昨夜は早くに就寝をし、充分に眠って4時30分に目を覚ます。外からはときおり、道路の水を切って走るクルマの音が聞こえてくる。「雨だろうか」と考えつつ事務室に降りる。明るくなった頃を見計らって外へ出ると、雨は上がっていた。
きのう夕刻の試算、というほど大げさなものでもない、店舗の冷蔵ショーケースを一瞥しただけで「らっきょうのたまり漬は、明朝の開店15分後に売り切れる」ということが分かっていた。
それを受けて今朝は定時の1時間以上前から包装係のアオキマチコさん、アキザワアツシ君、販売係のハセガワタツヤ君、シバタミツエさんが続々と出社をする。そして結局のところ、この4人の使命感により「らっきょうのたまり漬」の売り切れは回避された。
閉店後にミーティングを持ち、今月の売上金額の、対前年比の報告などをする。明日から11月。残業の機会の増える気配が、社内各部には濃厚になった。
ウチは忙しくても商品の作り置きはしない。特に新鮮さの求められる「らっきょうのたまり漬」に至っては「その日、店に出す品は、その日の朝、仕込み桶から上げたもの」ということを心がけている。よって夕刻になると担当の社員が僕のところへ来て、明日はどれほど「らっきょうのたまり漬」を用意するかの相談をする。
きのうの販売成績は昨年のおなじ土曜日にくらべて随分と良かった。そしてその理由を「勝ちに不思議の勝ちあり」として、僕はくわしく調べることもしなかった。 また「日曜日は雨」の予報が出ていたから「らっきょうのたまり漬」の、当日の販売数量についても、特に強気の読みはしなかった。
日が改まって本日の日曜日。雨の予報は外れて朝から薄日が差し、気温も上がり始めた。お客様の出足は悪くない。その結果「らっきょうは夕刻に売り切れ」のビープ音が、早くも午前中から社員全員の胸に鳴り響く。
よって地方発送分として取り分けたらっきょうを販売用に振り向けたり、あるいは店舗ショーケースの陳列を変えたりして、何とか売り切れを回避しようと、ただでさえ忙しい中を動き回る。
閉店の18時、店舗に残った「らっきょうのたまり漬」は、目で追って数えられるほどの状態だったが、売り切れはすんでのところで免れた。そして「明日は朝から大変だ」と認識し、20時30分に就寝する。
深夜というには遅く、早暁というにはいまだ早い午前2時15分、何度か仕事を頼んだことのある写真スタジオに宛ててメイルを送る。その、仕事の依頼に対する返信が午前6時42分に届く。午前7時58分、こまごまとした用度品を注文しているお店に宛ててメイルを送る。それに対する返信が、15分後の8時13分に届く。勤勉な人との取り引きは気持ちが良い。
今朝、7時35分に事務室を開けると、紅葉見物のため早めに山へ上がろうとされているのだろう、店舗駐車場には既にしてお客様の姿が見えた。よって声をおかけし、定時の40分前から店を開けてしまう。
快晴に恵まれたせいか、お客様の数が多い。駐車場には見る間に来店のクルマが増え、今日の商売が普段のそれとはまったく異なるものになることを予感させる。
夕刻になるとさすがに疲れを覚え、強い酒が飲みたくなる。強い酒は実際には1杯だけにとどめ、あとはゆるゆると、そう強くない酒を飲む。
「ほんと、可愛いねー」と、店舗の冷蔵ショーケースに並べられた今秋の新商品4点のレッテルを見て家内が言った。「普段から遊んでねぇと、こういうデザインは思いつかねぇよ」と僕は答えた。
「服部珈琲店」のガラス越しに池袋の雑踏を眺めていると、8月はじめの日差しを"BRIKO"のサングラスで避けつつデザイナーのシラタジュンヤさんの、交差点を渡ってくる姿が見えた。冷たいコーヒーを飲みながらシラタさんと話すうち僕は、その日、電車の中吊り広告で見た、ある画家の展覧会のことを思い出していた。
その画家の絵は僕が学生のころ絨毯爆撃のように読んだ作家の本の表紙にも使われていた。そしてそのころまたその画家の絵について、自動車構造画家イノモトヨシヒロさんと交わした会話も記憶の底から浮かび上がってきた。
軽い騒音の中で人と話をしながらも、あれこれのことが脳を横切っては消えていく。アマゾン川の支流に浮かべられた舟の、つぎはぎだらけの帆。カトマンドゥの、軒の低いホットミルク屋の壁。
新商品4点のすべては様々な下準備を経て今朝から店舗に並べられた。後は「果報は寝て待て」か。しかし僕はどこかに逃げない限り、安眠をすることはできないのだ。
「16歳くらい?」と軽い調子で訊いたら「34歳」と答えてそのオネーサンは白い歯を見せた。「私、色、黒いでしょ、イサーンの出身」と、自分の二の腕を僕の腕に並べてオネーサンはまた笑った。女の人の年齢当てクイズではいつも大幅に外してなじられたり周囲を笑わせたりする僕だが、オネーサンの田舎については「言われなくても分かってるよ」と腹の中で答えた。
先月の30日に晩飯を食べた、そのオネーサンの働くチャオプラヤ川沿いの料理屋は現在、テーブルまで水没しているという。同級生のメイリングリストに本日、コモトリケー君の上げたメイルで知ったことだ。
「柳橋の花柳界はなぜ寂れたんでしょうね」と、橋のたもとの優れた佃煮屋「小松屋」のアキモトオサムさんに訊いたら「堤防のせいです」と、予想外の答えが戻った。隅田川の護岸工事により高い堤防が築かれ、料理屋の座敷から川の見渡せなくなったことがその理由だという。
30日の晩は、バンコクのトンブリ地区から舟に乗った。船頭は親切にも、運行予定にはない、僕の泊まるホテルの桟橋に舟を着けてくれた。チャオプラヤ川の堤防は薄く低く、よって川沿いの景色は風情に富む。洪水と大潮による今回の首都浸水は、良い意味での管理のぬるさが徒になったところもあるだろう。
「私が子供に見えるのは、私の頭がパーだから」とオネーサンは屈託がなかった。そして僕は「いや、可愛いからだ、きっと」と、慌てて言い訳をした。あのオネーサンは今、自宅で待機中だろうか。自宅も浸水中、かも知れない。
会合にはメシがつきものだ。会合に出れば会合のメシを食わなくてはならない。僕が会合を嫌う理由のひとつはそこにある。会合が嫌いとはいえすべての会合が嫌いなわけではない。いずれにしても自分勝手が一番、楽である。
その席で自分勝手にふるまうわけではないが、社員とメシを食うことは好きだ。そして夕刻より事務室の大テーブルにテーブルクロスと言っては語弊がある、ビニール製の大きなシートを敷いてメシの場所を作る。
2種のサラダ、お米の料理、シチュー、それにカボチャのお菓子はきのうのうちに家内が仕込んであった。それだけでは寂しいのでピッツァ4種を出前で頼んだ。他に包装係のアオキマチコさんが自製の餃子を差し入れてくれた。そうして繁忙期を前にしての食事会を18時30分より行う。
食事会は2時間ほどで完了した。食器は社員たちが手分けして洗い、社員用通路の棚にしまった。会社に代行車を呼んで帰宅する者がいる。まるで「会社の飲み屋化計画」である。
「まだ飲んでいても良いですか」という社員がいる。「イヤだ」と答えるわけにもいかない。彼らに付き合っているうち23時がちかくなる。そしてようやく自宅へ戻り、0時すぎに就寝する。
どれほど前までのことだったか、浅草の汚い地下道にとんかつ屋があって、ここのベーコンエッグ朝食が好きだった。甘木庵から家へ帰るには、湯島から千代田線で北千住へ出るのがもっとも合理的な経路だ。しかし僕はこのとんかつ屋の朝定食を食べるため、いつも数百メートルの回り道をしていた。
ここ数年は「北千住にも小諸蕎麦ができねぇかなぁ」と考えていた。その「小諸蕎麦」が今年、北千住駅の東武線上りプラットフォームにできた。よって今朝はそこでカレー丼を食べる。
下り特急スペーシアの始発までは時間の余裕があったので、そのプラットフォームから階上のコンコースに上がると、いつの間にか随分と飲食店が充実している。「小諸蕎麦」は満員の盛況だったが、こちらの方は朝の人の流れが少ないのか、どの店も空いている。そして「次からは、朝帰りのメシはここで食おう」と決める。
終業後、明日の食事会に備えて三菱デリカで食料の買い出しに行く。帰宅すると20時がちかい。夕食は簡単に済ませ、チーズを舐めながら濃い赤ワインを飲む。
「西の会、なに着てったらいいかな」と訊くと「そりゃぁ、アロハだ」と即座に家内は答えた。「西の会」の中心にいる西順先生が大のポリネシア好き、ということを受けてのものだろう。しかしポリネシアならアロハではなく腰巻きに上半身裸が正式ではなかったか。そしてその格好で東京を歩けば、否、そこへ達するまでに捕縛されてしまうこと間違いない。
10月といえば思い出すのは2008年の雨の晩のことで、そのとき僕はまるで刺し子のように分厚い葛城地のコートに帽子を被っていた。いくら地球温暖化とはいえ10月の末にアロハなど、普通は考えられない。しかしきのうの日中は妙に暖かかった。この時期の服えらびは難しい。
結局のところ保温性の高いTシャツの上に黒いアロハ着用し、夕刻の乃木坂に出ていく。
1980年代、赤坂を背に乃木坂を左に巻いていくと、日本一面積の小さかろうと思われるバーがあった。そんなことを思い出しつつ道をたどると、見覚えのある三角形のビルはいまだ地上げされずにあり、バーは手芸品のギャラリーになっていた。坂を登り切ったあたりでみずからの乗ったタクシーが後続車の追突を受け、前歯を全損したのがオカマの…まぁいいだろう。
「抜けられます」式の細い道かとばかり思って足を踏み入れたら行き止まりだったからまた外苑東通りに引き返したり、更に別の路地に潜り込んだりしながら「西の会」の会場「薬樹」に達する。
1990年代まで「西の会」は飯田橋にあったタキン果実店の階上で開かれていた。そしてその存在は学術的にして先鋭的。参加者たちは時に、Steven-Levyの"Hackers"に紹介される人々と同じようなことをした。久しぶりに再開された今日の会は、まぁ、前回からはよほど間の開いたこともあって、時間のほとんどは出席者の自己紹介に費やされた。
帰りはナカジママヒマヒ氏、ナラリョーちゃんとの3人で銀座線の青山一丁目まで歩く。僕はそのままおとなしく上野広小路まで移動し、甘木庵まで歩く。
1冊の本を読んでも後々まで記憶に残るのは、僕の場合1行か、せいぜい1節くらいのものである。
高等学校のとき授業で「福翁自伝」を読んだ。自由学園で福沢諭吉とくれば担当の教師はモリカオル先生だったに違いない。この本の中で僕が唯一覚えているのは、福沢が若き日に学んだ適塾だったか、あるいは自らが創立した慶應義塾だったか、とにかくそのどちらかにおいて塾頭が、塾生による施設への落書きをひどく嫌った、という部分だ。
先日、北千住の飲み屋で丸谷才一の「ミイラの研究」という小文の中に面白い部分を見つけた。
丸谷は諭吉について「たいへんな酒好きで、子供のころから酒を飲んだといふ」と記し、更に「月代を母親が剃ってくれるとき、痛くていやだけれど、あとで御褒美に酒を飲ませてくれるのが楽しみで我慢していたといふ」と、これは「福翁自伝」に書いてあることと、続けている。
いくら小説家とはいえ出典を明らかにしながらウソをつくことはないだろう。そしてそんな下りが「福翁自伝」にあったとすれば、高校生としてはこのあたりを最も記憶しそうなものだが僕はまったく覚えていない。
そのころ自由学園男子部35回生は「二宮翁夜話」も読んだ。こちらで僕の頭に残っているのは「たとえ明日の朝に食べるものが無かったとしても、今夜つかった食器は今夜のうちに洗い置くべし」という、やはり一節のみである。
自由学園男子部高等科1年つまり次男のクラスの担任ナカガワリュー先生の要請を受け、午前11時35分より、同クラスにて1単位の話をする。通常であれば「テーマは…」と、主題を宣言するなり黒板に大書するなりするのだろうが、それもなにか大上段に構えるようで自分の趣味ではない。
そして一昨日よりデータ化した数十年前の画像、また現在の画像などをスクリーンに映しつつ、この数日のあいだに考え、まとめた話をする。生徒諸君は興味を持って聴いてくれただろうか、先生の期待には応えることができただろうか。
父母の作る昼食を生徒たちとおなじテーブルでいただき、また今日の僕の話に対する生徒たちの感想文を先生から受け取って学園を去る。
生徒たちと真面目な質疑応答を繰り返したその日に何か粗相があっては格好がつかない。よって寄り道はせず、17時前に帰社する。
きのうはやく就寝したのは、翌朝はやく起きたかったからだ。その目論見どおり今朝は3時台に目を覚ます。そして4時に事務室へ降りる。
きのうの事務室のサーバの中身を更新した。今朝はそこから必要な情報を取りだし、ある一定の条件に従って整理をする。この作業は非常な精密さを要求する。やたらと電話が鳴ったり不意の来客があったり社内のあちらこちらから呼ばれる日中には、とてもではないが危なくてできない。
根を詰めた仕事は90分ほどで区切りがついた。そして朝飯まではウェブ上を徘徊して過ごす。
夕刻に乗った上り特急スペーシアの、窓に雨滴が流れ始める。本日は不意の出費があって銀座に出る気勢は削がれた。北千住にて、雨に濡れながら明るい路地に駆け込んでいく。
人生いたるところに教師あり。加賀屋北千住店は僕の商売の先生だ。先生とはいえ人間ではないから言葉で何かを教えてくれるわけではない。僕は「シモ1番」と呼ばれるカウンターの端に座り、店内にあって暖かい右足と、外気にさらされ、だからすこし寒い左足に戸惑いながらチューハイを飲む。
今夜は「ナカ」を3杯しか飲めなかった。酒に弱くなったというよりも、腹が満ちてしまったのだ。地下鉄千代田線で湯島まで。そして切り通し坂を上がっていくと、しかし腹には幾分の余裕の生まれた気がした。よって「神勢。」でもっとも具の少ないラーメンを食べ、甘木庵に入る。
町内の育成会長をしているときには、夏のリクリエイションが済むとホッとした。当時のリクリエイションは、ボーリング大会と東京マリンへの遠征をひと夏ごとに繰り返していた。ボーリング大会の参加費で現預金をため込み、翌夏はそのお金で大型バスを貸し切りにしたのだ。
町内の当番町会計を引き受けたときには、秋の小祭が済むと、以降はそれほどすることがなくなった。
家の中にあれこれある行事の中では、恵比須講に向かうころがもっとも気分はせわしない。店舗は紅葉見物の行楽客で賑わい、そして年末ギフトの繁忙が目の前に迫っている。
夜、床の間に恵比寿大黒の木像を安置し、あるいは軸を掛け、お膳を用意して灯明を上げる。恵比須講は、農家にあっては五穀豊穣を、漁家にあっては大漁を、そして商家にあっては商売繁盛を祈るお祭りである。
床の間にはお札や幣束と共に、より多くの粗利総額を稼いでくれることを期待しつつコンピュータも飾る。そして、それが正しいことかどうかは知らないが、恵比寿大黒のお膳を下げ、それを当方の夕食としていただく。それにしても「梅乃宿酒造」の「ゆず」は美味い。日本酒のツーには嗤われるかも知れないけれど。
町内会の役員は親睦旅行のため、旅費の積み立てをしている。今春は気仙沼を訪ねることとして旅行会社に申し込みまでしていたが、そんなときに3月11日の不幸な大地震が発生してしまった。気仙沼は大被害を受け、当方の旅行気分は、お見舞いやお悔やみの気持ちに変わった。
しかしながら積み立てはその後も粛々と続き、気づいてみれば気仙沼はおろか済州島はおろかアモイはおろかケソンシティはおろかホノルルはおろかシンガポールはおろか「デンパサールあたりでも行けるんじゃねぇか」というくらいの金額が積み上がってしまった。
その現金は町内会計係の僕が預かっていたが流石に不安になり、ここで一旦、銀行に預けることを決める。
積み立てのメンバーの中には日本のバブル期に業界の旅行でマニラを訪ね、帰りの機内でステテコ姿でくつろいでいたら「お客様のような方は初めてでいらっしゃいます」と、客室乗務員がにこやかに接してくれたと、思い出話をしてくれる人もいる。
そして「そういう人と、いちど海外旅行がしてみてぇなぁ、いや、オレはひとりでどこかに逃げちゃうけどさ」と空想をする。
「旅費が貯まるまでやる」と今夏、有楽町の阪急だか西武の上の方で個展を開いたのが今井アレクサンドルだ。「旅費のためという悲壮な目的にしては場所が良すぎるじゃねぇか」と感じながら、僕は繁忙のためその会には顔を出せなかった。
今井の絵は、個展を報せるハガキなどにそれが印刷してあるとひどく良く見え、ついフラフラと出かけて、これまたフラフラと買ってしまうことになる。そして僕は少ない持ち金を更に減らすのだ。
本日、その今井の、パリから投函したハガキが届く。消印はいつもと変わらない"GUI MOQUET"のものだ。そこには「また会いましょう」という見慣れた文字もある。そして「パリはもう寒かろうなぁ」と考える。まぁ今井なら、ソーセージと豆のたんまり入ったカスレでも食べて軽々と冬を越すだろう。
今月も押し迫るころになったら、ウチもカスレをたんまりと鍋に仕込みたい。それには白ワインが必要だ。当方のワイン蔵には現在、適当な白ワインが皆無である。そろそろひと冬分を買いためようと思う。
それまでの"PC 9801"を"RICOH MY TOOL"に替えた1992年が僕にとってのPC元年で、これを境に僕は手帳を使わなくなっていく。昨年の暮だっただろうか、十数年ぶりに手帳を買ってみた。それから10ヶ月。そこにはやはり、ほとんど文字を書き入れていない。
事務机の左いちばん上の引き出しを開け、その手帳を眺めて「捨ててしまおうか」と、2011年をいまだ2ヶ月半ほど残して考える。大晦日まで置いても多分、それに手を触れることはない。
コンピュータを使うようになったらなぜ、それと入れ替わるように手帳を必要としなくなったか。紙の手帳は検索と並べ替えが効かない。現在の月とその前月と次月とを俯瞰することができない。理由はそのあたりにあるように思う。
書店にもインターネット上にも来年の手帳の多く並べられる季節が来た。しかし僕は、来年の手帳は買わないだろう。再来年の手帳も買わないと予想する。「一生買わない」とまでは言わないが。
日光市今市地区の彫刻屋台10基が日光街道に繰り出しお囃子の競演、通称「ぶっつけ」を繰り広げる今市屋台祭りについては、数週間前から町内で会合を持ち、準備を進めてきた。
しかし紅葉シーズン最初の連休10月9日が屋台の組み立て、そして本日がお祭りの当日とあっては、僕は業務繁忙にて労働力を提供できない。江戸後期の屋台を人員ごと供出する春日町1丁目において僕は、会計係としての金銭出納および昼食の漬物を差し入れるほどの協力のみさせていただく。そして今市屋台まつりは日光街道にて、13時から19時まで続けられた。
勤務先の辞令により10月24日より中国へ赴任する長男が帰宅し、夜はオフクロを含めた家族4人で夕食を摂りに出る。長男は、年末に帰れなければ来夏の帰国になるという。
夜、日本経済新聞の本日朝刊32面にある、川本三郎の文章を読む。僕は川本三郎の本を、荷風の「日和下駄」を読む塩梅で読む。いま生きている書き手による本のうち、僕が飲み屋で読んで最も面白く感じるのは丸谷才一と川本三郎のそれかも知れない。
"Take 5"という曲が、どうも好きでない。だからポール・デスモンドについてもさほどの感想は持っていなかった。しかし深更に及んでジム・ホールの"CONCIERTO"1曲目を聴きながらいきなりアルトサックスの出てきたときには「誰、これ、上手い」と感心した。"CONCIERTO"は、サイゴンが陥落する2週間前の録音である。
開店時、店の犬走りの柱にふと目を遣ると、キリギリスが脚を踏ん張っている。「キリギリスってのは、なかなか美しい昆虫だよね」と、それを見ながら店内に戻る。
午後にまた犬走りを通ると、キリギリスは今朝と同じ柱の下に元気なくいた。よってそのキリギリスを掌にのせて、坪庭の、蟻の多いあたりに逃がす。キリギリスが死ぬと、その死骸を蟻は食べるだろうか。
アリは夏の暑い日にも、冬に備えて、せっせと仕事をしました。その横でキリギリスは、歌を歌って遊んでいました。やがて厳しい冬が来ました。アリは夏に蓄えたたくさんのごちそうを食べて、楽しく暮らしていました。キリギリスはそのころ、ハワイで遊んでいました。
これは、いまだ若かったころの三遊亭楽太郎による枕のひとつである。キリギリスはせいぜい持ちこたえて、ホノルル行きの飛行機にでも潜り込んで欲しい。
次男のふたつ先輩の3人組が「スイーツ甲子園」という大会に挑み、決勝まで勝ち進んだことは、次男より前々から聞いていた。その決勝戦が今夜のテレビで放映されるとのことにて、19時よりチャンネル、というか、今はなんと言えば良いのか、とにかくコントローラーでBSフジのボタンを押す。
自由学園男子部高等科3年生の3人は、ボンブ型のケーキを登るチョコレートの人型つくりに手間取り、惜しくも時間切れとなった。しかしケーキのデザインや色は、彼らのものが一番がすっきりして垢抜けていたと感じた。僕のひいき目によるものだろうか。
今朝の口開けのお客様は女性の二人組で、買い物が済むと「小田代ヶ原って、どこにあるんですか」とお訊きになった。よってその場所をお教えし「でも自家用車では行けませんよ」と加えた。テレビで小田代ヶ原の紅葉風景でも流れ、それをご覧になって「あら、綺麗」くらいの調子で出てこられたのかも知れない。
下調べの好きな僕からすれば、とても信じることのできない行き当たりばったりの行為だが、このような方は、実は非常に多い。
それについて「地元の人間に訊くのが確実だ、先ず現地に行ってみるべし」との考えによるものではないか、と想像した人がいた。「現地の情報は、当該の地域に近づくほど確実さを増す」という考え方は確かにある。しかし「情報信ずべし、しかもまた信ずべからず」である。
「このあたりに美味しいお蕎麦屋さん、ありますか」と訊ねた相手の好みが自分のそれとかけ離れていたらどうするか。訊ねた相手が「あそこんちの蕎麦は美味めぇけどよ、オヤジはこの前の選挙で誰それを推したんだぜ、そんなヤツの店になんて行けるかよー」というような人だったらどうするか。地元民の情報だって、アテにはならないのだ。
「情報」というものの性質を知悉していれば、出先でどのようなことに遭遇をしても、笑って済ませられるかも知れない。そしてその情報が自分で調べたものであれば、たとえそれが実際とは乖離していても、そうは腹の立たないものである。
どこかの研修会場で、畳の上に寝場所を探している。参加者たちが各々勝手に延べた布団は畳の縁に平行には敷かれていず、だから僕は自分の寝場所を苦労して確保した。
そのような、決して安楽ではない環境でようやく睡眠に就いた途端、僕の胸のあたりを掛け布団越しに激しく叩くヤツがいる。忌ま忌ましさを感じながら薄く目を開けると、叩いている相手はオバケだった。オバケは昔の日本画に見られるような人型のものではなく寸胴の四角柱で、色は蛍光を帯びた黄緑、そして半透明のため向こうが透けて見える。
このあたりまでくると、僕の見ている物体は夢の中のものから「あさきゆめみし」の状態に現れた幻のように、いくらか明確さを帯びてきた。
「オバケ、出て行け」と叫ぼうとするが、それは声になったり、あるいはならなかったりして途切れがちである。布団を撥ねのけようにも、金縛りに遭った状態でからだは動かない。そのうち意識ははっきり覚醒し、するといつのまにか蛍光黄緑のオバケも姿を消した。
起きて時計を見ると午前2時をすこし回ったところだった。そして「まさか今の時間に誰か、オレの知る人が死んで、オレに会いに来たんじゃねぇだろうな」というようなことを考える。親しいヤツなら、僕を無理に眠りから引きはがすようなことはしないとは思うが。
「こんなに散らかってちゃ、ロクな仕事はできねぇわな」と考えながら数ヶ月。「片付けよう」と思い立つこと連続で百数十日にも及べば、もはや「思い立つ」とは表現できないだろう。そして今朝よりようやく、ここしばらくの宿願を果たすべく、事務机を整理し始める。
「掃除とはゴミの移動だ」と言った人は頭が良い。しかしまぁ、そういう難しいことはさておいて、机の上を乱していたものは一体何かと、いちいち確認をしながら処分していく。
「そのうち返事を書こう」と考えつついまだ返信のできていないハガキ、それとは逆に、既に返信済みの顧客からの手紙、見積もりを依頼しながら着工には至らなかった見積書、とうのむかしに"done"してしまった"to do"メモ、いまだコンピュータにその内容を入力していない名刺、現在の円ドルレートを2年前から的中させていたというオジサンの2年前当時のリポート。
協力することのできなかった取材の依頼書、生返事をするうち送りつけられた宣伝広告への申込書、定期預金の満期が近づいていることを報せるハガキ、工業用機械の見本市への招待状、東南アジアの古陶磁の内覧会への誘い、安土桃山の反故裏張りを集めた美術展の小ポスター等々。
それらのほとんどを捨て、捨てられないものは別の場所に保管し、すると机の上には電話、コンピュータ、計算機、卓上カレンダーの4点が残った。そして僕はこの状態を死守しなくてはならない、何が何でも。
夜以外のときに"RICOH CX4"を使って居間でメシの画像を撮ると、青色が強く出る。それを補正するソフトを自分で壊し、だからこのところ数日の、朝や昼の飯の画像は妙な具合になっている。そろそろ復旧させたいが、そのめどは立っていない。
きのうからの不調は治まらず、からだがだるい。よって郵便局、法務局、銀行などを回りながらセキネ耳鼻科へ行く。痛みはそう感じないものの、先生によれば喉が赤いという。ハセガワ薬局を経由して仕事に復帰する。
夕刻に店の前にいると、鰻の「魚登久」から蒲焼きの香りが飛んできて、鰻丼を食べたい気分になる。しかし現在は舌の調子も落ちているから、いま食べに行ってはもったいない。
夜は少量のあれこれを摂り、焼酎だけは普通に飲む。そして入浴は避けて早めに就寝する。
きのう風呂上がりに"KIRIN FREE"の350cc缶2本を飲み、いざ布団に入ろうとすると寒い。入浴し直そうかとも考えたが、それも面倒なので止めた。そうしたところ今朝から何やら風邪を引いたようなだるさがからだにつきまとっている。
丸々1日をベッドに伏せていたことが、先月はあったような気がする。今月も調子を崩せば2ヶ月連続の不養生となり、面目のないこと甚だしい。
先月の不具合は、トレッキングから帰って後に繁忙の続いたこともあっただろう。そして今月の不具合は、やはりタイから帰って以降の繁忙、この繁忙は9月のそれにくらべれば大したものでもないが、それでもあちらこちらへの行ったり来たりが体力を減じせしめたのかも知れない。
体調が良くないとはいえ時間は待ってくれない。夕刻には複数の社員と、この年末のギフトについて注意すべき点や、これから出す新商品について、その試作品を手に取りながら話し合う。
「具合の悪いときこそ、断酒の好機なんだよな」と考えつつ夜は焼酎のお湯割りを飲む。
タイにいるときは日本国内から発信される"twitter"などを目にして、また日本に戻ってからはテレビや新聞に触れて「あれだけ大規模な洪水なのに、日本じゃ報道なしかよ」と、日本のマスコミの、タイへの冷たさを感じていた。
そうしたところ僕の知る限り今日になってようやく、テレビの一般ニュースがタイの洪水を取り上げ始めた。タイ北部から中部にかけての大水は、今や首都バンコクにひたひたと押し寄せている。
チャオプラヤ川沿いのお寺やホテルは堤防に守られているが、それでも水位が堤防を越えれば、良くてもその1階部分のほとんどは浸水に見舞われるだろう。
9月30日の夜、同級生コモトリ君の住むコンドミニアムの住民専用舟"Baan Chao Praya"号に乗り、その経路にはない、泊まっていたホテルの桟橋に着けてもらった。桟橋の数メートル奥にはメインダイニング、そしてその先にはロビーがある。
シェラトンだけではない、川沿いには数々のホテルが並び、また視線を転ずれば、京都の河床に壁と屋根を急ごしらえした程度の安宿まで散見される。「首都攻防」と書けば何やら内戦めくが、これは災害と人間との戦争である。
聞くところによればスクンビットのsoi39あたりにも警戒警報が出ているらしい。スクンビットが駄目なら、更に危ないところはいくらでもある。インラック政権の手腕やいかに。それよりも先ず、庶民の生活やいかに、だ。タイ人の、知った顔が浮かんでは消える。
午前5時に目が覚めたので「これは好都合」と、すぐに起床する。きのうの日記のほとんどを書き、食事を済ませる。そして7時にオフクロと甘木庵を出る。自由学園には8時前に着いた。創立90周年記念体操会は8時30分に開場され、大芝生の一角に小さなシートを敷く。
体操会の開始まで1時間30分。しばらくは、僕と同じように早めに来場した知った顔と、久々に会うわけではないから久闊を叙するわけではない、様々な話しをする。家で弁当を作り、東武日光線の始発に乗った家内は意外や早く、開会より前に大芝生に降りてきた。
僕の記憶にある限り、体操会はこの9年間で3度も雨に祟られている。これはなかなか高い確率である。しかし今日は絵に描いたような秋晴れに恵まれた。よって演技競走の逐一を、大樹のつくる日陰に落ち着いて観る。
退場行進の始まる頃合いを見計らって芝生を離れ、テニスコートの脇を北へ歩く。そしてウィンドオーケストラの間近に見えるところに立つ。秋の日は早くも図書館の向こうに低くなっている。最後の生徒が大芝生から去ると、校歌「掲げよ旗を」の演奏も止む。そうすると僕は何か、今年という年が終わってしまったような寂しさを覚えるのはいつものことだ。
北千住17:12発の下り特急スペーシアに乗って19時前に帰宅する。
「予想外に」と言うべきか「予想通りに」と言うべきか、今日の仕事は早々に終わった。そして埼京線を池袋で降りる。
百貨店の1階に、通路に沿ってセレクトショップがある。通路よりはそのショップの中を通り抜けた方が楽しかろうと、雑貨の多く並べられたり提げられたりしている店内を歩いていく。
と、ふと視線を落としたところに、竹製の鞠のように丸められた赤いバンダナがあった。説明を求めると店員は、それを広げてスカーフであることを示しながら「お値段も、お求めになりやすい3,600円になっています」と言った。
生憎と僕はタイから帰国して1週間を経ていない。バスタオルよりも小さな木綿の布が3,600円と聞いて、それが求めやすい価格とは到底、判断できない。そして店員には礼を述べ、出口に向かう。
ジョブズの死とその功績を、ビックカメラの売り場のテレビが伝えている。それを観ながら先日の、家内の伯母の四十九日に、お坊さんに訊いておけば良かったけれども訊くことを忘れてしまったことを思い出す。
ビックカメラの地下1階に降りて、ズミクロンにも対応できる"RICOH GXR"のアダプターを検分する。そしてそれをいじくり回しているうち、近くにあったパンフレットなどの展示品を誤って床に落としてしまう。すると数人の店員が口々に「申し訳ございません」と言いながら散乱したものをかき集め、ふたたびショーケースに戻した。謝るべきは僕の方である。
"GXR"の、レンズアダプターを本体から外す方法を、通りかかった店員を呼び止めて質すと、その男の人は「申し訳ございません」と前置きをしてから説明を始めた。
詫びる必要のないときにもとりあえずは詫びておく、それは日本人の癖でもあるし、商売に携わる者には、あるいはデフレーションがその傾向を助長したかも知れない。
夕闇の迫るころ、かつては温泉のあった裏道にみずからを溶け込ませていく。そして「金宮」の焼酎300ccを消化し、甘木庵に戻る。
きのうの都心の気温は今秋のもっとも低いものだったと、朝のテレビのニュースが伝えている。画面が変わるとそれは聖橋ちかくのおでん屋「こなから」で、この寒さに伴い予約の電話が増えているという。しかしここは夏でも盛況の店ではなかったか。
甘木庵から神保町までは、先ずサッカー通りに入るのがのが最短への初手である。しかしタクシーに乗る場合には、本郷消防署を背にして消防署前通りを往く必要がある。そして今朝はタクシー使うこととし、後者の道を選んだ。
東京大学の龍岡門から春日通りにかけては、タクシーはいくらでも走っている。ところが消防署前通りに入ったとたん、その数は極端に減る。それは知っているけれど、すこし歩いておけば、神保町に至って微妙なところでメーターの上がることがない、そういうこすっからいことを考えつつ歩くうち本郷通りに出る。
そしてここまで来れば外堀通りも見え、タクシーを捕まえる気は失せる。きのうとは打って変わって日が差し、朝から暖かい。お茶の水橋からデジタルハリウッド、三楽病院、1階にお好み焼き屋のある不思議なマンション「コトー駿河台」、そして山の上ホテルの裏を経て錦華公園脇の道を下る。
"Computer Lib"にて、「おばあちゃんのふわふわ大根」と「おばあちゃんのホロホロふりかけ」の2種の新商品を、自社ショップとYahoo!ショッピングに設置する。設置するとはいっても無論、僕が作業をするわけではない。
昼は"Computer Lib"の若い人たちのすすめに従って「神保町食肉センター」へ行く。まさか昼から焼き肉を食べることになろうとは考えてもいなかった。この店のランチの、6種の肉、サラダ、ライス、スープのいずれも食べ放題で850円というサービスぶりは凄い。
空の暗くなるころ湯島天神下に移動して「シンスケ」の戸を引く。そして子持ち鮎の柔らか煮や小鰭酢などを肴にして冷酒を飲む。秋はいよいよ深まってきたようだが、いまだ燗酒を飲む気分ではない。
新商品を撮影する際に用いた器や土曜日に使う予定のビデオカメラまで詰め込んだザックは重い。「シンスケ」を出るとちょうど大塚駅行きの都バスの近づいてくるところだった。よってこれに1区間だけ乗る。かつての都電はよくもまぁ滑り滑りもせずこの切り通し坂を登ったものだ。
19時30分に甘木庵に帰着する。そしてシャワーを浴びて20時に就寝する。
朝のうちに神保町に出る。傘を差さなくても済むほどの弱い雨が降っている。仕事をしていた"Computer Lib"から昼に外へ出ると、雨の粒が大きくなっている。インターネットのニュースは、今日の都心の気温がこの秋の最低を記録したことを伝えている。
夕刻より銀座に移動をする。三愛ビルの8階では"RICOH GXR MOUNT A12"を見る。松坂屋の別館地下ではアウトドア用の袋物についてあれこれ調べる。8丁目のレーシング用品屋には、今初夏にパンフレットをもらった。美麗な宣伝媒体を手渡されながら買い物をしないわけにはいかないと、そういう妙に義理堅いところがあるから僕には金が貯まらない。
半袖ポロシャツの上に木綿のセーターを着て、更に木綿のスカーフを首にぐるぐる巻きにしても、秋雨の晩はいささか涼しすぎる。チャオプラヤ川に張り出した桟橋で、汗だらけで鍋を食べていた5日前のことが、夢の中の出来事のように思われる。
小酌をして丸ノ内線に乗り、本郷三丁目で降りる。そしてオレンジ色のトレッキングアンブレラを差して甘木庵まで歩く。
コンピュータはモーバイルしても10キーまでは持参しない。滞タイ中の入金と出金は"Campus"の5号ノートに記録していた。そして帰国してからその内容つまり前期繰越金、今回両替分、そして出金を、10キーを使って自作のシステムに入力した。キーボードに"RUN"と打ち込んでエンターキーを2度叩けば一瞬にして現金残高が出る。
そしてその、帳面上の残高とサイフの中身を照合すると、現金が188バーツ不足している。188バーツは邦貨にして462円。タイの市中であれば汁麺が4杯以上は食べられる額だから馬鹿にはできない。
たとえば1,050円の買い物をしたとき、店員に10,050円を渡して9,000円の釣りを得る、ということを我々はよくする。それと同じ要領で、チェンライのホテルの支払いの際にはカウンター上に紙幣と共にジャラ銭を並べた。
後に伝票を確認したところ、そのジャラ銭はどうもロビーに置かれたガラス張りの寄付金箱に投入されてしまったらしい。帳面と現金に差を生じせしめた、これが第一の場面である。しかしジャラ銭が188バーツもあるわけはない。
そしてノートを見直し何かを思い出そうとするが、およそ130バーツほどになるだろう差額については今なお不明のままである。
廊下に置いたままのスーツケースを開き、その中身を出して、それぞれの場所に仕舞う。"Eagle Creek"のメッシュ袋からは、持参しながら結局は着なかったシャツが5着も出てきた。よく考えて準備をしたはずだったが、なぜそれほど余ったか。
僕は子供のころからのアトピー体質で、、肌に触れるシャツはほとんど木綿のものしか着ない。しかし8月のトレッキングには、試しにポリエステルのTシャツを使ってみた。そしてその具合が予想外に良かったため、今回の荷物にも含めたところ、これは汗をすぐに蒸発させるせいか、午前と午後に着替える必要がなかった。
寝るときにはいつもホテルのバスローブを着て、パジャマのためのシャツは使わなかった。9月30日は夜用のアロハを持ってコモトリ君の家に行ったが、晩飯の場所は目と鼻の先の気楽な店と知って「だったら着替えることもねぇか」ということになった。
靴下が1足余ったのは、サイクリングとプールサイドでの読書に昼の大部分を費やしたチェンライの2日目にずっと素足でいたからだ。
しかしまぁ、不測の事態により衣類を不足させることも旅先では発生しかねない。足りないよりは余らせた方が良いのだろうが、5着はいかにも余りすぎだ。そして今日の日記は次回のための資料になるだろう。
「タイマッサージについては、それほど効くものでもないと感じている」とは、先月29日の日記に書いたことだ。「それほど効くものでもない」と感じていても、高くないマッサージを暇つぶしに受けることはする。そして先月29日には90分の、そして翌30日には60分の施術を受けた。
きのうスカイライナーで東京へ出ようと、成田空港の地下駅を歩いていて、何やら不思議な気分になった。何年も前に痛めたらしい右膝は今年8月、更に様態を悪化させ、今回の旅に出る直前には正座もできないほどになっていた。その膝から違和感がほとんど失せていたのだ。
タイマッサージは持ち時間の70パーセントを、鼠径部から下を揉みほぐすことに費やす。「それほど効くものでもない」と認識していたタイマッサージだが、下半身の不具合には案外、効くのかも知れない。そして「そんなことならチェンライの1泊目からマッサージ、受けときゃ良かったなぁ」と、すこし後悔をする。
そして後悔をしながら「しかしタイマッサージの店って、ひとりで入るには抵抗があるんだよな」ということも考える。来年もタイへ行くことができたら、その全日においてあちらこちらのマッサージ屋のドアを押し、場数を踏もうと思う。
携帯電話のアラームと共に、ホテルのモーニングコールも午前4時に設定をした。そして実際に目を覚ましたのは午前2時だった。いっそのこと、このまま起きてしまおうかとも考えたが眠気もあり、そのまま枕に顔を埋めた。
そして今度こそ、4時のアラームに飛び起きる。いつものことながら、バンコクから早朝便に乗る朝は極度に緊張をする。それだけ緊張すればハナから眠れそうにないところだが、僕の場合には眠ってしまえるところが厄介だ。
顔を洗い歯を磨き、ポットでお湯を沸かしてコーヒーを作る。飛行機の時間からすれば余裕綽々の時間配分である。そして、その余裕綽々の持ち時間を悠々と使い果たして最後に慌てる自分の悪癖を、僕はよく知っている。
5時に部屋を出て、ひっそりと静まったロビーに降りる。インターネットの接続料金を現金払いし、タクシーを呼ぶようベル係に伝える。
この街のタクシーは1980年代までメーターを持たなかった。1990年代のことは知らない。メーターを備えた今になっても「空港か、だったら…」と、自分の言い値に客を従わせようとする運転手は少なくない。「早朝に街から空港までか、まぁ、500バーツならタマダー(普通)だな」とは、バンコクに住むタイ人の言ったことだ。
闇の中に隙間なくクルマを並べた運転手の一団にベル係が声をかける。ひとりのドライバーが仲間に協力を仰ぎ、前後のクルマを手で押して、わずかにできた隙間から朱色の、自分のタクシーをホテルのエントランスに回す。ベル係が僕のスーツケースをタクシーのトランクに乗せる。そして僕はタクシーの後席に乗り込む。
運転手はギアを2速に上げたところでメーターのスイッチを押した。初乗りは35バーツ。古い街並みの一方通行を右へ右へと進み、広い道から高速道路に上がる。通過したふたつの料金所の表示、それから運転手の差し出す紙幣と受け取る釣りの関係から、料金はそれぞれ45バーツと25バーツに思われた。
タクシーは時速110キロを保って快調に飛ばす。と、突然、何の前触れもなく隣の車線からフラリとクルマが割り込んでくる。運転手はブレーキを2度、強く踏む。シートベルトはあっても、その雄の部分を差し込む雌の部分は、いくらシートの奥を手探りしても見つからない。
大屋根の青い光に吸い込まれるようにしてタクシーが空港に横付けされる。メーターは243バーツを示していた。運転手がトランクからスーツケースを取り出し歩道に置く。僕は運転手に340バーツを渡す。運転手は軽く頷いてタクシーの後方を回り、運転席に収まった。僕はスーツケースを押して空港ロビーに入る。
人の溢れるチェックインカウンターでは30分待ち、パスポートコントロールにも混雑があって、手荷物の検査を終えるとボーディングタイムは3分後に迫っていた。
"TG676"の"Boeing 777-300ER"は、定刻に21分遅れて07:56にスワンナプーム空港を離陸した。きのうの日記を書く、日本の新聞を1週間ぶりに読む、すこしうたた寝をする。退屈する間もなく機はタイ時間13:26、日本時間15:26に成田空港に着陸した。
成田空港第一ターミナル16:39発のスカイライナー、北千住18:12発のスペーシアを乗り継いで20時前に帰宅する。半袖のシャツでも寒さは感じない。暑さはもちろん、感じない。