「お元日の夜は、家族そろって、温かいすき焼き鍋を囲み…」というキャンペーンを何年も前からしているのが、日光市霧降の「グルマンズ和牛」だ。
予約したすき焼き肉を大晦日の朝に受け取りに行くと、お店からは朝食がサービスされる。そういう次第にて、本日は家で、そして「グルマンズ和牛」でと、計2回の朝飯を摂る。
ウチのすべての商品のうち、僕が子供のころから一貫して最も好きなものは「なめこのたまり炊」だ。仕込みの回数はこれまで少ないときで年に3回、多くても4回だった。ところが今年は5回の仕込みを行ってなお、売り切れの気配が見えてきた。よってウチでは初めての経験となる6回目の仕込みを行い、それによる品が数日前に完成した。
今回の「なめこのたまり炊」は、今年はじめての品ではない。しかし「今年」を「今冬」と言い換えれば、これは初物ということになる。「醸造」とは、人知を超えた、自然の力も借りての行為だ。ウチではすべての「初物」を神様にお供えしてきた。そして今回の「なめこのたまり炊」も神棚に上げる。
きのう出荷の完了した「日光の美味七選」は、年越し蕎麦や消費期限に厳しい刺身湯波を含んでいる。年越しのためのセットとあれば、本日のうちに到着しなければ意味がない。
午前10時より、先ずは「午前中必着」とご指定になったお客様の荷物の追跡を始める。それと同時に、それ以外のお客様の荷物の現在位置も確認をしておく。
「日光の美味七選」は、関東は無論のこと、関西から本州最北の地まで、ヤマトにより続々と届けられている。その様子をコンピュータで知ることは楽しい。
18時から20時の着時間をご指定になったお客様の荷物は、20時を待つことなくすべてが配達された。20時から21時のお届けを指定されたお客様については、自宅に戻ってからその荷物を追い始める。やがてそれらも、大晦日の夜まで働いているヤマトのドライバーによって配達が完了した。
僕はようやく人心地がついて、鴨鍋や蕎麦を肴に日本酒を飲む。更にはNHKの、またテレビ東京の番組なども観て大いにくつろぐ。しかし神経の底には、いまだ緊張が残っているのかも知れない。いつまでも眠くならないため、僕としては珍しくビールを飲む。0時を過ぎては「酒場放浪記」の年越し編などを眺める。
そして午前2時を過ぎてようやく就寝をする。
日の昇るころに洗面所へ行き、窓を開ける。雪の量を徐々に増やした山々が、すこしずつ紅く染まっていく。年末年始の好天を約しているような、その塩梅を目の当たりにして有り難く思う。
朝のうちに会社のまわりを見まわる。蔵の入口は、店の門松にくらべてはるかに地味な三階松が、熟成中の商品の安寧を祈るように、開き戸の両脇を守ってる。
日ごろより僕が「それにしても美味いよなぁ」と感じつつ味わっている地元の優れた品々を、それぞれのお店にお願いして詰め合わせ、そこにウチの漬物を添えた「日光の美味七選」の荷造りを、13時に長男と始める。そしてその仕事を16時25分に完了する。
荷造り台のそばには新春の福袋が整っている。初売りの2日からはまた、牛肉のたまり漬の炭火焼きなども用意する。閉店後、その仕込みを長男が「日光味噌梅太郎白味噌」の「たまり」を用いて行う。
新年が、30時間後に迫っている。
サーキットに夜が明ける。空は青く澄んで、雲はひとつも見えない。朝食を済ませ、8時にトラックに乗る。パドックは、コントロールタワーの下から順に埋まっている。ピットロード入口にほど近い36番パドックに、タシロジュンイチさんは"BUGATTI 35T"を、まるで馬のくつわを曳くようにして入れた。
「阪納誠一メモリアル走行会」のドライバーズミーティングでは、贅沢なことにいつも、ツツミトモヒコさんが授業をしてくれる。ツツミさんは謙虚な人柄の持ち主だから、昨年は西コースのバックストレッチから入るシケインを、今年は最終コーナーを「自分も苦手としている」と謙遜しつつ合理的な、この場合の「合理的」とは「速くて安全」ということになるけれど、走り方を教えてくれた。
"BUGATTI 35T"は、1980年代前半以来の長い眠りから2006年に覚め、以降は「EBエンヂニアリング」のタシロジュンイチさんが整備を重ねてきた。
昨年の走行会では4速3,700回転付近での、前輪に発生する激しい振動に悩まされた。僕からその症状を聞くとタシロさんはフリクションダンパーの不調を疑い、年が明けると同時に調整に取りかかった。と同時に、数年前から使っていたタイヤを新品に換えた。
結論から言えば本日の"BUGATTI 35T"は、最終コーナーから立ち上がって左手にオレンジ色のポストの見える手前で3速4,000回転。そしてコントロールタワー前を過ぎると同時に4速4,000回転を記録した。
エンジンはそこから更に上を目指そうとするが、第1コーナーまで150メートルの表示板が迫り、それ以上は怖くてスロットルを踏めない。レーシングブガッティ特有の、長楕円形のブレーキペダルを右足で強く踏み、すこし遅れて左足でクラッチペダルを踏むと同時に右足のかかとで、これまた特徴的な、まるでミシンのボビンのようなアクセルペダルを蹴る。一瞬の頃合いを見計らってギヤを3速に落とせば、そこはもう第1コーナーの入口だ。
「ツインリンクもてぎ」の第1コーナーでは「あー、曲がりきれない」と怯えたら負けである。歯を食いしばり、腹筋に力を入れ、左足のすねを焼けたギヤボックスに押し当てる。そうして徹頭徹尾、アクセルペダルを踏み続ける。尻が外に振れたら、後は小まめにカウンターを当てる。上手くいけば、バックストレッチの立ち上がりでは回転計は3,500を差している。
そうして「みんな、どうして最後まで走らないんだろう」と疑問を感じながら"Vintage class"全19台中の最後の2台として、そのうちの1台は今年もカワモトノブヒコさんの"Lagonda Rapier"だったが、冬の日の傾きかけたサーキットを周回する。
ピットに戻ると、顔の皮膚が、まるでクリームでも塗ったように湿り気を帯びている。それはボンネットのルーバーからの、目に見えない油煙によるものだろう。スカットルに貼った「直線は4速3,700回転、第1コーナーは3速2,500回転」の覚え書きは、帰ったらそれぞれ4,000回転と3,000回転に書き直そうと思う。
長く晴天の続いてきた日光の天気は、おとといの午後を境に崩れ始め、しかしきのうの午後からはまた快復をしてきた。今朝の山々は一部が雪雲に覆われているものの、山肌は朝日に照らされ紅く染まっている。
僕が子供のころには、年末の餅つきは28日にすると、決まっていたような気がする。正月の飾り付けも、28日にする家は多い。ただしウチでは業務の関係から、飾り付けは30日に行っている。
30年ちかく僕がしてきた神棚とお稲荷さんの掃除は、昨年から長男と次男の仕事となり、僕はとても楽になった。お稲荷さんの社殿は、これは僕が会得した方法だが、濡れ布巾で拭くなどはせず、中身をすべて出した状態で、水で丸洗いするのがもっとも合理的である。
15時。荷台に"BUGATTI 35T"を載せたトラックを、タシロジュンイチさんが店舗向かい側の駐車場に入れる。僕は国道121線を横断し、そのトラックの助手席に収まる。「ツインリンクもてぎ」には16時30分に到着した。
「ホテルツインリンク」は、サーキットに併設のホテルとしては、日本一の水準ではないだろうか。家族連れ、子供連れの宿泊客に混じって18時より夕食を摂り、部屋に戻る。
カーテンを開けると、窓の向こうには、明日の朝から夕刻までクルマを走らせることになるだろう西コースが見えている。そして部屋に備えつけの「本田宗一郎正伝」を読みつつ早々に就寝をする。
前夜9時台に就寝すれば、翌朝は2時台に目を覚ます。2時台の目覚めとはいかにも穏やかではないから二度寝をしようと試みても眠気は訪れない。よって不本意ながら起床して食堂のテーブルに着く。食堂とはまぁ、一般的にはダイニングキッチンと呼ばれるところのものだ。
早朝には先ず、コンピュータを起動してウェブショップの受注や顧客からのメールを確認する。自宅における通信手段はiPhoneのデザリングによる。前記の確認作業はメーラーで行う。その動きは今朝も滑らかだ。
ところがその仕事を終えて、今度はブラウジングに移ろうとしたところで、きのうからの現象にまたも遭遇する。「きのうからの現象」とは、ブラウザの動きが極端に遅いことだ。時には遅いだけでなく「www.tamarizuke.co.jp のサーバからの応答が一定時間以内に返ってきませんでした」というメッセージのみ現れて、その先へ進めないことさえ頻繁になってきた。
よって仕方なくきのうの新聞を広げ、これを読み始めてしばらくすると、次男が起きてきて、同じテーブルに宿題の資料を広げる。ブラウジングの不調については、また外注SEのシバタサトシさんを呼ぶしかないだろう。
今年も残すところ5日を切った。30日には、地元の隠れた名産を集めた「日光の美味七選」の出荷が控えている。夕刻に至って、その「日光の美味七選」に入れる説明書と地図を40部ずつ整え、製造現場の荷造り台へと運ぶ。
右手をポケットに入れると小さな紙に触れた。取り出してみるとそれはおととい行った病院の、廊下に置かれた機械でたわむれに計った血圧だった。僕の血圧は、家で計ると高い。病院で計ると低い。これは、普通の人とは逆の傾向らしい。
病院で血圧を測ると普段よりも高くなる、それを日本語では白衣症候群とか白衣高血圧、英語では"white coat syndrome"とか"white coat hypertension"と呼ぶ、とは今しがた"wikipedia"で仕入れた知識による。
夜は家族5人で"Finbec Naoto"へ出かける。次男は明日、18歳になる。しかし明日あさっては長男に夜の奉仕活動が控えている。そのための、1日はやめた今夜のお祝いである。
ところで僕が東京でフランス料理屋の"hopping"をしないのは、我が町に"Finbec Naoto"があるからだ。どこへ行っても大抵は、"Finbec Naoto"の方が美味いのだ。
本日は午前よりテレビの取材が入った。そのため昼飯は弁当にして、事務机であわただしくかき込んだ。取材は15時に完了した。16時からは本日出勤しているすべての包装係と、年末年始の乗り切り方について打ち合わせをする。
世間では、先週の金曜日から土曜日にかけてが、忘年会のもっとも多く開かれた週末だったという。自分は今年いくつの忘年会を経験したか、指を折って数えるまでもない、春日町1丁目青年会のそれ1回のみである。
忘年会の数が少ないのは、人づきあいが少ないからだ。あるいは誘われても不義理をするからだ。かてて加えてウチは年末こそ忙しいから会社の忘年会もない。
酒を飲んで歓談すれば楽しいことは楽しい。しかし知らないうちに体力を消耗する。そして酒を飲んでくつろぐことは家でもできる。忘年会はまぁ、僕の場合には、ひと冬に2、3回ほどが適当な数だと思う。
黒と暖色、陰と光。例を挙げれば僕が毎朝のように眺めている杉並木と朝焼け。このような景色はなぜか、浮世絵を思わせる。あるいはロートレックの描いた酒場風景だ。
冬至から2日を過ぎた朝日が並木の向こうに上がってわずか数十分後には、その、おなじ朝日浴びつつ開店の準備が始まる。
「クリスマスは、なぜ、めでたいか」という話だ。
「キリストのお生まれになった日は、めでたいに決まっている」という人がいる。「日が徐々に延び始めるこの時期は、キリストの生まれる遙か以前から、めでたいとされていたはずだ」という人もいる。
そして僕はいつもと変わらず「早いとこメシ、始めようぜ」である。
朝飯には"NEU FRANK"のベーコンと「進々堂」のデイリーパンを食べた。晩飯には「進々堂」の田舎パンとシュトーレンを食べた。ベーコンもパンも、同窓の先輩が経営する優れた会社の製品だ。そうして朝は控えたけれども夜はワインをすこし飲んで早々に寝る。
日光の山々の雪が随分と増えてきた。その、蒼い山肌に積もった雪が朝日を浴びて紅く染まっている。その色をどうにかカメラに収めようとしても、ホワイトバランスが色調を平準化しようとするのか、なかなか上手くいかない。
朝飯が自分の前に並べば、先ずは味噌汁を口にする。商売柄、家にいるときにはほとんど常に、美味い味噌汁を飲んでいる。その味噌汁が更に美味いと、時として、味噌汁の椀から口の離せなくなることがある。山から降りてきた猟犬が水を飲むような勢いで味噌汁を飲んでしまうのだ。
今朝の味噌汁がやはりそのようなもので、半分以上を一気に飲んだところで「お替わりはあるのだろうか」と、立って調理台に近づき、鍋の中を覗き込んだ。そしてその底に残った汁を、丸ごとの大豆も含めて飲みかけの椀に足す。
学校の寮からおととい帰宅した次男は、初売りのための福袋の準備に、きのうから取りかかっている。社員のうちの何人かは、換気扇の掃除などを今日から始めた。指折り数えてみれば、今年もあと1週間と1日。
ポケットコンピュータの初期化は確か"NEW"エンターだったと記憶する。コンピュータの初期化は一瞬にして済む。しかし人間の初期化は難しい。この1週間は、普段よりも少し多めに頭を使ってみよう。
それまで燦然と輝いていた太陽が次第に疎遠になっていく、その最初の日である夏至には常に、残念な、寂しい気持ちが伴う。その対極にあるのが冬至で、この日は常に嬉しい。
朝から日光はうららかに晴れている。南西に目を遣ると、鶏鳴山のはるか手前、金比羅山の西裏に煙が上がっている。何十年も前から見てきたにもかかわらず、僕はこの煙の正体を知らない。子供のころは調べもせず「炭焼きの煙だ」などと妹にいい加減なことを教えたこともある。今もなお上がり続けていることに鑑みれば、炭焼きの煙でないことは明らかだ。
日中、日光市森友地区の農家ユミテマサミさんが、万両6鉢を届けてくれる。門松に万両が揃えば、店の前の景色は一気に、年末の色を濃くする。
万両の、赤く大きな実を眺めながら、なぜか「細かいことをおろそかにしてはいけないよなぁ」と思う。そして門松や万両の後ろに控えるベンチの下の、落ち葉や砂埃を掃除する。
日光の山には徐々に雪が増えてきた。
むかしは家から最も近いスキー場だった霧降高原キスゲ平園地は、その特徴的な三角形の斜面すべてが雪に覆われ、今やブルーアイスのような色を湛えている。雪はこれから更に降り、積もり、山の姿を2倍、3倍に美しくしていくだろう。
本日は大安にて、同級生のタカハシカズヒト君が午前のうちに門松を届けてくれた。一対の門松を整えると「できるだけ長く飾っておけた方が良いでしょ、来月15日、瀧尾神社のドンドン焼きのときに引き取りに来ます」と言ってタカハシ君は去った。
タカハシ君にはまた、鏡餅に添える裏白や譲り葉、神棚の縄飾り、会社や家の中に提げる輪飾り、蔵の裏門に立てる松なども頼んである。それらが届くのは多分、次の大安の日になるはずだ。
きのうシバタサトシさんの持ち帰った"Let's note CF-N10"は、東芝製の壊れたハードディスクを"SanDisk"の"Solid State Drive"に換装されて無事に戻った。一件落着、である。
今月に入ったころからコンピュータが極端に遅くなり始めた。
どのように遅いかといえば、ワードプロセッサの使用中に変換キーを押すと、ハードディスクの忙しさをあらわす黄緑色のランプが点滅ではない、点きっぱなしになって、10秒とか20秒後にようやく文字を変換する。あるいは、フォルダの中の画像を片端から見ていく途中で、やはり同じランプが点灯して、次の画像に移るまでに時間がかかる。
そういう状況がしばらく続いたため、デフラグメンテーションによりハードディスクを整理したが、状況は変わらない。よって他の用事で来社した外注SEのシバタサトシさんに状況を話すと「ハードディスクを交換した方が良さそうですね」と言う。
現在のコンピュータは、1995年以来使い続けた"ThinkPad"の質感の低下に堪えかねて乗り換えた"Let's note CF-N10"で、それが購入から2年と4ヶ月で不調を来すとは片腹痛い。
きのうは5つのウィンドウを立ち上げ仕事をしていたところ、突然、"Alt"と"Tub"による窓の切り替えができなくなった。ハードディスクのランプは当然、点きっぱなしである。ここでとうとう怖くなって、ハードディスクの交換を決めた。
すると本日、早くもシバタさんから連絡があり、部品が手に入ったので、これから作業を始めるという。午前10時に来社したシバタさんは、"Let's note"から東芝製のハードディスクを外した。これと入れ替わりに収まるのは、"SanDisk"の"Solid State Drive"である。
シバタさんのような、ハードもソフトもこなす技術者は、実は多くない。そのシバタさんを以てしても、しかし今回の、壊れかけたハードディスクからのデータの救出は難物らしい。
夕方まで頑張ったところで「すいません、このコンピュータ、持ち帰っても良いですか」とシバタさんは僕に訊いた。当方に異論のあるはずは無い。
そうして夜はドライシェリーとワインとコニャックを飲み、早々に寝る。
きのうの夜、「本酒会」に出かけるときには雪が盛んに降っていた。社員が残業をしている、その横をすり抜けて酒を飲みに出かけるわけにはいかないから、僕も彼女たちにつき合っているうち、会の始まる時間が近づいてきた。
すべての社員が退出をしてから外へ出て最寄りのタクシー会社を訪ねると、折からの雪に、すべてのクルマは出払っているという。「本酒会」の会場は大谷向の「玄蕎麦河童」だから、徒歩では20分ほどはかかる。遅刻の幅は大きくしたくはない。
「オレ、ひょっとして、今夜、死んだりして」などと考えつつ、横殴りの雪の中に自転車をこぎ出し、しかし結局は無事に帰宅した。北国の日本酒を飲むうち雪は止んだのだ。
一旦は収まった雪が夜半から盛り返す、ということもなく、静かな雨と共に今朝は明けた。「12月の雨」は松任谷由実、いや、当時は荒井由実だったか、いずれにしても好きな歌のひとつである。
玄関の靴箱の上に見慣れないデジタルカメラがあった。不審に思い家内に訊くと、スリッパ立ての裏に落ちていたものだという。よってそのカメラを事務室に運び、SDを引き抜いて自分のコンピュータに差し込むと、画像は数百枚にも及んでいた。そしてそれを見始めてすぐに「あぁ、あのカメラか」と思い当たった。
今年の春だったか「お忘れものですよ」と、成田だか羽田の空港でオフクロが職員から手渡され、オフクロはそれが自分のものでもないのに虚を突かれた形で受け取ってしまった、それが銀色の"LUMIX DMC-TZ7"である。
数百枚の画像とは、若いカップルによるグアム島旅行のものだ。そしてカメラは、その画像の内容から多分、カップルのうちの女の子の持ち物だったと想像される。
そのことをfacebookに載せ、文章の最後に「今となっては、落とし主に届けることもできない」と添えたところ「現在の警察のネットワークは非常に優れているので、地元警察に届ければ何とかなるかも」と、警察の遺失物検索に詳しい人から示唆を受けた。
よって今市警察署のちかくに昼飯など食べに行くことがあれば、これを届けたいと思う。というか、本日、早くも「玄蕎麦河童」へ行く途中に警察の前は横切ったが、何分にも19時30分を回る時刻だったため、取りあえずは後日の仕事とした。
闇の中に目を覚まして「4時台だろうか、しかしきのうは日光東京間をクルマでとんぼ返りして疲れたから、あるいはもう6時がちかいかも知れない」などと考えつつ枕の下のiPhoneを取り出し見たら、いまだ2時台だった。
眠気はまったく感じないため起きて、食堂のテーブルできのうの日記などを書く。しかし日記を書くだけでは数時間は過ごせない。いま読んでいる最中の分厚い本は、事務室の机に置いたままだ。そして仕方なしに他の活字を拾い読みするうち夜が明ける。
10月19日に引き続き今月の10日もブックオフの人を家に呼んだ。その結果、買い取ってくれた本は段ボール箱に10箱。それに対して「値が付けられない」として置き去られた本は5箱。その5箱と共に、ブックオフにはハナから査定させなかったムック本などを束ねると、それらは台車に1台分の量になった。
早朝、その台車を押して、資源ゴミ置き場に行く。そしてこれらすべてをコンクリートの床に置く。
ブックオフは、ホコリは気にしないけれども、ヨレたりヤケたりした文庫本は相手にしない。それが今回は良く分かった。
図書館は、期限までに本を返さなければいけないという点において、僕の性に合わない。あるいは、僕の読みたくなるような本は、中小規模の図書館には置いていないのではないか、というような気がする。
これからは、本は読み終えたら、そして保存の必要無しと自分が認めたら即、捨てようと思う。
おばあちゃんは昨年の6月23日に102歳で亡くなった。おばあちゃんが一人であれこれできていたときに生活していた場所を「おばあちゃんの台所」とか「おばあちゃんの応接間」と、家族は呼んでいた。
おばあちゃんが亡くなって1年半が経とうとしているこの頃になってようやく、その台所や応接間から「おばあちゃんの」という所有格が、僕の頭の中からは薄れてきたような気がする。
おばあちゃんの台所は辰巳の方角に面している。そして今朝も、その窓からは、朝日の昇り来る様子がありありと観察される。季節の移ろいに従って、日の昇る場所も徐々に変わってくる、そのことを、おばあちゃんは折に触れ僕に話したが、僕の返事は「あぁ、そう」とかいう気のないものだった気がする。
おばあちゃんがいなくなった今、おばあちゃんがかつて見た朝の景色を、自分もおなじ場所から眺めてはじめて、おばあちゃんの、朝の感懐のようなものが分かった気がする。
それはさておき、夏は南に、冬は北を目指したくなる、その気分は、どのようなものを原因として起きるのだろう。
夜にテレビを点けると、吉田類が八戸の居酒屋を訪ねていた。よって即、ウチからその店の最寄り駅である本八戸の経路を調べてみる。すると所要時間は4時間15分と出た。ということは往復で8時間30分も本を読んでいられる勘定になる。しかしまぁ、そんなことを考えるのは一時の座興のようなもので、実際には、僕は仕事以外では青森へなどは出かけないのだ、きっと。
春夏秋冬、年に4本の煙草あるいは葉巻を吸うことにしている。
個人にも社会にも非常な害悪を及ぼす煙をなぜ吸引するか。それは、これほど危険なドラッグを国家が法の下に許している、そこのところが愉快だから吸う。
それではなぜそれほど愉快なものを年に4本しか吸わないか。それは、これほど危険なドラッグの中毒患者になりたくないからだ。
春夏秋冬とはいえ実際には、そう几帳面に吸えるわけではない。今年の1本目は2月28日にチェンライの山奥で吸った。2本目は3月3日にバンコクのチャオプラヤ河畔で吸った。3本目は8月25日にシェムリアップのゲストハウスで吸った。
年に4本とはいえ実際には3本で止まってしまうことがままある。今年はどうだろう。
「いつまでもタバコを止められなかった人の末路」というような写真が、タイで買うタバコの箱には印刷されている。こんな写真を添えられてまで、なぜ煙草会社はタバコを売るか。それは「背に腹は替えられない」と考えているからだ。
僕の事務机の引き出しには、その、タイから土産として持ち帰ったタバコが1箱だけ残っている。ここから1本を抜き出して吸い、あとの19本はそこいらへんの中毒患者にくれてしまうのか、どうなのか。いまだ決めかねて、師走もなかばを迎えた。
目を覚ますと喉が痛い。「きのう風呂上がりに裸のまま居眠りなどしただろうか」と闇の中で思い返し、しかしそのような記憶はない。兎に角この忙しい時期に熱は出したくない。そうしてiPhoneに設定した4時45分のアラームに促されて起床する。
製造現場での早朝の仕事を終え、4階の食堂に戻る。やがて例幣使街道の、杉並木の向こうから朝日が昇る。時刻は6時55分。実に、今の時期には7時に肉薄するまで陽の光を拝むことはできないのだ。
午後にセキネ耳鼻科を訪ね、先生に喉を診てもらう。夕刻にハセガワ薬局へ出かけ、処方箋の薬を受け取る。
18時からの、町内役員による忘年会には欠席することを決め、その旨をシバザキトシカズ大膳に電話で伝える。数十分後、シバザキさんは忘年会のための鮨折をひとつ届けてくれて、当方は大いに恐縮をする。
晩飯は、その鮨のうちの3貫ほど、そして体を温めてくれそうなスープのみにて済まそうとしたものの欲に負け、ほんの少々の日本酒を器に注ぐ。
きのうは青森の居酒屋で飲んだ。囲炉裏のすすが壁や船箪笥を飴色に染めた渋い店だった。今朝は敦賀まで移動をして、半島の突端にある巨大な鉄塔を、海岸から眺めている。
ふと目を凝らすと、その鉄塔の上方、足元の危ないところにふたりの男が立っている。そして一瞬の後には、自分がそのふたりの男と入れ替わって、眼下数十メートルの、青にも灰色にも見える海面めがけて落ちそうになる。そうして背筋のヒヤリとしたところで夢から覚める。
鶏鳴山はうららかに晴れている。朝食を終え、エレベータを降りて事務室のシャッターを上げる。右手の手水には柄杓が横たえてある。そのヒシャクの柄に小さなツララができている。いつまでも寒くならず不審に感じていた日光だが、今朝の気温はすこしばかり低いらしい。
9時44分にdocomoからメッセージが入る。それは来週の火曜日から、iPhoneでもdocomoのメールが使えるようになるという報せだった。僕はいわゆるケータイメールというものをほとんど使わない。ただしウェブショップに注文が入ると、その「入った」という情報だけを携帯電話に転送させることはしていた。
それがiPhoneではどのように表示されるのか、その見え方によっては注文転送の再設定をしても良いと考えている。
昨夜、カウンター活動を終えて北千住駅へ行くと、下り最終スペーシアの発車までには、いまだ少しの余裕があった。よって地下1階の「東武ブックス」に入る。すると、モノクロームの写真による"CAR GRAPHIC"が目に付いた。普段は色鮮やかな表紙が今月に限って白黒なのは、それが小林彰太郎の追悼号だったからだ。であれば、これを買わないわけにはいかない。
その本を、いまだ日の昇る前の食卓に置く。表紙の小林さんは、30数年来の愛車"Riley 9 Brooklands"の操縦席に収まっている。ここで詳しくは触れないが、先進的な設計に基づく耐久性の高いエンジンを持つこのクルマは、低い車高による安定性能の高さもあって、小林さんはこれを随分と速く走らせたものだった。
小林さんさんには"HONDA S600"によるヨーロッパ紀行のみで、分厚い1冊を書いて欲しかった。実現しようがしまいが、知り合ったばかりの40年ちかく前に頼んでおけば良かったと後悔しても、もう遅い。
日の昇るころを見計らって洗面所へ行き、窓を開ける。すると日光連山、特に男体山は巨大な雪雲に覆われていた。以前はスキー場のあった霧降の、白く刷毛で掃いたような雪は、これから春先まで融けることはないだろう。
日光ではきのう、里には雨が、そして山には雪が降った。積もっては融けてを繰り返してきた山の雪だが、これから先はずっと、このまま残りそうな気がする。
先週の中ごろ、それほど固いものを食べているときではなかったと記憶するが、左上の奥歯が欠けた。普段であれば即、歯科医院に駆け込むところだが12月は忙しい。そして本日ようやく下今市駅09:35の上り特急スペーシアに乗る。コンピュータもカメラも持たない移動は至極、楽だ。
昼食ののち、かかりつけのソーマ歯科室に入る。
結果から言えば、ソーマ先生は、欠けた歯の元の形を熟知していたかのように、なにか特殊な物質で欠損した個所を覆い、またそれを丸く盛り上げた。そして少々の調整をすると、この一週間はまるで刃物のように尖っていた歯は、噛み合わせ、表面の滑らかさ共に完璧に復旧した。大したものである。
午後は本郷三丁目、学生や職員が落ち葉拾いに余念の無い東京大学構内と歩き、旧前田藩邸と旧富山藩邸の境界線あたりにある喫茶店"TULLY'S"で本を読んだりする。甘い物を食べたい気持ちもあったが、それはこらえた。
そうして北千住でのカウンター活動を経て23時すこし前に帰宅する。
朝飯の始まるころに西の方角を見ると、男体山の手前、更にその手前の里山の上に、白い雲が浮かんで光っている。それは穏やかな景色ではあるけれど、予報によれば、昼ちかくには暴風雨の可能性もあるのだという。
前回、ブックオフを呼んで本を処分したのは10月19日のことだった。そして本日、ふたたびブックオフから人が来る。本は家の中の随所に、否、家の中だけではない、そこからはみ出して、社員休憩所入り口の、2架の棚にも満杯にある。
二人組のうちのひとりは、玄関の上がりがまちに出した、主に次男の本に取りかかる。そして僕はもうひとりを社員休憩所の前まで案内し「ここにあるものは全部、持っていっていただいて構いません」と告げる。
ここの本はすべて処分すると、数ヶ月も前から決めていた。であればもう一度よく確かめておけば良かったようなものを、何百と並んだ背表紙に目を遣れば、今になって惜しく感じられるものが少なくない。ブックオフの人に迷惑はかけられないから、それらを両手に鷲づかみし、大急ぎで別の場所へと移す。
ブックオフが買い取った本は段ボール箱に10箱。正確には393冊で6,860円。それに対して「値が付けられない」として残された本は5箱。その中から更に数冊を選び、先ほど別にした本と一緒にする。
暴風雨は結局おとずれず、午後は快晴の空が広がった。
残業した事務係のカワタユキさんを通用口から送り出して後、外で食事をしようと、事務室のシャッターを降ろしたところで携帯電話に着信があった。時刻は19時44分。相手はオノグチショーイチ頭で「今、どこにいんでー」と言う。何やら賑やかな様子なので訊けば、町内青年会の、忘年会の席からだという。
「これはしくじったか、しかしそんな回覧板は見てなかったなぁ」と不審に思いつつ、長男と洋食の「金長」へ行く。そして10人ほどに混じって2時間ほども歓談をする。
闇の中で目を覚ますと、国道121号線を走るクルマが、路上の水を切って進んでいるような音がする。「随分と晴れが続いたからな。このあたりで雨が降っても、おかしくはないわな」と考えつつ洗面所へ行き、窓を開けると空には星があった。
「おや」と不思議に感じて地面を見ると、アスファルトは灰色に乾いている。とすれば、先ほど耳にした、あの音は何だったのだろう。
6時45分。おばあちゃんの台所の真正面つまり南東の、杉並木の向こうから朝日が持ち上がってくる。冬至まであと13日。これから半年を経れば、太陽は今よりずっと東の方角から昇るはずだ。
「そろそろ松ぼっくりの落ちる季節」とは、誰の言ったことだろう。しかし検索エンジンで調べた限りでは、松ぼっくりは季節に関係なく、空気が乾いたり、強い風が吹いたりすれば落ちるとのことだった。
午前に味噌蔵の周辺を見てまわる。裏手の松の梢にはなるほど、いまだ落ちる気配のないまま風に揺れる松ぼっくりがあった。
早朝の仕事も4日目となり、今朝も4時45分に起床する。この仕事は、それほど時間を必要とするものでもない。よって、いまだ暗いうちに居間へ戻り、闇の中でテーブルにコンピュータを起動する。
そのコンピュータを、使いやすい位置まで押しやると、ディスプレイの背に何か触るものがある。腕を伸ばしてその「何か」を掴むと、瀬戸物による球形のものだった。「はて、こんな形のぐい呑みなど、きのうの夜に使っただろうか」と、それを手元に引き寄せ逆さにした途端、醤油の濃い香りが鼻に届く。
醤油はあたり一面にこぼれたらしいが、灯りは点けていないから何も見えない。バネで弾かれたように立ち上がり、洗面所から複数のタオルを持ち来て兎に角、テーブルの上の醤油を吸い取る。
明るいところで確かめると、Let's noteはバッテリーを外すためのスライドロックに、またiPhoneはケーブルを差し込むための穴のちかくに醤油が付着していたが、大したことにはなっていなかった。その醤油を、アルコールを噴霧したティッシュペーパーで入念に拭き取って「それにしても、キーボードが無事で良かったー」と、胸をなで下ろす。
朝4時45分の起床を必要とする早朝の仕事は、平時であれば週に1度でほぼ足りる。しかしこのところはさすがに繁忙にて、5日からはずっと、朝の製造現場に降りている。
仕事場までの、コンクリートの通路を歩いて行く途中で、大型の冷蔵庫が稼働している音に気付く。例年であればこの時期には、冷蔵庫内よりも気温の方が低くなるため、サーモスタットは切れたままになっているのだ。
仕事を終え4階に上がって北西の窓を開く。冬至まで2週間と1日。時刻は6時45分。日光の山々のいただきから朝日の帯が、驚くほどの速さでふもとに向かって降りてくる。ほんの数十秒ほども目を閉じていたなら、そのあいだに風景はまったく別のものになっただろう。
晴れた日の朝の光、朝の空、朝の雲、朝の山。それらはひとときもじっとしてはいない。
午前に生け花のカワムラコーセン先生が、お正月の花について打ち合わせに来る。そしていつものとおり、大晦日に十全の準備をした上で、初売りつまり1月2日の開店前に総仕上げをすることを決める。先生はまた、例年であれば10月の末から雪のちらつく日光市湯西川地区に、今年は12月に入ってもまったく雪のないことを教えてくれた。
門松についてはきのう、同級生のタカハシカズヒト君が来て、21日の設置を約して帰った。神棚や社内各所に置く幣束についても、そろそろ瀧尾神社に注文をする必要があるだろう。
師走とはいえいまだその7日にて、歳末の気分にはほど遠い。しかし自分だけ現在に立ち尽くしても、周囲のあれこれは静かに、そして確かに、新春へ向かって進んでいるのだ。
今朝もiPhone5cの、4時45分のアラームを待って起床する。そして服を着て先ずは事務室に降りる。そこで服に白衣を重ねて製造現場に入る。夏とは異なり、灯りを点けなくてはほとんど何も見えないが、寒さは感じない。
午前より、銀行、テレビの取材、健康維持のための受診。
昼からは、今秋に新装したウェブショップの、決済方法についての助言のため来社したヒラダテマサヤさんと会食。
午後は、午前とは異なる銀行、そしてウチの受注係への追加教育を完了したヒラダテさんと、今度は僕のコンピュータに発生した問題の解決。
ヒラダテさんを東武日光線下今市駅へ送り届けた後は、4階に入っている建具屋さんの下働きとして、現場で出たゴミの片付け等々。
こうして本日は朝からずっと、種類の異なるあれこれを忙しくこなして夕刻に至った。よって夜はロイ白川による歌番組などをテレビで観て気持ちを休める。
夜に早く寝れば朝は早くに目が覚める。闇の中でどれだけじっとしていたか、その時間については不明ながら、4時45分に仕掛けたアラームが鳴ったところで起床する。そして着替えて製造現場へ降り、あれやこれやする。
昨年は、どこで目にしたものやら「味の手帖」による「味のカレンダー」を初めて知って、これをamazonに発注した。そうしたところ暮の挨拶に来た取引先も同じものをくれ、だから2013年度版のこれは家の中で重複することとなった。
その取引先が僕の留守の間に来て、今年もまた同じカレンダーの2014年版を置いていってくれた。2013年度版はマッキー牧本がひとりで365日分の文章を書いていたが、2014年度版からは他に、5名の文化人が筆を寄せている。
この、今年と来年の日めくりカレンダーを並べたところでちと興味に駆られ、僕の誕生日にはどのような食べ物が採り上げられているか調べてみた。すると2013年版は万願寺唐辛子、そして2014年版はゴルゴンゾーラチーズだった。どちらも僕の好物であり、宗誠二郞による絵も絶好調である。
ここで「ゴルゴンゾーラチーズを柔らかく錬って万願寺唐辛子に詰め、オーブンで焼いたら美味いだろうか」というようなことを考える。しかしまぁ、万願寺唐辛子はやはり、網焼きにして酢醤油で食べた方が良さそうだ、と思い直す。
「雨が降ってるのに、空は晴れている。まして今夜は雪が降る」という歌詞を持つ、サザンオールスターズの曲の名は知らない。しかし今朝の空はまさにそのようなものだった。路上には夜の雨の残していった水、大気中の湿気が作る水墨画のような山の重なり、そして空の雲は切れて青空が見え始めているけれども、これから大崩れしそうな雰囲気もまた孕んでいる。
午前の天気は、朝の空をそのまま引き継いだような、雨が降っては陽が差し、道路が乾きかけてはまた雨が降る、ということを繰り返した。そのような風景を横目にしつつ、恐らく今年は最後と思われる散髪をカトー理容所で受ける。
カトーさんは、まるで植木屋のような偏執さを以て、僕の髪を坊主にする。鋏を使う坊主は時間がかかる。よっていつだったか「どうせハゲなんだから、バリカンでいいんじゃねぇかな」と提案をしたら「まだ早かんべぇ」と、即座に却下をされた。
坊主にしたばかりの頭に"MAMMUT"の緑色の帽子をかぶり、文京区の一角に出かける。日暮れて後は北千住まで戻り、カウンター活動に就く。
女峰と赤薙のふたつの山が、朝日を受けて浅い紅色に染まっている。
都会であればビルディングが、田舎であれば山や湖が朝日に照らされ赤やオレンジや黄色に染まる。その色をそのままカメラに収めようとしても、オートに設定したホワイトバランスが、この場合にはありがた迷惑な仕事をして、だから目に見えたままを写し取ることは難しい。
1990年代の最後のころに新調した、移動式の看板が店舗駐車場にある。この木彫看板はその後、一度は塗り直したものの、今年の夏ごろからはまた、傷みが目立ってきた。よってその、二度目の塗り直しを稲葉塗装に頼んだ。
「紅葉見物の観光客が訪れる前に綺麗になれば」と考えていたが、仕事が立て込んでいたか、当該の看板がクレーン車で運び去られたのは、秋も盛りになってからのことだった。
看板が移動式だったのは「本日定休日」と大きく彫り込んだ裏面を外へ向け、週に一度、駐車場の端から事務室前まで動かしていたことによる。しかし2000年5月22日を以て、ウチは「ほぼ年中無休」の体制に移行した。
よって今回は二度目の塗り直しと共に「本日定休日」の裏面は捨て、表面のみを、これまであった場所の背後にある白壁に取り付けることとした。そうして本日午前、その仕事がようやく完了する。
彫刻は手塚工房、塗装は稲葉塗装、鉄枠は石岡工業。それぞれの手堅い仕事によって看板は見違えるほど平滑に、そして鮮やかに再生された。とても嬉しい。
「それにしても、美味いよなぁ」と、普段より僕が感心しつつ食べている地元の品々を集め、そこにウチの漬物を加えた「日光の美味七選」については、おととい販売ページとメールマガジンを整えた。
その、販売ページを9時直前に「非公開」から「公開」にする。メールマガジンはあらかじめ、本日9時に一斉送信されるよう設定をしておいた。今年9月に一新した買い物カゴシステムの方から会員登録をされたお客様には別途、9時に数分遅れて、やはりメールマガジンを送信する。
「日光の美味七選」を注文してくださる方のほとんどは、ご常連である。いくつもの優れたお店が年末の繁忙期に、無理を圧して準備してくださる品々ゆえ、この商品は40セットしかご用意できない。よってご常連の中でも競争が起きる。
9時の販売開始から20分のあいだに13セットが売れる。そして結局のところ15時34分に完売する。「日光の美味七選」をご注文くださったお客様には各自、様々なご希望がある。それを完売と同時に、1週間ほど前に作ったフォーマットに記入していく。
ひと仕事を終え、夜は久しぶりに「酒場放浪記」をテレビで観る。「ある意味において」と書けば「どんな意味においてだ」と疑問を呈されそうだがしかし、吉田類はやはり、ある意味において絵になる人と確信をする。
「小春日和」という言葉は晩秋、つまりせいぜい昨月までのものだろう。しかし師走に入っても気温はおしなべて高い。
先日、例幣使街道でホンダフィットを走らせていると、「ピン」という音と共に「外気温低下注意」のメッセージを、ダッシュボードのメーターが光らせた。気温が何度を下まわると、その文字が現れるのかは知らない。しかし重ねて言うが、寒くない冬である。
そして今朝の陽の光も、なにやらうららかだ。洗面所の窓を開け、西の方へ目を遣ると、針葉樹の緑と広葉樹の紅葉が、まるでビロードの緞帳のように里山を覆っている。
午前にいっとき、電話にも出られないような混雑に店が見舞われる。つい先ほど、地方発送の伝票を荷造り場へ運ぶよう言いつけたタカハシカナエさんに、それよりも先ず店を手伝うよう、前言をひるがえす。
これから大晦日までは、長丁場に思えて意外や短いのではないか。健康の維持には、運の良さも必要である。その運を身に取り込みながら、この1ヶ月を送っていきたい。