早朝に起きる必要のない日にも、3時ごろになると目が覚める。 国道121号線を走るクルマの、水を切る音が聞こえている。5時前に起床しておばあちゃんの応接間のカーテンを開けると、幸い雨は上がって日も差してきた。
5時40分、次男とホンダフィットに乗って郊外のセブンイレブンへ行く。その20分後、集まった 「今市ジュニアソフトテニスクラブ」 のメンバーはクルマを連ねて東北東を目指す。那須塩原市の 「くろいそ総合運動公園」 には7時すぎに到着した。「ジュニアソフトテニスくろいそ研修大会」 に僕が付き添うのは一昨年以来と家内には言われたが、12面の並んだテニスコートの印象は、まるで昨年も来たかのように記憶に鮮明だった。
練習の手伝いをしたり、団体戦の応援をしたり、あるいは日陰で新聞を読んだりしているうちにパラパラと雨が降り、あるいはまた日が照りつけてくる。大会は4時前に終了した。
現地解散だから帰りは単独行ということになる。クルマにはカーナビもなく地図もなく、太陽の位置を見て西北西に進路を取る。徐々に細くなる田舎道がラヴホテルの点在する赤松林の中で遂に行き止まりになり、東北自動車道の、「雨天時走行中止」 と表示のある側道を辿ったりもしたが、その後の岐路における勘は冴えわたり、往路より2キロ余分に走ったのみにて夕刻5時15分に帰宅する。
テニスクラブの遠征や催しも、次男が参加するものとしては、夏休みの合宿を残すのみとなった。忙しい時期ではあるが、今年の合宿では、過去2年よりも多く労力を提供しようと思う。
気づいて目を開いても部屋の中は漆黒だから、いまだ起床の時刻ではないと判断をする。しばらくまどろむと急に枕頭の "FOMA M1000"" が鳴り始め、よって午前3時30分が来たことを知る。となればもうアラームは必要ないが、僕はこの携帯電話における音の止め方を知らない。受話器を置くボタンを押しても止まらず電源を切っても止まらず、闇の中であれこれしているうちどうにかなるのが毎朝の常である。
初更7時30分、「第169回本酒会」 の開かれる洋食屋 「金長」 に集合する。今夜の趣向はウチの車庫の見学にて、酒の採点表に全員が書き込みを終えたのち曇天の下を歩くこと5分、車庫に達して鉄の跳ね扉を上げる。見学とは見て学ぶことで、酔っぱらったオヤヂたちの物見遊山を見学とはいわない。古い銅製のガスケットなどを見てもらい、「金長」 を経由して9時30分に帰宅する。
明日は次男のテニスの試合があり、早朝から黒磯へ行く。入浴して冷たいお茶を飲み、、11時に就寝する。
暗闇に目を覚ましてサイドテイブルに手を伸ばし、携帯電話を取り上げ時刻を確かめると深夜を2分過ぎている。しかし深夜っていったい何時だ? と、そういうところにいちいちひっかかっているから僕にはギャビン・ライアルの良さが分からない。
とにかく0時2分に起床して先ず製造現場を見て回り、その後、事務室へ移動してメイルマガジン1本を書く。ウェブショップのトップを更新し、きのうの日記を完成させてもいまだ2時にならない。調子の悪かった、しかし修理に出した電気屋ではどこも悪くないと言われたCDプレイヤーは販売係のサイトウシンイチ君にやってしまったから音楽を聴くわけにもいかない。それでもあれやこれやするうち新聞が配達され、それを持って5時すぎに居間へ戻る。
「スジンダさんからいただいたタイカレー」 というものをきのうオフクロからもらい受けた。スジンダという名の響きにはヒンドゥーの香りがするが、タッパーウェアの中の白っぽいそれは、僕が1982年のバンコックで盛んに食べていたタイのカレーそのものだ。昼にこれを温めメシにかけて食べてみて、その美味さに圧倒される。
カレーの中の、赤く小さな唐辛子をそのままメシメシと噛み砕く。月桂樹の葉は繊維が強いからこれは皿の脇に置く。主な具は筍と茄子と鶏肉で、確かにタイでは筍のカレーは料理屋の琺瑯バットに良く目にするものだった。豊かな辛さをレモングラスの爽やかさが、まるで風のように拡散させていく。美味い、美味い、美味いと連呼するうちそのカレーライスはしかし、すぐに食べ尽くされてしまった。そして 「スジンダさんからオレ、このカレーを定期的に買いてぇなぁ」 と考える。そういうことが可能かどうかは分からない。
町内に会議のある晩は断酒をすることにしている。夜7時30分に春日町1丁目公民館へ行き、7月7日に迫った瀧尾神社の八坂祭につき話し合いをする。また、各戸に配るお札を半紙で包み、糊で留める。ときどきうつらうつらする僕にオノグチショーちゃんが声をかけて起こす。
10時前に帰宅し、入浴して22時間ぶりに眠る。
「どこそこを訪問して、これこれの写しを取得してくる」
「ついでに銀行へ行って、あの口座の通帳記帳をしてくる」
「それを済ませて帰社したころに、どこそこのだれそれさんが必要な書類にハンコをもらいに来る」
「時を同じくして社内のこれこれを調査するまるまる社の作業には、最後のところで立ち会えば良い」
「これが11時30分には終わるだろうから、午後にはあの仕事を始めて」
と、こういう計画を立ててもその通りにいかない原因はふたつあって、ひとつは約束のない来客、もうひとつは電話である。
今月13日、渋谷のイタリア料理屋で "Computer Lib" のナカジママヒマヒ社長がグラッパのグラスを握りしめ、「こうやって上がってくる香り嗅いだらもう、一発でイッちゃうっスよー」 と断言した口調を真似て、今朝の食卓にある甘唐辛子の鰹節かけについて 「これに酢醤油かけて食ったら一発でイッちゃうっスよー」 と言うと、家内が 「どこへでも行っちゃってください」 と答える。
「どこへでも行っちゃってください」 とは 「旅に出ろ」 ということだろうか。旅に出ればすくなくとも、急な来客と面倒な電話からは開放される。旅先で仕事を行えば、これは案外、能率が上がるかも知れない。
終業後に社員達と 「とんかつあづま」 へ集合し、繁忙期前の食事会をする。席上、昨年同時期のデータを配布して短い説明をする。ここでは僕は通常、チューハイグラスに氷を満たし、生の焼酎を縁まで注いで2杯半ほどは飲む。ところが今日どこかに疲れでもあるのか、あるいは加齢のせいか、酒がなかなかはかどらない。反面、箸の動きは滑らかだった。滑らかとはいえ、ひとりでおひつを空にする製造係のタカハシアキヒコ君には比すべくもないが。
本日より日光に泊まるとの連絡がオヤジの古い知り合いからあり、同時にご注文もいただいて終業後、「日光金谷ホテル」 に商品を配達する。そのお客様からは 「仏様に」 と菓子折をいただいてしまったが、当方は先様に差し上げるものなど何も持ってはいない。居合わせた金谷ホテルの社長には名刺をいただき、しかし同じく当方は名刺を携帯する習慣を持たない。僕はいわゆる 「気の利かない野郎」 である。
「ブルゴーニュの古い白は早く飲んじゃおうぜ作戦」 を開始してから1年ほどは経っただろうか。しかしながらワイン蔵の、上質ではあるがいささか飲みどきを逸した白ワインはいまだ無くならない。帰宅して7時前に "Chassagne Montrachet 1er Cru Les Caillerets Olivier Leflaive Freres 1986" を抜栓し、次男の勉強机で 「口笛の歌が聴こえる」 を読みつつこれを飲む。
「文人悪食」 では精緻な推敲を窺わせる名文に 「嵐山光三郎って、こんなに文章の巧い人だったのか」 と舌を巻いたが、彼の学生時代から出版社の編集者として足元を固めていくまでの自伝 「口笛の歌が聴こえる」 は筆に速度を持たせた荒削りのもので、1960年代という時代背景もあるのだろう、野坂昭如の 「てろてろ」 に共通の空気を感じる。残りのページはいよいよ少なくなった。
先日、保険会社の人がアンケート用紙を届けてくれ、しかし仕事でもないのに書類に目を通すのは面倒だからそのままゴミ箱に捨てた。ところが 「ご記入いただけたでしょうか」 と僕の留守中に回収目的の来社があったと聞いて 「困ったな」 と思った。後日、街を歩いているときこの人に遭遇したから用紙を捨てたむね伝えたところ、またまた新しいものを届けてくれた。
2度も不義理はできないと、今度こそマークシート方式による三者択一の質問に答えていく。この用紙は後日どこかのコンピュータが読み取り、僕の経営者としての性向が、各界の有名社長のうちの誰に近似しているかを判断するのだという。
しかしながら 「社内では論理的な人と認められている」 とか 「人には温情を以て接する方だ」 という文字を目で追ううち、「自分は論理のかたまりと認識しながらその実、タコ八郎みたいなヤツがいるよなぁ」 とか 「人にメシをおごっただけで自分は温情家であると信じ込み、その実、切り捨て主義のヤツがいるよなぁ」 などと考えるにつけ、「こんな恣意的なアンケートに意味はあるのか?」 との思いが頭をもたげてくる。
しかし百歩譲って考え直してみれば、このアンケートに答えさえすれば、各界の有名社長のうち自分はだれそれに極めてちかいタイプの経営者だという結果がとりあえずは出る。それを見て 「へぇ、オレもまんざらじゃねぇな」 と錯覚し、その錯覚が自分の意欲の元になる、もしもそういうことが起きるとすれば、このアンケートにも幾分かの、場合によってはかなり大きな意義があるように思われる。
ひと月に1度ひらかれる 「本酒会」 という利き酒の会に参加をしている。採点表は毎月、僕が印刷して会場に持参する。1本1本の酒を利いて各自、その紙にあれやこれや記入していくわけだが、本職による利き酒が酒の細密なところを知るためにするのに対して、本酒会では多分、当日の酒の中からもっとも美味い酒を選ぶために酒を利いているのだと思う。
僕に言わせれば、目の前にある、一升瓶で5本か7本の酒のうちもっとも美味い日本酒を決めるには、なにも採点などする必要はない、我も我もと皆にお代わりをされ、もっとも早く空になった酒がもっとも美味い酒なのである。
「日光カンツリー倶楽部」 のちかくにある 「ぱんいしづか」 というパン屋のパンを食べるにつけ不思議に思うのは、腹が膨れても更に食べてしまうことだ。普通、腹が満ちれば人はパンを食べることをやめる。しかしこの店のパンに限っては、砂漠から帰還した犬が狂ったように水を飲み最後にはぐったりしてしまうのと同じく、満腹になっても更に食べてしまう。
前述の 「もっとも美味い日本酒」 に照らせば 「ぱんいしづか」 のパンは美味いに違いない。しかし 「ぱんいしづか」 のパンは美味いというよりもやはり 「腹が満ちても更に食べてしまうパン」 との認識が僕にはある。「美味い」 と 「食べ始めたら止まらない」 の違いは何だろうと考えてサッパリ分からない。分からないながらも 「ぱんいしづか」 についてはとりあえず、ウェブショップの 「日光の美味しいもの屋さん」 に掲載しておいた。
四半世紀ほども前に老若男女の集まった席で 「正月はなぜめでたいか」 という議論をしたことがある。様々な珍談奇説の飛び交う中に
「クリスマスがめでたいのはその日にキリストが生まれたからじゃないわよ、キリストの生まれるずっと前から、その時期は冬至を越えるという意味で "merry" だったのよ、ヨーロッパ人は昔も今も日の光に飢えてるんだから。正月がめでたいのも同じ理屈よ」
というものがあって、クリスマスと正月のめでたい理屈が同じかどうかは知らないが、なるほど冬至は自分にとっても嬉しいと感じた。冬至が嬉しければその反対側の夏至はどうかというと、これはイヤだ。今日はその夏至の翌日で、空は午前4時30分から既にして明るい。しかし今日の日の出はきのうのそれよりも確実に遅く、そしてこれから日々、朝は暗くなっていくのである。
晩飯の最中に携帯電話が鳴り、通話ボタンを押すといきなり 「いま銀座で山手線に背を向けて歩いてるんだけどさ、そっちの日記にあったこれこれって店の行き方、教えてくれる?」 と話が始まる。
行きつけの店は大抵わかりづらい場所にあり、そこに至るまでの道は 「なん丁目の交差点から右側の歩道をなんとか銀行の角まで歩き、それを越えたところにあるこれこれ画廊に向かって右側の路地を入って30メートル行ったら左折。すぐ右手にクランク状の更に細い道があるからウンヌン」 という風には記憶していない。
「いま銀座で山手線に背を向けて歩いてる」 とはいえ晴海へ向かっても日比谷へ向かっても山手線に背を向けていることに変わりはなく、1丁目から8丁目のどのあたりを歩いているのかの説明もない。当方は酔った頭で 「だいたいあのあたりにいるのだろう」 と想像し、道案内は店に任せるのが一番と、相手の目指すところの電話番号を調べるため、通話中の電話をいったん切った。
自分の携帯電話を調べると、問題の店の電話番号は登録されていない。よって食卓を離れエレヴェーターに乗り、階下に降りてはいくつもの鍵を外しながら事務室に入る。コンピュータを起動してブラウザを立ち上げ、検索エンジンを回したところでその店の連絡先はようやく判明した。
あらためて友人に電話をすると、友人はすぐその店に達し、ややあって 「15分待ちだっていうから、どこか他の店、ない?」 と言う。「その店が混んでるってことは、ほかの店も混んでるってことなんだよ、そこに椅子が並んでるだろ、15分くらい座って待ってりゃいいじゃねぇか」 と答えると、僕の声にかすかな苛立ちを感じたか、友人はあわてて 「そ、そうだな、有り難う」 と答えて電話を切った。
料理屋で待たされたくなかったら事前に場所を調べ必要とあれば地図をプリントし、予約を入れるのはもちろんのこと、当日は料理屋に約束した時間に間に合うよう朝から仕事の能率を上げと、そういう段取りの踏めない人は初更のコンビニエンスストアで酒と肴を買い、皇居のお堀端までタクシーを飛ばして野天に宴を張る、そうすると案外、料理屋へ行くなどよりよほど楽しい夜が過ごせるかも知れない。冬や雨の日にはちと辛いだろうけれど。
このところ朝は3時30分に起きている。目覚ましをかけなくても大抵はその時間より前に目が覚める。今朝も暗闇の中で目を覚まし、携帯電話に設定したアラームが鳴るのを待っていると、そのうち部屋の中が紺色から群青色に変わり、部屋から西へ200メートルのところにある林ではカッコウも鳴き始めた。
「おかしいな、3時30分でこれほど明るいはずはない」 と、枕頭の携帯電話を取り上げディスプレイのスイッチを入れると4時をすこし過ぎている。アラームの作動しなかった原因は分からない。
仕事を一段落させて居間へ戻り、6時30分に起床した次男とエレヴェーターを降りる。
午前9時に町うちのお得意様を訪問し、10時からは別の仕事をする。午後はすこし休み、終業後は冷蔵室の修理が長引いてしまった業者のために事務室で待機をする。彼らの朝9時からの作業が完了したのは実にその12時間後だった。2階の酒蔵を経由して4階の居間へ戻り、僕にしては遅い晩飯を食べる。
ただ電車に乗っているのは退屈だから、そういうときには活字を読む。時間を惜しんでも読みたい面白い本を、退屈を紛らわすために読んでは勿体ない。したがって電車の中では業界紙や、あるいは保険会社の人が毎月とどけてくれる修身の教科書めいた月刊誌を読む。
先日ある移動中にこの月刊誌を読んでいると、功成り名を遂げた人の訓話の中に 「早起きの習慣をつけよ」 というものがあった。自らを律することにより生まれる自信はなにものにも代え難いし、第一早起きは健康に良いという。しかし我が身を振り返ってみれば、自分は早起きだがそれは前夜の早寝によるもので、自らを律した結果ではない。
「真面目な人とは、その時々の社会に適合することのできた運の良い人である」 という見解の僕は持ち主で、これに照らせば僕は、早起きに適合しているというただ一点に限っては真面目な人ということになる。
夜の会合が好きで、そういうものには2次会、3次会がつきものだから翌朝の起床は遅くなる、そういう知り合いのウェブ日記を読むと、早起きのできた日はまるで鬼の首でも獲ったような書きっぷりである。しかし僕も、この清閑日記を読んでいる取引先から 「お酒を抜いた日はまるで、それが自慢げですよね」 と言われたことがある。
自慢するつもりもないのだが、今夜は先日、次男が自由学園の新天地で収穫したジャガイモを使ったカレーライスを食べ、2日続けての断酒に成功した。酒を飲まないということについては、僕は自らを律する必要があるのである。
顔見知り3人との計4人で日産だかトヨタのクルマに乗り、宇都宮へ行く。日産のクルマには丸の中に "NISSAN" という黒文字のマークを付けたものもあるが、そうでないものもある。トヨタのクルマには楕円をふたつ重ねて "T" の字にしたマークを持つものもあれば、そうでないものもある。
100年ちかくも前からメルセデスには例の "Three Pointed Star" があり、アルファロメオにはミラノ市の紋章があり、プジョーには前肢を上げたライオンのマークがある。そういう麗しい歴史を持たない日本のクルマの中でも特に、日産とトヨタの区別は僕には難しい。
そういえば数年前の新聞広告に、ホンダが15段つまり1ページを使って自社の全車種を載せたものがあった。真横からの写真が数十台分も並んだが、それらすべては共通のラインを持ち 「さすがホンダには、いまだ本田のオヤジの遺風があるんだなぁ」 と感心をしたが、それからわずかのあいだにその共通性が木っ端みじんになってしまったのは、どのような理由によるものだろうか。
本日は午前1時30分に目を覚ましたにもかかわらず、宇都宮市保健所でのちょっとした講習は、大した眠気も感じないままに完了することができた。否、まだ完了ではない、今般の講習はコレラの予防注射と同じく2度受けることが義務づけられている。裏を返すのは来月の5日である。
白麻の暖簾をくぐって引き戸を開け、すると右手には4人がけのテーブルが2脚、左手には5、6人の座れる白木のカウンターがあって、そのカウンターの中には白い割烹着を着た森光子がいる。開店直後の店には僕のほかに客はいず、黙って座れば目の前に次々と総菜が運ばれ最後にホカホカのメシと味噌汁が届く。そういう架空の店の思い浮かぶような美味い晩飯を食べ、入浴して10時に就寝する。
朝飯の雑炊に付け合わされた4品のうち3品は美味いが1品だけは非常に不味い。その1品とは予め刻んだすぐきを調味液に漬けたもので、ウェブ上で調べれば、とても売れている商品である。
僕はその漬物屋の経営者の顔を頭に浮かべ 「まさかなぁ、こんな化学調味料まみれの品を、美食家の彼が本気で美味いとは思っていないはずだ、しかしすぐきという一般には好まれない味を大量に広めるには、この味がもっとも有利と考えて調製したのだろう」 と結論づけた。
この商品ですぐきの味を覚えた人は、伝統的な製法による本物のすぐきを食べて 「これはニセモノだ」 と断じるだろう。僕はここでジョセフ・トロピアーノによる 「リストランテの夜」 を思い出さないわけにはいかない。ま、世の中にはよくあることだ。
「オン・セックス」 の中ほどまでは博覧強記や碩学たちと鹿島茂との対談で、それはそれで面白かったが書中の白眉はなにかといえば巻末にある、山田陽一による鹿島茂へのインタビューと僕は考える。
そして僕はこれを読みながら、民衆の信仰を支える場所が教会からデパート(消費資本主義社会)へ転換したことを早くも19世紀中に確信してしまったエミール・ゾラの 「ボヌールデダム百貨店」 を思い、更には新渡戸稲造の 「武士道」 へとその思いは繋がっていく。
「どうやって繋がっていくのか、そこのところを書かなきゃダメでしょう」 と言われても、そこまで筆を進めていたら日記ではなく論文になってしまうから書かない。
家内と次男は朝飯に、きのう次男が自由学園の羽仁吉一記念ホールで味見の上、2種のうちから選んだハナミズキの蜂蜜でパンを食べた。その蜂蜜の瓶には 「自由学園男子部養蜂所」 の文字が見える。養蜂所は豚舎のちかくにあると聞いたが、豚舎にいるときには気づかなかった。
明日か明後日には、僕もこの蜂蜜を味わってみよう。
自由学園の男子部を、ここへの入学を希望する人たちに説明するオープンキャンパスが開かれるため、次男を連れて午後、自由学園に行く。
この学校らしく、このような催しは教師ではなく生徒が企画運営をする。高等科1年生による受付を経て同じ学年のイケダ君に案内され、先ずは 「新天地」 に中等科3年生が丹精している畑に行く。深く畝立てされ特に目を惹く場所では里芋が育てられていたが、本日の参加者はその隣でジャガイモの収穫をさせてもらう。
引き続き、炎天にスプリンクラーの水も涼しげな大芝生を左手に見つつ豚舎へ行く。中等科の生徒が育てた豚は奇しくも今朝、その全頭が出荷されたという。数年前に導入された、学園内の残飯を豚の飼料にする装置について訊くと問題なく作動しているそうで、大いに感心をする。
豚舎からテニスコートの脇を上がって男子部に行く。ここでは 「ものづくり体験」 としてTシャツを染める藍染め、、バターナイフを作る木工、ペンケースを縫い上げる革細工の3部屋が準備されていた。次男は革細工の部屋で大苦戦をしたが、ここでも子供の指導は高等科1年生がしてくれるから、僕は次男が助けを呼ぼうにも呼べない場所で資料を読んでいた。そしてペンケースは何とか完成した。
体操館では長男の同級生ヤマモト君が体操のインターンをしていると聞き、これの最後の10分間にようやく間に合う。生徒を助手に使い、ヤマモト君は上手に指導をしていた。4、5年ほども前、ヤマモト君の愛読するものが 「旅順入城式」 と聞いて意外の念に打たれたことがある。体を動かすことと百閒の幽玄とが、ヤマモト君の中ではつかず離れずあるのだろう。
本日のオープンキャンパスには多くの参加者があった。これから11月までに計画されている様々な催しにも同じく多数の親子が集まり、来春の入学試験までそれが繋がれば良いと思う。来月21日の体験入学では、僕は次男と東天寮に泊まる。それもまた楽しみだ。
打ち上げや直会は大人のするものだが当方はのども渇いた。夕刻に浅草の 「神谷バー」 へ達し、僕はちょっとしたものでビールを、次男はショウケースにビーフステーキを発見してこれを注文した。
浅草駅19:00発の下り特急スペーシアに乗り、9時前に帰宅する。
日中、ふと思い立って
を "amazon" に検索してみると、既にして絶版のこれに10,000円の値が付いていた。「一発当たれば大もうけ」 と、白秋の 「待ちぼうけ」 よろしく出品者はこのプライシングをしたのだろう。
1990年代の初め、僕はこの本をのべ30冊ほども買い込み、人に配り、あるいは送りつけてマイツールという優れたソフトの "evangelist " をしていた。いま事務室の本棚を見上げれば、これの新品がいまだ4冊ある。4冊あっても、もう人には贈らない。欲しければ "amazon" の出品者から10,000円で買えばいいのだ。
そしてこの本は、それだけの大枚を投じても充分に、否、その百倍はすぐに、たとえ千倍もいずれは取り返すことができるのだから、結局は安い買い物なのである。
30年ほど前に新築をして以来、ずっと仏間に掛けておいた 「百味皆宜」 の額は、それ以前の古い家では茶の間にあったような気がする。食べ物を売る店にこの四文字は良いし、額自体の味わいもなかなかのものだから自宅に置くのは勿体ないと、先日これを 「手塚工房」 に渡し、その背面に壁掛け用の金具を取り付けてもらった。
むかしおばあちゃんに訊いたところによれば 「百味皆宜」 とは 「いろいろな味があって、それらすべてはよろしい」 ということだったから、実に中華思想とは正反対のことを言っている。中華思想や教条主義は僕の趣味に合わない、ということはこの 「百味皆宜」 は大いに僕の好みということになる
店舗はなるべく簡素にしておくべきと思うが、それほど大きくもない額を掛けるだけの隙はいまだある。そしていざこの額が客だまり頭上の梁に取り付けられてみれば、それはその瞬間から、まるで何十年もそこにあったかのように収まってしまった。
きのうも一緒に仕事をしたヒラダテマサヤさんとは9時前に渋谷駅の東口で落ち合った。宮下公園を見おろすビルまで歩き、ふたりでちょっとした研修を受けつつ昼が近づいたころにヒラダテさんの携帯電話が鳴る。
「ナカジマがセルリアンタワーに昼食を用意しているそうです」 と、ヒラダテさんが声を低めて言う。「セ、セルリアンタワー? 結構遠いじゃねぇか、オレは昼飯はすぐそこの富士そばで良かったのに」 と思うが接待好きのナカジママヒマヒ社長には逆らえない。
渋谷特有のかしいだような歩道を歩き、長い歩道橋を渡り、ビルの谷間に当方が埋没すれば先ほどまで見えていたセルリアンタワーは姿を消して道を間違えたりする。タワー2階の "Oli" にようやくたどり着いて席へ案内され、すると間もなくマヒマヒ社長もどこからか来た。
「ウワサワさーん、シャンペンいきましょう、今日はめでたい日なんすよー」
「いや研修中だもん、それはまずいでしょう」
「まずくないですよ、仮に研修に支障をきたすようなことがあっても、その分、このヒルメシを有意義なものにすればいいじゃないっスかー」
「オネーサーン、発泡酒のリスト、お願いしまーす」 とマヒマヒ社長が言うとウェイトレスが怪訝な顔をする。僕は慌てて横から 「発泡酒ったってインチキビールじゃないよ、スプマンテ、ある?」 と訊く。そのスプマンテはボトルで8,000円を超えたから 「いいじゃないですか、泡が無くてもテーブルの白で」 ということにする。人のおごりではあっても昼に8,000円超のワインは贅沢だ。
しかしながらその 「テーブルの白」 2本をたちまち飲み干し、ここで終わらず 「オネーサーン、グラッパ、どんなのある?」 となり、「チーズの盛り合わせちょうだい。え? チーズは2種類しかなさそう? だったらピクルスの刻んだのでもいいや」 と、周囲はさておき我々の席だけは大衆酒場状態である。
マヒマヒ社長の勘定が済んだ後にもまたグラッパ3杯を頼み、これはさすがに僕が支払った。そのおかわりしたグラッパのグラスをマヒマヒ社長が握りしめ、「こうやって上がってくる香り嗅いだらもう、一発でイッちゃうっスよー」 と言うが、何がどこへイッちゃうのかは分からない。研修は夕刻5時45分に予定どおり終わった。
自由学園同学会のウェブペイジは2004年に発足し、以来今春まで僕がその更新をしていた。しかし今年の5月よりは下級生達がこれをムーバブルタイプにし、見た目はほとんど変えないまま新しい機能を組み込んだ。僕はもう役を降りて気楽にしていたが意見を聴きたいとの誘いが数週間前よりあり、本日約束をして6時30分に、2年下のイノウエタダス君、ヨリサキアキヒロ君、3年下のヨシダコウジ君と日本橋の "illy" で待ち合わす。
イノウエ君の行きつけの店 "Sincerity" の2階に落ち着き、さて何を話したかといえばウェブペイジの話題などはほとんど出ない。僕よりふたつ下のクラスは高等科から学部へ進んだ人数が2桁に達しなかった不運な学年だが人材は揃っている。30年前は痩せこけやたらに尖っていた後輩も、いまや僕のそれをはるかに超える高い知恵と知識とを以て世間で活躍をしている。後顧の憂いなどなにも何もないではないか、というのが今夜の会合の感想である。
なにより僕は彼らの先輩だから代金は多めに置こうとしたが、イノウエ君は 「ここは任せてください」 と土産まで持たせてくれた。「このまんまじゃ格好がつかねぇから、今度はオレが支払う集まりも持とう」 と言って日本橋の路地を出る。
三越前駅20:43発の銀座線は20:55に浅草駅に着く。ブーツを履いているから全力疾走はできない。下り最終スペーシアの、改札口にもっとも近い6号車から乗車をする。スペーシアはその2分後にプラットフォームを離れて隅田川を渡り始めた。
11時前に帰宅し、入浴して0時前に就寝する。
下今市駅7:04発の上り特急スペーシアに乗る。間もなく車内は窓外の圧倒的な緑を映して萌葱色に染まった。もちろん、空は抜けるように青い。
「目には青葉、山ほととぎす、初鰹」 とは三重の季がさなりではないか。そして青葉、ほととぎす、初鰹は夏5月の季語と思うが今は電車の中にいるから 「ホトトギス季寄せ」 を確かめることはできない。「分け入っても分け入っても青い山」 は言うまでもなく山頭火のもので、今朝の景色はまさにこの句の通りだ。
緑といえば同級生のフカミカズヒロ君は緑色が好きで、この系統の服を着ていることが多かった。そのフカミ君が雀荘 「ロン」 で役万を上がり、その手が緑一色だったので驚いたのは17歳のころのことだっただろうか。
9時すぎに神保町の "Computer Lib" に着き、新しいウェブショップの組み立てにかかる。午前中はヒラダテマサヤさん、マハルジャン・プラニッシュさんのふたりと共にその構造やデザインを試行錯誤しつつ練り上げ、午後は僕が文言の才人と認めるハットリさんが、ペイジに組み込む商品説明や、あるいはウェブショップのリニューアルを顧客へ報せるメイルマガジンを書くための助言をする。
夕刻に靖国通りへ出て駿河台下に向かって歩いていくと、看板は見上げないから店の名前は知らない、古本屋が歩道に置いたワゴンに目を惹くものがあったため、その2冊
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を購入する。古書の価格は僕の予想を外れ、分厚く写真も豊富な安田侃の500円に対してずいぶんと薄いライトの方は1,200円もした。
日本橋へ移動してひと仕事をしている最中に後ろから肩を叩かれた。振り向くとその人は自由学園でひとつ上級のニシダヨシテル君だった。ニシダ君はときおりウチのウェブショップで買い物をしてくださっているそうで、それを僕は知らずにいたから大恐縮してお礼を述べる。
ニシダ君とは四半世紀も前にアメリカの西海岸でばったり出くわし、巨大なロブスターをご馳走していただいたことがある。おなじ人と2度も続けて出会い頭の邂逅をしたことを不思議に思いつつ地下鉄に乗る。
「いちばん好きな瞬間って、どういうときですか」 と訊かれて 「尻のポケットに文庫本を入れて、さぁどこで飲もうかな、と考えているとき」 と答えたのはもう20年以上も前のことだが、いまでもその 「好きなとき」 は変わらない。
はちと分厚いし、今夜はジーンズではなくコットンパンツだからその尻ポケットにこれを入れるには具合が悪い。そういうわけで表紙を剥いたこの本は手に持ち、ネオンは賑やかだが星は見えない空の下を歩いていく。
「夕方からのプレゼンが上手くいったらおぐ羅に行きますよ」 と言っていまだ明るいうちに別れた "Computer Lib" のナカジママヒマヒ社長とヒラダテマサヤさんを、その 「おぐ羅」 でメジマグロとアオリイカと鳥貝の刺身を肴とし、冷酒を飲みつつ待っているところにふたりが入ってくる。さして期待もしていなかったが、仕事は首尾良く運んだらしい。
彼らと飲酒を為すときの最大の眼目は 「二日酔いを避けるような飲み方をすべし」 ということだ。しかしそれはまた 「無理な相談」 という側面を持つ。「立ち飲みでない方の "MOD"」 で2次会をし、酩酊して10時すぎに甘木庵へ帰着する。
「会議と名のつくものの最中には大抵、眠っている」 ときのうの日記には書いたが、思い返してみれば飲み会の最中にも、僕は眠っていることが多い。そして翌朝、デジタルカメラの中身をコンピュータへ移す段になって、飲み屋における自分の寝姿が、誰かの手によって撮影されていたことを知ったりするのだ。そして 「もっともオレは、人の寝てるうちから起きてるしな、どうってこともねぇや」 と反省はしない。
昼は人を相手の仕事で忙しく、終業後はひとりでする仕事が普段に倍してあった。しかしこれを更に続けてしていると晩飯が食えなくなるから残りは明早朝の仕事とし、それらをメモに残して事務室から引き上げる。
血圧は起き抜け、昼、就寝時にそれぞれ測るようかかりつけの医師には言われているが、昼はいつもそのことを忘れているから、コンピュータには朝と晩の血圧のみが、しかしところどころ欠けて記録されている。
1分間に6回というゆっくりした腹式呼吸をすることで血圧は下がると、数日前にある雑誌で読んだ。試してみると確かに、これまでよりも血圧計の数字は低くなった。というわけでおとといの晩もきのうの晩もこれを実行して、しかしその呼吸が5回目に差しかかったあたりで眠ってしまい、だから就寝時の血圧は2日続けて 「測定せず」 になってしまった。
「布団に入ったら10秒以内に眠るから見てろ」 という上級生と、自由学園の東天寮で同室になったことがある。頭の中のテンカウントが7を過ぎたころ、その上級生は確かに、芝居でない寝息を立て始めた。この上級生には敵わないが、酒を飲まない日にも横になって1分以内に眠れる体質は、自分の武器のひとつと確信している。
しかしこの武器には短所もあって、それは、眠ってしまうと人格を疑われかねないような席でも平気で眠ってしまう、というところにある。特に、会議と名のつくものの最中には、僕は大抵、眠っている。
このところ次男と朝6時30分から続けている、往きの500メートルは歩き、帰りの500メートルは走る、という軽い運動をしたときには曇りだったが、8時をすぎて雨になる。これを受けて、テニスクラブの練習は中止になった。もうずいぶんと、テニスコートには行っていない気がする。
コンピュータをコンピュータらしく使えるようになる15、6年ほど前までは、スケデュールの管理に能率手帳を使っていた。もっとも現在も、毎日すべきことのすべてをコンピュータに入れているわけではない。事務机の右には今月のカレンダーを立てかけ、ここに直近のあれこれは記してある。しかしこれだけでは忘失癖のある僕には不安だから、本当に重要なことはポストイットに書いてコンピュータのディスプレイに貼り付ける。
午後1時45分、そのポストイットの指示に従って瀧尾神社へ行く。当番町春日町2丁目の主催する会議に出席をし、来月7日から14日までのあいだに開催される八坂祭の諸事につき、決議事項に賛成の意を示して帰社する。
おとといのお葬式、きのうのお通夜、そして本日の会議と、3日も続けて黒いスーツを着た。その3日のうち2日は雨模様だった。梅雨は雷に始まり雷に終わると聞く。おととい夕刻のはげしい雷雨から、関東地方は梅雨に入ったかも知れない。
朝のニュースを見るに、昨夕の宇都宮への集中豪雨はすさまじく、1時間に110ミリが降ったという。中学生のとき、気象の記録を命じられた同級生が前日の降雨量を200ミリと報告し、理科のカネダマコト先生にひどく叱られたことがあった。先生がおっしゃるには 「200ミリも降ったら大洪水だ」 とのことだったらしいが、それから考えても、きのうの雨はさぞかしひどかったことだろう。
きのうのその時刻に日光宇都宮道を日光方面へ向かっていた知り合いが午前中に電話をしてきて、高速道路上に突然発生した濁流に突っ込んだとたんハンドルが利かなくなり、土手に乗り上げてクルマを大破させたという。怪我はなかったようだがそのときその人の乗っていたクルマが何だったかは訊かなかった。いずれにしても、シートベルトは常に締めておくべきだ。
燈刻、強い雨の中をオフクロとホンダフィットに乗り、オヤジの友人のお通夜に行く。鉛筆を頻繁に削ることなく細い文字を可能な限り書き続ける方法を、亡くなった人は40年以上も前に僕に教えてくれたことがある。
齢を重ねるごとに新しく知る顔は増えていくが、古くから知る顔が徐々に失われていくのもまた同時進行である。
朝の上り特急スペーシアで東京へ行き、夕方の下り特急スペーシアで帰宅する。東京へ行って帰るまでのあいだ、お茶はおろか水さえ飲まなかったのは、生まれて今日までの半世紀で初めてのことではないかと思われる。
せっかく禁欲的な半日を送ったからには更に続けてと、晩方の飲酒を避ける。家内と次男との3人でトランプの大貧民をし、8時30分に入浴する。ベッドの足許にある本を取り上げれば鹿島茂の 「オン・セックス」 だったから 「斎戒沐浴も風呂に入るまでだったか」 と、これを読んで9時に就寝する。
留守のあいだに届いた郵便物が事務机に満載になってはイヤだからカゴを用意しておいた。帰社してみれば、カゴの中身はそう多くもなかった。同じく留守のあいだに届いたメイルは、その99パーセントが過去に買い物をしたことのあるウェブショップからのメイルマガジンだった。
これではウチのウェブショップを利用してくださるお客様に 「今後のメイルマガジンは不要です」 とおっしゃる方が目立っても仕方がないと考えたり、「いや、あそこのメイルマガジンだけは続けて読みたい、と思われるようなものを書かなくてはいけない」 と考え直したりする。
留守中に届いたものには黒い麻のスーツも含まれていた。春から何かと会合に出るたび、出席者の中でスーツを着ていないのは僕だけ、という状況が続いていたことを反省しての注文だった。ところがその黒いスーツの配達された途端、お葬式ができてしまった。数ヶ月前には冗談を交わして笑っていた僕よりいくつも年少の人が急な病に斃れたのだ。
「人間はいつ死ぬか分からない、しかし自分に限っては、よもやそのようなことは起きないだろう」 と、たいがいの人は思って生きている。そこいら中に落とし穴のある漆黒の夜道を、我々は恐れもなく歩いているのかも知れない。長く生きる人とは、その穴に近づきながら、知らず知らず縁のところを踏んで通り過ぎただけのことではないか。
オーダーメイドとはいえ仮縫いのない仕立てのため3個所ほどに不具合のある黒いスーツを試着しながら、そういうことを考える。
子供のころのいちばん楽しかった想い出といえば、おじいちゃんの運転するトラックの荷台にひとり立ち、家のちかくの星野産婦人科と湯澤歯科とのあいだの道を疾走してもらったこと、またそれよりも大きなトラックで当時の国鉄今市駅に届いた原材料か何かを受け取りに行った際、荷台に満載された荷物の更にその上に当時の製造係ヒラノショーイチさんと腹這いになり、大騒ぎをしながらウチまでの道を辿ったことだ。
つまり 「いちばん楽しかった想い出」 とは、それが為されたときには日常の大したこともないひとときだった、ということが案外、多いのではないか。
そして今回の5日間の旅行を振り返ってみれば、その随一は炎天下の敦煌で砂漠の丘を登ったこと、もうひとつは西安のイスラム街でカバブを肴にビールを飲んだときのことで、つまり莫高窟や、あるいは20世紀最大級の発見と言われた兵馬俑を見たことではない。
こうして考えてみると、子供のころも大人になってからも、想い出の元となるものについては、そう変わりがないのかも知れない。
敦煌の沙州市場で買った白酒 「敦煌春」 はビンに4分の1ほどが残ったため持ち帰ったが、そのほとんどはトランクの中に漏れだし、燈刻 「月の杯」 に注いでみたところ、それは底の部分にいくらも溜まらなかった。
すこし寝坊をして6時に起床する。きのう到着したときから西安の空気は焦げ臭く、大気は霧のように霞んでいた。部屋のカーテンを開いて見る今朝の風景にも透明感はない。きのうフーエイさんに訊いたところでは、これは黄砂の影響ではないとのことだった。そして 「だったら何なんでしょうね」 との問に明確な答えはなかった。
参加者全員による予定は今日は何もなく、だから時間はたっぷりとある。風呂に入り、きのうの日記を書き、おとといの日記に画像を設定する。荷物を整理するうち8時を過ぎて、そうするとロビーに集合の11時まで3時間を切ったからいささか気持ちが忙しくなる。
ホテル前の蓮湖街でタクシーを拾い、食品市場のある炭市街へ行くよう言う。明代に建てられた巨大な鼓楼の下できのう、物売りのおばあさんから2圓で買った市内地図が、予期せず役に立つ。運転手は最短距離を辿って市場の裏門にクルマを着け、料金は12.7圓だった。
炭市場のゲート前に立つ。外国人の姿はない。「そうそうそうそう、この感じだよ」 と気持ちが高ぶってくる。八百屋、泥鰌と蛙の専門屋、鶏肉屋、魚屋、火腿屋、卵屋、フカヒレ屋、臓物屋、貝屋、海老とザリガニの専門屋、羊肉屋。いちいち覚えていられないほどの商売屋が間口1間ほどの軒を連ねて並んでいる。通路は魚屋や肉屋が床を掃除した水で濡れ、そこを当方はペッタンペッタンとゴム草履で歩いていくから、ひどいときには耳の裏までハネが上がる。
数年前に香港で購った 「百徳食品公司」 の豆板醤はほとんど使い果たし、しかしその残りには惜しくて手が出せない。他に探していないわけではないが、好みの味にはなかなか出会えない。よってこの市場でも乾物屋や調味料屋を訪ね歩いて美味そうなものを見つけようとするのだが、不思議なことにどの店にも豆板醤は無い。この地域の人は豆板醤を使わないのだろうか。「そんなこともねぇだろう」 と思うがどうも不思議である。相手は 「トーバンジャン、メイヨー」 と答えるのだから、当方の言葉が通じていないわけでもない。
「だったらしょうがねぇ」 と頭を切り換え、市場の表門が面した東大街でタクシーを停める。今度の運転手は広くて空いた道ばかりを走っていささか遠回りをしたが、ホテルのポーチに着いたときの料金は往路よりも安い9.8圓だった。
ショルダーバッグなどを持参するのは重くて嫌いだから、旅先で細かい物を携帯するには、現地で何かを買ったときに入れてくれるVパックを使う。ところがひどく薄いこれが市場で知らない間に裂け、デジタルカメラ用のソフトケースと部屋のカードキーを紛失していた。フロントで新しいキーを発行してもらい、部屋に戻ってゴム草履をブーツに履き替える。
集合までの時間は1時間を切った。そそくさと歩き、昨夜に続いてホテルちかくの大麦市街へ行く。そしてきのうのうちから目をつけていた油屋で 「小磨香油」 というものを買う。どのような味かは知らない。ただし店の奥で油を絞り、店先でその油を攪拌している様がどうにも魅力にあふれていたため、「ここんちの品は必ず買おう」 と決めていたのだ。
その油屋からほどちかく、薄緑のコンクリートの柱に赤いペンキで 「辣湯水餃」 と書いた店に入る。店先で鍋の前に立つオネーサンに声をかけても来てくれないため、客席で茶を飲んでいるオジサンふたりにその赤文字を指さし 「ラートンスイギャオ?」 と、いい加減な中国語で訊いてみる。するとオジサンの片方はうなずきつつ厨房の店主を呼んでくれた。
その店主が片手の指を開いて 「ウー」 と言う。「5圓か、だったら大した量でもねぇだろう、たくさん食っちゃうと昼飯が苦しくなるからちょうどいいや」 と考え、おとなしく椅子に座っていたが、先ほどのオネーサンが運んできた大きな器を見て 「ウッキャー」 と思う。厚めの皮を噛み切ると中から美味い汁がプッチューと飛び出す餃子を休みなく口へ運ぶ。餃子は小振りではあるが全部で33個もあった。「家族や社員と一緒にこういうところに来て、またこういうものを食いてぇなぁ」 と切実に思うが、いったん離れてしまえば西安は近くない。
15:05発のJL600便に乗り、夜の11時15分に帰宅する。
5時30分に目を覚ます。体重は昨晩より更に2キロも減じて56キロになっている。これほど効率の良いダイエットがあるだろうか、どうもここの体重計は信用できない。
NTTのウェブペイジによれば、僕の携帯電話は西安では通じるが敦煌では無理とのことだった。しかしいざ敦煌に着いて電源を入れると機能しているようなので、時間を見計らって家に電話をし、これからテニスの練習に出かけようとしている次男とすこし話す。
敦煌は砂漠のただ中にあるが水は豊富らしい。街には毎朝、散水車が出て水を撒く。その爽やかな街を歩く気分はなかなかのものだ。
裏通りへ足を踏み入れ、「鶏湯面」 の赤文字をドアに貼り付けた店で、その大盛りを注文する。卓上には埃がたかり、ポットにはきのうのものと思われるお茶が入ったままになっている。西安、敦煌と見た限りでは電力事情があまりよくないらしく、小さな食堂は昼のあいだは決して灯りを点けない。麺はその場で打つうどんで短くちぎれているから食感はそう面白くもないが、香菜を散らした辛いスープはたいそう美味かった。3.5圓を支払い満足して店を出る。
黄砂によりほどんど眺望の利かない空を飛んで昼過ぎに西安へ着く。2日ぶりにガイドのフーエイさんに迎えられ、昼食の後 「陜西歴史博物館」 へ行く。ここでの収穫は、一般の入れない金庫のような部屋に案内をされ、兵馬俑から出土した、金偏に皮と書いて 「ピ」 と読む鋭い槍を触らせてもらったり、あるいは阿房宮の瓦を見せてもらえたことだ。槍にはある種のメッキが施されていたから今日まで錆びずに残ったという。瓦には雁と虎が浮き出ていた。
晩飯を済ませて後、3日前にも泊まった 「古都新世界大酒店」 にチェックインし、ブーツと厚い靴下を脱いでゴム草履に履き替える。現在のこのあたりの気温には半袖のTシャツとテニスパンツがちょうど良い。ロビーへ降り、流しのタクシーはそこいら辺で掴まえられるかとコンシェルジュに訊くと、ひとりのベルボーイが呼ばれた。外へ出て先ほどメモに書いた 「大麦市街」 の文字をそのベルボーイに見せると 「歩いて2分ですからタクシーは必要ありません」 と道を示す。「地図で見た限りでは2分の距離でもなかったがなぁ」 といぶかしみつつ、とりあえずは礼を言う。
歩道の敷石が30センチ角のタイルからレンガに変わる。そのレンガもすり減り、あちらこちらで抜け落ちて車道との境を曖昧にしている。街路灯はないから雑踏の埃を2状の光線で照らすクルマの前照灯と、商店や食堂から漏れる明かりを頼りに夜の街に浸透していく。イスラム帽の男やスカーフを巻いた女の人が数を増す。リキシャの運転手が短く鋭い声を発しながら次々と追い越していく。「まるでオールドデリーじゃねぇか、オレはやっぱりこういう空気が好きだ」 と、嬉しさが満ちてくる。
大麦市街から廟后街へ折れ、「鳥五牛羊肉店」 正面のカバブ屋に入る。肉を焼く炉は歩道にあり、客席も歩道にあるがそこには現地の家族連れがいる。まるで倉庫のような店内には木の卓が4つと風呂場にあるような低い椅子が2つ、木の長椅子1客があるばかりだ。ほかの椅子はすべて、涼を求める客のため外へ出されたに違いない。
肉の串を指して5本、レヴァも5本とオヤジに注文をする。ビールはないかと訊くとすぐにはす向かいの雑貨屋から女の人が呼ばれ、大瓶1本を持ってきてくれる。客席の白壁は破れて中からは麦藁が覗いている。店の奥に続く四角い穴には穀物用の袋がドアの代わりに垂れている。すすけた壁に背中をもたせかけ、カバブを食い、ビールを飲む。「楽でいいやぁ」 と思う。「これがホントの "Kind of blue" ってもんだろう」 とも思う。カバブは30本で6圓、ビールは2.5圓だった。
「あしたの朝飯もこの街で食おう、面白そうな食料品屋もあったしな」 と考えつつホテルへ帰り、荷物の整理などして0時30分に就寝する。
おとといの昼からお仕着せのメシを食べている。おとといの晩飯、きのうの昼飯、きのうの晩飯の各中華コースは、食べる場所が異なってもその内容はほどんど同じである。食べるものにおいて選択の自由のないことが、自分にこれほどのストレスを与えるとは思わなかった。胃が痛い。
というわけでホテルの朝食ヴァイキングは遠慮して街に出る。野菜、果物、肉の市場らしいアーケードを通り抜けていくと、ラジオ体操のような音楽が聞こえてくる。市民のしている体操は、体操というよりも踊りのようなものだった。都合の良いことに小さな粥屋が見える。「胃の痛てぇときに粥とは好都合だ」 とすかさず入って隣席の客の卓上を指さした僕をおかみは厨房に案内し 「粥は3種ある」 というふうに次々と鍋のフタを取ってみせる。
白粥はなかったから黄色い粥を選んで席に戻る。オカミの示す5種のおかずの中からザワークラウト風のキャベツと、「胃の痛てぇヤツがそんなもん選んじゃダメじゃねぇか」 というもうひとりの自分の声をさえぎって青唐辛子の酢漬けをもらう。予期しなかったことだがテーブルには他に5枚の餅 が運ばれた。これにキャベツの泡菜と青唐辛子を巻いて食べるとかなり美味い。「オレは、こういうものが食いたかったんだよ」 と更に5枚の餅を追加し、すべて平らげてホテルへ戻る。粥一式の代金は6圓だった。
と、ここまでで普段の日記と同じほどの字数を費やしてしまった。長いウェブ日記など誰が読むか、と思うが自分のデータベースとして続ける。 "RICOH GR DIGITAL" の "FILE NUMBER OVER" は、カード内の画像をすべてコンピュータへ移したことで復旧した。
中国の仏像や仏画は好きでないから、莫高窟にもさほどの興味は持てない。懐中電灯を持った学芸員について1時間ほどのあいだに10の窟を見てまわる。女性の学芸員は太った人で、そのせいか高いところまでは登っていかない。当方は高いところが好きだが団体行動なので我慢をする。
むしろ楽しみにしていたのはゴビ灘の一本道をバスで疾走すること90分、敦煌市街から遠く西に離れた漢代の関所 「玉門関」 だ。強風に帽子を脱ぎ、頭にはその代わりの手ぬぐいを巻く。鋭い棘はあるがラクダはわけもなく食べてしまうラクダ草を慎重に避けながら砂埃の舞う中を歩いていく。玉門関の上には大きなツバメが舞っていた。
この関所に駐屯した兵士のための食料庫 「河倉城」 は鉄柵に囲まれているが、その隣にある同じ時代の遺跡には人の登った足跡が見える。これを辿って行くと、その頂きには2,000年前のレンガが土から離れてあった。日本に持ち帰ることは可能でも生憎と僕は重い荷物を嫌う。大量の蚊が襲ってきたことをしおにここから駆け降り、バスに戻る。
ちかくにあるやはり漢代の長城は柵もなく渺茫とした砂原に長く続いていた。「遺跡など掃いて捨てるほどあるからいちいち保護などしていられないのだろうか」 と考えつつ麦藁と土を交互に搗き固めたその2,000年前の構築物に近づき、あたりに噴出した塩を舐めたりする。
来た道、これはクルマ2台分の幅もないものだが、これを時速80キロから100キロで飛ばして敦煌近郊まで戻り、昼飯を食べる。その後、我々の頭の中にある砂漠の風景そのものの 「鳴沙山」 へ移動する。ラクダに乗ってこの巨大な砂山に近づいていくと、そのかなり上まで階段が設けられている。高いところが好き、あるいはこういうものを見ると 「上まで行かなきゃ男じゃねぇよ」 と考える悪癖が僕にはある。
砂が炎天を照り返す中、古くは玄奘三蔵、すこし前であれば河口慧海の苦労を忍びつつ乾燥しきった木製の階段をあえぎあえぎ登っていくと、砂山の頂上からすこし下で階段は尽きていた。更に上へ行こうとしても、一歩を踏み出すそばから細かい砂は崩れ落ちて前に進めない。眼下のオアシスをカメラに納めたのち階段の脇を大股で下り、中ほどからは木ぞりを借りて一気に斜面を滑り降りた。
決まり切った晩飯の後には9名の参加者全員できのうの広場 「沙州市場」 へ行き、イスラム屋台のカバブを食べまくる。僕はビールよりも白酒が飲みたいから広場のアーケードで 「敦煌春」 という200CCほどのコーリャン酒を48圓で買った。羊腎と書けば羊の腎臓が、羊鞭と書けば、しかし食べてみた限りではこれは羊の陰茎ではなく睾丸だが遅滞なく届く。"abats" は肉よりも間違いなく美味い。すっかり気分も良くなり、ソプラノサックスを携えた流しに 「茉莉花」 をリクエストしたりする。
ホテルへ帰って入浴の後、風呂場の体重計に乗ってみると、きのうより2キロの減、日本を出てからでは3.5キロ減の数字を針は示していたから 「これ、ぶっ壊れてんじゃねぇか?」 といささか驚きつつ11時30分に就寝する。
ベッドのヘッドボードを覗き込んでも時計は見あたらない。枕頭の明かりを点けてデスクまで歩き、そこに置いた腕時計を見ると4時30分だった。きのうの日記を書いたり諸々して6時すぎにカーテンを寄せると、意外や外は既にして明るかった。部屋は7階にあるにもかかわらず、窓を開けると涼気と共にピーナッツオイルやニンニクの、つまり街の匂いが入り込んできて気分が良い。
朝食の後8時にロビーに集合して旅行社のマイクロバスに乗る。秦兵馬俑博物館にはただただ 「ヘーッ」 と驚き口をアングリと開ける他はない。33年前、自宅に井戸を掘る作業中に考古学上の一大発見をしたのが農夫のヨーさんで、今ではこの巨大な博物館のスーヴェニールショップにひっそりと座り、客の買った図録に署名をして余生を送っている。
玄宗皇帝と楊貴妃の避寒地にして、西安事件の際には蒋介石が潜んでいた五間庁を急峻な崖の中腹に臨む華清池で、楊貴妃がもっぱら使った湯船を見たりする。郊外から市内に戻っては、明代に建造された延長13.7キロの城壁の安定門つまり西門の楼上に登り、遠くローマへ通じる西関正街の並木に人とクルマの小さく行き来する様を眺める。気温は31度、湿度は低いから日陰に入れば凌ぎやすい。
いにしえには首都警護の兵士達が詰めていたに違いない城楼を降りたのは午後4時だった。マイクロバスで西安咸陽国際空港へ行き、早い夕食を食べてガイドのフーエイさんと別れる。
敦煌へ向かう中国南方航空CZ6896便への搭乗が始まったのは6時だった。ボーイング737を地上から見上げると、その向こうの空には雲が薄くたなびき何とも言えない風情だが、昼過ぎから "FILE NUMBER OVER" のエラーが出た "RICOH GR DIGITAL" は、「カード連続ナンバー」 の設定を外しても、あるいは初期設定をイニシャライズしてもウンともスンともいわないからこの景色を撮ることはできない。
敦煌の空港に着陸したのは午後9時38分だった。あたりにはいまだ夕刻の薄暮が残っている。現地ガイドは男のタイさんに変わった。西安では空港から市内までは1時間を要したが、こちらは15分にて敦煌の街に入る。この時間でも通りを散策する人は少なくなく、並木も建物も色とりどりのイルミネイションで飾られている。
「敦煌太陽大酒店」 の部屋に荷物を置いた後、ひとりで外へ出る。ホテルからほど近い場所には長く真っ直ぐに伸びた屋台街があり、またそれに隣接して、まるでシンガポールのホーカーズそっくりの広場もある。あたりは人と光と喧噪にあふれ、どこからかテレサテンの 「我的家在山的那一邊」 が流れている。「良い街じゃねぇか」 と一目で気に入り、1時間ほど散策をする。
ホテルに戻り、1階のバーで冷えたビールを飲んだら5圓だった。バーを任されている男女ふたりは英語が通じず、しかし片言の日本語は話せるのだから、僕の感覚からするとちと不思議である。
入浴して0時30分に就寝する。