「遂に」という思いがした。「軽スポーツで反攻、ホンダ、19年ぶり新型車」の記事を日本経済新聞朝刊13面に読む。
"S660"の発端は2010年、本田技術研究所の創立50周年を記念する社内コンペで、社員のひとり椋本陵さんが優勝したところを端緒としていると、記事は続けている。5年前なら、現在26歳の椋本さんは高卒で就職していまだ3年目の21歳。僕は涙を堪えきれず、尻のポケットから手拭いを引き抜いた。
何が僕を泣かせたのか、それはやはり、ホンダにここしばらく途絶えていた「本田のオヤジの精神の復活」を見たからではなかったか。
記事を読み終えて後はそそくさと新聞を畳み、ブラウザの検索窓に「ホンダS660」と入れる。そうして現れたホンダのウェブサイトを、順を追って開いていく。更には「アクセサリー」のページから「エクステリア」へと進む。
速度が時速70キロになるとせり上がり、35キロまで落ちると格納される自動式スポイラーは要らない。しかしブレーキディスクとパッドは奢りたい。「消費税を入れて250万円か」と、手元の電卓を叩いて試算する。
「このクルマの物語に涙を流すくらいなら当然、買うんだろうな」と詰問をされれば、それはちと困る。僕には現在のフィットで充分だからだ。しかし試乗車を操縦するくらいであれば、それはしても良いと考えている。
その家のお祭を新暦で行うか、あるいは旧暦に従うかについては、家により異なる。更にウチなどは、通常は旧暦で行うこととしながらも、その年々の忙しさをはかりつつ新暦を選ぶこともある。
明日は旧暦の初午に当たる。それを前にして午前、店の奥にあるお稲荷さんに、総鎮守瀧尾神社から派遣された宮司が祝詞を奏上する。僕はその後ろに付き、祝詞を聴く。
初午の、お稲荷さんへのお供えは、赤飯、しもつかり、酒の三種と決めている。そのしもつかりは、台所に置いて凍ったものを炊きたてのメシに載せて食べると最も美味いなどと言われることから、厳冬期の料理と思われる。しかしまぁ、今年は春になってから初午の巡ってくる暦になっているのだから、それに従わないわけにはいかない。
きのうから仕込み始めたしもつかりに、夜、家内は仕上げの手を加え始めた。人がこのしもつかりにありつけるのは無論、お稲荷さんにお供えをした後。明日の昼飯以降になるだろう。
今月の20日までは、店は冬時間にて17時に閉めていた。そして春分の日を境として営業時間を1時間延長した。18時の閉店時間は来年の正月まで続く。
「あすの夕方に行く」との報せをきのうfacebookの僕のタイムラインに下さった方が、閉店の10分前になってもお見えにならない。そのお客様のタイムラインを見ると、4時間前に名古屋駅できしめんを召し上がっている。「それじゃ無理でしょー」と考え、事務室から店に戻る。
するとその3分後に同級生のシゲマツアキラ君とマミさん夫妻が不意に来店をする。訊けば南会津でスノーボードを楽しんだ帰りだという。わざわざ遠回りをしてくれて有り難い限りだ。
その直後に、4時間前に名古屋駅できしめんを召し上がっていらっしゃった方が、ご家族と共に店に入っていらっしゃった。驚異の行動力である。そして僕は胸をなでおろす。
「あっ、シゲマツさん、晩ごはんに誘えば良かった」と、店が閉まった直後に後悔の言葉を家内が発する。シゲマツ君は酒を伴う食事を好み、しかし今日の交通手段は自家用車による。「いや、晩飯は家に帰ってから食べたいだろう、多分」と僕は返す。
この週末の人出は昨年よりも多かった。桜のつぼみはいまだ固い。
朝、ウェブページに使う画像を加工しているところにイナバ塗装の社長が顔を出す。味噌蔵の屋根を補修しながら社長は別棟の瓦屋根に「凍て上がり」を見つけた。その現場に足場をかけたので確認をして欲しいと言う。
事務室から工場の脇を歩いて味噌蔵のある庭に入る。そして足場に上がる。吹き替えてから32年は経っている屋根の、東面と南面には特に問題は無い。しかし西面と北面の瓦には浮きがある。また、屋根の頂部や四方の面をつなぐ熨斗瓦には、東日本大震災のときのものとみられる乱れや鉄線の断裂が目立つ。
加えてその棟の入り口に張り出した銅吹きの庇は、瓦の成分を溶かしつつ流れる酸性の雨水に侵され続け、いくつもの穴が開いている。
熨斗瓦は、見た目は良いけれど地震には弱い。よってこれを外して棟瓦に換えてはどうかとの先方の提案には先日、同意をしておいた。そして今日は、銅吹きの庇をステンレス製のそれに一新することを決める。
春日町1丁目の帳面には営繕積立金という科目がある。ウチもそのようなものを設けるべきだろうかと、足場から地上に降りつつ考える。
今日は10時30分以降の予定が目白押しになっている。その上、医師や看護師が会社に出張してくれる健康診断が朝からある。例年なら社員の列の後ろに付くところ、今日ばかりは真っ先に受付をしてもらう。
血圧は、2度測ったうちの2度とも正常あるいは正常よりすこし低い値を示した。体重は昨年より500グラム減っていた。健康が災いして酒が美味く、昨年の2月26日以降は毎日これをたしなんでいるから、ガンマGTPについては良い値は期待できないだろう。
10時30分の約束よりすこし早く来た人と商談めいたものをする。下り特急スペーシアが遅れたため、約束の時間に遅れて来た人とは用が済んでのち昼食を共にする。午後は市役所を訪ね、分からないことを教えてもらう。
古田直哉の「ネパールのビール」は、今なら"amazon"で57円で買える。これを読んで泣かない酒飲みはいない。かどうかは知らないけれど、不便な場所で飲むなら酒は強いものに限る。もうひとつ、辺境の香りのする中華料理には、高粱酒を合わせるに限る。そういう次第にて夜は「二鍋頭酒」を生で180CCほども飲む。
気分は中々に忙しい。そんな最中におととい修理に出した"RICOH CX6"が浮間舟渡のリコーイメージングから戻ってくる。その、磨かれた筐体を眺めつつ「今度こそ頼むぜ、おい」と声をかけたくなる。昨年の7月1日に購入以来、これが3度目の修理なのだ。
午後1時より"Theory of Constraints"に関する見学会に出席をするため、家内の運転するホンダフィットに送られ大谷向町へ行く。90分後に今度は参加者のクルマに相乗りをさせていただき、日光商工会議所へ移動をする。そしてここの研修室にて、おなじく"TOC"の実践者による成果発表会に臨む。
僕と長男はここから17時30分に帰社し、本日出勤の社員たちとのミーティングにおいて、本日午後に得た情報を報告する。
見学会と発表会の参加者たちは既にして森友地区の酒房「菜音」に集まっていた。僕と長男はそこに遅ればせながら加わって、21時30分のころまで周囲と良い塩梅の歓談を交わす。
"iPhone 5C"のアプリケーションを更新したところ、これで撮った画像は削除しても30日間は保存されるようになった。つまりは30日を経ずに画像を消去したい場合には、二度の手間が必要になった、ということだ。
それらの画像の中に、23日の昼ごろアメ横のセンタービルで撮った"BALOT"があった。
殻の中でヒヨコになりかけているアヒルの有精卵を茹でて食べるこれは、僕と次男の好物だ。ヴェトナムではホビロン、カンボジアではポンティアコォンと呼ばれるけれど、"BALOT"として売っているところをみると、ここのお得意さんは主にフィリピン人なのだろう。
この茹で玉子を初めて食べたのは2011年4月2日、サイゴンのベンタイン市場に向かって左の壁沿い奥にある"QUAN OC VAN"という屋台でのことだ。玉子の丸い方を上にしてスプーンで叩き割り、ライムの果汁を搾り入れ、塩や唐辛子を振ってスプーンですくい出す、その白や黒や黄色や朱色の渾然一体は呆気ないほど普通の味である。
これを不気味と忌避する人は、ボタン海老の刺身を思い出してみるが良い。巨大昆虫のような、しかも半透明の姿、割れた腹からあふれ出る緑色の卵、茶緑色のドロドロの内臓。そういうものを平気で食べられる日本人であれば、羽化しつつあるアヒルの茹で玉子ごとき、可愛いものではないのか。
午前は取引先のお葬式に出かけ、午後はコンピュータを使った精密な仕事をするため自宅に籠もる。そして夜は日本酒に特化した飲み会「本酒会」に参加をするため大谷向町の蕎麦屋「河童」に行く。ダウンパーカ必須の寒さである。
甘木庵で目を覚ますといつも、ほんの数秒のあいだではあるけれど、いま自分がどこにいるか分からなくなる。その甘木庵を次男と7時ちょうどに出る。きのう3学期を終了した次男は、今日は学校の行事を手伝うのだという。
恵比寿には早くに着きすぎたので、コーヒーなど飲んで時間調整をする。そして西口のロータリーからガーデンプレイスのちかくまで10数分をかけて移動する。加計塚小学校ちかくの"Vector H"で、ヒラダテマサヤさんとウェブショップの手入れをする。新しいページもひとつ作る。
昨年の7月1日に買ったデジタルカメラ"RICOH CX6"の、無限遠の合焦が甘いことを疑い、10月24日に新宿のリコーイメージングスクエアを訪ねた。係によれば「特に問題は無い」とのことだったけれど、工場に送って精密に調べるよう頼んだ。
その"CX6"は今年の1月に、マクロでしかピントが合わなくなった。今度は明瞭な故障のため、やはり新宿まで出かけて修理を依頼した。
今月に入るとこの"CX6"が、ピントを追いつつ小さな異音を発するようになった。そして遂には電源を入れてもレンズが繰り出されなくなった。
新宿のリコーイメージングスクエアは火曜日が定休である。よって本日は電車を乗り継ぎ、浮間舟渡という、東京と埼玉の県境まで行く。リコーのサービス拠点は、新宿を除けばいまや東京にはここにしか無いのだ。修理は2時間で完了すると言われたけれど、時間は惜しく、また保証期間内ということもあり、後日宅急便で送るよう頼んだ。
「また?」と呆れるほど故障をするのがリコーのカメラである。それを承知で10年間も使い続けているのが僕である。
すっかり日の落ちたころ北千住に達する。普段はモツ焼きのところ今夜は洋食にてカウンター活動をし、最終の下り特急スペーシアに乗る。
九龍半島と香港島を結ぶスターフェリーの甲板で葉巻を吸ったらさぞかし気分が良かろうと考え、実行に及ぼうとして「請勿吸烟」の表示に阻まれたことがある。僕からすればほとんど治外法権と感じられる香港でのこともあって、すこし驚いた。
これまた僕からすれば随分と社会が放埒に思えるタイでは、窓を閉め切ることのできる公共の場では喫煙が禁止されている。これについてもやはり僕には意外だった。
東京オリンピックに向けて、すべての公共機関や飲食店を禁煙にしたい都知事に対し、飲食業者や、様々な人の利益を代表する議員から反対の声が上がっているとの記事を、今朝の日本経済新聞に読む。世界の情勢に照らしてみれば、日本はいまだ、喫煙にはゆるやかだ。
午前は電車を乗り継いで千葉県に入る。晴れた空の下に何本もの川を渡る、その道中は楽しい。午後は都内に戻り、あれやこれやする。
長男とは途中で合流をした。次男とは北千住で待ち合わせをした。その3人で共に、しかし次男においては飲食活動を、そして僕と長男においては飲酒活動をする。
先日、オフクロの死を知って驚いた人から送られてきた「鳩居堂」の線香を蝋燭の火に近づけると、35年ほども前にインドのどこかで聞いた香りが漂い、僕は大いに感心あるいは納得をした。しかしその香りが南の国の、何という植物、生物、あるいは鉱物によるものかは分からない。
「以前ほど老人が尊敬されなくなったのは、老人の持つ、経験に裏打ちされた知識が今では検索エンジンで容易に知れるようになったから」という意見が先日、ウェブ上のどこかにあった。しかし言語化できない香りや味については、検索エンジンでも知ることはできない。
"oral history"は「その人が生きているあいだ」が勝負である。ウェブ上の情報や遺された文章からは、その人がそのことを語るときの目つきや息の具合や指の動きを知ることはできない。「老人の元へ急げや急げ」ということが、世の中には馬鹿にできないほどあふれている。老人を軽んじている場合ではないのだ。
早朝の仕事を終えて食堂に戻る。春分の日の朝日が、ウチから観ると下今市駅前のビルの右手に昇る。時刻は5時47分だった。コンピュータを起動し、検索エンジンに「春分の日」と入れてみる。 そこで「春分の日」のほかに「春分日」というもののあることを知る。
1週間ほど前から煎茶が切れて、現在は仏壇に上げるお茶も人が飲むお茶も番茶を焙じたものである。
「からだに良い」という理由から何かを飲み食いすることはしない。しかし聞くところによれば煎茶はからだに良いのだという。ここに焙じ茶を作る人がいれば「いやいや焙じ茶もからだに良いのだ」と口を挟むかも知れない。
僕は煎茶は朝だけでも3杯は口にするから年間を通せば千杯以上になる。ところが焙じ茶だと2杯、3杯とは続かない。焙じ茶も煎茶とひとしく美味く感じているのに「おかわり」を必要としないとは、どのような理由によるものだろう。
ところで先ほど「からだに良いという理由から何かを飲み食いすることはしない」と書いた。だったら「からだに悪いもの」についてはどうか。自分の食生活を振り返ってみれば、いわゆる成人病の元になるような食べ物は、僕はそもそも欲しがらない。
そして夜はいかにも老人の好みそうなものを肴に冷えた日本酒少々を飲む。
きのうまで続いた春の陽気が、今日は特に昼すぎから一転して寒い。
18、19、20日を工期とした、社内のほとんどすべての照明を蛍光灯から"LED"に換える工事は、製造現場、店舗と来て、今日は閉店時間を待たないまま事務室まで及んできた。
その、ブルーシートで養生された事務室を離れ、社内の、既に工事を終えたところを灯りのスイッチを入れながら進んでいくと、これまでの蛍光灯に馴染んだ目は、新しい明るさに一驚を禁じ得ない。しかしこの21世紀の光にも、いずれ我々は慣れてしまうのだ。
作業は夕刻に至って、僕が追加した部分を除いてはすべて完了した。この3日のあいだ警告音を発しつつ社内を行き来した高所作業車が、19時を前にトラックに積み込まれていく。
ふと気づくと日光宇都宮道路の状況を報せる、国道121号線の上の電光掲示板に「大沢-日光 50キロ規制中」の文字が見える。そういえば今日の午後は街に霧が深かった。そしていよいよ明日は春分の日、である。
おなじものをふたつ買い、会社と自宅の双方に置く、そういうものが僕の身のまわりには少なくない。その「そういうもの」に目薬も加えるべきと、ここ数日は感じる。
年齢や職業に関係なく、大きなマスクをかけた人を繁く目にするようになった。花粉症の季節である。
僕は子どものころには、走った後に気管支の苦しくなる癖があった。また、アトピー性皮膚炎を患っていた。そういうアレルギー体質にもかかわらず花粉症にだけはなかったから、この季節に入っても、どこ吹く風を決め込んでいられた。
1999年の春、強い風の吹く日に杉の森にいたことがある。その、たった数十分のあいだに僕は花粉症になった。以降は毎年、花粉症である。しかし僕の症状は、それほど強いものではない。屋外にいてもマスクは必要としない。目薬は、1週間に1度ほしくなる程度のものである。
原材料搬入口の、雪の重みに耐えかね壊れた庇を直したイナバ塗装と仲間たちは、そのまま味噌蔵の屋根に仕事場を移し、こちらを補修している。その最中に彼らは別の瓦屋根の「凍て上がり」を見つけた。そして今日は梅の咲くその庭に、瓦屋根の具合を確かめるべくおもむく。
いま補修している屋根が綺麗になれば、別の味噌蔵の、こんどは破風の塗装が始まる。凍て上がった瓦屋根も、平行して修理が始まるだろう。工事は途切れ途切れに行うよりも、おなじ足場を移動させつつ一気に済ませる方が、時間も経費も節約できるに違いない。
花粉が地面の濡れたところに落ちて、糊のように固まっている。天気はそろそろ快方に向かうらしい。
「タム、ゼロゼロゼロゴ」と、そのファイル名から僕が呼び習わしているページは、ウチのウェブショップの中では毎月アクセス数が高い。このページに書式の齟齬を見つけて修正をする。また、こちらはお客さまからいただいたご意見により、7つの商品ページに説明の1行を加えて更新をする。文字通りの「朝飯前」の仕事である。
ここ何年か専門家の意見を訊いて回ったり、あるいは複数の会社から見積もりを取ったりしていた社内照明の「LED化」が、今日から3日間の工期で始まる。
先ずは製造現場の中でも天井の最も高い部分に器具が取り付けられていく。当方は用事があるから作業を逐一見守るわけにはいかない。呼ばれて午後に現場を訪ねてみれば、1970年代後期の照明は21世紀のそれに一新されて、まばゆいばかりの光を放っていた。
工事に従う人たちは17時から店舗に移動して作業を再開する。製造現場とは異なって、こちらの照明は天井の中に埋め込まれている。よって手順はより込み入ったものになった。
予定の20時までに作業を完了させることは不可能と、19時30分に至って判断をする。そして明日は従来の蛍光灯と"LED"を混在させながら営業することもやむなしと、業者には伝える。
製造現場にも店舗にも、いずれ今週末には新しい照明が与えられて、その環境は良い方に大きく変わるのだ。とても楽しみである。
いつもと変わらず暗いうちに起床する。食堂の丸テーブルであれこれしながらスクリーンを巻き上げると、"NTT"の電波塔の上にはいまだ月が残っていた。夜が徐々に明けていく。
朝飯まで30分に迫ったところで、先ほど供えたばかりのお茶と水と花を仏壇から取り出し、ちかくのテーブルに置く。引き続いてすべての位牌をおなじように仏壇から取り出しテーブルに置く。そうしてがらんどうになった仏壇の中を、固く絞った濡れ布巾で隅から隅まで拭いていく。
それから1時間後に今度はテーブルの上の位牌をはじめ線香立てや鐘などの道具を拭き清め、あるいは埃を払い、仏壇に戻す。花瓶の花は、僕の子守りをしてくれていたフクダカズコさんがきのう届けてくれたものだ。
午後の遅い時間に販売係のハセガワタツヤ君が自分の四輪駆動車を事務室前に乗り入れる。休みを取っていたハセガワ君は社員を代表して、オフクロへの花籠一対を花屋から運んできたのだという。僕と家内は早速、その花を仏壇の前に飾る。
明日は彼岸の入り。暑さ寒さも彼岸まで。そういえば今朝の山々は澄んで見えなかった。春の霞のゆえである。そして僕はダウンベストを脱ぎ、あした洗濯屋に出すべく紙の袋にそれを入れる。
齢を重ねるごとにからだが弱ってきた。このところ自覚しているのは体表の衰えである。
丸い絆創膏とバネのような形の鍼を組み合わせた置き鍼がある。これは僕には随分と効き目の良いものだった。2012年までは、これを何日も貼りっぱなしにして何ともなかった。ところが2013年からは1日を経ただけで肌がかせるようになり、今は使っていない。
爪というものは通常は、指の丸みに従って先端まで弧の形になっている。ところが102歳まで生きた僕のおばあちゃんの足の爪は、平らだったり、あるいは反ったりしていた。そして爪切りにより整えられているはずの先端は、しかし滑らかではなく、ボロボロと崩れるような質感だった。僕の足の爪も先端に限っては、2013年を境として、おばあちゃんのそれに似てきた。
昨年、この冬に入ったころから、起床するなり口角に違和感を覚えるようになった。いわゆるひび割れのようなもので、口を大きく開くと、そのひび割れが切れて大きくなるから、洗面を済ませると即、岸惠子の口紅のように、唇からはみ出すほどクリームを塗ることが常になった。
その口角のひび割れが今朝、いきなり姿を消した。こと日光地方に限っては、春は今日から始まったに違いない。
甘木庵の和室に敷かれた布団から手を伸ばし、読書灯のスイッチを入れる。時刻はいまだ5時になっていない。高野秀行の「巨流アマゾンを遡れ」は、きのう読み始めてから随分と「遅読派」の僕としてはページがはかどった。そして6時を過ぎたころに起床する。
6時30分に洋間の戸を叩き、日曜日は目覚まし時計を設定しない次男が起きてきたところで連絡事項のようなことを手短に伝える。
甘木庵の裏手にある、僕も学生のころにはプールを使った体育館が、建て替えられて綺麗になっている。その体育館に沿った小路を鉤型に抜け、切通公園の木々を眺めつつ春日通りを目指す。
湯島天神の白梅は、満開を過ぎてはいるけれど、散ってもいない。朝の薄暗さの中にその白い色を見ながら「タルヒヤには、まだ間に合う季節だ」と考える。しかし3月中は無理だ。5月の連休までに可能であれば、一夕「シンスケ」で小酌をしたい。
下り特急スペーシアの発車時刻から1時間を逆算して甘木庵を出れば、北千住では朝飯のほかコーヒーも飲める。そして10時前に帰社する。
きのうと同じ服を着て、しかし昨日とは異なり会社に置き忘れたものは無かったから、予定通り、下今市駅07:04発の上り特急スペーシアに乗る。そして午前のうちに、ひばりヶ丘、新橋と回る。
午後の中ほどに新宿へと移動をする。駅の東口から三丁目にかけての新宿通りは「バブルの最中でさえ、これほどの人出は無かったろう」と思われるほどの混雑ぶりだった。
「紀伊國屋書店」の前の交差点では、歩行者用の信号など誰ひとり守らない。「伊勢丹」の方から来て「武蔵野館」の方へ左折しようとした"CITROEN C5"は人の渦に巻き込まれ、交差点の真ん中で立ち往生をしている。
夕刻の迫るころに大ガードをくぐり、僕が高校1年のころには淀橋浄水場の跡地と墓地くらいしかなかったところまで歩いて行く。そうして自由学園男子部35回生の同窓会に出席をする。
早寝早起きの僕は、21時には席を立ちたかったが話は尽きず、結局のところ会は22時すぎまで続いた。そして23時になりかかるころ、甘木庵に帰着する。
07:04発の上り始発スペーシアに乗るべく自転車のペダルを踏んで日光街道を下る。そして6時55分に下今市の駅に着いて窓口で特急券を買いながら「これを持っていかなかったら今日の仕事はパー」という三点セットをザックに入れていなかったことに気づく。よって駅員には発券を止めてもらい、ふたたび自転車で家に戻る。
次の、07:45のスペーシアに乗って10時すこし前に本郷三丁目に着く。そこであれやこれやして、あるいはまた連絡待ちのための喫茶などをして、昼前にやはり本郷三丁目から大江戸線に乗る。
北千住12:12発の下りには間に合わなかった。「であれば」と、少々の買い物をしながら次の12:42発に乗る。
ところでいつも重宝に使わせていただいている「小諸そば」について。
僕は以前はここでかき揚げ蕎麦を食べていた。しかし油はできるだけ摂りたくない。されど油の誘惑は絶ちがたい。よっていつのころからか、かき揚げを揚げ玉に換えた。
「小諸そば」の自動券売機では、60円を出すと揚げ玉またはワカメを追加することができた。そして僕の定番はここ数年のあいだずっと「たぬき蕎麦ワカメトッピング」というものだった。
しかしこの日記を検索すると、昨年の4月17日を最後として、以降はワカメを追加していない。
本日、本郷三丁目の「小諸そば」の券売機には、60円のボタンはあったけれど、そこには「揚げ玉」の文字しか無かった。「小諸そば」はなぜワカメを売ることを止めたのだろう。
外の新聞受けから朝刊2紙を取り出す。普段であればそのまま事務室に入るところ、今朝は何故かそのうちの「下野新聞」の第1面に目が留まった。
そこには2011年3月11日の震災で曾祖母、祖母、母の3人を亡くし、政府追悼式に宮城県遺族代表として臨んだ、ことし大学に進学するスガワラサヤカさんによる「震災で失ったと同じくらいのものを得ていけるように、しっかりと前を向いて生きていきたい」という言葉があった。
配達された新聞の記事を、外で立ったまま最後まで読むとは、多分、生まれて初めてのことかも知れない。
「食品衛生指導員再委嘱予定者講習会」に参加をするため、午後の早い時間に宇都宮の保健所へ行く。大きな会場で開かれる講習会では常に、僕は最前列の真ん中に着く。いつどこへ行ってもこの特等席は空いている。競争相手のいない椅子取りゲームほど楽なものは無い。
夜に「久埜」の草餅を食べる。草餅は仲春の季語。今日は旧暦の1月23日。ということは、季節をすこし先取りした、ということになるのだろうか。
食堂の丸テーブルであれこれするうち、外に明るみの差してきたことに気づく。遮光カーテンを上げるとまさに、カドマル商店の屋上から朝日がその上縁を見せ始めている。時刻は6時ちょうどだった。
開店前に駐車場を見まわる。モミジの芽が随分と紅くなっている。しかしつぼみはいまだ固い。本当の春は、お彼岸のころに来るのだろうか。
あの大地震が起きたとき、僕は店舗と同じ棟の事務室にいた。生まれてこのかた経験したことのない強い揺れがいつまでも続く。事務室の戸を半開きに押さえたまま立ち尽くす僕は、外の、街灯や看板を支える、中には直径が30センチにちかい鉄柱が、まるで釣り竿のようにしなる様を観ていた。
僕と異なり製造の社員たちは良く訓練がされていたらしく、ボイラーの火を消してから一斉に外へ逃げたという。彼らが逃げ出した製造現場の屋根からは、ばらばらと瓦が国道121号線に落ちていた。そのときここを歩く人も通るクルマも無かったことは、天の配剤による。
不幸中の幸いは、この地震の起きる数週間前に、店舗の破風の塗り直しをイナバ塗装に頼んでいたことだ。イナバ塗装はその流れから、社内各所の修理を続けていた。イナバ塗装とその仲間たちは、地震が発生したときには屋根の上にいたけれど、滑っても地面までは墜ちない場所にいて助かった。地震から数日を経ないうちに大屋根の修復を始められたのは、まったく彼らのお陰である。
そのことを思い出しつつ国道121号線の向かい側に横断歩道を渡り、開店前の店舗を眺め、そのまま南に歩いて製造係が仕事を始める前の製造現場を眺める。
毎朝、毎朝、掛け布団の違和感により目を覚ます。掛けている布団2枚の大きさが異なるため、それぞれが妙に干渉して、しまいには大きくずれてしまうのだ。布団を商う人に相談すれば「そりゃぁ、いけません、良い布団があります」と即、売り込みにかかるだろう。しかし良い布団なら多分、ウチにもあるのだ。しかしありすぎて、どれとどれを組み合わせれば安眠できるのか、それが分からないのだ。
新しい"MacBook"には、USBのポートがひとつしか装備されない。それも新しい規格の小さなものだ。「不便を客に押しつける気か」とSNSで憤るユーザーもいるけれど「簡素を求めて不便を我慢する」ということは、僕は嫌いでない。
もっとも僕は"Mac"のユーザーではない。いま使っている"Let's note"が買い換えを迫られる状況になれば、ふたたび"Panasonic"の門を叩くだろう。しかし新しい"Let's note"は、そのすべてに"DVD"のドライブが装備される。ありがた迷惑以外の何ものでもない。とにかく簡素が一番だ。
ところで「これまで好きだったことに興味を示さなくなる」とは認知症のサインのひとつだという。「とにかく簡素が一番だ」と、僕が手持ちのワインやクルマを手放し始めたら、それはあるいは認知症のサインかも知れない。
所用にてホンダフィットを運転し、霧雨の降る日光宇都宮道路に乗る。制限時速80キロのところ100キロで進む当方を、ほとんどのクルマが追い抜いていく。それらの半数は軽自動車である。皆、血気盛んである。
所用は宇都宮の中心部で、おそよ20分ほどで完了した。「おクルマはどちらにお停めですか」と訊かれて「そちらの裏の方の」と、先ほどのコイン駐車場の方向を指すと「あー、そちらだと駐車券は出ないんですよー」と先方は申し訳なさそうな顔をする。駐車代は200円だった。
午後に帰社して一服をするうち、2時間ほど前にいた宇都宮の中心部から確認の電話が入る。相手には自分の決めたことを手短に伝える。あれこれがテキパキと進んでいく。
「キューポラのある街」は好きな映画のひとつだ。好きな映画のひとつではあるけれど、ジュンの父役の東野英治郎が豆腐だけの湯豆腐を前にして「タラが入ると美味いんだがな」と呟く場面については覚えていない。
夜、鶏肉の焼き上がったところで「味噌だれがあると美味いんだがな」という意味のことを長男が言う。そこで急遽「日光味噌梅太郎赤」と酒と味醂と砂糖によるたれが、家内により2、3分で作られる。
ところで鋳物工の石黒辰五郎は本当に「タラが入ると美味いんだがな」と呟いたのだろうか。"DVD"を買っても僕はいずれ観ないので、確かめようは無い。
コンピュータの電源コードはかならず2組を用意する。ひとつは日常用、もうひとつはモバイル用である。他にも会社用と自宅用として2組を持つものは少なくない。
「バンドエイド」の「キズパワーパッド大きめサイズ12枚入り」は、昨年11月4日に10箱を"amazon"で買った。そのうちの5箱は事務室に置き、残りの5箱は自宅に置いた。その双方が各々残り1箱を切った。そろそろ次の分を注文しなくてはならない。
「キズパワーパッド大きめサイズ12枚入り」は、昨年11月4日から今日までの4ヶ月に90枚以上を使っている。カカトのアカギレが6月まで続くことを考えれば、いまだ少なくとも8箱は必要である。そう考えて本日、それを"amazon"に発注する。
僕がカカトのアカギレに使うバンドエイド代は、年間で2万円ちかくにもなる。馬鹿にできない金額である。
「ウワサワさん、カカトのアカギレは、こうこうこういう方法で無くせますよ」という助言をたびたび戴くけれど、そのどれもこれもが僕には役立たない。なぜ役に立たないかは絵に描かないと判りづらく、だからここでは説明できない。
起きて遮光スクリーンの隙間から外を見ると、国道121号線が雨に濡れている。
2週間ほど前は頻繁だった早朝の仕事をひさしぶりに再開し、その合間に外へ新聞を取りに出る。地面を濡らしているのは雨ではなく、まばらに降る雪だった。寒さはあまり感じない。その雪は開店をするころに弱まり、10時には止んだ。
日光市は、高山市、浜松市に続いて全国で3番目に面積の広い市である。市内のもっとも高いところと低いところでは2,000メートル以上の標高差がある。4月に入ってなお雪の降るところもあるに違いない。
春日町1丁目の、2014年度の予想決算および2015年の予算案は、町内の会計係として数日前に整えておいた。今日はその数字について協議をするため、19時より役員が公民館に集まる。
町内の街灯が水銀灯からLEDに交換されたことにより、今年度は前年度までにくらべ電気代が大きく節約され大いに助かった。次年度は、その果実を無駄にすることなく予算を執行したい。
いよいよ啓蟄である。カレンダーの今日のところに「イナバ足場つくり」と書いてあるとおり、朝、イナバ塗装の社長が事務室に顔を出した。しばらくすると社長は現場から戻って「ちょっと見てもらえますか」と僕を呼んだ。
店舗からすれば裏手に位置する原材料の搬入口で、庇が雪の重みに耐えかねていた。それをこれから修理しようとしているのだ。僕はすっかり整った足場の階段を、地上から3メートルほどのところまで昇る。そして庇を支える鉄骨の、長い間に亀裂を生じた根元の部分などを確かめる。工事は、天気さえ良ければ1週間ほどで完了するだろう。
仕事がらみで昼前に外へ出る。そして日光宇都宮道をホンダフィットで走って徳次郎で降りる。
「品書きにそれを見たら、注文しないわけにはいかない」というものが僕にはある。代表は衣かつぎである。そしてまた、トマトやピーマンの中身をくり抜いて、代わりに肉を詰めて焼いたものも、その中に入る。そして今日の昼飯も、そのようなものになった。
夜は「地域振興」という難しい主題を持って4人が小倉町に集まり、数時間の意見交換を行う。
朝のいまだ暗いうちに寝室から洗面所を経由して食堂に来る。そして先ずは灯りを点け、次に暖房のスイッチを入れる。それがここ数ヶ月のあいだの手順だった。ところが3月に入ってからは、灯りこそ点けるけれど、暖房のスイッチを入れることはしばしば忘れる。そしてしばらくしてようやく、天井から温風の吹き出していないことに気づくのだ。
製造現場の北西側にある高電圧変電設備の点検が、今朝は入る。この、年に1度の作業に際しては社内の電源を一斉に落とす必要がある。よって日中にこれを行うことはできない。そういう次第にて朝6時30分に、コヤマデンキのコヤマアキラさんを社内に迎え入れる。
6時40分からの停電は30分ほどで復旧した。僕は急いで事務室の、電話交換機とサーバのコンセントプラグをコンセントジャックに繋ぐ。そしてその後に、外に置いた発電機を停める。
事務机の左側に提げたカレンダーに目を遣れば、今日のところには「6:30 コヤマデンキ」とあって、明日のところには「イナバ足場つくり」と「予算案作成」のふたつのことがらが書いてある。予算案とは会社のそれではなく春日町1丁目のものである。その予算案は既にして昨日のうちにできている。大いに気が楽である。
きのう甘木庵に着いたのは22時をすこし回ったころと記憶する。玄関のチャイムを鳴らしても次男の出てくる気配は無く、よって自分で鍵を解いて中に入った。
今朝6時すぎに起きてきた次男にそのことを言うと、きのうは学校の小遠足で池袋から浅草まで歩き、疲れて早くから熟睡したと、そのいきさつを語った。池袋から早稲田、日比谷を経由してのいわば「南回り」であれば、歩行距離は20キロを超えたに違いない。
登校する次男と別れて後の、用事と用事のあいだの待ち時間にきのうの日記を書く。日記を書くに当たっては、当日に撮った画像を先ずは順に見ていく。
きのう南北線の六本木一丁目から地上に出て少し散歩をした。飯倉の交差点ちかくに"Mireille"という優れたフランス料理屋があって、1970年代から80年代にかけては、オフクロによく奢ってもらっていた。その料理屋のあったビルを外苑東通りの北側から眺めるとフランス語の、しかし今は"Mireille"ではなく"MAISON LANDEMAINE"と"ECOLE LEVAIN D'ANTAN"の文字が認められた。
それを本日、帰社してから検索エンジンで調べると、フランスの食材を売るほかパンやお菓子を作る教室もしている店だという。それを知って「だったら道一本、渡って見に行けば良かったな」と惜しんでも遅い。僕は麻布、飯倉、六本木のあたりには、ほとんど行かないのだ。
本郷三丁目で予定されている仕事、というほどのものでもない、強いて言えば「用足し」について、相手に伝えた時間は「9時30分よりすこし前」というものだった。ところが北千住から乗った「つくばエクスプレス」が新御徒町にすべり込んだところで時計は8時49分。このままでは予定より早く着いてしまう。
大江戸線に乗り換え数駅を進んだところで電話が鳴る。「間もなく電車から降りるので、そうしたらこちらからかけ直す」旨の説明を小声でしつつ停車中のプラットフォームに目を遣ると、次の駅は森下との表示がある。そこで、大江戸線は大江戸線でも逆の方へ行く車両に乗ってしまったことに気づく。結果として本郷三丁目には、ちょうど良い時間に着いた。
本郷三丁目には昼ちかくまでいた。そして御徒町、神田と移動をする。午後はそこから新橋を経由して麻布に至る。
僕はウェブ上で買い物をすることが好きだ。しかし特に身につけるものにおいては、製造元により表示してあるサイズと実際のサイズのあいだに結構なばらつきがある。あるいは同じ製造元の商品でも、たとえばジーンズとチノパンツのあいだには、また革靴とサンダルのあいだには、これまたばらつきがある。
そういうことから、自分のからだに合わないものが届いて、しかし返品をするのも面倒なため人に譲ってしまう、ということを僕は数え切れないほど繰り返してきた。
「そういうことからは、そろそろ抜け出したいよなぁ」と今回は万全を期し、シャツのメーカー"ozie"の、六本木のショールームまで出かけて社長のヤナギダトシマサさんに採寸をしていただく。その結果、僕のサイズは"M-3982"と判った。これからは、こと"ozie"のシャツについては心おきなくウェブ上から注文ができる、とういわけだ。
夜はそのヤナギダさんに長男を含めた3人で銀座に出る。今夜中に帰宅をする長男が中座をして以降はヤナギダさんとふたりで飲み、更にはやはりふたりで4丁目まで歩く。
本郷三丁目に着いたのは多分、22時をすこし過ぎたころだ。東京大学構内の"LAWSON"には、21時から10時までの13時間は酒類の販売をしない旨の張り紙があった。タイの、昼のあいだは酒を売らないコンビニエンスストアとは逆である。「どうして夜はお酒、売らないんですか」というような質問は、店員にうるさがられてもいけないのでしなかった。
そして目と鼻の先の甘木庵に入って30分後に就寝をする。
ウチに女の子はいない。しかし桃の節句を控えて家内は、鮨と蛤のお吸い物を作った。そしてこれを夜ではなく昼に食べた。いつもの昼飯からすれば随分と少ない、それはおやつのような量ではあったけれど、何やら満足をする。
その、昼飯のあとで、お吸い物の残りを小さなシェイカーに入れる。そしてお吸い物と同量のウォッカを足す。シェイカーに入れてもシェイクはしない。その銀色の小さな器はそのまま冷凍庫に収めた。
鮨は桶ひとつ作られたから、昼だけでは食べきれず、しかし僕と家内の二人きりであれば、夜にも食べきれない。長男は出かけているので、急遽、長男と次男がいまだ子どものころ世話になっていたサイトートシコさんに来てもらう。そして昼に引き続き夜も、ひな祭りのお膳をいただく。
蛤のお吸い物とウォッカのカクテルは美味かった。美味かったけれど、お吸い物とウォッカの比率を1:1とした今日のレシピは、僕にはちと強すぎた。
そして21時すぎには入浴をして、早々に就寝する。
次男と甘木庵を出て2、30メートルを歩くと、麟祥院別院の庭から歩道に張り出した木の枝に、今朝の曇り空とそれほど色を違えずに咲く花が見えた。更に近づいたところで「桜か?」と訝しげに口にすると「そうだよ、学園でも咲いてるよ」と次男はこともなげに答えた。いずれ早咲きの種類なのだろう。
東京から朝帰りをするときには多く、北千住07:42発の始発スペーシアを使う。しかし今日は次男と朝飯を食べるため、その始発は無視した。
スペーシアに乗ろうとすれば、向かう駅は浅草か北千住だ。どちらへ行くにも本郷三丁目からの経費と所要時間はさして変わらない。ほとんどすべての場合において僕が北千住を選ぶのは、こと駅の構内においては北千住の方が賑やかだからだ。
「もう、雪は降らないでしょう、さすがに」
「いえ、分かりませんよ」
という会話を人と路上で交わしたのはきのうの午後だった。ところが僕の乗る、北千住09:12発のスペーシアが新鹿沼と下今市のあいだの切り通しを抜けると、薄く雪に覆われた農地が車窓に見え始めた。「もう雪は降らない」という僕の希望的観測は、早くもその翌日に外れたことになる。
帰社して着替えのため自宅に上がり、更にはお茶を一服しようとして食堂に入ってテレビのスイッチを入れると、どこかの踏切事故をニュースが報じていた。それは果たして、僕の乗ったスペーシアが通過して数十分後に発生した竹ノ塚でのものだった。
もう1本あとのスペーシアに乗っていれば、否、事故の発生は10時10分とのことだから、北千住10:12発のスペーシアは運行を中止したのではないだろうか。危ないところだった。