閉店の18時ちかくに、お客様をお見送りしながらふと気づくと、駐車場に雨が水玉模様を作り始めている。涼しい風がにわかに吹く。そのポツリポツリと来た雨は、5分後には夕立になった。
自分たちの駐車場へ向かおうとしている社員たちが、通用口から出ることを躊躇っている。製造係のマキシマトモカズ君は自転車通勤につき、そそくさと合羽を着始める。気をつけて帰るよう、マキシマ君には声をかける。
事務室に1時間ほど居残り、それから自宅に戻って仏壇の水やお茶や花を下げる。雨は止んだ。
サンダルを履き、自転車の鍵を持ち、通用口を開ける。と、またまた雨が降り始めている。よって自転車はあきらめ、傘を差して外へ出る。
日光街道を下り、電気の大西さんの先を左に折れる。ここから道は土の私道になり、日光街道の灯りは届かない。雨は激しく降っている。闇の中で水たまりに足を突っ込み、靴下がグジャグジャに濡れる。
そうしてようやく「和光」の、雨を避けて竿の上にたくし上げられたノレンをくぐって店に入る。この大雨にもかかわらず、小上がりまでほぼ満員の客がいる。代行車で帰るらしいキミジマさんが立ったお陰で、カウンターにはひとつだけ椅子が空いた。
読めないことは分かっていながら、手提げ袋から文庫本を取り出す。そして隣のイシモトさんと同じ突き出しをオカミに頼む。強雨のためか停電などもあって「相米慎二は、もう随分と前に死んだよなぁ」というようなことを考える。
日光の自宅とおなじく甘木庵の冷暖房も壊れて効かない。それで特段の問題もないが、甘木庵のそれはいまだ新品にちかい。こちらについては何とかしたいと思う。
朝のお茶の水、神田川河畔の茂みは「自分の命も今日が最後」と叫ぶような蝉時雨にて、賑やかというよりもうるさい、いや、うるさいなどと書いては蝉に失礼だろうか。
仕事の合間に日本橋の高島屋に寄る。そして「バーナード・リーチ展」を観る。おなじ8階で催されている「民藝展」にも足を踏み入れる。「民藝」とは物の考え方であり、運動であり、また物そのものである。「考え方」はかさばらないが、物は空間を占有する。
「民藝展」に出品され、値札を付けられていうちの、かなりの物を僕は欲しい。しかしそれが物であれば、それは家の中で居場所を主張し、また僕のサイフの残高も減る。
そうは知っていながら浄法寺の漆器のブースで足が止まる。"UD"と表示されたお椀を手に取ると、しごく持ちやすい。岩手県二戸から来た責任者に問えば「それはユーティリティデザインの略で、体の機能の衰えた人にも使いやすい設計」と教えてくれる。
ならば"UD"とは、酔ってけんちん汁のお椀を倒している僕にぴったりのものではないか。ウチのfacebookページには「今朝のお味噌汁」というコーナーもあって、お椀はいわば商売道具でもある。というわけで、その"UD"の赤と黒を1客ずつ買う。
午後に長男と神保町で待ち合わせ、本日最後の仕事場へ行く。そしてそこからの帰り道に京成立石で途中下車する。
「大学院に合格したお祝いに連れてってやるよ」と約束しながら、もう3、4年も経ってしまっただろうか、その約束を本日ようやく果たして「宇ち多゛」のノレンをくぐる。そしてとにかくふたりで170円×19=3,230円分の飲み食いをする。
長男とはどこで分かれたかの記憶がない。牛田から北千住に達すると時刻は18時10分。自動販売機では既に18:12発の下りの切符は売られていない。「あー、これから1時間待ちかあぁ」と諦めたところで「お乗りの方は急いで窓口で」という駅員の声が聞こえる。スペーシアはもうプラットフォームに着いている。
親切な駅員のお陰で自宅には20時前に着いた。そしてシャワーを浴びて早々に寝る。
日光の山は今朝も晴れている。気温については知らない。まぁ、素っ裸では寝ていられないほどの涼しさである。
下今市駅07:04発の上り特急スペーシアに乗る。そして9時10分に神保町に着く。靖国通りの熱風も、盛夏にくらべれば落ち着いている。本日この時間の千代田区の気温は、バンコクと同じほどのものだろう。
"amazon"に出品しているウチの商品ページについて、その環境整備を"ComputerLib"にて行う。ヒラダテマサヤさんに作業内容を伝えて後は、ウボンラチャタニーからバンコクに到着した24日以降、気の抜けたように書けないでいる日記を「鬼神の速度で」と言えばいささか大げさになるが、作成する。
17時を過ぎて神保町の交差点を渡る。6月の半ばには、おなじ時刻に路面は明るかった。今日の交差点はビルの影になっている。ヒラダテさんと靖国通りを東へ進み、路地を北に折れる。そして民家の2階にて辛口の白ワインを飲む。
仏壇の水やお茶や花は、長男や次男がいるときには彼等が上げてくれる。しかしそれよりも早くにお茶の飲みたいときには、その仕事は自分でする。
仏壇のあるおばあちゃんの応接間に5時45分に行くと、次男は既に起きて、タイ滞在中に書き続けた「夏休み報告書」を清書していた。旅先での下書きは大学ノートに、その添削はコンピュータのエディタで、最後の清書は原稿用紙に、という順番である。そして「この人も、やるときにはやるんだねぇ」と、大いに驚く。
おばあちゃんの部屋を片付けていた長男は数日前より、仏壇の前の畳におばあちゃんの本を積み上げていた。それを午前に"BOOK OFF"の人が取りに来る。「遠藤周作と伊集院静以外の下らないやつは、私も便乗して出したの」と家内の言い添えた本は全部で794冊。引き取り価格は9,700円だったという。
"BOOK OFF"の人と話した長男によれば、古書を自宅に取りに来た場合、背焼けなどのひどいものなどは持ち帰らないが、店に持ち込んでくれればそれも含めて引き取るとのことだった。僕の本は裏表紙の内側に、僕の名前と読んでいた期間の記してあるものが多い。よって"BOOK OFF"には売れないかも知れない。
長男と次男には10歳の年齢差がある。その各々が中学1年から長い寮生活に入り、何かとすれ違うことが少なくなかった。このところのメシは親子4人の揃って摂ることが多く、何か新鮮な感じがする。
次男の帰寮日もちかいため、次男の好物のカレー南蛮鍋を晩飯とする。
今年の夏が始まってからタイへ向かうまでのあいだに「それにしても暑いよなぁ」と、寝床で汗を流したことがひと晩だけあった。そしてタイから帰ったきのうの晩は「もう8月も終わりなのになぁ」と不可解さを感じるほどの、やはり暑さだった。
しかし標高400メートルを超える日光市今市市区のことだけはある、夜半から熱気は収まり、朝になればすこし透かせた窓か、あるいはそこからの外気を逃がすため三寸ほど開けた廊下への襖の、どちらかを閉じたいほどの、寒いと言っても過言ではない涼しさになる。今朝の空は高い、のだろうか。
1週間も会社を空ければ仕事も溜まる。「みだれ箱」と書けばなにやらおっとっりした風情もあるが、黄色いプラスティックの箱には留守中に届いた郵便物などが重なっている。それらのいくつかを処理し、また他の仕事もするうち夕刻になる。
旅行中"Campus"のA4ノートに記録した入金と出金をコンピュータに入力する。そしてキーボードをR、U、Nの順に押し、エンターキーを2度たたく。すると最下行には一瞬にして、帳簿上の残高19,381バーツが算出された。
僕はおもむろに自分のサイフ、万一のことを考え5,000バーツを収めて手渡したところ4,353バーツが残って戻った次男用のサイフ、そしてきのうホテルで精算した際の釣り銭の入った封筒から現金を取り出し数えてみる。その合計は19,278バーツだった。帳簿上の残高と現金残高の差額は103バーツ。
103バーツは、僕が両替したときのレートでは邦貨にして254円。しかしウボンラチャタニーの屋台ではカーオパッガパオガイが30バーツで食べられる。看過できない金額でないか。
"TG642"は定刻に28分遅れて00:18に離陸をした。席は最後尾から2列目のふたりがけ。僕の好きな位置である。
2010年の夏以降、半ズボンで飛行機に乗ることを避けるようになった。機内は意外に寒い。「上にも長袖を着るべきだよなぁ」と考えつつ睡魔には抗しがたく、半袖シャツのまま毛布をかぶって寝る。
朝食を準備する音が背後のギャレーから聞こえて目を覚ます。窓際に座った次男が遮光板を上げると夜が明けている。タイ時間のままの腕時計が4時を指している。オムレツかお粥かと客室乗務員に訊かれてお粥を選ぶ。そのお粥だけを食べパンは残し、あとはずっと起きている。
機は定刻に9分遅れて、タイ時間06:19、日本時間08:19に成田空港に着陸をした。空港からは09:45発のマロニエ号に乗り、13時すこし過ぎに帰社する。そしてシャワーを浴び、着替えて即、仕事に復帰する。
次男は夕食に焼肉を所望したという。そのことを家内に知らされて「オレはやだよー」と答える。タイに出発する前夜の日曜日に「大昌園」、そしてきのうはアソークの「ガボレ」に行っている、訊けば次男はきのう自由学園の先輩たちに囲まれ、折角の焼肉にもかかわらず、緊張のあまりごく少量しか食べられなかったのだという。
結局は中を取って、夜は洋食の「コスモス」へ行く。
出発前夜の「大昌園」では「オレはホントに、明日の夜はフアランポーンで寝台列車に乗っているのだろうか」と、不思議な気持ちがした。今夜は「コスモス」にいて「ここは確かに日本なんだよな」と、またまや不思議な気持ちがする。
バンコクの夜が明ける。いつも持ち歩いている"Campus"のA5のノートには、きのうの夕刻以降、気の抜けたように何もメモしていない。すべきことから解放された、あるいは緊張の解けた今こそ諸方に注意を配るべき時なのだろう。
きのうフロントで次男に注文してもらったwifiのバウチャーは、24時間のもので535バーツだった。ウボンラチャタニーの無料にくらべれば、泣きたくなるほどの高値である。535バーツといえば、屋台や安食堂のぶっかけ飯が20皿ちかくは食べられる金額なのだ。
そのwifiの設定を、いまだ寝ている次男を揺り起こして、してもらう。ブラウザを切り替えるたびログインを要求されるのは、部屋に飛んでいるいくつもの野良電波にコンピュータがいちいち反応してしまうためで、こちらの対策もしてもらう。
きのうホテルにチェックインをするとき、フロントでオネーサンに訊いたところによれば、洗濯物は、朝に出してくれれば午後3時に上がるとのことだった。タイ人と軽く話すことの好きなコモトリ君が「チンチン?」と訊くと、オネーサンは真顔で頷いた。「チンチン?」とはタイ語で「ホントですか?」の意味である。
そういう次第にて7時に起床した次男に頼み、きのうまでの衣服を袋に詰めフロントに持っていってもらう。次男は「それは部屋に置いておいていただければメイドが引き上げます」と言われ、そのまま戻ってきた。当方はフロントの示唆の通りそれをベッドの上に載せ、外へ出る。
フアランポーン駅構内のクイティオ屋が美味いと聞いていたため出かけてみると、米粉による太麺細麺は残っていたが、小麦粉によるバミーは売り切れていた。よって駅前にいくつか並ぶ食堂から1軒を選び、路上のテーブルでバミーナムを食べる。
その駅前からラマ4世通りに出て数十メートルを東に進んだところに漢字で書けば「泰松大旅社」、我々貧乏旅行者には「タイソン」とか「タイソングリート」と呼ばれる安宿があった。タイの安宿には、今については知らないものの、江戸時代で言うところの飯盛り女を置く例が以前は多かった。
1982年、僕が止めるのも聞かず「タイソン」の女にマリファナの入手を頼んだ日本人がいた。女から手渡されたブツの質を便所で確かめていると、外から激しいノックの音。扉を開くとそこには警官が立っていて…という、南の国ではお定まりの、官民一体の詐欺である。
そのころの面影は随分と薄くなったこの界隈だが、当時サトウキビジュースの屋台があったところには、今も別の屋台が出ていた。
水着に着替えてホテルのプールへ行く。泳ぐことの合間に次男は宿題の「夏休み報告書」を、そして僕はおとといの日記を書く。
昼前にフアランポーン駅からラマ9世駅に移動をする。地図を広げればそれほど近くもない距離だが、MRTの乗り換えなしであれば、僅々15分の行程である。そして昼食の後に僕と次男は別れ、それぞれの興味のおもむくまま3時間ほどを過ごす。
ホテルの部屋に戻ったのは16時のことだったが、カードキーが効かない。「チェックアウトは12時ってどこかに書いてあったから、その扱いになっちゃったんじゃないかな」と次男が推理をする。「しかしオレは2泊で予約したんだぜ」と答えながらふたりでフロントに降りる。オネーサンは「タクヤサン?」と僕の名前を確認し、再設定をしてくれた。侘びの言葉はない。
そしてようよう部屋に入ると、今度は洗濯物が届いていない。「3時なんて言いやがって、全然チンチンじゃねぇじゃねぇか」という僕の剣幕に、次男は部屋を飛び出していった。そして「洗濯物は部屋に届けてあるはずだ」とフロントに言われて戻ってきた。次は僕がフロントに降りる番である。
きのう「チンチン」と約束したオネーサンは、こういう際のタイ人の例に漏れず「お客様、ランドリーは内線7番でございます。お電話でご確認いただけますか」と悪びれない。「7番には君が電話をしなさい」と促すと彼女は受話器を取り、何ごとか話した後「すぐ、お部屋にお届けに上がるそうです」と答えた。
部屋に戻り、フロントのオネーサンだけではアテにならないから自分でも7番に電話を入れ「とにかく急いでいるんだよ」と伝える。そして洗濯物は16時20分に届いた。2泊を予約しながらなぜこれほど慌てるかといえば、17時前にはチェックアウトをしたいからだ。
大急ぎで洗濯物をたたみ、荷物をまとめている最中に「もう着いたよ」という電話がコモトリ君より入る。16時55分にフロントに降り、精算をする。
バンコクに会社を持っている、あるいバンコクに駐在している自由学園の卒業生に、コモトリ君はあらかじめ声をかけておいてくれた。その面々による食事会の開かれるアソークへは、週末の渋滞を計算したおかげで随分と早くに着いた。よって時間調整のため、しばらくあたりを散歩する。
「若けぇヤツが多いから」という理由から選ばれた焼肉屋での食事会は、旅の空の下にいることを忘れさせる、なにやら学校ちかくの店でテーブルを囲んでいるような雰囲気だった。そして食後は店の前でナカタダイチ(64回生)、ウワサワタクヤ(35回生)、ウワサワサキ(74回生)、アズマリョータロー(58回生)、コモトリケー(35回生)による集合写真を撮る。
"TG642"の出発時刻は23:50だから、空港には22時に入れば大丈夫だろう。そう考えて、食後はコモトリ君とウチの親子ふたりの計3人でタイマッサージを受ける。拷問とも思えるほどの強揉みを3日前に受けたばかりの僕の肩を触って、しかし今夜のオネーサンは「カッタイ」と言った。つまりは「凝っている」ということなのだろう。
昨年の8月とおなじく、コモトリ君のクルマでマッカサン駅まで送ってもらう。そしてエアポートリンクに乗り、21時50分という絶妙の時刻に空港に着く。
パスポートコントロールからは最も遠そうなA1のゲートに達すると、酔いによるものか疲れによるものか、もう一歩も動きたくない気分になった。そして椅子に深々と腰を下ろす。夏休みの旅行から帰るらしい日本の子供が、親がそばに付いているにもかかわらず非常にうるさい。そしてきのう三等車で10時間も静かにしていた、イサーンの小さな3人組を思い出す。
携帯電話のアラームは5時30分に設定しておいたが、2時30分に目を覚ます。そして2時間ほどもそのままベッドに横になっている。このホテルのwifiはなぜか夜から明け方にかけて速度が落ちる。よって朝のうちはfacebook活動はせず、きのうの日記を書く。
酔って役に立たないことを懸念し、荷物はきのうの晩飯前にまとめておいた。それらを持って6時にロビーに降りる。時を同じくするようにして外から入ってきたのは、きのうのタクシーのオジサンだった。
送迎の予約は6時30分だ、我々は今から朝飯を摂る。そのようなことを伝えると「ナンバーワン、コッピー」とオジサンはニコニコする。「まぁ、それもいいか」と、オジサンのクルマに乗る。
オジサンの目指す店は閉まっていた。「ナンバーワンコッピー、スリーピン。ハッハッハー」と、オジサンは笑い声を上げながら別の店の前にクルマを寄せ、そこがいまだ開いていないことを悟ると三度ハンドルを切った。
ナンバー3だかナンバー4だか知らないが、とにかく既に地元の人たちが集まっている喫茶店がようやく見つかる。練乳のたっぷり沈んだ濃いコーヒーとサービスの揚げパンを食べると、腹はそれだけで満ちた。オジサンは外でパンクの修理をしている。駅には結局6時45分に着いた。名刺を求めると、オジサンは自分の名前と電話番号を手書きした紙をくれた。
僕は鉄道ファンではないから詳しくはないが、日本の列車とはおおむね左側通行ではないか。そのような常識から、既に停車中の列車は我々の乗る上りではないと僕は思い込んだ。しかしこの場合の勘違いはシャレにならない、駅の関係者に確かめるとまさにそれが、我々の乗るべき07:00発バンコク行きだった。
次男との旅行では贅沢はしない。というか進んで楽でない方を選ぶ。座席は最低の三等とした。575キロ先の終点フアランポーン駅までの乗車券は205バーツ、そして乗車時間は11時間40分。タイの三等車は、2人が向かい合う4人用のボックスと3人が向かい合う6人用のボックスが通路を隔てて並んでいる。三等席でも座席指定であるところが有り難い。
上り136列車は我々の時計で6時58分にウボンラチャタニーを発車した。「定刻より2分、早えぇじゃん、危なかったー」などと次男と言い交わしながらプラットフォームの時計を見ると、こちらは7時03分を指している。我々の時計と駅の時計とのどちらが正しいかは不明ながら「自分の時計はアテにするな」という教訓を得る。
7時40分に"KANTHARAROM"に停車すると、はす向かいの4人用ボックスにいた姉妹らしいふたり組が、我々ふたりの座っている6人用ボックスに移ってくる。その席が彼等の指定席なのだろう。その際の、姉の方の"Sorry"の発音は日本人の僕からすれば素晴らしく、また同時に淑やかだった。
8時12分に"SI SA KET"に停車。プラットフォーム端の表示は"SI SA KET"だが、改札口の上には"Srisaket"の文字がある。タイ人の発音に耳を澄ませば分かるが、僕なら"Srisaket"で統一をするだろう。
テラテラと美味そうに光るガイヤーンをカゴ一杯に盛った物売りが通路を始終、行き来する。ガイヤーンは美味そうだが、そして売り子のオバサンたちは自分たちの品を盛んに勧めるが、当方の腹にはいまだ朝飯が残っている。
晴れたイサーンの空の下を列車はときに速く、ときにゆっくり西へ向かって走り続ける。隣の車両は食堂車で、そこはまた車掌や物売りたちの休憩所になっている。その食堂車で、すれ違う列車に青旗で安全を報せる車掌の写真を撮る。すると車掌はあわてて制帽をかぶった。「勤務中はかならず制帽を着用すること」というような規則があるのかも知れない。
8時30分、"UTHUMPHON PHISAI"の駅から大家族あるは親戚関係の人たちが我々の8号車に乗り込んでくる。彼等は切符は持っているが、自分たちで席を探そうとはしない。先ほどの車掌が駆けつけ「サームシップ」とか「サームシップソーン」などと声を張り上げながら席を割り振っている。
「美味しい、美味しいガイヤーン」と調子をつけながら物売りのオバサンが僕の横をすり抜けていく。クスリと笑うと向かい側のオネーサンが「タイ語が分かるんですか?」と英語で訊く。「単語を少し知っているだけですから」と答え、以降は英語で少し話をする。姉妹とばかり思い込んでいた二人連れは母と娘で「17歳なの」と紹介された娘は僕にチラリと視線を送り、恥ずかしそうにうつむいた。
ふと携帯電話に目を遣ると、ウボンラチャタニーでは"true move"だった基地局が"dtac"に変わっている。
08:58 "HUAI THUPTHAN"
09:12 "SAMRONG THAP"
09:26 "SI KHO RAPHUM"
10:05 "LAM CHI"
10:17 "KURA SANG"
見渡す限りの水田に、農民の姿はひとりとして見えない。苗作り、田植え、稲刈りの3度の手間だけでタイでは米ができてしまうのだろうか。いくら東南アジアとはいえ、それほどうまい話はないように思われる。中尾佐助はこのあたりについて何か書いてはいなかったか。
10:28 "HUAI RAT"
10:37 "BRI RAM"
10:57"THAMEN CHAI"
11:06 "LAMPLAIMAT"
11:22 "HUAI THALAENG"
土地になだらかな起伏が見えてくる。それと同時に水田一辺倒だった景色に、トウモロコシや1メートルほどの丈のハーブだろうか、そのような畑が混じり始める。
11:45 "CHAKKARAT"
12:15 "BAN PHANAO"
この付近では土が痩せているのか、はたまた水の利が悪いのか、赤茶けた大小の丘は草また草、あるいは蔦の絡んだ木々に覆われ、耕作の跡を覗うことはでできない。
12時22分、外に立体交差の道路が見えてくる。大きな街が近いに違いない。「親戚に会うためナコンラチャシマーへ行く」と言っていた向かいの席の母娘は、12時28分に"THANON CHIRA JUNCTION"で手を振りながら降りていった。
「ナコンラチャシマーに行くって言ってたのになぁ」と、今しがた買ったばかりの弁当を食べながら僕がいぶかしむうち「あ、いまナコンラチャシマー」と、窓の外に目を遣っていた次男が教えてくれる。時刻は12時33分だった。ウボンラチャタニーを発ってから5時間30分。このあたりが全行程の中ほどらしい。
ペットボトルのぬるい水を飲む我々の脇を、氷のバケツに幾種類もの飲み物を沈めたオニーチャンが往く。アヒルのつくね焼きを売る女の人の、「アヒル」を意味する「ペッ」と「辛い」を意味する「ペッ」発音の違いを聞き分けることが僕にはできない。
茹でトウモロコシを勧めるオバサンが来る。僕の椅子の上の幼虫の繭は、仏像の頭に似た果物「蕃茘枝」の売り子が落としていったものかも知れない。彼等はある程度の商売をすると、次はどこかから反対方向への列車に乗り換え帰って行くのだ。
13:10"SUNG NOENI"
13:25 "SIK HIU"
13時50分。川とも湖とも知れない水の広がりが左手に見えてくる。いよいよコラート台地から降りてきたのだ。外の景色を眺め、鴨志田穣の「遺稿集」を読み、からだをほぐすため列車内を歩く。食堂車の調理台では米袋を枕に料理人が眠っている。
14:16 "PAK CHONG"
15:32 "PHASADET"
15:50 "KEANGKHOI JUNCTION"
16:01 "SARABURI"
16:15 "NONG SAENG"
16:20 "NONG KUAI"
16:27 "BANPHACHI JUNCTION"
16:47 "AYUTTHAYA"
17:00 "BANG PAIN"
「ここは空いているでしょうか?」
母娘が降りて以降、ほとんど誰も乗っては来なかった向かい側の席に、質素な身なりをした、そしてホワイトカラーの身分でもなさそうな、しかし上品なお婆さん、いやお婆さんと言ってはいささか失礼になるかも知れない年齢の人が座る。"BANG PAIN"の駅に隣り合って建つ風変わりな建物を注視する僕に「あれは皇室のための休憩施設です」と、オバサンは静かな英語で教えてくれた。
「そんなタイ人ばっかりじゃねぇよ」とは分かっているものの、しかし午前の母娘といいいこのオバサンといい、彼女たちの品の良さ、慎ましやかさ、質実さに僕は圧倒される。朝のうちに乗り込んできた大家族の子供たちは、3人並んで窓の外を半日以上も眺め続け、なお静かだ。
「雨の匂いがする」と突然、次男が口を開く。と同時に大家族の一人が窓を閉める。通路を隔てた窓際の娘は窓から手の平を出し、いまだ見えない雨粒を感じようとしている。その2分後、"CHIANCRAK"の駅に列車の入ったところでにわか雨が落ちてくる。雨は午後の日の光を浴びながら数十秒で上がった。
17:30 "DON MUANG"
17:55 "LAK SI"
18:03 "BANG KHEN"
18:15 "BANG SUE JUNCTION"
18:30 "SAM SEN"
終点が近づくにつれ、列車は小まめに停車を繰り返す。"SAM SEN"を出て5分後、列車は乗客の乗り降りしないプラットフォームに停まった。一般の駅であれば改札口にあたるところの頭上には"ROYAL PAVILION AT CHITRLADA"のプレートがある。そろそろ王宮も近いらしい。
18時50分、我々の腕時計とウボンラチャタニー駅の時計の時差を勘案すれば18時45分。上り136列車は始発から11時間48分をかけ、また僅々5分の遅れを以て終点のフアランポーン駅に到着をした。
虫刺されの塗り薬を次男に貸してくれたオバサンが、プラットフォームの親戚らしい人に、車窓から土産を手渡そうとしてひどく苦労している。その重々しいビニール袋の受け渡しを僕が肩代わりする。僕の手の平には米の感触が伝わった。
駅からラマ4世通りを隔ててはす向かいの"BANGKOK CENTRE HOTEL"には、同級生のコモトリケー君が既に来てくれていた。よって慌ただしくチェックインをし、次男はさておき僕だけはシャワーを浴び、取り急ぎロビーに降りる。そしてチャオプラヤ川沿いの"RIVER CITY"までコモトリ君の、運転手付きのクルマで運ばれる。
高級なショッピングセンターであり、また同時に船着き場でもある"RIVER CITY"には観光客が溢れ、桟橋には大型の観光船が幾艘も横付けされていた。「これじゃ無理だ」とつぶやくコモトリ君にうながされ、我々は僕が昨年9月に泊まった"Royal Orchid Sheraton Hoters & Resorts"の前を迂回する。そして人もまばらな"SI PHARAYA PIER"からコモトリ君の住むコンボミニアムの専用船に乗り、トンブリー側に渡る。
"Yok Yo Marine & Restaurant"は、チャオプラヤ川に桟橋を突き出させた気さくな料理屋だ。田舎には田舎の楽しさがある。都会には都会の愉しさがある。
ふたたび舟で川を渡る。「ちかくても暗いぞ」とコモトリ君の心配してくれた道をたどってホテルに戻る。ウボンラチャタニーとおなじくバンコクもそうは暑くなく、夜になれば歩いても汗はかかない。そしてタイに来て以来、格別に遅い22時に就寝する。
カーテンの隙間からストロボのような光の一閃するのを見て「まさか外の送電線がショートしてるわけじゃねぇよな」と考える。枕頭の携帯電話を見ると時刻は3時23分だった。そうするうち雷鳴と雨の音が聞こえてくる。カーテンを開けると雨の勢いはかなり強い。我々はやはり運が良い。この雨がきのうの朝のものであれば、我々はかなり焦燥したことだろう。
いまだボーイの寝ている時間では申し訳ないと、きのうよりもかなり遅れてロビーに降りる。そしてきのうの朝とおなじく前日の日記を書く。
7時30分に部屋に戻ると次男は既に起きていた。このホテルの朝飯にはきのう懲りていたから今朝は外へ出て数十秒を歩き、"CHIO KEE"に入る。次男は豚粥、僕は鶏粥を注文する。そして僕はその鶏粥に「おばあちゃんのホロホロふりかけ」を添えて写真を撮る。
"CHIO KEE"は金子光晴が「マレー蘭印紀行」を書いた時代を思わせる木造の建物だ。そして「こんなところに逗留してみてぇなぁ」というようなことを考える。
部屋でひと休みして後はまたまたロビーに降り、4人がけのテーブルで次男はまたまた夏休み報告書、僕はまたまたきのうの日記を書く。雨の上がった朝のうちこそ涼しかったが、しばらくすると蒸してくる。我々のテーブルのすぐ横では天井の、きのう壊れたエアコンの修理が続いている。よってホテルちかくの喫茶店に席を移し、各々の文章を書き継ぐ。
ところで我々はイサーンの果てまで来ながら、いまだイサーンの代表的な料理であるソムタム、ガイヤーン、カオニャオを口にしていない。広場の屋台では鶏肉の炙り焼きであるガイヤーンこそ目にするものの、笹がきの青パパイヤを臼で搗いたソムタムと、餅米を蒸したカオニャオは見つけられない。
そういう次第にて「ロンリープラネット」の地図にあるアルファベットの"Kai Yang Wat Jaeng"を、地図にタイ語で書き写してくれるよう、フロントの太ったオネーサンに頼む。ただしこのオネーサンは、きのうからのやり取りにより、それほど気の利く人ではないことが分かっている。よって僕は重ねて「ガイヤーンワットジェーン」と、「ガイヤーン」の部分を強調して口に出しながら"Kai Yang Wat Jaeng"の文字を指した。
そして次男と外へ出て数百メートルを歩き、ようやく通りかかったトゥクトゥクの運転手に地図のタイ文字を見せた。運転手は頷き、トゥクトゥクは走り出し、やがて停まったのはお寺の前だったから、言葉は悪いが「あの女ぁー」と忌々しい気分になった。地図にはやはり「ガイヤーン」を抜かして「ワットジェーン」のタイ文字しか書いてくれなかったのだ。
運転手には、発音やイントネーションを変えながら「ガイヤーンワットジェーン」と何度か言ってみたが、彼は曖昧に笑って首を横に振るばかりだ。そして我々はトゥクトゥクを降り、地図を見ながら寺の裏に回り込んで「ガイヤーンワットジェーン」のあるあたりを眺めてみた。
するとちょうどそれらしいところにそれらしい建物、つまりトタン張りの粗末な食堂が見えた。近づいていくと、しかし鶏を焼いている気配はない。道に面した調理場の女の人数人に「ガイヤーン?」と声をかけると「ガイヤーンならあっち」と、皆が皆、愛想良く笑いながらおなじ方向を指す。
礼を言って彼女たちに教わった方へ100メートルほども歩くとなるほど、ガイヤーン屋がある。場所からして「ガイヤーンワットジェーン」ではないだろう。しかし選択の余地はない。その、庶民的ではあるがなかなか立派な店に入り、水とガイヤーン、豚を炙ったムーヤーン、ソムタム、そしてカオニャオを注文する。
タイのメシは辛いというのが通り相場だ。しかし僕はタイのメシを食べて辛いと感じたことがない。否、唐辛子を使った料理は確かに辛みは感じる。しかし辛すぎるということはない。ただ美味い。そしてムーヤーンとソムタムとカオニャオの組み合わせに「ふきのたまり漬」を添え、写真を撮る。
ホテルまでの2キロほどの道を歩いて帰る。気温はそう高くはないが、それでも2キロを歩けばさすがに汗をかく。シャワーを浴び、ベッドに横になってすこし休む。タイに行ったら何度も受けようと考えていた古式マッサージを、今回はいまだ1度も受けていない。シンガポールで日焼けして以来、水分を失ったままの肌を慮り、おとといは古式ではなくオイルマッサージにした。
おなじく休んでいる次男に声をかけると、自分はタイマッサージは1度で充分だという。よって夕刻もちかいころになって僕だけホテルを出てトゥクトゥクで"Ubonvel Thai Massage"を再訪する。
メニュにはタイマッサージの"Normal"が2時間で280バーツ、"Strong"については記憶が定かではないが350バーツだっただろうか。僕はキツい揉みは痛くてイヤなので「タマダー」つまり"Normal"を注文し、係の男の人に案内されるまま庭のコテージに入る。
"Ubonvel Thai Massage"は母屋の奥にコテージの点在する素晴らしいマッサージ屋だ。そしてマッサージ服に着替えた僕の前に現れたのは「黒い砲丸」という感じの女の人だった。僕はその「黒い砲丸」のヒジによる拷問を受けながら「オレの頼んだのはノーマルだったよな?」と心の中で問い続けた。
「タイマッサージを受けると体がとろける。これほどの極楽はない」と言った人がいる。僕はそのような経験はただの1度もしたことがない。歩いてホテルに帰る道すがら、却って痛みを増した首筋をさすりながら「これは柔道一直線で車周作が一条直也に施した荒療治のようなものだろうか」と考える。とすれば、明朝には僕のかだらは鳥の羽のように軽くなっているはずである。
3日連続で屋台広場に出かける。飲みもの屋台で次男に飲みものを買わせ、それを飲み干した後のクラッシュトアイスを僕の焼酎の氷として流用するのも3日連続のことである。いつもの注文屋台で「カーオパッキーマオ」を注文してどうしても通じず、カーオパッガパオムーに切り替える。そしてそれにたまり漬「宮崎県都城産のしょうがです。」を添えて写真を撮る。
「ヨーグルト食べたいんだけどさ、腹をこわすと…」と逡巡する次男に「ヘーキだよ、そっちはオレより腹が強えぇんだから」と、その背中を押す。席に戻った次男はカップの中の白いものをスプーンにすくい、口に入れるなり「ココナツミルクのプリンだった、美味めぇ」と、それを瞬く間に空にした。
カーオパッガパオムーだけではすこし物足りないと感じた僕はカオマンガイの屋台の前に立ち「ガーイ、マイサイカーオ」と、言ってみた。そうしたところこちらは通じて「茹で鶏メシの茹で鶏だけ」を、オバサンは皿に盛ってくれた。
ホテルに戻るとフロントは昼の太った気の利かないオネーサンではなく、普通体型の、気の利くオネーサンに変わっていた。我々の明日の出発の早いことをオネーサンに伝え、洗濯代を精算する。「朝6時30分にトゥクトゥクかソンテウはありますかねぇ」と訊くと、オネーサンはどこかに電話をし、タクシーを手配してくれた。
きのうよりもすこし遅く、21時に就寝する。
目を覚ましたのは午前3時台だったと思う。正確な時間は覚えていないがロビーに降りると、タイの中級以下のホテルではよく見かける風景だが、用心のためボーイふたりがソファで眠っていた。きのう次男と共に使わせてもらったテーブルに静かに着くと、ボーイのひとりが気づいて照明と冷房のスイッチを入れてくれる。
ここでおとといの日記を完成させ、更にきのうの日記を書き始めたころ、時刻は5時30分くらいだっただろうか、いまだ暗い戸外からひとりのオジサンが入ってきて「タクシーは要らんかね」というようなことを誰にともなく口にした。
その様子に触れて「こんな朝はやくから客を探したって、見つかるわけねぇだろう」と僕はなかば呆れたが「いや、ちょっと待てよ」と考え直し「ホントにタクシーの運転手なんですか?」と訊くとオジサンは「はい」と答えた。
きのう"TAT"であれこれ調べた次男により、カオプラウィハーンは閉鎖中、パーテムへのツアーは無く、客を連れて行くガイドも"TAT"では手配できないことが分かっている。
そこで「オジサン、パーテムには行けますか?」と、たまたま持っていた地図を示しながら訊くと「行けますよ、他にもいろいろ回って1,500バーツです」と、オジサンは笑顔を見せた。もっともこのオジサン、英語はほとんど、というかまったくと言って良いほど話せない。僕との会話中の英語は「1,500バーツ」のみ。他の部分は僕とオジサンとの以心伝心による。
「1,500バーツなら初日の晩飯のたかだか倍だ。オジサンも悪い人ではなさそうだ。愛想も良い。よし、決めよう」と、オジサンには9時の出発を伝える。
朝食を済ませ、荷物を調え、8時55分にホテルの外へ出る。オジサンは我々の姿を認めてニッコリ笑った。
クルマはホテルのあるクワンタニ通りを東へ進み、突き当たりを右折した。きのう駅から街へ入ったときとは異なる橋でムーン川を渡る。そして広大な草地に幾本もの大木が育ち、炎天の下にあっても深い緑陰を留める古い邸宅のいくつかを後にすると陸軍の敷地に入った。多分、広大な土地を貫通する道をバイパスとして一般に開放しているのだろう。
クルマはやがて、センターラインしか引かれていないため片側何車線かは不明ながら、広い道を時速100キロで巡行し始めた。後席左側に座った僕の視界を邪魔してきた前席のヘッドレストを静かに外す。その様子を見て何が面白かったかオジサンが破顔一笑する。
東へ東へと進むクルマはやがて片側一車線の道に入り、そこから更に古い街道筋を思わせる集落へと浸透していく。ダイハツミゼットを源流とするトゥクトゥクの姿が、まるでカンボジア風の、オートバイに荷台を繋げた形のものに変わっている。ここがコンキァムの街に違いない。英語の表記は"Khong Chiam"、日本語のガイドブックは多く「コンチアム」と書いているが、タクシーのオジサンの発音は、カタカナで書けば「コンキァム(ムはサイレント)」にちかい。
メコン川の向こうにラオスを見はるかすお寺で小休止の後、クルマは更に進む。時刻は10時。タイ語による道路標示は読めないが、たまに現れる英語の標識に"Pha Taem 20Km"の文字が読める。
クルマが屈曲した山道に入る。やがて"Pha Taem International Park"のゲートに達する。ここで我々はひとり100バーツの入域券を買わされ、ふたたび両側から野草の覆い被さってきそうな道を往く。
2,000年から3,000年前に描かれたとされる壁画を絶壁に持つパーテムに駐められたクルマは数台。そして我々の乗ってきたトヨタの中型車以外はすべて関係者のものと思われる。良く言えば静かな、悪く言えば寂れた風情の、しかし広々とした岩盤の上を次男と歩いて案内所兼博物館に入る。
ウボンラチャタニーの街から40キロほども走っただろうか、ここまで来たからにはその壁画というものを観て帰らなければならない。しかし「地球の歩き方」には「メインの壁画は駐車場から険しい山道を1Kmほど下った所にある」とか「壁画の先にも道は続き…中略…約4Kmのトレッキングコースとなっている」などとある。4Kmは、とてもではないが運転手を待たせて歩ける距離ではない。
よって地図を前にして管理人に「第1の絵」までの距離を訊ねるが、まったく要領を得ない。というか英語が通じない。タイ語の読み書き会話のできない当方が悪いのかも知れないが、タイ当局の目論見とは裏腹に、外国人などはほとんど訪れないところなのかも知れない。
「まぁ、とにかく行ってみよう」と、管理人が"Their"と指した方角へと歩いて行く。近くに学校のあるような場所ではないが、小学校の社会科見学ででもあるのだろうか、数十人の子供たちが我々の姿を認めて"Hallo"だの"Where you from?"などと賑やかだ。そして僕は大きな声で「こんにちは、我々は日本から来ました」と英語で返事をする。
小学生たちの群れていた先に、下へ降りていくような道がある。そこを少し下ると壁画への案内板が見えた。「よし、こっちだ」と次男に声をかけるものの「険しい山道を1Kmほど下った所」という「地球の歩き方」の説明が気にかかる。険しい山道を1キロ下ったら、帰りは険しい山道を1キロ登らなくてはならない。
その「険しい山道」とは南アルプス仙丈ヶ岳への登山路で有名な「八丁坂」のようなものなのだろうか。現在の気温は30℃。八丁坂は遠慮したい。しかしタイとラオスの国境ちかくまで来ながら、このまま手ぶらで帰るわけにはいかないのだ。
というわけで意を決し、崖が庇状に張り出したところまで岩の階段を下ってみる。するとそこには意外にも、良く整備された道があった。そこで更に進んでみることにする。地学に詳しい人なら一瞥したのみで分類できるのだろうが、路傍に横たわる大きな石には綺麗な文様がある。
首の後ろに痛みを感じてすぐそこに手を回し、異物を指でつまみ潰してみれば、それはもつれ合った2匹の赤蟻だった。地面に目を遣ると、それこそ無数の赤蟻がうごめいている。頭上にのしかかる岩に見える黄色いものは岩燕の巣だろうか、あるは岩からの浸潤物だろうか。
そして「第1の絵」は呆気なく見つかった。「険しい山道を1Km」は誤りだった。「地球の歩き方」にある写真の壁画のところまでは「駐車場からさして険しくもない、よく整備された道を数百メートルほど進んだところ」が正解である。パーテムの壁画を目指そうとする人は駐車場や案内所で引き返さず、ぜひ「第1の絵」まで達して欲しい。気をつけるべきは赤蟻と毒蛇とサソリと落石くらいのものである。
元来た道を戻り、ふたたび崖の上に出る。そして"Dangerous steep cliffs"の注意書きのある崖の突端まで歩いてみる。「よくそんなところまで行けるね」と、高所を恐れる次男が遠くから僕に声をかける。
崖下を覗き込んでみると、高い所の好きな僕でさえ尻がこそばゆくなる。しかも崖の突端には凹凸や、あるいは緩やかに傾斜している場所もあり、うっかり足を踏み外せば命は無い。
僕は一旦うしろに下がり、今度は腹ばいになって前に進む。そしてからだをすこしずつ前へせり出させながら、何が楽しいというわけでもないが、ふたたび崖下の緑を目に焼き付ける。
メコン川対岸に目を遣れば、向こうの山にもこちらとおなじ質のものと思われる崖が屏風のように直立している。我々の今いる崖が延々と南に続いているわけではないだろう。しかしここから国境線を200キロほども南下したカオプラウィハーンの崖も、実はパーテムとおなじ種類のものではなかろうかと、僕は規模のいささか大きな想像をした。
駐車場に戻ると、クルマは太陽の直射を避けるため布で覆われていた。そして元来た道を戻りはじめたと思ったら直ぐにオジサンはクルマを駐めた。こちらは130万年前の溶岩流によりできたといわれる奇岩である。イサーンにはこの手のものが少なくないらしい。
コンキァムの街まで引き返すと、オジサンはメコン川沿いの大きな木の下にクルマを駐めた。そして我々に「行ってこい」の合図をした。行ってこいとは何をしてこいということなのだろう。歩き出しながらふと腕時計を見ると11時40分になりかかるころだったから「あー、そうか」とクルマに戻る。
そして一緒にメシを食べようという意味を込めて「カーオ」と声をかけると、オジサンは「いやいや、オレはここで弁当を食べる」というような身振りをしながらメコン川に向かって左を指し"Number one"と言い、次いで右を指して"No good"と、またまた笑った。
メコン川の土手を下っていくと、なるほど2軒の水上レストランがある。そのうちの左の店に向かって更に赤土の道を下る。そして「今日のタクシーの1,500バーツは価値ある出費だったなぁ」と、しみじみ考える。昨春のフーコック島、昨夏のチェンライ、そして今回のウボンラチャタニーと、次男と旅をすると必ず運の良いことが起きる。
水上レストランではナマズのヤムを食べた。勘定を支払い、ティップを置き、帰ろうとする我々に立ってワイをした女の子はとても優雅だった。料理屋の名前は知らない。
クルマは矢のように疾走し、ムーン川を渡る。"Post Office"と言っても通じず、また"Post Office"という文字を見せても理解してくれないオジサンに思いついて次男の書いたハガキを見せ"Letter"と告げる。「オー、レター」とオジサンはようやく納得してクルマをウボンラチャタニーの郵便局に着けてくれた。そして14時ちょうどにホテル着。僕はオジサンに1,500バーツとは別に200バーツのティップを渡した。
シャワーを浴び、ひと休みの後はホテルのレストランに入り、スムージーを飲みながら次男は夏休み報告書、僕はきのうの日記を書く。
空が群青色を増す夕暮れどきに外へ出る。そして今日もホテルとは目と鼻の先の屋台広場へ行く。今夜は僕の好物のカオカームーの屋台が出ている。次男が覚えたばかりのタイ語で注文したカーオパッガパオガイには「青森県田子町産のにんにくです。」を添えてfacebookページ用の写真を撮る。
ホテルに戻り、またまたシャワーを浴びて20時30分に就寝する。
ガッチャンガッチャンと、車両を切り離してはまた連結するような音と振動が続いている。眠気が邪魔をして外の様子を窺う気はしない。駅には我々の下り列車と共に上り列車も停車しているらしく、双方の発するディーゼルエンジンの排気が車内に入り込んでひどく匂う。
02:03に"PANGASOK"という駅名を確認する。フアランポーン駅を発車したときとはなぜか逆の方向に列車は進んでいる。02:45にふと気づくと、列車はまた元に戻って、つまり僕のつま先の方へ向けて進んでいる。
駅の名を確認するときにはプラットフォーム両端に立てられている、白地に黒文字の看板を、速度を落とした列車の窓から読む。日本でいえば改札口にあたる場所に掲げられたそれは、夜目には暗くて見えない。よって見逃してしまうことも多い。03:30にかなり長い停車をした駅は"PAK CHONG"だった。
列車は東を目指して時にゆっくり、時に速度を上げて走り続ける。05:20のころから空に赤みが差し始める。夜のあいだは隣の車両へ行けないよう閉鎖されていた、連結部分のドアの施錠が外される。保線の状況は夜中から一転して良くなり、列車は朝日を目指してイサーンの大地を激走する。
列車による移動は1990年のころから「遅い、汚い、高い」の3つの理由によりタイ人たちに嫌われ始め、以降は長距離高速バスの人気が高まって現在に至るという。僕が列車を好むのは多分、先頭から最後尾まで歩けばかなりの息抜きになることに加え、等級ごとに異なる車両の雰囲気を感じつつ気分転換ができるからだ。
乗降口の扉は手動で開くことができる。というかいつも開けっ放しのことが多い。僕もそのうちの一つから身を乗り出し、朝の風を一身に受ける。
そんなことをするうち食堂車を発見したからノンエアコン2等寝台車に戻り、次男を呼ぶ。そして「トマトか胡瓜の輪切りを添えてくれれば彩りになるだろうになぁ」という卵焼きライスと熱いお茶を朝食とする。
通路を隔てて洋風の朝食を摂っていたオバサンが、次男を自分のテーブルに呼ぶ。そういうことは交流好きの次男に一任しようと知らぬ顔を決め込んでいたが、遂には僕も呼ばれてしまう。オバサンの子供自慢が止まない。列車は"BRI RAM"を過ぎた。
「もうすぐスリンだよ」と、オバサンの話を聞いていたらしいウェイターがオバサンに声をかける。慌てて自分の車両に戻ろうとするオバサンは、テーブルの上に赤いメガネを置き忘れていった。よって僕はおなじ食堂車でお茶を飲んでいた、鉄道関係者らしい人にそれを手渡す。朝飯の値段は2人分で200バーツだった。
やがて列車は"SURIN"に停まり、ふたたび動き出した。「このあたりの駅さぁ、今市の駅にそっくりなんだけど」と次男が言う。それについては僕も大いに同意をする。欧米のそれについては知らないが、東南アジアの田舎の駅は、日本の田舎の駅とおなじ構造、おなじ雰囲気を持っている。
窓の外には青い田んぼと緑の木がどこまでも続いている。沼地に咲く蓮は、この世のものは思われないほど深く紅い。
08:20 "SI KHO RAPHUM"
08:31 "BAN KALAN"
09:07 "UTHUMPHONPHISAI"
「ベッドメイキングの方が教えて下さったんだけど、あと3駅、1時間で到着だって」と次男が言う。時計を見ると9時25分だった。足を伸ばし、窓の外に目を遣っていると「このまま走り続けて、どこにも着かなくて良いよなぁ」という気分になってくる。車内にはガイヤーン売りの人が増えてきた。気温は30℃までないかも知れない。
09:27に"SI SA KET"、09:55に"KANTHARAROM"を通過。そして10時25分、我々の乗った67列車はちょうど3時間の遅れを以て、タイ国鉄東北線最東端の駅ウボンラチャタニーに到着した。支給されたタオルケットは使わなかった。
次男との旅は、今後、次男がひとりで旅するための訓練も兼ねている。近づく客引きたちには返事をせず、復路の切符の買い方を次男に教える。コンピュータから打ち出されたいわゆる「軟券」の日付や時間を確認したらそれをザックに収め、駅前のロータリーに出る。
ここでも客引きをかわし、駅から出て右手に停車中の2番のソンテウに乗る。「地球の歩き方」の地図では、橋を1本渡れば市街に入れるように思われる。しかし今回の経験で、大きな橋を2本渡らなければ右手に市場の現れないこと知る。そしておなじく右手にシェルのガソリンスタンドの見えてきたところで天井のボタンを押し、運転手に停止をうながす。ソンテウの価格はひとり10バーツだった。
南の国特有の、高い歩道にスーツケースを上げたり、また横断歩道でそれを降ろしたりする次男に合わせてゆっくり歩きながら"The Ratchathani Hotel"を見つける。そしてインターネットで予約した際のヴァウチャーをフロントのオネーサンに見せる。
今回の旅行に出る前に、会社のfacebookページを1週間も放っておくことが気になり、しかしまったくの個人的なことを報せることも憚られ、考えついたのが、タイ料理に「たまり漬」を合わせることだった。昼食のためホテル近くの料理屋"CHIO KEE"へ行く。そして次男の選んだ牛肉のサラダ「ヤムヌア」と白飯「カーオ」に「おばあちゃんのふわふわ大根」を添え、画像に収めたのちこれを食べる。
先にも書いたが、次男との旅は、今後、次男がひとり歩きするための訓練を兼ねている。そういう次第にてホテル近くのタイ政府観光庁"TAT"の事務所へおもむき、クメール遺跡「カオプラウィハーン」への行き方を訊ねさせる。そうしたところオネーサンは即座に「そこは閉鎖中」と次男に返した。同遺跡は確かに、タイとカンボジアとの国境紛争が再燃するたび入域を禁止される。
次男とふたり、まるで子供の使いのようにしてホテルへ戻り、しかししばし考えて「よし、カンボジア国境は諦めた。ラオスの国境を目指そう」と、ふたたび"TAT"へ出かける。そしてパーテムの遺跡について次男が訊ねると、オネーサンのひとりはどこかに電話で問い合わせをし、しかし「そこへ行くツアーはやはりない、自力での手配になる」と、タイ人らしくあっけらかんと答えた。
「こうなったらウボンでノンビリ過ごすかー」と覚悟を決めつつ「こんなことになるならプール付きの、もうすこし高級なホテルにしとけば良かったなぁ」などということも考える。
気を取り直してフロントのオネーサンに"Ubonvej Thai Massage"というタイマッサージを教えてもらう。そしてホテルから2キロというそこまでトゥクトゥクを雇い、次男は古式マッサージ、僕はホットオイルマッサージをたっぷりと受ける。ふたたびトゥクトゥクを拾ってホテル前まで戻った後は、夜には屋台の多く出るらしい広場の様子などを見て回る。
夕刻の一時はロビーのテーブルを借り、ここで僕は日記を書き、また次男は上級生などにハガキを書く。テーブルをただ借りては申し訳ないのでレストランからジュースを取り寄せ、これを飲む。
僕が"The Ratchathani Hotel"を選んだのは市街の中心にあり、また目の前の広場には夕刻からたくさんの屋台が出るという理由による。その広場に出かけ、先ずは注文屋台の前に立つ。注文屋台とは、材料さえあればメニュに無いものも作ってくれる店を指す。
いまだ明るいうちは我々にニコニコ笑いかけてきたオバサンが、大量の注文を受け真剣に調理に打ち込んでいる。そのオバサンの家族なのか、若い方のオネーサンに次男はオムレツを注文する。そして僕は忙しいオネーサンは避けて受注係らしいオニーチャンに「ヤムウンセンプラームック」と告げると一発で通じた。タイ語の発音と声調は、日本人にとってはしごく難しいのだ。
オムレツを食べ終えた次男は炭焼き屋台へ行き、今度は焼き鳥とイサーンソーセージの炭火焼きを買ってきた。次男は昨年バンコクでパッタイを食べ「衝撃的な美味さ」とその味を賛嘆した。そして今回のソーセージは「癖になる美味さ」だそうである。
豚三枚肉のタイ風唐揚げを好む次男は先ほどの注文屋台をふたたび訪ね、このスライスを頼んで断られた。本来は白飯に添えるためのものだからだろう。諦めきれない次男は他の屋台から見事に同じものを手に入れてきた。これは僕などには油が強く、とてもではないが食べられた代物ではない。
そしてホテルに戻りシャワーを浴び、僕は即、眠りに落ちる。時間は多分20時30分くらいだったと思う。
朝は2時台から目覚めていたかも知れない。4時40分、家内の作ってくれたおむすびを持って次男と三菱デリカに乗る。そして迷ったり人に道を訊ねたりしながら宇都宮の柳田車庫には5時20分に着いた。成田空港へ行く最も安価な手段がバスのマロニエ号である。
僕の知る限りいつもは数えるほどしか乗客のいないマロニエ号が、今朝は満席に近い。首都高速道路の渋滞により北関東自動車道、常磐自動車道に経路を変更したバスの中で一昨日の日記を書くうち「うるさくて眠れない」と、隣の爺様に叱られる。
マロニエ号は僅々数分の遅れを以て成田空港第一ターミナルビルに到着した。空には夏の空と雲が目に眩しい。早々に31番ゲートに達し、きのうの日記を書き上げサーヴァに転送する。また仕事関係の連絡や打ち合わせの何件かを電話でする。
"TG641"は定刻に20分遅れて日本時間11:20に離陸をした。背もたれが初めから倒されているような錯覚を覚えるほど広いBOEING747-400のエコノミー席では、秦辰也の「バンコクの熱い季節」を読む。
日本からタイへ飛ぶときの大きな楽しみは、ダナンの海岸線を眺めることだ。しかし乗客に昼寝をさせるためか、すべての窓は客室乗務員の指示により遮光板が降ろされている。ディスプレイの地図でダナンの近づいて来たことを確かめ、機内を最後尾まで歩いて非常扉の窓から下界を見る。
先ほどまでの雲は一掃され、ダナンの砂浜はどこまでも白い。と、そのとき近くの席の爺様から「眩しくて眠れない」と叱られる。よって地上の観察は数秒で終わらさざるを得なかった。それにしても爺様連中はなぜそれほど眠ることに熱心なのだろう。スクンビットのsoi4あたりで夜にはじける予定でもあるのだろうか。
"TG641"は定刻に16分遅れて日本時間の16:46、タイ時間では14:46にスワンナプーム空港に着陸をした。機から空港ビルまでバスで運ばれ、イミグレーションに進むと長蛇の列がある。この列を30分で脱し、地下1階まで降りて"ARL"に乗る。
「ワンピース」をキャラクターにした飲みものの広告に溢れたエアポートリンクの車両は"SIEMENS"製で、鉄道にもかかわらず、鏡の上をゴムのタイヤで走り行くように滑らかだ。16:39にパヤタイ着。"BTS"と"MRT"を乗り継いで17:22にフアランポーン駅に達する。バンコクの気温は32℃で、東京よりもよほど過ごしやすい。
先ずは駅構内の手荷物預かり所にスーツケースを預ける。そして僕がバックパッキングをしていた1980年代はじめの面影をいまだ残すラマ4世通りを向かい側に渡る。金曜日から1泊をする"Bangkok Center Hotel"の場所を確認するためだ。
「歩くバンコク」の地図に従い裏道に足を踏み入れると、そこは野犬のうろつく下町風情の濃いところで、自動車の部品再生を生業としている家が目立つ。「おかしいなぁ」と勘を頼りにジャルンクルン通りから駅前に戻る。英語の話せそうなオニーチャンを選んでホテルの場所を訊くと「あぁ、そこを右に曲がって2分ですね」と明確な答えが戻った。そしてホテルは確かにその場所にあった。
すっかり安心して流しのトゥクトゥクを停め「パイ、ヤワラー、タオライ」と声をかける。「40バーツ」と言われて即、席に乗り込む。30年前には、フアランポーンからスリウォン通りのジムトンプソンまではトゥクトゥクで30バーツだった。それを考えれば妥当な値段である。
運転手はヤワラーの最も賑やかなところで我々を降ろした。目の前にはフカヒレスープで有名な「南星魚翅」がある。よってヤワラーの広い通りを横断し、店の前に開いてあるメニュをひと目見て「えー、フカヒレスープが500バーツ? 高っけー」と、思わず声を出す。しかし通りを西へ歩きつつ、歩行者にも見えるよう料理屋が歩道に掲げたメニュのフカヒレスープにはすべて500バーツの表示があった。
「ダメだ、どの店も500バーツだ」と次男に伝えながら更に歩き、地元のアニキらしい3人の、外のテーブルでグツグツと煮えたスープを食べている「興利魚翅」に落ち着く。
バンコクのチャイナタウン「ヤワラー」のフカヒレスープは、土鍋で煮込まれている。そしてそこにモヤシとパクチーを投入するのは客の仕事だ。これをレンゲで口へ運ぶなり「なんだこれ、メチャクチャ美味めぇ」と次男が感心をする。そして「この香り、タイに来たって感じがするなー」と、感に堪えたように言う。
「チャーハンも美味めぇ。チャーハンにスープ、ぶっかけて食っても良いかな」と次男が訊くので「好きなようにしたら良いよ」と答える。僕はメシの上にパックブンファイデーンつまり空心菜炒めを乗せて食べたのが大層美味かった。タイ米は日本では不味いお米の代名詞のようにして言われるが、美味いところで食べればタイ米は非常に美味い。
来るときとは逆に「パイ、フアランポーン、タオライ?」と声をかけた運転手は「50バーツ」と返事をしたので、またまたトゥクトゥクの平らな席にサッと乗り込む。トゥクトゥクは「7月22日ロータリー」をぐるりと回り、一方通行の関係か、来るときより長い距離を走って駅の脇に付けた。
我々の乗るウボンラチャタニー行きは20:30の発車。そして現在時刻はいまだ19時。というわけでスーツケースを取り戻して後は構内のベンチで休んだり、あるいはこれまた構内のコンビニエンスストアで飲みものを買ったりする。
フアランポーンを日本の駅に当てはめれば、位置づけとしては東京駅なのだろうけれど、雰囲気はやはり上野駅だ。構内の電光掲示板には、発車時刻の「定刻」を示す"DEP"と共に「実際の発車時刻」を報せる"REAL DEP"の表示がある。
タイの駅に改札は無い。ベンチに次男を置いてプラットフォームに出てみると、我々の使う列車は早くも到着していた。最後尾の客室に入ると、既に冷房が効いていて涼しい。よって取り急ぎベンチに戻り、次男を呼ぶ。
ディーゼルエンジンの排気ガスを吸い込みながら低いプラットフォームを往く。切符の表示を見ながら7号車に駆け上がると、しかし先ほどの号車とは異なり蒸し暑い。そして「そうか、オレがコモトリに頼んだのはノンエアコンの2等寝台だった」と気づく。
車内には次々と乗客が乗り込んでくる。赤ん坊を連れた母親が多い。「ここから出してくれ」と中から子犬の鳴く段ボール箱を抱えたような人もいる。我々の乗る車両はさながら「前門の犬、後門の赤ん坊」という塩梅で先行きが大いに懸念される。
列車は定刻に25分遅れてフアランポーン駅を20:55に発った。21:00に"SAMSEN"、21:15に"BANG SUE JUNCTION"、21:40に"LAK SI"、21:47にドンムアン空港のちかくらしいところを通過する。乗務員の作ってくれた寝台は長さ180センチ少々、幅は70センチ弱といったところだろうか。
21:58に"RANGSIT"を確認したところで横になる。一旦走り出してしまえば窓を開け放ったノンエアコンの車両は涼しく快適だ。冷房車にしなくて良かったと思う。
"Salewa"のサブアタックザックひつで南の国を歩いていたころ、僕は荷物を軽くするため、歯ブラシの柄を短く切ることまでした。これは、シングルハンドのヨットによる太平洋横断の最短記録41日を打ち立てた、戸塚宏に倣ってのことだった。
歯ブラシの柄を切るようなことは今はしない。しかしやはり持ち物は小さくしようと努める。辺境に強い「ロンリープラネット」は必要なページのみ拡大コピーして綴じる。地図は「地球の歩き方」のカラーのものが見やすい。こちらは必要な部分をカミソリで切り取って綴じる。他の資料についても同じようにする。
ショルダーバッグはいくつ買っても帯に短したすきに長し。というわけで今回は自作をした。どこかで拾ったシートベルトの切れ端をループ状に結び、カラビナを介して「上澤梅太郎商店」のショッピングバッグと連結する。ショッピングバッグの上部には穴を空けて細いザイルを通し、これを結ぶことによって中身がこぼれることを防ぐ。使い物になるかどうかは分からない。
明日の早朝に次男と家を出て宇都宮の柳田車庫からマロニエ号に乗る。成田空港からは11:00発の"TG641"でスワンナプーム空港まで飛ぶ。そこからバンコク中心部までは公共の交通機関を使い、フアランポーン駅20:30発のウボンラチャタニー行き夜行2等寝台に乗る。
今日から7日のあいだ、僕は普段のサーヴァにアクセスできない。会社のFacebookページでなら、何事かお伝えできるかも知れません。
ここしばらく、東南アジアへ行くときには近藤紘一の「目撃者」を携えた。しかし今回のタイ行きには鉄路による長距離移動が含まれるため、荷物の容量はできるだけ絞りたい。「目撃者」は枕にできそうなほど分厚くて重い本である。
何年も前から欲しかったのだから早々に買えば良かったものを「いまだその時期にはない」と延ばし延ばしにしていた鴨志田穣の「遺稿集」を"amazon"に、否、正確に言えば"amazon"に商品を出している古書店に発注したのは数日前のことだった。それが本日ようやく届く。
文章といえば小林紀晴であり、鴨志田穣である。小林の文章は静かで涼しい。鴨志田の文章にはそれに加えてかなしみがある。なにか往路の飛行機の中で読むにはそぐわないような気がする。また5泊6日のあいだ読み続けられるほど長い文章でもない。
そういう次第にて階段室の本棚の、東南アジア関係のものをまとめてあるところを見る。そして秦辰也の「バンコクの熱い季節」とラッタウット・ラ―プチャル―ンサップの「観光」の2冊を選び出す。
「バンコクの熱い季節」については、コンピュータの注文履歴に無いところから、神保町の内山書店ででも買ったものと思われる。「観光」はタイ系アメリカ人による宝石のような短編集だ。
3冊を居間の机に並べ、どの順番で読もうかとしばし考える。そして「遺稿集」と「観光」はトランクに収め、「バンコクの熱い季節」をザックに入れる。
男体山の上空つまりウチからすれば西北西に端を発し、その180度反対の東南東に向けて雲の伸びることは珍しくない。今朝の雲もそのような流れ方をしている。そしてその景色を眺めながら「これはいまだ夏の雲なのだろうか、はたまた秋の雲なのだろうか」と考えても分からない。
会社の、白い塀に隠され外から見えないところに水道の栓がある。その水の出が今年の春先から悪くなっていた。よってこれを先日、出入りの柴田鉄工に直してもらった。以降、社員の誰かしかが店の駐車場に打ち水をしている。
テレビが「今年はお盆休みの分散化が進んだため」と伝えている。いつどこで誰がどのような方法でお盆休みの分散化を図り進めたのか僕は知らない。しかしそのお陰なのかどうなのか、有り難いことに今日になってもお客様の数は多い。
自らのスケデュール帳を人に見せて、その予定のびっしり埋まっていることを自慢するような人なら苦にもならないだろうが、クソをしている最中に2度も電話のかかったときには、いささか閉口した。そして今日は昼飯の最中に4度の電話があった。電話とは「出もの腫れもの、ところ嫌わず」の道具である。
夜は「魚登久」へ行き、鰻重を肴に焼酎を飲む。そして同席した3歳の女児の振るまいに触れつつ「子供の言葉を聞いていると、大人は癒やされるんだよねー」と次男に言う。
今朝の空と雲はいまだ夏のそれなのだろうか、それとも既にして秋のそれなのだろうか。「いつまでも暑くて困っちゃいますよねー」という挨拶はよく耳にする。「なんだか涼しくなってきちゃって寂しいですよねー」と言ったとき、一体全体どれほどの人が肯定的な相づちを打ってくれるだろう。
「8月は商売の繁忙とおばあちゃんの初盆が重なるため、出かけることはほとんどない。20日からのタイ行きについても航空券は4月に購入済み、バーツに至っ ては昨年9月に購入済みだから日本にいるよりお金は使わない。8月の小遣い帳は、どのあたりまで黒字額を積み重ねることができるだろう」
と、僕は先月20日の日記に書いた。ところが8月の小遣い帳については本日、一気に赤字に転落した。月なかばを過ぎたばかりにもかかわらず、である。
今月の後半には先ず、長男が他社での勤務を終え、アパートから自宅へ引っ越しをする、その費用が発生する。次男と行く旅行の保険金の支払いもある。宇都宮から成田空港までのバス代は決済ずみだ。しかし復路の切符は帰国日に空港で買わなくてはならない。
8月の末には出張が控えている。出かけた先で「オレ、スッテンテンでさぁ」と、若い人にメシ代をたかるわけにはいかない。そういう次第にて、赤字額がどこまで膨らむかの見当は付かない。
「ちらし鮨は、その具を酒の肴にするためのものであって、米の部分まで食べるのは野暮である」との発言を内田百鬼園のものとして、僕は今月4日の日記に書いた。
そうしたところ「貴君の書いたことは間違いである。ウソだと思うなら高橋義孝の『酒飲みの詭弁』の『おすしの神様』を読むが良い」という意味のメールが、この日記を読んでいるらしい人から届いた。
そういう次第にて明け方に起き出して階段室に出る。そして棚の本の背をずっと見ていくと、番町書房版の「酒飲みの詭弁」はすぐに見つかった。即、居間へ戻って目次を確かめ「おすしの神様」を読んでいく。
「ごはんと鮨のたねを一緒に食うのは下司のすること、上なるたねをさっと払いのけてごはんを食べる、たねはごはんに味をつけるための手段に過ぎない」との百鬼園の主張がなるほどそこにはあった。僕はこの部分の「たね」と「ごはん」を取り違えて覚えてしまっていたのだろう。
本日、店はお陰様にてお盆やすみの繁忙に恵まれた。客足が途切れないため、定時で店を閉めることのできないことも有り難い。そして終業後に家内、長男、次男との4人で食事に出る。
夜半からの雨は朝9時には止み、西の方には青空と夏の雲さえ見え始めた。
年初から大晦日までの売上金額を多い順にソートすると、お盆のそれはかなり上の方に集まる。加えて今年のお盆は、おばあちゃんの初盆に当たる。そういう次第にて本日は繁忙の店舗を気にしつつ、しかし焼香に訪れてくださる方々の応対にほぼ専念をする。
手順としては、次男が事務室で宿題をしている。そこにお客様がお見えになれば次男が仏間のある4階までご案内をする。次男はふたたび事務室に戻り、後は叔母…とここまで打ち込んで「伯母と叔母を区別しないATOKの同音語用例には、国語についてひとこと言いたい性格の人はかなりイラつくだろうなぁ」というようなことを考える。
とにかく仏間には叔母と長男が待機し、お客様の相手をする。僕と家内は店と仏間とを行ったり来たりするが、しかし仏間にいる時間の方が随分と長い。
僕はまた、オヤジの初盆に来て下さった方や、あるいは義理のある方で、しかし都合がつかず通夜葬儀に伺えなかったお宅に線香を上げに行く。
夜に至ってすこし落ち着き、家族で食事に出る。
日光宇都宮道路の今市インターを降りてウチの前を過ぎ、国道119号線と121号線とが交わる春日町交差点を貫いて更に鬼怒川方面へと続く渋滞がある。日光市今市地区の渋滞は他に、どのあたりでどのくらいの長さのものが発生しているかを確かめるため、午後、ホンダフィットに乗ってあちらこちらを走ってみる。
「渋滞の様子を探るためにクルマを乗り出したら、自らがその渋滞にはまってしまうではないか」と考える人がいるかも知れない。しかし当方は裏道抜け道を知っているからどうということもない。そしてこの渋滞調査の途中で酒の安売り屋に立ち寄り、900cc紙パック入りの麦焼酎を買う。
いつも吸っているタバコを大量にトランクに入れ、それを海外で吸い続ける人を僕はなかば馬鹿にしている。「折角の海外だ、行った先の煙草を吸えば良いじゃねぇか」と思うからだ。
僕はタバコは常用しないが酒については当然、その姿勢を保つ。2009年8月にはチェンライの"BIG C"でタイの大衆焼酎ラオカーオを買った。そしてこれをナイトバザールのフードコートに持ち込み生で飲み、焦げ臭の強さに辟易した。
その焦げ臭とは僕の知る限りテキーラの"Jose Cuervo Clasico"を凌ぐもので、「なるほどタイ人のテキーラ好きはDNAに擦り込まれたものかも知れない」と得心した。焦げ臭の強すぎる酒は料理を引き立てない。そして次のタイ行きから「メシも酒も現地のもので行くべし」という主義主張を僕はあっさり捨て、日本から安い焼酎を持参している。
昨年8月に用意した焼酎は500ccで、これはチェンライ奥地の山中でカレン族のガイドと酌み交わすうち瞬く間に空になった。1ヶ月後に裏を返したときには1000ccのおなじく焼酎を持ち込んだところ、こちらは余ったからコモトリケー君のバンコクのコンドミニアムに寄付をした。
そのコモトリ君が8月8日にフアランポーン駅で購入し、お盆に帰国して横浜から投函してくれた、8月20日バンコク20:30発、ウボンラチャタニー翌朝07:25着の、2等寝台下段の切符が届く。ウボンラチャタニーはタイ国鉄最東端の終着駅で、ラオスとの国境は指呼の距離にある。
タイ人は「サヌック(楽しい)」、「サバイ(気持ちいい)」、「サドワック(都合良く便利)」の3つのSを追求する。昨年の、タイ最北部におけるトレッキングと同じく、次男との旅においては僕はすくなくとも2番目、3番目の「サバイ」と「サドワック」の逆を行こうと考えている。出発は7日後に迫った。
夏至の前後2週間ほどは、3時台から空が明るくなった。しかし今はもう、4時30分を過ぎないと山はその輪郭を明らかにしない。
ロンドンのオリンピックは今日が最終日である。男子平泳ぎ200メートル決勝の、北島康介の泳ぎに「死にに行くもののふ」を見て、僕は背筋に鳥肌の立つ思いがした。女子サッカーの表彰台で、銀メダルを首にかけてもらう澤穂希が、先ほどまでのサッカー選手から、しっとりした女の人に変わっていて僕は「ハッ」とした。
リネールを超える選手を今後、日本の柔道界は出すことができるだろうか。「こんなルールの柔道なら、もう国際試合には出ねぇ、くれぇのことを日本は言ってやりゃぁいいんだ」と、カトー床屋のオヤジさんは僕に語った。そのあたりについて興味のある人に「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」は必読の書である。
今朝は6時がちかくなってようやく、景色が朝らしくなった。
オリンピックの、男子サッカーの日韓戦を観ながら数十分が経つとハーフタイムになる。そのハーフタイムのあいだに、お茶と水と花と線香を仏壇に供えることができるだろうかと考えつつ席を立つ。
「そんなことに15分もかかるものか」と思う人は、仕事の能率の常に高い人か、あるいは毎朝仏壇に不味いお茶を上げ続けている人だ、多分。そしてサッカーの三位決定戦は結局、韓国が勝った。
「私は気象庁は信用しませんよ。この前、気象庁の野球大会が雨になったん」という落語の枕がある。8/13(月)、8/14(火)、8/15(水)は猛烈な暑さになると、ロンドンから東京に切り替わったスタジオの気象予報士が伝えている。当たれば嬉しいが、さてどうなるだろう。
14時ちかくに食べた昼飯が腹に溜まり、晩飯の時間になっても空腹を覚えない。ところがいざ食べ始めると食が進み、すべてを食べ尽くしていまだ足りない。赤ワインの肴をラスクに替え、何とか腹をなだめる。
ベランダに家内の育てている植物が花を咲かせた。花の名前は知らない。
おばあちゃんが亡くなったのは6月23日の土曜日だった。以降は如来寺に教えたもらったとおり、毎週金曜日に墓参りをしている。家内と次男との3人で花を上げ、線香を手向けるお墓の頭上は晴れ上がっているにもかかわらず、暑さはさして感じない。
帰りに"Chez Akabane"に寄り、天然氷をベースにしたメリメロの、コーヒー風味のものを食べる。そして「昔の人はかき氷を『食べる』ではなく『飲む』といったなぁ」というようなことを考えたりする。
終業後に家内と次男との3人でホンダフィットに乗り、日光の中華料理屋へ行く。その足で先日、次男の先輩たちが来たとき使った「やしおの湯」に回る。日光市民の入湯料は一般より安い300円だが、身分証明書をあらためるようなことは、この温泉はしない。
300円を払ったにもかかわらず烏の行水にて露天風呂から上がり、休憩所のテレビでオリンピックの様子を見ながらうたた寝をする。
僕の住む建物の全館集中冷房が、一昨年あたりから効かなくなっている。築36年ともなれば、そのようなことも起きてくるだろう。扇風機は置かず窓を薄く開けただけの部屋に横になり、汗をかきながらなかなか寝付けない夜が、今夏はひと晩だけあった。
「ひと晩だけあった」と過去形で書くと何か寂しい。寂しいけれども立秋以来、涼しい日が続いている。街を歩けばそこここで「暑いですね」と声をかけられ、僕自身は別段、暑いとも思わないが、挨拶の常道を外してはいけないから「そうですね」などと答えたりする。
立秋を過ぎれば贈り物に付ける熨斗は「暑中見舞」から「残暑見舞」に変わる。しかし僕の望む残暑はどこにも見当たらない。
「立夏」という言葉には、青い空に白い入道雲の沸き立つような勢いを感じる。一方「立秋」と聞くと「禅とは山を下ること」と僕に語った禅僧の顔を思い出す。その禅寺の車庫にはアメリカ製の四輪駆動車があった。
まぁ、どうでも良いけれど「夏よ、もういちど」と、世界の中心でさけびたい気分である。
早朝の雲はいつの間にか去り、日光の山の上に青空の占めるところが広がってくる。水で顔を洗う、それだけのことに大層な気持ちの良さを感じる。
「いまフアランポーン。8月20日のウボン行き夜行、20時30分発しかねぇぞ」と、同級生のコモトリケー君より昼を過ぎたころに電話が入る。
"STATE RAILWAY OF THAILAND"のウェブページで調べる限り、バンコク発ウボンラチャタニー行きの夜行列車は他にも何本かが運行されている。しかし季節によるダイヤの変更があったのかも知れない。「それでいいよ、ノンエアコン2等寝台の下段ね」と、コモトリ君に頼む。
自分はなぜイサーンを目指すのか。「あんなとこ、行っても何にもねぇぞ」とか「英語どころかタイ語も通じねぇぞ」などと言われれば余計に行きたい。イサーンのオジサンやオバサンの作るメシが食べたい、イサーンの音楽が聴きたい、イサーンで鳴く虫の音を知りたい、イサーンの植物の緑を目に焼き付けたい、イサーンの青い空と白い雲が見たい、とにかくイサーン、である。
ウボンラチャタニーからバンコクへ戻る列車は3等自由席にするつもりだ。「楽宮旅社」の元住民としては、一般より上の旅行をすることがなぜか恥ずかしい。あるいは一般より低い旅行の方が心地良い。「転向したくない」という気持ちも強くある。
2週間後には、自分はイサーンのどこかにいる。そう考えると何やら不思議な気がする。本当に行けるのだろうか、イサーンへ。
今日から三浦海岸で開かれる、小学3年生から高校3年生までを対象としたマネジメントゲームに参加する次男より一足先に甘木庵を出る。
甘木庵で食べたおむすびひとつでは足りないため、北千住駅プラットフォームにある「小諸蕎麦」の、券売機の前でしばし悩む。
熱い汁蕎麦の欲しくなる今朝の気温ではない。しかし「冷やしたぬき蕎麦を食べる人間を、私は信用しない」と、かつて稲川淳二の言ったことも何となく分かる。そしていささか葛藤しながら遂に、冷やしたぬき蕎麦と60円のトッピング券を買う。
終業後に事務室奥の、いろいろな鍵の提げてあるところから自転車の鍵を取る。そして外に出ると折しもパラパラッと雨が落ちてくる。「アーケードの下を走れば濡れても大したことはねぇだろう、帰りに土砂降りになっても、直ぐにシャワーを浴びりゃぁ良いんだ」と、そのまま自転車を日光街道に乗り出す。
雨は結局、家を出たときの「パラパラッ」だけで止んだらしい。外には涼しい風が吹いている。そしてシャワーを浴びて早々に寝る。
下今市駅9:02発の上り特急スペーシアに次男と乗る。湾岸方面に用事のある次男とは、地下鉄千代田線の車内で別れた。
ひとり昼飯を食べながら「ウォーホル日記」の上巻を開く。そしてヘンリーJカイザー婦人の自宅にアンディ・ウォーホルが招かれた1976年12月13日の、印象深いくだりを読む。
池袋でのふたつの所用を済ませ、地下鉄丸ノ内線に乗る。茗荷谷を通過しながら「そういえばこのちかくの絵の展覧会に呼ばれていたなぁ、しかし会期はたしかきのうまでだ」というようなことを考える。
場所によっては夕立のように降っていた雨は上がり、都心は一気に湿度を増した。東京大学のクヌギの森ではアブラゼミが盛んに鳴いている。そして夕刻前に甘木庵に入り、汗を一気に引かせるため水ほどの温度のシャワーを浴びる。
18時になりかかるころ次男が甘木庵に来る。次男にもシャワーを浴びさせてから外へ出る。そして本郷三丁目の駅ちかくで食事をし、ふたたび甘木庵に戻る。僕は20時30分のころに就寝したらしい。
国道121号線の、歩道から車道に一段おりたところの雑草が以前から気になっていた。そしてその、店舗前の部分はきのう僕が綺麗にした。今日は、店舗とは車道を隔てて向かい側のそれを、次男に処理してもらう。次男は引き続き、春日町1丁目の納涼祭の準備に出かけた。
所用にて納涼祭への顔出しのできないイワモトミツトシ自治会長に代わり、町内から預かった寸志を持って、納涼祭の開かれている公民館へ昼ちかくに行く。そしてかき氷2杯を食べさせてもらい、会社に戻る。
本日の店舗は昼すぎまで客足が伸びず、売上げが心配された。しかし夕刻ちかくになって急速に盛り返し、胸をなで下ろす。そしてふと外に目を遣ると「日光奇水まつり」の渡御が折しも春日町の交差点を上がっていくところだった。
日光市大室地区にあって良質な水の湧く「高お(雨冠の下に口を横に3つ並べてその下に龍)神社」と日光市今市旧市街の総鎮守「瀧尾神社」両社の御神水を合わせ、以て水という貴重なものを維持していくための環境に思いを致そうとするのが「日光奇水まつり」だ。
このお祭りは毎年、氏子が両社を交互に訪問しあって行われる。そして今年は「瀧尾神社」の番にて、僕も通常であれば責任役員としてこれに参加をするところ、今回はおばあちゃんの喪中にて、それを遠慮した経緯があった。
直会は瀧尾神社の森閑とした境内で行われるのだろう。夕立などなくて良かったと思う。
朝の日光連山には、その西の端の男体山にのみ薄く雲がかかっている。日光市今市地区では、花火大会の日の夕刻、、それも市長による開会挨拶のころに雨の降ることが多い。今夜の空模様は大丈夫だろうか。
「ちらし鮨は、その具を酒の肴にするためのものであって、米の部分まで食べるのは野暮である」という内田百鬼園の言葉を、僕は花火大会のたびに思い出す。
自分が若かったころ、あるいは子供がいまだ小さかったころはともかくとして、僕はこのところは花火は観ない。飲み屋のカウンターや居間の畳に座って、ただその音を聴くのみである。そしてこれがなかなか悪くない。
先の言葉に戻れば「しかし先生、米を残すのは勿体ないと思いませんか」と訊かれ「だから米は後ほど人に隠れて食べる」と百鬼園は答えたらしい。あのオッサンであれば、それくらいのことは言うだろう。
事務室で仕事をしながら聞こえてくるのは、店舗でのお客様と社員とのやりとり、国道121号線を往来するクルマやオートバイの排気音、店舗犬走りに吊られた5個の風鈴、そして庇を頻繁に出入りするツバメの鳴き声だ。
そのツバメも、もうしばらくすればマニラやホーチミンやバンコクへ飛んでいくのだろうか。毎年、ツバメを初めて見た日は「ハッ」とするものの、ツバメを最後に見た日は特に記憶に残らない。徐々に少なくなって気づかないのかも知れない。
オフクロの誕生日に3日おくれて、その食事会を夜にする。閉店後に家族でホンダフィットに乗り、日光街道を北上する。日光の旧市街、電信柱が地下に埋設され、行灯のような街灯の並び始めるあたりで右折をする。そして霧降高原への坂を登っていく。
今年は長男が留守のため、ワインをボトルで頼むことはしなかった。「グルマンズ和牛」の赤のグラスワインにはマルゴーの香りがする。そしてあたりが涼しくなり始めるころに山を下る。
ここしばらく、夕食の後にシャワーを浴びると、それ以降の記憶は明瞭でない。ベッドにバッタリ倒れて眠ってしまうのだろうか。そして早朝に目を覚まし、ロンドンにおける日本柔道の負け試合をテレビで観たりするのだ。
盆暮れの繁忙期に入る直前には毎年、社員と「ガンバロー会」という食事会を催している。ところが今年の6月はおばあちゃんの体調に不安があり、よって会期を延長した経緯があった。そして本日ようやく「夏のガンバロー会」を終業後に催す。
関東南部には熱風が吹いているだろうけれど、日光ではせいぜい温風程度だ。よって夕刻より社員たちが店舗駐車場に椅子やテーブルを出し、またコンロに炭火をおこすなどして会場の準備を調える。
僕は会合の酒は好まない。しかし社員や家族と飲むそれは好きだ。今夜も自宅から泡盛の一升瓶を持ち出し、社員たちがビールやノンアルコールビールを飲むかたわらで、43度の古酒をすこしずつ口に入れる。
料理に凝ったものはないが、すべて美味い。また日光の天然氷によるかき氷も用意をされた。そういう環境にて酔ううち、空が暗くなれば花火も始まる。最後にみなで事務室へ集まり、製造係のフクダナオブミさんの、勤続30周年の表彰をする。
社員がいれば片付けも早い。そして僕は21時前にはシャワーを浴び、今夜も早寝をする。
「あさみどり 澄み渡りたる大空の 広きを己が 心ともがな」は、僕の暗唱できるただひとつの明治天皇御製である。その歌のような空が今朝は広がった。そしてウチに2泊をした高校3年生はJR今市駅08:17発の宇都宮行きに乗って去った。彼等はこれから9時間をかけて新潟を目指すという。
朝飯については、何しろ男の高校生4人が食卓に着くわけだから、どれほどの量を作るべきか見当も付かない。そして大量に用意したそれが割合と残ったため、それらを家内と次男との3人で昼に綺麗にする。
ひとり2杯から3杯のかやくごはんを食べれば、午後の遅い時間になっても腹は一向に減らない。そういうときに"facebook"を開くと、朝日町の製麺業「福島屋」さんが魅力的な画像を発信している。そういう次第にてその「8月の限定麺」を次男に買ってきてもらう。
そして「盛り場を徘徊しながら」というような夕食を摂り、今夜も早々に寝る。