僕の住む4階に大がかりなリフォームを施したのは、2013年の秋から暮にかけてのことだ。それまではフロアの主に北西側で生活をしていた。それがリフォームの後は南東側に移った。その移動に伴い窓からの景色も一変した。朝は日の出ばかりを目にすることになり、日光の山々などは数日も観ずにいることも珍しくなくなった。
「たまには」という気持ちで今朝は、以前に使っていた洗面所の窓を開け、西から男体、大真名子、女峰、赤薙の山々を望む。そして小学生のころには家から一番ちかいスキー場だった、霧降高原の三角形の白い斜面を眺めたりする。
山はいまだ冬ではあるけれど、里には春の気配が漂い始めた。こちらの梅は、東京で桜がほころぶころに咲く。とすればそれは、これから3週間ほど後のことだろうか。
所用にて午前より東京に出る。夜はひとりでメシ、否、酒を飲むことになって、池袋の中央コンコースから北口へと延びる通路の本屋に入る、活字を欠いてはひとりで飲酒喫飯ができないのだ。そうして新書1冊を756円で買う。
日本橋の「高島屋東京店」への出張にて家内のいない1週間は、ここぞとばかりに飲み屋に通っていた。しかし寒さや夜の暗さによるものだろうか、いつの間にか外へ出なくなった。この日記を遡ると、それは2010年からのことと知れた。
「オレ、真冬には飲み屋に行く気がしなくなっちゃってさ。ある種の欝病じゃねぇかって気もするんだよ」と口にすると「そんなの誰でも同じですよー」と、包装係のヤマダカオリさんは一笑に付した。ヤマダさんの笑顔に安心をして「とすれば、飲み屋は啓蟄のころからまた忙しくなるのだろうか」と考えた。今年の啓蟄は3月6日である。
朝の日の出が早くなった、という感じはあまりしていない。暗いうちに起き出し、日はいつの間にか昇るものと心得ているせいかも知れない。その代わり夕方は随分と日が延びた、という実感はある。
昨年12月、社員ひとりひとりに賞与を手渡しながら、冬の営業時間を短縮する件につき意見を交わした。その結果、年明けの1月5日から3月20日までは閉店を1時間早めて17時とすることを決めた。その結果わが家ではあれこれが前倒しになり、晩飯の時間も早まった。
ここまで日が延びてくると、それに連れて営業時間の短縮も惜しく感じられてくる。しかし法律の絡むことだから後戻りはできない。
夕食後はテレビでNHKの番組「金曜eye」の今週の特集「いよいよ開業! 北陸新幹線スペシャル~魅惑の旅へご案内~」を観る。
「10日間ほどの出張でバンコクに来ている。週末はリフレッシュのためプーケットまたはサムイへ行く選択肢もあるけれど、バンコクに留まることも考えている。ところであなたは以前、一日バスの旅をして、それが安価にあちらこちら観られて良かったとfacebookに書いていた。そのバスはどこを走る何番のバスか教えて欲しい」
という意味のメッセージが先日、勉強仲間のひとりから届いた。よって
「そのバスは昨年10月5日の日記に書いた、ホテルから通りに出て最初に来たバスに乗るという遊びであって、乗車時間は85分間に過ぎない。なお自分なら1泊2日の忙しいスケデュールでリゾート地へ遊びに行くことはないだろう」
という意味の返信を送った。
その仲間は結局のところ、サトーンの船着き場からチャオプラヤ川を遡り、"N13"の桟橋で降りて半日を過ごしたと、報告をしてきた。"N13"ならピンクラオの橋をくぐった先のプラアーティットで、プラスメン砦のすぐそばだ。「なかなか良い遊びじゃねぇか」と、僕は羨ましく感じた。
ところであと何年かして時間に余裕ができたらタイに長逗留をしたい。逗留する場所はホテルでもサービスアパートメントでもなく、運河に突き出すようにして建った木造の家が好ましい。そのような形の民宿はアンパワーに何軒もあるけれど、僕がしたいのは「宿泊」ではなく「居候」である。
「居候」とはいえ厄介になるのだからそれなりのお金は払う。朝飯を済ませたらゴム草履をつっかけフラリと外に出る。夕方までどこかで泳いだり本を読んだり。疲れれば戻って木の床で昼寝をしても良い。「今夜はみんなでムーカタでも食べに行こう」と、その家族を晩飯に誘うこともあるだろう。
問題は、僕を居候させてくれるような奇特なタイ人をどこで見つけるか、ということだ。ノンタブリーで家庭菜園をしながらバンコクに通勤している人なら知っている。しかしノンタブリーのどのあたりに家があるかは聞いていない。
屋台も雑貨屋も無いような田舎では、さすがに退屈をするだろう。「居候なんだから畑くらい手伝え」などと言われても困る。猫のように何もせず暮らしたいのだ。
次にタイへ行く時には、いつもより気をつけて、そのあたりの情報を集めてみたい。
深い谷を見おろす細長い土地に、粗末な小屋がまばらに並んでいる。小屋の中は暗くて見えないけれど、間取りは多分、台所と寝室の二間だ。
小屋の入り口にはおしなべて台が設けられ、ある小屋では小さなトマトやカリフラワーが、また別の小屋ではウィスキーの瓶に満たした黄色いガソリンが売られている。その風景はまるで、ガルシア・マルケスの「大きな翼のある、ひどく年取った男」を覗き見ているようだ。ハロルド・メイバーンの"It's a Lonesome Old Town"が聞こえる。
そういう濃厚な世界から、まるで海の中を浮いてくるようにして目を覚ます。なにか寂しさを感じるのは、夢より現世の方が淡泊だからだ。
9時を過ぎたところで身支度を調える。忘れるわけにはいかないことだから何日も前より「9:45 神社」と、カレンダーやポストイットに書いて常に気にしていた。そうして9時45分、瀧尾神社の責任役員として、当番町・住吉町の催行する春季小祭に臨む。
春季小祭とは、奏上される祝詞にもあるとおり「秋にはどうか、恵みの収穫をください」と神に祈るお祭である。直会の食べ物は、里芋とこんにゃくの田楽、それにけんちん汁と、毎年決まっている。曇りから晴れに向かう空模様にて、当番町の人たちはひと息を着いただろう。
午後になると、家内や長男を含む高島屋に出張していた面々が、クルマや電車で続々と帰ってくる。社内の人数は、これでまた元に戻った。
夜は日本酒に特化した飲み会「本酒会」に出席をするため、小雨模様の中をホンダフィットに乗って、大谷向町の「玄蕎麦河童」へおもむく。
「クラシック音楽が分からない、という人は、クラシックであればどの曲も同じに聞こえる。ワインが分からないという人は、どのワインも同じ味に感じる。分からないとは、そういうものだ」とは1週間ほど前に長男が言ったことだ。
J.S.バッハと武満徹が同じに聞こえるとは信じがたい。アルザスの白とボルドーの赤を同じ味に感じるわけがない。
しかし我が身を振り返ってみれば、こと芋焼酎に限っては僕もそうなのだ。高いも安いも関係ない。どの土地のどのような銘柄のものでも美味い。
いつも飲んでいる、そして買うときにはダース単位で注文する白ワインが最後の1本になった。残りのあるうちに次の分を買いたいところだけれど、今月の小遣いは既にして赤字である。購入はせめて来月まで待ちたい。もうひとつはこのところワインを飲みすぎた。
そのような理由からきのうは芋焼酎のお湯割りを飲んだ。そして今夜もきのうと同じようなおかずで同じ芋焼酎を飲む。芋焼酎なら何を飲んでも美味い僕には勿体ないことながら、いま家にあるそれは「森伊蔵」のみである。今夜これを飲みきっても明日は日本酒に特化した飲み会「本酒会」の例会日だから不自由は無い。
そして明後日は、芋焼酎ではないけれど「キンミヤ」を飲むのだ、多分。
目を覚ますと味噌汁が無性に飲みたかった。きのうワインがはかどりすぎたせいかも知れない。
台所兼食堂では、従って鍋に味噌汁2杯見当の水を満たし、だしを引く。具は若布と揚げ湯波とナメコ、薬味は万能葱である。若布は高くても、塩蔵より生のものが好きだ。なめこは大玉に限る。味噌は家内と長男が日本橋の髙島屋に出かけて以来ずっと「梅太郎」の赤味噌で通している。そうして出来上がった味噌汁は、自分で作ったとは思えないほどの美味さだった。
昼が近づくと、今度はスープが無性に飲みたい。からだがなぜそれほど汁物を欲するかは不明である。
ウチから日光街道を下って二宮神社の参道を過ぎると、左の角にはレコードの「天誠堂」があって、中華食堂の「ニジコ」が並んでいる。その「ニジコ」が昼限定でラーメンを始めたとは、長男に聞いたことだ。
「ニジコ」の前に自転車を停め、店に入ってその「ラーメン」を注文する。価格は税込みで500円である。そうして出てきたラーメンをひと目見るなり「オレが子どものころのラーメンってのは、この大きさだったよなぁ」と懐かしく感じる。
むかしの日本のラーメンは、香港の粥麺専家の汁麺や、タイのクイティオの1杯あたりにくらべれば多いけれど、しかし現在のものからすれば少なかった。関東地方のラーメンどんぶりが劇的に大きくなったのは、1970年代の札幌ラーメンの南下に伴ってのもの、というのが僕の推理だ。
それはさておき「ニジコ」の、昭和30年代のそれを思わせる適量のラーメンはスープの作りも丁寧で、大いに悪くなかった。「ニジコ」はぜひ頑張って、このラーメンを作り続けて欲しい。
きのうの夜のカレーライスは食べ過ぎだった。2杯目を平らげたところで胃薬を探したけれど、食堂の薬の引き出しにも、また僕の旅行用の薬を納めている廊下の引き出しにも、それは見あたらなかった。夜にいくつもの鍵を解きつつ店まで降りて、お客様や社員の緊急用として用意してある胃薬を借りてくるまでの気は無い。結局はそのまま寝てしまった。
それでいて今朝になれば、結構な量の朝飯が食べられてしまうのだから恐ろしい。それでも僕は太らないのだ。太る人の好むような、たとえば揚げ物などを僕はそれほど食べない。そのあたりが僕の体重の制御に効いているのかも知れない。
昼は自重をして、小さなパンひとつにコーヒーを摂るに留めた。そのパンは小さなフランスパンに小豆の餡をはさんだもので、食べる前にオーブンで炙ったらすこぶる美味かった。
僕は、イタリアの軽いワインであれば1本を飲めてしまう。しかしフランスのしっかりしたものは半分と少々が限界だ。その平常値が今夜に限ってはパン、2種のチーズ、自製のアヒージョにより存外に、この近辺の方言でいえば「ハカ行っちゃう」状態となってシャブリ1本を干す。
そして今夜もまた、満腹を抱えて往生をする。
「iPhoneの充電器を寝室に持っていった時点で、あなたはもう経営者失格よ」と言ったのはハフィントンポストの創業者アリアナ・ハフィントンだ。
僕は寝室に"iPhone"の充電器は持っていかないけれど、本体は持ち込む。そして毎朝、その本体と遠近両用メガネをズボンのポケットに入れ、寝室から洗面所に向かいつつ「それにしても、ポケットってのは便利だよなぁ」と感心をする。ポケットの便利さについては、日中には思いが至らない。なぜ起床の直後のみかについては分からない。
僕はすべての社員が昼休みを済ませてから昼飯に行く。その時間は13時30分からだ。しかし今日は責任役員として13時45分には瀧尾神社に着いていたい。よって午前のうちにサンドイッチを買ってきて、それを事務室にてそそくさと食べる。
神社には日光市今市地区旧市街のすべての町内の自治会長と神社総代が集まった。そして今年の当番町である住吉町により初会議が開かれる。今日から1週間も経ない25日には春季小祭が、そして4月の11日と12日には統一地方選挙に重なる日程で春季大祭が催される。住吉町には当番町の重責を担って今年度を大過なく乗り切って欲しい。当番町の、お祭の飲み食いのほとんどを担う「大膳」は、同級生のオーハシタダオ君である。
晩飯の後に強いお酒を飲みながら、きのう録画しておいた"NHK"の「ドキュメント72時間 赤羽おでん屋エレジー」を観る。これはとても出来の良い番組にて、家内と長男が出張先の東京から戻ったら、今度は一緒に観ようと思う。
下野新聞の「貧困の中のこども」は力作だった。そして現在は、第二次世界大戦の激戦地から生きて帰った人を対象とした聞き書き「とちぎ戦後70年」を毎日、読んでいる。
戦争とは、家族や社員が次々に殺されていく、ということだ。僕が戦地に駆り出されれば、敵弾に当たって死ぬことはない。生来の怠け癖により後ろから味方に撃たれるか、気力を喪って戦病死をするか、いずれにしても生きて帰る可能性は低い。
晩飯を終えて食卓に日本経済新聞を開き、これはいつものことだけれど、いちばん後ろの44面から読んでいく、というか見ていく。
今日の「文化」は「伝統の商社の残光を追う」と題した「鈴木商店」についてのものだった。「鈴木商店」のことは小学校だか中学校の歴史の教科書にあったから覚えている。しかし「商店」を含む社名から、なぜそれほど小さな店が昭和恐慌の解説に使われるのか不思議に感じていた。
それが今日の記事を読んでみれば「鈴木商店」は、1917年には売上高が日本の国民総生産の1割にも達する日本一の商社だったという。文中で紹介されているウェブサイト「鈴木商店記念館」は必見のものだろうから、明日の早朝にアクセスすることを決める。
おなじ日本経済新聞の38面は"PROJECT LEGEND"の文字の目立つホンダの全面広告だ。それを見て「おぉ、S660か」と期待しながらもう1枚をめくるとそこにはV型6気筒3500ccのエンジンを持つ「レジェンド」の写真があったので「なーんだ」と落胆をする。大きなクルマ、仕組みの入り組んだクルマには、僕は興味が無いのだ。
そして入浴をして21時前に就寝をする。
雪が降って止んで快晴になった、そういう朝の山の景色は厳しく、また美しい。
きのうの朝は2合のメシを炊いた。その2合を朝と昼の2食で平らげたところ、夕刻を過ぎても腹は減らず、よって晩飯はごく軽いものになった。今朝も2合のメシを炊いた。しかしきのうの学習により、昼は軽めにした。そして茶碗に山盛り一杯のメシは夜への備えとした。
今月15日に注文したズボンはきのう届いた。早速に穿いてみると、現代の日本人としては少なくない量の米を食べたせいか胴回りがきつい。他のこともあって先方に電話をしたところ、返品する際の送料さえ当方が負担をすれば、ひとサイズ大きなズボンを再送する送料は無料にしてくれるという。係のオネーサンが女神に思える瞬間である。
そして本日、その胴回りの少しきついズボンを、オネーサンへの礼状も含めて、岡山県に向けて返送する。
「冒険はしたくないから、衣類をウェブショップで買うことはしない」と言う人がいる。僕の場合には、手に取って確かめることのできる実店舗の衣類は却って買うことに慎重になる。それがウェブショップとなると、ポンと注文ボタンをクリックしてしまうのだ。博打を楽しむ気分に、それは似ているのかも知れない。
たまり漬と日光味噌を出品する「老舗名店味紀行」は、高島屋東京店の地下1階で今日から1週間の予定で開催をされる。にもかかわらず、テレビは盛んに、東京の今日の寒さと雪の心配を伝えている。
22日の日曜日には東京マラソンがある。沿道の店は、マラソンの当日は交通規制により売上げを落とす。百貨店の、東京マラソンに重なる催しは、だから初日が普段以上に大切になる。よりによってその初日が雪である。かてて加えて日本橋は大規模な再開発の最中にあり、高島屋も現在は新館が更地になるなどして、人の流れが変わっている。
「今年は逆風の中での販売だよなぁ」などと考えつつ留守晩をしていると、本日出荷分の商品を増やせるか否かの電話が午後の中ごろに長男より入る。僕は包装係のヤマダカオリさんにそのことを伝えるため、製造現場へと走る。外にはボソボソと、大きな牡丹雪が降っている。
長男の求めた数字は満たせなかったものの、ほぼ満足できるであろう量を追加して、その荷物をヤマトのドライバーに手渡す。朝の天気予報にもかかわらず、高島屋の客足は良かったのだろうか。あるいはウチのお得意様が多くお運びくださったのだろうか。いずれにしても、有り難いことと言わなければならない。
明日からの好天にも、大いに期待したいところである。
先週"amazon"に発注した古書6冊は、すべて高野秀行によるものだ。そのうちの5冊が今日までに届いたので、高野の、家にあっていまだ読んでいない本と共に積み重ねる。
高野秀行は「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをして、それを面白おかしく書く」ことを目指している辺境専門の紀行文作家だ。そうであればなおさらのこと、その文章の最初には行動を開始した日付が欲しい。当方は高野の旅を、時間を追って読みたいのだ。
しかしこの作家の書くものは大抵、出発の日付を欠いている。文中を探せばあるのかも知れないけれど、冒頭には見あたらない。よって奥付や「あとがき」や「解説」から推しつつ大体の年を付箋に記し、1冊ごとに貼っていく。
僕は速読の逆の遅読に加えて、電車やバスなどの公共交通機関を使うとき、およびひとりで外食をするとき以外に本は読まない。よってこれらすべてを読み終えるには、1年以上を必要とするだろう、多分。
早朝の仕事が続いている。
自分がいつごろから朝型の人間になったのか、その、かなりむかしのことと想像される時期については、2000年8月以前には日記を付けていないから分からない。夜型から朝型への転換はいきなり劇的に訪れたわけではない。よって、たとえそのころに日記を付けていたとしても記録はされなかっただろう。
そして今日も製造現場に降り、暗い中に灯りを点けてあれやこれやしする。そしていまだ明るくなる前に食堂に戻る。やがて東の空に赤味が差してくる。晴れた空は美しいけれど、その美しさに点睛を加えているのは雲だ。今朝は南東の空に、南西から北東に向かって飛ぶ、鶴のような雲が現れた。
朝食を済ませ、社員の出勤に合わせて事務室のシャッターを上げる。そして外に出ると、手水の、夜の風に飛ばされた水がすぐ近くのベンチに飛び、それがツララになっていた。
今週の前半は殊に寒さが厳しいらしい。それを凌いで来週になれば、春の背中が見えてくるのだろうか。
今週がいつ終わって来週がいつ始まるかについては諸説があるらしい。あるいは週初と週末の定義を便宜上の理由により変えることもあるらしい。だから2月18日の水曜日が今日から見て今週なのか来週なのかの判断は、僕にはつかない。
とにかく高島屋東京店の地下1階で催される「老舗名店味紀行」に、2月18日の水曜日から翌週24日の火曜日まで出店をする。それにともない社内では僕の担う早朝の仕事が、このところ多くなっている。
その仕事に従うため4時前に起きると、家々の屋根には雪が積もっていた。地面の、土や砂利のところも白くなっている。しかしアスファルトの国道は黒く濡れているのみだ。雪は夜中に降り始めて、いくらもしないうちに止んだのだろう。
早朝の仕事から上がって食堂のカーテンを引き上げると、朝日が昇ろうとしているところだった。その日の差し込むテーブルにコンピュータを開き、メーラーを回す。
きのうは"amazon"で古書6冊を買った。そのうちの4冊は「複数を同時に購入してくれれば2冊目以降は50円引きにする」という店のものだった。その店から150円を返金する旨のメールが入っている。気分の悪かろうはずがない。
高島屋東京店には社員のほか家内と長男が出張をする。準備日である17日の夜から24日の昼までは、僕はひとりでの食事が続く。その材料として、ハムやソーセージをウェブ上に注文する。
先日、瀧尾神社の初会議におもむく際に、僕はネクタイを締めジャケットを着てはいたけれど、下半身はジーンズだった。冬用のウールのズボンは肌を刺激する感じがして苦手なのだ。しかしジーンズはまずかろうという気持ちが無いわけではない。そしてジャケットの下に穿いても違和感の無さそうな木綿のズボンを、これまたウェブ上に発注する。
これらの買い物もあって、いまだ月の中日にもかかわらず、今月の小遣いは早くもその70パーセントを費消してしまった。しかし24日までは自炊を続ける予定だから、赤字になることはないだろう。
岩坪れい子の「ヒマラヤ診療所日記」は面白い。女性の歯科医がカラコルム山脈の小村で診療と調査を行った1974年当時の記録である。いま"amazon"へ行けば文庫の古書が1円で買える。
その本の中で、ディスポーザブル型の注射器をもらった子どもたちは、それを使って大喜びで水鉄砲遊びに興じている。2015年の現在であれば、使用済みの注射器は即、医療性廃棄物の器に入れられ、子どものおもちゃにはなり得ないかも知れない。
2013年の10月から12月にかけて、オフクロは東京大学医学部付属病院に入院をした。チリ紙やらお菓子の包装紙やらのゴミはベッドの縁にぶら下げた袋に入れられ、それを毎朝、掃除係のオバサンが回収に来た。
「いくらも入っていないんだから、今日は持っていかなくても良いですよ」とゴミの回収を断るオフクロに「でも決まりですからね」とオバサンは言った。感染を恐れてのことだろう。しかし年寄りは、否、若いころから人の意見は容れない性格だったオフクロは「だからツバルが沈んじゃうんだよ」と自説を述べた。
ゴミを捨てることにより地球が温暖化して海面が上昇し、ツバルが沈むことなど、病院の掃除係の知ったことではない。
「ツバルが沈む」はオフクロの常套句で、退院してからもこれを口にするオフクロを「さらばツバルよ」と長男は揶揄した。
このところ市のゴミ収集車の来る日にはオフクロの靴を捨てている。オヤジの亡くなったときに処理しきれなかった男物の下駄なども含めて、その量は90リットルの袋で3つにもなった。オフクロが生きていれば「ツバルが沈むから靴は捨てるな」とうるさく言い立てたことだろう。
しかしそもそも靴を買い溜めたのはオフクロである。そしてこれから捨てるべきオフクロの持ち物は、体積にして靴の100倍は下らないだろう。オフクロの遺したものを捨てることによりツバル近海の水位がどれほど上昇するかについては、僕も学者ではないので、よく分からない。
次男と僕の、地下鉄に乗るべき時間がほぼ同じであれば、共に甘木庵を出て一緒に朝飯を摂るところだ。しかし今日は一時限目が休講なので、8時50分の池袋行きに乗れば授業に間に合うと次男は言う。よって僕ひとりで駅に向かう。
甘木庵から秋葉原までは、頑張れば歩ける距離である。自転車を使えば頑張らなくても行ける。しかし甘木庵に自転車はなく、頑張るつもりもない。本郷三丁目から大江戸線で上野御徒町、地下道を歩いて上野広小路から銀座線で末広町、そこから先は徒歩という、いささか変わった経路で秋葉原に至る。
今月8日の日記に書いた件で「LUMIX & Let'snote修理工房」を訪ね、自分の"Let's note CF-N10"を預ける。以降は山手線で東京駅に移動して新丸ビルの上の方に昇ったり、またロビーに降りたりする。東京駅から日本橋は目と鼻の先だけれど、丸の内側からの移動はちと入り組んでいる。よってその日本橋へは丸ノ内線と東西線を乗り継いで行く。
今日は訪ねる先々で時間を調整する必要があり、そのたびコーヒーを飲むから腹が膨れてくる。約束の13時に「LUMIX & Let'snote修理工房」を再訪すると、愛機は特に問題の無かったキーボードまで新品に交換され手元に戻った。
北千住には13時50分に着いた。13:51発の快速には構内を走っても間に合わない。最後に極めつきの時間調整を強いられたけれど、高野秀行の「幻獣ムベンベを追え」を読み終えることができて良かった。
そうして15:12発の特急に乗り、閉店直前の会社に戻る。
下今市駅13:35発の上り特急に乗る予定を急遽、2時間ほど早める。そして本郷三丁目、春日町と歩いて用を足す。「用を足す」とはいえ小便をしたわけではない。
春日町には暗くなるまでいた。そして富坂を下ってきた「都02」のバスに乗って東富坂を一気に登る。ハンバーガーの"FIRE HOUSE"から本郷三丁目の交差点を経て本富士警察署あたりまでは平坦でも、すき焼きの「江知勝」は明らかに下り勾配の途中にある。そして切り通し坂を一気に駈け降りて天神下に至る。この経路はそのまま啄木の、自宅から朝日新聞社までの通勤路に重なる。
湯島の繁華街でカウンター活動をして外に出ると、天神下の「CoCo壱番屋」のカレーライスが無性に食べたい。しかし酔った頭をなだめ、しずめ、冷静に考えてみれば、カレーライスには一食分の量がある。それを飲み食いした後に食べるとは、明らかな異常行為である。
その「異常行動」を求めて止まない衝動をどうにか抑えて「CoCo壱番屋」の前を素通りする。先ほどバスで降りてきた坂を徒歩で上がりつつ考えてみれば、酒の後にラーメンや牛丼やカレーライスを求めるのは脳である。身体は逆に、その脳の衝動を必死に拒否しているのだ。そうに違いない。
切り通し公園の薄暗がりを歩いて甘木庵には22時30分に着いた。そして即、就寝をする。
昨年の2月にはウンザリするほどの雪が降った。特に15日には、自宅から一般道まで遂にクルマを出すことのできなかった社員や、90分も歩いて出社した社員がいた。商店街のアーケードが一部で崩落し、日光宇都宮道路は閉鎖をされた。
その日光宇都宮道路は2日後の17日にようやく、宇都宮から大沢までのあいだのみ復旧した。同日にはまた、日本橋の高島屋へ向けて午前中に出荷した荷物が「明日の配達は約束できない」と、ヤマトから差し戻されたりした。
そのような昨年の状況を振り返ってみれば、今年の2月は関東地方に限ってのことかも知れないけれど、凌ぎやすい。
4時台に起床して製造現場に降り、早朝の仕事に従う。そうして食堂に戻って一服するうち、空が明るくなってくる。
日中は「本物のワインで漬けた本物のワインらっきょう"rubis d'or"の手入れをしたり、あるいは9月下旬に予定される新たな仕事における未知の情報を、コンピュータを使って得たりする。
明日は今日より暖かくなると、テレビの天気予報が伝えている。しかしこのまま一直線に春に向かうことはないだろう。春になったらかぶるための、麻と木綿による帽子を先日はウェブ上に購入した。いま着ているモヘアのセーターより少し薄いそれについては、いまだ「買い物カゴに入れる」をクリックできずにいる。
「リコーのカメラは故障が多い」と書けば「リコー」への営業妨害になるだろう。しかし「この9年のあいだ、自分はリコーのカメラしか使ってこなかった」と続ければ、前言は却って梃子のように働いて「リコー」への称揚に変わるかも知れない。
特に"GR Digital"の最初期型においては、一体全体どれほど修理を繰り返したか、この日記を遡っても追い切れない。それでもなお"CX"シリーズと"GRD"は、保証期間が過ぎた後の修理費用と天秤にかけつつ新しい機種を買い続けてきた。
「修理を完了して工場から商品を送り出せるのは12日」と今月2日に伝えられていた、マクロ以外で合焦しなくなった"CX6"が本日、早くも配達をされた。箱を開け緩衝材を取り除いていくと、頻繁な使用により軍艦部の塗装のところどころ剥がれた"CX6"が綺麗に磨かれた状態で出てきた。
ビニールの袋から取り出し電源を入れ、早速に試してみれば、まぁ、当たり前のことではあるけれど、先日までの不具合は起きない。
これから先"CX"シリーズを出してこないらしい現状に鑑みて、手元の"CX6"については、なるべく長持ちさせなければならないのだ。「リコー」のカメラ部門は、どこへ行こうとしているのだろう。
冬の、特に部屋の外では常に、寒さを感じている。その寒さは僕の薄着による。
薄着に育てられると、服を何枚も重ねることが、自分にとっては普通でないことになる。普通でない状況で過ごすことには気味の悪さが伴う。よって寒くても薄着のまま震えている。
「今は科学が発達して、保温性の高い生地も次から次へと開発されている。そういうものを着れば寒さも防げるだろう」と言われても、まさか布1枚で戸外の寒さをしのげる服は、いまだ発明されていないのではないか。僕の服の理想は、裸に腰巻き1枚、というものなのだ。
むかしはモモヒキ、今はタイツと洒落て呼ばれるそれは、町内青年会の旅行で冬の韓国を訪ねたとき以来、穿いていない。タイツは化学繊維でできている。子どものころアトピー性皮膚炎を患っていた僕としては、素肌に化繊は、できることなら避けたい。そしてそのタイツはとうに紛失をした。
まさか裸に腰巻き1枚というわけにはいかないから"UNIQLO"の冬用のシャツとセーターに"montbell"のダウンベストを重ねてホンダフィットに乗る。そして家内と長男との3人で居酒屋「蓮」へ行く。
マキシマトモカズ君は17歳のとき製造係としてウチに就職をした。そして勤続20年を間近に控えたこの年明けに、看護師のアキコさんと結婚をした。本日はその社内的なお祝いにて、社員たちと宴のひとときを持つ。
1995年10月16日から使い続けた"Thinkpad"を"Let's note"に換えたのは2011年8月4日のことだ。社員に次々と譲り渡したこともあって、"Thinkpad"は16年のあいだに10台を乗り換えた。しかし"Let's note"は最初の"CF-N10"が今日まで3年6ヶ月も保っている。
もっともこの"Let's note"も、購入以来一度も無傷だったわけではない。あらためて調べてみると、およそ以下の修理履歴があった。
2012.1026 右アームレストのネジを増し締め
2013.1220 ハードディスクを"SanDisk"の"Solid State Drive"に換装
2014.0304 クリックボタンとキーボードを交換
2014.0416 "H"キーを調整
2014.0917 裏面のネジを増し締め
そして今朝は、このところ接触の鈍くなってきた電源ボタンについて、秋葉原の、今やすっかり馴染みになった「LUMIX & Let'snote修理工房」に、インターネットを通じて交換を申し込む。
分厚い木綿で作られた服、上質の革を古典的な方法で縫い合わせた靴、精密に組み立てられた単純な構造のクルマ。そのような、堅牢で長く保つ道具に手を加えつつ長く使うことが僕は好きだ。DDダンカンの"LEICA M3D-2"のように角のすり減ってきた"Let's note"も、いよいよその仲間入りである。
「15:45 神社」というボールペンによる文字が、事務机の左の壁に提げたカレンダーの、今日の部分に書かれている。よってその1時間前に自室に戻り、シャツにネクタイを締めジャケットを着る。
製造現場の15時から同30分までの休憩時間に、タカハシアキヒコ君のコンピュータにあるスケデュール管理のカレンダーを今年のものに更新し、また本人から申告のあった不具合を修正する。
15時40分に会社を出て徒歩で瀧尾神社へ行く。本日は、小倉町3丁目、小倉町4丁目、桜木町、二宮町の連合からなる今年度の当番町が、次年度の住吉町に、その役割を引き継ぐ会議がある。僕は神社の責任役員にて、この場には毎年出席をしている。
その引継ぎ会議はものの10分で完了した。直会は「竹美荘」にて17時からと、今年度の大膳からは告げられた。よって一旦帰社して16時47分に会社を出る。
「竹美荘」の敷地まであと20メートルというところで「皆さん、もうお待ちだと、竹美荘さんから電話がありました」と、事務係のカワタユキさんから電話が入る。そのときの時刻は16時57分だった。
「竹美荘」の2階に上がり、襖を開けると宴会場には宮司、責任役員、そしてすべての町内の自治会長、神社総代、また会計係が揃って着席をしていたから大いに恐縮をする。そして「こういう席には、やはり15分前には来ているべきだわな」と反省をする。僕には責任役員を代表して挨拶をする役目があったのだ。
昨年のこの日は朝から降り始めた雪が夕方になっても止まず、直会のお開きになる19時ころには徒歩での帰宅が困難なほど積もった。しかし今年はそのようなこともなく、昨年よりすこし早い時間に徒歩で帰宅する。
次男と甘木庵を出て本郷三丁目の交差点を渡る。「ドトールコーヒー」で朝食を済ませ、地下鉄の駅で左と右に別れる。恵比寿には予定していた時刻より随分と早くに着いた。よってしばらくのあいだあたりを散歩する。
午後の遅い時間に神保町へ移動すべく半蔵門線に乗る。その車内に「オガワマチがどうのこうの」と、路線図を広げて議論する3人の白人男がいた。訊けばスノーボードの店に行きたいのだという。「小川町なら神保町から歩いても目と鼻の先だぜ」と教えると「そこまで行くに最適な出口は知っているか」と心配そうな顔をする。
「大丈夫」と答えて彼らと靖国通りに上がる。そして駿河台下の方を指して「この通りを真っ直ぐ行けば、スノーボードの店は左側に並んでいる」と、彼らの不安を取り除いてやる。彼らは僕に礼を述べてから、それぞれ上着のポケットに手を突っ込み去った。
人との交流を僕はそれほど好まない。しかし日本に来ている外国人に、数分間で完了するほどの親切を施すことについては、僕はこれを積極的に行う。海外でそれを受けたときの有難さを、僕がよく知っているからかも知れない。
晩飯の場所は新橋に近いけれど、そのひとつ手前で地下鉄を降り、尾張町から歩いて行く。夕刻の空は青く明るく綺麗だ。その空を眺めつつ「はやく夏にならねぇかな」と思う。
下今市07:05発の上り特急スペーシアに乗る。関東全域に、雪の予報が出たり消えたりしている。9時すぎに水道橋に着くと、鉄道の高架とビルに区切られた冬の空からは、コートと帽子さえあれば傘は必要ないほどの弱い雨が降っていた。
単独の参加であれば戸惑うところがあったかも知れない今回の研修だが、今日は長男と一緒だったため、お互いのコンピュータを連携させて、理解も作業も滞りなく進んだ。そして直近における、ウェブショップに施すべきことが明らかになってきた。慶ぶべきことである。
研修が完了して後の交流会には、僕はあまり出席しないたちである。しかし今回は講師を含めても7名と少人数だったため「であれば」と最期までおつきあいをする。そして歩いても目と鼻の先の銭湯「梅の湯」へ行く。雨はほとんど降っていない。
「梅の湯」の下駄箱は、長嶋の3番が生憎と使用中だった。よって松井の55番に"GORO"の黒い"ブーティエル"を押し込み、番台のオバサンに450円を払う。清潔な浴室で熱めの湯に浸かり、更には電気風呂の刺激を受けてから上がる。脱衣所で計った体重は61.9キロだった。昨年の今ごろとほとんど変わっていない。
神保町の交差点から乗ったタクシーが御茶ノ水駅前を経由して東京大学の龍岡門に差しかかると、メーターは910円を示していた。そのあたりで降りれば良かったものの、運転手に伝えた、そこから数十メートル先の場所に停車をすると、メーターは1,000円に上がった。
甘木庵の壁の時計は22時30分を指している。それを見て即、就寝をする。
「よー、アベちゃんっちゃー、危ねぇぞな、戦後のニッポンみてぇにガラガラポンして、国の借金、チャラにしっちゃー気んなってんだんべ? こらホントに考えなくっちゃなんねーぞ、シャチョーんとこの梅太郎さんがよ、国が刻苦勉励、勤倹貯蓄だっつーんで言われた通りにしてたらよ、なーに戦争が終わったらよ、自分の貯金よりヘデナシの飲んだ酒の空き瓶の方が高くなっちったっつって、オレのオヤジに大分ボヤいたっつーんだよ、どーするよ、またそんなんなっちったら」
とは先日、自分の父親と僕のおじいちゃんが親しい仲だった、という人とお茶を飲んでいるときに出た話だ。
「どーするよ」と言われても、そのような事態に直面したご先祖様たちは一体全体どのようにして生き延びたのか、こちらが訊きたいくらいである。
モノが不足していた時代なら、モノを処分して糊口をしのぐこともできただろう。しかしモノの溢れた今の世では、モノを売ろうとしても、人は振り向きもせず過ぎていく。「どーするよ」と言われても、仏壇に線香を上げるくらいしかできないのだ、僕には。
節分が来ると思い出すのは、青山学院大学に在学中の若さで亡くなった叔父のことだ。その叔父は、今市高等学校の文芸部に在籍した昭和30年に、部誌「ZENITH 第十二号」に「随想」という文章を残している。
その、400字詰めの原稿用紙にすれば10数枚になろうかという「随想」は「子守り」「節分」「落語」「田んぼ」「野あそび」「友への手紙」という6つの章から成る。
カサカサと乾いた叙情、静かさ、ほの暗さ、寂しさ、そしてささやな、あるいはつつましやかな楽しさが、その「随筆」全体を覆っている。そこに漂う空気を英語で表せば"Under the blanket of blue"とでもなるのかも知れない。
今年もその「ZENITH 第十二号」を本棚に探し、しっかり保存されていることに安心をし、そして棚から取りだし、食堂のテーブルに開く。そして「随想」の「節分」のところを読むのだ。
1982年の「楽宮旅社」では、日中の暑い盛りにはボーイは廊下に茣蓙を敷いて昼寝をしていた。ボーイが身につけていたのは1枚の腰巻きのみである。あるときそれ指してタイ語による呼び名を問うと「パコマー」と、ボーイは声高らかに教えてくれた。
そのボーイと同じ「上半身は裸、下半身は腰巻きのみ」が僕の理想の服装である。
「かさばる」「着ぶくれをする」の、ふたつの点からコートは苦手だ。シャツの下に長袖の下着を着るなどは田舎のトッツァンのすることだ。しかし冬でもコートは着たくないので仕方ない。なお「おめぇ自身が田舎のトッツァンなんだから弁解することもねぇじゃねぇか」と問われれば、まぁ、返す言葉は無い。
内幸町で用を足してから西新宿へ回る。
ウェブ上で何かを批判したり何かについて決めつけたりすることを僕はしない。"RICOH CX6"のピントがマクロでしか合わなくなったことも、自分の取り扱いに間違いがあってのことかも知れないので「故障」とは断定しなかった。
そして本日「リコーイメージングスクエア新宿」に当該のカメラを持ち込むと、係はそれを操作して、これを預かっても構わないかと僕に訊いた。僕は最初からそのつもりだったから、引換証替わりの番号札を受け取りつつ携帯電話の番号を彼に伝えた。
数時間後にかかってきた電話で係は、合焦を担う部分に故障が認められたので工場へ送る旨の説明をした。代替機を持つ僕に特段の不便は無い。
きのうの昼と夜、そして今日の昼に洋風のメシを食べたら、それ系の好きな僕でさえ、さすがに今夜は和食が欲しくなった。よって北千住でそれ向きの食材を買い、19時前に帰宅する。
きのう参加した春日町1丁目青年会の新年会では、19時に始まった会がたけなわの20時45分にいとまを告げ、帰宅をした。家では家内とその友人たちが夕食会をしていたので、僕はそのまま寝室に入り、入浴をしないまま就寝した。
今朝は4時40分になりかかるころに起床し、風呂に湯を溜め入浴をした。そしてその風呂を念入りに洗い、着替えて食堂に入ると時刻は5時30分になっていた。
ポットでお湯を沸かしながらテレビのスイッチを入れると、イスラム国に囚われていたふたりの日本人のうち、生き残ったもうひとりの方も殺されたらしいとのニュースが流れた。早朝にもかかわらず、複数の高官たちが首相官邸に駆け込む姿が、画面には映し出されている。
何年も前から買おう、買おうと考えつつ遂に買わずにきた本を"amazon"に検索する。その「香田証生さんはなぜ殺されたのか」は、和智香が書いたものと誤解をしていたけれど、著者は下川裕治だった。価格は古書で5,894円。稀覯本でもないのにこの値段は、いま中東で起きていることを映しての高値かも知れない。
古書が定価の4倍では買いづらい。この本については数ヶ月ほどもしてからまた検索をしてみようと思う。