「きのう湯西川に行きましたが、紅葉は良かったですねぇ、今年はなかなか寒くならなくて、綺麗な期間が長続きするらしいですよ」と、店舗に花を生けてくれているカワムラコーセン先生が午後に来社して言う。
湯西川とは鬼怒川や川治の更に奥にある温泉郷で、まぁ、この時期の景色の見事さは容易に想像できる。僕はその場所へは、もう四半世紀も足を踏み入れていない。
「今年はなかなか寒くならない」のは過ごしやすくて有り難いが、テレビの天気予報は明日の東京の最高気温を26度と伝えている。11月1日の気温が26度とは、いささか常軌を逸しているのではないか。僕が東京西郊の高等学校に通っていた時分には10月の上旬から、既にして吐く息は白かったのだ。
銀座の路上にパパイヤやマンゴーを売るおばちゃんが並び、日比谷公園には椰子の木がそびえバナナが実り、六本木ヒルズの窓の外を色鮮やかな鳥たちが飛び交うようになったら常夏の国の好きな僕は嬉しいだろうか。しかしそれではわざわざ南の国へ行く楽しみが無くなってしまうから、やはり11月1日の東京の最高気温は15度くらいがちょうど良いと思う。
初更に「和光」へ行くと、店の入り口には花やススキや団子のお供えがあった。
カウンターに着いて「さて今夜は月など見えただろうか」と考えると、「いや、まん丸のが出てるよ」と常連のひとりが言う。するとそれを聞いた別の常連が「今日は十三夜なんだから、まん丸なわけなかんべー」と、指摘というか訂正というか反論というか茶々のようなことを返す。
「いくら田舎にいても市街地の中だけでうろうろしていれば、月を観ることなく1日を過ごしてしまうこともあるんだなぁ」と、いささか反省をする。
ところで「和光」の今夜のお通しは魚のフライだった。その衣をサクリと噛めば口の中には秋刀魚の脂が広がって美味い。そして僕は「こんなにボリュームのあるお通しを出したら、客の注文は確実にひと品、減ってしまうではないか」と心配をする。あるいはそのようなところで細かい計算をしない店にこそ、人は惹かれるのかも知れない。
現在は日光への紅葉見物のお客様が多く、店舗は繁忙である。この観光シーズンが収束する前に年末ギフトの需要が高まってくるから、有り難いことにこれからクリスマスまでは忙しさが続く。ウチではいつもこのころに社員との食事会を行い、必要な情報をやりとりする。
事務室の「社員とメシを食べるために作った」といっても過言ではない大テーブルに社員や家内の作ったあれこれを並べ、夕刻6時前より食事会を始める。普段よりも春雨サラダの美味いのは、これを大勢で食べているためだろうか。
9月はじめの「日光MG」で100期分のマネジメントゲームを終了した包装係サイトーヨシコさんには、すこし遅くなったが記念の体重計を贈呈し、彼女の受けた研修の一里塚とする。
「金がない、時間がないは言い訳だ」と言う人がいる。確かにその通りかも知れない。しかしこの論理を推し進めていけば終いには「人工呼吸器で辛うじて息をしている98歳の老人が宇宙飛行士になれないというのは言い訳だ」というところに行き着くのではないか、と自分の意見を開陳すると「それは屁理屈だ」と叱られるから始末に負えない。
今月22日の昼飯が欠落しているのは、忙しくてそれを摂るヒマがなかったからだ。「忙しくなるのは分かっているのだから、朝のうちにサンドイッチでも準備しておけば良かったではないか」と言われれば、「朝のうちからサンドイッチを用意していたが、それでもこれを食べるヒマがなかったのだ」と答えたい。
「それほど忙しいから?社長のしごと日記?も更新できないのか」と問われれば、こちらの方には返す言葉もない。とにかくこの「ごはん日記」は毎日更新しているのだ。そして「社長のしごと日記」は本日ようやく今月最初の更新をする。
太平洋側には台風がひとつ北上中、中国大陸と日本海上には3つの高気圧、という面白い条件によるものだろう、朝6時の北西の空には妙な雲が出ている。それでも天気は快方に向かうに違いない。そしてふと気づくと、3ヶ所同時にできていた口内炎は、随分と良くなっていた。
十代のころから口内炎がしばしばできるようになった。これまでいろいろ試した口内炎の治療法の中で、最も効くのは多分、病院での外科的な処置だ。しかしよほどひどくならない限り、口内炎くらいで病院へ行く気はしない。
B2、B6、B12というようなビタミンを通常の倍摂取する。口内炎ができているときには概ね体内にビタミンが不足しているらしく小便は黄色くならない。しかし1日も経てばビタミンが満たされるのか小便の色は黄色くなる。そうしたら量は普通に戻して更にビタミンの摂取を続ける。これが自分にとっての、病院へ行く以外でもっとも口内炎を早く治す方法と、この数十年間は信じてきた。
数ヶ月前にNHKの「ためしてガッテン」という番組で口内炎の特集をすることを知り、これを録画したが見なかった。夏休みに帰宅した次男に代わりに見てもらい「やっぱり1番の治療法はビタミンだったか」と訊くと「1番はうがいで口の中を綺麗にすることだってさ」と意外な言葉が戻ってきた。
それ以降は口内炎ができるたび、これまでのビタミンの摂取にイソジンでのうがいを加えるようにした。するとなるほど全快するまでの日数は半減された。うがいに気づかなかった僕が迂闊だったのだろうか。
きのうの日記に書いた美味いと飲みたいの違いについては、食べ物においても同じことが言える。「美味い店」と「行きたい店」は、僕の場合しばしば別であることが多い。
ここで高級な店を出せないところが僕の弱みであり、またその店のある場所も銀座青山六本木ではなく池袋であれば語りやすい、というところが僕の弱みであるが、まぁ、すこし説明をしてみる。
池袋でモツ焼きを食べようとすれば、ジュンク堂に向かって左の路地を入ったところの「みつぼ」が、材料の種類も多けれ調理の方法もあれこれある。しかし僕の足はなぜかビックカメラ裏の「男体山」に向く。それがどのような理由によるものかを筋道たてて説明することは難しい。
西口で最も繁盛している飲み屋は「ふくろ」だろう。しかし僕はここに1度だけ行って裏を返していない。あのあたりではやはり「豊田屋」が好きだ。この店のニラ玉は上出来だが、他のものについては特に何が美味いということもない。それでも池袋で僕がもっとも通った店はここだ。
和気藹々とした雰囲気の満ちている店は苦手だ。当方はひとりになりたくて酒を飲んでいる。「男体山」には和気藹々の「わ」の字もないところが、僕の好みに合うのかも知れない。
同級生のお母さんのお通夜まで時間があったので、それまで「豊田屋」で飲んでいたことがある。レジで勘定をして、おつりをもらったところで「それ、お洒落じゃないですかー」と、店のオネーサンにスカーフを褒められたことがある。僕はスカーフを首から外し、見やすいように広げて「これ、女物なんだよ」と答えた。
四半世紀も通って、注文を伝える以外に交わした言葉が「それ、お洒落じゃないですかー」と「これ、女物なんだよ」だけ、というあたりが、僕にとってはちょうど良い「飲み屋の人との距離感」であり、そういう距離感を維持できる店がすなわち「行きたい店」ということなのかも知れない。
午前も後半に差しかかるころ、霧雨の南部坂を上がって麻布の山の上まで行く。普段は歩く距離だが今日は時間の不足と雨によりタクシーを使った。午後にいたってふたたびタクシーに乗り、目黒駅前から権之助坂を下る。
鮨屋の、カウンターの脇を抜けて奥のテーブル席に着く。家内の父を僕と長男とではさみ、3人で昼酒を飲む。僕は日本酒は、月に1度の利き酒会のときくらいにしか飲まず、あとはもっぱらワインか焼酎を飲む。
自分がなぜ日本酒から遠ざかったかと考えると、筋道たててこれを説明することは難しい。美味い日本酒は美味い焼酎よりもずっと美味い、あるいは日本酒の美味さは焼酎のそれよりもはるかに分かりやすいと自分の理性は判断をする。しかし「美味い」と「飲みたい」とは、また別のところにあるのだろう。
自分は蕎麦屋では、時と場合によっては焼酎を飲む。しかし鮨屋では常に日本酒を飲む。鮨に合う酒は日本酒がいちばんと知っているからだ。
そして透明の白魚やオレンジ色の貝柱と共に飲んだ今日の燗酒も、しごく美味かった。
今市屋台祭りは17日が宵祭り、18日が本祭りだった。屋台の組み立ては11日に行われ、そして本日その屋台は解体される。よってこの祭りは机上のことを除いては、前後2週にわたって関係者の頭と体を必要としたことになる。
解体は市縁ひろばにて朝8時30分から始められた。もちろん僕もこれを手伝うが、しかし現在は秋の繁忙にて店舗は平日でも人手の足りない状況である。解体への参加者に詫びつつ9時30分に帰社し、以降はずっと会社にいる。
夜7時前に町内頭のオノグチショーイチさんより直会が始まった旨の電話が入ったため、また明日の準備も済んだところから、春日町1丁目公民館へ向かう。
先日、市役所の人がウチのおばあちゃんに長寿の記念品を届けてくれた。昨年もいただいた記憶があるが、今年は百歳ということであれこれ入った紙袋は特に大きく、またそこには内閣総理大臣と栃木県知事からの表彰状も含まれていた。
百歳とはいえこれは「かぞえ」によるもので、おばあちゃんは来年の春が来なければ満年齢の100歳にはならない。おばあちゃんは元気だし、夏よりも冬に調子の良い人だから、満の100も固いだろう。
それはさておき表彰状の日付は平成21年9月15日で、内閣総理大臣の名は麻生太郎だった。自由民主党最後の総理大臣、かどうかは神のみの知るところだろうけれど「え、アソータロー? 懐かしー」と、正に「去る者日々に疎し」の感を深くする。
朝、国道121号線の歩道沿いを掃除していると、足立ナンバーのクルマが僕の脇にピタリと泊まる。そして「オオムロヤマは、どうやって行ったらいいですかね」と、運転席のオジサンが身を乗り出すようにして訊く。
日光市に「大室」という住所はあるが「大室山」は聞いたことがない。地元の人間さえ知らない場所に、このオジサンはメモ1枚だけを持って東京から出てきてしまったのだ。
谷口正彦の「冒険準備学入門」を愛蔵する僕からすれば、このような準備不足の人はまったく信じがたい存在である。これまで何十年ものあいだ「行けば何とかなる」でどうにかなってきたのだろう。だから地図も持たずカーナビもなく、行く先々で忙しい人間を呼び止めては迷惑をかけてきたのだ。
準備不足を屁とも思わない人に準備の大切さを教えるには過去の、どうにかなってきた成功体験を粉砕してやればよい。わざとおかしな方を指さし山奥へ迷い込ませてはどうか。
しかし僕もそこまで意地悪ではないから警察の場所を教えて「そこで訊いてください」と答え、また掃除を続ける。
「勝ち」と「負け」を自分の価値判断の基準にしている人がいる。それぞれの人の重んじる価値は、それぞれの人に帰属するものだから、まぁ、みんな好き勝手にしたら良い。しかし人間、負けるよりはやはり勝った方がいくらかは気持ち良い、というのが本音ではないか。
夜6時40分ごろ日光街道追分地蔵尊ちかくの洋食屋「コスモス」へ行く。ここのドライマーティニは、とかく伝説やハッタリという「付加価値」をたっぷり含んだ銀座有名店のそれよりも僕の舌には美味く感じる。
ところが今夜は、そのドライマーティニを作る息子さんが不在だという。「それじゃぁしょうがねぇ、無難なところでフランスのシャルドネでも頼むか」と考えていたところに奧さんが「よろしければお好きに作ってください」と言う。
酒飲みに対して「好きに作ってくれ」とは、あまりに危険な物言いだ。喜び勇んでミキシンググラスのありかを訊ねると、しかしその寸胴のガラス器はいつまでも見つからない。よってオールドファッションドグラスを出してもらい、そこにアイスボックスの角氷を5個ほど入れ、あとは" Beef Eater"のジンをゴバババババと、ほとんどグラスの縁まで注ぐ。そしてその上から"Noilly Prat"をチョロリと足す。透明なジンはドライベルモットの蜂蜜色を一吹きされてゆらゆらと揺れ、部分による濃淡を明らかにする。
そういうオンザロックスのにわかマーティニを飲みながら「平凡パンチの三島由紀夫」の、1954年の出来事を読む。
三島はこの年29歳で、「二十四の瞳」に主演したばかりの高峰秀子と、ある婦人誌で対談を行う。三島が天才だったかどうかは知らないが、秀才だったことは確かだ。そしてその秀才が、4歳のときから自分で稼いでいるという女優に、この対談においてまったくやられっぱなし、とはどういうことだろう。
対談は論争とは異なり、勝ちを目的として行うものではないが、それでも三島は女優との対談で崖っぷちまで追い詰められ、そこでオロオロしているように見える。ワケの分からない言葉を発し続ける壊れた人形のように見える。脳で仕事をする人間が、肉体で仕事をする人に完璧に負けている。
「自分は女優とは寝ない、寝るのは歌舞伎役者だけだ」くらいの与太を飛ばしておけば良かったのだ。三島はなぜ高峰秀子を相手に格好をつけたか、そのときの高峰が、よほど魅力的だったのかも知れない。
半日はかかるだろうと予想していた仕事は1時間ほどで終わってしまった。よって帰るための足も数時間早めて浅草駅12:30発の下り特急スペーシアに乗る。
僕が東武日光線を使うとき、多くは北千住駅で乗り降りするため、完成すれば634メートルになる東京スカイツリーを見る機会はこれまでなかった。あるいは昼の明るさの中で確認することがなかった。それよりもなお、業平橋駅ちかくのごく狭い土地にそれほど大きな塔を建てるということについて、信じがたいものがあった。
本日、下り特急スペーシアが隅田川を渡って間もなく右手にあらわれたその工事現場を目の当たりにしてみれば、なるほど東京タワーから50年を経た現在の技術により、それほど広い基部を持たなくても高い塔の建造は可能ということなのだろう、太く白い鉄柱は電車の窓から見上げることの叶わないほど上方まで伸びていた。
それにしてもここが東京の新しい観光名所になったとき、はとバスなどを駐める場所はあるのだろうか。大げさに言っているのではない、東京スカイツリーは本当に、猫の額ほどの土地に造られているのだ。
夜になってより恵比須講を行う。恵比須講とは農家にあっては五穀豊穣を、漁業をなりわいとする家であれば大漁を、そして商家では商売繁盛を祈るお祭りで、本日は居間の床の間に恵比寿と大黒の木像と掛け軸を飾り、また鏡餅、頭つきの鯛、煮魚、なます、ほうれん草のおひたし、メシ、けんちん汁を供える。
恵比寿大黒に供えたとほぼ同じ夕食を摂り、そうと決められているわけではないが飲酒は避け、静かに秋の夜を過ごす。
が非常に面白い。これは多分、ことし僕が読んだ中でもっとも面白い本になると予感する。しかしながらその面白さとはすくなくとも、三島由紀夫が生存した時代に自分も生き、 彼の書いた本の10冊や20冊は読み、彼の最期を明確に覚えている者にこそ味わえるもののような気がする。
「千登利」の品書きから米酎を選び「生で」と指定すると、とても感じの良い、しかし日本人ではないらしいオニーチャンが「これは何かで割るためのもので、35度もあるのだから生では無理だ」というような意味のことをおぼつかない日本語で言う。
人の希望することを断ろうとするとき、あまり明瞭な言語でそれを伝えられると、断られた方は面白くない。一方おぼつかない言葉は、このようなときにはなかなか良い働きをする。だったら僕がこのオニーチャンの意見を受け入れたかといえばそうでもない。「大丈夫、平気だよ」と答えてコップの縁までその焼酎を注いでもらう。
池袋から本郷三丁目まで戻ってくると、ラーメン屋の「神勢。」がまだ開いていた。「どうしようかなぁ」と考えても、答えはもう出ているのだ、店内の自動販売機で醤油ラーメンの食券を買う。
「神勢。」のラーメンは盛りつけも綺麗だし味も良い。今夜の焼豚などは出色の出来だ。にもかかわらずこの店の繁盛する気配は数年前の開店から今日まで絶無ではなかったか。キャンペーンで売る店とも思われないが「麺の大盛り無料」の張り紙はいつまでもある。「神勢。」の空き具合は僕にとって、本郷七不思議のひとつである。
何の用事のあるわけでもないが、「今市屋台祭り」の会計係として朝、春日町1丁目の屋台が置かれている市縁ひろばに行く。折しもそこではイワモトミツトシ自治会長の挨拶に続いてオノグチショーイチ頭による屋台巡行についての諸注意が、参加者に対して与えられているところだった。週末の天気予報は今週のはじめよりあれこれ変わって懸念をしたが、幸いにも今朝の空は晴れ上がった。
携帯電話を携帯する習慣を僕は持たない。昼ごろ店舗で忙しくしていると、携帯電話が鳴っていると事務室から知らされ、それは春日町から小倉町までの旧市街においてお祭りのために閉鎖されている日光街道上からの、ユザワクニヒロ小頭による「酒が足りなくなった」旨の連絡だった。
「これだけあれば足りる」と言われた金額の倍の紙幣を封筒に入れ、自転車で裏道を辿って町内屋台までそれを届ける。今回のお祭りには計8台の屋台が出ている。現場では折しも屋台2台ずつが互いに面を付き合わせ、双方のお囃子が勢いよく演奏する「ぶっつけ」が行われているところだった。
単純なリズムは、軽々に想像すればつまらないもののように思われる。しかし実は人間の奥底に響く力を持っている。旧市街の街道沿いに展開される「ぶっつけ」は、思っていた以上に素晴らしかった。
夜は直会のため町内公民館へ行く。70分間の歓談と20分間の片付けを経て9時に帰宅する。
「今市屋台祭り」の宵祭りにおいては参加者に弁当を支給し、各自はそれを持って帰宅と予定されていた。「飲み物は各々が家に帰ってから勝手に飲むべぇ」との暗黙の了解だったが、午後になってイワモトミツトシ自治会長より電話があり、やはり缶ビールの1本くらいは付けてやりたいということになった。
よって仕事の合間に郊外のディスカウンターへ寄り、ビールの箱が山と積まれた一角へ行くと、ビールと発泡酒の価格は倍ほども違う。更に発泡酒には「2箱なら○○円」というサービス価格が提示されていたため「だったら明日の分も今日のうちに買ってしまえ」と、これを2箱まとめて購入する。
あたりが暗くなったころ、春日町1丁目の屋台からお囃子が聞こえ始める。それに時を合わせたように弱い雨が落ちてくる。市縁ひろばに行ってみると、それでも屋台のまわりには町内の少なくない人たちがいた。
やがてお囃子も止まり、笛や太鼓の子供たちが屋台から降りる。屋台には雨よけのブルーシートが、大人たちの手によってかけられた。
弁当を支給された子供たちは「早く家に帰れ」と僕や他の大人たちに言われても、広場のあずまやに集まって楽しげに話を交わしている。大人たちのほとんども、家には帰らず公民館へ向かった。
それにしてもお祭りの酒というものは、準備おこたりなく翌日の分まで用意しても、今日のうちに綺麗サッパリ消えてしまうところが不思議といえば不思議である。
を寝る前に開くと、眠くなるまでに2章分は読める。
この「素人包丁記」の、おととい読んだところに「松尾バナナ」という1章があった。著者はここで、食べ物の価格と価値の関係についてバナナを例にとって論じている。しかし僕の頭は本の内容から乖離して、芭蕉という植物は江戸初期においては、琉球や九州南部を除いてはかなり奇妙な見てくれのものだったのではないか、というようなところに飛ぶ。
僕が植物としてのバナナを見るとき、それが南の国の疎林に生えていればなかなか気持ちの良い風景と感じるが、これが日本の庭園の小径に不意に現れれば、まず間違いなく違和感以外の何も覚えないだろう。
「馬鹿だね、庭ってものは、やたらに木ぃ植えりゃ良いってもんじゃねぇんだ。家の中に木が生えるから困るって、読んで字のごとしじゃねぇか」と言った人がいた。そこに山下清がいれば「こ、困るという字は家の中に木が生えるではなく、口の中に木が生えるんだな」と言ったかも知れない。
話を元に戻せば、俳人の「俳」とは「人に非ず」ということなのだろうか。「芭蕉」という俳号から、僕は何かただならない気配を感じる。「芭蕉は文章における異形の創始者」と僕は認識をしている。この認識が正しいか正しくないかは知らない。
"BOSE"から新製品の案内が届く。最初のペイジに新しいノイズキャンセラー"QuietComfort 15"の紹介がある。"BOSE"の作るものだからこれはもちろんただの耳栓ではなく、周囲の騒音と逆位相の信号を発生して耳に静粛を感じさせる道具だ。
価格は39,900円で、送料は無料とある。しかしこれがアメリカの"amazon"では299.95ドルで売られている。1ドルが90円とすれば299.95×90=26,995円。アメリカで買うより12,905円も高いものが送料無料でも、何の有難味もない。
"BOSE"のノイズキャンセラーは、多く飛行機の乗客が使う。しかし僕は、飛行機に乗ってもエンジンの音をうるさく感じたことはない。つまりこのノイズキャンセラーを買う必要はまったくない。
必要ない、どうせ使わないと分かっていても、これを買いたくなるのが僕のダメなところである。
毎年9月から5月まではアカギレと縁が切れない。富山県のある温泉の宴会場でアカギレのかかとを撫でていた記憶があって、いまコンピュータで調べてみると、それは1993年9月27日のことだった。
昨年の10月7日にはかかとの何ヶ所かにアカギレのあったことを明確に覚えている。そしてそのとき手の指には、いまだバンドエイドは無かった。
今年は10月に入ってもかかとは無事で、しかし右手の親指と薬指にはきのうアカギレができた。手は素のままにしておくのが好きだ。しかしそれではあちらこちらに血を付けることになるから仕方なくバンドエイドを巻く。
自分は日に数十回ほども手を洗い、手指をアルコールで消毒することも度々だから、普段より脂っ気の少ないところへもってきて、余計に肌が乾燥するのだろう。
バターや生クリームが大好きな割に、それらの脂肪分は一体全体どこへ消えてしまうのか、不思議といえば不思議である。
税理士事務所へ向かいつつあるとき「銀行が来た」旨の電話が入って会社へ引き返す、外で遅い昼飯を食べ会社に戻れば取引先の営業係が待っている、事務仕事をしようとすればにわかにお客様が増えて店舗へ応援に行く、閉店後はまた別の仕事がある。
そういう忙しい1日を終えて、いや午前0時を過ぎていないからまだ1日を終えたわけではないが、とにかく日光街道を下って「和光」の暖簾をくぐる。
人のからだとは良くできたもので、おととい鰻、きのう焼肉とくれば今夜は品書きの中でも熱量の低いものばかりに目が行く。そして演歌の有線放送を聴きながら癒しに癒され、いつもの定量を超えて焼酎のオンザロックスを飲む。
自分の仕事は大抵、朝から忙しい。よって朝刊といえども昼や夜になってから読む。本日も晩飯の後に日本経済新聞を開いて、第32面の「船のもてなし花毛布研究」に目が留まる。
「花毛布」とは、船室に華やかさを添え、船旅の客に歓迎の意を伝えるため、ベッドの毛布を花や動物の形に折り整えることで、しかし船会社が輸送の合理化を目指すうち、この労力と時間を要するサービスは次第に減り、現在は「にっぽん丸」のスイートルームとデラックスルームに残るのみという。
この「花毛布」の研究を続けている筆者は、更にその起源を求めて英国の海事博物館まで足を伸ばすが、さしたる収穫もなく帰国する。花毛布の歴史は曖昧模糊として、その発祥も伝播の経路も不明のままだ。
それはさておきこの「花毛布」の文章中、僕が特に目を留めたのは「ただ、関係者への聞き取り調査で、毛布ではなくバスタオルで花や動物の形を作ってベッドに飾るサービスをメキシコやキューバのホテルで見たという証言を得た」の部分で、しかしこのタオルによる細工は中米だけのものではない。
僕は実際にこの夏"Dusit Island Chiang Rai Resort"で、バスタオルによるつがいの白鳥を見て大いに驚いたのだ。そして「ここまでしてもらっちゃ、しょうがねぇ」と翌朝、相場の5倍つまりカオマンガイが3回食べられるほどの枕銭を置いた。
考えてみれば、この手のサービスは組織の合理化によっても消えるだろうが、出すべきティップを出す客が減ることによっても廃れるだろう。金銭を伴わない感謝だけでは、続かないこともあるのだ。
井伊直弼も、そして吉田松陰もいまだ生きていた安政六年建立の、春日町1丁目の屋台は普段は分解されて町内の蔵に納めてある。それを8時30分に集合した有志が、先ずその車台部分より組み立て始める。それは、今月18日に挙行される「今市屋台祭り」にこれを繰り出すためだ。
車台のほかに屋台を構成する柱、梁、屋根、欄干、調度、彫刻部分は別途3台のトラックにより「市縁ひろば」へ運ばれ、ここで細部の組み立てに取りかかる。屋台は巨大な箱根細工のようなもので、しかも設計図はない。何十年ものあいだこの屋台を組み立てあるいは分解し続けた町内長老の意見も聞きながら、作業は粛々と続く。
屋根の高さは4メートルにちかくなるから、この部分の仕事には鳶や大工の力を借りなくてはならない。そして前後の破風の鬼が収まったところで遅い昼食となる。
屋根の更に上に雨よけを載せ、提灯の点灯試験をするころには夕刻4時を過ぎていた。1週間後の本番までは雨風を避けるため、また安全のため屋台を帆布やブルーシートで覆い、本日のすべての作業を完了する。
屋台の組み立てにはすくなくない人を要する。どれだけ集まってくれるだろうかと懸念をしたが、本日は幸いにも組み立てに23名、大膳に5名が協力をしてくれた。祭りを維持するには人が必要で、人は人によってしか生産されない。
町内の子供に向かって言う「○○ちゃん、はやく子供、作れや」などは軽薄な冗談ばかりとも言えない。人がいなくては、世のすべては尻すぼみである。
個人用のクルマは今のもので満足しているから、これを新たに買うことは死ぬまでしない。2003年のフランクフルトショーで発表された"LANCIA Fulvia"のショーカーが現実に売り出されれば気持ちも揺れるだろう、しかし往年の狭角V型4気筒が復活することは考えられない、そしてランチア独自のエンジンを積まないランチアならはじめから欲しくはない。
クルマは欲しくないがオートバイならどうか。実は本日、日光街道で立て続けに3台の"KAWASAKI 250TR"を見た。何よりエンジンの造形が良い。エンドューロやデュアルパーパスタイプのオートバイは40年ちかく前から好きだ。
というわけで検索エンジンを回してみれば、2009年版のボディカラーは黒いタンクに茶色のシートか、あるいは銀のタンクに黒のシートの2種しかない。「カワサキならバッタのような緑でしょう、やっぱ」と、更に検索エンジンに問えば、あちらこちらに旧モデルの新車があり、そこには緑色のガソリンタンクを持つものもいまだ残っていた。
「うーん」と考えて、しかし結論は出ている。買っても乗らないオートバイに数十万円を投じる余裕は無い。車庫には四半世紀ちかく前からほとんど乗っていない"HONDA TLR200"も、既にしてあるのだ。
出張との重複、繁忙などいろいろあってかかりつけの病院へ行けず、先月5日の採血の結果を今日になってようやく知る。総コレステロールが175、LDLコレステロールが92、中性脂肪が103とは、近来にない良い値ではないか。
採血のすこし前、正確に言えば8月23日から同28日まで滞在したタイのメシが健康食だったのか、まぁ、そんなこともないだろう、帰国して採血までの1週間は、また日本のメシを食べていたのだ。
「ウワサワさんって、基本的には菜食ですよね」と人に言われるような食事が最近は多く、それが功を奏したのかも知れない。
というわけで晩飯にはステーキを食べる。
夏が終わり、冬へと向かいつつある秋はどうにも気分が寂しくて、好きな季節ではない。しかし食べ物だけは美味い。おとといの「鮨よしき」では「ウワサワさんが好きだから」と、貝と青魚による文字通り徹頭徹尾の「これでもか攻撃」があって、この店に何回か来たうちの、僕のもっとも感心したものだった。
自分が年をとったせいかも知れないが、このところは特に、食べ物については日本のものがいちばん美味く感じる。「だったらなぜワインを飲むか」と問われれば、和食だけでは物足りないこともあるから時には洋物のメシでワインも飲む。
今月の日記を読み返してみれば、断酒のためのカレーライスを除いてはすべて和風の晩飯を食べている。それでもいまだ洋物のメシを食べたい気分は起きない。あるいは秋という季節が、自分の食べ物の好みを管理制御しているのかも知れない。
夜になってもしなくてはならないことがあれこれあり、よって今月はいまだ7日にして半月分のノルマにあたる4回の断酒を達成してしまう。
もっとも「断酒の達成」などと偉そうに言っても、飲酒の習慣の無い人は毎日が断酒なわけで、そう威張るほどのものでもない。
ところで僕はタバコについては春夏秋冬に各1本ずつを吸うこととしていて、しかし今年はいまだ2本にしか火を付けていない。タバコは空気の綺麗なところで吸うと美味い。空気が常に動いているという点においては室内よりも屋外で吸った方が美味い。タバコは日本の酒には合わず、西洋の蒸留酒に合う。
タバコは血管を収縮させるから冬の戸外で吸うのはちと危険である。しかし雪の原野で飲むウイスキーは美味く、またそういう環境で吸うタバコも美味い。
タバコは春夏秋冬に各1本ずつを吸うことにしているが、ここ何年ものあいだ、僕はタバコは年に3本が最高の数と記憶している。タバコの美味さには「種々の条件が揃ってこそ」というところがあり、条件が揃わない限り、それほど吸う気にはならないのだ。
目を覚ましですぐに「日本酒とペルノーは相性が悪いのだろうか」と考えた。きのう神保町の「卯佐」を出て白山通りを渡り、いまだ夜も早いため"BAR RuSSET"でペルノーを飲んだ。飲んだのは1杯だけだが今朝は軽い二日酔いである。あるいは「卯佐」の佳肴により冷やの日本酒が予想外に進んだのかも知れない。
夕刻、ゆりかもめで移動しながら何気なく窓外に目を遣ると、見覚えのある上級生がピンク色のセーターを着てビルのヴェランダで電話をしている。「なんとかオレに気づかねぇかな」と凝視してみるが、そのスポーツ刈りのオジサンと当方との距離は100メートルほどもあり、灰色の中のピンクはすぐに視界から去った。
折りたたんでザックに入れた傘を取り出すのが面倒で、新橋から銀座8丁目までは小雨の中を濡れながら歩く。
きのうの「嘉門」よりも「卯佐」よりも更に小さな店に入って最初に出てきたのは飛竜頭だった。「こういうのは、オレはあんまり好きじゃねぇんだ」と考えながら口へ入れれば、これが、からだが震えるほどに美味い。
そして2時間ほども飲み食いをし、ふたたび新橋まで歩く。
メシ屋や飲み屋は、小さければ小さいほど好きだ。神保町の「兵六」はその代表である。先月25日、水道橋から駿河台崖下の「松翁」を経て白山通りを渡り、何も意識はしていない、そこいら辺の路地を入ったら古くて小さな建物に白いのれんが出ていて「いいじゃん、ここ」と惹かれるものがあった。
その、真夏のように蒸し暑かった先月25日から10日を経たのみの今日は長袖のシャツを着ても肌寒い。そういう夕刻に見覚えのある白いのれんをくぐる。中には鉤の手のカウンターがあり、椅子の数は9つだった。
板前にうながされるまま磨き込まれた白木のカウンターに着き、鯛と鳥貝の握り鮨という予想外の突き出しから今夜の飲酒を始める。小振りの鮨は大いに美味い。
それはさておき今日の昼飯は神保町の「嘉門」で食べた。ここもカウンター8席にテーブル5席の小さな店で、味も雰囲気も抜群である。
「お祭りとはとどのつまり飲み食いであり、会計の仕事とはすなわち自治会長に恥をかかせないこと」と、平成18年の当番町会計を引き受けたとき、前任のハガカツオさんに言われた。
日光市今市納涼祭実行委員会の主催により今月18日に「今市屋台祭り」が催される。春日町1丁目の会計係として僕はなしくずし的にこのお祭りの会計係も引き受けることとなり、本日、お祭りに関わる食事のスケデュール表と前渡し金を、大膳を担うタケダショージさんとシバザキトシカズさんにそれぞれ届ける。
屋台の組み立ては11日に行われる。江戸期に作られた屋台は巨大な組み木細工のようなもので、朝から作業を始めても完成は夕刻になる。宵祭りは17日で、翌日の18日が本祭り。屋台の片付けは24日に予定されていて、その作業も午後までかかる。そして同日の夜は反省会。
今年の紅葉は昨年よりも1週間は早いから、当方の仕事も忙しくなる。幸いにして我が町内にはお祭りへの協力を惜しまない人が多くいるから、まぁ、何とかなるだろう。
事務係カワタユキさんのために"ThinkPad X200s"を発注した。9月21日のことだ。出荷の案内は25日にメイルで受け取った。そして現物の届いたのは30日だった。「随分と時間がかかったな」と、その外箱を見ると、上海から飛行機に乗せられた旨のシールが貼ってあったから「そうか、"lenovo"は中国の会社だもんな」と得心をする。
僕の初めてのウィンドウズマシンは"ThinkPad 530"で、これを購入したのは1995年の秋だった。以来14年のあいだコンピュータは"ThinkPad"しか所有していない。
ここ数年いわゆるプロ、プロとはこの場合コンピュータに関係する仕事をしている人のことだが、そういういう人たちのカバンには"Let's note"の入っていることが多いように見受けられる。プロが選ぶからにはそれなりの理由があるのだろう。
というわけで僕も次のコンピュータは"Let's note"にするかも知れない。トラックポイントを備えない点は心配だが。
スジンダさんという未知の人からいただいたグリーンカレーが忘れがたく、この日記を検索すると、それは2007年6月28日のところに載っていた。スジンダという名にはヒンドゥーの香りがする。しかしあの茄子と筍と鶏肉のカレーは明らかにタイのものだ。とにかく今でも「あのカレー、月に1回くれぇは食いてぇよなぁ」と思う。
ところで「ワタシ、今度こそ痩せるわ」とか「いや、さすがに今回は医者にも怒られて、いよいよ本気で痩せようと思ってるんですよ」などと言う人がいる。
そういう人たちは大抵、間食を好む。喫茶店に入ると普通のコーヒーではなくホイップクリームを浮かべたようなものを頼む、おまけにシナモンロールなども頼む。酒を飲んだ後にはラーメンを食べる、ゆっくりは食べずに凄い速さで食べる。
「歩かないと痩せないんでゴルフ、始めたんですよ」などと言うくせに日本橋から新橋のような、地下鉄で繋がっている駅間の移動にタクシーを使ったりする。
「痩せるんだ」が口癖の、そういう人たちを僕は腹の中で「ヤセンダさん」と呼んでいる。「大丈夫だ、心配するな、君は決して痩せねぇから」と、ヤセンダさんには言って上げたい。
昼飯を食べながらテレビのスイッチを入れて「あれ、ミヤジマ君じゃねぇか?」と画面を凝視すると、やはりその通りだった。自由学園で5歳年長のミヤジマノゾム君が代表を務める北海道の「新得共働学舎」をNHKが取材している。
画面にはやがて、この農場で作られるチーズのうち僕の最も好きなシントコが現れた。シントコをグジャグジャと噛み、唾液と混ぜてドロドロの液体を作ると、口から鼻へ牛のゲロの匂いが抜ける。そして同じシントコについて長男は「むしろ牛のクソの匂いがする」と言う。
ゲロだのクソだのと勝手なことを並べているが、これは我々における最上級の褒め言葉である。
「面白いだけで、ためにならない本」と「つまらないけれど買ってしまったから仕方なく最後まで読んで、しかし我慢しながら読んだから何にもならなかった本」と「面白くてためになる本」の3種の本が世の中にはある。
「みんな、神様をつれてやってきた」 宮嶋望著 地湧社 \1,995
は世に少ない「面白くてためになる本」のひとつだから、興味ある人には是非読んでいただきたい。