまり漬を持参する。おむすびは、御輿を担ぐ青年会のための炊き出しである。
夕刻5時30分に町内会所へ行き、途中から子供御輿に合流する。いったん帰社して用事を済ませ、店舗犬走りの照明を点灯する。
瀧尾神社を午後4時30分に宮出しされた大御輿は旧市街南端の追分地蔵尊へ至り、そこからふたたび日光街道を遡上してくる。大御輿の重さは何トンとも知れず、事務局の面々と多くの担ぎ手がこれを巡行する。大御輿がウチの駐車場に入ったのは予定どおりの7時だった。
小休止の後、大御輿は暮れかかった街道を更に遡上する。子供たちの叩く鉦と太鼓がまるでガムランのように人を酔わす。大御輿は徐々に北上し、ようやく8時前に宮入りを果たした。僕はただちに神社を出て町内会所へ向かう。
春日町1丁目の呼びかけに参じてくれた助っ人に振る舞いをする、その準備を町内会所にて行う。会所はやがて人々で満杯になった。そして9時30分、ほとんどの人の帰宅したあとの片付けを町内の面々と行い、若年者は畳をから拭きする。八坂祭は14日まで続く。
朝5時に目を覚ます。空には晴れ間も見えるが風は極めて強く、木々の葉の擦れ合う音が怖いほど耳にちかい。次男がいま遠足で登っている北アルプスの蝶ヶ岳では、稜線から斜め上に石が飛んでいるのではないか。
マネジメントゲームの2日目は、第4期の経営計画で幕を開ける。僕は第1期から第4期にかけて徐々に赤字額を減らし、第5期において一気に損益分岐点比率52%、自己資本476、決算速度28人中4位の成績を上げた。実際の商売も、こうありたいものである。
2日間5期の経営を完了して自己資本が参加者中の最高を記録した最優秀経営者賞にはミツヤケイゴさんが、2位の優秀経営者賞にはサトーエムヒデさんが、3位にはコモリユータさんが輝いて各々の表彰状を手にした。
締めの講義を聴き、原稿用紙2枚分ほどの感想文を書いて、この2日間の研修を終了する。計算もおぼつかないほどの初心者にもかかわらず最優秀経営者賞を受賞したミツヤさんの"VW T3"で逗子駅まで送ってもらうと、時刻は既にして夕刻6時がちかかった。
浅草には7時40分に達したが20分後の列車で帰宅するのは忍びない。少々の飲酒を為して21:00の下り最終スペーシアに乗る。
きのう一緒に飲んだうちのpaopaoさんと一緒に朝、逗子へ移動する。駅まで来てくださっていたカワモトユージさんのクルマに乗って「葉山研修センター」に着く。1年ぶりの「湘南MG」に出席をするため、今日はここに来た。
2日間で5期分の経営をするマネジメントゲームは、そのとき試してみたいことを盤上に自由に展開することができる。しかしまた自らの宿痾が見事に露呈されることもある。上質の材料を使い、だから価格も高くなり、それゆえ売れる数がごく限られてしまうとは、僕が実際の仕事において開発する商品の大きな特徴である。
マネジメントゲームの概要を解きながら進められる第1期、参加者各自を経営者としたゲームを伴う第2期、第3期をしのぎ、初更7時すぎより"Strategy Accounting"の講義を西順一郎先生より受ける。
そして8時30分からは別の研修室へ移動して、サトーエムヒデさんによる「マイツール裏の道教室」の生徒となる。それ以降は102号室でまた別の勉強会が開かれたが、その途中より僕は自室に戻って就寝する。
今夜の知的交流会は当初「三政」で行おうと考えていた。ここは僕が新橋で一番好きなモツ焼き屋だ。
しかしすべての参加者が揃うのは意外に遅くなることが分かったため、その時間には満席必至の「三政」はあきらめ、店の手配は新橋に仕事場のあるYOちゃんが代行してくれるよう頼んだ。「ぐるなびにクーポンを出しているような店は避けてください」というのが、僕の付けた条件だ。
いまだ夕刻の空の残るころに新橋の街へ出ていく。YOちゃんが予約してくれた店は路地奥の「鳥藤」だったから僕は嬉しく感じて、遅れて到着したまじゅろさん、paopaoさんとの4人で意義ある数時間を持つ。
マルディヴのグライドゥー島ではKnud Pedersen、Jan Terstadというふたりの北欧人との3人でメシを食い、海で泳ぐことが多かった。そうして1週間が過ぎたころ、首都のマーレ島へ我々を送る漁船が島に近づいた。
グライドゥー島は礁湖の中にあるから船が少し大きくなれば接岸はできない。我々は小さな手こぎボートに乗り、沖の漁船を目指した。
スウェーデン人のKnud Pedersenは日本のことを実に良く知っていた。儀礼上、僕もスウェーデンについての話題を何か出さなければいけないところだが、彼の地について、僕は特に詳しくなかった。
ふと思いついて「いつかラジオで"Dear Old Stockholm"を聴いて『これは凄げぇな』って驚いたんだよ。『誰が弾いてるんだ、これは』と注意してたら、チック・コリアだったんだな、でもどこを探しても、そのレコードは見つからないの」と言ったら「その曲は古いフォークソングなんだ」と彼は答えた。
グライドゥー島での、言葉では言い表しようのない不思議な1週間から四半世紀以上も経った今、僕は家で
"Dear Old Stockholm" Eddie HIggins Trio Venus Record B00008Z6NR
を聴いている。ライナーノートによれば、エディ・ヒギンズはホテルのラウンジなどで演奏することの多かった二線級のピアニストらしい。しかし彼の"Dear Old Stockholm"は僕の古い記憶にあるチック・コリアのそれにまったく劣らない。そして考えてみれば、僕の持つジャズのレコードやCDには楽器の種類を問わず、大スターよりも地味な演奏家によるものが多い。
「ビッグターミナルからひと駅はなれた街が面白い、たとえば神泉とか」と、川本三郎は書いた。「二線級」と言っては失礼だが地味な演奏家にも「ビッグターミナルからひと駅はなれた街」の趣があり、彼らの持つ渋さや叙情性は大スターの輝きを大きく凌ぐことがままあると、僕は感じている。
いま自分がどこにいるのか誰も知らない、そういう状況で酒を飲み本を読んでいるときほど気分の落ち着くことはない。そしてその場所は場末の飲み屋か盛り場のサウナを最上とする。
場末の飲み屋にも「名店」というものがある。しかし「名店」にはどこか背筋を伸ばすことを人に強いるような雰囲気がある。気分を楽にしたいときには、わざわざ安直かつ雑駁な店を選んで飲む。
サウナの休憩所では何を飲むか、普段あまりビールを飲まない僕でもサウナではこれを飲む。このときもっとも好きな肴はハムエッグだ。ハムエッグがベーコンエッグであれば脂身が多いだけより嬉しい。
サウナのハムエッグにはトンカツソースをかける。しかし家のベーコンエッグにはディジョネーズソースを添える。そして今夜はそれで冷えた白ワインを飲む。
秋田県の能代市には小さいけれども優れた市場がある。当然のことながらここには季節により様々な海のもの、山のものが出てくる。漬物も出てくる。なぜかステーキに適した鯨肉、というようなものもある。魚醤は年を通じてある。
市場と食卓のあいだに業者が入ると、商品の価格はガツンと上がる。しかし業者がいなければ、当方は彼の地の好物を食べることができない。そのような矛盾を一気に解消するのが、いわゆる「親切な人」だ。
そうして今夜はそのようなあれこれにて、ごく少量の焼酎を飲む。
午前から暑くなりそうな雲行きでもあるし、あるいは午後に強く雨の降りそうな雲行きでもある。朝の雲を見て、その姿の良さを撮ろうと窓を離れ、カメラを持って再び山の見えるところへ行くと、もう雲の形は先ほどとはまったく異なる線を描いていて僕を困惑させる。
7月最初の土曜日とあって、ギフトのご注文をくださるお客様が相次ぎ、事務室と店舗のあいだを慌ただしく往復する。特に難しい荷造りを必要とするご注文については、その発送伝票を携えて製造現場へ行き、担当者に細かく説明をする。
初更に強い雨がある。おとといに引きつづき、社員数人と晩飯を食べる。来週の半ばからは飲酒の機会が増すため、今日はとりあえず断酒をする。
宅急便の荷札を発行するプリンターが事務室に2台ある。その"EPSON"の機械は今風に薄いプラスティックを多用した筐体のもので、その華奢さには導入当初から違和感を覚えていた。これがこのところの繁忙によりますます変調の度を強くしてきたため、きのう業者に相談をした。
そうしたところ新しいプリンターは今日にも設置できるとのことにて、早くも午後には"OKI"の2台が現場に収まる。
その際に立ち会った外部"SE"シバタサトシさんの父シバタヒロシさんが、見事なスモモを持ってきてくれる。訊けばこれは、農家で収穫を手伝った分け前だという。
スモモには多くの種類がある。子供のころ、これの黄色味の勝ったものを「ハタンキョウ」と教えられ、しかし当方はいまだ幼かったから「ハタンキョウ」とは覚えられない。まわりの大人と「バタンキュー」などと言って笑いあったことも懐かしい。
いま検索エンジンで調べてみればこれは「巴旦杏」と表記されるらしく、今日はひとつ利口になったが、いずれこの三文字も明日には脳から去るだろう。
店舗駐車場の紅葉の下には銭苔があり、そこにはバラや山椒など、オフクロや社員の趣味をごった煮にしたような植物が育っている。その植物群の中ではこのところ桔梗の勢いが良く、今朝も大きく花を開いている。
その植物群とは駐車場のほぼ対角、店舗北側に並んだ8本の樫の木は、殺虫剤のたぐいを一切使わないためアブラムシが頻繁にたかり、年のうちかなりのあいだ、虫もとろも葉を丸坊主にされていた。
「それじゃ意味ねぇだろう」と、これら8本のすべてを撤去し、替わりに10本のスカイロケットを植えたのは先月のことだった。これから来る猛暑の日々に、この針葉樹は元気に育ってくれるだろうか、というのが目下の心配である。
終業後、社員数人と晩飯を食べる。そしてカリフォルニアの白ワインをボトルで4分の3ほども飲む。
社会保険労務士のキミシマさん、オカザワさんに要点を確認しながら午前、夏の賞与の算定をする。今日のこの仕事があるために、きのうは東京での仕事が長引いても泊まるわけにはいかなかった。
書類への数字の記入と計算を終えて事務室に戻ると、いまやたけなわとなったお中元に、ウチの"rubis d'or"をお選びになったお客様の注文書がファクシミリで送られてきたところだった。
僕の開発した商品は数が出ない。そういう商品にまとまった注文が入ると何やら不思議の念に打たれ、しかし当たり前のことだが「不思議がってちゃしょうがねぇだろう」とも思う。
夕方になって、店舗前に置くためのインパチェンス6鉢を、農家のユミテマサミさんが持ってきてくれた。そしてすっかり花の数を減らした6鉢のベゴニアを、引き換えに返却する。
「賞与の算定が済んだから」という気持ちもあって、夜は外に飲みに出る。