朝の食卓には通常、味噌汁があるが、今朝はその代わりにトマトと玉子のスープが運ばれた。僕がこれを初めて口にしたのはカトマンドゥの"Hotel Rara"で、あれは1990年のことだった。
このホテルには守衛も制服を着たメイドもいたから、当時のカトマンドゥでは中級クラスといったところだっただろう。しかし西欧のホテルの中級クラスとはワケが違う。僕が泊まったときには厨房が工事中で、料理はすべて屋上のペントハウスで作られていた。
そのころの僕は前触れもなしに高熱を発することを常としていた。カトマンウドゥでもいきなり38度を超える熱を出し、"T.U.Teaching Hospital"の厄介になった。バザールの薬屋に処方箋を持ち込んで買ったインド製の抗生物質は劇的に効き、熱は早くも翌朝には下がった。
平癒に安堵しながら"RARA HOTEL"での晩飯の初っぱなに頼んだのが"tomato egg drop soup"だった。このスープを飲むたびに僕は、あの大学病院で僕を診てくれた、西域の血を感じさせる色白の医師を思い出さないわけにはいかない。
小学校4年生のときから続けたテニスクラブの練習に次男が参加をするのも今日が最後となった。5年生以下の有力な選手は大きな大会へ行き、きのう来ていた6年生はなぜか今日はひとりもいない。
いつもよりかなり閑散としたテニスコートで午後12時30分、指導に携わってくださったコーチや親たちに挨拶をする。帰宅の途中でいつも田の畦道に見える梅の古木は、いまだその白い花を散らしていない。
本来であれば終業後にする作業を営業時間中に繰り上げ、他の仕事も慌ただしく済ませて夕刻、春日町1丁目の臨時総会が開かれる公民館へ行く。来年度の予算案を参集した代議員に会計係として示し、無事に承認される。
おととしその任を担った当番町会計は、扱う金額は大きくてもお金の出入りが単純なだけ、そう難しいものではなかった。それにくらべれば町内の会計はよほど複雑で神経を使う。
代議員の1年の労をねぎらう鮨の相伴に僕もあずかり、しかし飲酒は為さない。8時すぎに雨の中を帰宅する。
今週は仕事の関係から外食が多かった。週末の今日になってようやく家のメシを食べられることになり、だったら酒も抜こうと考えたが、晩飯の内容が「新得農場」のベーコンによるスパゲティと聞いてあきらめる。
増井和子の文章と丸山洋平の写真による「パリの味 シェフたちは芸術家」は愛蔵の1冊で、むかしは単行本と文庫本の2冊を揃えていたが、後者は紛失した。とにかくここには1980年代のパリにおける古典的な、しかし決して洒落すぎてはいない料理が目白押しに並んでいる。
「新得農場」のベーコンはまさに古典的な逸品で、これによる料理には上質かつ安価なワインこそ似合いだろうと、夜の7時に事務室を出てワイン蔵へ行くと、昨年秋の新酒は飲み尽くしたらしく残っていなかった。
よってブルゴーニュの棚の最深部に割り当てられたシャブリの場所から1本を抜き出し、居間へと運ぶ。
ホーキング青山の 「七転八転」における巻末の解説で、中森明夫は
「もっとも書くのが難しい文章とは何だろう。人を泣かせて感動させる文章か。これは簡単だ。 笑わせる文章か。泣かせるよりは大変だがそれも違う。もっとも難しい文章、 それは正確な文章だ」
と言っている。
先日「いちもとサイクル」でのバーベキューに参加した折、僕を除く14名の集合写真を撮った。僕のデジタルカメラを見た第二小学校自転車部の女の子が、あのカメラでウワサワさんに写真を撮って欲しいと、自転車部の監督であるイチモトさんに頼んだのだという。
後日、これを2Lのサイズで14枚プリントし、皆に分けてくれるよう「いちもとサイクル」に届けた。14名にはウチの次男も含まれているからウチにもあるこの1枚をしげしげと見るにつけ「良い写真とは、このような写真を指すのではないか」と思った。2008年3月22日の14名が、そこには正確に定着している。
「いちもとサイクル」の修理部にはおびただしい写真がピンナップされている。その中には小学校のころの色白でほっそりとした、蒲柳の質そのもののウチの長男の写真もある。長男はその後、十数年を経て頑健な大人になった。
2008年3月22日の写真は既にして、あの修理部の壁に貼られているだろう。そしてここを訪れるたび、14名は2008年3月22日の自分に会うことができる。写真には、何かしらの真実が写るものだ。
ウチはものを作って売っている。作ると売るとは不可分と認識はしているが、そのどちらが好きかと問われれば、それは圧倒的に作る方だ。そういう自分にとって「安原製作所回顧録」の第五章「カメラメーカーとは何か」の中の「メーカーを愛するということ」は十二分に痛快だ。
「暴走した技術者は自分の作りたい物を作る」
確かにその通りだ。自分の開発した商品が「高い」とか「口に合わない」とお客様に言われれば、それはそれで仕方がない。ただしその場合、比較的浅い傷にて撤退できるものもあれば、完成したものをお客様に認めていただくために不退転の覚悟で臨まなくてはならないものもある。
優れた物を作りながら消えていくメーカーは多い。「良い物は売れない」という箴言さえある。しかし会社は数多くの責任を負っている。消えていくことだけは避けなければいけない。
活字を読みふけり、気づけば本日最初の目的地である西武池袋線の椎名町駅を、列車はまさに出ようとしていた。閉まりかけたドアに身を挟みながら下車して列車の出発時刻を数秒、遅らせる。
日光では梅の盛りだが東京では桜が満開に近い。その、桜の咲く公園を行ったり来たりして池袋へ移動する。
飲酒の合間に写真を撮り歩くうちずいぶんと遅い時刻となり、丸ノ内線に間に合わなかったらどうしようと考えながら駅へ行くと、新宿方面行きはいまだ何本かあって安心をする。僕が学生のころ、池袋発の丸ノ内線最終は茗荷谷止まりだった。深夜に酩酊して本郷三丁目までの2駅を歩くのは辛い。
三原堂のショウウインドウには漱石の「坊ちゃん」にも出てくる大学最中があった。ディスプレイの意図は入学内祝いの贈答品だろうか。北から南下した者にとって、本日の東京は暖かいというよりもむしろ暑い。持参したスカーフと帽子はついに身につけなかった。
「安原一式」については、それがウェブ上で予約を受け付けているときから、これを買おうか買うまいか迷って結局は注文をしなかった。京セラでコンタックスの開発に携わった一介のサラリーマンが退社後にひとりで立ち上げたカメラ製造会社「安原製作所」は当時、かなり興味深い存在だった。
先日"amazon"で田中長徳の本を注文する際に初めて
の存在を知り、直ぐに発注した。そして今早朝より読み始めたこれが非常に面白い。著者が大小さまざまな賭けを繰り返し、偶然にも助けられて向こう見ずな試みを成功させていく過程はまさに冒険譚と言って差し支えはなく、これから数日間の大きな楽しみができたと、僕は嬉しさを禁じ得ない。
月曜日に英国人がひとり日光へ行くので半日ほど案内することは可能だろうか、という内容のメイルが長男から届いたのはきのうの午後だった。それに対して僕は、仕事を持った大人のスケデュールを、今日の明日で半日おさえることは常識からして不可能だろう、との返信を送った。不義理は心苦しいが、どうしようもない。
むかし台湾でオヤジの知り合いに、何日も台北を案内してもらったことがある。香港ではやはりオヤジの知り合いに、専属歌手が歌の練習をする昼下がりのキャバレーで酒をご馳走になったことがある。「オレも人には、あんな風にできたらなぁ」と思うが、そういう環境にはいまだ遠い。
昨晩、3キロの道を歩くあいだに花粉をたっぷりと体内に蓄積したのだろうか、今朝は目覚めた途端、自分がこれまで経験したこともない異変を感じる。
本格的な花粉症患者にとってはどうというものでもないのだろうが、鼻の穴は両方とも詰まり、呼吸を確保するために開いていたらしい口はカラカラに渇いている。目は痛がゆいだけに留まらず、上と下のまぶたが腫れている。
「3時間の間隔を開け、1日に5回を限度として」という説明書を無視して点鼻薬を頻繁に使い、すると今度は鼻水が出はじめる。日曜日にもかかわらず、そのようなわけで店舗にはほとんど行かず事務室にて過ごす。
「日はまた昇る」も最後のペイジに差しかかるころ、ジェイクとブレットはマドリードのパレスホテルで午前に各々3杯のマーティニを飲む。料理屋ボティンへ移動しての昼飯では豚の照焼きと共に5本の"la Rioja Alta"を飲んでいる。5本のうちの1本をブレットが飲んだとしても、残りの4本はジェイクの胃に収まった計算になる。
ジェイクを自らの分身としたヘミングウェイも、それほど酒に強かったのだろうか。僕は本日の晩飯において、ワイン1本を飲み干す前に寝入ってしまった。
早朝に「日はまた昇る」の最後の数行を読んでいると、背中に鳥肌が立った。翻訳者が異なっても、この部分の切なさ、格好良さ、粋さは変わらない。
第二小学校の自転車部が「いちもとサイクル」でバーベキューをするのは何ヶ月ぶりのことになるだろう。次男は部外者でありながらこの催しに続けて招待され、今日は午後3時すぎに出かけていった。
僕も終業後に自転車を走らせこの集まりに加わり、「味が濃いから酒の肴に良さそうです」などと子供たちに言われながら、彼らが面白半分に作った、ウースターソースと玉子とメリケン粉によりグジャグジャになった焼き飯を食わされたりする。
10時すぎ、旧暦2月15日の月が大谷川のおもてを煌々と照らす3キロの道を次男と歩いて帰宅する。次のバーベキューは、8月1日に開かれる予定だという。
夕刻、神保町の"Computer Lib"にいると、マハルジャン・プラニッシュさんが「出席の返事は出していなくても、行って平気ですよね」と訊くので「立食ですから問題はないでしょう」と答えつつ彼の、すり切れたズボンの裾とセーターの袖口に視線を走らせ「カトマンドゥの王宮に迷い込んだリキシャマンのような感じになるかも知れませんが」と言葉を添えた。当方はとにかく、紺色のブレザーとネクタイは身につけている。
専大前の交差点から内堀通りへ向かいつつマハルジャンさんは、竹橋のアラスカへは4年ぶりに行くと言った。つまりマハルジャンさんは長男よりも、自由学園で4歳年長ということだ。
きのう卒業式を済ませた面々を男子であれば同学会、女子であれば卒業生会に迎え入れる歓迎会が、本日の夜6時30分より開かれる。我々ふたりはやがて毎日新聞社ビルの最上階へと上がった。
乾坤一擲に「サイハナゲラレタ」のルビを振ったのは開高健だっただろうか。その、みずから賽を投げたばかりの新卒業生数十名と、それを迎える卒業生であふれかえる場にいるうち、たちまち2時間がすぎる。宴はまさにたけなわだったがとり急ぎクロークから荷物を出してもらい、大手町、北千住と移動して下りの最終スペーシアに乗る。
春の雨の中、甘木庵から出て数十メートルを進んだところで長男は「10年間、良いことばかりがあった」と言った。8時すぎに自由学園へ達し、卒業式の受付をする。スクールフラワーの梅はわずかに花弁を残すのみとなり、それと入れ替わるように桜の芽が紅く色づき始めている。
10時に始まった男子部64回生と女子部84回生4年過程、同86回生2年過程の卒業式は2時間後、ウィンドオーケストラによる賛美歌379番に送られて無事に終了した。
昼より女子部食堂へ移動し、女子部高等科3年生、学部3年生の手になるお菓子によるお茶の会にて教師、職員、卒業生の父母や来賓の方々としばし歓談をする。
午後2時からは学部食堂に新卒業生、父母、教師、職員、来賓が集って感謝会が催される。新卒業生の学年は人数に恵まれ、感謝会には自由学園としては多い290名が集まった。
合唱、奏楽、ヴィデオの上映、新卒業生代表および教師代表のスピーチに混じって僕も、新卒業生父母代表として感謝の言葉を述べる。29年前の同じ日、僕は新卒業生の代表としてスピーチをした。歴史は巡る、である。
夜の7時を目前にして感謝会はようやく収束しつつあった。学部食堂の外で賑やかにしている新卒業生や在校生の脇を通り、弱まりつつある雨の中を帰宅の途に就く。
本日は初午にて早朝、家内がお稲荷さんの掃除をし、しもつかりと清酒をお供えする。瀧尾神社から派遣された神官はこれに先立ちきのう、祝詞を上げていってくれた。
始業前には今市小学校の卒業式のための服を着た家内と次男をホンダフィットに乗せ、墓参りのため如来寺へ行く。10年前のこの日に長男の着たブレザーが、次男にはすこしきつい。
午前中は事務室の改装を仕上げる業者が入ったり、あちらこちらの会社の営業係が出入りして忙しく過ごす。そのような中、11時30分に花屋の「花いち」へ行き、卒業に際してPTAが先生に手渡す花束3本を受け取って学校へ運ぶ。
18:50発の上り特急スペーシアに乗って家内と銀座へ出る。9時すぎに長男と落ち合い、「おぐ羅」にて小酌を為す。
夜中と明け方のあいだに目を覚ます。起床するには早すぎる時間にて、床に読みかけの本を探すが見あたらない。焦燥するうちようやく、その「日はまた昇る」がシーツと掛け布団に挟まれてあるのを発見する。
日曜日の午後遅くに「PCボンバー」へ注文した"RICOH R8"が、午前の早い時間に届く。製品一式が39,370円、代引き手数料が840円の計40,210円は安いと思う。
"R8"を"GRD"と並べてみると、高さと厚みはほぼ同じだが幅が5ミリほど狭い。この5ミリの差とグリップの薄さが"R8"をかなり小さく見せている。ズームが繰り出される速度は非常に高い。
午後、営業許可証の延長申請を出している飲食店を、食品衛生指導員として保健所の人たちと巡回する。
事務室の人員が手薄なときには、僕も事務仕事を手伝うことがある。
本日はお客様のご住所を封筒に万年筆で手書きする際、発送伝票の「藤沢市鵠沼」の文字を目の端にチラリと捉えて「鵠沼ならその先は海岸に決まっている」と「藤沢市鵠沼海岸」まで書いて伝票を確認したら、鵠沼の先は海岸ではなく「松が岡」だった。
新しい封筒を取りだして「藤沢市鵠沼松が」まで筆を進ませたところで、住所の場合「おか」は多く「丘」と表記されることを記憶している手が「松が丘」まで進み、しかしここでまた伝票を確認すると、この場合の「おか」は「丘」ではなく「岡」である。
封筒に宛先を書くという、ただそれだけの仕事にしてこのていたらくだから、まったくもってイヤになる。
「だったら自分の得意な仕事だけすれば良いじゃないですか」と示唆されれば「得意なこと、得意なこと、そうだ、ハムエッグを肴に泡盛を飲みつつ文庫本を読む、そういうことはオレは得意だ」と思いついても所詮、それは仕事ではない。
2005年9月14日、「リコーの"GR"は銀塩だけがあれば良い」などと大見得を切って"Olympus CAMEDIA C-5060 Wide Zoom"を買った。これは"GR"のデジタル版が光学ファインダーを備えない点、それまでの常用機"Olympus CAMEDIA C-700 Ultra Zoom"がはなはだ使いやすく、かつ頑丈だった点による選択だった。
しかしその後ウェブ上で得た情報により"RICOH GRD"を購入し、また"CAMEDIA C-5060"は同じカメディアでも"C-700"には似てもにつかないカメラだったことが判明して、これはほとんど事務机の引き出しに入りっぱなしとなった。
"RICOH GRD"の最大の欠点は頻発する故障にあり、この修理中の代替機としてのみ"CAMEDIA C-5060"を使ってきたが、しかし持ち重りのする"CAMEDIA"を遠出の際のザックに入れる気はせず、きのうついにこれを、欲しいという社員8名のうち当たりクジを引いた包装係のアオキマチコさんに譲り渡した。
"GRD"の今後の代替機としては本日、同じリコーの"R8"を発注した。"GRD"とほぼ同じ大きさのボディに光学7.1倍ズームは頼もしい。対象に近づくことなくそれを大写しにする点において、僕はズームや望遠を卑怯なレンズと考えている。しかし運動会で自分の子供を撮るなどの小市民的撮影行為においては、やはり長いレンズは必要である。
僕はかなり小さな音まで感じることができるが、耳の解像度は低い。むかし外国人の家で晩飯を食わせてもらったとき好みの味かどうかを訊ねられ、しかし"this taste"が"distaste"に聞こえて答えに窮したことがある。
今朝、オフクロが「野村がアスピリンを買ったってね」と言う。「アスピリンといえばヘキストか、野村があの薬屋を買った理由はなんだろう」と疑問に感じたが、とりあえずは生返事をしておいた。
その後、下野新聞の第一面を見て、野村に買われたのはアスピリンではなく足銀だったことを知る。
今月2日にあった、テニスクラブの「6年生を送る会」で、ゲームに夢中になるあまり傷めたあばら骨の痛みが去らないため、きのうはオカムラ外科へ行った。その結果、レントゲン写真で撮れない軟骨部分に損傷が疑われる、当該の日より1ヶ月を経過しても痛みが去らなければ再検査、との診断が下された。
当初は深呼吸をしても身をかがめても痛んでいたものが、今では咳やくしゃみのときのみ苦痛を感じるところまで快復をしている。しかしもとより若いころであれば、このような目に見えない怪我も、体育館の床を一回転したくらいでは、しなかったに違いない。
「乃木希典三十五歳初老のみぎり」という一節が、むかし何かの本の中にあったという。そのときの乃木から、僕は更に16年の馬齢を重ねているのである。
昨秋「玄蕎麦河童」へ行くと、顔見知りのハッちゃんが蕎麦を食べながら手をヒラヒラさせて僕を呼び「温泉の帰りなんだよ」と言った。そういえばこの蕎麦屋の正面に望める茶臼山の下には「長久之湯」があり、その距離は徒歩でも10分ほどのものだろう。
以来「いつかはオレもそれをやらかしてやろう」と考えていたが、本日の「第178回本酒会」の会場が「河童」というところから夕刻6時30分、自転車で会津西街道を下り、先ずはこの温泉へ行く。
年明けから4月までの「本酒会」は毎月、「喜久水酒造」の「一時」と「山本合名」の「ど」という、2種のにごり酒を飲むことにしている。本日「一時」の係に指名されたシミズキミヒト会員は、開会から30分をかけてようやくこの荒ぶる生酒を抜栓した。
合鴨のスモークなどで8種のお酒を飲み、10時前に帰宅する。
朝飯を作る長男の鼻づまりがひどいため、点鼻薬は差さないのかと訊くと、そのようなものは使わない、しかし医者へ行く必要は感じていると答え、続けて、甘木庵から丸の内までときおり走るが、花粉と排気ガスを大量に吸い込むこの行為は、健康にはかえって悪そうだと言う。
それで思い出したのが、京都御所のまわりを走る人たちを、京都大学医学部の学生たちが調査をしたところ、その8割方に「走らない方が身のため」という結果が出たという都市伝説である。
過重な運動を好む人が知り合いにいる。その人に対して「そんなことをしても、長生きするとは限りませんよ」となかば揶揄したところ、自分は長生きを望んではいるわけではない、健康的な生活を送るという、そのスタイルを維持したいだけだ、というようなことを述べた。
実際にこの人はある年、炎天下の長距離歩行を自らに課し、どこかの駅の日陰で長々とのびていたことがある。いくら健康のためとはいえ、そのようなところで死ぬことは、その人も望んではいないだろう。
甘木庵から丸の内までは走って20分の距離に過ぎないと長男は言う。僕が自らの体力に照らしてみれば、本郷三丁目から丸の内までは、どう考えても走るより地下鉄に乗った方が健康には良さそうである。
夕刻の上り特急スペーシアに乗り、2001年8月に大久保康雄の訳でいちど読んだことのある
「日はまた昇る」 アーネスト・ヘミングウェイ著 高見浩訳 新潮文庫 \660
を開く。生まれてこのかた一体全体いくつの小説を読んできたかは不明だが、これはその中で文句なし、第一等にかっこいい小説である。
随分と日が延びて、新橋はいまだ夜になっていなかった。自由学園で12歳年少のゴールドロベルト君と落ち合い、北東へ歩いて土橋を越える。
2004年、同学会に初めてできる「ホームページ研究室」の室長を任された。翌年この組織は「ホームページ運営室」と名を改め、僕は引き続きその室長として「自由学園同学会」のホームページを立ち上げた。
ウェブペイジを運営していく作業は、技術と事務能力さえあれば誰にでもできる。ホームページ研究室長としての僕の最大の仕事は、次代を任せることのできるゴールド君を組織へ引き入れたことだ。ゴールド君はその後、ウェブペイジをムーバブルタイプに改めて後任に引き渡した。
当時、打ち合わせのため日光市まで来てくれたゴールド君にはメシくらいご馳走しなくてはいけないと考えつつ数年が過ぎた。というわけで今夜は銀座の8丁目にて数時間の飲食を為し、10時前に散会する。
齢51ともなればいくつもの組織に属している。1年だけの務めもあれば、死ぬまで足を抜くことのできない集団もある。それらの組織のほとんどにおいて、僕はその内容を把握していない。会員についても、顔は見知っているが名前を覚えられない人ばかりとか、あるいは各々の会が、どのような活動をしているのかを理解しないまま年月ばかりが過ぎるということもある。
春日町1丁目の会計係を受けてから約1年が経ち、いよいよ決算書を作らなければならないが、これまた分からないことばかりである。というわけで本日はイワモトミツトシ区長とタケダショージ前会計係に来社を請い、午前中の2時間をかけてようやくその大枠を理解する。金銭出納帳については漏れなく記載をしているから抜かりはない。
午後、宇都宮にて栃木県産の肉厚の干瓢を仕入れる。帰途、宇都宮グランドホテルに寄ってコーヒーを飲む。ここは考え抜かれた設計による良いホテルで、料理も美味い。ロビー奥の喫茶店の、特に人を呼ばなければ何も注文しなくて済んでしまう仕組みも奥ゆかしい。
明日と明後日に備え、晩飯どきの飲酒は避ける。
ワインのビンというものは、空のそれを触ったり持ち上げたりするだけで、どれほどの水準のワインに使われたものかが分かる。新聞の四コママンガは、それだけを見たり読んだりするだけで、どれほどの水準の新聞に連載されているものかが分かる。
このような例を改めて挙げてみれば「あぁ、なるほど、それは考えたこともなかった」と意外に思われるかも知れないが、人は常にこのような、いわば周辺を以て中心を測ることをしているのではないか。
というわけで、自分の外観は常に整えるべしと反省して数十年。しかし楽な格好が好き、毎日糊の利いたシャツを着ては洗濯屋の代金が勿体ない、裁断も縫製も良い高価な服を着ては落ち着いてメシも食えないといった性格が災いして、今日もユニクロの、すり切れたズボンを穿いている。
朝日新聞の朝刊第26面を開くと、12年前のある日の「天声人語」からひと段落を引用し、それに続けて自分の文章を書いていく、現役高校生のための「天声新語」というコンテストの結果が大きく報じられている。
「そんなのがあったのか」と興味を惹かれ、受賞者の顔ぶれを上から見ていくと、最優秀賞に続く優秀賞の一等上に、自由学園高等科2年生の女子が紹介されている。「2100名中の2番とは立派なものだ」と大いに感心して先ずこれを読み、続いて審査員特別賞までの計9作品すべてに目を通す。
下今市駅11:35発の上り特急スペーシアに乗り、「2007年度卒業研究報告会」を聴くため自由学園へ行く。この会の開始は朝の9時だったが、当方には時間の余裕もなく、長男のグループの発表に合わせての到着となった。
「文学作品における自我の諸相」のうち長男の研究は「森鴎外『妄想』における自我の非在」というもので、この作品における鴎外の自我の発露について、これまで多く為されてきた否定的な論評を覆し、これを積極的に評価するという、興味深いものだった。
報告会は夕刻6時を大きく回って終了した。入口で手渡された用紙には帰宅して後に感想を記入し、長男経由で学校へ届けてもらおうと思う。
事務室の大改装はきのうようやく完了した。「今までのままで構わねぇや」と考えていた、ウェブショップの注文を受注したり荷札を印刷したりする机の前の壁には白いクロスが貼られ、殺したドアのこげ茶の枠には白いペンキが塗られた。
これによりその部分はまるで民家を改造した画廊のようになったため「今井アレクサンドルの絵を置こうか」と思ったが、その空間をメジャーで計って諦める。4階にあるその絵はとても安い買い物だったが、とにかく畳2枚分の大きさがあるのだ。
"EB Engineering"のタシロジュンイチさんからは先月末に"BUGATTI 35"の「2月の修理明細」と請求書が届いていた。しかしこのところの繁忙により身動きが取れなかった。久しぶりにタシロさんの仕事場を訪ね、外皮を剥かれたこのクルマを子細に眺めていく。
真鍮のラジエター下部に、緑青を含む錆が出ている。オイルパンには、僕がこれに乗らなくなって以来四半世紀のあいだの汚れがこびりついている。ギヤボックスとクラッチのジョイントには赤錆が見える。前回と同じく今後も「必要以上に磨かず、しかし錆びさせず」の方針を以てこれを補修していくことを確認する。
金属部分以外には、カムシャフトから取り出した動力を回転計に伝えるベルトにほころびが見える。これは新品に替えるべきだろうか、しかしどこで購うことができるだろうか。ブガッティ専門のウェブショップがヨーロッパに見つかったら面白いと思う。
「ゼロがひとつ変わることは革命だ」と言った人がいる。僕がインターネットを使い始めた1990年代なかば、常時接続の環境を整えるには月に数十万円を要した。それが現在では数千円で済むわけだから、この場合にはゼロがふたつ減ったことになる。
昨年、社内の電話を光回線にして受話器もすべて替えた。結果、端子板とそれに付随する機械の大きさは数分の一になった。同じころ警備保障会社に直結する火災報知器の制御板を新しいものに替えた。やはりその大きさはそれまでとくらべて随分と小型化された。
午後、工場で新しいボイラーの燃焼試験に立ち会って、以前と同じ出力ながら、その小ささに大いに驚かされる。工業用のボイラーにもかかわらず、まるで夜間電力を利用する家庭用湯沸かしほどの大きさしかない。
ここで「すべては進化に伴いその容積を減じる」という"dogma"は有効だろうかと考える。 恐竜の滅亡はその典型だろう。大きな会社が部門ごとに独立していくこともまた、その"dogma"のひとつかも知れない。
きのう今日と休業中の社内にあって、ウェブショップからの注文には、納期の遅れる旨のメイルを出し続けている。それに加えて電話やファクシミリによる注文もあり、そのメモが乱れ籠に積み重なっていく。
金曜日に出勤をしたとき、果たして事務係はこれらの処理を遅くも午後3時までに完了できるのだろうか、との心配が頭をもたげてくる。そしてそのような心配をしつつ本日も、社内各所で行われている工事の現場を巡回する。
事務室の電話線をすべて床下に納める"NTT"の仕事は予想よりも早く、午後3時に完了した。それから5時30分までは電話番をしながら、春日町1丁目の会計係として平成19年度の決算書作成に手を着ける。
おととし務めた当番町会計は、責任は重いが仕事の内容は単純だった。それにくらべると町内会計はよほど作業量が多い。それでも費目ごとに小計を出したら、その各項目はまるで予算案を見ながらお金を使ったように、期初の目論見にすっぽりと収まっていた。
原田治による趣味の良いウェブログを、ときおり読みに行くことがある。するとこの最新版に、自由学園の明日館と、同じく自由学園のクッキーのことが書いてあった。自由学園のクッキーは、ブルゴーニュの軽い赤ワインによく似合う。
7時40分、自宅と会社のあるブロックの端まで次男を送りながら、社内の工事を担当するうちの一社が早くも到着したことを知る。この3日間に、事務室ではリフォームが、店舗では床の清掃が、工場では天井の修理とボイラーの入れ替えが行われる。
事務室の中だけでも、新設のコンセントの真上に机の脚が来てしまうとか、流し台と、その流し台を納めるための外枠と、水道管の取付に若干の齟齬が生じるなど種々の問題が出てくるもので、そのつど複数の業者との折衝に当たる。
晩飯の後、「PTA理事会および常置委員会」の会議が開かれる今市小学校へ、春日町1丁目の小学校支部長としておもむく。支部長としての務めは多分、今夜で終わるものと思われる。あるいは今月の晦日までは、何らかの責任が残るのかも知れない。
きのうの「6年生を送る会」で、僕の加わったウサギさんチームのリーダーが体育館の端から上げたロブを、もう一方の端に待つメンバーが捕球するというゲイム中、ボールの落下地点に飛び込んだ僕はちょうどバレーボールの回転レシーヴのような体制で床を一回転した。
背中から着地して受け身は上手くいったがダンゴムシのように丸まった背中により胸が圧迫されたらしく、心臓付近のあばら骨が痛む。深呼吸をしても咳をしても、顔を洗おうとして身をかがめても、また鼻をかんでも痛む。その痛みに耐えつつ明け方より
「ドキュメント戦艦大和」 吉田満、原勝洋著 文春文庫 \620
を読む。
午前、明日から始まる事務室の大改装を前にして、既にできあがった本棚が壁に付く。モズクのように絡まり合った電線を整理するため電気屋さんや"NTT"が来る。銀行の人も来る。5つあった事務机は床の張り替えに備えて2つに減らされ、事務係はその不便な環境に身を縮めながら仕事をしている。
そういう最中に、社内各所の写真を撮るカメラマンとプランナーが来る。彼らに付き添っていれば、だれかれが来たと館内電話で呼び出される。4階と1階のあいだをあたふたと往復しながら家内が「今日のスケジュールには無理がある」と言う。
事務室に残った2つの机も5時すぎには撤去され、その30分後に家内と社員たちは社員旅行へと出発した。僕は明日からの3日間を留守番として社内に待機し、各所の工事を見守ることになる。
小さな文字にびっしりと埋め尽くされた手帳を人に見せつつ多忙さを嘆き、しかし実のところは自分がいかに社会において重要とされているかを自慢する人がいる。僕は逆に、隙間だらけの日程を好む。その方が楽だからだ。ところがその僕にして「むちゃくちゃでござりまするがな」と、花菱アチャコによる1953年の流行語を口走らせるほど、特にこの1週間は忙しい。
「今市ソフトテニスクラブ」の「6年生を送る会」へ出席をするため、朝8時30分に次男と今市小学校の体育館へ行く。ここで種々のゲイムに午前中を過ごし、昼からは今市文化会館の小ホールへ移動して昼食、その後に送る会が始まる。
5年生の父母による心温まる企画により、テニスクラブでお世話になった3年間を振り返る良い機会を持つ。運動はその技術に習熟する体が丈夫になる以外にも形を変えて人の血肉になる。次男が3年のあいだテニスを続けられたことに感謝したい。
本来は早寝早起きの自分ではあるが、海外の知らない町に到着してどうにかこうにか宿にありついた夜のように興奮してでもいるのか、就寝して3時間後の3時30分に目を覚ます。本は持参しなかったため「本酒会」の会報を書いたり知り合いのウェブ日記を読んだりして朝を迎える。
「古河MG研究会」による「第1回古河MG」においての僕の目標はただひひとつ、今日はじめてマネジメントゲームをする人が、次の機会にもまた希望をもって参加できるよう地ならしをすることだ。MGは2日間の研修だが、自社や家族の日程が立て込んでいるため、今回は残念ながら1日しかこれを受けることができない。
個人の成績としては第3期、火災で材料12個を失いながら気力を殺がれることなく期末には損益分岐比率58パーセントを記録したことが唯一の収穫だっただろうか。マネジメントゲームの期中に2度の倉庫火災に見舞われたのは、1990年代のはじめ以来のことだ。
あのときにはこの結果を現実に反映させ、自社の味噌蔵を拡張したことも今となっては懐かしい。
晩飯の後、主催者のスズキケンジさんに古河駅まで送っていただき、9時前に帰宅する。その後は研究開発室に2時間ほどいて、0時ちかくに就寝する。